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3. 天王様にみる歴史的風致 (1) はじめに 八坂神社とは 京都市東山区祇園町の八坂 ごず神社を本社とし 牛頭 てんのう天王 すさのおのみこと及び須佐之男命 ( 素戔嗚尊 ) を主祭神とする神社である 牛頭天王及び須佐之男命に対する信仰を 天王信仰 と呼び 祇園社や天王社を拠り所として全国的な広が

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3. 天王様にみる歴史的風致

(1) はじめに 八坂神社とは、京都市東山区祇園町の八坂 神 社 を 本 社 と し 、 牛頭ご ず 天王て ん の う及 び 須佐之男す さ の お のみこと命 (素戔嗚尊)を主祭神とする神社である。牛 頭天王及び須佐之男命に対する信仰を「天王 信仰」と呼び、祇園社や天王社を拠り所とし て全国的な広がりをみせている。 も と も と イ ン ド で 祇 園 精 舎 の 守 護 神 と さ れた牛頭天王は本来疫病を流行らせることの できる神とされ、須佐之男命も疫病を操るこ とのできる神性を有しているために結びつけ られたと考えられている。そのため、天王信 仰に基づく祭礼の多くは、怨霊を鎮め疫病退 散を願って行われる祭りで、疫病流行期であ る夏に行われている。祭礼は八坂祭、祇園祭、 天王祭、天王様などの名称で呼ばれ、牛頭天 王を渡御するときの乗り物である神輿み こ しを天王 様と呼ぶこともある。 本市の天王信仰に基づく祭礼は、神社の祭 神である牛頭天王にちなんで「天王様」と親 しみを込めて呼ぶ人々も多く、祭礼は市内の ほぼ全域で行われている。そのうち、氏子が 多く規模の大きな天王様が行われているのは、 特に薬師寺、本吉田、石橋、下古山、小金井 の5つの地域である。(※本計画では、市内 で行われる比較的規模の大きな5か所の祭礼 について、歴史的風致を構成する重要な要素 として「天王様」という。) 天王様における神輿渡御は、現在も旧集落 の空間構成における主たる動線を中心に巡行 しているが、近年は一部市街地化した地域も 巡行するように変化してきている。天王様の 準備や当日の運営、神輿渡御は、それぞれの 地域で氏子や住民が協力して行っており、天 王様は地域の人々が交流し触れ合う機会を提 供し、コミュニティの維持にも寄与している。 ⽯橋愛宕神社⼋坂祭(昭和 25 年(1950))

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(2) 下野市の天王様 天王信仰に基づく祭礼は、本来は疫病除けを目的としたものであるが、地域によっては五穀 豊穣祈願の意味合いを含む。五穀豊穣祈願を表す特徴として神輿の屋根の上の鳳凰に早稲の稲 が飾られる。 天王信仰に基づく祭礼の分布 1 2 3 4 5

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本市における天王様(天王信仰に基づく祭礼) 神社 所在地 開催時期 特徴 神輿 1. 薬 師 寺 八 幡 宮 祇 園 祭 薬師寺 八幡宮 薬師寺 (旧南河内町) 7月 第2・第3 日曜日 ・ 2週 にわたって開 催 され、1週 目 は宮 出 し行 事 、2週 目 は氏 子 地 域 の会 所 巡 りと宮 入 行 事 が行 われる。2週 目 ま での間 の期 間 は、お仮 屋 に神 輿 が安 置され、地域の人々が参拝する。 ・ 神 輿 とともにお囃 子 屋 台 も巡 行 し、賑 やかな演奏が行われる。 2. 吉 田 八 幡 宮 八 坂 神 社 夏 祭 り 吉田 八幡宮 本吉田 (旧南河内町) 7月 15 日 前後の 土 曜 日 と 日曜日 ・ 豊 作 祈 願 の 意 味 を 込 め て 神 輿 の 屋 根の上に早生の稲の穂を飾る。 ・ お昼 過 ぎから子 供 神 輿 が渡 御 し、夕 方から大人神輿が廻り始める。 ・ 世 話 人 が氏 子 の家を訪 ねて厄 除けの 行事である「梵天ふり」を行う。 3. 石 橋 愛 宕 神 社 八 坂 祭 祭 石橋 愛宕 神社 石橋 (旧石橋町) 7月 15 日 前後の 土 曜 日 と 日曜日 ・ 1日目は「おみこし広場」と称 する地域 住 民 主 体 のお 祭 りが行 われる。 石 橋 地 区 の各 自 治 会 の神 輿のほか、地 区 内 の幼 稚 園 ・中 学 校 ・企 業 等 が制 作 し た 神 輿 が 市 役 所 旧 石 橋 庁 舎 前 の 道路を練り歩く。 ・ 2 日 目 が 神 社 主 体 の 八 坂 祭 で あ り 、 石橋地区の6町内を神輿が練り歩く。 ・ お囃 子 の演 奏 も行 われ、祭 りを盛 り上 げる。 4. 下 古 山 星 宮 神 社 八 坂 祭 下古山 星宮 神社 下古山 (旧石橋町) 石 橋 愛 宕 神 社 八 坂 祭と同日 土曜日のみ ・ 大 人 神 輿 と子 供 神 輿 が練 り歩 き、神 輿には山車が伴う。 ・ 大 人 神 輿 は 自 治 会 所 有 の 神 輿 で 、 石 橋 愛 宕 神 社 の「おみこし広 場 」にも 参加している。 5. 金 井 神 社 八 坂 祭 金井 神社 小金井 (旧国分寺町) 7月 15 日 前後の 日曜日 ・ 小 金 井 地 区 の 自 治 会 が 所 有 する 子 供 神 輿 が練 り歩 く。同 日 に駅 東 にある 柴北自治会でも子供神輿が廻る。 ・ 関 連 す る 祭 と し て 、 子 供 相 撲 ( 愛 宕 祭)が行われる。

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3-1. 薬師寺八幡宮祇園祭

1) 薬師寺八幡宮祇園祭の概要 薬師寺八幡宮祇園祭は、かつては旧暦6月 11 日と 18 日、現在は7月の第二、第三日曜 日に行われている。本市薬師寺地内に所在す る薬師寺八幡宮と神社西側を南北方向に貫く 県道結城・石橋線を主な舞台として薬師寺1 丁目から薬師寺6丁目及び下原、西区、祇園 町の薬師寺地区の広い範囲を巡る神輿と地元 の囃子連によって演奏されるお囃子屋台が巡 行する大変賑やかな祭りである。 薬師寺八幡宮祇園祭の起源は明らかでは ないが、『薬師寺村明細帳控帳写』(嘉永2 年(1849)4 月)に「祇園祭礼毎年六月一八 日・一九日家台出シ子供手拍子踊興行御座候」 とあり、この頃にはすでに祇園祭が執り行わ れていたことが分かる。現在祭礼で使用され ている神輿は県指定無形文化財「石橋江戸神 輿」の技術保持者である小川政次氏が最初に 製作したものである。 2) 関連する建造物 ① 薬師寺八幡宮 ①-1 本殿および拝殿:県指定文化財 薬師寺八幡宮の沿革や社殿の建築形態については第2章1節で述べたとおりである。 ①-2 八坂神社 八坂神社は『薬師寺縁起』で下野薬師寺か ら改称された安国寺が戦国時代に焼失した堂 宇のうち鎮守のひとつである「天王」である と考えられている。薬師寺の野口邦祐家に伝 わる延享元年(1744)9月の『下野国河内郡 薬師寺村絵図』には、後筆であるが虚空蔵こ く う ぞ うの 北西に「牛頭天王元社地」と記載されており、 もともとは祇園原にあったことが確認できる。 その後、祇園原の住民とともに薬師寺に移り、 平成 28 年(2016)に薬師寺八幡宮境内へ遷宮 薬師寺⼋幡宮拝殿 薬師寺⼋幡宮本殿 ⼋坂神社 本殿 ⼋坂神社 本殿

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されるまでは、下野薬師寺に薬師寺八幡宮の 境外摂社として薬師寺八幡宮の南西 300m ほ どの場所に位置していた。なお、遷宮にとも ない拝殿や鳥居が新築されたが、本殿は社殿 の移築にともない部分修理を行った。本殿は 一間社流造銅板葺で、彫刻等の装飾は比較的 少ない簡素な造りであるが、詳細な建築年代 は不明である。八坂神社の年代に関する資料 として、八幡宮内に宝暦3年(1753)の紀銘 のある棟札が残されているが、現存する本殿 は、建築形式等から明治から大正時代に建て られたものと考えられている。 3) 薬師寺八幡宮周辺の環境 神輿渡御のルート上には、民家、石蔵、石碑、古墳等の歴史的な建造物や遺構がある。 ① 野口良一家住宅:石蔵 薬師寺5丁目に所在し、八坂神社があった場所の南 100m ほ どに位置する農家形式の屋敷構えをもつ民家である。敷地内 には昭和 48 年(1973)建築の主屋と付属屋の他、梁にみられ る紀銘によると昭和 38 年建築の石蔵が現存する。石蔵は大谷 石の石造2階建切妻造桟瓦葺で、成形したブロック状の大谷 石の内部に鉄筋を通して積んだという。入口建具の鉄扉、2 階開口部周りの付柱や建具の意匠等に比較的新しい要素もみ られるが、大谷石を用い、伝統的な蔵の規模とすることで、 伝統的な景観に調和させているといえる。祇園祭の際の主な 巡行ルート沿いには建ち並ぶ石蔵とともに、この地域独特の 景観を作り出している。 野 口 家 住 宅 所 蔵 石 蔵 ② 御鷲山古墳 田川西岸の台地上、下野薬師寺跡の北側にあり、6丁目会 所の西隣にある前方後円墳である。前方部を西に向け 2 段に 築造され、墳丘の全長は約 74mで、埋葬施設はくびれ部の前 方部よりに、南に開口する両袖型の横穴式石室が設置されて おり、石室は凝灰岩の切石を用いた複室の構造を成す。出土 遺物としては鉄鏃や刀子、馬具等のほか、円筒埴輪、朝顔形 埴輪、形象埴輪が確認され、6世紀後半の築造と考えられて いる。 御 鷲 山 古 墳 ③ 藤麿墳 神輿のルートとなる県道結城・石橋線沿いにあり、日光開 山の祖である勝道上人の父藤麿を埋葬したと伝えられる地に 建てられた石碑である。龍興寺所蔵の古文書「藤麿墳勧進帖」 には、勝道上人の父藤麿が埋葬された土地を後世に残すため に、薬師寺村役人及び龍興寺の世話人が発起し、安政4年 (1857)にこの石碑を建立したとの記載がある。 なお、石碑は自然石でできており、高さ 142 ㎝、幅 60 ㎝、 厚 23 ㎝を測る。 藤 麿 墳

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4) 薬師寺八幡宮祇園祭の流れ ①事前準備 薬 師 寺 八 幡 宮 祇 園 祭 に あ た っ て は 、 毎 年 、 神社・当番町・神輿愛好会から成る夏祭り実 行委員会が組織される。当番町は、氏子地域 の薬師寺1丁目から6丁目までの6つの町内 (自治会)が毎年交代で担当する。当番の順 番は、1丁目→6丁目→3丁目→5丁目→2 丁目→4丁目の順に4丁目から6丁目までの 薬師寺上か みの町内と1丁目から3丁目までの薬 師寺下し もの町内が交代であたり、当番町の中か ら町内の規模に応じて祇園祭の運営責任者と なる本世話人が選ばれる。 当番町は神輿屋根の上に飾られている鳳 凰に銜く わえさせる稲を確保しなければならない ため、前年度から祭りに向けての準備を始め る。本格的な準備は祭りの3ヵ月前頃から開 始され、神輿の巡行ルートの確認等が行われ る。その後、祭りの1週間前から当日の午前 中までに、神輿やお囃子屋台の組み立て、会 所の設置等を完了させる。 ②練習等 神輿の巡行に伴うお囃子の練習が本格的 に始まるのは祭りの1か月前だが、後継者育 成のために各町内の囃子連の年長者が小、中 学生と一緒に 12 月から練習を開始する町内 が多い。4丁目から6丁目までの薬師寺上の 町内はそれぞれの公民館、1丁目から3丁目 までの薬師寺下の町内は2丁目公民館に集ま り、夜の7時から9時頃まで練習する。 練 習 は 代 々 口 伝 に よ り 受 け 継 が れ て お り 、 最初は指使いや叩き方を見て覚える。1人で 楽器を演奏できるようになると、太鼓や笛の 音を文字で表現した「文句」を年長者が唱え、 それに合わせながら練習をしたり、「文句」 を書いたノート等を見ながら練習をする。 平成 30 年の八坂祭では薬師寺下がお囃子 の当番となっていた。祭りの1週間前になる と、練習場所を公民館から移動し、屋台を保 管している薬師寺コミュニティセンターで屋 台に楽器を設置して本番さながらの練習が毎 日行われる。 お囃⼦の練習 お囃⼦屋台の準備(屋台に⼤⿎(オオド)を固定)

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③当日の流れ(神輿渡御) 1週目(第2日曜日)は、八幡宮境内八坂 神社にて八坂祭例祭が行われたのち、神輿に 御神体を遷す遷御せ ん ぎ ょの儀式が執り行われる。続 いて、発は つ輿よ祭さ いが行われ神輿が神社から出発(宮 出し)する。神輿は、お囃子の演奏とともに 氏子地域全体を 14 時から 19 時まで巡行する。 神輿の休憩場所では担ぎ手や囃子連に飲み物 などが振る舞われ、神輿の掛け声やお囃子の 音を聞きつけた人々が集まり、お賽銭を供え たりする。巡行が終わると3丁目に所在する 薬師寺コミュニティセンターにあるお仮屋に 納められる。 神輿は翌週の会所祭が行われるまでの6 日間、お仮屋に安置される。お仮屋には宮司 と当番の世話人が待機し、供物の受入れの対 応や御札の配付を行う。氏子の人々はこの期 間は神輿へお参りをし、供物を奉納する。特 に「中日な か び」と呼ばれる木曜日には夕方からお 囃子の演奏が始まり、その音を聞きつけて多 くの人々が訪れて神輿に宿った神様にお参り をする。 2週目(第3日曜日)は、お仮屋発輿祭が 行われた後、各町内に設けられた会所にて会 所祭が行われる。これは、宮司と総代が1丁 目から6丁目までの各町内の会所を訪ねて祈 祷を行う行事である。各町内の会所に到着す ると、自治会長達が会所にて宮司と総代に飲 食を振る舞い、15 分ほどの会食をする。会所 祭には神輿とお囃子屋台が伴い、この間宮司 と総代以外の祭りの参加者は神輿を会所前に 作られた竹を四方に立てて注連縄をめぐらせ た聖域に置き、お囃子の演奏を聴きながら待 機する。神輿の前に宮司と総代が戻り、お祓 いと祝詞奏上、玉串奉納が行われて次の会所 に向かう。全ての会所を廻り終えると、宮司 は神社へ戻り、神輿の帰りを待つ。 神輿とお囃子屋台は薬師寺地区内を 21 時 頃まで休憩をとりながら巡行し、薬師寺八幡 宮へ戻る。参道に神輿とお囃子屋台が入ると、 担ぎ手の威勢の良い掛け声で神輿をもみ、お 囃子の演奏も一層賑やかになり華やかな雰囲 気となる。この音を聞きつけて地区内の人々 が参道に集まり、多くの人で溢れかえる様子 は八坂祭のなかでも見ごたえのある場面の1 つといえるだろう。鳥居の前でその様子を見 守る宮司、総代、猿田彦とともに境内へ入場 し、5分ほど神輿をもみ、最後に神輿を高く 掲げて当番町の世話人の合図で神輿を下ろす。 無事に祭礼が行われたことを祝して世話人と 神輿愛好会会長の音頭による三本締めをした 後、宮司と世話人により御神体を八坂神社へ 戻し、八坂神社内で宮司、総代、当番町世話 人、神輿愛好会会長による着輿祭が行われて 祭礼が終了する。 宮出し(1週⽬) お仮屋での着興の儀・⽟串奉納(1週⽬)

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お仮屋(中⽇) 会所祭(2週⽬) ④特徴的な活動【お囃子】 お囃子とは、祭りの中で神輿とともに練り 歩く屋台や山車等の上で演奏される音楽のこ とである。お囃子には神楽囃子と祭囃子があ り、祭囃子の類に本市の特色がみられる。 薬師寺八幡宮祇園祭では、薬師寺地区の当 番町内の囃子連を中心とした賑やかなお囃子 が演奏される。お囃子は、2つの系統からな る。4丁目から6丁目までの薬師寺上に伝わ るお囃子は、駒津流五段囃子と称する軽快な お囃子であり、伝承によれば川中子地区辺り から伝わったという。現在1丁目から3丁目 までの薬師寺下に伝わるお囃子は、壬生町安 塚の囃子連が戦後途絶えていたものを習い直 し、再開したものである。当番は、氏子地域 の6町が1年ごとに交代で担っており、薬師 寺下し も地区は「下囃子連し も は や し れ ん」として合同で活動し、 薬師寺上か み地区は各町内で囃子連を組織して活 動している。 祭り1週目には、神輿渡御の際に「ヤグル マ」が演奏され、休憩場所では五段囃子(エ ドワカ、ショウデン、カンダマル、カマクラ、 シチョウメ)の中のシチョウメを中心に2、 3曲が演奏される。長時間の演奏のため、薬 師寺上地区では当番町内以外の囃子連が手伝 いとして参加する。2週目は、各町内の会所 に向かう道中で1週目と同様に「ヤグルマ」 を演奏し、会所に到着すると主に五段囃子の 中のシチョウメを演奏する。祭りの主担当と なる当番町の会所では、他の町内の会所に比 べ宮司と総代が滞在する時間が長いため、休 憩を取りながら五段囃子全てを演奏する。 祭 礼 の ク ラ イ マ ッ ク ス で あ る 神 輿 が 神 社 に戻り境内に降ろされると、「ニヘンガエシ」 が演奏される。この「ニヘンガエシ」はこの 時にのみ演奏される曲で、参加者に祭礼の終 了を告げる曲である。囃子連は演奏が終了し 還御の神事と着輿祭を見守った後、観客とと もに帰路に着く。 お囃⼦の演奏 お囃⼦屋台の巡⾏

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神輿巡⾏ルートおよび歴史的建造物(薬師寺⼋幡宮祇園祭)

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3-2. 吉田八幡宮八坂神社夏祭り

1) 吉田八幡宮八坂神社夏祭りの概要 本吉田、下吉田、別当河原の三地区で構成 する本吉田北自治会と本吉田南自治会では、 かつては旧暦6月 15 日、16 日、18 日、19 日 の4日間、現在は7月 15 日前後の土曜日と日 曜日に八坂祭を行っている。祭りの起源につ いては明らかではないが、市立吉田西小学校 が所蔵する『昭和7年録 吉田村郷土誌』の 旧暦による年中行事のなかに、「六月十五日 祇園祭入り」とあり、昭和初期には既に行っ ていたことが分かっている。また、神輿は大 正時代から変わっていないことが世話人の 人々からの聞き取りにより判明しており、古 くから行われているものだと考えられている。 戦前は神輿とともにお囃子の山車が出て いたが、戦後お囃子の担い手がいなくなり、 現在は神輿渡御のみが行われている。神輿渡 御のルートは、祭りの世話人によって決めら れ、自治会長の家を中心に吉田八幡宮より南 側の地区から県道 35 号線と県道 44 号線の交 差点周辺までの範囲を中心に廻る。 2) 関連する建造物 ①吉田八幡宮 本吉田の八幡宮は集落北端に位置する。南 北に走る県道 35 号線が少し西に湾曲した部 分の東側に境内の入口が設けられ、そこから ほぼ南北方向に参道が延び、一の鳥居とその 脇に社務所、そしてその奥の右手には手水舎 と神楽殿、左手に八坂神社、そして最奥に拝 殿と本殿が配される。またこれらの建物の周 囲に天満宮・淡島神社、雷電神社をはじめ、 多くの境内社が点在する。 八幡宮は文治4年(1188)に創建され、元 亀2年(1571)頃には、結城晴朝により社殿 の改築が行われたという。現在の社殿は、再 建時に木挽に対して送った請負証書『郷社八 幡宮再建請負証書』から明治9年(1876)に 再建されたものであると考えられている。 ①-1 本殿 本殿は一間社流造で、屋根は鋼板葺とする。上記のように再 建時の請負証書から明治9年(1876)の建築であることがわか っている。身舎と向拝をつなぐ海老虹梁や妻飾り、組物等、装 飾要素はみられるものの、その装飾は控えめで比較的簡素な印 象をうける建物である。 吉⽥⼋幡宮本殿 ①-2 拝殿 拝殿は本殿と同時、すなわち明治9年(1876)の再建である。 入母屋造平入、屋根は亜鉛鉄板平葺、前面は千鳥破風とする。 桁行6間・梁間2間と間口が比較的大きいが、組物や彫刻はほ とんどみられない、非常に簡素な建物である。屋根は近年葺き 替えられている。 吉⽥⼋幡宮拝殿

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①-3 八坂神社 八坂神社は以前、八幡宮本殿北東の淡島神社付近に祀られて いたが、現在は拝殿南西に位置し、かつては神輿舎と呼ばれた 建物が八坂神社と呼ばれている。現在、その内部には、神輿が 安置され、祭礼時には社殿から出して神事が執り行われる。こ の建物は、東を正面とする方2間の入母屋造亜鉛鉄板葺で、前 面に向拝を設ける。小規模ではあるが、木鼻や海老虹梁等の彫 刻、組物、吹寄垂木といった部分に装飾がみられるのみで全体 としては簡素である。詳細な建築年代は不明であるが、『栃木 県神社誌』(昭和 38 年(1961)刊)には当時は神輿舎と呼ば れ、現在八坂神社と呼ばれる現存の建物に該当すると考えられ る記載があり、少なくとも昭和 38 年(1961)以前の建築であ るといえる。 ⼋坂神社 3) 吉田八幡宮周辺の環境 神輿渡御のルート上には、民家や塔などの歴史的な建造物・遺構が存在している。 ①林安雄家住宅 主屋 旧本吉田村は江戸時代を通じて旗本松前氏の知行地であり、 林家はその陣屋を務め、村の名主を統括していた。 林家の屋敷地は、南北に走る道路を挟んで八幡宮の西側に立 地し、道路との境界は大谷石を積んだ塀で画して薬医門を開く。 薬医門は、道路境界との間に空間をとり、門の両脇に腰板付の 塀を設け、正面右手の脇塀にはくぐり戸を開く。主屋は屋敷地 の中央北寄りに配し、その前面の庭を築地塀と中門で画する。 そしてこれらを取り巻くように付属屋や屋敷神等が分布する。 現存する歴史的建造物は、町史等によると、明治 10 年(1877) 建築の主屋、主屋の北東に接続して設けられている明治 25 年 (1892)建築のカマド、明治 36 年(1903)建築の便所および灰 小屋、主屋の前面に設けられた築地塀と中門があげられる。 主屋は寄棟造平入で、その東側を一部2階としているが2階 の高さで全体に屋根を架けている。昭和 45 年(1970)に茅葺屋 根を改築し、亜鉛鉄板葺としたという。1990 年代に行われた調 査では、幕末や明治時代に建てられた付属屋が現存していたが、 主屋と数棟の歴史的建造物が現存し、近隣の八幡宮と一体とな って、本吉田地区の歴史的風致を形成する重要な構成要素とい える。 林 安 雄 家 住 宅

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②黄梅寺宝篋印塔 この宝篋印塔は、本吉田集落の南端に位置する黄梅寺旧境内 に位置する。黄梅寺は江戸湯島霊雲寺の末寺で、寛文年間(1661 ~72)に本吉田を知行した旗本松前氏の祈願寺として深玄律師 が開基したと伝えられる。明治4年(1871)の「黄梅寺境内麁 絵図」によると、境内には本堂、経蔵、供養塔、宝篋印塔、弁 天が設けられていた。また明治 22 年(1889)に吉田村が成立す ると、境内に明治 31 年(1898)まで吉田村役場が置かれ、本堂 や不動堂とともに庁舎は平成初期まで残っていたという。 宝篋印塔は高さ 4.7mで、石造のものとしては比較的大型であ る。蓮華の請花上部2段目の基礎四面には「享保二十星紀乙卯 仲春鬼宿日」の銘文が刻まれ、享保 20 年(1735)に造立された ことがわかる。なお、子供神輿がこの旧境内を巡行する。 ⻩梅寺宝篋印塔 4) 吉田八幡宮八坂祭の流れ ①事前準備 祭りの1ヵ月前頃から祭りの打ち合わせ が始まる。打ち合わせでは、祭りを取り仕切 る世話人代表1名及び会計2名が選出され、 祭りの実施日が決められる。その後、祭りの およそ1週間前に総代と世話人によって境内 の枯枝伐採や除草、祭り前日と当日の準備の 打合せが行われる。前日は世話人のみが準備 を行い、お仮屋の設置等を行う。当日は世話 人と総代が集まり、神輿の飾りつけや神輿の 前に台を備え、供物を並べる。 ②当日の流れ(神輿渡御) 祭りの1日目は 11 時頃から宮出し神事が 始まり、宮司による祝詞の奉納、祈願が行わ れた後、神輿がお仮屋へ運ばれる。神輿巡行 が始まるまで世話人はお仮屋に待機し寄進金 等の受付を行う。子供神輿が 13 時頃から廻り 始め、18 時半頃を目途にお仮屋へ戻る。子供 神輿の担ぎ手は中学生で、1日目は本吉田北 自治会地区を廻り、神輿渡御には育成会及び 世話人2名が同伴し、喪中の家や訪問を断っ た家を除き氏子の各家の玄関先や庭先で「ワ ッショイ、ワッショイ」と声をかけながら神 輿をもみ、披露する。その後、各家の人々は 御賽銭を納める。奉納された御賽銭は、神輿 渡御が終わった後、お小遣いとして子供達に 分配される。年長者である中学3年生が祭礼 終了後に分配する。また、子供神輿とは別に 世話人が各家を廻り、家の中で梵天を用いて お祓いする「梵天ふり」を行う。大人神輿は 19 時から廻り始め、自治会長の家で夕食を伴 う休憩をとりながら1日目は本吉田南自治会 地区を廻る。休憩所となる家では必ず神輿を 数分間もみ、高く掲げてから神輿を下ろして 休憩を取る。夜の神輿渡御のため、休憩場所 となる家では夕食が振る舞われる。夕食の準 備は近隣の人々も手伝い、休憩の際には神輿 の担ぎ手やその他の参加者と一緒に神輿を囲 みながら談笑する。 2日目は子供神輿が本吉田南自治会地区、 大人神輿が本吉田北自治会地区を巡行する。1 日目と同様に休憩をとりながら神輿を担ぎ、 吉田八幡宮へ戻る。大人神輿は神社に到着す ると境内で数分神輿をもみ、最後に「ワッシ

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ョイ」と大きなと掛け声を出して神輿を高く 掲げた後、神輿を下ろして終了する。大人神 輿、子供神輿ともに神社の境内内にある小屋 の中に保管され、翌日朝御霊抜きが行われて 神事が終了する。 ⼦供神輿 ⼤⼈神輿 ③特徴的な活動【梵天ふり】 吉田八幡宮八坂祭では、「梵天ふり」とい う行事が行われる。悪魔祓いの神事であり、 この梵天でお祓いを受けることで厄を落とす ことができるという。午前中に世話人2名が 氏子の家へ梵天を持って訪ね、家の中で厄除 けのお祓いをするのが通例となっているが、 子供神輿が巡行する時間に並行して行う年も ある。基本的には子供神輿同様喪中の家等を 除き氏子の家を廻る。お祓いを受けた家はお 賽銭を納め、神事が終了する梵天ふりは、1 日で氏子の家を廻りきれない場合は翌日の午 前中にも行われる。

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神輿巡⾏ルートおよび歴史的建造物(吉⽥⼋幡宮⼋坂祭(⼤⼈神輿))

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3-3. 石橋愛宕神社八坂祭

1) 石橋愛宕神社八坂祭の概要 石橋愛宕神社八坂祭の起源は明確ではな いが、昭和 25 年(1950)の山車が巡行する祭 礼の様子を捉えた写真が存在することから、 それ以前から行われていたことが分かる。 平成 27 年(2015)度までは石橋地区の6 町(本町・旭町・石町・寿町・上町・栄町) が当番制で祭礼を取り仕切っていたが、祭礼 の担い手不足により当番制を維持することが 難しくなり、平成 28 年(2016)度から愛宕神 社氏子総代、青年部等の氏子を中心として構 成される愛宕神社八坂祭実行委員会を組織し て祭礼を行っている。 祭礼は現在7月 15 日前後の土曜日と日曜日 に開催されており、土曜日は石橋地区の人々 が主体となった「おみこし広場」と呼ばれる 地域のお祭りが行われ、日曜日は本神事であ る神社の神輿が6町内を巡行する大神輿渡御 が行われている。 ⽯橋愛宕神社⼋坂祭(昭和 25 年(1950)) 2) 関連する建造物 ①石橋愛宕神社 石橋の愛宕神社は現在の JR 石橋駅の南西 約 500m の国道4号の西側に立地する。石橋町 史によると、天平宝字3年(759)創建と伝え られ、近世では石橋宿等 13 ヵ村の郷社であっ た。かつては下石橋愛宕塚古墳の上に鎮座し ていたが、東北線複線化工事により大正2年 (1913)に稲荷神社の境内に遷座し、稲荷神 社の名称が「愛宕神社」に統一された。また、 昭和 48 年(1973)東北新幹線敷設の際の発掘 調査にともない、下石橋愛宕塚古墳の石棺石 下敷座の石と屋根ふたの巨石は境内に運ばれ 保存されている。 境内は道路に面して石造の鳥居が設けら れ、東から西へと延びる参道の北側に八坂神 社、神楽殿、稲荷神社等が並び、南側に社務 所が配される。最奥に本殿と拝殿が石造階段 で数段分高いところに設けられている。そし て鎮守の森がこれらを覆うように茂っている。 ①-1 本殿 本殿は、拝殿よりも少し高い地盤に設けられており、社殿は 一間社流造、銅板葺で木部は彩色され、特に柱や梁、板壁等に は朱色の彩色が施される。また、脇障子や軒支輪、向拝上部に は鮮やかな彩色を施した彫刻、木鼻には唐獅子等が設けられ、 非常に装飾的な建物である。詳細な建築年代は不明であるが、 大正2年(1913)の建築との口伝もあるほか、『栃木県神社誌』 では本殿について「流造亜鉛葺赤塗」とあり、現存建物と記載 内容が一致し、現存建物についての記載と考えられることか ⽯橋愛宕神社本殿

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ら、少なくとも『栃木県神社誌』が刊行された昭和 38 年(1861) 以前の建築といえる。 ①-2 拝殿 現存する拝殿は、桁行3間・梁間2間の入母屋造銅板葺で、 前面に向拝がつく。装飾的な本殿に対して、拝殿は彩色も彫刻 もほとんどみられない非常に簡素な建物である。詳細な建築年 代は不明であるが、この建物の年代に関するものとして内部に 「大正2年(1913)建築」の紀銘のある額が残されているほか、 前述の『栃木県神社誌』にも記載があることから、少なくとも 昭和 38 年(1861)以前の建築であり、大正2年(1913)の可 能性もあると考えられている。 ⽯橋愛宕神社拝殿 ①-3 八坂神社 境内北部の中ほどに、「八坂神社」と記された額が掲げられ ている小規模な切妻造の建物が2棟並ぶ。そのうち西側の建物 は「八坂神社」、東側の建物は「神輿殿」と呼ばれている。八 坂神社の内部には八坂祭に必要な道具等が、神輿殿の内部には 神輿がおさめられている。 ⽯橋愛宕神社神輿殿 3) 石橋愛宕神社周辺の環境 神輿渡御のルート上には、歴史的建造物である戸田家邸宅が存在している。 ①戸田譲一家住宅 戸田家は、石橋の愛宕神社の北、国道 4 号沿いに位置し、旅 籠を営んでいたという。東西に長い屋敷地の西辺が道路に面し、 レンガ造の門柱と高さ1m ほどの塀が設けられ、通りからは前栽 に植えられた樹木越しに主屋を望むことができる。その背後に は、明治 25 年(1892)建築の土蔵のほか、いくつかの付属屋が 配されている。町史等によると主屋は明治元年(1868)建築で、 レンガ造本2階建妻入、屋根は入母屋造桟瓦葺、出桁造とする。 入口の庇は唐破風として1階前面は鉄格子、2階は木製格子と している。石橋は江戸時代に街道整備にともない宿駅がおかれ たが、宿場町であった歴史景観を継承してきた建物であるとい える。 ⼾⽥家住宅主屋

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4) 石橋愛宕神社八坂祭の流れ ①事前準備 石橋愛宕神社における八坂祭の準備は、5 月の連休明け頃から始められる。その他、神 輿を有する6町(本町・旭町・石町・寿町・ 上町・栄町)の自治会においても各々準備に とりかかる。 また、八坂祭の前日に、しめ縄とシデ(幣 束)が町内の家庭・店舗に配布され、玄関先 に飾られる。しめ縄は各町内で作成し、幣束 は宮司から各自治会へ配布される。各家の玄 関先にしめ縄が飾られている光景は祭りの雰 囲気をより一層引き立てている。 しめ縄とシデが飾られる⾵景 ②当日の流れ(神輿渡御) 石橋愛宕神社八坂祭は、土曜日と日曜日の 2日間にわたって実施される。1日目(6町 各自治体の神輿渡御)は神社祭礼ではなく、 地域の人々が主体となった行事という位置づ けであり、平成 30 年(2018)時点で 35 回目 を迎えた。2日目は神社祭礼として古くから 続いている八坂祭が執り行われる。 1日目は、早朝から出御祭が行われたのち、 神輿の飾りつけ・屋台の飾りつけなどの準備 が行われるとともに、各町内の会所において 会所祭の準備が行われる。10 時頃から会所祭 が始まり、石橋愛宕神社の宮司が順に6町の 会所をまわり、神輿渡御の安全祈祷を行う。 その後、13 時頃から町ごとに地区内を神輿が 渡御する。各町で所有する神輿には、県指定 無形文化財・石橋江戸神輿製作技術保持者で ある小川政次氏によるものもある。夕方にな ると、各町を練り歩いた神輿一行がグリム通 り(中央通り)に集合する。旧石橋庁舎前に 「おみこし広場」が設けられ、各6町に加え、 地元幼稚園・中学校・企業などの神輿も集ま り、通りを練り歩く。なお、各町内の神輿は 2日目午前中にそれぞれの町内を巡行してい る。 2日目は、午後から6町内の会所を巡る神 輿渡御が行われる。神輿が会所・中継所に到 着すると、神輿を高く上げ拍子木の合図で神 輿を下ろす。各会所・中継所では炊き出しが 行われており、神輿の担ぎ手に飲食物が提供 される。休憩が終わると「始めるぞ」という 掛け声とともに神輿の周りに担ぎ手が集まっ て渡御を再開する。神輿の担ぎ手は、基本的 にはその地区の氏子によるが、人手不足など の問題もあり地区同士協力しながら行ってい る。6町内の会所への巡行が終わると、愛宕 神社に戻り(宮入り)、還御祭が執り行われ たのち、八坂祭が終了する。

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神輿渡御安全祈祷祭(1⽇⽬) 神輿渡御とお囃⼦演奏(1⽇⽬) 神輿渡御(2⽇⽬) 神輿が神社に戻る様⼦ ③特徴的な活動【お囃子】 石橋愛宕神社八坂祭では、お囃子の山車が 祭りを盛り上げる。お囃子は、石橋町上か み大だ いりょう領 地区の大お お杉す ぎ囃は や子し と6町の1つである栄町の囃 子部によるものである。神輿渡御の合間に、 両者の山車が向かい合って演奏し合う「ぶっ つけ」が行われる。 栄町のお囃子部は、コミュニティ推進協議 会に属し、地域の子供たちを対象として週に 2回練習を行っている。メンバーは、大人約 15 人(内、演奏ができる人は約半数)、子供 約 15 人(内、出席している人は約半数)であ り、近隣の寿町や旭町の子供も通っている。 八坂祭当日は、ベテランの演奏者とともに高 校生らも一緒に演奏を行う。 栄町のお囃⼦ ぶっつけの様⼦

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神輿巡⾏ルートおよび歴史的建造物(⽯橋愛宕神社⼋坂祭)

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3-4. 下古山星宮神社八坂祭

1) 下古山星宮神社八坂祭の概要 下古山星宮神社八坂祭の始まりについて は明確ではないが、『下古山村地誌編輯材料 取調所』(明治 17 年調)の下古山村神社明細 表に「八坂 祭日旧暦 6 月 18 日」と記載が あることから、この頃には祭礼がとり行われ ていたことが分かる。 現在は石橋愛宕神社八坂祭の「おみこし広 場」に大人神輿が参加するため、7月 15 日前 後の土曜日に執り行われている。神輿は「お みこし広場」に参加する自治会が所有する大 人神輿の他、神社が所有する子供神輿2基が あり、これらの神輿に山車が伴い、氏子地域 の下古山自治会地区を練り歩く。 2) 関連する建造物 ①下古山星宮神社 下古山星宮神社は、大同2年(807)創建 で、藤原鎌足の 10 代目の後裔である飛鳥井刑 部卿が下古山地方の開拓使として赴任したと き、開墾の守護神として磐裂・根裂神を祀っ たと伝えられている。中世には、児山城を築 城した宇都宮頼綱の四男多功宗朝の二男であ る児山三郎左衛門尉朝行によって香取神宮よ り武運の神徳がある経津主神を勧請したとさ れる。そして市立古山小学校より西側の下古 山1区、2区、3区の3地域の氏神であり、 現在は約 250 人の氏子が存在する。 拝殿のしめ縄はヘビしめ縄と呼ばれ、ヘビ の形をした特徴的なものである。ヘビは水神 様の使いあるいは金運象徴として、また、脱 皮を繰り返すことから再生と結び付けられ不 死の生き物と信じられていた。下古山星宮神 社の御神徳は、天からの恵みを与えるととも に、人々を祓い清めて新たな活力をあたえる 力を有しているとされることから、象徴的に このような珍しい形が生まれてきたと考えら れている。 下古山の星宮神社は、下古山の集落の西端 に位置し、境内の西側の道路より西は田畑が 広がる。参道は神社入口の一の鳥居から北北 東へ延び、二の鳥居を経ると左手に社務所、 右手に八坂神社が配される。そして数段の石 段を上がると左手が神楽殿、正面が拝殿およ び本殿となる。また境内社として本殿の背後 や、上記の社殿の周囲などに大杉神社、千勝 神社、横塚愛宕神社が祀られている。明治 45 年(1912)の『姿村郷土史』によると、現在 の社殿は明治 29 年以降の再建である。なお、 平成2年に屋根の葺き替えを行っている。 ①-1 本殿 本殿は、一間社流造で屋根は銅板葺とする。上述したように 明治 39 年頃の建築で、柱上部および妻飾等、少し装飾がみられ るが、全体にすっきりとした簡素な社殿である。 下古⼭星宮神社本殿

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①-2 拝殿 桁行3間・梁間2間の入母屋平入造桟瓦葺の建物である。向 拝と身舎をつなぐ海老虹梁や水引虹梁に絵様がみられるが、柱 上部に組物や彫刻等は施されていない簡素な建物である。本殿 と同様、『姿村郷土史』によると明治 29 年の建築で、このほか に神社の年代に関する資料として、なお、正面の柱に板札が取 り付けられ、それによると、神楽殿とともに昭和 51 年(1976) 4 月に屋根が葺き替えられている。また、拝殿内に掲げられた「正 一位星宮大明神」の額の裏面に享保 14(1729)3月、文化 14 年(1817)9月という年紀と世話人3人の名が記載されている。 下古⼭星宮神社拝殿 ①-3 八坂神社 八坂神社は、屋根が前面を入母屋造とし背面を切妻造銅板葺 とする妻入の建物の中に灯篭とともにおさめられている。社殿 は平成 12 年に造られた流造の石祠であり、嘉永4年(1851)と 刻銘が施された灯篭とともにおさめられている。 ⼋坂神社 3) 下古山星宮神社周辺の環境 神輿渡御のルート上には、歴史的建造物である蔵等が存在している。 ①観音堂 観音堂は、下古山の星宮神社の南東 400m ほどに位置する小 堂で、子供神輿ルート上に所在する。東を正面とする方2間の 方形造亜鉛鉄板葺の建物で、近隣の集落の墓地の敷地内に設け られている。建築年代の詳細は不明であるが、設置されている 賽銭箱に昭和 40 年(1965)の記銘があり、その頃に建築され たと考えられている。また明治元年(1868)の『下古山村鏡』 には「一、観音堂並庵 一軒」という記載がみられ、現存建物 の前身建物と思われる。 ②地蔵 上述の観音堂の境内の仏堂南側に2体安置されている。その うち仏堂側の地蔵には享保3年(1718)の銘記がある。周囲の 約 30 軒の氏子に信仰されている地蔵で、地蔵の前掛けは氏子 の当番2名によって作成されている。

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4) 下古山星宮神社八坂祭の流れ ① 事前準備 祭りの1カ月前に下古山自治会、下古山こ ども育成会、神社総代、神輿を作成した拾壱会と い ち か い、 氏子の若い世代の若わ か星会ぼ し か いで構成されたおみこ し実行委員会が集まり、神事の進行役や供物 の受付担当等の当日の役割分担を決める。 本格的な準備は祭りの1週間前になって から始まり、境内や神輿の清掃等が氏子や育 成会の人々によって行われる。 ② 当日の流れ(神輿渡御) 祭りの当日は午前中に神輿に稲や鈴、幣束 等の飾りつけを行う。子供神輿の神事が正午 過ぎから神社境内に所在する八坂神社前で始 まり、育成会が見守る中、宮司による御霊入 れとお祓い、祝詞奏上、玉串の奉納が行われ る。神事が終了すると、子供神輿は大人神輿 が安置されている自治会館の児山館へ大人達 の手によって運ばれる。午後 1 時過ぎから大 人神輿の神事が行われる。内容は子供神輿と 同じだが、神輿が安全に巡行し、無事に戻っ てくることができるよう、大人神輿の神事は 「安全祈願祭」と呼ばれている。安全祈願祭 が終了すると、大人神輿が子供神輿よりも先 に児山館を出発する。その後 10 分程度遅れで 子供神輿が出発し、それぞれ休憩を数回取り ながら練り歩いて市立児山小学校で合流し、 児山館に戻ってくる。大人神輿は児山館で休 憩をした後、グリム通り(中央通り)へ向か い他の自治会の神輿と一緒に夜8時頃まで賑 やかに神輿をもみ、祭りを楽しむ。 ⼦供神輿の御霊⼊れ ⼤⼈神輿の御霊⼊れ ⼤⼈神輿の巡⾏ ⼦供神輿の巡⾏

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神輿巡⾏ルートおよび歴史的建造物(下古⼭星宮神社⼋坂祭)

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3-5. 金井神社八坂祭

1) 金井神社八坂祭の概要 小金井(旧国分寺町)の中心に位置する金 井神社は、近世は小金井宿の鎮守であった。 創建当時は現在よりも西方に位置し、虚空蔵こ く ぞ う と呼ばれていたが、宝暦4年(1754)現在地 に遷座、北辰社ほ く し ん し ゃと改称した。その後、星宮神 社に名称が変わり、明治5年(1872)に金井 神社へ改称している。本市内に多くみられる 虚空蔵信仰を発端とする星宮信仰とかかわり の深い社で、開拓・開墾の神と考えられてい る磐裂い わ さ くのかみ神、根裂ね さ くのかみ神の二神を主祭神としてい る。 金井神社の八坂祭の発起は明らかではな いが、大越家が所有する嘉永4年(1851)の 古文書において、疫病が流行した時に神輿を 作り、毎年6月 14 日と 15 日に神輿の巡行を 行っていたという記載があることから、江戸 時代には祭礼が行われていたことが分かる。 文政6年(1823)の火災により神輿が焼けて しまい、また凶作も重なったことから一度途 絶えてしまったが、氏子達の強い要望により 神輿を新たに造り、祭礼が復活したことが古 文書には書かれている。 現在祭礼は 7 月 15 日前後の日曜日に行わ れ、午前中は神社と氏子地域の会所での神事 を執り行う。神輿巡行は、担ぎ手減少により 子供神輿のみ実施しており、大人神輿は神社 の拝殿及び駅前会所に飾られている。 2) 関連する建造物 ①金井神社 『栃木県神社誌』(昭和 38 年刊)による と、金井神社は金井村の農商業の守護神とし て勧請され、虚空蔵の宮と称した。現在地よ り西方に位置していたが、宝暦4年(1754) に現在地に移され、近世には小金井宿の鎮守 となり北辰社あるいは北辰宮と呼ばれ、慈眼 寺が別当をつとめていたという。後に星宮神 社となり、明治5年(1872)に金井神社とな った。金井神社は、現在の国道4号の西側に 位置し、東を正面として国道沿いに鳥居を設 けている。敷地は東西に細長く、参道北側中 ほどに社務所、手水舎、その奥に天満社およ び雷電神社と八坂神社が配されている。なお、 『栃木県神社誌』では記載のある神楽殿は現 存していない。 ⾦井神社拝殿上棟祭(昭和 18 年4⽉) ⾦井神社に集まった⼦供達(昭和 22 年(1947)頃) 『図説 国分寺町の歴史』

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①-1 本殿:市指定文化財 本殿は一間社流造、屋根は入母屋造杮葺とし、一間が4尺と 小規模ながらも屋根前面には千鳥破風と軒唐破風をのせる。壁 面をはじめ、向拝柱、海老虹梁、脇障子等に壮麗な彫刻が施さ れた大変装飾的な建物である。その彫刻は、富田宿(現栃木市 大平町)を本拠地とした磯部氏系統の彫刻師によると考えられ、 彫刻の様式から天保期から嘉永期頃の建築と考えられる。また 彫刻に寄進者とみられる人物の名が刻まれ、その多くに女性の 名がみられることから、小金井宿の商家や旅籠の多くの女性が 寄進していたと考えられ、大変特徴的である。 本殿に施された彫刻 ①-1 拝殿 拝殿は桁行6間・梁間2間半の入母屋造銅板葺平入の建物で、 上棟式の写真等から昭和 18 年(1943)の建築であることがわか っている。基礎には大谷石を据え、組物や彫刻の少ない昭和初 期のすっきりとした印象の社殿である。なお、昭和 15 年の古写 真では前身建物の様子が確認でき、現在のものより小規模で屋 根は寄棟造であった。 ⾦井神社拝殿 ①-2 八坂神社 八坂神社は、境内北部に天満宮とともに南面して祀られてい る。社殿は小規模で、一間社流造、銅板葺とし、木部には彩色 が施されている。 ⼋坂神社 3) 金井神社周辺の環境 金 井 神 社 八 坂 祭 に お け る 神 輿 巡 行 経 路 は 、 江戸時代に日光街道の整備に伴い小金井宿が 設置され発展した地域である。様々な人々の 往来や商品流通が盛んな宿場として栄え、江 戸時代には 80 軒を超える商家が立ち並ぶ地 域であった。現在は、建て替え等によりほと んど失われてしまったものの当時の町割は残 っているほか、江戸時代から明治初期までに 建てられた商家等や門、社寺等がわずかなが ら残っており、宿場として繁栄していた時期 のまちなみの一端を窺うことができる。

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①小金井一里塚:国指定史跡、江戸時代初期(推定) 一里塚は江戸日本橋を起点に、道程の目印として1里(約4 km)ごとに塚を築いて榎や松を植えたものである。徳川家康が 慶長9年(1604)に主な街道に造らせたのがきっかけとなり全 国に広まったといわれる。『官本当代記』によると、「一里塚 五間四方也」とあり、1辺約9m の方形に築かれていたとされ る。小金井には、日光街道における江戸から 14 番目の宿駅が 置かれ、一里塚は『日光道中分間延絵図』や『日光道中宿村大 概帳』、『日光道中絵図』にみられることから、18 世紀末まで には築造されていたと考えられている。 長年風雨にさらされたため、現状では形が崩れて円形化して いるが、現状で1辺約 12m の大きさで、つくられた当時は方形 であったことがわかっている。また、発掘調査により旧日光街 道の砂利敷道路とその側溝が確認され、紐に通された寛か ん永え い通つ う宝ほ う (50 枚)や陶磁器(茶碗など)の破片が出土した。現在は、整 備が行われ史跡ポケット広場として公開されている。 小 金 井 一 里 塚 ②古島正一家住宅 古島家住宅は、屋号を「橘屋」といい、旧日光街道に面して 建てられた町家形式の主屋をもつ。平成 14 年度(2002)に旧国 分寺町によって調査および保存管理計画案が作成されている。 それによると主屋は蔵造で店蔵とし、建築年代は建築形式より 幕末から明治初期、桁行4間・梁間2間半2階建、屋根は切妻 造桟瓦葺とする。建築形式より明治後期から大正初期、店蔵に 増築された住宅棟は、平屋建の寄棟造鉄板瓦棒葺とする。 屋敷地内には土蔵が3棟現存し、文庫蔵と呼ばれる明治9年 (1876)建築(墨書より)の土蔵は、桁行3間・梁間2間の木 造2階建で切妻造桟瓦葺である。また北東の土蔵は、明治 18 年 (1885)建築(墨書より)の土蔵は2階建、切妻造桟瓦葺、南 東に位置する土蔵は、詳細な建築年代は不明であるが建築形式 より幕末の建築と考えられ、2階建の切妻造桟瓦葺である。 古島家住宅 ③俳諧碑 文化4年(1807) 小金井宿に所在した蔵田屋という旅籠の跡地に建立された石 造の句碑で銘文によると文化4年(1807)のものである。句碑 の片面には慈眼寺 30 世住職宜照のものと思われる漢詩と俳諧 4句が、もう一面には江戸の談林俳諧7世の谷素外による「名 月と花も紅葉もある夜かな」の句と、地元の 12 人による俳諧が 刻まれている。この碑から、小金井宿には俳諧を行う人々の集 まりが形成されており、慈眼寺の住職を中心にたびたび句会が 開かれていたことがうかがえる。 俳諧碑

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4) 金井神社八坂祭の流れ ①事前準備 八坂祭開催の1週間ほど前から準備が始 まる。各町内の会所では紅白の幕を周囲に巡 らしてお仮屋を設置し、八坂神社の掛け軸を 飾る。なお、神事が行われる金井神社では境 内の清掃や提灯の飾りつけが行われる。下町 南部では、各家にしめ縄と幣束が各家に配布 され、玄関に飾られる。会所には子供神輿が 飾られて祭当日までの間、地元の人々がお参 りをし、お賽銭や供物を納める様子も見られ、 地区全体が祭りへ向けて雰囲気が高まってい く様子が感じられる。 ②当日の流れ(神輿渡御) 金井神社八坂祭当日は、朝8時頃から境 内・拝殿内の掃除や飾りつけなどの準備が始 められる。拝殿の祭壇に蠟燭をつけ、太鼓に よる合図が告げられると、宮司によるお祓い、 遷御(降神の儀)、献饌、祝詞奏上、宮司に よる篳ひ ち篥り きの演奏、玉串奉奠ほ う て んなど一連の神事を 執り行う。その後、金井神社境内にある八坂 神社においても神事が執り行われる。神事後、 小金井地区の4つの会所に宮司と神社総代会 会長、猿田彦が出向いて祈祷を行う。 八坂祭の神事と併せて、小金井地区の上町、 下町、駅前の各自治会では子供神輿の巡行が 始まる。下町自治会では北部と南部で分かれ て地区内を巡行し、どちらの神輿にもお囃子 屋台が伴い、子供達が主体となって演奏する。 加えて下町南部では厄払いが行われる。厄払 いはしめ縄が飾られている家に猿田彦と小学 生3名、神輿愛好会の2名が各家を訪問する。 お祓いをする猿田彦は八坂祭の神事にも参加 しており、地元の人々に「天狗さん」の愛称 で親しまれている。皆で「天狗さんですよ」 と声をかけながら訪問し、訪問を受けた住民 は賽銭箱に賽銭を入れ、天狗さんより厄払い を受ける。 ⼋坂神社での神事の様⼦ 下町北部の神輿渡御

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神輿巡⾏ルートおよび歴史的建造物(⾦井神社⼋坂祭)

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(3) まとめ 毎年7月中旬、本市では現在も各地で天王信仰に基づく祭礼(天王様)が行われており、夏 の風物詩となっている。人々は何日も前からそれぞれの神社や公民館等に集まって準備を行い、 祭り本番は、氏子をはじめとする地域の人々が協力し合って神社や自治会に受け継がれた神輿 が町内を渡御し、威勢のいい掛け声やお囃子の軽快な音色が各神社を中心とした氏子圏に響き 渡る。また、天王様は地域の歴史や伝統に触れる機会であるとともに、世代を超えて住民間の 交流を図ることができる場を提供している。祭りを通して人々は日々の平穏な生活に感謝し、 この地域の一員であることを改めて認識し、このまちで暮らすことの喜びや幸せを実感する。 本市の天王様は各神社の神輿や山車、屋台の巡行とその行列が通る町並みが一体となって歴史 的風致をつくりだしている。 天王様にみる歴史的⾵致

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コラム 金井神社の愛宕祭(子供相撲) 金井神社で行われている子供相撲は愛宕祭と呼ばれ、火伏の祭りの意味を持った祭りで ある。東北新幹線建設により、金井神社に合祀された愛宕神社に関連する祭礼である。愛 宕神社が小金井宿の京塚と呼ばれる場所に鎮座していた頃、毎年7月 24 日に行われてい た子供相撲が、金井神社に合祀された後も「愛宕祭」として受け継がれ、現在は八坂祭の 翌週に実施されている。 愛宕祭は小金井の4つの自治会が毎年当番制で担当しており、前日に当番の自治会が土 俵の準備を行う。当日は神社内で宮司が午前9時より火伏の祈願を行い、午前 10 時頃か ら社務所にて氏子総代と自治会長が直会を昼頃まで行った後、それぞれの会所に戻り、会 所に待機している氏子に神事が無事行われたことを報告し、神事が終了する。子供の奉納 相撲は午後1時半から始まり、午後4時半頃まで行われる。参加者は小金井に住む子供が ほとんどであるが、他自治会の子供も参加可能であり、対戦は男同士、女同士で行われて いる。奉納相撲終了後、参加した子供たちにはお小遣いが配られる。 コラム 柴北の天王様 小金井駅より東の柴北地区においても、金井神社八 坂祭と同じ時期に天王様が行われている。お祓いの大 幣(ボンデン)を先頭に子供神輿、大人神輿、お囃子 の屋台が地区内を巡行する。他の地区の八坂祭と同じ く、世話人等家より、お酒やジュース、お握り、スイ カ、アイスといったものを御馳走される。『国分寺町 史 民俗編』によると、昔は、この地域では神輿を担 ぐ子供達を親しみを込めて「小若(こわか)」や「小若 衆(こわかいしゅう)」と呼んでいたという。 コラム 小学新入生祈願祭 吉田八幡宮では、新小学 1 年生の希望者を対象に入学式の日に学校生活の安全を祈願す る祭りを行っている。3月に対象となる家庭に案内を配付し、希望者を募る。 当日は入学式の時間前に祈願祭を実施するため、早朝から総代によって供物や手水等が 準備される。児童とその家族は、神社にて宮司と一緒にこれからの学校生活を安心して過 ごせるよう祈願した後、学校へ向かう。

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第2章 維持向上すべき歴史的風致

4. 太々

だ い だ い

神楽

か ぐ ら

にみる歴史的風致

(1) はじめに 神楽とは、神の座を設けて神々を勧か んじょう請し、 その前で奉納される芸能である。神楽には多 様な種類があるが、このうち太々神楽は、栃 木県下にもっとも多く分布している民俗芸能 の一つである。 太々神楽の内容は、主に「古事記」や「日 本書紀」をモチーフとした無言の神話劇とも いうべきもので、元々は神職中心で行われて いた。後に、神楽師と称する氏子の手に委ね られるようになったところが多く、これを「代 神楽」と言い、後に太々神楽と呼ばれるよう になったと言われている。江戸時代から続く ものは県内でもさほど分布しておらず、その 多くは明治時代から始まったと考えられてい る。 本市では、石橋地区の下古山星宮神社と橋 本神社において、氏子による太々神楽が継承 されており、現在も祭礼時に奉納されている。 下古⼭星宮神社太々神楽の様⼦ 橋本神社太々神楽の様⼦

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第2章 維持向上すべき歴史的風致

4-1. 下

し も

や ま

ほ しのみや

神社の太々神楽

(1) 下古山地区の環境 下 古 山 星 宮 神 社 が 所 在 す る 旧 石 橋 町 地 域 は、北から南へわずかに傾斜する平坦な土地 で、高山・原野などはなく、西部に姿川が南 流している。東部は国道4号線と JR 東北本 線・東北新幹線が並行して通り、西側一帯に は市街地が展開し、国道 325 号が壬生方面へ 分岐する交通の要所である。 下古山地区は、姿すがた川東岸の台地上に位置し、 東部を日光街道が通り、街道沿いを 通とおり古山こ や まと 称する。 下古⼭地区の環境 (2) 下古山星宮神社 下 古 山 星 宮 神 社 の 沿 革 等 に つ い て は 2 章 3-4で述べたとおりである。太々神楽に関す る建物として、神楽が奉納される神楽殿は拝 殿の西側に位置し、『明治 45 年姿村郷土誌』 によると、明治 29 年に建立されたとされる。 南を正面とする桁行3間・梁間2間の入母屋 造桟瓦葺の建物で、南と東面に縁がまわる。 後の改築であると思われるが西側に楽屋と思 われる部分が付属する。なお2章でもふれた が、拝殿正面の柱に取り付けられた板札によ ると、昭和 51 年4月に屋根が葺き替えられた。 祭礼時の神楽が奉納される際には、神楽殿 の南面と東面がすべて解放され、地面から縁 までを紅白幕で覆い、軒には幔幕を吊るし、 内部には棚が設けられ、御幣や供物などがし つらえられる。 ⼀の⿃居 ⼆の⿃居 神楽殿 神楽殿額

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第2章 維持向上すべき歴史的風致 (3) 下古山星宮神社太々神楽 太々神楽の奉納と演目 1) 下古山星宮神社では、年間を通して祭礼が 行われているが、太々神楽が奉納されるのは、 4月の春季例大祭と1月の元旦祭である。 下 古 山 星 宮 神 社 太 々 神 楽 は 吉 田 流 太 々 神 楽であり、起源は定かではないが、神楽に使 用する鼓の胴の内側の墨書きに明治期の年代 が記されていることから、その頃には既に行 われていたことがわかる。昭和 50 年(1975) に石橋町(当時)の無形の民俗文化財に指定 され、平成 18 年(2006)の合併に伴い、現在 は市の指定文化財となっている。 神楽の舞に欠かせない神楽面は、15 面が現 存している。このうち、現在上演されている 13 座 の な か で 使 用 し な い 面 が 2 面 あ る こ と から、昔は 13 座に加えて他の舞も奉納してい たと考えられている。 下古⼭星宮神社における祭礼⼀覧 実施時期 名称 概要 1 月 1 日 元旦祭 宮司による祝詞の奉納及び神楽の奉納が行われる。神楽は、下 古山太々神 楽保存会にて行う。演目は春季例大祭とは異なり、 神楽を奉納する人々による福まきも行われる。 2 月 17 日 祈年祭 1年の農作業を無事に行うことを祈 る祭礼。新嘗祭と対になって いる祭礼であり、宮司による祝詞の奉納等を行う。 4 月 10 日 春季例大祭 創建日に行う神様の御扉を開ける重要な祭礼。宮司による祝詞 の奉納、太々神楽の奉納、厄除祈願等を行う。神楽の主催は厄 年の人が担い、様々な準備を行う。 7 月中旬 八坂祭 疫病退散を願って行われる祭礼。宮司による祝詞の奉納等が終 わった後、神 輿 渡御 を行 う。神 輿は、大 人神 輿と子 供神 輿が担 がれる。現 在 は、住 宅 密 集 地 を巡 行 しているが、昔 は地 区 全 体 を分担して練り歩き、一軒一軒の家の中まで入っていた。 8 月下旬の 日曜日 風祭 農作物を風害から守るための行事。立春から数えて 210 日に台 風が多いことから、この日を荒あ れ日びと称し、稲を守るための嵐除け祈 願として、以前はお日待ち(ある決まった日の夕刻より一夜を明か し、翌朝の日の出を拝して解散する行事)も行った。現在も、子ど もたちが神社周辺を「せんどう、まんどう」と声をかけながら周る。 11 月 15 日 秋季例祭 内容は春季例祭とほぼ同じであるが、太々神楽の奉納は行われ ない。 11 月 25 日 新嘗祭 新穀に感謝する祭礼。この日から新米を食べるという風習があっ た。 神楽⾯

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第2章 維持向上すべき歴史的風致 ① 春季例大祭 例祭は、神社の祭礼のなかでも重要な位置 づけの祭礼であり、下古山星宮神社では、春 季例大祭の際に太々神楽の奉納が行われる。 春季例大祭は元来、4月 10 日の創建日に行わ れていたが、現在は、地域住民が参加しやす いように4月 10 日前後の日曜日に開催され ている。 神 楽 を 舞 う の は 下 古 山 星 宮 神 社 太 々 神 楽 保存会のメンバーであるが、主催者は厄年の 人(女性 33 歳、男性 42 歳)と決まっている。 地元の 42 歳の厄年の男性が厄除け祈願者を 集め、神様への奉納品などをまかなうととも に、神楽の準備や後片付けを行う。 4月の例大祭に向けて、通常は約1ヵ月前 から社務所にて練習が開始される。また、本 番までに、神楽殿の装飾や餅の袋詰め等の準 備も行われる。 例大祭は、午前 10 時より本殿で始まり、 まず初めに宮司による祝詞の奉納等が行われ る。祈願等の終了後は、直会な お ら いが行われ、正午 頃から 15 時頃まで太々神楽を舞う。 下古山星宮神社太々神楽の演目は 13 座あ り、祭りによってその演目が異なる。春季例 大祭では、13 座すべての演目を舞う。第8座 と第9座の間に、厄年の人が社殿に集まり 30 分程厄除け祈願を行う。全ての演目が舞い終 わると、厄年の人による福まきが始まる。福 まき終了後、厄年の人、神社総代、神楽の舞 手による直会が行われ、例大祭が終了する。 ② 元旦祭 元旦祭では、下古山星宮神社太々神楽保存 会により新春特別太々神楽が奉納される。 元旦祭は1月1日 10 時半より始まり、本 殿で元旦祈祷が行われる。神楽は祈祷と同時 に神楽殿にて始められ、12 時に終了する。4 月の春季例大祭時よりも短い時間で演じられ、 13 座のうち9座が舞われる。第1座、第7座、 第8座は必ず演じられ、それ以外の6座はそ の年によって異なる。神楽の上演後には、餅 や福銭が撒かれる福まきや、くじ引きが行わ れる。なお、祈祷は祈願を希望する人がいる 間は神楽が終了した後も行われる。神楽の舞 手は演目終了後、直会を行う。 神楽で使⽤する道具の準備 釣り竿の縄を編む様⼦

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第2章 維持向上すべき歴史的風致 午前中の神事 福まき 下古⼭星宮神社太々神楽の演⽬⼀覧 座 演 目 概 要 写 真 第一座 奉幣ほ う へ いの舞 神 主 が神 霊 出 現 の媒 体 となる依 代 ( 幣 )を 捧げ持ち、神殿に進む。祝詞をあげ、幣は舞 手 に渡 される。舞 手 は左 手 に幣 、右 手 に鈴 を持ち、舞を奉納する。 第二座 猿さ る田た彦ひ この舞 道 案 内 の 神 であ る 猿 田 彦 が 岩 戸 開 きに 先 立 って舞 う。この神 の面 は赤 く高 い鼻 で、頭 に 錦にしき金襴き ん ら んの鳥兜と り か ぶをいただき、右 手 に矛 を持 ち、四 方 に睨 みをきかせ魔 を払 いつつ国 開 きの道案内を舞う。 第三 座 住吉す み よ しの舞 御お 田た 植う え神し ん事じ を 表 現 す る 舞 で あ る 。 オ キ ナ (翁 )を連 想 させる神 の舞 で、舞 手 は榊 と鈴 を持って腰を曲げてゆっくりと舞う。 第四座 春日か す がの舞 刀 を持 ち、四 方 を睨 み邪 悪 を断 ち切 る勇 壮 な舞である。

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第2章 維持向上すべき歴史的風致 座 演 目 概 要 写 真 第五座 引ひ き射し ゃの舞 舞手は2人で、弓矢を持ち、鬼門を射し魔の 侵入を断つ舞である。 ― 第六 座 宇津女う づ め の舞 天 照 大 神 が天 の岩 戸に籠 った時、その前で 舞を舞った神で、紅白の衣で女装し、左手に 扇子、右手に鈴を持って舞う、雅で華やかな 舞である。 平成5年(1993) 第七座 手たぢから力男おの舞 天の岩戸を押し開き、天照大神に出てもらう ことを願 った力 持 ちの神 の舞 で、岩 戸 を開 く しぐさをする。左 手 に榊 、右 手 に鈴 を持 ち、 勇壮に舞い、霊魂た ま ふ りを高める。 第八座 大神お お か みの舞 左手に鏡をつけた榊、右手に鈴を持って舞う 優美な舞である。 第九座 八や幡は たの舞 武 勇 の神 として、左 手 に弓 を持 つ勇 壮 な舞 である。31 文字の呪文(この竹は高天が原 に生 いし竹 、やぎはぎなして八 幡 なりけり)を 大 声 で唱 え魑ち 魅み 魍も う魎りょ う(色 々な化 物 )を制 圧 する舞である。 第十座 白 びゃっ 狐この舞 五穀の稲魂を祀った稲荷の使者である狐が 豊 作 を 祈 願 し て 舞 う 。 鍬く わ切き り、 種 子 ま き を す る。ヒョットコに指 導 しながら、土 を踏 み発 芽 を促 す。白 狐 とヒョットコのユーモラスな舞 で ある。

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第2章 維持向上すべき歴史的風致 座 演 目 概 要 写 真 第十一座 恵え 比び寿す の舞 七福神の恵比須が右手に釣り竿、左手に扇 子を持ちながら舞う。終了後、観客に紅白の 餅 を 付 け た 釣 り 糸 を 下 げ る 。 金 銭 を 包 ん だ 「手びねり(料)」を餅と交換に釣り糸に付ける 観客もいる。しばらくすると、ヒョットコが1人右 手に釣り竿を持って登場し、恵比須と一緒に 観 客 に 向 け て釣 り 糸 を 下 げ る。 後 半 、 恵 比 須が鯛を釣り上げると、ヒョットコは退場し、再 び恵 比 須 が右 手 に釣 り上 げた鯛 、左 手 に鈴 を持ち、華麗に舞う。 第十 二座 だ い 国こ くの舞 七福神のひとりで、頭巾袋を左肩に負い、打 出 の小 槌 を持 ち、米 俵 に鎮 座 する。福 の招 来を祈る。 第十 三座 き 神し んの舞 悪事の一切を司る神である鬼人と須佐之男 命 による舞 である。はじめに鬼 神 が登 場 し、 舞台 上を我 が物顔で舞踊る。そこへ須佐 之 男 命 が登 場 し、手 にした剣 を鬼 神 に向 け呪 文を唱え、退 治する。最 後は勇 壮 な須 佐 之 男の舞で終わる。 下古山星宮神社太々神楽保存会 2) 下古山星宮神社太々神楽保存会は、昭和 29 年(1954)に結成された。現在は、下古山地 区内の 60 歳~70 歳の 11 名が所属しているが、 舞と演奏の技術を両方持つ者は3名しかいな いため、舞手が多い演目は実施が困難な状況 である。保存会に所属しているメンバーは、 神社の神輿を作成した拾と 壱い ち会か いと兼ねている人 が多い。 神楽の練習は、かつては週に1度行ってい たが、現在は祭りの約1か月前から始めてい る。 下古⼭星宮神社の太々神楽にみる歴史的⾵致の分布

参照

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