奚疑塾における錦絵の研究
−視聴覚教育の観点から−
川原健太郎
キーワード:錦絵、視聴覚教育、視聴覚教育メディア、メディア、私塾、社会教育、生涯学習
【要 旨】本研究は、視聴覚教育研究の視点から明治時代の錦絵に関して分析を行った歴史的研究である。
本研究においては、明治〜大正初期に開設されていた私塾に所蔵されていた錦絵を対象に取り上げる。錦絵 とは多色刷りの木版画であり、浮世絵の代表の一つである。本研究では錦絵の情報を伝えるメディアの側面 に着目し、視聴覚教育の視点から分析にあたった。
研究対象とするのは現在の東京西部にあった民間の一私塾である、奚疑塾(けいぎじゅく)にて所蔵され ていた140点を数える錦絵である。奚疑塾は明治中期〜大正初期にあたる1880 〜 1913年の時期において開設 されていた私塾であり、三多摩やその周辺地域を中心に広く教育に影響を与えた、地域に根ざした教育機関 である。
奚疑塾の創始者である窪全亮によって集められた奚疑塾の錦絵は、美人画や名所絵のような種類に限った 錦絵だけが集められていたわけではない。教育の一環において扱われると思われる分野を含め、幅広い分野 の錦絵が多く収集されていたことを特色とする。例えば、日本の歴史を題材にしたものや地理に関したもの、
さらには文明開化に係わる当時の社会の様子を知ることのできる錦絵などが多く含まれている。歴史や地理 の錦絵は当時の塾生にとり、視覚から学ぶことを可能にすると考えられるメディアである。
本研究は、このことから奚疑塾に収集された錦絵の分野別傾向をとらえ、当時の錦絵の分野の全体像と比 較することで、錦絵を通して近代における視聴覚教育の一側面をみいだすことを試みた。奚疑塾の錦絵は、
一般的な錦絵の主題傾向とは異なり、教育的な意図を持って集められたものであったことや歴史に関する事 柄や文明開化などの内容を視覚的に知ることのできる教材の役割を果たせるものであることもわかった。奚 疑塾に集められた錦絵の資料群は、視覚によって新たな知識を得られる可能性を広げられる重要な意義があ ると考えられる。
はじめに
本研究は、視聴覚教育研究の視点から明治時代の錦絵に関して分析を行った歴史的研究であ る。本研究においては、明治〜大正初期に開設されていた地域の一私塾に所蔵されていた多数の 錦絵を分析対象に取り上げる。
錦絵とは多色刷りの木版画であり、浮世絵を代表するものの一つである。錦絵は寛保期に興り、
明治末頃に衰退したと一般的には認知されている。喜多川歌麿、安藤広重、葛飾北斎などの作品 によって知られ、美人画、名所絵、役者絵などの画題が有名である。これらの主題に示されるよ うな錦絵は、近世では人々の興味を引くメディアであり、人気を博していた。しかし、錦絵には、
本研究で対象とする明治期以降に入ると、刷りや色のような技術面では相当に発展し、なおかつ
大量に生産されるようになったものの、さまざまな技術を用いられた新しい絵の進展に伴って、
衰退していった側面もある。
一方で、錦絵は芸術のメディアの側面だけでなく、情報伝達のメディアの役割を持っていた。
近代における具体的な例をみると、例えば新聞錦絵をその一つに挙げることができる。これは新 聞のいわゆる「三面記事」の挿絵、ゴシップ記事や刺激的な画題などを錦絵にしたものであり、
人々が視覚的に物事を知ることに対して、少なからぬ役割を果たしていた。これを鑑みると、錦 絵は単なる芸術品ではなく、多様な意義をもったメディアであると考えることができる1)。 ところで、本研究で錦絵に着目した理由には、コンピュータなどのいわゆる近代的な視聴覚メ ディアの発展以前の視聴覚教育の歴史を明らかにしたいとの関心がその出発点にある。メディア は発信者と受信者の間をつなぐものであり、このことを錦絵に照らして考えてみると、錦絵は錦 絵の描き手や錦絵を紹介する人々である発信者と、錦絵をみる受信者の間をつなぐメディアであ る、と捉えることが可能である。そこで、本研究ではそのようなメディアとしての役割を持つ錦 絵に着目し、具体的な資料を用いることにより視聴覚教育メディアの視点から分析にあたったの である。
筆者はこれまでの研究の中では、明治時代の視聴覚教育メディアの概要をとらえようと試みて きた2)。そこでは、教科書における挿絵、掛図、校具などや関連する法令等から、当時の視聴覚 教育を探ってきた。明治時代から、いわゆる幻灯機などのいわゆる映像投影メディア以外のさま ざまな視聴覚教育メディアが使われていたことはわかったものの、依然その全貌をみることが容 易ならざることは、いうまでもない。
そのため本研究においては、錦絵をテーマとした。前述のとおり錦絵は色鮮やかに描かれてい る特性を持ち、視覚的に閲覧者への影響を大きく与えられると考えられるメディアである。そこ で、明治時代の錦絵に関する資料群を題材に分析を行い、錦絵のもつ視聴覚教育メディアの価値 を明らかにすることを試みた。
本研究において対象とするのは現在の東京西部にあった民間の一私塾である、奚疑塾(けいぎ じゅく)にて所蔵されていた140点を数える錦絵である。奚疑塾は明治中期〜大正初期にあたる 1880 〜 1913年の時期において開設されていた私塾であり、三多摩やその周辺を中心に広く教育 に影響を与えた、地域に根ざした教育機関である。
教育機関の奚疑塾の特徴には、1
,
000名近くを数える多くの同窓生を輩出したことや、地域にお ける重要な教育機関として教育機会の拡大に寄与していたこと、寄宿制をとることにより広い地 域から塾生を集めていたことなど多数ある。そのような特徴のうちの一つが、本研究で取り上げる塾に所蔵されていた錦絵である。奚疑塾 における錦絵の資料は、2006年より2009年まで行われた稲城市教育委員会による、奚疑塾を中心 に関係する近代稲城の文化財への悉皆調査の中で発見された3)(筆者もこの調査に参加をしてい る)。なお、この調査は2010年3月に報告書が上梓されている4)。なお、調査時にみつかったこ れらの錦絵は複数の絵を貼り合わせ、横に長いポスターのような形にされた形で発見された。
奚疑塾の創始者である窪全亮によって集められた奚疑塾の錦絵は、塾という教育機関に集めら れていたものであったため、教育との観点から分析を進めることによって、一般に流通していた
錦絵が視聴覚教育を可能にするものであったかを分析することが可能になると考えた。本研究で は奚疑塾に収集された錦絵の分野別傾向をとらえ、これを当時の錦絵の分野の全体像と比較する ことや、その内容を分析することによって近代における視聴覚教育の一側面を見出そうと考えた。
本研究では以下、四つの構成から論じる。1.では、明治時代の錦絵に関して、その概要を把 握し、なおかつ錦絵を対象とした先行研究の到達点と限界をみたい。2.においては、今回の調 査で発見された錦絵が所蔵されていた奚疑塾を取り上げる。その塾での教育の状況や教育方法や 内容などを取り上げ、錦絵の利用との関連させることが可能であったかに関する分析を行いた い。3.は奚疑塾所蔵の錦絵に関する資料を対象に分析を実施する。主な研究方法は、分野ごと の収録点数を整理しながら奚疑塾の錦絵の傾向をとらえることによって、錦絵の教育的価値をみ たい。4.では、奚疑塾の錦絵の内容に焦点をあて、視聴覚教育の観点からどのような価値があっ たのかをみていきたい。
本研究の意義は、錦絵のもつ芸術品や報道メディアの役割だけでなく、錦絵の役割を視聴覚教 育メディアの側面を明らかにすることにある。さらに、一私塾での錦絵の事例を対象に取り上げ、
その文化財的価値を教育資料の視点から提示する意義もある。
加えて、明治期の錦絵の研究を行うことによって、近代における投影機材以外の日本の視聴覚 教育メディアを取り巻く全体像の一諸相をみることができるという意義もあると思われる。
1.明治期における錦絵と教育
(1)明治期における錦絵
錦絵とは多色刷りの木版画のことであり、代表的な浮世絵の一つである。錦絵の大元である 浮世絵は延宝、元禄期頃に始まったとされ、明治末期頃にその隆盛は終期を迎えたといわれる。
錦絵に関していえば、多色摺の浮世絵版画が出現するのは寛保期(1741 〜 44)であり、明和2
(1765)年を迎え、完成された多色摺版画である錦絵が誕生する。浮世絵の画題の根幹をなすも のは、美人画、役者絵、相撲絵、名所絵などである5)。つまり、美人を描いたもの、歌舞伎など の役者を描いたもの、相撲を描いたもの、名所旧跡の風景を描いたものである。これらは、芸能 人やスポーツ選手、風景など現代においてはグラビア写真に相当するものであり、庶民に対して 希求する魅力があるものであった。
錦絵も含まれる浮世絵の特徴は名前に「浮世」の言葉が入っていることに示されているように、
いわゆる俗世におけるさまざまな事象が描かれていることにある。つまり、人々の暮らす社会風 俗が、浮世絵の中には示されているわけである。中でも錦絵は前述のとおり、目立つ色合いや大 胆な構図などを備えた鮮やかさがその特徴であることと同時に、多色刷りの版画という大量生産 に適した方法で作られていたことから、みやすく色鮮やかな絵が多くの人に入手可能な絵であっ た。その意味でも、錦絵は芸術作品でありながらも限られた人が目にするものではなく、多くの 人にみてもらうことのできるメディアであったといえよう。
なお、浮世絵を代表する画家である喜多川歌麿、歌川豊国、安藤広重や葛飾北斎など多くは江 戸後期に活躍しており、庶民に高い人気を得た芸術作品の評価を錦絵は得られていた。しかし、
明治に入ってからは衰退期とされ、明治期以後の錦絵を巡る状況に関しては、その様相が変わっ
てくる。
浮世絵研究者である山口桂三郎によると、明治期の浮世絵の概況をとりあげ、海外の浮世絵 ブームや技術の向上もあったことに対して言及しながら、次のような状況を指摘している。「明 治の浮世絵は、浮草のごとく自主的なルートを形成することなしに開化絵・時事報道画・教育 画・新聞雑誌の挿絵などに目新しい題材を求めて流転した。そしてその背後に銅板・石版画の追 い打ちに会いつつ、次第に地盤を喪失していった。しかし、幸いなことに浮世絵版画の彫・摺の 技法は空前の練達度を加え、その精緻さはあらゆる表現にこたえうる高度の技術に到達してい た。この浮世絵木版技術の伝統は、技術そのものが先行して、画材や内容の芸術的表現を疎かに してしまうが、これは見逃せない事実である。そして浮世絵版画は明治三十七・八年の日露戦争 をテーマにした作品をもって、実質的にはほとんど制作されなくなる6)」。
近代錦絵の一側面である衰退した時期、との評価こそある程度なされてこそあるものの、一方 で上記研究で指摘されているように時代を経たことによって進化した一面があったことは見逃す ことができない。なぜならば、出現から一定の時代の変化を経てきた明治以降の錦絵は、あらゆ る表現をすることが可能であったのであり、そのことから教育的に意義のある表現をすることも できえたであろうと推測ができるためである。
例えば、明治期の多様な展開をみせていた錦絵を巡る、一諸相を示す例に挙げることができる のが、新聞錦絵である。新聞錦絵とは新聞の挿絵に用いられた錦絵を使い、これを彩色したもの である。そのため性質は、「売る商品にするためには面白い記事ばかりを錦絵にするので、当然 のごとく殺人や珍談奇話が多くなる7)」、と浮世絵研究者の高橋克彦が指摘している。新聞錦絵 は、センセーショナルな題材が中心になり、ゴシップが多く描かれてはあるものの、人々に受け 入れられていた錦絵の性質を改めて確認できる、重要な存在である。
この新聞錦絵のような庶民に人気を博した志向の錦絵が存在していたことは、錦絵のもつ大量 配布できるメディアであるとの性質が、明治期以降にも十全に活かされていたことの一端を示す ものと指摘することができよう。
以上でみてきたように、錦絵は絵であり芸術的な性質のあるメディアでありながらも、安価に 大量生産し大量配布が可能であるものであった。このことは本研究で分析を行う、明治時代にも 受け継がれているものであり、その一つに新聞錦絵のような錦絵があることがわかった。
(2)教育的メディアとしての錦絵に関する先行研究
続いて、本項では近代の錦絵を対象とする先行研究を取り上げ、その到達点と限界を論じる。
その中で、錦絵の持つ教育的メディアである性質に着目した先行研究に関しても併せて言及した い。錦絵が誕生した江戸時代から、色鮮やかで大量生産が可能である錦絵は、比較的入手しやす い娯楽的メディアの人気があり、かつ近世を代表とする美術品の役割を帯びていた意義があった ことは、既に上記した通りである。
しかし、そのような意義が予てからあったことも含め、近年、錦絵を含め浮世絵に対する一般 的な注目が高まっているようにみえる。例えば、江戸時代の錦絵を取り上げ版木から作成される までをテーマとした、国立歴史民俗博物館で開催された企画展「錦絵はいかにつくられたか8)」
や、大久保純一『カラー版 浮世絵』(岩波新書、2008年)などの一般書籍なども出版されている。
現代においても人々に魅力的なメディアであると浮世絵が認識されていることを読み取ることが でき、ここからは錦絵も含め、錦絵が人々に希求されるメディアで在り続けたことも推測できる。
このように人々に訴えかける力のあるメディアである錦絵だが、美術、娯楽のメディアである だけでなく、教育的なメディアとして機能をしてきたことに対しても、先行研究の中で言及され ている。日本美術史研究者の小林忠は、「浮世絵が庶民の教養を高める教育的なメディアとして も機能したことを、忘れてはなるまい。先にも触れたように、絵を通して和漢の古典と親しみ、
和歌や俳句をはじめ各種の詩歌を味わって情操を養い、外国や国内の情報に通暁するなど、浮世 絵から知ったり学んだりすることは多かった9)」ことを述べている。
浮世絵は、世相を色鮮やかに描いたものであり、社会のさまざまな事象に関するさまざまな事 象も画題にされている。さらに、複製がしやすく手に入りやすいものであるゆえ、多くの人に頒 布することが可能である。そのため、市井の人々にみてもらいやすい意義もある。このことか ら、一つの浮世絵の画題自体は目的をはっきりさせた教育的に明確な意図をもったものでなくと も、人々が手に入れやすい絵である浮世絵をみることによって、自ら自己教育を行うことも可能 であったことは推測することができる。上記のような浮世絵に関する指摘は、錦絵のもつ視聴覚 的役割を捉え直すためには、重要なものであると思われる。
錦絵を対象にした近年の研究には、錦絵の主題を研究したものや作家を対象としたものや描か れたテーマを分析したもの研究など、さまざまな研究があるが、ここではメディアとしての錦絵 に着目した研究や、教育との関係で分析をした研究を中心に取り上げる。
前述したように、メディアとしての役割を持っている錦絵に着目した研究は多い。例えば、こ れは幕末期を対象にした研究であるが、政治への関心を高められるメディアの視点から錦絵を分 析した、奈倉哲三(2007)による研究がある10)。この研究は「戊辰戦争諷刺錦絵が有する思想史 的特質を、同時期ヨーロッパの諷刺画と比較することで、その世界史的位置の解明を試み11)」た ものである。政治とは離れたところにあった民衆が、錦絵によって政治を知ることができていた ことを示している。
さらに、メディアと錦絵に関する研究には、近代の新聞と錦絵に関する本田康雄(2004)によ る研究がある12)。この研究では、新聞の「雑報」記事の面白さに着目し、浮世絵師と戯作者が「新 聞錦絵」を工夫して流行を起こした事象や、新聞記事とその錦絵を同時掲載する紙面となってい たタブロイド版の小新聞を視野に入れながら、大新聞の雑報記事から小新聞の絵入り雑報の変遷 をとりあげている13)。
いずれも、錦絵が情報を伝えるメディアであることに視点を当てている研究であるが、中でも 特に錦絵が人々に人気の高い内容のものと結びついていたことに着目していたことは注目すべき 点と考えられる。錦絵の持つ魅力が情報伝達のメディアである錦絵の役割を際立たせていたこと がわかるためである。一方で錦絵は他にもさまざまな形で、社会への影響を与えていたことが推 測される。それらを明らかにし、今後のさらなる解明は課題になっているといえよう。
明治期の錦絵と教育に関する研究には、岡野素子(2004)による、浮世絵の技法で西欧の科学 技術や倫理を説いた文部省発行錦絵に関する研究をあげられる14)。この研究では、近世までの歌
川派の芸術性と明治の学校教育という近代国家の側面から文部省発行錦絵を分析したものであ る。浮世絵の持つ芸術性の高さが、民衆の人気や一般性と結びついたことに言及し、錦絵と教育 政策との関連を論じている。
錦絵を視聴覚教育メディアの観点から論じた先行研究には、古屋貴子(2006)の研究があ る15)。この研究では錦絵や双六を取り上げ、明治初期の文部省発行教育用絵図を教育史に位置づ ける試みを行っている。この研究では、教育政策の中で作られたメディアを対象にその内実に迫 ることを課題に上げている。更に、古屋(2007)の研究では、学校教育を補完する「メディア戦 略」ともいうべき教育メディア政策の一つのあり方に教育錦絵を位置づけている16)。教育の中に おける錦絵の重要性は先行研究で着目されているとおりである。
一方で、教育的な意図をはじめからもって製作された錦絵ではなく、市井で流通していた錦絵 を用いた教育に関する先行研究は見当たらなかった。そこで本研究では錦絵と教育について、視 聴覚教育の観点に立ちながら、一般的な錦絵と社会教育での利用の立場から分析を行いたい。明 治期における錦絵などのメディアと教育の諸相を明らかにするには、民間での社会教育の利用を 解明することが必要であると考えたためである。
2.奚疑塾と教育内容
(1)奚疑塾の概要
本研究では一民間私塾で集積されていた錦絵の資料群を分析の対象にするが、ここではその錦 絵が所蔵されていた私塾である奚疑塾の概要を取り上げる。奚疑塾は明治期に東京西部におけ る三多摩南部の稲城に設立されていた私塾である。この奚疑塾とは、稲城における著名な教育 者・漢学者・書道家であった窪全亮(くぼぜんりょう)によって開設された私塾であり、1880 〜 1913年に開かれていた。奚疑塾は稲城のみならず稲城が位置する東京西部の三多摩地域に広く影 響を及ぼした教育機関であることから、2005年より2009年にかけて稲城市教育委員会によって、
近代文化財に関する悉皆調査が行われたが、調査の中で今回分析対象とする錦絵を含め、多くの 未発見資料がみつかっている。これらの資料群は、錦絵以外にも塾に関係する書簡などもあり当 時の塾での教育の内容を知ることができるものである。
塾の名称である「奚疑」の名称は陶淵明の帰去来辞の一節「楽夫天命復奚疑」(かのてんめい をたのしみてまたなにをかうたがわん)からとったものである。つまり、天命を楽しんで、疑わ ず生きていこうとの意味である。この塾は小学校卒業後の青年を対象にして開設されたものであ る。本塾の設置の目的をみると、「小学学齢外ニシテ学資乏ク中学或ハ他ニ就テ学ヲ能ハサル子 弟ノ為メニ設ク」(「私立学校開申」1882年6月)と書かれている。このように、能力のある者に は等しく教育機会を与えようとの意図をもち設立された塾であり、多くの人々に門戸が解放され ていたことがわかる。
奚疑塾の教育の特徴は、多くの同窓生を輩出したことや稲城のような東京近郊の農村にありな がら広く生徒が集まっていたこと、女子教育を実施していたことなど多数を数えることができ る。窪全亮が没するまでの一代のみの(奚疑塾は窪の逝去後塾を閉じている)おおよそ30年の活 動ながら、奚疑塾の同窓生は800名を越える数を数えており17)、その卒業生は医学や外交官、稲
城地域のリーダー、教員などその進路もさまざまである。入塾する塾生の地域は、塾での住み込 みが可能であったため、地元である稲城はもとより、青梅・五日市など稲城への通塾が不可能な 西多摩地域や隣県などからも塾生が集まっていた18)。この同窓生名簿を見ると同窓生732名のう ち、稲城出身者は183名(全体の約25
.
3%)になっており、必ずしも出身が偏ることはなく、広 く塾生を受け入れているようになっていたようである19)。塾の創始者である窪全亮は1847年(弘化4年)稲城大丸の生まれで、年少時には稲城の常楽寺 で学業に励み、14歳の時に上京、星野介堂、大沼枕山から漢学を、著名な書家の巻菱湖の子であ る巻鷗州から書を学んでいる。故郷稲城に戻り、1871年(明治4年)常楽寺に開設された長沼郷 学校、博文学舎などで教師をし、その後1880年(明治13年)に奚疑塾を設立した。幅広く教養的 学問を学んできたのが窪の学びの歩みと考えられる。窪は幅広い学問を学んでおり、その経験は さまざまな学問を修める塾の設立には助けになるものと思われる。
(2)奚疑塾の教育内容
塾での教育内容は、読書、作文、習字、算術などの基礎教育を重視したものになっており、漢 学教育を重視するスタイルをとっていた。奚疑塾の「奚疑学舎教則」(1882年)には、教育内容 が以下のように定められている20)。
第一項 学科ヲ分テ六等トス
第二項 毎等学科ハ読書習字トス 但修身作文歴史ハ読書科ニ於テ修ル者トス
ここからは、学科をレベル毎にわけていることや、塾創始者の窪全亮を反映した漢学の体系の 教養を重視した教育内容であったことがわかる。なお、教科書に関しては、「奚疑学舎教則」に おける、読書の部の教科書一覧から知ることができる。それぞれ、六等は国史略・論語、五等は 十八史略、四等は孟子・日本外史、三等は日本政記・正文章軌範・孟子、二等は通鑑■要(■は 覽の上+手)・詩経・続文章軌範、一等は書経・礼記・左伝校本が記されているが21)、教則に記 載されているように読書の中で幅広い内容を教授することを行っていたことがわかる。
(3)奚疑塾の教育方法
奚疑塾の教育方法は、関連する史料から知ることができるが、中でも奚疑塾同窓生の清水九一 氏(稲城市大丸)が使用していた直筆の学習ノートが現存しており、塾生自身の学習の記録から 学びの様子を知ることができる。
奚疑塾では読書科の教科書を用い、国史略などを通して学習していたが、これは漢文で書かれ たものが多く、小学校卒業後の塾生たちにとり、決して平易なものでなかったと思われる。なお、
塾の教育方法のうちいくつかは、現存しているノートから二つの方法で学んでいたことが判明し ている。その一つが問答形式による学習であり、もう一つは難字の漢字書き取りによる学習であ る。
前者の問答形式による学習は、「問答集」の題が付された塾生のノートなどによって知ること ができる。奚疑塾の後期の塾生であった清水九一氏のノートである「国史略問答筆記」をみると、
「問 東大寺ニ行幸シ仏ヲ拝シ自ラ三宝ノ奴ト称セシハ何帝ゾ」「答 聖武天皇22)」というもので
ある。自ら問を立てそれに答える形での学習をしていた。なお、この形式での学習は同じく塾生 であった窪通敏氏のノート「歴史問答筆記」にも同様の記録がされていることがわかる。塾では 対面で問答によって学ぶ方法を重視されていたようであるが、これらの資料はそれを裏付けるも のであるといえよう。
漢字書き取りによる学習には、『国史略』の書き取りノートである「国史略難字抜粋」(清水 九一氏)や『十八史略』のノートである「十八史略難字抜粋」(清水九一氏のノート)の史料か らみることができる。いずれも、本文中で出てくる難字にフリガナを振りながらノートに書き取 りをしたものである。以上からわかるように、奚疑塾では読書の学習の中でも、狭義の意味での 読書だけを行う方法で学んだのではなく、問答や書き取りなどの方法を交えながら、歴史をさま ざまなやり方を用い、総合的に学習していたのであろうと推測できる。
3.奚疑塾における錦絵の主題
(1)奚疑塾における錦絵の主題の傾向
2005−2009年に行われた、奚疑塾を中心にした近代稲城の文化財調査において発見された史料 の中でも、特に点数が多く目を引くものが、奚疑塾で使用されていた多数の錦絵である。錦絵の 数は140点にものぼり、一枚ごとの紙の形ではなく、貼り合わせ横長の帯のような壁などに貼る ことのできる形状にされて、所蔵されていた。1枚の大きさがおおよそ縦38センチメートル×
横25センチメートル、これらを20点ほど貼り合わせていたので、一巻きの錦絵は5メートルほど のかなり大きなものとなる。これが数巻分に分けられた形で発見された。この張り合わされた錦 絵の一巻きは、似た傾向の錦絵がつなぎ合わされている部分もあるが、特に時代や内容によって はっきりと分けられているわけではなく、法則性を持って貼りあわされたようにはみえないもの であった。
奚疑塾において発見された全ての錦絵の年代を外観してみると、おおよそ1877(明治10)年か ら明治23(1890)年の間、特に明治10年代後半発行のものに集中している。年代がわからないも のも数点存在しているが、年代が判明している1800年代後半の錦絵と一緒に張り合わされていた ことから、ほぼ塾の開設と同時期のものであると推測される。奚疑塾調査において発見されたも ののうち、発行日が判別している錦絵は、窪全亮がいずれも教員になってからのものである(窪 が奚疑塾を設立したのは1880(明治13)年である)。
この錦絵は窪全亮によって収集されるものと考えられるが、本研究では、奚疑塾の錦絵をみる にあたり、どのようなものが集められていたのか、その主題(絵のジャンル)ごとに分析を行っ た(表1「奚疑塾所蔵錦絵主題別分類集計」)。本表は、奚疑塾の錦絵全142点をその主題毎に分 類し、点数を数えたものである。表左列は分類種別の単純集計、表右列はさらに、近い主題同士 を同じカテゴリにまとめたものである。
表1から奚疑塾の錦絵における主題の件数をみると、それぞれ、「歴史42点、歌舞伎31点、風 俗(美人画以外)20点、美人10点、戦争関係10点、ニュース9点、皇室関係9点、政治6点、相 撲5点23)」となっている。歴史(源平時代が描かれたものと、月岡芳年による錦絵を含む)を主 題とした錦絵が42点で最も点数が多い。これは全体の30%近い数字を示している。
表1 奚疑塾所蔵錦絵主題別分類集計 分 類 点数 割合 歴史 42 29
.
6%
歌舞伎 31 21.
8%
風俗(
美人画以外)
20 14.
1%
美人 10 7.
0%
戦争関係 10 7.
0%
ニュース 9 6.
3%
皇室関係 9 6.
3%
政治 6 4.
2%
相撲 5 3.
5%
計 142
「奚疑塾と窪全亮 稲城市教育委員会文化財調査報 告書第23集」より集計。
次に多い主題は歌舞伎に関する錦絵である。な お、この分類では歌舞伎をテーマにした錦絵である が、役者が歴史上の人物に扮した錦絵も含まれてお り、歴史関連と数えることのできるものも含まれて いる。さらに、続いて政治やニュースなどの奚疑塾 との同時代的な主題の点数が多くなっていることも 目立つ。一般的に錦絵で人気の画題とされる主題 は、「美人画」「役者画」「風景画」である。つまり、
美人を描いたものや役者を描いたもの、さらに風景 を描いたものである。しかし、歴史に関連した錦絵 の点数が多いことがわかり、意図的に種類を歴史と 美人画以外を主題とした錦絵を除いた他のものが、
均等に集められていることも特徴であろう。
それぞれの錦絵の奚疑塾の錦絵の主題は、教育目
的別にみると大きく分けて三つの主題に分けることができると考えられる。第一のものは歴史に 関連する錦絵である。ここには、歴史全般に関連するもの、源平合戦を描いた歴史のもの、月岡 芳年が描いた歴史のものなどが該当する。最も点数の多い歴史を描いた錦絵は、色鮮やかに描か れたものであり、視覚的に歴史学習のサポートとなりうるものと考えられる。
第二のものは時事的な主題を取り扱った錦絵である。ニュース、皇室関係、政治関係、戦争が それぞれ該当し、報道的性格の強い錦絵がここに相当する。皇族関係には展覧競馬の図などが、
政治関係には議会における会議や議場の様子などが、戦争では西南戦争の様子などの錦絵があ る。奚疑塾の所在地であった稲城は三多摩南部に位置する、東京近郊の地域とはいえども、当時 東京の都心部からは30キロ近く離れた農村地帯であり、決して東京は身近なものではない。これ らは都心部に行くことなく「文明開化」を知ることができるものである意味において、価値の高 いものだったと推測される。
三つ目は、世相などの風俗を紹介した錦絵である。この分類では美人画を除く、相撲、風俗 などを描いた錦絵と、歌舞伎の一部が含まれる。この一群の錦絵は、社会風俗が描かれていた もので、二つ目の時事的な主題の錦絵との違いは、報道的な記事が含まれていないことにある。
ニュースとは異なり、生活がみられるものとの意義があったと考えられる。
ここにみるように、奚疑塾所蔵の錦絵は一定の教育的意図を持って収集されていたものである ことが推察できた。
(2)国立歴史民俗博物館所蔵の近代錦絵との比較
続いて、奚疑塾の錦絵を比較の観点から分析を試みたい。奚疑塾の錦絵には一定の傾向がある ことが前項でみえたが、さらにそれを他のデータと比較することによって、明らかにしたい。
ここでは近代のものも含めた錦絵の所蔵点数が多く、主題分けもされているため比較すること が容易であると考えたことから、国立歴史民俗博物館所蔵の錦絵を対象とした。国立歴史民俗博
表2 奚疑塾及び国立歴史民俗博物館所蔵の明治期錦絵の主題比較
奚 疑 塾 国立歴史民俗博物館
分 類 点数 割合 分 類 点数 割合
歴史 42 29
.
6%
歴史 72 8.
8%
歌舞伎 31 21.
8%
美人画 208 25.
5%
風俗(美人画以外) 20 14.
1%
人物 2 0.
2%
美人 10 7.
0%
戯画 54 6.
6%
戦争関係 10 7.
0%
教育・啓蒙 8 1.
0%
ニュース 9 6.
3%
名所絵 215 26.
4%
皇室関係 9 6.
3%
役者絵 80 9.
8%
政治 6 4.
2%
時局 45 5.
5%
相撲 5 3.
5%
戦争 45 5.
5%
相撲 1 0.
1%
武者 73 9.
0%
左表は「奚疑塾と窪全亮 稲城市教育委員会文化財調査報告書第23集」(前掲)より、右表は国立歴史民俗博物館、
「錦絵データベースの検索」,(http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.p1?p=param/nisikie/db_param)により集計(2012年 1月29日アクセス)。全815点中の割合を示している。複数のカテゴリに重複しているものは別カウントになってお り、また、主要のカテゴリを抜粋しているため母数とは一致しない。
物館所蔵の錦絵の国立歴史民俗博物館データベース24)から明治期(1868年−1911年)のものを 抽出し(815件、2012年1月29日アクセス)、割合を出すことによって、奚疑塾に所蔵されていた 錦絵の主な主題の分類と比較を行った。なお比較をするにあたり、国立民俗博物館の錦絵の分類 は、全体からのそれぞれの細かい分類ごとの割合を出すことを狙ったために、「玩具絵 武者絵・
歴史画」や「時局絵 武者絵・歴史画」など、複数の主題にまたがる錦絵は、それぞれを一つに 集計した。
表1の奚疑塾の錦絵に加えて国立歴史民俗博物館の近代錦絵の主題を分類・集計し、双方の数 や割合を比較したものが表2「奚疑塾及び国立歴史民俗博物館所蔵の明治期錦絵の主題比較」で ある。表2のうち、奚疑塾の錦絵の主題割合をみると、歴史29
.
6%、歌舞伎21.
8%、美人7.
0%、戦争7
.
0%、ニュース6.
3%、政治4.
2%、相撲3.
5%となっていた。最も多数のものは歴史を主題と したものであり、全体の3割ほどとなっている。表2の右側、国立歴史民俗博物館所蔵錦絵の主題別の割合に目を転じると、歴史(8
.
8%)、美 人画(25.
5%)、人物(0.
2%)、戯画(6.
6%)、教育・啓蒙(1.
0%)、名所絵(26.
4%)、役者絵(9
.
8%)、時局(5.
5%)、戦争(5.
5%)、相撲(0.
1%)、武者(9.
0%)で、最も点数が多い主題で ある美人画、名所絵の二つの主題で5割を超える。歴史、美人画、名所絵、役者絵が多くを占め る傾向になっており、上位に人気の錦絵の主題のものが入っていることがわかる。歴史が主題となっている錦絵は奚疑塾が3割近い29
.
6%なのに対し、国立民俗歴史博物館では 8.
8%になっている。歌舞伎の役者絵に関しては、奚疑塾が21.
8%だが、国立民俗歴史博物館は 9.
8%になっている。一方で、美人画の錦絵に関する割合は、奚疑塾では7.
0%にとどまっている が、国立歴史民俗博物館の錦絵では25.
5%を占めている。主題別割合をみると奚疑塾の錦絵は、歴史を重視することなど、同時代の錦絵の主題割合とは 異なる傾向を持って集められていたことがわかる。さらに、歴史だけでなくニュースなど、当時
の社会状況を知ることのできる主題の錦絵も集められていたことも特徴に指摘しておきたい。こ こで分析した奚疑塾の錦絵の主題に関する全体的傾向をみると、歴史や社会状況を知ることので きる絵が集められていることを読みとることができる。
4.奚疑塾における錦絵の内容
(1)歴史に関連する錦絵
本節では、視聴覚教育の観点から、3.で分類した主題をもとに、特に教育と関わりが深いと 考えられる歴史主題の錦絵及び時事的な主題の錦絵のうち数点を取り上げ、詳細に内容をみてい きたい。はじめに奚疑塾でも最も点数が多い歴史を主題とした錦絵を取り上げる。
奚疑塾では歴史に関する教育を相当に重視していた。さらに、歴史の教授に対しては、その設 置した本旨を、「第十三項 歴史ハ古今治乱興廃ノ跡忠妊賢佞ノ言行ヲ講究シ其身ニ反省セシム ルヲ要スレハ即古人ノ善悪行事ニ就キ自感動シ国家ヲ愛護スルノ心ヲ煥発セシムル等是此課ノ本 旨トスルナリ25)」と「奚疑学舎教則」に記載されている。ここに「自ずから感動し」と書かれて いるように、歴史を教える中で何らかの印象深いものにしようとする意識があったことを読み取 ることができる。この一文からは、視聴覚教育においてさまざまなメディアを使うことによって、
教授する内容を印象深くすることができるという共通点をみいだすことが可能であり、奚疑塾の 錦絵による歴史教育のあり方を考える上で重要なものであるといえよう。
奚疑塾の設立に対し、当時の神奈川県令に提出した、奚疑塾(設立当初は奚疑学舎と称する)
の概要を記した史料である「奚疑学舎教則26)」、さらにその後に出された「奚疑塾教課定則27)」 からは奚疑塾で使われていた歴史書が記載されている。そのうち、読み物に関する教科書を以下 に引用する28)。
○第六等 読物 四書及国史略一、二ヲ授ク
○第五等 読物 国史略三、四、五及五経ヲ授ク
○第四等 読物 十八史略及日本外史ヲ授ク
○第三等 読物 文章軌範及左氏伝元明史略 以日本正記換元明史略
○第二等 読物 八大家文及綱鑑易知録半部
○第一等 読物 史記評林及通鑑即チ温史 等其他博覧ヲ要
これらに記されている使用されていた教科書をみると、日本史に関するものには『国史略』『日 本外史』『日本政記』のタイトルが、中国史に関するものには、『十八史略』『書経』などをみる ことができ、さまざまな通史的な本で学んでいたことがわかる。奚疑塾の教科書の一つである
『日本外史』に関連する錦絵には、奚疑塾所蔵の錦絵の一つに「日本外史之内楠木正成(明治12年、
方円舎精親筆作、小林清親画工)」のような、書籍を錦絵化された作品が奚疑塾にあることもわ かっている。
表3は、歴史が主題になっている奚疑塾の錦絵142点のうち42点、さらに歌舞伎を主題とした 錦絵のうち歴史を描いた10点をリスト化したものである。
表3 奚疑塾所蔵歴史関連錦絵一覧
番号 表 題 日 付 作 者 画 工 版 元 分 類 時代
35 朝鮮征伐大評定図 明治10年 応斉芳年画 彫工春星堂 前田正三郎 歴史 安土桃山 36 紫野大徳寺焼香之図 明治10年 芳年画 月岡米次郎 小林鉄次郎 歴史 安土桃山 37 日本英勇(ママ)鏡 明治11年8月5日 幾三郎 樋口銀太郎 歴史 源平 38 本朝拝神貴皇鏡 明治11年12月 楊州周延 橋本直義 綱島亀吉 歴史 歴代天皇 39 将軍徳川家累代録 上巻 明治12年6月12日 楊州周延筆 橋本直義 綱島亀吉 歴史 江戸 40 日本外史之内楠木正成 明治12年 方円舎精親筆 小林清親 武川清吉 歴史 南北朝 41 義経記五條橋之図 明治14年 大蘇芳年画 月岡米次郎 森本順三郎 歴史 源平 42 吉野山忠信偽乗図 明治15年 一陽斉豊宣画 歌川金太郎 森本順三郎 歴史 源平 43 吉野山忠信偽乗図 明治15年 一陽斉豊宣画 歌川金太郎 森本順三郎 歴史 源平 44 新撰太閤記 明治16年6月20日 豊宣筆(豊宣画)荒井喜三郎 荒井喜三郎 歴史 安土桃山 45 新撰太閤記 明治16年6月 豊宣画 画工兼版元
森本順三郎 彫工 弥太郎 歴史 安土桃山 46 新撰太閤記 明治16年6月 豊宣画 画工兼版元
森本順三郎 彫工 弥太郎 歴史 安土桃山 47 新撰太閤記 明治16年8月4日 豊宣画 武川清吉 歴史 安土桃山 48 大坂軍記之内 明治16年12月1日 □蝶楼豊宣 歌川金太郎 綱島亀吉 歴史 安土桃山 49 芳年武者無類 弾正少弼上杉謙信入道輝虎 明治16年12月7日 大蘇芳年筆 月岡米次郎 小林鉄次郎 歴史 戦国 50 芳年武者無類 山中鹿之助幸盛 明治16年12月7日 大蘇芳年筆 月岡米次郎 小林鉄次郎 歴史 戦国 51 芳年武者無類 弾正少弼忠松永久秀 明治16年12月7日 月岡米次郎 小林鉄次郎 歴史 戦国 52 芳年武者無類 畠山庄司重忠 明治16年12月7日 大蘇芳年画 月岡米次郎 小林鉄次郞 歴史 鎌倉 53 大日本武将鑑 明治16年 □雪豊宣画 歌川金太郎 小林鉄次郎 歴史 平安-戦国 54 英勇(ママ)武者鏡 明治17年4月8日 橋本直義 綱島亀吉 歴史 源平 55 南北太平記之内 明治17年11月 □蝶豊宣筆 歌川金太郎 樋口銀太郎 歴史 南北朝 56 平家福原桟敷殿ニテ管絃之図 明治18年4月1日 応斉年方筆 野中粂次郎 小林鉄治郎 歴史 源平 57 源平盛衰記 一 明治18年7月2日 楊洲周延筆 橋本直義 綱島亀吉 歴史(源平)源平 58 源平盛衰記 二 明治18年7月2日 楊洲周延筆 橋本直義 綱島亀吉 歴史(源平)源平 59 源平盛衰記 三 明治18年7月2日 楊洲周延筆 橋本直義 綱島亀吉 歴史(源平)源平 60 源平盛衰記 四 明治18年7月2日 楊州周延筆 橋本直義 綱島亀吉 歴史(源平)源平 61 源平盛衰記 五 明治18年7月2日 揚州周延筆 橋本直義 綱島亀吉 歴史(源平)源平 62 源平盛衰記 七 明治18年7月2日 楊州周延筆 橋本直義 綱島亀吉 歴史(源平)源平 63 源平盛衰記 八 明治18年7月2日 楊州周延筆 橋本直義 綱島亀吉 歴史(源平)源平 64 源平盛衰記 十 明治18年7月2日 楊洲周延筆 橋本直義 綱島亀吉 歴史(源平)源平 65 源平盛衰記 十一 明治18年9月3日 楊洲周延筆 橋本直義 綱島亀吉 歴史(源平)源平 66 源平盛衰記 十二 明治18年9月□日 楊洲周延筆 橋本直義 綱島亀吉 歴史(源平)源平 67 源平盛衰記 十三 明治18年9月21日 楊洲周延筆 橋本直義 綱島亀吉 歴史(源平)源平 68 源平盛衰記 十四 明治18年9月21日 楊洲周延筆 橋本直義 綱島亀吉 歴史(源平)源平 69 源平盛衰記 十五 明治18年9月21日 楊洲周延筆 橋本直義 綱島亀吉 歴史(源平)源平 70 日本略史図解人皇十五代 明治18年11月 応斉年方筆 野中条二郎 三宅半四郎 歴史 神話 71 芳年武者無類 平忠盛 明治18年 芳年画 月岡米次郎
大蘇芳年筆 小林鉄次郎 歴史 源平 72 月百姿 明治19年3月 芳年筆 月岡米次郎 秋山武右エ門 歴史 不明 73 大日本名将鑑 平相国清盛 月岡米二郎 芳年 熊谷庄七 歴史 源平
74 豊臣昇進録 一魁斉芳年筆 万屋孫兵衛 歴史 戦国
75 歴史画 国綱画 両国大平板 歴史 不明
76 伊予守源義経 歴史 源平
番号 表 題 日 付 作 者 画 工 版 元 分 類 時代 117 川中島之場 明治10年 豊原国周筆 荒川八十八 神山清七 歌舞伎 戦国 119 歌舞伎画 明治13年3月13日 梅堂国政筆 竹内栄久 辻岡文助 歌舞伎 平安 122 川中島の戦 明治14年7月5日 豊原国周筆 荒川八十八 神山清七 歌舞伎 戦国 125(川中島) 明治15年4月 楊洲周延筆 橋本直義 山村鉱治郎 歌舞伎 戦国 126(川中島) 明治15年 揚州周延 橋本直義 林吉蔵 歌舞伎 戦国 130 歌舞伎画 明治16年8月 揚州周延筆 橋本直義 浅野栄蔵 歌舞伎 戦国 135 吉野山義経危難之図 明治18年2月 楊州周延筆 橋本直義 福田熊次郎 歌舞伎 源平 136 見立七賢人 明治19年1月 豊原国周筆 荒井八十八 小林鉄次郎 歌舞伎 戦国 137 歌舞伎画 明治20年2月18日 豊原国周筆 荒川八十八 小林鉄治郎 歌舞伎 安土桃山
146 歌舞伎画 歌舞伎 源平
・上記の錦絵は全て窪貞亮家資料(所在地:稲城市東長沼)
・本表は「奚疑塾と窪全亮 稲城市教育委員会文化財調査報告書第23集」pp.94-104のうち、資料一覧に時代区分を分類し、
一部を削除して作成した。番号は出典資料の資料番号に依る。
本表の錦絵を描かれている時代別に区分し整理すると、主に次の五つに分類することができ る。
①源平合戦24点(うち歌舞伎2点含む)
②戦国時代10点(うち歌舞伎6点含む)
③安土桃山時代8点(うち歌舞伎1点含む)
④年代をまたがる錦絵(江戸時代の歴代将軍1点、平安〜戦国の武士1点、歴代天皇1点)
⑤その他(平安歌人1点(歌舞伎1点)、鎌倉1点、南北朝2点、神話1点、不明2点)
「源平盛衰記」13点を含む源平合戦に関する錦絵(①)は24点もあり、点数の多さが目立って いる。その内容は「源平盛衰記 七」(明治18年7月2日、楊州周延筆作、橋本直義画工)にお ける「一ノ谷の合戦」や、「源平盛衰記 十」(明治18年7月2日、楊洲周延筆作、橋本直義画工)
の「屋島の合戦」のような歴史的事象を描いたもの、「大日本名将鑑 平相国清盛(年作者不明、
月岡米二郎 芳年画工)」のように、特定の人物を紹介するものが中心である。事象と人物の二 つの側面から学ぶことができる錦絵があることがわかる。
錦絵の一部には、文章により解説をつけられているものもある。例えば、「源平盛衰記 七」
には「一ノ谷の戦ひに平軍よく防ぎし故いつはつべきともみえず義経考□(:□は判読不能な文 字)ふるに鵯ごえは険阻を頼みて必ず守りの兵なかるべしとて是より兵を分ち自から真光に進み 山に分け登り見るにきヽしに勝る険阻なり され義経ことヽもせず逆落しに攻め入りける(後 略)29)」と書かれており、絵と解説で歴史的事象を知ることのできるような形になっている。
次いで戦国時代(②)の10点・安土桃山時代(③)の7点も数が多い。これらにも源平合戦と 同様に事象と人物に関する錦絵があることがわかる。歴史事象のイメージをわかりやすくする意 義があると考えられる。
視聴覚教育の観点からとらえると、④と区分をした時代をまたがって描かれている錦絵にも注 目したい。ここには「大日本武将鑑」(明治16年、□雪豊宣画作、歌川金太郎画工)、「将軍 徳 川家累代録 上巻(明治12年6月12日、楊州周延筆作、橋本直義画工)」、「拝神貴皇鏡」(明治11
年12月、楊州周延作、橋本直義画工)の3点が該当する。これらの時代をまたがって描いた錦絵 は一つの時代の一つの事件が描かれたものでなく、テーマに従って歴史上の人物を描いている錦 絵である。複数の時代の人物を一枚に描いた作品であり、通した形で歴史を見渡せるようになっ ている錦絵であることに意義があると思われる。他にも、多くの人物を描いているものには、在 原業平や小野小町等のさまざまな平安歌人を描いた「歌舞伎画」(明治13年3月13日、梅堂国政 筆作、竹内栄久画工)も挙げることができよう。
歴史を取り扱った錦絵では、時代毎の枚数にばらつきはあるものの、平安時代から江戸に至る まで錦絵で視覚的にみることができることを確認できた。特に複数の時代にまたがった錦絵は一 覧で歴史をとらえることができるという意味で、歴史を学ぶ上でも価値があるものであると考え られる。
(2)時局・ニュースに関する錦絵
次に取り上げるのが、塾の活動期と同時代に関する時局に関するニュースなどの、錦絵を取り 扱った錦絵である。その錦絵を以下に掲載する。
この一覧をみると、時局における出来事を扱った錦絵には二つの特徴があることがわかる。
第一の特徴は、東京都心部の様子を描いた錦絵が非常に多いことである。例えば、「上野公園」
(明治14年1月、梅寿国利幸作、山村清□画工)や「大日本東京名所之内浅草金龍山境内従隅田 川遠景図」(明治14年6月23日、梅寿国利作、画工兼版元小児弥七)などが該当するが、いずれ も東京の様子がわかるものであり、稲城で学びながら東京中心部の様子を知ることができるもの である。皇室関係に分類されている「上野不忍共同競馬会社開業式之図」(明治□年10月24日、
楊州周延筆作、橋本直義画工)に類する絵のような事象を描いたものからも、当時の東京の地理 を知ることができると考えられる。
第二の特徴に数えられるのが、文明開化に関する錦絵である。新橋駅を描いた「東京府下名所 尽(新橋ステーション)」(年月日、作、画工不明)や「横浜鉄道蒸気出車之図」(年月日、画工不明、
梅堂国政筆)の鉄道に関するものや、「大日本帝国国会仮議事堂之図」(明治21年2月1日、探景 筆、山田金三郎画工)や「枢密院会議之図」(明治21年10月、楊洲周延筆、画工不明)などの明 治新政権下における政治の姿を描いたものなどがある。
奚疑塾は明治中期〜大正始めに開かれており、主に明治中後期が活動の中心だった私塾であ る。江戸から時代が変わり、時代が移り変わってきた時期に塾生達は学んでいたが、奚疑塾に集 められていた錦絵は、駅や街の様子など新たな時代を示す文明開化の様子は視覚的に伝えること ができるものである。さらに、普通の生活においてみることのできない出来事を描いた国会の議 場や枢密院会議などの錦絵は、新しい時代の政治のあり方を知る役割はもちろんのこと、普段み ることのできない場所や出来事を具体的なイメージをもってみることができるため、視聴覚教材 として意義があるものであるといえよう。
本節においては、視聴覚教育の観点から奚疑塾に集められていた錦絵を対象に内容をとりあげ た。奚疑塾の錦絵の内容は、歴史分野に関するものが特に多く、さらに同時代の社会に関するも のも多数含まれることがわかった。歴史分野の錦絵に関しては、特定の時代を描いたものだけで
表4 奚疑塾所蔵時局等主題の錦絵一覧
番号 表 題 日 付 作 者 画 工 版 元 分 類
77 (上野公園) 明治14年1月 梅寿国利幸 山村清□ 倉田太助 ニュース
78 大日本東京名所之内浅草金龍山境内従隅田川遠景図 明治14年6月23日 梅寿国利 画工兼版元
小児弥七 ニュース
79 新版鉄道馬車往復 明治15年9月 内藤 ニュース
80 世界第一チャリ子大曲馬ノ団 明治19年9月3日 楊洲周延筆 大倉四郎兵衛 ニュース 81 世界第一チャリ子大曲馬ノ図 明治19年9月3日 楊洲周延 画工兼出版人
大倉四郎兵衛 ニュース
82 磐梯山噴火之図 明治21年7月25日 土佐光画 森本順三郎 ニュース 83 上野公園気球技芸双六 明治23年12月 永嶋暮暁画 佐々木豊吉 ニュース 84 東京府下名所尽 (新橋ステーション) 辻岡屋亀吉板 ニュース 85 横浜鉄道蒸気出車之図 梅堂国政筆 板本□□(破損) ニュース 147 明治小史年間紀事 明治9年12月5日 応需芳年筆 大倉孫兵衛 皇室関係 148 錦町華族学校学習院開業式図 明治10年10月20日御届 応需国明筆 蜂須賀国明 長谷川忠兵衛 皇室関係 149 春色和歌之宴会 明治11年 応需桜斉房種筆 村井静馬 福田熊次郎 皇室関係 150 大日本国産之内養蚕天覧之図 明治11年 雄斉国利筆 山村清助 井上茂兵衛 皇室関係 151 蓬来千代島台 明治13年9月8日 楊州周延筆 橋本直義 犬塚喜三郎 皇室関係 152 芝公園地丸山御遊覧之図 明治13年9月8日 蜂須賀国明 蜂須賀国明 山本与市 皇室関係 153 上野不忍大競馬之図 明治18年4月 □一□治□ 瀬尾文二郎
彫工藤 石島八重 皇室関係 154 新年御拝賀之図 明治20年 石斉国保画 瀬尾文治郎 横山良八 皇室関係 155 上野不忍共同競馬会社開業式之図 明治□年10月24日 楊州周延筆 橋本直義 大倉孫兵衛 皇室関係 161 観兵式御幸之図 明治19年2月19日 石州国保画 瀬尾文治郎 長谷川常次郎 政治関係 162 観兵式御幸図 明治20年1月 石斉国保画 瀬尾文二郎 石島八□ 政治関係 163 大日本帝国国会仮議事堂之図 明治21年2月1日 探景筆 山田金三郎 児玉又七 政治関係 164 枢密院会議之図 明治21年10月 楊洲周延筆 横山良八 政治関係 165 国会議場之図 明治22年4月 東州勝月 小林鉄次郎 政治関係
166 陸海軍大演習之図 明治23年3月 印刷兼発行者
小森宗次郎 政治関係
・上記の錦絵は全て窪貞亮家資料(所在地:稲城市東長沼)
・本表は「奚疑塾と窪全亮 稲城市教育委員会文化財調査報告書第23集」pp.94-104のうち、時局等を主題にした一部を抜粋 して作成した。番号は出典資料の資料番号に依る。
なく通史をみることができるような錦絵を複数点みることができた。視覚的に日本の歴史をイ メージできるものがあることがわかった。同時代の社会に関する錦絵は、地理的にみづらいもの を間接的にみることができるだけではなく、普通の生活の中ではみられないものを、錦絵を通し てみることが可能になるものが含まれていることがわかった。
まとめ
本研究では、明治末から大正にかけて開かれていた一私塾に所蔵されていた錦絵を対象に、明 治時代の錦絵に関する資料群を題材に分析を行い、錦絵のもつ視聴覚教育メディアとしての意義 を研究した。
1.では、明治時代の錦絵に関してその概要を把握し、さらに錦絵を対象とした先行研究の到 達点と限界を取り上げた。錦絵は明治期には衰退期とされるが、技術的には円熟していたことや、
庶民に人気の高いメディアであり興味を集める力があったことを確認した。その一つの例には、
新聞錦絵のような形で報道と結びついて使われていた形態があったこともわかった。明治期の錦 絵に関する先行研究では、錦絵が情報を伝えるメディアの機能を果たしてきたことや、人気の高 さから、教育に使われていたことなどが明らかにされている。一方で、教育的意図を必ずしも目 的に作られていない一般的な錦絵に対する視聴覚教育の視点からの分析はこれまでなかったこと もわかった。
2.では今回の調査で発見された錦絵が所蔵されていた奚疑塾の教育の状況や教育方法や内容 などを取り上げた。三多摩地域の教育機会の拡大に寄与していた奚疑塾は、その教育内容をみる と、教養を重視した基礎教育を行っていたことがわかった。中でも歴史に関する教育は徹底的に 教えられていたことがわかり、塾生はさまざまな方法で学んでいたことがわかった。
3.では奚疑塾所蔵の錦絵に関する資料を対象に分析を実施した。主な研究方法は、分野ごと の収録点数を整理しながら奚疑塾の錦絵の傾向をとらえることによって、錦絵の教育的価値をみ たい。奚疑塾の錦絵は、歴史に関するものやニュースに関する錦絵の点数が多く収集されており、
教育的な意図を持って集められていた事を推し測ることができた。国立歴史民俗博物館との比較 の観点からも、奚疑塾の錦絵は一般的に人気のあった画題ではなく、特定分野に偏ったものが多 いこともわかった。
4.では、奚疑塾の錦絵の内容に焦点をあて、視聴覚教育の観点からどのような価値があった のかを分析した。歴史が描かれた錦絵では各時代のものと通史的に概観できるようなものが双方 あり、視覚的に習得をサポートすることができる錦絵となっていることや、塾での教科書の主題 が錦絵されているものも所蔵されているがわかった。さらに、同時代の事件や世相などを描いた 錦絵は、普段ではみることが難しい出来事を主題にしたものが収集されていることも判明した。
これらの錦絵はいずれも視覚的な側面から学習を支えることが可能なものであると推測すること ができた。
以上により、本研究で取り扱った奚疑塾の錦絵は、一般的な錦絵の主題傾向とは異なり、教育 的な意図を持って集められたものであったこと、なおかつ歴史に関する事柄や文明開化などの内 容を視覚的に知ることのできる視聴覚教材の役割を果たせるものであることがわかった。これら の奚疑塾に集められた錦絵の資料群は、視覚によって新たな知識を得られる可能性を広げられる 重要な意義があると考えられる。
しかし、本研究で分析した奚疑塾の錦絵の使用方法の解明は、課題に残っている。錦絵と塾教 科書との相関などは認められるものの、具体的にどのような方法で使われていたか、それらが塾 生に与えた影響などの分析に関しては、今後の課題としたい。
注
1)ニュースパーク(日本新聞博物館)企画・編集・発行『企画展 明治のメディア師たち−新聞錦 絵の世界』2001年。
2)拙著「明治期視聴覚教育メディアの基礎的研究」(早稲田大学自己教育研究会編『自己教育へのま なざし』成文堂)、2010年。
3)これらの錦絵の資料は、稲城・窪貞亮家資料による。
4)稲城市教育部生涯学習課編「奚疑塾と窪全亮 稲城市教育委員会文化財調査報告書第23集」稲城 市教育委員会、2010年3月。
5)浅野秀剛『錦絵を読む』、山川出版社、2002年、
pp.
3-
6。6)山口桂三郎『浮世絵の歴史』三一書房、1995年、
p.
235。7)高橋克彦『新聞錦絵の世界』角川書店、1992、
p.
32。8)開催期間:2009年2月24日(火)〜5月6日(水)。於:国立歴史民俗博物館。国立歴史民俗博物 館編集『企画展示 錦絵はいかにつくられたか』(財)歴史民俗博物館振興会、2009年2月。
9)小林忠『江戸浮世絵を読む』ちくま新書、2002年、
p.
105。10)奈倉哲三「戊辰戦争諷刺錦絵の世界史的位置−国民国家草創期における民衆思想」(<跡見学園女 子大学文学部紀要>(40))、2007年。
11)同前、
p.
1。12)本田康雄「報知から雑報へ:明治初期の新聞記事」(<学校法人佐藤栄学園埼玉短期大学研究紀 要>13、埼玉短期大学)、2004年。
13)同前、
p.
160。14)岡野素子「明治期歌川派と教育錦絵−≪文部省發行錦繪≫を中心に」(<芸術学研究>8号、筑波 大学大学院人間総合科学研究科)、2004年。
15)古屋貴子「明治初期の視覚教育メディアに関する考察−教育史における文部省発行教育用絵図の 位置づけをめぐって−」(<生涯学習・社会教育研究>第31号)、2006年。
16)古屋貴子「明治初期における視覚教育メディア政策の思想的背景に関する考察」(<東京大学大学 院教育学研究科紀要>46、2007年、
p.
319。17)「奚疑塾同窓会名簿一覧」、1910年。
18)窪全亮先生頌徳碑建立委員会『窪全亮先生と奚疑塾』付図、1986年。
19)奚疑塾の同窓生に関しては、拙著「近代の私塾における同窓生の研究−奚疑塾を対象として」
(<早稲田大学大学院教育学研究科紀要別冊>(18
-
2)、2010年において詳細な分析を行っている。20)「奚疑学舎教則」1882年。
21)「奚疑学舎教則」1882年。
22)清水九一「国史略問答筆記」(ノート)、(清水義夫家史料)。
23)「奚疑塾と窪全亮 稲城市教育委員会文化財調査報告書第23集」(前掲、
p.
55)における点数の分 類では、風俗が30点となっているが、ここでは比較対象の必要から、風俗のうち、美人画に関す るもの10点を別の分類にし、「風俗20点、美人画10点」とさらに細かい分類を施した。24)国立歴史民俗博物館、「錦絵データベースの検索」(2012年1月29日アクセス)。
http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/nisikie/db_param
25)「奚疑学舎教則」1882年。26)「奚疑学舎教則」1882年。
27)「奚疑塾教課定則」、年不明。
28)「教則」(「奚疑学舎教則」1882年)。
29)「源平盛衰記七」(錦絵)、楊州周延筆、橋本直義画工、明治18年7月2日。(窪貞亮家資料)
本研究に関わる奚疑塾調査において渡辺賢二氏、澤久枝氏、高木雅子氏、小谷田政夫氏には多 くの示唆を頂いた。付して感謝申しあげる。