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三澤勝衛の風土学をベースに教育・産業から地域づ くりに関する一考察

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三澤勝衛の風土学をベースに教育・産業から地域づ くりに関する一考察

著者 井上 弘司

雑誌名 同志社政策研究

号 4

ページ 230‑244

発行年 2010‑03‑08

権利 同志社大学政策学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012117

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三澤勝衛の風土学をベースに

教育・産業からの地域づくりに関する一考察

 しんきん南信州地域研究所主席研究員 

井上 弘司 Hiroshi Inoue

 本考察は2009(平成21)年5月に、同志社大学井口貢ゼミの教育GP事前講義と して「三澤勝衛の風土学とローカリゼーション」と題し、講義した一部に加筆した 内容である。地理学者で教育者であった三澤勝衛(1885-1937)が主張した教育理 念や 「風土産業」 を基底に、日本の教育と飯田市の産業からその姿を明らかにし、

過疎高齢化する中山間地域のあり方を考察し提案する。

 1では、三澤勝衛の新地理教育論から教育のあり方を探る。

 2では、長野県飯田市の産業の歴史から「風土産業」を読み解く。

 3では、風土を最大限活かした飯田型ツーリズムから風土産業を解題する。

 4では、1から3から論点を整理し、地域再生のあり方を提案する。

1.三澤勝衛の新地理教育論をベースに 1.1 三澤勝衛の教育理念

 長野県は教育県と言われるが「信州教育の水脈」によると、1875(明治8)年前 後に初代筑摩県令の永山盛輝が学校の設立や就学率向上に全力を注ぎ、能勢栄、浅 岡一といった師範学校初期の校長が礎を築き、大正期に「信濃教育」(信州教育)

が開花したとされ、三澤が松本商業中学(現松商学園高校)から諏訪中学(現諏訪 清陵高校)に招かれ、1920 (大正9) 年から1937 (昭和12) 年まで教壇に立った時期 と重なる。

 信州教育の水脈の中で三澤は異端者とされているが、その教育姿勢は次のエピ ソードとして残っている。松商時代、授業の直前まで徹底的に教材研究を重ね、始 業の鐘とともに教室に駆け込む。その両手には大八車に積むほどの学術資料を抱え 込んでいたため 「大八車」 とニックネームがついた。

 この教育姿勢は次の記述から理解できる。「一つの教材を取り扱うにも、その教 材に対する教育者自身の深い感銘がいる。湧きるほどの熱意、強い驚異と大きな歓 喜があって、初めて被教育者に求めることができる」と論じ、にわか勉強で教えて はいけない、事前に教材研究をしないものは教育者として失格と言わんばかりで、

教育者が受動的すぎると論じ「時間的余裕のきわめて少ない方々もいるだろうが、

急がば回れで対象を凝視すべき」と主張した。諏訪中学時代にも黒板を書き写し、

講義録をノートにとると 「俺のしゃべったことを書いて何になる。自分の頭でよく

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231 考えろ」 と一喝した。

 「教育というものは教えるのではなく学ばせるもの。背負って川を渡るのではな く、手を曳いて川を渡らせるのである。要は魂と魂との接触でなくてはならない。

すなわち魂に触れ得る教育でなくてはならない」と論じた。“学校とは考えるとこ ろである”これが三澤の教育理念であった。

1.2 信州教育のアウトサイダー三澤勝衛と本道を歩んだ藤本三郎

 三澤勝衛がアウトサイダーとの対称として、信濃教育界の本道を歩み、長野県教 育委員会委員長を長く勤めた飯田市出身の藤本三郎(1957-)を取り上げる。

 藤本の教育理念は、飯田市伊賀良の「学びの風土」から生まれたと言っても過言 ではない。大正・昭和に起きた小学校統合に対し、自分たちで学校を建設し存続さ せる運動を起こした地域の教育熱、もっと言えば次世代の教育は村のアイデンティ ティを守ることとした先人の魂であろうと想像できる。こうした 「地域の教育力」

= 「風土の地域力」 があったからこそ、県を網羅し越えていく人材が県南から輩出 されたと推察する。

 藤本は教育委員長時代に「知・情・意の調和の取れた人間教育」という全人教育

(全人間教育あるいは人格教育)を信州教育の伝統の神髄ととらえていた。

 1988 (昭和63) 年に提示した所見「本県教育の五つの課題」における 「学校が児 童生徒に人間としての生き方を教える場であることの実践」 などは、三澤が 「記憶 力でなく深い考えを持つ人間を創る」 とした理念にリンクするものである。当時、

県議会において他県より大学入試の成績が芳しくないことに対して藤本は頑とし て、大学入試成績だけに偏重せず人間教育そのものの底上げをしたいと答弁してい るが、現在の教育の荒廃を鑑みたとき、藤本の答弁は的確であったと理解できる。

 1992 (平成4) 年の県議会で、二十一世紀に向けての教育哲学について質問され たとき、「自ら考え、主体的に判断し、行動できる資質や能力を育成する。すなわ ち偏差値教育から個性尊重の教育への移行」「生涯学習体系への移行」「情報化・科 学技術進歩・国際化などの社会変化への対応」という三つの柱を示し、共通して大 切なことは、人間らしい豊かな感性と社会の変化に対応して現在及び将来を主体的 に生きていくことのできる資質と能力、それを支える基礎学習、あるいは思考力や 創造性の伸長と国際社会に貢献できる力を持った日本人の育成」と答えた。

 ほぼ同様の見地を持ちながら三澤は異端と言われ、信州教育の中であまり語られ ない。三澤と藤本の違いは何であろう。どうやらこのあたりは三澤個人に当てはま らないようだ。無知な著者は学校で、島崎藤村の 「破戒」 のモデル大江磯吉や上野 動物園や国立国会図書館創設に尽力し 「博物館の父」 と呼ばれる田中芳男が飯田出 身であることさえ知らず、当然ながら三澤勝衛は名前すら聞いたことがなかった。

 三澤の逸話から、いかにも信濃教育界の異端児と想像できるが、列挙した飯田の 人物を取り上げる教師=地元教育をする教師が、いなかったという事実にぶつかる からである。

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 戦後教育は捨ててはならない大事なものを捨て、いつしか金の価値観で語られる 教育となってしまった。

1.3 体験なきところに理解はない ―郷土地理教育論から―

 三澤は郷土地理教育論で「非常時を前に日本精神の勃興(愛国心)は大切だが、

まずは自分が日々暮らしている場で郷土人(地域の人) の手を借りて、地域の自然 や人間の営みを探求する体験を施さなければいけない。ただ体験させるのではなく、

教師がその地域の風土性を意識しつつ体験させることだ」と論じている。

 昨今は国を挙げて 「愛国心の発揚」 とか 「体験活動の重視」 などと旗を振るが、

重要なのは郷土教育を地域住民と連携した開かれた教育で、ふるさとへの愛着心や 誇りを持たせることにより、次世代が地域で暮らし持続していくベースを創ること である。

 教師の体験が少ないことは誠に遺憾と当時嘆いていたそうであるが、教師の体験 不足の現状は平成に入って深刻となっており、子どもの体験不足を論じる前に、教 師や大人の体験不足を解消することが先決である。特に農村における体験活動や食 育の現場で、教師の常識を逸脱した言動や行動が顕れることが多いし、経験不足に よる安全面に配慮できない危機管理不足が現場での重大事故となって顕れている。

 例えば、野外活動では机でできない体験や気づきを発現させなければならない が、遠足でよそ見をせず並んで歩こうという指導しかできない。学校内での家畜飼 育では、動物の生態も分からずペット程度の扱いか虐待に近いことを指導(指導し ていない場合が多い)し、ペットと家畜の区別が付かない教師は、生産現場で 「か わいそう残酷!」 の一言で、農家の気持ちを削いでしまう。家畜の役目を理解せず、

「この食べ物は農家の方が一生懸命に作ってくれたものだから残さず食べましょう」

と学校の給食指導は不遜である。

 2008(平成21年)年度からスタートした三省連携(総務省・文部科学省・農林水 産省)の「子ども農山漁村交流プロジェクト」は小学校児童に対象に、農村で生き る力を付けようとしたもので、次の教育効果を期待している。

1. 学ぶ意欲や自立心を育む-豊かな自然の中での体験により、子どもの好奇心や 学ぶ意欲を増進し「生きる力」を育む。

2. 食の大切さを学ぶ-生産・収穫ほか様々な体験活動により、食べ物の大切さや 自然環境を理解し、命を育む農山漁村を理解する。

3. 思いやりの心や豊かな人間性社会性などを育む-学校生活では見えない一面 を、仲間との長期宿泊体験を通じて互いに知る機会となる。また共同作業によ り、思いやりの心や豊かな人間性社会性などが育まれる。

4. 社会規範や生活技術が身に付く-農林漁家での民泊や見ず知らずの地域住民と の交流により、子どもたちのコミュニケーション力を高める。

 三澤は 「被教育者の真の生活そのものを無視した教育、生活に理解無き教育は生 命のない教育であり、したがって力のない教育である」 と断じた。

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233  実学の地域の教育力を活かした真の体験をどう演出するか、学校と地域が協働で

きる環境を早急に整備すべきである。地域の将来は、子どもたちに限らず老若男女 すべてに波及する「学びの風土づくり」に掛かっている。

 

2.「風土学」と「風土産業」からみる南信州地域 2.1 農商工連携は風土産業

 昭和初期の世界大恐慌による地方経済の破綻状況を打破するため政府が打ち出し た「農村経済更正運動」は、国主導で地方に強いリーダーをつくることを主眼とし た。これは大陸への野望を抱く中で、生産現場を強固にする必要に迫られてのこと であり結果として、第二次世界大戦へ突入していくが、このとき三澤は 「今日、地 方の疲弊は相当深刻である。地方の持つ文化が、その地方の風土性に立脚すること を忘れて、いたずらにいわゆる都市文化を追従してきた結果であり、地方性に即し た文化の建設ということが、もっとも正しい地方振興の意義」 と、国策的な農村工 業導入に対し「自然力更正」の旗を敢然と掲げ、風土に生き風土を築いてきた地域 民による「風土産業」を説いた。

 南信州には22種の地場産業があり、さながら工場の見本市といったところである。

江戸時代に飯田藩主が奨励した元もとゆい結、水引、飯田椀、紬、凍し み ど う ふ豆腐などの在来工業が、

今日まで引き続き生産されていることに加え、それらの技術を基礎として多様な製 造業が興った。しかも地場産業が製造業全体に占める割合が3割で、従業員数や出 荷額においても大きな地域貢献している。現在で言う「農商工連携」が根付いてい ることの顕れと言って良い。

 1933 (昭和8) 年に 「信濃講座地理学講習」 で松尾村を訪れた三澤は、水引と凍 豆腐の工場を視察後「ここで水引・凍豆腐工業が農閑期の副業として経営されてい るのは、地域の風土が特に適しているのではなく、原料供給地と中心市場の飯田と の中間に位置するため、昔から加工業を行う習慣が生じ、農閑期に遊んで暮らすべ きでなく何らかの仕事をしなければならないとの気風が伝わった。そのため製紙業 が衰退していくと新しく水引や凍豆腐を興した。ゆえにこれらが駄目になれば新た な産業がここに興る」と語った。三澤の鋭い目は、村の立地状況や気風を腑分けし 住民の前に提示したが、これは三澤の予言となった。

 飯田の製造精密などの近代工業化の足がかりとして製糸工業がある。飯田地方の 養蚕は1591 (天正19) 年に豊臣秀吉による検地で桑園の記録が残り、さらに遡ると 南北朝の醍醐天皇の子宗良親王が養蚕の歌を残しており、当地に糸取りが根付いた 時代は定かではない。

 「養蚕立国論」 が叫ばれた明治から大正期の製糸業は、日本を牽引する輸出の基 幹産業であった。この時代をリードしてきた地域が群馬県と長野県で、中でも飯田 下伊那は県内のリーディング地域として、養蚕から製糸、飯田紬といった染織りが 発達していった。

 その後人絹の発明やグローバル化の狭間に製糸業は消えるが、ここに「人と技術」

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が残った。水引や製糸業での糸を巻く技術が、モーターコイルを巻くという新たな 産業興しの基礎となったのである。かつて製紙工場が軒を連ねた松尾や竜丘地区へ、

多摩川精機やオムロンを始めとするモーター製造の工業が立地し飯田の近代工業の 下支えとなった。

 「新たな産業がここに興る」 との三澤の予言は、地元風土を凝視した成果である。

2.2 風土産業は農工商連携 ―ジャパンブランドへ進化する飯田水引―

 飯田市松尾(旧松尾村)で三澤は、飯田市千代(千代村)で紙の原料である「コウゾ・

ミツマタ」 を採取し、段丘下の良い水が出る松尾で製紙し、それを飯田の中心市街 地で売る。山村と都市近郊農村から工場そして商業へつながる、それぞれの地域特 性を活かした風土産業の事例と、三澤が説いた頃は水引産業の最盛期であった。今 で言う 「農工商連携」 の具体手法として成立していた 「水引産業」 を捉え、講演で 引用したのである。

 飯田下伊那は起伏に富んだ中山間地域で、平地が少なく米作がままならない地区 も多く、江戸時代の年貢は「くれ木」「干し柿」「和紙」 などがあった。なかでも紙 すきと干し柿は、農家の冬仕事として重要な経済活動であった。

 飯田下伊那地方における紙は、奈良期に朝廷に納められていたとの記録がある。

特に島田紙と言われた「飯田和紙」は丈夫で、火事の際、持ち出し困難な場合、井 戸へ投げ入れ、鎮火後に井戸から引き上げ乾かせば元に戻ったため、戦国時代でも 重宝された。

 新たな製紙業と水引産業は松尾毛賀村の村人が飯田の「さらし紙」の始祖である 稲垣幸八を1677 (延宝5)年に美濃から招聘し「さらし紙」の技術を学び、薄くき れいな紙を開発したときから始まる。そして名古屋から飯田紙の評判に目を付けた 桜井文七が、幸八の開発した「さらし紙」を買い付けに訪れ、そのまま現在の松尾 に居住しながら、江戸へ打って出たのである。当時の髪結いに必需品であった元結 は、文七が江戸に持ち込みヒット商品「文七元結い」となった。

 地方から江戸に出て大成功を収めた桜井文七と紀伊国屋文左衛門は、出世物語と して講談や浪花節になったのである。今も大相撲の力士の髷を結う「元結」が飯田 産である理由はこうした経緯があるわけである。

 その元結が現在の飯田水引である。水引とは「こより」に糊をつけ、それを乾か して固めたもので、のし袋に紅白の紙ヒモがそれである。金銀や他の色をつけた水 引は金封や結納品として重宝され全国シェア70%を占める工芸品に高まっていく が、その水引も結納の簡素化などの社会変化により衰退し、現在は伝統工芸になっ ていった。

 そこで水引産業が今後生き残っていくために、飯田水引組合は長野オリンピック で、優勝者の月桂冠として水引をアレンジした作品を提供。現在は東京オリンピッ クの誘致に協力して水引の誘致グッズを作成しPRに努めている。また、飯田水引 アートのジャパンブランドとして海外展開や国内におけるブランドイメージの再構

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235 築を図っている。その一例はニューヨークでの展示会や世田谷ものづくり大学での

講習会、美術館の展示会などでイメージチェンジを図りつつ新たなニーズの発掘に 力を入れている。

2.3 地域主体の農村経済更正運動とした三穂村 ―飯田市三穂―

 第一次世界大戦後、村内農家のほとんどが養蚕主体の農業であった。当時の米国 女性たちの脚を美しく見せる絹のストッキングが大流行。生糸価格が高騰したス トッキング・バブルで、三澤が「さながら桑園の氾濫現象」と表現したように、当 時は水田さえ桑園に転換し米国への絹糸輸出が活況を制していた。

 そこに米国ウォール街を発端とする昭和大恐慌がやってきた。繭価は一気に10分 の1に落ち込む大暴落で、当時の村の経常予算額が33,000円であるのに対し、農家 の負債合計は470,000円と膨大な赤字を抱えてしまった。

 農村恐慌から再建するため全国的に農村経済更正運動が取り組まれる中、三穂村 は 「禁酒村」 との呼称の所以となる 「三ヵ年間酒精分の飲用を禁止すること」 を運 動のスローガンとして掲げ、①簿記記帳を正確にし、収支を明瞭にし、経営改善の 基礎とする。②多角型農業とし、食糧・肥料は自給自足を図る。③隣保相助の観念 を助長し、協同的に経営養護を図る。④共同購入、共同販売により現金売買主義を 取る。⑤負債整理は本人の自奮自励と農業、並びに生活改善により生じる財源で計 画を立てる。⑥負債金額過大の者は実行組合が整理案を立て、債権者と協調の労を とり円満解決を図る等の取り決め行い3ヵ年計画で実施したところ、1932(昭和7)

年には負債を完済し解決をみた。

 この計画は借金返済後も村が自立する道として、第2期の計画策定と実践を行っ ていくが、当時の文献を見ると本計画は、住民自らの声を拾い上げる現在のワーク ショップ手法で詳細計画が練り上げられ、かつ現在の「食料・農業・農村基本計画」

に匹敵する内容で、しかも地元の風土性に根ざした「適地適業主義」であったこと が読み取れる。類推すれば当時の村民は、三澤の主張を聞いて計画を立案していた のではないかと思料する。

3.新たな風土産業としてのニューツーリズム 3.1 資源消費型観光からニューツーリズムへ

 バブル崩壊後の失われた10年の間に国民ニーズが単一性から多様性、集団から個 の重視へと変化したことを受けて著名観光地の空洞化・衰退していくが、これは生 活変化のみで既存観光地が冷え込んだのではなく、大量集客による資源疲労を起こ したと考えるべきである。マスツーリズムは地域資源を切売りする大量生産・消費 時代の資源消費型観光であり、地域資源が有限であるという意識が欠けていた。資 源を金に換えることは、その資源は消費されることであり資源が減ずることになる。

減っていく地域資源は魅力をどんどん失い、魅力を失った資源に観光客が訪れるこ とがなくなったのである。

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 バブル崩壊以後は第2期観光成熟期と言われるが、国内旅行ニーズは「地域に誇 りを持ち、地域の豊かな文化や景観、生活風土を守り、生活をしている場」が新た な観光地として求められだした。グリーンツーリズムやエコツーリズム、産業観光 など、いわゆるニューツーリズムと総称されるものの胎動である。

 この「ニュー」と呼称するものには、①顧客起点-顧客価値のニューを充たす、

②新資源-地域の未活用資源を活かす、③編集方針のニュー-資源の編集方針と物 語化、④新ビジネスモデル-地域ビジネスモデルの創造、⑤地域主導型-地域主導 のプロモーションという5つの共通要素がありグリーンツーリズムは、これらの ニーズを先取りし都市住民を農業・農村の救世主としようとしたものであった。

 黎明期の1991 (平成3) 年頃は、都市目線の田舎奉仕型ツーリズムと捉えられる が、小泉内閣時代に地域政策が地域平等から地域間格差容認となったことで、生き 残りを賭けた地域間競争の時代に突入し、そうした社会変化からツーリズムも地域 それぞれで咀嚼され、地域課題に基づいた独自の姿を見せ始めた。それは都道府県 あるいは市町村の力量や地域特性の違いもあるが、経済活動を主たるものとする従 来の 「ビジネス型」 と、暮らしを立て直す 「定住型」 に大きく二極化するなど多種 多様な展開となっている。

 また、農林水産省が推進した多数の「体験や癒し」といったキャッチフレーズの ハード施設は、赤字垂れ流し施設となり閉鎖に追い込まれるものも顕在してきてお り、これらが地方財政の逼迫に一役買っている。

3.2 風土産業としてのツーリズムの効果 ―南信州の事例から―

 三澤が説いた風土産業では、微気象や微生態を捉え適地適業を訴えているが、ツー リズムも同様に地域特性、つまり風土こそ最大の武器となる。

 風土ツーリズムで定義する風土とは、自然・文化・生活といったその地域が元々 有している風土である。当然ながらその中にはツーリズムを担う人がいる。この風 土ツーリズムによる地域振興効果をどのように捉えることが良いか。地域経済への 波及効果は大事な点であるが,殊更、それだけを切り取ることは問題となる。

 ツーリズムが地域に果たす役割は、地域の暮らしや産業・環境・食育、そして人 材の確保とあらゆる面において波及効果を促すもので、地域が自立するための突破 口となるものである。農業という生産基盤が無いところでグリーンツーリズムはす るべきでない。さらに暮らしがないところで行うツーリズムは 「ほんもの」でなく 地域の自立には貢献しない。

 飯田の基本戦略は第1に地域の自然・歴史文化・暮らしを保全し向上させる。第 2に外貨を稼ぎ雇用を創出することで地域の自立を促す。第3に地域自体のブラン ド化を図る感動産業の推進により農産物・地場産品の販売増加と人材の誘致を図る とした。

 故に飯田では当初より地域振興・地域経営との視点で活動を開始しており、経済 効果のみを狙っていないものの本地域のツーリズム年間直接消費額は約3億円規模

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237 で、マクロ的に見れば地域の大きな外貨獲得の機会となっている。

 ではミクロ的に農家一戸当たりのツーリズム収入はどうなっているか。

 年間一度だけしか受け入れない農家を含めて、年平均収入は10万円程度であり 一家の収入源としては子どもの小遣い程度で、ツーリズム事業だけでは食べては いけないことは明白である。ところがツーリズムの担い手は、毎年増加し2008 (平

成20) 年では受入農家だけでも500戸弱の登録があり、加えて自然体験を含む他の

プログラムの市民インストラクターを入れると約2,000人が体験教育旅行に関わり、

日本一の地域に成長していることを見れば、収入だけを意識しているのではないこ とが浮き彫りとなる。

 それは本地域が展開する様々な交流事業で、最も大きな効果を上げているものは

「農家の元気を生産している」ことである。ツーリズムによる所得増で家計が豊か になったから元気になったのではなく、都市の人が農業の素晴らしさや自然の豊か さ、食のおいしさを口々に言い、高齢者の話を熱心に聞き、嬉々として農作業体験 をする姿に自身の誇りを取り戻し地域の豊かさを実感したからだ。

 交流により地域が刺激を受け、訪れた人は経験したことのない農作業を通して全 く違う視点で農村を見ることになる。この全く違う生活環境が共鳴しあい、そこか ら新しい物語が生まれ育まれていく過程が元気の素となっていると推察する。

 こうしたツーリズム・イノベーションは、農村に大きな効果を創出した。生産性 の向上や所得アップを目指した農業政策では減り続けている農村の担い手が、交流 事業を進める農家にUターンを始めていることである。これこそが大目標としてい た農家の意識改革の発現である。さらにそれらは生産性向上や地産地消アップへの うねりとなっている。

3.3 内発的持続論-ツーリズムによる地域再生

 ニューツーリズムは、地域創発のソーシャルビジネスであることや市民参加が着 実に得られていること、そして何よりも風土を活かしたものでなければ「ほんもの」

にはなり得ないことを認識することが肝要であるが、ツーリズムの現状は、いまだ に既存観光の書き換えや真似事が多数存在し玉石混合である。

 地域はそこに住み暮らす住民を中心に、公的・私的に地域へ関わるもので構成さ れている。つまり多様な主体が互いを尊重しつつ連携してこそ地域と言える。その 根幹となる地域活動は、様々な布を縫い合わせ一つの大きなデザインを創造するキ ルトのごとく、地域に暮らす一人一人の思いや行動が結集した取り組みでなければ ならず、達成させるためにツーリズムの受入手の意識改革が重要となる。

 地域資源を形作るものは、そこに住む人や環境、地域文化であり悠久の歴史が育 んできたものであり、自地域の生きてきた道を発見し、誇りを再確認し自己主張を 再構築するものである。それら様々な知恵を訪問者に伝えることで、拡がりを見せ 当地オリジナルを本物の価値として内外に認知されることになり、結果として地域 へ破格のメリットをもたらすため自地域の特性を知り、どのような資源を有してい

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るかを把握しなければならない。

 意識改革の方法として「地域資源の再発見」は有効な手段となるが、資源がある だけでは単なる自己満足で、活用しなければ朽ち果てるため資源を最大限活かすソ フトが必要となるが、地域を俯瞰できるプロデューサーの不足が致命的である。しか し何より優先すべきは住民自らが行動を起こし、自地域にうねりを興すことである。

 三澤が生涯訴え続けた「自分の目で見て自分で考える教育」こそ、子どもだけで なく大人が本当に必要な時代となっている。

 ツーリズムは、持続する地域社会を自らの手に取り戻し、地域の誇りを取り戻す 運動であり、オンリーワンの地域づくりである。次代を担う子どもたちを育て、健 康な住民と健全な地域を創造するために、産業・教育・福祉・環境他全てを網羅し た「持続型地域づくり総合戦略」を構築することである。

3.4 観光まちづくり事業体の必要性

 全国でツーリズム推進に苦慮している大きな課題は、

 1.既存の観光協会等が行政主導で未成熟  2.資源を顧客価値として評価できない  3.商品化するノウハウがない

 4.顧客ニーズ把握やマーケティング能力がない  5.プロモーションノウハウや予算がない

 6.点から面へ展開する地域プロデュース機能がない  7.効率的に資源を活かす機能がない

 8.地域コンセプトの情報発信機能が無い

という8項目で、この課題を解決しツーリズムを核にした地域振興を推進するため には、地域主体の総合窓口・地域ランドオペレーター・コーディネートを行う「観 光まちづくり事業体」の設置が不可欠となる。

 本地域のツーリズムの中核を担う㈱南信州観光公社は「体験型観光」を商品とす る日本初の着地型旅行(インバウンド)会社である。その使命は地域の様々なとこ ろに薄く広く効果を振りまく「地域振興」であり、上記の課題を解決した日本で最 初の事例といえる。

 2001 (平成13) 年1月に飯田市の呼びかけで5市村と、JAみなみ信州、信南交通 をはじめ10の地元企業・団体の出資により設立された南信州観光公社は、体験型観 光による広域地域振興を目的とした第3セクターの株式会社で、現在は下伊那18市 町村全ての出資を受けた。こうした経過から、公社は体験型観光推進のために次の コンプライアンスを有している。

1. 体験の先にあるものを踏まえた基本理念の構築。体験者も受入者も共に高まる ものでなければならない。

2. 全てを整えてからではない。先ずプロモーションにより人を連れてくることも 大事。

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239 3. 地域として譲れない一線は守る。持続的な事業とするためには全てを相手に合

わせることは疲弊を生むだけである。

4. 関わる人こそが最高の財産である。その人の誇りや自信、技術、人柄に体験者 は感動する。そうした人材の発掘とインストラクターとしての養成が大切。

5. 指導者や農家、地域コーディネーターとの「ゆるやかなつながり」の醸成と維 持発展。

6. コーディネート役は送り手、受入先双方の窓口としてその責務を全うする。地 域との「ゆるやかなつながり」の形成、旅行市場へのアピールと旅行業者との 接し方、企画力の習得と市場へのアプローチなど必要な要素は行動・実践の積 み重ねにより体得していく。近道はない。

 この理念を素に観光公社がコーディネートする体験プログラムは約200を数える が、それら体験は訪問者と地元住民のコミュニケーションを円滑にするツールとし て、体験ありきでなく心の触れあいこそが最大で唯一の体験プログラムとしている。

つまり最も重視しているのが「人格」で、ローカルの典型である世界で唯一無二の 存在こそ、すべてに優先しているのである。そのため修学旅行シーズン前になると、

高齢者たちが体中の血が騒ぎワクワクしてくると言うように、一年でもっとも輝き 元気になるシーズンとなる。

 体験型交流事業では、どこででも同じ体験ができるが、滞在先農家の人は世界で 唯一人である。この地域が大好きだ、農業は素晴らしいという人それぞれの持つ個 性と輝きが、訪問者をして「もう一度来たい。何度でも訪れたい。住みたい」とい うことになる。これが南信州地域の体験型観光の評価を高める要因となっている。

4.古くて新しい言葉「風土産業・風土生活」

4.1 集落複合経営の道-柿野沢区の射程

 南信州は室町時代から県内最大の和紙の生産地であった。中でも柿野沢区が属す る下久堅村(現飯田市下久堅)は、最も盛んな地域で江戸時代には柿渋や串柿、「久 堅和紙」が年貢として江戸へ奉納されており、1961 (昭和36)年頃までは、農閑期 の副業として農家の七割が「紙すき」を行い、傘紙や障子紙、ちり紙などを生産し ていたが、ライフスタイルの洋式化によって、徐々に紙をすく農家が減少していった。

 沢の上流域に位置する柿野沢区は、傾斜地が大半で狭い谷間をなんとか田にして きた状況で、段丘崖の急傾斜地は、竜峡・飯田小梅や桑畑として利用していたが、

昭和大恐慌での繭価格暴落を凌ぎ生き残った養蚕も、昭和50年代後半からの急激な 産業構造の変化により、二種兼業化・離農が続出し、高齢化や後継者不足という問 題が深刻化していく中で、嫌がうえでも養蚕を主体の一つとする柿野沢区に、地域 農業の見直しを迫ることとなった。

 1985(昭和60)年、飯田市農政課が推進する「集落複合経営」の理念を踏まえた「柿 野沢基本構想」の実現と、未整備の谷地田整備のため、区が主体となり「新農業構 造改善事業」で土地基盤整備や、構造改善センター建設などハード整備に着手する

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ため、建設委員会を設置したが、一方で区民の意識改革にも取り組んだ。

 「集落複合経営」とは、農家・会社員・自営業などそこに暮らす全ての人たちが、

地域にどのような課題があるか掘り起こし、皆で解決方法を考え、労力やお金を出 して解決するというもので、生産を主体とする農業振興ではなく、地域づくりを行 う農村振興に中山間地域の命運を託したのである。いかに生産基盤の整備を行って も、人がいなければ生産ができず農地は荒れるし、集落の自治機能も果たせない。

集落の祭りや行事などの文化も消えてしまう。ハード整備では補えない次世代の地 域を担うリーダー育成を図りながら、集落の合意形成を新たな地域興しに発展させ ていく仕組みが必要であったわけである。

 1985(昭和60)年、柿野沢基本構想の実践のため、愛知県足助町のむらづくりを 学ぼうと柿野沢の人たちはマイクロバスで乗り込んだときのことだった。足助屋敷 の紙すき実演を見た柿野沢の人たちは「このやりかたでは、紙が腐るのでは」と指 摘した。すると翌年には足助町から逆に視察が来て紙すきを伝授するなど、互いの 持つ資源や技を交換する交流に発展することとなった。

 この紙すき技術を何とか次世代に残したいと、1987 (昭和62) 年に公民館の呼び かけで、使用されなくなった紙すき工具が下久堅小学校へ寄贈され、紙すきが全校 生徒による授業の一環として位置づけられ、今では小学校教室の「紙すき工房」を 活用し、小学校の1年生が、「とろろあおい」(紙すきの糊材)の種子を蒔き、6年 生まで育てていく。2年生は「こうぞ」を、3年生では循環型農業の学習として「ケ ナフ」の栽培を行っている。そして6年生になると、自分ですいた紙が卒業証書と なり、校長先生が一人ひとり毛筆で名前を書いていくのである。今では、紙すき技 術を教えるお年寄りの新たな生き甲斐にもなっているばかりでなく、下久堅地区の 文化祭では、子どもたちが地区の人たちに紙すきを教える場面も出てきており、伝 統の久堅和紙は、地域の世代をつなぐ文化に昇華した。

 ここで重要なことは行政と地域リーダー、地区住民の関係性である。著者は、

バッテリーの行政・モーターのリーダー・ガソリンエンジンの住民により、地域が 動く 「地域づくりハイブリッドカー」 と称している。バッテリーだけの電気自動車 では、どこかで充電(補助金調達)しなければならないが、ハイブリッドカーであ れば動き出せば発電しバッテリーに充電(税金として戻る)される良い仕組みにな ると考えているからだ。

 柿野沢の例をとれば、行政は集落複合経営の理念と僅かではあるが予算と職員を 集落に送り活動のきっかけを作った。そのきっかけづくりの相手はソフト事業を展 開できる地域リーダーであり、リーダーが住民との合意形成を進め、強化発展を促 すと共に、生産・加工・交流と多彩な活動が生まれ、さらに文化資源を核とした次世 代教育に発展していった。

 この取組で区民一人一人の自発的な意識を芽生えさせたことが最大の効果であ る。

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241 4.2 ローカリゼーション

 地域に残る豊かな歴史や文化は、便利な社会生活を得るために捨てて良いだろう か。あるいは、これらを単なる観光の財として、訪れる人をもてなして金という財 に変化させることが良いことだろうか。それぞれの地域個性(風土)を活かした振 興を考えることで、確実な農村振興につながり地域が本当の意味で潤い、農業自体 も国民に指示されることになるはずであり、必然的に何をどのように地域で仕掛け るかが見えてくる。

 地域が持続するためのキーワードはローカリゼーションである。アメリカンスタ ンダード=グローバリゼーションという世界市場の競争原理は、米国を震源とする 世界的な金融危機により完全に崩壊した。日本国内においても市場経済主義から急 速な地域格差や教育格差、所得格差を招いているところに金融恐慌の大嵐が襲って いる。

 地方分権や道州制導入により地域が変われるかどうかは、地域発意によるローカ リゼーション・ビジネスの創業・起業が育つかどうかにかかっている。小さくとも 継続・持続する新たな地域戦略であり、そのプロセスにおいて生み出される新たな 地域価値に伴い、地場産業の活性化と人材育成を促すことで自立する地域社会を構 築することである。

 ローカリゼーションは地域が持つ資源やコミュニティに光を与え、これらが生み 出す住民のライフスタイルから国内はもとより世界に向けて、地域特性や地域環境 をベースとした新たな経済の仕組みを作り出すことであり、地球環境や世界の食糧 事情などのグローバルと対比しつつ地域の自給率や環境負荷を減じたエコ農業、ス ローライフ、ニューツーリズムなどのローカルを学び実践することにより、自らの 地域を外部から見る目を養い、暮らしたい豊かな地域を次世代にバトンタッチして いくことが導き出される。

 地域を形作るものは、そこに住む人や環境、地域文化であり悠久の歴史を育んで きたものである。故に風土ツーリズムは自地域において総合的なアプローチから

“人・物・金を地域内循環させるシステム”を構築し展開し、それら様々な知恵を 訪問者に伝えることが本旨となる。

 ツーリズムを活用した「知恵のシェアリング」が、当地オリジナルをますます本 物の価値として内外に認知され、結果として地域へ破格のメリットをもたらすこと となる。

 

4.3 新たな言葉を紡ぎ出す

 構造的な地域経済の不振をプラス局面にするには、従来の施策の延長線ではなく、

未来に向けて新たな橋を造ることである。建設するには、調査・設計・資金繰り・

施工者の決定・建設と段取りがあるように、目標を常に共有し段階的・総合的にプ ロデュースしなければならない。行政はかつてない踏み込んだ政策を打つために、

「新たな言葉」 を紡ぎ出さなければ生き残れない時代であることを理解しなければ

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いけない。

 地域経営の先にあるものは、様々な要素が重層的に絡み合う地域の自立であり、

優先すべきは、「学びの風土」を構築し住民自らが行動を起こすことである。

 三澤は「地域振興や産業興し、生活において、それらが生き生きと展開するには、

必ず根底に[地域性の活躍]があり、[地域の偉力]が働いていなければならない」と した。

 日本中が少子高齢化のスパイラルにあることを念頭に、あらゆる方向から少子・

超高齢化社会に対応する施策を導入することが不可欠である。

 その施策の根幹は、地球環境・エネルギー・食糧・教育など全世界の課題を解き ほぐす古くて新しい言葉「風土産業・風土生活」を現代に紡ぎ出すことである。

 ツーリズムは多くの人たちと交流・学び合うことを基本に自分たちの生命を育み、

人間として生きるための環境や文化を保全し、様々な課題を解決する有効なツール である。

 ツーリズムは地域の 「人」 に着目した風土産業のひとつであり、当事者・実践者 の意識が高くなければならない。そのためにも「流行りモノ」としてツーリズムを 捉え、外貨獲得のみの戦術とすることは絶対に避けるべきである。ツーリズムは、

持続する地域社会を自らの手に取り戻し、地域の誇りを取り戻す運動でありイベン ト化してはいけない。

4.4 ソーシャルイノベーションを興す

 地域活性化は、地域個性を活かした内発的産業を興すことが重要なファクターで あるが、さらに地域の暮らしや環境保全、食育、そして人材の確保とあらゆる面に おいて波及効果を促し、地域自立を図りながら持続させ次世代に繋ぐ仕組みづくり が求められる。そのため活性化構想等では企画段階から実施に至る過程に、市民協 働のプロセスを導入し、地域経営の透明性と総合戦略の基盤づくりを図る必要があ り、地縁集団を中心に地域間・行政間・異業種連携はもとより、NPOや地域づく り団体、さらに人と人の「つながり」により生み出される力が不可欠となる。

 特に新たな施設設計では、固有資源やコミュニティに光を与え、これらが生み出 す住民のライフスタイルから、地域発意によるソーシャルビジネスを育む長期的な 指針と風土に根ざしつつ国民ニーズを捉えた活用計画を策定しなければならない。

 これらを踏まえ施設の活用は、一拠点に留まらず周辺エリアの多様な資源や人材 を巻き込むニューツーリズムなど、その効果発現がもっとも早い都市との交流を ベースに、地域の総合力を引き出しながら住民本位の地域の相互扶助(結い)を向 上させる戦略を企画・実行し、地域のソーシャルイノベーションを興すことである。

 地域づくりの第一義とすべきことは、地域住民を元気にすることである。地方産 業や地域財政が逼迫する中で、過度な資金投入をせず次代を担う子どもたちを育て、

健康な住民と健全な地域を創造できるのは、地域の総合力を結集したツーリズムで ある。

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243  飯田を発祥とする地域ぐるみの風土ツーリズムは、かつて祭が地域に根づき、そ

れぞれの地域で多様な発展過程を歩み始めたように、全国の中山間地域の生き残り 戦略となりつつある。

 自らの地域を自らの手で滅ぼすか、100年先の未来を見据えた戦略を打つか。今、

求められるのは地域の人財であり、人財をストックする学びの土壌(風土)づくり である。

5.地域を紡ぐ、未来を紡ぐ「まちつむぎ」

 P.F.ドラッカーが15年以上前に「知識社会への移行は、知識社会の代表者たる『教 育ある人間』に対して、新しい挑戦、新しい問題、あるいは、かつてない新しい課 題を提起する」と予言したが、本年、同志社大学の教育GPにおいて、新たな課題 提起と感じさせるフィールドワーク報告がなされたことを記したい。

 本年5月中旬、井口ゼミの教育GPの飯田フィールドワークに向けて、「三澤勝衛 の風土学とローカリゼーション」と題し、三澤勝衛を引きつつ小京都飯田の歴史と 産業の成り立ちや、「学びの土壌」を育んできた風土など、産学の幅広い分野を紹 介し、学生らが飯田に対して多くの興味を持ち、楽しいフィールドワークをして欲 しいとの気持ちで、事前講義を同志社大学で行った。5月末40名を越える学生が井 口教授と共に飯田市を訪れた。

 井口貢教授は単に飯田をフィールドワークの地と定めたわけでは無いだろう。何 故ならば本稿で記述した柳田國男や今回は省いた後藤総一郎などの諸氏は、飯田に 縁のある人物であり、井口教授の研究テーマであることから「縁」と「必然」を感 じるのである。

 フィールドワークに訪れた学生たちは、「小京都としての飯田市の現代的可能性」

をテーマに安藤隆一しんきん南信州地域研究所主席研究員がコーディネートした7 部門に分かれ、市民を中心としたヒアリングを行い、次の日の朝まで発表資料をま とめるというハードスケジュールであったが、僅かな滞在時間で多くの提案がなさ れた。

 学生が徹夜で作成した労作の中で、個人的に気に入った4班「つながり重視のま ちづくりを」の報告で終章の原文を一部、本稿の結びとして取り上げたい。「多様 な人が集まるところに繋がりが生まれ、つながりがより良い地域をつくる」と結論 付け、「京都には、各観光施設には数多く人が集まっているが、現状としてつなが りは、ない。見られるのは「文化資源と人のつながり」であり「人と人のつながり」

ではないのだ。京都は文化資源に甘えている」そして「インサイドへの『ようこそ 意識』の醸成」が必要と、京都ばかりでなく国内観光地の弱点を実に的確に突き、

資源依存から地域ホスピタリティを採るべき手段とした点は、私自身が言い続け、

本稿でも述べてきたことである。

 まちを織物のように紡いでいく「まちつむぎ」と6班が提案した。「つながり」

は未来に不可欠な地域づくりの根幹である。誰か考えてくれる時代は終焉し、自ら

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が考えて行動する時代になった。だからこそ柔軟に変容する地域でなければならな い。

 一人一人の「まちつむぎ」の一歩が、地域を変え新生させる原動力となることを 信じ本稿を閉じる。

【参考文献】

・信州大学教育学部付属松本中学校五十年史 「信州教育の水脈」 郷土出版社1996年

・三隅治雄著「芸能の谷伊那谷」1、2、3(株)新葉社1986年

・三澤勝衛著作集「風土の発見と創造」1~4(社)農山漁村文化協会2009年

・三澤勝衛著「新地理教育論-地方振興とその教化」古今書院1937年

・大石伍一著「私の聞書き帖」復刻版 大空社1998年

・南信州観光公社視察資料 南信州観光公社 2005年

・21年度同志社大学教育GP「飯田フィールドワーク報告書」

参照

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