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ヴィルヘルム・エーベル「バルト海地域におけるリューベック法」

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(1)パルト海地域におけるリュ ーベ ック法 翻訳. ヴィルヘルム. ・. エ ー ベル. 「バルト海地域におけるリュ 稲. I. 1.. ー. ベック法」 格. プ. はじめに ここで訳出したヴィルヘルム ・ エ ー ベル (Wilhelm Ebel) の論文. 「バルト海地域におけるリュ. ー. ベック法 (Lilbisches Recht im Ostsee­. raum) 」 は 1972年に出版された C. ハ ー ゼ (Carl Haase) 編「中世の都市 (Die Stadt des Mittelalters) 』の第 2 巻 (Zweiter Band) 「法と国制 (Recht und Verfassung) 」に収録されているものである(I)。 この翻訳を. 初めて試みたのは, 訳者の記憶にまちがいがなければ, はるか20年以上前 の 1977年のことである。 当時リュ. ー. ベック法史について全くの素人の院生. で, しかも, ほとんどドイツ語の素養もなかった訳者が, 無論. 自発的に 拙訳を試みた訳ではない。 訳者の指導教官であった林毅教授が大学院の講 義のドイツ語講読の 一 環としてこのエ ー ベル論文をとり上げられ, 訳者 は. 当時このゼミに出席した院生諸氏とともに. 教授の指導を受けながら 邦訳を試みたのであった。 その時の訳者のメモ的なノ. ー. トが. ここでの拙. 訳の基になっている。 したがって, この訳は訳者 1 人による個人的な作品 ではない。 むしろ林教授と当時の院生仲間一残念ながら, メンバ ー 全員の 名前をすべて記憶していない一の共同の翻訳作業の成果であるとも言え -208-.

(2) 近畿大学法学. 第48巻第1号. る。 ただし, ここで活字にする際に, 訳者はすべてもう一度最初から翻訳 ノ. ー トを作りなおしたから,. 本稿で訳者のみの名前を挙げたとしてもお許. しいただけるのではなかろうか。 ところで, なぜ今この論文を活字にしたのかと言えば, 無論, 後述する ように,. エー ベ ル論文が邦訳に十分値する内容であるからだけではない。. それよりも, かなり個人的な, ある種の義務感に負うところも大きい。 最 初の邦訳を試みた1977年当時, 訳者は何の問題もなくこの論文を読み終え たわけではない。 それどころか, しばしば立ち往生しなければならなかっ た。 林教授の適切なご教示にもかかわらず, 場合によっては, 理解できな い個所をそのままにして, 読み進めなければならないこともあった。 それ らの分からない個所は, 20年以上が経過した現在から見ると, リュ. ーベ. ッ. ク法の基本的な知識があれば, まったくたわいもないものもあるが, 今で もなお文意の分からないものもある。 しかし, 少なくともかなりの不明な 個所が解消されてきたことも間違いはない。 林毅教授は1999年 3 月に大阪大学を退官された。 訳者は, 上述のように, なお不完全な邦訳であるとはいえ , 訳者のリュ ー ベック法史研究の第 l歩 であり, 林教授との知的な営為の思い出である, 本論文の邦訳の発表時期 が到来しつつあることを強く感じるようになった。 言わば, 20年以上前に 背負った宿題を果たしたいというのが, この論文の活字化の, 個人的では あるが, 最大の理由である。 2.. エ ーベル. (1908-1980年) は改めて紹介するまでもなく我が国でも. よく知られた法史研究者の 1 人である。 彼の, ドイッ中世都市法史に関す る業績を我が国で最初に本格的に紹介されたのは林毅教授であったであろ ぅ 121。 さらにドイッ法史研究者としての エ ーベ ルを我が国で有名にしたの は, 西川洋一訳『ドイッ立法史』(東京大学出版会, 1985年)であろう。. エー. ベルの, 法の歴史を見る視角としての法判告, 締結法, 法命令の 3つの理 -207-.

(3) パルト海地域におけるリュ ーベ ック法 念形は, この本によって我が国でも一 定の影響力を持つにいたったと言え る。 しかし, 訳者には, エ ー ベ ルはドイツ法史研究者としてよりも. やはり リュ. ー ベ ック法史研究者としての方が馴染み深い。. 林教授や西川教授が紹. 介したエ ー ベ ル論文の背景にも, 彼の詳細にして膨大なリュ. ーベ. 研究が読み取れる。 にもかかわらず. 彼が具体的にいかなるリュ. ック法史 ーベ. ック. 法史研究をしてきたのかは, 訳者の見る限り, あまり我が国でも知られて いないのではなかろうか。 その責任の一 端は訳者にもある。 なぜなら, 訳 者のリュ. ーベ. ック法史研究は最初から, 彼のリュ. ーベ. ック法史研究の影響. を受けていたのであるが. 訳者の知的な力量では, 彼の研究の, どちらか と言えば, 部分的, 断片的な紹介に常にとどまらざるをえ なかったからで ある(3)。 本論文の拙訳によって,. 訳者も その責任を少しでも果たしたいと. いうのが, この論文の活字化のもう 1 つの理由でもある。 3.. ここで本論文の内容について簡単に紹介しておきたい。 まず, ドイ. ッ中世都市が農村社会とは異なる商業都市であったことが指摘される(原 頁, 255 頁)。 この特徴がリュ. ーベ. ック法に典型的に現れていたことが,. ポ ー ランド等の東欧において, 都市のみならず農村に対しても大きな影響 力を与え たマグデプルク法と, 対比的に述べられてゆく(「都市法の形態」 の項一以下. 同様)。市参事会と参審人裁判所が併存するマグデプルクに対 する, 立法・行政・司法が市参事会に集中したリュ. ーベ. ック。 財産法・家. 族法の分野での, マグデプルク = ザクセン法における管理共同制に対す る. リュ. ーベ. ック法の財産共同制である。次に, リュ. 程が論じられ, リュ. ーベ. ーベ. ック法の形成過. ックが建設都市として様々な 自由を当初から保証. されていたこと, そしてそれを基盤としながら市参事会が積極的な法創造 の担い手になったことが言及される(「〔リュ に, リュ. ーベ. ーベ. ック法の〕展開」)。 さら. ック法の成立について, ゾ ー スト法からの継受と, リュ -206 -. ー.

(4) 近畿大学法学 第48巻第1号 ベ. ックの近隣のホルステン. ・. ラント法やリュ ーベ ックに先行する商業都市. シュレスヴィヒの都市法の影響, が消極的に評価され, リュ ーベ ック法が 同市による独自の法創造であったことが強調される(「〔リュ ーベ ック法 の〕起源の問題」)。その後, 東欧へのリュ ーベ ック法の伝播と影響が論じ られ, 同法がこの地域に自由をもたらしたことが力説される(「〔リュ ー ベ. ック法の〕伝播」)。 さらに, リュ ーベ ック法を継受した都市からリュー. ベ. ッ ク ヘ の上 訴 制 度の生成• 発展と, 近世に お け るそ の崩壊が続く. (「〔リュ ーベ ックヘの〕上訴制度」)。しかし, 17· 8 世紀のリュ ーベ ック法 学の隆盛と,その近代法への一定の影響も忘れられてはいない(「〔リュ ー ベ. ック法の〕終焉」)。 最後に, バ ルト海の南岸のみならず, デンマ ー ク,. ゴトランドやスウェ. ー. デンなどの北欧へのリュ ーベ ック法の影響(「北欧. におけるリュ ーベ ック法」) と, ハ ンザ・ リュ ーベ ック海法の独自性(「〔 ハ ンザ・ リュ ーベ ック〕海法」) が付言され, この論文は終わる。 これほどリュ ーベ ック法をめぐる法的な問題について概括的に,そして コンパクトに論じた論文はないのではなかろうか。 この論文は, 当初, 別 の雑誌に1967年に発表されていたようであるから, エ ーベ ルがこの論文を 執筆したのは, 多分1966年前後であったであろう。 この時期は, この論文 の中でも指摘されているように(原頁, 272頁), 1955年からエ ーベ ル自身 によって編纂され,出版されてきた史料集『リュ ーベ ック市参事会判決集』 4 巻が完成し た 時 期 でもある。 そ れ か ら 5 年後の 197 1 年 に は, 彼は, リ ュ ー ベ ッ ク 法 の公法的な 部 分 と, 法 史 料に つ い て包括 的 に 論 じ た 『リュ ーベ ック法 (Liibisches Recht) I』 (438頁) を出版することになる。 特に後者の大著と本論文を読み比べるとき, 両者の間にかなり類似性が感 じられ,訳者には,後者が『リュ ーベ ック法』(おそらく1Iで論じることに なっていたのであろう私法や海法部分を含めて) の, きわめてコンパクト な予告編であったようにさえ思われる。 この意味で. 本論文は, まさに -205 -.

(5) バルト海地域におけるリュ ーベ ック法 エ ー ベ ルのリュ ー ベ ック法史研究の全体を見渡しうる最良で簡便な作品と 言える。 内容的に, なお指摘しておかなければならないことがあるとすれば, エ ー ベ ルが極めて優れたリュ. ーベ. ック法史研究者であったことは間違いな. いが, しかし彼のリュ ー ベ ック法に関する評価や見方のすべてまでも我々 が全面的・積極的に受け入れている訳ではないことである。 特にエ ー ベ ル がリュ. ーベ. ック法の優れた内容を強調するあまり, それが中世の東欧や北. 欧に対しても優れた模範となったと指摘するとき, 我々はこれを鵜呑みに できないように思う。 お そらく東欧• 北欧史を専門にする歴史家からみれ ば, ドイツ. ・. ハンザの負の歴史がここでは語られておらず, エ ー ベ ルの記. 述には納得のいかないものを感じられるのではなかろうか。 このような, ある種のドイツ法文化の優秀性を過度に強調する彼の基本的な考え方に は, 少なくとも訳者は賛成しない。 これは彼の波乱に富んだ人生とも関係 するのかもしれない。 我々は彼の研究から多くのことを学ぶとしても, な お批判的な見方もあることを忘れるべきではないと思う。 4.. 邦訳に際して, 最初は直訳を意図していた。 それはできるだけエ ー. ベ ルの本来の持ち味を残したいと思ったからである。. しかし, 間もなく,. 彼の類語反復による長い単文や, 目的語を最初に持ってくる倒置法の多用 によって, 直訳が日本語としてなかり違和感を持つものであることが明ら かとなった。 そこで長文を単文に切り刻んだり, 目的語を主語の後に置く などして加工を加え ざるをえなかった。 あえて意訳せざるをえ なかった個 所もある。 それゆえ訳者の当初の希望からはずれ, 直訳と意訳が併存する ことになり, 本来の文章の持つ味わいが消え てしまったのではないかとお それる。 また, 訳者のドイツ語能力からすれば誤訳は免れないであろう。 稚拙な誤訳や専門用語の選択ミ ス等には, ご海容をお願いしたい。例えば, 多義的な概念である Landrecht に, 統 一的な訳語を付けることができ -204 -.

(6) 近畿大学法学. 第48巻第 l 号. ず, しばしばラント法という訳語で満足しなければならなかった。 本文において, ドイツ語が括弧(. )で括られた個所は, 他の邦訳も可. 能な個所. またはかな り意訳せざるをえなかった個所を示す。 なお括弧 (. )内にドイツ語のない個所は, エ ー ベル自身が原文において挿入した個. 所を示す。 括弧〔. 〕の個所は訳者が, 読みやすくするために, 別に邦文. を追加・挿入した個所である。 頁数は, 原文の頁数を示す。 註の番号は19 番までが原文の本来の註であり, 20番以降は訳註である。 最後に, 今回の邦訳に際して, ドイツ語とラテン語についてはハンプル ク大学法学部のラントヴェ やスウェ. ー. ー. ア (Gotz Landwehr) 教授に, デンマ ー ク語. デン語等の北欧語については大阪外国語大学の菅原邦城教授に. ご教示を願った。 ここに付して謝意の念を表したい。. 〈註〉 出版社は Wissenschaftliche Buchgesellscaft, Darmstadt である。 その中 の255-280頁に, この論文はある。 (2) 「中世都市法の妥当根拠」(林毅『ドイツ中世都市法の研究』, 創文社 , 昭和47 (1). 年,所収)。他に「中世ドイツ市民の法創造的業績」(林毅「ドイツ中世自治都市 の諸問題』, 敬文堂, 1977年, 所収) も参照。最近の, ェ ーベ ルに論及した論文. として若曽根健二「報復としての差し押さえについて一中世後期ドイツの都市 史料から 一」(熊本法学第95号, 1999年 3 月)がある。. (3) 拙稿「中世都市リュ ー ベックの都市制度 Stadtverfassung」(『阪大法学』,第 105号, 昭和53年)は, 副題でも記しておいたように, 彼の『リュ ー ベック法 I 」 (1971年) に依拠し, 拙稿「リュ ーベ ック法における家財産に対する家族法的な 拘束」(『近大 法学」, 第34 巻 第 1·2 号, 昭和 61 年) は, 彼 の 論 文 の Erbe, Erbgut und wohlgewonnen Gut im liibischen Recht, in Zeitschrift der. Savigny-Stiftung fiir Rechtsgeschichte, Germanistische Abteilung Bd.. 97 (1980) に依拠していた。 なお, 彼の研究のリュ. ーベ. ック法史研究史におけ. る意義について, 拙稿 「十九・ニ0世紀におけるリュ ーベ ック不動産法研究の 展開」(「近畿大学 法学』第39巻第 1·2 号, 平成 3 年) で言及したことがある。 同, 102 頁以下。. -203 -.

(7) バルト海地域におけるリュ ーベ ック法. II.. ヴィルヘルム. ・. エ ー ペル「バルト海地域におけるリュ. ー. ペック法 J 255頁 12 世紀以来, 古典的な概念におけるドイッ中世都市が成立し, ドイツ地. 図がアルプスからユト ランド半島まで比較的に短い間に, 数百の, このよ うな手工業と商業に基礎を置く市民定住地によって覆われるにいたり, ー大抵は, 互いに1日の旅程の距離であったが一, [そして]新しい種類の, 出生によらない, 喘業に基づく, 自由な人々の身分が生じた時に, 新しい 法圏 (Rechtskreis) が, これまでの法圏に加わった。 これが都市法であっ た。 それまでは, 世俗的な法の領域では, 農業的な生活様式から生まれ, そして それに合致するように創られた, ラントや部族ごとに異なる農村法. (Landrecht) が[様々な] 場面を支配し, これと並んで, 特定の占有関係 についてはレ ー ン法が支配していた。 ドイツ法は一一 般的にはゲルマン 法 さらには ス ラブ法も一 その全ての歴史において, 農村法的に規定され 続け, これは, 既にその名前の中に都市に由来することを示しているロ ー マ法とは異なっていた。[それぞれの]法圏は互いに併存し, 農民, 市民, 貴族は互いにかなり異なる法にしたがって生活していた。 19 世紀になって ようやく偉大な法的平等は始まる。. [都市法の]基礎 見渡せない程の多様さを示す都市法は, 様々な構成要素から組み合わさ れていた。[都市法の] 基礎特に家族・相続法, 刑事法さらに訴訟[制度] の基礎は, ラント毎に異なる ラント法から提供された。 後者には, ラント 平和に関する制定法も数えられていた。 市場• 取引法は遍歴する商人たち の法慣習と結びついており, それらは, 既に, いくつかの[ドイツ]西部 -202-.

(8) 近畿大学法学. 第48巻第 l 号. 256 頁 の古い前古典的な都市において地域化していた。 例えば, ラインの上流と 下流では, それらはケルン法として広まっていた。 統治制度 (Verfass­ ung) と行政 (Verwaltung) (ギルドとツンフトの制度や管理を含む) に. ついては, より古い都市がそれぞれ模範を示していた。 そして本質的なも のとして現れる市民の諸 自由は, 都市君主の特許状において保証されてい た。 しかしそ[=都市法]の本質的な継続的形成は, 市民 自身の 自治法制 定権に基づく都市法が担い (erhielt), これが都市法制 定 (Verwillkil­ rung) の過程で, 必要に応じてその基本要素を変化, 増大させていった。. その結果, 霞要ではない小都市までもが時折膨大な都市法書を持つことも あった。. 一. 方, 農村 (Lande) では相変わらず不文の慣習と伝統にしたがっ. て[法的な]処理がなされていた。 このような地域化と結びついた法の分裂は途方もない (ungeheuer) も のであり, [これは]一生の間村落に定住する ラント住民とは違って, 遍歴 することを常とする身分の者, すなわち, 商人にとっては ほとんど無益な ものであった。 どの商業旅行も, つまり近隣の都市の市場への旅行も, 旅 行の危険と並んで, 別の, 固有の, ことによると悪意のある官憲 (Obrig­ keit) の下に, のみならず別の法の下に身をさらす (Begebung) ことをも. 意味した。 これに対して (Hier), 明らかに 1 つの緩和化の現象が生じた。 我々はこれを都市法家族の概念で表現する。 すなわち, 様々な理由から, 人は一市民並びに都市君主もーしばしば既存の都市の法を, 都市法を授与 してもらう際に, 模範とした。 このようにして成立した都市法家族は, い ずれにせよ実質的な法的な平等を提供することになった。 古ドイツ[地域] では, それらは当然ながら, 共通の ラント法的な基礎の上に限られていた。 ここで, 最も広がっていたのは65の娘都市を持つ ゾー ストの都市法家族で あり, この中には, かなり限定されてはいたが, 我々の本来の考察対象で -201 -.

(9) バルト海地域におけるリュ ーベ ック法 あるリュ. ーベ ックも[含まれていた]。. 最も広範な内容の授与文書でさえも, 娘都市の法生活において発生する 多くの問題に答えることはできなかった。 それら [の問題] を固有の最良 の知識から判決したり, あるいはそのための固有の 自治制定法を制定する 代わりに, 人は, このような場合に母法都市において, 何が法であるかを 問い合わせることが可能であり, そうするのが常であった。 そしてこれに したがって判決が下された。[ただし]このような, 判決が下されていない (schwebend) 判決での法の「教示」の懇願は, 間もなく「上訴」制に道を. 257頁 譲ることになった。 これが, 既に下された判決の. 上級法廷 (Oberhof), つまり一種の控訴審としての, 母法都市への判決非難[と呼ばれる制度] であった。 ただし母法都市と娘法都市が同じ領邦に位置している場合で も. 頭の方 [=母法都市] にやって来る[=娘法] 都市に対して, 懇願さ れて得られた判決が形式的な拘束力を主張することは明らかになかった。 それは, より思慮深い法源としての内容的な権威を有しただけであった。 ドイツ東部では, このような統一的な都市法・上訴制家族の制度が広大 な領域へと成長した。 その広がり (Besetzung) は. ドイツ人の村落や都市 [の成立] とともに12世紀に開始し,. 13世紀と14世紀には強力に増大し,. 1350年頃のペ ストともに急速に停止するにいたった。 ここ[=ドイツ東部] には法の拡大にとっての, いかなる部族法・ ラント法的な制約もなかっ た。 なぜなら. 農民的な, そして都市的な定住者たち, すなわち, 東部ド イツの新しい人々 (Neustamme) である ポンメルン人やシュ レ ー ジェン 人など, の基本要素となった[彼らは] 古ドイツのあらゆる地域から到来 していたからであった。 全くの歴史的な偶然であったのは, まさに13世紀 の初めに. クヴェトリンプルク (Quedlinburg) の近郊地域のエ ルベ ・オ -200-.

(10) 近畿大学法学 第48巻第 1 号 スト フ ァ. ー. レン (elbostfalische) · ラント法が, ア ンハ ルトの ミ ニステ リ. ア ー レである ア イ ケ. ・. フ ォン. ・. レ プ ゴウの法書にお いて. 強制力のある. (bezwingender) 定義と効力を伴う法律類似の記述とな っ たことであ っ た。 しかしこれは十分な根拠を持 っ て一般ザクセ ン法を示しているわけで はなか っ た。 このザクセ ン シ ュ ピ ー ゲルは, いかなる出身であるかを問わ ず, 東部. ・. 北部 ド イ ツ の植民者たち の法書とな っ た。そしてそれは ド イ ツ. 人の居住地域の境界を越えてーしたが っ て 1 つの, 真の継受という事例と してー ポ ー ラン ド 全体. ヴ ォ ル イ ニ (Wolhynien)叫 ウクライ ナ にお いて も, 何世紀にもわた っ て効力を有し続けたI l l。ラント法と同様に,ザクセ ン シ ュ ピ ー ゲルの都市法 (Weichbildrecht) もまた, マ グ デ プルク都市法の 形態と名前において広が っ てい っ た (wanderte) 。その主要部分である私 法は基本的にザク セ ン シ ュ ピ ー ゲル. ・. ラント法と一致していたから. それ. [=マ グ デ プルク都市法] は,後者とともに 1 5世紀と 1 6世紀の シ ュ レ ー ジェ ンと ポ ー ラン ド での甫要な編纂物では統一的に取り扱われることができ. その特別な形式であるクル ム 法は プ ロ イ セ ンの騎士団領では都市法である. 258頁 と同時に村法ともな っ た。マ グ デ プルク,すなわ ち 「我 々 の神の官房」�D の 参審人裁判所 (Schoffenstuhl) は,数百の都市の上級法廷とな っ た。それ らの都市は, 理論上は, はるか ロ シ ア まで広が っ ていた。 ただし, マ グ デ プルク法はバ ルト海沿岸では 4 都市のみを得た (vorstieB) にす ぎなか っ た。マ グ デ プルク法あるいはクル ム 法 [の都市] は、 シ ュ テテ ィ. ー. ン (Ste­. ttin) , ケ ー ニ ッヒス ベ ルク (Ko-nigsberg) , ダ ン ツ ィヒ (Danzig) , メ メ ル (Memel) 市のみであ っ た。 しかしながら, 後 者 の 2 都 市 にも 当初 リ ュ. ー. ベ ック法になる可能性 (ver-sucht) はあ っ たのではあるが。. - 199 -.

(11) パ ル ト 海地域に お け る リ ュ ー ベ ッ ク 法 都市法の形態 マ グ デプルクの都市法が言及されたのは,それが, 東部ドイ ツ 植民運動 にお いて, もう l つの, 広大な地域とラントを越えて普及した都市法で あ る帝国自由都市リュー ベ ックの法と, 対照をな していたからで あった。 後 者 [のリュ ー ベ ック] は, 好んで 「ハ ンザの女王」 と呼ばれ, [同市は] ロ シ ア や北欧への西欧の産物の輸出港, ハ イ タ プ (Haithabu) 市や シュレス ヴィヒ市の後継者, [そして] バル ト 海沿岸へのド イ ツ 人植民やリ フ ラント への出帆の出発 口 (Ausfall tor) でもあった。 [これに対して] マ グ デプル ク法は, 内 陸部の小都市的な 植民地の法で あった。 たしかに, それはライ プ ツ ィヒ, プ レスラウ,クラカ ウ などの大商業都市に適合的でもあったが, 同様に小さな 農耕都市についても適合的で あった。 マ グ デ プルクの法と裁 判制度にとって特徴的で あったのは,市参事会と並んで,その本質,構造, 手続きにお いて本来的に農村法的な (landrechtlich), そして手工業者に よって 占められた参審人裁判所 (Schoffenbank) [の存在] であった究 マ グ デプルクの参審人裁判所 (Schoffenstuhl) はその法圏全体についての 「最上級審 (oberste Recht) 」 であった。 [リュ ー ベ ックのように] 市参事 会が最上級審を 占めることはな かった。 プ レスラウやトルン (Thorn) の 大商人の名 誉称号と なったのは、 その母法都市にお いて参審人 と な るこ と, 場合によっては参審人にして市参事会員となること, であった。 これ はリュ ーベ ックとは全く異 なってい た。後者と,約 100に及ぶリュ ーベ ック 法の都市一我 々 はそれらを短く 「リュ ーベ ック (lubische) 都市」 と名付け るので あるが一には, 参審人裁判所は存在しな かった。 こ ち らでは, 政治 的. ・. 経済的な 権力, さらにまた立法 ・ 司法の権限 までもが市参事会に集 め. られていた。 1300年の教皇庁使節の報告書に記載されているように121, リュ ー. - 198 -.

(12) 近畿大学法学 第48 巻第 1 号. 259頁 ベ ックの市参事会員が. 「あたかも誰かが 自らのものを支配するように」 市. を統治し, そして彼らが「あたかもドイツの, ある土地 (terra) において, ある人々がそうしうるように」 彼らの思うがままに刑罰を下し, その他の あらゆることを その市民とともになしえた, といったことや, さらに一 1366年にア ビ ニ ョ ン教 皇庁で 一 度 申し立てられた (vorgetragen) i3l 訴訟 文書に[記載されていたように] ート ラ ー ヴェ (Trave) 川沿いの帝国都市 [=リュ ー ベ ック]は「皇帝または帝国の地位と名において」 市参事会員に よって統治され, 彼らが市民に対して「真正にして複合的な (mixtum) 支 配権」 を有していた, といったことが必ずしも正鵠を射たものではなかっ たとしても, この市民的な官庁である市参事会は, 彼らの都市において, マグデプルク法の都市とは全く異なった地位を有していた。 リュ. ーベ. ック. 市参事会は, ある意味では, 都市の支配者であり, 市民誓約は, 市または 市参事会に対してではなく, 市参事会 「 そして」 市に対して行われた。 こ の片言隻句である 「 そして」 について, 1600年頃, 重大な市民騒擾 (いわ ゆる ラ イ ザ ー 騒動) が発生し, それは 7 年間継続し, それは [最終的に] 1 つの市民協定 (BiirgerrezeB) (1605年 6 月14日) によって決着し (ges­ chlichtet) たが, [前述の] 誓約の文言が変更されることはなかった14)。 さ. らに (1375年に) ハンザの女王 [=リュ あった カ. ー. ル 4 世も, リュ. ーベ. ーベ. ック] を訪れた唯一の皇帝で. ックの市参事会員の特別の地位を感じとっ. ていたのであろう, 彼は彼らを 「汝ら支配者たち (Gij heren) 」 と力を込 めて呼びかけていた。[ その時] 彼らがそれを控えめに受け流すと, [皇帝 はさらに]「汝ら支配者たれ (Gij siit heren) ! 」 と繰り返した。(しかし, ベ. ー メン人である カ. ー ルが低地. ド イツ語を話したのであろうか。) リュ. ベ. ッ ク 的 な 市 参 事 会 は, イ ッ ツ ェ ホ. ー. ー. (Itzehoe) 市, ア ン ク ラ ム. (Anklam) 市, あるいは ナ ルヴ ァ (Narva) 市, ( その上ハンプルクでも). - 197 -.

(13) バルト海地域におけるリュ ーベ ッ ク法 リュ. ーベ. ックと同様に, 市民によって選挙されたのではなく一思いもよら. ぬことであるがー 自 己補選 (Kooptation) によって 自 ら補充を行った15)0 [こうして] 選挙された者は一生の間市参事会員にとどまったが, 全市参事 会の 2/3, すなわち現任の市参事会 (sitzender Rat) が戦務を遂行する間, 残りの 1/3, すなわち前任の市参事会 (alter Rat) は その休峨年をとり, 後者の市参事会員たちは [ その間に] 彼らの本来の業務に一層専念するこ とができた。 毎年の, 多くの市参事会役職の新たな配分と, 前任の市参事 会員の現任の市参事会員への復帰選 挙 (Rilckwahl) を暗黙裏に退戦させ (ilberging) ない限り四. ー. ー. ただし, 人が誰か. そして, 新たな市参事会員. 260頁 の, 市参事会員資格のある門閥, すなわち成功した商人の階層 (Kreise), からの補充, これらすべては市参事会改組 (Ratsumsetzung) と呼ばれた が, これは 2 月22日の聖ペトリ教座祝日に行われた。 この日に, 冬季休養 期間が終了し, 航海が再開された。 例のト ー マ ス ・ マンの手になる, ト ー マス. ・. プッデンプロ. ー. ク (Thomas Buddenbrook) の市参事会員への選. 出の, あの生き生きとした, そして歴史的に信頼のおける記述を思い出さ ない人はいないであろう叫 [この] 選挙と改組の手続きは複雑であり, 手 工業者や小商人 (雑貨商) のいかなる者にも市参事会員資格はなかった。 これは 1848年[=三月革命] まで そうであった。 マグデ プルク法とリ ュ. ーベ. ック法との相違について多くの事例をあげる. ことができるであろうが, その 1 つ (ein weiteres) に夫婦財産制 (Ehe­ gi.iterrecht) がある。 これは, リ ュ. ーベ. ックが, 信用 (Kredit) の強化に. 配慮した商人都市であったことを 特に明瞭に明らかにする。 マグデプル ク = ザクセン法の, 配偶者の所有物を別々のままにしておく, いわゆる管 理共同制とは異なり(61, リ ュ. ーベ. ックの財産共同制では,. - 1 96 -. 子供のいる夫婦.

(14) 近畿大学法学. 第48 巻第 1 号. の場合( したがって婚姻によって子供が生まれたのであれば) 寡婦は[死 亡した] 夫の債務についても彼女の財産によって責任を負った。 なぜなら ーリュ ーベ ックの都市法 (1586年) の編纂者がこの, 既に13世紀に創設さ れた規定に [以下のような] 理由付けを与えたように一 「個人, 特に女性 が, 彼女の財産と世襲財産 (Patrimonio) (すなわ ち 嫁資) において何らか の損失を被る ほうが, 商 取引における信用が弱められ, それどころか, こ の市において[それが] 失墜し, [市が] 不幸と破滅に陥るよりも, はるか にまし」 だったからである。 ともかくも, リュ. ーベ. ックの法令が認識させ. ることは (1586年の都市法の序文にまさに書かれているように) 「この リュ ー ベ ック市は商人の都市であり, 商業 (Handel und Wandel) に捧 げられているのであるから, ここでは誠実と信義が必要である」 というこ とであった (「誠実と信義」 の定式のドイツ法源における最初の登場であ る)。 それゆえ売買, 運送賃, 保証, 海法, 偽った度量衡の処罰などが, 既 に13 世紀の [都市法の] 写本においても, かなりの部分を占めていた。 リュ. ーベ ック市参事会の最も古い立法者的な措置に属するのは,. さらに債. 261頁 務制度 すなわ ち 破産, 差し押さえ, 和解 (Vergleich) に関する規定で あった。 リュ リュ. ー. ーベ. ベック市の統治制度は純粋に商業 • 海港都市的なものであり, ック法は卓越した (par excellence) 都市法であった。 さらに市. 民 の 個 別 的 な 事 柄 の みを 規 定 し そ う な ラ ン ト 法 も 存 在 し な か っ た。 [リュ. ーベ. ック都市法は] ホ ル ステン. ほとんど関係せず, ただ フ ォ. ー. ・. ラント法 (Holstenlandrecht) とも. クト ー , または下級裁判所, における裁判. 手続きにおいてのみ関係していたにす ぎなかった。 リュ ーベ ックはそれ 自 体が移住してきた住民からなる植民都市であった。 このことが, 我々に, - 195 -.

(15) パ ル ト 海地域に お け る リ ュ. ーベ. ッ ク法. この 「すべてのド イ ツ 都市法の中の女王」 の法形成の由来と法 源について の問題を提起するのである。 [なお ] 200年前にリュ ー ベ ック法を前者のよ うに呼ん だのは, 当時有名なド イ ツ の最初の法制史家, ゲ ッティンゲン大 学教授 ゼ ルヒ ョ ウ (J. H. Chr. Selchow) であった叱. [ リ ュ ー ペ ッ ク 法の] 展開 リュ ー ベ ック市民は昔からハ イ ンリ ッヒ獅子公 (Heinrich der Lか wen) を彼らの都市の建設者と見な し てきた。 [ し か し ] おそらく既に1 1世 紀には, ト ラ. ー. ヴェ 川 (Trave) の下流, 現在の バ ー ト ・ シ ュヴ ァ ル タ ウ. (Bad Schwartau) 付近に, ヴ ァ グ ー リ エ ン (wagrisch) , すなわ ち ス ラ ヴ フォン. シ ャ ウエ. 人の定住地があり,そ し ておそらく 1 1 43年 に ア ドル フ. ・. ン プルク (Adolf von Schauenburg) 伯が幾分ト ラ. ヴェ 川の上流の,ト. ラ. ヴェ 川とヴ ァ. ー. ー. ー. ・. ケ ニ ッ ツ 川 (Wakenitz) によって丘状になった小 島. の プク (Buku) (これはおそらく 「 プ ナ 」 と関連するだろうが)(8) に 1 つの ドイ ツ 人都市を設置 し ていた ようである。 とはいえリュー ベ ックの固有の 歴史が始 まるのは. のバ イ エ ル ン. ・. バルバ. ロ ッ サ [=皇帝 フ リ ー ドリ ッヒ 1 世] の従兄弟. ザクセ ン公 [=ハ イ ンリ ッヒ獅子公] が彼の進出意欲 (Ta­. tendrang) を バ ルト海へと向けた時以後であった。 獅子公 [が意図 し たの は,公自 身] が支配することのできなかった (unerreichbare) ハ イ タ プ市 の後継者である シュレスヴィヒ市を傍らに追いやり (sollte) ,. ゴト ラ ンドのヴィ ー ス ビュ (Wisby) を中間基地とする. 交易 すなわ ち . ロ シ ア とスウェ. ゴト ラ ンド. ー. デンヘの海上交易をリュ ー ベ ックヘと向けさせ,そ し. て. 古い. キ ンベ ル (kimbrische) 半島のトレ ー ネ 川 (Treene) を遡り シュ. 262頁 ラ イ (Schlei) に至る困難な陸路と河川路の交易路を, エ ルベ 川とト ラ ー - 194 -.

(16) 近畿大学法学. 第48巻第1号. ヴェ 川の運河に置き換え ることであった。 そ し てこれらが実現 し た。[ し か し ] この よ うに好都合な場所にある商業都市リュ. ーベ. ッ クを [シ ャ ウ エ ン. プルク]伯 から奪う (erwerben) ことは, 獅子公には容易ではなかった。 結局, 市が 1 157年に完全に焼失 し た時に, 彼は, この火事場をシ ャ ウ エ ン プルク伯 から策略と圧力によ って, つまり「彼が彼に多くのことを約束 し て」買い取り, 1 159年に, [ そこに] 第 3 の, 新 し いリュ. ーベ. ッ クが成立 し. た。[同市には] あらゆる 自由と裁判権 (Gerechtigkeiten) を付与され, これらは市に19) [ただちに]彗星のよ うな繁栄をもたら し は し なかったが, それを可能にするものであった。 1 180年に獅子公が失脚 し た時, 国王が同 市を引き受け, そ し て 1226 年にはリュ. ーベ. ッ クは皇帝フリ ー ドリ ッ ヒ 2 世. に よ って, 王国の都市, 「 自由な帝国の都市に し て, 皇帝の支配に特別に属 する[都市]」, すなわち, 最初の 自由帝国都市に格上げされたのであった。 ハ インリ ッ ヒ 獅子公が市の建設の際に与えたープ レ ー ン (Pion) 湖岸の ポ ザ ウ (Bosau) の司祭であった, 同じ時代の年代記作者ヘルモルト (He!­ mold) の言葉に よ れば四. —. 「最も栄誉ある法 (jura honestissima) 」 に属. し たのは [以下の諸権限] であった。 海陸を越えて交易するリュ 市民のための, そ し てリュ. ーベ. ーベ. ック. ッ クに到来する「ロ シア人 (Rutheni) , 北. 欧人 (Gothi), ノ ル ウ ェ ー 人 (Normanni) , その他の東の部族」 のための 広汎な免税諸特権, 自由な両替の権利。 市内にいる, [獅子]公が任命 し た 貨幣鋳造人に対する市民の監督権 (Kontrolle) 。 リュ の帝国 自由とともに, ら] 彼ら[=リュ. ーベ. ーベ. ッ クは, 1226 年. 固有の貨幣鋳造権を獲得することになる。[それか ッ ク市民] の兵役義務の, 市防衛のみへの限定。 市. 民の, 単独で誓約 し うる権利。これによ って,[市民は] 彼が 自由人であり, いかなる土地領主の隷属民でもないことが証明され, [訴えに対する]いか なる反証も必要ではなくなった。[さらに]本来的には[獅子] 公または国 王に帰属するが, 後には市に帰属することになる, フ ォ - 193 -. ー. クト裁判の収益.

(17) バルト海地域における リ ュ ー ベ ック法 に対する市の持分権 (Beteiligung) 。 自分たちの都市法を思うままに改正 し, すなわち変更し, そして市民が 自治制定法的に定める, すべての法に ついて 自ら裁判する権限。 [つまり] 「すべての市の決定, すなわち kore ( = 自治制定法 (Willk ii r) ) を市参事会員は裁判すべし」 [ と いうこ と で あ っ た戸。 この最後の, 法史的にはおそらく最も重要なリュ. ーベ. ックの 自. 263頁 由 と と もに, リュ. ーベ. 開かれ, そしてリュ 紀には既にリュ. ーベ. ック市参事会によるリュ ーベ ック法の創造への道が. ーベ. ックはこの道を精力的に踏み出してい っ た。 14世. ック と リュ. 内容 と その正当性を, リュ. ーベ. ーベ. ック法[の下にある] 都市では, その. ック市参事会の判決, または 自治制定法に. よるこ と なく, 奪いうるような法原則は ほ と んど存在しなかった。 た と え 帝国法の変更一 ラント平和の刑事法ーに対しても, 市参事会はしり込みす るこ と なく, 市参事会は [都市] 法改正の権限を利用して,. ハ インリッ. ヒ. 獅子公の個々の特権を, 実情の変化に適合させた。 例えば, [ ハ インリッ ヒ ] 特許状 (1163年 と 推定されるのが常であるが) は, 相続人なく死亡し た者の遺産を, 市外にいる相続人が 1 年 と 1 日以内に[相続人である と ] 申し出ない場合, 「国王の権力」 である, 都市君主の裁判フ ォ る と していた。 1243年の ラ テン語のリュ. ーベ. ー. クトに委ね. ック都市法では, その遺産の. 半分が既に市に帰属するようになり, 15世紀の ド イツ語の法写本では, 市 のみが相続人に挙げられた究 「リュ. ーベ. ック法」 の概念が完成するにいたるまでの速さは, 1188年の新. 市ハンプルクに対するホ ルシュ タ イン伯アドルフ 3 世の 自由特許状 (Frei­ brief) において, 既に, 法違反者が, ここではどこでも「リュ. ーベ. ック法. にしたがって」 贖罪するもの と 規定されえたこ と にも示されているであろ う。[しかも] 「リュ. ーベ. ック法」 と いう表現の, この最初の言及において - 192 -.

(18) 近畿大学法学 第48巻第 1 号 も, その内容につ い ての詳細な記述は [もはや] 必要とされてはいなかっ たようである。 そして1218年のロ ストック (Rostock) 市へのリュ ク法の授与は, ロ ストック市民が既に享受して い た 「リュ つ い て語って いる。 リュ. ー ベ;;. ーベ. ーベ. ッ. ック法」 に. ク法の数多くの法典の写本は, 当然のこと. ながら, 現実の法状態の ほんの 1 部を再現して い るにす ぎ な い のである が, その増大化はリュ. ーベ. ック市参事会の法創造的な活動を適切に跡づけ. る。 お そらく1230年から1263年の時期に記載されたであろう, 最古の ラ テ ン語の都市法の法文は約90条の基本部分からなる究 今 日 その内の 8 条と 幾つかの大きな断片が残されて い る。 いずれにせよ, なお 3つ[の断片] から分かることは, それらが近世にお いても存在していたことである。[ ラ テン語の都市法は] 1270年頃, 低地ドイツ語に転訳された後, その条文総 数は1300年以前でも既に250条を越えるに いたった究 この [法典の] 一内. 264頁 容と規模にお いて互 い にかなり異なる一ドイツ語写本の数は多い。 リュ ー ベソ. ク都市の エ ル ビンク (Elbing) だけでも1945年には, その内の11の写. 本がなお存 在して い た。 最 後 の, 1586年 の 校 訂リュ. ーベ. ック都市法典. (Revidierte Liibeckische Stadtrecht) は 6 編417条からなって いた。 こ れは. それから1900年まで (ただし, その私法部分であるが) 有効であっ た。 ここ [=法典] にも, 部分的にではあるが. リュ. ーベ. ックの法的な要. 素が含まれて い たことは. 後に明らかになるであろう叫. [ リ ュ ー ペ ッ ク 法の] 起源の問題 さて, リュ. ーベ. ック市参事会の法創造者的な力には最大限の敬意が払わ. れるとしても, 彼らが, リュ. ーベ. ックの初期一我々が言うところの市の最. 初の 100年間一には, [未だ] 日 々の法生活のあらゆる決定を固有の, そし - 191 -.

(19) バルト海地域におけるリュ ーベ ック法 て 自ら発見した規範に基づいて行うまでには至っていなかったことも明ら かである。 しかしリュ ーベ ッ クは村落的な, ラント法的な共同体から成長 したのではなく, 最初の 日 から完全な意味での都市であり, そして一歴史 的に見れば一法秩序のない共同体は存在していなかったから, 市民たちは 当初, お そらく別の法にしたがって生活し, そこから, そしてそれを素材 としながら固有のリュ ーベ ッ ク法が成長したのであ ろ う。 それとともに, 我々 は, 既に何百年にわたって論じられてきた問題である, いわゆる起源 の問題に至ることになる。 これについて既に1769年にリュ ー ベ ッ クの法学 識者 ハ インリ ッ ヒ ・ ド ラ イ ヤ ー (Joh. C. Heinrich Dreyer) 0り は, それを 「法の歴史についての最下級の学生でも知っている」 ことと述べ叫 そし て, それについて見解を表明していた学者 (Autoren) は 57人を下回らな いことをも紹介していた。 それ以降 その人数は確かに 2 倍になっている。 この問題の要は,. ヘ ルモルトの ス ラプ年代記の後継者であり,. リュ ーベ ッ. クの聖 ヨ ハ ネ 修道院の院長であった年代記作者のア ー ノ ル ト (Arnold) の 次の記述である。 すなわち, リュ ーベ ッ ク市民は,. ハ インリ. ッ ヒ 獅子公の. 失墜 [1180年] 後, 彼らの都市君主[=ハ インリ ッ ヒ 獅子公] への信義か ら, 彼らの都市を,. 1 年間, 皇帝 [=フリードリ ッ ヒ 1 世] に対して防衛. 265頁 し, そして ハ インリ ッ ヒ 獅子公の命令によって初めて皇帝に市門を開き, その際 彼らは皇帝に次のことを要求したと。 [それは] 彼によって, 彼ら に [獅子] 公が授与し, 特許状において文書化していた 「 ゾー スト法にし たがった市の 自由と裁判権 (j us ti tias) を」 承認してもらうことであっ た見 しかし. どの程度 ゾー スト都市法がリュ ーベ ッ ク市民に授与されて いたのか, その個所の幾分不明瞭な テ キ ストが一 体何を意味するのか. そ れどこ ろ か. この記述は本来的に信頼に値するのか. これら [の疑問の] - 190 -.

(20) 近畿大学法学. 第48巻第 1 号. すべてが新たな解答への多くの可能性 を与えて いる。 そして, さらに生じ たことは. 新たな研究が. より古 いリュ ー ベ ッ ク法の個 々 の条文と最古の ゾ ー スト都市法 (13世紀初め) を比較すること, ある い は一般的にこのよ うな方法で, ゾ ー スト,. ド ルト ム ント (Dortmund) , ケ ルン, その他の都. 市の法からの個 々 の法制度の継受 (Obernahme) を鑑定すること, に着手 し始めたことであ っ た究 この, 好んでとりあ げられ,. 一. 見すると正確に見. える研究方法 (Verfahren) は, しかし重大な方法論的な疑念の基礎とも な っ た。 最初, いずれにせよあ まり広汎ではなか っ たリ ュ. ーベ. ッ ク法写本. は一一般に中世の都市法がそうであるように一普遍妥当的で, よく知られ たものを含んでおらず, 疑わし い , または争 い のあるもの, ある い はここ では異な っ て いるもの, すなわ ち , まさに特殊リ ュ ん で い た。 なぜなら, リ ュ. ーベ. ー. ベ ッ ク的なものを含. ッ クは, 例えば, 子供のいる寡婦の [死亡. した] 夫の債務につ い ての責任に関して, 既に述べたように, 商人の信用 の強化と いう理 由から ゾ ー ストとは異なる道を選択し, 最も古く記載され たリ ュ. ーベ. ッ ク法の夫婦財産制と相続法に関する規定は ゾ ー ストの都市法. と異な っ て い たからである。 等 々 。 ただ時折, 付随的に, リ ュ お い て, 固有のリ ュ. ーベ. ーベ. ッ クに. ッ ク法の制定 (setzung) 以前に法であ っ たもの. が, 垣間見えることがある。 それゆえ全体としては, 必然的に幾分推測的 に (spekulativ) , そして不確かに答え ざるをえな い。 それでも, デトマ ー ル (Detmar) の記述は, 以下のような確証された事実と 自 明の事柄につい ては. い わ ゆる生物学的な証拠的価値を有して い る。 すなわ ち . リ ュ. ー. ベ ッ クの最初の定住者にして建設者の中の. 指導的な, したが っ て商人的 な, 市参事 会 員 に な り うる よ う な 一 部 の 人 々 (Element) が ヴ ェ スト フ ァ. ー. レンの出身であ っ たことと. 移住者た ち が彼らの法慣習も携えて来. ることが常で あ っ たことである。 「 ゾ ー スト出身のレヴ ェ ラト (Leverat de Sosato) 」. 「 ゾ ー スト出身のヴ ァ ルヴェ リクス (Walvericus Sosatie- 189 -.

(21) バ ル ト 海地域に お け る リ ュ nsis) 」, 「メ. ー. beke) 」. 「ヴ ァ. ーベ. ッ ク法. デ バ ッ ハ 出 身 の ゴ ト フ リ ド ス (Godefridus de Mede­ ー. レ ンドル プ出身の ギ ゼ ルベ ルトス (Giselbertus de War­. endorp) 」 等の名前は. 最古のリュ ー ベ ック市民の名前に. しかも市参事. 266頁 会員の名前に, 属している。 初期のリュ ーベ ックにお いて, どの程度ゾ ー スト法が利用されていたかを確定するこ と は困難である叫 確かに, 事会制度も裁判制度も ゾ. ー. 市参. ストのそれを模 範 と したよ う には見えない。. リュ ーベ ックの共同体 (Gemeinwesen) が本来的に ( ケ ルンのよ う な) 教 区 または ( ゾ ー ストのよ う な) 隣人団体 (Burschaften) を基にして構築 された と い う のも全くの虚構である。そして, 1260年の ゾ ー スト市参事会 選挙規則によれば, Hoven すなわ ち 隣人団体から上方へ と [選挙が] 進行 する, 同市の市参事会選挙手続きが, リュ ーベ ック市民に, 色あせた模範 と してであれ, 役立っていたならば, リュ ーベ ックの市参事会統治は民主 的な香油の大きな一 滴によって聖別されていたであろ う 叱 ゾ ースト法 (そして, 限られた範囲 ではあるが, 特に フ ォ の手続きに関しては, ホルステン のリュ ーベ ック法は,. ・. クト裁判 で. ー. ラント法) の基本要素 と 並ん で, 初期. バ ルト海商業を営む商人の,. 本来的に属地化してい. なかった慣習法によって, 少なからず規定されていた。その最も身近な法 文は12世紀末の シュレスヴィヒ都市法に見出されていた。そ う ではあった が, しかし (nun) 商業が, 沿岸に定住するよ う になったド イ ツ 人の商人の 手に移るにつれて, 航行技術 と 商業組織の変化 と と もに増大してきた独 自 の条項が,. バ ルト海の古い,. 民族的に中立な商法• 海法に と ってかわって. いった。その 1 部, 特に海法の 1 部はリュ ーベ ック法 と 一 致していた。 1260年頃, ヴィスマ ー ル (Wismar) で締結された 2 つ の ハ ンザ協定は, リュ ーベ ック法を享受する, すべての商人のために作成されたこ と を 自 ら - 188 -.

(22) 近畿大学法学. 第48巻第1号. 記載している。さらに, [植民者とともに] 持ち込まれる法を押し流してし まう, リ ュ ー ベ ッ ク固有の法制定と法発見という泉水が絶え間なく流れて いた。. [ リ ュ ー ペ ッ ク 法の] 伝播 リュ. ーベ. ッ ク法の偉大な法史学的な意義は, 何よりもまさに以下のこと. に存した。 すなわち, それが北東 ヨ. ー. ロ ッ パの重要な交通路であるバルト. 海を取り囲む, ほとんどすべての都市において効力を有していたことであ る。13世紀の経過中に, さらに14 世紀においても, ここでは約100のリ ュ. ー. 267頁 ベ ッ ク法都市が際立っていた。 それらを個別的に列挙することは本稿での 問題ではない叫 そのように [列挙 すること]も不可能ではないが, しかし 一. ー. ベ. ッ クの夫婦財産制と相続法を継受した幾つかの都市もあれば, 時代の経. 例えばリ ュ ーゲン島 (Rilgen) の ガルツ (Garz) のように一ただリ ュ. 過とともにマグデプルク法からリ ュ. ーベ. ッ ク法に移り, そして再び元の法. に戻った一または逆に進行した一都市もあり, さらには (wieder),. ヒン. タ ー ポンメルンの (hinterpommersche) 小都市, [すなわち] ポ ー ランド 戦争中に繰り返し荒廃に帰し笠. ほとんど人気の無くなり,. 1 8 世紀の調査. では, 彼らがいかなる法にしたがって生活しているか報告できなくなって しまった小都市なども存在していた。 しかし約80 [の都市] は, いずれに せよ確実で, 安定した実例である。 西側の最大の集団は ホ ルシ ュ タ イン伯 領の 1 8の都市ーキ ール, オ ル デ スレ ー (Oldesloe), イ ッ ツ ェ ホ ー , レンズ プルク (Rendsburg) などーであり, 東側の集団はバルト海の都市レ ヴ ァ ル (Reva!), ナ ル ヴ ァ , ヴ ェ ー ゼ ン プ ル ク (Wesenburg), ハ プ ザ ル (Hapsal) で あ っ た。 ド イ ツ 騎 士 団 領の プロ イセンでは, エ ル ビンク - 187 -.

(23) バ ル ト 海地域 に お け る リ ュ ー ベ ッ ク 法 (Elbing),. プラ ウ ンスベ ルク (Braunsberg), フ ラ ウ エ ン プルク (Fraue­. nsburg) のみが, そのリュ ー ベ ック法を, エ ル ム ラント (Ermland) が プ. ロ イ セ ンに復帰する まで (1772 年) 一貫して保持し続け た 。 メ メ ルと ダン ツ ィヒはその [リュ ーベ ック] 法を間もなく再 び失った。 大多数のリュ ー ペ ック都市は メ クレン プルクと ポ ン メ ルンの [バルト海] 沿岸に沿って広 がっていった。 ヴィスマ ー ル,. ロ スト ック, ストラ ー ル ズント,. グライ フ. スバルト, ア ンクラム , コルベ ルクと, それらの後背地の小都市であった 。 バルト海南岸の重要 な ハ ンザ都市の堂 々 とした 連鎖は一 (マ グ デプルク 法の) シュテティ ー ン, (クル ム 法都市の) ダ ン ツ ィ ヒ, ケ ー ニ ッヒスベ ル ク, メ メ ル, ( ハ ン プルク法の娘都市の) リ ガ (Riga) とともにード イ ツ 人 の市民によって創造された 。 こ れは, しかし (19世紀に好んで考えられた よ う に) , こ れらの城壁で囲 まれた 市民の城砦がすべて, それ以前には沼と 砂地に覆われ, わずかの見す ばらしいヴェ ンド人の (wendische) 漁師小 屋しか見 出 せ な い場所に建設され た, とい う こ とを意味するものでは な い。それ以前の世紀のバルト海にも,. ヨ ム スバ イ キ ン グ CJomswikinger). やスラ プ人の沿岸略奪者の群れが住んでいた。その太古の商業路としての 機能については, ネ. ー. ハ. イ タ プ, レトラ (Rethra), トル ソ (Truso) またはヴィ. タ (Vineta) 伝説によって取り巻かれたヴォ. ー. リン (Wollin) 島のユ ム. 268頁 ネ (Jumne) のよ う な [言わ ば] 考古学的な 記念碑が既に証明している究 さらに法 源も明 白 に語っている。 た とえば, 既に言及した 1 163年のリュー ベ. ックのハ イ ンリ ッヒ特許状は, 免税特権を Rutheni (= ロ シ ア 人) ,. Gothi (=ス ウ ェ. ー. デン人と ゴトランド人), Normani (= ノ ル ウ ェ. ー. 人). 「そしてその他の東の部族」 に保証している。シュレスヴィヒ都市法は一か つ て の シ ュラ イ の 都 市 [= ハ イ タ プ] の 港 と 同 様 に一 「 ゴ ト ラ ン ド. - 1 86-.

(24) 近畿大学法学. 第48巻第 1 号. (Gutiam) へ赴 く 商人た ち , フ リ ー ゼ ン人, スラプ人, ア イ スラン ド , ボ ルンホル ム (Burgundeholm) やその他からの外来者た ち 」 [のこと] で満 ち ていた。 このようなバルト海を越えて来る商人や航海者のすべては, 森 の中からでな く , 停泊地や交易地からや っ て来たのである。 後者の場所を 都市と呼ぶかどうかは, かな り 言語用法 (S prachre gelung) の問題であ る。 さらに ド イ ツ 人の諸都市は部分的に(無論,ほん の僅かではあるが). 以 下のような場所にも成立 し た (sich erhoben) 。すなわ ち ,そこは,スラプ 人の族長の城砦の側で一控え 目 な規準によるにせよ, 当時から住民数の多 い一農耕に利用されていない, 手工業が熱心に営 まれる場所であ っ た。 こ れは確かに ロ スト ック,ストラ ー ル ズ ント, シュテテ ィ. ー. ン,コルベ ルク,. ダ ン ツ ィ ヒ には妥当する。 [この種の都市では] よ り 新 し い新建設 [の都 市] の数が明らかに圧倒的である。 し か し , 既に言及 し た場所でも, ド イ ツ 人の都市は成立 し た。それらは [その後も] 長い間スラ プ人の定住地と 厳 し く 隔てられていた。 た だ し , すべて木材で建築されていた旧来の場所 [=後者] が頻繁に生 じ る火災の 1 つで焼失 し た場合には,そうではなか っ た。 [なぜなら] リ ュ ー ベ ック都市は, 13世 紀の都市法によ れ ば,既に切妻 屋根と防火壁は石造 り であ っ た [からである] 呪 1 255年のコル ベ ルクのた めの, 司教ヘル マ ン. ・. フ ォン. ・. カ ミ ン (Hermann von Kammin) とヴワ. ディス ワ フ (Wladislaw) 3 世公が交付 し た建設文書には 「我 々 は我 々 の 都市コル ベ ルクを ド イ ツ 人に リ ュ ーベ ック法に し たが っ て … … 与え, 彼ら が定住する ( possidendam) ものと し た」 と書かれている。 1 266年に, こ の司教は [さらに] 彼が 2 人の ド イ ツ 人, マ ルク ァ ルト (Mar-guard) と ハ ルトマ ン (Hartmann) に, リ ュ ー ベ ック法に し たが っ て, 「ケスリン. (=Koslin) と呼ば れる都市を与え, [彼らが] 定住するもの (ad posside­ ndum) 」 と し たことを, 文書に し ている。 Possidere は, たえず誤 っ て理 - 185 -.

(25) パ ル ト海地域におけるリュ ー ペ ック法 269頁 解されて き たように, 「占有する」 こ と を意味するのではなく, 「定住する (besetzen) 」こ と を意味する。「定住者 (possessores) 」 のマルク ァ ル ト と. ハ ルトマンは占有者ではなく, 定住者, すなわち ケ スリンの 「移民請負人」 であり, 彼らは他のドイツ人定住者をここへ引 き 寄せるもの と された。 明 らかに, ドイツ人の商人 と , その他の将来のドイツ人市民たちが, 当該地 で, 商業 ・ 滞在の 自 由の保護にのみ差し当たり服していたこ と も稀ではな い。 それらは, 彼らに, あるいは彼らの故郷の都市 (大抵は, まさにリュ ベ ック)に,. 族長 (Filrsten) から与えられていたものであった。 お そら < '. すべてのリュ て来た] リュ リュ. ーベ. ー. ーベ. ック法都市は, このようにしてリュ. ーベ. ーベ. ックから[やっ. 一. ック市民によって. あるいは, 後にはいずれにせよ. ック都市の市民によって一建設されて き た。 それゆえ彼らが, 彼. らが熟知しているリュ. ーベ. ック法 と リュ ーベ ックの諸特権 (Freiheiten). の利点が承認されるこ と を懇望したのも当然であった。[彼らの]親戚関係 は, なお数世紀にわたって, 市参事会名簿や市民名簿 そして遺言書におい て追跡するこ と がで き る。 都市の建設者 と 族長の法的な関係は契約的な関 係であったが, それは一方的な特許状の形態を装っているこ と もあり, た だ稀に, 契約的な性格を認識させるこ と もあった。例えば, 1 285年のトレ プト ウ (Treptow a. d. Rega) 罰 の特許状では, ポンメルン公 ボ ギ ス ワ フ (Bogislaw) 4 世 と ベ ルプック (Belbuck) の修道院長が次のように確認し. ている。「我々はドイツ人 と トレ プト ウ 市の定住に関して, 以下のような方 法で, そしてリュ. ーベ. ック法にしたがって一致し… … 」 と 。 その他には,. 大抵 「承認 (concessio) 」 または 「特別の恩寵による贈与 (donatio ex speciali gracia) 」 と いう形式が選ばれたが, これは, 中世において, 身分. 関係を考慮したこ と から好まれた, 見せかけの形式にす ぎなかった。 例え ば, 皇帝[= カ. ール. 4 世] からゆすり取られ, そして帝国諸侯によって取 - 184 -.

(26) 近畿大学法学. 第48巻第 1 号. り決め ら れた[神聖ロ. ー. マ] 帝国の選挙法である 1356年の金印勅書でさえ. も, 堂々と 「皇帝の全能か ら 」発せ ら れた「皇帝の勅令」と 自称していた。 ス ラ プ人の先行的な [都市的] 定住地 (Vorgangerin) が以前あった場 所に, ドイ ツ人の定住地が[成立し] 都市として承認されるとともに, 前 者は[その役割を] 終えた。 初期の ポンメルンの歴史記述家の カ ンツ ォ ウ (Kantzow)0� がこのことを カ ミン (Kammin) 市について記述している。. それによって, この都市は 1 274年の破壊の後, リ ュ ーベ ック法にしたがう, ドイ ツ人の都市として再建された。 すなわち, それまでは「ヴェ ンド法も. 270頁 利用されていたが,. バル ニ ム. (Barnim) 公は彼 ら のヴェンド法をドイ ツ法. に変更した」 と。 ス ラプ人の住民は, 彼 ら が手工業者や商人であれば, ド イ ツ人の都市で職にありつくことを求めた。 たとえ, 彼 ら が, リ ュ. ー. ベッ. ク法によって, より劣った権利を持つ市民になることしかできなかったと しても, である究 それ以外の, 大半の漁民や農民 (Gartner) である ス ラ プの住民は一当初, しばしばヴィ ク (Wiek) と呼ばれる一城外町に留まっ ていた。 ロ ストックでは, フォ. ー. 13 世紀の間,. 彼 ら は,. クトの下に服していた。. しかし 「ヴェンド法か ら ドイ ッ法への」 変更は, リュ. 独 自の市のヴェンド人. ー ベy. ドイ ッ法,. すなわち. ク法[に服する] 新しい都市の市民にとって, 彼 ら が持ち込ん. だ法慣習が変わることなく維持さ れるということを意味するだけではな かった。 ドイ ツ人の市民たちが保持する一方で, 非ドイ ツ人の市民も獲得 したものもあった。 これは, ス ラヴ人の定住地の手工業者や商人が有した ことのないものであった。 それは 自由であった叫 ここに, たとえ我々が ス ラプ人の先行する定住地を都市として表示することに何の疑念も抱かない としても. [ドイ ツ人の都市と ス ラヴ人の定住地との] 大きな相違があっ - 183 -.

(27) バルト海地域におけるリュ ーベ ック法 た。 ここには大きな前進があり, ここにはドイツーリュ ーベ ックー都市法 の魅力があった。 その経済的 [に有利] な側面は, それどころか ス ラプ人 の支配者に以下のことを得策と考え さ せ た。 す なわち, 彼らへの臣従 (Un tertanenschaft) を都市的な手工業民 (Gewerbshintersassen) に求 めることを諦め, ドイツ人たちに市行政の舵取りを委ねることであった。. [ リ ュ ー ペ ッ ク ヘの]上訴制度 青いバルト海沿岸に沿って真珠の首飾りのように [延びていったのは], プリック ゴシック様式にして, 城壁に囲まれた, 自由な市民が居住し統治 する都市であった。 それらはリュ ーベ ック法によって結び付けられてい た。 この広大な経済領域での商業と交易にとって, 法の統一から, いかな る利点が生じたかは容易に推測することができる。 リュ ー ベ ック, スト ラ ー ル ズントまたはレ ヴ ァ ル出身の商人あるいは船乗りはどこへ赴こうと も, 契約, 相続, 訴訟 などは至る所で, 彼らがよく知っている同じ法にし たがって処理された。 1400年頃には概算では350 , 000人の人がリュ ーベ ッ 27 1 頁. ク法にしたがって生活していた。 これはバイエ ルン. ・. ラント法の 2 倍であ. り, プレ ーメン都市法にしたがって生活する人々の10倍であった。 この偉 大な, そして広大な都市法家族の中では, 市参事会制度と裁判制度, 相続 法と遺 言形式, 土 地帳 簿 制 度, 商 法 と 刑 事 法は同じであり, これらは リュ ー ベソ ク市参事会によって結び付けられ, そして常に新たな法素材に よ っ て 豊 か に さ れ て い った。「最上 級 審 (hi:ichste Recht) 」 とし て の リュ ーベ ックは, その娘都市に, その法の写本を与えたのみならず, 問い 合わせに応じて数百もの個別的な法の教示を与えた。 13世紀以来, リュ ー ベ ックは,. 娘都市の それぞれの市参事会が下した判決の上訴審でもあっ - 182 -.

(28) 近畿大学法学 第48巻第 1 号 た。「我 々 の法を有 し て いる都市 または小都市にお い て, ある者に 1 つの判 決が発見されるならば, その者はそれを, も し 彼がそれを判決非難するの であれば, (当該地の) 市参事会に訴える (wist) ことになる。それから, その市参事会によって彼に判決発見がなされ, それを彼が正当なものと思 わな い のであれば, 彼は我 々 の市参事会に非難することができる」叫 1 270 年頃の,. い わ ゆるエ ル ビンク法典 (Elbinger Kodex) に初めて収録され. た, この条文はリュ ー ベ ッ ク法であり, 原則的にすべてのリュ ー ベ ッ ク都 市にお い て, そ し てそれらの都市のために妥 当 し た。 ただ し 例 外も存在 し た。 プ ロ イ セ ンのド イ ツ 騎 士 団 は, そのリュ ー ベ ッ ク都市エ ル ビ ンク. (1246 年), メ メ ル (1254 年), プラウ ン ス ベ ルク, フ ラウ エ ン プルクに リュ ー ベ ッ クヘの上訴を禁止 し た。 これらの都市の判決非難は騎士団にな されるものとされた。エ ル ビンクは 100年にお よ ぶ粘り強い 苦闘の後に [= リュ ーベ ッ クヘの] 上訴権を獲得 し た。 メ メ ルはいずれにせよ間もなくク ル ム 法に移行 し た。 一連の ポ ン メ ル ンと メ クレン プルクの小都市群は, そ [=リュ ー ベ ッ ク法] の授与の際に, それぞれの地区に存在する別のリュ ー ベ ッ ク都市を上級法廷 (Oberhof) とすることを指定 し てもらって い た。 例えば, コ ルベ ルク, カ ミ ン, ウ ゼ ド ム (Usedom) の控訴審はグライ フ ス バル ト とされた。 コ ルベ ルクヘは, さらに ケ スリン, ケ ルリン (Korlin), シュラヴェ (Schlawe) ,. プ プリ ッ ツ (Bublitz) から上訴される (verwi­. esen) ものとされた。 コ ルベ ルクは後に明らかにリュ ー ベ ッ クヘ上訴を直 接行うようになった。 孫都市がその上級法廷を飛 び越えてさらにリュ ー ベ. ッ クヘと向かうことができたかどうか, は一般的に答えることはできな. い 。 ト レ プ ト ウについ てはそれは証明されるが,. ヘラ. (Hela) 市につ いて. は 「彼らの刑事判決はエ ル ビンクで得 ら れる」 べきものとされ, これ [= リュ ー ベ ッ クヘの上訴] は明瞭に禁止されることになった (1378年)呪. - 1 81 -.

(29) バ ル ト 海地域に お け る リ ュ ー ベ ッ ク 法. 272頁 もしかすると こ のような制限の ゆえかもしれないが, しかし確かにその 伝承記録の紛失のゆえに, リ ュ. ーベ. ックの上級法廷としての判決は我 々 に. は33娘都市についてのみ残されているにす ぎない。 だが,その [=判決] 数は数千にものぼる。 リ ュ. ーベ. ック市文書館が第 2 次世界大戦末期に焼失. (Untergang) する前に, こ のような判決の約3,600は, こ れは1550年 まで の分であるが, 書き写しによって (abschriftlich) [戦災を] 免れ,そして 最近, 印刷され出版される こ とになった。 こ れは量的にも他に例のない法 史学的な判決集 である。1)。 そして こ れらすべての市参事会判決は, 法律家 によって演繹的に下されたのではな く , 何世紀にもわたる法思考の強烈な 連続性 にお いて, 商人た ち , すなわ ち 名 誉戦的に活動する市参事会員と市 長によって, 下されたのであ り , 彼らは法学識を有したわけではないが, 法を絶えず意識していた。 こ のような伝 統から,. ロ ー マ 法的な普通法の. リュ ーベ ック法への影響の少なさが理解されるし, [その影響は] いずれに せよ後代の こ とになる。 リ ュ. ーベ. いて厳かに抗議した こ とは, リ ュ. ック市参事会が繰 り 返し帝室裁判所にお ーベ. ックから控訴されてきた訴訟事件に. 皇帝法が適用されるとしても,それはリ ュ. ーベ. ックの法と正義に反するも. のであってはならず, 市参事会は 「我 々 が耐える こ とのできない皇帝法に よって悩 まされた く はない」 という こ とであった。 さらに1456年のリ ュ ベ. ック市長ヘルマ ン. ・. フォン. ・. ー. ヴ ァ レ ンドル プ (Hermann von Waren­. dorp) の発言も有名である。すなわ ち 「いかなる者も都市の法を皇帝法に よって侵害してはならない。 … … もしそのラテン語で書かれた法が我 々 の 都市の制度にとって無益で,そして全 く 相応し く ないのであれば」。. [ リ ュ ー ペ ッ ク 法の] 終焉 それゆえリ ュ. ーベ. ックの上級法廷の制度に終末を準備したのは. - 180 -. ロ. ー. マ.

(30) 近畿大学法学. 第48巻第 1 号. 法でも, あるい は, 16世紀末から, リュ. ーベ. ッ ク の [法]領域内の局地的 ・. 領邦的な裁判所令, 例えば1586年のロ ストッ ク 裁判所令, 1558年, 1570年, 1622年のメ ク レンプル ク の宮廷裁判所令, 1566年の ポ ンメルン裁判所令 等々,. へ と継受された帝室裁判所の訴訟. [手続き] でもなかった。 逆に,. 273頁 一般的に慣用となったもの [=普通法とその訴訟制度] [=リュ. ー. へ の同化 は,. その. ベソ ク 上級法廷] の存続に寄与しただけであったろう。 [ その終. 焉を準備したの は] むしろ領邦君主によって成功裏にすすめられた彼らの 権力の完全化と, その領邦の国家化であった。 これに属したの は , 領邦外 の裁判権の排除と領邦君主の固有の裁判所の創設であり, これら は, ボ ダ ン (Bodin) が政治的な権力闘争に主権概念を導入した後に登場した叫 こ のような新たな [政治] 地図においても, およそ10に及ぶ領邦において, 中世の市民 自治の記念碑であったリュ. ー. ベッ ク の上級法廷の制度が阻害的. な残存物として [なお] くい込んでいた。 それゆえ 1496年, シュ レ ス ビ ィ ヒ. ・. ホ ルシュ タ イン公 フ リ ードリッ ヒ は, そのリュ. ベッ ク. ーベ. ッ ク 都市にリュ. ー. ヘの控訴を禁止し, その代替物として, キ ー ル, イッツェ ホ ー , オ. ルデスレ ー , レン ズプル ク 市によって占められる, いわゆる 4 都市裁判所 を創設したのであった。 上記のメ ク レ ンプル ク や ポ ンメルンの裁判所令 と, これと並んで, あるい は これにし たがった, その他の裁判所令も リュ ー ベッ ク ヘの上訴を廃止した。 それら は当初、 市民の選択[権] を[許 していたが], 後に は 宮廷裁判所 へ の排他的な控訴のみを規 定した。 ス ウ ェ ー デン領となったレ ヴ ァ ル市 は, 1584年に ストッ ク ホ ル ム ヘの控訴を 命じられた (verwiesen) 。 17世紀半ばに, 1300年頃書かれた 「リュ. ーベ. ッ. ク 市参事会員に誤謬 はありえ ない」という思想にしたがって, 400年以上存 続してきたリュ. ーベ. ッ ク 上級法廷の組織 (Oberhofverband) が崩壊した。 - 179 -.

(31) パ ル ト 海地域に お け る リ ュ ー ベ ッ ク 法 リュ ーベ ック市参事会は1586年に,. 古い法記録 (Bestand) と判決 (Ju­. dikatur) から作り上 げた校訂リュ ー ベ ック都市法典 (Revidietes Lil­ becker Stadtrecht) を出版 さ せたが, これによっても, 前者 [=崩壊] が 止 まることはなかった。 同法典は, 何百年も経過してお り , その写本に収 められたリュ ーベ ック法も不明確で, 矛盾に満 ち , 時代遅れである, とい う領邦君主らによって広められた非難を避けるために編纂 さ れたのではあ るが。 この法典は, 前述のリューベ ックヘの上訴に関する条文も一緒に収 録していたが, これは実際, 最初から空論にす ぎなかった。それにもかか わらず, 大抵の [リュ ーベ ック] 都市は, この, 校訂 さ れた [だけで] , そ の内容にお いて ロ. ー. マ 法とほとんど抵触しない法を 自らの固有の法とし. て受け入れ, そしてこれは, いずれにせよ大多数の都市では, リュ ー ベ ッ クにおけると同様に, その私法的な部分とともに, 1896年公布 さ れたド イ ツ 民法典 まで(したがって1899年12月 31 日 まで) 有効であり続けた。 17 · 18世紀には, この校訂法典をめぐって数百にも及ぶ法学的な文献が登場し. 274頁 た。これが, いわゆる 「リュ ーベ ック法学 (Jurisprudentia Lubecensis) 」 であった。その中では, スウ ェ. ー. デン領であったヴ ィ ス マ ー ル (Wismar). 市 の上級 裁 判 所 の 副 所 長 (Vizeprasident) ダ ヴ ィ ッ ド ・ メ ヴ ィ ウ ス (David Mevius) が書いた偉大な注釈書が最も有名であった。これは1643 年以後何度も版を重ねることになったり°。 リュ ーベ ック法自体は, その東 部の前哨 (Aussenposten) であったバルト海沿岸都市にお いて最も長く 効力を有しつ づけた。そこでは, 同法は一1864年以後, 「 エ ストランド都市 法」 の名 前が付けられたがー 1940年 まで有効であった。 忘れてならないの は 最後に, 我 々 が今 日 のド イ ッ 私法の 中でリュ ー ベ. ック法から受け継いできた法の遺産である。 周知のように, 我 々 [ド イ - 1 78 -.

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