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解説★★★ (1)
★★★ (2)
★★★ (3)
★★ (4) 廃藩置県によって、各県には県令(のちに知事)を東京、大阪、京都の3府には府知事を中央から派遣して治めた。
★★★★ (5)
★★★★ (6)
★★★★ (7) 1871年には「解放令」が出されたが、実際には、差別は根強く続いた。
★★★ (8) 政府は欧米の列強に対抗するため、経済を発展させて国力をつけ、軍隊を強くすることを目指した。
★★★ (9)
★★★ (10)
★★★★ (11)
★★★★ (12) ア 版籍奉還(1869年)、イ地租改正(1873年)、ウ1885年、エ廃藩置県(1871年)
新しい政府は、日本を近代国家にするため、様々な改革を進めた。こうした改革と、それに伴う社会の動きを(A明 治維新)という。
1868年3月に新政府は、世論を大切にして政治を進めること、外国との交際を深めて国を発展させるなど、新しい 政治の方針として五箇条の御誓文を定めた。
1869年に版籍奉還が行われたが、藩の政治はもとの藩主がそのまま担当したので、改革の効果はあまりなく、
厳しく年貢は取り立てたため、人々の不満は増し、一揆がしきりに起きた。
少数の公家や薩摩、長州、土佐、肥前の4藩の出身者たちが政治の実権を握った。このため、のちに藩閥政治と 呼ばれるようになる。
1872年に「学制」が公布され、特に初等教育が重視され、6歳以上の男女すべてに小学校教育を受けさせることと した。学校の建設費や授業料は地元の人々が負担した。
1873年の徴兵令によって、徴兵反対一揆がおこった。また、最初は免除規定が多く、実際に兵役についたのは、
ほとんどが平民の二男、三男たちだった。
1873年の地租改正で米で納入からア現金で納入となった。各地で地租改正反対の一揆が起きたことから、1877 年に地租を地価の3%から、2.5%に引き下げられた。
目標時間
30
分★・・・簡単 ★★・・・少し簡単 ★★★・・・標準 ★★★★・・・少し難しい ★★★★★・・・難しい ★★★★★★・・・かなり難しい 合計
日付
2節 明治維新(解答)
第4章 開国と近代日本の歩み
(5)
(10)
徴兵令
(11) (12)
現金 ア、エ、イ、ウ
(9)
学制 エ
(6)
藩閥
(7) (8)
解放令 富国強兵
(1)
明治維新
(2) (3) (4)
五箇条の御誓文 版籍奉還 廃藩置県
1
藩閥
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解説★★★ (1) 文明開化の窓口になったのが、海外との交通の接点であった横浜や神戸などの開港地だった。
★★★★ (2) ア1872年(明治時代)、イ1953年(昭和)、ウ大正時代、エは江戸時代の化政文化の内容である。
★★★ (3)
★★★★ (4)
★★★ (5)
★★★ (6)
★★★ (7) 日本の輸出を支える生糸の増産と品質向上を図るため、群馬県の富岡製糸場など官営模範工場がつくられた。
★★★★ (8)
★★★ (9) 1879年に軍隊の力を背景に、琉球の人々の反対をおさえつけて、沖縄県を設置した。
★★★★ (10) 清とは、1871年、対等な立場での(C日清修好条規)を結んだ。
★★★ (11) 武力で開国をせまる主張を「征韓論」という。
★★★★ (12) 使節の派遣を主張していた者は西郷隆盛(ア)と板垣退助(イ)である。
★★★★ (13)
★★★★ (14)
★★★★ (15)
国力の充実が先であると考えた岩倉具視や大久保利通は派遣を中止させたことで、政府は分裂し、西郷隆盛と 板垣退助などは政府を去った(明治六年の政変)。
1875年の江華島事件をきっかけに、翌年朝鮮との間に、清の総主権を否定し、独立国と認める条約、(日朝修好 条規)を結び、朝鮮を開国させた。
1875年、ロシアと樺太・千島交換条約を結び、ロシアの樺太の領有を認め、千島列島のすべてを日本領にするこ とで、両国の国境を確定した。
開拓の中心となったのが、各地から移住してきた農業兼業の兵士の屯田兵などだったが、人手不足を補うため、
囚人やアイヌの人々も集められた。
福沢諭吉の著書「学問のすゝめ」の中には「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という言葉は、社 会に強い影響を与えた。
ア 中江兆民(答え) イ 与謝野晶子(日露戦争のときの詩人) ウ 幸徳秋水(社会主義者で日露戦争前に 開戦に反対した) エ 森鴎外(明治時代の小説家、「舞姫」など)
岩倉使節団は、副使に木戸孝允(長州藩)、大久保利通(薩摩藩)など政府の有力者のほぼ半分が参加した大規 模なものだった。
殖産興業により、交通、通信の整備が進み、主要な港と大都市を結ぶ鉄道が開通した。通信では飛脚にかわる郵 便制度や電信網は整えられた。
(2) (4)
(15)
樺太・千島交換条約
(13)
明治六年の政変
(14)
D E
江華島事件 日朝修好条規
開拓使
(9)
琉球処分
(10) (11)
日清修好条規 征韓論 ア、イ
(12)
(6)
殖産興業
(7)
官営模範工場
(8)
改めた名称 役所
北海道
(1)
文明開化 ア
(3)
福沢諭吉 ア
(5)
岩倉使節団
2
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解説★★★★ (1)
★★★ (2)
★★★ (3) 国民が政治に参加する権利の確立をめざす運動を「自由民権運動」という。
★★★★★ (4)
★★★★ (5) 1880年には、全国の代表者が大阪に集まって(C国会期成同盟)を結成し、国会の開設を求めた。
★★★ (6) 伊藤博文は1885年に内閣制度ができると初代の(内閣総理大臣)に就任した。
★★★ (7)
★★ (8)
★★★★ (9)
★★★ (10) ア男女雇用機会均等法、イ廃藩置県、ウ国家総動員法、エ大日本帝国憲法の内容である。
★★★ (11)
★★★ (12)
★★★★ (13) 衆議院議員の選挙権は直接国税を15円以上おさめる満25歳以上の男子にだけあたえられた。
板垣退助などは、1874年1月(A民撰議院設立の建白書)を提出し、国会の開設を求めた。そののち、板垣退助 は、高知で立志社を結成し、運動を進めた。
西南戦争では、士族からなる西郷軍は戊辰戦争の経験者も多く、徴兵された農民が中心の政府軍を見下してい たが、政府軍の近代的装備の前に敗れた。
議会は① 皇族、華族や天皇が任命した議員からなる貴族院と、② 国民が選挙した議員からなる衆議院からな る二院制だった。
当時の政治は一部の藩の出身者によつて政治が動かされており、国民の意見を政治に反映させようとしたので、
国会開設を求めた。
自由民権運動は政党の結成へと進み、板垣退助を党首とする自由党、大隈重信を党首とする立憲改進党が結 成された。
大日本帝国憲法では、天皇が国の元首として統治することが定められ、帝国議会の召集、解散、軍隊の指揮、条 約の締結や戦争を始めることなどが、天皇の権限として明記された。
大日本帝国憲法は伊藤博文自ら、ヨーロッパに留学し、君主制の強いドイツ(プロイセン)などの憲法について学 んだ。
1900年に忠君愛国の道徳示され、教育の柱とされるとともに、国民の精神的、道徳的なよりどころとされた(教育 勅語)が出された。
3
(10)
エ
(11)
教育勅語
(13)
選挙権が直接国税を15円以上おさめる満25歳以上の男子に だけあたえられたから。
国
ドイツ(プロイセン) 君主制が強い憲法だったから。
理由
(9)
(12)
① ②
貴族院 衆議院
(7)
① ②
自由党 立憲改進党
(8)
大日本帝国憲法
(4)
一部の藩の出身者によつて政治が動かされており、国民の 意見を政治に反映させようとしたから。
(5)
国会期成同盟
(6)
内閣総理大臣
(1)
民撰議院設立の建白書
(2) (3)
西南戦争 自由民権運動