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<研究ノート>北京大学滞在記

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Academic year: 2021

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著者 伊藤 玄三

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 46

ページ 199‑203

発行年 1994‑03‑24

URL http://doi.org/10.15002/00011201

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一九九一一一年七月一日から同九月三十日までの一一一ヶ月間、法政大学交換研究員として北京大学へ赴く機会が与えられ、短期間ではあったが北京大学を主として中国での勉学生活を経験することができた。中国での勉学というか、むしろ資料蒐集への強い希望をもっていたので、ほぼ中国全域への目配りのできる北京大学へ行くことができたのは幸であった。今回の主目的は、かねてから関心を抱いていた唐代の跨帯資料の蒐集、それに新彊地区の考古及び砂漠調査資料の蒐集であった。そして、もう一つは中国新石器時代の研究動向を把握できれば、ということであった。鍔帯資料については、既に日本・朝鮮・中国東北地区の例を検討してきているので、その基礎となる唐代鍔帯を知りたいということであり、新彊地区即ちシルクロード地域については、一九九一・’九九二の両年度踏査したタクラマカン西南部の考古・歴史地理調査に関する文献資料の蒐集を考えてのものであった。中国新石器時代の研究動向を把握したいと思ったのは、’九八九年に山東省を中心に新石器時代資料を見て

北京大学滞在記(伊藤)

北京大学滞在記

歩いたこともあり、日本の弥生文化との関連で特に稲作資料の研究がどこまで進んでいるのかを知りたいと思っての事であった。北京大学の知人としては、’九八八年に日本考古学協会での外国研究者招待講演で来日されたことのある厳文明教授、早大留学の趙輝講師がおられるので、考古学系でお世話いただくことにした。法政大学国際交流委員会からは、北京大学外事処にFAXで連絡をとっていただき、受け入れもとどこおりなく行なっていただくことができた。しかし、北京空港へ降りたった時に出迎えられた旧石器研究者の王幼平講師は英語で話されるのにとまどい、第一歩から中国語会話のできないのが悔まれ、前途多難かと思わせられた。けれども、結果的には片言の英語・中国語と日本語でともかく暮らすことができた。私の北京大学での受入先は外事処であり、交換協定に基づく研究員としての処遇を与えられた点は、若干の利点があった。というのは、北京大学では各種の留学者がおり、各学系(学部相当)で受け入れている場合もあるので、それらの人々では大学の車で

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の送迎もないとの事であった。勿論、宿舎・手当てもあり、何よりも帰国直前の仲秋節には「月餅」や観劇券までわざわざ届けてくれるという次第であり、成程、大学のお客様扱いなのかと感心したりした。宿舎は、北京大学最北端に位置する北招待所(看板は「北招」)三階の一室が提供された。丁度、同じ法政大学から一教の大石智良教授も交換研究員として滞在しておられたし、他にも二、|||の日本から留学研究者がおられたので、種々御助言いただき、あまり心配なく生活できた。建物は、建国後ソ連からの援助要員用宿舎として作られたものとの話であったが、窓枠と煉瓦壁の間に隙が見えたりして、さすがに九月下旬には外の寒さが通ってきた。床板も部分的に揺れがあり、階下の住人から苦情が来たこともあった。老朽化してきているのは、ここだけではないだろうと推測させられたのであった。驚いたのは、九月に入ってから部屋の中にゴキブリ、蜂、ヤモリ、カメムシなどがよく入ってきたことである。一度は二十糎程の大きいムカデが洗濯物にしがみついていた。勿論、暑いうちは三階の部屋ではあったが蚊の来襲に悩まされた。日本の蚊よりもはるかに素早く、手でパチンと叩いても捕えることはできない程であった。北側の窓からは、万宗運河と清華西路を隔てて円明園の緑が見られ、目を休ませてくれた。昼食・夕食は、よくこの一階の北招食堂でとった。

○北京大学考古学系私の滞在希望の考古学系は、北京大学構内の中央部東側、丁度 法政史学第四十六号

図書館の東方に位置する「文史楼」にある。ただ、現在は考古学系の研究室等は新設の博物館の二階に移っており、図書資料室その他若干の部屋が残っているだけになり、この夏も多くの部屋が改造されて教室とされている。この考古学系は、’九五二年に北京大学歴史系の中の考古専業として創設され、一九八三年に独立した。それ故四十有余年を経たことになり、一九八九年には加えて博物館学専業を増設し、この一九九三年五月には「北京大学賓克勒考古与芸術博物館」が開館し、待望の大学博物館と研究施設も整えるまでに到っている。考古学は、中国古代史・世界近現代史と共に歴史系の中では三つの国家重点学科の一つとなっており、今後共充実がはかられる分野であろう。考古学系は、現在旧石器考古学・新石器商周考古学・漢唐考古学・博物館学の研究室から構成され、加えて陶磁研究所・北京大学賓克勒考古与芸術博物館・第四紀年代測定実験室・技術室・図書資料室・電化教学室・弁公室からなっている。系主任は、昨年日本に留学されてもいた李伯謙教授であり、博物館長も兼ねておられる。前任の厳文明教授は、なお系の重要委員会の主任をされている。両教授には歓迎宴を始めとして種々、お世話いただいた次第である。若手の新石器研究の趙輝、商周考古の徐天進、晴唐考古の蘇哲の諸氏にも多くの御援助をうけた。特に私は、中国の学術雑誌を対象に調べようと考えていたので、考古学系図書資料室には実質二ケ月以上お世話になった。主任の責梅仙さんは研究者でもあるので良く理解され、大変便宜をはかっていただいた。唯、この図書資料室でもかなりの雑誌類が 二○○

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見られるが、特に予算がなく購入ができないとの事であり、殆どが寄贈図書に依存しているという点での限界はあった。しかし、毎日九時’十|時、三時’五時という決められた時間に宿舎から自転車で図書資料室へ出かけて、殆どの雑誌を通覧し、必要論文はその後にコピーした。資料室にはコピー器が無いので、他の系のコピー室か、構内の店のコピー室に行かねばならなかった。時には行く先によってコピー料が違ったりすることもあり、器械の故障で次の店まで本を抱えて移動することもあった。こちらは時間が惜しいのに、大変丁寧にコピーをしてくれることがあったり、取扱い者がいないので待たされたりしたこともあり、妙なところでテンポの差を感じさせられた。この図書資料室には、時折若手の教員や大学院生が来て調べていたが、多くの先生方は自宅で勉強しているとの事であった。それ故、先生方にお会いする機会もそう多くはなかった。勿論、日本からの留学生も殆ど会うことはなかった。考古学系の教育は、考古学的基礎理論・基本的知識・技能をもつ専門的人材を養成することを目標とし、社会主義的路線を堅持・服務することが要請されている。考古専業では各時代にわたる考古学の講義以外にも実に多くの広い分野にわたる課目が用意されている。必修では外国語・実習・中国古代史が重んぜられている。考古学実習は、地方機関と提携して長期間にわたって実施し、資料整理作業も地方現地で行う由であり、原則的には大学へは運ばないと聞いた。その為、これまで北京大学では見学できる資料を殆んどもっていなかったという。しかし、博物館をもつこ

北京大学滞在記(伊藤) ○北京大学寶克勒考古与芸術博物館この博物館は、米国人アーサ1.M.サックラーの資金援助の下に、北京大学西北部に建設されている。建物は、清式の建築であり、この付近の外文楼などと同様である為、特に著しく目立つことはない。一階は約一○○○平方米の面積、|○室の展示室であり、二階は研究室・事務室、三階は収蔵室である。収蔵室には、燕京大学歴史博物館以来の収蔵品が納められているとの事であった。展示室は、照明・温温度調節も最新のものとの事であったが、日本からの技術・設備が導入されている。展示品には旧石器時代の遼寧省営口金牛山人骨、新石器時代の山東省北庄遺跡出土土器、晋代の山西省曲村墓地の豊富な資料、河北省磁県観台窯の発掘資料などに注目すべきものがあり、北京 とになったので、これからは違ってくるであろう。考古学系の卒業生は、昨年度は二○名であり、七名が大学院、八名が研究施設、四名が政府機関、一名が公司企業関係と配属されている。因みに、歴史系卒業生は四八名あり、大学院一九名、教職五名、研究施設三名、新聞出版七名、政府党機関三名、その他二名となっている。多くが公的機関の人材となっていることは当然といえるであろうが、特に考古学系は他に比してそれが目立ち、国家重点学科の性格も強くうかがえるようである。しかし、近年は北京大学でも企業などに進むものが多くなっているとの話を聞いた。理科系では卒業と同時に海外に留学していく人数がかなりあるようである。

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○周辺遺跡の見学専ら通った図書資料室も七月末から夏期休暇となり、一時閉鎖されることになった。名古屋大学江村助教授のお誘いもあったので、北京近傍の遺跡を二・三訪ねることにした。八月六日、北京大学からタクシーをチャーターして八達嶺長城を越え、延慶県玉皇城山戎墓葬陳列館を訪れた。ここは、’九八四年に発見され、北京市文物研究所が約六○○基の墓を発掘し、現在はその一部に覆屋をして公開している。山戎(又は北戎)は、春秋時代の有力な北方狩猟遊牧民族であり、屈々中原を侵犯した。紀元前六六四年には斉の桓公が燕を助けて出兵しているほどである。戦国末期には衰えていったようである。陳列館は一九九○年に開館し、建物内に一○基の墓葬が発掘時 大学考古学系の主要な調査成果がうかがえる。陳列品には、他に北京市・河北省や社会科学院考古研究所の発掘資料なども借用展示していて、年代的にも整った配列となっていた。先にも触れたように、この博物館は年来の希望の施設であり、今後は考古学・博物館学研究者・学生の拠点となるものであり、併せて一般への開放も有料で行なっている文化・芸術の交流の場として位置づけられている。今夏も、日本からの訪問者が幾人も見られた。展示品図録である『燕園聚宝』や小ガイドブックもあり、国際的にも中国理解の一助たらんとの意気込みがみられる。考古学系の研究室もこの二階にあるので、先生方を訪ねるのはこちらの方が確実という状況となっている。 法政史学第四十六号

のまま見学できる。遊牧民とはいえ、副葬品の青銅銀などには中原の影響も色濃くうかがえるものがある。唯、深い土壌、多数の馬・牛・羊・狗などの殉葬骨の重なりは、やはり山戎の典型的な姿を伝えているのかと見てきた。帰途は、北側から長城へ登ってから帰った。八月九日、夜行列車で石河庄・保定への旅に出掛けた。石家庄では、河北省文物研究所・河北省博物館を訪ねたが、主目的はこの地域に戦国期に栄えた「中山国」の王墓及び都城を見学することであった。これもタクシーをチャーターしてホテルから遠出をすることになった。中山王墓は畑地の中に小山のように盛土されたものであったが、既に調査された一部はかっての墓墳をそのままに露にされていた。主墓墳は盗堀されていたが、側の副葬墓墳からは多数の青銅器などが発見されている。この中山王墓で注目されるのは、墓域が長方形に壇上に積まれ、上部には建物があったことが知られることであり、図も伝えられている。当時の王墓の上部の具体像が調査とも一致するものである点では画期的な成果であった。墓の斜面には瓦片も僅かながら散布し、瓦葺建築が覆っているものであることが推測できた。この後保定までバスで戻り、翌日、満城県漢墓を訪ねた。この満城漢墓も、独立丘の頂上近い斜面を穿った崖墓であることと共に、前漢中山靖王劉勝及び王后賓棺夫妻のそれぞれの墓であることが判明し、しかも夫妻は金纏玉衣でつつまれていた点で大きなニュースになったものである。先年、日本にももたらされて陳列されたことがあったが、各種の青銅器・玉器はさすがに漢王室一

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族のものかと感嘆せしめるものがある。因みに、ここの玉衣の玉材は、我々が踏査した新彊ホータン地域産の玉であると分析されているのを注目していたところである。同時に、山腹に大きな洞穴を穿ち、内部に喪屋を建て、多数の副葬品をもつ墓の姿は驚きであった。墓のある丘陵稜線上には他にも墳丘があり、夕刻の空にシルエットを描いていたのが印象的であった。九月に入って、留学している国学院大学院生の後藤雅彦君から周口店方面見学の誘いがあった。周口店は昨年見ているが、途中にある豊台区郭公圧の大葆台漢墓は見たいと思っていたので、出掛けることにした。再びタクシーである。この大葆台漢墓は、平地の低丘陵を掘り下げて作られた前漢燕王と王后の墓かとみられている。一九八三年に王墓である一号墓を復原して「大葆台西漢博物館」としている。墓の発掘時の様子が覆屋の下で見られるようになっているが、当日は停電であり、かつ鍵の保管者が不在との事で内部に降りてみることができないのが残念であった。この墓で著名なのは「黄腸題湊」であり、墓室に多数の角材が使用されて構築されており、前漢皇帝・諸侯王等の葬制を示す例が具体的に知られたことである。角材の木口がきれいに積み上げられた墓室は、周壁の木材の使用の多さにもまして感嘆すべきものであった。勿論、副葬品は盗掘されていたとはいえ尚注目すべきものがあり、玉製の舞人などは愛すべき彫刻であった。これら以外には特に北京から出ることはなく、かなり変った留学者だといわれながら図書資料室に通い続けた。敢えていえば、

北京大学滞在記(伊藤) 北京滞在中は、北招の滞在者仲間、北京大学考古学系の方々、そして忘れ難いのは二年間タクラマカン砂漠調査の友人である地理研究所の方々に大変世話になったことである。「砂漠の友」である楊逸陦・王守春の両氏は、毎週のように訪ねてきたり、夕食に招いてくれたりして本当に親切にしていただいた。二箱のコピー資料と、暖かい友情を抱いて九月三十日には無事予定通り帰国した。開通したばかりの空港への高速道路からの朝日は、殊のほかすがすがしく感じたことが思い出される。 近傍だという点で円明園肚と頤和園、それに香山公園で寺院などを見学したぐらいである。唯、円明園は北部に巨大な洋式建造物の廃嘘がみられたことは意外であり、林池の広大さもさることながら、驚きであった。北京大学以外には、社会科学院考古研究所と中国科学院地理研究所を訪問し、図書資料を見せていただいた。地理研究所では、古典的な調査報告とロシア語文献が比較的揃っていることが知られた。考古研究所では、日本でもおなじみの王仲珠前所長に「伊藤さん」と声をかけられたのにはビックリした。王氏とは長春のアジア史学会でも御一緒していたが、著名な同氏がおられることも失念していたのがはずかしかった。

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