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ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの : ガブ リエルのマクダウェル批判

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(1)

ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの : ガブ リエルのマクダウェル批判

著者 松岡 健一郎

雑誌名 文化學年報

号 68

ページ 163‑185

発行年 2019‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000107

(2)

ガ ブ リ エ ル の 言 う

﹁ ヘ ー ゲ ル ﹂ が 語 る も の

│ ガ ブリ エ ル のマ ク ダ ウェ ル 批 判│

松 岡

健 一 郎

序論

問 題の 所 在 マ

ル ク ス・ ガ ブ リ エ ル

Markus Gabriel

は︑ 近 年 耳 目 を 集 め て い る

﹁新 し い 実 在 論﹂ の 代 表 的 論 客 の 一 人 で あ る

︒ ガ ブリ エル のほ かマ ウリ ツィ オ・ フェ ッラ ーリ ス︑ カン タン

・メ イヤ スー

︑グ レア ム・ ハー マン らに よっ て繰 り広 げ ら れて いる この 現代 哲学 にお ける

﹁新 しい 実在 論﹂ 運動 は文 字通 り﹁ 新し い﹂ 思想 的潮 流で ある から とい うだ けで な く

︑そ の論 客同 士に 意見 の不 一致 も見 られ るこ とも あっ て︑ 今日 なお その 全体 像が 把握 され てい ると は言 い難 い︒ だ が 大ま かに 言え ば︑ 現象 学的 な相 対主 義︵ した がっ てま たカ ント の認 識論 の枠 組み

︶と ポス ト・ モダ ンと の両 方に 対 す る反 対を 表明 して いる こと

︑思 惟と 事物 との 双 方に 等 し い実 在 性 を認 め よ う とし て い るこ と

︑そ れ ゆ え﹁ 物自 体

﹂ の 概念 を人 間の 知に とっ てア クセ ス可 能な もの とし て肯 定的 に受 け容 れて いる こと など がそ の特 徴で あろ う︒ 他の 論客 に対 して ガブ リエ ルを 際立 たせ てい る点 は︑ 彼が ドイ ツ観 念論

︵特 にヘ ーゲ ルと シェ リン グ︶ を積 極的 に 議 論の 前面 に押 し出 して 活用 しつ つ現 代哲 学の 問題 を論 じて いる こと と︑

﹁ 世界 は存 在し ない

﹂と する 彼独 自の

︽無

― 163 ―

(3)

世 界︾ 論に ある

︒ガ ブリ エル の学 位論 文が 後期 シェ リン グ論 であ った ため

︑わ が国 にお ける ガブ リエ ル哲 学の これ ま で の紹 介と 受容 もま たシ ェリ ング の神 話論 に関 連し た形 でな され てい る︒ その 一方 で︑ 残念 なが ら︑ ガブ リエ ルの ヘ ー ゲル 解釈 につ いて はま だな お祖 述的 な解 説の 域を 必ず しも 出て いな いよ うに 思え る︒ 私見 では

︑実 在し た伝 記上 の 人 物と して のヘ ーゲ ルと は区 別し て︑ ガブ リエ ルの 描く

﹁ヘ ーゲ ル﹂ を捉 える こと は必 要不 可欠 であ り︑ この 作業 に よ って こそ ガブ リエ ルが

﹁ヘ ーゲ ル﹂ のも とに 浮き 彫り にし よう とし た問 題が 見え てく るの であ る︒ した がっ て本 稿の 課題 は︑ 第一 には ガブ リエ ルが

﹁ヘ ーゲ ル﹂ をど のよ うな 哲学 者と して 描い てい るの かを 明ら か に する こと にあ り︑ 第二 には その

﹁ヘ ーゲ ル﹂ がど んな 現代 哲学 の問 題に どの よう に対 決す るこ とに なる のか を明 ら か にす るこ とに ある

︒結 論を 先取 りし て言 えば

︑ガ ブリ エル の描 く﹁ ヘー ゲル

﹂は 懐疑 主義 の自 己適 用に 懐疑 主義 の 徹 底 を 見て 取 り︑ そ して そ れ を﹃ 心 と世 界

﹄の 著 者ジ ョ ン・ マ クダ ウ ェ ル

John McDowell

に 対 し て 突 き つ け る 哲 学 者

︵そ れゆ えガ ブリ エル の分 身︶ なの であ る︒ マク ダウ ェル に対 する 批判 はガ ブリ エル の複 数の 著作 にお いて 何度 も 繰 り返 され てお り︑ ガブ リエ ルに とっ てマ クダ ウェ ル批 判の 重要 性は まっ たく 明ら かで ある

︒に もか かわ らず

︑ガ ブ リ エル のヘ ーゲ ル解 釈の 文脈 とマ クダ ウェ ル批 判の 文脈 との 連関 が看 過さ れ続 けて いる ので ある

︒ 第1

節 ガブ リ エ ルの 描 く

﹁ヘ ー ゲ ル﹂ と は どん な 哲 学者 な の か ガブ

リエ ルは

︑ド イツ 観念 論だ けで なく 古代 およ び近 現代 の懐 疑主 義の 専門 家で もあ る︒ それ だけ にヘ ーゲ ル哲 学 の なか で深 めら れた 懐疑 主義 は︑ ガブ リエ ルの 注目 する とこ ろで あり

︑ま たガ ブリ エル はさ らに 懐疑 主義 に対 する 適 切 な応 答を そこ に見 出す ので ある

︒ガ ブリ エル の﹁ ヘー ゲル の解 釈で は︑ 懐疑 主義 のモ チベ ーシ ョン は自 己意 識の ま

ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの ― 164 ―

(4)

さ に自 由に こそ ある

TO, 30

︶︒ こ こで 注意 すべ きな のは

︑実 在の ヘ ーゲ ル と は 異な っ て ガブ リ エ ルの 描 く

﹁ヘ ー ゲ ル﹂ は哲 学の 端緒 もま た自 己意 識的 存在 者と して の人 間が もつ 自由 にあ ると し︑ その 自由 の表 現が

﹁懐 疑主 義﹂ な の だと する こと であ る︒ 実在 のヘ ーゲ ルの 著作

﹃精 神現 象学

﹄な らば 懐疑 主義 とは

︑意 識か ら自 己意 識へ

︑さ らに 主 と 奴の 弁証 法を 経て 進む 自己 意識 の歴 史の なか でス トア 主義 を背 景に 生じ る意 識形 態で あり

︑さ らに そこ から 自己 分 裂 の自 覚で ある

﹁不 幸な 意識

﹂へ と進 んで いく

︒だ が以 下に 見る 通り ガブ リエ ルは ドイ ツ観 念論

︵特 にヘ ーゲ ルと シ ェ リン グ︶ を懐 疑主 義に 対す る応 答と して 読 んで お り︑ 次 のよ う に 言う

︒﹁ 私 が 読 んだ 限 り では

︑シ ェ リ ング と ヘ ー ゲ ルと の両 者は 懐疑 主義 が有 する 形而 上学 的真 理を 解き 明か す︒ 懐疑 主義 の形 而上 学的 真理 とは

︑我 々は 有限 なの だ と い う理 解 と︑ 世 界の 非 実 存へ の 緊 密 な洞 察 と の︑ その 両 方 にあ る

﹂︵

TO, 1 f.

︶︒ こう し て﹁ シ ェリ ン グ およ び ヘ ー ゲ ルの 両者 は懐 疑主 義を 自分 の方 法論 のな かに 組み 入れ て︑ そう する こと で第 一階 の理 論化 から 高次 の形 而上 学的 理 論 化へ の移 行を 動機 づけ よう とす る﹂

TO, 6

︶︒ こ の 移行 は 経 験的 意 識 から そ の 自 己意 識 へ の移 行 を 意味 し

︑よ り 高 次 の階 層へ の上 昇で ある

︒ガ ブリ エル の解 釈で は︑ ヘー ゲル とシ ェリ ング はと もに 懐疑 主義 によ って 促さ れて この 高 次 の階 層へ と理 論の 水準 を高 めた とさ れて いる

︒ ガブ リエ ルは

︑懐 疑主 義の 展開 を次 のよ うに 説 明 する

︒﹁ 懐 疑 主義 は 次 の よう な 二 重の 役 回 りを す る│

│す な わ ち 一 方 で 懐疑 主 義 は哲 学 の 制 約で あ る のだ が

︑他 方 では

︑懐 疑 主 義 それ 自 身 を静 寂 主 義

quietism

のな か に 留 保 す る こ と が許 され てし まう なら

︑懐 疑主 義は 哲学 に対 する 脅威 へと 転化 する

︒ヘ ーゲ ルは この 逆説 的な 構造 を︑ 懐疑 主義 の 二 つの 形式 を区 別す るこ とに よっ て 解 消す る

﹂︵

TO, 22

︶︒ つ ま り︑ 懐疑 主 義 には 区 別 さ れる べ き 二つ の 形 式 があ り

︑ 悪 しき 形式 をと った 懐疑 主義 のほ うは

︑物 事に 対し て真 であ ると も偽 であ ると もど ちら とも 断定 でき ない とす る﹁ 静 寂 主義

﹂と いう 形を とっ て﹁ 哲学 に対 する 脅威

﹂へ と転 化し てし まう とい うの であ る︒ こう して ガブ リエ ルは 古代 の

― 165 ― ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの

(5)

懐 疑主 義の さら なる 徹底 化を

﹁ヘ ーゲ ルと シェ リン グ﹂ に見 出し

︑そ して さら にそ の論 点を マク ダウ ェル に対 置す る こ とに なる

︒﹁ マ クダ ウェ ルに よれ ば︑ ヘー ゲル の観 念論 の 中 心的 な 主 義主 張 と は﹃ 客 観性 と い うま さ に その 観 念 こ そ は︑ 自己 意 識 的知 性 の 自由 に 自 己規 定 す る 諸操 作 に 基づ い て 理解 さ れ る べき も の だ﹄

と いう こ と にあ る

︒も ち ろ ん この 定式 化は 明ら かに カン トに 連な る繋 がり をも つも ので ある が︑ しか し私 が思 うに

︑そ れは 真に ヘー ゲル 的で あ る 存在 論的 な動 向を 見落 とし てい る﹂

TO, xv

︶︒ ガブ リエ ルは

︑ま ず古 代の 懐疑 主義 を次 のよ う に要 約 し てい る

︒﹁ よ く知 ら れ て いる 通 り セク ス ト ゥス は

︑ピ ュ ロ ン 的懐 疑主 義と アカ デメ イア 的懐 疑主 義と の 間に 一 線 を引 い て いる

︒︵

⁝ 略⁝

︶理 性 が 十分 に そ のア ン チ ノミ ー を 経 験 する とき

︑そ の理 性の 最後 の絶 望的 活動 にお いて のみ

︑ピ ュロ ン主 義者 は世 界を

﹃世 界が 真に ある とこ ろの もの と し て﹄ 見る に至 る︒ これ をセ クス トゥ スは

︑有 名な メタ ファ ーで 表現 する

││ それ によ れば

︑知 を諦 める とい うこ と は 人が それ まで 昇っ てき たま さに その 梯子 を蹴 り捨 てる が如 し︒ ヴィ トゲ ンシ ュタ イン は︑ まさ にこ の反 響で ある も の に思 える

﹂︵

TO, 15

︶︒ 古 代の 懐疑 主義 のう ち︑ ピュ ロン 派の 懐疑 主義 者は アカ デメ イア 派の 懐疑 主義 者に よる 懐 疑 を 不徹 底だ と批 判し て︑ 懐疑 の徹 底を 遂行 した

︒も し懐 疑が 徹底 され るな らば

︑ア カデ メイ ア派 が十 分な 理由 もな く 前 提し てい る理 性へ の信 頼も また 絶望 に変 わる はず なの であ り︑ 懐疑 の徹 底に よっ て人 はも はや 克服 し難 い﹁ アン チ ノ ミー

﹂を 経験 する

︒ガ ブリ エル によ れば

︑そ のと き﹁ 人間 的知 のア ンチ ノミ ーは

﹃切 り裂 くほ どの 激し い懐 疑と 永 遠 なる 不安 定と から なる 状態

﹄に 至る

﹂が

︑前 述の よう に この 状 態 は懐 疑 主 義が 徹 底 さ れた 成 果 であ る の と 同時 に

︑ 次 なる 対応 が問 われ る重 要な 分岐 点で もあ り︑

﹁ この 状態 から 反 形 而上 学 的 な静 寂 主 義 はア!!!!!! へ の見 込 み に お いて 解放 され よう と する

﹂︵

TO, 20

︶ 道を 選 ぶ が︑ 他方 で ガ ブリ エ ル の 描く

﹁ヘ ー ゲ ル﹂ は別 の 道 を選 ぶ

︒そ れ こ そ がガ ブリ エル の描 く﹁ ヘー ゲル

﹂に とっ ては 哲学 が本 来た どる べき 道な ので ある

ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの ― 166 ―

(6)

既に 見た 通り この

﹁ヘ ーゲ ル﹂ のも とで は懐 疑主 義 が哲 学 の 端緒 で あ り︑

﹁懐 疑 主 義 的な 方 向 感覚 喪 失 とい う 原 動 力 な く して は

︑哲 学 しよ う と す る衝 動 が 自然 的 意 識に 現 れ 出 でる こ と は絶 対 に な い で あ ろ う﹂

TO, 22

︶ と さ れ る

﹃エ ンチ ュク ロペ ディ ー﹄ 第兞 節を 踏ま えて ガブ リエ ルは

︑次 のよ うに も言 う︒

﹁そ れゆ え懐 疑主 義は

︑有 限な もの と 無 限な もの との こ の 連関 へ の 洞察 と し ては

︑﹃ 内!!! 超越

Hinausgehen

﹈﹄ を動 機 づ け て悟 性 の 有限 な 固 定性 を 克 服 す ると いう とこ ろに ある

︒ヘ ーゲ ルに よれ ば︑ この 超越 とい う契 機に おい てこ そ︑ 哲学 のも つ正 当に 思弁 的な はた ら き が始 まる ので ある

﹂︵

TO, 25

︶︒ こ の引 用箇 所が 暗示 して いる よう にあ の分 岐点 から の適 切な 展開

︑す なわ ちガ ブ リ エ ルの 言う

﹁真 にヘ ーゲ ル的 であ る存 在論 的 動向

﹂は

︑﹁ 有 限 なも の と 無限 な も の との こ の 連関

﹂へ 洞 察 であ る ヘ ー ゲ ル論 理学 の無 限性 概念 に至 るこ とに なる

︒ だが その よう な方 向と は異 なっ て︑ ガブ リエ ルが マク ダウ ェル に見 る﹁ リベ ラル な自 然主 義の うち にあ る静 寂主 義 は 逆に

︑シ ェリ ング およ びヘ ーゲ ルか らの 論難 に直 面す れば

︑思 想が 弁証 法的 に首 尾一 貫し てい ない とさ れる こと に な ろ う︒ シ ェリ ン グ およ び ヘ ー ゲル は

︑静 寂 主義 を 次 のよ う な も のだ と 証 明す る こ とに よ っ て 攻 撃 す る

││ す な わ ち

︑静 寂主 義と は言 うも のの 静寂 主義 は懐 疑主 義的 基盤 に基 づい てい るの であ って

︑こ の懐 疑主 義的 基盤 は︑ 静寂 主 義 が結 局は それ 自身 に対 して 要求 する こと にな る立 場︑ すな わち 熟慮 を経 たう えで の素 朴さ とい う立 場と は両 立し 得 な いの だ︑ と﹂

TO, 5

︶︒ ガブ リエ ルの 指摘 によ れば

︑懐 疑主 義が 静寂 主義 へと 誤っ て転 化す る場 合で は︑

﹁ 懐疑 主 義 的 静寂 主義 はそ のモ チベ ーシ ョン

︑つ まり 所与 から 何ら か の形 で 決 定的 に 距 離を 置 く こ とを 達 成 した い と い う欲 望

﹂ を 充足 する こと がで きな くな る︒ なぜ なら ばガ ブリ エ ルが ヘ ー ゲル に よ る指 摘 を そ う解 釈 し てい る よ う に︑

﹁ピ ュ ロ ン 主義 的懐 疑主 義は 反省 をそ れ自 体と して は不 能で あり 無意 味だ と見 做し てき たと して も︑ しか し反 省の 助け がな け れ ば︑ ピュ ロン 主義 的懐 疑主 義は 単純 には ア!!!!!! へ は至 る こ とが で き る わけ で は ない

﹂か ら で あ り︑

﹁ア!!!

― 167 ― ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの

(7)

!!! は共 同体 の無 媒介 的生 命を 表 象す る も の では な い﹂

TO, 31

︶ か らで あ る

︒こ こ での 静 寂 主義 批 判 が問 題 に し て い る のは

︑静 寂 主 義が 目 指 す アタ ラ ク シア が そ れ自 体 や は り反 省 を 経た う え でな け れ ば 到達 で き ない の で あ る か ら

︑ア タラ クシ アは 決し て無 媒介 的な いし は直 接的 な統 一を 表す もの では あり 得な いと いう こと にあ る︒ この 観点 でさ らに また

︑﹁ 共 同体 の無 媒介 的生 命﹂

︑す なわ ち同 一の 共同 体の なか で日 常生 活を 通し てそ の構 成員 た ち が共 有し 前提 して いる 共通 感覚

︑コ モン

・セ ンス も批 判に さら され る︒ それ はつ まり

︑懐 疑の 主体 が帰 属す る共 同 体 の内 部に 存す る︑ その 共同 体の 構成 員た ちに よっ て共 有さ れて いる コモ ン・ セン スが 懐疑 主義 に対 する 反駁 とし て は 十分 でな いと いう こと であ り︑ この 点で ガブ リエ ル はマ ク ダ ウェ ル の ヘー ゲ ル 解 釈を 批 判 して い く︒

﹁ 諸々 の ヘ ー ゲ ル的 なモ チー フが

﹂︑ マ クダ ウェ ルの 場合 では

﹁コ モン

・セ ンス

﹂に 結び つけ て用 いら れて おり

︑﹁ コモ ン・ セン ス に 訴え ると いう こと の問 題点 は︑ カン トの 観念 論を マク ダウ ェル がヘ ーゲ ルに 準拠 した 仕方 で批 判す ると きに 行お う と する 場合 にそ うで ある よう に︑ その よう な訴 えか けが 実際 には 人の 権力 要求 を強 化す る結 果と なる に過 ぎな いと い う こと にあ る﹂

TO, 45 f.

︶︒ ガブ リエ ルに よれ ば︑ 静寂 主義 はヘ ーゲ ルが 懐疑 主義 に対 する 応 答 とし て 示 すこ と と は

﹁弁 証法 的に は両 立不 能で ある

﹂の で︑ むし ろ﹁ ヘー ゲ ル はこ の 齟 齬を 取 り 上 げ︑ それ を 活 用す る こ とで

︑懐 疑 主 義 か ら結 果的 に生 じる 保守 的静 寂主 義に 反対 する

﹂︵

TO, 31

︶︒ ガブ リエ ルの 描く

﹁ヘ ーゲ ル﹂ は古 代の 懐疑 主 義を 継 承 し徹 底 す る哲 学 者 で ある

︒懐 疑 主 義の 徹 底 と は︑

﹁人 間 的 知 のア ンチ ノミ ー﹂ の経 験の こと であ る︒ 我々 はこ のア ンチ ノミ ーを 直視 し︑ 自己 自身 がそ こに 立つ 世界 その もの に 実 は根 拠が なか った のだ とい う洞 察に 至る べき なの だが

︑あ の分 岐点 のう ち﹁ ヘー ゲル

﹂が 選ば なか った ほう の道 を 行 くマ クダ ウェ ルの もと では

﹁世 界へ の直 接的 な 関 係﹂

GE, 315

︶が 主 張 さ れる

︵と ガ ブ リエ ル は 思っ て い る︶ の で ある

ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの ― 168 ―

(8)

第2 節 ガブ リ エ ルに よ る マク ダ ウ ェル 批 判 とそ の 文 脈 ガブ

リエ ルは

︑マ クダ ウェ ルが その 主著

﹃心 と世 界﹄ で結 局の とこ ろま さに

﹁世 界﹂ の概 念を 適切 には 説明 しき れ て いな いと 指摘 して いる

︒﹁ マ クダ ウェ ルは 著書

﹃心 と世 界﹄ のな かで ほと んど 世界 につ いて は所 見を 述べ なか った

︒ 世 界と いう 概念 がま った く不 明な まま なの であ る﹂

TO, xii

︶︒ マク ダウ ェル 自身 は︑

﹃ 心と 世界

﹄の なか で次 のよ うに 言っ てい る︒

﹁世 界そ のも のが 我々 の思 考に 対し て合 理的 制 約 を な すの で な けれ ば な ら ない

が︑ 同時 に ま た﹁ 経験 的 探 究と い う も のは 我 々 が 自 ら の 責 任 あ る 自 由

responsible

freedom

をそ こで 行使 する 生の 一領 域で ある

︒ その よう に人 間の 自由 な精 神的 主体 とそ れを 取 り巻 く 外 的世 界 と の 関 係を 考え るこ とが でき るた めに は﹁ 経験 にお いて は自 発性 が︑ 受容 性の 引き 渡す もの のな かか ら取 り外 せな いよ う に 含 み 込ま れ て いる

﹂と 知 る こ とが 不 可 欠で あ り︑

﹁ 自発 性 と の 協働

co-operation w ith spontaneity

へ の受 容 性 の 寄 与 は 観念 上の こ と で あっ て も 切り 離 せ るな ど と 想 定し て は なら な い﹂

︒ マク ダ ウ ェ ルに と っ て︑ この 協 働 があ る と い う こと か ら は人 間 の﹁ 概 念領 域 を 取り 囲 む 境 界線 の 外 部に は 実 在性 を 配 置 しな い

と い う こと が 帰 結し

︑そ れ は と り もな お さ ずヘ ー ゲ ルの

﹁絶 対 的 観念 論 の 核 心﹂

に ある 考 え 方な の で ある

︒マ ク ダ ウ ェル は ヘ ーゲ ル の 絶対 的 観 念 論 を﹁ 概念 的な もの には 境界 がな い︒ なぜ なら 概念 的な もの の外 部に は何 も存 在し ない のだ から

﹂と 主張 する もの と 解 し︑ しか も﹁ その ポイ ント は︑ ヴィ トゲ ン シ ュタ イ ン のあ の 所 見 のポ イ ン ト︑

﹃我 々 は│

│そ し て 我々 の

︹日 常 的 に 用い てい る︺ 意味

︹の 作用

︺と いう もの は│

│決 して 事実 に事 欠い てど こか で立 ち止 まる こと など ない

﹄と いう 所 見 のポ イ ン トと 同 じ もの な の であ る

と も 言 っ てい る

︒こ の よう に し てマ ク ダ ウ ェル は

︑マ ク ダウ ェ ル の解 す る と

― 169 ― ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの

(9)

こ ろの

﹁ヘ ーゲ ル﹂ をヴ ィト ゲン シュ タイ ンと 結び つけ る︒ だが ガブ リエ ルは その よう なマ クダ ウェ ルの 理解 に 対し て 非 常に は っ きり と 反 対 し︑

﹁ヘ ー ゲ ルは 概 念 的な も の が 限 界な きも ので ある こと を示 して など いな い﹂

FS, 228

︶ と言 う︒ ガブ リエ ルの 批判 によ れば

︑﹁ 一つ の 読み 方 と し て 言 う と︑ ヘー ゲ ル はす べ て の 諸対 象 が 諸概 念 の もと に 属 す ると い う こと を 示 そう と す る 意図 さ え なか っ た の で あ る

︒︵

⁝ 略⁝

︶私 に 言わ せ れ ば︑ ヘー ゲ ル は 結局

︑あ ら ゆ る も の は 未 決 の 活 動

open-ended activity

と し て︹ そ の 限 り で

︺概 念 的な の だ とい う こ と の証 明 を 考え て い るよ う に 見 える

﹂︵

FS, 229

︶︒ こ の 引用 箇 所 が示 す よ うに

︑ガ ブ リ エ ル が自 らの 描く

﹁ヘ ーゲ ル﹂ に見 出そ うと して いる のは

︑未 知な る未 来へ と開 かれ て完 結し ない 体系 構想 であ り︑ そ れ は 体 系と い う より も む し ろ︑ 止む こ と のな い 体 系の 破 壊 と 創造 で あ ろう

︒ガ ブ リ エル か ら す れば マ ク ダ ウ ェ ル に は

︑そ して マク ダウ ェル の描 く﹁ ヘー ゲル

﹂に もま た︑ その よう な思 想が 欠け てい る︒ ガブ リエ ルが 見抜 いて いる 通り

︑マ ク ダウ ェ ル の言 う

﹁実 践

practice

﹂ は 行為 の 実 行 とい う よ りは 慣 習 や慣 行 を 意 味 する

︒﹁ マ クダ ウェ ルは

︑共 同体 的実 践の 透徹 性が 世界 の透 徹 性 その も の を可 能 な ら しめ る と いう こ と から 出 発 す る

︒マ ク ダ ウェ ル は﹃ 陶

Bildung

﹄ とい う 解 釈 学的 伝 統 に関 連 さ せて 実 践 へ の手 ほ ど きを 考 え て い る の で あ る が

︑ そ れ は た だ 単 に 見 か け の 上 で だ け 超 自 然 的 に 見 え る に す ぎ な い 理 性 的 動 物 の 能 力 を 実 現 す る ま で の こ と で あ る

GE, 314

︶︒ マク ダウ ェル が依 拠し てい る共 同体 内 部 にお け る 言語 ゲ ー ムの 安 定 的 運用 は

︑人 が その 共 同 体へ の 参 入 と いう 実際 の行 為を 行う こと を︑ した がっ て特 定の 慣習 のな かで 生活 する こと を前 提し てい る︒ マク ダウ ェル が﹃ 心 と 世界

﹄の 本論 の最 後に 言っ てい るよ うに

︑﹁ 人 間が 最初 に手 ほ ど きを 受 け る言 語 で あ る自 然 言 語は 伝 統 の保 管 場 と し ては たら いて いる ので あっ て︑ すな わち 何が 何の 理由 であ るか につ いて 歴史 的に 蓄積 され た知 恵の 倉庫 とし ては た ら いて いる の で あ る﹂

︒こ う し てマ ク ダ ウェ ル の も とで は

︑人 は 自分 が 帰 属す る 共 同 体の 言 語 を習 得 す るこ と に よ

ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの ― 170 ―

(10)

っ て︑ 自分 の意 志を 周り に伝 えた り︑ 誰か 他の 人の 気持 ちを 察し て理 解で きる よう にな り︑ 理由 に適 った 行動 の実 践 主 体と なる こと がで きる のだ とさ れて いる

︒ この 点に 関す るガ ブリ エル の説 明に よれ ば

︑﹁ ヴ ィト ゲ ン シュ タ イ ン の︽ 何ら 解 釈 では な い 規則 遵 守︵

﹃ 哲 学探 究

§

201

︶︾ を

︑マ クダ ウェ ルは 解釈 学的

﹁地 平 融合

﹂︵ 諸 精 神の 出 会 い︶ と解 し て い るの で あ り︑ そこ で は 規則 に 従 う 主 体に 対し て他 者が その 人な りの

︹そ の他 者自 身の

︺言 葉で 思っ てい ると ころ のも のが 眼前 に立 ち現 れる とさ れて お り

︑そ の結 果︑ 或る 規則

︵も しく は翻 訳マ ニュ アル

︶の 明示 的な 定式 化に つい て逡 巡す るに は及 ばな いと いう わけ な の であ る﹂

GE, 313 f.

︶︒ この よ うに し て ガブ リ エ ル はマ ク ダ ウェ ル 批 判を 通 じ て︑ 後 期ヴ ィ ト ゲン シ ュ タイ ン に よ っ て提 起さ れた

︽規 則順 守︾ 問題 をめ ぐる 議論 に参 加し ても いる ので ある

︒ ヴ ィト ゲ ン シュ タ イ ンの

﹃哲 学 探 究﹄ で の有 名 な 例で は

︑﹁ 2ず つ 数 を 足 せ

﹂と い う 指 示 を 受 け た 生 徒 が2

︑4

︑ 6

︑8

︑と 数列 を書 いて いく が︑ 10 00 を越 えた とこ ろか らな ぜか 10 04

︑1 00 8︑ 10 12

︑と 4ず つ増 え る 数列 を書 く︒ だが

︑も しそ れが 計算 間違 いの せい では なく

︑そ の生 徒な りに

﹁2 ずつ 足せ

﹂と いう 規則 をそ のよ う に 10 00 を越 えた ら4 ずつ 足せ とい うこ とな のだ と解 釈し てい たせ いな のだ とし たら

︑ど んな 行為 でも 規則 に従 っ た もの だと し得 るこ とに なる し︑ どん な規 則で も行 動を 制約 する のに 十分 であ るこ とに なる

︒こ の規 則順 守の パラ ド ッ クス に対 する ヴィ トゲ ンシ ュタ イン 自身 の答 えは

︑規 則に 従う とい うこ とは 規則 を解 釈す ると いう こと では ない の だ から

︑そ もそ もそ んな パラ ドッ クス など 生じ ない とす るも ので ある

︒ ガブ リエ ルか らす れば

︑共 同体 内部 の伝 統に 依拠 して いる マ ク ダウ ェ ル の見 解 は﹁

︽ 常に 既 に

Immer-shon

︾を 潜 在 的 に 含 意 し て し ま っ て お り︑ そ れ は ヴ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン が き っ ぱ り と 拒 否 す る も の で あ る

﹂︵

GE, 315, Anm.

187

︶︒ ガブ リエ ルか らす れば 本来 的に 未決 の活 動の 場で ある べき

﹁概 念的 なも の﹂ が︑ マク ダウ ェル の場 合で は︽ 常

― 171 ― ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの

(11)

に 既に

︾伝 統な いし は過 去の 継承 との 連続 性の うち へと 回収 され るの であ って

︑ヴ ィト ゲン シュ タイ ンの 言う

﹁解 釈 で はな い規 則順 守﹂ をも マク ダウ ェル は人 間の 行為 に︽ 常に 既に

︾先 立つ 制約 とし ての 伝統 ない しは 共同 体内 部の 慣 習 のこ とだ と解 して しま って いる

︒す なわ ち︑ マク ダウ ェル のよ うに

﹁コ モン

・セ ンス を引 き合 いに 出し てそ こへ 立 ち 戻る こと は︑ 正当 化の 位置 に︹ 単な る︺ 事実 への 依拠 が出 てく るの でカ テゴ リー

・ミ ステ イク なの だが

︑そ れだ け で はな い︒ コモ ン・ セン スへ の立 ち戻 りは

︑特 にこ れと いっ た形 での コモ ン・ セン スな どと いう もの は存 在し ない の だ から

︑不 明確 なも のへ の立 ち戻 りな ので ある

﹂︵

GE, 313

︶︒ ガブ リエ ルは マク ダウ ェル に対 して

︑こ のよ うな 世界 観は 人間 が本 来も って いる 自由 を適 切に とら えて いな いこ と に 起因 して いる ので はな いか と問 いを 差し 向け る︒ マク ダウ ェル の﹁ リベ ラル な自 然主 義﹂ が依 拠し てい る﹁ いわ ゆ る 第二 の自 然と いう 概念 に到 達す るに は︑ 自然 法則 の空 間と いう 近代 的概 念に 対抗 し且 つそ れを 克服 すべ きも のと し て 人間 的自 由が 行使 され ねば なら ない

﹂の だが

︑だ から こそ

﹁シ ェリ ング は︑ 静寂 主義 には 反対 する ので ある

︒静 寂 主 義の 理論 には 構造 上の 盲点 があ る︒ 静寂 主義 者は 自分 の理 論の 発端 から して

︑人 間特 有な 自由 を使 用し なけ れば な ら ない ので あっ て︑ この 自由 はシ ェリ ング が人 間的 知の アン チノ ミー のな かに 発見 する もの であ る

﹂︵

TO, 20

︶︒ 人 間 を

﹁第 二の 自然

﹂の 住人 たら しめ るこ とが でき るも のは

︑人 間に 固有 の自 由に ほか なら ない ので あっ て︑ ガブ リエ ル の 描 く﹁ ヘ ーゲ ル

﹂お よ び﹁ シェ リ ン グ﹂ は この 自 由 の現 れ を むし ろ

﹁ア ン チ ノ ミ ー

﹂に 見 出 す︒ マ ク ダ ウ ェ ル の

﹁静 寂主 義は 人間 特有 な自 由を 説明 し損 なっ てし まう

︒こ の 人 間特 有 な 自由 は

︑カ ン ト に従 い つ つシ ェ リ ング が 強 く 主 張す ると ころ のも ので ある

︒つ まり 静寂 主義 は次 の︹ 二つ の︺ 事実 を正 しく 解す るこ とに 失敗 する わけ であ る│

│ す なわ ち︑ 人間 とは 知る 存在 者と して は形 而上 学へ 向か う如 何と もし がた い﹃ 自然 な﹄ 傾向 をも つも のだ とい う事 実 で あり

︑そ して さら には

︑こ の傾 向に よっ て且 つこ の傾 向を 通し て人 間が 顕示 する もの が永 遠な 自由 の顕 示で ある と

ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの ― 172 ―

(12)

い う事 実で ある

﹂︵

TO, 21

︶︒ ガブ リエ ルの 定義 によ れば

︑﹁ 形 而上 学と は︑ 全体 なる もの が 何 であ る の かを 形 而 上 学が そ の なか で 定 義す べ き で あ るよ うな

︑そ うい う全 体な るの もの に達 する とい うこ とに よ って 特 徴 づけ ら れ る﹂

TO, p.3

︶の で ある が

︑有 限 な 人 間が 生き てい る領 域と その よう な﹁ 全体 的な るも のに 達す る﹂ こと で開 かれ る形 而上 学的 展望 の領 域と の︑ その 構 造 的 な いし は 存 在論 的 な 落 差が 水 平 化さ れ る こと は あ り 得な い

︒ガ ブ リエ ル が 上述 の よ う に﹁ ヘー ゲ ル と シ ェ リ ン グ

﹂か ら引 き出 した 考え 方に よれ ば︑ 人間 は形 而上 学と その 刷新 へと 向お うと する 傾向 をも つも ので あり

︑そ れは 人 間 的自 由と 分か ち難 く結 びつ いて いる ので あっ て︑ 絶え ざる 不安 定に ほか なら ない この あり 方こ そが 人間 を知 の主 体 に して 且つ 自由 の顕 示者 たら しめ てい る根 本的 制 約な の で ある

︒ガ ブ リ エル は こ う も言 っ て いる

︒﹁ も し 我々 が 形 而 上 学を 諦め て放 棄す るな ら︑ 我々 は人 間的 自由 を諦 め放 棄す るこ とに なる

﹂︵

TO, 34

︶︒ ガブ リエ ルは 自身 のマ クダ ウェ ル批 判を 次 のよ う に 概括 し て いる

︒す な わ ち︑

﹁ 私が 嫌 疑 をか け て いる の は

︑マ ク ダ ウェ ルは 世界 を総 体性 と見 做す 考え 方に つい て入 念に 考え を述 べて はい ない ので はな いか

︑そ して ヘー ゲル が存 在 論 へと 明ら かに 回帰 する とい うこ と︵ それ は実 は存 在論 の新 たな 形式 の創 造な ので ある

︶の 意味 する もの の何 たる か に つい てマ クダ ウェ ルは 解明 を避 けて いる ので はな いか とい うこ とで ある

︒﹂

TO, p.34

︶︒ 第3

節 ガブ リ エ ルに お け るヘ ー ゲ ルの 無 限 性概 念 の 継承 ガ

ブリ エ ル がマ ク ダ ウェ ル に 反 対し つ つ ヘー ゲ ル か ら読 み 取 ると こ ろ によ れ ば︑

﹁ ヘー ゲ ル の 著 作 は︑ と り わ け

︑ 我 々 を 教育 し て 我々 の 認 識 論的 有 限 につ い て の我 々 の 諸 前提

︹諸 想 定︺ を 克服 す る こと に こ そ 目標 が 定 め ら れ て い

― 173 ― ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの

(13)

︒こ のこ とは

︑後 期ヘ ーゲ ルの

﹃真 無限

﹄へ の教 育的 洞察 がも つ重 要な こと であ る︒ 真無 限は

︑或 る一 つの 関係 を な すも のの なか の一 関係 項

a relatum of a relation

なの では なく

︑む しろ 諸区 別の 次元 なの であ り︑ 合理 性そ のも の の バ ック グラ ウン ドな ので あっ て︑ それ ゆえ この バッ クグ ラウ ンド は決 して 所与 の被 規定 的な 契機 とし て固 定さ れ得 は し ない

﹂︵

TO, 46

︶︒ ヘ ーゲ ルの 無限 性概 念の 要点 をガ ブリ エル は︑

﹁︵ 1

︶無 限な もの はど の特 殊な ポジ ショ ンか ら で あ れア クセ スさ れ得 ない

﹂︑ お よ び﹁

︵2

︶ま さ に こ の否 定 性 が無 限 な もの で あ る﹂

TO, 34

︶ と いう 二 つ のテ ー ゼ に 要 約し

︑且 つそ れを

﹁カ ント およ びヘ ー ゲル の 真 に 批判 的 な ポテ ン シ ャル の 展 望 を開 く も の﹂

TO, 46

︶ だと も 言 っ て いる

︒そ して ガブ リエ ルは ヘー ゲル の無 限性 概念 の構 造を ヘー ゲル が﹁ 絶対 的な もの

﹂と 呼ぶ もの の構 造と 同じ だ と 解し てい る︒ すな わち

︑﹁ 無 限性 につ いて のヘ ーゲ ルの ポ イ ント は

︑絶 対 者の 弁 証 法 全般 の な かで 用 い られ て い る ポ イン トと 基本 的に は同 じも ので ある

﹂︵

TO, 117

︶︒ 以下

︑ガ ブリ エル の言 うと ころ の﹁ ヘー ゲル

﹂か ら一 旦離 れて

︑ヘ ーゲ ル

の 原 典 に 即し て 無 限性 概 念 の展 開 を 追 っ てみ るこ とに する

︒そ うす るこ とで 我々 は︑ ガブ リエ ルが ヘー ゲル の無 限性 概念 から 受け 継い でい るも のと そう で な いも のと の両 方を 見る こと にな るだ ろう

︒ ヘー ゲル の無 限性 の概 念は

︑ヘ ーゲ ル哲 学に おい て一 貫し て極 めて 重要 な概 念で あり 続け た︒ だが それ は︑ 無限 性 の 概念 が最 初か ら完 成さ れて はい なか った から であ る︒ 無限 なも のと 有限 なも のと の相 互外 在的 関係 を克 服し よう と い う 意 図は 初 期 の草 稿 か ら 一貫 し て いる と し ても

︑そ れ を 実 現す る た めの 方 法 は幾 多 の 試 行錯 誤 を 経な が ら 改 良 さ れ

︑こ の改 良作 業は 実に ヘー ゲル 最晩 年の

﹃大 論理 学﹄ 改訂 にま で及 んだ ので ある

︒ ヘ ー ゲ ル は

︑粗 悪 な・ 劣 っ た な ど を 意 味 す る 形 容 詞

“schlecht”

を 付 し た 無 限 性﹁ 悪 無 限

schlechte Unendlichkeit

﹂ を

︑本 当の 無限 性を 意味 する

﹁真 無限

﹂か ら区 別し

︑真 無限 以前 のも とと 見做 して いる

︒こ の﹁ 悪無 限﹂ とい う用 語

ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの ― 174 ―

(14)

は ヘー ゲル のイ ェー ナ時 代中 盤に 書か れた 一八

〇四

/一 八〇 五年 の論 理学

・形 而上 学草 稿の

︑い わゆ る﹁ イェ ーナ 論 理 学

﹂の な かで 最 初 に登 場 す る︵

GW 7-29

︶︒ ここ で の﹁ 悪 無限 と は︑ 悪 しき 実 在 性 と悪 し き 観念 性 と の第 三 者 で あ る

﹂︵

GW 7-31

︶と 定義 さ れ てお り

︑単 純 にそ れ だ け で想 定 さ れた に 過 ぎな い 質 の 概念 お よ び量 の 概 念が

︑そ の ま ま の 形 で 無媒 介 的 に他 方 へ 関 係す る と き︑ 双方 の 並 存を 表 現 す る﹁ 第三 者

﹂が 悪 無限 だ と され て い る の で あ る︒ つ ま り

︑当 初ヘ ーゲ ルの 悪無 限批 判は

︑対 立し 合う もの を中 立的 な﹁ 第三 者﹂ のも とに 並べ て保 持し てお こう とす るこ と に 向け られ た批 判だ った ので ある

︒悪 無限 を真 無限 から 区別 する ヘー ゲル の見 方で は﹁ 本当 の無 限性

︹真 無限

︺は 系 列 では ない ので あり

︑い つも 何ら かの 他な るも のに おい て完 成す るが この 他な るも のを いつ も自 分の 外部 にも つよ う な 系列 では ない ので ある

﹂︵

GW 7-33

︶︒

﹁ 単純 関係 が自 身を 自己 自身 のう ちへ 反省 する 限り で無 限 性 にな る の であ り

︑そ れ で やっ と は じめ て 単 純関 係 が 自 ら の本 質に 従っ てそ れで ある とこ ろの もの を自 己自 身に 措定 する の で ある

﹂︵

GW 7-29

︶︒ こ の引 用 箇 所に よ れ ば︑ 単 純 関係 その もの が本 当は 無限 性だ った ので あり

︑単 純関 係の 自己 還帰 が実 は無 限性 を示 すこ とで もあ った とさ れて い る

︒﹁ 絶 対的 な無 限性 は︵

⁝略

⁝︶ 単純 関係 のそ れ自 身 へ の絶 対 的 な還 帰 で あ る︒ 言い 換 え ると そ れ は︑ 反措 定 さ れ て いる もの 同士 をそ れら 自身 に即 して 単純 に直 接的 に止 揚す るこ とで あ る﹂

GW 7-32

︶︒ だ が 真 の無 限 性 では な い 悪 無 限は

︑単 純関 係の 自己 還帰 が不 十分 にし か示 され ない 単な る並 置の 段階 にあ る︒ 悪無 限は

︑単 純関 係に よっ て生 じ た 対立 を並 置と いう 形式 をと って 自ら 体現 して いる に過 ぎな い︒ 確か に悪 無限 も︑ そう いう 対立 を廃 棄し よう とす る 運 動で ある には 違い ない のだ が︑ しか しそ の運 動に よっ て絶 え間 なく 要求 され 続け る統 一は 実現 され ずに 常に 挫折 す る

︒﹁ 悪 無限 は︑ 絶対 的な 仕方 で対 立を 統合 して 止揚 しよ う と して で き ない で い る 不能 が 進 む最 後 の 段階 で あ る︒ そ の 際 に こう い う 不能 は

︑こ の 止 揚の 要 求 だ け を な す に 過 ぎ ず

︑こ の 要 求 を 満 た す 代 わ り に 要 求 の 叙 述 に 甘 ん じ る

― 175 ― ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの

(15)

ibid.

︶︒ ここ での ヘー ゲル は真 無限 と悪 無限 とを

︑﹁ 真 の無 限性 と は 実現 さ れ た要 求 で あ り︑ 被規 定 態 が自 身 を 止揚 す る と い う こ との 実 現 であ る

﹂︵

ibid

︶の に 対 し て︑ 悪無 限 と は﹁ 充た さ れ ざる 要 求 の 叙述 に 甘 んじ る

﹂︵

GW 7-33

︶ と い う 対 比に よっ て規 定し てい る︒ ここ での 悪無 限批 判は

︑規 定性 が被 規定 性に 対し て外 在的 ある いは 偶然 的で しか ない と い うこ とへ の批 判で あり

︑そ の論 点は 非常 に明 確で ある と思 われ る︒ しか し︑ その 論点 の明 確さ にも かか わら ず方 法 論 上の 問題 点も また 露呈 して いる

︒つ まり

﹁イ ェー ナ論 理学

﹂に おい ては

︑悪 無限 その もの が自 らの

﹁不 能﹂ を自 己 自 身に 対し て示 すわ けで はな く︑ また 自己 自身 によ って 自ら の存 立構 造を 再構 築す るよ う進 展す るわ けで はな く︑ 悪 無 限 の﹁ 不 能﹂ は真 無 限 の立 場 か ら のみ 示 さ れる に 過 ぎな い

︒し た が って

︑ガ ブ リ エル が あ くま で も ヘ ー ゲ ル 哲 学

﹁後 期の

﹂無 限性 概念 こそ を重 要視 して いた のは 適切 な解 釈だ った ので ある

︒ 一 八

〇 七 年 の﹃ 精 神 現 象 学

﹄で も 無 限 性 を 純 粋 に 捉 え る の は 当 事 者 の 意 識 で は な く︑ そ れ を 高 み か ら 傍 観 す る

﹁我 々﹂ だと され てい る︒

﹁悟 性に とっ ては 感覚 的な 覆い を被 った あり 方で 対象 であ るも のが

︑我 々に とっ ては 純粋 概 念 とし て本 質的 な形 態に おい てあ る︒ この よう に︵

⁝略

⁝︶ 無!!! を あり のま まに つか むこ とは

︑我!!!!!! の こ と であ る﹂

GW 9-101

︶︒ なら ば晩 年の ヘー ゲル の﹃ 大論 理学

﹄で は︑ 無限 性は どの よう にな って いる であ ろう か︒ 無限 性に 先行 する 諸形 式 は

﹁直 接 に 単な る 被 規定 性 と し ての み

︑有 限 なも の 一 般と し て の み︑ 措定 さ れ る に 過 ぎ な い

﹂が

︑﹁ 無 限 な も の は

︑ 明 らか に︑ 有限 なも のの 否定 とし て規 定さ れて いる

﹂︵

GW 21-124

︶︒ つ まり

︑そ れま で は単 に 有 限な 被 規 定性 一 つ ひ と つが 示さ れた に過 ぎな いの に対 し︑ はじ めて

﹁無 限な もの

﹂が それ らに 包括 的な 反省 をな すと され る︒ 但し

︑こ の 無 限な もの の最 初の あり 方は まだ 十分 なも ので は ない

︒ヘ ー ゲ ルに よ れ ば︑

﹁そ れ 自 体 とし て は 無限 な も のが 実 際 に

ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの ― 176 ―

(16)

は 被制 限性 や有 限性 に見 て取 られ てい るわ けで はな い︒ 主要 なこ とは

︑無 限性 の本 当の 概念 を悪 無限 から 区別 する こ と

︑理 性の 無限 なも のを 悟性 の無 限な もの か ら区 別 す るこ と な ので あ る

︒︵

⁝略

⁝︶ 無 限な も の が有 限 な もの か ら 純 粋 に 且 つ 遠 ざ け ら れ た 形 で 保 持 さ れ る べ き で あ る 限 り は

︑無 限 な も の は 単 に 有 限 化 さ れ る に 過 ぎ な い の で あ る

GW 21-124

︶︒ 無 限な もの がそ れ自 身か ら有 限な もの を排 除し 切り 離し て独 立に 自 己規 定 す る場 合

︑そ の こと 自 体 が 実 は無 限な もの の有 限な もの への 関係 づけ なの であ る︒ 有限 なも のに 関係 づけ られ てい るこ とで 無限 なも のは

︑有 限 な もの との 連関 で意 味を もつ もの とし てそ れ自 身有 限化 され る︒ ヘー ゲル は︑ 以下 のよ うに 無限 なも のの 規定 の展 開を

︑a bc の三 段階 に分 けて 箇条 書き にす る︒

﹁ 無限 なも のは

︑ a

.単 純な 規定 にお いて は︑ 有限 なも のの 否定 とし ての 肯定 的な もの であ る︒ b

.し かし 無限 なも のは

︑そ れだ から

︑有 限な もの との 交互 規定 にお いて あり

︑そ して 抽象 的な

︑一 面的 な無 限な も の であ る︒ c

.有 限な もの が自 身を 止揚 する よう に︑ この 無限 なも のが 自身 を止 揚す ると いう こと が︑ ひと つの プロ セス とし て

│本 当 の 無限 な も のな の で あ る﹂

GW 21-124

︶︒ ここ 示 さ れた ヘ ー ゲル の 見 解 によ れ ば︑

﹁ 本当 の 無 限 な も の﹂ す な わち 真無 限は 一連 の自 己展 開の プロ セス とし て示 され る︒ かつ ての

﹁イ ェー ナ論 理学

﹂の 場合 とは 異な り︑ 真無 限 は 悪無 限か ら切 り離 され ない

︒上 記引 用に よれ ば︑ 無限 なも のは 第一 に︑ 有限 でな いも のと いう 単純 な規 定に おい て 有 限な もの の否 定と いう 意味 をも つ︵ 無限 性の 規定

﹁a

﹂︶

︒ そし て第 二に

︑そ の無 限な もの は︑ 有限 なも のを 外部 に 排 除 し て存 在 し てい る 限 り﹁ 他 なる も の の非 在

﹂︵

GW 21-126

︶と 呼 ば れる 不 完 全 な段 階 に ある

︒そ の 場 合︑ 無 限 な も の は 自ら の 関 与が 及 ば な い外 部 の 他 な る も の に よ っ て 制 限 を 受 け

︑そ れ 自 身 が 有 限 な も の へ と﹁ 格 下 げ さ れ る

GW 21-135

︶︵ 無 限性 の規 定﹁ b﹂

︶︒ 第 三に

︑無 限な もの と有 限な もの との 双方 に おい て 自 己止 揚 が 起こ り

︑こ の 自

― 177 ― ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの

(17)

己 止揚 の運 動が 真無 限で ある

︵無 限性 の規 定﹁ c﹂

︶︒ 無限 なも のの 展開 プロ セス のな かで

﹁無 限な もの は自 らを 格下 げし て︑ 無限 なも のの 規定 のう ちの 単に その ひと つ に 過ぎ ず︑ 有限 なも のに 対抗 し且 つそ れで もっ てそ れ自 身 が有 限 な もの の う ちの 一 方 で ある に 過 ぎな い も の にな り

︑ そ して

︑こ の無 限な もの の自 己自 身と の区 別を

︑無 限な もの 自身 の肯 定へ と止 揚し て︑ この 媒介 によ って

︑真 の無 限 な もの とし てあ る︑ この よう なプ ロセ ス が あ るべ き な のだ

﹂︵

GW 21-135 f.

︶︒ この プ ロ セス の 叙 述は

︑本 質 論 の﹁ 矛 盾

﹂節 本論 最後 の箇 所の 矛盾 の解 消プ ロセ スに つい ての 叙述 と同 型で ある

︒ 無限 性の 規定

﹁b

﹂に 相当 する 無限 なも のの 有限 化を 論じ る際 にも ヘー ゲル は︑ 本質 論さ なが ら仮 象を 作り 出す 作 用 にさ え言 及し てい る︒ 有限 なも のを 外部 に排 除し てい るあ り方 で捉 えら れた

﹁無 限な もの の直 接的 存在 は︑ 無限 な も の の 否定 性 の 存在 を

︑つ ま り 当初 は 無 限な も の のな か で 消 え た か の よ う に 仮 象 し

schien

有 限 な も の の 存 在 を

︑ 再 び呼 び起 こす

﹂︵

GW 21-126

︶︒ つ まり

︑無 限性 の規 定﹁ a﹂ をそ のま ま にせ ず に︑ さ らに 無 限 性の 規 定

﹁b

﹂へ と も たら した のは

︵本 当は そう では ない のに

︶自 らの もと で有 限な もの が消 えた かの よう に見 えた 仮象 が︑ その 見せ か け の実 在性 を喪 失す る﹁ 無限 なも のの 否定 性﹂ によ るも のだ った ので ある

︒ 一方 では 無限 なも のの もと に﹁ 有限 なも のの 存 在﹂ が呼 び 起 こさ れ て 無限 な も の の有 限 化 が生 じ

︑ま た 他 方で は

︑ 有 限な もの が無 限な もの に移 行す る有 限な もの の無 限化 さえ もが 生じ る︒ すな わち

︑有 限な もの に対 立す る無 限な も の は﹁ 粗悪 に無 限な もの

︑悟 性の 無限 なも のと 呼ば れ得 る︒ 悟性 にと って はこ の無 限な もの が最 高の 真理

︑絶 対的 な 真 理と して 妥当 する

﹂︵

GW 21-127

︶︒ こ の悪 無限 すな わち

﹁悟 性の 無限 なも の﹂ は 無限 進 行 であ り

︑そ れ は有 限 な も の を否 定す る無 限な もの と︑ 無限 なも のを 否定 する 有限 なも のと が際 限な く交 互に 連鎖 して いく 系列 であ る︒ ヘー ゲ ル は真 無限 を﹁ 円﹂

︑ 無限 進行 の悪 無限 を﹁ 直線

﹂︵

GW 21-136

︶と いう 比喩 で 説明 し て いる

︒真 無 限 が円 環

︑す な わ

ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの ― 178 ―

(18)

ち 自己 完結 した もの とさ れる のに 対し て︑ 悪無 限は どこ まで も伸 びて いく 直線 に比 せら れる ので ある

︒ だ が︑ この よ う にヘ ー ゲ ルが 悪 無 限 を自 己 還 帰を 欠 い た 悟性 の は たら き に よる も の と 規定 し て いる に も か か わ ら ず

︑悪 無限 の無 限進 行に も実 際に は悟 性が 自ら の原 理 的規 定 へ と立 ち 戻 る自 己 還 帰 的な 活 動 が存 す る︒

﹁ 有限 な も の が

︑そ れだ けで 単独 に無 限な もの から 遠ざ けら れて いる とし て立 てら れる 場合

︑こ の︑ 有限 なも の自 身へ の関 係づ け が 存在 する

︒そ の自 己関 係に おい て︑ 有限 なも のの 相対 性や 依存 性は

︑つ まり 有限 なも のは 過ぎ 去り ゆく もの だと い う こ と は︑ 遠ざ け ら れる

︒す な わ ち︑ 無 限な も の がそ う で ある は ず の 自立 性 と 肯定 と が 有限 な も の に あ る こ と に な る

﹂︵

GW 21-131

︶︒ 悪 無限 の連 鎖と され たも のは

︑し かし その 連鎖 を生 み出 す主 体 たる 悟 性 の側 か ら すれ ば

︑悟 性 が 悟 性自 身に よっ て自 らの 本質 を反 復し てゆ く運 動に ほか なら ず︑ この こと はす なわ ち︑ 悟性 が自 己還 帰的 な円 環運 動 を 繰り 返し てい るこ とで ある

︒ ヘ ーゲ ル は 本質 論

﹁矛 盾﹂ 節 で次 の よ う にも 言 っ てい る

︒矛 盾 を 構成 す る 肯定 的 な もの と 否 定 的 な も の に つ い て は

︑﹁ そ れら 双方 の規 定が それ ら自 身の もと で考 察さ れ る べき な の であ る

︒す な わ ち︑ それ ら 自 身に 固 有 の反 省 で あ る とこ ろの もの が考 察さ れね ばな らな いの であ る︒ しか し︑ それ ら自 身の 反省 に即 して 既に 示さ れた のは

︑そ れら 双 方 のど ちら もが 本質 的に は他 方に おい て自 分を 仮象 する 作用 なの であ り︑ しか も自 分を 他方 とし て措 定す る作 用で さ え ある とい うこ とで あっ た﹂

GW 11-283

︶︒ つま り矛 盾に おい ては

︑矛 盾す る反 省 諸規 定 の それ ぞ れ に︑ 自分 を 他 方 の 側に 仮象 とし て示 すは たら きが 存す る︒ 存在 論に おい て無 限な もの の有 限化 と有 限な もの の無 限化 とが 起こ る場 合 で も︑ それ ぞれ が﹁ 自分 を他 方と して 措定 する

﹂運 動が 存す る︒ 無限 なも のと 有限 なも のと のそ れぞ れが 自己 言及 的 な 運動 とし て規 定さ れる ため

︑そ れぞ れを 単独 で考 察す る場 合に は︑ それ ぞれ の有 する 仮象 が仮 象と して は示 され ず 実 在的 な存 在と して 機能 する

︒こ うし て存 在論 の無 限性 にお いて

︑本 質論 で扱 われ る矛 盾と 同じ 構造 が示 され る︒

― 179 ― ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの

(19)

本質 論で 外的 反省 を論 じる 際に

︑ヘ ーゲ ルは 外的 反 省を も 無 限な も の に関 連 さ せ 次の よ う に述 べ て い る︒

﹁外 的 反 省 が︑ 存在 の領 域で は無 限な もの だっ た の であ る

︒有 限 なも の は︑ 最 初 のも の

︑実 在 的な も の とし て 妥 当 し︑

︵⁝ 略

︶そ して 無限 なも のは

︑対 抗す る自 己内 反省 であ る﹂

GW 11-253

︶︒ この 引 用文 で

﹁無 限 なも の

﹂は 有 限な も の に 対 立し

︑排 他的 な自 己内 還帰 のは たら きだ と され て い る︒ この 引 用 箇所 は 以 下 のよ う に 続く

︒﹁ こ の 外的 反 省 は︑ 無 媒 介 的 な も の と 自 己 内 反 省 と い う 両 極 の あ る 推 論 で あ る︒ そ の 推 論 が 媒 辞 と す る の は

︑双 方 の 関 係 づ け で あ る

GW 11-253

︶︒ こ こで 言う

﹁推 論﹂ は︑ 両極 それ ぞれ が固 有の 自己 規定 を行 った 結果 が その 両 極 に反 映 さ れる ま で の プ ロセ スを 指す

︒無 限な もの の有 限化 と有 限な もの の無 限化 との 双方 それ ぞれ は︑ それ ぞれ に独 自の 自立 的運 動と し て 叙述 され

︑そ うし て得 られ た二 つの 規定 を両 極と する もの こそ は︑ ヘー ゲル が最 晩年 に書 き留 めた 無限 なも の第 三 の 規定

﹁c

﹂︑ 真 無限 にほ かな らな い︒ 円と 直線 とい う二 つの 比 喩 によ っ て 表さ れ る 自 己還 帰 す る運 動 と 無限 進 行 の 運 動︑ 二つ の相 反す る運 動は

︑そ れぞ れが それ 自身 の成 り立 ちの ため に他 方を

︑し かし 自ら を否 定す るも ので もあ る 他 方を

︑そ れ 自 身 のう ち に 含ん で い る︒ それ ゆ え

﹁我 々 は矛 盾 を 免れ て は 無限 な も の を思 考 す るこ と が で きな い

と 解さ れる こと にな るの であ る︒ かく して

﹁後 期の

﹂ヘ ーゲ ルは 無限 性の 構造 と矛 盾の 論理 構造 とを 相互 的な 解明 関係 のも とに 示す ので ある

︒矛 盾 は 単な る自 立的 反省 諸規 定の 並存 を意 味す るも ので はな く︑ むし ろ諸 規定 相互 の動 的な 相関 関係 であ る︒ 矛盾 が反 省 諸 規定 それ ぞれ の内 的構 造に 無限 性を もつ こと と︑ 無限 性の 構造 その もの もま た悟 性の はた らき を構 成要 素に もつ 自 己 矛盾 的構 造で ある こと の両 方が

︑真 無限 のプ ロセ スに 必須 なの であ る

︒ ここ で実 際の ヘー ゲル とガ ブリ エル の描 く﹁ ヘー ゲル

﹂と の違 いは

︑こ の矛 盾な いし はア ンチ ノミ ーの 構造 を反 省 的 に対 象化 する こと まで も含 めて 同一 の連 続的 プロ セス 内部 にあ るも のと 見做 して よい か否 かに 存す る︒ そこ に構 造

ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの ― 180 ―

(20)

上 のず!! を 見て 異な る階 層を 区別 する ガブ リ エル は

︑次 の よう に 言 って い る

︒﹁ ヘ ーゲ ル は 無限 な も の︑ ある い は 絶 対 的な もの を自 己構 成の 継続 的プ ロセ スだ と解 して いる

﹂︵

TO, 117

︶が

︑そ の際 に﹁ ヘー ゲル はシ ェリ ング とは 違 っ て

︑反 省論 理と いう もの はそ の諸 前提 がそ れ自 身の 諸起 源と なっ てい る総 体性 を十 分完 全に 解明 でき るの だと

︑す な わ ち反 省論 理は 完全 な自 己透 徹性 にま で 到達 で き るの だ と 主張 す る

︒︵

⁝略

⁝︶ こ れと は 対 照的 に シ ェリ ン グ は︑ 普 遍 要求 をな した どの 理論 も︑ 私な らそ うい う諸 理論 を世!!!!!!!!!!!!!!!! と 呼ぶ わけ だが

︑す べて の 理 論が 原理 的に そも そも 非透 徹的 な構 造 を 生じ さ せ る のだ と 主 張す る

﹂︵

TO, 121

︶︒ こ うし て ガ ブリ エ ル がヘ ー ゲ ル よ り も む し ろ シ ェ リ ン グ か ら 引 き 出 し た 思 想 は︑

﹁ 遅!!!!!!!!!!

belated necessity

!

nachträgliche Not-

wendigkeit

︶﹂

ibid.

︶の 思想 とし て端 的に 示さ れる

︒な ぜ必 然性 が﹁ 遅れ ば せ

﹂に し か成 り 立 たな い か と 言え ば

︑﹁ 論 理 空間 が遡 及的 に

retroactively

し か樹 立 さ れ得 な い﹂

ibid.

︶か ら で ある

︒﹁ シ ェ リ ング は

︑必 然 性す べ て が遅 れ ば せ の もも であ るせ いで 反省 は偶 然性 と いう い く ぶん か の 余 白

a certain margin of contingency

Spielraum der K ontingenz

︶ を 生 じ させ る の だと

︑主 張 す る︒ こ の余 白 を︑ ヘ ーゲ ル と は違 っ て シ ェリ ン グ は 執 拗 に 克 服︵ 止!

aufheben

!

︶ し よ う とは しな い

﹂︵

TO, 121 f.

︶︒ こ の余 白 部 分は ガ ブ リ エル に と って 哲 学 にふ さ わ し い場 な の であ る が︑ し かし ガ ブ リ エ ルの 描く

﹁ヘ ーゲ ル﹂ の場 合で は︑ 哲学 は歴 史的

︑社 会的 なも ろも ろの 条件 によ って 特定 化さ れた

︵そ れゆ え閉 じ た

︶状 況で こそ なさ れる もの だと いう こと にな る︒ 結論

と 異 論 この

よう にし てガ ブリ エル は自 らが 描く

﹁ヘ ーゲ ル﹂ を︑ 閉じ た論 理空 間の なか で自 己完 結し た体 系の 主張 者だ と

― 181 ― ガブリエルの言う「ヘーゲル」が語るもの

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