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「非学校化」に関するノート〈自律的 学習〉の甦生のために

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イバン・イリイチの「自律共働性」と

「非学校化」に関するノート〈自律的 学習〉の甦生のために

一CIDOCからの帰国報告一

山 本 哲 士

は じ め に

  deschooling の真意とは何であろうか.日本のみならず国際的にも明確に 把握されているとは言い難いのであるが,それは第一に,この範疇が明確に定 義づけられた概念になっていないことにつけ加え,いわゆる deschooler と他 者から称される人たちの間で多様な意味づけがこめられてしまっているからで

ある.この範疇を明確にするためには,その造語者自身であるイバソ・イリイ チに戻って,彼の思想体系のなかでどのような意図のもとに,この言葉が使用

されたのかを.少なくともはっきりさせる必要があろう.

 イリイチは deschooling を範疇的には示したが,概念として明確に示した のはむしろ schooling のほうである.彼が最も時間を要し,最初から最後ま で考察を加えたのは, Deschooling Society の第二章に当る「学校の現象学」

の部分である,この部分は,彼がエール大学の講演を最初として,いつも検討 しつづけながら,ついに Deschooling Society の単行本の発表の段階でも明 証に定義づけられなかった,一つの困難な対象でありつづけたものだ.そして 私が「範疇的」にと形容したdeschoolingは,彼の政治的転換political inve・

rsionあるいは制度革命institutional revolutionのタームにおいて位置つく ものであって,実はDeschooling Societyの問題地平にはなかったという事

実である.

  deschooling  という言葉は,まさに言葉として彼の書や論文の中に現われ

てくるが,それは彼自身も反省している「新造語主義」の癖で,よくいえば彼

(2)

の一つの思考方法ともいえる水準で使用されていたのにすぎないのである.も ちろん,彼の深遠な博識が対象を新しくとりだすさいに,その新しい対象を把 握しうる新しい範疇を方法的に使用する,その過程でのべられた言葉であるの

は疑いもない.( retooling や disabling なる造語も同様の方法レベルで使 用されている.)

 それでは,この,世界をひきまわしたかのような Deschooling という書の 表題は,なんのために付されたのかという疑問であるが,驚くことに,それが 全く商業的なものでしかないという事実である.1975年,ジュネーブで開かれ たイバソ・イリイチとパウロ・フレイレを囲んでの対話席上で,イリイチは

「われわれの言語に,このような悪しき言葉,新造語主義を招いたことに,私自 身すまないと思っている」として,その責任を「商売の巧みな男,ハーバー・

アンド・ロー社のキャス・キャソフィ・一ルドCas Canfield」と共同で負うと述 壊している.イリイチは,この書を書いていた時点でも,明白に,自らの作業

が「教育のdeschooling」にはないことを自覚していた.キャス・キャンフィ ールドが本の表題に最適だとしたこの deschooling にたいして,イリイチは こう対応したという.

 「いや,われわれはdeschoolingの過程について語っているのではない.教 育が今や製作されているこの組織における,ある特別な過程を語っているので はなく,この過程をすでに必要としない,転換されている社会の様式について 語っているのだ」ω

 ここでいわれている過程とは,rdeschoolingの過程」であって,このdeschoo−

1ingの過程を必要としない社会,つまりフラソス語版の表題である『学校のな い社会』またスペイン語版の表題である『非学校化された社会』 La sociedad desescolarizadaについて語っているという意味であって, deschooling につい

てではなく,ある社会について考えを述べているのだというのである.(2)これは,

しかしながら,実に多くの問題を含んでいる.イソイチの「転換」に関する思 想的態度,そして,イリイチの思想が構想するある社会,それはまた必然的に現 代文明にたいするイリイチの思想的批判をも含んでいる.理論的というよりむ

しろ思想としてのイリイチのありかたが第一義的に語られている書がDeschoo一

(3)

43 ling Societyであるといえよう.

 それでは,rdeschoolingの過程を必要としない」社会とは何であるかといえ ば,それが「エピメテウス的人間の甦生」と表現された世界であって,〈脱学校〉の 世界ではないのである.この黙示録的世界,エルデル・カマラ(Herder Camara)

がアブラハムの子孫の世界と呼んだ世界が,イリイチが最も表現したかったも のである.(3)イリイチはエーtリッヒ・フロムの誕生記念に彼とバヅハオーフェ

ソ著「母権論」について語ったのを機に,フロムにささげた論稿であるが,そ のなかで,彼は,ギリシア・ローマ神話をへて聖書世界にいたる「父系制」社 会の神話を超克しうる思想にとりくんだ内容として,この世界を示したのであ る.それをかいつまんでいえば,父系制の論理が形成した制度的構成は産業社 会を必然的に発生させ,ついに地球を爆破させる装置まで持つにいたったとし,

その終末的な象徴がプロメテウスに予知されて表現され,他方,「希望」が彼の 弟,エビメテウスに予知されている,というものである.④ この逆転の思想を 正確に理解するには,ギリシア・ローマ神話と旧約聖書に接続するヨーロッパ 文明を総合的に検証せねばならないのであって,今のところ私の手に負えるも のではないが,少なくとも,数千年にわたる文字に帰された世界そのものを超 克しようとする思想であることは,確かである.

 この来たるべき世界は,Deschooling Society以後に出版された Tools for Conviviality のなかで convivial society としてイメー一ジされた.しかし,

これは「社会」の形態・現実についての考案ではなく,その社会の様式につい てのそれである.Deschooling Societyの Society が問題であるというのは 全く表面的な指摘でその社会をいかなる様式がいかなる概念の下に構制されて いるかが指摘される必要がある.

(註)

(1) Ivan Illich y Paulo Frire, Dialogo(Bosqueda, Buenos Aires 1975)P.38.

(2) Ivan Illich, Une soci6t6 sans 6cole(1971., Seui1)

 Ivan Illich, Le sociedad desescolarisada,(Barra1,1971)

(3)エルデル,カマラはブラジルの司教,また,コロソピアのカミロ・トレスとイリイ  チの三人がラテソ・アメリカで最もラディカルなカトリック神父であるといわれた.

(4) 「希望」は,avenirにかかわり, 「期待」はfutureにかかわる.

(4)

 私の小論の意図は,日本でもまた世界でも前面におしだされている,(イリ イチが deschooling ではないといった),その deschooling がなんである のかを,イリイチの思想体系に即して説明することである.イリイチが何を言 おうとしたのか,彼の身近かに三年間いたものとして,少なくとも明確に示す

ことができると思う.

 結論的にかいつまんでいえば,イリイチの思想形成過程は「制度論」的分析 を視座として,産業社会の「産業的生産様式」industrial modo of produc−

tionの一範式paradigmである schooling をその範式の最初として分析し,

以後,輸送,医療の範式からこの様式をとらえたのち,この産業社会にかわる 新しい社会を convivial society として提示する.そして,われわれにとって

イリイチ理解が困難なのは,これらの用語が既存の意味内容で語られているの ではなく,イリイチの思考を通りくぐって,彼の思想言語にくみ直されている.

という問題があるからである.したがって,容易に訳語を決定できないため,

今までは原語のまま使用したが,私は次のような訳語をあて,以下その訳語の 意味を解きあかしながら,彼のパラダイム(範式)としての学校論がどのよう

な位相にあるのか示そうと思う.

   (1)schooling  「学校化」

   (2)deschooling r非学校化」あるいは「学校無化」

   (3)tools    「道具諸手段」

   ④ conviviality r自律共働性」

   (5)autonomous modo 「自律的様式」

     heteronomous modo 「他律的様式」

   (6)counterproductivity 「反生産性」

  1.制度とSchooling.(学校化)

 イリイチがエバレット・ライマーとともに分析したものは,「制度としての学 校」school as a institutionであり,この制度的視座はライマーがむしろイリイ

チに示唆したものである.経済学者ライマーは,既存の経済学者と違ってまた制

度主義経済学を批判的な対象にしながら,公教育制度の分析にたいして,制度を

(5)

       45 生産視座から把えるという方法で問題とした.ωしかしながら,イリイチにとっ て制度とは神話と儀式が構成している世界である.(2)この両者の差異は schoo−

ling  の構成要素を分析している限り表面化しなかったが,その転換をめぐっ てライマーが文化革命を重視したのに対し,イリイチは「学校のない社会」を 含んだ思想的なる構想を重視する違いとして現われ,ライマーを所詮経済学者 であるとイリイチにいわしめる点にまで到った。(3)それはともかくとして,この

「学校化」schoolingを分析した意図はどのようなものであったろうか.

 それはまず第一に,学校が制度として社会的に行使している機能は,教育お よび学習から識別されて考察されるべきであるとするもので,教育・学習を肯 定的なものにしながら学校を否定的なものとして分析する.しかし,そのよう

な価値判断の彼岸に,学校は次のような制度として構成されているというので ある.資格ある教師の下に,ある特定の年令別の30〜40人のグループに分けら れた児童集団が,年に500〜1,000時間にわたって段階的なカリキュラムに出席

する制度である.

 このファクターは当初,①年令別集団,②教師一生徒関係,③フルタイムの 出席,④段階カリキュラム,の4要素であったが, Deschooling Sacity では

④が③にくみこまれて,3要素となり,以来簡明に三つの要素が次のように整

理された.(4)

  1)30〜40人の年令別集団

  2)資格ある教師の監督下での生徒

  3)年に500〜1,000時問の段階カリキュラムへの出席

 この定義は,多くの時代に存在していたそれぞれの「学校」schoolと,現代 の産業社会の中で制度として構成された「学校教育」school educationとの識 別を可能にするもので,この後者を彼らは school education としてではな

く schooling として括ったのである.従って,それは「学校教育」ではなく 教育や学習を学校の中でしかなしえないようにしている「学校化」 schooling

      ●  o  ● であると定義したのである.

 この学校にラディカルに独占された一それをイリイチは,「学校のラディ

カル独占」radical monopolyと後に呼ぶ一教育や学習は,学校制度の枠組で

(6)

のみなされ,他の況ゆる自由学校や,世界を教室にしようとする社会主義革命 的な形態も,この「学校化」の制度から抜けだせていないという.それは,世 界を「学校ハウス」school houseにしているというのである.この学校化は,

教育を制度化し,学習は教えることteachingの結果であると制度化している.(5)

 学校を教育と学習から区別し,学校化の範疇をとりだしたとき「学校」と「学 校化」も識別されている点に留意する必要があろう.

 学校を制度として「学校化」の構成にまで形成したのはヨーPッパの教育の 史的過程であるが,その際に学校は社会構成のなかで, 「社会コソトロ ・一ル」

social contro1の力を内在化している.(6)この力が認識されたのは19世紀である が,それは教会制度と近代国家制度とが対立し,国民ないし民族意識の統一が 大きな課題となった歴史情況下でのことである.

 「学校化」が非常にナショナリスティックな形態として発展したのは学校で 教育をするという普遍的な(時代的)ファクター・をそれぞれの国の社会構成に 応じた具体情況で展開したからであって,各諸国の公教育制度の特殊性が独自

の類型性をもつにしても,イリイチとライマーが描出したこの近代的概念とし ての「学校化」は,概念としての力を十分に有している.それは実に簡明な陳

述で示された.

   1)学校を通じてのみ社会的構成員として認められる.

   2)学校で教えられたことにのみ価値がある.

   3)学校の外で学ばれたことには価値がない.

 これが不動の枠組としてあるのは,先にのべた「学校化」の要素があるから である.これが影のカリキュラムhidden curriculumである.

 教育学的には凡そ以上の点がエッセソスであって,その他の諸々の教育学的 対象にたいする批判的指摘は真摯な教育者・教育学者が眉をひそめるようなも のである.それを自覚してのことか,イリイチは「教師のヒューマニスティッ クな願望を実現させるために」この「学校化の自覚が不可欠である」というよ

うな言い方をする.

 さらに,制度としての学校を示すことで,イリイチが同時にのべているのは

産業制度の特徴についてである,それは「産業的生産様式」の一範式として

(7)

      47 の「学校化」にたいする言及で,イリイチはそれを範式として扱っているため に,最後まで学校装置そのものは分析していない.「学校装置」とは,ちょう ど同時期に,アルチュセールの理論をふまえてマルクス主義教育分析が使用し はじめた「国家のイデオロギー装置」としての概念であるが,イリイチは「学 校」をそのような実在としてとりだすという方法論は,転換の「移行」の理論 をつくりあげても,制度そのものの基本構造を変えることにはならないのだ,

といっているように私には解釈される.ωこのような,イリイチにとっては「範 式」でしかなかった学校論に「脱学校」という教育的変革の解決を求めるのは 少なくとも的をえたことではない.イリイチが「deschoolingの過程」を,も

し検討の対象にすえたのならば,彼は「学校装置」ないし,「国家」を問題と して分析したであろうが,彼はそのような問題意識を意識的に切断している か,あるいは彼の思想の中で処理してしまっている.この処理が語られずまた 視えないため,イリイチの論点が一体どこにあり,どのような継承をもってい るのかわからないのである.種をあかせば簡単であるが,哲学的に,アリスト テレスーマルクス,そして社会学的にマルクスのr資本論』とウェバー,そし て精神分析学的にフロイトが,彼の思想の核となっている.(8) 歴史学的には彼 の博士論文がトインビe−一一についてのものであったことはすでに知られている.

これらを,イリイチの神学知識をふまえた上でどう処理したのかが,イリイチ 研究のポイソトとはなるであろう.

 さて,それでは産業的制度の範式としての「学校化」からイリイチがとりだ したものは何であろうか.それを,単に「操縦的制度」manipulative institution とするのは,イリイチを何も読んでいないのを露わにするのだけである.「学校 化」の「影のカリキュラム」が,豊かな国から貧しい国に到るまで,民主的選 手の国から独裁政権の国に到るまで合法化され(正統化され)ているために,貫 通的に存在している様式がなんであるのか,それが,この「制度」の水準での イリイチの問題地平であるのだ.それは,イデオロギー一と技術が学校システム の中へと伝導されている世界で,政治的・経済的な発展が「学校化」へのより 多くの投資に依ると仮定されている様式である.

 この世界で「影のカリキュラム」は,すべての子どもたちに,「経済的に価

(8)

値ある知識は専門的な教授の結果であり,社会的な資格付与は官僚的過程で達 成されたランクに依る」と教える.それは,知識が資格として保証され,学校 がより大きな地位権力をもつため,生産者として生産的であるという正統性を えるために有効であり,学習に寄与する資源をより多く持っている.と認めら れるようにする.つまり,消費が中心の様式となった社会での消費者を,意識 だけでなく行動様式までを含めて育成する,生産レベルではなく,制度レベル

での様式である.

 学習や知識は本来は,「必要」needではなく人間の自律的な様式であり,そ の自律的様式を他者がある程度助けるものでしかなかったが,その学習が必要 とされたとき教育は同時に商品となっており,学校化の要求へと変容された.(6)

人間相互の間の親密さであり,生活経験そのものであった知識は,専門的にパ ッケー一ジされた生産物にかわってしまい,抽象的な価値となってしまったとい

うのである.

 教育の制度化である学校化は,サービス制度の産業的様式化である,「奉仕行 為」としてのサービスが改宗の力を発揮しうると認識され,それが組織され世 俗化されていくなかでサービスを制度とすることで,その過程があれば生産物 がつみだされるかのような制度的編制がなされる.ωだが,実際には人間が自然 に働きかけて(非有機的自然),労働手段を媒介に労働生産物をつくりだすとい う一労働,労働対象,労働手段からうみだされる生産物という一マルクス 的な労働過程論は,このサービス過程にはないのである.ただサービス=奉仕 的行為が,生産物をつくりだすかのような仮象が産業的サービス制度には生じ ている.マルクスによっては元々,不生産的労働であったサー一ビス労働が,相 対的剰余価値生産の再生産総過程に含まれたとき,生産的となり,生産物をう みだしそれが価値をもつかのように表象している.ω生産物ではもともとなかっ たものが商品世界の中で商品のような価値をもっているが,それは商品の価値

とは実質的に異なっている.それをイリイチは「制象化された価値」instution−

ralized valueと呼んだのである.⑫単純にいってしまえば,それは制度がうみ だしたあるいは付与した価値であるが,実質的には,このような「つくる」こ

      ●  ●  ●

とと「する」こととの根本的な差異を対象にして分析されたものなのである.

(9)

49 従って,・・ 一!〈一ト・ギソタスHerbert Gintisは,イリイチの「制象化された 価値はマルクスの「商品の物神1生」に対応するようだ」と述べ,竹内良知は「イ

リイチは労働そのものまで問いかえそうとしているようだ」と,指摘していなが ら,労働=生産を前後しているマルクス主義者は,指摘できてもその根拠をつか みえていないのである.⑬ 千並に,マルクス『資本論』の「労働過程論」は,

労働を行為として確認した上で,生産物をつくりだす局面をとりだし,「生産

      の

物から観る」という理論的な限定づけをもった上で,労働過程と価値増殖過程 の統一体である資本主義的生産を問題にしている.⑭そしてr剰余価値学説史』

では,古典派経済学が,不生産的労働を明確に定義づけられなかったのは「相 対的剰余価値」の概念をとらえていなかったからであると,サービス労働一 牧師や医師の労働一が物象化されている古典経済学の盲点をついている.

 サー一ビス制度の領域となる世界は,マルクスの19世紀では未だ重要なもので はなくas 20世紀の後半,イリイチがいう「第二の分水界」second watershed以 降,重要な位置を社会で占めはじめたにすぎない.⑬ 触知できない商品が中心

となっている.「資本主義が変態metamorphosisしている」段階が「学校化」

を中心的な範式としているというのである.aの

〈註〉

(1)Everett Reimer, An institutional apProach to economic development (1969・

 09.01) CIDOC DOC.69/161

(2)Ivan Illich, The Ritualization of Progress 1970.08.これは,「技術科学:社会  的目標と文化的選択」に関する,コロラドのアスペソで開かれた講演報告書であった.

(3)1976年夏のセミナー.メキシコ,クエルナパカ・

(4)Iran Illich, Beecher Lecture, oP・cit・では4要素 Alternat董ves to schooling  及び After deschoolin9, what? では3要素となり,後者では「伝統的な影のカリ  キュラムという形容を付している.また,イリイチはセミナーのなかで,学校教育に  言及するとき,この「影のカリキュラム」が最もキイであるとよく強調し,くり返し,

 私にもしつこいほど留意するようにうながした.この理論的意義については,いつし  か機会をあらためて展開する所存である.

(5) institutionalization には,単純に「制度化」一語で訳しえない深い意味がこめら  れている.教育の学校制度への制度化と,学習が教授の結果であるという制度化は,

 実にレベルの違う問題で,この点が,マルクス〈商品論〉理解の決め手となるような

 点に関わるということだけ示唆しておく.すでに,その論稿を,私は準備しているが,

(10)

 安易には述べられない,某大なものになりつつある.ジャソ・ピエール・デュプイと  ジャン・ロベルトは,この点に着眼しているが,はたせなかった.私自身,彼らとの  対論から得た問題点である.物象化に対応する「制象化」と私は訳す.

 Jean−Pierre Dupuy/Jean Robert, la trahisor de l opulence,(PVF, Paris.(1976)

 p.13〜28.

(6)この「社会コントロール」はJordan B童shopの使用した概念で,教育がその力を  認識されたのが19世紀であるとしている.Jordan Bishop, Schooling as an Instru−

 ment of the Nacional State ,(CIDOC CUADERNO, No.57).

  またイリイチは,社会コントP一ルは,生産・流通・分配にわたるもので,消費様  式を規定ファクターにして,社会コントロールを視ようとしているといえる,

(7)イリイチは,意味づけの中心を追求するのではなく,そのために排徐されたものの  影の系列をえがきだそうとし,それを意味の中心に環元しない.現象学的,構造主義  的な方法をとるが,時事的な問題に真正面から本質的に迫るという意味で彼らとは全  く異なる思想である.

(8)Ivan Illich, Ensayos sobre la trenscendencia,(CIDOC SONDEOS No.77)参  照.「幻想」をめぐって西洋哲学者は総なめされている.またアリストテレスはイリ  イチの著作そのものに,マルクスはイリイチが私に語ったこと,ウェパーはジャン・

 ロベルトが私に示したことであり,フロイトはいわずもがなであろう.

(9)必要でなかったものが必要となるだけでなく,その必要までが専門家によって作成  されるという imputed needs . Ivan Illich, Disabling Professins.

⑩ 学校の過程の時間を消費すれば,その消費量が実体となり,価値を付与される.そ  れは,労働時間ならざる,消費時間であって,前者は生産過程にくみこまれるが,後  者は消費過程に対応はしていても,それと次元を異にする制度過程を構成すると考え  られる.

an生産的とは,相対的剰余価値の直接的生産過程にかかわっているか,あるいはそれ  に包掘されていることである.この包囁が,労働の資本への形態的包撮,実質的包撮  によってマルクスは考えているが,この生産様式上での包振をサービス労働ないし制  度化を問題にしたとき,それは,社会構成体上での包撮の問題となり,教育論はこの生  産様式と社会構成体との問題に結極的に寄与しうる可能性を有している.しかも,そ  れは制度化の方法視座をもってはじめて可能である.拙稿,メキシコ大学院大学での  ラテソアメリカ大会の報告.Tetsuji Yamamoto, La supeditaci6n de la educaci6n  al Estado en Japon, 1976.07.

⑫  「制象化」された「価値」は,資本主義的商品生産を土台とした.制度過程が構成

 する価値で,この規定をもって遂に,価値法則の問題をとりあげることが可能であ

 る.これも,いずれ明確にする所存である.ただ,この概念は,商品の物神性とは異

 なるものであり,物象化が極端に徹底された価値の様態を示しており,後に,イリイ

 チが「ラディカル独占」と定義づけるものと対応する.

(11)

51

⑬ ギンタスは,イリイチに労働概念がないとして批判するが,イリイチは生産労働概  念を意識的に処理し,排徐した世界を問題としているが,労働概念はマルクスに忠実  に即して処理している.ただ人間を,ホモファーベルとはとらえないだけである.そ  の根源の思想はアリストテレスにまで戻るのであるが,産業社会の勃興の中で,マル  クスが,アリストテレスの「する」とつくるを総合的におさえた労働のその仮定的前  提におかれていた「生産」をイリイチは否定的批判的に問題にとりあげたといえる.

α4)マルクス『資本論』 「労働過程」における,労働規定と生産労働規定の認識上の転  換に留意されたし.

㈲ マルクス「経済学批判序説」参照.

⑯ Ivan Illich, Tools for Conviviality.(Harper&Pow 197)chaP.1・参照.

(17)Ivan Illich, Political Inversion (CIDOC CUADERNO. No・78)1971.12.

  2.学習と自律共働性conviviality

 産業社会にかわる社会が,イリイチにとっては「コンビビアルな社会」con−

vivial societyである.このコソビビアルな社会を,「自律共働社会」と私は その意味をとって訳しているが,社会主義社会への批判を含んでいるこの概念 の意味を考えていこう,というのは,この社会構想をおさえておかないかぎり,

deschooling のイメージは明確にならないからである.

 産業社会industrial societyの倫理は「生産性」productivityであるが,そ の「生産性」にかわる倫理をイリイチは「自律共働性」convivialityと呼んだ.

この社会はもはや生産的なものを至上の徳とするのではなく,人々の間の自律 的で創造的な相互交換intercourse,人々とその環境との問の相互交換に関わる

ものといっている.この「自律協働性」は,産業的な生産1生の世界で,ある水 準以下におとしめられているが同時に存在しているものであり,産業的生産性 はそれを甦らすことができないというのである.ω

 イリイチはこの「コソビビアル」をテクニカルタームとして用い,近代社会が

「限界づけられた道具諸手段」に責任を有するために用いるとしている.つまり,

人間にかかわるのではなくむしろ「道具諸手段」toolsにかかわるタ・一ムであ

るというのであって,観念的あるいは実体的な概念ではなく,自覚のための物

質的根元概念として使われている.この点も多会に見落されているため「相互親

和的」などという人間関係のみを示す訳語が使用されたりする.勿論,そのよ

(12)

うな「相互親和的な」意味を全くもっていないとはいえないが,そこで重要な ファクターとなっているのは「自律的」autonomousで「創造的」creativeな

「個体」individualが存在し,その個体間の相互交換・相互親和的なものが道 具諸手段とのバラソスの上で第一主義的に考えられており,それらの共働を支

える倫理は友愛,喜び,そして厳正さ,である.その哲学的な基盤は,アリス トラレス,トマス・アキナスである.「厳正さ」は友愛の喜びであって,苦渋 の意味ではなかった.そして,個人的な関係が破壊的であったり,気晴らしで あったりすることを排徐しているが,あらゆる喜びを排徐するものではない.

エウトラペリア eutrapeliaを,つまり優雅な快楽的な遊びを,強化するので はなくむしろ破壊する道具諸手段を構成しようとするものである.ω

  Tools for conviviality は,しかしながら, conviviality 論ではなくむし ろ tools 論である.その表題が示す如く一この表題はもはや商業的なもの でなく内容上のそれである一,自律共働性のためとなる,道具諸手段と人間

との「均衡」を論じたもので,その均衡を失なって過剰に成長した産業社会が批 判されている.その内容についてはすでに他の場所で私自身示してあるので(s)

くりかえさないが,これを「道具諸手段」と訳したのは,イリイチが意識的に マルクス(主義)の「生産諸手殺」を批判的対象としながらそれに対応してい るからである.つまり,生産諸手段が私的なものから公的な所有へ転じ労働者 階級がそれをコントロールしたところで,産業的な生産性が前提とされている かぎり,そこでの道具諸手段は,産業的諸制度を資本主義のそれと競い合うだ けであるという,批判的な意味がこめられていることを指摘しておこう.(4)

 再び, tools 概念を理論的にイリイチに求めても無駄である.(5)それは,ま た方法的にしか使われていない.生産の産業的様式から生産の自律協働的様式 に転換する,つまりその制度の基本構造を転換する「政治転換」political inve−

rsionが示唆されているだけである.それがどのようなものであるかといえば,

そこに登場するのが, limits (限界設定)の論理である.産業的道具諸手段が

       ■  ●  ●  ●

過剰に拡大し一その典型は「機械」であるが,制度も含まれるのはいうまで もない一人間の固有の力,つまり自律的様式が麻ひさせられている.従って,

この道具諸手段に「均衡」を保てる限界を設定することが,イリイチのいう政

      ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●

(13)

       53 治転換である.(6)そのために,科学の神話一科学をイリイチは近代の一つの 魔術であるという神話的解釈をする一を解体し,言語を復回し,法のイデオ

ロギーでなく,「形式性」を復回させようとするのである.

 産業社会は,学校制度を過剰な道具諸手段として拡大してしまったため,人 間の本来の力であった自律的な学習能力を麻ひさせてしまった.学習は過剰に プログラミソグされ,学校は学習・教育を徹底して独占してしまい,学校化をす すめればすすめるほど世界に貧しい者と豊かな者はその差を開き,カリキュラ ムは年々,テレビが新型にかえられていくように新しくつくられ,消耗回転し ていく.そうした産業的様式の中で「フラストレーショソ」が態様されている

というのである.ω

 この過剰化した産業社会は,人間と道具諸手段との均衡が破れたために,二 つの根本的な性格を特別に表象している.一つは「反生産性」counter−produ−

ctivityで,生産性を追求するあまりに,制度が目標として提出したことと逆の結 果がうみだされている様態である.例えば,学習をより良くしょうとした学校 制度が「学習問題」learning Problemをますますうみだしていく,病気を治 すための医療科学が「医原性疾患」iatrogenic diseaseをうみだし,より速く 移動するための車が交通麻ひをうみだしていく,というようなものである.こ

の「反生産性」は『医療ネメシス』Medical Nemesisで初めて定義づけられ たものであるが,道具諸手段の概念に加えて,「自律的様式」antonomous modo と「他律的様式」heteronomous modoの「共働」synergyが,使用され,こ の両様式の均衡が先の「自律共働性」を概念上明確に示すものとなった.道具 諸手段の過剰な成長は,自律的様式にたいして他律的様式が排他的に勝利した 共働関係をつくりだし,その結果,制度上では反生産性が様態となり,自律的 様式が麻ひするというのである.自律的様式とは「学習」learningであり,他 律的様式とは「教えること」teaclingであり,その「共働」の均衡したものを

よき「教育」educationととらえることができよう.(8)

 ここでいう,他律性の勝利は,「専門家」professionalsの技術科学における独

占となって現われる.この専門主義者の世界は disabling Professions (不能

化する専門家一その意味は,人間の自律的能力を不能化している専門主義者)

(14)

の論稿で描かれた. 「自律共働社会」はこの専門主義者のコソトロ 一一ルが,生

産・分配・流通・消費のあらゆる分野で限界づけられ,素人laymanの自律性 と,その相互関係(他律1生との均衡ある共働)が保証されたものであるという,

専門主義的エトスーそれはプロメ、テウス的人間の極致一が,脱せられた世 界である. (ここでは,脱専門的エトスpost professinal ethosという使い方

をイリイチはする.)(g)

 それでは,先にのべた「均衡」の状態への「限界設定」は何を基準としうる かというと.イリイチは,すでに『エネルギーと公正』の中で,新陳代謝エネ ルギーと機械エネルギーの間のバラソスを「速度」と「エネルギー消費」の次 元から問題として,10分間に19を1km運ぶのに0.75カロリーを消費する人 間の最も効率のよい新陳代謝エネルギー消費は,それを補定するはずの機械エ ネルギーの支配的速度が時速20kmを越えたときに,抑圧され,バラソスが失 われると示している.勿論これは,世界の総エネルギー消費の総生産過程から 把握されるものであって,自動車や飛行機を破壊しようとする新機械破壊運動

ではない.ω

 以上,非常にかいつまんでであるが,イリイチが『自律共働社会』でイメー ジしていたものが,人間と道具諸手段,自律的様式と他律的様式,そして新陳 代謝エネルギーと機械エネルギー・一・・という,道具,様式,エネルギー消費の理論 から把握された『均衡』の思想であることをのべてきた.そして,そのために は「限界設定」という政治転換をもって制度の基本構造を,生産性から自律共 働性へと転換することであり,それが同時に,専門権力professional power の解体と対応している,という凡そのシューマを示した.

 こうして,やっと, deschooling を正確に問題としえる地点にやってきた

のである.

〈註〉

(1)Ivan Illich, Institutional Spectrum .をTools for Conviviality, op cit.と重

 ねて読むならば「制度的スペクトル」が分配の制度化ないしは制度的コソトP・・一ルを

 問題として,郵便・電話等の自律共働的なものをとりあげているのに気づかれるであ

 ろうが,むしろ人間の新陳代謝エネルギーでもって働く道具が自律共働的なものであ

 るという点が重要である.

(15)

55

(2)Ivan Illich, Tools for Conviviality,序文,参照.尚スペイン語でのconvivia1は  神父がある村を訪門したとき,村人たちが集まってその話をきき,お互に,生活や文  化のことを語りあう集いに使われ,現在では,会議の集まりに使われている.convi−

 vialidadは,英語のconvivialityを通過して, conviviencialidadとなったのをみて  も,もはや現実態の言葉ではなく,物質的な概念となっている.

(3)拙稿「イ・ミソ・イリイチの理論一Retooling論を中心に一」(『知の古考学』(1976  年,9月号)

(4)社会主義がスターリソによって生産性を競いあう競争に転じられてから制度の保障  を革命的であるとする,転倒が生じたとイリイチはいう.

(5) hand−tools や power−tools はなんら概念規定ではなく,新陳代謝エネルギー  で動かすものと,機械エネルギーで動かすものを識別しただけである.産業的制度は,

 機械エネルギーの発生・勝利と無縁でないことを史的に展開することが,一つの大き  な課題である.

(6) Limits to industrial society が1975−6年にイリイチが主宰したセミナーのテ  ーマで,それはlimitsに積極的な意味をもたせて使用している.

(7)産業社会の損害範疇,生態的退化,ラディカル独占,過剰計画,偏極化,消耗回転,

 そしてフラストレーションーである.

(8) 「種別的な反生産性」specific counterproductivityの規定は, Medical Nemesis  では最後まで書きなおされ検討されつづけたテーマであり,最終的に自律的様式の共  働から説明されることになった.この稿は次のようなテーマでもって書きかえられた.

  ①「過剰に産業化された社会の副産物としての医療化.」(1974)Medical Nemesis    (CIDOC No.89)

  ②「仮説,逆設的な反生産性の二つの次元:人間の麻ひとシステムの過剰」(1975)

   On the Limits of Medicine(CIDOC CUAERND No.90)

  ③「種別的反生産性」(1976,公刊・,Pantheon)         

(g)Ivan Illich, et a1., Disabling Proffesions.(Marion Boydrs., London,1977)

  Ivan Illich, et aL, The Right to Useful Unemployment,(Marion Boyars,1978)

⑩ Ivan Illich, Energy and Equity,(Marion Boyars,1974)

 これも,仏版西版ではかなりの異なるところがある.

  3. 「非学校化」の意味

 イリイチは「deSchooling の過程」をのべようとしないだけでなく,政治転 換の過程をものべようとはしない.彼の「政治転換」の草稿は産業社会のラク

ノクラシーとビューロクラシーの幻想を解体させようとする点に集中している

し, r自律共働性のための道具諸手段』に収められた「政治転換」の稿は,幻

(16)

想恐慌論ともいうべき,制度は突然にその信用を失うというものでしかない.

 ただイリイチはセミナーで「変革」changeや「変容」transformationとい う概念ではとらえきれない「転換」を考察せねばならない,とよく主張し,自 身では inversion という「転位・転換」の用語をもちいている.この点に関 する解答は未だ提出されていないが,少なくとも「非学校化」deschoolingは,

「政治転換」の次元における制度革命の一形態であるということはできよう.(2)

  Deschooling society を書いたあとに,またCIDOCで, Alternatives in Educatian のセミナーが開かれていたときに,彼がドラフトとして「政治転換」

の論文を記したのは象徴的である.(3)

 それでは,政治転換の次元におけるdeschoolingは,どのような問題状況で 考えられるのかというと,当時,流行していた alternatives の問題意識にた

いする批判としてあったという点を見落してはならない.イリイチは,教育危 機の情況下で語られていた「オルターナティヴス」が,結局のところ「同じも ののより多く」more of the sameでしかないと批判して,全く異なる新しい ディスシプリンdisciplineを考えなくてはならない.(4)そのためには「同じもの のより多く」を枠組づけている「学校化=schooling」を徹底して分析すること であるとおさえていた.

 問題を慾意的でないものにするため,文献史的に Deschooling Society 及 び学校化に関するイリイチの諸論稿を明らかにしておこう.

  Deschooling Society に先だって,イリイチは二つの教育論を公表してい

る.(5)

 ①The futility of schooling in Latin America.(SATURDAY REVIEW

  1968. 04. 20)

  この西語稿は

   La escuela, esa vieja y gorda vaca sagrada;en America Latina   abre un abismo de clases y prepara a una 61ite y con ella el fasci・

  smo.(学校,この古きデブの聖なる牛:ラテソ・アメリカでは諸階級の奈落

  が開かれ,エリートを準備し,このエリt・・一トとともにファシズムが準備さ

  れている)(SIEMPRE, Mexico.1968.08.07)

(17)

      57

②La Metamorfosis de la ecuela;mensaje en ocasion de la gradua−

 cion celebrada en el recinto universitario de Rio Piedras, Puerto  Rico., el dia de junio de 1969.(学校の変形:1969年6月6日,プェルト  ・リコ大学,リオ・ピエドラス校での卒業式におけるメッセージ)

 (EL DIA,1969.07.02)

 この仏訳が

 L さcole, cette vahe sacr6e.(学校,この聖なる牛)

 (LES TEMPS MODERNS.1969.11)

 英訳はCIDOCの資料集におさめられただけ で

 The metamorphosis of the school(学校の変形)

 この二論文は『自覚の祝祭』の中におさめられ,①はそのままの題であるが,

「ラテソ・アメリカにおける」という地域的限定づけが削徐され,②が「学校

:聖なる牛」School:The Sacred Cowと改題されている.

 最初の論文はラテソ・アメリカにおける「学校化された」schooled状況を批 判的に分析するのが主題で,(6)その義務的普遍1生がラテソ・アメリカの現実にお いては無効であると論述したものであり, deschooling なる言葉は使用されて いない.しかし,②の論文で「教育のラディカルな非学校化」una radical dese−

scolarizacion de la education という使い方が登場する.しかし,英文では

「学校化からの教育の分離(=離婚)」adivorce of education from schooling となっている.仏訳は西文と同じ une radicale dbscolarisation de 1 educa−

tionである.(7)ここでイリイチはこの非学校化が,三つの力によってすぐにす すめられているというのである.それは,第三世界,黒人貧民街,そして大学 でである.第三世界では,多数者を差別し,自己教育した者の質を認めない学 校化として,黒人貧民街では学校は「白人化」として,大学では異議申し立て する学生として現象しているところに「非学校化」があるというのであるが,

これは「学校化」の負的な側面及びその到達した限界を示すものとして使われ

ているにすぎない.ただ,この論稿で重要な指摘は西文にのべられている.学

校とは世俗化された教会であって,「教育の非学校化と学校の非神話化desmi一

(18)

tologizacionは,キリスト主義の世俗化と教会の非神話化との類似性を手段と して理解されねばならない」としている点である.つまり,教育・キリスト教

(宗教)の世俗化=非学校化であり,学校・教会の非神話化,という二重性で ある.ところが英文では,「学校化からの教育の分離(=離婚)はそのモデル

を教会の非神話化に有している」とあるだけで,非常に不分明である.

 加えて,この両論文での「オールタナティヴス」は「選択」choiseあるいは optionの意味となんのかわりがなく,3つの選択が可能であるとして,第一は 正義と意識を犠牲にして学校システムをこのままにしておくか,第二は,中産 水準以下の収入しかない貧しい両親をもった子どもたちに無償学校化を確証す るように基金を融資するか,第三に,あらゆる教育に公的な資金が平等に分割 されるように融資するか,という公的融資の分配の次元で考案されているだけ

で,何ら本質的なものでない.(8)

 教育を真向うから論じているわけではないが,部分的に「学校化」に言及し ているいくつかの論文が『自覚の祝祭』に収録された.

 ③Control popular del poder y de la potencia(権力と潜勢力の人民コ   ントロール) (CIDOCでのレジュメ,1968.06.15)

  仏訳

   Birth Contro1 et conciente politique(・ミース・コントロe−一・ルと政治意   識) (ESPRIT,1969,06)

  『自覚の祝祭』に

  Sexual Power and Political Potency(性的権力と政治的潜勢力)として   収録

④The need for counterfoil research(カウソター・フォイル研究の必要)

  (the Canadian Institute on Public Affairs at Counhirehingへの提出   レジュメ.1969.07.29)        

  西訳公表

  El subdesarrollo es inevitable mientras no haya planeacion de nues−

  tras propias alternativas.(進歩的低開発はわれわれの固有のオルターナ

  イヴィス案がない間は不可避である.)(NOVEDADES. Mexico,1969.

(19)

59   10. 27−29)

  『自覚の祝祭』に

  Planned poverty:The End Result of Tecnical Assistance(計画化さ   れた貧困:技術援助の最終結果)として収録.

⑤The need for cultural revolution(文化革命の必要)

  (THE GREAT IDEAS TODAYのためのドラフト.1970.04)

  西訳

  Urge una reVolucon cultural en las instituciones, para crear una   nueva,estructura de aspiraciones humanas.(諸制度における緊急の文   化革命;人間的熱望の新しい構造を創造するために)

  (SIEMPRE. Mexico. 1970.07.08)

  仏訳公表は

  R6voluciqn culturelle,6cole et d6velopPement,(文化革命,学校,発展)

  (LES TEMPS MODERNES,1970.06)

  『自覚の祝祭』に

  AConstitution for Cultural Revolutiou(文化革命のための憲法)とし   て収録.

 以上のように,人口制御,(g)低開発と技術援助,cm文化革命,ω法的処置,ω等々 といった多角的な問題の中で「学校化」や教育が範例として提出されている.

とくに⑤の論稿は一種の非学校化論ともいえるが,法的処置として,アメリカ 合衆国憲法の第一次修正をもって,義務的段階カリキュラムをなくし,それを効 果的にするには,仕事に先行するカリキュラムへの出席によって差別待遇する

ことを廃止し,復員米兵援護法をモデルにして公的教育資金の均等の分割を保 障し,反独占禁止法に類似するものをもって教育市場における学校の独占から 消費者を守ろう,という案を提出している.用語としては「学校化の廃止(解 体),diseetablishshment of schoolingという使い方をしている,〈西・仏も

同様)

  Deschooling Society の第6章「学習網」をも含めて,イリイチのrdeschoo・

1ingの過程」にたいするこれらの提案は,ほとんど具体的で現実的意味をもた

(20)

ないもので,ある会社の雇用者への学校化とその差別待遇を罪した一: 一ガー裁 判の判決を「学校化の解体」の実例であるとしたとき,彼はその具体性への弱 点をもっとはっきりと示してしまったといえる.⑬

 以降, Deschooling Society を構成する全7章の諸論文が,英・仏・西を 中心に公表され整理されていくのであるが,それらの各論文の公表についての 記述は頬雑となるだけであるのでここではのべない,ただ第2章にあたる「学 校の現象学」が最も早くからドラフトとしてあがっていながら公表されなかっ

たという事実を主張し,またDeschooling Societyの公刊をはさんでCIDOC の資料集が二つ編まれているが,その構成をみておくだけにしよう.

 まず1970年に『エピメテウス的人間の曙とその他の論文』The dawn of Epimethean man and other essaysと題されて次のような構成がなされてい

,1234567

た (後の括弧内はDeschooling Societyの章)

The dawn of Epimethean man Why we must abolish schooling Aphenomenology of school

The ritualization of progress The institutional spectrum Fragments for the left hand Four educational networks

(第7章)

(第1章)

(第2章)

(第3章)

(第4章)

(第5章)

(第6章)

で,公刊第7章が一番最初におかれており,公刊第5章が全く,また第7章と第 6章の表題が少し違っている,このCIDOCの編集と公刊を較べれば明らかに

「エピメテウス的人間の甦生」の稿が最も重視されていたことは一目瞭然であ る,しかも,この「エピメラウス的人間」はエ・一リッヒフロムやヘルデル・カ マラという偉大な二人の友人の思想と競っているだけに,イリイチが最も大事 にしたものでもある.

 また公刊版が出版された同年1971年に『学校の破壊』The Breakdown of schoolsと題されたもう一つのCIDOC編集版が編まれた.

その構成ば

 1・The dawn of Epimethean man       (第7章)

(21)

80ゾ0   1

Why we mast abolith schooling Aphenomenology of school

Schooling:the ritual of progress

Education without achool:how it can be, done The Institutional spectrum

Draft for an address to the american educational Research Association

Review of this book is about schools Abolishing schools

The breakdown of schools:aproblem or a symptom ?

   61

(第1章)

(第2章)

(第3章)

(第6章)

(第4章)

(第5章)

この編集をみても,イリイチがどれほど deschooling という新造語を嫌悪し それを使うまいとしていたかが示されている.&9.10.は全く別の諸論文で

あるが,(10.は後に After deschooling, what としてバー・〈・一一社に収録さ れる.公刊版第6章の「学習網」(これは「学習のネットワーク」ではない.なぜ ならば,イリイチは,ネットワークはある地点に一部の中央集中的な局をもつ というそのイメージをきらって,綱状の全く焦点のない糸と糸が出会う点を重 視して本文中ではネットワー一クを使いながらも標題からはそれを避けた.)が,

移っている.その理由は,「学習網」「エピメテウス的人間」とつづくことによ って,「deschoolingの過程」を展開しているように感じとられるのを嫌ったた めであろう.

 われわれは,Deschooling Spcietyに収められた論文が,バラバラに書かれ たものであることを見落してはならない.この書は決っして,一つのまとまっ て書かれたものではなく,「論文集」なのである.aの「学校化」を手がかりにし て,産業的生産様式に切りこもうとするイリイチの試作的なものであって,た だイリイチが1968〜70年と学校分析に焦点を集中した,というのにとどまるも

のでしかない.

 この書を書いた後,イリイチは学校化について三つの主要な論文を書き,も う一つの報告をリマでしている.

それは

(22)

 ①Altenatives to schooling  ②After deschooling, what?

 ③On the necessity to de−school society

であり,加えて最後の学校への言及となったリマで開かれたキリスト教教育の 世界大会での報告である.これらの論文から逆にDeschooling Societyを読む と,公刊本の第2章の重要性,第3章の理論的な独自性,第7章の思想的独自 性,そして第6章が何ら重要でないことが判然とするはずである.

 確かに,イリイチがdeschool(ing)を表題として発表しているものがあるが それが商業的なべ一スにのった商品としてあることが逆に示されるのである.

〈註〉

(1)先の「政治転換」は,Tools for Convivialityの草稿となったもの.後者の「政治  転換」はTools for Convivialityの終章で全く異なる論文である.

(2)イリイチのエネルギー輸送論も医療論も,すべて「政治論」であることは,基本と  されるべき見解である.

(3)のみならず,医療論エネルギー論にも,即座に歩みをすすめていた.

(4) different way of disciplines と,私の書にイリイチは書きこみをした.

(5)さらに,次の論文もある.

  Ivan Illich. Graduation Address to the Senior class of the Agriculture and  Mechanical Arts High School, Mayaguez, Puerto Rico en HORIZONS, Ponce,

 1959. 10.

  Ivan Illich. A Crucial Problem:Whom Shoold We Serve ?An Objective  Analysis of the Dificiencies of Cathoric Education in Latin Amerrca・ , en  THE SHIELD.1962.09.

(6)イリイチの論稿は;ラテンアメリカの情況をぬきには,全く正当に理解できないと  いっても決していいすぎではない.彼の現実認識は,ラテンアメリカの現実によって  形成されている.

(7)西文②CIDOC DOC・P.148/5・英文:CelebrJation of Awareness,(Doubleday,

 1970),P.120仏文②CIDOC DOC・P.196/6

(8) Celebration of Awareness, oP・cit・P.107−8・

(g)ラテン・アメリカにとって人口制御は魔術でしかないということと,その性的意識  の目覚めは政治的な潜勢力となるというもの.

OO)イリイチは,低開発を「精神状態の結果」であると制度的視座から把えかえす.

αD後に「文化革命」という言い方は消える.

⑫ 法的処置についてはGreer Taylorを中心に,多数の法学者が集まり.自然法,慣

(23)

       63

 習法,犯罪法,私有財産と法,其の他,多角的な角度からイリイチの提案を検討した.

 David N. Weisstab, Law, Growth and Tecnology,(CLDOC CUADERNO No.

 1019)

(③ Ivan Illich, Mr. Chief Justice Burger and the desestablishment of Schooling  1971.03.(CLDOC DOC.71/31a)

a4) 『目覚の祝祭』と『学校のない社会』が論文集で,あとの著作はすべて草稿をへて  の書きおろしである.

  続    編

 第一に, deschooling は,イリイチが考察しようとしていた概念的対象で も目的でもないこと,第二に,deschoolingは, post−schooling(脱学校)で はないこと,そして,第三に,この範疇を正確に理解するには,他のイリイチ の思想体系の中で位置づけねばならない,という点を示唆してきた.

 その上で,イリイチ自身がrdeschoolingは商品となった」とまで言った,(、)

その内容を可能なシューマの次元で述べておこう.

 学校の危機は「政治制度」political institutionの危機で,それに参画して いる人間の危機は「政治的態度」political attitudesの危機であるとするイリ イチは,学校を革新renewalしようとするパルチザソと学校を解体disestabli−

shnentしようとするパルチザソとの間の論争がじきに先頭にたつ,とのべてい る.(2) これを煽動と解するより,むしろ「非学校化」の意味を「オルターナテ ィヴィス」の思考法でもって解する方が正当であろう.

 つまり,イリイチは,「学校化」一本の途にたいして「学校化」と「非学校 化」の二つの分岐線を設定しようとしているのである.学校化を非学校化へ変 容することではなく,学校化と非学校化が,「二者択一」として設定されるこ

       e

とによって,学校制度の基本構造がその中央集権的な力を喪失するであろうと,

考えている.(3}それによって,彼が問題にしようとしているのは,学校をなく

すか否かそれは可能か否かという無意味な論義ではなく,「学習者の自律性を

守る(新しい)制度的な編制」を復回させることである.つまり,ある他者に

役立つような学習ではなく,自分の好きなことを学び,自分でそれを決定でき

るようになる編制そのものであり,その時に,「教育」はある特別な代理機関

の任にあたるのではなく,新しい均衡のとれた社会のためになり,有効な教育

(24)

となるであろうという.それを「非学校化とは学ぶことと教えることの世俗化

でなければならない」とも述べている.(4)

 産業的生産様式にかわる生産の自律共働的様式が 「復回」される政治転換 は,「非学校化」を移行のパイプとしているのではなく,その分水嶺的な設定に

よって,過剰な学校の独占・中央集権を限界づけて(政治的制度),自律的な学 習を復回させようとするものであり(政治的態度),この転換によって,他者を 傷つけるのでもなく,他者のためでもなく,自律した個人の相互交換が成りた つような「自律共働性」を倫理とした社会が建設されるというのである.そし て,産業社会では「学校化」は範式であったが,もはや「自律共的社会」では 範式とならないような世俗化がなされ,専門的教授のエトスも〈脱化〉されて いる「脱工業社会」post−industrial sociatyが構成されるというのである.

 学校化および非学校化は教育の水準の問題ではなく政治制度の問題であり,

その学校化・非学校を教育学ないし教育論と考えるのは多くの誤ちを犯かして いるのではないか,そして現在教育学が教師の活動も含めて真摯にとりくまね ばならないのは教育の再生ではなく,学習の再生であるとイリイチは言ってい るように思える.彼のクエルナ・ミカでの最後のセミナーとなった,1977年の夏 に,彼は人間に本当に読み書きが必要なのかどうかが問題なのではないか,と 述べた.これは,教育の問題が構造的・象徴的次元で設定されたときの最も重 要な環で,教授学的次元と社会的次元との全体の中で文明史的に考察されねば

ならない.

 学校への批判や告発は容易であるが,学校化の分析は決っして容易ではない.

日本の学校化,欧米のそれ,そして,況ゆる低開発諸国での学校化を類型とし て明確に描きだしながら,学校化が個体概念であるか類概念であるかが明白と なり転換の理論が視えるであろうが,私は研究者として今後その類型を可能な 限り史的に描きだしたいと考えている.(197&12.脱稿)

〈註〉

(1) Ivan Illich y Paulo Freire, Dialogo, oP・cit・P.38.

(2) Ivan Illich, After deschooling, what ? oP・cit・P.1・

(3)中央集権の解体は,地方分権的な集中化ではなく,個人までへの分権化とみられる

(25)

65  が,この点に明確にこたえるためには,共同体と生産様式の問題にたいして制度視座  がどうきりこむかという点が解決される必要がある.

(4) Ivan Illich, After deschooling, what・?

   Gustavo F. J. Ciriglians, La escolaridad enjuiciada , en Juicio a la escuela

 (Editorial Humanistas. Buenos Aires,1974)p.86〜7.

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