蓬莱山 : 異国からの富士山誌
著者 天野 紀代子
出版者 法政大学国際日本学研究所
雑誌名 国際日本学
巻 3
ページ 139‑150
発行年 2005‑03‑31
URL http://doi.org/10.15002/00022581
天 野 紀代子
近代になっての欧米人の富士山への関心は、浮世絵版画に接してのエキゾチ ズムから発していた。異国の風物への美的な憧憬に始まった富士礼賛は、北斎 の「富嶽百景」などを解読することを経て、しだいに日本独特の信仰の形を探 る方向へと及んでいる。しかし、そもそも富士山を異国から憧憬する出発は、
秦の始皇帝の不老不死の薬探求にあったといってもよいのではないか。富士山 を現実に仰げる土地での土着の見方と、遥か異国からのまなざしとは、自ずか ら異なるのは当然だ。これは外国に限らず、関東と関西の富士山をめぐる文芸 の差異としても表れる。ここでは、異国から或いは遠い西国から富士山はどの ように見られてきたのか、白雪を頂く美しい円錐形を描くのではない、もう一 つの富士山の系譜を辿ってみたい。
東海に神山
『史記』には、始皇帝が斉の人徐市(福)に命じて、不死の仙薬を求めに東 海に船出させたとある1)。徐福の上書に「海中に三神山有り、名づけて蓬莱・
方丈・瀛洲と曰ふ。仙人之に居る」とある蓬莱山が富士山のことだと、ここで 明記されているわけではない。徐福は仙薬を求めて海に入り帰らなかったとも、
日本の紀州熊野に漂着したとも、実証を欠く伝承は広く語られている。唐代の 詩に詠まれている蓬莱は、東方遙かの海島というイメージで、例えば日本人送 別詩などに登場する2)。在唐三十数年の阿倍仲麻呂が帰国する際の詩に「蓬莱 郷路遠く」とあるのなども、「中国人」の意識による表現であろう。徐福が日 本に漂着し、富士山に留まったとする最古の記録は、十世紀半ばごろに成立し
蓬莱山 ─異国からの富士山誌─
た『義楚六帖』で、そこには次のようにある3)。
日本国、倭国と名づく。東海中に在り。秦の時徐福五百の童男、五百の童 女を将いて此の国に止る。東北千余里に山あり。富士と名づく。亦蓬莱と 名づく。其の山峻にして三面は海。一朶上に聳ゆ。頂に火烟あり。徐福此 に止まりて蓬莱と謂ふ。今に至りて子孫皆秦氏と曰ふと。
遥か東海に聳えるという富士山を蓬莱山に擬するのは、異国からのまなざし であろう。何故なら、平安時代の詩人たちが『文華秀麗集』や『経国集』で詠 んでいる「蓬莱山」は、大海を渡り遙か大空を踏んで行くような、あえていえ ば唐土にある神仙境なのだ。菅原道真も、どことは知れない理想の仙郷に比し て我が境涯を詠う時、「蓬莱山」を持ち出している4)。つまり、当時の日本人に とって、富士山と蓬莱山とは決して重なるものではなかった。
富士山の見える地域では、縄文時代から山を神と仰ぐ信仰があったことが、
祭祀遺跡から読みとることが出来るという。奈良時代の文献資料では、富士山 は、福慈岳(常陸国風土記)、不尽山、布二の高嶺(万葉集)などと表記され ながら、万年雪と火山であることが強調されている。目にする霊山は、雪と火 と煙の山であった。「富士の高嶺に雪は降りける」(万葉318)と詠んだのは山 部赤人であるが、「燃ゆる火を雪もて消ち 降る雪を火もて消ちつつ」(319)
と、火の山として詠むのは「高橋虫麻呂歌集」からの歌で、これは史書の残す 最古の噴火記録(781年)以前の証言としても貴重である。その後平安時代に は夥しい数の噴火が記録されるが、虫麻呂の万葉歌は、それ以前にも噴火のあ ったことを知らせてくれる。そして、富士山のように燃える恋という表現が
『万葉集』から『古今和歌集』の本流となり、和歌での富士の高嶺は「燃ゆる おもひ(火)」の象徴となった。
『竹取物語』に至って、富士と不死が結びつけられる。月世界からもたらさ れた不死の薬を燃やすのは、天に最も近い山であり、未だにその煙が雲の中に 立ちのぼっているという噴火由来譚による結末には、徐福が不死の薬を求めて 富士山にまで至ったという伝承と、何らかの影響関係を認めることは出来よう。
しかし、竹取翁や帝たちは不死の薬を手にしつつも、それを拒否して煙と化し
てしまうところに、地上界の人間の情愛を優先する作者の思想をこそ読み取る べきで、不死と富士の語呂合わせは付けたりである。しかも、この物語が成立 した10世紀初の段階では、薬を燃やした山と蓬莱山とは明確に別物とされてい る。求婚者の一人、くらもちの皇子に課せられた難題は、「東の海に蓬莱とい ふ山」があるという、そこに生えている木の「玉の枝」を折ってくるというも のであった。蓬莱山はあくまでも、難波の港から船を出して向う(ふりをしな くてはならない)、海の彼方の仙境であって、駿河国の山ではない。
10世紀の後半に入って成った『宇津保物語』(初秋の巻)でも、蓬莱山に不 死の薬を取りに行くことが話題にされている。徐福でも行き着けなかったのに、
この日本からではどの方向に行けばよいのか、しょせん無理だろうとこの難題 は実行に移されない。平安時代の都人にとって、富士山は「東下り」をすれば 現実に目にすることの出来る山であって、そこに幻の蓬莱山を夢見てはいない。
『伊勢物語』(九段)の男は富士山を見て、五月の末だというのに雪の降り積も る様をいぶかしんで、次のように詠う。
時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪のふるらむ
というのは、時節をわきまえない雪山に対する不審の表明であり、秀麗な山容 を目にしての賛嘆ではない。「東下り」は都に執した精神で統一され、ここに も「時ならぬ物はすさまじ」とする美意識が働いている5)。この時期、9世紀 から10世紀の頃の都の文芸では、必ずしも富士山は神の山として崇められてい たわけではない。そうした情況の中にあって、富士山に神仙境を見る都良香の
「富士山記」は、突出した存在といわなくてはならない。
神仙の遊ぶ所
「富士山記」は、今は散逸している「吉野山記」とともに都良香(834−879)
が中国六朝時代の山水記に倣って書いたといわれている6)。都良香は山水を好 み仙術を行なうといった神仙的人物として伝えられる(大江匡房『本朝神仙伝』) が、老荘思想に基づく仙人修行の実践者というより、真言密教に傾倒していた 知識人と見るべきらしい7)。いずれにしても、当代の碩学が富士山に関する地 誌と民間伝承とを取り上げ、散文によって記し留めた功績は大きい。
まず、駿河国にある天に聳える山の描写から始められる。その姿は「天際に 在りて、海中を臨み瞰る」とあり、天の果てまで伸びる高所から海が見下ろさ れるという表現は、海中に聳える蓬莱山を連想させる。そして、裾野はあくま でも広いといった後とつぜん、
蓋し神仙の遊萃する所ならむ。8)
と書き進める。まさしく仙人が集って遊ぶところだというのだ。その証拠とし て、次のような二つの民間伝承が記される。
承和年中に、山の峯より落ち来る珠玉あり、玉に小さき孔有りきと。蓋し 是れ仙簾の貫ける珠ならむ。
承和というのは仁明天皇の年号(834−848)であるから、作者の幼児から少 年期に当る。小さい穴を穿った美しい玉が山の峰から降ってきたという奇事に、
山頂に仙人の住むことを確信するのは、むしろ長じてからの知識であろう。仙 簾という語で、仙境の宮にあるという珠玉で飾られた御簾を想像し、それが落 ちてきたと言い表している。
もう一つは、作者が晩年に耳にした伝聞である。
貞観十七年十一月五日に、吏民奮きに仍りて祭を致す。日午に加へて天甚 だ美く晴る。仰ぎて山の峯を観るに、白衣の美女二人有り、山の嶺の上に 雙び舞ふ。嶺を去ること一尺餘、土人共に見きと、
875年11月5日のことである。官民が旧例に従って祭を行なった時、正午に なって天はさらに晴れわたった。富士山を仰ぎ見ると、白衣の美女二人が山上 から一尺ばかり離れて並び舞っていた。土地の人数人が見たという。白いもの は雲ではないといわんばかりに、青天が強調されている。天女二人が峯から一 尺ほど離れて舞うという表現は、『竹取物語』で下ってきた天人たちが、「土よ り五尺ばかり上りたるほどに立ち」並んだ様を連想させる。仙界の人は地上の 土を踏まない。この仙女の舞いを目撃したという証言に、強い関心を示したの が「富士山記」の書かれた動機となっていよう。
更にこの文章は山の形状を描き、役の行者の登山に及ぶが、とりわけ頂上の 描写はどこからの伝聞に拠るのであろうか。山頂の中央は窪んでいて、形は甑
(こしき)のようであり、甑の底には神池があり、覗けば湯が湧き上るようで、
これが遠くからは煙火として見えるのだと。また池の周囲には青紺の竹が生え ているとも書かれる。実見としか思えない噴火口のリアルな描写と、全くあり えない緑の竹の存在とが共存している。植物の生育が困難な頂上に竹を見るの を虚構と解するのは今風の見方に過ぎぬ、というのが柳田國男の「竹取翁」9)
での見解である。柳田は、竹取の翁の伝説が竹を山頂に青々と描くことを許し た、と無意識の根拠としての幻覚を問題にしている。
是を見たといふ者と、聴いてさも有らんと思った者と、雙方の心の奥に何 物かの豫識があって、それが此事実の公認に、小さからぬ力を供したので は無かったらうか。
都良香が二つの民間伝承を聞き及び、さもあらんと記し留めた精神は、予め 中国の詩文から得ていた神仙思想であろう。『文徳実録』の編纂者の一人であ る良香が、史書には取り上げえない巷説や口承を「記」という形で掬い上げた ことが、富士山を仙境とする見方を公認する上で大きく働いたといえる。「富 士山記」が、中世・近世の知識人に与えた影響は多大なものがあった。
『源氏物語』の作者は、「長恨歌」を下敷きに「桐壺」巻を書き始めたので あったが、楊貴妃が仙女に生れ替ったという蓬莱山のような異界を物語には持 ち込まない。むしろそれらを否定して、弥勒菩薩の現れる未来を約束する場面 もある(「夕顔」巻)。11世紀後半の大江朝綱の願文では、蓬莱山に生れ替るの は極楽に往生しえない惑える人間として否定されている10)。つまり平安時代も 末になると、浄土教の浸透によって、蓬莱ではなく極楽往生への渇望が一般化 していくが、しかし富士山に神仙境を仰ぐ思いは、その後も伏流のように生き 続けていくのだ。
観念の富士、実見の富士
聖徳太子が天を翔ける黒駒にまたがり富士山頂を飛んだ、という伝説は平安 時代の初めには成立していたといわれる(「上宮聖徳太子伝補闕記」)。それを 絵画化した鎌倉期の「聖徳太子絵伝」を見ると、富士山は梯のように立った筒 状に描かれている(図1)。また『伊勢物語』の絵巻のうち最も古いといわれ る 久 保 惣 記 念 美 術 館 蔵 の
「東下り」の図も富士山は 筒形で、唐画の一景のよう である(図2)。富岳図で も初期の頃の作例は、実景 の山容からは程遠く、古く は銅鏡や蒔絵に描かれてい る蓬莱山や須弥山の図像に よく似た姿をしている。正 月の飾り物として「蓬莱の 島台」を作ることをしてき
た(『紫式部日記』『御堂関 図1 聖徳太子絵伝 鎌倉〜室町時代(叡福寺蔵)
図2 伊勢物語絵巻 鎌倉時代(久保惣記念美術館蔵)
白記』などにも見える)文化的伝統からは、なじみの造形であったろう。
時代は中世になっても、関西の文芸における富士山は「これ蓬莱の仙境たり」
(謡曲「富士山」)と謡われはするが、それはあくまでも観念的な霊山であった。
では、実際に東国に旅した目にはどう映ったのか。二つの紀行文の「東下り」
の一節を読んでみる。
『東関紀行』は飛鳥井雅有の記した仮名日記で、1280年11月、京を出て鎌倉 に向かう途次、富士山を眺めた印象を次のように記す。
つくづくと富士の山見やりてぞ居たる。時知らず雪の降ることは、国造り の神の宿借りけるに、この神貸さざりければ、かの神の御誓ひにてかくな むいつも寒く雪降るとかや。煙の立つこと、竹取の翁の物語にぞ、不死の 薬をこの山にて焼きたりしに、それより立つとは見えて侍れど、なほおぼ つかなし。山の前の巽の方なる山は、天人の天降りて築きたる由、富士山 の記に見えたり。いと不思議なることなり。11)
著者は歌人であり古典学者でもあるので、まず『常陸国風土記』の話を引い て、一年中雪が降る理由を書いている。次に『竹取物語』の結末で不死の薬を 燃やして以来この山には煙が立つとあるが、不審なことだという。さらに、
「富士山記」の最後にある新山の由来、802年の噴火で成った山を「蓋し神の造 れるならむ」とあった件りに異議を申し立てて、天人が天下って築き上げたと は不思議なことだと記す。自然の不思議を神の仕業というだけならともかく、
白衣の美女二人が舞ったことなども含めて「富士山記」の神秘には納得しかね る、とリアリストぶりを発揮している。富士を前にして、しみじみと眺めたと はいうものの、霊峰を仰ぐでもなく古典を引用して不審を表明するなど、神仙 思想には無縁の学者の旅行記である。
次に『春の深山路』であるが、これは1242年8月に京を出発した「東下り」
の折々の記述が主要な部分を占める紀行文で、著者は不明とされている。田子 の浦に着いた件りは次のように書かれている。
田子の浦にうち出でて、富士の高嶺を見れば、時分かぬ雪なれども、なべ
ていまだ白妙にはあらず、青うして天によれり。姿、絵の山よりもこよな う見ゆ。貞観十七年の冬のころ、白衣の美女あつて二人山の峰に並び舞ふ と、都良香が「富士の山の記」に書きたる、いかなる故かとおぼつかなし。
富士の嶺の風にただよふ白雲を天津乙女が袖かとぞ見る12)
富士の高嶺といえば、常に消えることのない雪というのが相場だが、目の前 の富士は青々と聳えている。その姿は絵に描かれている山よりずっと素晴しい、
と歌枕や歌語の先入観を振り払い、眼前の山容の美しさを賞賛している。さら に白衣の美女二人が山頂に並んで舞ったという「富士山記」の記述を、どうい うわけなのか知りがたい、と不審感を述べている。やはり神仙思想には拒否的 である。しかし歌では、富士の山頂に漂う白雲を「天津乙女」の袖かと見立て る。昔舞ったという白衣の天女を信じているのではないが、富士にまつわる摺 りこまれた文化が、そういわせている。実景優先で記述しながらも、古来から の歌枕や学識を検証し再生産することも旅の関心であったから、こうした二重 構造はむしろ当然といえる。
以上、都人が「東下り」で実際に見た富士山は蓬莱山であるはずはなく、雪 の季節でもなければ青々と聳えていたわけだが、長い間に培われた文化的な観 念と二重写しになって像を結ぶといった、独特の心性を認めることが出来る。
それは、とりわけ都や関西からのまなざしである。
遥かなる理想郷
近世になって、むしろ富士山への理想化は進む。1660年の頃に成った『東海 道名所記』では、「たぐひなき名山」である富士は、次のように書かれる。
もろこしまでも聞えて。徐福といへるもの、ふ老ふ死のくすりをもとめて、
此山に留まり。蓬莱山ハこれ也といひしとかや。13)
林羅山の『本朝神社考』もそうだが、徐福の伝承は近世になっての方が、し ばしば文献に引かれるところとなった。ここに、富士山を蓬莱山に重ねたいと
いう意識の深まりを認めることが出来る。そして、夥しい数の富士を詠んだ漢 詩が生れることになるが、江戸の詩人と上方の詩人とではそこに託すものが違 う、と指摘したのは池澤一郎である14)。江戸の漢詩人は、先進文化地域である 京坂に対抗して富士山を強引に江戸に属さしめ、江戸に花を添える景物とした、
というのである。上方の詩人は富士を蓬莱・雪嶽・芙蓉峰などと表わすが、江 戸の詩人が西嶺・西嶽・西山などと盛唐詩の語彙を借りて表わすのは、富士山 が現実に西方に見えることの強調である、と。富士講のような民間信仰では上 方を凌ぐほど盛んな江戸において、漢詩では神格化の度合いが少ないことが説 かれている。
富士山は、日常生活では意識されない地域においてこそ、理想化され神格化 されて、蓬莱山とも神仙境とも呼ばれるのだ。そもそも、蓬莱山とは中国伝来 の呼び方だったのであり、そこには異国からのまなざしがあり、理想化があっ た。駿河や甲斐や、或いは江戸の自慢としてある富士山ではなく、遥かに夢見 られた霊峰への思いは、途切れることなく生き続けたといえる。
江戸時代から明治にかけて、富士山を目にした外国人が口を揃えて世界で一 番美しい山と賞賛した記録がいくつも残されている15)。そして、ただ遠くから 望むばかりでなく実際に登山を敢行する外国人も現れる。ラフカディオ・ハー ンの登頂は、1898(明治31)年8月後半のことで、登山の苦しさが克明に記さ れた後、その頂上で目にした光景が鮮明に描かれている。火口の周りには黒い 溶岩が聳え立っている。
この尖った岩塊が、百里の霞をへだてて春畫の空の恋々たる陽炎を通して 眺めると、浄らかな蓮の花の蕾が今まさに咲きひらこうという、雪白の花 びらに見えるのだ。今、その蓮華の花が燃えかすになった端っこのここに 立って眺めると、まずこんな恐ろしい、不気味な、凶々しい、凄惨な場所 が、またと世にあろうとは考えられもしない。
しかしながら、この景─百里も見はるかすこの眺望、遠く微かな夢幻の世 界の光、この世ならぬ仙界の朝の霧、巻き去り巻き来たる雲のあやしい姿
─なべてこの景、いや、この景だけが、自分の労苦を慰め医してくれる。
(「富士の山」)16)
不気味な白い岩肌に頭蓋骨を連想する件りもあって、それはいかにも欧米人 の感覚といえるが、神仏両面から尊崇を受けているこの山の頂に、恐ろしい死 の影を感じ取りつつ、浄土の白い蓮の花びらが咲きひらこうとする光景を見る。
あたりに神々と無数の死者の内在を体感しつつも、黎明ともなれば、夢幻の世 界の光とこの世ならぬ仙界の朝の霧にいだかれ、癒される。この瞬間の詩情は、
心魂に深く沁みとおった、とある。この山頂で感じた神秘は、神でも仏でもい いのだが、昔の幾億の人々と相交わるような体験としてあった、とハーンは記 している。神聖なる富士の頂に立つことで得られた感性に、日本人の信心のか たちに繋がるものを体得したという、ハーンの日本理解への出発となった報告 と読むことが出来る。
外国人に限らない。京都生まれの富岡鉄斎(1836−1924)は、富士の頂上図 を描くことで独自な境地に達した。それも、富士山に仙界を見る京都の儒者に 連なる文人画家・鉄斎だからこそ到りついた境地といえる。鉄斎には夥しい富 士山図があるが、実際に登山した1875(明治8)年以降は、「富嶽絶頂図」が 加わってくる。それから二十年以上たって描かれた「富士山図」は、図らずも ハーンの「富士の山」と同じ1898(明治31)年の成立だが、図3はその左隻で ある17)。右隻は霊峰の全景で、左隻に雲海に浮かぶ頂上部分が描かれている。
屹立する岩肌は青緑色に塗られていて、現実にはありえない幻の別天地が、し かし確かな存在感をもって描かれている。この光景を、幻想的な虚構とはいわ ない方がよいのだろう。笠嶋忠幸は、「鉄斎にとって、富士の頂上は夢の別天 地『蓬莱』にも似た、こころの理想郷であったに違いない。」といっている18)。 この山頂図は、鉄斎描くところの「蓬莱仙境図」(図4)によく似ている。鉄 斎は、心の理想郷をついに富士山に探し求め、蓬莱山と同じ姿に造形するに至 ったのだ。
鉄斎の富士山頂が青緑に覆われているのは、都良香の「富士山記」の山頂に 緑の竹が生えていたことを思い出させる。幻を見た人も、さもあらんと思った 人も、心の奥に培われた文化の累積によって、それは確かなものとして公認さ れるのだ。東海にあるという幻の蓬莱山は、幾世代にもわたって日本人の心の 中で生き続け、天に最も近い山頂に理想郷として夢みられている。
富士山をめぐる日本人の心性には、様々のルートからの接近が可能であり、
研究もまた多岐にわたっている。外国人の富士山学が浮世絵への関心から始ま ったこともあり、その根底には秀峰への美的な讃称があるだろう。それを日本 の象徴とも捉えかえす意識の側も一様ではない。富士を間近に仰いでいた土地 の人々の信心とは違って、遥かな遠国から憧憬した富士は、また違った理想化 の道を辿った。美的というよりは精神的な、もう一つの富士へのまなざしであ る。それは、観念の勝った願望の導き出したものだったかも知れないが、富士
図3 富士山図 左隻 1898年(清荒神清澄寺蔵)
図4 蓬莱仙境図 1904年(京都国立博物館蔵)
山に心の拠り所を求める日本人の精神の深いところにあり続ける心性として、
無視することは出来ない。
注
1) 秦始皇帝本紀21「斉人徐市等上書して言ふ」(新釈漢文大系『史記』一)
2) 柴田清継「伝説上の海島と日本─徐福日本渡来伝説の起源を探るために─」(『新 世紀の日中文学関係』2003年)
3)後周の釈義楚の著した『義楚六帖』。ここでは『本朝神社考』中巻(『日本庶民生 活史料集成』)の読み下し文を引く。
4)『菅家文草』383,454,277など。(日本古典文学大系)
5)山本登朗「浅間と富士 ─伊勢物語『東下り』小考─」(『国語国文』46−8 1977 年)
6)中條順子「都良香作『富士山記』について ─中国六朝文学との関連から─」
(『古代文化』1981年8月)
7)松田智弘「仙人都良香考 ─日本的成仙術について─」(『日本書紀研究』第21冊 1997年)
8)都良香「富士山記」は、日本古典文学大系『本朝文粋』(小島憲之校注)の読み下 し文による。
9)「昔話と文学」所収(定本『柳田國男集』第六巻)
10)新間一美「白居易の長恨歌 ─日本における受容に関連して─」(『平安朝文学と 漢詩文』2003年)
11)「東関紀行」(新日本古典文学大系『中世日記紀行集』) 12)「春の深山路」(新日本古典文学大系『中世日記紀行集』) 13)浅井了意『東海道名所記』(東洋文庫)
14)池澤一郎「江戸漢詩における富士山詠の展開」(『江戸文人論 ─大田南畝を中心 に─』2000年)「漢詩に詠まれた富士山 ─京儒の場合─」(『国文学』2004年2月)
15)竹村功「外国人の見た富士山」(『富士山と日本人』2002年)
16)「異国風物と回想」(明治文学全集『小泉八雲集』平井呈一訳)
17)出光美術館図録『最後の文人 鉄斎』(2004年)より。図4も同じく。
18)笠嶋忠幸「富士山から蓬莱山へ ─鉄斎の描いた理想郷─」(注17の図録解説)
この考えは、『鉄斎「富士山図」の謎』(2004年)に詳しい。