エ リクソンにおける女性性 とジェンダー (2)
‑ アイデ ンティティ ・親密性 ・ケアー
須川 公央
は じめに
前稿 で述 べた よ うに,1960年代後 半か ら70年 代初頭 にかけて繰 り広 げ られたェ リクソンの女 性論 に対す る一連の批判 は,大 きく以下の二点 において,エ リクソン理論 を誤読 し,その本 旨 を取 り誤 るもの であった。
第‑は, フロイ トとの理論的立場 の相違 に関 す る誤認。 フロイ トは,性差の心理 ・社会的分 化 の起源 ・原因 を,唯一 ,男性器 を基準 とす る エデ ィプス ・コンプ レックスに求 めた。結果, 女性 は男性基準 の周縁 に位置づけ られ ることで, 性差 は非対称的に構造化 され ることになるO以 上 の よ うな フ ロイ トの 「男根 中心主義 phal卜 ocentrism」 に対 して,エ リク ソンは女性 の解 剖学的属性 を本質化す ることで,性差の非対称 性 を解 消 しよ うと試み る。女性身体の特殊性 か らケアなる理念 を抽 出 し,それ を既存の男性原 理に対す るアンチテーゼ として打ち立てるのは, なによ りも男性 中心の社会や制度の是正 を企図
したか らであって,多 くの批判者た ちが論難 し たよ うに,その逆ではない。
第二の誤読は,エ リクソンの理論 を 「生物学 的決定論 biologicaldeterminism」 と見 なす ものである。 この批判 に対 しては,彼 の理論が 生物学的本質主義 ではあって も,断 じて決定論 ではないことを,繰 り返 し強調 してお く必要が あるだろ う。前稿第二章で子細に論 じたよ うに, エ リク ソンは,性 アイデ ンテ ィテ ィの形成 にお ける社会的条件 の影響可能性 を否定 しない。 さ
らに言 えば,生物学的性差 を意味す る 「セ ック ス」 と文化的 ・社会的性差 を意味す る 「ジェン ダー」の連続性 を認 める一方 ,多少 な りとも両 者の非連頚舞性も認めるとい うのであるか ら,ジェ ンダーはセ ックスに よって 「決定」 され るわけ ではない。
こ こで , エ リク ソ ンの 理 論 的 立 場 を 明確 に してお くな らば , そ れ は 「生 物 学 的 基盤 論biological foundationaljsm」 (L・ニ コル ソン)に該 当す る と言 えるだ ろ う。 ニ コル ソン は,生物学的本質主義 を 「生物学的決定論」 と
「生物学的基盤論 」 とに大別 し,後者 を以下の よ うに説 明す る。
生物学的基盤 論は, ジェンダー を 「生物学の 与件 にたいす る社会的反応 の結果」 と見なす考 えであ り
,
「程度 の差 はあれ , あ らゆ る形 の生 物学的基盤論 にはなん らかの社会構築論の要素 が含 まれている」[Nicholson 1994:8lf.‑1995:108f.]。
ジェンダー を,生物学的与件 とい う定数 に対 す る社会的反応 ‑イ ンプ ッ ト (独立変数)の結 果 ‑ア ウ トプ ッ ト (従属変数) と見なす この理 論 は,以下の二つの論理的帰結 を導 くことを可 能にす る。一つは,ニ コル ソンも言 うよ うに, 時代や社会 によってジェンダーの有 りよ うが異 なるのは,その時々のセ ックスに対す る社会的 反応 ‑ 生物学的性差 に対 す る意味付与のあ り方 ‑ の違 いに よって説 明で きるこ と。 こ れは逆 を言 えば,通時代的,通文化 的に共通す るジェンダーの有 りよ うを説 明す る際 に も有効
神 奈川 大学心理 ・教育研 究論
塊
第31号 (2012年3ノ」31日)な ロジックとな る [ibid.81‑108]。 二つ 目は, ジェンダー不平等は,男性 中心主義 とい う社会 の悪 しき反応 (イデオ ロギー)に因るのであ り, それ を排 除す る ‑ あるいは性差 に関 して よ
り価値 中立的な ものへ と改編す ることができれ ば,不平等は解 消 し,女性 は 自らの生物学的特 性 を遺憾 な く発揮 できるとい うものである。
エ リクソンが企図 したのは,ま さに これ には かな らない。女性身体の特殊性 を本質化 し,そ れ を男性原理 に対置 して両者 を止揚す るとい う 彼 の構想 は,詰 まる ところ,ジェンダーのセ ッ クス化 を意図するものであった。そこには,セ ッ クスをジェンダーの土台 と見な した うえで,ジェ ンダー とい う構 築物 を取 り去れ ば,セ ックスは 何 ら社会的文脈 に属 さない純粋 な形 として現れ るとい う前提が潜んでいる。 しか し,そ もそ も 社会的意味付与の影響 を免れた純然 たるセ ック スな ど抽 出できるのだろ うか。前稿 で述べた こ とを繰 り返せば,エ リクソンは 「文化的 ・社会 的条件の影響 を免れた理念 と しての女性原理 を 提唱す るにあた り,それ を文化的 ・社会的条件 の影響 を少 なか らず受 けているはず であろ う現 実の女性の社会的属性か ら説明す るとい う誤謬」
[須川 2008:135] を犯 してい る。 これ は, と りもなお さずセ ックス とジェンダーの混同であ り,エ リクソンの理論枠組みに したがえば,ジェ ンダーか らセ ックスを取 り出す ことは原理的に 不可能であるとい うことを, 自らの理論 を通 し て立証 してみせ た ことにはかな らない。
このエ リクソン女性論 の最大の難点は,生物 学的基盤論 に不可避的に付随す る理論的陥葬 で もある。 そ こで以下では,広 く性差本質主義 に まつわる諸問題 を考察す るべ く,まずはキャロ ル ・ギ リガ ンに よるエ リク ソン批判 の検討か ら 始めてい くことに したいl)0
Ⅰ. 女 性 の ア イ デ ンテ ィテ ィ発 達 の 諸 相‑
ギ リガ ン に よ る エ リク ソ ン批 判 の 検 討
1.ギ リガンによるエ リク ソン批判の要諦
「ケアの倫理 ethicofcare」 を提 唱 した こ とで知 られ るC・ギ リガ ンは,主著 『も うひ と つの声 adifferentvoice』 (1982)において, 従来の発達研 究に通底す る男性 中心主義的偏 向
を明 るみ に出す ことで, 「人 間一般 の発達 を記 述 している と称 して」 きた理論が,その実,女 性現実 とは罪離 した理論 であ ることを,実証研 究 を通 じて明 らかに してい る [Gilligan 1982:
1‑1986:xii
] 。
ギ リガ ンによれ ば, これ までの発達理論 は, 女性の発達的特徴 を捉 えきれ ていないばか りか, ともすれ ば,それ を標準化 され たモデル か らの 逸脱 と見な して きた。 しか し,そ うした理論 の 多 くは, もともと男性視点か ら作 られた もので ある以上,女性 の発達が 「標 準」 を僧称す る男 性モデルか ら逸脱す るのは, ある意味, 当然 な ことであると言わ ざるを得 ない。 したが って, 女性 の発達 的諸相 を明 らか にす るた めには,
「も うひ とつの声」で あ る女性 の声 に耳 を傾 け ることで,女性現実 を踏 まえた発達論 を別 に構 築す る必要があると主張す るのである。
ここで 「従来の発達研 究」 と して批判の狙 上 に載せ られ てい るのは,主 と してコールバー グ の道徳性発達論 であるが,ギ リガンに よれ ば, エ リクソンの ライ フサイ クル論 もその例外 では ない。 その批判 は,エ リク ソンが女性 の発達過 程 を自説の中に組み込 めていない とい う点に尽
きる。
では,具体的にギ リガ ンはエ リク ソンの何 を 批判 したのか。少 々長 くなるが,以下に引用 し てみ ることに しよ う。
エ リクソンは,女性 の発達過程は男性 の場合 とは若干異 なる と述べてい る。 女性 は, 自分の
「内的空間 inner space」を満 た し,空 しさや 孤独 か ら救 って くれ る男性 ‑ その姓 に よっ
エリクソンにおける女性性とジェンダー(2)‑アイデンティティ・観衆性 ・ケアー
て呼称 され,その地位 によって 自分の地位 が規 定 され るよ うな男性 ‑ を惹 きつ ける準備 を してい る間は, アイデ ンテ ィテ ィ
i d e n ti t y
の 形成 を中断 して しま うのである。男性 に とって アイデ ンテ ィテ ィは,分離 と愛着か ら成 り立 っ てい る最適 のサイ クル のなかで,親密性i nt 1 ‑ ma c y
や 生殖 性g e n e r ati vi t y
を二 の次 に して いるのに対 して,女性 に とってのアイデ ンテ ィ ティはそ うではな く,これ らの課題 と融合 しあっ てい るよ うにみ える。 ・‑・ しか し,エ リク ソ ンは この よ うに男女差があることを観察 したに もかかわ らず,彼 の描 くライ フサイ クル の諸段 階の図式は変更 され ないままである。 男性経験 がライフサイクルの概念 を定義づけているので, アイデ ンテ ィテ ィは親密性 に先 立つ もの と して 描かれ ているの だ。[ Gi ll i g an1 9 8 2: 1 2 f .‑1 9 8 6: 1 4f . ]
ギ リガ ンの主張は こ うである。エ リクソンの ライフサイクル論 ‑ いわゆるエ ビジェネティツ ク ・チ ャー ト‑ は,男性視 点に もとづ いて 構築 されているため.女性 のアイデ ンテ ィテ ィ 形成の特性 を十分 に描 ききれていない。 ギ リガ ンに よれば,男性は他者か らの分離や個体化 に もとづいてアイデンテ ィテ ィを確 立す るのに対 し,女性のそれ は他者 との親密性や愛着 といっ た過程 に深 く根 ざしている。 ところが, ライ フ サイ クル論は 「発達それ 自体が分離 と同一視 さ れ て い る
」 [ i bi d .
] た め, この図式 の も とで は,親密性や愛着 を基調 とす る女性 のアイデ ン テ ィテ ィ形成は発達不全 と見な され て しま う。女性 においては,五段階 目のアイデ ンテ ィテ ィ 課題 と六段階 目の親密性課題 は融合 しているか,
も しくは後者が前者 に先行す るとい うのが ギ リ ガンの見解 であ り, これ ら観察結果 を踏 まえた
うえで,エ リク ソンの発達論は然 るべ き図式に 修正 されなけれ ばな らない と言 うのである。
もっとも, こ うした批判はギ リガ ンが噸矢 と い うわけではな く,発達心理学の領域では,す でに早 くか ら同様の指摘がなされていた。
た とえば,
J
・E・ギャラテ ィンは,アイデ ン テ ィテ ィか ら親密性へ と移行す るエ リクソンの 記述 が,男性 には適合 して も女性 には適合 しな い こ とを示 唆 して い る[ Gal l ati n 1 975
]。 同 様 に, E・ド‑ ヴァンと J・アデル ソンは,青年 男女 を対象 とした全国調査の結果か ら,エ リク ソンが示 したアイデ ンテ ィテ ィか ら親密性 ‑ と い う発達経路 は,女性 においては逆の順序 で進 行す る と指摘す る[ D o uv a n& Ad el s o n1 9 6 6
]。ギ リガンの見解 を裏付 ける研究は数知れ ない が,他方で,エ リクソン理論 を擁護す る研究 も 存在す ることは,併せて指摘 しておかねばな ら ない。 その代表格である発達 心理学者 のS・L・
アーチ ャーは
,J・ E
・マ‑ シアのアイデ ンテ ィ テ ィ ・ステイタス面接 に もとづ く調査結果か ら, 男女のアイデ ンテ ィテ ィ形成 の過程 に有意 な差 は確認 され なか った と報告 してい る[ A r c h e r 1 9 8 2、1 9 8 9 ] 。
本論 では,アイデ ンテ ィテ ィと親密性 の順序 をめ ぐる, これ ら先行研 究結果の 当否 について は判断 を保留す る。 とい うの も,半構造化 面接 を主 とす るこ うした調査 は,必ず しも分析手法 や条件 が統一 され ている とは言 い難 く,何 よ り
もアイデ ンテ ィテ ィ形成 の性差 による違 いは, 時代や文化,性役割期待 とい った社会的条件 に よって大 きく左右 され る と考 えるか らである。
代わ って本論 が検討す るのは,ギ リガ ンを始 め とす る批判者 たちが暗黙の うちに前提 として い るエ リクソン解釈 の構 図である。 こ うした批 判 は,そ もそ も如何 なるエ リクソン解釈 にもと づいているのか。以下では,エ リク ソンのテ ク ス トを内在的に検討す ることで, これ ら批判の 妥 当性 について検証 してみ ることに したい。
2.ギ リガンによるエ リク ソン解釈の構図 ギ リガ ン ら修正論者 に共通す るエ リク ソン解 釈の第一のスキーマは, ライ フサイ クル を他律 か ら自律, 自他未分か ら自他 分離へ と進展す る 分離個体化モデル と見なす とい うものである。
エ リク ソンの発達論 に女性視 点の欠如 を兄いだ
神奈川大pf・心理・教育研究論袋 第31号 (2012年3)」3lEl)
す論者の多 くは,ほぼ この構図に準拠す るかた ちで批判 を展開 してきた と言 って良い。 た とえ ば, ギ リガ ンに よる次の一文。
彼 (ェ リクソン) は, ‑‑ 発達 の過程 をそ こで経験 され ることはすべて 自律性や個体化‑
と向か ってい く各段階に位 置づけ られ るもの と して図式化 してい る。 したが って,分離それ 自 体が成長 のモデルであ り,基準 となっている。
エ リクソンは,女性 のアイデ ンテ ィテ ィは分離 のみ な らず親密性 とも関連 しているとい うこと を発見 しているが, この発見は彼 の図式にはあ らわれ ていないのである。
[Gilligan 1982:98‑1986:173]
ライ フサイ クル を 自律性 の獲得 とそれ に随伴 す る個体化 のプ ロセス と見なす考 え方 は,エ リ クソン解釈 としては特 に 目新 しいものではない。
問題 は, こ うした議 論が 「分離 Separation」
をライ フサイ クル全体 に通底す る基本原理 と見 なす ことで,分離 とは原理的に対立す るであろ う愛着や親密性 といった観 点が,過小 に評価 さ れ てい ると指摘す る点にある。
この点に関 して,ギ リガ ンは若干の留保 を加 えつつ も,次の よ うに述べている。 「信頼trust 対 不信 mistrustとい う第一段階においては, エ リク ソンが親密性 intlmaCyとジェネ ラテ イ
ヴ ィテ ィ generativltyとい う言葉 で表 現 し た相互性 mutualityの型が示 されて」いるが,
「それ以外 は分離 に関わ ることであ り, 発 達そ れ 自体が分離 と同一視 され る結果 となっている のだ」 [ibid.12‑15]。
ライ フサイ クルの第一段階 (信頼) と第六段 階 (親密性),第七段階 (ジェネラテイヴィテ ィ) 以外 は分 離 に関 わ る とい うこ とが, ど うして
「発 達 それ 自体が分離 と同一視 され る結果 」 と な るのか。 一見す る と,論理的に飛躍 している と思われ るこの主張の妥 当性 については,今は 論及 しない。 む しろここで確認 してお きたいの は,アイデ ンテ ィテ ィ と親密性の各段階に焦点
を絞 った うえで,前者 が分離 に,後者 が愛着や 相互性 とい った関係性 の原理 に基礎 づけ られ て いる点である。
先に見たよ うに, ギ リガ ンは女性 のアイデ ン テ ィテ ィが分離のみ な らず親密性 とも関連す る と指摘す ることで, ライ フサイ クル論の妥 当性 に疑義 を呈す る。 具体的には,女性 の発達過程 は第五段 階 (アイ デ ンテ ィテ ィ) と第 六段 階 (親密性 ) にお いて融合 してい るか, あるいは 順序が逆転 しているとい うのが彼女 の主張なの だが,それ は女性 が分離 を基調 とす るアイデ ン テ ィテ ィ課題 よ りも,愛着や 関係性 を基調 とす る親密性課題 に親和的である とい う理 由か らに はかな らない。 これ は逆 を言 えば,青年期の男 性 に とっては,親密性課題 よ りもアイデ ンテ ィ テ ィ課題 の方が よ り親和的だ とい うことでもあ る2
) 。
では, こ うしたアイデ ンテ ィテ ィ形成上の男 女差は,いかなる発達論的条件 に起因す るので あろ うか。 ギ リガ ンは,その主たる原因 を人生 早期 にお ける母子 関係 の有 り様 に求 め,次の よ うに述 べ る。 「少年や男性 に とっては,母親 か らの分離が男 らしさの発達に不可欠」であるが,
「女 ら しさあ るいは女性 と してのアイデ ンテ ィ テ ィの問題 は,母親 か らの分離や個体化 の進行 によるのではない。女 らしさは母親の愛着によっ て,男 らしさは母親 か らの分離 に よって定義 さ れ る」のである [ibid.8‑8]。
この よ うに,ギ リガンの議論 には明瞭なる基 礎づ けの論理 ‑ 本論 は これ をエ リク ソン解 釈の第 二のスキーマ とす る ‑ が見て とれ る。
一つは,アイデ ンテ ィテ ィ課題 を分離に,親密 性課題 を愛着に基礎 づ ける とい うものであ り, も う一つは,両原理 をジェンダー ・カテ ゴリー に組み込んだ うえで,前者 を男性的課題 ,後者 を女性的課題 と して捉 えてい る点である。
そ して何 よ り重要 なのは, この二分法的な枠 組みそれ 自体 が 「分離」の原理的優位 の下に把 握 され ている点であろ う。 男性 に とって,アイ デ ンテ ィテ ィか ら親密性 とい う通常の経路での
エ リクソンにお け る女性性 とジ ェン ダー (2)‑アイデ ンテ ィテ ィ ・親 符・性 ・ケアー
課題達成 は さほ ど困難 ではないが,女性 に とっ てはそ うでない。 その理 由は,エ リクソンの図 式が 「分離それ 自体 を成長 のモデル であ り,塞 準 と してい る」‑ す なわ ち男性 経験 を発達 の基準 ・指標 と しているか らである。 ライ フサ イ クル論はジェンダー非対称 な構造 を宿 してい るがゆえに,女性のアイデ ンテ ィテ ィ形成 は男 性基準か らの逸脱 とい う形で しか表現 されず, 結果,親密性や愛着 といった女性的特性 は過小 評価 され て しま うとい うわけである。
以上,ギ リガ ンによるエ リク ソン解釈 の構 図 を二点に分 けて確認 した。 もとよ りこ うした批 判 は,その解釈枠組みが正 当であるとい う前提 に立 っての もの である。 はた して,エ リクソン の議論は上記の構図に収 ま り得 るものなのか。
その解釈枠組みの妥当性 こそが,吟味 され て し かるべ き課題 なのである。
3.アイデ ンテ ィテ ィと親密性 をめ ぐって ライ フサイ クル を各段 階の特性 に応 じて,
「分離」 (自律性 ,個体化) と 「愛着」 (相互性 , 関係性)か ら成 る二系列に振 り分け,図式全体 を二分法的に把握するとい う発想は,比較的オー ソ ドックスなライフサイクル論理解 であると言っ て良い。
た とえば,C・E・フランツとK・M・ホ ワイ ト は,全八段階の発達図式 を 「個体化経路indi‑ viduationpathway」 と 「愛着経路attachment pathway」 とい う二つの経路によって理解 できる
と考 え,独 自に 「複線 モデル tlVO‑Pathmodel」 なる理論 を提唱す る。経路の名称か らも推察 さ れ るよ うに,その理論 もギ リガ ン同様, ライ フ サイ クル論 が相 異なる二つの原理 を伏在 させ て い る と い う酪 織 を 基 調 とす る も の で あ る [Franz
&
White1985]。 と りわけ, アイデ ン テ ィテ ィ と親密性の各段階に関 して言 えば,前 者 が分離 (個体化)に,後者 が愛着 (関係性) に基礎づけ られ ていることか らも分かるよ うに, 概 して,両課題 は対極的かつ二律背反的な関係 にあるもの と して理解 され てきた3)0しか し一方で, この よ うな二項対立的な図式 把握 は,エ リク ソン理論の過度 な単純化 である との批判 も存在す る。 その一人 E・A ・ホース ト は,以上の通説 的解釈 に反駁 を試み るべ く,吹 のよ うに述べている。
エ リク ソンは,断 じてアイデ ンテ ィテ ィ と親 密性 を分離separatenessと関係性connection
とい う対極概念 で表現 しよ うと したわけではな か った。 ‑ ‑ エ リク ソンの親密性 に関す る議 論に立 ち戻れ ば,分離 と関係性 とい う緊張関係 は親密性課題 の本質であるとい うことが分かる。
対極性 は親密性課題 それ 自体 のなかに存在 して いるのであ り,アイデ ンテ ィテ ィと親密性 の間 にあるのではないのである。
[Horst1995:275]
上記 引用 中の 「対極性 は親密性課題 それ 自体 のなかに存在 している」 とは,いわゆる 「エ ビ ジェネテ ィ ツク ・チ ャー トepigeneticchart」 にお け る心理社会的危機 (〜対 (vs.)〜) の ことを指 している。 ホース トによれ ば,批判者 たちは 「各ステージの片方の項 目 (アイデンティ テ ィや親密性 ) だ けを引用す る傾 向」 [ibid.
274] があ り,それ が結果 と して,課題 間では な く課題 内に存在す る対立関係 を見失わせ て し まっている と指摘す る。対極性 は親密性 とアイ デ ンテ ィテ ィの間にあるのではな く,前成 人期 の発 達課題 であ る 「親 密性 (intimacy) vs.
孤 立 (isolation)」に こそ 存在 す る と言 うの である。
心理社会的危機 に対択関係 を兄いだすべ きで あるとい うこの指摘は,ある意味当然 と言 えば 当然 なのだが,む しろ注 目すべ きは,ホース ト がアイデ ンテ ィテ ィ と親密性 の原理的相反性 を 否定 している点であろ う。 それ は言 うなれ ば, 先の二分法にもとづ く概念把握 それ 自体の無効 性 を主張 しているとい うことで もある。
では,そ もそ もアイデ ンテ ィテ ィお よび親密 性 とは何か。 これ まで幾度 とな く検討 され てき
神奈川大77:心理 ・教育 研究論娘 第 31号 (2012年 3月 31日)
たそれ ら定義については, ごく簡単に触れ るに とどめ,ここでは主に両課題 の関係に焦点を絞 っ て見てい くことに したい。
まずアイデ ンテ ィテ ィであるが,その最 も簡 潔 な定義 に よれ ば
,
「アイデ ンテ ィテ ィとい う 言葉 は, 自分 自身の中で永続す る斉‑悼 (自己 斉‑性) とい う意味 と,ある種の本質的な特性 を他者 と永続的 に共有す るとい う両方の意味 を 含 む よ うな,その両者 の相互 関係」 [Erikson1 95 9: 1 09‑2 011: 11 2
] と定義 され る。 これは
端的に言 って しまえば, 自分が 自分 である とい う感覚 を他者 との永続 的な関わ りのなかで再確 認 してい くとい うことであ り,畢寛それは, 自 己の同一性感覚が 自己自身のみな らず他者 によ る自己承認 を以 て獲得 され ることを意味 してい る。 R・ジ ョセル ソンは,こ うしたアイデンティ ティの有 り様 を 「関係内自己self‑1nTelation」とい う言葉 で表 現す るが [Josselson
1 987
], その意味では,アイデ ンテ ィテ ィは分離 とい う 言葉 か ら想起 され るよ うな個体論的な概念 では な く,す ぐれ て関係論的な概念 であると言 うこ とがで きよ う。一方 ,親密性 につ いては
,
「複数 のアイデ ン テ ィテ ィの融合 であると同時に,それ らアイデ ン テ ィ テ ィ の 独 自性 を 際 だ た せ る も の」 [Erikson1 9 6 8: 1 3 5‑1 97 3: 1 7 7
] と定義 され る よ うに,それ は 自己 と他者 が分離 しているよ う で融合 している,あるいは融合 しているに もか かわ らず個が際だっ といったよ うな,そ うした キアスム的な対 人関係様式 を特徴 とす る段階 と 理解 して良い。エ リクソンは,親密性の具体的エ ピソー ドと して,前成人期 に特有な異性間 (同性 間)の性 的関係や友人関係 を例 に挙げて説明す るが,級 に よれ ば, こ うした他者 との親密 な関係 が可能 にな るのは
,
「アイデ ンテ ィテ ィが 申 し分 ない ほ どに確立 されている場合 に限 られ る」[ibid.]
と言 う。 とい うの も,アイデ ンテ ィティが未成 熟 な場合,個人 は他者 との親密 な関係 (融合) に よって 自らの同一性 が脅か され るのを恐れ,
関係その ものにコ ミッ トす ることを蹄蹄す るか, さもなけれ ば,それ は擬似的親密性 とい う形 と な って
,
「互 い を 自己愛的 に鏡 に映 しあ うこ と によ り,ぼや けたアイデ ンテ ィテ ィの輪郭 を明 確化 しよ うとい う絶望的な試み」[Erikson1 9 5 9:
1 3 4‑2 011: 1 43
] ‑ と堕 して しまいかね ないか らである。エ リクソンが親密性課題 に先立 ってアイデ ン テ ィテ ィ課題 を設定す るのは,お よそ以上の理 由による。 しか しこの ことは一方で,後 に修正 論者 たちが論難す ることにな る主要な争点の一 つ となった とい うことも明記 してお く必要があ るだろ う。
アイデ ンテ ィテ ィ と親密性 の関係 につ いて,
M・ A
・カセル ギス とG・ R
・アダムスはアイデ ン テ ィテ ィ ・ステイ タス面接や親密性 ステイ タス 面接等による実証調査か ら,
「アイデ ンテ ィテ ィ の形成 は,青年期お よび前成 人期 における成人 の親密性発達にとって,十分条件ではあって も必 要条件 ではないか も しれ ない」 [Kacerguis&Adams
1 980: 1 24
] と結論 づ けてい る。 これ は つま り,アイデ ンティテ ィの成熟度が高ければ, 相対的に親密性 の成熟度 も高い とい う事実だけ が 立証 され た とい うこ とで あ り, そ の逆命題‑ 親密性 発 達 は アイデ ンテ ィテ ィの成熟 を 必要条件 とす る ‑ を主張す るエ リク ソンの 見解 を部分的に否定す るものである」)。 もっ と もカセル ギス らによれ ば,以上の結果は男女両 性 に認 め られ る としてお り, それ は性差 によっ てアイデ ンテ ィテ ィ と親密 性 の順 序 は異 な る (あ るいは同時進行) と指摘 した ギ リガ ン理論 の傍証 とな り得 ない こ とも併せ て確認 してお く 必要がある。
いずれ にせ よ,エ リク ソンの定義か らも明 ら かなよ うに, ギ リガ ン ら修 正論者 に よる二項対 立的な図式把握 は,あま りに紋切 り型 な解釈 で ある と言 って良いだろ う。先 に引用 したホース トによれば
,
「分離」 (自律性 ,個体化) と 「愛 着」 (相 互性 ,関係性) の両原理 は, アイデ ン テ ィテ ィ課題 と親密性課題 のいずれかに還元 さエ リク ソンにお ける女性化三とジェンダー (2)‑アイデ ンテ ィテ ィ ・親 解性 ・ケアー
れ るものではな く,その双方 を特徴 づけるもの であるO したが つ,て, これ ら二つの課題 が原理 的に相反す る関係 にない以上
,
「アイデ ンテ ィ テ ィは親密性課題 に先行 してい るのか,後 に続 くもの なの か, あ るいは一体化 してい るのか とい った こ とは, それ 自体 が貧 弱 な考 え方」 [ J os s el s on 1 987: 22
] で あ る と言 えるか も し れない。ギ リガンが提唱す る 「ケアの倫理
e t hi co f c a r e」
は, 以上 のエ リク ソン解 釈 を 自説 の下 敷 き とす るもの である。女性経験か ら帰納的に 導 き出されたケアの倫理は,その根底において, 女性 のアイデ ンテ ィテ ィが親密性や愛着 といっ た特性 に基礎づ け られ ているとい う認識 を議論 の出発点に置いてい る。 それは以下のC・
Z・エ ンスの指摘 にもあるよ うに,ケアや親密性 を女 性 カテ ゴ リーに振 り分 け,固定化す ることで, はか らず も伝統 的なジェンダー秩序の再生産 に 寄 与して しま う本質主義的な議論 とい うことに な りは しないだ ろ うか。「女性 の基本 的志向は,ケアす ることに向か うこ とにあ る
」 [ J o rd a n & Su r re y ( 1 986)]
とか
,
「女性は 自身のアイデ ンテ ィテ ィを親密性 や ケアの関係 を とお して規定す る」 [ C1l l i g a n
( 1 9 82 )
] といった一般化 は,女性 であるこ とや 男性 である ことの対極化 された変数 も しくはカ リカチ ュア として,個 人が 自律性や 関係性 の問 題 を考察す るこ とを促進 した。 ‑‑ 加 えて, 女性 の強固な養育や ケア能力を描 き出そ うとす ればす るほ ど,男性 が この領域 において能 力を 発揮 し同定す ることはほ とん どあ りえな くなっ て しま う。 か く して ジェンダー に関連 した不平 等が強化 されて しま うのである。l E n n s1 9 91: 21 4]
Ⅱ.エ リク ソンの ケ ア論 一 徳 と しての
「ケア
car eJ
1
. ライ フサ イクル論 にお ける 「ケアc ar e」
の位置
もとよ り,上述のギ リガ ン理論 に見 られ る本 質主義 的傾 向5)は,エ リク ソンのケア論 にお いても同様 に認 め られ るものである。た とえば, 次の一文。
女性 のケアに対す る準備 は, よ り明 白に女性 の身体に根 ざしているのであ り,それはいわば, ケアの形態学的見本であ り,保護 された住み家, 栄養の源 で もある。
l E rl k s on1 96 4: 1 3 2‑1 971: ] 3 0 ]
上記引用に端的に示 され てい るよ うに,その 理論 は,ケアを女性 固有の特性 と して認 める本 質主義 との印象 を拭 いきれ ない。 それ は前稿 の 検討 か らも明 らかであろ う。
とはいえ, ここで彼のケア論 を一端 ,ジェン ダー拘束か ら解 き放 ち,その概念の多層的な意 味合 いを探 ることは,けっ して無駄 な作業では ない よ うに思われ る。
前稿か らの続 きで言 えば,エ リク ソンは,ケ アを性差 に還元 で きる とは考 えなか った。 「こ れ まで女性的な もの として提示 してきた基本的 な枠組みの大半は,すべ て男性 のなかになん ら かの形 で同時に存在 してい る
」[ E ri k s on1 9 6 8:
2 82‑1 97 3: 398
]。 女性 に とってそれ は,身体
の解剖学的条件 によって最適 形態 と して与 え ら れ ているに過 ぎない。
それが証拠 に,性差 を問わず運用可能 な もの と して構想 され た ライ フサイ クル論 は,その発 達段階の七段階 目にあたる成人期の 「徳
vi rt u e」
に 「ケア
c a r e
」 をお いてい る し,サイ コ ヒス トリー研究の金字塔 ともい うべ き 『ガ ンデ ィー の真理』( 1 96 9)
が,ガ ンデ ィーの生育史研 究 か ら彼 の特異なケア的資質 を明 らかにす る試み であった ことを思い起 こせ ば,それ は明 らかで神奈川大乍心理・教育研究論岱 第31号 (20)2年 3j」31Fl)
ある。
そこで以下では,「ライフサイクル 11fecycle」,
「相互性 mutuality」, 「倫 理 ethlCS」 とい う 三つの観点か ら,エ リクソンのケア論の具体的 内実 とその多面的性格 を浮 き彫 りにす るこ とに
しよ う。
まず,彼 のケア論 を理解す る うえで欠かせな いのが,先に も取 りあげたェ ピジェネティツク ・ チ ャー トと呼ばれ る図表であるC この発達図式
は, <〜対 (vs.)〜 > とい う対 立す る二つの 発達上の危機 に よって示 され る発達課題 ばか り が注 目され るが, ここではその危機 を乗 り越 え るこ とに よって獲得 され る 「徳 vlrtUe」 に焦 点 をあてることにす る。
エ リク ソンに よれば,成人期 の心理社会的危 機 は, 「ジェネ ラテ イヴィテ ィ (gellerativity) vs.自己没頭 と停滞性 (stagnationandself‑
absorption)」 とい う二つの対立項 目に よって 表現 される。 この対立項の肯定的項 目であるジェ ネ ラテ イ ヴィテ ィは,狭義 には 「生殖性 pro‑
Creativlty」を意 味す る言葉 で あ るが, そ の 概念の射程は次世代の再生産だけに とどま らず,
「生 産 性productivity, 創 造 性 Creativityを 包含す るものであ り, ・・‑ 新 しい存在や新 し い制作物や新 しい観念 を生み出す こと」 も意味
している。 一方 ,否定的項 目であ る自己没頭 ・ 停 滞性 は,「世代継承 的な活動 にお いて活性 を 失 った人た ち」 に特 有な失調傾 向であ り, 「疑 似的親密性 への強迫的欲求 あるいは 自己イ メー ジ‑の一種の強迫的な耽溺 といった形 で,過去 の段階への退行 」を生 じさせ る心性 を指す [Er ikson 1997二67‑2001二88f.]。 そ して, この相 対立す る葛藤 の危機 を乗 り越 えることで獲得 さ れ るのが,徳 と しての 「ケ ア care」である。
も う少 し詳 しく見 てい くことに しよ う。 「徳 virtue」あるいは 「基本的な強さbasjcstrength」
とも言 い換 えられ るケアは,ジェネ ラテ ィグィ テ ィと自己没頭 ・停滞性 とい う対立す る二つの 自我感覚が,一定の比率において,前者 が後者 を上 回 る 「協和傾 向 sympathic trend」に達
した際に生起す る とされ る。 エ リク ソンによれ ば,人生の中年期は世代継承 にまつわ る様 々な 葛藤的場面に遭遇す る時期 である と言 う。 具体 的 にそれ は, 「男女 ともに,何 を,そ して誰 を 気 づ か う (care for)か, 何 を立派 に果 たそ うと気 をつ けて い る (care to do)か, そ し て,今後いかなる計画の もとに,すでに着手 し, 創 造 した もの を世話 してい く (take careof) か」 を, 自ら主体的 に選択 し決断 していかねば な らない とい う事態 である [Erikson 1969:395
‑1974:245]。 ケアにまつわ るこの葛藤的 な局 面において, 自己没頭 ・停滞性 とい う感 覚 を残 存 しつつ も,それ を超克す る程度 に,自我がジェ ネ ラテ イヴィテ ィの感覚 を親和的に感 じ取れ る な らば,心理社会的危機 は一 定の解決 を迎 え,
「基本的 な強 さ」 と してのケ アが強化 され る こ とにな る,そ うさ しあた り理解 して良い。
2.ケア と拒否性の相克
ところが,話 はそれ ほ ど単純 ではない。 この 成人期 にお ける危機 の解決 とい う課題は, 当然 の ことなが ら, 自己没頭 ・停滞性 の感覚が優位 となる可能性 を排除す るものではない。 エ リク ソンは,心理社会的危機 にお いて否定的感覚が 凌怨 して しま う事態を 「不協和傾 向antipathic trend」 と呼び,成 人期 にお いて出現す る不協 和特性 を,ケアと対をなす 「拒否性rejectivity」
とい う言葉 で表現す る。 拒否性 とは, 「特 定の 人間や集団を 自分の世代継承的関心のなかに含 め ることの嫌悪 ‑ つ ま り彼 らのケアを した くない こと ‑ である」 [Erikson 1997:68‑
2001:90]。 それ は 自身 の子 どもに対す る虐待 とい うネガテ ィブな形 と して表 出 され ることも あれ ば, 「異国の人た ちの様 々な大集 団 を 「向 こ う側 」 と してひ とま とめ に括 って しま う」 [jbicl.69‑9月 排他 的 な観 念や行 為 と して も 現れ るものである。
この よ うに, 「ジェネ ラテ ィ グィテ ィ vs.
自己没頭 ・停滞性」 とい う弁 証法は, ケア と拒 否性 とい う二つの発達的特質 を交互に生起 させ
エリクソンにおける女性化三とジェンダー(2)‑アイデンティティ・観衆性 ・ケアー
るのだけれ ども, ここで留意すべきは,両者 は 互いに排除 しあ う関係 にあるのではな く,相補 的 に機 能す る とい う点 である。 「人間は 「あ る 程度,明確 な拒否性 を有す る」 とい う程度 まで 選択 的 にな らない と, (何者 かに対 して) 世代 継承的であ りかつケアに満 ちている とい う状態 には」な りえない。 とい うの も,ケアは本性上,
「最 も 「近 しい」 もの を好 む ‑ あ るいは最 も 「近 しい」 ものに し得 るもの を好む ‑ と い う意味で, きわめて選択的な もの」[]'bid.68
‑90f.]だか らである。
これ はいみ じくも品川哲 彦の指摘す る, N・
ノデ ィングスのケアすべ き対象 の限界性 とい う 議論 と符合す る [品川 2007]。通常,ケアの対 象 は,ケアす るものに とってよ り身近な個別具 体的な他者 である。 ケアは,それ を必要 とす る 者の個 々のニーズを看取 し,そのニーズに対 し て個別具体的 に応答す る状況依存的な実践であ るとい う点で,その対象 を他者一般 にまで拡張 す ることには困難が伴 う。 その限 りで,ケアは 対象選択的 である とい うこと,つま り一定の拒 否性 な く しては成立 しえないものであるO
では, ここでエ リクソンは,ケアできる範囲 は限 られているとい う現実上の制約 をただ追認 しているだけなのだろ うか 否,そ うではない。
確かに,ケアすべ き対象 の設定は,ケアす る者 の 自己選択的な判断 に大 き く依存 している。 そ うした現実的制約 を不可避 なもの とした うえで, にもかかわ らず ケアを普遍化 してい くためには, ケアを した くない,あるいはできない とい う拒 否性 の限度が どの程度 まで許容 され るかを,倫 理や法によって規定す る必要がある と言 うので ある。 「それ ゆ えに倫理や法や 洞察は,その集 団における拒否性 の許容範囲を定義 しなけれ ば な らないのであ り, ・‑・よ り広範な共同体単位 に対す る, よ り普遍的なケアの原理 を唱道 し続 けなけれ ばな らないのである」 [Erikson 1997:
68‑2001:91
] 。
この よ うにケアは,それ が 「徳 virtue」 と されていた ことか らも明 らかなよ うに,具体的
な他者 に限定 され ない普遍的 な拡が りをもった 倫理的命題 である。 しか もそれ は,ケアの対象 が人に限定 され ない とい う意味 でも,普遍的な 拡が りを有 している。 「ケアは, これ まで大切 に して きた (care for)人や 制作物 や観 念 を 世話 す るこ と (take care of) こ と‑ の拡 が
りゆ く関心である」 [ibid.67‑88f.]。 では,エ リク ソンはケアを徳 へ と昇華 させ る にあたって,何 を根拠 にそれ を倫理的命題 とし て定立す るのか。 言 い換 えれ ば
,
「なぜ我 々は ケアを しなけれ ばな らないのか」 とい う,ケア 倫理の基礎 づけの問題 につ いて見てい くことに す る。3 .「相互性 mutuality」 と してのケア ‑ ケアの倫理 に向 けて
す でに西平直が指摘 してい るよ うに,エ リク ソンの言 う 「徳 vjrtue」 は,事実性 と規範性 とい う二重の性格 をま とった概念 である6)。 ま ず徳 の事実性 とい うこ とに 関 して言 えば
,
「エ リク ソンは,発達 の事 実の 中か ら徳 (virtue) を取 りだ した」 [開平 1993:45] とあるよ うに, それ は当初 か ら規範的命題 として構想 され てい たわけではない。 発達観 察 とい う臨床 的洞察 に もとづいて抽 出 され た, 「人間が生 きるために 最低限備 わ っている と認め ざるをえない強 さ」[ibjd.45]だ とい うこ とで あ る。 それ は人 に 生得的に備 わっている基本的強 さではあるが, 心理社会的危機 の継 起に ともなって 自然発生的 に生起す るのではな く
,
「相 互性 mutuality」に もとづ く世代間相互作用 を通 して賦活 され る 発達的特質である。エ リク ソンは この相互性 を,
「他 人 を強化 してい るに もかかわ らず , 自身 を も強化す る」 [Erikson 1964:233‑1971:240]
ことと定義 し,その具体例 と して母子関係 を挙 げ るC
母子関係 にお いて,赤 ん坊 は一見す る と無力 かつ脆弱な存在 であるかの よ うに見えるが,そ の 「傷つきやす さや純粋 に必要 を欲す る従順 さ それ 自体が,力 を持 ってい るのである」 [ibid.
神奈川 大乍心理 ・教 育研究論iJ:1 第31号 (2012年 3月 31日)
114‑108]。 この 「傷つきやす さvulnerability」 とい う力 こそが,母親 のケアなる徳 を喚起 し, 実際にケアせ しめるとともに,赤ん坊 もまたそ のケア を通 して, 自らの徳 ‑ 「希望 hope」
‑ を育む ので あ る。 それ は,赤 ん坊 とい う ヴァルネ ラブルな存在そのものが応答責任 を迫っ て くる とい う意 味で
,
「存在 と当為」,
「事実 と 規範」が揮然一体 となった場面 と言 えるが,もっ とも, こ うした状況は母子 関係 に限 られ るもの ではな く, <ケアす る/ され る>関係一般 にま で敷術 され るものである。ここでケア関係一般 に妥 当す る相互性 の原理 について,それ が互恵的な関係性 を前提 とす る 限 りにお いて,徳 の 「相 互活性化 mutualac‑ LjvatユOn」を促 す とい うことは, 強調 してお く必 要 が あ るだ ろ う。 エ リク ソンに よれ ば,
「成熟 した人間は必要 とされ るこ とを必要 とす る」 [Erikson1950:266f.‑1977:343
] 。
ま さ にその理由によって,人はケアをす るのである。したが って, 自らの必要を満た さない (され な い)ケア,すなわち自身の徳 を強化 しない よ う なケアは,た とえそれが相手の徳 を強化す るも のであっても,本来的なケアのあ り方ではない。
例 を挙げれば,ケアす る者 が 自らの限界 を超 え て過度 な負担 を感 じて しま うよ うな 自己犠牲的 なケアは,ケアではない とい うことである。
この よ うに,エ リクソンのケア論は,他者 へ のケアのみ な らず, 自己‑のケア とい う視点を も含み込んだ ものである。 しか もそれ は,他者
‑の配慮が同時に自己の配慮 となるよ うな事態, 自己‑の配慮が同時に他者 の配慮 につなが る関 係性 を志向す る とい う意味で, <ケアす る者/
され る者 >の関係 それ 自体 をケアす ることが 目 指 され ていると言 えよ う。相互性 の原理に もと づけば,他者 へのケアなき 自己のケアは存 立 し えず,同様 に, 自己‑のケアな き他者 のケアは 存立 しえないのである。
しか し一方で, こ うした相互的なケアは,そ の理論の素朴 さゆえに,ケアの現実 とは罪離 し た理想論 との印象 を与えかねない。 とい うの も,
他者志 向 と自己志向 とい う相矛盾す るケア志向 を両立 させ るこ との困難性 一 他者 のケアに 没頭す ることが,往 々に してケアす る者の消尽 を招 くとい うケースは典型 である ‑ に加 え, そ もそ もケアは非対称 な関係 に発す るものであ る以上,それは時に,支配/被支配 とい う不均 衡 な力 関係 を呼び込みかねない ものだか らであ る。相互性 を基調 とす るエ リク ソンのケア論は, ケア関係 にお ける対等性 を強調す るあま り,非 対称 なケア本来の有 り様 を見失わせが ちである が, もちろんエ リクソン自身 とて,その ことに 無 自覚 であったわけではない。 エ リク ソンは, この関係 の非対称性 を 「不 平等 unequal」と い う言葉 で表現 し,大人 と子 どもの関係 を例 と して挙 げる。 大人 と子 どもの不平等な関係 は, 子 どもを して 「人間の生活 にお ける技術的熟達 や文化 を享受す る能力の育成 を促進す る」が, 一方でそれは 「被搾取性 を助長す る生存の実態 の一つである」[Erikson1950:422‑1980:206]。
非対称 (不平等)な関係 は,それ な く しては ケアが成 立 しない ‑ ここでエ リク ソンが念 頭 に置 いているのは, 世代継承的営為 としての 教育である ‑ とい う意味 で, ケアの必要条 件 と言えるが,それは往 々に して,他者 の同化 や抑圧 といった事態 をもた らす。
では,ケアを搾取関係 ではな く互酬 関係 と し て維持 させ るためには, ど うすれ ば良いのか。
ここで相互的なケアが,ケア関係 それ 自体をケ アす ることであった ことを思 い起 こせば,当然 それは, 自らのケアの有 りよ うを備轍す る視点 も含 まれ ていると理解すべ きだ ろ うo エ リク ソ ンは , ケ アに該 当す る ヒンデ ィー 語の一 つ に
D a ' m a
(Restraint:抑制) を挙 げ,それ を 「慎 み深 い こ と tobecareful」と表記 して い る [Erikson1997:58‑2001:74]。その派生語によってエ リク ソンが意図す るの は,ケアを維持す るためには,状況に応 じて, 自分のケアの有 りよ うを熟視 し,抑制す る必要 もある とい うことである。相手の必要 を 自らの 必要に資す る形で搾取 し,利用す るもの となっ
エ リク ソンにお ける女性性 とジェンダー (2)‑アイデ ンテ ィテ ィ ・農務性 ・ケアー
ていないか,あ るいは逆に,他者のケアに専心 没頭す るこ とに よ り自己への配慮が疎かになっ ていないか とい った,関係 それ 自体への配慮 な く しては,相互的なケア関係 は維持 されないの である7)0
最後 に,エ リクソンのケア倫理の基礎づけの 問題 について言及す ることに したい。エ リクソ ンに よれ ば,徳 としてのケアは,人の発達事実 のなかか ら抽出 され た基本的強 さであるととも に, 個 人 の 「積 極 的選択
a c ti v ec h oi c e」
に もとづいて選び取 られ るべ き肯定的 目標 で もあ る。 これ は ともす る と,
「事実」 か ら 「価値」
を導 き出す 自然 主義的誤謬 を犯 しているよ うに 見えな くもないが,事はそれほ ど単純ではない。発達 とい う事実それ 自体が,内的法則 にもとづ く目的論的志向性 を宿 しているがゆえに,価値 はす でに事実のなかに組み込まれているのであ る。 しか し一方 で,基本的強 さとい う価値 は, 他者 との相 互的 な関係 によって しか拝武宿 されな い ものである以上,それは 自他 ともに相互の倫 理的関与 を要請す るもの とな らざるをえない。
ここで,ケアを倫理 とすべ き根拠は何か と問 う な らば,エ リク ソンは端的にそれ を 「世界の維 持
m ai n t e n a n c eoft h el v o rl d 」[ E ri k s o n1 9 7 4:
1 2 4‑1 9 7 9: 1 6 0
] とい う存在論的根拠に求める。ケアな くしては 「世界の維持」は叶わない。 そ れ は, 自らが依 って立つ存在論的基盤 の存 立に も関わ る事柄 であるがゆえに,個人は倫理的責 務 としてケアす ることが要求 され るのである。
ケア とい う徳 は,個人の発達事実お よび社会 とい う制度的事実のなかに既 に価値 として埋め 込 まれ てい るが,それ は個人間の,ひいては個 人 と社会の相互交渉に よって不断に賦活 し続 け な けれ ば な らな い もの で あ る。 「価 値」な き
「事実」は空虚 であ り
,
「事実」 なき 「価値」が 単な る教条主義 と堕 して しま うよ うに,それ ら は敢然 と切 り離す ことができない ものであ る。エ リク ソンのケア倫理 は,そ うした 「事実」 と
「価値」 の往還運動 のなかで現れ て くる, ア ク チ ュアルな人間の倫理的実相 をこそ描 き出そ う
とす るものに他 な らない と言 えるだ ろ う。
おわ りに
以上,ギ リガンによるライ フサイ クル論批判 の検討お よびエ リクソンのケア論 について順 次 考察 して きた。 ここで,第‑章の内容 に関 して 若干の補足 をすれ ば,前稿 で取 りあげた 「内的 空間 と外的空間」論文 の考察結果か らも明 らか な よ うに,エ リク ソンとギ リガンは理論 の立脚 点 こそ違 え,両者 の志向す る ところはきわめて 近似 している と言 えるだろ う。 エ リクソンの伝 記作家 であ るL・フ リー ドマ ンに よれ ば, ギ リ ガンは 「女性 の発達において,相互性 ,尊敬, そ してケアが中心的な位 置 を 占めている」 とい う事実 を
,
「エ リク ソンの 「内的空間 と外的空 間」説か ら着想 を得た」のだ と言 う[ F ri e d ma n 1 99 9二 42 6‑2 003: 45 9
]。 エ リク ソンがその女性 論 において,女性 のアイデ ンテ ィテ ィ発達の特 異性 を認識 していたに も関わ らず, ライ フサイ クル図式に修正 を施 さなか ったのは,ホース ト が指摘す るよ うに,
「彼 (エ リク ソン) の性差 に関す る議論 は,おそ らく追加部分 としての産 物 だったのであ り,彼 の生涯 においてそれ ほ ど 関心 の払 うもの で は なか った」[ H o rs t1 995:
272
] とい う理 由に よる ところが大 きいのか も しれない。もっ とも,ギ リガ ンの批判 内容については, 本論 で検討 してきた とお り,発達図式の過度 な 単純化 に よる牽強付会な解釈 が見 られ る とい う 点 で,理論的に難点の多い ものであると言わ ざ
るを得 ない。
最後 に,前稿 の考察のま とめ も兼ねて, <ケ ア とジェンダー >をめ ぐるフェ ミニズムの思想 的系譜 のなかにエ リク ソンの議論 を定位す るこ とで,本 問題構制 に内在す る理論的困難 を明 ら かに し,本論 を閉 じることに したい。
周知の よ うに, <ケア とジェンダー >とい う 問題系 は, フェ ミニズムに とって常 に主要な基 本問題 の一つ としてあ り続 けてきた。た とえば,
神糸川大学心理 ・教77研究論袋 第31号 (2012年 3)」31U)
第二波 フェ ミニズムを理論的に先導 したラデ ィ カル ・フェ ミニ ズムは,今 日,我 々がケア労働 と表現す る ところの母親業や家事労働 ,介護労 働等 を,家父長制イデオ ロギーの産物であると 喝破 した ことは良 く知 られ ている。 また,マル クス主義 フェ ミニズムにおいては,女性のケア 労働 は,資本制生産様式 を底辺 にお いて支 える 下部構造 と して機能す ることで,男性 による性 支配 を再生産す る元凶 とされ てきた。
こうした現状認識にあって,第二波以降のフェ ミニズム諸派が採用 したのは,男性支配か らの 女性解放 とい う目的の もと,性差 とい う 「差異 dlfference」を ど う方 法論 的戦 略 と して位 置 づけるか とい う点にあった と言 えよ うO初期の ラデ ィカル ・フ ェ ミニ ス トは ‑ それ を 「戦 略
」
と して 自覚 的 に扱 った か は疑 わ しい が‑ ,生物学的性差 を前提 とした うえで, ジェ ンダー を最小化す ることに腐心 してきた。家父 長制 とい うイデ オ ロギーによって不 当に押 しつ け られ た 「ケア ‑女性」 とい う社会的通念や制 度 を脱 ジェンダー化す るためには,女性 が連帯 して‑ゲモニー を奪取す る必要がある。それ は 時に,男性社会 か ら分離 した女性 だけの共同体 を 目指す 「分離 主義 separahsm」 を生み (レ ズ ビア ン ・フェ ミニズム),その生物学的本質 主義 は,女性身体の否定 とい うネガテ ィブな形 として現れ ることにもなった (ファイアース トー ン ら)。 一方 で, 1970年代後半にな って登場す る文化 派 フェ ミニズムのイ ンパ ク トも忘れ ては な らない。彼女たちは,それまでのラディカル ・ フェ ミニズムの脱 ジェンダー志向 とは対照的に, 性 差 を肯定的 に再評価す る ‑ す なわ ち,女 性 固有の経験や文化 を積極的に称揚す ることで, 男性原理に偏 りす ぎた社会 の不均衡 なバ ランス を回復 しよ うと試みたのであった。
さて,以上の よ うに概観 した うえで,エ リク ソンの議論 を上記の文脈に定位 してみ るな らば, それ は後者 の文化派 フェ ミニズムの主張を先取
りす るものであ った と理解 して良いだろ う。 し か しなが ら, ラデ ィカル ・フェ ミニズム全盛 の
時代 にあって,その理論が企 図す るところは十 分 に理解 され ることな く,はか らず も性差 を解 剖学的宿命 と見なす フロイ ト理論の ヴァ リアン トと して誤読 され,批判 され たのであった。 フ リー ドマ ンがいみ じくも指摘す るよ うに
,
「エ リクソンは,あ る意味では, フェ ミニス トの視 点 の変化 に巻 き込 まれ た犠 牲者」 [Friedman 1999:426‑2003:458]だ った と言 えるのか もしれ ない。
もっとも,前稿 で述べた よ うに,性差 を最大 化す ることによってジェンダーの不均衡 を解消 す るとい うエ リク ソンの構想 が,逆説的に も女 性 の性役割 を固定化す ることで,現行の家父長 制 とい う社会 システ ムを正 当化 しかねないもの であることは,繰 り返 し強調 してお く必要があ ろ う。 それ はエ リク ソンのみ な らず,ギ リガン や文化 派 フェ ミニズムを始め とす る女性原理派 一般 に共通す る理論的難 点である と言 える。 し か し一方で,エ リク ソンがケアを女性 固有のカ テ ゴ リーに還元 で きない とも述べていた ことを 思 い返 してみれ ば, 自説が もた らす理論的,政 治的帰結 について十分 に認識 していた ことは疑 いない8).
ケアを女性的資質 と して積極的に称揚 しなが らも,できるだけそれ を性差 に還元す ることな く論 じるとい う,相矛盾す るよ うな戦略 を とら ざるを得 なか ったのは,それ 自体,ケアをジェ ンダー とい う文脈 において扱 うことの方法論的 困難 さを物語 っていると言 えよ う。
近年,隆盛 を極 めつつ ある感 のケア論 である が,多 くの論者 は, ともすれ ば通過儀礼の如 く, ジェンダーの問題 を扱 うことな しにケアを論 じ ることが きわめて困難 な状況 となっている。 ケ アの脱 ジェンダー化 を志 向 しなが らも,ケア論 にお いてそれ は許 され ない とい う二重の困難 の なかにあって,我 々は どの よ うに してそれ を乗 り越 えることがで きるのであろ うか。 その方途 は何 よ りも,女性経験 に対 して謙虚 に耳を傾け なが らも, ジェンダー とい う性規範が持つ政治 的効力 に対 して常に 自覚的であること,川本隆
エ リク ソンにお ける女伯三性 とジェンダー (2)‑アイデ ンテ ィテ ィ ・親耗性 ・ケア ー
史の言 を借 りれ ば
,「
「本質 主義」 と 「社会構築 れ る [上野 2002:14]。 主義」 との ≪間 ≫をきわ どく蘭画前進 してい く論 法」 [
川
本 2005:40] こそが,求 め られ て い る と言 えるに違 いない。【註】
1)ェ リク ソン とギ リガンの関係 につ いて一言 すれ ば, ギ リガンは‑‑バー ド大学でエ リク ソンの担 当講 座の助手 を務 め るな ど,両者 は 一 時期 , 師弟 関係 に あ った [cf. Friedman
(1999)]。 なお , ギ リガ ンの思想 形成 にお け るエ リク ソン理論の影 響 につ いては,『も う ひ とつの声』 の第二版 (1993)にお ける 「読 者 ‑の手紙」 を参照の こと [GilHgan 1993:
xi]。
2)
ギ リガ ンは, こ うした男女 の両課題 に対す る相性の違いが,結果的に 「男性のジェンダー ・ アイデ ンテ ィテ ィは親密性 に よって脅か され るのに対 して,女性 の ジェンダー ・アイデ ン テ ィテ ィは分離 に よって脅か され る」 [ibld.8‑8]事態 を生む と述べ てい る。
3) E・A・ホー ス トに よれ ば, こ う した理解 は 修正論者 に共通 してみ られ る構 図 であ る と言
う [florst 1995:274f.]。
4)
このカセルギス らによる 「アイデ ンテ ィテ ィ の形成 は,親密性 発達のための十分条件 であ る」 とい う見解は,アイデ ンテ ィテ ィの成熟 度 は高 くて も親密性 の成熟度が低 い,あ るい はアイデ ンテ ィテ ィの成熟度 は低 くて も親密 性 の成熟度 が 高い といった反証事 例に よ り導 き出 され た結論 である ことを付記 してお く。5)上野千鶴子 は,ギ リガン理論 を称 して 「ジェ ンダー本質主義」 と断 じるが,その合意す る ところは,従 来の フ ロイ トや エ リク ソンの生 物 学的本 質主 義 とは異 な り
,
「性 差 が文化 の 産物 であ る こ とに同意」
した うえで,
「ジェ ンダーの文化 的な拘束力が容 易に変更で きな い ものである ことを前提 に,
「女性 文化」
「女 性性 」の逆説 的優位 を説 く」 ものであ る とさ6) ェ リク ソンの 「徳 virtue」概 念 の二重性 を,語源学的観点か ら跡づ けた もの と しては, 西平 (1985)を参照の こ と。
7)<ケアす る者/ され る者 >の関係 にお いて は,前者 による後者 の搾取 のみ な らず ,後者 に よる前者の搾取 も往 々に して起 こ りうるこ とを指摘 しておかね ばな らない。 この搾 取 と い う問題 に関 して,エ リク ソンは 「相互 調節 lmUtualreguユatlOn」 とい う言葉 を用 い て, 以 下 の よ うに説 明 してい る。 「この相 互調節 に失敗 す る と,状 況 は破 綻 して,相 互 関係 reciprocityではな く, 強 制 に よって支配 し
よ うとす る様 々な試み に代 わ られ て しま う」 [Erikson 1959:60‑2011:56]。
8)
この点 に関 して,エ リク ソンは次の よ うに 述 べ ていた。 「この種 の問題 に関す る理論 的 帰結 が,深刻 なイデオ ロギー対立に巻 き込 ま れ るよ うな時代 には, きわ めて注意深 くこれ を行 わ ね ば な らな い の で あ る」 [Erikson 1997:39‑2001:46] 。
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