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賀藩家法の性格

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西欧中世の国王に比すれば︑領主︵大名︶に対し遙かに強大な権限を有していたと言われる徳川幕府︵将軍︶も︑

私領︵大名領︶の統治にそれ程強い干渉を加えたわけではなくへ唯大綱を続くるに止まり︑領主の自治権は極力これ

を尊重した︒即ち︑領主は自領に関する限り︑原則としてこれが行政の権︵自分支配の権︶を有し︑それに伴い独自の

法︵﹃自分法度﹄︶を制定する権︑並びに民︒刑両事件に亘る裁判権︵﹃自分仕置﹄の権︶を有していた︒従って︑

江戸時代の法を研究せんとする場合︑我々は単に幕府法のみに止まらず︑これと平行して藩法︵領主法・家法・国

四 三 二 一

慣習法の優位法の・変動

身分による法の類別

幕府法との関係

むすび

はしがき

はしがき

賀藩家法の性格

藤弘司

(2)

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ヘー︶法︶の研究をも忽せにすることは出来ない︒

へ2−本稿は加賀藩﹃家法﹄の性格に関する若干の考察を課題とする︒凡そ法の性格なるものを見定めんとする場合︑あら

ゆる領域に亘る法l少くとも重要な分野の法︵例えば行政法・財産法・身分法・刑法︶lが正確に把握されているこ

とが前提︑且つ必須の条件である︒処が加賀藩家法については︑未だ充分にこの条件は満されていない︒縄かに加賀

へ3−藩家法の内容を探知し得る二・三の資料集が刊行されている程度で︑その研究は殆んど未開拓の分野と言わねばなら

︵〃T︶ない︒従って︑現段階において加賀藩家法の性格を究明せんとすることは︑時期尚早の識を免れ得ない︒それにも拘

らず︑私が敢えて此処に筆を執ったのは︑略次の二の理由による︒

︵5︶︵ィ︶従来殆んど顧みられなかった藩法の研究が︑最近漸く活発化して来た︒かかる際に︑大雑把にでも藩法研究

の中心をなすその性格につぎ問題点を整理し︑今後の藩法研究に指針を与えて置くことは︑強ち無意義とは思われな

い︒︵巳しかも︑従来幕府法の性格について論ぜられた若干の点に関し︑私には疑義がある様に思われる場合︑

猶更のことである︒即ち︑藩法研究に際しては︑当然既に相当精徹な研究が完成している幕府法が屡々参照されるこ

と必定であるが︑私は加賀藩家法を検討していくに伴い︑従来の幕府法の性格についての論説に︑今一度考え直さね

ばならない点があるのではないかとの疑問に逢着した︒

処で︑私が上述の如き点に︑現段階における加賀藩家法の性格に関する研究の意義を見出す以上︑再三幕府法の性

格に関する従来の研究を引合に出すことは当然である︒しかし︑本稿の企図する処は︑飽迄加賀藩家法の性格の究明

に止まり︑唯これが解明に必要な範囲内で︑幕府法が論ぜられるに過ぎない︒幕府法の性格に関する本格的研究と言つ

︵侯U︶た如き重要問題は︑到底ささやかな小槁のよくなし得る処ではなく︑何れ別の機会に私見を開陳する予定である︒唯

幕府法は藩法と対立し︑又藩法は各藩毎に必ずしもその内容を等しくしなかったとは言え︑それ等には自ら共通する

理念があった筈である︒即ち︑幕府法・藩法を問わず︑何れも近世封建制と言う同一地盤の上に生成・発展した法で

(3)

−ざ司一l 一−−−−−一一一一一一F

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︵J︶あり︑従って少くともその本質的部分については︑差程の相違は見られなかった筈である︒かかる点より︑私が本稿

︵︑己︶をもって︑近世封建法の性格究明の手掛りとすることは許されてもよいであろう︒

③侯爵前田家編輯部編司加賀藩史料﹂︵一五巻︑外に編外一巻︒なお︑近く未刊の嘉永元年以降の分も刊行される予定︶︑金沢

文化協会編可加賀藩御定書L︵前・後二編︶︑石川県図書館協会編可国事雑抄﹂︵上・中・下三編︶︑同﹁旧条記L︑同﹁藩国

官職通考L︑同﹃改作所旧記﹂︵上・中・下三編︶等︒

側従来の研究で︑加賀藩家法の究明に見逃すことの出来ないものとしては︑小田吉之丈﹁加賀藩農政史考L︑栃内礼次﹁旧加賀

藩田地割制度L︑土屋喬雄可封建社会崩壊過程の研究L︑司石川県史L第弐・第参編︑米沢元健司加賀藩の十村制度L︑新谷九郎

司加賀藩に於ける集権的封建制の確立﹂︵﹁社会経済史学L第六巻二号︶︑小早川欣吾可加賀藩の改作法に就てL︵可歴史と地理

L第二六巻四六号︶︑松好貞夫司加賀藩天保度の高方仕法に就てL︵﹁同上L第一四巻一号︶︑若林喜三郎勾江戸時代に於け

る土地売買と農民階層の分解I加賀藩の切高仕法に就てlL︵﹁日本史研究﹂一三号︶等を掲げ得よう︒

⑤三浦周行博士は大正十二年に藩法の研究は司我法制上の処女地し︵司続法制史の研究L一四五八頁︶と云われているが︑その

後においても藩法の研究は長く顧みられなかった︒しかし︑漸やく昭和十五年頃より︑金田平一郎博士が﹁対馬藩刑事判決例五 ①しかも︑近世期において大名の領地は全国の知行高四分の三強を占め︑幕府領に比すれば遙かに広大であった︵後段註⑤所引

牧司肥後藩刑法草書の成立L七一○頁︶︒

②私が従来一般的に採用されている藩法・領主法なる呼称を避け︑殊更可家法Lなる名称を用いたのは︑それ程深い訳があってのことではないふしかし︑強いてその理由を問われれば︑次の二を掲げ得ようo㈹加賀藩の法令を総称する用語として︑当時

最も一般に可家法Lなる語が用いられているが︵﹁袖裏雑記L延享四年正月廿九日の条︵可加賀藩史料L第七編四五五頁︶に可

︑︑

先代よりの家法少も相違無之様可相心得事しとある等参照︶︑それをその儘生かして見たかったこと︵なお︑幕府為政者が藩法

を呼ぶ場合にも︑可家法Lなる名称を用いている︒例えば︑高柳・石井編司御触書天明集成﹂二六四九号明和七寅年七月司御勘

定奉行えL参照︶︑㈲本文第四節で説く如く藩法は時代の進展に伴ない︑漸次その独自性を喪失していくが︑幕末に至る迄矢張

り夫々の藩法には若干の独自性は見られた︒その独自性を認めるためには︑可家法Lなる名称を用うるのが最も適切と考えられ

たからである︒しかし︑勿論可家法Lなる名称を用いたからとて︑直ちに戦国武家法の性格が︑各藩法に濃厚に残存していたとたからである︒︲

云うのではない︒

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十題L︵可法政研究L第一○巻一号︶︑可小城藩刑事判決例六十二頭﹂︵同二号︶︑﹁熊本藩司刑法草書鴎考L︵﹁同上﹂第一

二巻二号︶︑﹁九州地方の近世刑事判決録﹂︵﹁同上L第一三巻一号︶︑﹁対馬藩の奴刑﹂︵同二号︶等の論考を相次いで発表

され︑又井上和夫氏は司藩法幕府法と維新法L︵三巻︶なる大著を出され︑更に早くより藩法研究の重要性を力説されていた牧

健二博士は︑小早川欣吾氏と共に可近世藩法資料集成﹂︵第一巻﹁亀山藩議定書︑盛岡藩律L︵昭一七年︶︑第二巻﹁熊本藩刑

法草書附例﹂︵同一八年︶︑第三巻﹁松江藩出雲国国令﹂︵同一九年︶︑以下続刊の予定であったが中断︶を刊行されると共に︑

﹁肥後藩刑法草書の成立﹂︵﹁法学論叢L第四八巻五号︶を発表され︑一方小早川欣吾氏も﹁明治初期に於ける二三の藩の刑法典

について﹂︵司明治法制叢考L︵昭二○年︶所収︶なる明治初年の藩法を紹介され︑此処に藩法研究はやっとその端緒を開かれる

ことになった︒そして終戦後も手塚豊教授が﹁刑法局格例調考l仙台藩刑法の一研究﹂︵司法学研究﹂第二四巻八号︶︑﹁明治初

年の和歌山藩刑法I可徒刑之法鴎及び可刑法内則Lを中心としてIL︵﹁同上L第二五巻三号︶︑︵以上二論文は近著﹁明治初

期刑法史の研究﹂に補正の上所収︶︑﹁和歌山藩国律﹂︵﹁同上L第二六巻六号︶︑﹁仙台藩格例﹂︵﹁同上L第三○巻六号︶

を︑又布施弥平治助教授は刃津軽藩の刑法牒についてL︵司日本法学L第一二巻二号︶を︑平松義郎助教授は司名古屋藩の追放

刑L︵司名古屋大学法政論集﹂第四巻一号︶を発表され︑藩法の研究も可成り活溌に行われている︒しかし︑遺憾ながら幕府法の

研究に比する場合︑未だ藩法の研究は漸く軌道に乗り始めたと云った程度に過ぎない︑従来の研究成果を見ても明かなる如く︑

最近に至る迄の藩法の研究は︑史料の蒐集・紹介に重点が注がれ︑精々刑法に関し若干の論説が発表されたに過ぎない︒かかる

意味において︑昨年より牧健二博士を顧問に戴き石井良助博士を中心に︑前田正治・大竹秀男・谷口澄夫・平松義郎・原口虎雄・

石塚英夫諸氏に筆者も加って︑組織的な藩法の研究が始められたことは極めて有意義なことと云わねばならない︒

⑥従来幕府法につき︑私が本稿で採上げんとする問題と略同様な問題を取扱った論文としては︑三浦周行博士の﹁江戸時代の法

制﹂︵﹁続法制史の研究し二三一頁以下所収︶が最も詳しい︒ついて参照されたい︒

⑦その事実については︑更めて第四節で触れるから此処では註記しない︒

③本稿で引用する史料の所在を示して置こう︒可金沢町中御法度之写﹂︵一冊︶︑司金沢町中御法度御印之写﹂︵一冊︶︑可町

中二日読御定拾七ケ条し︵一冊︶︑﹁町中毎月二日読追加L︵一冊︶︑﹁毎月二日読御条類書﹂︵一冊︶︑可諸事御触L︵一冊

︶﹁袖裏雑記﹂︵五冊︶︵以上︑金沢市立図書館蔵︶・司司農典﹂︵七冊︶︑可典制彙墓﹂︒︵一二冊︶︑可加州郡方旧記﹂︵二○

冊︶︑﹁郡方古例集L︵二冊︶︑司御郡典L︵二冊︶︑可岡部氏御用留﹂︵一○冊︶︑﹁岡部旧記﹂︵二冊︶︑﹁寛政度刑法帳L

︵三冊︶︑﹁文政度刑法帳L︵三冊︶︑﹁公事場御条目書上帳﹂︵三冊︶蕊﹁公事場御定書等之写L︵一冊︶︑﹁異本三守御譜﹂

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̲ ー 一▼ 一 − − − −一 一 一− − −

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成程加賀藩においても︑確かに近代社会に見られる如き︑理論一貫した大法典は見出し得ない︒又幕府法について

︵R︺︶見られたと同様︑刑事方面においては慣習法︵判例法︶が支配し︑寛政七年一叶砒︶には御定霄百箇条にも匹敵さるべ

︑︑

︵J︶き︑先例を集録した﹁刑法帳﹂なるものが編菓されている︒更に︑封建領主にとり最も関心の薄かった町人の法律行

︵QU︶為については︑相当広範囲に社会慣行が法として是認されていたであろう︒しかし︑我々はかくの如き特殊︒部分的

な面にのみ眼を向け︑それをもって直ちに︑近世慣習法が支配的であったと論断してはならない︒﹁加賀藩御定書﹂・

﹁改作所旧記﹂︑その他種々の法令害を一見すれば容易に想像し得られる如く︑小法典︑或いは単行法典には過ぎ

︵ハワ︶ないが︑近世においても数々の成文法が設けられている︒専制国家︒警察国家と言われる近世封建社会において︑領主

︵︑︶がどの程度に民間の慣習律を法として容認したか︒私は加賀藩における近世封建制の確立期と言われる﹃改作法﹄の

一皿︶施行︵慶安四年︿定計︶l明暦二年︵藍⑭︶と同時に︑従来の慣習法は殆んど葬り去られたのではないかと思う︒特に

最も慣習法と親みやすい部面とされる私法の面においても︑中田博士が説かれる如く︑地方的慣習法がそれ程重視さ

れたわけではなく︑又中田・滝川︒石井博士等の力説される如く︑庶民の身分的行為が支配者の放任の状態l狭義

︵狸︽の慣習法の支配lに置かれていたとは考えられない︒領主にとり極めて強い関心の対照となった農民については︑︵過︶︑哩一武士に見られたと劣らず︑身分行為を含めた全法律行為につき強固な規制が加えられており︑又﹁二日読御定書﹂等 とされているからである︒

かく考えて来た場合︑従来近世において慣習法が支配的であったと説かれる重点は︑当時先例・古格と称せられた

︵R︺︶不文法が成文法に優位したと言う点に帰着する︒処が私は従来の論証では︑この事柄は未だ充分納得のいく程度に説

明されているとは思わない︒否︑私は実はこれは論証不可能な事柄に属するのではないかと思う︒何故なれば︑近世

封建法の各分野について見た場合︑如何なる方面から見ても︑決して不文法が成文法に優位したとは考えられない︲か

らである︒

(8)

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へ婚︶を通じて見られる如く︑町人に対してさえ相当広範且つ詳細な成文法があり︑更に︑原則として町人の自治に委ねら一嘘一︑︑れたと称せられる町制についても︑例えば︑明和七年︿怜叱︶一ハ月の﹁金沢町中法度書﹂所収の法令に︑﹃都而町格之︑︑︑︑︑︑︑︑︵Ⅳ一儀は前々より定も有之﹄とある如く︑支配者の定立した町法が見られた︒これ迄﹃古例﹄・﹃仕来﹄と言えば地方的

一昭︶慣習法︑﹃先例﹄と言えば判例法ばかりを意味する如く解されていたが︑実はこれ等の中には成文法も含まれていた

︵四︶のである︒我々が近世資料上に屡々見出し得る︑これ等﹃古格﹂・﹃古例﹄︒﹃仕来﹄・﹃先例﹄と言った如き語は︑

狭義又は広義の慣習法を成文法より唆別するために用いられた語ではなく︑それは成文法・不文法の別を論せず︑そ

の法が古来伝統の法であると言うことを意味するために使用せられた言葉であったのである︒

しかし︑如何に数の上において成文法が不文法に劣らなかったとは言え︑若し中田博士の言われる如く︑不文法に

成文法を改廃する効力が認められ︑又成文法は唯不文法を補充し︑これを明確にするだけの職分しか附与されていな

︵︶かつたならば︑近世における不文法の優位と言うことも認めねばなるまい︒処が︑不文法にその様な強力な効力は認

︵幻︶められていなかった︒後述の如く︑当時法に実効性を附与したものは︑その法が古来伝統の法であると言う点に存

し︑成文法と不文法のうち︑何れに優先的効力を認めるかと言った如きことば︑殆んど問題外のことであった︒従っ

て︑成文法に不文法を改廃する効力が認められていたと言うことも︑直ちに論断出来ないが︑少くとも次の如き実例

より︑不文法に優先的効力が認められていなかったことだけは明白であろう︒﹁加州郡方旧記﹂所収享和元年︵酔瓠︶正

︵︶月の作改奉行より諸郡御扶持人︒十村中への申渡には︑﹃走人﹄︵欠落人︶の取扱につき︑﹃︵前略︶是迄之儀者格別︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑以後流例たりとも古格に違候義者難相用既に其方中勤方帳二も委曲有之通リニ候条諸郡共急度相改古格之通無違失

相守可申候︵下略︶﹄とあり︑又︑﹁公事場奉行相勤候節職事日記﹂文化二年︵断理六月の難には︑﹃於江戸表禁牢 ︵︸

︑︑

被仰付候者出牢之節︑其主人相詰罷在候而も︑主人貧着不仕︑閉牢之者は割場より御門外へ追払候御格に候由︒右は︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑.︵弱︶御定等有之前々より之御格に候哉︒﹄とあり︑更に︑﹃従前々被仰出候御法度之品︑曹御定害之趣︑急度可被相守候・﹄

(9)

一 読 〆 ̲

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以上により︑成文法と不文法を比較検討する点に中核を置いた︑従来一般的に採用された方法では︑近世慣習法が

支配的であったと言うことは︑充分論証し得られないことが明白になったと思う︒慣習法の優位を実証する嘱最も

適確又極めて一般的と思われるかかる方法により︑決して慣習法優位の結論が導き出し得なかったのは︑近世慣習法

が支配的であったと言うのは︑実は成文法と不文法の優劣と言った如き点にあるのではなかったがためである︒換言

すれば︑慣習法優位の問題は︑法の生成原因による差異の問題として解決さるべき性格のものではなかったのであ

る︒私の考える結論を先きに掲げて置けば︑近世慣習法が法の中心であったと言うことは︑成文法・不文法の別等を

問わず︑古来伝統の法が重視せられたこと︑当時の言葉を籍りれば︑﹃祖法墨守﹄の思想が支配したことを意味し︑

それは法の生成時期の新旧・施行年限の長短の問題であったのである・︵鋤︶︵犯︶ゞ皇加賀藩の諸々の法令書を検討する場合︑容易に我々の眼につくことは︑法を呼ぶに﹃先例﹄︒﹃古例﹄・﹃流

︵銅︶︵謎︶︵妬︶︵妬︶︵︶︵犯︶︵調︶︵︶

例﹄・﹃先格﹄・﹃古格﹄︒﹃古き御格﹄・﹃旧格﹄・﹃前々之格︵式︶﹄・﹃古法﹄︒﹁古来大法﹄・﹃古来より

︵︶之御家法﹄と言った如く︾その法が古くから伝っている法であると言う意味の言葉が︑極めて一般的に使用されてい と言った如き成文法の遵守を命じた法令は数多く発見し得る︒特に﹁全国民事慣例類集﹂においてさえ︑﹃田畑ノ持

︑︑

高五十石以内ノ者ハ其持高ヲ子弟二分与スルヲ許ササル藩制ナルヲ以テ五十石以内ニシテ分与スルトキハ売買二仕倣

︑︑

︑︑一沈︶.シ内実分与ヲ取計フノ慣習アリ且社寺及上士族町人へ分与又ハ売却スルヲ禁スルノ制規ナリ・﹄︑﹃高持百姓失院アル

︑︑

トキハ藩法二因テ御縮高ト称シ持高没収ノ処分アルヲ以テ之ヲ秘シ置キ当人へ係ル鍬役米等上納品ハ親類二於テ弁償

︑︑︵︸

シ届出テサル慣習ナリ・﹄︑﹃他領トハ結婚スヘカラサル法ナレトモ不得己ノ事アレハ先シ同領内ノ某ノ養女トナシ其

一詔︶︑︵︶家ヨリ婚姻ノ手続ヲナス事アリ・﹂とある等より明かなる如く︑成文法が慣習法に優位した事実を認めている︒なお︑

﹁古法﹄・﹃先例﹄︒﹃古格﹄が改廃される場合︑それが一般に成文法によって行われたことは︑殊更指摘する迄もあ

﹁古法﹄・

︵釦︶るまい︒

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処でかくの如く︑法に正当性を附与し︑法に権威を与えるものが︑その法が古来伝統の法︒祖法であると言う点に

存する以上︑法の適用に際し先づ古法の有無が調査され︑古法の存する限りこれが採用されたことは論を俟たな

へ︶︵妬︶い・我々は瘻々刑罰の適用に際し︑﹁先例﹄・﹃前々之格﹄の調査が行われたのを見るが︑単にそれは刑事方面のみ

︵妬︶に限られたわけではない・その他あらゆる方面において︑古法の探索が行われている︒否︑単に支配者が法の適用に

際し古法を尊重したのみならず︑﹃十村﹂等村役人の勤向も︑この﹃古格﹄に従って行われ︑又彼等が権利を主張せ

んとする場合も︑古法に則ってこれを行った︒例えば︑元禄二一年︵叶駄︶十一月二十八日十村が提出した﹁私共相勤申

御用品々書記申帳﹂には︑御郡中改作方の儀は先年﹃改作法﹄に仰付けられて以後は︑品々﹃古格﹄をもって勤め

↑奴︶︵網︶

ている旨が指摘されており︑又天明六年︵ル北一七月十村が自己の待遇改善を改作奉行・郡奉行に要求した聿冒付には︑

﹃御郡方に限り古来之趣相違仕候様に奉存候﹄とあり︑町年寄のみについて古来の伝統が守られ︑十村についてはこ

れが忘れられている故︑十村についても古法に復帰してもらいたき旨を主張しており︑更に天保十三年︷叶訓︶七月高

︵⑬︶︑︑

岡町奉行より公事場奉行への伺にも︑﹃高岡町役人共他国往答之節は是迄苗字調遣候義先例に相成居候に付今般も右

︵卵︶之様に為調可遣被存候﹄とある︒西欧中世に見られた雪①璽匡目と言った如き制度化された法発見の手続を︑我々は

我が国近世封建社会に見出すことは出来ないにしても︑明らかに我が国においても︑法の適用に際し古来伝統の法が

探索されているのである︒ ることである︒然らば︑これは如何なる意味を表明したものであるかと言えば︑凡そ法の名に値よるものは︑それが古来伝統の法であると一言っ点に存したと解して差支あるまい︒文政四年︵一一瓠︶二月富田景周が藩政萱革に関して上つ

︵蝿︶た建白書の一節に︑﹃正法はいかなる法ぞと申候へぱ︑祖法とて︑御国なれば御国初御先祖様がたたせ置せらるる御

遺則に御順はせ候事﹄とあるは︑将にかかる推測を裏付けるものであり︑古法︵﹃祖法﹄︶即ち﹃正法﹄・﹃大法﹂

であったのである︒

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その法が古来伝統の法であると言うことは︑単に法に正当性を附与したのみでない︒法に実効性を与えたものも︑

又それが古来伝統と法であると言う点に存した︒即ち︑それが古法であると言うことは︑支配者が法の実効性を主張

する場合に最も有力な根拠とされ︑被治者は古法たるが故に特にその遵奉を強要され︑古法に違背する行為は︑極度

に罪悪視される結果ともなった︒前掲富田景周の上書には︑仮令古法の内には﹃他国よりからき御政御座候とも︑是

迄の御先格故下々夫を聯も御怨みに奉存候事は無御座﹄くあり︑又︑﹁司農典﹂巻二所収宝歴八年岳叱︶八月の諸郡

︵副︶への達には︑﹃村々歩入八月沙毎月両度宛組切相改︑改作所江相達候儀古来大法各存知之所二候然ル処近年諸郡末々

二至迄古法を取失歩入改も等閑二相成申躰二候御法急度相守可申候﹄︑﹁郡方御触﹂所収天保四年二弧︶一二月二十四

︵砲︶︵認︶

日の申渡にも︑﹃畢寛微妙院様御草創以来之御法失行候而者不容易儀﹄とある︒

さてかかる古法の尊重が︑遂には法の改廃を忌避する思想︑古法は素りに改廃さるべきものではないと言う思想に

迄︑発展したことは容易に想像し得よう︒しかし︑これについては次節で説く故それに譲ることとし︑以上により

近世封建社会において︑古来伝統の法が尊重されたことが明らかになったと思う︒処で︑私はかかる古来伝統の法︵

︵瓢︶成文法・不文法総てを含む法︶の尊重と言うことこそ︑近世において慣習法が優位したと言う意味であったと思う︒

再度指摘するが︑私は決して慣習法︵狭義︶や不文法が成文法に優位したと言う点に︑慣習法支配の意味があったの

ではないと思う︒しかし︑私の所説が成り立つためには︑当然一つの前提条件が認められなければならない︒即ち︑

慣習法の概会として従来の広・狭二つのもの以外に︑なお古法︒古来伝統の法と言うものが認められなければならな

い︒私は今更慣習法なる観念も又歴史的所産であり︑時代を異にするに従い︑その内容を同じくしないと言った如き

ことを主張するつもりはない︒しかし︑少くとも近世封建社会において︑慣習法が支配的であったと言うことを主張

︵弱︶せんとすれば︑勢い慣習法を古来伝統の法と解する以外に途はあるまい︒

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47

①中田論集二・六○四頁︑滝川法制史三八九頁︑牧概論一毛○頁︑石井概説三六九頁︑高柳法制史二五七頁︑金田債権三頁等︒

②なお︑例えば慣習法の優位は法上如何なる効果を齋らせたか等︑慣習法優位に絡む種々の問題も未だ充分明かでない︒しかし

本稿では取敢ず慣習法優位の意味についてのみ論じ︑その他のことについては稿を改めて検討することにする︒尤も︑慣習法優

位の意味を説明するに必要な範囲内では︑断片的には慣習法の優位が如何なる結果を招来したかについても触れ︑又︑次節では

当時慣習法支配の法体系が採用されねばならなかった理由について︑若干考察する予定である︒

③以下の絞述は主として滝川政次郎司日本法制史の特色﹂︵一六二頁︶に拠った︒

④中田博士は河徳川時代に於いても私法の根本は︑依然司古例峰司先規L若くは可仕来Lなどと称せられた地方的慣習法であっ ︑︑︑︑︑︑

て︑成文法は唯これを匡正し補充し︑或は明確にする丈けの職分を有て居たにすぎざりしこと︑中世と同様である︒L︵論集二

・六○四・五頁︶と説かれる︒

⑤例えば︑石井博士は可江戸幕府も亦鎌倉・室町両幕府と同じく︑その法制は慣習法を土台としたのであり︑律令に比すべき基

本的大法典は設けなかった︒尤も同じく基本的大法典を設けなかったにしても︑社会の進展の結果︑江戸時代と鎌倉・室町両時

代との間には自らなる相違が見られるのである︒即ち江戸時代に於ては︑前両時代と異なり︑後述の如く特殊の事項︑殊に封建

制度維持に必要なる事項に就ては小法典を設けたのであり︑又中期には公事方御定書も編纂されて居り︑その発布した単行法令

の数は前二代に比して非常に多かったのである︒︵中略︶然し︑一般的に云えば行政法的方面は固より刑法民法等の司法法に至

る迄︑慣習法が支配的であったと云ってよい︒︵下略︶Lと説かれる︵概説三六九・七○︶︒充分明瞭であるとは云えない迄

も︑慣習法支配の意味が︑成文法に比し不文法が優位していたと云う点に求められていることは推察し得る︒

⑥例えば︑司袖裏雑記L四所収元禄三年八月十一日司覚L︑可加州郡方旧記L︵第五本︶所収享保五年二月四日可田井覚書L︵6.

血︶︑可泰雲公御年譜﹄宝暦十三年四月八日の条︵史料八・二七○︶等参照︒

⑦旬寛政度刑法帳L︵別に﹁文政度刑法帳L︵三冊︶なるものも存するが︑その内容は可寛政度刑法帳Lと変るものではない︒︶︒

なお︑﹁富田氏蔵文書﹂文化六年九月廿八日の書付︵史料二・八三九︶参照︒

③既に私は別稿︵相続︶で町人相続については︑殆んど成文法が見られなかったことを指摘して置いた︒

⑨尤も︑石井・滝川博士等も徳川幕府が数多くの単行法令︑又は小法典を制定・発布したことは認められているが︵石井概説三

七○頁︑滝川法制史三九六頁等︶︑それでもなお徳川時代は慣習法︵不文法︶支配の時代と称せられる︒加賀藩では他藩に比し︑

特に成文法の数が多かったかも知れない︒周知の如く︑可政治は一加賀Lと云われた程加賀藩の法制は整備されていた︒

(13)

一 口 一 一 一一 一 一 一

48

⑩石井博士は先きに指摘した如く︵註⑤所掲文参照︶︑特殊の事項︑殊に封建制度維持に必要なる事項について成文法が設けられ

たと説かれるが︑私の考えでは︑近世封建社会では実はあらゆる事柄が直接・間接封建制の維持に関係したのである︒例えば︑

封建領主は封建財政の担手である百姓に対しては︑酒・茶を飲むべからず︑居屋数の廻りに竹木を植えて置いて薪を買うな︑布・

木綿以外の着物を着てはならない等︑凡そ今日我々が想像することも出来ない程些細な点に迄︑成文法を設け干渉を加えていた︒

⑪可改作法しは加賀藩農政︵農民支配︶の基本法と目されるものであるから︑特に農政面では﹁改作法Lの完成・施行により︑

従来の慣習法は一新されたと想像される︒元禄三年十一月廿八日の﹁私共相勤申御用品々書記申帳L︵司改作奉行勤方覚L︶︵定

善後四五三頁以下︶に︑司一︑御郡中改作之儀︑先年村々改作に被仰付候刻より︑品々古格を以相勤め︑勿論其時々様子に随ひ

霞議仕︑夫々申付候︒︵下略︶Lとあるは︑将にこの間の事情を伝えるものである︒小田吉之丈氏も︑司抑も改作以前は前田氏

入国当初より慶長十五年頃迄︑未だ確たる捉もなく︑旧慣に準ひ勧農及収納を執り行ひしも︑村により地頭により其の方法一定

せず︑百姓隣佑にありて︑不公平なり︑︵下略︶し︵農政一二九頁︶と述べている︒

⑫拙稿相続三頁︑及び一五頁所掲註③等参照︒

⑬身分行為中相続については︑同上六頁以下参照︒その他の行為については︑例えば︑定書前二五一頁以下所掲巻十一﹁御郡方

御定書L所収諸法令︑旧記所収諸法令等参照︒

⑭五・麹︶︒なお︑享和三年七月にはこれに十七箇条よりなる脇書が附されている︵司町中一百読御定拾七ケ条L所収享和三

年亥七月﹁町中二日読御定之内拾七ケ条脇書を以慎方等申渡覚書L︶・その他︑司町中毎月一百読追加L所収寛政四年子五月司

毎月二日読追加L︑可毎月二日読御条類書︲|等参照︒

⑮既に寛永拾九年六月朔日︑十五カ条よりなる極めて詳細な法令が発せられている︵﹁金沢町中御法度之写L所引司町中定L︶︒

なお︑同書所収の諸法令︑並びに司金沢町中御法度御印之写L所収の諸法令等参照︒

⑯註⑭所掲︒

︒・⑰例えば︑万治三年七月十日司覚L令金沢町方火之要心等御触文L︶︵雑抄上三六頁︶︑同月の法令︵司町方夜番之儀御触文L︶

︵同上︶︑︵寛文八年︶申四月二十八日﹁覚﹂︵﹁町方亭主番之御定L︶︵同上三六・七頁︶等参照︒

⑬註④所掲中田博士の一文︒

︑︑

⑲例えば︑定善後五一三頁所掲一二八﹁引免之儀覚Lには︑司古例不作之節︑御扶持人等内見分仕儀︑改作所江致内達︑指両

を請申儀に候︵下略︶Lとあるが︑この古例は︑可改作法Lの施行に伴い定められた成文法であって︑決して地方的慣習法等言

︑︑

司古例不作之節︑御扶持人等内見分仕儀︑改作所江致内達︑指図の施行に伴い定められた成文法であって︑決して地方的慣習法等で

(14)

49

⑳中田博士は︑かか︸ ⑳註④所掲の文参照︒

可古例L可先規L若く皿

︾中田博士は︑かかる説を裏付ける史料として︑次の様なものを掲げられている︒先づ可徳川時代に於ても私法の根本は︑依然

可古例L可先規L若くは可仕来Lなど上称せられた地方的慣習であったLと云う根拠として︑次の三を掲げられる︒㈱可田園類説L

O○ ○○

に可入会の儀ハ古例次第の事二候︑何れも先ハ証文証拠無之事二候L︑何﹁律令要略Lに司但川向二有之有来地面ハ︑尤任先規

○○

飛地進退之鴎︑伽﹁改正補訂地方凡例録﹂巻二下に可すべて入会は古例次第新規入会は禁す︑⁝⁝札野も勝手次第なれど新規

eO

には相成らず︑前々の仕来に委すことなり﹄︵論集二・六○六頁註︑︶・これ等のうち︑入会に関する第一・第三の史料は︑徳

川時代の私法の根本が地方的慣習法にあったことを主張せんとするためには︑甚だ不適格なものと云わねばならない︒何故なれ

ば︑現行民法においても︑入会だけは慣習法の支配に委ねられているのであるから︒次に第二の史料であるが︑博士の掲げられ

る文のみでは︑充分意味が読みとれないため︑石井良助編司近世法制史料叢書L第二所収司律令要略Lにより︑全文を掲げる

と次の如くなる︒可一本田畑高内之川欠は︑附寄之不及沙汰︑地先を限︑川向之附寄地を川欠反別二応し︑飛地二進退之︑但︑

川向二有来地面は︑尤も先規にまかせ︑飛地二進退之︑L︵三一二頁︶・処で︑この但書にある司先規鴎の意味であるがP本文

をも併考すれば︑私はこれは博士の考えられている如く︑地方的慣習法を意味する言葉とするよりは︑川欠以前と云った程度に

解するのが穏当ではないかと思う︒仮令博士の如く解するにしても︑勿論この史料のみをもってしては︑未だ徳川時代の私法の

根本が地方的慣習法であったと云う重要な提言が︑納得のいく程度に説明されたと称することは出来まい︒

次に博士は徳川時代の私法の根本は地方的慣習法で︑可成文法は唯これを匡正し補充し︑或は明確にする丈けの職分を有て居

たに過ぎLず︑質地制についても又このことは当嵌る︒即ち︑可前述の如く可質地御定法Lは甚可六ケ敷鴎き厳正法であったけ

れども︑徳川幕府はこれをすらも︑可其所之仕来法Lに譲歩すべく檮跨しなかったことは︑最注目に値する所である︒峰︵六○

五頁︶と述べ︑この論拠として次の四の史料を例示されている︒

㈹︲徳川禁令考後聚L二峡二六一頁以下所出天明二年可質地出入取捌方公事方吟味役江坂孫三郎江間合並挨拶Lは︑司但享保

元申年以来季明候質ハ︑年季明より拾ケ年予並金子有合次第可受戻旨之証文二有之質地ハ︑質入候年より拾ケ年過訴出候分も はない︵寛文六年七月六日可覚L︵同上四一四頁︶︑文政十六年末六月二日﹁於二改作方一大概格相立置候品々﹂︵可近世地方経済史料﹂第一巻所収﹁改作方覚帳﹄二六頁以下︶・叉︑﹁政隣記﹂所収寛政二年七月八日の法令︵史料一○・一三四︶に︑︑︑︑︑︑︑V︑︑︑︑︑︑︑︑︑司諸場・諸役所江前々より被仰出候御条目等︑後例に可相成品々︑不相洩様相しらべ︑︵中略︶指上可申事︒Lとあるが︑これによって先例が唯判例法のみを意味したものでないことは︑容易に推察し得よう︒

(15)

= 可 一 一

50

伽司地方凡例録Lに︑司一︑倍金質地之事︑@⁝・・是又永代売同然にて厳き禁制なり︑.⁝:但し其国により訳合をしらず︑右様の取

○O

遣する処あり︑既に奥州銅伊達信夫郡︾昨辺ハ︑多分倍金手形にて質地取遣をいたす儀︑古来より仕来りの様に成り︑

定法通に取計ひて者︑郡中の障に成て治らざるに付︑取計方其筋へ内々伺たる処︑遠国片鄙にて法も存せざる国柄ァ若し質

地出入に及びたる時は差略致し︑倍金の姿にても倍金を顕さず︑証文認方等外に不行届の廉あらゞハ︑其筋を以て地処を引渡さ

ざる様吟味詰に致し︑外の障に成ざる様取計ひ然るべき哉の旨挨拶ありしし︵六○五・六頁︶・

これも幕府法の充分行届いていない地方についてのことである︒しかも︑倍金質地が一般的慣習として存するかかる地方に

ついても︑幕府の倍金質地禁止令を全く無視し︑地方的慣習法を優先せしめよと云うのではなく︑極力倍金質地禁止令に副

った取捌を行い︑質置主︵地主︶を保護せよと云うのである︒特にこの地方では幕府の質地定法をその儘採用したのでは︑郡

中の障になり取治められないと云うのであり︑慣習法を無視し得ない特別な理由があったものと見なければならず︑かかる史 取上無之︑何れも拾ヶ年内二訴出候分は︑取上吟味可有之旨︑元文二巳年関八州並伊豆国に御触流し御座候︑右者御触流無之外国も︑右二誰し取計候筋二可有之哉Lとの間合に対し︑司但関八州伊豆国も本文之趣御触有之候︑外国之取計も右二准し候

○○○○○.

得共︑其所之仕来を考成丈内済為致候取計肝要二而候鴎︵同頁︶・

私はこの史料を次の様に解する︒幕府の質地定法の触れられている関八州伊豆国では︑仮令この地方に特別な地方的慣習法

があっても︑問題なく幕府法︵成文法︶を優先せしめ︑地方的慣習法の効力は認めない︒幕府法の触れられていない関八州伊

豆国以外でも原則として幕府法を準用せしめる︒しかし︑本来は幕府法の施行区域以外であるから︑その地方の慣習をも考慮

し︑成るべく内済にせよ︒若し上述の如き私の考えに誤りなしとすれば︑この史料より博士が考えられている如く慣習法が優

位したと云う結論は直ちに出せない︒

○○○○O

㈲同上二六四頁所出寛政五年肥前守宅於内寄合評議極に︑司質地之儀者年季定其外証文趣を以︑早々取計之定例又ハ其所之仕来

も有之儀二付︑質地並流地等之出入訴出候ハ︑︑隻方一支配之出入ハ︑右証文等巨細相糺︑元文二巳年関八州並伊豆国村々御

料所江相触候御言付之趣二見合︑吟味詰裁許御答之儀可被相伺候︵下略︶し︵同頁︶・

これが幕府法の触示された以外の地方についてのことであったことは文中より充分推察される︒しかも︑かかる地方につい

てさえ︑司其所之仕来Lに直ちに優先的効力を認めたわけではなく︑矢張り原則としては幕府法の準用と云う態度を指示して

いる︒特に博士は引用されてはいないが︑本文には但書があり︑この但書では全く幕府の質地定法の通り取捌くべきことを命

じている︒

(16)

51

料をもって︑直ちに地方的慣習法が重視されたと云う結論を出すのは︑卿か危険ではなかろうか︒

肖司楊中録L下所収天明二年八月甲斐代官中井情太夫間合挨拶に︑司右之通質地二相立候ハ︑︑年季明十ケ年過受戻之儀訴出

候ハ︑︑流地ニ申付筋二御座候︑然共質地者取計二寄一国之動二相成六ヶ敷品候︑其上関八州伊豆国者享保之再御触有之候︑○○○○○関八州外者右再御触無之候間︑成丈其所之仕来を相用︑勿論百姓家督二不離二取計を考︑可致裁許事二存候間︑仕来候ハ︑御

害面之通り︑御申渡被成方と存候L︵六○六頁︶︒

これも又関八州伊豆国では地方的慣習法の有無に拘らず︑幕府法が触出されている以上︑当然それに従うべきであり︑唯︑

この幕府法の触れられていない国では︑質地は取計により一国の浮沈にも繋る重大事であるから︑・地方的慣習法も重視し︑百

姓が成立つ様に取計うべきであると云うのである︒特にかかる間合の発せられたのは︑慣習法に優先的効力を認めることが出

来ず︑若し成文法があればそれに従わねばならないと云う意識があったからであり︑私法の根本を地方的慣習法と見るのであ

れば︑殊更かかる間合を発する必要もなかったのである︒

以上要するに博士の掲げられる四の史料は︑私に云わしむれば︑質地につき地方的慣習法が成文法︵幕府の質地定法︶に優

先したと云う論拠としては︑何れも不充分である︒これ等の史料は何れも幕府法が充分触示されていない地方についてのもの

であり︑かかるものからは︑仮令地方的慣習法が重要な法源とされたことは説明し得るにしても輪成文法に優位したと云う結

論は出ない︒若し地方的慣習法が成文法に優位したことを論証せんとすれば︑地方的慣習法と成文法の競合する地方︵即ち︑成

文法が明瞭に触示され︑なお別に地方的慣習法の存する地方︶をとり︑其処で地方的慣習法が優位したことを明かにせねばな

らない︒なお︑例えば可徳川禁令考後聚L第二峡には︑中田博士の掲げられる前記二の間合以外に数多くの間合︵並びにそれに

対する指令︶が収められているが︑それ等を検討してみても︑質地につき地方的慣習法を優先せしめよと云った如き指令は一も

見当らない︒前記二以外は総て︑幕府の質地定法その儘を適用すべきことを命じている︵例えば︑寛政十一申年三月二十八日

﹁貸金滞より田地質二入小作米井元金滞中年季明一一付右質地取扱方伺L︵池田伊三郎家来神谷七五三郎伺︶︵二六四︒五頁︶︑寛

政十二申年閨四月﹁質地年限内家内不残欠落二付取計之事し︵鳥居丹波守家来伊藤安右衛門伺︶︵二六六・七頁︶等参照︶・私は質

地について︑決して博士の考えられている如く︑地方的慣習法が根本で︑成文法は唯これを匡正し補充し蕊或いは明確にするだ

けの職分をもっていたとは思わない︒逆に︑地方的慣習法は唯成文法の欠を補充する役割を果していたに過ぎないと考える︒

⑳︵第十七本︶享和元辛酉至同四甲子司旧記L五・4︶︒なお︑﹁筒井触留L所収享和元年正月廿三日の法令︵史料二・三︶

参照︒

(17)

一一 −− 一−

52

⑳ ⑳ ⑳ ⑳ ⑳ ⑳

⑳例えば︑百姓相続願に女が連署する場合︑従来は聟等の名前で捺印したり︑又女の続柄を見届けたり︑郡により一様でなかっ

たものを︑天保十四年正月廿二日の成文法により︑以後女の名前にて判元を見届けることに統一し︵﹁百姓跡式古格L所収卯

︵天保十四年︶正月廿二日得能覚兵衛より同役宛所への廻文︶︑叉︑元禄六年十二月十二日の法令により︑従来親の遺言により

二・三男に迄分割相続が行われていた慣行を打破し︑長子単独相続の原則を樹立していること︵同上所収元禄六年十二月十二日

司切高之義被仰渡紙面内L︶等参照︒

⑪﹁袖裏雑記L五所収元禄八年二月廿五日可覚L︑後段註⑭所掲寛保二年の法令︒

⑫例えば︑可引免之儀覚﹂︵定書後五一三頁︶︑﹁司農典L巻二︵第二本︶所収享保十二未年二月の法令︒

⑬本文前段所掲享和元年正月の申渡や註⑳所掲文化元年八月十七日の法令︒

②例えば︑元禄十年十二月二十六日﹁覚﹂︵司町方家財閾所之定L︵雑抄中三九三頁︶︶︑﹁司農典L巻二︵第二本︶所収享保十三申 ⑳.即ち︑本達の趣旨は可走人﹄︵欠落人︶の取扱につき︑従来は司流例隆︵その地方の仕来り︶をもって取捌かれて来たが︑司

走百姓之義二付而ハ前々重き被仰出も有之改作方古格之通り厳重二不申付候而ハ百姓之懲二も不相成高方縮も忽二相成候形も有

之義二候得ハ是迄之義ハ格別峰以後は司流例峰と錐も司古例些に相違する場合は︑援用すべきでないと云うのであり︑可古格L

︵成文法︶に優先的効力の存することを明言している︒なお︑司御触留﹂所収文化元年八月十七日の法令︵史料二︒三九二︶

でも︑金沢城内において夜中伴うべき提灯持の人数につき︑司流例Lと可寛文年中御定Lと二種があり︑何れに従うべきかの問

題に対し︑可流例Lを退け司御定Lに従うべきことを命じている︒

れていたがためである︒ 司明和元年御触丼御返書留L所収明和元年七月十八日の条︵史料八・三二六︶・可全国民事慣例類集!︵日本評論社刊司法学叢書L必︶一八五頁所掲︵二○八頁にも所掲︶加賀国石川郡の慣行︒﹁同上L一○二頁所掲加賀国石川郡の慣行︒﹁同上L三九頁所掲越中国射水郡の慣行︒即ち︑例えば第一例について考えれば︑若し中田博士の説かれる如く︑地方的慣習法が成文法︵領主の定めた法︶に優先するのであれば︑五十石以下の高分与に際し︑殊更これを売買の方法によって行うと云った如き脱法行為を採る必要はなかった︒敢えて売買なる方法を採用せねばならなかったのは︑明かに成文法は慣習法に優位すると云う原則が︑百姓間においても是認せら 史料二・四六三︒

(18)

53

年四月可覚L・

⑮註⑪所掲元禄三年十一月廿八日﹁私共相勤申御用品々書記申帳L︑﹁御勝手方諸事覚書L所収文化元年十一月︵史料二・四二︶︒

⑳﹁司農典し巻二︵第二本︶所収元文三午年﹁覚﹂︵7.︐︶︒

⑰例えば︑﹁秋縮等之儀二付改作奉行触L︵﹁享保十年之留L︶︵定書後五一○頁︶︑﹁百姓跡式相続法令集﹂所収︵文化元︶

子八月林弥四郎外一名より諸郡御扶持人十村中への達︒

⑬例えば︑︵寛政十年︶五月九日書付︵﹁男女通行方之儀牧野備前守殿より問合之事L︶︵雑抄下一○一七頁以下︶︑司袖裏雑

⑭ ⑬ 、 、 ⑳ ⑳例えば︑可一歩苅斗代勘定之事﹂︵定書後五二二頁以下︶︑元文三年午七月改作奉行より諸郡への達︵﹁郡方古例集﹂下八十 ⑬例えば︑︵寛政十年︶五月九日書付

記﹂所収安永元年九月の法令等参照︒

⑮例えば︑註⑦所掲文化六年九月廿八日の書付︒具体的事例としては︑註⑥所掲書付等参照︒

⑯例えば︑司百姓不応諸国勧化事﹂︵定書後五○六︒七頁︶には︑可︵前略︶諸国一統之勧化御座候瑚は︑御上より御償御出被下

候・百姓共より指出申例無之候︒是以後も右先例之通に御座候へば︑貧着仕儀無御座候︑︵下略︶L︑﹁十村共誓詞申付覚﹂︵同

上四六一頁︶には︑司一︑御扶持人十村役被仰付候節は︑十村共一統之誓詞井見立誓詞︑此両様之誓詞可申付事︒︵中略︶右先例

等致詮議所如此に候事︒元文三年右之紙面を以︑元文三年八月二日御算用場御横目より改作所江示談之上︑右之通相極申事︒L

︑又可袖裏雑記L所収明和元年八月の書付︵史料八︒三二九︶には︑武士の跡式相続につき可先例遂金議候処︵下略︶Lとあり︑

更に︑ぅ政隣記﹂所収寛政二年七月八日の書付︵同上二・一三四︶には︑司諸場・諸役所江前々より被仰出候御条目等︑後例

に可相成品々︑不相洩様相しらべ︑︵中略︶指上可申事︒鴎︑可公事場御条目書上帳L︵三冊︶の末︵第三本︶にも︑可公事場

御定其外後例二可相成品々帳面二記上之候以上峰とある︒ 之通相心得候段申達置候事Lとある︒

本文後段所掲可司農典L所収宝暦八年八月の達︒

司郡方古例集L上所収延享四年二月廿八日の法令︒

可富田痴龍上書L︵史料一三・二︶︒

例えば︑﹁司農典﹂巻二︵第二本︶所収宝暦八戊寅年八月の改作奉行より諸郡への達︵8.画︶︒

例えば︑﹁旧例抜書L二所収寛保二年の法令︵﹁御印物頂戴一巻L︶には︑可︵前略︶右之通先例有之由申間候二付今般茂左

(19)

54

一凡そ法がその安定性を維持し︑実効性を確保するためには︑法がその社会の実情に合致していなければならな

い︒如何に優れた法と錐も︑社会の実情に完全に違背した場合には︑単に被治者の遵法精神を鈍らせるのみか︑屡々

闘法精神さえ換起し︑法の存在意義を喪失せしめる︒二百五十年の平和を誇る徳川封建社会と難も︑其処に自ら著し

い社会情勢の変遷があり︑従って法の変動・発展が見られた筈である︒

しかし︑先ぎに見た如く︑近世では古来伝統の法の尊重が極めて強く︑これが法の変動の上に抜くべからざる強大 ②史料一四・三二一・︑なお前掲可富田痴龍上書Lには︑可御家にても御祖法を御重んじ︑成かぎい御用ひ︑二百余年来の御捉を以て︑夫々古今推遷

の時宜を御掛酌被遊候は奥士は勿論末々までも是に帰服不仕は有まじく候Lともあり︑古来伝統の法と云うことが︑如何に法

の実効性に重大な役割を演じたかが︑明瞭に窺知される︒

②本節は前掲世良教授の論文に負う処が大である・世良教授は西洋中世における慣習法の支配につき論ぜられているが︑その際矢

張り法とは将に古来の伝統であり︑古来の伝統に由来する︑古き法Lこそ︑法の名に価するものであったことを強調されている︒

⑮仮令︑近世期における慣習法の意味が私の解する様に解し得ないにしても︑私の所説により︑従来一般に認められておりなが

ら未だ充分明確にされていなかった︑近世法の一大特色たる可祖法墨守L・可古法尊重しの意味だけは明かにされたと思う︒ 、 ② 、 ⑰註⑪所掲︒⑬司真館諸書物留L所収天明六年七月の書付︵史料九・八二三︶︒なお可同上L所収同八年六月の書付︵司同上﹂九・九六三︶参照︒⑲﹁高岡史料L上二三八・九頁︒⑳世良晃志郎司西洋中世法の性格し︵司法学L第一六巻一号︶四二貝以下︑北村忠夫可ワィズテューマIにあらわれた後期中世

独逸農村社会の自由L︵可史学雑誌L第五九編二・三号︶参照︒

註⑬所掲法令︒

二法の変動

(20)

F■11−11

55

な制約を加えたことも見逃してはならない︒然らば︑近世における法の変動は如何なるものであったか︒我々はこの︾

問題に立入る前に︑先雲つ何故近世古来伝統の法が尊重され︑従って法の改廃が忌避されたかについて検討して置かね

ばならない︒何故なれば︑法の変動について理解するに際し︑法の変動が好まれなかった理由を把握して置くことは

当然の事柄であるのみか︑正しく法の変動を理解する上に︑最も重要な事柄であるからである︒

里近世古来伝統の法が尊重され︑法の改廃が積極的に見られなかったのは︑近世封建社会が保守的・固定的な社

会たることを立前としたからである︒このことは﹃祖法墨守﹄と並び︑屡々﹃新儀停止﹄と言うことが強調せられたこと

より自ら明らかであろう︒封建領主の統治の基本原則は︑近世初期に確立された封建的秩序を︑改善・発展と言うこ

︵1︶︵2︶

となしに維持せんとする点にあった︒かかる保守的な思想は︑勿論武家の伝統を重んずる思想に由来したが︑これに

一層拍車をかけた要因は︑時代の進展に伴う反封建的要素の発生︑特に自然経済を蝕まんとする貨幣経済の進展︑そ

れに伴う町人階級の進出であった︒封建領主にとって全く予期せざる︑しかも極めて好ましからざる事態が次々と発

生した場合︑彼等がこれを阻止せんとして︑益々保守的︒回顧的となったのは寧ろ当然であろう︒徳川幕府の政治で

﹃諸事権現様御定之通り﹄と言うことが金科玉条とされたのは︑将にこれがためである︒近世封建制の最盛時は︑実

に近世的秩序の打樹てられた近世初期とされ︑支配者はこの最盛時を固守せんとして︑﹃新儀停止﹄︒﹃貴殼賤金﹄・士

農工商の階級序列を喧しく叫んだのである︒

近世封建社会の政治的指導理念が上の様なものである以上︑これが法の上にどの様に反映されたかは容易に想像し

得よう︒其処では当然﹃祖法墨守﹄︒古法の改廃忌避の思想が強く支配した︒後述の如く︑中井竹山等当時の著名な儒

学者等が︑屡々古法の偏重を戒めているのは︑将に当時如何に古法墨守の思想が強固に支配したかを︑端的に裏書す

るものである︒加賀藩においても︑又事柄は同様であった︒例えば︑加賀藩の儒者富田景周は︑﹃若旧制あらため申さ

で叶臓ざる時は︑新旧の両法を引くらべ︑旧法より新法に十倍の利百倍の功あらば改むくし﹄と述べ︑近年祖法が顧

(21)

56

しかし︑此処で注意せねばならないことは︑封建社会における法の改廃には自ら特色が存し︑決して唯漫然と社

会の実情に合致しないと言う︑単純な理由のみにより行われたわけではない︒即ち︑成程ある場合には社会の変遷に ︵Q︺︶みられず︑﹃新寄の仕法﹄が種々定立されていることを非難しており︑又﹁河合録﹂寛政十二年︵伊肌︶九月十七日の条にも︑﹃其上御郡方に能道理に相叶候儀に而も︑新規成儀は兎角相泥み候に付︑大抵の儀は在来之通りに仕置申

︵侭︺︶.︵食U︶﹄

候・﹄とある︒そして古法が素乱し﹃新格﹄が交わることは︑畢寛世の中の頽廃・封建制の衰微と考えられ︑封建社会

︵f︶における執政者の任務は︑常に古法を暗記熟知していて︑若し古法にして素乱・空文化するものが生じた場合は︑再

︵︒︒︶︵︑ご︶

度これを申渡し︑絶えず古法をして実効性のあるものたらしめる点に置かれた︒近世法に見られる一特色として︑同一

法令の繰返し的触示と言うことが指摘されて差支ないが︑これ将に古法こそ﹃正法﹄であることを主張するものであ

︵︑︶ると共に︑古格の素れを是正し︑永久に古法を維持せんとするためのものであった︒近世史上に見られる改革と称せ︵u︶・られるものは︑多かれ少かれ︑古法への復帰と言うことを主要な狙としたのである

三以上により︑近世封建社会で古法墨守の思想が支配した理由が︑略明かにされたと思う︒処で︑この様に近世

では祖法こそ最も理想的な法であり︑これを改廃することは︑畢寛封建制を後退・破壊せしむる結果を招来すると考

えられたが︑法の変動が全く見られなかったわけではない︒幕府法について見ても︑例えば︑将軍吉宗の時代等に

︵狸︶︵週︶

は︑周知の如く多くの法の改廃が見られ︑又これ以降近世後半期においても︑屡々法は改廃されている︒加賀藩家法

︵型︶︵焔︶︵唾︶

についても︑例えば︑加賀藩農政の中心をなし︑﹃万代不易﹂の法とされた﹃改作法﹄でさえ︑制定以来百数十年を

︵Ⅳ︶︵昭︶︑

経過し︑﹃時勢も移替候﹄との理由で︑文政四年一一瓠︶には﹃潤色﹄が加えられている︒﹃牛裂﹄・﹃釜烈﹄・﹃生

︵︑︶︵加︶

釣胴﹄等の刑を採用し︑その苛酷さをもって有名な加賀藩の刑法も︑近世中期以降は幕府法とそれ程異なるものでは

︵虹︶なく︑近世前期の重刑は殆んど影を没したのである︒その他︑数多くの法につき︑改廃の見られたことは推して知る

一理︶ことが出来よう︒

(22)

マ ー

57

伴い︑何時迄も古法を固守していては被治者に酷であるとの理由の下に︑法の改廃が行われた場合も見られはした

が︑唯支配者の都合のみが考えられ︑被治者にとっては一層遵守が困難になる方向に︑法の改廃が行われた場合もあ

り︑更には全く空文と化したものを︑執勧に固守した場合さえ見られたのである︒以下︑若干かかる問題について考

︵澱︶改廃された法の中には︑例えば享保十三年︵一一庇︶五月二十六日の聿巨付に︑﹃其内︵﹃錘別々被仰出候御法度之品々

井御定書﹄l筆者註︶二者当時二合不申者も多可有之候得共其余之分ハ狼二無之様急度可相心得儀二候﹄とあり︑又

︵型︶文化二年くい肌︶八月二十七日の法令に︑﹃入国以来申渡置候共︑其瑚急速に申出候儀杯も有之候故︑茸︿内に者不相当事

も可有之哉与存候︒︵中略︶不宜儀は勿論︑無左与も若後々に至り不可然品々者︑相改候存寄に候﹄とある等より推

察して︑仮令古法と雛も︑現状より遊離し︑被治者にこれを押つけることが無理となったため︑現状に適する様に改

︵霊︶廃されたものも︑屡々存したと解さなければならない︒

しかしだからと言って︑社会情勢の変遷が︑支配者に法の改廃を決意せしめた決定的な要因であったと断定するこ

とは出来ない︒領主が法と現実の社会事実との間のギャップを素直に認め︑被治者に引続き古法の遵守を令ずること

が苛酷であると悟り︑法の改廃に乗出すと言った如き場合は︑寧ろ稀なことに属し︑しかも︑かかる意図の下に改廃

︵妬︶された法は︑多くの場合封建法としては枝葉末節的な部類に属するものでさえあった︒

凡そ封建制の維持・発展に重要な役割を占めるl従って被治者︵特に農民︶にとっても︑極めて深刻な影響を与え

るl法については︑仮令それが現実の社会情勢では到底遵守が困難であっても︑そう容易に改廃されることはなく︑

支配者は固随にこれを維持しようとし︑又改廃するにしても︑それは被治者の遵法の困難と言うことが主たる動機と

されてのことではなく︑支配者側の打算に基いてのことであった︒

既に我々は幕府法につき︑明らかに社会の実情に合致せず︑死法と化し去っていることを支配者自身認めながら︑ が︑唯支緬り︑更に淫察しよう︒

(23)

58

︵︶それの改廃が封建制の維持に重要な弊害を齋らすとの理由の下に︑執勧に固守された幾つかの法令を知っている︒加

賀藩家法についても︑又事態は異ならなかった︒農村への貨幣経済の進出・苛酷な収奪による農民の極度の疲弊と言

2﹄

︵︶う現実を無視し︑固肥に維持された百姓の高質入︒書入禁止令︑利子附金銭貸借取締令︑或いは町人勢力の進出と言

︵洲︶う社会情勢を度外視して強行された町人の高支配禁止令等は︑明らかに若しかかる法を改廃すれば︑封建制の基礎を

ゆさぶる結果を招来すると考えられ︑執勧に固守された場合と称し得よう︒

次に領主が自己の打算により︑社会の実情に合致しなくなった法を︑改廃した事例について見よう︒その大多数を

占めるものは︑社会状勢の変遷に伴い︑最早や古法をもってしては封建制の維持・推進に役立ち得なくなった場合︑就

中古法を貫いていては︑当時最も領主を悩ませた藩財政の窮乏を打開する途が閉えた場合を掲げ得よう︒例えば︑元

︵鋤︶禄六年鈩才それ迄禁ぜられていた高の売買が公許され︑充分な担税能力を有しない弱少百姓の所萱局を︑担税能力

︵犯︶を有する手前よき百姓の下に集積せしめ︑もって貢租の円滑なる収納を図り︑又高売買の事務を担当せしめていた十

︵調︶村に﹃取高﹄を許せば︑種々不正が行われることを虞れ︑最初は十村の﹃取高﹄は禁じていたが︑苛酷な貢租収奪が

︵郷︶行われたため仮令﹁切出高﹄があっても︑これを進んで購入しようとする百姓が減少し︑止むなく︑長く﹃縮高﹄︵村役︵妬一︑人作配︶にして置かねばならず︑これでは貢租の確保は望み得ず︑遂に元禄八年一好駄︸には古法を改め︑十村の﹃取

︵妬︶

高﹄をも認容することにし︑更に﹃切高﹄を無制限に許可していては︑百姓株の減少を来すため︑寛保元年︵叫北︶﹁

一釘︶︵犯︶

皆切高﹄を禁じ︑仮令売買するにしても︑﹃名高﹄は残さねばならないことに改めた如きは︑何れも古法をもってし

ては︑最早封建制を維持・推進せしめるために不充分と解され︑法の改廃が行われた場合と言えよう︒なお︑藩財政

の危機を打開するため︑止むなく古法の改廃が行われた場合の存することは︑次掲の如き史料より推察し得よう︒寛

︵調︶保元丁酉年︿叫弛︶十一月八日の聿日付には︑﹃御勝手連々御難渋︵中略︶最早此上被成様も無之御時節二至候付各別之

︵伽︶趣二而御格も御改可被成品有之候﹄︑又明和七年︵仔叱一八月廿二日の法令にも︑﹃御勝手御難渋至極︑自・他国御借

参照

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