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つくばリポジトリ 歴地 14 81

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(1)

歴 史 地 理 学 野 外 研 究 第14号 81セQャ V@ 2010

農業からみる近代浦賀町の特質

吉 村 雅 美 ・ 岩 本 和 恵

I はじめに し て , 明 治 期 以 降 に は , 陸 海 軍 施 設 ・ 浦 賀 船 渠 株

式 会 社 ( 以 下 , 浦 賀 ド ッ ク も し く は ド ッ ク と す 近 世 の 浦 賀 湊 は 干 鰯 流 通 の 中 継 地 と さ れ て い た る ) の 所 在 地 と し て , そ の 機 能 や 景 観 を 変 容 さ せ が , 享 保5 年( 1720) の 浦 賀 奉 行 所 設 置 以 降 は . てきた ( 第11:zJ)。

給 改 め を 行 う 海 運 の 拠 点 と し て 発 展 し て き た 。 そ 筆 者 ら は , こ う し た 変 容 の 過 程 に つ い て , 近 世

第1図 研 究 対 象 地 域

(r明治前期関東平野地誌図集成』所収地形図口前賀」により作成)

(2)

-以 来 経 営 を 継 続 し て き た 商 人 の 動 向 や 浦 賀 ド ッ ク と11f

T

と の 関 わ り を 中 心 に 検 討 し て き た l ) 。 そ し て . 浦 賀 町 が 商 工 業 の 町 と し て 発 展 し た 背 景 に は , 上 記 の よ う な 商 人 が , 地 域 有 力 者 と し て 諸 産 業 の 発 達 に 貢 献 し て き た こ と が あ っ た こ と を 明 ら かにした。

し か し な が ら , 近 代 浦 賀 町 に 関 す る 先 行 研 究 は ドックをはじめとする工業を中心になされており2)

ド ッ ク 関 連 業 種 以 外 の 産 業 と 浦 賀 町 と の 関 わ り に ついては,注目されてこなかった。また,浦賀町の 消 費 地 と し て の 特 色 が 明 ら か に さ れ る 一 方 で3) 生 産 地 と い う 視 点 か ら の 検 討 は 十 分 に な さ れ て い な

近 代 に お け る 三 浦 半 島 の 特 色 と し て , 野 菜 生 産 地j或の発J1芝を挙げることカすできるO こ の 点 に 関 し て は . す で に 多 く の 研 究 の 蓄 積 が あ る 。 津 田 浩 之 は 三 浦 半 島 南 部 地 域 が ダ イ コ ン 産 地 と し て 確 立 す る な か , そ の 作 付 規 模 が 下 肥 の 運 搬 労 働 の 条 件 に よって規定されていたことを明らかにした。また, 斎 藤 功 ほ か は 三 浦 半 島 に お け る 集 約 的 な 輪 作 の 発 展を指摘しこれを1=¥=1郊農業地域と位置づけた4)

こ れ ら の 農 業 地 理 学 的 な 観 点 に よ る 研 究 に 対 し , 清 水 克 志 ・ 清 水 ゆ か り は , 当 該 地 域 が 野 菜 生 産 地 域 と し て 発 展 し た 歴 史 的 な 経 緯 に つ い て , 横 須 賀 ・ 東 京 と い っ た 都 市 市 場 と の 関 わ り をl二十l心 に 明

らかにした5}。

以上の研究は,野菜の生産出荷の盛んであった半 島南部をおもな対象地域としている。一方で,半島 北部に位置する浦賀町の 農業の実態は, ほとんど明 らかにされていなしヨ。これは,浦賀町が周辺地域に とっての市場・消費地として位置づけられてきたこ と に 起 因 す る 。 ま た 浦 賀IIfJが霊粘土壌地域に位置

VI A iセj

響 し て い る と 考 え ら れ るO

し か し な が ら , 陸 海 軍 の 後 背 地 域 で あ り , か っ 浦賀ドックを掛けーる三浦半島において,野菜の増 産は, ZhiセM

た 。 浦 賀 町 に お い て も . 篤 農 家 をJ= j::J心として近代 的 な 農 業 生 産 が 実 施 さ れ る と と も に . 近 世 以 来 問 屋 を 経 営 し て い た 有 力 商 人 がJ長 会 活 動 に 関 わ る こ

とで, 農 業 経 営 を 支 え ていた 。

本 稿 で は , 消 費 地 と し て の 性 格 を 持 つ 浦 賀 町 に お い て , 農 業 生 産 が ど の よ う に 展 開 し た の か 検 討 す る こ と を 通 し て , 近 代 に お け る 浦 賀 町 の 特 質 を 生 産 的 側 面 か ら 明 ら か に す るD そ し て , 農 業 を 一 つ の 事 例 と し て . 三 浦 半 島 に お け る 産 業 振 興 の な

Q[セjN

関 わ り 合 っ て い た の か 考 察 す る た め の 一 助 と し た

し)0

まず,第E章 で は 浦 賀 町 に お け る 農 業 生 産 の 背 景 に つ い て , 農 地 の 条 件 お よ び 農 業 と 商 工 業 と の 関 わ り と い う 観 点 か ら 半 島 内 の 他 町 村 と 比 較 し つ つ 検 討 す る 。 続 く 第E章 で は , 地 域 有 力 者 を 基 盤 と し て 成 立 し た 三 浦 郡 農 会 と 浦 賀 町 と の 関 わ り

を,競菜栽培の奨励や農事- 視察といった具体例を

挙 げ て 明 ら か に す る 。 第

N

章 で は , 浦 賀 町 農 会 ・ 三 浦 郡 農 会 の中心的存在で、あった白井家を取り上 げ , 第

E

章 で み る 農 事 振 興 に お い て 篤 農 家 が 果 た し た 役 割 や , 浦 賀 町 に お け る 農 業 経 営 と 周 辺 地 域 と の 関 わ り に つ い て 考 察 す る 。 そ し て , 第V章 で は 昭 和 戦 前 期 に 発 行 さ れ た 『 浦 賀 町 報 』 や 荒 巻 の 専業農家への開き取りから, ) 葉会を中心とする明 治 末 期 以 来 の 農 事 振 興 策 が 町 内 で い か に 展 開 し て い た の か を 検 討 す るO

E 近 代 浦 賀 町 に お け る 農 業 生 産 の 背 景

1 ) 浦 賀 ド ッ ク の 設 立 と 浦 賀 町

享 保

5

( 1

7

2

0

)

に 浦 賀 奉 行 が 設 置 さ れ て 以 降 , 浦 賀 湊 は 廻 船 の 寄 港 地 と し て 発 展 し て き た 。 特 に , 西 浦 賀 の 紺 屋 ・ 田 中 ・ 宮 下 ( 第

2

図 ) に は 米 穀 . ェセN

の 一 部 は 明 治 期 ・ 大 正 期 に お い て も 有 力 繭 家 と し て経営を維持していた。

明 治

5

年( 1

8

7

2

)

に 船 番 所 が 廃 止 さ れ た 後 も , 明 治

1

7

年( 1

8

8

4

)

の 時 点 で . ゥ ヲN ャセ

(3)

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o l km

2

図 RRセ QX HQXXYセ

1

9

4

3

)

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袈案内記1.

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新 横 須 費 市 史 資料編 uQ j[セ|

I

三 新 法 体 制!v]の 現 棋 須 賀 市 域 内 の 町 村 区 画 」 に よ り 作 成 )

ヨ リ 当 港 ハ 衰 退 ニ 傾 キ 明 治 二 十 七 年 二 十 八 年 頃 ハ 最 モ 其 ノ 極 度 ニ 達

J

し た と 記 述 さ れ て い るO 交 通 網 の 整 備 に よ り , 物 資 の 陸 上 移 送 が 行 わ れ る よ う に な る と , 海 上 輸 送 の 寄 港 地 と し て の 浦 賀 港 の 役 割 が 縮 小 し て い っ た と い え るO

そ の 後 , 明 治

2

9

( 1

8

9

6

)

の 浦 賀 ド ッ ク の 設 立 を機に, _セセ

と な る 。 市 村 真 実 は , 明 治 期 ・ 大 正 期 に お け る 浦 賀 ド ッ ク と 浦 賀 町 の 関 わ り を 明 ら か に し 浦 賀 ド ッ ク の 設 立 - 経 営 に お い て 近

1

1

1

以 来 の 有 力 商 人 が 大 き な 役 割 を 果 た し た こ と を 指 摘 し た9)。こ れによると, ド ッ ク 設 立 の 契 機 と な っ た の は , 明 治

2

4

年 ( 1

8

9

1 ) に 浦 賀 奉 行 所 与 力 中 島 三 郎 助 の 招 魂 砕 が 設 立 さ れ た こ と で あ っ た 。 建 碑 式 の 席 上 で , 荒 井 郁 之 助 が ド ッ ク を 設 立 す る こ と を 提 案 し , 西 浦 賀 の 有 力 な 塩 問 屋 で あ っ た 白 井 儀 兵 衛 が 協力を約した。

ま た , 明 治

3

0

: 9三( 1

8

9

7

)

の 浦 賀 ド ッ ク の 株 主 は

1

6

6

名 で あ っ た が , こ の う ち

5

7

名 が 浦 賀 町 民 で あ っ た10)。 臼 井 儀 兵 衛 は

5

7

名中最多の1 ,

019

株 を

保 存 し て い た 。 こ の ほ か , 多 く の 株 を 保 有 し て い た 町 民 と し て , 商 人 の 三 次 六 兵 衛

( 1

5

0

株) . 太田 又

1

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(5

6

株 ) ら が 挙 げ ら れ るO しかしながら,

5

7

名付コ

4

1

名 の 株 保 有 数 は

2

0

株 未 満 で あ り , 多 数 の 町 民 が 少 し ず つ 株 を 分 有 す る 形 で ド ッ ク の 経 営 を 支 え て い た と い え るO 後述するように,農二家の白 井 太 朗11)も

8

株 を 保 有 し て お り , 株 数 は 少 な い も

のの,進水式に招かれるなど, ドックとの関わり

を 有 し て い た こ と が う か が え るO

こ の よ う に , 有 力 者 の 協 力 に よ っ て 設 立 さ れ た

ドックは ,ゥセセ 明

3

2

年 ( 1

8

9

9

)

に は , 高 坂 の 長 嶋 岩 之 助 ら に よ っ て「魚、鳥獣青物市場開設願12)

J

が出されている。 こ の な か で 「 東 京 石 川 島 船 渠 会 社 ノ 支 社 船 渠 , 又 ハ 其 他 ノ 船 渠 設 置 ア リ テ , 浦 賀 町 及 ヒ 其 附 近 ニ 非 常ナル住民ノ増加] シ来1) , 随 テ 日 用 食 料 品 ノ 蕗 業 ニ 従 事 ス ル モ ノ モ 亦 其 数 益 増 加 シ 来 候 得 共 , 魚 鳥 獣 青 物 ノ 如 キ ハ 一 定 ノ 市 場 ナ ク

J

と い う 状 況 で あ っ た こ と が 述 べ ら れ て い るO す な わ ち , 浦 賀 ド ッ ク の 設 置 に と も な っ て 浦 賀 町 の 人 口 が 増 加

(4)

-し 食 料 品 を 扱 う 商 業 者 も 増 加 -し て い た が , 魚 介 . I有・野菜を供給する市場が関かれていなかっ た の で あ る 。 そ こ で 岩 之 助 が 中 心 と な っ て 務 業 組 合 を 設 立 し 市 場 を 開 設 す る こ と を 請 願 し た 。 このうち,本報告で扱う 農 業 と 関 わ り の 深 い 青 物 市場は,

1

[ 9浦賀の田中町に設置された。

また, ドックが明治

3

3

年( 1

9

0

0

)

に本格的な営

業を際始した後は, ドックに近接する荒巻周辺に

飲 食j古 ・ 菓 子 商 や 旅 館 ・ 遊 郭 が 増 加 し 明 治

4

0

年 代 に は 商 活 街 ・ 歓 楽 街 が 形 成 さ れ る に 至 っ た 。 ま

た. 明治後期から大正期にかけて, ドックは浦賀

町 に お け る 電 話 や ガ ス の 普 及 に お い て も 先 導 的 な 役 割 を 果 た し て お り , イ ン フ ラ 整 備 を 通 し て 町 の 発 展 を 牽 引 し て い っ た 。 さ ら に , 後 述 す る よ う

に, ドックおよび関連する工場は職工をはじめと

する労働力を必要とし農家を含むI I l

T

民 に 雇 用 機 会を提供することとなった。

2

) 地 域 有 力 者 と し て の 浦 賀 商 人 日露戦争期, _ヲャセ

l明治

3

8

年( 1

9

0

5

)

に慌が専売化されると, ゥ ヲZ ャセ 人 の 経 営 は 悪 化 し て い っ た13)。 塩 の 専 売 制 は , 場 の 輸 入 増 加 .

I

j

I

j

郊の過剰j 生 産 を 受 け て 国 内 の 製

ェセャゥ■N 日露戦争の軍 費を

調 達 す る 必 要 が 加 わ っ た た め に 施 行 さ れ た 。 こ れ は . 塩 の 生 産 ・ 流 通 - 販 売 に 関 わ る 業 者 に 影 響 を

ェェセセエ

な打撃を受けた。

ゥnセ

も 悪 化 し た 。 儀 兵 衛 は 浦 賀 銀 行 を 設 立 し 重 役 に は

i

[9

i

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賀 の 商 人 で あ る 富 井 清 左 衛 門 ・ 高 橋 勝 七 -三 次 六 兵 衛 ・ 穴 沢 与 十 郎 が 就 任 し て い た 。 し か

し 儀 兵 衛 の 経 営 恕 化 を 受 け て , 浦 賀 銀 行 は 明 治

3

9

( 1

9

0

6

)

に 倒 産 し 浦 賀 商 家 の 一 部 は 廃 業 や 他 出 を 余 儀 な く さ れ たD そ の 一 方 で , 西 浦 賀 の 塩 問 屋 宮 井 家 は , 町 内 の 他 の 塩 問 屋 へ のJ鼠の販売や 浦 賀 ド ッ ク 向 け の セ メ ン ト の 輸 送 を 開 始 し て 経 営 を 多 角 化 し 東 浦 賀 の 米 穀 問 屋 美 川 家 は 鉄 道 輸 送 を 利 用 し た 新 た な 流 通 ル ー ト に 対 応 す る な ど . 経 営 を 維 持 ・ 拡 大 す る 陥 家 も 存 在 し た14)口

そして,明治

3

9

年 の 不 況 の 後 も 浦 賀 に 残 存 した 商 家 の 一 部 は , 大 正 期 に は 会 社 へ と 経 営 形 態 を転 換させていっt:.o 大正

6

年 (1

9

1

7

)

の 『 神 奈 川 県 三 浦 郡 勢 一 班15)

J

( 以下,

f

郡 勢 一 班

J)

によると, 三 浦 郡 内 に 所 在 す る 会 社

27

社のうち,

1

1

社 の 所 在 地が浦賀町に集ー中しており,浦賀町が三浦郡の経 済 に お い て 中 心 的 な 役 割 を 果 た し て い た こ と が う か が え る ( 第l 表) 。また,浦賀町所在の会社を 他l町村所在の会社と比較すると, 経 営 規 模 の 大き な 株 式 会 社 の ほ か に , 米 - 塩 . ? 酉の販売業や味噌 醸 造 業 を 営 む , 中 堅 規 模 の 合 名 会 社 - 合 資 会 社 が 多 く み ら れ る こ と が 特 徴 的 で あ るD 浦 賀 ド ッ ク の 設 立 後 の 商 工 業 の 発 達 に と も な い , 浦 賀 町aには銀

行業・金融業の会社- 支j苫が設置されるとともに

近 世 以 来 の 商 家 が 合 資 会 社 - 合 名 会 社 へ と 転 換 し,経営が維持されていたのである16)

さ ら に . こ れ ら の 商 家 は 町 に お け る 有 力 者 と し て の 性 格 も 有 し て い た 。 た と え ば , 第l 表にみえ る 三 次 商 屈 を 経 営 し て い た 三 次 六 兵 衛 は , 近 世 以 来 の 米 穀 ・ 酒 類 ・ 食 塩 問 屋 で あ り , 先 述 の よ う に 浦 賀 ド ッ ク の 株 主 で も あ っ た が , 明 治

2

2

年から│ 奇

24

年 に か け て 初 代 浦 賀 町 長 を 務 め て いた。この よ

う に , 近 世 以 来 の 商 家 の 一 部 は , 明 治 期 - 大 正 期 に お い て 浦 賀 町 の 政 治 的 ・ 経 済 的 な 有 力 者 と な っ て い っ た 。 こ れ ら の 商 家 が 浦 賀IUJ . 三浦郡の農業 振 興 に も 関 わ っ て い く こ と と な るD

3 ) 浦 賀 町 の 農 地 と 農 会

商 工 業 の 町 と し て の 性 格 が 強 い 浦 賀 町 に お い て , 農 業 は ど の よ う に 展 開 し て い た の で あ ろ う か 。 加 藤 ・ 千 鳥17)に よ る と , 近 世 に は 浦 賀 湾 に 沿 っ た 宮 下 町 や 紺 屋 町 ( 第

2

図 ) を 中 心 に 商 家 が

I

I

F

f

を 連 ね て お り , そ の 後 背 地 で あ る 高 坂 や 荒 巻 ( 第

2

図 ) の 台 地 が 焔 と し て 利 用 さ れ て い た 。 ま た,吉井の山林は幕府の御林とされていた。

(5)

第 1表 三 浦 郡 に お け る 会 社 ・ 銀 行 の 所 在 地 と 業 謹 一大正6年( 1917) 一

所在 名称 形 態 業種

資本金または 出資金( 円)

ュセ 株 式 金銭貸付業 60,000

ュセ 株 式 瓦却

i

製造販売 50,000

浦賀介立

tt

株式 金銭貸付業 30,000

三次硝 J;!}

ム に1々1一一

米 穀 酒 類 販 売 持 物 運 30,000

^エNセ

浦賀町

美川Ij高! 古 合名 米穀酒類販売 20,000 米塩委託 口ムセ手 米1軍事tf穀販売 20,000

雑貨屋呉服j古 合名 呉服・太物販売 15,000

浦賀燃料 株 式 燃料販売 10,000

長島味11普醸造所 ぷE》1古、?4手L i味│ 増製造販売 9,000 桜井市j古 ぷ口》、泊』司三

米 薪 炭 I味噌販売 700 関東銀行

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賀支j苫 株式( 支) 銀行一般の業務

戸塚銀行船越支j苫 株式( 支) 銀行一般の業務 300,000 田浦町

三浦勧業高会 ム資

無尽 10,000

浦郷介託社 ぷ口と、捻よ戸主手

仲介業 6,000

加越青物市場 説莱果実類仲介販売 5,000

鎌倉銀行葉山支j苫 株式( 支) 葉山村 鈴木高j苫 ムiコ お」汽

日本実業葉山支j苫 ↓セ 主

ャ ゥ__ QQセ 動車 株式 100,000

逗子電灯 株式 52,500

逗子町 逗子勧業

i

d

士司Z QAAセ 10,000

河原呉服j苫 呉

J

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・太物販売 3,000 鎌倉銀行逗子支j苫 株式( 支)

関東銀行ニ1[/奇支j苫 株式( 支) 銀行業

三崎町 帝国電燈 株式( 営) 電燈・電力供給販売 30. 000

三浦共立運輸 株式 旅 客 貨 物 の 運 送 長井村 関東銀行長井支庖 株式( 支) 銀行一般の業務

a

神奈川県三浦郡勢一班j により作成) 注 ) 株 式 : 株 式 会 社 合 名 : 合 名 会 社 合 資 - 合 資 会 社

( 支) : 支陪 ( 営) ー営業所

総 面 積 は 計

6. 899

反 で あ り , 地 目 別 割 合 は 山 林 4 7 %・畑2 7 %・田1 3 %・宅地1 1 %で あ るO 土 地 利 用 状 況 を 三 浦 郡 の 他 町 村 と 比 較 す る と , 田 ・ 焔 ・ 山 林 の 面 積 は す べ て13町 村 の 平 均 値 を 下 回 っ て お

り , 耕 地 面 積 の 少 な さ が 指 摘 で き る 。 た だ し , 畑 の 面 積 は13町 村 中

6

番 目 に 大 き く , 町 自 体 の 面 積 の 小 さ さ を 考 慮 す る と , 比 較 的 多 か っ た と い え るO

一 方 で , 宅 地 面 積 に 関 し て は , 浦 賀 町 は13町 村 の な か で 最 も 大 き い 値 を 示 し て い る 。 先 述 し た 浦

賀 ド ッ ク の 開 設 に と も な い , 宅 地 が 増 加 し て い た こ と が 統 計 ー 的 に も 確 認 で き る 。 こ れ に 加 え , 明 治

(6)

る と , 荒 巻 - 高 坂 " )111習の百姓が農間余業として

i

習日雇稼J .

r

農関大工J .

r

農間菓子小売J .

f

農間漁業

J

を行っている。この時点では船番所が 機能していることから,

r

農開日雇稼」には,廻船 の 荷 揚 げ 作 業 が 含 ま れ て い た と 考 え ら れ る21) 。ま た,

I

農簡大工J .

I

農 間 菓 子 小 売j に関しては,諸 藩 の 穀 宿 を 含 む 湊 周 辺 の 商 家 の 需 要 が あ っ た と 思 われるO こ れ ら の 余 業 は 近 世 後 期 以 来 継 続 し て 営 まれてきたとみてよいであろうG 農 地 が 狭

l

盤な浦 賀であったが,近世には3! 訓告改めを行う湊町とし て の 労 働 力 - 物 資 の 需 要 を 背 景 と し て , 百 姓 は こ れ ら の 農 間 余 業 に 従 事 し な が ら 耕 作 を 行 っ て き た のであるO

さて,明治

2

9

年に浦賀ドックが設置された後, 農 家 は 農 業 以 外 に ど の よ う な 生 業 に 従 事 し て い た

TRセ HQ YPYI

浦賀野

I

の 耕 地 面 積 は 三 浦 郡 の 町 村 の な か で 少 な かったといえるO

しかしながら,第3図 に 示 し た 各 町 村 の 農 会 経 費 を 比 較 す る と , 浦 賀 町 の 経 費 は 北 下 浦 村 に 次 い で多額であるO 耕 地 面 積 は 少 な い も の の , 浦 賀 町 は 三 浦 郡 の 他 町 村 と 向 程 度 も し く は そ れ を 上 回 る 農 会 費 用 を 投 じ て , 農 業 振 興 に 取 り 組 ん で い た の で あ る 。 農 会 費 用 が 多 額 で あ っ た 具 体 的 な 要 因 に つ い て は 今 後 検 討 が 必 要 で あ る が , 背 景 に は , 先 述 し た 近 世 以 来 の 地 域 有 力 者 が 農 会 活 動 に 携 わ っ ていたことがあったのではないかと考えられる。

4) 浦 賀 に お け る 農 業 の 特 色

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治JVj

-明治3 :):1三(1870) の

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村 高 数 職 業 書 上 に よ

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回支出

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j設 会 経 費 ( 円) ( }OO, 000 500,000 400,000

200,000 100,000 300,000

ロその他

E宅地

十一

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ロロ1 十一 -1:1f¥

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面 積 ( 反 ) 14,000

8,000

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6,000 12,000

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O

三浦郡各IIITi 寸の土地利用と農会経費一大正 6 年( 1917) ー

(f

神奈川県三浦郡勢一班j により作成)

(7)

県 農 会 報 第54号 に は ,

1

J禁村富I j 業表( 以 下,

1

副 業 表 J ) と 題 す る , 県 内 各 町 村 に お け る 農 家 の 副 業 の 一 覧 が 収 録 さ れ て い るo

1

富i J 業表

J

1

ペ ー ジ に 記 述 さ れ た 「 全 県 ノ 状 況

J

によると, 「都会間近の農村

J

は日傭・出売.

11

丑場月F fの農村」 は藁細工,

1

畑場所の農村」は養蚕・養) j 本.

1

山付 の 農 村j は採薪製材等の山仕事- 糸取り・機織り・ 畜牛.

1

海 付 の 農 村

J

は 漁 業 を 部 業 と し て い る と いうO ま た , 多 摩

JI

I

沿 岸 地 方 ・ 足 柄 下 郡 の 沿 海 地 方 は 柑 橘 の 栽 培 , 都 筑 郡 の 北 部 は 柿 - 栗 の 栽 培 三浦郡および、足柄上下の各郡は育jえ 愛 甲 ・ 津 久 井等の各都は育牛, さ ら に , そ の 他 の 各 地 に お い て 養 鶏 ・ 養 豚 を 副 業 と し て い る 旨 が 付 記 さ れ て い る。

こ こ で , 三 浦 郡 の 特 徴 と し て , 育 馬 を 副 業 と し て い た こ と が 挙 げ ら れ る 。 三 浦 半 島 の 農 家 に お い て は , 近 世 以 来 農 耕 用 ・ 運 搬 用 の ほ か , 糞 畜 と し て 馬 が 飼 育 さ れ て き た が , 明 治 期 以 降 は 野 菜 を 中 心 と す る 農 産 物 や 物 資 の 運 搬 の た め に ま す ま す 多

く用いられるようになっていたお) 。

2

表は,

1

副 業 表

J

2

ペ ー ジ 以 降 に 記 さ れ た

QUQセ

業 を 第

2

表 に 示 し た も の で あ るO これをみると, 三 諮 郡 で は 浦 賀lrI

T

を含む1011

8

-

1

寸で、111 林 に 関 わ る 仕 事 が 副 業 と さ れ . 111林 か ら の 収 入 が 農 業 経 営 を 支 え て い た こ と が 指 摘 で 、 き る 。 こ の ほ か , 代 表 的 な 副 業 と し て は , 漁 業 ・ 麓 仕 事 ・ 野 菜 の 出 売 り が 挙 げられるO

浦 賀IIIJ の 場 合 , 山 林 関 係 ・ 漁 業 の ほ か に , 日 傭 ・ 人 足 が 副 業 と さ れ て い る こ と が 特 徴 的 で あ る 。 よ っ て , 浦 賀IllTは , 三 浦 半 島 中 南 部 の い わ ゆ る ド

i

三農半漁村j と は 異 な り , 都 市 近 郊 ・ 農 村 ・ 漁 村 の す べ て の 性 格 を 併 せ 持 っ て い た と い え る 。 また,久里浜村・武山村・長井村において日! j ' 莱 ( も し く は 疏 莱 ) の 出 売 が 副 業 と さ れ て い る が , そ の 販 売 先 は 横 須 賀 や 浦 賀 で あ っ た と 考 え ら れ る 。 浦 賀

m

J

は 周 辺 地 域 の 農 家 が 出 売 り に 訪 れ る 消 費 地 と し て の 性 格 も 有 し て い た の で あ るO この

第2表 三浦郡各町村における「農村の副業

J

- 1明治42年( 1909)

-Ilfri寸名 UJ林関係 漁業・海草採取 野菜tB売 葉仕事等 日傭・人足 その他

i印刷:す 一 農業

( 工業が本業)

浦賀1111 山林伐木・手入 漁業 日 傭 人 足

久里浜村 読菜類の出売 横須賀. ?甫賀 一

行人足

衣笠村 薪集め・槙切り 麓仕事

葉山村- 山林槌イ寸・伐採 薪炭製造 国越村 UJ仕事・槙切り

ゥセセ 茅メI j .薪切 漁業 春蚕

南下浦村 薪採り 山林の 拐、業 定織り 養 豚

手入

三111奇阿 薪 炭 製 造 若目採り 定- 縄・薬草

カジメ藻等の j覆作り

肥料採取

初声村 薪取 縄絢・蓮織

武111村 薪の伐採 疏莱の出売・

運 搬 中西浦村ー

I

1

J掃除・薪採り

長井村 漁業 野菜の出売

c

r

神奈)II! 県 農 会 報 第 54号j により作成) 注) 副業の名称については,資料上の表記を変更せずに, 6 つに分類した。

(8)

-「副業表

J

に は 記 さ れ て お ら ず , 時 期 も 不 明 で あ るが. 下浦の農家が浦賀

m

1

まで野菜の出売りに赴 いており,この際,浦賀町の宅地の下胞を積んで 帰って行ったという24)。下肥の流通関係は,浦賀 町が三浦半島の他町村の農業を支える役割を果た

していたことを示す一例といえようO

さて,都市近郊における農家の副業として, 臼

傭・人足が注目されるO 先 述のように,近世にお

ける「日雇稼 j には廻船の荷揚げ作業が含まれて

い た と 忠 わ れ る が , 明 治

f

麦茶j)における日世帯 ・人ノ@ の 多 く は , 浦 賀 ド ッ ク お よ び 関 連 業 種 へ の 雇 用 で

あったと考えられるD 農家構成員の工業従事者と

しての雇用は, 日備に限らず,正規の工員として

も 行 わ れ て い た 。 こ の よ う な 農 家 は , 大 正 期 以 降 , 統 計 的 に は 兼 業 農 家 と し て 把 握 さ れ る に 至 る。

b.

r

専業農家

J

と「兼業農家j 一大正期・昭和 戦前期一

大正期から l昭和則において 浦賀 j111で展開した 農 業 の 特 色 と し て 注 目 す べ き は , 専 業 農 家 数 に 対 す る 兼 業 農 家 数 の 多 さ で あ る 。 大 正4年( 1915)

に刊行された W?fm賀 案 内 記25)

J

には,浦賀町の農

業について次のように記されているO

当町に

H

与しEて,農業に従ふものは全戸数の約四 分 の ー を 占 む れ ど も , 多 く は 兼 業 に し て , 専 業 者 は 十 分 ー に も 足 ら ず 口 而 し て 回 百 六 十 五 町 六 段三畝,

JI

JI

二百二十四町七段

1

m

畝の区域内にて 行 は る 。 作 物 と し て は 特 記 す べ き も の な し 。 例 の女1] くに凹に稲,知│に萩麦,其他

1

m

時の疏菜を 栽培して, eQQセ

上記では,全戸数の4分のl を占める 農家のう ち専業農家は10分のl にすぎず,農家のほとんど

が兼業農家であるというO さらに,米・麦・豆な

ど の 作 物 の ほ か は 季 節 の 疏 菜 類 を 栽 培 し そ れ ら

は「日常の需用に供するのみ

J

であった。つまり

大量生産による干I:i場出荷は行われていないという ことが述べられているD

また,大正6年( 1917) における三浦郡内の農 家 数 を 見 る と , 農 家 数7,121戸 の う ち 専 業 農 家

4,232戸 ( 59. 4%) ,兼業農家2,889戸 ( 40. 6%) で あ っ た26)。 こ れ に 対 し て 年 代 は や や 下 る も の の,昭和13年( 1938) の 浦 賀 町 内 に お け る 農 家 数 は 専 業 農 家 戸 数97戸 に 対 し て 兼 業 農 家 戸 数 が815

戸と大幅に上回っているo 815戸のうち, 715戸は 農 業 以 外 を 主 と す る 兼 業 農 家 で あ っ た27)。上記に

みた大正6年 ( 1917) の三浦郡内における専業農

家 戸 数 ・ 兼 業 農 家 戸 数 の 構 成 と 比 較 す る と , 浦 賀 町 内 の 農 家 に 占 め る 兼 業 農 家 の 多 さ は 特 徴 的 と い えよう。

で は , 具 体 的 に は ど の よ う な 兼 業 が 行 わ れ て い たのであろうか。 セ HQYTSセ 1944) の 「高坂町内会世帯調査票28)

J

( 以下「調査票

J)

か らみていくこととしたい。先述のように,高坂は 浦賀町内の宮下回

T.

紺 屋 町 - 谷 戸 町 な ど 浦 賀 湾 沿 いのi町場の後背地であり,比較的田畑が多い土地 であった 。なお,昭和18年 4 月に浦賀町は横須賀 市と合併しており,

I

調 査 票j は 横 須 賀 市 の も と で作成されたものであるo

I

調 査 票 」 に は120戸 が 記 さ れ て お り , 世 帯 主 は 工 業 従 事 者 ( 46%) が最 も多い。次いで,軍人 ( l l% ) ・職人 ( 8%) ・農 業 ( 5% ) へ の 従 事 者 が 多 く な っ て い るD また

120戸 の う ち , 農 業 従 事 者 が 含 ま れ る 家 はII戸 で あり,そのうち専業農家は

4

戸であった。

さて,ここでは「調査票」のなかから個別農家 の事例を検討するD まず,

A

家は40歳代の夫婦と

l

歳から12歳 の 子 ど も が

4

人の

6

人家族であり, 「世帯主

J

と「妻」の職業欄は「農業夫」であるo

夫婦の他に就業者はおらず,

A

家 は 専 業 農 家 に 分 類できる 。

これに対して,兼業農家B家は, 50歳代の夫と

40歳 代 の 妻 , そ し て 子 ど も と そ の 家 族 を 合 わ せ て 計10人の2世帯家族であるO 世帯主は50歳 代 の 夫

であり,職業は「工員 造船穴あけ」であるD 妻

(9)

次に,

c

家は

30

歳 代 の 夫 婦 と

2

歳から

1

3

歳 ま で の 子 ど も が

4

人の

6

人家肢で、ある。夫は「金属溶

W

{

:

工」であり,

B

家の例と同様,

i

m

賀 ド ッ ク ま た は ド ッ ク 関 連 産 業 へ 従 事 し て い た と 考 え ら れ るO 要二の職業は「J15.夫

J

とされているが, ここで示さ れる「良夫J .

I

従 業 夫

J

が 自 家 で 炭 業 経 営 を し て い る こ と を 指 す の か . あ る い は 専 業 民 家 宅 へ 手 伝 い に 行 っ て い る こ と を 指 す の か は 判 然 と し な し 」 ただ,

I

兼 業

J

の 一 つ の あ り 方 と し て ,

d

l?

賀ドッ ク も し く は そ の 関 連 工 場 で 夫 が 働 き , 安 が 専 業j支. 家 へ 手 伝 い にU:¥る と い う こ と は 珍 し い こ と で は な かったお)0

i

rIJ賀118・における兼業農家の一つの特徴 として指摘jできるのは,

i

r

t

i

賀 ド ッ ク や 関 連 工 場 と の 兼 業 で あ る と い え よ うO

以」こから,

i

i

' l i 賀│ 町内における農業

i

笠 営 と し て は , ① 専 業 農 家 , ② 一 家 の 主 た る 労 働 力 が

J

j

品業以 外 の ] 般 に 就 き , 安 が 自 家 で 炭 業 を 行 う 兼 業 農 家 . ① 一 家 の 主 た る 労 働 力 がj長業以外の] 肢に就き,安 が 専 業 農 家 へ 子 伝 い に

U

:

'

,る兼業農家, というもの が 考 え ら れ る 。 本 節 の 冒 頭 で あ げ た 統 計 が , どの よ う な 形 態 を 「 兼 業 農 家j と し た の か は 明 ら か で は な い が , ② ③ の 形 態 が ① の 専 業 農 家 の 戸 数 を 大 11I自 に 上 回 っ て い た こ と が 示 さ れ て い る と い え よ うC 特 に 高 坂 で は , ② ③ の 形 態 を と る 7戸のう ち , 夫 が 「 左 官 」 で あ る 一 戸 を 除 く 6戸 す べ て に お い て , 主 た る 労 働 力 で あ っ た 夫 や 子 ど も は 工 業 従事者であった。

以 上 の よ う に , 三 浦 半 島 の 他lI

fH

寸と比較して農 地の狭│ 綻な

i

r

l

l

賀!II

T

において j起 業 経 営 は . お も に 工 業 と の 兼 業 に よ っ て 維 持 さ れ て お り , 炭 業 と 商 工 業 が 相 互 依 存 的 に 成 立 し て い た 。

E 農 会 の 設 立 と 浦 賀 町

るようになったのは,民会? t ; がi ¥ilJ定された│明治32

HXYYI セイャェ セNセ@ 1Irf11;]: 会 が 設 立 さ れ た

iセZj@ 1確 な 年 代 はl何 ら か で は な い が , lij:J 治29il三

(1896) 5;::J201:] 付け・で「浦賀IIIT民 会 長 」 か ら 白

j セュ[[

通知1が 出 さ れ て い る30)0 iセi@ セョM jQjェ QQXM 議 員 で あ り . 三 浦

1

m

民 会 役 員 で あ っ た 人 物 で あ る 。 こ の 通 知 か ら , 三 浦 郡 民 会 とirlJ賀IIIJ民会とも に 明 治29年

5

月 に は す で に 設 立 さ れ て い た こ と がjっかるO

さて, -' 二記のような!i日成会・ IIIT民 会 が 設 立 さ れ セェャセセュZ ャu j ゥ ヲij QQQ[Q ェ

篤 農 家 の 活 動 や 明 治2751:: ( 894) の三浦l百J I ,照会 結 成 と い っ た 都 内 の 動 向 が j 主目されるO 三

i

r

HI

r

t

]

開 会とは,

1

;11)(ラ地方的利主主ノjけi1 [ ; を討議シ,会員 Q]Q] Q N iiセセ QZQ ェ QセiiyP

た 団 体 で あ るo

I

i

f

l

i

1可1,P..t会々日

I

JJ

では, 1司会の 組 織 と し て 「

jjZ

司J 1

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先制¥

J

1

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H

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f

究古

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仁仁司王1i ) f

究 部

J

Q サゥSQ i[j jセ

iセij Zャjj ャG ゥェG jゥN RX ゥヲM ( 895)

1

0

QWQ]Q セG I:'ij: 日新聞j で は . 三 浦 同

l

Pt,l .会は

Ifll l

ゥゥhQョセ

であり, iセw Qi セRj eQ 1(り とし,

1

其 会 員 も 追 々I目力1] しっ、ぁ」るという状 況 が 報 じ ら れ た32)

TQセQ N ャjjQ VT ZZエ N

上 に み ら れ る 出 身1f1

T

村 ご と の 人 数 を 示 し た も の で あるo

iiH

賀IlfJか ら の 発 起 人 は12::trと 最 も 多 し 、 そ の 氏 名 ・ 職 業 お よ び 主 なl隙

l E

を み る と , 彼 ら は 近 世 以 来 の 有 力 商 家 . J支ー家であり. 明治則] から大. I

E

初 期 に か け て

i

f

l

r

賀1f1

T

長や!II

J

会 議 員 ・ 県 議 会 議 員 を 務 め た 者 が 多 し 」 す な わ ち 彼 ら は Ilff政やIIfJ・内の 教 育 に 従 事 す る 「 名 望 家 」 で あ っ た 。

1

2

名 の な か に,有力

n

国 家 だ け で は な く , 以 後 三 浦 郡 民 会 .

i

rIJ

1 ) 農 会 の 設 立 基 盤 賀IIrfjゥセ シ ヲ

近 代 の 三 浦 郡 お よ び 浦 賀JIIT におけるj民業の展開 のぞ1が 見 ら れ る こ と は 注 目 さ れ よ う 。 三

i

r

l

l

同 問 会

において. 指導的役割を来たしたのは炭ー会であっ iセiiI\j iiヲヲ

た。そこで,ここでは三浦郡! 覧会・浦賀IIITJ覧会と iセij

浦賀IIIJ との関わりについて検討していく。 て い た の で あ るO こ う し た 側 而 か ら は , 従 来 言 及 法 定 団 体 と し て の 民 会 が 全 国 的 規 慌 で 設 立 さ れ さ れ て き た よ う な , 近 世 以 来 の 干 鰯 流 通 を 中 心 と

(10)

; . J D

¥f南郷村.l'u

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...

償 須 賀 町

策ILJ 村 ¥ ' 五 刷 、T

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J J f H1削i目鴻l開U日市山l'f印山仰t予附i附

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l略

的H寸九 HNNNNNセ 司 F

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NOG _j■j セ[ GQZZZBB@

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5名

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1名

間下泊11::J そ の 他

ー 11IT村治 4km cBi包 材 : 桜 ( 不 詳 : 1名

1 L-J 三由術開r :セAエャ@ 第4 図 三

(

f

I

J

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JャャゥG エ セu

( f 新 横 須 賀 市 史 資 料 編 近 現 代

u

1

9

8- 199.

r

新 横 須 賀 市 史 資 料 編 近 現

IJ

付 録 の f三 新 法 体 制 期 の 現 横 須 賀

市 域 内 のIl/J村 区 画j お よ び 「 横 須 賀 市 行

政 区 画 変 選1)g1J により作成)

した港! l l J ・流通の結節点としての性格だけで、はな く,生産地としての浦賀町の 一面をうかがうこと ができるO

以 上 の よ う な , 三7[111司盟会の設立や同会の浦賀

QQi t セUQセ

賀IHTにおいて,燦- 商- 工- 水を含めた産業振興を 議論す る基盤が存 在したことを示 しているc また ,

こうした郡内における殖産政策への積極的動向は, す で に 明 治 初 頭 か ら み ら れ て い た 。 明 治

7

( 1

8

7

4

)

には神奈川県の殖産奨励策にともない,君)1

内 の 区 長 や 戸 長 ら が 中 心 と な っ て 牧 畜 会 社 設 立 の 建 議 が 行 わ れ33) 牝 牛 貸 付 も 実 施 さ れ た34) この 牧 省 会 社 設 立 建 議 に は

1

4

名 の 署 名 が あ か そ の う ち若命信義( 第

1

4

区区長) ・石渡養泰( 第

1

5

2

番 組戸長) . 高橋勝七 ( 同3番組戸長) は. 三 浦 同 盟 会 の 発 起 人 と も な っ た 人 物 で、ある。以上のような 三 浦 郡 内 有 力 者 や , 彼 ら を 中 心 に 展 開 す る 農 業 振 興 へ の 活 動 は , 後 の 農 会 設 立 と 運 営 の 基 盤 に な っ たと考えられる。

2) 三 浦 興 産 会 の 設 立 と そ の 活 動 a 三 浦 興 産 会 の 設 立

地 域 有 力 者 に よ る 農 業 振 興 の 一 例 と し て , 明 治

38

年( 1

905)

の三浦興産会( 以

T .

興産会とする) の設立が挙げられるO こ れ は , 三 浦 郡 農 会 が 中 心

と な り , 産 業 組 合 法 に 基 づ く 有 限 責 任 販 売 購 買 組 合として 組 織 さ れ た35)。設立目的は, 農産物の 販 売・購買の円滑化と,三浦郡各町村ーの 農 家 へ の農 具 等 の 各 種 必 需 品 の 供 給 であった 。 ま た , 横 須賀 市 佐 野 に 設 置 さ れ た 興 産 会 の 会 館 は 郡 ・ 市 農 産 物 の 市 場 と し て 利 用 さ れ , 農 産 物 の 横 須 賀 市 内 へ の 供 給 お よ び 市 外 へ の 移 出 が 行 わ れ る と と も に , 春 ・ 秋 の 年

2

回 開 催 さ れ た 三 浦 郡 の 農 産 物 品 評 会 の 会 場 と さ れ た 。 興 産 会は,農会の活動のうち, 農 産 物 の 流 通 や 農 業 技術 の 普 及 ・ 発 展 を 下 支 え し た組織であるといえよう。

さ て , 興 産 会 設 立 を 主 導 し た の は , 横 須 賀 市 農

いしわたやすとよ

会長を務めていた石渡坦豊であるo 石 渡 家 は 近 世 以 来 農 業 を 営 ん で、き た 家 で あ る が , 坦 豊 は 明 治

26

年( 1

893)

に 私 設 の 農 事 試 験 場 を 開 い て お り , 明 治

34

年( 1

901)

の農会 法 施 行 以 前 か ら近代 的な農 業 技 術 の 導 入 に 関 心 を 抱 い て い た 。 農 会 の 設 置 後 , 坦 豊 は 横 須 賀 市 農 会 長 の ほ か , 神 奈 川 県 農 会 議 員 - 県 農 会 評 議 員 を 歴 任 し 「 県 農 会 の 二 元 老 」 の 一 人 と し て , 三 浦 半 島 に お け る 農 業 の 発 展 に 尽 力した36)口

興 産 会 の 組 合 員 の 職 業 別 人 数 は , 明 治

42

( 1

9

0

9

)

度.

43

( 1

9

1

0

)

度は農業

447

名- 官吏

1

0

名-公 吏

3

名・維業

3

名 の 計

476

名,明治

44

( 191

1)

度 に は 農 業 従 事 者 の み

50

名 増 加 し て 計

526

名 で あ っ た 。 明 治

44

年 に は , 興 産 会 に よ る 郡 内 農 家 の 組

t

故化の] l i jJ きが強まったと考えられるD また,組 合 員 は 農 家 を 主 体 と し て い た が , 官 吏 - 公 吏 も 加 入しており, こ の な か に 農 会 活 動 を 支 え た 地 域 有 力者も含まれていたと考えられる。

(11)

RP セSP

町 長 を 務 め た 者 で あ っ た ( 第3表) 。 ま た , 第N 章 で 詳 述 す る 浦 賀 Ul

T

の 農 家 で 、 あ る 白 井 家 の 文 撃 に は , 興 産 会 の 第

3

年 度 ( 明 治

43

年 度 ) . 第

4

年 度 ( 同

44

年 度 ) の 興 産 会 の 事 業 報 告 が 収 録 さ れ て い る ( 以 下 .

r43

年 度 報 告j .

r44

年 度 報 告j )。 こ の こ と か ら , 浦 賀 町 の 有 力 者 が 役 員 と し て 興 産 会 の 中 核 に 位 置 して い た こ と に と と も に , 浦 賀 町 の 有 力 農 家 が 組 合 員 の 一 人 と し て 興 産 会 の 活 動 に 携 わ っ て い た こ と が 明 ら か で あ る 。

b

明 治

43

. 44

年 に お け る 興 産 会 の 活 動 ここでは,

r4

3

年 度 報 告

J

.

r4

4

年 度 報 告 』 に 基 づ き , 興 産 会 の 活 動 を 具 体 的 に み て い き た いD こ の

両 年 の 事 業 は , 主 に ① 総 椋 の 睦 軍 へ の 納 入 ② 陸 軍 施 設 か ら の 人 糞 ・ 馬 糞 の 払 い 下 げ , ③ 疏 莱 の 陸 軍 へ の 納 入 と 一 般 商 人 へ の 販 売 , ③ 農 事 視 察 で あった。

は じ め に . ① 植 林 の 陸 軍 へ の 納 入 に つ い て み て みよう。 興 産 会 が 取 り 扱 っ て い た . 大 麦-干草・ 毅 の 一 部 は 陸 軍 へ 樹 林 と し て 納 入 さ れ て い た 。 特 に , 大 麦 は 興 産 会 の 取 扱 品 と し て 最 も 重 要 と さ れ

TSサA Iセ

て 北 海 道 産 燕 麦 の 納 入 が 増 加 し た た め , 興 産 会 か ら の 大 麦 納 入 は 減 少 し て い た 。 翌 明 治

44

年 に な る

ゥゥセAセセ

量 が 増 加 し た 。 三 浦 郡 が 陸 軍 施 設 の 後 背 地 で あ り な が ら , 馬 穫 の シ ェ ア を め ぐ っ て 北 海 道 と 対

H

C

I:

第3表 浦 賀 町 に 在 住 す る 三 浦 同 盟 会 発 起 人 の 業 種 お よ び 主 要 経 歴

氏名 所 在 業 種 浦 賀 町 長 就 任 年 そ の 他 │町政

酒 類 簡 及 醤 油

1

5

大区

3

番組大津村旧高IJ戸長 石 渡 真 三 郎 大津

書 薪 炭 金 銭 貸 付 業

明治

2

4

年 学 務委員

110.会 議 員 ( 1明治

2

2

年) 白井儀兵衛 制JJ塁IIIJ

米穀商

町会議員 ( 1明治

2

2

年) 肥 料 商 運 送 業

宮j:1二清左衛門 紺 屋 町

酒 類 商 及 醤 油

i弼治

2

7

年 iェエセイ ゥ H T I

酢 醤 油 米 穀j孟商 太 田 又 四 郎 紺 屋 町

米 穀 商・雑 穀j革商

明治

3

6

西岸 学校 世 話 役 ( 明治

1

0

年) 回 漕 業 及 運 送 町会議員 ( 明治

2

2

年) 三 次 六 兵 衛 谷戸町ー

米 穀 簡

明治

2

2

年 学校 世 話 役 ( 明 治

1

0

年) 酒 肥 料 塩 商 運 送 業

増 田 太 兵 衛 日中町

酒 類 商 及 醤rlll

不 詳 米 塩醤 油 卸 商

学務委員 穴 沢 与 ト 郎 宮 下 町

米穀商 県会議員

味噌i註商 君I1会議員

町 会 議 員 ( 明 治

2

2

年) 米 穀 商

神 奈 川 県 第

1

5

区 三 番 組 戸 長

高橋勝七 iiセ

酒荒物商

明治

3

2

年 浦 賀 町 会 議 員 ( 明 治

3

1

年.

3

7

年,

4

3

年 , 大 正

2

年) 角 井 市 郎 左 衛 門 吉 井 J.庭: 111訪* │町会議員( 明治

2

2

年) 白井太郎 高 坂 j時災Hセ|N ・

町 会 議 員 ( 明 治

2

2

年) 青 木 四 郎 左 衛 門 不明 不明 町会 議 員 (1現治

2

2

年) 木 村 嘉 兵 衛 不明 不明

1

5

3

番 組 鴨 居 村 旧 制 戸 長 I

sJ会 議 員 ( 明 治

2

2

年 )

u

浦 賀 案 内 記

1

r

新 横 須 賀 市 史 資料編 近現代1

1

.

I

大 日 本 商 工 人 名 録j により作成) 注1 ) 業 種 が 不 明 の 場 合 は 「不 明

J

町 政 と の 関 係 性 が 不 詳 の 場 合 は 「 不 詳

J

町 長 就 任 が な い 場 合 は

I - J

で示した。

注2) 11汀会議員は浦賀町を指す。

注3) 判 読 不 明 文 字 は 圃 で 示 した。本稿では以下同様と するO

(12)

-係 に あ り , 馬 趨 供 給 地 と し て 確 立 さ れ て い な か っ た こ と が う か が え るO

また,干草については,

r

従 来 郡 内 ノ 生 産 甚 ダ 僅 少

J

であったが,陸軍糧事│ミ本廠等の要請を受け て 農 家 に 「 種 々 ノ 勧 誘 」 を 試 み た と こ ろ ,

r

予 定 ノ数量j に は 達 し な か っ た も の の , 明 治44年には 「 前 年 ニ 比 シ 著 シ ク 増 加 」 し た 。 陸 軍 の 要 請 に よ っ て 組 合 農 家 の 生 産 品 が 規 定 さ れ て い っ た こ と がうかがえる口

Eて , ② 陸 軍 施 設 か ら の 人 糞 ・ 馬 糞 の 払 い 下 げについてみてみようO 明治43年 に は 武 山 往 還 改 修 の た め に こ れ ら の 運 搬 が 国 難 で あ り ,

r

規約ヲ 実行セザル者」が多く,

r

搬 出 停 滞 シ 聯 隊 ニ 迷 惑 ヲ及ホシj と い う 状 況 で あ っ た 。 し か し , 明 治44

年に往還の改修が終了すると,

r

好 況 ヲ 呈j した。 な お , 石 渡 坦 査 は , 明 治

4

0

年( 1

9

0

7

)

に 横 須 賀 市 - 三浦郡j装会による海軍関係路設の} 采尿払い

ャセェゥj ャ TS

を 設 立 し て い た38)。 こ れ と 同 時 期 に , 興 産 会 の 組 合 員 が 陸 軍 施 設 の j采 尿 - 馬 糞 の 払 い 下 げ を 請 け 負っていたのである。

最 後 に , ③ 疏 菜 の 陸 軍 へ の 納 入 と 一 般 商 人 へ の 販 売 に つ い て 考 察 す るO 陸 軍 へ の 納 入 は 明 治

42

年 度( 1

9

0

9

)

に は 重 砲 兵 第 一 聯 隊 の み で あ っ た が ,

f

組合員諸氏ノ精励ノ結果J , 43年 度 に は 第 二 聯 隊 にも志向入するようになった。そして,

4

4

年 度 に は 「両 i防 隊 ノ 殆 ン ド 全 部

J

へ の 納 入 が 確 立 し つ つ あ っ た が , 疏 莱 の 「 品 質 和 ヤ 劣 」 る と し て , 陸 軍

より注意を受けており,

J

r

萎々組合員ニ警告ヲ す と い う 状 況 で あ っ た 。 こ の 時 点 で , 陸 軍 納 入 の シェアは{ 確保したものの,品質の高い疏- 菜を安定 的に供給することが必要とされていた。

一 方 で , 議 莱 の 一 般 販 売 は , 明 治43年 度 は

f

年度ニ比シ吏ラニ進歩ノ; 伏ナク,返テ売上金額二

減 少j を み る と い う 状 況 で あ っ た 。 そ の た め , 明 治

44

年 度 に 暴 風 の 被 害 を 受 け た こ と を 機 に , 販 売 を 中 止 し て い る 。 一 般 へ の 販 売 高 が 増 加 し な い 原 因 と し て は 金 主 義 ノ 実 行j が困難であり, 売 掛 金 が 増 加 し て い る こ と が 記 さ れ て い る 。 興 産 会 と し て は , 疏 菜 の 一 般 商 人 へ の 販 売 を 志 向 し つ

つも, f! IJ金 販 売 が 定 着 し て い な か っ た た め , 安 定 的 な 販 売 を 行 う こ と が で き な か っ た と い え よ うO

最 後 に , ④ 農 事 視 察 に つ い て 簡 単 に 触 れ て お くD 疏 莱 ・ 果 樹 の 栽 培 や 生 産 品 販 売 に お け る 「 荷 作ノ巧者

f

jJ

に つ い て は 「 先 進 地 方j を視察するこ と が 有 益 で あ る と さ れv 明 治43年 に 故 事 石 渡 義 と 組 合 員2名 に よ っ て 群 馬 県 豊 田 町 ・ 下 仁 田 と 「東京附近ノ疏菜多IHJ

J

お よ び 千 住 の 野 菜 市 場 の 視 察 が 行 わ れ た 。 こ こ で は 競 菜 - 果 樹 栽 培 の 方 法 は も ち ろ ん , 東 京 近 郊 で 疏 菜 を 栽 培 し て い る 町 や 千 住 市 場 が 視 察 さ れ て い る こ と か ら , 良 質 な 疏 莱 を 生 産 す る と と も に 陸 軍 へ の 納 入 に と ど ま ら ず ¥ 三 浦 郡 か ら 都 市 部 へ 出 荷 す る こ と を 志 向 し て い た と 考 え ら れ るO

こ こ で 注 目 す べ き で あ る の が , 興 産 会 の 監 事 自 ら が 視 察 に 赴 い て い る こ と で あ るO 後述するよう に , 三 浦 郡 農 会 で は , 明 治

3

0

年 代 以

i

洋 各 町 村 の 篤 農 家 十 数 名 に よ る 農 事 視 察 が 行 わ れ て い た 。 こ れ と 平 行 し て , 三 浦 郡 の 有 力 者

3

名から

5

名 程 度 に よ る 視 察 も 行 わ れ て い るO 三 浦 郡 の 産 業 を 牽 引 す る 有 力 者 自 ら が , 農 業 の 発 展 に 強 い 関 心 を 持 っ て い た こ と が 明 ら か で あ るO

以 上 の よ う に , 興 産 会 は 主 に 陸 軍 と 結 び つ き つ つ , 組 合 員 に 対 し , 品 質 の 高 い 疏 菜 や 植 林 を 生 産

することを要請した。従来指摘されていた海: 軍の

需 要 に 加 え て , 陸 軍 の 需 要 も 三 浦 郡 に お け る 読 菜 栽 培 発 展 の 一 契 機 と な っ た と 考 え ら れ るO しかし な が ら , 疏 菜 の 一 散 商 人 へ の 安 定 的 な 販 売 は 困 難 で あ っ た 。 し た が っ て , 明 治

4

4

年 の 段 階 で , 郡 内 に お け る 農 産 物 の 円 滑 な 販 売 ・ 購 買 と い う 興 産 会 の 設 立 目 的 は 達 成 さ れ て い な か っ た の で あ る 口 次 節 で 述 べ る よ う な , 農 会 に よ る 栽 培 奨 励 作 物 の 決 定 は , こ の よ う な 背 景 に お い て 実 施 さ れ た と 考 え

られる。

3 ) 農 会 に よ る 誌 菜 栽 培 奨 励 と 浦 賀 町

(13)

て の 読 菜 栽 培 奨 励 に 著 自 し 明 治 末 期 の 農 会 活 動 をみていくこととしたし

'0

iセ

設 立 直 後 か ら 行 わ れ て い た39)。 次 に 挙 げ る 史 料 は , 明 治44年3 丹 3Bの 日 付 が 付 さ れ た , 二 農 会 に よ る

f

三 浦 郡 内 疏 菜 栽 培 区 域 予 定 表

J

(以 下 「 栽 培 区 域 予 定 表

J)

である40)。これは

知 綴 」 と 題 さ れ , 浦 賀 町 農 会 か ら 役 員 へ 配 布 さ れ た と 思 わ れ る ビ ラ や , 白 井 太 朗 宛 に 出 さ れ た 三 浦 郡 農 会 長 ら に よ る 書 簡 等 と ー 綴 り に さ れ て い る も の で あ るo

r

栽 培 区 域 予 定 表 」 の 冒 頭 に お い て , 三 浦 郡 農 会 は 当 該 期 の 郡 内 に お け る 疏 菜 栽 培 に 関

して次のように述べている。

iセ

開 セ シ 為 ト ハ 云 ヒ , 其 生 産 区 々 ニ シ テ 或 二 三 ノ モ ノ ヲ 除 キ テ ハ 大 ニ 顧 客 ヲ 違 フ ル コ ト 能 ハ サ ル ノ ア ル ハ 最 モ 遺 憾 ト ス ル 所 ナ リ , 依 テ 本 会 ハ 疏 菜 栽 培 予 定 表 を 作 リ 更 ニ 当 業 者 諸 君 ノ 意 見 ヲ

iセ jj

ノ 欠 陥 ヲ 補 ヒ , 自 他 ノ 利 益 ヲ シ テ 益 々 回 大 ナ ラ シメンコトヲ期ス,

上 記 で は ま ず , 三 浦 郡 に お け る 疏 菜 栽 培 は 「 過 渡 期 ノ 時 代 に 展 開 」 し た も の で あ る と い う こ と , ま

た そ の 生 産 は 地 域 ご と の 特 産 物 と な っ て お ら ず , 顧 客 と の 安 定 的 な 需 給 関 係 が 確 立 し て い な い 様 子 が 述 べ ら れ て い るO そこで三浦郡農会は,

r

郡 内 競 菜 栽 培 ノ 分 布 ヲ 限 定j す る こ と を 打 ち 出 し , 各 町 村 が 重 点 的 に 栽 培 す べ き 作 物 を 提 示 し た の で あ るO 第4表は,

r

栽 培 区 域 予 定 表 」 で 挙 げ ら れ た 字 ご と の 栽 培 奨 励 作 物 と 明治27年( 1

8

9

4

)

時 点 で 浦 賀 町 内 に お い て 栽 培 さ れ て い た 農 産 物 と の 対 応 を 示 し た も の で あ るO

第4 表 に お け る 作 物 の 種 類 に 着 目 す る と , ま ず 郡 農 会 に よ っ て 奨 励 さ れ た 農 作 物 と , 明 治27年 時 点 で 栽 培 さ れ て い た 農 作 物 と は 共 通 す る も の が 多 い こ と が わ か るO こ の こ と か ら , 農 会 設 立 前 の 浦 賀町Aの 農 家 で は , 同44年 に 郡 農 会 か ら 奨 励 さ れ る よ う な 疏 菜 類 の 栽 培 は 行 な わ れ て い た も の の , 生

産 量 が 少 な く , ま た 販 路 も 未 確 立 で あ っ た と い う こ と が 考 え ら れ る4I ) 。そうであるカ宝ゆえに,

r

大 ニ 顧 客 ヲ 違 フ ル コ ト 能 ハ サ ル ノ ア ル ハ 最 モ 遺 憾 ト スル所ナ1)

J

として生産・流通・消費を円

i

骨化し, 需 供 関 係 の 確 立 を

l

ヨ指していたのである。

栽 培 奨 励 作 物 と し て は , 大 根 ・ 盤 ・ ゴ ボ ウ ・ 甘 藷・小松菜・豆類など, 日常的に

t

肖讃' される野菜 類 が 挙 げ ら れ て い る 。 い ず れ も 農 家 の 自 給 用 と な る と 同 時 に , 浦 賀 町 内 や 近 郊 の 消 費 地 か ら も 大 き な 需 要 が あ っ た と 思 わ れ るD なお, H■セセ 地域で、奨励されている瓜類は,浦賀IllJの 栽 培 奨 励

品自にはみられない。明治末期の; 甫賀阿における

浦賀ドックや横須賀市場に近接し, IIQ"内 外 に 大 き な 需 要 を 抱 え た 近 郊 農 業 と し て の 可 能 性 が 展 望 さ れ て い た と 考 え ら れ るO

ところで¥「栽培区域予定表」の策定と同年に, 浦 賀 町 農 会 は 蜜 柑 栽 培 と

i3

3

木 の 共 同 購 入 を 試 み て

d [hiセ jN

る 白 井 太 朗 を 通 じ て 日 間 近 ノ 諸 氏j へ の 通 知 が 行 われた42)。 こ う し た 果 樹 栽 培 奨 励 は , 明 治 末 期 の 奨 励 策 を 素 地 と し て 大 正 期 か ら 昭 利

]l

切にかけても 継 続 さ れ た の で あ る 。 そ れ は 郡 農 会 . Il!

T

炭工会に加 え て , 三 浦 興 産 会 や 大 正

1

4

( 1925)

に 結 成 さ れ た 三 浦 郡 疏 莱 出 荷 組 合 連 合 会 な ど に よ っ て 推 進 さ れ た も の で も あ っ た43)。昭和1 Oi: !三(1

9

3

5

)

に は 「 最 近 農 会 を 主 と し て 果 樹 屈 の 奨 励 に 全 力 を 尽 し た 関 係 も あ っ て , ブ ド ー 蜜 柑 柿 の 栽 培 もjjWi次 改 良 進歩の蹟鹿然たるものあるも,尚手責極的奨励をな す べ く 町 自 体 乗 り 出 す こ と に な り と さ れ る に 至るのであるD

4) 三 浦 郡 農 会 ・ 浦 賀 町 農 会 に よ る 農 事 視 察 写 真

l

は , 明 治

3

4

年 に 石 渡 坦 豊 ら が 千 葉 県 へ の 農 事 視 察 に 赴 い た 際 , 木 更 津 に て 撮 影 さ れ た 記 念 写 真 で あ る 口 視 察 の 参 加 者 は , 坦 豊 の ほ か , 石 渡 寓吉( 浦賀町大津) ・小

J

11清 八 ( 久 里 浜 ) ・ 鈴 木 幸 次 郎 ( 葉111) ・高梨栄造( 葉山) ・幸市木盛太郎( 武 山 ) で あ っ た 。 こ の

6

名は,いずオ工も三浦郡を代 表する篤農家であった。

iijセ . 縞

(14)

第4表 「栽培

i

玄 域 予 定 表 」 に み る 三 浦 郡 の 町 村 別 栽 培 奨 励 作 物 一 明 治44年 ( 1911) 一

栽 培 奨 励 作 物 名 明 治27年 浦 賀 浦 郷l 久 祭!iそ 衣笠 葉 山 出 越 セエtゥュ@ 南下1 f tr 三 階 初 繋 長 井 武lね 中西i l Ij

大根 @ A A d邑 A @ @ @ @ @ @ A

英語辞 O 4弘 @ A A A

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胡 滋 萄 ( ニ ン ジ ン ) O A A A @ A @

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瓜i法 務 ( ジ ャ ガ イ モ ) A @ A @ @ @ A A

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慈 姑 ( ク ワ イ ) A 企 A

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援 ( ニ ラ ) A A A

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|]|セZヲエ (キャベツ) O

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務 菜 類

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A 4色 企 A 京 菜 小 松 菜 O

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( マクワウリ) 類

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茶豆

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十支大豆 A

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(トウモロコシ)

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浦 賀 町 郷 土 誌 ェ iセi N

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市農通知綴j 横 須 賀 前 史 編 さ ん 室 提 供 に よ り 作 成 )

法1)

hn

賀I l lT郷 土 誌 全j に よ れ ば

.

0

をイすした農作物のほか、 i明治

2

7

年 の 段 階 で は 以 下 の 作 物 も 栽 培 さ れ

て い たO 水協・

l

陸 稲 ・ 大 麦 ・ 小 麦 ・ 大 豆 ・ 小 豆 ・ さ さ げ ・ 粟 ・ 蕎 麦 ・ 菜 豆 ・ 誰 萄 ・ 〕 宇 菜 ・ 大 芹 莱 ・ コ

ンニャク・荘稜草( オ=ウレンソウ) ・結球山東出菜・三河島菜・自室・青草・朝鮮白菜・歎冬。

2

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ヲャ セvjRW j

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1

1

却の

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は , 明 治

2

7

年 の 浦 賀

I

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J

内 に お け る 栽 培 作 物 に 該 当 す る も の を 指 す 。

注3) ・ : 最 重 要 物 と し て 栽 培 奨 励 が な さ れ て い る 農 作 物 。

注4 ) ... :注3) に 次 ぐ 重 要 物 と し て 栽 培 奨 励 が な さ れ て い る 農 作 物 。

注5) ※ 史 料 中 に お い て 注3) と 注4) の表記がや

l

別困難なもの。

注6) 農 作 物 名 は 史 料1:1:1

における表記にしたがった。

ズボンに) 肉料・草履履きという服装に首から双眼

鏡をかけ, さらに

f

大時代が、った洋傘

J

を杖に

イャセェ

(15)

ったj と記されている45)。 明 治

3

0

年 代 か ら 大 正 初 期 に は , 先 進 地 域 か ら 栽 培 法 を 導 入 す る た め に , 上 記 の よ う な 三 浦 郡 有 力 者 数 名 に よ る 視 察 の ほ か, } 襲会の主催による農事視察が盛んに行われて いた。第

5

図 は , 明 治

3

4

年 か ら 大 正

5

年にかけて 実 施 さ れ た , 興 産 会 - 三 浦 郡 農 会 - 郡 内 各l町村j長

会 主 催 の 農 事 視 察 の う ち , 関 東 地 方 に お け る 視 察 に つ い て , 視 察 先 と 視 察 事 項 を 示 し た も の で あ る。

視 察 は , 各 町 村 の 篤 農 家 お よ び 農 会 役 員 の 計12

名から20名 前 後 で 行 わ れ る こ と が 多 か っ た 。 視 察 内 容 は , 各 地 の 篤 農 家 の も と で 推 進 さ れ て い た 疏

菜栽培- 苗木養成・家畜飼育の見学のほか,

試 験 場 ・ 農 林 学 校 - 品 評 会 の 見 学 な ど , 多 岐 に わ

写真1 石渡坦豊らによる千葉県への農事視察

一明治

3

4

i ! 三( 1901) 一

( 横須賀市立図書館所蔵『在渡坦豊{ 剖, 93ペ ー ジ よ り 転 載 )

注) 前列左から石渡寓吉・石渡坦豊・小Jlly青八。 後 列 中 央 が 高 梨 栄 造 ・ 後 初j右が鈴木盛太郎。

たっているD 直 接 的 な 農 業 技 術 の 導 入 に と ど ま ら ず , 藤 会 の 活 動 や 農 業 教 育 を 含 む 農 業 振 興 の あ り 方 を 見 学 し て お り , 三 浦 郡 の(j提業の発展に生かそ

うとしていることが注目できるO

こ れ ら の 視 察 地 域 は , 東 京 近 郊 や 東 京 へ の 出 荷 を 行 っ て い る 地 域 が 多 い 。 な お . iGAjセ TS

iセ J農 会 の 主 催 の も と , 篤 農 家12名が愛知県・におい

て 農 林 学 校 や 農 事 試 験 場 ・ 果 樹

l

1

.

名 古 屋 コ ー チ ン の 養 鶏 等 を 視 察 し て い る が , 当 該 期 の 愛 知 県 に おいては,鉄道を利用した名古屋市および大阪・ 東 京 ・ 兵 庫 な ど 各 地 へ の 農 作 物 の 出 荷 が 盛 ん に なっていた46)。 視 察 先 の 各 地 に お い て , 市 場 や 出 荷 方 法 ( 荷 作 り 等 ) を 克 学 し て い る こ と か ら も

三浦郡農会は. 東京なととの都市部への鉄道を用い

た 出 荷 を 志 向 し て い た と 考 え ら れ るO

こ こ で は , 詳 細 な 報 告 書47) が残されている大正

5年 の 三 浦 郡j設会第221m農事視察について.

J

実体 的にみていきたい。この視察では, 10 月271ヨより

5

自 問 の 日 程 で , 東 京 ・ 千 葉 ・ 埼 玉 ・ 神 奈 川 を 訪 れているO 参 加 者 は , 三 浦 郡 農 会 評 議 員

J

I

I

島 平 践 と 三 浦 郡 農 会 技 手)11北 不 二 雄 ほ か , 都 内 各 町 村 の 篤農家

1

2

名 の 計

1

4

名であった。

1

2

名の内訳は, EEJ

itit MM セi _ヲャャ

1 1

1奇町- 初声村・長井村- 武 1111寸からは1名ずつで あったが,浦賀町ーのみ白井太朗( 高坂) と青木! 1

f

t

治 ( 鴨 居 ) の

2

名が参加しているO 浦 賀 町 の 篤 農 家 の 農 業 へ の 関 心 の 高 さ が う か が え るD

報 告 書 に は , 視 察 内 容 が 国 と と も に 詳 細 に 記 さ れているO ここでは 次の

3

点 の 記 述 に 注 目 し た

'0

l 点 目 は , 初 日 に 訪 れ た 大 日 本 農 会 主 催 の 農 産 物品評会の記録で、あるO こ こ に は , 浅 草 清 水 商 庖 の 噴 霧 器 ・ 静 岡 県 各 種 製 茶 の 品 ・ 青 森 県 の り ん

ご・千葉県の梨- 埼玉県の柿・山梨県の葡萄など,

全 国 各 地 の 農 業 先 進 地 域 の 農 産 物 や 農 具 がi出品さ れていた。「視察報告

J

では 「各府県当業者ノ丹 精 ノ 結 果 」 を 集 め た も の で あ る た め .

I

ー ト シ テ 批 難 ス ル モ ノ ナ ク 」 と 評 価 さ れ て い るO そして, 三 浦 郡 よ り の 出 品 が な い こ と を 「 嘆 ジj つつも, 「 産 業 ノ 先 覚 者 タ ル ベ キ 吾 ガ 一 行 ノ 得 ル 所 大 ナ ル

(16)

-後五寺内容

i Q Aャセ`

量 統 楽 絞t音・IB木 裁ti:

ム後j J ま・3主主島 ⑤市場・Iili託手会

j食 事 試 験 場

iliJ矯

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L一一j

第5 12Q iiャ t jN STセ U

0901 セ@ 1916)

-a

新横須賀市史 資料編 近現代

IJ

所11又f白井竜太郎家文書

J

,横須賀市自然・ 人文博物館所蔵白井家文書により作成)

住) 1さl井家文諸: によって,詳細を明らかにできる視察のみを示したものであり, 当該販のすべての視察を網羅するものではない。

ヲ嬉ピ」と記しているO 大 正 初 期 の 段 階 で は , 三

ゥヲャセQZQ ャ ェ

品 し う る 水 準 に 達 し て い な か っ た こ と が う か が え るO そ の た め , 視 察 参 加 者 は 「 産 業 ノ 先 覚 者

J

iセi

の 農 業 技 術 を 導 入 し よ う と す る 強 い 自 的 意 識 が う かがえる。

2

点目として,

2

E

I

の埼玉県における長薯・ 慈 姑 の 栽 培 に 関 す る 記 述 に 注 目 し た い 。 ま ず , 北 足 立 郡 大 砂 土 村 に お け る 長 薯 栽 培 に つ い て は , 栽 培 方 法 の ほ か に 出 荷 用 の 包 装 方 法 が 図 示 さ れ ,

1

1

坂 路j の 項 目 で は 神 田 市 場 を 経 て 東 京 市 中 へ 販 売 さ れ て い る こ と が 記 録 さ れ て い るD その上で,

ェ QUセ

は 腐 植 質 壌 土 が 適 す る た め 「我ガ郡ノ地勢トシ テ 藍 ニ 以 テ 之 レ ニ 準 ス ル 事 不 可 能

J

と し な が ら も,

1

一 二 年 生 ノ 種 子 用 ノ モ ノj を 栽 培 す る こ と は難しくないとし,

1

吾 人 栽 培 上 ニ 得 ル 所 大 ナ ル ヲ喜ピ」と記されているD 先 進 地 域 を 参 考 に し な が ら , 三 浦 郡 に 適 す る 栽 培 ・ 出 荷 方 法 を 導 入 し よ う と し て い た こ と が う か が え る 。 続 い て , 向 日 見 学 し た 南 埼 玉 郡 柏111討すにおける慈姑栽培について は , 栽 培 が 容 易 で あ る と し

f

水 田 ノ 排 水 二 回 却 セ ル 本 郡 ノ 或 ル 地 方 」 の よ う な 地 で 試 験 的 に 栽 培 を 行 う こ と は 「 蕪 益 ニ 非 ザ ル 」 と 記 さ れ て い るO

参照

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