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Ⅲ 関 連 調 査 1  旧地 形 の地 質 構 造

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(1)

Ⅲ 関 連 調 査 1  旧地 形 の地 質 構 造

高松塚古墳が築造 されている基盤の地質について述べ る。明 日香村一帯 は奈良盆地の平地部の ように氷河時代 以降の完新統が分布せず、領家式花蘭岩類 の上 に部分的 に更新統 (更新世に堆積 した地層

)が

不整合 に重 なる。 こ のような現象 は桜井市 の栗原、倉橋、外 山、針道、明 日 香村 の島庄、橿原市 の新沢千塚 な どの発掘現場 で も観察 されている。奈良盆地 の南縁部では更新統が散点的に し か分布 しないが、金剛 山地の東麓・馬見丘陵 。矢田丘陵 の南麓か ら東麓 。平城 山丘陵・奈良市か ら天理市 にかけ ての東麓 と奈良盆地 を西か ら東 に取 り囲むように周辺部 に分布す る。今 回の調査 で も墳丘が築造 されている基盤 に更新統が確認 された。表土 に覆われているため調査時 に しか詳細 については観察す ることがで きないが、 この 層の下部の礫層 の続 きは、 当古墳西方の尾根部の路傍の 崖面 にみ られる。

A更

新統 につ い て

高松塚古墳 が築造 されている下方の旧水 田面付近 に更 新統の基盤 をなす風化 した閃緑岩が分布 し、 これを不整 合 に覆 う更新統 が丘 陵 の尾根部 に礫 層 ・砂 層 ・ シル ト 層・砂層 と重 なる。閃緑 岩 と礫層 とは不整合で接す るが、

礫層 。砂層・ シル ト層 の境 には不連続が認め られず、整 合である。各単層 はほぼ水平 に堆積 している。

基盤の閃緑岩

 

当古墳付近の基盤 をなす閃緑岩 は、飛鳥 地方 に分布 す る石造物 ・亀石 ・鬼 の俎雪 隠・石舞台古 墳 ・小谷古墳 ・丸 山古墳等 にみ られるような角閃石黒雲 母石英閃緑岩が風化 した ものである。 この石 は飛鳥地方 で石造物 あるいは建築用材 として多量 に使用 されたため か、露岩 として平地や 山地 に殆 どみ られない。 しか し、

道路拡幅のために消滅 したが、菖蒲池古墳 の南西方の小 川沿いには明治〜大正時代 にかけての頃の石切場跡があ り、丸山古墳南方の小 川 には露岩がみ られた。 また、益 田岩船 に登 る途中の左 手の檜林 中には明治〜大正時代 に かけての頃の石切場跡がみ られる。 この ように基盤 をな す角閃石黒雲母石英閃緑岩 は、風化 していない露岩がみ られる場所 もある。高松塚古墳付近では、西狽1の トレン チや当古墳西方の尾根部の崖面 にみ られるように風化 し ている。

〔角閃石黒雲母石英閃緑岩〕暗灰色を呈 し、黒色で レン ズ状 をなす変輝緑岩の捕獲岩を伴う。石英 。長石・黒雲 母・角閃石が噛み合っている。石英は無色透明、粒径が

3〜 4 mm、 量が僅 かである。長石 は灰 白色 、粒 径 が3〜

5 mm、 量 が非常 に多 い。黒雲母 は黒色・金色 、板 状 で、

粒径 が2〜 4 mm、 量が僅かである。角閃石 は黒色 、柱状

で、粒径が3〜5 mm、 量が僅かである。

礫層

 

基盤 をなす閃緑岩 との不整合面 は墳丘西端 に設け られた トレンチでみ られ、ほぼ水平 に礫層 と重 なる。礫 の長径 は不整合面付近の ものが大 きく、上部 になるにつ れて小 さ くなる基底礫層の産状 を示す。下部の礫種 は片 麻メ犬黒雲母花 筒岩・石英閃緑岩 。斑桐岩・変輝緑 岩が多 く、僅 か に細粒黒雲母花筒岩・粗粒黒雲母花筒岩等か ら な り、風化 している ものが多い。粒形 は亜角〜亜 円で、

稀 に、角が少 し円 くなった角礫 もみ られ、礫 の長径 は5

〜30cmの ものが多い。基質は粗粒 の閃緑岩質砂か らなる。

上部 になる と礫種 は変輝緑岩 と斑枢岩が多 くな り、石英 閃緑 岩・黒雲母花尚岩が僅かで、 アプライ ト・砂 岩が稀 となる。礫 の長径 は2〜7 cm、 粒形が亜角〜亜 円で、風 化 している ものが多い。基質は粗粒〜中粒 の閃緑 岩質砂 であ る。

〔構 成砂粒〕構成粒 は花両岩・石英 。長石 。黒雲母 ・角 閃石 か らな り、粒形が角である。花尚岩 は灰 白色、粒径

が0.3〜 2 mlll、 量が 中である。石英 。長石 ・黒 雲 母がか

み合 ってい る。石英 は無色透 明、粒径が0.2〜 l nlm、 量 が僅 かで あ る。長石 は灰 白色、粒径 が0.2〜 l mm、 量 が 中で あ る。黒雲母 は黒色・金色 、粒状 で、粒 径 が0.2〜

0.5mm、 量が僅かである。角閃石 は黒色、粒径 が

02〜

0.5

nlm、 量が僅かである。

下位 の砂層

 

礫層か ら砂層への変化 は、調査地 の西側で はほぼ水平で、礫が減少 し、粗粒砂か ら中粒砂へ と漸移 す るが、東側 の トレンチではかな り明瞭 に区分 され、層 面 は南西方向に微かに傾斜す る。上部では部分 的 に斜交 層理 (クロスラミナ

)が

み られ る。斜 交層理 か ら判 断す れば、砂 の供給 は北方か らなされている。砂粒 は閃緑岩 質砂 か らなる。上位の シル ト層 とはほぼ水平 に重 なるが、

明瞭 な境が認め られない。

〔構 成砂粒〕構成粒 は花 筒岩・石英 。長石・黒 雲母 ・角 閃石 か らな り、粒形が角である。花筒岩 は灰 白色、粒径

が0.3〜 2 mm、 量 が中であ る。石英 。長石 ・黒 雲母 がか

み合 っている。石英 は無色透明、粒径が0.2〜0。7mm、 量 が僅 かである。長石 は灰 白色、粒径が0,2〜0,7mm、 量が 中で あ る。黒雲母 は黒色 。金色、粒状 で、粒径 が0.2〜

(2)

̀i:::::::::::::::::::::::滋

 

離華韓 シル ト層

│:i::I::砂

!::::::礫

臣夏日

]閃

緑岩

喜封華 墳丘の残存盛 り上

│コ

ヨ 亘 E石 柳

0.51nln、 量 が僅 か で あ る。角 閃石 は黒色 、粒 径 が0.2〜0.5

411n、 量 が僅 か であ る。

シル ト層

 

色 は黄灰色 で、層理が認 め られ ない。 シル ト 中 に は砂 壮 が含 まれ る こ とか ら砂 質 シル トであ る。東 方 の トレ ンチ で は この シル ト層 中 にス ラ ンプ招 曲 を もつ 幅 が

2m程

の砂 層塊 が み られ る。砂 層塊 の招 曲軸 が南東 ― 北 西 で、 南側 で は この単層 の末端が欠如 してい る。層 理 面 に は褐鉄 鉱 が沈着 して、縞模様 をなす。砂粒 は中粒 〜 粗粒 の閃緑 岩 質砂 か らなる。砂層塊 の形状 か ら北東 方 向 か らの供 給 が推 定 され る。

〔シル ト中の砂粒〕構成粒は石英 。長石・黒雲母・角閃

Flg 34  高松塚古墳墳丘付近の基盤の地質図

石か らな り、粒形が角である。石英 は無色透明、粒径が

0,2〜0.511m、 量が僅かである。長石 は灰 白色、粒径が0.2

0.7nun、 量が非常 に多 い。黒雲母 は黒色・金色 、粒状

で、粒径が0.2〜0.5nun、 量が僅かである。角閃石 は黒色、

粒径が0.2〜0.511ull、 量が ご く僅 かである。

上位の砂層

 

下位の粘土層 とほぼ水平 に重 なる。層理が 顕著で、層理面に褐鉄鉱が沈着 し、縞模様 をなす。砂粒 は中粒 〜粗粒 の閃緑岩質砂 か らなる。

〔構成砂粒〕構成粒 は花 商岩 ・石英 ・長石・黒雲母・角 閃石か らな り、粒形が角である。花 聞岩 は灰 白色、粒径

が0.3〜 2 mal、 量が中であ る。石 英 ・長石・黒雲母 がか

‑38‑

(3)

日g.35  領家式花筒岩類の基盤を不整合に覆う礫層 み合 ってい る。石英 は無色透 明、粒 径が0.2〜 0.伽m、 量 が僅 かである。長石 は灰 白色 、粒 径 が0.2〜0.7mm、 量が 中であ る。黒雲母 は黒色 ・金色、粒状 で、粒径 が0.2〜

0.511m、 量が僅 かであ る。角閃石 は黒色、粒径が0.2〜0.5

mm、 量が僅 かである。

東方の トレンチにみ られるス ランプ招 曲をもつ砂層塊 は、砂粒構成・層理・褐鉄鉱の沈着 の様子が上位の砂層 と似 ていることか ら、上方の砂層の一部が水底で地辻 り した と考 え られる。一部か らの判 断で しかないが、更新 統の砂層 と粘土層の境がほぼ水平であ り、盛 り上後 に形 成 された断層 はみ られるが、それ以前 には地殻変動 によ る変形が ない と考 え られることか ら、ス ランプ堆積物 は 構造的上位の砂岩が堆積 している柔 らかい時 に形成 され たと考 え られる。

B墳

丘 下 の 旧地形

墳丘の盛 り土 と基盤の接触部 は、西側では礫層 と盛 り 土の粘土質土、北側や東側 では砂層 と盛 り上 とが接 して お り、 この境 に炭質物層や旧表土の クロボク層 な どが認 め られない。旧表土が認め られない ことか ら、旧地形の 表土 は削 られていると推定 され る。古墳 の築造時期 は異 なるが、都介野の三陵墓西古墳 では旧地形の上面 に形成 された クロボク層、その上面 に灌木 の炭片が混 じる層が あった。焼土層 の上面 に墳 丘 の盛 り土が なされていた。

墳丘 を築造す る時に生 えている灌木等 を焼いたことが窺 え、表土 を剥 ぐことな く、盛 り上が積 まれている。当古 墳 に近 いマルコ山古墳やキ トラ古墳 では、風化 した角閃 石黒雲母石英閃緑岩 と墳丘の盛 り上が直接接 しているこ とか ら、高松塚古墳 と同様 に旧地形 の表土 を削 っている と推定 され る。周濠部 は盛 り上面 よ りも低 くなるため、

旧地形 を掘削 していることは言 うまで もないことである。

g36 

更新統の礫層と墳丘の盛り上

C旧

地 形 の地 質

更新統の礫層 の礫種 には変輝緑岩や斑枢岩が多 く含 ま れる。 当古墳 は高取 川流域 に位 置 し、 この流域 には斑 掘 岩や変輝緑 岩 が殆 ど分布 しない。 また、東方 の飛 鳥 川流域や西方の曽我川流域 にも斑楯岩が分布 しない。近 辺で斑楯岩や変輝緑岩が広 く分布する地域 としては、桜 井市 の音 羽 山か ら高家付近 にか けての地域 が あげ られ る。 また、礫層 中の斑糎岩・変輝緑岩礫 はこの地域 に分 布す る斑編岩 。変輝緑岩の岩相 に似ていることか ら、桜 井市の南部付 近か ら礫 が供給 された と推定 される。また、

斜交層理か ら判 断すれば、古流 向は北方か らの流れが考 え られ る。現在 の地形 で は南 方か ら河川 に よ り土砂 が 供給 されてい るが、大 阪層群 が形成 されていた更新 世 (IUGS2004に よれば180万 6千年〜11,500年

)の

前期 には、

東方か らの河川 の流れがあった と推定 される。更新世後 期 となれば奈 良盆地 に湖が生 じ、 田原本町付近 を中心 に

泥炭層 (25,000年前頃

)が

形成 されている。 また、河川の

流れ も現在 とほぼ同 じ方向であった と推定 される。

高松塚古墳 の墳丘 は丘陵の傾斜地 を利用 して築造 され ている。 この基盤 をなす旧地形 は人為的に削 られている 可能性 は十分 に推測 されるが、削剥の量 については推測 しがたい。今 回の調査 で更新統 と閃緑岩の不整合面 は比 高的に当古墳 の南方で耕作 されていた田の面の少 し上方 に相当す ることが明 らかになった。

高松塚古墳が築造 されている丘陵には、領家式花尚岩 類 に属する角閃石黒雲母石英閃緑岩が風化 した基盤を不 整合に覆 う更新統の礫層 一砂層 ―シル ト層 ―砂層がほぼ 水平に堆積 している。 このような地質構造の地に高松塚 古墳の墳丘が築造 されている。

(奥田 尚)

(4)

2  墳 丘 の土 質・ 地 盤 調 査

A.不 鵜乱試料の採取と墳丘上の上質特性

古墳壁画の緊急 お よび恒久保存姑策 に向けて、古墳墳 丘土の力学特性 を把握す るために、Fig 37に示す石室 ま わ り3ケ所 において、石室周辺の墳丘土お よび版築 の不 攪乱試料採取 を実施 した。緊急保存対策の一つ と して、

雨水の浸透 を防 ぐ目的で行 われた遮水 シー ト設置のため に、墳丘一面 に繁茂す る竹 を伐採 した。 したが って試料 採取時点では、墳丘上 は植生の全 くない状態 になってい た。通常のボー リングであればマ シンを地面 に置 き、場 合 によってはア ンカー等で反力の増大 を図ることもある が、今 回は版築や封土 などの遺構面上へ の重量機材 の設 置 による遺構損傷 の可能性 と、ボー リングマ シ ン動作時 の振動が漆喰の剥落 を誘起する可能性 を勘案 して、以下 に示す ような非常 に特殊 な方法で作業 を進めた。

g37 

高松塚古墳の平面図と試料採取位置

鋼製単管パ イプ組構造で構築 された屋根付 きの仮 覆屋 か ら鋼製単管 を仮覆屋基礎支柱か ら組み上げ、所定 の位 置 に一般土木資材 として用 い られる35Hlm× 250111m× 3000

111mの鋼製足場板 を片持梁型 に構築 し、試料採取用 のボー

リングマ シンをその足場上 に設置 した。つ ま り、 ボー リ ング作業時 に必要 とす るすべての反力 を、仮覆屋 の大屋 根 を支 える支柱か ら得 る構造 とし、墳丘地 山 とは全 く接 しない ように した (Fig 38)① この ように して、サ ンプ リ ング時の重機 による墳丘への直接的なダメー ジを防止す る措置 を講 じた。

試料採取 にあた り、版築が土質分類上、細粒分混 じり の砂 質土であることか ら、三重管式サ ンプラーを使用 し、

Fig 38  試料採取に向けた足場の設営状況 (墳丘と石室への影響を 避けるために古墳全体を覆う仮覆屋基礎から組み上げている)

外 管 に よって掘 削 しなが ら内管 に試料 を収 め る方法 を採 用 した。 また、掘削時 のマ シ ンの振 動 に よる漆 喰 の剥落 を防止す るため、通常用 い られ るデ ィーゼルエ ンジ ン式 で はな く、電気 モー ター式 のマ シ ンを使 用 した。さ らに、

墳 丘 内部 の水 み ちの存在 を考慮 して、掘 削 にあた り、泥 水 に代 えてエ ア コ ンプ レ ッサ ー に よる圧 縮 空気 を用 い る こととした。掘進速度は遭遇する土質にも依存するが、

2.0〜3.5cm/秒であ り、掘削時の空気圧の大 きさはおよ そ147kPaで あった。サ ンプラーは掘削口径が ψ105111mの 三重管 タイプのものを使用 し、試料 を採取する内管には

φ65nllnの塩化 ビニル管お よびφ7511mの透明アクリル管を

用いた。

g39 

採取試料 か ら作成 した各孔 の上 質柱 状

‑40‑

(5)

騨 瀞

犠 穐 訂 夢

B 平 均 密 度 (g/9f)

14    16    18     2

12 0「

平 均 密 度 (g/Cma) 14    16    18     2

10 20

平 均 密 度 (g/Cm3)

14   16   18    2

Flg 40 墳丘 か ら採取 した版築部の試料 とその密度 ス キ ャニ ング 結果 (B12:Bl孔版築試料、B22:B2孔版築試料、

B‐3‐3:B‐ 3孔版築試料)

01        1 粒 径(mm)

Fig 41 墳丘から採取 した試料の粒径加積曲線

Fig.37においてB‑1、 B2、 B‑3で示す 3ヶ 所 か ら採取 した試料の 目視観察 によって作成 した柱状 図をFig 39に 示す。すべ ての孔で版築層の下位 に存在す る地 山層 (風

化花商岩層

)を

確認 してい る。地 山は北東か ら南西 に傾 斜 してお り、北側のB‑2孔では版築層厚が小 さ く、標高 の下が る谷狽1に設置 されたB‑1孔で は墳 丘層厚が大 き く なっている。各孔か ら採取 した代表的な版築層の コア試 料 をFig.40に示す。

3孔

ともにFig.39に おいて「版築」

に分類 された部分を取 り出して示 してあるが、色調の違 いが層状に現れてお り、数センチ厚に散 き出した土を突

ω

含e 鍵 巳

含e 瀧 里

ω

曾e 瀧 留

‑0810m

‑1920m E‑29‑30m

 3940m

‑4546m

‑55‑56m 59‑60m

p

B‐

‑08‑10m

‑19‑20m

引⊃‑29‑30m

3  39‑4 0rn

‑08‑■Om

‑ 19‑201n

―コ29‑30m

‑395‑40m

‑49550m

電 謂

騨 舒 恥

3‐3

(6)

0

含 水

̀ヒ

ψ(%) 5  10  15 20 25

7kJ七"(%) 5  10  15 20 25 30

含 水 ナヒ"(%) 5  10  15 20 25

土 壊 化 し た

版 築 1

土 壕 化 した 版 築

自然 Itt積*

簿味烹

風 化 マ サ土 (地 山)

自 然 堆 積 土

自然 堆 積 土*

風 化 マサ 土 (地 山)

風 化 マサ土 (地 山)

涌O 捕驚 軍ヽ 辛 

?距譲綬烹

=所 ,離 *カレト混 四 細 砂 で 水 性 堆 積 土

=聯 l;瑚

*シレ ト混 卿 細 砂 で 水 性 堆 積 上

=群 ,離 *)レ ト混 凹 細 砂 で 水 性 堆 積 土

Fig 43  墳丘部におけるRI湿潤密度検層結果

粒径加積 曲線 をFig,41に示す。既 にFig.40において明 ら か な ように、 同一 の版築 層 であ って も密 度 に高低が あ り、Fig.41に示 した ものが必ず しも

lmの

コア全体 を代 表す る とい う位置づ けで はないが、各孔各深 度 ご との 土 のお よその粒 度 を知 る こ とが で きる。版築 に使用 さ れた土 は細粒 分 を多 く含 み、突 き固め、乾燥 に よって 固結度 を増 して墳 丘 の安 定 に寄与 してい る もの と考 え られ る。 いず れの試料 も「版築」 に分類 され る上部深 度か ら採取 された ものに細粒分含有率が多 く含 まれる傾 向があ り、B‑1やB‑2で は75μ

m以

下の含有率 は

20%を

=聯 ,離 レト混 凹 細 砂 で 水 性 堆 積 土

=3と ,離

*)レ ト混 じ り細 砂 で 刑 と堆 積 土

=き ,離 *ンレ ト混 じ り細 砂 で 水 性 堆 積 土

湿 潤 密 度 ■(ynn3) 1 2  14  16  18   2

き固めたことによって生 じる版築の縞模様が明確 に判別 で きる。 それぞれの写真 に試料 をRI密度 ス キ ャニ ング した結果 を併せ て示 しているが、約5 cmごとの密度の変 化が深度方向に繰 り返 し現れていることがわか る。 これ は、撤 きだ した土 を突 き固めている際 に分級化 を起 こし た こ とに よって密度差が生 じたため と考 え られている。

一方、版築構築時における突 き固めエ ネルギーの深 さ方 向へ の伝播 の不均質の影響 も考 え られ、古墳 の版築構造 のメカニズムについて今後の検討が必要であ る。

lmご

との採取試料 の先端部分の土 を用 いて実施 した

g42 

墳 丘 部 にお け るRI含水 比 検 層 結 果

湿 潤 密 度n(yll13) 1    1 2  14  1 6  1 8   2

土 嬢 化 版 築

した

1

湿 潤 密 度A ct/1n3) 1   1 2  1 4  16  1 8   2

土 壊化 した 版 築

風 化 マサ土 (地 山)

自然 堆 積 土*

葬 ⊇

〆 ヽ す

│   │   IB‐3

(7)

1

3

B‐1 P波

速度(lr s)

0     500 viポアツン比 Eiヤング率 G:同性率

土層 区分

600

4 0 0

200

土 嬢化 した 版 葉

v:0471 E:21ヽIPa

Ci72 MPa

v:0479 E:284ヽlPa

C:96 MPa

v:0478

E:57 2 avIPa

C:194 MPa

v:0456 E:213 MPa C:731 MPa

自然 雄積土 v:0442

E:390ヽIPa C:135 MPa

風化 マサ土 (地山)

*ン ルト混 じり細砂 で水性堆積土

︵E ︵日

︵日

えている。一方、深度が増 して地山近 くになると風化花 尚岩系 の砂分が卓越す る材料 になって くる。

B.墳

丘 の地盤物性 を調査 す る原位置試験

墳丘の原位置含水比測定

 

前項で説明 したように、石室 の東、北、西側の3ケ所で試料 を採取 した。その孔 を用 いてRI水分計 に よる墳 丘 の合水比 のモニ タリングを実 施 した。試料採取点B‑1、 B‑2、 B‑3に外径114mmの 塩化 ビニル管 (VP‐100)を 設置 し、同孔 を利用 してつ り下げ 式 のRI水 分計 に よる墳 丘の原位置含水比、お よび湿潤 密度の検層 を実施 した。高松塚古墳 のある地点の地下水 位 は低 く、塩化 ビニル管の内部 には子と内水位 は認め られ ない。 したがって、検層プローブは全工程 にわたって非 水浸状態で測定が行 われた。Fig.42に各 ボー リング孔 ご との墳丘の含水比の深度方向分布 を、Fig,431こ同孔の湿 潤密度分布 を示す。青線 は発掘終了に伴 って行 われた墳 丘の埋戻時 (2005年 3月14日)│こ実施 された検層結果であ り、赤線 は入梅直前 の2005年6月 7日 に実施 された結果 を表 している。各孔 ともに墳丘浅部で合水比が相姑的に 高 く、深 くなるに したがってその値が漸減す る傾向を示 している。当然、湿潤密度については含水比 と全 く逆の 傾向を示 し、深部ほ ど高密度状態 となっていることがわ かる。

いずれの孔 も含水比 は10〜20%の範囲に、湿潤密度は

g44 

墳丘におけるPS速 度検層試験結果

1.2〜18t/maに収 まってお り、平均 的な含水比 は

15%前

後 であることが わか る。 また3月 か ら6月 までの3ケ月 間の含水比 はほぼ一定に保 たれてお り、変化 していない。

PS速

度検層試験

 

今 回の発掘調査 によって古墳 内部 に 地震の痕跡 と思われる多数の地割れが見つかったことか ら、高松塚古墳 の恒久保存対策の一部に、耐震性 という 要因を加 えない といけないことがわかった。

このため、RI水分量検層 に用 いたボー リング孔 を利 用 して

PS速

度検層 を実施 し、墳丘 内 を伝播す る弾性波 (P波 、S波

)速

度の震度方向分布 を測定 し、RI検 層 によ って測定 した密度値 を用いて地盤の剛性率 とポアソン比 を求めた。弾性波の発生 は、

P波

については地面 に置い た鋼板 を垂直 に打撃す ることによ り、 また

S波

について は板 叩 き法 によって行 った。

PS速

度検層試験 によって 得 られた結果 をFig.44に示す。

高松塚古墳 の周囲の地下水位 は風化花商岩の地山内部 にあるので、墳丘全体 は地下水位以上にあ り、不飽和状 態 となっている。 このため、Fig.43に示 したP波の値 は 不飽和 の影響で非常 に小 さくなっている。一方、

S波

に ついて も、3孔ともに風化花尚岩の地 山部でかろ うじて 200m/sを記録す るが、版築部では70〜160m/sと か な り 低い値 を示す ことがわかる。

1

B‐2 P波速度

(m/ゞ

0      500 v:ポアツシ比 E:ヤング率 Ci岡1性

上層 区分 S波 速度(m/s

200  400  600

土嬢 化 した 版 築

A v:0488 E:21ヽlPa

C:71 MPa V:0478 E:824 MPa G:279ヽCPa

ヨ然堆積土*

MP MP

45 49 20

風化 マサ土 (地)

B

V :0486

AユiE:107 MPa C:36 MPa V i0 450 B・:E:357M随

C:123 MPa

*シルト混じり細砂で水性堆積土

I

B‑3 一 ―一 P波 速度(m/s

)     500 v:ポフ ツシ比 Eiヤング率 G:伺1性

土層 区分 S波

腹度(l■ S

)  200  400  600

版 築

v:0495 E:32ヽIPa C:1l MPa

0 4 5 6

︲ 0 8 中 M P a

  v:0414

E:321 MPa C il14 MPa

自然 堆積土*

0415 537 MPa 190 MPa

風化 マサ土 (地)

×

キシルト混 じり組砂 で水性推積土

(三村 衛 ・石崎武志)

(8)

3  地震 の痕 跡 につ い て

平成16年度 に実施 した高松塚古墳 の発掘調査 におい て、墳丘 を刻む複数の亀裂が発見 された (Fig 45)① この 中で、断割 トレンチの西壁、お よび南壁 で確認 された亀 裂 をFig.46〜48に示 した。

トレンチ西壁 では、最大幅5 cmの亀裂が少 な くとも1

m25cmの

深 さまで観察 された (Fig 47)。 この うち上部の 深 さ30cmま では、亀裂の形態が不明瞭だが、それ よ り下 方では墳丘版築層 との境界が鮮 明で、亀裂の内部は版築 層上部か ら流れ込んだ と考 えられる柔 らかいシル ト(わ

ずかに極細粒砂を含む

)で

満たされていた。

Fig.47にみ るように、 この亀裂は トレンチ底面でほぼ 東西方向にのび、壁面か ら40cmの位置で消滅す る。 また この亀裂 に雁行 して西北西一東南東方向にのびる最大幅 7 cmの亀裂があ り、 この断面 をFig 48に示 した。Fig.48 の版築層 は、上か らシル ト層 (層8 cm以)、 層厚3 cm

で細礫 を含 む粗〜中粒砂層、層厚5 cmの粗〜中粒砂、層 厚7 cmのシル ト層、層厚5〜6 cmの粗〜 中粒砂、層厚14 cmのシル ト、層厚最大3 cmで東 に向かって薄 くなるシル ト〜極細粒砂、 シル ト層 (層厚Hcm以上

)と

なるが、亀 裂 を境 に して南西側の地層が相対的に約3側低下 してい る。亀裂の内部 は、Fig.47と 同様 に柔 らかい シル ト(わ

ずかに極細粒砂を含む

)で

満たされている。

一方、昭和47・ 49年 にお こなわれた発掘調査時 にも、

Fig.49の写真 (昭49年撮影

)に

みるように、墓道東壁の 版築土層 を引 き裂 く明瞭な地割れの痕跡が認め られてい る。当時の土層断面図を参考に してFig.50を作成 したが、

地割れの上端 は幅14m、 そ こか ら2.5m下の床面付近で は幅 約 60cmと 、 下 に 向か って や や狭 くな って い る。

Fig.49での版築層は、上半分 (I層 とする

)が

褐色のシル ト、下半分 (Ⅱ

)が

白〜薄褐色 の シル トで、両者の境 界は写真か らも区分が可能である。 Ⅱ層上端の食い違い か ら判断す ると、地割れの内部で版築層が約30cm低 くな っている。地層が2カ所で切断 されて地割れが形成 され、

内部が陥没 した もの と思 える。 この陥没 は墓道 に直交す るように東西方向に続 き (Fig 51)、 調査 区西壁 の土層断 面 に至 る (猪熊兼勝「特別史跡 高松塚古墳保存施設設置に伴

う発掘調査概要」『月刊文化財』第143号1975年)。

その他、石室天丼石の南第 1石 と南第2石については、

南北 に亀裂が生 じて 2つ に割れていることがわかってい る (文化庁『回宝高松塚古墳壁画一保存と4笏理―』1987年)。

Fig 45  亀裂の確認地点 (赤矢印の部分でFlg 47・ 48を作成)

g46 

断割 トレンチの亀裂の違景

g47 

トレンチ西壁における亀裂 とその断面・平面図

Flg 48  トレンチ南壁における亀裂 とその断面図

(9)

949 

墓道部の東壁写真 (昭49年撮影)

g50 

墓道部東壁 の地割 れの痕跡

(太線に沿って地層が切断されている)

951 

墓道部の地害Jれの断面・ 平面模式 図

(地割れの内部を ドットで表示)

原 因 とな った地震

高松塚古墳 の墳丘 に地割れ・亀裂が刻 まれた原因 とし て、最 も可能性が高いのが地震 に伴 う激 しい揺れである。

古墳 の ような高 ま りに強い地震動が加 わった場合、墳丘 の盛土が引 き裂かれて地割れや亀裂が生 じる ことが多 い。 さらに地変が進む と、墳丘の一部が地滑 りによって 滑 り落ちる。

高松塚古墳が位置す る奈良盆地の南部は、高松塚古墳 が築かれてか ら現在 にいたるまでにも、地震 による強い 揺れを数多 く家っている。特 に、 日本列島の太平洋海底 に位置す るプ レー トの境 界 (南海 トラフ

)か

ら発生す る 巨大地震である南海地震・東南海 (東

)地

震 によって、

気象庁 の震度階級で 5強 か ら6弱程度の地震動 を繰 り返 し受けている。

記 録 か らわか る南 海 地震 の発 生年代 は、 昭和21年

(1946)、 嘉永7・ 安政元年 (1854)、 宝永4年 (1707)、 慶 長 10年 (1605)、 正平 16年 (1361)、 承徳3。 康和 元年

(1099)、 仁和3年 (887)、 そ して F日本書紀』 に記 され た天武13年 (684)で ある。東南海 (東

)地

震 について は、昭和19年 (1944)、 1854年 (南海地震の前日)、 1707年、 1605年 、明応7年 (1498)、 嘉保3・ 永長元年 (1096)に 発生 している。

最近では、遺跡で検出される地震痕跡 を用いた「地震 考古学」の成果か ら、 これ まで南海地震の記録が無かっ た明応7年 (1498)頃 や西暦1200年 前後 に も南海地震が 存在 したことが示 されている。 また、古墳 ・弥生時代 に も南海地震 。東南海 (東

)地

震の可能性 のある地震痕 跡が認め られている (寒川 旭「地震考古学

 

遺跡が語る地 震の歴史」中公新書、1992年。同「地震考古学に関する成果の 概要」『古代学研究』150号、2000年。同「地震

 

なまずの活動 史」『日本を知る』大巧社、2001年。埋文関係救援連絡会議・

埋蔵文化財研究会編「発掘された地震の痕跡」1996年など)。

それを年表 にまとめたのがFig 52である。

これまでの多 くの事例か ら考 えると、南海地震は東南 海 (東

)地

震 と連動す る形 で、 ほぼ同時、 または2年 以内に発生す る可能性が高い。その中で、南海地震が小 さい ときには東南海地震 と、大 きい ときには東南海地 震 。東海地震 と運動す る傾向がある。ちなみに最近の場 合では、1946年 の南海地震 は地震規模が

M(マ

グニチュ ー ド)8,0と小 さく、1854。 1707年の南海地震 (M84前 後)

(10)

は地震規模 が大 きか った。 と りわけ、1707年 は東海〜南 海地 震 が全 く同時 に発 生 し、 1854年 は安 政 東 海 地震 (1223日

)の

翌 日に安 政 南 海 地震 が発 生 して い る (江戸時 代以前では東海地震 と東南海地震を合わせて東海地震 と表現す ることが多い

)が

、 この2例の場合 、 高松 塚 古墳 周 辺 で の震 度 は6弱に達す る可 能性 が高 い。

一 方、有史以 降 に関西 を襲 った内陸地震 の中で最大規 模 で あ る文禄5・ 慶 長 元 年 (1596)の伏 見 地 震 は、 大 阪 平 野 の北縁 を限 る有馬 ―高槻構 造線 活 断層系 や淡路 島の 東 浦 ・野 田尾・ 先 山 な どの活 断層 (おそ らく六甲断層系の 全部または一部 も含めて

)が

活 動 した もの で、

M8近

い地 震規模 を持 つ ため、京 阪榊 ・淡路 地域 に は顕著 な地変 と 被 害 が生 じてい る (地質調査所 「平成7年 度活断層研究調査 概要報告書」『地質調査所研究資料集No259』 1996年)。 しか し、

震 源域 か ら少 し離 れ た高松 塚 古墳 周 辺 地域 で は震 度5程 度 の揺 れ とな って い る (宇佐美龍夫 『最新版

 

日本被害地 震総覧141旬 ‑2001』 東京大学出版会、2003年)。

このため、年代 は特 定で きないが、高松塚古墳 が築造 され て か ら後 の南 海 地震 (東海地震 も含めて

)に

よって、

墳 丘 の地割 れ,亀裂が刻 まれ た可 能性 が 高 い。

地震 で変形 を受 けた古墳

奈 良県 内で も、古墳 で地震 の痕跡 が検 出 され た事例 が あ る。

天理市 の黒塚古墳 で は、石室 を構 成す る石材 の一部が 放物線 を描 くよ うな形 で石 室 の空 間 に落 下 してお り、水 平 方 向の大 きな揺 れが加 わ った こ とが考 え られ る。 この 原 因 と して、 南 海 地震 (東海地震

)が

考 え られ るが 、 鎌 倉 時代 に盗掘 が試み られた際 に既 に大量 の石材 が落下 し て いたので、それ以前 に発生 した地震 に よる崩落 である (奈良県立橿原考古学研究所 『黒塚古墳』学生社、1998年)。

天理市 の赤土 山古墳 の場合、墳 丘が複 数の地滑 りに よ って崩れ落 ちてお り、後 円部が四角 く見 えるほ ど墳 丘 の 形態 が変化 してい る。 また、地滑 りで滑 り落 ちた側 に位 置す る朝顔 形 お よび円筒埴輪 列 も、 本 来 の位 置 よ りは る か に低 い位置 で検 出 されてい る。発掘調査 の結 果、鮮 明 な滑 り面 (そこを境 に して滑 り動いた境界線

)が

見 られ 、 墳 丘 には多 くの亀 裂 が生 じてい た。 地滑 りは複 数 回発 生

してい るが、最初 の大 きな地滑 りは、古墳 が築 かれた古 墳 時代 前 期 末 なの で、 当 時 の南 海 地 震 (東海地震

)に

よ る可 能性 が高 い (天理市教育委員会 『史跡赤土山古墳

 

4

南海地震 東海地震

東 南 海 地 震

 

東海 地 震 日

952 

南海地震 と東海地震の発生年表

(西暦は史判から求めた発生時期。縦線は遺跡から 検出された地震跡の年代幅を示す。1〜23は遺跡名)

1アゾノ

 2船

 3宮ノ前 44申 宅 5古 6中島田 7黒 谷川宮 ノ前 8小阪邸跡 9池島福 万寺 10石津太神社 11藤 並 12箸尾 13)‖ 辺 14東畑廃寺 15尾張国府跡 16門 間沼 17地蔵越 18田 19御殿 二之宮 20袋井宿 21坂 22上± 23)II合

 

年表 中の0印は赤土 山古墳

953 

カヅマヤマ古墳 の地割 れ跡

(石室の床面が引き裂かれ、手前側が下降している)

樹羊±

07響

開 7上 ド

1944而 1854‑

1707

∝ 4ギ ド

冊 百軍

鮒 再 ド

‑46‑

(11)

次〜第8次発掘調査概要報告書』2003年)。

その他、明 日香村 の酒船石遺跡では、斉明天皇が築い た石垣が、達磨落 としの ように崩れ落ちた状態で検 出さ れた。滑 り落ちた石垣の背後 には花筒岩の地山に達す る 地割れ (最大幅7 cm、 深さ

3m以

)が

検 出 された。崩 れ 落 ちた年代 は、『 日本書紀』 に書かれた天武13年 (684) 12月の白鳳南海地震 による可能性 が高い (相原嘉之「飛 鳥地域における地震の痕跡

 

酒船石遺跡 と白鳳南海地震」『古 代学研究131』 1995年)。

2005年 度 には、 明 日香村教育委員会 が実施 した カヅマ ヤマ古墳 の発掘調査 で、墳 丘が石室 の南半分 も含 めて大 き く崩 れ落 ちた顕著 な地滑 りの痕 跡 が検 出 され た (Fig 53)。 こ れ は13世紀 頃 の 大 規 模 な 盗 掘 後 の 南 海 地 震

(1361年の正平南海地震

)に

よる可能性 が高 い。

最近 で は、活 断層 か ら発 生 した大 地震 に よる古墳 の変 形 も確 認 されて い る。有 史以 降最大 規模 の 内陸地震 で、

大 阪平 野 の北縁 を限 る有 馬 ―高槻構 造線 活 断層系 か ら発 生 した1596年 の伏見地震 で は、今城塚古墳 や西求女塚古 墳 の墳 丘 が大 き く崩 れ落 ちた こ とが発掘 調査 に よって明 らか に され た (寒川 旭 。宮崎康雄「今城塚古墳で認め られ た地滑 りの痕跡J『日本文化財科学会第18回大会研究発表要旨 集』2001年 。 高槻市教育委員会『史跡・今城塚古墳

 

平成12 年度・第4次 規模確認調査』2001年 。神戸市教育委員会『西求 女塚古墳

 

発掘調査報告書3』 2004年)。

現 代 の地震 につ いて は、 1927年 に丹 後半 島 を襲 った北 丹 後 地 震 で、 震 源 とな っ た活 断 層 (郷村断層

)周

辺 の丘 陵上 に築 か れ た京丹 後市 網 野 町の ス ガ町古墳 群 や大宮 町 通 り古墳 群 の墳 丘 が 、地滑 りや 地割 れ (Fig 55)で 変形

した こ とが、京都府埋 蔵文化財調査研 究 セ ンターの発掘 調 査 で 明 らか になって い る。

これ か ら起 きる大型地震

南 海地震 は21世紀 前 半 に発 生 す る と考 え られ て い る。

次 回 は東海地震 ・東南海地震 。南海地震が運動す る可能 性 が 高 く、 地 震 規 模 が 比 較 的小 さか っ た 昭和 南 海 地 震

(M80)を

は るか に上 回 る と考 え られ て い る。 つ ま り、

1854年 の安政南海地震 。1707年 の宝永地震 の ように地震 の規模 がM8.4〜8.6と な り、 高松 塚 古墳 の周辺 地域 も最 大 で震 度6弱程 度 の揺 れ を家 る可 能性 が あ る。

また、南 海地震 〜東海地震 が発生す る前 の数10年 前後 の期 間は、様 々な タイプの地震 (兵庫県南部地震のように 活断層か ら発生する地震など

)が

多 く発 生 す る 「地震 の活 動期 」 と言 われ てい る。近 畿 地域 も兵庫 県南 部 地震 を皮 切 りに、 この時代 に入 ってお り、既 に10年 が経 過 してい る。 このため、南海地震が発生す る まで に も、高松塚古 墳 の近 隣で比較 的小 さな内陸地震 (M6クラス以下

)が

きる可能性 も否定で きない。

日本 の誇 る大切 な文化遺産 であ る高松塚古墳 の保存 を 考 え るにあ た って、 これか ら地震 が多 くな り、南 海地震 な どの 巨大地震 の発生が確 実視 されてい るので、地震ヘ の備 えを十分 に考 える必要が あ る。 また、 巨大 地震発生 の場合 、奈良県南部 も含 めて広 い範 囲で水平方 向の大 き な揺 れが長 く続 くこ とが予想 され るが、高松塚古墳 だけ の問題 で な く、多 くの市民 の生活 を守 る とい う観点 か ら も、 これ まで に検 出 された地震 の痕跡 を地震 災害 の軽減 に向 けて十分 に生 かす こ とが大切 であ る。

(寒川 旭)

954 

西求女塚古墳の地滑 り跡 (石室の右半分が約2m低)

g55 

スガ町古墳群の地害!れ(主体部が引き裂かれている)

(12)

石 室 の 測 量 調 査

I.調

査 目的

高松塚古墳 の石室 については、壁画発見時の昭和47年 の実測図が唯―の ものであったが、 これは平面直角座標 系 第Ⅵ系 (日本測地系

)を

用 いた実測ではなかったため、

保存施設建設 による墳丘の変容 と当時の基準点の亡失に よ り、石室の位置関係が不分明 とな り、正確 な石室位置 を特定で きない とい う問題点が生 じていた。

平成15年に実施 した文化庁の墳丘測量では、 この問題 を解消すべ く、

 

トー タルステー ションを用いて石室北壁 の一部 を計測 し、石室位置 と方位 を求める測量調査 をお こなっている (日本測地系)。 しか しなが ら、盗掘坑の正 面か ら北壁 をのぞ き込み、石室位置 と北壁両端の短い計 測点 を結んで石室設置方位 を求めざるを得 ない とい う制 約があったため、石室閉塞石の位置や看室設置方位等 に ついては課題 として残 った。

先述 した ように、平成14年の改正測量法の施行 に伴い、

今 回の発掘調査 では世界測地系 を採用す るこ とになっ た。既設基準点 (日本測地系

)の

改測作業 によ り、座標 変異量 を確定 したが、壁画の恒久保存対策 を検討す る上 では正確 な石室位置の確定作業が必須 となっていた。

石室の位置 と標高に関す るよ り詳細 な測量デー タを得 る目的で、発掘調査 に引 き続 いて、石室の測量調査 を実 施 した。 この作業は、昭和40年代の発掘調査成果 を、現 在の測量成果で確認 し、継承す るための作業である。

I.調

査年 月 日

調査 は文化庁美術学芸課の担 当官の監理の もと、奈良 文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部が、 アジア航測株 式会社の協力 を得 て、平成17年 5月13日 に実施 した。

Ⅲ.調 査方法

計測 は、保存施設前面 に設置 している基準点 (文化庁 No 2=奈 文研NIo224)から、保存施設の内部 を通 って取 り 合 い部 まで基準点 を移動 し(開放 トラバース)、 そ こにノ ンプリズム、mm単位での計測可能な トー タルステーシ ョ ンを設置 し、盗掘坑か ら内部の計測 をお こなった。計測 に際 しては、で きるだけ側壁の長い距離 を計測す ること で、正確 な石室施工方位が求め られるように心がけた。

計測点 は、石室内部 については北壁の四隅、東壁・西 壁・床・天丼の一部、石室前面では天丼石の前面、閉塞 石の前面、東側壁東南隅の各点であ り、その位置 と高 さ のデー タを取得 した (Fむ58)。

Ⅳ.計 測成 果

石室内部

石室方位

 

石室内部の東壁 について、南辺 (109)と 北 辺 (10件

104)を

計測す ることがで きた。 これか ら東壁 の振れを求めると、109と北壁東下隅 (104)を 結ぶ と北 で西 に 15′ 、同 じく北壁東上隅 (101)と 結ぶ と北で 西 に 46′ の振 れ となる。 また109と 同 じ位置 関係 に なる ように、101の下 に天丼 か ら9cm下 の点 を想定す る と、東壁の振れは北で西 に 44′ となる。

西壁 については、南第1石の中央上部の点 (112)と

北辺 (102・ 103)を計測す ることがで きた。 これか ら西

壁の振れを求めると、112と北壁西下隅 (103)を 結ぶ と 北で西 に 24′ 、同 じく北壁西上隅 (102)と 結ぶ と北 で西 に 41夕 の振 れ となる。112と 同 じ位置関係 にな るように、102の下 に天丼か ら31.6cm下の点 を想定す る と、西壁の振れは北で西 に 36′ となる。

北壁 については、床 に接す る東西両隅 (103・

104)で

みると、西で南 に 34′ の振れをもつ。

以上が石室方位 に関す る測量成果であるが、漆喰の厚 さが均等 とは限 らず、 また計測誤差 も考慮す るな らば、

石室の主軸方位 を分単位 まで確定するのは難 しく、北で 西 に約 振れると理解す るのが適切であろう。

石室内部の傾 き

 

北壁 は、四隅 (101〜104)を計測す る ことがで きたが、その位置 と高 さをみる と、天丼・床面 と接す る部分 はともに西 に約 (約

2%)傾

斜 している。

また東壁 と西壁 に接す る部分 について も垂直ではな く、

西 に約

05〜

傾 き、北壁全体が反時計 回 りに約

回転 した形 になっている。

天丼 をみ ると、北東隅101と その南西部の113が、南 西 に約2.8%の傾斜 で下が っている。 また床面 も、東壁 との境の104・ 106間が、約 (約

2%)の

勾配で南へ下 が り、石室北東隅の104と その南西部の114が、南西 に 約2.6%傾斜す ることが明 らかになった。

以上のように、 これ まで水平であると考 えられて きた 石室床面が、南西 に大 きく傾 く事実が判明 したため、 こ の計測結果 を検証すべ く、調査後 に改めて水準器 を使用

して再計測 をお こなった。その結果、石室北東隅の床面 高 を基準 にす る と、北西隅が1.8cm、 南東隅が5 6cm、

西隅が7.lcm、 それぞれ下降 している事実が明 らか にな

った。

‑48‑

(13)

956 

基準点Nα 21こおける計測風景

B閉

塞石

閉塞石の方位

 

閉塞石前面の010・ 01引 よ、石室 内部の 方位 とほぼ同 じく、西で南 に 22′ の振れをもつ。

C東

側石

東側石の厚 さ

 

東壁の南端部で、露出 した側石の南東隅 を2ヶ所計測す ることがで きた (008・ 009)。 石室内部 と の東西方向での座標数値差は、側石上部 (008'109間

)で

48.4cm、 側石 中程で51.7 cmで、計測点の高 さが近い前者

が側石の厚 さを示 している可能性が高い。 しか しなが ら 008と009は 、47.3cmの高低差で西へ3.3cm、 の傾 き を生 じていることになる。北壁でみた東壁の傾 きは西へ 約 であったことか ら、東側石 の厚 さが均―でな く、

上部でわずかに狭 くなっている可能性 もな くはない。 ま た計測点が欠損部であった可能性 もあ り、現時点では、

東側石の厚 さを約51cmと みてお く。

D天

丼石

天丼石南辺の方位

 

閉塞看の上部に位置す る南端の天丼

石南辺 (002・ 007間

)の

方位 は、石室内部の方位 よ りも

振れが小 さ く、西で南 に 41′ 振れる。

天丼石南辺の傾 き

 

南端の天丼石の上面は、南東隅(006)

とその西側 (004)でみると、 29′ (2.5%)、 天丼石南 東隅上端 (007)と 南西隅上端 (002)で みると、 50′

(15%)西

に傾斜 し、北壁 とほぼ同 じ傾 きをもつ。

天丼全体の傾 き

 

石室内の北壁東上隅 (101=天 丼北東隅) の標高は

109385mで

あった。『壁画古墳高松塚調査 中間 報告」(奈良県立橿原考古学研究所編、1972年

)に

よる と、

天丼石の厚 さは0618m、 稜部 は0.113m下が った位置 に あると報告 されている。

そ こで、石室が水平 に構築 されている と仮定す る と、

天丼石稜部 の南西 隅、す なわち002の標 高 は、109.385

m+0.618m‑0.113m=109.890mと

なるはずである。 と ころが、実際の計測点の標高 は109.802mであ り、0.088

m下

がっていることになる。

g57 

保存施設内の基準点移動作業

002と 天丼北東 隅の

101の

平面位 置 は、南北方 向で 3.018m、 東西方向で1.346m離れている。そ こで先 にみ た床面、天丼の傾 きに準 じて、南へ 2%、 西へ

2%の

配 で傾 斜 して い る と仮 定 す る と、

3.018m× 0.02+

1.346m×0.02=0.087mと な り、想定 される沈下量 とほぼ 一致す る。 この ように天丼石 も水平ではな く、石室全体 が上記の勾配で傾斜 していることがわかった。

昭和47・ 49年調査成果の補 正

 

天丼石 の上面南東 隅 006の 標高は

109937mで

あるが、昭和47・ 49年 の石室実 測図における レベルは110.23mで ある。 これ よ り、当時 の測量デー タか ら29cmを引 くと、ほぼ現在の測量成果に 一致することになる。これは002・ 007の 測点でも追認 され、昭和47・ 49年の測量成果の補正が可能になった。

V.石

室測量調査のまとめ

以上のように石室の計測結果か ら、明らかになった諸 点を箇条書 きにすると以下のようになる。

①石室の主軸方位は、北で西に約1.6° の振れをもつ。

②石室は水平、垂直ではな く、全体が西に約 (2勿 、 南 に約

(2%)傾

き、 さらに南西方向に1,3〜1.6° (2.6

〜2.8%)傾 く。

③ これまで不明であった東壁の側石の厚 さは、約51cmと 推測できる。

④標高に関 しては、昭和47・ 49年に実施 した発掘調査成 果か ら29cm引 くと、現在の測量成果 に整合す る。

なお、今 回の計測デー タと、後述す る三次元 レーザー スキャナーを用いた石室内部測量の北壁 四隅のデー タを 比較す ると、

Y座

標値のみ6 cm程度の差が生 じている。

この差の原因は、保存施設前面の基準点 (文化庁No 2=奈 文研No224)か ら取 り合い部への基準点移動の際に、準備 室、前室A・

Bを

隔てる扉 を一度 に開放で きず、短距離 の移動 を繰 り返 さぎるを得 なかったこと、 また基準点 を 足場の不安定 なスノコの上 に設置 しなければな らなかっ た こ とが影響 した と思 われ る。 (内田和伸)

(14)

102

101

綱 中 日 日 智

︲︲ ︲︲ 甲

︲︲ 日 日 料 日

︱︱

103 

105

110114(床

)

113(天 丼

)

Ψ

111

112

002 00

│  │

107

測点名

011

‑17,306

010

‑17,805

008 009

―司70,566

‑17,806.409

‑17,806412

‑17,806.075

‑17,804795

‑17,804.645

‑17,804497

‑17,804.464

‑17,804890

‑17,805,768

‑17,805063

‑17,806.077

‑17,806.067

‑17,805.039

‑17,805600

‑17,805024

‑17,805012

‑17,804,990

‑17,804981

‑17,806054

‑17,806025

‑17,806.016

‑17,805556

‑17,805554 002

003 004 006 007 008 009 010 011 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114

天丼石南西隅上端 天丼石南西隅下端 天丼石上面南辺西部 天丼石上面南東隅 天丼石南東隅上端 東側石南東隅上部 東側石南東隅中部 閉塞石前面東 閉塞石前面西

石室北壁東上隅 (天丼北東隅)

石室北壁西上隅 (天丼北西隅)

石室北壁西下隅 (床面北西隅)

石室北壁東下隅 (床面北東隅)

石室床面北辺中央付近 石室床面東辺北部 石室東壁北 目地 石室東壁南 目地 石室東壁南辺 石室西壁北 目地 石室西壁南 目地 石室西壁南部 石室天丼 中央付近 石室床面北部

‑170,565789

‑170,565,780

‑170,565660

‑170,565.628

‑170,565768

‑170,565,486

‑170,565489

‑170,565,894

‑170,565915

‑170,562,771

‑170,562800

‑170,562.800

‑170,562772

‑170,562,783

‑170,563227

‑170,563.633

‑170,564537

‑170,565,423

‑170,563561

‑170,564479

‑170,564882

‑170,563.856

‑170,563380

109.802 109.297 109.904 109.937 109,830 109.219 108,746 108.473 108.464 109.385 109,362 108.244 108.262 108.251 108.254 108.506 108,776 109.242

10&920

108.960 109.004

109352

108.241

測定成果表

(15)

̲   004

002

011

ト ー

I

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一―一一――T

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│       │      │      │

L̲̲̲̲̲― ―― ― ―― i̲̲̲̲̲̲̲̲― L̲̲̲̲̲― 一一

̲̲―

―――――――一」

F咆,58 石室測点位置図

参照

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