説話と事実 : 霊異記下の卅五縁をめぐって
著者 寺川 真知夫
雑誌名 同志社国文学
号 9
ページ 26‑40
発行年 1974‑02
権利 同志社大学国文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004862
二六
説 語 と 事 実
霊異記下の柑五縁をめぐって
寺 川 真 知 夫
H
説話の面白さは︑説話がどれほど確かな構造と豊かな表現を獲得
しているか1如何に迫真性のある形象化を遂げているか1と云うこ
とと大きくかかわっている︒しかし︑説話は事実を素材として成立 @するものであり︑面白さの根本を事実性に求めるものであることも
確かなことである︒説話としての形象化を遂げたものの中から︑索
材としての事実を探り出すことは必ずしも容易なことではないが︑
﹃日本霊異記﹄下巻第升五縁はある程度︑それが可能な説話である
ので︑本縁によって︑説話と事実の関係について考察してみたいと
思う︒ まず第柑五縁の概要を示すと次の通りである︒
光仁天皇の時代のことであった︒肥前国松浦郡の人︑火君氏が急 死し︑瑛魔国に至るが︑死期に合わず返される︒還る途中︑釜のような地獄で煮られていた︑遠江国榛原郡の物部古麻呂という男に呼び止められ︑在世中白米の綱丁を勤めていた時の悪行によって苦を受けているので︑法華経を書写して罪を救ってもらいたいと頼まれる︒生還した火君の氏は︑この見聞を解状に記して大宰府に送る︒大宰府はこれを朝廷に転送するが︑大弁官は信用せず放置して二十年が経っ︒菅野真道が左大弁となってこれを見︑桓武天皇に奏上する︒天皇は施鮫僧頭に二十年間に物部古麻呂は苦を免れ得たか否か尋ねられ︑地獄の一日一夜は︑人問の百年なので︑苦を受け始めたばかりであるとの答を得て︑勅使を遠江国に遺して︑解状に記す古麻呂の事蹟を調査させられる︒その結果︑解状の報告は事実の通りであることがわかったので︑これを信じ︑天皇は延暦十五年三月七
日から知識を募って写経を始められ︑善珠大徳︑施咬僧頭などを招
いて︑平城京の野寺で︑古麻呂のために法華経講読の大法会を設け
てその苦を救われたのである︒
この説話は天皇が一庶民のために法会を設けられたことを説くも
のであるから︑桓武天皇の厳しい仏教統制策や天皇と一庶民の関係
などと考え合わせて︑虚構にしかすぎないと見る人はあるかもしれ
ない︒けれども︑天皇は決して仏教不信の方ではなかったのである
から︑気まぐれであったとしても︑善行としてこのような法会を営
まれることは全くなかったとまでは云えまい︒天皇による法要の行
われたことに就いては︑このような消極的な主張しかなし得ない
が︑火君氏の解状が事実を合み得るものであり︑菅野真道が二十年
間放置された解状を発見したことも十分事実としての可能性があり
得るので︑法要も実際に行われたものと考えられよう︒また︑この
法要は︑景戒の霊異記原撰時にほぼ接して催されたことでもあるか
ら︑説話の伝える通りのものでないにしても︑実際行われたことで
あろう︒したがって︑この説話は︑おそらく伝燈住位を得て問もな
い景戒が︑法会とそのいきさっを直接見聞して︑自ら縄めあげたも
のであり︑その意味で事実に基いて形成されたものと云えよう︒
物部古麻呂のための法会が催されることになった直接の契機は︑
﹁従四位上菅野朝臣真道︑其の官の上に任じ︑彼の状を見て︑山部
天皇に奏す︒﹂というところにあるが︑彼の左大弁任官の時期は︑
説語と事実 本縁と﹃日本後紀﹄との間に少くとも一年のずれがある︒このことの意味は後に考えることとし︑いずれを採るべきかと云えば︑﹃日本後紀﹄の延暦十六年三月一日説を採るべきであろう︒とすれば︑真道が延暦十五年三月以前に火君氏の解状について奏したのは︑左大弁就任によるものではなく︑他の事情によるものであったと考え @ねばならない︒また真道は学者官僚であったにしても︑左大弁に就任したからといって︑二十年間も放置されてきた解状を無意味に再吟味するなどということは︑ほとんどありえないことであろう︒では︑どうして解状を発見し得たかというと︑注目されるのは︑彼が
﹃続日本紀﹄撰輯の責任者であったことである︒その任務は云うま
でもなく︑解状を含む古記録と縁の深いものであるから︑先の解状
発見はこの任務とかかわらせて考えることができるであろう︒
﹃続日本紀﹄の撰進は二度に分けて行われ︑全四十巻のうち︑後
半二十巻︑天平宝字二年から延暦十年まで三十四年分は第一輯とし
て︑延暦十三年八月十三日に右大臣従二位皇太子樽中衛大将藤原朝 臣継縄によって撰上され︑前半二十巻︑文武天皇元年から天平宝字
元年まで六十一年分は第二輯として︑延暦十六年二月十三日に︑正
五位上行民部大輔兼皇太子学士左兵衛佐伊予守菅野朝臣真道を代表 ¢者として撰上されたことになっている︒しかし︑継縄と真道の︑そ れぞれの撰進の上表文によると︑﹃続日本紀﹄全巻の撲輯作業の実
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説語と事実
質的な責任者は真道であったことが明かであり︑おそらく継縄は藤
原氏の代表者として︑編纂の基本方針なとの画定に参加しただけ
で︑具体的な作業は学者官僚である真道に委ねていたものであろ
う︒ ﹃続目本紀﹄第一輯には四年間を費しているが︑この間に︑三十
四年間の記録類は総覧され︑史料としての採否が検討されたはず
で︑その中には︑弁官に保存されていた大宰府からの解状も含まれ
ていたであろう︒ ﹁白壁天皇の世﹂に︑大宰府から転送され︑二十
年も放置された解状が︑真道によって発見され︑褒上されたのは何
時であるか本縁には記されていないが︑古麻呂の追善のために写経
を始めたのが︑延暦十五年三月七日であるから︑かりに古麻呂の事
蹟調査に半年を要したとすれば︑天皇への奏上は延暦十四年九月
頃︑発見はそれ以前ということになる︒﹃続日本紀﹄第一輯の撰上
は延暦十三年八月に行われているので︑火君氏の解状の真道たちに
よる発見は︑それ以前になされているはずであるが︑この解は急を
要して奏上しなければならない筋合のものではないから︑実際は何
かのついでに天皇の耳に入ったものと見るべきであろう︒臆測の域
を出るものではないが︑その経緯は︑﹃続日本紀﹄の吏料に大宰府
の解状を検討する際︑真道か作業チームの誰かが︑火君氏の解状を
見つけ︑地獄が実在するものか否かということが話題となって真道 二八の記憶にとどめられ︑何らかの機会に︑天皇に奏上したというのが実情なのではあるまいか︒天皇は真道の話を聞かれると︑その場に居合せた施咬に地獄で苦を受ける期問について尋ねられ︑さらに火君の解状に述ぺる古麻呂の故事にっいても試みに調査されたものであろう︒遠隔地の者の行状の報告が果して真実でありうるか否かということは︑おそらく興味ある事柄であったはずである︒この問のことは偶然の積み重ねとでも云わざるを得ないが︑火君氏の解状に記された古麻呂の故事だけは確かに真実を伝えたものであったために︑天皇の信じられるところとなり︑火君氏の申し出の通り︑古麻呂のための法華経書写と講読の法会が営まれたのであろう︒
o
本縁では物部古麻呂のための法会が催されたのは延暦十五年三月
のこととし︑ことの起りをそれ以前の真道の左大弁任官に結びつけ
ているが︑すでに述べたように﹃日本後紀﹄によれば延暦十六年三
月一日に左大弁に任命されている︒また位階も︑本縁では従四位上
とするが︑﹃日本後紀﹄.によれば延暦十六年二月一日に﹃続日本紀﹄
撰進の功績によって従四位から正四位下に二階級進んでいる︒この
とき︑同じく撰進に携った秋篠安人︑中科巨都雄も二階級昇進して @いるから︑不自然なことではない︒そうすると︑真道は従四位上の
位階には就かなかったことになるが︑﹃公卿補任﹄は何によったも
のか︑この時従四位上が授けられたとしており︑異説もあるから︑
景戒はこれに依ったということも考えられるかもしれない︒が︑い
ずれにしても︑これらの官職︑位階は︑延暦十六年三月以後のもの
であって︑延暦十五年の法会当時のものではない︒これは本縁の述
作が延暦十六年三月以後に行われたことを示し︑述作当時の真道の
位階︑官職を延暦十五年に湖らせて用いたものと考えるべきであろ
うO 景戒の出自は十分明かにされてはいないが︑紀伊国名草郡の郡司
層の出身であることにはほぼ間違いないであろう︒出家した彼は南
都薬師寺の下級僧侶であったから︑真道が﹃続日本紀﹄の撰輯に携
わっていることなど知る由も無かったであろうが︑一方︑彼は郡司
層の出身であったから︑解状が弁官に送られることは知っていたの
で︑法会で聞いた真道の解状発見のことを︑左大弁の任官と結ぴつ
けて理解したものではあるまいか︒もし︑真道の解状発見の真の契
機を知っていて︑このように記したとすれば︑話はより誇張されて
いる方を好む説教の聴衆の反応を計算して︑劇的な効果を狙ったも
のかもしれない︒
次に施咬僧頭であるが︑彼は説話の中で︑天皇に古麻呂のことを
調べようという持気を起させる重要な役割を担っている︒施蚊とい
説語と事実 う僧都は﹃僧綱補任﹄には見えないが︑真道︑善珠など︑実在の人物が配されていることからしても︑実在の人物と考えられる︒彼に近いのは︑延暦十二年に律師となり︑延暦十六年一月十四日に少僧 @都に任ぜられた施暁である︒咬は﹁ケウ﹂︑暁は﹁ケウ︑ゲウ﹂であるから︑施暁の名を音通の文字で表記したものと考えられる︒本縁では︑現に古麻呂を古丸とも記し︑人名ではないが︑僧都を僧頭 @と表記しているのである︒したがって︑既に指摘されているように︑施咬は施暁少僧都であるとしてよいであろう︒ そうすると︑延暦十五年当時︑施咬はまだ律師であったにもかかわらず︑本縁では僧都としているのである︒施鮫のばあいは菅野真道と異なり︑仏教界の指導的立場にある人物であり︑延暦十四年末 @に︑景戒に伝燈住位を与えた僧綱の一員なのであるから︑彼がその僧綱を知らなかったはずはないのである︒したがって︑このずれは︑一般的には真道のばあいと同じく︑説話述作当時の僧綱職を法会の催された当時に湖らせて用いるという︑他にも見られる官位表記の方法に基づくものといえよう︒しかし︑それと同時に︑施咬のばあい︑その所属寺は近江林凡釈寺であるが︑行基の孫弟子であったということに注目しておく必要があろう︒施咬は︑行基が死ぬ時︑四十九院を託した︑第一の弟子︑久米多寺の僧光信︵宝亀三年の十 ゆ禅師の一人︶の弟子であった︒彼は当時︑行基直系の法燈を継ぐ僧
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説語と事実
の代表と見傲され︑中央仏教界で華々しく活躍していたので︑行基
を崇拝し︑意識︑行動のうえでもその流れにつながろうとしていた
景戒が︑特別の感情を持って配慮を加えていた可能性もあるのであ
る︒施暁は︑行基の流れに立っ者として当然であるが︑山林修行に @深い関心を持ち︑その立場に立った発一言をしているから︑やはりそ
こに関心を寄せていた景戒にとっては︑好もしい人物であったはず
である︒本縁において︑施鮫が重要な役割を担っていることも︑こ
うしたことと無縁ではないかもしれないのである︒
以上︑本縁に登場する人物の官位や職務が正史の記録と時期的に
ずれるところには︑説話受容者の反応を配慮して︑時間を湖らせて
も記録時の登場人物のそれを説話の中に持ち込もうとする景戒の作
意が働いていること︑したがって︑それらは説話の記録された時期
を伺わせるものであることは云うまでもないが︑そこには︑説話の
登場人物に対する景戒の心情的なかかわりも働いていることを述べ
た︒他にも︑ここに見られるような何でもない説話と正史の鯉鱈
に︑事実が説話として扱われる際に働く︑受容者の反応への計算︑
話者の心情の投影は見られるであろう︒
臼
天皇の調査によると︑火君氏の解状に記された︑物部古麻呂の故 三〇事に関する部分が真実であったと云うのであるが︑それはありうることであった︒常識的に考えて︑古代のように交通が不便で︑情報の伝達される範囲の限られていた時代に︑一介の私人にすぎない遠江国の物部古麻呂のことが肥前国まで達するはずもなく︑肥前国から発せられた古麻呂のことに関する報告が真実でありうるはずがないというのが当然であろう︒しかし︑両国の間に人の交通があり︑情報の伝達が可能であったとすれば︑そうしたことは十分ありうることである︒したがって︑もし︑両国の間を往復した防人に注目するならば︑殊更に火君氏の古麻呂に関する報告が真実ではありえないと主張する必要もないであろう︒ 肥前国の人々と遠江国の人々の交流する機会は︑古麻呂の務めていた白米の綱丁のように︑都への租・調の輸送︑蓬役などの際が考えられようが︑西海道諸国は大宰府の管轄下にあり︑調庸をはじめ @租も大宰府に納付されているようであるから可能性は少いであろう︒火君氏の解状が︑防人と関係の深い肥前国松浦郡から上申されていることからしても︑物部古麻呂のことを火君氏が知りえたのはやはり防人を通じてであったのではあるまいか︒次に︑火君氏を探ることによって︑この事情を明かにしてみよう︒彼については︑ほとんど不明であるが︑いま必要なことは︑周辺をも探ることで︑あ
る程度推測可能であろうと思う︒
火君は︑神八井耳命を祖とし︵神武記︶︑直接の祖は︑朝廷から
肥後国の土蜘蛛を伐ちに遣わされた健緒組であるとする︵肥前国風
土記︶が︑もともと肥前肥後に土着していて︑筑前筑後にまで勢力
を張った地方豪族であった︒大和の肥直は︵新撲姓氏録大和皇別︶︑
九州から移った者であろう︒君姓は地方豪族で半独立的な勢力を持 ゆつ者に与えられたといわれ︑火君も︑その例であろう︒﹃肥前国風
土記﹄の冒頭の肥国の国名起源伝承は︑そのまま火君の氏族名起源
伝承であることからしても︑奈良朝初期の肥前国における火君の勢
力の大きさは十分伺える︒奈良朝末に至れば︑当然変化はあったこ
とであろうが︑一族は各地にあって︑それぞれの勢カは確保してい
たことであろう︒本縁に登場する︑松浦郡の火君氏も︑当然この流
れを汲む者の一人であったと云えよう︒
このことを念頭において︑本縁を見ると︑火君氏が地獄から生還
するとすぐ︑その見聞を解状にして大宰府に送っていることが目に
付く︒このことは︑彼の立場を明かにする手掛となりそうである︒
すなわち︑彼が容易に解状の作成を思いっき︑上申し得たとすれ
ば︑それ相応の地位や知識を持っていたからと云うことになろう︒ @彼は文字を知り︑文を書き得ただけでなく︑解状に関する公式令を
も知っていたと云ってよい︒彼はおそらく︑松浦郡に勢力を持っ火
君の一人で︑地方官僚機構に属するか︑その経験を持っていたかで
説語と事実 あろう︒碓一皿異記に解状のことがでてくる説話は他に三話︵中1・下26︐37︶あるが︑その送付者を︑国司︑郡司と明記しているのは下巻第二六縁のみであり︑他の解状の送付者の階層ははっきりしないが︑常識的に考えて以上のようなことは云えると思う︒解状を容易に送りえていることはまた︑彼が松浦郡でも郡家近在の者であったことをも推測させるもので︑そうすれば防人集団と接触する機会を持ちえていたと云うことは考え得るのである︒ 大化改新の詔の防人の記事は任地に触れていないが︑天智紀三年の紀事は﹁是歳︑対馬嶋︑壱岐鳴︑筑紫国等に︑防と蜂とを置く︒﹂と明記する︒ここには肥前国の名は見えていないが︑記紀の神功皇后の朝鮮出兵はこの地から行われたことになっているし︑﹃風土記﹄の比嶺振山伝説も︑欽明朝における︑この地からの朝鮮出兵と結びつけられており︑地理的にみても︑この地は朝鮮半鳥との交渉︑海辺防備の上で重要な位置を占めているから︑この﹁等﹂の中に肥前国が含まれ︑松浦郡に防人が置かれたことは確かなことであろう︒ 同時に︑この地には水軍を中心とする在地軍も形成されていたと見られる︒欽明紀十七年に百済王子恵を送るにあたって︑筑紫国の舟師のほかに︑筑紫火君が勇士一千を率いて守ったというのは︑この地における火君水軍の存在を推測させるものである︒その伝統は @この時代にも残っていたはずで︑有力在地豪族の一人であったと考
三一
説語と事実
えられる火君氏もこの水車の有力成員であったであろう︒
防入は軍団単位で自給自足の生活をしていたようであるが︑在地
軍の有カ成員の者や︑この地の官僚たちは︑彼らとの接触の機会は
持っていたと見てよい︒防人の対馬︑壱岐への海上輸送には︑勿論
大宰府管下の水軍があたったであろうか︑在地水軍もこれを補助し
ていたとすれば︑その機会は更に増えよう︒
このように松浦郡の郡司層の者が防人と接触する機会を持ち得た■
とすれば︑在地側の火君氏が︑防人のうちにいた遠江国の軍団か
ら︑物部古麻呂にまつわる話を聞くこともできたであろう︒火君が
聞いたものが︑単なるゴシップにしかすぎなかったものか︑一度は
物部古麻呂と直接知り合い︑自ら求めた彼の消息であったものか︑
その事情は明かでない︒一つの可能性としては︑防人は国単位で軍
団を形成していたと云われるから︑その軍団内に故郷での経験談や
人物のゴシップが語られ︑それらの中には︑繰返し語られて説話的
な真実性を獲得して伝承されたものもあり︑火君の耳に達した物部
古麻呂の悪行講もその一であったと云えるかもしれない︒それは︑
彼をよく思わない者たちによって説話化され︑既にその段階で地獄
に落ちたことになっていたとも考えられよう︒そうしたものが︑火
君氏の体験談となり︑彼の解状となったのかもしれないのである︒
また︑もう一つの可能性は︑物部古麻呂が防人に出たとき火君氏知 三二り合いになっていたと考えられることである︒もし︑本縁に﹁遠江国榛原郡人物部古麻呂﹂とある﹁榛原郡﹂が︑霊異記の当面の受容者である旧都の人々にとってなじみのある地名を配するという意図に基く改変であり︑実は﹁長下郡﹂であったと云いうるならば︑この物部古麻呂は実在の防人であったことになり︑その可能性は強まる︒遠江国防人﹁長下郡物部古麻呂﹂の名が見えるのは︑万葉集巻 @廿である︒物部古麻呂の名は︑平凡なものであるから︑偶然に記録に残された二っの名をもとに︑所属国が同じであるからと云って︑所属郡が異るのを無視して︑安易に同一人物であると云うのは危険である︒しかし︑両者は同時代の人物であり︑本縁では郡名改変の可能性もあるから︑同一人物であったかもしれないということは云えよう︒このことを踏まえると﹁火君氏が物部古麻呂と知り合い︑のちに彼の消息を求めた事情は次のように想定されよう︒ 防人の筑紫への派遣には子余曲折があるが︑当面かかわりのある天平九年からの経過を見ると︑天平九年九月︑東国の防人は廃止される︒その後︑どのような経緯を経たのか︑天平勝宝七年二月には @復活されているが︑それもこの年の防人の任期の切れる天平宝字元年八月に再び停止され︑天平神護二年までの十年問は中絶するのである︒そして︑この年の四月に大宰府の要請が容れられ︑東国から ゆの防人は一部復活されて延暦年問まで続くのである︒
遠江国長下郡の物部古麻呂が筑紫へ防人として下ったのは天平勝
宝七年であり︑この時既に結婚して家に妻を残して任務に従ってい
るので︑常識的に考えると天平宝字元年には帰郷しているはずであ
る︒また︑肥前国松浦郡の火君氏が解状を出したのは︑延暦十四年
を二十年ほど湖ったということであるから︑宝亀六年の頃である︒
宝亀六年は︑物部古麻呂の防人の任期が切れた天平宝字元年から十
九年目にあたり︑天平神護二年に一部復活した東国の防人が四度目
の任務に就いた翌年である︒︵もちろん︑正確には火君氏の解状の
出されたのが宝亀六年であったのかどうかはわからない︒︶
松浦郡の在地豪族火君氏は︑天平勝宝七年に防人として筑紫へ下
って来た物部古麻呂と何かの機縁で知り合うが︑彼が任期を終えて
帰国したあとは︑防人が中絶されたため音信不通になってしまう︒
十年後の天平神護二年に再び東国の防人が来るようになる︒その後
四度の防人の交替の間には遠江国の防人が松浦郡での任務に就くこ
ともあったであろう︒そうしたなかに︑物部古麻呂の消息に通じた
者を探しあて︑その近況を聞くと︑彼は白米の綱丁を務め︑しかも
その立場を利用して収奪を行い悪い評判を取っただけでなく︑既に
死んだことを教えられる︒そこで︑火君氏はそのことを当時行われ
ていた地獄訪問課に結びっけ︑自ら地獄を訪ね︑そこで白米の綱丁
として悪事を働いた報に苦業を受けて︑法華経書写による救済を求
説語と事実 めていた︑遠江国の物部古麻呂に会ったという体験談を形成し︑解状として大宰府に送ったものであろう︒それが朝廷に転送され︑一度は無視されるが︑二十年を経て︑﹃続日本記﹄撰輯の際に菅野真道に発見され︑桓武天皇の耳に達して︑天皇が物部古麻呂のために法要を営まれるきっかけをつくったのではないかと考える︒もちろん︑これは︑単なる推測にしかすぎない︒しかし︑火君氏の解状に記された物部古麻呂の事跡が正確でありえたのは︑遠江国の防人が関与していたからであるとすることは間違いのないことであろう︒ 本縁には防人は登場しないが防人にかかわる話であるとすれば︑霊異記には防人に関係した話が︑中巻第三縁とともに︑二話あることになる︒しかも︑二話とも悪報謂となっている︒霊異記には善報課も多いから︑これは偶然のことではある︒しかし︑それは︑説話が︑人問の悪行にも積極的に目を向け︑それを具体的にえぐり出すものであることによって起りえたのである︒行為そのものの具体的な叙述と云うことでは︑本縁のばあい︑不十分なものではあるが︑非常時における清例な自己表白の結晶である万葉集防人歌が形成した防人の世界の背後に隠されてしまった︑どろどろとした世界を︑中巻第三縁とともにかすかながら垣間見させてくれるものであるように思われる︒このような説話を収録するところに︑霊異記の一っの意味を見いだすことができるであろう︒
三三
説語と事実
ところで︑火君氏が︑地獄訪問の解状を作成し︑大宰府へ送った
ことの意図は何であったろうか︒この点も十分明らかにはなし得な
いが︑彼ははやく仏教信者となり︑仏教的倫理観から︑地位を利用
して行われる悪辣な収奪を快く思わず︑それを放置する大宰府︑朝
廷を誠諌する意図があったかもしれないと考えることもできなくは
ないが︑遠江国の男のことを取りあげたところには︑奇表を語って
大宰府︑朝廷の注目を引こうとする︑田舎豪族の自己顕示欲が働い
ていたというのが当を得たところではあるまいか︒
以上︑下巻第舟五縁は︑防人による伝承︵情報の伝達︶がもとに
なった説話であり︑ここに展開された出来事は︑火君氏の地獄訪問
を除いては︵夢幻の中におけることとすれば考慮の余地はあろう
が︶︑現実に起り得るものであったことを︑菅野真道と火君氏の周
辺を探ることによって述べた︒なお多くの問題はあるが︑本縁はこ
うした事実に基いて形成された説話であると考える︒
因
本稿では︑﹁説話﹂の語を一般に用いられているよりは狭い範囲
に限定して用いている︒すなわち︑世問話のうち伝承に堪える構造
と表現を獲得したものを説話と云うことにしている︒説話は世問
話の延長線上にあり︑形式的には一定の語り口調を持たず︑内容 三四的には現実の次元での異常な出来事︑聞くに足る珍しい出来事を扱〜一機能的には人々の好奇心を満足させる︵但し︑仏教説話では︑人々を信仰に導いたり︑悪行をとどめ︑善行を勧めようという目的を持っから︑それに対応する機能を持っ︶ものと云うことになる︒世間話は現実世界における事件をとらえて伝えるものであり︑報道 ゆの機能を持っから︑説話もその性格をうけっいでいる︒それは︑当然共時的伝承ということになるが︑説話は構造と表現において世間話の域を抜け出ており︑通時的な伝承も行われることになる︒すると︑内容の神秘性や通時的な伝承と云う面からは︑神話や伝説との区別は必ずしも明確でないということにもなる︒現に︑霊異記には雄略天皇の時代以来の︑元来︑神話︑氏族伝承︑伝説であった説話も収録されている︒それにもかかわらず︑霊異記を︵仏教︶説話集と規定して︑所収説話を考えようとすれば相応の説話に対する概念規定をしておく必要はあろう︒具体的な説話に即さないため︑抽象的にならざるを得ないが︑一応伝説・神話と説話の区別について述べておきたい︒ 伝説は︑説話と同じく一定の語り口調を持たないが︑現存する物や土地にかかわって伝承され︑内容そのものよりも︑物とのかかわりに大きな比重がかかっている︒それはまた︑物や土地にかかわる地域集団によって信じられ伝承される︒これに対し︑説話では物や
土地にまつわる不思議や興味ある事件そのもの︑っまり事柄により
大きな比重がかかっている︒しかも︑物に直接かかわる地域を超え
て︑地域に無縁の人々によっても信じられ伝承されるのである︒霊
異記にも多く収められている仏像霊異講や縁起課などは︑本来伝説
と写ぷべきものであろうが︑その形成された地域を離れ︑ゆかりの
無い人々に向って語されるようになり︑あるいはそれを意図してこ
こに収められたとき︑説話に転化したと云えるのではあるまいか︒
霊異記に︑その形成された土地を離れた多くの説話が収められてい
るのも︑説話は土地や人物を明記しようとするにしても︑本来︑そ
れらにまっわる霊異そのものに関心の重点があり︑現にある土地や
物との結合を不可分のものとはしなかったからである︒
神話との対比で云うならぱ︑神話は本来一定の語り口調を持って
いたと考えられ︑神秘的活動や霊異を示す神々にっいて語られる︒
それは神を祭る氏族集団や地域集団の内部において侯承され︑そこ
では︑その伝承は共同体成員個々の意識とは無関係に︑共同体の意
志でもって信じられなければならなかった︒それを語ることは共同
体の紐帯関係を維持強化するという現実的な目的を持っていたので
ある︒これに対し︑説話においては︑神々が登場しても︑単に素材
として扱われるにすぎない︒それは︑氏族や地域とは無関係に話さ
れ︑信不信は個人の意識にかかわり︑伝承も話の内容に対する興味
説語と事実 によってされるのである︒ 奈良時代末期は氏族共同体の崩壊した時代であり︑霊異記に収録された神話は︑伝承の場と機能を失い︑神々とは無縁の者によって︑奇異性故に伝承される説話となっていると云ってよいであろ・つ︒
説話は氏族共同体や地域共同体の制約を受けない人々によって伝
承される︒それが集団の場で話され︑信じられるにしても︑氏族共
同体のような︑一種の運命共同体と云った場ではなく︑仏教信者の
集団のような任意集団であるから︑集団成員各個の意識によって信
じられるばあいと本質的には変らないであろう︒説話は聞く者に信
じることを強要しない︒不信の者の存在をも許すのである︒その代
り︑如何に奇異︑不可思議な出来事であろうと信じる者には事実と
して受容され︑伝承される︒そのことは︑説話の獲得した事実性と
かかわっていたはずである︒このように考えるとき︑ ﹁説話は個人 @の意識によって捉えられた現実的な驚きの文学﹂であると云うこと
は︑説話の基本的な性格として確認しておく必要があろうと思う︒
本縁は︑説話としての発展過程の結節点にそうした個人の説話を
とらえる意識が重要な役割を担っていることを示している説話であ
ると云える︒発展の過程は︑先に見て来たところであるが︑それは
一つの話が他の話を吸収して発展する︵外来説話の受容には多く例
三五
説語と事実
が見られる︶だけでなく︑説話が事実そのものとして報告され︑更
にはそのように認められて︑別の出来事を誘発し︑新たな説話を形
成すると云うものである︒このような発展の仕方は︑説話を事実と
して受容する個人の存在によって可能となったのである︒そして︑
そのことは︑逆に本縁が順次前の説話を吸収することで︑量的に成
長はしても︑質的にはほとんど発展を遂げないと云う結果をももた
らしている︒説話の発展は︑聴衆の反応に対応して構造と表現を豊
かにするのが一般的な姿であるとすれぱ︑本縁のばあいむしろ特異
な例である︒しかし︑説話が本来︑報道の機能を持ち︑個人の意識
に働きかけ︑それによって事実として受けとめられるものとすれ
ぱ︑この発展過程は︑その本来の性格とよく対応した例と云えるの
である︒しかも︑その舞台は︑肥前国︑平安京︑遠江国︑平城京と
広範囲にわたり︑物部古麻呂とは縁もゆかりもない︑平城京におい
て最終的な説話の成立をみているのである︒云わば︑本縁は説話の
受容と発展の原型的な姿を具体的に示している説話と云えるのでは
あるまいか︒
このように︑本縁が少数の者の手によってしか発展させられず︑
最終的に定着する設階においても︑ひとり景戒の手によって纏めあ
げられたと考えられることは︑当然本縁の表現や構成の質にかかわ
っているはずである︒たしかに︑景戒は︑本縁を扱うまでに多くの 三六説話を記録して来ており︑また︑自ら聴衆を前に説話を話した経験も持っていたと考えられるから︑本縁を纏めるにあたっても︑そうした間に養われた力によって︑読み︑聞く人々の関心を引く事項や表現を選んでいることは考えられはしよう︒現に︑そのような工夫の行われていることは菅野真道などにっいて見て来たところでもある︒あるいは︑﹁︵法華︶経の六万九千三百八十四文字に宛てて知識を勧率し︑皇太子︑大臣︑百官をあげて︑皆悉に其の知識に加へ入る︒﹂と云う部分のように︑景戒の誇張したと考えられる部分も見られる︒誇張は説話が迫真性を獲得するためには不可欠のものであり一その豊かな表現を可能にし︑文学的質を高めるものでもある︒ここに引いた例も︑やはり単なる事実から飛躍し︑説話的迫真性を獲得せしめようという景戒の狙いによるものと云えようが︑それは
一部にとどまり︑全体の質を高めるまでに至っていないし︑この部
分とて︑決して文学的評伍に堪えるものとは云い得ないのである︒
勿論︑本縁にそうした部分が全く無いと云うのではない︒火君氏の
解状の﹁還る時に見れば︑大海の中に︑釜の如き地獄有り︒其の中
に黒き檸の如き物有りて︑涌き返り沈み︑浮き出で︑火君に告げて
言はく﹃待て︑物白さむ﹄といひて︑即ち亦涌き返り沈み入り︑復
たび浮きて言はく︑﹃待て︑物白さむ﹄といふ︒是くの如きこと三
遍︑四つの遍に言はく︑﹂と云う部分のように︑常套的ではあるが
それなりに優れた表現も合んではいる︒しかし︑全体としてみると
き︑事件の展開に沿った構成は単純であり︑表現も貧しいと云わざ
るを得ず︑事件の報告の域から何ほどもでていないということにな
ろう︒これは確に︑景戒の力量の問題ではある︒しかしまた︑それ
は︑説話が多くの人々の反応を糧として育って来るものであるの
に︑本縁は法会に臨んだ景戒一人の手で纏められ︑多くの聴衆の反
応や伝承者による肉付の過程を経なかったと云うこととも関係して
いるのであろう︒本縁は︑比較的長い話であるから︑話の骨組だけ
が示され︑肉付は説教者にゆだねられたと考えられなくもないが︑
基本的にはそのように云ってよいであろう︒
本縁は︑既に九話収録されている地獄訪問潭の一っにしかすぎ
ず︑それらの中においても︑決してすぐれた説話とは云えないが︑ @霊異記の原撰時において下巻末に位置付けられていたとすれば︑景
戒にはかなり重視されていたと云い得よう︒すなわち︑これらは︑
地獄における善悪の報が︑現世における善悪の行為と因果関係にあ
ることを説いて︑善行を勧めようとするものであるが︑本縁はそれ
らの中にあって一定の役割を担わせうるものであったと云える︒
日本人は死後の世界として黄泉の国を考え︑そこが往来も可能
な所であるとは考えていた︵黄泉帰り︶が︑その国は善悪の価値観
とは無縁の存在であり︑またそこに生起する事柄の現世との必然的
説語と事実 因果関係の存在などは全く想像もされないことであったにちがいない︒信仰はなかなか変化し難い性格をもつから︑このような黄泉の国を信じる者にとって︑仏教者の説く︑現世と因果律で結ばれた恐しい地獄の存在は荒唐無稽のものであり︑容易に信じ難いものであ ■つったにちがいなく︑霊異記にも度々登場する︑因果を信けざる徒として非難される者は︑平安時代の初期においてもまだ多くいたと考えられる︒彼らが︑非合理的な世界観や信仰を持っていたことは確かなことであるが︑日常生活においては︑現代とは同質でないとしても︑それなりに合理的な思惟を働かせていたことも確かなことであろう︒説話は現実の日常世界に生起する驚くべきことをとらえて伝承するものであるから︑彼らの合理的思惟を説得しうるものでなければならなかったはずである︒仏教説話は︑仏教という信仰にかかわるものであり︑一概にそのように言い切れないにしても︑まだ仏教が湊透しきっていないなかで︑不信者を相手に仏教信仰に導くことを狙って説かれたとすれば︑やはりそのような点に配慮をしなければならなかったはずである︒ところが︑地獄訪問説話は︑地獄と現世を結ぷ因果律の存在を︑黄泉帰りということをテコにして説いたのではあるが︑それを︑蘇生者の一方的証言︑すなわち︑実際には全く実証の仕様のないこととしてしか説き得なかったのである︒そのようななかにおいて︑本縁では︑先に見たように︑蘇生者
三七
説語と事実
である火君氏の証言が︑天皇の調査で確認されただけでなく︑地獄
と現世を結ぷ因果律の存在が天皇によって認められ︑地獄で苦を受
けていた物部古麻呂のために供養の法会の営まれたことを内容と
し︑間接的であるにせよ︑蘇生者の証言に対して︑第三者の︑しか
も天皇によって事実という保証の与えられたことを説き得ているの
である︒云わば︑多くの地獄訪問課が︑それなりに大きな効果をあ
げてきたのではあるが︑聴衆の恐怖心に訴えて︑地獄の実在と︑現
世と地獄を結ぷ因果律の実在を説いて来たのに対し︑本縁は不信者
の合理的思惟に訴えて因果律の存在を事実として信じさせる力を持
っていると云えるのであり︑少くとも︑景戒にはそのように判断さ
れていたのではないかと考える︒
景戒は︑本縁を﹁鳴呼な都るかな︑古丸狐が虎の皮を借る勢を用
ゐて︑非理に政を為し︑悪報を受けしは︑因果を購み不る賎しき心
の︑太甚だしきなり︒因果無きに非ざるなり︒﹂と結ぴ︑因果律の
存在を強調している︒天皇によって与えられた︑地獄の実在と因果
律の存在への保証は︑他の地獄訪問課のみならず︑すべての因果律
の存在を説く説話︑ひいては霊異記所収の様々な霊異を説く説話の
真実性の保証ともなり得るものであった︒景戒は︑そうした意味
で︑本縁を霊異記の下巻末に据えて︑いわば要石の役割を与えたの
ではないかと考えられる︒ 三八 本縁は事実課としての性格が非常に強いだけでなく︑一面においては天皇の権威にも依りかかっていると云える︒このような説話を巻末に据え︑天皇の権威によって︑日常世界に生起する様々な霊異を説く所収話話を事実として印象付けようとしているのは︑序文をはじめとして度々見られる景戒の権威志向によるものであると云えるが︑一方では︑霊異記においては︑説話の形象性に不十分なものが多く︑説話そのものの方法に頼りきることができなかったことにもよるのであろう︒霊異記には︑上巻廿三縁のように︑人間の悪しき性を見据えて︑優れた形象化を遂げ︑迫真性を獲得した説話をはじめとして︑かなりの優れた説話は存在する︒また︑所収説話は︑霊異記から離れて︑単独の説話として説かれる時には︑説教者の伎個によって︑聴衆の心に迫るものとなったことも確かであろう︒しかし︑霊異記という書物に︑文字によって定着された多くの説話は︑本縁と同じく︑表現や形象性においてそれほどの迫真性は獲得し得ていないのであるから︑それらが事実であることを読者に印象付けるためには︑外的な権威に依りかかることもやむを得なかったのではあるまいか︒ここには︑文献としての霊異記の享受層とのかかわりで︑なお考慮すべき問題はあるが︑そのように言ってよいであろう︒ 本縁はそうした外的権威によって︑因果律の実在を説き︑それを
霊異記全体に及し得る説話であると︑すくなくとも景戒には認識さ
れていたものであろうと考えるのである︒
注
◎ 池田亀鑑﹁説語文学の特性﹂︵﹁国語と国文学﹂昭和十六年十
月号︶
◎ 菅野真道は延暦四年十一月以後︑東宮学士を勤め︑七年六月
から八年三月までは図書助︑十年正月までは図書頭を兼ねても
いる︒︵﹃続日本紀﹄︑﹃日本後紀﹄︶
﹃類聚国史﹄巻百四十七︑文部下︑国史︒
@ ﹃日本後紀﹄
◎ 注 ︑@に同じ︒
@ ﹃帝王編年記﹄は︑このことを述べて﹁価真道︒安人等叙二
二階一巨都雄救二一階一︒﹂とする︒
○ 延暦廿四年の菅野真道の条︒
◎ ﹃日本後紀﹄
武田祐吉﹃日本古典全書日本霊異記﹄頭注等︒
@ 僧位の種類︑順位については異論もあるようであるが︑下か
ら︑入位︑住位︑満位となるところは確実であるようである︒
このことと︑﹃延喜式﹄玄蕃寮の判授位記式にある﹁右満位以
上勅授︒入位以上僧綱判授︒﹂とあることからすれば︑伝燈住
説語と事実 位は僧綱判授となる︒ 一方︑﹃僧綱補任﹄によれば︑施暁は延 暦十二年二月廿日に律師に任命されているから︑景戒が伝燈住 位を授かったとき︑彼は僧綱の一員であったことになる︒従っ て︑そのように言いうるのである︒@ ﹃僧綱補任﹄延暦十二年の条︒@ ﹃類聚国史﹄巻百八十七︑仏道十四︑度者︒@ ﹃延喜式﹄民部上・下︵﹃新訂増補国史大系62・延喜式﹄五 六七頁・五八○頁など︶︒主計上︒@ 北山茂夫﹃日本歴史犬辞典﹄6︑﹁君﹂の項︒@ ﹃令義解﹄公式令の中には﹁九国有二大瑞及軍機︒災異︒疫 疾︒境外消息一者︒各遣レ使馳駅申上︒﹂とある﹁異﹂を解して ﹁異者︒怪変答徴之類也︒﹂としている︒地獄訪間のことが果 してこの類に入るか否かは間題であろうが︑他に﹁九下司申 解︒錐二元レ理︑及事不サ尽︒皆為二受取云々﹂の一条があり︑ そうした事柄も受理されうると考えていたことは推測し得るで あ与う︒@ 岸俊男氏は﹁防人考﹂︵﹃万葉集大成﹄第十一巻所収︶におい て︑この筑紫火君は︑犬宝二年筑前国嶋郡川辺里の戸籍にみえ る大領肥君猪手の祖であろうとしておられる︒宝亀六年といえ ば︑大宝二年からも七十余年後であるが︑また川辺里の位置も
三九
説語と事実
はっきりしないが︑当時嶋郡は︑鳥であったであろうから︑水
軍は維持されていたことであろう︒火君の嶋郡への進出が肥前
国松浦郡からなされたものであるとし得れぱ︑やはり松浦郡の
火君も水軍を形成していたはずで︑その伝統は存在していたと
云えるのではあるまいか︒
@ 四三二七番の歌の作者︒
@ 軍防令に﹁凡兵士上番者︒向レ京一年︒向レ防三年︒不レ計二行
程刊﹂とある︒
@ ﹃続日本紀﹄︑天平九年九月癸巳の条︒天平宝字元年閨八月
壬申の条︒天平神護二年夏四月壬辰の条︒﹃万葉集﹄巻廿︑四
三二一番歌の詞書︒﹃続日本後紀﹄承和十年八月戊寅の条︒
ゆ 土橋寛﹁﹃説語文学と歌藷﹄報告要旨﹂︵﹁説語文学研究﹂第
四号・昭和四十五年三月︶︒
ゆ 柳田国男﹁口承文芸史考﹂︵柳田国男集第六巻七〇頁︶
ゆ 土橋寛︑前掲論文︒
ゆ 拙稿﹁日本霊略記の原撰年時についてー延暦十六年以後原撰
についてー﹂︵﹃国文神戸﹄第二号・昭和四十七年六月︶ 四〇