イタリアの黒死病関係史料集(四)
著者 石坂 尚武
雑誌名 人文學
号 180
ページ 135‑176
発行年 2007‑03‑20
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011076
イ タ リ ア の 黒 死 病 関 係 史 料 集 ︵ 四 ︶
編 訳 石 坂 尚 武
目次
解説と史料
第一八章フィレンツェ書記官長サルターティの疫病論﹃都市からの逃亡について﹄︵一三八三年︶
はじめに
﹇一﹈フィレンツェ市民としての務めを果たせ
││死をも恐れぬローマ人の祖国愛を見習え││
﹇二﹈キリスト教徒としての務めを果たせ
││神の裁きである疫病から逃げずに永遠の生を求めよ││
おわりに
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イタリアの黒死病関係史料集︵四︶
第一八章フィレンツェ書記官長サルターティの疫病論
﹃都市からの逃亡について﹄︵一三八三年︶
﹇解説﹈
史料の意義
一三四八年以降︑ほぼ周期的に繰り返されるようになった疫病に対して︑トレチェント︵一四世紀︶の都市の人びとは︑どの
ように反応し︑どのような行動を取ったのだろうか︒フィレンツェの場合︑富裕な市民の多くは疫病が迫って来ると︑荷物をま
とめて︑都市を見捨ててさっさと農村に逃げ去ったのであった││
ここで紹介するリーノ・コルッチョ・サルターティLinoColuccioSalutati︵一三三一︱一四〇六︶の疫病論﹃都市からの逃亡
について﹄︵一三八三年︶︵ラテン語︶はそうした市民の行動を激しく非難したものである︒この著作は黒死病関係の研究者には
ほとんど注目されることがなく︑これまでテキストが引用されることも翻訳されることもなかったように思う
盧︒それにもかか
わらず︑そこには当代一流の人文主義者による注目すべき独自の疫病の原因論が提示され︑さらに疫病時のコムーネ市民の責務
のあり方︑貧民観︑チョンピの乱︵一三七八年︶直後のフィレンツェの政情︑医師の治療に対する批判などが述べられて極めて
興味深いものがある︒また︑思想史的に見ても︑ペトラルカの﹁キリスト教人文主義﹂を継承したサルターティが︑この著作に
おいて﹁人文主義﹂と﹁キリスト教﹂の二つの異質の価値観を矛盾なく︑むしろ補強しあってひとつの理論を見事に展開してい
る点において︑大いに注目すべきものがあるだろう︒
作品の社会的︑政治的背景と都市からの逃亡││チョンピの乱に至る道││
この著作が執筆された頃︑フィレンツェ共和国の政治はどのような状態であったのだろうか︒
フィレンツェ共和国は︑毛織物貿易業者︵大商人︶・毛織者産業家・銀行家らの富裕市民層︵大市民︶︵ポポロ・グラッソ︶のな
かの一部の有力な家によって支配されていた︵﹁寡頭体制﹂︶︒もともとフィレンツェでは︑大組合︵七つからなる︶に加入できる イタリアの黒死病関係史料集︵四︶
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少数の富裕市民層が政治の実権を握ることのできる政治システムにあった︵同様に︑都市の富も圧倒的な割合で彼らに集中してい
た︶︒ほとんど政治から排除された中下層の市民︵手工業者・小売業者等︶︵小市民︶︵ポポロ・ミヌート︶︵一四からなる小組合に
所属︶や︑日雇いの毛織物労働者を主とする貧民層の不満は︑通奏低音のごとく常にフィレンツェ市内に響いており︑時には大き
な轟きとなって爆発したのであった︒
都市に疫病が発生したり︑近づいたと聞くと︑富裕市民層は必要な物資を買いだめし︑荷物をまとめ︑家族・使用人ともども︑
農村部にある自分たちの別荘へさっさと逃げ去ったのであった︵彼らの多くが︑農村部に別荘や耕地やぶどう畑を所有し︑そこで
農民﹇小作人﹈を雇用していた︶︒農村部へのこの一時的な移転は非常に出費がかさんだ上に︑彼らが携わっていた経済活動や都
市の行政的︑政治活動の一時的停止を余儀なくするものであった︒しかし疫病がかなりの確率で容赦なく人びとを死に追いやる現
実のなかで︑やむを得ない行動と考えられた︒疫病は次々とやって来た︒二度目が一三五九年︑三度目が一三六三年︑四度目が一
三七一年︑そして五度目が一
三 !
八 !
三 !
年 !
年た著作が執筆され│ィ│というように数のテ│こ│まさにこの年︑こーで紹介するサルタ !
から十数年の周期でやって来た︒こうして都市からの逃亡は︑次第に疫病に対する上層市民層の︑当然の習慣的︑集団的な行動と
なっていった︒
しかし上層市民層のこの集団的行動には実は問題があった︒サルターティが︑ここで紹介する文献において声を大にして批判す
るのは︑まさしく彼ら上層市民層の都市からの逃亡であった︒彼によれば︑この逃亡は都市に極めて深刻な社会的︑政治的問題を
招くものであった︒それは︑彼らが逃亡することで︑それまでくすぶっていた都市の下層階級の労働者の不満が表面化して治安の
悪化││不穏な動きや暴動││につながるというものであった︒その経過を知るために︑ここでこの著作が執筆された一三八三年
に至るフィレンツェの歴史的状況に目を向けたい
盪︒
﹁苦難の世紀﹂︑すなわち飢饉や天災や戦争や経済不況が相次いで起こったトレチェントの世紀︑特にその中葉以降は︑慢性的に
社会不安の強い時代であった︒フィレンツェの場合︑黒死病に先立ってさまざまな状況がこれに拍車をかけ︑政治的︑経済的状況
を悪化させていた︒黒死病直前の時代においてフィレンツェは市壁内︵約六三〇ヘクタール︶に人口一二万人︵ハーリヒ他︶
蘯を抱
えていたが︑そのうち三分の一の人びとが毛織物産業に従事していたという︵一三三八年︑年代記作家G・ヴィッラーニ︶
盻︒毛織
物産業は前世紀から順調に発展し︑それによって一部の有力な上層市民層は巨大な利潤を得て︑その利潤をもとに貸し付け︵銀行
業︶を営んでいた︒ところが︑まずイングランド国王エドワード三世に貸していた巨額の金が︑同王の支払い停止令︵一三三九
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年︶によって返済されずに︑その結果大打撃を受けたフィレンツェの二大銀行バルディ家︑ペルッツィ家が相次いで倒産してしま
う︵一三四三〜四六年︶︒さらに︑毛織物産業と国際貿易を支えるフィレンツェの富はこの二つの銀行に集中していたことから︑
直接このあおりを受けてフィレンツェの多くの主要な富裕市民の事業が崩壊した︒一方︑この金融恐慌のあおりを受けなかった︑
メディチ家などの新興勢力がそれに代わって台頭するチャンスを得た︒ここに︑都市の政治を支配する大組合に属する都市上層部
の中において勢力交替の動きが活発化して︑新旧勢力の対立が激しくなった︒
都市の上層部の対立のほかに︑政治から締め出されていた小組合の構成員である中小の市民層︵手工業者・小売業者︶も政治参
加を強く求め︑都市の大商人に圧力をかけていた︒また︑周辺領域︵都市郡部︶︵コンタード︶からやって来て武力で威圧する
︵した︶豪族︵封建領主︶と︑それに対して﹁正義の規定﹂によって豪族の威圧的権力を市政から排除しようする﹁都市大商人﹂
との対立︵フィレンツェでは後者が優位︶︑ギベリン派︵皇帝派︶とゲルフ派︵教皇派︶との抗争︵フィレンツェでは後者が優位︶
が︑前世紀からつづいて慢性的に内紛や戦争を引き起こしていた︒これは第九章で紹介したマルキオンネがその年代記で詳しく分
析するところである︒
この危機の時期に︑都市内で熾烈化した党派的︑階級的対立を解消するねらいから︑中立的な第三者に権力を委ねて︑その調停
的支配によって対立を緩和しようとする試みがなされたこともあった︵一三四二年︑アテネ公のシニョーレ﹇独裁君主﹈任命︶︒
しかしシニョーレを導入した統治の試みは結局すべての党派・階級から不満を招き︑シニョーレを追放することとなった︒そして
その追放のために富裕市民は小組合に大きく譲歩して
眈ーで員成構枢中の︶府政市都︵アリ︑てそれまで与えいョなかったシニあ
るプリオーレ︵最高行政官︶︵全部で八人︶のポストうち二つを小組合に与えることとなり︑ここに中小の市民層︵ポポロ・ミヌ
ート︶の市政への参加が開かれることになった︵一種の民主化の動き︶︒この中小の市民層の政治的進出は︑経済不況によって没
落しつつあった旧勢力の弱体化と対応する動きであったといえるかもしれない︒しかもこの中小の市民層の背後には︑市民権のな
い︑いつでも要求運動や暴動騒ぎに参加しようとする貧民層が群れをなして控えていた︒
こうした︑もともと深刻な政治的︑経済的混迷のなか︑まさに黒死病が容赦なくフィレンツェ共和国を直撃した︒
市壁内の総人口一二万人のうち︑その半数かそれ以上の人びとの命がこの黒死病によって奪われ︵このほかに疫病の都市から流
出した者も多数いたはず︶︑この結果︑ハーリヒの研究によると︑一三四八年直後のフィレンツェの人口は四万二千人にまで落ち
込んだのである︒この人口の大減少が都市のあらゆる側面において影響を与えないはずはなかった︒それはまず勢力交替にいっそ イタリアの黒死病関係史料集︵四︶
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う拍車をかけた︒事実︑黒死病のために滅びる旧勢力の家も多数あり︑不法な︑または疑わしい遺産相続等でその遺産を手に入れ
て台頭した成り上がりの人びとがいて︑勢力争いに参入した
眇︒
また︑都市は人口激減を埋め合わせする政策として近隣のコンタード︵周辺領域︶から下層労働者︵主としてチョンピと呼ばれ
る毛織物労働者︶を引き入れたほか︑税金免除などの優遇措置を提示してアレッツォなどの従属都市︵ディストレット︶から有力
市民を招いた︒従属都市からやって来た有力な市民もまた勢力争いに参入することになった︒
また︑重要なことに︑ペストによる人口の半減は││一家全滅︵!︶の家も多くあった││︑当然ながら︑都市の上層部におい
ては生き残った人間の資産を二倍︑三倍にさせた︒そのため富裕化した市民においては贅沢を追い求める風潮が顕著となったとい
われ︑事実︑ここに市民一般に対して繰り返し奢侈禁止条例が発布されるようになった︒下層部においては都市人口の半減は︑そ
の労働力の価値を倍加させる傾向をもたらした︒農村部の農地についてもそうであったが︑作業場があっても働き手がなければ収
益は得られないからである︒そこで使用者側は労働力の獲得のために賃金を上げざるをえなくなった︒ここに下層労働者は︑賃金
や労働条件において以前より格段に優遇されるようになった︒この時期︑イタリアに限らず多くの都市で労働者に対する賃金抑制
の試みが条例によって頻繁に試みられたが︑これは体制側の苦慮を表している︒また︑一三七〇〜八〇年代に多くの国で農民や労
働者の反乱が頻発するのは偶然ではない︵M・モラ︑
Ph.パ︑爪い青︱動運衆民の期末世中ッヴローヨ﹃︶訳生義原瀬︵フルォジ
ャック︑そしてチオンピ︱﹄ミネルヴァ書房一九九六年︶︒疫病が社会不安を高めたこともあろうが︑ある意味で彼らが反乱を起
こすだけの力をつけてきたということもできる︒こうして一三四八年の黒死病以後の状況のなか︑中小の市民層・下層労働者の存
在感は︑都市において以前よりもいっそう顕著に認められるようになったのである︒││固有名詞︵人名︶で語られることがな
く︑気まぐれで︑様々な規模で群れをなし︑とらえどころのない下層民︵フィレンツェ総人口四万人のうち三万人ともいわれる︶
の動向こそ︑フィレンツェ史において決して無視できないファクターである︒彼らの存在は後にメディチ家︵しばしば彼らに配慮
した策を講じた︶の台頭やサヴォナローラの台頭︵そして没落︶に少なからず影響を与えるのである︒
こうしたなか世に言う﹁チョンピの乱﹂が勃発した︒一三七八年七月︑市政への不満から広場に集まって暴動を起こした一万人
ものチョンピは︑暴徒となって有力な富裕市民の家々を次々に焼き打ちし︑市庁舎にまで火を放った︒そして彼らは警備隊長をさ
らし首にし︑市庁舎に立てこもったプリオーレたちを追い出して︑中下層の市民と提携して︑そのポストに小組合のメンバーと毛
織物産業労働者の出身者を就かせたのである︒この時︑サルターティは命からがらサン・マルコ教会に逃げ込んだという
眄︒この
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チョンピの乱は︑そのあまりの過激さに恐れをなした中小の市民層が彼らを見捨て︑チョンピの指導者ミケーレ・ディ・ランドが
富裕市民から買収されるなかで短期︵四〇日間︶に瓦解し︑鎮圧された︒こうして政治世界からチョンピの勢力が排除され︑その
後小組合を一定尊重した形で小組合と大組合の協調の体制が続く︒しかし︑次第に大組合の巻き返しが進み︑結局一三八三年に︑
実質的にアルビッツィ家などの一部の家の支配による﹁寡頭体制﹂が樹立された︵制度史的に見て︑この体制は︑一四三四年に始
まるメディチ家独裁体制の基礎を築いたといえる︶︒産業的に見ても︑この時期のフィレンツェは︑他都市の毛織物産業がペスト
による人口減に伴う需要減少によって落ち込んだのに対して︑その上質さによって勝ち残ったのであった︒フィレンツェはこの寡
頭体制のもとに︑アレッツォ︵一三八四年︶やピサ︵一四〇六年︶など周辺の有力都市を次々と征服して︑領域支配の拡大に成功
したのであった︒また︑美術史的に見ても︑この体制においてルネサンス絵画様式の決定的な到来を告げるファンファーレ︑すな
わちマザッチョのブランカッチ礼拝堂が制作された︵一四二七年︶︒││しかし︑その一方で抑圧された下層労働者の不満は消え
ることなく︑以後もくすぶり続け︑時にはそれは暴動となったのであった︒不穏な動きは︑特に疫病が都市に迫り︑都市から富裕
市民たちが立ち去ってしまった時︵この時︑日雇い労働者は︑職を失い収入が断たれた上に︑慈善による食料の配給も断たれて飢
えに苦しんだ︶などにしばしば表面化し︑略奪行為に及んだりしたのであった︒事実この書簡の書かれた一カ月前に︑暴動と略奪
が発生したばかりであった︒
サルターティが︑この著作において富裕市民層の都市からの逃亡をひとつの社会問題として非難したのは︑そのことによって︑
誇るべき祖国フィレンツェ共和国が下層労働者や中小の市民層の無法な支配にさらされることを危惧してのことであった︒疫病の
流行するフィレンツェは︑こそ泥と暴徒がはびこり︑略奪がまかりとおる無法者の世界に化してしまうからであった︒││ここに
﹁黒死病の到来﹂が都市の﹁社会的︑政治的状況﹂にも大きく作用したひとつの歴史的側面が認められるのである︒
コルッチョ・サルターティと作品
サルターティはイタリア中部のトスカーナ地方のルッカとピストイアの間にあるスティニャーノに生まれた︵一三三一年︶︒父
がゲルフ党の有能な政治家としてボローニャのペポーリ家に招かれた関係で︑ボローニャに行き︑そこで公証人養成学校で学んだ
後︑故郷に戻り︑それから約二五年間トスカーナやウンブリアの都市において公証人として働いた︒それから一三七四年にフィレ
ンツェから公証人として雇われた︒この年はちょうど人文主義の父ペトラルカの死んだ年であった︒そして翌年の一三七五年にサ イタリアの黒死病関係史料集︵四︶
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ルターティは栄光のフィレンツェ書記官長に昇進したのであった︵四四歳︶︒この年はもうひとりの偉大な人文主義者ボッカッチ
ョが死んだ年であった︒それから三一年間︑七五歳で死ぬ一四〇六年までサルターティは︑一方で書記官長として修辞学を駆使し
た外交書簡によってフィレンツェの内外に高い名声をとどろかすとともに︑他方でペトラルカ亡き後の一四世紀後半において︑人
文主義研究の実践︵写本の研究・分析など︶と︑北イタリアの知識人・人文主義者や教皇庁の知識人や人文主義者との知的交流に
よってイタリア人文主義運動の中心的存在として活躍したのであった︒
また︑サルターティはギリシャからマヌエル・クリソロラス︵一三五〇︱一四一五︶を招いて︑彼が依頼したその約三年間の講
義︵一三九七︱一四〇〇︶によってフィレンツェやイタリアのギリシャ古典研究の基礎作りに貢献した︒これによってそれまで古
代ローマ文化に片寄っていた傾向︵これにはローマ人が自分たちの祖先であるという意識が作用していた︶から︑関心は古代ギリ
シャ文化をも加えたものへと広がりを見せるようになった︒これ以後古代ギリシャ語の文献の翻訳が圧倒的に増えていった︒
サルターティの著作はキケロなどの古典古代の作家にならって主に書簡体形式︵書簡論文︶を取っている︒ここで紹介する史料
﹃都市からの逃亡について﹄もアントーニオ・ケッロ宛の書簡である︒なお彼の﹃僭主論﹄︵一四〇〇年︶︑﹃ペッレグリーノ宛書
簡﹄︵一三九八年︶については︑編訳者︵石坂︶の詳しい内容の紹介と分析がある
眩︒
議論の展開過程
この書簡形式の著作﹃都市からの逃亡について﹄は︑友人アントーニオ・ケッロが書いて送って来た書簡による﹁反論﹂に対し
て回答した︑一種の﹁反批判﹂である︒その文面からサルターティとアントーニオの間で交わされた議論は︑おそらく次のように
展開されたと推測される││
最初︑サルターティは︑書簡を通じて││いや直接口頭によるかもしれない││アントーニオに対して疫病を恐れて都市から逃
れる行為を批判した︒この時︑アントーニオの様子は疫病死への怖さから﹁打ちひしがれて茫然自失の状態にいた﹂︒﹁身体に熱は
ほとんど残っていないように見受けられた﹂︒この時︑彼からは反論︵する元気︶がなかったようである︒
しかし︑しばらくしてから︑サルターティの﹁批判﹂に対して︑アントーニオはおそらく移転先から︑サルターティにとって意
外にも︑猛烈な﹁反論﹂の矢を放ってきたのであった︒それは極めて激烈なことばづかいであった︒逃亡者を責めて刺激したこと
から返ってきた激烈な﹁反論﹂は︑サルターティが以前みずから書いた詩の一節﹁蜜蜂の巣箱に指を入れる者は蜂に刺されるのを
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覚悟せよ﹂を思い起こさせるものであった︒しかし︑サルターティは﹁私に怒りをぶつけるまでに力を回復したこと﹂にこの上な
い安堵の念を感じたのであった︵ここには皮肉もあろう︶︒
ではアントーニオはサルターティにどのような﹁反論﹂││逃亡の正当化││をしたのか︒サルターティがそれに回答した﹁反
批判﹂の文面から推測して︑その要旨は︑およそ以下のように考えられる││
﹁感染した地域を逃れよ﹂とは︑医師が勧めることだ︒毒された地域の大気から逃れ︑田舎の健康な大気に移転するのがよい
のだ︒疫病に毒された都市に留まることは死の危険性が非常に高いのだ︒これまでの経験によれば︑都市を逃亡した者のう
ち︑死亡する者は一〇〇人のうち一人いるかいない位なのに︑祖国に留まった者は︑大体四分の一か五分の一の者がその命を
落としているのだ︒
命ほど尊いものはないのだ︒この尊い命を失ってしまっては善行をすることもできない︒命を守ること︑それは富を蓄積す
るためではなく︑また貪欲の炎をあおるためでもなく︑傲慢な者を誉めそやすためでもなく︑我々の子供ために︑そしてその
他の必要な物を得るために︑そして友を助けるために︑さらに貧乏な人を助けるために必要なことなのである︒
君は︑祖国を守るためといって祖国に留まっているものの︑所詮君も疫病を恐れて人と交渉を絶っているのだろう︒じっと
家に閉じこもっているのだったら︑我々のように都市を離れ︑田舎に引っ越して暮らしているのと変わらないではないか︒
君は飢えた悪党どもが町で略奪したり︑家のなかに入って窃盗行為をするといった︑都市の治安の悪化を恐れるが︑祖国に
はまだ多くの者が残っている︒大部隊が兵士や騎士や歩兵を徴用している︒それは裏切り者の企てやたくらみに対して防衛を
確固たるものにするためである︒だから︑我々が祖国をあとにして田舎に引きこもったからといって良心の呵責を覚える必要
はないのだ︒
君は我々の祖国愛はどこへ行ったかというが︑たとえ祖国の地を離れても︑我々のこころは常に祖国に留まっており︑祖国
への愛にかけては誰にも負けないつもりだ︒我々はどこへ行っても常に祖国フィレンツェを追い求めているのだ︒ イタリアの黒死病関係史料集︵四︶
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サルターティの主張││二元的価値観││
祖国愛について
都市からの逃亡を断固として拒否するサルターティが論拠としたものは何であったか︒その論拠は二つある︒ひとつは市民的︑
世俗的な価値にもとづくものである︒ここでは具体的には﹁共和国への愛﹂である︒
サルターティは︑ここで強く訴える││﹁イタリアで最も偉大な﹂︑﹁自由な都市﹂︑﹁学芸の盛んな﹂︑﹁軍事力の恐るべき﹂国で
あるフィレンツェを︑疫病が来たからといっておめおめと﹁悪党ども﹂︵チョンピのこと︶の支配に委ねてしまっていいものか︒
連中こそは︑﹁以前町に火を放ち︑多くの市民を追放し︑最富裕層の人びとの家を略奪したのだ﹂︒祖国が窮地にある時は自分の命
をかけてでも祖国を守らねばならない︒祖国は失って初めてその大きさがわかるものだと説く︒
この強い主張にはサルターティの書記官長としての責任ある立場が作用しているであろう︒彼はフィレンツェ書記官長として就
任した一三七五年以来この時点で十年以上に及んで︑フィレンツェの三つの最重要政治機関シニョリーア・一六人会・一二人会に
参加した︒そして︑そこでの審議を議事録にまとめ︑その要請にしたがって︑諸外国に送る外交書簡の文章を作成するという重要
な任務に従事していたのである︒サルターティは就任以来ずっと︑諸外国に対して︑ペンを執って修辞学を駆使して︑﹁フィレン
ツェ共和国の自由﹂と文化を高らかに賛美してきたのであり︑その表現力は敵国の羨むところであった
眤︒サルターティは︑その
表現力でいわばフィレンツェの知性と精神の象徴的存在であった︒恐らくこうして培われたサルターティのフィレンツェへの思い
が︑疫病時であってもフィレンツェに留まり続け︑祖国を守り続けようという決意につながったのであろう︵彼は︑ペトラルカと
同様に︑その強靭な体力と健康さによって生涯に体験した疫病のすべてを生き抜いた︶︒アントーニオ宛のこの書簡にはその強い
信念がみなぎっている︒その信念は公的な責務にとどまらずに︑揺るぎないのない私的な信念にまで達していることを感じさせ
る︒
サルターティは︑力のこもったつぎのような修辞的表現で︑祖国は死守しなけれなならないと訴える︒
﹁君たちは︑おこりうる死の危機に対しては︑都市・祖国を放棄してもかまわないと考えている︒君たちの祖国フィレンツェ
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イタリアの黒死病関係史料集︵四︶
は︑トスカーナで最も重要であり︑イタリアで最も偉大で︑世界で最も有名であり︑市民が最も大きな誇りを抱いている︑自
由な都市である︒それは至るところで自由の創造者である︒この祖国こそは︑隣国の人びとが敬い︑敵対する人びとが恐れ︑
王たちが称え︑諸国の人びとが多くの点で羨む国ではないか︒また︑学芸の盛んな国であり︑その軍事力によって恐るべき国
ではないのか︒英雄たちよ︑ローマ人の血を継ぐ者たちよ︑ローマ人の相続者たちよ︒本当に死ぬかどうかわからない程度の
死を避けるのはさておいて︑たとえ間違いのない死への恐れのためであっても︑これほどまでに偉大な祖国を見捨てて︑恐怖
心と無力感を抱いて︑悪党どもの支配に委ねてしまう││これがいったい名誉なのだろうか︒﹂
眞
そしてこの主張に知的︑権威的バックボーンを与えていたのが︑彼がペトラルカから受け継いだ人文主義的価値観であった︒そ
れはキリスト教的価値観とは異質なものであった︒それは本質的に市民生活・公生活を関心とする価値観であった︒それは︑古代
ローマの一市民キケロの生き方を模範とするものであった︒彼にならってルネサンス人文主義者たちは︑﹁市民的﹂生活に向けた
﹁雄弁術﹂︵修辞学︶と﹁道徳哲学﹂︵哲学︶の追求を目指す姿勢を備えていた︵したがって︑キケロやペトラルカにならう一五世
紀の﹁人文主義﹂にはすでにそれ自体に﹁市民的﹂なものが本質的なものとして内包されているわけだから︑そこにさらに﹁市
民 !
!
的 !
﹂︵人文主義︶ということばをつけ加えて使うのは︑不適当であろう︶︒具体的には︑彼らは︑たとえば︑﹁この世﹂に生きてい
く者への指針・理想として︑その世俗的価値観の象徴として︑世俗的な﹁美徳﹂を提示し︑その追求を刺激したのであった︒││
この考え方は︑現世蔑視の傾向の中世キリスト教の考え方に対して全く新しい︑まぶしいほどの価値観であったといえる︒
﹁あなたは︑美徳の宝を追求しなくてはならない︒またきわだった栄光による名声を獲得しなければならない︒﹂︵ペトラルカ︶
眥
そしてこの美徳の具体的な内容や実践例が古代ローマ人の残した古典にあるとされ︑古代人の残した写本の収集やその紹介・解
釈が精力的におこなわれるようになったのである︒ペトラルカが後世の人文主義者に残した遺産は︑﹁指針︵美徳︶の掲示﹂とそ
れへの﹁アプローチの仕方﹂︵古典の研究︶︑そして市民的︑世俗的生活での実践の重要性を示唆したことであろう︵一五世紀の人
文主義者はいう││﹁ペトラルカは我々が学問を獲得できるように我々に道を開いてくれた﹂︶
眦てと典古﹁︑もい︒おに簡書のこ古
代人に従え﹂という人文主義的立場から︑祖国愛のみなぎる古代ローマ人が示した模範的実践例が次々と挙げられて︑書簡の主張 イタリアの黒死病関係史料集︵四︶
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の核心部を飾っている︒そしてその主張は︑象徴的には高々と掲げられた世俗的な﹁美徳﹂の提示となって結晶化しているのであ
る︒
﹁君たちの意思の自由は︑ただ︑どのような生き方をするかということにおいてのみ︑残されている︒それだから︑君たちの
この逃亡は不名誉なことである︒その逃亡こそ︑あらゆる美徳と対立するものである││この美徳こそは︑正直な人の根底を
完全に築くものであるのだ︒﹂
眛
キリスト教的価値観
都市からの逃亡を非難するサルターティの論拠の二つ目は︑キリスト教的な神観念から帰結するものであった︒恐らくこの神観
念は︑彼の独自の見解ではなく︑中世や近世の多くの人びとと共有された考え方であろう︒
疫病は︑サルターティの理解するところによると︑神の裁きであり罰であった︵これはペトラルカを初めとして当時の共通の認
識であった︶︒したがって疫病が到来したから都市から逃げるという行為は︑不遜にも︑神の裁きから逃げることを意味した︒サ
ルターティは言う││﹁他の場所に逃亡することで神の裁きを回避できると思う人びとのなかに︑どのような信仰が存在しえよう
か﹂︒サルターティによれば︑聖グレゴリウスのいうように︑﹁人間はこの世でどれだけ生きるかは決定されている﹂︒人に下され
る罰は神の怒りによるものであり︑人の命は神の意思次第なのである︒どこへ逃げようと死ぬ場所と死ぬ時期は神によって何世紀
も前から決定済である︒都市に残って疫病で死んだ人の場合︑彼らはもともと疫病で死ぬ運命にあったのだ︒彼らはどこに逃げて
いても︑死ぬ日がやって来た時には︑命を奪われたはずなのだ︒一方︑都市に残っても死なない者は死なないのだ︒逆に︑都市を
逃れても︑神の決定によって死ぬ運命の者は死ぬのだ︒神のみが︑人がどこに逃げようと︑望まれる時に︑死をその避難場所に送
り込むことができるのだから︑住む都市を変えることで死から免れることができると考える人びとの願いは︑いかに浅はかなもの
であることか││そう︑サルターティは主張する︒こうした意味から︑サルターティによると︑神の与えた運命に逆らうことは︑
キリスト教的な美徳すなわち﹁対神徳﹂virtustheologica︵﹁神学的徳﹂︒信仰・希望・愛からなる︶に反するものである︒﹁対神徳﹂
とは︑スコラ学者トマス・アクィナスもその﹃神学大全﹄でも考察した伝統的なキリスト教概念である︒││このように見てくる
と︑都市からの逃亡こそは︑サルターティにおいて二重の悪となる︒一方の﹁キリスト教的価値観﹂からは神の決定した運命に逆
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イタリアの黒死病関係史料集︵四︶
らう行為として﹁対神徳﹂に反する悪であり︑他方の﹁人文主義価値観﹂にもとづく祖国愛という﹁美徳﹂の観点からも︑祖国を
裏切る行為として悪なのである︒
同じことは︑﹁死を恐れるな﹂という主張についてもいえる︒まず祖国の救済のためには︑古代ローマ人の示した美徳にならっ
て︑死を恐れず命を捨てよ︑と訴える︒そして︑それに追い打ちをかけるように︑続いて︑キリスト教徒として﹁この世での命な
ど︑取るに足らないものだ││むしろ死後の永遠の生を考えよ﹂と訴える︒つまり︑死を恐れるなという主張を支えるものは︑全
く異質な二つのもの︑すなわち︑古代ローマ人の﹁美徳﹂と﹁キリスト教的来世観﹂の二つなのである︒
﹁君はこう言うのだ││いったい﹁生﹂以上に尊いものがほかにあるだろうか︑と︒もしそれが﹁永遠の生﹂を意味するなら
ば︑疑いなくそれ以上尊いものは何もない︒もし君が頭のなかで︑哲学者のなかでも最も優れた哲学者たちが︑死をそのよう
に定義づけた︑滅びるべき︑はかないこの世の﹁命﹂を考えているならば︑これほどつまらないものはなく︑さして責任をも
って手当すべきほどのものではないのだ︒﹂
眷
﹁我々において生への愛は生来のものである︒なぜなら我々の身体は感覚的であるという点で動物と共通し︑生きているとい
う点で植物と共通している︒しかし霊魂を感覚と区別する者は︑その気持ちを表明してこういうのである││︒﹃私は朽ち果
ててキリストとともにいたいと望む﹄と︒﹂
眸
このように見ると︑サルターティにおいては︑水と油のような二つの異質な価値観は相互に対立するのではなく︑むしろ支え合
うものとして同居しているのである︒サルターティの考え方においては︑ペトラルカの場合と同様に︵以後の人文主義者も多かれ
少なかれそうなのだが︶考え方のすべての前提にキリスト教的価値観があったが︑その価値観の土台の上に人文主義的価値観││
美徳││をうまく植え付けたものといえるだろう︒厳密には︑異質なファクターの共存として︑そこには矛盾が内包されているか
もしれないが︑姿勢としては︑むしろ両者は提携・協調する方向へと向けられているのである︒この姿勢は︑この著作においてう
まく成功しているといえよう︒ イタリアの黒死病関係史料集︵四︶
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疫病の原因について
疫病の原因についてサルターティは鋭い観察を展開している︒彼自身が経験した事例から︑疫病の原因について当時信じられて
いた大気腐敗説を直撃する疑問を提示している︒
﹁今回私が目の当たりにしたことだが︑フィレンツェの市壁の外側では︑市門の入口の前まではこの疫病が猖獗を極めていた
のに︑一度市壁のなかに入ると︑誰ひとり疫病にかかっている者はいなかったのである︒これはなぜなのか︒さらに︑ピサの
都市では︑市壁のなかでは人々は病気に侵され始めていたのに︑一方市門の外に出ると︑そこではどこもかしこも健康そのも
のであったが︑これはいったいなぜなのか︒﹂
睇
市壁の内側も外側も全く同じ大気のもとにあるのに︑全く状況が異なるのはどういうことだ︒大気腐敗説ではどうにも説明のつ
かないこの状況を指摘することでサルターティは︑当時の医師の権威主義的︑観念的な﹁治療﹈に対して不信感をぶちまけてい
る︒﹁医者は︑私に言わせれば︑疫病について自分が何もできないことを穏やかに表明しているにすぎないのだ﹂︒そしてサルター
ティは︑多くの人びとは医者など必要とせずに最高の健康を楽しんでいること︑病人は自然の作用によってみずから治癒している
こと︑医者は死を防ぐ措置をわからぬままに︑我々の身体を実験しているにすぎないこと︑さらに︑彼らは治した患者の数よりも
多くの患者を殺していることなどを指摘して︑率直に医師の存在を疑問視する︒そして疫病の原因については︑それは人知の及ば
ぬ神によるものであると結論して︑キリスト教的価値観に回帰するのである︒当時の他のすべての人びとと同様に︑サルターティ
にとって︑ネズミ︵クマネズミ︶やノミ︵ペストノミ︶の存在は目に入らず︑人間がその媒介によって発病するとは全く思いもよ
らないことであった︒こうして原因についてキリスト教的見地からサルターティは次のように結んでいる││
﹁私の言うことを信じなさい││こうした出来事は︑超自然的なことなのだ︒なぜなら︑超自然的な創造主は︑疫病を広げる
のに︑風や沼の発散物や毒された遺体を必要としないのだ︒神は︑ほんの一言発するだけですべてを創造されたように︑ほん
の一言ですべてを破壊することもできるのである︒﹂
睚
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イタリアの黒死病関係史料集︵四︶
この著作においてサルターティの主張は全体として首尾一貫したもので︑修辞学的表現を駆使して極めて雄弁であり︑また堂々
たる自信にあふれている︒しかし︑アントーニオが提示した問題のなかに﹁死の割合の問題﹂がある︒すなわちアントーニオによ
ると︑都市からの逃亡が正当なものである理由として︑割合として︑都市に留まった者の多くは死に︑都市を逃亡したものは死な
ない︒だから逃げるのだという考え方である︒これに対してサルターティは彼を納得させる明快な回答ができたであろうか︒これ
に対するサルターティの回答は︑観念的であって説得力に欠けるように思われるが︑どうだろうか︒
いずれにしても︑サルターティの見解はおそらく少数派であったように思われる︒まず︑文献としても他にサルターティと同意
見の見解はイタリアにおいてこれまでのところ見出すことができない
睨指え訴のィテータルサ者導的︒知のェツンレィフ︑たまた
主張にもかかわらず︑歴然とした事実として︑これ以後も疫病を回避して都市から逃亡する富裕なフィレンツェ人の習慣はごくあ
たりまえのことであった︒アヴィニョンの教皇フレメンス六世もアヴィニョンから逃げた︵一三四八年︶︒
むしろ問題は﹁農村に向けていつ出発するか﹂であったようである︒第一章で紹介したジョヴァンニ・モレッリの場合︑疫病が
近づいたら︑この時ばかりは必要なものを惜しまず買って︑さっさと逃げよ︑とはっきり指示している︒問題は︑人様から目立っ
てはいけないということであった︒﹁最初の何人かが動きだし出発した後に︑自分の出発を決断しなさい﹂
睫︒││目立たない頃を
見計らって出発するというあたりに︑都市からの逃亡者には︑やはり一定の良心の呵責を感じている姿が認められるように思われ
る︒
テキスト︵全訳︶︵ラテン語︶は以下による︒EpistolariodiColuccioSalutati,ed.FrancescoNovati,Fontiperlastoriad’Italia,II,83
−98,Roma,1891−1911.なお︑本著作には︑著者自身がつけたタイトルや見出しは一切存在していない︒﹃都市からの逃亡について﹄
という作品名も編訳者が与えたものである︒また︑これまでどおり︑日本語訳での見出しは編訳者が便宜的につけ加えたものであ
る︒
注盧
この作品についてのサルターティ研究者による言及は以下を参照︒Ronald.G.Witt,HerculesattheCrossroads.TheLife,
Works,andThoughtofColuccioSalutati,Durham,1983,280−81.黒死病関係の研究者の言及は以下を参照︒AnnCarmicael,
“PlagueLegislationintheItalianRenaissance”,BulletinoftheHistoryofMedicine,vol.XI,No.5,May,1942,Firenze,1978,510.都 イタリアの黒死病関係史料集︵四︶
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市からの逃亡についてのサルターティの考え方は︑フィレンツェ・プラトニズムの関係から清水純一によって早くから言及
されている︵ただし出典は明示されていない︶︒清水純一︵近藤恒一編︶﹃ルネサンス人と思想﹄平凡社一九九四年七
九頁︒
盪
フィレンツェの政体とその歴史について以下を参照︒齋藤寛海﹃中世後期イタリアの商業と都市﹄知泉書館二〇〇二年︑ジ
ョルジョ・スピーニ︵森田義之︑松本典昭訳︶﹃ミケランジェロと政治メディチに抵抗した︽市民=芸術家︾﹄刀水書房
二〇〇三年︑三森のぞみ﹁十四︑十五世紀フィレンツェにおける司教選出とその法規定﹂﹃史学﹄六五巻第一・二号平成
七年︶︒G・プロカッチ︵斎藤泰弘訳︶﹃イタリア人民の歴史
蠢keaEforldWoivicCeThr,ucBrneGerly﹄︑年四八九一社来未 RenaissanceFlorence,Princeton,1977;GinoCapponi,StoriadellaRepubblicadiFirenze,Firenze,1976.ドゥッチョ・パレストラ
ッチ︵和栗珠里訳︶﹃フィレンツェの傭兵隊長ジョン・ホークウッド﹄白水社二〇〇六年︒
蘯
DavidHerlihyandClapisch-Zuber,ToscansandtheirFamilies:aStudyoftheFlorentineCatastoof1427,NewHavenandLondon,
1985,69.
盻
Villanilib.VI,cap.XCIV.
眈
ミラード・ミース︵中森義宗訳︶﹃ペスト後のイタリア絵画﹄中央大学出版部一九七八年九一頁︒
眇 M・ヴィッラーニ︵MatteoVillani︶の年代記より﹁人々が死亡したことで土地生産物は恵まれるにちがいないと人々は考え
た︒しかし︑反対に人間の恩知らずのために︑どれもこれもが並々ならぬほどの欠乏状態に陥った︒そしてそれは長期間続
いた︒⁝⁝地方によっては飢饉はきわめて深刻であった︒⁝⁝賃金や製品は2倍以上︑収拾のつかぬくらいあがった︒⁝⁝
戦争や様々なスキャンダルが︑人々の思惑に反して世界中に生じた︒﹂︵Villanilib.I,cap.V.︶ 眄
Ronald.G.Witt,136.サルターティとチョンピの乱については︑拙著︑第二部第一章﹁フィレンツェ書記官長職と人文主義
者﹂参照︒
眩
拙著︑第一部第一章﹁文献の総合的視野からの把握︱サルターティの人文主義と﹃僭主論﹄︵一︶︱﹂・第二章﹁人文主義的
著作の成立背景とその文学形式︱サルターティの人文主義と﹃僭主論﹄︵二︶︱﹂︑第三章﹁市民的人文主義の理論と﹁活動
生活﹂の優位の問題﹂︱サルターティ﹃ペッレグーノ宛書簡﹄を読む︱﹂︒︵なお後者の書簡の紹介と分析については批判も
ある︒近藤恒一書評﹁石坂尚武﹁ルネサンス・ヒューマニズムの研究︱﹁市民的人文主義﹂の歴史理論への疑問と考察︱﹂
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イタリアの黒死病関係史料集︵四︶
﹃ルネサンス研究﹄
蠹︶︒ 眤
ここでいう﹁フィレンツェ共和国の自由﹂とは﹁共和国の自由﹂ではないことに注意︒すべての前提として︑この時代はコ
ムーネ︵都市国家︶の乱立・抗争する時代であり︑食うか食われるか非常に緊迫した時代あった︒だからこそ︑この﹁自
由﹂は︑ひとつのコムーネにとって美しく響く美辞麗句にとどまらずに︑内実のある切実な叫びでもあった︒しかしあくま
で﹁自国の自由﹂であって﹁他国の自由﹂まで守ろうという普遍的なイデオロギーでも普遍的な主張でもなかった︒それど
ころかフィレンツェ共和国はむしろピサやリヴォルノなど他国を侵略・支配︑搾取していったのである︒レトリックが重視
された時代の﹁表現﹂と﹁現実﹂との乖離に注意したい︵拙著二九八︱九九頁︶︒
眞
EpistolariodiColuccioSalutati,ed.FrancescoNovati,Fontiperlastoriad’Italia,II,Roma,1891−1911.85
眥
拙著︑一六三頁︒
眦
J.E.Seigel,RhetoricandPhilosophyinRenaissanceHumanism,Princeton,1968,31.
眛
EpistolarioII,88.
眷
94.
眸
95.
睇
90.
睚
91.
睨
疫病からの逃亡について︑ドイツでは宗教改革者ルターがサルターティと同種の考えのようである︒﹁ルターは一五二七年
に︑ペストのときに逃げるべきか︑逃げざるべきか︑という問題について論文を書いてこう断言している﹃サタンは逃げる
者を追い︑残る者を打つ︒その結果誰ひとり彼から逃れる者はいない︒﹄﹂︵ジャン・ドリュモー︵永見文雄︑西澤文昭訳︶
﹃恐怖心の歴史﹄新評論一九九七年二四五頁︶
睫
拙訳﹃イタリアの黒死病関係史料集︵一︶﹄三八頁 イタリアの黒死病関係史料集︵四︶
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史料
フィレンツェ書記官長サルターティの疫病論﹃都市からの逃亡について﹄︵一三八三年︶
はじめに
疫病を避けて都市を逃亡した君を批判した私は︑君から猛烈に非難されてしまった
││蜜蜂の巣箱に指を入れる者は蜂に刺されるのを覚悟せよ││
フィレンツェ市民でありセル・ケッロの息子である賢明なアントーニオへ
我が最良の友よ︒君がこれまで死﹇疫病死のこと﹈への恐れによって打ちひしがれて︑茫然自失の状態にいたのに︑現在は
どうにか私に怒りの念を燃えあがらせるまでに力を回復したことに︑私はこの上なく喜ばしさを感じている︒君の心
は︑以前は死への恐れのために氷のように凍ってしまって︑もはや身体に熱はほとんど残っていないように見受けら
れたのだ︒しかし︑死の恐怖に再び取り付かれることさえなければ︑そのわずかな熱も次第に私への怒りの気持ちに
よって刺激され︑赤々とした炎の光のなかで燃え上がっていくことだろう︒
君に少し腹を立てた私に対して︑君もまた同じように私に向けて赤々と燃える怒りの矢を放つことになったのだ
が︑こういう結果になったのは実に意外のことである︒
このことから私が書いた次の小さな詩が全く真実であることがわかる││
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イタリアの黒死病関係史料集︵四︶
蜜蜂の巣箱に指を入れる者は││
蜂に刺されるのを覚悟せよ
君や他の人びとは︑明らかな危機のなかで︑死への畏怖から心を動揺させ︑不安を抱きながら祖国を捨て去ってし
まったのだが︑もし我々の議論において︑私がそうした君たちを実際に挑発さえしなかったら︑針で武装した君の蜂
の群れは︑結集してこれほどまでに怒って獰猛に私を襲うことはなかっただろう︒
都市に疫病が発生したことで都市を逃れてしまい︑都市の統治を放棄した君たちの行動の是非について検討しよう
我らが都市こそは︑君たちに多くの富をもたらし︑多くの喜びを与えてくれ︑さらに多くの輝かしい職務で君たち
を飾ってくれたのである︒君に関していえば︑都市は君に対して︑ほかの人びとと同様に︑利益をもたらしてくれた
のである︒それにもかかわらずこの都市を君やほかの者は︑死の危機から免れるために︑恥ずかしくも祖国愛を忘れ
て捨ててしまったのだ︒そのために︑君たちは臆病にも︑その都市を信用のできない人びとの支配に委ねてしまっ
た︒彼らこそは︑かの有名な厄介ども﹇チョンピ﹈が猛威を振るった四〇日間の︑あの恐るべき統治﹇チョンピの乱のこと︒その指導者ミケーレ・ディ・ランド がシニョリーア︵都市政府︶に登場した一三七八年七月二一日から小市民層︵ポポロ・ミヌート︶の完全な挫折となった八月三一日までの統治﹈の際に︑そのおつむのよさで有名になった人びとである︒私は︑
ここでの議論を簡潔にするために︑不滅の神の威厳とその力の名において︑いったいこのように祖国を捨てることが
正しいものかどうか︑また︑疫病のない所に移転することが疫病への正しい措置なのかどうかについて検討してみた
いと思う︒ イタリアの黒死病関係史料集︵四︶
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この論題について︑あれこれと手広く触れるのではなく︑私の頭がもうそれに向けて準備ができているとおりに︑
論点を絞った形で触れようと思う︒そうする理由は︑三つある︒まず第一に︑論争において君が主張する陣営が勝利
したも同然の状態にさせておくわけにはいかないからである︒次に︑君と︑この選択に従う人びとが︑いかなる誤謬
の闇に陥っているかについて︑君たちがよく納得できるようにするためである︒第三に︑もともと君の主張は真理に
反しているのだが︑それにしてもそれをもっと穏やかな口調で話すことを身につけてほしいからである︒私は︑たま
たまほかの機会に多くの人たちと議論したことがあるので︑ここでこの問題をいっそう深く論じるつもりである︒そ
のねらいは︑それによって私の意見が反駁されることになるか︑あるいは君と他の者たちが︑多くの誤りから︑恥ず
かしい逃亡から︑そして死への大いなる恐怖から解放されることになるかの︑いずれかである︒
﹇一﹈フィレンツェ市民としての務めを果たせ││死をも恐れぬローマ人の祖国愛を見習え││
ローマ人の血を継ぐ君たちフィレンツェ人よ︑君たちはそれで本当に死ぬかどうかわからない疫病を恐れて︑イタリアで最も偉大
な祖国フィレンツェを悪党どもの手に委ねたまま︑恥ずかしくも逃げてしまった︒祖国は名誉と命にかけてでも守るべきであるの
に
まずはじめに︑私は君とともに皆に言いたいのだが︑君たちは︑おこりうる死の危機に対しては︑都市・祖国を放
棄してもかまわないと考えている︒君たちの祖国フィレンツェは︑トスカーナで最も重要であり︑イタリアで最も偉
大で︑世界で最も有名であり︑市民が最も大きな誇りを抱いている︑自由な都市である︒それは至るところで自由の
創造者である︒この祖国こそは︑隣国の人びとが敬い︑敵対する人びとが恐れ︑王たちが称え︑諸国の人びとが多く
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イタリアの黒死病関係史料集︵四︶
の点で羨む国ではないか︒また︑学芸の盛んな国であり︑その軍事力によって恐るべき国ではないのか︒英雄たち
よ︑ローマ人の血を継ぐ者たちよ︑ローマ人の相続者たちよ︒本当に死ぬかどうかわからない程度の死を避けるのは
さておいて︑たとえ間違いのない死への恐れのためであっても︑これほどまでに偉大な祖国を見捨てて︑恐怖心と無
力感を抱いて︑悪党どもの支配に委ねてしまう││これがいったい名誉なのだろうか︒そもそも連中は人間か︒そう
人間なのだろうか︒いや︑ここで言っているのは人間ではなく︑邪悪極まりない獣だ︒連中は過去において町に火を
放ち︑多くの市民を追放し︑最富裕層の人びとの家を略奪したのである︒成功に有頂天になり︑略奪品で豊かにな
り︑人殺しを獣のようにやりたい放題やって国家政治と政治権力を掠奪したのである︒君たちが︑多大な栄誉の光輝
とともに祖先から受け継いだ︑この自由で栄誉ある祖国を︑かくも恥ずかしくも︑不名誉にも︑見捨ててしまわない
ために︑たとえどんな危険や労苦や死に直面しようとも︑そのために今すぐ直ちに受け入れられないような︑どんな
危険︑労苦︑死があるというものか︒
もし君たちが︑先月起こったばかりの︑窮乏した下層民の略奪ぶりを見れば︑残留した兵士の軍事力や︑都市に残った善良な市民
の勇敢さだけ彼らを抑制するには不十分と痛感したことだろう
しかしこれに対して都市からの逃亡者はこう言うだろう││
﹁祖国にはまだ多くの者が残っている︒大部隊が兵士や騎士や歩兵を徴用している︒それは裏切り者の企てやたく
らみに対して防衛を確固たるものにするためである︒だから︑我々が祖国を危険にさらすからといって良心の呵責を
覚える必要はないのだ︒﹂ イタリアの黒死病関係史料集︵四︶
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こうした考えに対して私はこう答える││
﹁もし都市に残った君たちの市民が︑祖国を防衛し︑死を拒むことなく︑ますます増加する輩に立ち向かっていく
ならば︑その祖国の窮地において君たちの方はいったいどんな名誉を獲得し︑どのような責務を示すというのだろう
か︒君たちの市民が称賛され褒美を受ければ受けるほど︑君たちは叱責と非難を受けることになるのだ︒君たちが対
決するのは︑傭兵ではなく︑君たちや他の人びとが金で徴集した集団である︒この集団に関心があるのは防衛するこ
とではなく︑自分たちを見せびらかすことである﹇一三八二年二月一五日のチョンピの騒動の際に歩兵・騎兵を引き連れた傭兵隊長ホークウッド︵ジョヴァンニ・アグート︶が役に立たなかったことを言っている﹈︒││こ
れはいったいどういうことか?まだ先月の七月二一日に起こったばかりのことだ︒もし君たちが︑あの軽蔑すべき
悪辣な連中がプリメ・ノクティスの時間﹇夜九時頃から一二時頃までの時間︒﹁第一夜﹂の意﹈の静けさのなかでかくも重要なこの都市を襲い︑町中
をうろつき回り︑下層民を略奪へとけしかけるあのあり様のすべてを勇気と力を振り絞って見ていたならば︑きっと
君たちは︑都市に留まった善良な市民の勇敢さや軍事力だけではもはや十分ではないと言ったことだろう︒それどこ
ろか︑富裕階層の上層市民と全共和国の全階層が打って一丸となって彼らと戦闘を交えるべきだったし︑今後もずっ
とその必要があるだろうと︑言ったことであろう︒しかし︑食糧に窮乏したこれら貧民どもは︑信用がおけず︑気ま
ぐれで︑都市の混乱状態を待ち焦がれており︑混乱状態になれば︑君たちの財産や家財道具を今にもぶん取る念を抱
きかねないだろう︒また︑きっと以前おこなった略奪行為のことを思い出すことだろう︒だから︑もし彼らの傲岸不
遜さにいっそう厳しく歯止めをかけなければ︑連中が何をしかけるかわからない状態になるだろう︒だから共和国は
今なおこれらの疫病神の輩から解放されたわけではないことを信じなければならないのだ︒
― 155 ―
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