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中国西北部黄土高原における廟会をめぐる社会交換 と自律的凝集

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中国西北部黄土高原における廟会をめぐる社会交換 と自律的凝集

著者 深尾 葉子

雑誌名 国立民族学博物館研究報告

巻 23

号 2

ページ 321‑357

発行年 1998‑12‑21

URL http://doi.org/10.15021/00004122

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深尾  中国西北部黄土高原における廟 会をめ ぐる社会交換 と自律的凝集

中 国西 北部 黄 土 高 原 に お け る廟 会 を め ぐる       社 会 交 換 と自律 的凝 集

       深  尾  葉  子*

"Mi

aohui" as Self-Organization in Northwestern China in the post-Mao Era

Yoko Fukao

  漢 族 社 会 にお け る廟 の 持 つ 社 会 機 能 に つ い て は 多 くの研 究 蓄 積 が あ るが,本 稿 で は1980年 代 以 降 中国 西 北 部 黄 土 高 原 で復 活 の 著 しい廟 と廟 の 祭 り(廟 会) につ い て,そ の社 会 的,歴 史 的 意 味 を 問 う。 廟 は 宗 教 的 存 在 理 由の 他 に,社 会 的 公 益 的 な意 味 を持 つ が,そ れ を 支 え る人 々の 奉 仕 労 働 を個 々の 行 為 者 と神 と の 社 会 的 交 換 の 結 果 と して 解 釈 し,同 時 に そ うした 個 別 の 行 為 が 集 積 され る際 に,同 地 域 の 冠 婚 葬 祭 な どの 挙 行 と も共 通 す る一 定 の 互 助 モ デ ル が 働 い て い る こ とを 指 摘 す る。 廟 や 廟 の 祭 りは 小 さな もの か ら数 万 人 規 模 の もの まで さ ま ざ まで あ るが,そ れ は 「会 長 」 の 威 信 や 神 の 評 判 に よ って 常 に 変 動 す る。 こ うし た 活 発 で 流 動 的 な 社 会 の 凝 集 は 同 地 域 社会 に1980年 代 以 降 出 現 した 「渦 」 の う ね りの よ うな もの と して捉 え得 る。

After the collapse of the people's communes (Renmin Gongshe) in China's rural areas, we can observe many kinds of self-organization throughout the country. In Northern Shaanxi Province, the most promi- nent way of self-organization by local people was to establish Miaohui (Temple Associations) , which used to be very common in Chinese rural society before the Cultural Revolution.

At the beginning of this article, different types of Miaohui are in- troduced in order to show that Miaohui does not merely function on the village level, it operates on various levels and with various sizes of com- munity or social networks. Some Miaohui are maintained by donations and voluntary work contributed by patients who had medical treatment

大阪外 国語大学,国 立民族学博物館研究協力者

Key Words : self-organization, dynamic structure, complimentary social exchange, com- munitas, swirl of cohesive nower

キ ー ワ ー ド:自 律 的 凝 集,動 的 構 造,二 者 関 係 的 社 会 交 換,コ ミ ュ ニ タ ス,凝 集 力 の 渦

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or took medicine from each Miao. Others are famous for their effec- tiveness in fertility or producing rain. It is important to note that the size of a Miaohui not stable but changing all the time through the reputation it earns from local people and also by the ability of the Huizhang — chairman — of each Miaohui. To be a good chairman, fairness and generosity are needed. The people's continuous talk about each Miaohui and its management is critical to the growth and longevity of each Miao . In the most prominent case of Heilong Temple, because of the emergence of talented Huizhang, the scale of the Miaohui changed drastically from a small inter-village one into the central one of Northern Shaanxi province. This phenomenon can be explained as the emergence of a dynamic structure in this area after the release from domination dur- ing the Mao era.

Looking back on the former studies on Miao in other Han-Chinese areas like Taiwan or; Hong Kong, continuous discussions are observed regarding the relationships between the size of local community and the range of the influential area of each Miao. In the earlier studies on this subject, spatial phases of Miao activities were rather stressed, but in later works it is pointed out that such spatial ranges are not always very clear and it is rather hard to set some boundaries on religious activities. Later studies try to watch Miao activities more functionally and dynamically, which means that the range of Miao activities are considered to be more changeable and multileveled. In the case of present day Miao in North- ern Shaanxi, the same characters can be observed, maybe even ac- celerated because of the decline of Miao activity during the cultural revolution. In this article, analytical individualism is adopted in order to avoid treating Miao activities statically. Activities of Miao are seen as integrated results of each personal exchange between local people and Miao. I have not only analyzed the implications of personal exchange between Miao and these supporters, but also the process of integration of such exchanges into collective ones. Then the meaning of the annual Miao festivals, which are ordinarily held along with local operas, are ex- amined. Then we find that the Miao festivals are functioning as corn- munitas for the local people who are participating in them.

は じめ に

1.廟 と地 域 社 会 を め ぐる議 論 の背 景         脱 「祭 祀 圏」 の試 み 一 皿.廟 の 神 話 と廟 会 の復 活

皿.廟 の 創 出,運 営 を支 え る社 会 的 交 換   廟 会 の な りた ち と直接 的 交 換

        1

 広 が りめあ る交 換 行 為 「シアγフナ相 伏 」   「会長 」 の互 酬 性 と人 々 との ず れ 1>.神 との対 話    芝 居 の奉 納 一  廟 の祭 りへ 向 け て

 神 と人 との 集 合 的 交 換 と コ ミュ ニ タ.ス おわ りに

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1‑2陵 西 省楡 林 地 区 周 辺 図

本 稿 で と り あ げ た 廟 の 所 在 地 1白 雲 山

2黒 龍 潭 3‑1石 崖 地 3‑2魚 河 城 陛 廟 4石 佛 寺 5飛 龍 山 6東 獄 廟 7中 原 寺 8斉 天 大 聖 廟 9大 佛 寺 10黒 虎 霊 宮 廟 11西 天 古 佛 廟 12‑1懐 英 閣 12‑2思 源 宮 12‑3永 懐 閣

1‑1地 域 広 域 図

1‑3米 脂 県 楊 家溝 周 辺 図

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深尾  中国西北部黄土高原 におけ る廟会をめ ぐる社会交換 と自律的凝集

      ノヤノベイ

  本 稿 は 中 国西 北 部 の 陳 西 省 北 部(陳 北 と呼 ぼ れ る)に 近 年 復 活 の著 しい廟 と廟 の

      ミャナホイ

祭 り 「廟 会 」1)に つ いて,そ の社 会 的文 脈 と村 落 社 会 に 与 え る影 響 につ い て論 じ よ うとす る もの で あ る。 同地 域 は 北 に モ ウス砂 漠 と内モンゴル の 草 原,東 は 黄 河 を境 に 山 西 省 に面 し,西 は寧 夏 回族 自治 区 とい うイ ス ラム地 区 に囲 まれ た 黄 土 高 原 の 中心 部 を 成 す 年 間 降 水 量400ミ リ前 後 とい う半 乾 燥 地 域 で,ジ ャ ガイ モや トウ モ ロ コ シ,ヒ エ,ア ワな どを 主 た る農 産 物 とす る漢 族 主 体 の居 住 地 で あ る(地 図1参 照)。 陳 北 と い え ぽ革 命 根 拠 地 延 安 を擁 す る地 域 で あ るた め,現 代 中 国に お い て は 聖 地 と して位 置 づ け られ る こ とが 多 く,そ の経 済 的 貧 しさに もかか わ らず,し ば しば 表舞 台 に登 場 す る。 同地 域 は行 政 的 に は楡 林 地 区 と延安 地 区 とに分 か れ て い るが,本 稿 が対 象 とす る の は 延 安地 区 よ り北 に位 置 す る楡 林 地 区 で あ る。 同地 区 は 面 積 約43万 平 方 キ ロ,人 ロ

      ヤオトノ

約400万 人 で,人 々は 黄 土 高 原 に刻 まれ た浸 食 谷 に 沿 って 作 られ た 「客 洞 」 と呼 ぼ れ る,石 と土 で作 られ た ア ー チ状 の 住 居 に生 活 して い る。 同地 域 は 現在 に到 る ま で鉄 道 が 開 通 して お らず,道 路 も未 整 備 で あ った た め,羊 毛 製 品 や 石 炭 な どの産 出 で知 られ る他 は,さ した る工 業 もな く,改 革 以 降 も楡 林 な どの都 市 を 除 い て 取 り残 され た状 態 に あ る。 しか しそ の一 方 で 地 域 の 芸 能 や手 工 芸 品 な どの農 民 に よ る文 化創 出 は現 在 も 盛 ん で,本 稿 で取 り上 げ る廟 会 も,他 の地 域 に ま して社 会 生 活 に 多 大 な 影 響 を与xて い る。

  人 類学 的 フ ィー ル ドと して の 同 地域 は,こ れ ま で経 済 的 貧 困 か ら同 地域 が外 国人 に 対 して 未 開放 地 区 で あ った こ とか ら,長 期 的 な住 み 込 み 調 査 は ほ とん ど不 可能 で あ っ た 。 これ ま で1940年 代 の中 国 革 命 の 時 代 に張 聞 天 ら の率 い る一 連 の調 査 団 が主 と して 地 主 経 済 に 関 す る詳 細 な 調 査 を 行 った 他 は,文 革 期 に ス ウ ェ ーデ ソのJ.ミ ュル ダ ー ル とG.ケ ス レの 例 外 的 な 調 査(ミ ュル ダ ー ル ・ケス レ1972)を 除 い て,延 安 を 訪 れ る ジ ャー ナ リス トの ル ポ ル タ ー ジ ュ以 外 に は ほ とん ど閉 ざ され た ま ま とな って い た 。 そ の 後1980年 代 に 入 って 歴 史 学 のJ.エ シ ュ リ ックが 革 命 根 拠 地 の 社 会 経 済 調 査 を 行 った 他2),D.ホ ー ムが 同 地 域 の 民 間芸 能 と共 産 党 の 文 芸 政 策 の 関 係 を 詳 細 な 現 地 調 査 を も とに ま とめ て い る(Holm  1991)。 しか し同地 域 の研 究 は 何 らか の 形 で 共 産 党 の根 拠 地 研 究 と結 び 付 け られ た ものが 多 く,フ ィール ドワー クに基 づ くま と ま った モ ノ グ ラ フ とい った もの は まだ 見 られ な い。 我 々は1990年 よ り村 落 を め ぐる地 域 社 会 を空 間 秩 序,音,社 会 関 係 等 の 多面 か ら立 体 的 に 描 くこ とを 目的 と して,異 な る

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国立民族学博物館研究報告  23巻2号

領 域 を 専 門 とす る者 に よる共 同調 査 を試 み,1993年 以 来,断 続 的 な共 同調 査 と半 年 余 りの 住 み 込 み 調 査 を行 った3)。本 稿 は,同 地 域 に お け る重 要 な 社会 的結 節 点 で あ る廟 と廟 会 に つ い て,1980年 代 以降 の人 民 公 社 解 体 以 降 の復 活 の過 程 を 具 体 例 と とも に紹 介 し,こ れ まで 主 と して 中 飼南 部 にお い て蓄 積 され て きた 漢 族 農 村社 会 に お け る廟 や 廟 会 の位 置 づ け に 関 す る議 論 との対 話 の上 で,同 地 域 に おけ る重 層 的 か つ動 態 的 変 化

に富 む 社 会 の 凝 集4)の 様 相 を描 き出す こ と と した い。

1.廟 と地 域 社 会 を め ぐる議 論 の背 景      脱 「祭 祀 圏 」 の試 み

  廟 の漢 族 村 落 に お け る役 割 や それ が形 成 され てゆ くプ ロセ ス につ い て の 人 類学 的研 究 は これ ま で主 と して,香 港 ・台湾 を 中心 に蓄 積 され て きた。 そ れ は 漢 族 の 他 の宗 族 研 究 な ど と同様 に,香 港 ・台 湾 が フ ィー ル ドと して 開 かれ て いた こ との 他 に,廟 の活 動 そ の ものが 中 国大 陸 本 土 で は 主 と して文 化 大 革 命 期 の1960年 代 中期 よ り迷 信 打破 と

い うス ロー ガ ンの も と一 時 弾 圧 され,少 な く とも公 に は連 続 性 が絶 た れ た こ とに も起 因す る。1980年 代 以 降 は 中 宙 大 陸 で も廟 が各 地 で 復 活 し,そ れ に伴 な い 廟 や 廟 会 を め

ぐる研 究 や 調 査 も多 く見 られ る よ うに な った(佐々木1993;Jing  1996;景1998)。

この歴 史 的断 絶 につ いて は,陳 西 省北 部 の 同地 域 に お い て も例 外 では な く,ご く少数 の規模 の 大 きな寺 廟 が 文 物 保 護 の 目的 で残 され た他 は,大 多 数 の村 廟 や そ れ 以 下 の 小 さな廟 は,ほ ぼ徹 底 的 に破 壊 され た5)0

  同 じ漢族 の地 域 社 会 で あ る とは い え,同 地 域 の廟 は これ まで研 究 蓄 積 の多 い 香 港 ・ 台 湾 の事 例 とは,移 住 をめ ぐる歴 史 的 背 景 の違 いや,生 業 の あ り方,大 規 模 な 宗 族 の 形 成 の 有 無 や,よ り一 層 決 定 的 な もの と して土 地 改 革 や 人 民 公社 化 な どの主 と して 今 世 紀 の政 治 的背 景 の違 い な どに よって,そ の存 在 の意 味 や そ れ を支 え る結 合 のあ り方 に大 きな 違 い が 存在 す る もの と考 え られ る。 した が って,本 稿 で取 り扱 う陳 西 北 部 の 事 例 を,歴 史 的 に も地 理 的,生 態 的 に も背 景 が 大 き く異 な る香 港 ・台湾 の事 例 と直 接 比 較 す る こ とに は,な お 多 くの 留保 が必 要 で あ る と考 え る。 しか し,に もか か わ らず, これ まで 香 港 ・台 湾 の フ ィ ール ド研 究 に よ って 示 され た漢 族 の廟 会 の諸 特 徴 は,本 稿 で取 り扱 う廟 会 の諸 特 徴 と,多 く共 通 す る部 分 を有 し,特 に そ の分 析 視 角 に お いて 多 くの示 唆 を 得 る こ とが で き る。 そ こで まず,主 と して 香港 ・台湾 に お い て 展 開 され て きた 廟 と地 域 社 会 に 関す る研 究 の流 れ を 概 観 し,そ の後V'北 方 中国 農 村 社 会研 究 の流 れ の中 で の本 稿 が 意 図 す る と ころ を述 べ た い と思 う。

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深尾  中国西北部黄土高原における廟会をめ ぐる社会交換 と自律的凝集

  廟 や 廟 の 活 動 を 地域 社 会 の動 態 把 握,特 に 村 落 や宗 族 とい った 社 会 の 他 の構 成 要 因 との関 わ りで位 置 づ け よ うとす る試 み は,「 祭 祀 圏 」 を め ぐる研 究 と して展 開 され て きた 。 王 糧 興(1991)に よれ ば,最 初 に 「祭 祀 圏 」 とい う言葉 を用 いた のは 日本 の 社 会 学 者 岡 田謙(1938)で,そ の 後 ス キ ナ ー の市 場 圏 の 理 論(ス キ ナ ー1979)の 影 響 も受 け,1970年 代 に 入 り濁 水 ・大 肚 両 水 系 の広 域 調 査 が 行 わ れ た 際 に,村 落 を 超 え た 地 域 単 位 の1つ と して 「祭 祀 圏 」 が 改 め て注 目され た 。 そ の 調 査 に参 加 した多 くの 台 湾 人 研 究 者 に よ って,移 民 社 会 の発 展 過 程 の 中 で の 結 合 原 理 の変 化(施1973)や, 村 落 レベ ルか ら広 域 的 な 村 落 連 合 の レベ ル ま で重 層 的 に 重 な り合 って い る 「祭 祀 圏 」

の新 た な イ メ ー ジ(荘1977;林1987)な どが描 き出 され る よ うに な った。 それ ら の 研 究 をふ ま えた 上 で 三 尾 は 「祭 祀 圏」 に つ い て 「人hの 生 活 の さ ま ざ まな 関係 がほ ぼ 完 結す る と ころ の地 域 的 領 域 を 宗 教 的 な意 味 で 象徴 化 す る よ うな,か な り広 範 囲 に お け る圏域 と見 なす こ と」 の 有 用 性 は 認 め な が ら も,そ の 内部 の祭 祀 組 織 の構 成 は必 ず しも 「圏」 とい った 地 域 的 領 域 で 示 され る もの で は な い と指 摘 して い る。 つ ま り,水 利 の共 有 や 開拓 の歴 史 とい った 点 で 「祭 祀 圏 」 の最 大 範 囲は 意 味 の あ る分 析空 間 と し て機 能 して い た が,そ れ 以 下 の下 位 単 位 は 必 ず し も地 理 的 に境 界 を 画 す る こ との で き ない もの で あ る とい うの で あ る(三 尾1991)。 また 末成 は,廟 の信 仰 を 支 え るの は廟 の管 理 を す る もの と参 拝 す る もの であ り,し か も廟 の管 理 とい って も,い わ ゆ る 「廟 祝 」 と同 地 域 で 呼 ばれ て い る近 隣 に住 む 固 定 的 な 管 理者 だ け で な く,今 日では オ ー ト バ イな ど交 通手 段 の発 達 や 信 仰 ブ ー ムな どに よ り,遠 方 か ら 自主 的 にや って くる もの に よって 支 え られ て い る部 分 も大 き く,単 一 の 「祭 祀 圏 」 に よ って廟 の信 仰 を 理 解 す る こ とが 困難 で あ る こ とを 示 す 。 そ こで 同 氏 は,「 信 徒 圏」 と 「信 者 圏 」 に 加 え て,

よ り意 識 の レベ ル に重 きを お い た 「祭 祀 域 」 とい う用 語 を設 定 し,廟 をめ ぐる社 会 関 係 を よ り実 態 に 即 した形 で 分析 し よ う と して い る。 同 氏 は また,廟 の信 仰 は 固定 的 な もの で は な く,廟 の人 気 に よ って信 徒 が他 の廟 へ 移 る可 能 性 も十 分 あ り,現 在 信 仰 を 集 め て い る廟 も必 ず しもそ の 信 用 を将 来 にわ た って維 持 し得 るか ど うか は保 証 され な い とい う点 も指 摘 して い る(末 成1991:47)。

  一方 香 港 に お け る研 究 に 目を 移 す と,新 界 の大 規 模 宗 族 と祭 祀 演 劇 に つ い て 田仲 の 詳 細 な記 述 が見 られ るほ か(田 仲1985),瀬 川 が 日常 的 祭 祀 と 「太 平 清礁 」 な どの非 日常 的 祭 祀 で は,異 な る モ デ ル が 適 用 され る 点 を指 摘 し(瀬 川1987;1991),そ れ は 硬 い モ デ ル と もい え る 「構 造 モ デ ル」 と,柔 らか い モ デ ル とも いえ る 「意識 モ デ ル」

(末成1985)の 共 存 と も考 え る こ とが で きる と述 べ る。 こ こか ら,厳 格 な村 落 構 造 が あ るか ど うか とい っ た議 論 は 単 に 「太 平 清酷 」 の よ うな厳 格 な モデ ル を有 す る儀 礼

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国立民族学博物館研究報 告  23巻2号

の存 在 か らだ け で は論 ず る こ とが で きず,む しろ人 々の 日常 生 活 は そ う した 村 境 や 帰 属 意 識 を は っ き りと認 識 しな い個 別 の 祭祀 に よ って構 成 され て い る こ ともあ る と指摘 して い る。 田仲 や 瀬 川 に よ って示 され て い る よ うな,宗 族 や 地 域 社会 に おけ る有 識 者 な どが 意 識 的 に 自他 に 「見 せ る」 た め に行 う儀 礼 と,見 せ る こ とを それ ほ ど意 識 せ ず に 内的 凝 集 の た め に行 っ て い る もの の違 い は重 要 であ る。 また,こ れ ま での 研 究 が 主 と してす でに 確 立 され た信 仰 儀 礼 や 廟 の活 動 を対 象 と して い た の に対 し,彦 は1992年 に新 た に 新 界 に作 られ た廟 を 題 材 と して取 り上 げ,廟 の 信 仰 が新 た に作 り上 げ られ る に あた って は,そ の媒 介 とな る 「神媒 」 の吸 引 力 と,人 々の 「功 徳 」 の概 念 が 呼応 し て,廟 へ の 信 仰 ネ ッ トワー クと金 銭面 な どの実 質 的 活 動 基 盤 が作 り上 げ られ て 行 く過 程 を 示 した 。 これ は,廟 が あ くまで個 々の信 者 や 「神 媒 」 な どの行 為 の集 積 に よ って 成 り立 って い る こ とを 示 唆 した もの で,廟 を め ぐる活 動 の動 的側 面 に 一 層 注 目 した も の で あ るQ蓼1995)。

  こ こに 紹 介 した近 年 の香 港 ・台湾 の廟 や 祭 祀 を め ぐる新 た な論 点 は い ず れ も,本 稿 で 取 り上 げ る陳 北 の事 例 に対 して も有 効 で あ る。 まず,「 祭 祀 圏」 とい った 明確 な境 界 を 持 つ もの と して の廟 の運 営 や信 仰 の母 体 とい った もの は必 ず しも描 け ず,そ の信 仰 は 重層 的 で互 い に重 複 しつ つ存 在 して い る とい う点。 ま た人hは 必 ず し も1つ の廟 に 帰 属 す る とは限 らず 目的別 に複 数 の廟 を 使 い 分 け,ま た参 与 して い る とい う点。 さ らに 次hと 新 しい廟 が 作 り串 され,あ るい は 復 活 す る1980年 代 以 降 の状 況 の 下 で,廟 の 運 営 に あ た る廟 会 の委 員長 の威 信 と廟 の 神 の 霊 験 に対 す る評 判 が 直 接 的 に廟 の盛 衰 を 左 右 す る とい う点 。 む しろ,伝 統 的 基 盤 を 文 化 大 革命 が一 度 解 体 した と もい え る 同 地 域 で は,廟 をめ ぐる活動 や 信 仰 の流 動 的 側 面 が 一 層 強調 され る よ うな 状 況 を 呈 して い る。 本 稿 では こ うした諸 特 徴 に留 意 しな が ら具 体 的 な事 例 を 廟 の種 類 別 に分 け て示 す と と もに6),こ れ まで主 と して北 方 中 国 農 村 社 会 を対 象 に 培 わ れ て きた 村 落 構 造 を め ぐる議 論 とも一 定 の対 話 を果 た した い と考え る。

  戦 前 の 日本 人 に よ る中 国農 村 慣 行 調 査 な どの一 連 の調 査 を め ぐる共 同 体論 争 に端 を

       

発 し,そ の後 主 と して東 南 ア ジ ア社 会 を 対 象 に 展 開 され た,モ ラル ・エ コ ノ ミー論 な どの 視 点 を 加 え た 華 北 村 落 の 性 格 に つ い て の議 論 の過 程 に つ い て は,石 田(1986), 内 山(1990)や リ トル(Little 1989:29‑67)な どに詳 しい の で こ こで は詳 述 しな い が, そ の 中 で華 北 農 村社 会 に おけ る強 固 な 共 同 体 的村 落 の欠 如 が 指 摘 され,共 同体 モ デ ル に代 わ る新 しい分 析 フ レー ムが 模 索 され て い る。 「看 青 」 や 「打 更 」 な ど の共 同行 動 が徹 底 的 な合 理 打算 的行 為 と して行 わ れ て い るの か,何 らか の共 同体 規 制 の 結果 行 わ れ て い る の か,と い った 議 論7),さ らに は 明確 な 村 境 が な い とす る な らぽ,地 域 社 会

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深尾  中国西北部黄土高原における廟会 をめ ぐる社会交換 と自律的凝集

の凝 集 の結 節 点 は ど こに描 け ば よい の か,と い った 点 につ い て は,さ ま ざま な意 見 が 混 在 して い る の が現 状 とい え る8)。近 年 の議 論 の 展 開 は,か つ て の 共 同 体 論 争 の枠 を 超 え,華 北村 落 を め ぐる新 た な 結 合 の ダイ ナ ミズ ム を模 索 して は い るが,そ の反 面 で, 共 同体 論 争 の 中 で なぜ,2つ の 異 な る見 方,す なわ ちバ ラバ ラな 個 体 か らな る集 合 体 とい うイ メ ー ジ と,相 互 規 制 が 支 配 す る共 同 体 宇宙 とい う相 反 す る性 格 が 提示 され た のか,そ れ は 観 察 者 の誤 解 に よる も のな の か,と い う問 い は,む しろ不 問 に され て し ま った よ うに 思 え る。 ここ でや や 先 走 って論 を進 め る な らば,北 方 中 国 農 村 の結 合 の 性 質 を 分 析 す る際 に は,こ の一 見 矛 盾 す る2つ の性 格 を統 合 す る と こ ろに,理 解 の鍵 が潜 ん でい るの で は な い か と思 わ れ る。 す な わ ち,一 見 バ ラバ ラの個 体 か らな る よ う に見 え るな か で,生 み 出 され る さ ま ざ まな 規 制 や共 同性 とい う逆 説 的 な結 合 原理 を模 索 す る こ とが 同 地 域 社 会 の理 解 には 重 要 な の で は な い だ ろ うか9)。

  本 稿 では 北 方 中 国 農 村 に お い て展 開 され た こ うした 議論 の経 緯 を念 頭 に置 きつ つ, 1980年 代 以 降 の 陳 北 農 村 に お い て活 発 な展 開 を 見 た 廟 を め ぐる 自律 的 な社 会 凝 集 に つ い て,ま ず 個hの 行 為 者 と神 との 交 換 とい う二者 関 係 を 分析 的 に考 察 し10),そ こか ら 改 め て廟 や 廟 会 の 持 つ 集 合 的意 味 は何 か を 問 う作 業 を 行 い た い と考 え る。 そ の際 以 下 の よ うな手 順 で 論 を 進 め た い。 まず,廟 の存 在 形 態 が 村 落 や村 落 連 合 とい った 単 位 に は一 元 的 に帰 結 で き る もの で は な く,さ ま ざ まな 規 模 と背 景 を もつ もの で あ る こ とを 実例 と と もに示 す 。 そ の後,廟 を め ぐる活 発 な 凝 集 が 何 らか の所 与 の社 会 関 係 の反 映 と して で は な く,あ くまで個hの 行 為 者 の神 や 廟 との 互 酬 的 関 係 の集 積 の上 に成 りた って い る もの で あ る こ と11),さ らに 廟 へ の 参与 の あ り方 や程 度,ま た それ ぞれ の立 場 に よ って そ の互 酬 関 係 の 認 識 に もず れ が あ る こ とを 述 べ る。 そ の上 で廟 や廟 会 とい う 装 置 を通 じて作 り出 され た 神 と人 々 の集 合 的 交 換,そ の 結 果 付 与 され る集合 的意 味 に つ い て 言及 し,そ れ らが 伝 達 され,増 幅 され て時 には 人hの アイ デ ンテ ィテ ィに ま で 深 く影 響す る過 程 を 論 ず る。

  この こ とに よ って,同 地 域 の 自律 的凝 集 が意 味 す る も のを 問 い,境 界 を持 つ コ ミュ ニ テ ィモ デ ル と して の共 同 体 認 識 の脱 構 築,お よび先 に触 れ た 廟 を め ぐ る 「圏」 的 把 握 の 一層 の脱 構 築 を試 み た い 。

皿.廟 の神 話 と廟 会 の復 活

  廟 が 復 活 な い し新 た に作 られ る場 合 に は,何 らか の神 話 や 故 事 に よ って そ こに廟 が 建 設 され る必 然 性 が 語 られ る。 例 え ぽ 米脂 県 城 か ら揚 家 溝 へ 向 か う川 沿 い の道 に,人

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国立民族学博物館研究報 告  23巻2号

目を ひ く建物 が建 て られ て い るが,そ れ は そ の 向か いの 河 の 脇 に 数年 前 に建 て られ た

        ホイヤオ

小 さな 廟 の会 務 を行 うた めの 窟 洞,「 会 客 」 で あ る。 そ こは数 年 前 まで 何 も奉 られ て

       

い な か った の で あ るが,1993年 旧暦 の正 月 に,後 の 会 長 とな る人 物 が水 を運 び なが ら 前 を 通 りか か った際,川 の側 壁 の 岩 の奥 か ら何 や ら物 音 が す るた め,不 審 に思 っ てそ こを 掘 って み た と ころ,そ め 奥 か ら菩 薩 像 が 現 れ,そ れ は1863年 に建 て られ,そ の 後 打 ち 捨 て られ て い た廟 の もめ で あ った こ とが 判 った 。 そ れ か ら,そ の 「会 長 」 は 周 囲 の 人hV'呼 び掛 け て廟 の修 復 に 立 ち上 が り,約1ヶ 月 後 に は 廟 の落 成 記 念 に芝 居 が 奉 納 され,「 会 客 」 も作 られ た 。 また,こ の廟 は難 病 に効 く とい う噂 が 瞬 く間 に 周 辺 に 広 ま り,同 年4月 には 楡 林 と山 西 省 の劇 団を 呼 ん で 数 万 人規 模 の廟 会 が 開 か れ る まで に な った。 同地 域 内 は も とよ り,山 西 省や 内 モ ン ゴル か ら も病 気 治療 を 目的 とす る人 が や って きた とい う。 そ して そ の廟 会 に集 ま った お 布 施 も2万 元 以上(日 本 円約30万 円)と な った。 廟 をめ ぐる噂 や情 報 は驚 くほ ど早 く伝 達 され,廟 会 の動 員 力 も1980年 代 の 同地 域 に お い ては,他 の い か な る動 員 も及 ぽ な い 。地 元 の知 識 人 や 幹 部 は,農 民 達 の 廟 会 に か け る熱 意 を驚 き を も って 次 の よ うに語 る。 「彼 らは,廟 の こ と とな る と 寝 食 を忘 れ て熱 中す る。 も う今や 地 元 の政 府 が どん な に 呼 び掛 け て も,労 働 供 出 に は 応 じな い のV',廟 会 の会 長 の 呼 び掛 け とな る と,辛 い 肉体 労働 で も無 償 で 提 供 す る」

と。 この よ うに,地 域 の 人 々に よる熱 い関 心 に よ って 支xら れ て い る廟 会 で あ るが, 個hの 廟 会 の地 位 は 決 して安 定 した もので は な く,先 に述 べ た よ うに 常 に 盛 衰 の途 上

に あ る。 しか もそ の規模 も艶万 人 以上 が廟 会 に 集 ま る もの か ら,村 のわ ず か の 人hが 集 ま る もの ま で多 様 で あ るo,こ こで,そ れ ら多 様 な 廟会 の事 例 の なか か ら幾 つ か の具 体 例 を提 示 す る と と もに(表1参 照)以 下 に そ の 具 体像 を考 察 し,1980年 代 以 降 の陳 西 北 部 の廟 会 の 実 態 的把 握 を試 みた い(な お,冒 頭 の番 号 は地 図 内 の番 号 と対 応 す る)。

  1.白 雲 山(佳 県)… …伝 統 的 に 最 も権 威 を有 してい た 陳 北 の 最高 廟

  西 北 部 最 大 の 道 観 と も言 わ れ る この 白雲 山 は も と も と中 国北 方 を 司 る道 教 神 「真 武 大 帝 」 を奉 って い た と され るが,地 域 の人hに と って よ り重 要 な のは,明 代 中 期 に こ

の地 を訪 れ,疫 病 を 治 し,貧 しい こ の地 に 廟 を 開 いた 開 祖,「 玉 風 真 人 」 で あ る。 そ の呼 び 掛 け に よ り,明 の 万暦32年(1605年)に 白雲 観 は建 立 され た。 以来 「玉 風 真 人 」 は,地 元 では 「祖 師 爺 」 と呼 ぼれ て人hの 信 仰 を 集 め,解 放 前 は 陳 北 の どの 村 に も白 雲 山へ の神 事 を 司 る 「会 長 」 が いた と言 わ れ て い る(後 に 「祖 師 爺 」 は 「真 武祖 師」

と呼 ぼ れ て定 着 す る)。 した が って陳 北 の 中 小 の 廟 に は この 「祖 師 爺 」 を奉 っ た もの が 多 く,ま た お み く じもそ の 多 くが テ キ ス トを 白雲 山 に依 拠 して い る。 しか し,白 雲

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深尾 中国西北部黄土高原におけ る廟会をめ ぐる社会交換 と自律的凝集

表1廟 とそ の 活 動 一 覧(本 稿 で と りあげ た もの の み) 表示

番号 廟名 場所 廟会日時(

旧暦) 奉られて

いる主神

95年時) 規模(

会長 招聴劇団 備考 活動

i

白雲山 佳県

4月8日

真武祖師

10万 人前後 10数名 省内及び山西 古 くもっ とも権

専属の道

威 あ る廟,し か 士,道 教

し黒龍潭 にお さ

音楽 れ気味

2

黒龍潭 楡林

6月13日

黒龍大王

10万 人以上 王 克華 ほか10

省 内 及 び 河

80年代 よ り急成 植 林,学

数名

南 ・寧 夏 ・河 長,陳 北 最大 の 校 建設,

北 ・内 モ ン ゴ 廟 に

水利建設

3‑1

石崖地 楡林

3月3日

真武祖師

5万 人 前後 8つ の村 の村 省内 古い廟 だがや は

7月15日

長及び書記が

り黒龍潭 にお さ

兼任 れ気味 凋落傾

3‑2

魚河城陛 楡林

1月13日

城陛爺

3万 人程 度

廟村の書記 と 省内

基 層政府 との 関 1月 の 正

5月13日

会 長 が 兼 任

連 密接,農 村 中

会は秩歌

7月15日 (陳中実) 心 か ら楡 林市民 の 祭 りの

などの参与へ 形を とる

4

石佛寺 米脂

4月13日

観音菩薩

3万 人程 度 10人前後 省内及び山西 93年 発足 後急成

5

飛龍山 米脂

4月15日

真武祖師 数千人程度

8つ の村 か ら 主 として県内 村 の連合 廟 とし

20名 前後 の会 て規模一定

6

東獄廟 米脂

4月28日

東嶽大帝 数千人程度

2つ の村か ら 省内(楡 林地 凝 集力,自 負心

20名 前後 の会 区文工 団に 固 ともに強 い

定)

7

中原寺 佳県

6月19日

観音菩薩 数千人程度 康翠青ほか数 省内 会長の病気治療 植林

のみに依 拠 して

成長

8

斉天大聖 米脂

5月20日

斉天大聖 数千人程度

1つ の村 で数 省内及 び山西 村 出身 の出稼 ぎ

(孫悟空) 名(村 外居 住 (周 辺4つ の ブR一 カ ー が 資

者含む) 廟で共 同 して 金 的に支 える 呼ぶ)

9

大佛寺 米脂

3別8日 斉天大聖,

数千人程度

8つ の村 か ら 主 として省内 村 落 が 次 々独

6月15日

娘娘

io名 前後 の会 立,会 長 はほ と

長 んど常姓

10

黒虎霊官 米脂県楊

7月15日

黒虎霊官 数百人程度

村 の中か ら数 県内に固定 シ ャ ー マ ンの 死

家溝

名の会長 去 に よって凋落

傾向

11

西天古佛 米脂県寺

4月8日

西天古佛 数百人程度

村 の中か ら若 劇団招聰 な し 楊 家溝か ら独立

干名の会長 して廟会 開催,

シ ャ ー マ ン有 り

重2‑1 懐英閣 横山

3月28日

真武祖師

1万 人程 度

毛沢東廟は地 省内

も と あ っ た 三

植林

7月8日

・周

元 の村の書 記 関,祖 師爺 に加

呉漢金

えて93年 に毛沢

東廟

12‑2

思源宮 靖辺

3月18日

真武祖師 数千人程度

元靴 作 り職 人 省内 地 元の支持 を十

10月24日

・周 武文華他数名

分得 られず,資

金回収困難

12‑3

永懐閣 楡林

9月8日

真武祖師

2万 人前 後 徐登 堂他28人 主 として省 内 楡 林市内 の人 々 植林,黒

・周

の会長 の関与 も大,病 龍潭 との

気治療 対立有

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国立民族学博物館研究報 告  23巻2号

山 に仕 え る道 士 は,多 くの廟 が,白 雲 山 のゆ か りの廟 で あ る こ とを信 仰 を支 え る依 拠 と して い る が,そ のほ と ん どは 俗説 で あ る,と 言 う。 この よ うに 白雲 山 は こ の地 域 で 唯 一,専 属 の道 士 を か か え,道 教 研 究 も盛 ん に行 わ れ て い る他,道 教 音 楽 な ど も広 く 知 られ て い る。 また,旧 暦 の4月8日 を 中心 に前 後2週 間 程 に わ た っ て大 規 模 な 廟 会

が 行 わ れ るが(張1991:34;35),そ れ は,陳 北 全 体 に広 が る 白雲 山 の廟 会 の 「会 長 」 (「会 首 」 と も言 う)に よ ゐて 担 わ れ て い る。 つ ま り廟 会 は 民 間 の 組 織 で 運 営 され る の で あ る が,現 在 では 政 府 組 織 と して の文 物 管 理 会 が 作 られ,ま た 県や 地 区 の文 化 局 な ど も監 督 し,県 を挙 げ ての 廟 会 とい う色 彩 が 強 くな って い る。 貧 困県 で あ る佳 県 に と って は この廟 会 が 行 わ れ る半 月 間 は 主要 な収 入 源 で あ る とい って も過 言 では な い 。

        へ

この廟 会 は,他 の廟 会 と 同 じ く大 規模 な交 易 会 や 宝 く じな ど も併設 され,周 辺 各 県 や 各 省(黄 河 に面 して い るた め,対 岸 は 山西 省 で あ る)か ら10万 人 以上 の人 々が 集 ま っ て い る。

  2.黒 龍 潭(楡 林 地 区,鎮 川)… …小 さな 地 域 廟 か ら広 域 廟 へ と変 化 した もの

      1

  この廟 に つ い ては,拙 稿 です で に幾 つ か の 紹 介 を試 み た よ うに(深 尾1993;1996), 数 多 い 陳 北 の 廟 の な か で も突 出 した もの の1つ で あ る。 同 廟 は 当 初 明 の 正 徳 年 間

(1506〜1521)に 建 て られ た(禾 子1988:4)と あ り,歴 史 的 に は 白雲 山 よ りも古 い。

清代 か ら民 国 にか け て 何 度 も修 復 や拡 張 が 行 わ れ て い た もの の,あ くま で幾 つ か の 村 の連 合 廟 に とど ま り}規 模 は 大 き くは なか った 。 しか し,1980年 代 に入 り,各 地 で 廟 会復 活 の気 運 が 高 ま るに つ れ,同 廟 で も 「文 管 会 」 が 結 成 され,復 活 に 向け て 人 々が 動 き始 め た。 そ の際,指 導 的 役割 を果 た した のが 地 元 の 万 元 戸,王 克 華 であ った 。 黒 龍 潭 は こ の 王 会 長 の カ リス 厚 的 な指 導 力 と威 信 の も とに 急 速 に成 長 し,そ の廟 会 は 1983年 頃 に は10万 人 規 模 の廟 会 へ と膨 れ あが った 。 同 廟 の あ る谷 間 には 神 水 が 湧 き,

      チエノ

病 気 治療 や 雨 乞 い に 効 果 が あ る と され る他,そ の 廟 の お み く じ(「 籔 」)が 人hの 信 心 を集 め て い る こ と も理 由の1つ で あ る。 しか し何 よ りも王 の威 信 が地 域 内の 人hに 知 れ わ た り,自 ら の設 計 に よ る神 殿 や 山門 な どの 廟 建 築 が話 題 を 呼 んだ こ と,ま た毎

回 の廟 会 の運 営 に細 心 の注 意 を払 い,人 々 の関 心 を 集 め る劇 団 を 呼 ん だ こ とな どが, この廟 を急 速 に成 長 させ た 最 大 の理 由 で あ った 。 この 廟 は,そ こで集 ま るお 布 施 で 廟 の建 築 や 植 林,地 元 の 教 育事 業 な どを次 々 と展 開 し,今 や 白雲 山 を凌 い で陳 北 最 大 の 廟 に な っ た と人hに 噂 され る まで に な った。 この会 もあ くまで 民 間組 織 で あ る こ とを 維 持 し続 け,他 の 行 政 か らの 関与 を で きるだ け 避 け よ うと して い たが,1998年 夏,黒 龍 潭 道 教 管 理 委 員 会 を 発 足 させ 民政 部 の宗 教 管 理 所 の管 轄 下 の 組織 と して新 た な時 代

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深尾  中国西北部黄土高原における廟会をめ ぐる社会交換 と自律的凝集

を 迎 え た 。

  3,3‑1.石 崖 地(鎮 川),3‑2.魚 河 城 陛 廟(楡 林)… … 地方 政 府 と一 体 化 す る廟   末 端 政 治 組 織 との 関 係 は後 に詳 し く述 べ る よ うに 多様 で,そ れ は 「会 長 」 に 当 た る 人 の性 質 に よ る と ころ が大 きい が,こ こ で挙 げ る2つ の 廟 は いず れ も 「会 長 」 が 村 政 府 の書 記 を 兼 ね て い る もの で,そ の廟 会 も村 政 府 を 挙 げ て 行 われ て い る。 前 記 の黒 龍 潭 も,王 会 長 とそ の 弟 が地 元 の村 の村 長 並 び に書 記 を 兼任 す るが,そ れ は廟 の活 動 を 安 定化 させ るた め に 戦 略 と して 行 われ た も の で あ る。 こ こで 述 べ る2例 は,そ もそ も 書記 や 村 長 であ った 人hが 率先 して廟 会 の復 活 に あた り,村 政 府 の活 動 と して取 り組 ん で い る ケ ー ス であ る。 これ は 比較 的歴 史 が長 い廟 に多 い 。 廟 会 の 「会 長 」 は 村 の書 記 を兼 ね て お り,廟 会 開 催 中 は 村政 府 が事 務 所 とな って い る。 この うち石 崖 地 は 黒 龍 潭 と無定 河 を は さ んで ほ ぼ 対 岸 に あ り,か つ て は黒 龍 潭 を 遙 か に 凌 ぐ規 模 で あ った の が,近 年 黒 龍 潭 の急 速 な 成 長 に よ り,今 で は黒 龍 潭 に続 くべ く努 力 が 行 われ て い る。

両 廟 会 は,黒 龍 潭 で 育 て た苗 木 を石 崖 地 に 送 るな どの 交 流 を行 って い る。魚河(地 名) は 無 定 河(河 川 名)が 楡 河(河 川 名)と 合 流 す る地 点 に あ り,ま た 対 岸 の横 山県 を結 ぶ 橋 が この 魚河 に あ る こ とか ら,特 に 横 山 県 に対 して大 き な影 響 力 を持 って い る。

  4.石 佛 寺(米 脂 県,張 家 塔)… …短 期 間 に無 か ら廟 が 作 り上 げ られ た例

  これ は,冒 頭 に挙 げ た 事 例 で あ る。 名 目的 に は 歴 史上 そ こに廟 が 存 在 した とい うこ とに な って い るが,必 ず し もそ れ は 定 か で は な く,全 く新 し く作 られ る場 合 も多hあ る。 いず れ に して も,新 し く廟 が 作 られ,そ れ が 急 速 に発 展 す る場 合 に は,そ れ に 関 わ る廟 の 「会 長 」の威 信 が 強 く影 響 す る。石佛 寺 の場 合 は 当初 発 起 人 とな った 「会 長 」 が わず か 半 年 で 県城 の廟 会 に行 く途 中 脳 温 血 で 死 亡 。 しか し,現 在 は数 名 の 「会 長」

が 引 き続 き廟 を 運 営 して お り,当 初 の勢 い は 失 せ た もの の,毎 年 の廟 会 は盛 ん に 行 わ れ て い る。 新 興 の 廟 な の で芝 居 を上 演 す る舞 台 は まだ 仮 設 の ま まで あ る。

  5.飛 龍 山(米 脂 県,楊 家 溝 郷)… … 幾 つ か の 村落 連 合 で作 られ て い る もの   先 の黒 龍 潭 も,石 佛寺 も複 数 の村 落 の連 合 廟 であ るが,こ の 飛龍 山は 歴 代8つ の 自

然 村 で協 力 して廟 会 が 運 営 され て お り,近 年 の復 活 に 際 して そ の 内 の7村 落 が 残 って 協 同 で行 っ て い る もの で あ る。 奉 って い る のは 白雲 山 の 「真武 大 帝」 で,地 元 の 言 い 伝 え で は 白雲 山 は本 来 こ こに建 て られ て お り,明 代 初 期 の 地 震 で 打撃 を受 け,後 に現 在 の 白雲 山 の場 所 に移 っ た と され て い る12)08つ の村 落連 合 か ら7つ に 減 少 した こ と

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国立民族学博物館研究報告  23巻2号

に 関 して は,後 に 別 の 事 例 セ 詳 し く述 べ る廟 会 の独 立 に よ る もの で あ る と考 え られ る。

協 同 で 廟 会 に 参 加 して い る各 村 か らは 「会 長 」 が 出 され る他,廟 会 の 日に は 「供 飯 」 と呼 ぼ れ るお 供 え物 が各 家!・々か ら 出 され る。 この廟 に は1980年 代 初 期 に 山 の 山頂 に あ る廟 で,廟 会 の真 っ最 中 に 「会 長 」3人 が 落 雷 に打 た れ て死 亡 す る とい う事 故 が 起 こ って お り,こ れ に対 して,廟 に貢 献 の あ った 「会 長 」 を神 が呼 び 寄 せ た と解 釈 す る も の もあ れ ば,き っ と廟 会 の:お金 を個 人 的 に 使 った た め に天 罰 が 降 りた の だ とす る もの もあ り,そ の 後 数年 間廟 会 は停 止 して いた 。 か つ て は 山全 体 を埋 め 尽 くす ほ どの 人 出 であ った この 廟 会 も,現 在 は地 域 内 で小 規 模 に 行 わ れ て い る。

  6.東 獄 廟(米 脂 県,白 家 溝 ・山塒)… …活 発 な凝 集 性 を 示 し,末 端 政 府 が 歩 み 寄       る廟

  この廟 も実 は2自 然 村 の運 合廟 で あ る。 規 模 は そ れ程 大 き くな い もの の非 常 に 強 力 な凝 集 力 を 持 つ 廟 会 で あ り,地 元 の人 々は 旧暦4月28日 に 行 われ る廟 会 を,黒 龍 潭 に 続 く第2の 廟 会 で あ る と 自負 して い る。 「会 長 」 は約20名 で あ り,そ の 活動 は 活発 で, 1980年 代 半 ぽ まで は90歳 を極 え る老 「会 長 」 が 皆 を 率 い て きた が,現 在 は40代 の呉 学 旺 が全 体 を統 率 して い る。2つ の 村 を合 わ せ て も1000人 余 りの人 口の この廟 では,「会 長 」 が 廟 に まつ わ る知 識 が 豊 富 で,病 気 治 療 や 雨 乞 い な どす べ て統 率 して行 う。 そ の た め村 民 も知 識 の共 有 レベ ル が 高 く,強 い帰 属 意 識 を 持 って い る。 廟 会 の際 は,郷 政 府 の幹 部 が廟 会 の 事 務 所 に わ ざわ ざ赴 い て,郷 政 府 と して も積極 的 に この活 動 を 支 援 す る,と い った 内容 の話 を しき りに して い た。 奉 られ て い るの は 「東 嶽 大 帝 」 で,雨 乞 い の際 な どは,自 己 の村 落 ば か りで な く周辺 のゆ か りの あ る廟 へ も,雨 乞 い の部 隊 が足 を運 ん だ。 こ の雨 乞 い 儀 礼 に よ って普 段 は見 え な い近 隣 の 他 の廟 との関 係 が 浮 き 上 が って きた と もい}xる 。

 7.中 原 寺(佳 県,康 家 港)… … 村 の 基盤 は な く,も っぱ ら病 気 治 療 と 「会 長 」 の     威 信 で成 長 した 寺

  こ こに は本 来 山頂 に小 さ な観 音 廟 が あ るの み で,康 姓 の女 性 が1984年 頃 か ら 自 らの 病 気 治療 の た め に 白雲 山 に通 って い た が,気 功 の能 力 に優 れ て い る こ とが 判 り,次 々 と病 気 治療 を行 い,自 宅 を開 放 して長 期 療 養 患者 を 入 院 させ た りす る うち,遠 方 か ら も患 者 が 訪 れ る よ うに な り,ひ っそ り と した 山 は に わ か に活 気 づ くよ うに な った 。 そ の女 性 は 治 療 を す べ て無 料 で行 い,そ のお 礼 と して 人hが 差 し出す も のは す べ て 廟 へ のお 布 施 と して 受 け,現 在 で は 山頂 に神 殿,会 の 詰 め所,芝 居 用 の舞 台 の 他 に 周 辺 に 次 々 と植 林 を 行 い,林 が で きて い る。 ここは 観 音菩 薩 を奉 ってい るた め,廟 とは 呼 ば

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深尾   中国西北部黄土 高原におけ る廟会をめ ぐる社 会交換 と自律的凝集

ず,仏 教 の寺 であ る と 自称 し,宗 教 活動 場 所 の許 可 も政 府 に 申請 して与 え られ て い る。

旧暦 の6月 に 行 わ れ る廟 会 で は,200名 に及 ぶ人 々が か つ て 病 気 を 治 療 して も ら った お礼 の奉 仕 労 働 に駆 け つ け,お 布 施 を 数 百 元 単 位 で 出 して い る。 患 者 は 遠 く威 陽 や新 彊 な どか らもや って きて お り,ま た 廟 会 に 訪 れ た 人 の 中 に も40キ ロ以 上 徒 歩 で や って きた とい う人 もい た 。

  農民 が 口々 に言 うの は,町 や県 の病 院 に言 って もお 金 を と られ る ぼか りで,我hの こ とを こ と ご と くぼ か に し,ろ くに病 気 を治 して は くれ な い。 こ こに き て初 め て 自分 達 の 医者 に 出会 えた 。 病 気 が 治 った ら数 千 元 の お 礼 を して も惜 し くは な い,と い った こ とで あ る。

  寺 とは い え,お 供 え物 や 料理 が精 進 料 理 であ る他 は す べ て通 常 の廟 会 と同 じ要 領 で 行 わ れ て い た。 こ こで は,村 落 との 明確 なつ な が りは ほ とん どな く,も っぱ ら 「会 長 」

(女性 が会 長 とな る例 は 大 変 珍 しい)の 病 気 治 療 の 効 果 が評 判 とな り,人 々が 集 ま っ て い る。

  8.斉 天 大 聖 廟(米 脂 県,管 家 囎)… …村 を 出 た 人hが 支 え る廟

  こ こは,人 民公 社 時 代 には 貧 し く,そ の 頃か ら炭 坑 な どへ の 出稼 ぎが頻 繁 に行 わ れ てい た 村 で あ った といわ れ る。 そ の た め,1980年 代 に入 って か らは,周 辺 各村 の 出稼 ぎ の仲 買 人 とな る 「包 工 頭 」 が 多 く出 現 した 。 「包工 頭 」 は,1人 労 働 者 を斡 旋 す る こ とに1000元 近 い収 入 を得 るた め,急 速 に 財 を な し,ま た1年 の 大 半 を 村 の 外 で生 活 す る よ うに な った。 この 「包 工 頭 」 の 性 格 は さ まざ ま で,村 へ の 参 与 を ほ とん ど放 棄 して 都 会 に 生 活 基盤 を移 す も の と,村 の 行事 な どに積 極 的 に 関 与 し,推 進 役 を か って で る もの とに 分 か れ る。 この村 の廟 は 後 者 の よ うな財 を な した 出稼 ぎ頭 が 多額 の寄 付 を行 い,ま た 廟 会 の 時 期 に は郷 里 に も ど って 祭 を主 催 す る形 で復 興 した もの で あ る。

管 家 嗜 の王 向 文 一 家 は そ う した 意 味 で 最 も信 望 の厚 い 「包 工 頭 」 で,廟 会 そ の もの に 数 千 元 を 出資 す るぼ か りで な く,自 宅 を 開 放 して客 人 を もて なす 。 こ の よ うに,普 段 は村 に 不 在 であ る人 々が 求心 力 の中 心 と な って廟 を興 す 事 例 もあ る。

 9.大 佛 寺(米 脂 県)… …規 模 は比 較 的 大 きい が 求 心 的 リー ダ ーに 欠 け 外部 か らの      権 威 を 求 め る廟

  こ の廟 も実 は8ヶ 村 の連 合 に よ る組 織 で運 営 され て お り,1ケ 所 に 向 か い合 って

送 子 娘 々」 と 「斉 天 大 聖 」 が奉 られ て お り,6万 元 ほ どか け た とい う大 きな レ ソガ 作 りの真 新 しい舞 台 もあ った。 一 見 した と こ ろ非常 に 活発 な廟 会 で あ る よ うに 見z..る

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国立民族学博物館研究報告  23巻2号

が,し ぽ ら く観 察 して い る と廟 を維 持 す る人hの 集 団 が ま とま りに 欠 け,散 漫 な 印象 が だ ん だ ん 浮 か び上 が っ て くる。 これ に つ い て は,長 年 数 多 くの 廟 会 と接 して い る劇 団 の 団 長 も,同 じ印 象 で あ っ た。 あ る夜,廟 会 の 「会 長 」 数 名 が わ れ わ れ の い る窯 洞 を 訪 ね て きて,涙 な が らに目 分 達 の廟 会 は 今 求心 力 の あ る リー ダ ーが い な い た め,勢 い が な く,こ の ま ま で はす た れ て い って し ま うの では な いか,と 訴 え,ま た 自分 達 の 活 動 を 安 定 的 な もの にす るた め,政 府 機 関 の保 証 を も らいた い が,何 か そ の道 は な い か,と 相談 を もちか け て きた 。 地 区 の 文化 局 の紹 介 を 受 け,遠 くか らや って きた 調 査 者 が 何 か 自分 達 の持 っ て い ない 外 部 へ の ル ー トを もって い るの で は な いか と考 え,皆 で 相 談 し,頼 み にや っ て きた ので あ る。彼 らが必 要 と して い た の は,先 の7の 中原 寺 が 持 って い た よ うな宗 教 活 動 所 の 許 可証 の よ うな もの で あ り,何 とか して 自分 達 の活 動 に対 し,外 部 か ら の保 証 を 得 よ うと して いた ので あ る。 彼 らの訴 え は切 実 で そ れ だ け に廟 の盛 衰 を 自 ら の ご と と一 体 化 して と らえ てい る 「会 長 」 た ち の姿 が 強 く表 れ て い た。

  10.黒 虎 霊 官 廟13)(米 脂 県,楊 家 溝)… … 求心 力 を失 い失 速 す る廟

  廟 は,上 に述 べ て きた よ」うに急 速 に成 長 す るぼ か りで な く,急 速 に 衰 え る もの もあ る 。 米 脂 県 楊 家 溝 村 の 黒 卑 霊 官 廟 は,1980年 代 に村 の あ る シ ャ ー マ ン(地 元 で は

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馬 童 」 と呼 ば れ る)の 呼 び か け に よって 建 て られ た。 それ ま で村 に は か つ て地 主 の 時 代 に建 て られ た 廟 の幾 つか が,文 化 大 革 命 で 壊 滅 的 打撃 を受 け なが ら も存 続 して い た 。 しか し,病 気 治療 を専 門 とす る廟 は これ まで な か った ため,別 名 「薬 王 」 と呼 ば れ る 「黒 虎 霊 官 」を奉 る廟 を 新 設 す る こ とが提 案 され た 。自 ら 「会 長 」とな った シ ャ ー マ ソも愚 霊 に よ って病 気 治療 を行 うが,治 癒 した 人 々 や村 の多 くの 人 々が訴 え に応 え て,次 々 と協 力 し,山 頂 まで 石 や 岩 を 運 び,廟 が 建 設 され た。 それ と と もに,「 会 」 が 新 た に 結 成 され,間 もな く劇 の奉 納 も行 わ れ る よ うに な った 。 と ころ が1990年 代 に 入 る ころ か ら 「会 長 」 の シ ャー マ ンが 高 齢 に よ り体 調 がす ぐれ ず,廟 の運 営 に もか げ りが 見 え 始 め る。 そ してつ い に1994年 に シ ャー マ ンが没 してか らは,祭 りを開 催 す る 資 金 も十 分 に集 ま らな くな り,事 実 上 休 眠 状態 に 入 る。 村 には 旧来 か ら向 か い の も う 1つ の 山 の頂 に雨 を つ か さ ど る 「龍 王 廟」が あ り,そ の 「龍 王 廟 」を ま も る別 組 織 「社 」 が 存 在 した が,そ の後 「社 」は 活 発 化 す るの に 対 して,「 会 」 は不 活 発 に な り,そ れ に つ れ て村 人 達 の廟 に対 す る嘆 きの 声 も年 々高 ま ってゆ く。 この よ うに して廟 に は 中 心 とな る人物 の不 在 に よっ て衰 退 す る もの もあ る。

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深尾  中国西北部黄土高原におけ る廟会をめ ぐる社会交換 と自律的凝集

  11.西 天 古 佛 廟(米 脂 県,寺 溝)… …独 立 を 果 た そ うとす る廟

  寺 溝 は 楊 家 溝 村 の隣 の 支 流 沿 い に あ る人 口300人 ほ どの 小 さな 村 で あ る が,こ こは か つ て楊 家 溝 に盤 居 した 地 主 一 族 の一 門14)が 移 り住 ん だ こ とか ら,つ ね に楊 家 溝 の 附 属 的 な 地 位 に あ り,一 時 は行 政 村 落 と して統 合 され て い た こ と もあ った 。 現 在 は, 行 政 組 織 上 別 々の 村 とな って い る が,人hの 意 識 の な か で は寺 溝 は楊 家 溝 の 一 部 で あ る,と い う考え が 特 に楊 家 溝 の本 村 の人hy"多 く,廟 の活 動 は現 在 も共 同で 行 うこ と が 多 い 。 とい うの も寺 溝 の み で は劇 の奉 納 な どが 行 え な い た め,1980年 代 以 降 廟 が 復 活 してか ら も,楊 家 溝 の黒 虎 霊 官 な どの 廟 会 を共 同 で行 うこ とを 余 儀 な くされ て きた。

しか し,10で 紹 介 した シ ャ ーマ ンの 弱体 化 に伴 う廟 の 衰 退 が 明 らか に な るに つ れ,寺 溝 で も独 自Yy  会 を 開 催 した い と い う村 人 た ち の欲 求 が 強 ま っ て い る。 寺 溝 で も シ

ャー マ ソが 名 乗 りを あ げ,楊 家 溝 へ も病 気 治 療 に 赴 くな ど,楊 家 溝 にお け る シ ャーマ ソの不 在 を 穴 埋 め す る よ うな活 動 を展 開 し,独 立 の 気 運 が 高 ま って お り,そ の こ とが 楊 家 溝 の人 々 の嘆 きを 一 層 深 く して い た。

  12‑1.懐 英 閣(横 山 県,苦 水),12‑z.思 源 宮(靖 辺 県,梁 鎮),12‑3.永 懐 閣          (楡林 市,臥 雲 山)… … 退職 幹部 の呼 び掛 け に よ って 作 られ た毛 沢 東 廟   1990年 代 に入 って か ら各 地 で 毛 沢 東 廟 が設 立 され る よ うに な って い る。 陳 北 で最 も 早 く毛 沢東 廟 を 作 り人hの 話 題 を 呼 ん だ の は横 山県 の廟 山 であ る。 も と も と この近 く の 山裾 の村 には 幾 つ か の小 さな 廟 が あ った が,1986年 に 白雲 山 の 「祖 師爺 」を 招 来 し, 山 頂 に 廟 の 建 築 を 始 め た 。 苦 水 鎮 の書 記 を 数 十 年 務 め,「 革 命烈 士 」 の 息 子 で あ る呉 漢 金 は,1984年 に こ の地 域 で一 斉 に 毛 沢 東 の銅 像 を取 り壊 す 命 令 が 出 され た時 に,密 か に廟 の ほ こ らの 中 に隠 し,い つ か 毛 沢 東 の廟 を作 りた い と考 え て い た。 そ して徐 々 に 準 備 を 進 め,1993年 に つ い に毛 沢東 廟 を 完 成 させ た 。r懐 英 閣 」 と呼 ば れ る神 殿 に は 向 か って左 か ら朱 徳,毛 沢 東,周 恩 来 の 順 に 高 さ2メ ー トル 余 りの 石膏 の座 像 が鎮 座 して い る。 この廟 の完 成 は地 域 内 外 で 話題 とな り,各 地 の新 聞 な どで取 り上 げ られ た 。 この 廟 は,生 前 迷 信 活 動 を禁 止 した 毛 沢 東 に 配 慮 して,線 香 は 禁 止 され,そ のか わ りに タバ コに 火 をつ け て供 え る こ と とな って い る 。 この廟 は,後 に相 次 い で各 地 に 建 設 され た 毛 沢東 廟 の モ デ ル とな った15)。

  まず,そ こか ら200キ ロ以 上 離 れ た靖 辺 県 の梁 鎮 に1995年 に 毛 沢東 廟 が建 て られ た 。 中心 とな った 「会 長 」 は何 度 か 横 山県 の毛 沢 東 廟 を訪 れ て お り,そ こか ら多 くの ヒ ン

トを 得 て い る もの と思わ れ る。 こ の靖 辺 県 の 廟 は も と も とモンゴル 族 の 廟 が あ った と いわ れ て い る が,そ こに漢 族 が 入 り込 み,漢 族 の廟 と して改 変 した もの で あ り,現 在

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国立民族学博物館研究報告  23巻2号 は 白雲 山 の 「祖 師 爺 」 や 「龍 王 」 な どを奉 って い る。 そ して,毛 沢 東 廟 を作 る に あた

       

って は,付 近 の14歳 前 後 の 羊 飼 い が あ る 日突 然 毛 沢 東 の 故 郷 の 湖 南 方言 で話 を始 め , こ こに 廟 を 建 て る よ う啓 示 が あ った と,「 会 長 」 た ち は語 って い る。 しか し後 に ,毛 沢東 廟 を建 てた こ とで 地 元 の農 民 と対 立 が 生 ず る こ とに な り,資 金調 達 に問 題 が 発 生

       

した。 これ に つ い て は 皿で詳 し く述 べ る。

  最 も新 し く建 て られ た の が楡 林 か ら約30キ ロ程 離 れ た 臥雲 山 の毛 沢 東 廟 で あ るが, こ こ も白雲 山 の 「祖 師 爺 」 を奉 る廟 が 古 くか ら存 在 し,ま た 国 家 プ ロジ ェ ク ト16)の 植 林 地 と して研 究 セ ソタ ー な ど も設 置 され て い た 。 こ こ も黒 龍 潭 と同 様 に,植 林 地 と 地 元 の 観 光 名所,そ して廟 あ3つ の 機 能 を 合 わ せ た 開発 を行 お うと考 え て お り,天 安 門 建 築 をか た ど った 木 造 の 夫 きな 建造 物 を作 り,1995年9月 の毛 沢 東 の誕 生 日に行 わ れ た廟 の記 念 式 典 で は,楡 林 市 な どか ら も数 万 人 の人 が 集 ま り盛 大 に行 わ れ た 。た だ, これ に つ い て も式 典 の 直 前 に な って,地 元 の公 安 か らパ レー ドの 禁 止 を含 め た 注 意 事 項 の通 達 が あ り,当 初 毛 沢 東 の娘 も参 加 し地 元 の幹 部 も多 く参 加 の予 定 で あ った 式 典 が 急 遽,幹 部 の 参 加 を認 め な い も のへ と変 更 す るな ど,当 局 の対 応 に警 戒 心 が 見 られ た 。 これ ら3つ の 毛 沢東 廟 岸共 通 す る のは い ず れ も,も とは 白雲 山 の 「祖 師 爺」 を奉 った 廟 で,お そ ら く白雲 山の 相 対 的 地 位 低 下 に 伴 い,新 た な戦 略 と して 毛 沢東 を奉 っ た の で は な い か と も思 わ れ る。 い ず れ に して も,植 林 な ど の社 会 事 業 に 力 を 入れ る点 は,黒 龍潭 の モ デ ル を採 り入 れ た もの で あ ろ う。

  以上,幾 つ か の 陳 北 の 廟 を 紹 介 した。 もち ろ ん こ こに 挙 げ た の は陳 北 にあ る数 百 と も数 千 と もいわ れ る廟 の ご く一 部 で あ る17)0し か もそ の性 格 は 多 様 であ るた め,そ の 性 格 類 型 を 行 うこ と も困 難 で あ る。 た だ,ス キ ナ ーの市 場 分 類 に な らって,廟 の規 模

とランク を 便 宜 的 に示 す な ら,お そ ら く以 下 の よ うな類 型 が可 能 であ ろ う。

  原 基 廟(Standard  Temple)

  普 通1つ の村 に1つ な い しは 複 数 存 在 す る廟 。 た だ し,こ こで は 最 低 限廟 会 を開 催 で き る規 模 の廟 を原 基 廟 と呼 ぶ こ と とす る。 しか も,そ の 廟 会 は 芝 居 を呼 ぶ こ と ので き る規 模 で は な い 。 芝 居 を 行 わ な い廟 会 に お い て は 主 に,「 供 飯 」 と呼 ば れ るお 供 え

            スオナ 

もの を 受 け,「 噴 ロ内」(チ ャル メ ラ)な どの 音 楽 を 奉 納 し,お み く じを ひ い た り(「 抽 籔 」),病 気 治 療 の 薬 を 与 え 肉 り,ま た子 供 の厄 除 け の お 守 りを解 除す る 「過 関 」 とい う儀 礼 を行 った りす る。 時 に は廟 の周 辺 に線 香 や み や げ もの を売 る屋 台 が 並 ぶ こ と も

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