ムスリム同胞団の運動と展開をめぐって
研究代表者 小杉 泰
報告年度 1989‑03‑01
研究課題番号 60400012
URL http://id.nii.ac.jp/1509/00000882/
〔II〕
ムスリム同胞団の運動と展開をめぐって
1.はじめに
ムスリム同胞団がどのような状況下において成立し、その後、どのような 過程を通じて発展、展開したのか、また「冬の時代」に耐えていかに復活し たのか、そしてそれらの時代を通して思想的にいかなる発展があったのか、
といった諸点を整理するために、最初に時代区分をどのように行なうべきか を検討してみたい。これは歴史的に同胞団史を描き出そうとの試みではな く、同胞団のあり方をいくつかの時代にとりまとめる形で区切り、そこから この運動が一体何であったのか、その特徴はどのようなものか、という点を 明らかにしていく手掛かりを探り、明らかにされるべき課題を明確にしよう
とするものである。
その場合に、運動組織の内在的なダイナミズムを中心に考える見方、社会 との動的な関わりの中で展開される思想的な展開を中心に着目する方法、ま たこれらを同胞団の運動が生きてきたエジプト、アラブ世界、さらに大きな イスラーム世界の文脈の中に位置づける視点が必要となるが、以下では、エ ジプトの文脈で、主として運動の展開を見、次に思想の展開の主要なポイン
トを探っていくことにしたい。
2.時代区分の「契機」
まず、すでに公刊されている資料、研究の中で、同胞団がいかに扱われて いるかを簡略に見てみよう。
欧米の研究で同胞団を正面から扱った本格的な研究としてかなり高く評価 されているのが、リチャード・ミッチェルのrムスリム同胞団』1)である。
ただし、刊行されたのがすでに20年前(1969年)であるだけではなく、もと
もと1960年にブリンストン大学に提出された博士論文を若干修正しただけ
で、出版の時点でもすでに研究の時点から時間が経っていた。博士論文の
ベースとなっているフィールド・リサーチは1953年7月から55年4月に行な われている。そのため、7月革命(1952年7月)から1954年以降の弾圧期に 至るまでの、ナセルを中心とする自由将校団と同胞団の緊張関係については 現地調査をふまえた深みを持っているものの、非合法化以降については政府 の完全な情報コントロールの影響を蒙っている。後述のように、近年になっ て公刊されている資料によって、ナセル政権下で描き出された同胞団像、特 に同胞団と自由将校団の関係をめぐる歴史的事実にっいては、これまでの記 述から相当の修正が必要とされている。結果として当然ながら、それは同胞 団の評価にもつながってくる。ミッチェル自身は、1954年の弾圧で同胞団が
「ほぼ全面的に解体された」との理解していた。1960年代半ばの新しい弾圧 によって同胞団が再び表面に現れた時も、その観点から相対的に重要視して
いない。
もちろん、ミッチェルが当時の一般的な認識一つまり「イスラーム的潮 流は歴史的役割を終えて、退場しつつある」一を共有していたとしても、
それはごく当然であり、その後のイスラーム復興の現象をもとに責められる べきことではない。しかし、そのような資料的な制約は別としても、アプ ローチ上の問題として、ミッチェルが自己のスタンスを述べているところで は、「古典的な歴史的研究であって、大衆運動の研究ではない」「主として 経験的」 「私自身のヒューマニスト的立場」といった規定性が揚げられてお
り、問題なしとはしない。
さて、ミッチェルは次のような区分を行なっている。
(1)イスマイリア期(1928〜1932)
(2)カイロ初期(1932〜1939)
(3)第2次大戦期
(4)絶頂と解散(1945〜1949)
(5)再建期(1949〜1952)
(6) 最其月 (1952〜1954)
本部をイスマイリアからカイロに移し、ハサン・アル=バンナーの弟アブ ドッラフマーンが主催していた協会と合併した時点を一つの画期と見ること に異論はないであろう。
政治運動としての側面に着目して、権力との関係を重視して、 「弾圧
(mibnah)」およびそれに続く「再建」を「画期」とするならば、ファルー ク王制末期の弾圧、ナセル政権下での2次にわたる弾圧が主たるものとして 上げられる。
(1)第1次弾圧(1948〜49)
(2)第2次弾圧(1954)
(3)第3次弾圧(1965〜66)
第1次弾圧は20年間の大きな発展の結果、体制を脅かすものと見られるよ うになったことに対するものであり、それはアル=バンナーの暗殺によって クライマックスに達する。同胞団はそれを乗り越えて一指導部の危機を抱 えっっも一革命を支えるわけであるが、ナセル政権との対立の結果、第2 次弾圧を招く。非合法化されて以降の地下活動期の再建を阻もうとしたの が、続く第3次弾圧であった。
弾圧は同胞団が持っていた社会影響力を間接的に示す要素もあり、決して 無視できないが、全体としては外的要素であり、これだけに着目することは できない。ただし、エマニュエル・シヴァンなどは、ナセル期の弾圧がクト ブの思想、さらには筆者がクトブ主義と呼んでいる潮流を作った、として大 きな意味づけを与えている。
同胞団史を知る上で、指導部内部にいた者が卓抜の記憶力で綴ったrムス リム同胞団一歴史を作った諸事件』2⊃は、近年のもっとも重要な出版の一 つに数えることができるが、その著者マフムード・アブドル=ハリームは、
全体を、運動の発展=展開とそれを阻害するような「対立(fitnah)」の相
互ダイナミクスとして把えている。副題の中に「内側からの観点」とあるよ
うに、組織の問題が本来の著者の責務・関心事であったから、この相互ダイ
ナミクスの観点は十分理解できる。ただし、フィトナ=「内部対立」の語 は、同胞団内部のことを言っているだけではない。ワフド党、自由将校団と の対立も含まれており、同胞団が改革を志しているエジプトのイスラーム社 会全体が「内側」と理解されている。社会運動として見た場合に、組織の展 開とそのなかで行なわれたイデオロギー的論争などはきわめて重要な要素で あり、アブドル=ハリームの著が同胞団の理解に役立つ側面は大きい。大き な発展の流れが混乱した「契機」はおおよそ次のようである。
(1)ラファアトとシッディークの対立を軸とする内部対立 (2)アービディーンをめぐる内部対立
(3)「ムハンマドの青年」協会の分裂(1939年)
(4)アフマド・スッカリーをめぐる内部対立 (5)ワフド党との対立
(6)「特別機関」をめぐる対立 (7)自由将校団との対立
これらの間の期間はそれぞれ種々の発展的な要素に彩られており、それは 全3巻、総計1,700頁を越える中に丁寧に述べられている。
リーダーシップの問題はいかなる運動でも重要であるが、特に、「入団」
が最高指導者に対する「誓い」としてなされる同胞団の場合、指導部の問題 はとりわけ重みを持っている。最高指導者から見ると、次のようになる。
(1)アル=バンナー時代(1928〜1949)
(2)アル=フダイビー時代(1951〜54/1974)
(3)アッ=ティルミサーニー時代(1974〜1986)
(4)アブン=ナスル時代(1986〜)
ただし、最高指導者=イデオローグでは必ずしもない。特に、非合法化さ
れて以降ほとんど名目的な一あるいはザイナブ・ガザーリーの表現によれ
ば「同胞団の象徴」としての一役割に甘んじざるをえなかったフダイビー
の時代は、むしろイデオローグとしてはサイイド・クトブが指導性を発揮し
ていた。
およその対比となるが、バンナー時代は王制期、フダイビー時代はナセル 期、ティルミサーニー時代はサダト期と重なっている。
以上に述べたいくつかの観点を総合しつつ、課題を設定していく助けにな るように、テンタティヴではあるが、同胞団の発展過程を略述して見よう。
3.ムスリム同胞団の成立と発展
<1>「イスマイリア同胞団」時代
この時期は、イスマイリア市に本部を置く同胞団が成立し、ナイル・デル タ地域に支部を建設、支持者を徐々に増加させていった時期である。
同胞団の「結団伝説」は1928年3月を起点とする。すでに、在学中からイ スラーム再興の必要性を感じていたアル=バンナーは、イスマイリア市に教 師として赴任すると、自分の自由時間にモスクで人々にイスラームについて 語りかける。これは完全に自発的な私的な行為であったようで、そのため後 に「ワクフ省の許可を得ずにモスクで勝手に講義をしてはいけない」との介 入を受け、結果として同胞団独自の事務所を持つに至る。このアッバーシー
・モスクでなされた名も分からぬ若者(アル=バンナーは当時22歳)の自主 講義を聞いていた中の6人が、彼を訪れて自分たちを指導してくれるよう願 い出た、という。アル=バンナーを含めて7人が「神の道に」励むことを 誓ったとき、この集団に名前が必要とのことで、アル=バンナーが「われら はイスラームに奉仕する同胞(i㎞幅n)ではないか。では、ムスリム同胞団
(AHkh幅n a1−Musli面n)と名乗ろう」と述べて、この名称が決定した。
この「物語」は、多くの資料に述べられている。
この時の6人の一人で、やがて同胞団の最初の書記になったアブドッラフ
マーン・ハサバッラーによれば、結団の後、アル=バンナーはカフェやクラ
ブを訪れて、 「辻説法」をして回った。彼の説法は非常に人気があり、彼が
訪れると客が増えるのでカフェの主人たちは争って彼を招いたという。3⊃
この時期の同胞団で注目すべき点は、
(1)当時英国の支配下にあったスエズ運河地帯で同胞団が発足し、急速 に広がったこと。反英闘争のテーマは最後まで一貫して同胞団の主要な主張 点の一つである。
(2)イスマイリア市、スエズ市といった運河地帯の町のほか、アブー・
スワイル、シュブラ・ヒートなどをはじめとして、デルタの農村地域に拡大 したこと。同胞団は、この点で、都市部に影響力が限られていた他の大衆運 動とは異なっている。
(3)イスマイリアの重要性。同胞団発祥の地であるこの町は、本部がカ イロに移った後も、財政その他の面で同胞団の屋台骨であり続けた。
<2> 全国同胞団の成立と拡大
1932年に、カイロで活動を続けていたアブドッラフマーン・アル=バン ナーの「イスラーム文化協会」と合併して、本部をカイロに移した同胞団 は、いわば首都に進出して全国レベルでの組織展開を始める。特に、それ以 前は上エジプトにほとんど足掛りを持たなかったが、カイロに移ってから は、アスユートその他にも支部を作る。
支部がどのような地域で増えていったかは史料を基にある程度再現でき る。部分的には本書でも店田論文で検討されているが、細かく発展の流れを 追うことは、ネットワークのあり方を知る上でも有用であろう。
カイロに移ってからの同胞団は、第2次世界大戦までに、エジプトでもっ とも重要な政治勢力の一つとなる。
同胞団のメンバーはほとんどすべての社会階層を網羅していた。特に公務
員、学生、都市労働者、農民などに浸透した。この点をどのように考えるか
をめぐって、本プロジェクト研究会では、エジプト社会構造の規定が論じら
れたが、基本的には、階級を前提として同胞団の支持基盤を問うような方法
ではアプローチが不可能であり、ネットワーク的な社会を前提として、その 組織展開を追う必要があるとの認識に達している。
ちなみに、1947年にムニール・ディップが入団した結果、新しいチャンネ ルが開かれて富裕層へも拡大していくことになる。しかし、そのことは社会 的影響力の拡大の一方で、後述のように、アル=バンナー暗殺後の第2代最 高指導者の選出をめぐって路線が対立する中で、保守的要素の増大=フダイ
ビーの「合法路線」の登場へとつながってもいく。
〈3> 組織の確立
全国レベルの運動となった後、組織レペルで重要なのは、1935年の第3回 総会、1939年の第5回総会である。第5回総会では、政治路線が明確に打ち 出された。
具体的動員力の組織化としては、1937年の「師団」の創設が上げられる。
さらに、1942、3年頃に「特別組織(a1−Jihsz a1−Kh5SS)」、いわゆる
「秘密機関」が設立される。これは一般に、王制時代、ナセル期を通じて
「テロ機関」のように描写されているが、正しい把え方ではない。武装闘争 をアプリオリに原則として否定する発想はイスラーム的理念の中にはないと はいえ、同胞団は武装闘争による権力奪取を主要な一優先さるべき一課 題としていない。むしろ、そのことが後に誕生するイスラーム諸組織との分 離を生むのであり、「特別機関」はまず、団員としての位階を登りつめたエ リート団員の組織として把えなければならない。これは、国内での権力闘争 のための別動隊ではなく、植民宗主国をはじめとするイスラームの「外敵」
と戦うための精鋭の行動部隊として理解されていた。 「行動」の中には、本 来同胞団の一般の活動すべてが含まれる。しかし、時の経過とともに外的な 危機が深まるにつれて、具体的局面での闘争手段が問題となるようになる。
単純化していえば、国家の側の「弾圧」にどのように対応するか、という問
題が登場して、特別機関の意味が変質したと見るべきであろう。
この問題は、武装闘争の問題と共に、 「二重指導部」の問題を生んだ。
「秘密機関」は徐々に同胞団の全体的な指導部とは別の実体を持っように なった。特別機関が、主観として総指導部に忠実であると考えていたとして も、それは別問題である。特別機関の自立化は同胞団が組織としての一体性 を失ったことを意味していた。組織原理の問題として、同胞団は最高指導者 を頂点とするヒエラルキー組織をなしており、種々の構成部分がそれなりの 独自性で行動することを前提としていない。そのような中で、形式上は最高 指導者に帰属するが、事実上は並列的な二つの組織が誕生したことは、組織 の分裂、指導部の麻痺を意味する。アル=バンナー暗殺の前後の状況一暗 殺の原因も含めて一から革命後にいたる危機は、この二重指導部問題を一 っの決定的な契機としている。
<4> 政治闘争期
1940年代は上記の「包括的」路線から政治闘争へ特化していった時期とい
える。
1945年にはヌクラーシー内閣が成立し、弾圧が始まる。1948年には「革命 準備」の嫌疑で解散令が出された。これに報復するように、ヌクラーシー首 相が内務省の本省の建物の中で暗殺されたため、さらに翌年初めに、アル=
バンナーが秘密警察によって暗殺されるに至る。
その後、ワフド党内閣が成立し、連携問題が発生した。従来同胞団は既成 の政党のいずれとも連携しないことを方針としており、これは内部で大きな 軋礫を呼んだ。
軍事を含む政治闘争の中で非常に重要なのは、パレスチナ闘争であろう。
その詳細についてはあまり研究がなされていないが、重要な課題と言えよ
う。
<5> 危機の時代一内部対立と自由将校団
1949年のアル=バンナーの暗殺は、指導部を大きな危機に投げ込んだ。後 継者は、1951年まで決まらない。
「テロ」の非難と決別すべきとの路線が主流を占めたために、第2代最高 指導者は、元判事のハサン・アル=フダイビーとなった。しかし、すでにエ ジプトは「革命前夜」を迎えており、フダイビーの「合法主義」路線は、そ の事態に対応すべき、強力で効率的なリーダーシップを提供できなかった。
内部でのフダイビー批判は、必ずしも直接行動などを重視する急進的な路線 によるものではない。適切かつ強力なイニシアティヴの欠如が最大の問題で あったように思われる。
さて、1952年7月の通例7月革命または「ナセル革命」と呼ばれている事 態において、同胞団はいかなる役割を担ったか。
従来その役割は、ナセル政権による、反同胞団的な「公式的見解」によっ て否定的にのみ描写されてきた。実際、同胞団がこの時期にどのように動い たかを知ることは、1970年代の半ばまでは不可能であった。しかし、近年、
当時の同胞団の指導部にいた者たちが著述したメモワールなどが刊行される ようになり、ナセル政権側からの叙述と突き合わせることのできる材料が入 手できるようになってきた。
仮説的には、「7月革命」とは、「下から」同胞団が準備し、「上から」
自由将校団が権力奪取したものといいうるが、そのことが資料的に実証しう るようになってきたのである。
同胞団にっいて、エジプト近現代史で名高いヴァティキオティスは1976年
の時点で、次のように述べている一「仮に同胞団のスポークスマン、広報
官たち、弁護論者の主張がいかに誇張されたものであるにしても、次の事実
を否定することは狭量で不当なことであろう。すなわち、同胞団の運動組織
とプログラムは、多くのエジプト人、特に将校たちにとって、政治改革と権
力への道として、魅力的なオールタナティヴをなしていた。同胞団は近代工
ジプト史における自発性の大衆運動であり、しかも恐らくは、そのすさまじ い大衆的影響力をふくめて言えばその唯一のものであろう」。4⊃
この時点では、「政治的主張」はともかくとして、具体的な回顧録の類は さほど公刊されていなかったし、ヴァティキオティス自身もそれまでの既刊 史料から歴史評価を試みている。確かに、その時点では、彼の言うように、
同胞団とナセルの世代の将校たちとの関係を明確にするには、史料があちこ ちに散在的に言及されたものがあるに過ぎなかった。
この点で非常に興味深いのは、自由将校団の主要メンバーの一人であり、
1952年の7月のクーデタにおいて重要な役割を担ったフサイン・ムハンマド
・アフマド・ハムーダの著したr自由将校団運動とムスリム同胞団の秘 話』5⊃であろう。ハムーダは7月22日の夜、自由将校団の決起にあたって、
軍首脳たちを拘禁する担当者であった。決起の情報を把握した軍部と、それ を知って決起の時刻を早めた将校団がわずかな差で勝利を収めるあたりの叙 述も興味深いが、著者はそれに注釈して、貴重な「一瞬の機転」を働かせ、
革命を勝利に導いた将校が、後に同胞団のシンパとして投獄、拷問の憂き目 を見たことが、革命の殊勲者に対するいかに不当な扱いであるかを、述べて いる。著者によれば、「同胞将校団(Al−Pubb5t aHkhw5n)」の最初の核は 1944年に確立され、著者を含めて7人の将校が1948年のパレスチナ戦争ま で、毎週会合を重ねたという。その7人の中に、後の革命指導評議会のメン バーとなるナセル、カマールッディーン・フサイン、ハーリド・ムヒーイッ ディーンも参加していた。この会合には、同胞団の指導部からはマフムード
・ラビープが出席していた。この組織がパレスチナ戦争で中断した後、ナセ ルが独自の再組織を「自由将校団」として行なっていく過程(著者は同胞団 への心情的忠誠はともかく、具体的にはナセルの同盟者として全過程で中核 的な役割を担っていた)も詳しく述べられている。
ナセルが同胞将校団の主要なメンバーであったとすれば、それを利用して
効果的に自由将校団の組織化を進めえたということもあろうし、また、同胞
団との深いつながりは、後の弾圧にあたっていかに効果的な策が採れたかと いう点からも示唆的であろう。ヴァティキオティスが言うように、青年エジ プトと同胞団の影響からナセルが高度に個人化された権力の概念を持った、
とすべきか否かは保留するとしても、従来の、自由将校団のうちサダトが主 として同胞団と接触を持っていたとする見解は、一面的過ぎるであろう。全 体的な再構成が今後の研究課題となってくる。
同胞団とナセルの対立が決定的となった四っの点をマフムード・アプドル
=ハリームは、1)クルアーンにもとつく統治、2)統治と軍の関係、
3)農地改革のレベル、4)立憲制、であるとしている。同胞団の主張は、
1)イスラーム法に立脚して統治をすべき、2)軍は、民衆が圧政者に対し て抵抗するすべをすべて奪われた時の最後の拠り所であり、軍事政権を作る べきではない、3)農地改革にあたって、過剰な所有権の制限をすべきでは ない、4)統治は、立憲制に基づいて行なうべきであり、イスラーム法の統 治は立憲制を要求する、というものであったが、ナセルはこれと対立する見 解を持っていた。
運動的に見た場合には、両者の対立が決定的となる契機の一つとして、大 衆的基盤を持たないナセルが、上からの大衆動員の装置として「解放機構
(Hay,ah a1−Tabrir}」を創設し、同胞団もそこに吸収しようとしたモメン トがあげられよう。「上から」の革命と「下から」の革命の決定的対立点が 創出されたのである。
同胞団に則してみれば、7月革命成立後の1952年の秋から1954年の春まで は、二重の「奪権闘争」期と呼ぶことができる。同胞団内部では、フダイ ビーの指導部に対して急進的な部分が奪権を試み、それ自体が対外的にナセ ル政権に対する奪権闘争路線を形作るという形となっていた。しかし、同胞 団全体としては、ナセル政権とどのような関係を続けるべきかをめぐって分 裂しており、そのことが最終的なナセル政権の「弾圧」を許したのである。
例えば、1954年1月に、ナセル首相は一年前に施行した政党解散令を一施
行時には同胞団は「政党」ではない、との理由付けで適用外としたのである が一同胞団に適用し、同時に同胞団に近いナギーブ大統領を辞任せしめる ことで反対勢力の解体を試みるが、同胞団も含めて反ナセル勢力がナギーブ 支持の形で全国的に結集し、決定を撤回せざるをえなかった。しかし、この 段階で組織を固め直す代わりに、同胞団指導部は三派に分裂し、その危機に 際して、いったんは解散したはずの「特別機関」が復興し、全く組織の統制 が取れなくなってしまったのであった。
そして、10月26日にアレキサンドリアで、団員によるナセル暗殺未遂事件 が起き一今日では同胞団そのものには反対の人々でも、この事件が同胞団 の弾圧を目的としたナセルの自作自演的なものであったと見なしているよう であるが一これを契機とする「弾圧」によって同胞団は決定的な打撃を受 けたのであった。1960年代にミッチェルが結論づけたように、同胞団は「壊 滅」した、と見なされるに至った。
ちなみに、この事件の判決で、同胞団の指導局(最高指導部)のメンバー 13人のうち、死刑が1名、終身刑が7名、強制労働15年が2名、3名が無罪 であった。死刑を宣告されたフダイビーは恩赦によって終身刑に減刑され た。終身刑を宣告された中には、後の第4代最高指導者アブンニナスル、強 制労働を宣告された中には後の第3代最高指導者アッ=ティルミサーニーが 含まれていた。無罪となったのは、ナセル政権との融和論者であったアブ
ドッラフマーン・アル=バンナーほか3名である。
<6> 解体・弾圧期
上に述べた1954年の弾圧から、1965〜66年の弾圧を経て、1970年のナセル
の死までは、解体・再建・再解体の時期と把えられる。次節で述べるよう
に、この時期はイデオロークとしてのサイイド・クトブがリーダーシヅプを
握り、彼の思想的影響力が広がり始めると同時に、彼の処刑以降、その思想
が「クトブ主義」としていわば「独り歩き」を始める時期である。
1965〜66年の弾圧は、同胞団の組織再建に対するもので、公判で検察側が 主張したような「大統領暗殺計画」が実際にあった痕跡は薄い。特に、サイ イド・クトブの処刑は、いわば思想そのものが犯罪とされたわけで、そのこ とが持ったマイナスの「波及効果」を考えると、政権サイドの政策決定の妥 当性と言う点からは大きな疑問がもたれる。
1957年から64年の再建活動において主要な役割を担ったのは、サイイド・
クトブ、アブドル=ファッターフ・イスマーイール、ザイナブ・ガザーリー などであった。アフマド・ラーイフによれば、アブドル=ファッターフが組 織化の責任者であった。フダイビーらは、たとえ純粋に宗教的な組織を目指 したとしても政権からの弾圧は必至と見たが、アブドル==ファッターフはフ ダイビーに嫌疑が及ばないように、フダイビーの黙認を得たと解釈しつつ も、別途組織再建を行なうことにし、その指導者としてクトブを選んだ、と いう。ここから、正式な形では初めてクトブの著作が同胞団の学習文書とし て配布されるようになった。
<7> 復活と分派:小集団の時代
サダト時代(1970〜1981)は、同胞団の復活と、他のイスラーム運動の小 集団の登場によって、特徴づけられる。もちろん、同胞団の復活には、サダ ト政権が、左派(ナセル主義者、民族主義者、親ソ連派などを含む)との対 決を第一義的課題として、イスラーム的勢力を助長しようとしたことが大き な要素として働いている。しかし、それは「弾圧」の終了という点が最大の ポイントであって、同胞団そのものの復興はあくまで内的な力と見なけれ ば、サダト政権が必要とする以上に同胞団の勢力が大きく復活した理由が明 確にならない。
当然、これは同胞団のみの問題ではなく、1960年代末期以降に、イスラー
ム世界の他の地域でも出現し始めた「イスラーム復興」現象とパラレルに考
える必要がある。エジプトに限ってみても、「イスラーム復興」の傾向は、
1967年を境として徐々に姿を現す。それは権力中枢においてすら見られる 一例えば、ナセルの盟友であったフセイン・アッ=シャーフィイーのイス ラーム的姿勢の表われのように一一現象であった。確かに、1967年の敗北以 後、「地に墜ちた」ナセル主義に代わって対イスラエル戦争を戦いうる理念 的柱が求められ、それがイスラームであったという、政権にとっての「現実 的」要請もあったが、それもエジプト社会の中の「固有文化への回帰」の動 きに対応するからこそ有効性があった、と言うべきであろう。
対イスラエル戦(または、パレスチナ解放)という主要テーマに対して、
1967年戦争の敗北以後、ナセル主義に代わって汎イスラーム主義が主役とし て復活した。その結果、1970年頃まではナセル主義の牙城であった各大学の 学生自治会は1970年代の半ばには「イスラーム集団」が支配するものとなっ
た。
この時期は、同胞団の復活の一方で、同胞団がイスラーム運動の中でかっ て持っていた思想的、組織的ヘゲモニーがもはや存在しなくなった時代と位 置付けることができる。 「イスラーム集団」、「タクフィール・ワ・ヒジュ ラ」「ジハード組織」などは多かれ少なかれクトブ主義の影響下にあり、同 胞団の主流はむしろクトブ主義との戦いに力を注がなければならなかった。
<8> 再編・合同期(?)
1981年のサダト暗殺事件を、「クトブ主義のピーク」と把えることが可能 であろう。その後のムバーラク政権の時代になってからは一現段階で結論 づけることは、もちろんできないが一種々の組織の「連合」化がはっきり とした傾向として現われてきている。その最大の現われは、「イスラーム集 団」の同胞団への「合流」というべき現象6⊃と、同胞団と、労働党、自由党 の連合による「イスラーム協約派」の結成であろう。 「イスラーム協約派」
は、政策協定を結んで、1987年の国会選挙を戦い、60余議席を得た。この結
果、単独ブnックとしては同胞団が事実上の野党第一党となった。
しかし、これらをもって直ちに同胞団のヘゲモニーが回復しつつある、と 見ることはできない。むしろ、イスラーム諸運動の連携がなされる場合に、
同胞団がその摩史的プレスティージのゆえに、いわば「アンブレラ」の役割 を果している可能性も強いからである。
6.思想的展開
この節では同胞団を思想的に見た場合に、イスラーム復興運動の中でいか なる位置づけをすべきか、という観点から若干の検討を行う。
<1> マナール派思想の継承
ムスリム同胞団は、エジプトで近代的な意味での大衆運動が生れ始めた時 代に、大衆的なムスリム社会運動を開始したと言いうるが、思想的な流れか ら見るならば、19世紀以来のイスラーム再興のための思想運動を受け継いで いる。具体的には、ムハンマド・アブドゥ、ラシード・リダーに代表される マナール派のイスラーム改革思想を継承するものと考えることができる。ア ル=バンナー自身がラシード・リダーのサークルに通ったことは明らかであ るし、また、思想的継承を自覚していたことは、アル=バンナーがラシード
・リダーの死後、rアル・マナール』誌を買い取って、その刊行を続けよう とした事実の中にも明らかである。もちろん、アル=バンナーがラシード・
リダーだけを師としたというように考える必要はない。重要なのは、マナー ル派がイスラーム復興の基本理論を確立した後を受けて、同胞団がそれを大 衆運動として展開した点にある。
この関係を、ナダヴ・サフランは、「同胞団のイデオロギーは本質的には
ラシード・リダーとマナール派の思想を還元して、体系的な思索よりも信仰
心に立脚する単純な信念となしたものを、ネガティヴなナショナリズムに鼓 舞され、深刻な社会的窮乏に対する関心に補強された戦闘的な運動の炎に投 げ込んだものである。 … ラシード・リダーがイスラームの源泉に戻るた めの原理的基礎にこだわっていたのに対して、アルニバンナーはクルアーン
とスンナに単純に回帰した」7⊃と述べているが、やや極端な一般化と言うべ きかもしれない。ラシード・リダーのような法学的思弁に対する嗜好は全く なかったことは確かであるが、といってアル=バンナー自身がマナール派思 想をごく単純化して理解していたとは言い難い。いわば知的な運動としての マナール派の運動を、同胞団が「大衆化」したことには異論の余地がない が、むしろ、マナール派が確立したものについてはそれを与件として先へ進 んだ、と見るべきではないか。
そうであれば、当然、同胞団の思想はマナール派の単なる大衆化ではな く、マナール派思想はすでに達成された基礎理論であるとした上で、大衆運 動の次元で新たな領域を開いた、と考えることができる。ジハード論にして
もそうであるが、ラシード・リダーはジハードの原則は検討しても、実践者 のあり方について理念的かつ具体的な論究を行なったわけではない。その ような点を見れば、同胞団が新たに切り開いた領域を論ずることが可能と
なる。
<2> キー・ターム=「ダーワ(呼びかけ)」
ムスリム同胞団の創設から60年が過ぎた現在でもアル=バンナーの思想は 十分研究されているとは言い難く、特にイスラーム復興運動の文脈でそれが なされたことはほとんどないため、ここで明確な規定を行なうことはできな いが、一点だけ検討したい。
マナール派の思想は、現代世界においてもイスラームをもって社会の基盤
とし、国家を形成することの正当性を明確にすると同時に、その「イスラー
ム」の内容についてかなり鮮明な改革的立場を打ち出した。しかし、それを
実践する方法論にっいては、「教育」を重視する以上のものは提起できなか った。それとて、「ダーワ・イルシャード学院」の企てが第一次世界大戦で 中断され、ついに復活することができなかったとき、実際には限定的な効果 しか生むことがなかったのである。同胞団が、理論と実践の両側面において マナール派を凌駕したのは、この「教育」の側面であった。ここでの「教 育」は、「ダーワ・イルシャード学院」のような、知的エリートの創出では なく、いわば大衆レベルでの教宣であり、そのキー・タームとして、同胞団 の刊行物に頻繁に現われる「ダーワ(da wah,呼びかけ)」の語を取り上げ ることができる。
「ダーワ」はイスラ・一ムへの呼びかけを意味する一般的な用語であるが、
まさに同胞団はその一般的であるべき「呼びかけ」を碗代において復活する ことを目的として創設された。さらに同胞団の場合は、明確な組織原理を持 っているわけであるから、イスラームの一般性とともに明確な「大衆組織 化」さらには「思想教育」「訓練」の側面を持っていた。
rムスリム同胞団における教育思想とその実践』8,によれば、具体的レベ ルでは、金曜学校、ダーワ専従者を育てる教育機関が設立されたほか、「旅 団組織(ni痴m a1・−jaww51ah)」、「軍団組織(ni拓m a1−kat5,ib)」、「細 胞組織(ni拓m al−usar)」などの形で、メンバーの教育、訓練に当たった。
「旅団組織」は、1935年の第3回総会で特に強化が定められたが、その中 では体育的な訓練、軍事教練、学習的旅行、一週間のキャンプなどが実施さ れた。これが、1948年のパレスチナ戦争における義勇軍、1951年のスエズ運 河地帯での反英闘争において大きな役割を担った。
「軍団組織」は名称は軍事的印象を与えるが、40名を一軍団として、週に 一度夜を徹して信仰行為、学習に励むもので、そのような実践が結束の固い 集団を作りだすことに効果があったことは、明白であろう。
メンバー数が非常に大きくなったために1934年に開始されたのが細胞組織
で、各「細胞」は10名からなり、順番で各自の家を会場として、定期的に学
習会を開くように定められていた。各メンバーは、個人的義務、社会的義 務、財政的義務を負う。個人的義務の中には「自らをダーワのための兵士と 見なし、ダーワの義務を肉体的、時間的、経済的に負っていることを感じ る」ことも含まれている。社会的義務の中には、メンバー間の同胞精神の強 化、週一回の会合、月一回の一夜のキャンプ、夜と暁の合同礼拝などが定め
られていた。
「細胞[直訳すれば、家族]」には支部に対して責任を負っている代表が いて、四つの「細胞」が「一族( ashlrah)」をなし、五つの「一族」で
「群(raht)」をなす、と定められていた。
同胞団のメンバーシップは、教育/学習、実践活動に応じて段階的に進む ようになっており、団員のモチペーションがよく維持されるような工夫が凝 らされていた。
<3> 内在的ダイナミズム
ダーワ(呼びかけ)の目的は、社会をイスラーム的に改革すること一そ のために自己の改革から始めることであって、呼びかけ、教育それ自体が自 己目的なわけではない。 「改革」は、四つの次元で考えられていた。
(1)ムスリム個人の確立 (2)ムスリム家庭の確立 (3)イスラーム社会の確立 (4)イスラーム国家の確立
従って、ダーワの成功は必然的に政治力へと転換せざるをえない。また、
「ジハード(聖戦)」は、伝統的な理解に従って、 「(自己の)精神との戦
い」を「大ジハード」、敵との戦いを「小ジハード」と規定していたが、メ
ンバーが増加し、上に述べたような「旅団組織」の訓練が進めば、「小ジハ
ード」の具体性が問題となってくる。大規模の動員力を有し、かつ系統的に
訓練を施された部隊を維持していれば、当然「社会改革」は「革命」の問題
に転化せざるをえない。
しかし、対イスラエル戦争、反英闘争についてははっきりとした武装闘争 の路線を採り、武装した部隊を組織しつつも、アル=バンナー自身は、政権 との闘争に関しては、最後まで「武装革命」路線を採らなかったように思わ れる。これまでみたようなダーワの展開がある程度以上の規模に達した時、
政府に対して明白な脅威となり、対決は避け難くなる。にもかかわらず、こ の点について、つまり政府を武力によって倒すことの可否について、十分明 確な路線は出されていなかった。「特別機関」にしても、武装革命のための 組織ではなかった。
もちろん、上の四つの段階から考えれば、ムスリム同胞団の使命は未だ第 3のイスラーム社会の確立にあって、イスラーム国家の段階ではないと理解 されたかもしれない。この問題は、弾圧期のイデオローグ、クトブによって 明確にされることになる。
<4> 「ジャーヒリーヤ」論
サイイド・クトブの思想は明らかにアル=バンナーの路線とは異なってい る。それは危機の時代を反映しているともいえるが、とりあえず、ここでは
「ジャーヒリーヤ」論に限って検討する。 「ジャーヒリーヤ(無明時代)」
はイスラーム以前のアラビア半島を指す語であるが、ここではいかなる時代 であれイスラームに反する社会を指している。
アル=バンナーのダーワ主義からいえば、人々は呼びかけられ、教育さ
れ、あるいは自ら学習するためにそこにいる。しかし、そのようなダーワが
相当程度に成功した後で、政府による徹底した弾圧がかけられている段階の
クトブにとっては、問題は、ダーワを拒絶する社会といかに対峙するかであ
った。そこから、社会はイスラーム的であるか、ジャーヒリーヤ的であるか
のいずれかである、との二者択一論が登場する。ただし、クトブの直接のテ
ーマは、そのような二者択一的状況一具体的には、ジャーヒリーヤの体現
者としてのナセル政権の弾圧、圧政一に対して、イスラームの「ダーワ」
をいかに防衛するか、が問題であったように思われる。「社会」とは社会体 制であって、人々(共同体の成員)を直ちに指すわけではない。
問題を整理するために、「イスラーム革命」について検討してみたい。同 胞団はイスラーム革命について、どのような考え方であったろうか。
アル=バンナーが革命の路線をどのように理解していたかは、今一っ明確 ではない。少なくとも、1940年代末に革命準備の嫌疑をかけられていたとき には、アル=バンナーの側には革命の意図はなかった。しかし、アル=バン ナーの死後の1952年の段階では、同胞団は革命を指向していた。みずからを 革命主体と理解しつつ、自由将校団を支持するにとどまったのは、ナセルら がイスラーム的な政府を作ると信じた(同胞団の支持を取り付けるために、
そのように約束したのを信じた)からである、と説明されている。同胞団が 革命権力に参入することを阻害したのは、指導部の分裂という内部の問題で もあったと思われるが、いずれにせよ、奪権の意志を持たなかったことが誤 りであったとは、今日の指導部でも認められている。
しかし、当時の状況下で、政府の圧政を排するためには革命しかない、そ して革命の後の政府はイスラームに従った政策を採るべきである、と考える ことと、 「イスラーム革命」を指向することは同じではない。特に、イラン 革命を経た後の今では、イスラームと革命の単なる組み合わせだけでは、イ スラーム革命思想はできあがらないことは十分知られている。そのような意 味では、1952年の同胞団には、イスラーム革命思想はなかったことは確かで ある。しかし、1960年代のクトブにはその萌芽があったのではないか、と考 えてみることができる。
ダーワの深化の結果社会全体がイスラーム化し(または社会のイスラーム
性が確立し)、そこでイスラーム国家を建設するという構想からいえば、軍
事政権を作り出した1952年のクーデタ=「革命」とは対立し、質的に異なる
運動が出てこなければならない。7月革命の暴力的かつ否定的な帰結に直面
した同胞団にとって、一つの可能性はその方向にあった(イラン革命の初期 おける同胞団の「歓迎」の姿勢は、そのことと無縁ではない)。イスラーム 革命理論への方向は、確かにクトブの思想の中に未分花ながら見えていた、
と思われる。
しかし、実際の思想展開は、クトブが処刑されたために、クトブの手を離 れたところで、「クトブ主義」と呼ぶべき潮流が発展する。それは、イスラ ーム革命の方向ではなく、ジャーヒリーヤ論の一方向への深化としての「タ クフィール」へ向かった。タクフィールは、社会を反イスラーム性のゆえに 断罪するものであり、1970年代の反体制運動の正当性の原理は、これに拠っ
ていた。
<5> 今日の思想状況
「ジャーヒリーヤ」論のクトブ主義的展開は、ひとつには「タクフィー ル」論であり、もうひとつは「ジハード」論である。前者が社会全体のジャ ーヒリーヤ性(反イスラーム性)を問題にするのに対して、後者は統治者の ジャーヒリーヤ性のみを問題にする。その一つの帰結が「新・ジハード組 織」による1981年のサダト暗殺であった。
ムスリム同胞団の指導部は、1970年代から80年代にわたって、このクトブ 主義を克服し、その潮流を押えるために苦心してきた、ということができ る。クトブ主義は、ナセル政権下での弾圧への反動の産物であり、その意味 では1950〜60年代のネガティヴな遺産である。 「タクフィール」にしても
「ジハード」にしても、クトブ主義的な流れで見る限りは、同胞団の思想の 根幹にある「ダーワ」を否定する側面を非常に強く持っている。
ズハイル・マールディーニーは、1980年代半ばの状況を、三つの潮流が同
胞団を引き合っている、としている。9⊃バンナー主義、クトブ主義、中道派
である。アル=バンナーの著作が再びしきりに出版されるようになってきた
のも、クトブをクトブ主義から切り放して弁護しようとする著作が書かれて いるのも、クトブ主義を乗り越えて、アル=バンナーの思想を再構築しよう とする努力の表われと見ることができる。しかし、再びアル=バンナー、と 言うだけでは、展望があるとは言えない。
新しい世代の思想家が今日的状況を踏まえた展開を行なってくるのか否か が、思想史的な関心を呼ぶところであり、研究の課題との交錯が起こる地点
であろう。
[注]
1) Richard P. Mitchel1, The Society of the Muslim Brothers, London,Oxford Univ. Press,1969. ミッチェルの著書はアラビア語に訳されてそのままエジプト で刊行されているが(本書文献解題を参照)、非合法化によって同胞団メンバーに 直接取材できないために生じた誤りがあるとして、それを同胞団メンバーが修正 した版がクウェートで出版されている、という(筆者未見。エジプトでは輸入禁
止)。
2) Abd a1一騒al了m, Mabm輯d, Al−lkhwδn a1−Muslim輯n: Abd蚕th Sana at a1−T5rikh,
Ru,yah min a17Dfi khi1, 3 vols., Alxandria, D5r a1−Da 騨ah, n.d.(Vol.1
and 2》, 1985(Vo1.3).3) Shaykh Abd a1−Rabm議n 口asaba115h wa Hadith a1−Dhikriy5t, Liw5,
al−Is15m, Vol. 42, No.12, March 1988, PP,15, 27.
4)P.J. Vatikiotis, Nasser and His Generation, London, Croom Helm,1978,
P.95.
5)Uusayn Mubammad Ab伽ad am冠dah, Asr5r Harakah a1−ubb5 a1−Ahr5r wa
a1−lkhwsn a1−Musli皿On, Cairo, A1−Zahr5, 1i−1−1 15m a1− Arab「i, 1985.
6)1986年および87年の現地調査に基づく。恐らく、1981年のサダト暗殺事件を、社会 的影響の大きな事件という意味と、当時クトブ主義がイスラーム諸組織に広範に浸 透していたという点から、クトブ主義のピークであったと言いうるであろう。その 後の展開は、中道派ないしはバンナー主義の方向で、ある種の「合同」が行なわれ ているように観察される。
7)Nadav Safran, E y t in Search of Political Community:An Analysis of the Intellectual and Political Evolution of E y t, 1804−1952, Cambridge,
Harvard Univ. Press, 1981(2nd printing, lst printing: 1961).
8) Abmad Rabτ Abd a1−Hamld Khalafal15h, A1−Fikr a1−Tarbawτ 聯a
Ta bτ fitihi Ladヨ Jam5 ah al−lkhw5n a1−Musli皿1n, Cairo, Maktabah Wahbah,
1984.
9)Zahayr MδrdinT,
1985(2nd ed.),