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本論文の目的と意義:

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Academic year: 2021

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内容の要旨及び審査の結果の要旨

本論文の目的と意義:

激動期の 4~6 世紀における男性知識人の自然認識の変遷を、人類の知的営みの中に位置づける

本論文があつかう 4~6 世紀という時期は、アフロ・ユーラシア大陸のほぼ全域において、人間と 文化の移動がなされた人類史の変動期の一つである。ユーラシア大陸東部では、遊牧民の南下にと もない秦漢帝国以来の古典国家が解体し、ユーラシア大陸中央部ではササン朝ペルシアが遊牧民の 騎馬軍団の攻撃によって崩壊寸前に追い込まれ、ユーラシア大陸西部では、ゲルマン系諸部族の移 動によって西ローマ帝国が滅ぼされ、西欧国家の直接の原型が形成される世界史の画期にあたる。

本論文は、このような激動の時代を生きたユーラシア大陸東部の中国の男性知識人たちに焦点を あわせ、彼らの自然認識の変遷の中に時代の特色を浮かび上がらせるものである。

すなわち、4 世紀初頭から 6 世紀末に、遊牧民の南下を避けて中国華北から中国長江流域(江南)

に逃れて王朝の存続をはかった東晋とその後継王朝である南朝(318~589 年)の知識人たちの行動 の特質を、本論文は、自然認識の変遷を軸に新たに論じている。知識人たちが、山水(山と水のあ る環境)ということばで表現した自然認識の変遷を通し、4~6 世紀の江南知識人の知的営みの特質 を明らかにする研究成果である。

東晋南朝における都市知識人と山水の関係については、この時期における山水画の誕生をめぐる 美術史の研究や、中国における風景の発見をめぐる文学史・思想史の研究、都市と郊外の関係の変 遷をめぐる歴史学の研究がすでに存在している。しかし、従来の研究は、各専門分野からの個別的 な研究であり、都市知識人とその自然認識の変遷を、広い視角から系統的に分析する試みは、ほと んどなされていない。

本論文は、4~6 世紀の江南で生じた都市知識人の自然認識の変遷を、ユーラシア大陸の変動の中 において理解するよう心がけており、その意味において総合的・体系的な研究となっている。同時 に、「山水」や「隠逸」(政府への任官を拒み地方に住み続ける知識人ないしその行為をさす)とい

氏名(生年月日)

シ マ

(1980 年 4 月 25 日)

学 位 の 種 類

博士(史学)

学 位 記 番 号

文博甲第 107 号

学 位 授 与 の 日 付

2016 年 7 月 29 日

学 位 授 与 の 要 件

中央大学学位規則第 4 条第 1 項

学 位 論 文 題 目

東晋南朝における山水と知識人

論 文 審 査 委 員

主査 妹尾 達彦

副査 川越 泰博・小林 聡(埼玉大学教育学部教授)

〔1193〕

(2)

うことばに新たな解釈をほどこし、多くの新たな事実の発掘もなされている。

改めて述べるまでもなく、「風景の発見」は、西欧の社会史や美術史における重要な研究テーマの 一つである。本論文では、ルネサンス以後に顕著となる西欧での「風景の発見」の 1000 年以上も前 に、中国で類似した現象の生じた理由について、4~6 世紀におけるユーラシア大陸東部(東アジア)

の時代・社会状況や、中国独特の官僚制度での知識人のありかた、江南という場所の自然環境のもつ 特色などを見据え、独自の解釈を披露している点も、今後の比較研究の進展に示唆を与えるものと 思われる。

本研究の構成と各章の概要

本論文は、下記のように、まず、東晋南朝期の山水観と隠逸という行為の変遷について新たな解 釈を試み、当時の政治権力と知識人の関係を、自然認識の変遷を軸に明らかにする。次に、東晋南 朝の都城となった建康(現在の南京)に焦点を絞り、建康知識人の自然認識の変遷を論じ、続けて、

長江中流域の名勝・廬山と、杭州湾の南岸の会稽に拠点をおく知識人たちの行動を、建康知識人と 比較しながら論じている。

はじめに

第 1 章 東晋南朝における山水観の展開 はしがき

第 1 節 正史中にみえる「山水」の語の使用例 第 2 節 知識人の山水観 ―『世説新語』を中心に―

第 3 節 東晋南朝における山水の諸相 むすび

表 正史中にみえる「山水」の語の使用例 第 2 章 政治権力と山水における知識人

はしがき

第 1 節 江南社会と陶淵明 第 2 節 劉宋政権と郷里

第 3 節 郷論のなかにおける隠逸的知識人と政治権力 むすび

表 『宋書』隠逸伝にみえる徴辟状況

第 3 章 建康の山水庭園と自然に対する知識人の視点 はしがき

第 1 節 知識人の山川に対する一視点と建康の山水庭園 第 2 節 山水庭園における「山」「水」「光」「風」について 第 3 節 会稽・廬山の山水と建康の山水

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むすび

第 4 章 廬山の山水と知識人 ―劉宋建国期の白蓮社を中心に―

はしがき

第 1 節 廬山白蓮社の隠逸 第 2 節 廬山の山水の性質 むすび

表 『宋書』巻 93、隠逸伝掲載の人物と山における活動

第 5 章 会稽の山水と知識人 ―東晋から劉宋初における隠逸と知識人の交流を中心に―

はしがき

第 1 節 会稽周辺の隠逸

第 2 節 王氏と謝氏を中心とした知識人集団とその交流関係 むすび

おわりに

表 論文中で言及した山水庭園一覧

各章の論点と意義を簡潔に整理すると、以下のようになる。

第 1 章 東晋南朝における山水観の展開

本章では、東晋とそれに続く宋・斉・梁・陳の南朝の歴史を記す正史の中にみえる「山水」の語 をすべて表に整理することで、山水の語義の変遷を論じる。整理した一覧表にもとづき、正史の中 に記された「山水」の表現内容を分類して、その表現内容の変遷から東晋南朝の山水観の転換を明 らかにする。

山水の用語の整理によって、秦漢から西晋にかけては、「山の水」や「険しい地形」としての面が 重視されていた自然環境としての「山水」が、東晋南朝になると、「山と水のある風景やその趣き」

という面が重視されるようになっていくことを指摘する。

その変遷の理由としては、華北の戦乱を避けて江南に南渡してきた西晋の知識人たちが、華北と は全く異なる温かく柔らかい自然景観に接することによって、自然をより身近なものと認識するよ うになったことが背景にあり、華北とは異なる自然であるにもかかわらず自然環境を意味する名称 としては従来の「山水」の語を使用し続けたことに、山水の意味のずれが生じたことを述べる。

このようにして、東晋南朝において、山水は、現在いう風景(landscape ないし scenery)として 認識されるにいたった。山水が風景の意味になったことにより、詩や絵画などの芸術の題材や建築 における造営の修飾としても山水の語が用いられるようになる。人間をかこむ自然としての山水が、

「山と水のある風景やその趣き」と解釈されるようになり、その認識が都市の知識人たちに浸透し ていくことで、都市において、山水が文芸・庭園・絵画などの分野において自然と人間の関係を表 現するモチーフとして表現されるようになったのである。

(4)

本章は、本博論の分析の総論をなす箇所であり、山水の語義の変遷をもとに中国における風景の 発見をあとづける魅力的な分析となっている。

第 2 章 政治権力と山水における知識人

本章では、山水の環境の中で知的営みを続ける知識人を表す「隠逸」の人々が、政治権力と直接 に対立することなく、政治権力と距離を保ちながら、当時の社会において発言力や影響力を持つに 至った背景を考察する。

南朝初期の宋王朝(劉宋)建国期、地方に対する新政権の懐柔策として、いくつかの政策が初代 皇帝の劉裕によってとられた。郷里において人気の高い人物を、官に召し出すことはその一つであ った。しかし、陶淵明(365-427)のように、地域に基盤をもつ知識人は任官の必要性を感じず、召 し出しに応じないものが多かった。そこで、為政者は、彼らを「隠逸」と位置づけ、超俗的な有徳 の士として評価することで、政権との軋轢を避ける方策をとった。このような為政者の方策をもと に、隠逸と位置づけられた知識人たちは、直接に政治を批判することを避け、文化的素養の高かっ た西晋王朝以来の有力一族の高官たちと交流する戦術をとることで、自分たちの価値観を新たな支 配層に認識させ、地域政治の優劣を論じる郷論の形成に力を与え、新たな価値観と文化を生み出す ことに寄与した。

第 3 章 建康の山水庭園と自然に対する知識人の視点

本章では、東晋南朝の建康の山水庭園の造営のありさまを整理し、その施主である知識人が山水 をどのように観察し、自然風物のなかでも何を重視していたのか、という点を考察する。4~6 世紀 の建康は、おそらく世界で最も早く登場した個人庭園に彩られた庭園都市の一つであり、建康の庭 園造営の中に、当時の都市知識人たちの自然認識の転換が凝縮されている。

華北から江南の建康に移ってきた東晋の知識人は、当初、乾燥した華北とは全く異なる湿潤な江 南の自然風物に接して、故郷を失った悲哀や愁いを表現するため山水の違いを詩文で表現した。し かし、江南のもつ自然の温暖さは、次第に、従来の荒々しい自然から、親しみを感じる自然への自 然認識の転換を生みだしていき、建康の山水庭園の造営の表現法にも影響を及ぼした。建康の庭園 造営の中には、当時の表現でいえば「山」「水」「光」「風」の要素が庭園風景の中に組み込まれてお り、風流や歓楽を堪能するために山水は不可欠の要素となっていった。

同時に、自然風景の中に、「山」「水」「光」「風」という趣きが発見されたことは、都市の庭園造 営や詩文、絵画の制作において自然景観を表現し描写することを可能とさせ、山水をめぐる総合的 な文化活動が発展する契機になったのである。

第 4 章 廬山の山水と知識人 ―劉宋建国期の白蓮社を中心に―

本章では、建康との文化的つながりが深く、正史の隠逸伝にも多く登場する長江中流域の名勝・

廬山の山水(自然と風景)のもつ機能を、南朝初期の宋王朝(劉宋 420-479)の時代状況を事例に

(5)

論じている。

廬山に居住し仏教活動をした慧遠(334-416)の仏教結社である白蓮社は、仏僧だけでなく、隠逸 と位置づけられた地域の知識人や、地方に赴任した政府高官など、当時の多くの知識人が集まる場 としても著名だった。廬山の知識人サロンにおいて、当時の政治に関わる人物の評価や世論がつく られる場合も少なくなかった。この点において、隠逸という存在が俗世間と切り離されていたわけ ではない。

廬山の山水は、中央政界への任官を拒む隠逸知識人の抱く山水(俗世間から離れた自然景観)の 意味をもつと同時に、都城の建康の山水(世俗的・趣味的自然景観)の意味も併せもつ両義的な役 割を演じることで、東晋南朝初期において独特の文化史的位置づけを有していた。このような廬山 に集まった知識人たちの自然認識は、都城・建康の自然認識にも影響を与えたのである。

第 5 章 会稽の山水と知識人 ―東晋から劉宋初における隠逸と知識人の交流を中心に―

本章では、廬山と並称される自然美をもつとされ、当時の知識人に好まれた会稽(杭州湾南岸の 現在の浙江省紹興市)の自然景観への認識の実態について、上述の建康や廬山と比較しながら論じ る。会稽という地域は、東晋南朝の主要な経済的基盤の一つをなしており、この点において廬山と は異なっていた。

会稽には、東晋南朝を代表する名族たちが、地域の経済・文化活動の中核的役割をなしていた。

その中でも、謝安(320-385)を始めとする謝氏一族は、広大な荘園をもち土地占有を展開して利益 を得た代表的な名族であり、また、王羲之(303-361)で名高い王氏一族も、会稽の上虞県を拠点に 幅広い活動をしていた。会稽の地に勢力をもつこれらの有力な一族たちにとっては、山水という自 然環境は、なによりも経済的基盤であり、一族の利益を守る不動産だった。会稽の隠逸的知識人の 特色は、このような地域名族と密接な人的交流をもっていたことである。

このような地域有力者とも密接なつながりをもつ地域の隠逸的知識人たちは、世俗を超越して山 にひきこもる隠逸というイメージとはほど遠い。政府は、政権の官職に任官しない地域知識人に対 して「隠逸」と名づけて社会的価値を与え、また任官しない知識人たちもその政策を活用して、地 域における社会的・文化的地盤を築いた。このような隠逸たちが、山水の語義を、単なる自然景観 から趣きのある風景へと転換させていく主役だったのである。

おわりに

結語では、本論文の概要と論点を整理する。本論は、「山水」ということばの語義の変遷による

「風景の発見」という現象と、その自然認識の転換をもたした隠逸と称された知識人たちの活動を、

関連づけて総合的に分析するものであり、この作業によって、4~6 世紀に生じた中国での自然認識 の転換の世界史的意義が解明できることが論じられている。

(6)

本論文の価値と評価

本論文の最大の意義は、4~6 世紀における北方人の江南への移住による自然美の発見、という大 きな研究課題に正面から取り組み、実証的にも理論的にも、説得的な結論を導き出した点にある。

とくに、4~6 世紀に生じた山水という語の意味の変容をもとに、先験的に与えられた自然(自然 状態を示す山水)から、人間が主体的に意味づける自然(山と水のある風景とその趣き)への転換 を、系統的かつ明快に論じた点は、研究史の上で重要な意味をもっている。

従来の研究では、「風景」という語の変遷に注目する余り、風景の語はもともと風と光の意味であ り、9 世紀以後になって初めて現在いう風景 landscape の意味をもつようになると論じていた。し かし、そうすると、4~6 世紀にすでに風景画としての山水画が誕生して自然認識が転換している事 実を、整合的に説明できない。本論文は、山水の語義の変化をもとに、4~6 世紀に山水が風景 landscape の意味をもつようになることを論証することで、この研究史上の長年の懸案を解消した。

山水という漢字の表記は従来のものだが、山水の語に新しい意味が賦与されたのである。

また、この自然認識の転換を主導したのが、山水に親しんだ隠逸(政権に仕えない知識人)と称 された知識人たちであることを明らかにすることで、実際の社会において山水の語義の変遷が生じ た社会的背景を浮き彫りにすることに成功している。また、4~6 世紀における社会の変動に際し、

地域在住の官職をもたない知識人たちが果たした重要な役割を明らかにしたことも、本論文の大き な貢献の一つである。

本論文に接し、誰もが感じる点は、中国における風景の発見というべきこのような自然認識の変 遷が、ルネサンス以後の西欧における風景の発見や、日本の明治期における風景の発見の現象と構 造的に類似している点である。問題は、西欧において風景が発見される千年前の中国江南に、類似 した現象の生じた理由や、西欧や日本の事例との相違点(風景の発見の担い手や表現方法、社会の コンテクストでの位置づけの違い等)の解明である。本論文は、これについては正面から論じるこ とを避けているものの、著者独自の見通しが述べられている。

すなわち、中国における風景の発見が 4~6 世紀に生じた理由としてあげられる点は、以下のよう に整理できよう。

(a)4 世紀という時期に、華北という故郷を失い南渡してきた伝統文化の担い手としての知識人と、

南朝にもともと住んでいた地域知識人との邂逅というドラマが、風景 landscape という共通の楽し みと趣味の場の創造を必要としたこと。

(b)そのような場の創造に際し、国家が政治・経済的に重視する場所と、人々が美しいと感じる自然 景観をもつ場所とが、江南という空間では重なっていたことが有利に作用したこと。

(c)主体的な自然認識を可能にする個人意識の形成が、王朝の権威が解体する 4~7 世紀の社会混乱 の中で進展し、世界宗教の仏教の浸透が個人意識の進展を促進したこと(この論点については、本 文の中で分散的に示唆されている)。

この問題は、誰しも簡単に論じることのできない大きな問題であるが、問題の存在を認識するこ とで将来の分析の進展をうながす側面があり、一つの問題提起として重要な意味をもっているとい

(7)

うべきだろう。

残された課題

本論文において論じられていない重要な論点として、東晋南朝と同時期の北朝の自然認識との比 較があげられる。東晋南朝の知識人と自然認識の特色を明らかにするには、同時代の北方の状況と の比較が必要である。また、本文の中でしばしば言及があるものの、充分な論の展開がなされてい ない問題として、仏教と知識人、自然認識との関連の問題がある。山水観の転換に際し仏教思想の はたした役割は、個人意識の進展や仏教的景観の造営等の点において少なくない。さらに、仏教と ともに、山水観における中央アジアや西アジアの影響の程度の問題も残されている。現存する山水 についての叙述や山水画の描写には、西域やインド美術の影響が如実にうかがえる。この点に関す る分析も、今後の課題といえるだろう。

公開審査の議論では、上記の残された課題の指摘の他に、本論文の論証の細部や訓読の一部に再 考の余地のある箇所が散見することや、研究史の整理が完全ではなく不十分な点が残されているこ と等の指摘もなされた。ただし、これらの指摘は、本論文の価値を否定するものではない。

本論文の論述は優れて一貫しており、4~6 世紀の中国の南方社会の一面を系統的に明らかにした 研究成果といえる。研究方法の妥当性の点でいえば、本論文は、基礎史料の実証的な分析に立論し、

史料の丁寧な読解にもとづく堅実な研究成果といえよう。

研究テーマの発展可能性の点でいえば、本論文が対象とした江南の知識人の社会動向や自然認識 の転換は、ユーラシア大陸の大きな歴史変動の一環をなしており、近年進展しているグローバルな 歴史研究の進展にも寄与する、将来性に富んだ研究課題といえよう。

以上により、本学位請求論文に対して、審査委員全員一致して、本論文が博士論文にふさわしい と認め、嶋田さな絵氏に博士(史学)の学位を付与することに同意した。

参照

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