五 四 三 二
近世米穀取引市場としての大津
・・・近江湖批農右的人の相場帳の紹介(二)‑
はじめに
前・中期の大津米市場
御用米会所設立経過と米商組級
後期の入津米と取引機構
納屋米の在地における集荷形態
在地荷主の大津取引の実態
おわりに
付表別離絹大津穀箕他相‑
近世米穀取引市場としての大津(鶴岡) 鶴岡芙枝子
史料館研究紀要第五号
はじめに
全国的な物価資料整備作業の1環として'ご‑限られた1時期のものに過ぎないが'本誌前号において、近江湖東
農村鏡村の米商人玉尾家に残された宝暦‑安政年間の「万相場日記」の中から、敦賀・大阪の主として魚肥相場を抽
出して紹介を行なっLTjひきつ言今回は、同家営業の大宗をなした大津米問屋との取引を通じて記録された大津の
穀類を中心とした諸相場の一部を数表化して紹介するに当って、近世大津の米穀市場の位置づけを試みたいと思う。
西廻海運周通.8..北国米の集散市場としての地位を急速に後退させていった大津ではあるが'享保中期以降、幕府
の米価政策の転換によって'大阪こ尽都と共に米相場会所の存在を公認された直轄都市大津の歴史的前提として'小
稿で紹介する相場資料の時期より遡って'前・中期の大津について概観しておきたい。
一前・中期の大津米市場
琵琶湖の南端にあって京都の咽喉部をなし'東海・東山・北陸の諸道を托した大津が'古‑から水陸交通の要徳で
あったことはよ‑知られている。特に近世初頭の豪商の存在を以って象徴をされる北陸の要津趨前敦賀・若狭小浜か
ら湖北の三津(塩津・海津・大浦)を経由して湖上輸送される北国貨物の集注地として存在し'京畿への北国貨物
供給の中継都市として,早い時期から重要な位置を占めていたこA,(聖室町期の応永二五年(1E11八)六月の大津
における馬借蜂起が、その数千人Aj.伝え二五世紀の10年代に相当規模の運送業者の集団を存在せしめていた事実
で裏付けられる.而もその馬借蜂起の原因が、米の姑t却の事に関し通路に紛糾を生じたためとされておLn)彼らが王
城の地京都への庄園粗米を初めとする米穀輸送に当っていたことを窺わせるものである。
織豊期の近江地方は織田信長の安土築城以後'同政権の軍事上重要な基盤となり'長浜・八幡・日野・坂本等'放
豊大名による城下町の設営と交通網の整備が他地方にさきがけて行なわれ'大津に関してみれば本能寺の変後'明智
氏の跡をうけ天正二年甲賀・栗太両郡のうちで二万石余を封ぜられた浅野長政の城地となり(浅野氏の坂本城から(4)の移転は天正1三年と伝えられる)'更に天正1五年'秀吉の命を受けた浅野長政は大津七浦及び坂本・堅田・木ノ
浜までを合わせた百般船を編成せしめており'大津の交通・中継都市としての重要性は更に倍加されたことと思われ
る。rjの百版船の成立は、もとより軍事上の目的を契機とするものではあったろうが'その特権の付与と保護は'豊臣(5)(6)氏の経済的基礎としての比重の大きかった江州蔵人地租米の大津輸送に関しても有効性を持つものであったと思われる。
浅野氏入封後の大津支配の変遷を辿ると'天正一五年九月浅野氏の若狭小浜への移封後、増田長盛(天正一七‑同
l九午)'新庄直頼(天正1九‑文禄四年)'京極高次(文禄ET慶長五年)と秀吉股肱の大名が短期間に交代して
大津城主に封じられたが、慶長五年関ケ原役の前哨戦として西軍の包囲を受けて落城した大津城は再建されることな
‑'役後の慶長六年徳川氏譜第の戸田一西が同地に封じられると共に'城を膳所に移し、旧本丸跡には大津役所を
設け'大久保十兵衛を初代町奉行として大津の復興に当らせたと伝えられる。以来大津は徳川氏の直轄都市として慶
長七年十月地子銭免除の特典を得'代官が同地の町奉行を兼帯したが'享保七年八月以後の五〇年間は京都町奉行支
配となり、明和九年三月に至って再び代官石原活左衛門支配となり、以後若干の例外はあるが'幕末まで石原氏が大
津代官を世襲している。
以上'京坂に近接した大津が徳川氏の覇権獲得直後の慶長六年、直轄都市として指定された所以は'前にも触れた
ように'前代から敦賀・小浜を外港とする京畿地方の中継地としての存在が'近世初流には更に織豊政権の保護の下
に1段と発達した湖上交通によってもたらされる豊息氏の.1歳入地をはじめとする江州米・北国米販売の1大拠点を形
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史料館研究紀要豊号(7)(8)二二成していたためであったと考えられる。もっとも「大津米会所由来苔」に「大津米問屋俵物売買'天正文禄年中之頃
迄は黄金一枚に俵物何程と申売買にて御座候」と伝えられる天正‑慶長期の大津の米売買の実態については、同地米
商の後年の編輯にか,る由来書の類に徴する以外に材料は得られないDすなわちr大津市史J収録の「淡海録抄」に、「仲由緒之事」と題して次のような記述がある。
‑仲之義は天正年中京極侍従殿大津在城之刻、米大豆直段高下之義二付'毎度穿塑出入多‑在之候二付、売買直
段挨拶証人を立'常に売買可仕旨にて'其節より仲と申もの被仰付保由'但'徳分之量は売主相対次第不同在
之由、然る処'権現様御代大久保石見守江州御預り之節、大津俵物売問屋買問屋仲共に徳分相定候様被仰出候ハ9)由'石見守より鈴木相馬介'小野宗左衛門へ被申渡'問屋仲小陽徳分'只今之通相究り候由申伝催事
売買双方の間に立って,直段挨拶証人となって,売人Ji.り徳分を取得す融{S起源を京極在城時代としており,慕
極氏の大津在城は前述の通り文禄四年以後であって、それを天正年中とする同書の記述にどこまで信拠性を持たせ得
るかは疑問であるが'仲の職掌を解説した﹃大津市志﹄(明治四四年版)によれば'仲は売買米の廻し俵'すなわち
桝取りをなし、その手数料を得るものであった。従って'一個の桝'一本の概さえあれば簡単に儲けにありつけるも
のとして'仲となる者が多‑、俵物の売問屋・買問屋の居並んだ米屋町・坂本町・塩屋町・大工町の辻々に立って'
腰に袋を下げ'人毎に「米買ひ候は'肝煎可申」と声をかけ'売り手・買手を周旋Lt頼み人があればその米の斗量
を行なったという.手数料としての賃米の量は'はじめ金1枚につき一俵・11俵・1ニ俵と定まらず'また大勢の仲の
中には秤量に手心を加える等の不正を働‑ものもあったため'大久保+兵衛の指図により'徳分の規定を行なったと
いうものである。前に引用した「米会所由来昏」には
然る所、慶長九年小野惣左衛門様・鈴木左馬助様より大津町年寄宮本伝次と申米商売仕候もの被為召出'米屋
(作)左法徳用之義共被仰渡'則右伝次年寄役二被為仰付'其節矢嶋宗門・小野了玄相勤、其後米屋三左緒門・長谷
喜兵衛相勤'共後閑勘左街門・川村市左衛門相勤'並加か火屋九兵衛三人相勤'御公用之節は柁出'御用等相勤申
候
と記されており'慶長九年大津代官によって同地米商の取引仕法及び徳分について被仰渡があり'米商取締りのため'
年寄役が任命されたことを伝えている。r大枠市志Lには'この時の得分規定を(匁カ)冗問屋徳分は俵物売銀百両に付俵物一升づつ
1月問屋徳分は同京着1駄に付米1升づつ(匁カ)一仲徳分は同売銀百両に付売方買方双方より米一升づつ
1水揚賃は蔵人・蔵佃ともに二俵に付米l合三勺づつ
としている。
このような仲の存在を必要かつ可能にしていた売買両問屋の商業機能上の分化の様相は明らかではない。ただ買問
屋の徳分は京着一駄(四斗入三伏付1駄)につき米1升宛という規定から、売問屋は大津米の荷請問屋'只問屋は売問
屋から買請けて京都へ販売し、駄別組を取得する仲買規似の営業であったかと推測される。
上禍のr市志﹄によれば'慶長一八年二六三一)仲の人数は八〇人に適したので'これを四組に分け'仲年寄の中
から四人を組頭とし'塩屋町に仲番所を設けて毎日二〇人宛番所に詰め'売方・買方の求めに応じて出掛けて桝取り
を行ない、その都皮番所の帳面に'その俵数・升目・売主・買主・計り手を記入し'1ヵ月錨に仲米を基計して売方
買方より取立て'これを仲中に配分したという.そして'この仲は年寄分となって二〇年を経過した者の子1人の加
入を認めていたが、正保11年(1六四五)には一二五人と増加したため、同年新たに加入有資格者となった一七名から
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史料館研究紀要第五号
加入銀五枚宛を徽して'計1四二人を仲の定員としたとある。
このような早い時期における仲仲間の組織化と定月利の採用は'同地における米穀取引の進展と無関係ではなかっ
たと思われる。すなわち'正保二年(ハ四五)大津米商は大工町千日寺屋敷に米会所を設けて相場立てを行なった
と伝えられている。慶安五年(承応改元'一六五二)三月以後、仲番所帳面の記帳を廃め'仲間の総印判を登録し、
売米桝過しの節は売問屋帳面に計り手の署名と捺印をなし'毎月朔日二五日の両度に売方中を廻り、銀子を受取り
印判を消すことに改められたのは、この年'売買代価当座銀に取遣りすべきことを令せられたるによるとするr市志J
の記述は'大坂における米の延売買の禁令がこの頃から発せられていることと思い合わすとき'従前の仲を介在させ
た正米取引から'米会所における相庭立会による延米取引が始まっていたことを推察せしめるものである。現に同書
には「降って万治三年に至り、俵物見分な‑して売買する市商漸‑盛なりしかば、令して之を厳禁せり」と、延売買
の風潮を窺わせる記述を行なっている。仲の仲間人数の定月化や'仲得分の仲間配分制は'このような米取引の進行
に促された自衛措置であったともみられるのである。
ところで'空米売買禁令下にあって'同地の延売買は、正米取引を擬して売買帳面に仲の捺印を要したから'仲は
桝取りの有無にかかわらず、売買高に応じて口銭を取得することが出来たが'元禄1年(1六九九)二月に至っ
て'新任の代官雨宮庄九郎は伸徳分の減少を命じ、売銀一〇匁に対し、徳分五勺と定められた。ところが三五軒の旧
問屋を除‑他の二三六名の新聞屋及び小売米屋が1致して'彼らの手懸けた米にまで仲徳分を出すことの不法を訴え'
正徳四年三月一旦は却下されたが、享保四年代官古郡文左衛門の時'その主張が容れられ、仲不手懸米の仲賃を取る(10)ことを禁じられたという。仲の存在を容認する旧問屋に対し、利害関係を異にする新聞崖の存在にみられる新旧の対
立は'慶長九年以来代官によって取立てられた米年寄の存廃に関する享保期の内紛にも現われている。すなわち同地