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空 と 宗 祖 日 蓮

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(1)

急.房爪側在工・こ::小かにい目

汝川︶ はじめに

この問題については既に昭和五十一年度発行の﹂︑大崎学報﹄第一

然﹂と巳して︑教法の選択方法論︑摂折論の二

て︑両者の相違点を論じたことがあるので︑本論はその続 ある︑

用いる典拠は︑法然房については一川閲法然上人全L−Y.1 1

巻︑宗祖については﹃珊湘日蓮聖人遣文.﹄四巻に依るものとする︑       戸.ハ.Z

し浅学なる筆者はまだ法然房の著作の係年にも暗・\また法然

言一句に関する浄土宗八百年の甚深なろ伝続的解釈にも不案

内のたに︑誤解したところも少なくないと思われるので︑一読のお

声を切に乞い︑今後の充完を川したいと思う・ものである︒

日蓬の念仏破.の次第

然 房 源

と宗祖日蓮

日蓮は諸他の一切の仏教を否定して︑法華一経による安日を熱望

したが︑中でも当時鎌倉に流布した念仏禅・真二・律の四宗に対

して四箇格言を唱え︑念仏・禅・真言の興隆の理山を日本天台宗の

仰に帰して︑やがて叡山仏教をも否定したことは周知の事実

ある.しかし日蓮遺文の全体を通鼠すると大体において佐渡流

として法然浄上宗を︑佐渡流罪以後は主として真言宗お

よび天台密敦を破していろ︑その双由を考えると︑第一に当時のU

土乙一風廃する大流行の信仰は法然浄土宗であると日蓮の限には

      ロ ざ

じていたこと︑第二に日蓮の信仰の出発点たる天台宗等の既成仏

       ︵2︶ して︑法然浄士宗は川與仏教であり︑伝統ある天台念仏とも

なった新義を布教していたこと︑第三に浄土宗は朝廷および幕府

ら氾放・禁止されて未だに免許のおりていない宗敦であったとい

   ︵3︶うこと︑これらの理由により先ず浄土宗批判から着手したものと思

われる︑なお︑今︑佐渡流罪以前は主として念仏を破したと述べた

      九九

(2)

   法壬文化研究︵第三号︶

が念仏破は決して佐前において終了したの/︑はなく︑生涯を通し

て続行され︑三た破斥の範囲も次第に拡大されたことを念言してお

ならない︐次に日蓮の・〜︐O仏破の次第順序について一瞥すろと ω 敦開宗前︑幼少の頃は日蓮も弥陀念仏を信印していたと︑

日蓮自身のち二述懐していろ..即ち

法然・善導等がかきをきて侯ほどの法門はn蓮らは十七八の砕︑

 よりしりて侯き︵同..二∵ハ︑二肩条兵衛L郎殿川百口二.蔑化︑真蹟断生ぽ︶

日蓮も過去の稀⁚子口にコ耐ル広の者なれば︑八−牛.に今心仏者にて数年−

間︑法華経の行者を51ては未右一人得者千中無一等と笑し也

   ︵同/K1〒ユ︑ ﹃佐渡御泰一﹄五一歳︷山︶

 口蓬は法華経の行者にもちらず︑ 僧旧侶の数.にもいらず︑ 然而

      チ

随二世人一阿弥陀仏名ハヴを⁚78しほどに両六六.一.︑・自条・ウ.ガ読収副返☆︐

  τ二歳白︑興.日写狂仔\

少の時より学文に心をかけし上︑大虚空蔵菩薩の御宝前に願

       ツ  を立︑日本第一の智者となし給へ︒十二のとしより此願︑を立.︑

其所領二子細あり︒今くはしくのせがたし︑.其後︑先浄土宗・

  禅土ポをきく︵同一一︐八∵一︑ ﹇Wf良観γ万御書.圧κ伐窪︑V/i山録外︶

度いかにもして仏種をもうへ︑生死を離ろる身とならんと思

て侯し程に︑皆人の願せ給事なれば︑阿弥陀仏をたのみ奉り︑

幼少より名号を唱候し程一三司一三五三︑二沙巳比二︐二三田返﹂︐二五ヒ歳作︶

と︒ なぜ幼少の頃は念仏信仰であったかというと︑右文によれば        一●●

皆人の願せ治るなれば一一︑世人二随ツテ﹂ということ二なるが︑

その他に考えられろことは︑日蓮が出家得度習学した安房の清澄寺      ヰシ

       ごぴ  当川は比叡川横川系の天台宗に所ー6していたから︑﹇蓮・・︑天台宗

信仰形態を受継いで︑法華・W三..□・念仏の三を習学していたもの

と思われろ︑また師の江善房は念仏信者︹︑あったらしい︒ ﹃善無畏

⑳﹄に﹁此人三言議ご愚・凝におはすろ上︑念仏者也⁝⁝文永元

年十一刀十四﹇四条華.房の伯坊にして見参に入し川︐︑彼人云︑我智

品.心なければ請川の望二・︒なし︑年老ていらへなければ念仏の名僧をも

不レ立︑世川に弘まろ事なれば唯南無阿弥陀仏と申計也︒ 又我心よ

り起らざれい.﹂も事の縁有て阿弥陀仏を五休まで作り奉る.︑是又過

去の宿習なるべし﹂︵□円L閂︑円江迭..目︶とある︒故に弟子の日蓮も師

苫. 陶をうけて人・心仏を信仰したものと思われる︒

仁治三年二十一歳の頃には念仏信仰と訣別した証拠がある︒

ち比叡山遊学前につ.亘かれた﹃戒作即身成仏義﹄に﹁観経等は此法

   ヘ ン       シト  ク

経へ教入ん方便の経也︑︑浄土に往生して成仏を可レ知説は権教の

       テ   ト記立︑観経の権説世︒+具実には此⊥にて我身知二仏因i可三伍生一也︒

不レ知二此道理三け上宗のn本の学者︑我色心より外の仏国上を求め

さする事は小乗経にもはつれ︑大莱にも不レ似︑.師は魔師︑弟子は

     ノプロノハ   ヲ      カ魔゜民︑一切衆生信二其敦一三途の主也.法華経は理深解徴︑非二我機一

らばこそ罪にてぱあらめと云︐是は口ろよりも法華経を失ふにて︑

      ン

も成仏ず三じき崇三\行也﹂︵川二ー..︶云云とあるのがそれで

(3)

ある︒本書は小乗戒体・権大乗戒体・法華開会戒体・真言宗戒体と

体受得二よる川身成仏の成否を説くが︑右の文

開会の戒体を述べる中の一文である︒ただし一妙日導の﹃祖

書綱要剛略﹄の﹁佐前未破両家真言音=の指摘するところによれば

当世の浄土宗学者の敦化ぶりを破するという形式であって︑法然の

名を挙げて否定してはいない︒

③ 正嘉二年三十七歳の作とされる﹁三代聖敦大意﹄︵目印写本仔︶ニ

      ト スニハ        ニハ

り⁝⁝而後人々消息法華経難行道︑経いみじけれども末代之機不レ    ルニノ ノ ニ  ヲ    ハ       ニ 華経・大日経等除 処有︒委見︒又慧心往生要集にも法華経除た       ヲバカレヌルモリ クヨ   ノ        ヲキ も一向念仏之行者ながら︑選択申文雑行・難行道法

   メ ハ   ニパアそ ニメ  ニ ドア   ヨハ し叶︑諾こそ罪 有浄土至法華経覚べしと云云﹂︵同じ四〜五︶とあり︑

まだ浄土宗の祖師法然を批判するところまでは踏切れていない︒昭

和定本遺文ではこの前に﹃念仏無間地獄妙﹄があり︑中に善導批

判・法然批判があり︑また三十八歳作の﹃念仏老追放宣状事﹄の内

を背景とする文言もあるので︑昭和定本は古来の伝統に従って建

年三十四歳に係けるが︑少くとも四十一歳作の﹃顕誘法紗﹄以

後の成立であろう︒

S

八歳作の﹃守護国家論﹄︵ぎ三パ曾仔︶に来て始めて︑

法然批判に踏み切られる.︑本書はその序文二も﹁中昔有二邪智上人i

       レ      テ ヲ       ニ チ為二末代愚人一破二一切宗義三を選択集一巻↓仮二名鷺悼道三二師一分ニヲニシテヲンニテ ノ

門一録二実経一入二権経一閉二法華亘三口直道一開二浄土三部隆路一⁝⁝

    法然房源空と日.吐宗祖︵浅井︶ 為レ破二些思義赤有二多書↓所謂浄七決義妙・弾選択・擢邪輪等也︒ し      ノ      クハ      テ造二比書入皆頂徳名■レ弥二天一恐未レ頭二選沢案︑訪法根源↓故還増・

法流布一⁝⁝予歎二此事一間造ニ1巻ず三顕二選択集話法縁起一名号二守

韮眠国二家コ剛二︵同八兀二し一一ここあろ涌∵ソ︑一写ら選択集之三破斥するための

あり︑その破邪の面はやがて翌年には﹃立正安国論﹄となって

実し︑その顕正面は同じく翌年﹃唱法華題︹妙﹄となるのである︒

し今の序にも﹁仮二名鷺悼導こというように︑批判の対象は専

ら法然であって︑まだ浄土三師に及んでいない︒従って内容を検す

ると︑

   ノテ       アハ ノこ     レニ 於二浄土三師一者鷺悼二師依二十住吐婆沙論一立二難易聖浄二道↓

若違二本つ︑璽以二法華真言方三入二難易内一不レ及二信用↓随見二浄土

       ノ      ハ

安楽集一多分不レ違二本論意↓善導和尚亦依二浄土三部経一

立二弥陀称名等一行一頸往生一時 梁陳晴唐之四代摂論師総以ニ

      ト       ヲ

   フ ニ  ノ  ノラスンハ ト  一代聖教一定二別時意趣.つ善導和尚違二存念一故破二摂論師一時彼人

クレ        ヲハ    ヘノ  ニ      ンて    警二群賊等↓賊二順次往生功徳一故︒其所行称二雑行一必以二万行一

遂二往生素懐一故此人初故嫌二千中無=是故善導和尚雑行之

    ニ      フ

     ノ   ノニ ヲノテ 中敢不レ入法華真言等↓日本国源信僧都⁝⁝往生要集意以ニ 圷前最上念仏一対二法華最下功徳一為レ令三人 入二法華経一所レ造書

       ルニ      ニ

   ノンテニ ノ  ヲスノ ⁝⁝而源空並所化衆不レ知二此義一故以二法華亘三三三師並源信 破入二難聖雑並往生要集序顕密之中一三師並涼言作二法華真言

法人一︵同一◎叩パご

       101

(4)

    法華文化研究︵第三号︶

      ノ      らラ

 龍樹菩薩並三師意於二法華已前四十余年経々一存二ttt易等義べ而

         テ        ノ       ニハ

自二源允.己来借龍山並三師唯︑汀.︐五坦以.法華真三︐ゴニ人二郊λ

    ノ  ニ

等内一⁝:.間云龍樹口芦並三師以二法華真言..ゴ一不レフ\二うxτλ一

       ニ ドトハ

       ト  ン テ 内一源空私入レ之者以レ何知レ之乎..答云⁝⁝選択采一弟一篇云道 芦.伴師立一一聖這浄土二門一而拾一聖道一正帰.浄土一之文約東了︑次

     ア      ノ      アへ

引二安楽集一私料徳は云初聖道門者就し之有レニ︑一者大乗二者 乗︒就二大乗中一雛レ有二顕密・権実等不同一今此集意唯存二顕大

     ご       フニ  ヲ

大↓故当二歴劫江回之行一︑準レ之思レ之応レ存二密大及以実

      ノ      ノ      ノ

大一已上︒選択集文也︒此文﹂迫緯禅師安楽集.心於一一法華已前大

       し    

  ンテ ニトノ ノニア

小乗経一難レ分二聖.尼浄土11門 i我仁以.一法華真言ゾ.久大密大一  同二四十余年権大乗一称二聖道門三準之思之四宇是也⁝⁝☆選択

  ノテ  ニ      ハ   ヨリ

亙二十六段一作二無ロバ..詩法﹈根漂后起二此四字一へ同二・ヒ︶

とて浄土三師・源信は法華真三パを括閉閣抱の対象から除外したが︑

之﹂して法華貢︑言を−・ぷ聖パの中に含ポたところに

誘法の根源があるという.︑

その後︑﹃知前得這肯無御書二=三八庁白︑〃内︶︑﹃二乗作仏.事﹄︵三九

歳俘︑二川−︐汗︶︑﹃災.言︑︹口白︑L/ Il ︵1i. ZY t︑l ︶︑﹇厄ジ法パ疑経三要

文三︵.二九・作︑ ∵.︑一五ピ対治釣=111 Fi ny =︑⁚ ご︑=唱法引芋□u

勤コ三一九歳作︑録内︶︑﹇三立正安国論三ニユ嘆作︑百二墨.︑︶︑二代五時図﹄

11

︷−  L−︑   ︑ニパピい︑国紗﹄ρド一h卜︑痴自︶に・ごJ浄ヒ示︐た判が見

えるが︑右のうち﹃災難対治釣﹄︵に:︵七︶﹃立正安日.川r.︵11一.一目ー 三︶﹃一代五時図﹄︵同二二八三−︸こは慨ね法然か浄土三師の意を﹇準

之﹂ して拾川閣弛の中に法華直︑Iを含めたことを責めるから

寸誹

口.  醐﹄ の方万い挟に↑め一〇こし二﹂︵∨・リ︑ 従っ/yヂロ若口は辿ーべZ人法鉄パ

を破斥の対象としていうとみてよい︒

年四十一歳作の﹃頻誘法紗﹄︵ま審足任︶に始めて僅かな

ら浄⊥三師に対する批判が見られる︒即ち﹁善無畏・金剛智・不

空︑法蔵・泣d︑慈恩︑嘉祥︑南三北七︑曇鷺・道緯・善導︑ーー

等の︑我が所立の依経を一代第一といえるは教をしらざる者なり︒

但シ一切の人師の中には天台智者大師↓人教をしれる人なり︒曇鷺

      レ

等の聖亘浄⊥・難行易行・正行雑行は源と十住砒婆沙︑日に依

       びらヘラ彼本論に以己行の内に法華真言撃を入と謂は僻︷ぺ︑なり︑諭主の心と

諭 始中終をしらざる失あり=同.一ヒ⊃︶とあるのがそれでここに

浄土二.師が龍札意を曲解して難行迫のうちに法華肯三︑:を摂入した

とす○.忌味か見られる 従ってこれ以後の遺文には皆浄土三師批判

見られることになり︑文永元年四十三歳作の﹃口目弥陀名号昨劣

事﹄へ球内︶には;プ導・法然︑法華経の方便の一分たる四十余年の内

去顕真⁚に︑  軌︑戸に依て︑仏ご︑説せ給はは我依経の読涌大乗の内 法華語二ま巳・︑れ/︑︑ ﹂︑孜経⁚名号に対して帆涌大乗の一句を

すつる時︑法華.桔を地よ門を閉よ︑千中無一なんど苫て侍る僻人﹂      ニハ

c=1−ll/l︶︑同年作の﹇﹁当已・︑心仏♂・.︷川地獄事﹄︹  には﹁於二浄土

  ニ ドロ     ニ       コロじ       ヲ      キ

師一見一日釈一 力︐引行哩迫之中人一法華経一意粗有レ之︑難レ然如二法

        C.

              

,、   彗

(5)

   ノ然一放言事無レ之﹂︵同三一ヒ︶というが加し.︑

なお︑この頃︑当世天台宗批判が平行して行われ始めたことにも

目せねにならない︑即ち﹃題目弥陀名号勝劣事﹄に一仏教の中の 権実をも弁へざる人師なんどか︑仏教を知がほにして⁝・..念仏

        ノ      ノ     ブ      ノ   ソと法華経とは同事と思へる也.同事と思故に又世間に貴と思人の只

名旦り計を唱に随て︑皆人一川の問一日に六万遍十万遍なんと

申せども︑法華経ω胆日をば一期に一.遍・ご︑川へす..或は世間に智レ自

と思はれたる人人︑外には智者気にて内には仏教を弁へざるが故に︑

念仏と法華経とは只一也.南無阿弥陀仏と唱れば法華経を一部よむ

るなんど申あへり︒是は一代の諸経の中に一句一字もなき事

也︐設ひ大師先徳の釈の中より出たりとご︑且は観心の釈勲︑且はあ

て事顛︑なんど心得べし﹂︵同二九に﹇︶︑また 当世には念仏者なんど       フ

日蓮に責落されて︑我身は︑訪法の若也けりと思者も是あり︒聖道

人人の御中にこそ実の訪法の人人は侍れ︒彼人人の仰らるる事は︑

華経を殼る念仏者も不思議也︒念仏Nを殿る日蓮も奇怪也︒念仏

と法華とは一体の物也︑.されば法華経を詑こそ念仏を申すよ︑念仏

 ス      ム       せ申こそ法華経を読にては侍れと思事に候也と︑かくの如く仰らるム

て日蓮並二念仏者をおこがましげ二思へろ旦︑先日蓮が是程の事を        ツ 人︑聖道の中にあまたをはしますと聞19︒随て檀那も此義を存じ

しら已と思へるははかなし一︵司1・1ここ・こて /if︐後︑唱題と念仏との

開所間の関係を説明し︑ 一多の真=︑.三ボ天台宗の人人に値奉て候し

    −・霧︑べ房源空と宗川日三       

時︑此事を申ければ︑されば︵念仏法華一体義は︶僻案にて侍りけ

     スリと申人是多し⁝⁝是こそ誇法となる根本にて侍れ﹂︵同三C一.v11︶

と李;る︑本紗は題目と弥陀名号との一体義こそ正義なりとしイ︑一辺

る日蓮と念仏者とを嫌う鎌倉の一類の人々の言動が日蓮の信

徒に与える影響を憂えて︑両者の勝劣を明す目的で書かれた書物で

あるか︑﹈体義を説く人々とは右引用文の中にもあるように︑恐ら

く 多の真︑一n宗天台宗の人々﹂︑特に天台宗の人々ではあるまいか︑       らシとすれば園城寺系の鶴岡八筒の別当隆弁らを中心とする一団の人々

を指すことになろうか︑また天台宗における唱題念仏一体義の根本

と法華円との円体無殊論から起きていることは間違いのな ところであるとすれぱ︑圷前円と法華円との異同を論ずることは

る三十七〜九歳の間の著述に11え︑特に三十九歳作の﹃唱法華題目       フ  国論﹄作成のために岩本実相寺に入蔵したと伝えられ

妙﹄︵先引︶には一諸仏諸経の題Uは法華経の所開也︑妙法は能開也

としりて法華経の題目を唱︿ ︶.i ︵//l!L︶11︶とあるから︑題目名号勝

劣に関する能開所聞の断案そのものは既に四年も前にあったわけで

あるが︑ただし一体義に対する専門的破斥︑および一体義こそ誘法

根本であると論ずることは﹃題目弥陀名号勝劣事﹄を以て最初と

する..ただし法華能開・念仏研開の教判は文永八年五月五十歳作の

章鋤〃﹄︵真蹟亨︶を以て最後とするa 台宗の念仏観に対する批判はその後も折に触れて続き ll法門

(6)

   法華文化研完︵第一.言ゲ︶

可申紗﹄︵巨八歳作︑真漬ごには﹁伝教・慈覚は八宗を極給へり.︑一切 経をよ二治︑これみな法王経を詮と心へ治はん梯燈なるべし.︑又俗 云︑何にさらに御房に念仏をば申給は臼︑答云︑伝教大師は二百 戒をすて給︑時にあたりて法華円頓の戎にまぎれしゆへなり︒

当世は諸宗の行多.けれども︑時にあたりて人︐心仏をもてなし法華任を

         ニ         へ誘ずるゆえに︑£行迷やすければ唱候はず︒例せぱ仏十二年が問︑

楽我浄の名をいみ給き一︵同四日﹂〜八︶とて一体義が金石の判断を わしめる所以であると指摘し︑ F又王臣等向∴天台真言学者一問云︑

仏・禅宗亨の極理は天台真言とは一かととわせ給へば︑名は天台

首三三口にかりて其心も弁ね高僧︑天魔にぬかれて答云︑禅宗の極理は   ノ

台真言極理なり︑弥陀念仏は法華経の肝心なり︑なんど答申なり︒

而ぢ﹇念仏者禅宗等のやつばらには天魔乗うつりて当世の天台真言の       リ

僧よりも智恵かしこきゆえt2⁝⁝諸教は理深︑我等衆生解微なり︑

相違せり得道あるべからず︑なんど申すゆへに︑天台真言等

       コド    こ

者︑王臣等檀郭皆奪とられて御帰依なければ︑現身に餓鬼道に

堕﹂︵同四五一二〜四︶とて︑ 一体義がやがて天台宗教団を衰微に導く所

あると論じ︑ ﹃善無畏三蔵妙﹄︹四九歳俸︶には﹁念仏者等は観経

を信ずる故に阿弥陀仏を娑婆廿縁の仏と思ふ︒当世はことに善導

法然等が邪義を正義と思て浄⊥の三部経を指南とする故に︑十造る

寺は八九は阿弥陀仏を本尊とす︒在家出家一家十家百家千家にいた

るまで持仏堂の仏は阿弥陀也⁝⁝而るに当世の智者とおぼしき人々︑        一⊃四

を見てわざはひとは思はずして我意に相叶ふ故に只称美讃歎の心

あり⁝⁝我宅・が父13︵釈辺︶口μ尊はいL師親三徳を備て︑一切の仏

川せられたら我亭を唯我一人能為救護とはげませ給ふ︒其恩大

海レ︿り・︒深し⁝⁝而るを当世の僻/1の学汁等︑設ひ八万法蔵を極め︑

部経を言じ︑大小の戒品を堅く持ち給ふ智者なりとも︑此道理

背かば亘這を免るべからずと思召べし﹂︵同□六九〜ヒ一︑︑︶とて︑ 学

明け暮れて法華信仰のあリ方に無関心な天台宗の学者を警

告し︑また﹃十章⑳=︵抗+歳作︑真黙仔︶には﹁円の行まちまちなり︑       ニ マ

をかず・〃告大海をみる︑なお円の行なり.︒何況示前の経をよみ︑

等の諸仏の名号を唱をや︒但これらは時々の行なるべし︒真

実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり

⁝⁝此等をしらざる天台真言等の念仏者︑口ずさみには一向に南無

         ス       フ

仏と申あいだ︑在家の者は一向に念やう︑天台真言等は念仏

ありけり⁝⁝此の義日本国に充満せし故に天台真言の学者︑在

家の人々にすてられて六十余州の山寺はうせはてねろなり⁝⁝日本

国の誇法は示前之円与二法華円ニーン﹂いう義の盛なりしよりこれはじ

まれり⁝⁝常楽我浄の義こそ外道はあしかりしかども︑名はよかり

しそかし..而ども仏︑名をいみ給き⁝⁝当世の念仏は法華経を国に

      ノ失う念仏なり.︒設ぜんたりとも︑義分あたれりというとも︑先名を

し⁝⁝当巨に父母を殺人よりも謀反をこす人よりも︑天台真

者といわれて濠公が礼讃をうたい︑然公が念仏をさいつる人

(7)

をそろしく候なり一局っhバ元〆II−e・.︶と天台な︐心仏の円体無殊論の

ろしさを説いている︒

ここまで進行して来ると︑次には当然のこととして︑

台宗の念仏の根源たる天台伝敦両大師の四種三昧︑慈覚大師の常

昧︑恵心僧都の﹃往生要集﹄宇に対する批判にも及ばねばなら

ことになるはずであるが︑天台伝教両大師の・︑芯仏については遺文

       ンテ  ク するところは少なく︑陀かにこの期の遺文に二.111の言及

あるに過ぎない︒ 即ち一は﹃法門可申紗﹄に﹇人不審云︑天台

楽伝教等の御釈に我やうに法華経並に一切経を心えざらん者は悪

        ス

堕べしと申釈やある゜一︵同四五⊃︶と問い︑三師の意は﹃玄義﹄三

鍛﹄三・﹁文句﹄および﹃記﹄の﹁已今当一択︑ ﹃顕戒論﹄下︑

依懸集﹄序によれば偏に法華経にあったと答える︒右の質問は前

との連絡関係から換言すると︑天台妙楽伝教が念仏を兼行された

ことを汝はどう思うかという意味であり︑その答えは︑四種三昧と

との関係︑十乗観法の所期が一念三千にあること等に関す

る面倒な論証を避けて︑ただ三師の信仰の基盤が法華にあったこと

を論証するに止めたため︑教学的には必ずしも読者を充分満足させ

       るものとはなっていない面がある︒二には﹃十章紗﹄に﹁二巻の 昧は多分は念仏と見へて候なり源濁れば流清からずと申て︑

示前之円与二法華経H﹈︐ 1と中者が止観をよませ候ば︑但念仏者のこ      ンとくにて候なり︒但止観は迩門よ=出たり︑本門より出たり︑本迩

    去黒房源元干こ宗祖日二︑二︵浅井︶    レ   ス      ノ

       ン 亘︑と中三の義いこしえこりこれあり︒これは且これををく︒故知       ヲ  こ 部之文共成二円乗開権妙観一と申て︑止観一部は法華経の開会の上 る文なり︒⁚い前の淫々をひき乃至外皿甫z\候も︑圷前︑外

典の心にはあらず︒文をばかれども義をばけづりすてたるなり︒境      ン雌レ寄レ昔智必依レ円と申て︑文殊問・方等・請観音等の諸経を引て    

種を立れども︑ 心は必法華経なり﹂︵司四八八〜九︶とて四種三昧は 華経の開会の上に建立された修行であろ・.﹂会通しているのがそれ

   ヨシ

ある︐︑次に慈覚大師の例時作法の改伝︑常行三昧堂の建立につい

ては遺文中言及するところは﹃法門可申紗﹄に﹁又俗難云︑慈覚大       フ

答べし︒内典の人外典をよむ︑得道のた

めにはあらず︑才学のためか︒山寺の小児の倶舎の頸をよむ︑得道

ためか︒伝教・慈覚は八宗を匝給へり︑一切経をよみ給︑これみ

な法華径を詮と心へ給はん梯澄なるべし﹂︵同凹四七︶とあるのみであ

る︒要は念仏を始めとして八宗を極められたのは︑法華経を極める

ための手段であると会通したわけであるが︑ここに日蓮が慈覚大師

対してまだこの頃は与同的であったことを見取ることができる︒

恵心僧都の﹃往生要集﹄に対する日蓮の態度は︑この期では

尚所レ定十即十生欠︑所レ派千中無一成⁝⁝道緯禅師唯有浄土一門   ノヘン   ハヶテ ノ    トヌ    ハ    ト 当世念仏者無間地獄事﹂に﹁念仏者臨終狂乱不レ知二其数↓善導和

   カ        ヘ      ト  く        ロバ       ノ  トヘノ    ベ彼レぼ︑善導和尚十即十生定︑往生要集濁世末代日足云︒念仏時機

 ニ ヘノ    ハ ル   ノリロノ   ニ         ヘ ダノ

叶︑行者不レ可レ空 之処︑知レ是旧違大疑也﹂︵同三=il︶といい︑

       一つ五

(8)

    法華文化研究︵第三号︶

問答紗﹄口四桟伍︑延山写不︶に﹁居士示して云く︑我在俗の身

なれども深く仏道を修行して︑幼少より多くの人師の語を聞き粗

をも開見るに︑末代我等が如くなる無悪不造のためには念仏往

しくはなし.︑されば慧心僧都は夫往生極楽之教行濁世末代

之目足也と云ひ︑法然上人は諸経の要文を集て一向専修の念仏を弘

ふ﹂︵同二.五五︶とて一往は念仏往生の教行を勧めながら︑次下

同一二五八−三六五︶に﹁加工人﹂の物語として破斥し︑愚人をして﹁宏に愚 云︑誠是聞二此法門一念仏法門実雛二往生一其行儀難二修行.へ況彼所レ

    ハ      ドノ       ス

也︑不レ可三任生一之条分明也﹂︵同ゴ︑六5と云わしめ

ている︒ここに﹃往生要集﹄の念仏の勧○をも破斥の対皇の中に数

え入れたかの感を多少は受けるが︑まだ後の真正面からの破斥に比

ると︑勢いは弱い︒しかし三十八歳作の﹃守護国家論﹄に﹃往生

      ト    ノ      ト

集﹄の序の文等を出して﹁源空選択集源信往生要集難レ有︐1 1巻三

ノ      ンア      ハ巻不同一一代聖教中選一易行一欲レ救・・末代愚人一意﹂趣但同事︒源空上人

     ヲテヘ   ト  ハ真言・法華立二難行一堕二悪道一者慧心先徳亦不レ可レ免二此失一如何﹂      ン

同一〇八︶と問わしめ︑答えて﹁但往生要集者一往見二序文一時以二法

     レ      ニ     ト        にノマト        グニ 華亘三口等一入二顕密之内一殆難下不し叶二末代機一書上入レ文委細見二一部

      ノ  ニ      フ

末一第十問答料簡下正定一元川行勝劣一時引二観仏三昧・般舟三

昧・十住毘婆沙論・宝積・大集等示前経ソ︑型対二切万行一以.二芯仏三

       ト      スノニ昧二げ二王三昧一了o最後有二一問竺三以︸﹇﹂止川沖定念仏三昧一対二法華

      ニ ドド      コハ    ノ    ロ      フ ソハ経一念信解一劣二日千万億倍一定..通二復川一時念仏三昧云レ勝二万行一者       一〇六示前当分也云二つ 当レ知慧心意造二往生要集一調二末代愚機一為レT︿ ll法      華経一也︑例如ド仏以一四十余年経一詞・権機一入中法華経L也.故最後造・二乗要決一其序云⁝⁝︒捨.后宗他宗之偏党一時不レ捨二浄土法口乎︑得﹇二乗真実之理一時専非レ依二法華経一乎︒源信僧都永観二年甲申冬十一月造一.往生要集へ寛弘二年丙午冬十月之比作一二乗要決一︑其中間二卜余年︑先権後兎宛如レ仏亦如三陀樹天親天台等一﹂︵同ニー五ー=二︑同意の之∴一一四に︑・・ろしと︑ 三任生要集﹄が法然の念仏信仰形

した役割︑また﹃一乗要決﹄ ののちに慧心僧都はさらに

記﹄を書いたという事実などをすべて捨象して︑ ﹃往

集﹄述作の意図を法華専修の立場から強引に曲会して慧心僧都

を救釈した頃から見れは︑格段の﹇蓮的進境を遂げている︒

この時期において更らに今一つの注口すべきことは︑日蓮が自己

ざ︐心仏破の行動の口本仏教史仁に占めろ位置についての意味付けを

行なったということである.即ち文永.兀年四十三歳作の﹃南条兵衛

殿 書﹄︵真蹟断片㍑︑︶に

       ノ

布国においても前後を勘べし︒仏法を弘ろ習︑必さき

る法の様を知るべき也⁝⁝仏法と仏法とがつき合てあら  ヱ︑ひをなして人を損ずる書のあら也︑︑さきに外道の法弘まれる らば仏沽三∵三ってこれをや∴ろべし⁝⁝仏敦に自いても小 まれる国をば大乗経をもってやぶるべし:::潅大乗の弘

三れる国をは実大乗をもってこれをやぶるへし天台智者大師

(9)

南三北七をやぶ=しが如し.︐而に日本国は天台真言の二宗の ろまりて今に四百余歳︑比丘比丘尼うばそくうばひの四衆皆

機と定りぬ︒輻口人悪人・有智無智皆五十展転の功徳を

そなふ⁝⁝而を此五十余年に法然といふ大訪法の者いできたり

て︑ 一切衆生をすかして珠に似石をもって珠を投させ石をと

らせたる也︵同三一西〜陥︶

というのがそれで︑ここには実大乗の国たる日本国に法然が出て︑

乗の国に逆転したので︑自分は念仏を破斥して再びz本国を実

乗の国とする︒即ち仏法流布の先後を正すところに口蓮の口本仏

る使命があると感じていたことが看取できよう︒そも

そもこの仏法流布の先後︵﹁序﹂︶という自意識は︑教・機∴時・国と

ともに﹁五義一の一として既に四十1歳作︵伊豆流罪二年目︶の﹃教機

      テ        メハ

国抄﹄において ﹁知二此五義一弘二仏法一可レ成二日本国国師一獄﹂︵同 三︶という目的から開始された日蓮独特の教相であって︑本妙は じめ五義の名義を釈し︑次に五義にてらして法華経の行者として

仏教の正しい知り方を述べ︑最後に知五義者としての死身弘法の

覚悟を述べるという構成であるが︑第二の知五義のあり方を述ぺろ

中で︑念仏者についても批判し︑ ﹁日本国一切衆生自二桓武皇帝一已

       ノニ      ハ来四百余年一向法華経機也⁝⁝而当世学者云日本国一向称名念仏

リ      ハ      テ        ニ

等云云﹂﹁日本国当世如来滅後二千二百 十余年︑当二後五百歳一

      ノニ

広宣流布之時刻也︑而日本国当世学者或批二法華経二

    津戻︑褒湶空と宗祖日室︵ロYaL1ノ︶        ハ         ノ         ノニ向行二称名念仏一﹂﹁日本国一向法華経国也⁝⁝而当世学者日本国衆

乗義一顕一法華65実義一已来又無二異義一純一信二法華経一⁝⁝建仁已来       ニ ⁝⁝一向成・念仏者竺三﹂﹁桓武天皇御宇有二伝教大師一破二小乗権大

丁レ今五十余年之間大日仏陀弘二禅宗一法然隆寛興・浄土宗一﹂︵同二四四

〜五︶ことは不知五義者であると述べて以来︑同年の﹃顕︐誘法妙﹄で

をしらざる者なり﹂︵同ニヒつ〆 ﹃当世念仏者無間

       ハ      クハ

      フニ    ハ    ノヲラノニ 事﹄では﹁日本一州不レ似二印度震旦二向純円之機也︒恐如ニ 山八年之機べ以レ之思レ之浄土三師震旦権大乗機不レ超.︑於二法銑ニ

   ノテ       ノ      ノ       ノ者不レ知二純円之機・純円之教・純円之国一為二極大乗一分一観経等念

ニゾ     メ   こ    ケ   ソ    ソ ン

不レ弁二権実一震汀三師之釈此国令一一流布一実機授二権法一純円国成ニ

   ト ム ド   ノ てフノ   フ     ン権教国一嘗二醍醍一者与二蘇味一失誠甚多﹂︵同三一八︶と論じたのである

が︑この考えが﹃南条兵衛七郎殿御書一に及んだのである︒

永十一年五月二十四日五十三歳︑即ち佐渡赦免の直後鎌倉

後の国家諌暁を実施したが容れられず︑五月十二日鎌倉を発っ

同月十七日甲州身延山麓の波木井の館に着して八日目に発表され

       ハ      ノた﹃法華取要抄﹄︵真蹟仔︶に始めて ﹁二月十五日釈尊御入滅日乃至     そノ サレア ノニメ

阿弥陀仏日一畢︒四月八日世尊御誕生日也.取二薬師仏一畢︒我慈父     ノトヌ ハ ノノニヌノ 月十五日一二界絃心父御叱退己心也︒ 計疏二 迄口導法妖︹永︹観等提婆鵬圧々タ一︷疋ニ

  ヲンハ  ニ  ノアノ

日替二他仏一孝養者鍬如何﹂ ︵同八二三と︑永観が念仏宗批判の対 内に組込まれ︑建治元年六月五十四歳作の﹃撰時抄﹄︵真蹟存︶で

最早や公然と永観・恵心が破斥の対象とされるに至る︒即ち

       一〇七

(10)

  法華文化研究︵第三号︶

      ク ⁝⁝日本国に末法に入て二百余年︑後鳥羽院の御宇に

というものあり︒一切の道俗をすすめて云︑仏法は時機を

とす︒法華経・大日経・天台真言等の八宗九宗⁝⁝末法に入

てはいかに功をなして行ずるとも其益あるべからず⁝⁝此れわ

くしに申にはあらず︒龍樹菩薩・曇鷺法師は⁝⁝道綿⁝⁝善

導⁝⁝︒此等は他宗なれば御不審もあるべし︒恵心の先徳にす

ぎさせ給へる天台真言の智者は末代にをはすべきか︒かれ往生

要集にかxれたり︒顕密の教法は予が死生をはなるべき法には

あらず.︑又三諭の永観が十因等をみよ︒されば法華真言等をす

てて一向に念仏せぱ十即十生百則百生とすすめければ︑叡山・

       チ 寺・園城・七寺等始は話論するやうなれども︑往生要集の序

詞︑道理かとみへければ︑顕真座主落させ給て法然が弟子と

なる︵ff1Olil1・−二︶

日本にわたて七百余年︑一切経は五千七千︑宗は八宗十宗

⁝⁝しかれども仏には阿弥陀仏︑諸仏の名号には弥陀の名号ほ

どひろまりてをにするは候はず︑此名ロゲを弘通する人は︑恵心

をつくる︑日本国三分が一は一同の弥陀念仏者︒永

観十因と往生講の式をつくる︑扶桑三分が二分一同の念仏者︒

ちやくをつくる︑本朝一同つ人︐心仏者︒而かれば・︑一︑の弥 名昇・を唱る人々は一人か弟子にごあらず︵日.二四L︶

論・法相・華厳等の日本の碩徳等を六虫ととかせ        lo八

給へり︑日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となつく︒又

覚・安然・恵心等は法華経・伝教大師の師子の身の

中の三虫なり︵同IC五一〜二︶

と︒右の﹃撰時抄﹄の第一文は恵心の﹃往生要集﹄序の勧めによっ

宗の顕真座主までもが法然の弟子となった経緯を述べたもの

で︑前期では比叡山の題目名号一体論が法然の念仏の流布に与力し

たことを述べていたが︑今や比叡山に念仏を興した元初に遡って恵

を念仏与力の最大偉力として斥けたわけである︒第二文は恵心・

観・法然の三師によって日本国一同に念仏老となった歴史的事情

を述べたもの︑第三文で慈覚・安然・恵心を師子身中の三虫に当て

たのは︑慈覚大師円仁は真言を叡山に興し︑五大院安然は﹃教時諄

論﹄で禅宗をほめて大日仏陀の禅宗の興隆を助け︑恵心僧都源信は

浄土宗の流布に与力した天台宗人だからである︒

後︑恵心・永観は法然と共に常に日本における念仏の代表者と

して斥けられることとなる︒即ち同歳六月作の﹃浄蓮房御書﹄︵同一

五︑興師写ポ仔︶︑五十五歳作の﹃報恩抄﹄︵同l二四四︑真墳断片存︶︑

同歳作の﹃和漢王代記﹄︵同三二五四︑真蹟存︶︑五十六歳作の﹃四信五

品紗﹄︵同一二九一ハ︑真填旦︑同歳作の﹃下山御消息=︵同一三三九︑真蹟断

f.=k・D︑五十七提作の﹃千日尼御前御逗事﹄︵同一五凹二︑い   五十

歳作の﹃智妙.房御返事﹄︵同一ぺ︐∵ハ︑真パ.じ竿にその旨が見える︒

府に上書した鰯の﹃立正安国論﹄を建治・弘安の交

(11)

書き改めた﹃立正安国論広本﹄︵真疑存︶では︑ ﹁客殊作レ色日我本 文説二浄土三部経一以来︑曇鷺法師捨二四論講説二向帰二浄土へ 禅師閣二浬藥広業一偏弘二西方行へ善導和尚抱二雑行i立二専修一恵 僧都ex Ll諸経之要文一宗二念仏之一行へ貴二重弥陀一誠以然 ﹂︵同二 七︶とあったのを﹁客殊作レ色日我本師釈迦文説二浄±三部経一以来︑

曇鷺法師捨二四論講説二向帰二浄土へ道縛禅師閣二浬薬広業一偏弘二西

   へ       ひ  ツ         ヘ   ヤ  ツ

業一善導和尚拗二法華雑行一入二観経専修↓恵心僧都集二諸経之要

       ヘ  モ  も  ヘ  カ    へ  う  ヘ  ゼ    ヘ    ゼ  ヘ  ヘ  ヤ文一宗二念仏之一行へ永観律師閉二顕密二門一入二念仏一道ぺ貴二重弥陀一

然台穴﹂︵同l四六五︶と改めているのを見る.︑

こういう順序を経て日蓮の念仏批判は終了したのであるか︑この

あって念仏批判の念仏流行に与えた効果︑および四箇格言中に

ける念仏批判の位置に関する日蓮の自意識にも推移が見られるの

あって︑この点を今の日蓮の念仏批判の六段階と対比しつつたど

ると浄土三師を批判の対象内に入れ︑天台宗の念仏観をも

した㈲期の遺文に︑文永七年四十九歳作の﹃善無畏三蔵紗﹄が

あり︑中に﹁経文を亀鏡と定め︑天台伝教の指南を手ににぎりて建       メ

より今年文永七年に至るまで十七年が間︑是を責たるに︑日

         とどま

国の念仏大体留り了ぬo眼前に是れ見えたり︒又口にすてぬ人

あれども心計は念仏は生死をはなるA道にはあらざりけると思

ふ﹂︵同四︷︵F−:︶という自意識が見える︒現実には全国はおろか鎌倉に

てさえもまだ決して念仏は留まり終ってはいなかったのに︑ど

    法然房源空と宗祖旦運︵浅井︶ うしXv.﹇.日本国の念仏大体留り了ぬ﹂という認識が生れたのであろうかOその理由を考えてみると︑第一に本書は﹁師恩報酬紗﹂とも

されるように︑清澄の兄弟子の義浄房浄顕房の二人から︑師の

善房が念仏信仰を改めてこの度釈迦仏像を造立されたという報に

し︑去る文永元年十一月十四日つまり小松原の法難の三日後に西

華房の僧坊に日蓮を訪ねられた師に対し︑念仏を捨てるよう﹁強

三口﹂したことが実って︑今法華経に入信されるに至ったかという喜

びの返事であって︑ r今既に日蓮師の恩を報ず︒定で仏神納受し給

歌﹂︵同四ヒ六︶と押え難い内心の悦びを披渡している︒この悦び されたに違いない︒その証拠に紗末には︑ ﹁此道善御房法華経を迎        日本国の念仏大体留り了ぬ﹂という言葉となって表現

        ラ    フ

︑釈迦仏を造せ給事は日蓮が強言より起る︒日本国の一切衆生も

      ニ

如レ是︒当世此十余年已前は一向念仏老にて候しが︑十人が一

は一向に南無妙法蓮華経と唱へ︑二三人は両方になり︑又一向

        ヒ

申す人も疑をなす故に心中に法華経を信じ︑又釈迦仏を書き造

り奉る︒是亦日蓮が強言より起る﹂︵同四七六︶という一節があるが︑

これは道善房の改信を以て日本国の一切衆生の改信の先駆または自

身の確信とした言葉であると受取ることが可能である︒第二には︑

今の文にも﹁当世此十余年已前は﹂云云とあるようにこれまでの

日蓮の念仏破斥が責した効果の歩みを顧みれば﹁念仏留り了ぬ﹂の

あった理由もわかる︒その前にまず日蓮が念仏者に対してど

       lo九

(12)

    法華文化研究へ第三ヴ︶

程度の折伏の力量を平生所有していたかを見れば︑弘長二年四十

     ノニノメロロ

係年されろ新発見の﹃論談敵対御書﹄︵菖三引び︶ニ

不レ及二二口三口一以二一三口二言一退屈 了o所謂善光

       バ       ラこ  ノ

寺道阿弥陀仏・長安寺能安等是也︒其後唯加二悪口一相一一語無知

     ヲ  ム  ナ   ヲ     ニ       ニ

俗一令レ作二留難二:⁝終去年五月十二日戌時︑念仏者併塗師・

師・雑人等︹川ニヒg︶

とあるのは︑五月十11日伊豆伊東流罪に処された理由を述べた文で

あるが︑その留難は日蓮の折伏が原因であり︑鎌倉の念仏者は日蓮

伏の前に二口三口二言二言で屈伏せしめられたので︑論談に

ょる対抗を改めて加害の挙二出たことを物語っている︒一言二三口

顧伏させたということは︑どのような内容の問答であったか知る

由もないが︑この種の支現はさらに今の﹃善無畏三蔵紗﹄にも﹁此

年の間︑禅宗と念仏宗とを難ずる故に︑禅宗念仏宗の学者蜂

拍く起り︑雲の如く集る︒是をつむる事一言二言には過ず﹂︵同ロ

ヒ三︶とあり︑ また五十四歳作の﹃種々御振舞御書﹄︵首蓑曾荏︶には

十一歳の正月十六日佐渡塚原での念仏者等との問答を顧みて﹁さ

て止観・真言・念仏の法門一一にかれが申様をでつしあげへ撲揚︶て

伏させては︑ちやうとはつめつめ︑ 一三﹇二言にはすぎず︒鎌倉の 師・禅宗・ぺ︐心仏者・天台の者よりもはかなきものどもなれば只

らせ給へ︒利剣をもてうりをきり︑大風の草をなびかすが如

し︒仏法のおろかなるのみならず︑或は自語相違し︑或は経文をわ        11⊃すれて︐︑醐と云ひ︑釈をわすれて論と云ふ︒薫.口導が仰より落︑弘法大     ケ      ン

を投たる大日如来と現たる等をば或は妄語︑或は物にく

るへる処を︑一一にせめたるに︑或は悪口し︑或は口を閉ぢ.或は

色を失ひ︑或は念仏ひが事也けりと云ものもあり﹂へ同九ヒ四k五︶と

述べており︑一言二言で詰めた時の実態はこの文でほぼ伺うことが

      ス きよう︒またこの塚原問答を同年三月に記した V:L!渡御書﹁二録内︶

       ク −年正月十六﹇十七日に佐渡国の念仏者芋数百人︑印性房と申 仏者の棟梁也︒日蓮が許に来て云:・⁝︒鎌倉の念仏者よりもは

るかにはかなく侯ぞ︒無漸とも申計なし=同六ニハ︶というのも同意

ある︒

 日蓮の日頃の折伏伝導の実態はほぼ右の通りであったに違いない

と思われるが︑これによる伝導効果を日蓮は如何に認識したであろ

うか︒まず初めて法然を批判の対象にすることに踏切ったω期の作

      ノニ品のうち︑三十八歳作の﹃守護国家論﹄に﹁而日二近年一予陪二我不      ヲ ヘ       ニ

身命但惜無上道之文一間︑起二雪山常喘之心一命替二大乗流布皿吐二強

    ノテ        ハン    ヲ     ント言一云信二選択集一願二後世一之人可レ堕二無間地獄↓圷時法然上人門弟 テ  ニノ    ほア       ス於二選択集一隠二上所レ出悪義一或立二諸行往生一或於二選択集一称下不レ破ニ

            

華有三=﹇等一由ヒ一︵同=ヒ〜八︶とあり翌年作の﹃唱法華題目妙﹄

も﹁此七八年が前までは諸行は永く往生すべからず︑善導和尚の

中無↓と定させ給たろヒ︑選択には諸行を旭よ︑行ずる者は群賊

と見えたり︑なんど放語を申立しが︑又此四五年の後は選択集の如

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