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山 弘

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(1)

海 岸 地 域 の 都 市 の 構 造 一 能 代 と 酒 田 の 場 合 一

横 山

1 . は し が き

海岸地域 の都市 には .古 くか ら港 町 と して発達 した もの と .近代 に な って商工業機 能が 加わ って都市化 した もの とが あるo L l )

東北 の海岸 地域の都 市には前者 , J )例が 多 く .特 に 日本海に面 した郡市にそ の例 か見 られ る。

いせ 日本 海に面 し .河 口に発達 した港 町能代 と酒田を例に と り .市街 地が どの よ うに発展拡大 して きたか .その経過 をた ど り .そ の発展 の契機 とな った要 因を突明す る と共に .都市 化の進 展に よって生ず る地域分化 の 特性を しろ うとす る もので ある0

2 . 能代 の藩政時代 の市街 地 と内部的 分化

能代 も酒 田 も共 に米代 川 .最上 川の河 口に発達 し .上 流部 との物 資 の輸送 はすべ て 舟運で行 ゎれ た ので .港 町 と して海運 と河川交 通の結節点的機能 を果 していたgX 3 )したが って 市街地の 発展 も舟着場 を中心 と して行われ .港 ・ ' Z ) 機 能の活 発な時期 には 市街 地 も活気 奉呈 し .そ の拡大

も見 られ た。

能代 は佐竹藩の時代 に な ってか ら ,藩財 政 の補填の 目的 を もって米代 川上流 の杉材 を伐 bた し .或は上流部 の鉱 山か ら銅 を積 出す ことに よって重要 な港 に な ったc Ia 1I ( 慶長 l占)

年 に藩 は材木 受 払勘定所 を置 き .木 材 販売管理 に あた らせたo 1d8 I ( 天 和元)年か ら 1 8 87 ( 兵事 4 )年頃 が 山林経営 の盛ん を晴期で .杉材の搬 出が多 く買積船 の 出入 も繁か ったO 町 の創設 もこの時期 に なされ ,それ 以後 明治初期 壇でe r l市街地の変化は あせ り見 られ なか った。

戸数 も17 30 ( 享 保 15) 年に 12 3 1 戸であ ったが .幕末 に近い 18 49 ( 嘉 永 2)年 に は 129 3 戸で . 1 0 0年余の期間にわづか 82 戸増加 したの九で あるO米代 川上流 か ら伐採 された杉材 は筏 に組 せれ .能代 卓で流 され るが .出 口に近い 曲流 部 に木 山方が あ り .そ こで集 加 した 杉材を加賀 .大 阪 ,江 戸方面 に海上輸送 したO 青 t #亡の木山方 の管轄区は藩 内出材高 =

の 三

分 の二 を占めた と云 われ .藩 の重要な宝庫 で あ ったor また .能代 は米代 川上流 地域 との物 資の 流通 を行

う用

船 の 発着所で もあ わ .船 着場の上 川反町は船乗

b

,人夫 .商人の往 来が繁

.料 理屋 や花街で 眠 ったO また .海上船 の船着場は河 口に近い清助町に あ わ .廻船 問屋が位 置を占 め .加 賀 .越 中 .越 後の商人の 出入が 多か ったo特 に 日太海 の海 運は 4 月か ら 1 0 月までが遅 行期 間で .

I 1

月か ら

3

月膏では季節風が 厳 しく休航せねば な らなか ったOそ こで .船乗 わ遠 は ここで越冬 す るた め .この場所に も料理屋 や 酒屋 が店 をだ した. この様に .用船 発着所 と海 上船 発着所 はそれ ぞれ分れ て機 能を分担 して ・ J lたO その背後に河

と平行 して大 町 .上町 .万

一 I‑

(2)

たど′ ' )商人町が 出来 .古着 や 日岡品のほ か .酒や豆腐 などの商店 の多vlことがめだ ったo 町 のはず れに近 (鍛 治町が あ わ .誠 治屋が集中 していたo木材伐 出道具 や鍬及 び鎌 な どの生産が

なされたの も木材都市の特 色 と見 られ るO この様 に して明治初期 までは現 在の市街地の北半 分 が 市薗 地で ,船着場 を甲心 と して構成 されていた0

3. 能 代の明治か ら戦 前まで の市街地の変化

能代 の経済的基礎 をな し T t /,た 藩 有林が .明治維新 の混乱期 に官民有 の地籍未 確定 のまま過 伐 され て大 き く衰潰 した。

i8 7 4

( 明治 7 )年 の地租改正 で 山林 の官民有区分が行われ , 大 部分の藩 有林 が 国有林に編入 され ることにな ったo Lたが って .木 山方 のあ とV C . は山林事 務 所が 置かれ .米代川上流か ら伐 出され る国有林 の杉材 を管理す る ことにな ったo茂 に流 され て 来 る材木 の 陸 あげ地で ある上 川反町には 自然発生的把手挽製材工場がか こ

b

,それ に接続す る 材木町に もそれ が増加 して来たoそv lために .

用船

の発着 と相 ま って この地域 は以前に もせ し

〔活気 を呈 して来 た。海上 交通の廻船 も 18 97 ( 明治 30)年頃1. では盛ん にお こなわれ , 大町 には廻船 問屋が店 をか まえてL J l たo Lか し .能代 を本格 的 に木材 都市 と した のは 79 07 (明治 4 0) 年 に設立 された秋 田木材株 式会社 の製材動 力革 命で ある。 匡作 もこの頃か ら米代 川流域 の国有林 開発 を模極 的に進め ることに在 ったO 即ち能代挽材株 式会社 .能代材木合資会 社 .秋田製材合 資会社 を解散 して秋 E B木材株 式会社を設立 し ,蒸気機関に電力 を併 用す る近代 的設 備で開始 された。 これ を契機 と して製材工 場が逐 次建 設 され .材木町か ら始 って大町 .万 町 に も拡大 したoそれ と並行 して徳丸工 場 .桶工 場 .建具工場 も建設 され たQ

(

l)

木材工場が増加す るにつれて .製材横紙 の製作 修理が必要 とな b ,秋木工場の修理工 場 と し て設置された秋木機械製作所 か ,初 めは 自工 場の機械 の一部 を製作 していたのか .他 の木材業 者 の要請 も参 って 規模 を拡大 したQそ の後 .秋木機械製 作所 を 中心 として鋳物工 場 .日立工 場 が駅 の南側にたて られたC せた 槍山川の右岸 に製鋼 所 ,そ の底力工場の鉄鉱所が たて られ た0

‑万 18 9 9 年 ( 明 治 3 2) か ら 19 0 2 ( 明治 35)年 にかむ iて米代 川に平行 して鉄道が 開通 したため ,上 流部 との物資の流通 も鉄道輸送に転換 され る こと

V

Cな ったO東能代 と能代蘭 の鉄道 は

19 08

年 (明治

A

l)に

迫し ・木材 も鉄 道輸送で運 ばれ さ らに トラ ック輸送 も行 われ ることになると .筏流 しも漸 叔( 。傾向をた ど ったo Lたが って .製材工 場 も駅近 くに立地 す る傾向が でて きたO鉄道 の親通後は港の利用が不振 とな t ).漂砂 に よる港の埋債な どでさ ら に拍車 をかけたo

牙 2 択大戦 に入 る と機械工 場は軍需 工場 V T ̲変化 し .兵器 ・航 空機部分 品 .木 造

船a

:製造が行 われ たO この頃は能代 も約

5 0 0 0

名を超 え る従業 員をか かえる よ うにな り .

I9 42 (昭和

I7)年には市街地の南に ある豊祥台に秋 木工 場の住宅が建設 され .市街 地は工場や住宅地 と 共 に南に 伸展 したO続 いて学佼 も松林 を伐 J h詞いて南に進 出 したO

‑ つ‑

.J、..ST‑'′1.もJgrh

(3)

(4)

4 ・ 能代 の戦後e j市債 地の拡大

戟 後の能代 市は引揚者住宅及び火災羅災者 住宅の建設で市街 地が拡大 され た。 南部 の豊祥 台 嘘 は戦時中の工場従業員住宅地 と して開発されたが ・それ を核 と して 19 ‥ ( 昭和 2 I) 年か らさ らに 市営 住宅 102 戸建設 されて ・益 々住宅E B地と しての性格 を もつ よ うにな った。

また ・米代 川 を‑だてた北部の向能代 には保護施設 の 2 1世帯 の住宅建設 されたが .19 4 9 (昭和 24)年 に能代に大火が発生 し2 000 戸を超す握災者 をた した○そ の催災 者の住宅 と して 向能代に向ヶ丘 住宅 ‑9 1戸 ・緑 ヶ丘住宅 ‑40 戸が建 て られたo こ うして北 部に も市街 地が拡大されたか ・195占 ( 昭和 3 1)生再び大火t , J '見舞b九 ・ヰた 1475 戸( つ羅災 者を た した。そ こで 市E r i羅災者のために南部 の キ リンが原 に 占0戸 ・男鹿街道脇 に 58 戸 .住吉町 に 108 戸の住宅 を建 て ・北部の向 ヶ丘 に も仮設住宅 として 328 戸 の住宅 が建て られたOそ の後 ・砂丘 の後 背湿地である西 南部J ‑ ) 出戸沼 を埋立 てて分譲住宅が 7占戸たでられる等 .南部 の市街 地拡大が めだ ってき

7

れ と共に ・戦前には市街 地北部 の米代) 順 岸 地掛 こ集中 して し へた木材工場 も ・戦後は大分広範 囲に鉱が わ ・駅の裏 側や東能代

gTu

, こ近vl 仁井 E B ,養垂 .南部 の出戸沼 ,後谷地な どに進 出 してVlる0

5・ 能代市e: ・ L 地域的分化 ( 図 2)

‑ 3‑

2

能 代 の 地 域 分 化 図

0 SO

I . 官J L I 庁地域 2

.中.

ヒ 亀背地 域

3.融 主混在地晩 午.エ誉地味

5 .

権 宅地

6

.Lt共地 政

(5)

都 市 は発展す る1 , T Lつれ て .市街 地が拡大 され .都市の機 能 も多様性 を もつ よ うになるが .そ れ ら唖 市機‑ 都 市の内部で分離す る傾向 を も卵 都 市粥 で も .とくに 中枢 と字 ると ころ を都心 とvlうが . 1 都 心部には普通 .官 公庁衝 ・会社 銀行 荷 .卸売商店 街 ,都心商店街 など が存 在す るo 能代 く つ 場合 に L最初に都心部 の形成 を したのは .官公庁 地域 と都心商業 地域で あるo

l)都心の形成

能代の官公庁 地域 は ,藩 政痔代に能代奉行所 の あ った ところで .港 に近 く .当時 の市街 地の 中心的位置を 占

史.

てL J lたQす なわち当

の都心 であ ったO 明治 に な って郡制が しかれ る と .こ こに郡役所がおかれ 町役場 ・地方裁判所支部 .肇察署が次 々と集中 し .官公庁 地域 と して分 化傾I J lを示 」始 めたQそ の後 19 4 0 ( 昭和 15)年に隣接村 を合併 して市制 が しかれ .町役 場 は市役所 と在 った。 しか し .戦後二 回にわた る火災は都 市 内部地域の分化を更に推進 した。

先づ官 公 ′ 千は耐火塵薬に改 め られ .I95 0 ( 昭利 25)年 に図書館 と公民館が隣接 して

て られ .19 58 ( 昭和 33)年には公民館 ホールが建て られ るなど完 全に この地域 は官公庁 地 域 と して分化 したO

.中心商業地域 を見ふ と .能代の場合 は駅 前 と官 公庁 地域 を連結す る畠町 ・柳町に見 ら れ るQ明治甲期 せでは米代 川 に近 い大町 .上 町 .万町が甲心商業 地域 であ ったが .港 の機能 の 衰徴 と鉄道 の敷設 に よって .駅の方向にその中心が 移動 し始 めたo 畠町は米代 川の対岸にあ る 向能代 と駅 を結ぶ道路 で も

あb

.能代 の メ インス トリー トと しての性格 を もつ よ うにな っ' たO 業 種の構成 も衣 服 ・繊維 品の専門 店が 3 1飾 .時計J P靴な どの買廻 品店 もそれぞれ 3 占帝 .I

7 帝集中 し .金物 ・姓貨 などの 日用品店 も 3 1 魂集中 してvlるo この晶町に 直角に交わ る柳町 は歓 楽街 と して の機能 を示 してV,るo こ こは明治の未t

F ,J

、ら料理店が多か ったが .現在能代 市 の料理店 .酒場 ・バーな どの

3 9

解が集中 して い

O さ らに衣料 品店 も加わ り繁華 街 をな して レ、るO

現 在の路面 地価分布図 ( 図省略)を見ると .駅 前か ら畠町にかけ て最 高価格 を示 し ,それ に 次いで柳 町が高vl が .か っての商店 街で あ った上 町 .大町 な どはそれ と比成 してず っと低い こ とか ら .都 市中心が駅 前の方 向に移動 して いる ことがわか るP

2)住宅地域 .文教 地域 .公共 用地の形成

能代 の住宅地域が分化 し始めたのは .I942 ( 昭 和 17)年 か らで , 牙 2 次大戦が始 り秋 田木材 会社 も軍需工場化 して工 員が 多数増 加す ると .南部 の畑 地であ った豊 祥 台i ・ {工 員住宅が 建 て られた。終戦にな ると .それ を核 と して引揚者 のための市営住宅 が 102戸虐設 されたが さ らに住宅地域 の拡充 の賓 歯 と在 ったのは 194 9 ( 昭 和 2i)年 と 19 56 ( 昭和 31)生 の 2 回にわ た る大火 で あるo 能代E ‑ 1冬期の西風が強 く .木 造 家臣の密集地帯 は防火上危 険であ るため .北部の向能 代の戟暗 中肖拓 した農地 を潰廃 して緑 丘 .向 ヶ丘 の 2 住宅団地が形 成され

‑ 4‑

(6)

C

この団 地は五能線か かいの しろ駅 の近 くに あ り .主要道路 に も近 く交通 的にめ ぐせれ てい たO オ 2 回の大火後 は西部の砂 丘後背湿 地出 戸沼の埋立てにより、分譲住宅 7 占戸がたて ら九たO 南部及び西部 e ・ ) 住宅地域 は. , ' ス交 通に よ り都心 部 と連絡 され .北部 d ̲ ‑ 唯 宅 地域 は鉄 道 と. , ・ スの

2 交通 に よって連絡 され ている.

能代市 にお いて文教地域及 び公共用地 と して 分化 してい る' t ころは能代 公園 を中心 とす る地 填 て .工業 高校 .中学校 ,小学校 が 集中 して いるほ か .市営環場 .市営 グ ラン ドが あ るO能代 公園 は標高 2 5mの砂丘上に造 られ .景 色 もよく市民 公園 と して活用 されている0

3)工業 地域 の形成

能代 の工業 地域は ・米代川f E F ] t 岸 の製材工場 を主 と した川反 町 ・材木町 の地域 で

るc I9 0

7 (明治 4 Q) 年 に秋 田木材株 式 会社が河岸 に建設 された のを契機 と して .それ まで手挽製材 をやっていた工場 が動 力に き b かえ られ .製材工 場が逐 次増加 した。 I909 ( 明治 42)年 までに設立 され た木材 会社は川反町に 占 .材木町に 3 .溝助町に 2 で あったが .I9 I3 ( 大 正 2)年には更に増 加 して

1

日 反町に II .材木町に 8とな っているO牙 . 1 次世 界大戦 に突 入す る と .木材需要7 1 ; 高7

f

わ .製材工場は活気 を呈 した。それ と共に鉄道 に よる木 材輸送 もさかん にな ̲ b .駅 に近 い と ころに も製材所 がたて られ るよ うにな った。 しか し .製材工 場 の地域的集 中は米代 川沿岸 の地域 に もっと も頗 著である。 製材工場 と結 びついて輯丸工場 も集 っていたが 最近 食 品容 器癖 の変革 に ともな って転換せざ るをえない工 場 もでて きた。 オ 2次加工 である合 板工場 はむ しろ駅 に近 い と ころに設立 されているQ

鉄工 業 は木材業 に幽係 が 深 く .動 力製材が行 われ る前卓では鍬 .鎌 ・山刀 ・伐木具 などの鍛 冶屋が鍛冶 町 .畠町新丁な どに集中 していたが ,秋 田木材 会社が設 立され てか ら自工場 の諸機 械 製作所 が設 立され .そ の後鋳 物工 場 .鉄工所 .機械製作 所が設 立されたが .集中現象 は見 ら れず .分散傾向 を示 してい る0

6 . 酒E 日の藩 政 晴代 の市街 地 と内部 的分 化

酒 田は鎌 倉晴代 の末 頃か ら港町 として しられ る よ うにな り.関 ケ原役 後最上 氏が これ を治 め さ らに酒井氏 の支城 とな ったO城代 町奉 行 は駐 在 したが町 ∴の伝統が堆 く .廻船 業 を営む 旧家

3

占人 を選ん で郷 士の資格 が与 え られ .そ の代表者

3

人が町年寄 として町政 を とったo

Id 7

2 (寛文 12)年 に河 村瑞 軒が貯米 場 を設 け .大阪 との連絡 車はか ってか ら出羽米 の集散地 と して 発展 したQ藩軟晴 代の酒 田の頑能 は問屋仲 間の活動が 中心で .問屋は商 品の卸 売買 をたす ほ か商品荷物の蔵人 をや わ.問屋が 自 ら商巣 の原動 力 とな ってい‑ ̲ ; . to F l B星 は多 くの軽水 と倉庫 を もち .他 l a i i 商 人を宿泊させ て 商取 引を し .或 は 自 ら海運や河 J I L 遥送 に従事 したO

河 口の船場町は海上船 の船 着場で .能代 と同 じく船乗 わや商人の往 来が 繁 く .そ の背 後 に あ る伝馬町や高野浜は料理屋J ̲ '多レ 1 花 街で あ ったQ 市街 地を東西 に貫通 す る大通 わには本町 .早

‑ 5‑

(7)

町 .F l ;匠町 .寺 町が あ b .本 町 は最上 川 に のぞ AJ l t 船 の停 泊地で . .荷物 の嶺下 しに便 利 なため 問屋や 商家が 集中 して 中心 商店 街 とな っ

て,

^たoそ の背 後の 中町 は 日周品の版 売 をなす 普通商 店街 をな して いたQ 酒田の隆 盛期 は ld83 (天和 3 )年 頃で .毎 年春 か ら秋 にかけ て 3 0

0宴 の船 が入港 し .港 内にI : I ‑ 1毎 日7 0‑ 80 隻 の他 国船が停 泊 していた と云われ るo Ia56 ( 明暦 2 )年か らld83 ( 天 和 3 ) 年 にかけ ての 戸数 の変 化 を見 ると . 1277 戸か ら 2 2 5 1 戸に増 加 し .その 東栄 ぶ りがわ か るC それ と共に 今 膏で あ った 内匠町 の寺 院 を後 の寺 町に移 転させ .そ こに 商店街 を形成 した C 職人町 は 中町 の東 側を占. i D.毅 治 町 .桶 屋

.大工

町 がか かれたQ 町 全体が砂丘上 L ^ r ̲あ り .飛 砂 の影 響で市街 地の拡 大が妨げ られ て いた が . I 7 58 ( 宝 膚 8 )年 豪 商衣 間光 丘が 幽浜に植林 し

.光

ケ丘 に防砂林 を完 成 してか ら北 西部の 新 町 .今 町 .浜畑 に人家が 立並ぶ よ うに な ったQ北 東部 は 1 7 0 8 (寛永 5 )年 に戸 野町 が 出 来 .さ らに 新片 町が延 長 され て市街 地 の限 界t , i新井 E f H Hとな ったQ北部 は砂丘 の最 高 蔀 に寺 町 が あ わ .城下 町 と同様 に市街 地の 限 界 と浸 って いた0

7.

酒 田の明治 か ら戦 前までの 市街 地の変化

酒 田の場合 には .明治維 新 にな る と各藩 の支庁が撤廃 され .土 地の貢 租 も全納 とた った ので 米倉 庫の必要度 が若干 うすれ た 。そ こで廻船 問屋 が 共 同 L, て 1877 ( 明治 10)年 に廻漕 会 社 を設 立 し .県か ら今 膏で の米 倉庫 を借 りう

.米 を頚 . b米券 膏発行 したO こ うして河 口の鳩 着 場 は明治に な って も米 を中心 と して活 気 を呈 していた か .I879 ( 明治 12)年 に最上 川 の大洪 水が あ わ .河 口の両岸 が欠療 し上 流か ら押 流 され た土砂 のため .港 内は著 しく浅 くな っ たO そ のた め .港 の機 能が 一時停 止状態 とた わ .問屋 や倉庫業 など も倒 産す るものが 出来 た0

I885 (明治 18) 年か ら最上川治水工 事が始め られ 逐 次復興 に 向 ってい った が .せた7 fた I8 9 3 ( 明治 2 占)年 に大 地震が あ b .火災 も発 生 して市街 地 の南半 分が 焼失 したO その際 古い 米倉産 も焼 失 したが .川向vl に ある山居 倉庫 は難 をJ )がれたた め .その後 は こ こが中心 と な って 米の取 引が行われ たo Lか し . I 9 0 I (明治 3 4) 年奥羽線が 楯 岡 卓で開通す ると . 上 流 部の最 上 .村 山 .山形地方 との 交易が減 少 し .酒 田港 の機 青

; 弱め られ たo 即 ち . I9 0 0 (明治 33) 年 の酒 田港 におけ る最上 川筋の移 出嶺は 122 万 3占50 円 で あ った のか . I 9 02 (明治 35) 年には 占2 万 2占1 4 円に減少 してい るo また .移入敬 は 28 万 占302 円で あ ったの が .

2 2

3 CL8 9

円に減 少 してvlるO

そ の後 .I9 I 4 ( 大 正 3 )年 に 新庄 と酒 田尚に鉄 道が嫡 通 し .翌年臨港線 が敷設 され 貨 物 駅が 出来 る と .港 と後背地 とが鉄道 に よ って連結 され る事 に な b .再 び曙 光 を見えだ したO そ こで県 では産業 振興 のた め酒 田築港 に と わか か ̲ O ,I9 29 (昭和 4 ) 年に牙 2 種重 要港 湾に 指定 され た。

I9 3

I (昭和 占 )年 には北鮮 .北 満ルー トが 踊かれ て 日本海 の海 運 界が 活 気づい て きたo 港 の機 能が括 億に な る と .海 岸地 帯に 県有埋立 地 を造 鼓 し 19 38

(昭

利 13)

1 ‑ 占・ ‑ ‑

(8)

年 に鉄輿 社 を招 致 したo この工 場は 自家 発 毛v Cよって電気化学工業 (竜解 ナ トリウム .晒粉 . 塩 酸)がお こなわれ .社宅は臨港 線 そ こえ て松林 中に. たて られたo さ らに .I9 40 ( 昭

利 1

5)年 に は花 王石鹸工 場が設 立され .つ づvl て 東北機械製作株 式会社 .日太石英 ガラス株 式会 社 等 の工 場 も設 立 され 市街地が 北部 に拡大 され たo これ ら一連 の工 場進 出は軍需 産業 を中心に 生産拡大 を して .周辺農 村か ら産業 人 口を吸収 した. 即ち .I930 ( 昭和 5 ) 年 の人 口を 100とす ると .19 40 ( 昭和 15)年 の指数 は 105とな り.1947 ( 昭和 22)年 は Id3と増加 してい るo

市街地 の東部 は新井 田川 を限 界 と して おり .南部 は山居 及び戸沢町 ,最上町 一 重で ,東北部 は r St 道 にそ った元泉 に線状 的 な拡大が見 られ る 把す ぎなか った。

8. 酒 田の戦後の 市街地 の拡大

酒 田の場 合 に も市街 地の拡大 は住 宅地及 び公 共施設 3 ‑ ) 進 出に よって なされた. 市街 地 の東北 部 は戦 前膏で国道 にそ った元泉部落 に線状 の住宅 地か 伸びてVlたが .戦 後に在 る と .′ 」 \ 学 校や 中学校が 進 出 し ,1949 (昭和 24)年か ら 1955 (昭和 30)年 卓でに .253 戸の市 営住 宅が たて られた。 また .公共 施設 と しては養老院 ・火葬場 ・公立 酒 E B病院 ・野球場 ・陸上 競技 場等 も進 出 して市境 地が拡大 した。 また .南部 は埋立て に よる中嶋 地区に中′ 1 、 規模

l

J工場 や学 校が たて ら九 ,住宅 地 も拡張 され た0

9 .酒 田市 の地域 的 分化 (図 3)

図 3

酒 田 の 地 域 分 化 図

0 5007 r L

‑ 7・ →

l. 甘J i l 斉土 鴫 ■ 且. ヰ・ t L . 敵鷺 坤 味 3. 舶 主三 郎王妃埠

4. ェ普地味

ど. 権皇 托Al

6.

2;共地

域‑

(9)

1 )熱 Lの形成

酒E Bの官 公庁地域 は藩政醇代に は問屋街 で .船着 場 に近 く .荷 の積下 しに便利 をところであ ったO 間置はいづ九 も屋敷割 の大 きな家屋 を もっていたQ 明治の末期 に間 置の機能 が低下す る につれ て .官公庁磯 蘭か この地域 に進 出 して きたO す なわ ち .I889 (明治 22)年に町制 が しかれ る と町役場が設置 され ,1897 ( 明治 30)年には商業 会議所が設置 されたo I9 33 ( 昭和 8 )年に市制が しかれ .町役場 は市役所 に昇格 したが .しか し . こ の地境が 官公 庁地域 として分化 した のは戟 後で .市民 会館 ・教育委員会 ∴t ) 8 番署 .電報 電話局 .消防署 .忠 民舘 を どの庁 舎が 次々に建 て られ たC 更に .1 ⊥) 汐相互 銀行 .両羽 銀行の二支店 も追 出 し .隣接 の 中心 商業地域 と官公庁地域 に金敵 成育巨を果 してい る。

酒田 の中心商業 地域 こ i・ . 一 打 ・大工町 ・桶屋 町の連結 した 通

b

であるO 商店街 として は古 く . 明治時代7 t' 3官業 して いる商店が 30 多近 く占めている. 中心 商業 地域 と駅 前との問に も商店 l i T があるが .駅に近づ く程商店 の営業網始が 新 しく .駅 前商店街は大正年 間に営業 開始 した店 が最 も多 く 27帝も占めてい る。 また昭和に な ってオ 2 次大戦 までに営業 を始めた店の多vl の も駅前で

3 1

帝を 占め てい るO 戟後に創立 した商店の最 も多

レゝ

I )は .甲心商業 地域 と駅 前の中 間に ある浜町で 8 9 番を占めてvl る C 菜種の構成 を見る と .中心 商業地域 の中町 .大工町 ・桶 屋町 は貫廻 品店率が 40

上を占め .最寄 品店率 はそれ に くらべ て低率 で ある。 これ と平行 して北側に ある上 内r F 一打 は買廻品 も最寄 品 もどち らも低率 で ,飲 食店率が 35多の高率 を示 し てい る

O

> ̲こは明治の末に映 画舘が建 て られ たのを契機 と して飲食 店が増加 し .I: テ ンコ店は 全市 8 軒 の うち 5軒 まで 集中 し .映画館 も二 者 あ わ歓楽街 をな してい るQ駅 までの 中間に ある 商店街 は最寄品店率 が 高 く .駅 前商店街 は飲 食店率 が 3 9 多の高率 を示 して .買廻品店率が低 v l のは舌 新宅と違 う周辺 商店街的性格 で ある e したが って .酒田の中心 商業 地域 は舌E i 宅の如 く大

きな変動 は示 していなvl c 蹄膏 地価分 布図に もそれが あ らわれ てい る。

2) 住宅地蝉 ,人数地域 .公共 用地 の形成

慣出市 の住宅地域が分化 したのは終軟後 で .酒 田港線の北 側と新井 田

以南 の埋立 地で ある

o

i側 は戦 前鉄興 社の設 立に よって近 くの松林が き り房 的 ゝ れ社宅 がたて られ たが .それが核 とな って戦 後 19 49 ( 昭和 24)年〜 195 0 ( 昭和 25) 年に市営住宅 の俊林団地 .松風団地 がた て ら九 .さ ら

に 19 5 4 (

昭和 29)年〜 195 5 ( 昭和 30) 年に松栄団地が建 設され たO そ の後市 営住宅 と旧市街地の間隙 を普通住宅が充填 しつつ ある。 一方南部O ‑ ' 埋立地 は最初 工場 用地 と して考え られたが .造船 .鉄工 .木材の申′ J 、 工 場が 立地 しただけ で .中嶋 .小中嶋 か ら竹薮地 区にかけ て住宅 が拡張 され た。

酒田市の文 教地区及 び公共 用地は港線の北部 の光 ケ丘 で .工場用地 と住宅団 地の中間の砂丘 に戦後 194占 ( 昭和 2 I)年か ら 19 47 ( 昭和 22) 年にかけて小学 佼 .中学校が建設 さ

‑8‑

(10)

九 .それ に市立裏俊 も追加された. また公共用地 として 市営球場 .陸上競授場 .テニスコー ト 市営

ル など市民の連動場が この地域 に集中 している。 この様に文教及 び公共用地が砂丘の 援斜 面を利 用 して」 . 、ることは能代 と共通 してL (る0

3)工 業 地 域

酒 田市I j i近代工業地域が明瞭 に分化 してvlる。す なわち . I9 38 ( 昭和 13)年 に県有地 とな っていた大浜豊立地 に株 式会社鉄興社 を誘致す ることに成功 したOそれ以前は こ こで見 ら れ る工業 は後 背地の庄 内平野農村 の狭 除夜需要 を基盤 とす る家内工業 的な紡織業或 は食糧 品工 莱 .木材工業 など地方的小規模 な ものに限 られ ていた。 この鉄輿社 は 自家発電に よって合金鉄 を主 として製造 した。 これ を契機 と して 194 0 ( 昭和 15)年には花 王石鹸 ,19 43 ( 昭 和 18) 年には 日新電化 まどか誘鼓され .こ こに近代的 な工業地域が形成 されたo これ ら工場 新設は地元側か らの虜極的な誘致連動が あ った ことV : 1勿論で あるが ,当時 としては比較的低廉 な工場用地で あ り.開発可 能を電力源 .豊 富な安 い労働 ‑ 刀 .酒 E B産の整備に よる原材料番人の 俵 な どが あ ったか らであるo も うlつは当時進行 し始 めていた軍需 インフレ景 気が工業立地の 従来 の限 界線 を次牙 にお し砿げ て きていた ことで あるoそ して .そ の後戦時経済 の過程 は鹿田 工場 の新増設や既存中小= 場の下請隣保‑ の再編成 を通 して .軍事的な部門の比重 ・ こ高め多少 と も近代的工業の性格 をつ よめてい ったO戦後 1945 年 ( 昭和 20) i , 亡は東京 タングステン 株 式会社が設 立され .I948 ( 帖利 23)生 には防腐工 場が設立 され たが .共に輸送 の俵の

よい ことが立地条件 と卑 っているC 10 . 結 び

以上 .能代 と酒E f l の 2港市の発展過程 を見たが 一藩 政晴代には共 に河 口に発達 した港 町で . 前者 は後背地が木材 の生産 地で .後者は米の生産地で あ り.それ らの産物 と北海道や 関西方面 からくる 日用品の取

b

つ ぎをす る結節点の機能を果 していたQそれが明治後期にな って ,能代 は木材 集散地の機 能か ら更に製材加工工業 の機能を加え .動力機械 の導入に よっ̀ て製材工業地 域 を米代 川S F ] 涯 に形成 したOそ の反面 .漂砂 に 上る埋積で港の機能 は低下 し .船 問屋の衰退が

見 られたoその後鉄道 開通 に よって .河

交通 も重要性を失 い木材 も鉄道や トラック輸送にか わ ると .駅 を中心に交通機能 の重心が移動 し .それ と共に 中心商業地域 もその方向に移動 したO

戦後に発生 した 2回の大 火は住宅地 を市街地の南部 と北部に拡 大させ ,出禦 令化 を示 したO それ に対 して酒田は .集散物が米で .問屋に とって港 の機能は死活 を決す る重要な因子 であ ったo Lたが って .地裏や洪水で河 口が何度 も破漬 されて も .河川改修 と築港は彼 らの悲願 で あった.河川改修 と築港 の実現 に よって埋立地が造 られ ,ここに工場が誘致 され近代的工業地 域 が形成されたOその痔期がオ 2 次大戦の軍需 インフVとか さを って J益 々狂化 されたO戦後 は平和産業 としての機能 を果 してし つるO明治後期に一時鉄 道輿通 に よって後背地の大部分 を失

. ‑ 9‑

I

(11)

ゥたが .そ の後 大正初期に なって港 と鉄道 か直結 し .後背地が再び連絡 されたo Lたが って . 現 在で も港 の機 能が大 きく .中心商店街 の位 置は移動 してV, ない.

参 考 文 献

木 内 ・山 鹿 ・清 水 ・稲 永 : 日本 の 都 市 化 19 64

:能 代 市 誌

市 :酒 田 市 誌 19 58

木 内 信 蔵 :都 市 地 理 学 研′ 究 19 5 1

E B辺 健 一 . '集 落 地 理 講 座 (地域分化 の形成 とそ

の発展)

19 59

(

山 鹿 誠 次 :都 市 地 理 学 19 d 4

杉 村

暢 二

・ 一路 線 価 格 の 地 理 学 的 研 究 人文 地理 V o 117

1

岨 3 1965

参照

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