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「金瓶梅」に見える明代の用語について

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(1)

﹁ 金

瓶 梅

﹂ に

見 え

る 明

代 の

用 語

に つ

い て

O n   t h e   W o r d   o f   t h e   M i n g   ( 明 )   d y n a s t y i n   t h e   C h i n   P i n g   M e i   ( 金 瓶 梅 )

T a

k e

s h

i  

A R

A K

I

本稿の目的

﹁金瓶梅﹂という小説は︑話の時代的背景は一応北宋末に設定

されてあるけれども︑実際に描かれているのは︑この小説を執筆

した作者が生きていた明代のそれであることは︑周知のことであ

る︒ か

っ て

呉 蛤

氏 は

︑ こ

の 小

説 中

に ︑

﹁ 太

僕 寺

馬 価

銀 ﹂

と か

︑ ﹁

皇 庄

﹁皇木﹂といった明代の用語が使われていることを発見され︑こ

れらのことから︑この小説に書かれている時代は明代のうちでも

※山

万暦初年であるとされた︒ところが︑この小説を注意深く読んで

みると︑この外にも明代の用語が数多く使われていることがその

後わかり︑そのことは︑陳詔氏をはじめとする少なからぬ学者に

# <

2

よって指摘されてきた︒

本稿では︑これらの明代の用語にはどのようなものがあるか︑

これまで指摘されてきているものの外に︑筆者の発見したものも

含めてまず提示することを︑最大の目的とし︑併せて︑これら明 代の用語から判明しうること︑つまり結論から言うと︑本小説に 投影されている時代は︑やはり嘉靖末から万暦初年にかけてであ ること︑作者は高位高官ではないが︑官界のことにある程度の知 識を有していた人物であったであろうこと︑また︑山東省のかな り細い地名まで書き込まれていることから︑作者は山東に住んで いたことのあった人であろうということ等︑二︑三の点を指摘す ることを本稿の目的としたい︒

尚︑本稿で明代の用語と言う場合︑1般用語の外に︑地名・官

職名等固有名詞も含めていることを予めおことわりしておきたい︒

明代の用語

これまで﹁金瓶梅﹂に使用されている明代の用語で︑これまで

判明したものは以下の通りである︒無論︑これだけではまだ充分

ではなく当然見落しがあり︑それらは今後の研究の進展に伴って

明らかにされてゆ‑必要があるであろう︒とりあえず以下は︑

長崎大学教養部紀要(人文科学篇)第3 2巻第1号7九‑三七(一九九一年七月)

(2)

荒木

﹁金瓶梅﹂に見られる明代の用語を︑1︑1般用語︑二︑官職名︑

三︑官署名︑四︑地名の順に見てゆくこととしたい︒尚︑用語の

あとにつけたアラビア数字は︑その用語が出て‑る回を示したも

の で

あ る

﹁ 一 般 用 語

㈲ 冠 服 頬

(

"

¥ '

1 . i n , 0 0 , 0 5 , 0 , T H C O , 0 0 , 0 ,

<

N , t o o

﹁補子﹂とは︑官服の前胸および後背に︑金糸や彩糸で刺繍し

た品級をあらわすしるしのことで︑このようなしるしのついた官

服のことを﹁補服﹂と称し︑明代に始まった制度である︒文官は

鳥を刺繍し︑武官は獣を刺繍した︒また官位によってその柄が異

なっていた︒詳しくは︑拙稿﹁金瓶梅補服考﹂(長崎大学教養部

紀要︑人文科学篇︑第3 1巻第1号︑1九九〇年七月)を参照され

たい︒﹁円領﹂とは︑円襟の官服のことで︑やはり明代宮人がつ

け た

服 の

こ と

で あ

る ︒

㈱ 麟 麟 補 子 o

公 侯

伯 射

馬 と

い っ

た 天

子 に

と っ

て 勲

戚 の

者 か

︑ あ

る い

は 錦

衣 衛

の長官たる指揮使の補服にのみつけることが許されたしるし︒ ㈱獅補(獅子補子coo

武官の言mないし二品の者にみとめられたしるし︒

二十

㈱白鵬補子LO

白熊とは﹁きじ﹂のことで︑文官五品の者がその補服につける

ことのできたしるLである︒

㈲ 燐 衣 玉 帯 1   4

︑ 燐 衣 7 0

燐とは﹁うわばみ﹂のことで︑これが補服としてデザインされ

ると︑龍とよ‑似たものになる︒燐衣も玉帯も︑天子が特に功績

のあった閣臣ないし在官に下賜されたもので︑独り錦衣衛指揮使

のみが︑祭服としてこれが着用を許されており︑この外の者が滅

多なことでこれの着用を認められてはいなかった︒

㈲ 飛 魚 衣 C O

︒ o

飛魚は︑よ‑飛ぶことのできる魚とされる伝説上の魚で︑これ

が補服のデザインとなると︑やはり龍に似たものになる︒やはり

錦衣衛指揮使のみが祭服として着用する外は︑勝手な着用は許さ

れ て

い な

か っ

た ︒

㈹斗牛補子円領7 0

斗牛も龍に似た架空の動物で︑龍とちがうのは︑龍が爪五つな

のに対し︑斗牛は爪三つである点である︒斗牛補服は︑やはり天

子から功臣に対して下賜された賜服であり︑平素その勝手な着用

は許されていなかった︒

㈲ 坐 龍 衣 7 0

坐燐衣ともいう︒やはり燐衣のことである︒

﹁万暦野獲編﹂巻1〟燐衣″の条︑﹁今授地諸公多賜麟衣︑而

最貴蒙恩者︑多得坐燐︒‑‑﹂

(3)

㈱忠靖冠coLOintoCM

﹁明史﹂巻六十七輿服志では︑忠静冠に作る︒嘉靖七年(一五

二八)︑文珊閣大学士張増の上奏によって定められた官吏の普段

服ならびに冠で︑京官にあっては七品以上の文官︑地方官にあっ

ては︑布政使及び府州県の長官や儒学の教官︑武官にあっては︑

言mの都督のみ︑これの着用が許された︒

以上㈱1m︑及び㈱についても︑詳しくは︑拙稿前掲論文を参

照されたい︒

㈹瓦樗帽CO・CO

﹁瓦梯綜帽﹂ともいう︒嘉靖初年には︑府州県学の学生たる生

員がこれをかぶっていたが︑嘉靖中期の二十年代になると︑布衣

の金持ちまでがこれをかぶり︑万暦時代になると︑貧富を問わず

広く一般の人々がこれをかぶった︒事は︑指溝の﹁雲間拠目妙﹂

巻二〟記風俗″の条に見える︒ここには︑嘉靖から万暦にかけて

の風俗の推移が書かれてある︒但しその風俗は︑江南松江におけ

るものであって︑﹁金瓶梅﹂の舞台である山東省におけるもので

ないといううらみは残るが︑1応参考になると考えられる︒

﹁雲間拠目紗﹂巻二﹁瓦梯駆帽︑在嘉靖初年惟生員始戴︒至二

十年外則富民用之︒然亦僅見一二︑価甚騰貴︒‑‑万暦以来︑不

論貧富︑皆用肝︑価亦甚醸.﹂

㈹綱巾CO・LO・LOcD︑網子56︑新綱新帽95

綱巾とは︑網ネットのようなかぶりもののこと︒網子も新綱新

帽も同じ︒明の太祖朱元噂がある日︑1道士がこれをかぶってい

﹁金瓶梅﹂に見える明代の用語について

る の

を 見

て か

ら 天

下 に

流 行

し た

と さ

れ る

郎瑛﹁七修類稿﹂巻十四〟平頭巾綱巾″の条﹁今里老所載黒漆

方巾︒乃楊維禎人見太祖時所載︒上聞日︑此巾何名︒対日︒此四

方平定巾也︒遂頒式天下︒太祖一日微行︑至神楽観︒有道士於燈

下 結

網 巾

︒ 間

日 ︑

此 何

物 也

︒ 対

日 ︑

網 巾

︒ 用

以 裏

頭 ︑

則 万

髪 倶

斉 ︒

明日︑有旨召道士︑命為道官︒‑‑至今二物永為定制︑前世之所

m

㈹ 方 巾 4 2

﹁四方頭巾﹂とも﹁四方平定巾﹂ともいう︒

王折﹁三才図会﹂衣服巻1︑﹁方巾︑此即古所謂角巾也︒制同

雲巾︑特少雲文︒相伝国初服此︑取四方平定之意︒﹂

尚︑上項﹁七修類稿﹂の記事も参照のこと︒

㈹ 過 橋 巾 6   8

桃霊犀﹁金瓶小札﹂では︑これは︑﹁雲間拠目抄﹂にいう橋梁

繊 線

巾 の

こ と

だ t

) す

る ︒

﹁ 雲

間 拠

目 妙

﹂ 巻

二 ︑

﹁ 余

始 為

諸 生

時 ︑

見 朋

輩 ︑

戴 橋

梁 械

線 巾

‑ ‑

この著者の花源が諸生であった頃というのは︑1体いつの七と ■

※価

なのだろうか︒彼の伝記ははっきりとはわからないが︑この書の

最初に︑万暦二十1年(1五九三)の高進孝の序があり︑この〟

記風俗″の条も嘉靖から万暦にかけて著者が実際に目略したこと

が書かれてあることから推察すれば︑汚溝が諸生であった頃とは︑

轟靖時代のことと考えてまちがいないであろう︒つまり︑嘉靖時

二一

(4)

荒木

代︑松江の生見の間では︑この過橋巾をかぶることが流行してい

た の

で あ

る ︒

㈹ 桃 牌 6 3

明代︑五品六品官の妻︑つまり命婦の常服の冠の飾りで︑挑珠

牌 に

同 じ

﹁明史﹂巻六十七輿服志三﹁命婦冠服︑‑‑五品︑‑‑常服冠

上中珠翠鴛鳶三︑鍍金銀駕鳶二︑挑珠牌︒‑‑六品︑‑‑常服冠

上鍍金銀練鶴三︑‑‑挑小珠牌︒‑‑﹂

㈹ 丁 番 児 4 2

丁番の花の形をした珠玉をはめた耳飾りのこと︒桃霊犀氏は

﹁金瓶小札﹂の中で︑これは︑﹁雲間拠目妙﹂に見える次のものに

相当し︑隆慶・万暦初頭の風俗だとする︒

﹁雲間拠目妙﹂巻二﹁婦人頭馨︑‑‑髪股中︑‑‑装綴明珠数

ヽ︑

頼︑謂之賛辺花︒挿両賛辺︑又謂之瓢枝花︒耳用珠蕨金玉丁番︒﹂

㈹満池嬬分心2 0

分心とは︑同じく桃氏﹁金瓶小札﹂の中で︑これは︑﹁雲間拠

目妙﹂に見える﹁挑心﹂のことであろうとする︒もしそうであれ

ば︑分心とは︑婦人の暫飾りの1種であり︑隆慶年間︑松江1帯

で流行していたものということになる︒

﹁雲間拠目妙﹂巻二﹁婦人頭馨︑在隆慶初年︑皆尚円偏︑頂用

宝 花

︑ 謂

之 挑

心 ︒

j ^

S ^

^ B

q S

嗣 担

㈹ 寅 侍 教 生 7 0

︑ 侍 生 帖 5 4

二 二 侍 教 生 と は

︑ 身 分 の あ ま り ち が わ な い 者 同 士 が 互 い に 名 刺 を 交 わ す 時 に

︑ 自 ら の 名 前 の 上 に つ け る 脇 付 の 語 o 義 輝 盟 期 以 後 用 い ら れ る よ う に な っ た

︒ 寅 と は

︑ つ つ し む の 意 で

︑ 相 手 に 対 す る 敬 意 を 示 す

︒ 侍 生 帖 の 侍 生 も 同 じ

︒ 侍 生 帖 と は

︑ こ こ で は 任 医 官 を 呼 ぶ 呼 び 状 の こ と で あ る

︒ 王 世 貞

﹁ 触 不 繊 録

﹁ 御 史 干 巡 撫

︑ 尚 猶 投 刺 称 晩 生 侍 坐 也

︒ 辛

︑ ヽ

︑ 卯 ( 嘉 靖 十 年 ) 以 後 則 愈 坐 夫

︒ 尋 称 晩 侍 生 正 坐 臭

︒ 又 称 侍 教 生 臭 巳 而

㈹ 大 巡 4 8 巡 按 御 史 を さ す

︒ 巡 按 御 史 に つ い て は 後 述

㈹ 大 郷 望

︒ o

c

‑ 郷 紳

︒ つ ま り 退 職 し た 官 僚 で 郷 里 に い る 者 の こ と

︒ 鮒 公 祖 6 知 府 以 上 の 地 方 官 の こ と

︒ 王 土 鳩

﹁ 池 北 偶 談

﹂ 巻 二 十 六

〝 曽 祖 父 母

″ の 条

﹁ 今 郷 官 称 州 県

︑ 官 日 父 母

︑ 撫 按 司 道 府 官 日 公 祖

﹂ 餌 正 堂 2 7 明 清 時 代

︑ 知 府 や 知 県 の こ と を さ し て い っ た

﹁ 辞 海

﹁ 旧 時 官 府 聴 政 的 大 望

︑ 明 清 称 知 府

・ 知 県 為 正 堂

︒ 別 干 佐 武 官 而 言

﹂ 的 軍 門 9 7 文 臣 が 総 督 軍 務 あ る い は 提 督 軍 務 の 任 に つ い た 時

︑ 軍 門 と よ ば れ た

(5)

朱国禎﹁湧瞳小品﹂巻八〟総督練兵″の条﹁文官至練督︑方称

軍門︒‑‑﹂

的坐嘗35

明代における京嘗(都を守る禁軍のこと)の武官のこと︒

﹁明史﹂巻七十六職官志五﹁京宮︑永楽二十二年置三大官︑日

︑︑五軍営︑日神機首︑日三千営︒‑‑其諸営管哨︑液官︑日坐営︑

日坐司︒﹂

的衛主7

王利器主編﹁金瓶梅詞典﹂によれば︑衛主とは︑全国の衛所を

統率する五軍都督府の長官の都督のことであるとする︒

回詞曲類

的鎖南枝

宣徳・正統年間(1四二六‑1四四九)から︑弘治年間(1四

八八‑一五〇五)にかけて流行した俗曲︒

沈徳符﹁万暦野獲編﹂巻二十五〟時尚小令″の条﹁自宣正至成

弘後︑中原又行﹃鎖南枝﹄﹃傍粧台﹄﹃山披羊﹄之属︒‑・・・自立以

後︑又有﹃要核児﹄﹃駐雲飛﹄﹃酔太平﹄諸曲︑然不如三曲之盛︒

嘉隆間︑乃興﹃開五更﹄﹃寄生草﹄﹃羅江怨﹄﹃巽皇天﹄﹃乾荷葉﹄

﹃粉紅蓮﹄﹃桐城歌﹄﹃銀紐耕﹄之属︒自両椎以至江南︒‑・・・比年

以来︑又有﹃打桑竿﹄﹃掛枝児﹄二曲︒其腔調約略相似︒則不問

南北︑不問男女︑不問老幼良棲︑人々習之︒亦人々喜聴之︒以至

刊布成峡︒挙世伝諭︑抽入心肺.﹂

関山披羊..T.0.0‑^‑‑‑^.10.0^.t‑i・Tr'LOLOcot^t‑ooos

﹁金瓶梅﹂に見える明代の用語について

やはり︑宣徳年間から弘治年間にかけて流行した俗曲︒

S 羅 江 怨 6   1

︑ 間 五 更 7

ともに嘉靖(一五二二I一五六六)から隆慶(1五六七‑1五

七二)にかけて流行した俗曲︒

的 掛

真 児

t >

.  

# F

﹁万暦野獲編﹂にいう掛枝児のことであろう︒﹁明清民歌時調

楽㈱

叢書﹂〟掛枝児″冒頭に見える関徳棟氏の序文に依れば︑一︑明

刊戯曲選集の﹁万曲長春﹂申欄に選録されている掛枝児は︑目次

では掛枝児とあるが︑実際に選録されている巻四の標題では︑掛

真児になっていること︒二︑清初の琵琶譜﹁太古伝宗﹂附刊の

﹁絃索調時劇新譜﹂巻上の﹁小妹々﹂と﹁桂鴬々旧詞﹂の中に︑

それぞれ一首ずつ掛枝児があげられているが︑ここでも棲題が掛

真児と書かれていること︒以上のことから同氏は︑掛真児は掛枝

児の異名だろうとされる︒もしそうだとすれば︑上記沈徳符の記

述からして︑これは万暦年間に流行していた俗曲ということにな

る︒ ㈹

中 天 番 半 夜 朝 元 記 7 8

朱有轍(1三七九Il四三九)の作る雑劇︒宣徳年間(1四二

六‑1四三五)の原刊本が︑呉梅の輯めた﹁奪摩他室曲叢﹂に収

め ら

れ て

い る

㈹ 香 喪 記 3

耶燐の作る南戯︒都燐の生没年は不明だが︑荘1排﹁古典戯曲

存 日

舞 考

﹂ で

は ︑

成 化

年 前

後 (

1 四

六 五

I l

四 八

七 )

在 世

と あ

る ︒

二三

(6)

荒木

本南戯は︑﹁六十種曲﹂に収められている︒

餌双忠記7

桃茂良の作る南戯︒桃茂良もその生没年は不明だが︑荘1排前

掲書では︑やはり成化年前後在世とある︒﹁古本戯曲叢刊﹂には︑

富春堂刊本が収められている︒富春堂とは︑金陵で︑主に戯曲を

出版した書轟のことで︑その出版活動時代は︑万暦年間に集中し

ている︒

鋤四節記7

沈采の作る南戯︒沈采も生没年不明ながら︑荘一梯前掲書では︑

やはり成化前後在世とある︒

㈹韓湘子昇仙記32︑韓湘子度陳半街升仙会雑劇58

陸進之の雑劇︒陸進之は︑荘1排前掲書によれば︑洪武中前後在※㈲世とある︒また︑杜信字の﹁明代版刻綜録﹂によれば︑やはり前

記の富春堂が万暦年間に﹁韓湘子九度文公昇仙記﹂二巻を出版し

ている︒かって鄭振鐸氏は︑このことを以って︑﹁金瓶梅﹂が万※㈲暦年間の作品である証拠だとした︒しかしながら︑この劇は現存

しない︒04玉環記cotoco

楊柔勝の戯曲である︒楊柔勝は︑荘1沸前掲書によれば︑万暦

十年前後に在世とある︒また︑別に同名の戯曲が﹁六十種曲﹂中

に収められている︒

脚海塩戯<NI︑海塩子弟42

海塩とは︑漸江省の地名で︑この地に興った南曲のメロディー 二四を海塩腔と称し︑このメロディーにあわせて演じられる南戯を海塩戯︑これを演ずる役者を海塩子弟とそれぞれ称した︒その最盛期は︑昆曲が現われるやや前の嘉靖隆慶年間のことで︑流行の中心は︑新江省であった︒事は︑青木正児﹁支那近世戯曲史﹂第七章〟崖曲の興隆と北曲の衰亡″の章に詳しい︒但し︑宴会の席上︑海塩戯の子弟をよんで演じさせたのは︑万暦以降の風習であるとは︑章培恒氏がその論文﹁論金瓶梅詞話﹂(﹁復旦学報﹂社会科学版︑一九八三年第四期所収)で指摘されるところである︒㈹﹁三弄梅花﹂の曲︒︒coco

三弄梅花は︑陳鉾︑字大声︑号秋薯の作った曲である︒嘉靖年

間に刊行された選曲集の﹁薙配州楽府﹂巻六には〟春夜帰思″と題

して︑同じく嘉靖年間に刊行された﹁詞林摘艶﹂巻三には〟閑情″

と題して載っている︒陳鍔は︑荘1排前掲書では︑大体正徳年間

(1五〇六‑1五二一)に在世と見える︒陳鉾の作った曲はこの

外にも︑﹁金瓶梅﹂に多く採用されている︒ついでながら記すと︑

次の通りになる︒

t0回の﹁花月満春城﹂の曲は︑﹁詞林摘艶﹂巻二に〟元夜″

と題して︑44回で韓玉釧や李桂姐の唱う﹁駐雲飛﹂の曲̀は︑﹁詞

林摘艶﹂巻1に〟関麗″と題して︑59回の﹁兜的上心来﹂の曲は︑

﹁群音頼通﹂清腔巻一に〟関思″と題して︑73回の﹁憶吹篇玉人

何処也﹂の套曲は︑﹁宛配⁝楽府﹂巻十四に〟秋懐″と題して︑そ

れぞれ収められている︒

尚︑この外にも﹁金瓶梅﹂には︑嘉靖時代に刊行された﹁薙配⁝

(7)

楽 府

﹂ や

﹁ 詞

林 摘

艶 ﹂

に 収

め ら

れ て

い る

曲 が

多 数

収 め

ら れ

て お

り ︑

中 で

も ︑

7 0

. 回

﹁ 享

富 貴

︑ 受

皇 恩

﹂ で

始 ま

る 正

宮 端

正 好

の 套

曲 が

李開先(1五〇二Il五六八)の戯曲﹁林沖宝剣記﹂第五十出に

見えるものと1致する外︑李開先の作った曲が外にも多数﹁金瓶

梅﹂中に見えることが注目される︒詳し‑は︑拙稿﹁﹃金瓶梅﹄

素材の研究用‑特に俗曲﹃宝剣記﹄﹃宣和通事﹄について‑﹂

( ﹁

函 館

大 学

論 究

﹂ 第

十 九

韓 ︑

昭 和

六 十

一 年

三 月

) 参

照 の

こ と

︒ 刷 そ の 他 銅 太 僕 寺 馬 価 銀 7

かって呉蛤氏が︑その論文﹁<金瓶梅V的著作時代及其社会背

景﹂の中で︑この語を以って︑本小説に投影されている時代は︑

万暦年間のそれであるとする証拠の1つとしてあげているもの︒

但し︑その後︑日下翠氏がその論考﹁﹃金瓶梅﹄成立年代考‑呉

野間

晴氏﹃金瓶梅的著作時代及其社会背景﹄批判﹂の中で︑谷光隆氏

﹁明代馬政の研究﹂を引用され︑﹁世宗実録﹂によれば︑嘉靖時代

からすでに︑本来買馬の費用に充てられるべき馬価銀が︑北辺の

軍事費に充当されることがあったとし︑この語を以ってかならず

Lも︑万暦時代の投影とは言えないという指摘がある︒

的太医院i‑iCO

宮 中

と 百

官 の

医 療

を 行

う ︒

黄 本

喋 ﹁

歴 代

職 官

表 ﹂

巻 三

に 依

れ ば

宋 で

は ﹁

医 官

院 ﹂

︑ 達

で は

﹁ 太

医 局

﹂ ︑

金 で

は ﹁

太 医

院 ﹂

︑ 元

で は

﹁ 提

点 太

医 院

﹂ ︑

明 で

は ﹁

太 医

院 ﹂

と あ

り ︑

よ っ

て ︑

﹁ 太

医 院

﹂ は

金 ・

明 称

で あ

る ︒

﹁金瓶梅﹂に見える明代の用語について ㈹白米〜〜石︒︒tococoto

白米とは︑賄賂の白銀をさす隠語︒

陳洪謀﹁治世余聞﹂巻二﹁太監李広以左道見寵任︑権傾中外︑

大臣多賄求之︒‑‑(後及李広死)‑‑上意其蔵必有奇方秘書︑

即令内侍捜索︒奉命者遂封其外宅︑接待1峡納賄簿︑首進之︒簿

中所載某送黄米幾百石︑某送白米幾千石︑通計数百万石︒黄米即

金︑白米即銀︒上因悟広臓濫如此︑遂籍没之︒﹂

㈹監生21

国子監の学生のこと︒

﹁明史﹂巻六十九選挙志1﹁学校有二︑日国学︑日府州県学︒

府州県学渚生入国学者︑乃可得官︒不入者不能得也︒入国学者︑

通謂之監生︒﹂

tlU織造<>3

明清時代に政府宮廷所用の絹織物を政府機関で生産することを

いう︒参考︑﹁アジア歴史事典﹂巻四︑頁四二九︑織道の項︒

㈹女番子28︑土番95

番子とは︑明代の特務機関である東厳や錦衣衛が街へ派遣した

スパイで︑土番もこの番子のことである︒呉蛤氏は︑やはりこの

語を以って万暦初年の状況が反映されたものであるとした︒

﹁明史﹂巻九十五刑法志三﹁東廠之属無専官︑掌刑千戸1'理

刑百戸一︑亦謂之貼刑︒皆衛官︒‑‑其下番子数人為幹事︒﹂

㈹皇庄31︑35︑63︑78

皇室の荘田のこと︒明代中期以降この皇荘の増大が民を苦しめ

二五

(8)

﹂1

たことは︑﹁明史﹂巻七十七食貨志一に精しい︒

掴皇木05COco

宮殿造営の為に伐採され︑宮中に納められる木材をいう︒呉略

氏は︑この語にも︑たびたび宮殿火災のあった万暦時代の投影が

見られるとするが︑宮殿火災は︑嘉靖時代にもあったので異説も※㈲多く︑載不凡氏は﹁金瓶梅﹂49回で︑工部主事安伐が剃州まで皇

木を徴集にいっていることが書かれているのは︑むしろ嘉靖帝が︑

嘉靖二十年に︑それまで剃州にあった実父の墓を北京に移したこ

との投影と見るべきであるとされる︒

㈹書幅cococo

明代︑官界において書籍に手相(ハンカチ)をつけて贈答する

習慣があった︒この贈答用の為に刻された書籍を手略本と称し︑

この風習は︑隆慶から万暦初年にかけて盛んであった︒

葉徳輝﹁書林清話﹂巻七﹁明時官吏奉便出差︑回京必刻1書︒

以1着一帖相飽贈︒世即謂之書幅本︒﹂

㈹紗関︒︒IDCDOO

船舶往来の内河水路の要衝地に置かれた航行船舶に対する収税

官庁のこと︒宣徳四年に始まり︑運河沿いの七ヶ所に置かれた︒

臨清はそのうちの一ヶ所であった︒

﹁万暦会典﹂巻三十五戸部二十二秒関の条﹁国初止有商税︑未

嘗有船紗︒至宣徳間︑始設妙関︒凡七所‑‑河西務・臨清・九江・

新里・准安・揚州・杭州︒﹂

㈹錦衣t>‑LO 二六錦衣衛の略称︒西門慶が30回で拝命する﹁金吾衝表左所副千戸﹂

という官職名に︑錦衣衛の役人という意味が暗示されていること

については︑拙稿﹁﹃金瓶梅﹄における親刺‑西門慶の官職から

見た‑﹂(﹁函館大学論究﹂第十八韓︑昭和六十年三月)を参照

されたい︒

﹁万暦野獲編﹂巻二十一〟陸劉二経帥″の条﹁景陵陛武恵柄︑

領錦衣最久︒‑‑﹂

㈹大元宝・・‑*・聖元宝6

元宝・大元宝とは︑元宝銀のこと︒馬蹄銀ともいう︒馬のひづ

めの形に似ているのでこの称がある︒明清時代に公私の取引に広

‑使用され︑一元宝は︑銀五十両に相当した︒参考︑宮下忠雄氏

﹁中国幣制の特殊研究﹂1九五二年︒

㈹不応罪cDOo

明清時代の刑法用語︒殺人罪を除く他のあらゆる名称をつけが

たい罪の総称︒法律に条文がないため︑罪名がはっきりしない︒

法律によらず条理によって罰をきめる︒

﹁六部成語註解﹂〟不応重例″の条﹁除殺人等案之外︑凡1切難

以名称之罪︑概名之日不応︒﹂

榊闘葉子86

紙牌(紙のカルタ)を用いて遊ぶ葉子戯のこと︒明代の中葉ご

ろ︑蘇州府太倉州においてこの遊びが確かに流行していたことは︑

陣容(1四三六‑1四九四)の次の記述からもわかる.陣容﹁萩

園雑記﹂巻十四﹁闘葉子之戯︑吾崖城上白士夫︑下至億賢皆能之︒

(9)

予退居序八年︑独不解此︑人以拙噴之︒近得閲其形製︑1銭至九

銭各1葉︑1百至九百各1菜︑自万某以上︑皆図人形︒‑‑﹂

㈹曇公廟93

水神の平浪公貴公敦を配ったもので︑明の太祖が神として配っ

たことに始まる︒

﹁留青日札﹂巻二十七〟曇公廟″の条﹁太祖渡江︑取張士誠︒

舟将覆︑紅抱救上︑且指之以舟者︒間何神︑日貴公也︒後猪婆龍

攻崩江岸︒神復化為老漁翁︒示以殺橿之法︒問何人︒又自重︒

太祖感之︑遂封為神︒‑‑今江海著霊甚顕︒﹂

的手本cocJ5LDto

下級官吏が上官に見える時︑又門生が初めて座師に見える時︑

差し出す名刺のことで︑折本の形をしている︒

劉撃﹁五石敬﹂〟手本名帖″の条﹁官司移会︑用六和白束︑謂

之手本︒万暦問︑士夫刺亦用六和︑然称名帖︒後以青殻︑粘前後

葉︑而綿紙六和︑称手本︒為下官見上官所投︑其門生初見座師︑

則用紅綾殻︑為手本︒亦始万暦末年︒﹂

63金子会45

明代︑南京の妓院にあった風習で︑妓女が二十人三十人と組と

なって姉妹の契りをし︑佳節ごとに美しい器にご馳走を椅麓につ

めあって競いあうことを︑金子会という︒精しくは︑余憤﹁板橋

雑記﹂下巻の〟金子会″の条を参照のこと︒

糾乾生子5

乾児ともいう︒政治権力などを有する人の義理の子のこと︒嘉

﹁金瓶梅﹂に見える明代の用語について

靖時代の厳嵩は沢山の乾生子をもったことで有名で︑恵名高い郡 恐

卿 も

そ の

1 人

で あ

る ︒

﹁留青日札﹂巻三十五〟厳嵩″の条﹁厳嵩‑‑仕至少師︑太子

太師︑吏部尚書︑華蓋殿大学士︑詐偽百端︑釜醋万状︑結交内侍︑

ヽヽ

殺数大臣︑乾児門生布満天下︒‑‑﹂

6 9 頭 水 船 6

王利器主編﹁金瓶梅詞典﹂によれば︑明代において︑春︑氷を

割って最初に運河を通行する船のことだとする︒

㈹ 神 運 o

皇木(㈹参照のこと)の輸送のこと︒朱国禎﹁湧憧小品﹂巻四

〟 神

木 ″

の 条

に 精

し い

︒ S 揖 噺 小 子 6

﹁金瓶梅詞典﹂によれば︑倒刺小原ともいい︑明代宵宮が使っ

ていた少年劇役者のことだとする︒

﹁万暦野獲編﹂巻二十五〟俗楽有所本″の条﹁都下貴瑠家作劇︒

所 用

童 子

名 倒

刺 小

麻 者

︒ ﹂

6 8 糖 五 老 座 児 5

﹁金瓶梅詞典﹂によれば︑明代︑要席上において陳列された糖

で作った人形のことだとする︒

6 9

金 華

酒 C

O .

L O

. L

O .

O .

C ^

. L

O .

︒ O

﹁金瓶梅﹂における金華酒については︑これまで様々に論じら

れてをたが︑最近︑陳詔氏は︑その論文﹁従民俗描写看金瓶梅的

※㈱

時 代

背 景

﹂ の

中 で

︑ ﹁

雲 間

拠 目

紗 ﹂

や ﹁

留 青

日 札

﹂ 等

を 見

る と

二七

(10)

荒木

金華酒は漸江金華地区の特産であり︑嘉靖時代北方の人々からも

愛好されていたが︑万暦時代に入ると三白酒があらわれ︑人々の

人気を奪ってしまったことがわかるとし︑従って︑﹁金瓶梅﹂に

金華酒が多く出てくるのは︑嘉靖時代の投影であるとされる︒

㈹ 慶 成 案 7   0

明代︑宮中でめでたい祭紀典礼が無事終了した時に行う宴会の

こ と

﹁湧瞳小品﹂巻二十一〟父子与慶成宴″の条﹁嘉靖四年︑郊紀 ︒

慶成要︑大学士楊廷和子慎︑左司馬挑鎮子凍皆為傭撰︒‑‑﹂

︑ 官 職 名

㈹ 里 正 1

︑ 里 老 人 o

里正・里老人とは︑明代︑勧農教化にあたった里内での徳望家

のこと︒参考︑鶴見尚弘氏﹁明代における郷村支配﹂(岩波講座

﹁世界歴史﹂1 2︑貢76‑77)

約千戸‑,,rtstD,C︒,O,Hlfl(D,C︒,00,

3

5

S

S

S

S

S

S

O

S

明代の軍隊の編制に︑衛および所があり︑兵五千六百人よりな

るものを衛とし︑千百二十人よりなるものを千戸所︑百十二人よ

りなるものを百戸所とした︒千戸とは︑兵千百二十人を統率する

長のことである︒参考︑山崎清一氏﹁明代兵制の研究﹂(﹁歴史

学研究﹂第九十三号︑昭和十六年十一月号)

二八約提督CO・‑・"*・‑︒o

軍政を統轄する最高責任者︒明代中期以降︑文官が地方を巡撫

する際︑提督軍務を兼領させることが多くなった︒しかし常設の

官職ではない︒

躍娩園﹁歴代職官簡釈﹂﹁明代京官設有提督︑文臣武臣与序官

並用︒‑‑文臣之巡撫地方者亦或兼捷督軍務之名︒‑‑﹂

糾守備t>‑・CO・encoo

蝣tf'in'Ln'^'c'^'wVVVVooojctjen*001明清時代の官職名︒常駐化した辺鏡における一城一堂の統轄に

あたる者をいう︒主として遊撃将軍が任命された︒

躍蛇園﹁歴代職官簡釈﹂﹁守備之名起於明代︑清制為正五品武

官︒‑‑﹂

69太監O.T‑HT‑Il‑I

遼・元では︑太府監の長官を太監といった︒しかし未だかなら

ずLも︑宵宮の別称ではなかった︒これが宵宮の称になったのは︑

明代になってからのことである︒

﹁明史﹂巻七十四職官志三﹁在官︑十二監︑毎監各太監1員︑

正四品︒‑‑﹂

㈹鎮守o

鎮守太監ともよばれる︒明代宵宮の職名︒この名称が正式に定

まったのは︑洪配州元年(1四二五)のこととされる︒初めは軍事

を監視するにとどまっていたが︑のちには地方の政治や民情まで

(11)

監視し︑天下各地において兵民を害すること甚大であった︒丁易

氏 ﹁

明 代

特 務

政 治

﹂ (

1 九

五 一

年 刊

) に

精 し

い ︒

㈹ 総

兵 <

n j

< n

i c

o t

r ‑

t ‑

t ‑

# t

総兵官ともいう︒一路の鎮軍を指揮統轄した︒明初においては

戦時の特設官であったが︑中期以降︑常置の官となり︑公・伯・

都 督

な ど

高 位

高 官

が こ

れ に

な っ

た ︒

約 参 将

・ 3 8 総兵官の下にいて︑各地を守分する武官︒

濯娩園﹁歴代職官簡釈﹂﹁参将︑明制︒練兵官之下有参将︒分

守 各

地 ︒

﹂ 6 9 兵 科 給 車 中 1 7

給事中とは︑天子の傍にあって︑天子を諌めたり︑上奏文を批

判したりする職務の者を指していう言葉で古‑からあったが︑明

代では︑はじめてこれが︑吏戸礼兵刑工の六科に分かれて︑それ

ぞれの専門の諌官となった︒位は︑従七品︒

㈹ 科 道 官

︒ C O

先の六科給車中と十三道監察御史をあわせて称した略称︒十三

道監察御史は︑地方官の不正を糾弾するのがその任務で︑正七品

の 位

で あ

る ︒

㈹ 本 兵 1 7

兵部尚書の異称で︑明代の用語である︒

﹁湧幡小品﹂巻八〟本兵″の条﹁洪武中更本兵二十三人︑‑‑

嘉 靖

中 更

二 十

六 人

︑ ‑

・ ・

・ 此

外 大

抵 再

歳 不

1 歳

︑ 隆

万 両

朝 ︑

亦 未

﹁金瓶梅﹂に見える明代の用語について 及七年者︒﹂㈹序堆蝣^明清の官名︒鴻腫寺に属し︑百官朝兄の際の班次をつかさどった︒位は従九品︒﹁明史﹂巻七十四職官志三﹁鴻膿寺︑卿一人︑‑‑鳴賛四人︑序班五十人︒‑‑﹂㈹巡撫c‑.O.io.0.0.‑^.‑t0,00.'‑h.os.s本来は︑巡行撫民の意で︑皇太子や都の高官が地方に出て民政を視察することであったが︑明代中期より常駐の地方長官にとその性格を変え︑この職には都察院の都御史が任命されることが多かった︒㈹駅丞coco

明代︑地方の駅務をつかさどった下級の地方官︒

﹁明史﹂巻七十五職官志四﹁駅丞︑典郵伝迎送之事︒‑‑﹂

㈹巡按(御史^LO.co.︒︒,o>.T‑i.c<i.Ln,i>‑.a>,O.)Coco^‑^LOIOtQtOtOt‑‑

^>S2︑監察御史70

十三道監察御史のこと︒地方行政の監察を職務とする︒位は正

七品︒

㈹指揮使余事CO

京常指揮使司に属する官職︒位は正四品︒

﹁明史﹂巻七十六職官志五﹁京衛指揮使司︑指揮便t人︑正三

品︒指揮同知二人︑従三品︒指揮余事四人︑正四品︒‑‑﹂

㈹屯田兵傭道35︑兵備副使t‑t^

二九

(12)

荒木

兵傭道とは︑地方に置かれ︑その地方の安寧秩序を維持する任

務 を

お び

た 官

職 の

こ と

﹁明史﹂巻七十五職官志四﹁整飾兵傭道︒漸江寧紹道︑‑‑山

東 臨

清 適

︑ ‑

‑ 福

建 兵

傭 道

︒ ﹂

.^.10.0.00.05^(D(DI>O)*05

明代になってそれまでの御史台にかわって設立された都察院の

長官で︑位は正二品︑百官の不正を糾弾することを任務とする︒

﹁明史﹂巻七十三職官志二﹁都察院︑左右都御史︑正二品︒‑

‑﹂

巡 塩 御 史 4 8

︑ 両 准 巡 塩 4 8

巡 塩

と は

︑ 巡

塩 御

史 の

こ と

︒ 製

塩 場

を 巡

視 す

る こ

と を

任 務

と す

る ︒

﹁明史﹂巻七十五職官志四﹁永楽十四年︑初命御史巡塩︒景泰

三 年

罷 長

産 ・

両 准

巡 塩

御 史

︑ 命

撫 ・

按 官

兼 理

︒ ﹂

榊 三 辺 総 督 5

三辺総制のこと︒明の憲宗の成化七年(t四七四)︑王越に命

じて︑延緩・甘粛・寧夏の三辺を守らせた時の官名︒

﹁明史﹂巻十三憲宗紀﹁成化十年春正月‑‑突卯︑王越総制延

緩 ・

甘 粛

・ 寧

夏 三

辺 ︑

駐 固

原 ︒

﹂ 剛 山 東 布 政

︑ 山 東 参 政 6   5

︑ 山 東 参 議 6   5

明では︑全国を十三の行政区に分け︑それぞれに布政使司を置

いて︑各省の民政を担当させた︒布政使は長官で︑位は従二品︒

参政は次官で︑位は従三品︑その下が参議で︑位は従四品である︒

﹁ 明

史 ﹂

巻 七

十 五

職 官

志 四

﹁ 承

宣 布

政 使

司 ︒

左 右

布 政

使 各

一 人

三十

従 二

品 ︒

左 右

参 政

︑ 従

三 品

︒ 左

右 参

議 ︑

無 定

員 ︑

従 四

品 ︒

﹂ 的 提 学 副 使

地方の学政を掌る︒黄本礫の﹁歴代職官表﹂巻五第四十六表に

よれば︑末では提挙学事司︑金では推挙学校官︑元では儒学提挙

司提挙︑明では提学御史のもとに提学副使がある︒よって︑提学

副 使

は 明

代 の

呼 称

で あ

る ︒

脚 都 水 司 郎 中 o 都水司は︑正式には都水清吏司と称され︑明代に置かれた︒工

部 に

属 し

︑ 水

利 ・

漕 運

・ 織

造 ・

量 衛

の こ

と を

掌 っ

た ︒

郎 中

と は

そ こ

の 官

職 名

の 1

つ で

あ る

︒ 尚

︑ 末

代 で

は 水

部 郎

中 と

称 し

た .

﹁明史﹂巻七十二職官志1﹁工部︑洪武二十九年︑又改四

属 部

︑ 為

営 繕

・ 虞

衡 ・

都 水

・ 屯

田 四

清 吏

司 ︒

餌 大 錦 堂 3

・ 6

桃霊犀﹁金瓶小札﹂ならびに﹁金瓶梅詞典﹂では︑いずれも錦

衣衛の役人に対する尊称であるとする︒

舶 堂 上 官

<

N ) 明代において︑各衛門の長官を︑堂官ないし堂上官と呼んだ︒

﹁明史﹂巻六十七輿服志三﹁其視性︑朝日夕月︑耕緒︑祭歴代

帝 王

︑ 独

錦 衣

衛 堂

上 官

︑ 大

紅 燐

衣 ︒

‑ ‑

﹁ 辞

源 ﹂

﹁ 明

清 時

︑ 称

中 央

各 衛

門 長

官 為

堂 官

︒ ﹂

京堂6 6︑京堂官7 0

都の堂上官のこと︒ 貼刑CO︑理刑O.CO

(13)

ともに︑錦衣衛の役人をいう︒作品では70回で︑西門慶が掌刑

に︑何永寿は貼刑になっているが︑実はここが︑二人がともに錦

衣衛の役人であることを暗示している部分かと思われる︒

﹁明史﹂巻九十五刑法志三﹁東廠之属無専官︑掌刑千戸一︑理

刑 百

戸 1

︑ 亦

謂 之

貼 刑

︒ 皆

衛 官

︒ ﹂

的 冬 営 6

工部の異称である︒工部は伝統的には︑冬官とよばれていた︒

冬菅という用語が真に明代に始まった用語であるか否かについて

は︑やや自信がないが︑焦肱﹁国朝献徴録﹂巻五十一に見える工

部右待郎陸奈の墓志銘によれば︑彼は常に天子から実際の名前で

は呼ばれず︑冬曹大臣とよばれた旨見える︒一応ここでは明の用

語 と

し て

お く

佃余部御史7 0

都御史・副都御史の属官で︑位は正四品である︒

榊義官t‑・ir ̄*c‑

お金を出して就く官職のこと︒明中期以降︑このような売官が

盛 ん

に な

っ た

王鋳﹁寓園雑記﹂巻五〟義官之濫″の条﹁近年補官之価甚廉︑

不 分

良 嬢

︑ 納

銀 四

十 両

即 得

冠 帯

︑ 称

義 官

︒ ・

・ ・

‑ 長

洲 1

県 ︑

日 成

十七年至弘治改元︑納者幾三百人︑可謂濫臭︒﹂

㈹漕運練兵官7 8

永楽二年(1四〇四)創設︒楢運運営の重商貴任官であったが︑

景泰二年(1四五1)漕運総督の新設後は︑これと協力してその

﹁金瓶梅﹂に見える明代の用語について

地位を保った︒隆慶以後︑巡漕御史の進出に伴い︑冗官視される に

至 っ

た ︒

( ﹁

明 史

食 貨

志 訳

註 ﹂

貢 三

1 八

の 注

に よ

る )

的 大 理 寺 寺 正 1 0

大理寺は︑刑獄を掌る官署名で︑遠く北斉よりある︒しかし︑

黄本礫﹁歴代職官表﹂巻二第十八表によれば︑末は大理寺正と称

し︑遼金は大理正︑明は大理寺寺正とあり︑よって明の呼称であ

る ︒

位 は

正 六

品 ︒

︑ 官 署 名

約 倍 薪 司 c o

c M 宮 中 の 薪 炭 の 事 を 掌 っ た 役 所 で

︑ t n l 官 が 任 ぜ ら れ た

﹁ 明 史

﹂ 巻 七 十 四 職 官 志 二

﹁ 寅 官

︑ 四 司

︒ 惜 薪 司

︑ 掌 印 太 監 1 員

‑ 監 工 倶 無 定 員

︑ 掌 所 用 薪 炭 之 事

﹂ 糾 都 布 按 4 8

︑ 布 按 両 司

︑ 布 按 三 司 6 明 代 に お け る 地 方 行 政 を 司 る 三 つ の 役 所 を さ し て い る

︒ 都 は 都 指 揮 司 で 各 省 の 軍 事 を

︑ 布 は 布 政 使 司 で 各 省 の 行 政 を

︑ 按 は 提 刑 按 察 便 司 で 各 省 の 監 察 裁 判 を そ れ ぞ れ 司 る

︒ 脚 衛 c O c o t o c o o O 明 代 に お け る 軍 隊 の 単 位 の 一

︒ 兵 五 千 六 百 人 よ り な る 軍 隊 の 地 方 組 織 を 衛 と 称 し た

㈹ 山 東 守 禦 府 9 5

︑ 守 禦 府 9 7

﹁ 金 瓶 梅

﹂ の 全 篇 を 通 じ て

︑ 守 備 府 な る 正 体 不 明 の 役 所 名 が 頻 三 t

(14)

荒木

m

出し︑そこの長官が西門慶と交際のある周秀ということになって

いる︒ところが︑どういうわけだか︑この95回と97回の両回にの

み︑守楽府という役所名が守備府と同義に使ってある︒この守禦

府とても依然として正体不明の役所名だが︑明代には︑守禦千万

所というのがあり︑軍事的に重要な所におかれた千戸所の一であ

る︒或いはこれに因んで名付けたものかもしれない︒それで1応︑

明代の官署名としてあげておく︒但し︑山東守禦千戸所なるもの

はない︒勿論︑架空の官署名ではある︒

析内閣o

明代に起った政治機関︒明の太祖は︑それまでの中書省を廃し

て︑自ら大政を統べようとしたが︑万機を親裁することは容易で

なかったので︑宮中に内閣を置き大学士を任じて︑腹心として機

務に参与させた︒

榊宗入府7

皇室に関する事務を行う役所︒

嘘娩園﹁歴代職官簡釈﹂﹁宗入府︑管理皇室宗族事務的機構.

名称始於明代︒﹂

約三法司︒︒︒︒05

司法に関する三街門︒つまり︑刑部︑都察院︑大理寺をいう︒

明清時代︑極めて重大な犯罪事件については︑この三街門が合同

審問した︒

﹁明史﹂巻九十四刑法志二﹁三法司︒日刑部・都察院・大理寺︒

刑部受天下刑名︑都察院糾察︑大理寺駁正︒﹂ 三二

四︑明代の地名

川 十 三 省

︒ o

全国を十三の省に分けたのは︑明になってからのことである︒

山東一省6 4

山東省なる概念がうまれたのも︑明代になってからのことであ

る︒ ヵ

蘇 州 府 3

呉元年(一三六七)よりこの称がある︒

﹁明史﹂巻四十地理志1﹁蘇州府︑太祖呉元年九月︑日蘇州府︑

領 州

1 県

七 ︒

0 ‑3東昌府to.︒o#a5.LO.tr‑.t>‑.05.a>.i=c

宋・金は博州︑元は東昌路と称した︒(﹁読史方輿紀要﹂巻三

十 四

︑ 山

東 五

に よ

る )

﹁明史﹂巻四十一地理志二﹁東昌府︑洪武初為府︑領州三県十

玉 O ﹂

川 東 州 府

︒ 洪武十八年(一三八五)より︑この称がある︒

﹁ 明

史 ﹂

巻 四

十 1

地 理

志 二

﹁ 尭

州 府

︑ 洪

武 十

八 年

升 為

尭 州

府 ︒

領 州

四 県

二 十

三 ︒

﹂ 紺 青 州 府 C O

・ 0 0 欄 呉元年(一三六七)より︑この称がある︒

﹁明史﹂巻四十1地理志二﹁青州府︑太祖呉元年為青州府︑領

(15)

州 1

県 十

三 ︒

8

‑ 0 登 州 府 6 5

洪武九年(1三七六)より︑この称がある︒

﹁明史﹂巻四十1地理志二﹁登州府︑洪武九年五月升為府︒領

州 1

県 七

︒ ﹂

川 莱 州 府 6 5

洪武元年に一皮府となるも︑同六年に州に降格し︑後同九年

( 1

三 七

六 )

に 再

び 府

と な

っ た

﹁明史﹂巻四十一地理志二﹁莱州府︑洪武元年升為府︒六年降

為 州

︒ 九

年 五

月 復

升 為

府 ︒

領 州

二 県

五 ︒

㈹ 済 南 府 o

呉 元

年 に

府 と

な っ

た ︒

﹁明史﹂巻四十1地理志二﹁済南府︑太祖呉元年為府︑領州四

県 二

十 六

︒ ﹂

㈹ 臨 清 州 9 9

弘 治

二 年

( 1

四 八

九 )

︑ そ

れ ま

で の

県 を

州 に

昇 格

さ せ

た ︒

﹁ 明

史 ﹂

巻 四

十 一

地 理

志 二

﹁ 臨

清 州

︑ ‑

‑ 弘

治 二

年 升

為 州

︒ ﹂

8lO厳州府00

宋は睦州︑宣和三年には厳州︑成淳元年には建徳府︑元は建徳

路といった︒厳州府になったのは︑洪武八年(一三七五)からで

あ る

︒ (

﹁ 読

史 方

輿 紀

要 ﹂

巻 九

十 新

江 二

に よ

る )

Ⅲ 懐 慶 府 o

洪 武

元 年

( 一

三 六

八 )

よ り

府 と

な る

﹁金瓶梅﹂に見える明代の用語について

﹁明史﹂巻四十二地理志三﹁懐慶府︑洪武元年十月為府︑

領 県

六 ︒

﹂ の 広 済 開 大 橋 9 3

作品では︑臨清の街にかかる橋ということになっている︒東洋

文庫蔵の﹁臨清州志﹂十二巻(清・乾隆十五年序刊本)の巻三城

池志を見ると︑確かに︑明代臨清には広済橋なる橋のあった†jと

が 書

か れ

て い

る ︒

﹁臨清州志﹂巻三城旭志﹁広済橋︑亦名浮橋︒在新城衛河中︒

明弘治八年︑兵傭副使陳壁創︒‑‑﹂

これによってみれば︑同橋は︑弘治八年(1四九五)にかけら

れ た

も の

で あ

る こ

と が

わ か

る ︒

﹁金瓶梅﹂に使用されている明代の用語で︑これまで判明して

いるものは︑以上の通りである︒では︑これらの用語は︑明代の

いつ頃に使われていたものであろうか.1口に明代と言っても︑

前後約三百年もあるから︑この間に言葉の中にははやりすたりの

あったものもあったであろう︒また︑土地広大にして︑現代の日

本とちがって︑交通や情報の手段がはるかに劣っていた十五・六

世紀の中国にあっては︑使われていた用語にも︑地域差といった

ことのあったであろうことも︑当然考慮に入らなければならない︒

ところが︑文献より知れる知識には限度があり︑用語における厳

密なる時代差や地域差の解明は容易ではない︒今︑地域差という

ものを考慮に入れないで︑今まで見てきたところの明代の用語の

三三

(16)

荒木

うち︑時代の比較的はっきりしているものをリストアップしたの

が︑次の表である︒

結 読

明代の用語の時代別表

洪 武 年 間

都察院 (洪武 15年 〜)

弘 治 年 間

臨清州 (弘治 2 年〜)

都御使 広済構 (弘治 8 年 )

(1368‑ 1398 ) 巡撫 (洪武24年 〜) (1488 ̄1505) 白米〜石 (弘治10年)

曇公廟 「鎖南枝」「山披羊」

建文 ●永楽 洪 照 年 間 (1399‑ 1425 )

正 徳 年 間 (1506‑ 1521 )

宣 徳 . 正統

年 間

(14 26 ̄1449 )

抄関 (宣徳 4 年 創設)

幕 靖 年 間

慶成婁 (嘉靖 4 年) 忠靖冠 (義時 7 年) (1522‑ 1566 ) 金華酒、瓦栃帽、乾生子

書帖、海抜戯、「羅江怨」

景 泰 . 天順

年 間

(145 0‑ 1464 )

皇庄 (天順 8 年〜 )

隆 慶 年 間 (1567‑ 1572 )

帯地嬬分心

成 化 年 間 (1465 ‑ 14 87 )

馬価銀 (成化 2 年 )

万 層 年 間 (1573 ‑ 1619 )

富者堂 「韓湘子昇仙記 」「双忠記」

三辺総督 (成化 10年 ) を刊行○

楊柔勝 (万暦 10年前 後在世) の

「玉環記」

手本、「掛其児」

さて︑これらの用語を細かく観察すると︑明らかになってくる

ことがある︒それは︑まず﹁金瓶梅﹂に描かれた時代がある程度

推測できることと︑これらの言葉を駆使した作者についても凡そ

の見当がついてくることである︒

まず︑﹁金瓶梅﹂に描かれた時代について言えば︑さきに提示

した表を一見してもわかる通り︑凡そ嘉靖年間に用語が集中して

いる︒確かに︑万暦年間にも富春堂刊行の戯曲だとか︑俗曲﹁掛

真児﹂とかといったものがあるが︑これらは︑いずれもあまりはっ

きりとした決め手にはならないと思う︒それは︑戯曲の場合につ

いて言うならば︑富春堂が刊行する前にすでに別の書封によって

刊行されていたかもしれないからである︒例えば︑桃茂貞の﹁双

忠記﹂について言うならば︑桃茂貞はすでに見たように成化年間

(1四六五‑1四八七)の人である.ところが︑万暦(1五七三‑

ハ1九)になって宮春堂からこの戯曲が刊行されるまで約百年

の年月があるのであり︑この間に全然当該戯曲が印刷物にならな

かったとは考えに‑い︒また俗曲の流行について言えば︑俗曲と

いうものは︑いつとはなしに流行Lだしまたはやらなくなるもの

で︑せいぜい某時代前後に流行していた曲とぐらいしか言えない︒

つまり︑年代の確定にはあまりたよりにならないのである︒従っ

て︑用語から見る限り︑嘉靖から万暦初年あたりが︑この小説の

時代背景となっていると言うぐらいが妥当な所ではなかろうか︒

(17)

次に︑やはりこれまでの用語から︑作者の素姓をいささか探っ

てみたい︒すでに見てきたように︑本作品には︑本兵とか冬曹・

京堂といった官界用語がよく使われていることがまず注目される︒

このことから作者は官界のことにある程度の知識を有していた人

物ではなかったかと思われる︒92回に︑呉月娘が女婿陳経済の無

法を滑河県庁に訴えでる段がある︒知県の甚大立が白洲に出てみ

て呉月娘の姿を観察してみると︑

﹁身には白綿の上着をまとって︑下に喪の裸子をつけた位五品

の官吏の夫人︑端正な顔だちに閑雅な姿をしていた﹂

と書いてある︒作者は︑呉月娘の亡夫西門慶のついていた千戸

職の位が五品であることを知っていたことが︑これで判る︒

この外にも︑かって筆者が論じたように︑作者は︑明代の補服

制度のことにも暗くなく︑また作品の各所に点描されている官界

*i

諸君の動向も整然と書かれていることからして︑作者は︑自らが

官途経験者であったか︑それとも官途の経験こそないけれども何

らかの理由で相当官界のことに通じていた人だったのではないか

と推測されるのである︒

次に︑地名から作者の素姓に迫ってみよう︒まず︑6 5回に提学

副使として登場する陳正嚢の本籍が︑河南郡城県であるとしてい

る点に注目したい︒実は︑郡城県とは︑山東省東昌府濃州治下の

地名で︑河南とはまったく関係がない︒他方︑陳正嚢とは︑実在

の人物で︑有名な陳確の息子である︒﹁宋史﹂巻三四五にはこの

親子の伝説がある︒それを見ると︑二人の本籍は南剣州(福建)

﹁金瓶梅﹂に見える明代の用語について

となっているのである︒つまり︑河南郡城県を陳正集の本籍だと する作者は︑二重の誤りを犯しているわけだが︑しかし︑実にこ のことからして︑作者は郵城県という山東省のうちの細い地名を 知っていたということが判るのである︒また9 9回には︑臨清州な る地名が突如として1ヶ所現われる︒それまでこの小説では︑5 回・77回・8 1回・93回と︑いずれも臨清とのみ書かれていた︒そ れをここであらたまって︑臨清州と正式の地名を書いているのは︑ この部分を筆をとって書いた者が︑或いは臨清に住んでいたこと のあった人間ではなかったかということを疑わせしめるものであ る︒また︑9 3回にこの臨清の街にかかる橋として広済間大橋なる 語が見えるが︑巳に見たように︑﹁臨清州志﹂により果たして明 代に臨清の街に広済橋なる橋のあったことが確認された︒この事 実からしても一層︑作者臨清在住の疑いが深まるのである︒

臨清という街は︑運河の発達に伴い︑明代中期以降急速に発展

した街で︑税関が置かれていたこともすでに述べた︒作者は︑山

東省のかなり細い地名も知っていたと同時に︑運河沿いの地名も

よく知っていて︑作中書き加えている︒例えば︑6 8回︑工部郎中

の安枕の言葉の中には︑瓜州・南旺・清頭・魚台・徐(州)・柿

(輿)・呂梁・安陵・済寧・宿遷・臨清・新河等の地名が出て‑る

のがそれである︒また作中には︑これとは別に︑妙関とか︑頭水

船とか︑漕運総兵官といった漕運に関する専門の用語が使われて

いるのは︑すでに見た通りである︒これらのことからして︑作者

は︑漕運に関し何がしかの知識を持っていたことが疑われるので

三五

参照

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