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雑誌「現代」における施蟄存そして劉吶鴎

著者 齋藤 敏康

雑誌名 静岡大学教養部研究報告. 人文・社会科学篇

巻 24

号 2

ページ 157‑197

発行年 1989‑03‑10

出版者 静岡大学教養部

URL http://doi.org/10.14945/00008508

(2)

雑誌﹁現代﹂における施蟄存そして劉晒鴎

一 はじめにー﹁現代﹂の位相

 ﹁現代﹂という雑誌は︑これまで第三種人論争との関連でのみ取り上げられることが多かった︒竹内実氏﹁第三種

人をめぐる論争﹂︵﹃東洋文化﹄四一︑一九六六・三︶は︑当時あたうかぎりの資料によって第三種人論争の経過を跡

づけた論稿であったが︑﹁現代﹂に載る論文が多くを占めており︑そこでは︑所謂第三種人派の様々な議論と関わらせ

て︑﹁現代﹂の性格に言及がなされている︒前田利昭氏﹁﹃第三種人﹄論争における凋雪峯1および﹃中間派﹄文学

者をめぐってー﹂︵﹃東洋文化﹄五六︑ 九七六・三︶も﹁現代﹂に拠って第三種人論を展開したイデオローグたち

について述べているが︑第三種人論を軸に︑その性格は一律ではなかったという形で施蟄存たちについて考察を行っ

ている︒そうした先行研究を承けて︑谷行博氏﹁﹃第三種人﹄論争の問題点ー穆時英を中心にー﹂︵﹃野草﹄二九︑

一九八二・五︶は︑実は﹁現代﹂の作家たちについてしごく真当かつ適切な見方を提示していた︒

  ﹁第三種人﹄論争を内在的に把握するためには︑﹁第三種人﹂側に属すると考えられる作家の作品世界を対象化し

 て検証することによって︑その内面の論理的心理的過程を照らし出しておくことが前提となる︒従来の﹁第三種人﹂

 論争に関する考察では︑このような方法的手順はほとんど問題とならなかった︒︵中略︶﹁第三種人﹂の範囲をどう

      一五七

(3)

一五八

定めるかという問題を含めて︑これらの人々の作品を言葉として読んで検討︑批判を加えるということは︑これま

 で試みられることがなかったのである︒

 こうした見方に立って︑谷氏は︑第三種人論争に関わる重要な作家として穆時英を取り上げ︑小説作口囎を介在させ

た第三種人論の把握を試みる︒私は︑その論としての当否には異論をもつ部分があるが︑それにも拘らず茂が︑作品

と論争について﹁論争が作品から問題を引き出し︑同時に意識化された問題は作品に反映されるという可逆的な関係

があったのにちがいないのである﹂と述べる時︑その見通しは妥当なものであろうと思う︒確かに︑作家の側からす

れぼ・かれによって﹁意識化﹂された社会的現実を︑作品に反映しうると判断した時に︑現実との緊張関係の中では

じめて作品のモチーフが浮かび上がってくるものであろう︒作家とは︑そのようにして現実の世界を自己の想像や思

考によって濾過し︑作品に結晶化させていく存在なのだから︑作品評価を脇に置いたままで︑作家の時代認識や自己

評価を問題にすることは︑畢寛︑不十分の諦りを免れない︒その意味で﹁第三種人﹂派︑あるいは﹁現代﹂派の文学

的評価のためには︑かれらが仮構した文学的世界の全貌を把握することが不可欠である︒

 ﹁現代﹂の文学とはーiそれは︑後述するように施蟄存︑杜衡︑劉哨鴎︑穆時英らの文学を指すがーひと言でい

えば中国における現代主義︵モダニズム︶の文学と言うことができる︒﹁無軌列車﹂から﹁新文学﹂を経て﹁現代﹂へ

と続く中国の現代主義文学の系譜は二〇〜三〇年代中国文学の潮流の中でも際立って異質な︑あるいは特徴的な文学

世界を形成している︒しかも当時の世界的な文学思潮を背景におきながら︑それは︑中国の社会的︑思想的現実をこ

れまでとは違ったあり方で鋭く把握しようとする作家たちの文学的営為の賜物としてあったのであり︑しかも確かに

一定の成果と意味を主張しえていたと考えられる︒

 中国の現代主義文学が二十世紀にはいって以降の︑主として西欧の︑そしてそれを受容した臼本のモダニズム文学

(4)

の手法や感覚に多くを負い︑それらを受容しつつ中国の現実をみつめようとしたことも言を待たない︒﹁現代﹂を読み

進めていくと︑そこにはフランス︑ドイツ︑イギリスの現代派文学の系統的な紹介︑及び臼本の文学作晶の翻訳など

の特徴が顕著である︒つまり︑そうした多面的な志向と多彩な仕事を包みこんで︑三〇年代における﹁現代﹂派は︑

成立してきているのであって︑それらは︑かれらの事績に即して多面的な位相において先ず問題にされなければなら

ないと思うのである︒

 就中︑日本文学との関係について言えば︑施蟄存が編集の責を辞した第六巻も含めて︑﹁現代﹂が日本文学あるいは        ヱ  日本の文壇について翻訳︑紹介した文献点数は全部で二五篇ある︒その傾向を一律に断定することはできないが︑量

的にもまた内容的にも重要な部分を占めるのは︑プロレタリア文学系の作品   阿部知一一︑中野重治︑小林多喜二︑

中条百合子   と︑新感覚派の作家   池谷信三郎︑十一谷義三郎︑横光利一   であろう︒とくに高明が新

感覚派をかなり系統的に紹介しているのは注目してよい︒このことと二〇年代後半に劉噛鴎らが新感覚派文学を受容

していることを考え合わせると︑そこから発して︑﹁現代﹂に至るまで︑新感覚派の影響は︑少なくとも劉晒鴎︑穆時

英などにとっては︑かれらの文学の基本的性格に関わるところで存在していたと考えてよさそうである︒ここでは︑

そうした比較文学的検討を本旨とするわけではないが︑中国の現代主義文学を扱うに当たって︑日本の新感覚派を比

較︑対照的に念頭に置いておくことは必要な配慮であると思われる︒

二  ﹁現代﹂と施蟄存︑劉納鴎︑穆時英

現代主義作家として同時代において注目され︑かつ ﹁現代﹂誌の評価に影響を与えるような仕事をしたのは︑

      一五九 第三

(5)

       一六〇

      ハ   種人論争で活躍した杜衡を除けば︑まず︑施蟄存であり続いて劉晒鴎︑穆時英であろう︒そのうち︑劉晒鴎は︑新感

覚派文学の最も熱心な移入者でありながら︑﹁現代﹂に載った作晶は意外に少ない︒小説では﹁赤道下﹂一篇のみであ

り・他に注ωの⑧及び⑳の翻訳があるだけである︒これには一九三二年一月二八日の上海事変によって水沫書店が焼

失した後・再び日本に渡ってしまったというかれ自身の事情があずかって大きいのだが︑二〇年代の終わりに小説集

蔀颪景線﹂において示した文学的特質を更に業する︑作家としての執念を彼が讐ム.わ譜いなかった.︑とも

事実であろう・ここでは﹁赤道下﹂を考察の対象とし︑併せて房甕蒼騨§§︒§節亀﹂に量笈したい︒

 施蟄存は主編であっただけでに少なくない文章を﹁現代﹂に載せているび署名のある点数では︑﹁創刊宣養岡﹂を含め

て二二篇に上る・その他に毎号の﹁社中日記﹂﹁編集座談﹂などと題される編集後記の一部または全部を執筆している︒

しかしその内・小説に限ってみれば多くはなく︑﹁残秋的下弦月﹂﹁薄暮的舞女﹂﹁四喜子的生意﹂﹁汽車路﹂の四篇に

とどまる︒しかもその作風は劉晒鴎らと異なってシュニッツラーやフロイト学説の影響を受けて心理主義的な色彩を

帯びる︒そのように新感覚派の場合と同じように︑現代派においても︑その意匠は作家によって異なるとともに変化

も認められる︒施蟄存の場合も︑横光利一の作風と比較的似たところがあって︑一一〇〜三〇年代という時代の雰囲気

とそこにおける知識人の渇いた心象風景を粘着性の少ない都市的な文学に結晶させていったと言える︒印象論的に雷

えば・たとえば施蟄存の﹁石秀﹂や﹁鳩摩羅什﹂などの歴史小説と︑横光の﹁日輪﹂は︑ある意味で同質性の高い作

品であると思われる︒

 なお︑附言しておくと︑﹁現代﹂に最も多く小説を発表しているのは穆時英である︒施蟄存の推奨の言もみえる創刊

号の﹁公墓﹂をはじめとして︑﹁玲子﹂に至るまでに十二篇︒かれは二〇年代から施蟄存を中心とする同人に加わって

いたのではないが︑﹁新文芸﹂に処女作﹁黒旋風﹂を投稿して施蟄存に認められ︑続いて出世作﹁南北極﹂が施蟄存の

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      バみ  推薦を得て︑﹁小説月報﹂に載せられたことを契機にして︑施蟄存の下で︑﹁現代﹂の中心的な作家になっていく︒し

かも劉納鴎が︑みずから受容した新感覚派文学を中国において展開させぬままに実質的に欄筆してしまった後は︑穆

時英が︑中国における﹁新感覚派﹂を継承する作家として注目されるようになる︒事実︑作品を通読して︑新感覚派

の影響は穆時英に最も強いと言いうる︒新感覚派のもつ風俗小説的なある種の軽薄さや底の浅さまでも含めてそのこ

とは指摘できるのであって︑新感覚派との比較という点に焦点を絞れば︑やはり穆時英についてみることが必要であ

るが︑これについては別稿を用意したい︒

 その他に﹁現代﹂誌︑あるいは現代主義文学の意味などを考える上で︑杜衡︑胡秋原︑林徽音︑徐霞村︑戴望野︑

李金髪などが﹁現代﹂に登載する作品点数も多く︑今後考察の対象となろう︒

三 中国における現代主義文学の軌跡

 ここでは︑劉晒鴎と施蟄存の経歴を中心にして二〇年代後半から︑三二年の﹁現代﹂創刊に至る︑中国の現代主義

文学派の成立過程を簡単に押さえておきたい︒

 劉醜鴎︵一九〇〇〜一九三九︶︒筆名は劉燦波︑洛生︑鴎外鴎など︒台湾省台南の人であるが︑日本で育ち︑青山学

院英文科︑慶応大学に学ぶ︒その後︑帰国して一九二五年︑上海震旦大学仏文特別班にはいる︒この特別班というの

は一年制で︑主としてフランスへ留学する者のための語学集中学習コースであり︑勉強は相当きつかったようである

が︑ここで杜衡︑施蟄存︑戴望野と相識るようになる︒﹁現代﹂にまで引き継がれていく施蟄存を中心とするグループ

の原型がここに成立する︒

      一六一

(7)

一六二

 二六年特別班を終えた後︑再び渡日して新感覚派文学やプロレタリア文学を読み︑その影饗を受けて二八年に上海

へ帰るや︑事業家的才覚と資金力にものをいわせて﹁第一線書店﹂を設立し﹁無軌列車﹂︵半月刊︑一期〜八期︶を刊

行する︒この雑誌の特約執筆者として戴望野︑施蟄存︑杜衡の他に徐霞村︑林徽音が加わり︑﹁現代﹂派の人脈が次第

に形成されていく︒次いで一九二九年︑﹁第一線書店﹂及び﹁無軌列車﹂が左翼的と見倣されて閉鎖︑廃刊に追い込ま

れたのを承けて︑こんどは﹁水沫書店﹂をおこし﹁マルクス主義文芸論叢﹂︵後に﹁科学的芸術論叢﹂︶を刊行するが︑

その中にはフリーチェ﹁芸術社会学﹂や新感覚派小説のアンソロジーである﹁色情文化﹂の翻訳が含まれていた︒

  劉晒鴎は日本で出版された文芸新書を沢山もってきた︒その中には︑日本の文壇の新しい傾向の作品︑たとえば

 横光利一︑川端康成︑谷崎潤一郎等の小説︑文学史︑文芸理論分野のもの︑すなわち未来派︑表現派︑超現実派に

 関するものや︑史的唯物論の観点を応用した文芸理論の著作と新聞があった︒日本の文芸界では︑五光十色のあら

 ゆる文芸新流派は︑反伝統的でありさえすればすべて新興文学であるらしかった︒劉噛鴎はフリーチェの﹁芸術社

 会学﹂を推奨していたが︑かれが最も好んだのはむしろ大都会の色情的生活を描いた作品であった︒かれにあっπ

 は・そこに矛盾があるとは感じられていなかった︒というのは︑日本の文芸界について言えば新興4であるもの

 はすべて異端であったから︒共通しているのは創作方法あるいは批評の基準において新基軸を出していたこと

 であって・各々思想的傾向と社会的意味には相違があった︒劉哨鴎のこうした観点は︑われわれにも影響がなくは       ハお   なかったのであって︑われわれの文芸に対する認識を非常に混沌たるものにした︒

 このように︑劉廟鴎の持ち込んだ日本の文学書は施蟄存らに対しても小さくない影響を与えていた︒

 一九三三年には﹁現代電影﹂︵一期〜七期︶も発行している︒一般に現代主義文学の叙述には︑当時興隆してきた映       ハ   画芸術と結びついて︑映画的手法が相当広範囲に取りいれられているところからみて︑映画との関連や︑当時の新興

(8)

芸術運動の全般を窺うためにも︑この雑誌は重要なのであるが︑今のところ所蔵している上海科技図書館は復印を許

さず︑従って未見である︒

 三二年一月の上海事変で水沫書店が焼失したのを機会に︑劉噛鴎は日本に逃れ︑﹁現代﹂にも作品をほとんど発表し

なくなった︒三九年︑南京の注精衛政府の下で﹁文涯報﹂社の社長に就任を予定されていたが︑﹁経済的﹂ないざこざ       ︵7︶ が原因で黄金柴︑杜月笙の青幕か紅帯に暗殺されたとされる︒

 劉晒鴎の代表作は﹁都市風景線﹂︵一九三〇・四︶であるが該作品を中心としたこのアンソロジi全体が現在のとこ

ろ未見である︒現在︑読むことができる小説は︑﹁赤道下﹂﹁>U効身8凶①の℃曜o¢O鶴ヨ℃磐矯﹂のほか︑﹁熱情之骨﹂       ︵g︶ ﹁爾個時間的不感症者﹂などである︒その他︑﹁遊戯﹂﹁礼儀和衛生﹂﹁流﹂などの小説には︑速いリズムが躍動する手       ︵9︶ 法︑意識の流れ︑心理分析︑象微調喩の手法が多用されているという︒

 次に施蟄存︵一九〇五〜︶は杭州之江大学を卒業後︑一九二三年︑上海大学に学ぶが︑その折︑丁玲とも面識をもっ

た︒二六年︑震旦大学仏文特劉班に入学︑フランス語を修得してフランスに留学する抱負をもっていた︒震旦大学在

学中に﹁瑚路旬刊︵一九二六︑一期〜三期﹀を発行したことを契⁝機にして前述したような施蟄存を中心としたグルー

プが形成される︒二五年秋から冬の問に共産主義青年団に加入するが︑二七年の四・一一一クーデタ後退団︑松江で中

学教師を始める︒二八年以降︑教師を続けながら︑劉噛鴎に請われて﹁無軌列車﹂の編集をするのを手始めに︑二九

年九月には﹁新文芸﹂を創刊するなど編集︑出版にも携わる︒﹁新文芸﹂は施蟄存の他︑徐霞村︑劉哨鴎︑戴望飾が編

集に当たり︑三十年の夏までに八号を発行した︒

 二七年に︑震旦のメンバーのうち戴望野だけが北京大学に進んで文学研究を志すが︑その年の十二月︑望寄の紹介

で上海に来た福雪峰と識⁝り合う︒

       一六三

(9)

一六四

  この時︑かれ︵戴望野︶は︑一群の作品を書き始めようとしている文学青年たちと知り合い︑手紙を寄こすごと

 に︑何人かの新しい名前を識していた︒その申には︑挑蓬子︑漏至︑魏金枝︑沈従文︑濡雪峰らがいた︒葬原︑況

 鍾両社の人々とはほとんど知り合いになっていた︒丁泳之は上海大学のクラスメートで元々知っていたが︑今度は       ハ    北京で再会し丁泳之を介して胡也頻を知った︒

 一九二七年という年は︑それまで北京で活躍をしていた作家が︑大挙して上海に赴き︑加えて四︑=一クーデタ以

後︑国民革命に従っていた作家などが租界に逃げ込むということがあって︑上海が︑五︒四運動以来の伝統をもつ新

文学の中心になっていった年である︒しかもそこでは︑革命文学論争に端を発して︑現代主義の一流派とも言えるプ

ロレタリア文学が俄かに勃興してきたから︑文壇全体がその影響を受けて一種の混濡状態を呈していた︒従って明確

にプロレタリア文学に立つ党員作家の濡雪峰が﹁新文芸﹂派の人々と親しく交わったり︑﹁新文芸﹂に魯迅のマルクス

主義文芸論の翻訳が載るというような状況も起こり得た︒施蟄存︑劉哨鴎︑戴望野らもプロレタリア文学には親近感        ロ  を持っており︑謂わば互いに自己の立場を保持しながら︑お互いを認め合っていたといえる︒そのため凋雪峰の薦め        ハぬ  もあって︑三十年三月に左朕が成立すると︑﹁新文芸﹂は左醗を支持する立場を明らかにする︒

 一九三一年春に水沫書店は東華書店と改め︑戴望寄が主編に任ずる︒施蟄存は︑この頃に﹁孔雀謄﹂﹁石秀﹂﹁在巴

黎大戯院﹂﹁魔道﹂等の小説を﹁小説月報﹂や﹁文芸月刊﹂などに続々と発表している︒しかし︑上海の文芸状況全体

からみると︑この時期は︑国民党の言論出版規制が強化されて︑左朕に対する弾圧が激しくなったために︑﹁拓荒者﹂

や﹁大衆文芸﹂など左朕系の刊行物が次々に停刊に追いこまれている︒そのため︑これらの左派系の雑誌を多く出版

していた現代書局も︑﹁民族主義文学﹂を標榜する雑誌﹁前鋒﹂を発行せざるを得なかった︒そうすると︑これに対し

て・今度は左翼の側から反発が起こり︑三一年五月三日には︑客を装った数十人の左翼の若者によって︑現代︑光華

(10)

       ハおり の両書局が襲われ︑店が荒された上︑﹁前鋒﹂﹁南国﹂などの雑誌が引きちぎられるという事件まで起こっている︒そ

こで現代書局の洪雪帆と張静鷹は︑政治的に中立の雑誌をと考えて﹁左翼作家ではなく︑また国民党とも無関係で︑

かつ私︵施蟄存︶が・文芸刊行物の璽をした叢があ亀ことから︑施馨を主編に迎えてh三二年五月百︑現

代﹂を創刊するのである︒その際に︑文学上の思潮︑主義あるいは党派を形成しないことを内客とする﹁創刊宣雷﹂       ハお  は・﹁政治的傾向を鮮明にした刊行物であるために経済的損失を招かない保障として﹂経営サイドからも必要だったと

いう事情もあったのである︒

 さて・劉晒鴎や施蟄存の個人的な閲歴に即して﹁現代﹂創刊に至るまでの歩みを素描すれば︑以上のようになると

しても︑一九二〇年代後半の︑特に上海という国際都市から中国の現代主義文学の狐々の声があがるという事情につ

いては・もう少し︑グローバルな視角からの検討を必要とする︒例えぼ︑日本において︑新感覚派のような文学はど

のような時代情況を背景としておこったのか︑一般には次のように説明されているとみてよいだろう︒

  関東大震災による荒廃︑そして︑それに続く復興の時代は︑それ以前とは全く違った様々な新しいものが出現し︑

人々のそれまでの価値観を憂してしまった︒ラジオや映画︑自動車や飛行機が人々の眼にふれるようになり︑銀

座にはダンスホんやカフェが並び︑アメリカの映画に影響をうけた断髪でシ・ートス空トのモダンガん︵モ

 ガ︶やモダンボーイ︵モボ︶がわがもの顔に闊歩していた︒街にはジャズが鳴りレビューでは踊り子たちが脚線美

 を披露し・カジノには人々がむらがっていた︒こうしたアメリカニズムの影響を受けた軽桃浮薄な風俗は︑エロと

 呼ばれ・エロがエスカレート七てグロになり︑ナンセンスとなって︑エロ︑グロ︑ナンセンスの時代と呼ばれるよ

 うになっていった︒こうした社会風俗を新興芸術派の作家たちは文学の中に積極的にとり入れていった︒︵中略︶都

 会的風景を描き・瀧動︑カフェなどに出入りする主人公たちを設定し︑官能的︑享楽的な題材を好んでとり入れて

      一六五

(11)

       一六六        ︵16︶  行ったのである︒

 勿論︑感覚の中から﹁生活と運命を象徴した哲学﹂を湧き出させようとした横光利一らが︑こうしたジャーナリス

ティックなモダニズムの狂乱と同じ次元に立っていたとは言えないが︑この同時代を生きる人々の精神生活と風俗を︑

新しい文学的感覚と技法︑文体によって文学に反映させようとしたことは事実であろう︒また︑表層的な風俗︑世相

の変化が深部におけるどのような変化の反映であり︑実現であり︑また予兆なのか︑それらがどのようにして都市的

な人々の感情や思想の変容を促すのか︑その点は︑資本主義的な都市の本質に関わる問題として考察を深める必要は

あろう︒しかしそれにしても︑関東大震災以後の菓京は︑同じ大都会でありながら国際的に置かれていた位置は異な

るとしても︑同時代の上海を彷彿とさせる︒震災後の東京が現出させていた現象や情況は︑当時︑上海で革命文学派

がもっていた情況認識︑抱いていた危機感と驚く程重なり合う側齎をもっている︒例えば︑由稚吾は次のように述べ

ていた︒   所謂︑革命的ロマンスと浅薄なモダニズムは︑現代中国の都会青年のはだに合っている︒しかも︑それは新文学

 が形成される時期の必然的な段階である︒しかしまたロシア︑ドイツの味気ないliこの時代の味気ないーー護孚

 畠餌昆ωヨも︑より多く吸収しないといけない︒アメリカ式のモダニズムに市場を独占させて︑半資本主義社会の中

 国青年をして我を忘れさせ︑毎日︑モダンガールと百貨店の幻夢の中に沈酔させてはならな漣︒

 ここには︑文学の大衆化という課題を前にして︑左翼文学がモダニズム文化に対して抱いている焦りの感情があら

われている︒モダニズムの隆盛は︑二〇年代の日中の同時代的現象であった︒そうした時代情況の影響は︑極めて広

範に亙っており︑中国の場合は︑茅盾の﹁子夜﹂をめぐるところまでも及んでいるだろうと思う︒﹁子夜﹂も都市的な

風俗の再現とその表現という点から観れば︑一種のモダニズム文学であるという側面も浮かび上ってくるのではなか

(12)

ろうか︒こうした時代のもつ意味を︑渡辺↓民氏﹁上海 をめぐって︵噂は・精確に捉えているだろうと思う︒

四  ﹁残秋的下弦月﹂論

 施蟄存︑劉哨鴎ら現代主義の作家たちは︑本来的に都市的な人間として育ち︑近代都市空間に生起する様々な景物

と人間像を自己の文学的表象として蓄えてきた︒それと同時に︑都市的生活の中で︑生活の情調を表現すべく意匠を

凝らす過程で︑都市のリズムと人間的抑欝に対応する文体の獲得をもめざしていた︒そうした作家主体の形成と描か

るべき新しい世界の存在が︑かられに可能性と展望を与え︑かれらは︑自分たちの時代の感性を表現しえない伝統文

学に対する否定を跳躍台として独自な文学世界を造形していったと言える︒そのような感性と意匠をどこまで掬いう

るか心許ないが︑次に﹁現代﹂に載る施蟄存と劉晒鴎の小説について考えていきたい︒

夕陽從屋脊上消隠下去︑小小的庭院中蹄於寂静了︒

 ﹁残秋的下弦月﹂は物語全体の情調を暗示するこの印象的な文章から始まる︒﹁消隠﹂の消〃は︑消煙︑消融のよ

うに・煙︑雪などが消える意に多く用いるが︑夕陽に使うと︑強い喪失の感じが表わされるように思う︒消隠は︑そ

のように陽の光が失われ︑幽暗の気配の訪れを想像させる︒﹁齢於﹂には︑一途にそこに集中し︑帰着するという語感

があって︑一文は全体として︑静寂が小さな庭に濃く深く漂うさまを彷彿とさせる︒

 物語は︑病床に臥せる妻と︑その妻を看病しつつ小説の筆をとる夫との一時のささやかな交渉が︑二人を結ぶ紐帯

の喪失と幽暗の気配のうちに淡々と描き出される︒夫は今︑裁判所の記録を仮構しようとして焦慮している︒そこへ︑

      一六七

(13)

       六八

妻は夫との過去の思い出話を播みこんで彼の思考を申断させる︒

  ーー給我一杯茶喝︒

  他攣更了行程︑向茶几上斜了一杯茶︑遽到淋前去︒但依藷況獣着茶杯離開姫底階還有一一三尺︑他不再送近去了︒

  地也並不坐起身來︒也不從棉被裏伸出手來接了杯去︒地疑問似地看着他   i忽麿螂?

  f忽慶嚇?

  ー像爲什麿不倣聲?

  i倣什慶聲?給休斜茶就是了︒

  i這様看來︑称好像有些不願意的⁝様子︒

  是在挑戦了鳴?正煩悩於思緒不屡的丈夫︑聴了病的妻子底多疑的話︑更不愉快了︒但是︑他没有忘記了自己是個

  有酒養的人︑嚥了一口唾水之後︑説道:

  i嗜︑並没有那種奇特的意見胴︒

  但是飽並不放霧他︒

  ー又要強辮了囑?錐然身髄是病了︑但眼晴還根不錯咤︒

  他畳得没有再答話的可能了︒他把茶杯放在鉢邊的小圓粟上︑侃又同到他底原稿紙馨邊去了︒假設要描爲一個審判

 廃裏的録事⁝⁝他開始運用他底拶筋︒

 このように夫婦の心は︑どこまでも別々の思いに引き裂かれていて︑共通の意志や目的に向けて共鴫し合うような

関係にない︒弾性を失って萎んでしまった感情︑緊張の糸の切れたような心理的やりとりのうちには︑惰性と倦怠が

(14)

あるだけである︒施蟄存は︑そうした夫婦の心理的関係を︑おそらくかれがジュリアン・グリーンなどを読むことに

よって得たところのアンニュイな情緒として描き出したかったのかも知れない︒

 しかし︑このように夫婦の感情が冷えている原因は︑実は采采という子が死亡し︑そのことから二人の間に︑とく

に妻に精神的な落胆と喪失感のあることが結末近くになって突然明らかにされる︒

  1我看見了采采了︒

  他突然感到一陣恐怖︒他走到躰邊︑凝看着姥︑好像姻瞼上浮現着邪氣似的︒

  1忽磨︑祢説什磨?

  i我説嘱?⁝⁝⁝我好像看見了采采︒

  II胡説!這是胡説!休一定是想起了地!

  ー但是我個幾時給姻埋葬幌?

  i等休病好了!

  他是恐怖︑憎厭︑又煩悩︑所以語氣不免粗暴了︒

  il峨︒地漫慮着︑又況思似地凝看着天花板︑濁白似地説:1我椚要葬得地恨美麗鳴︒墳上一定要一個小天使

 的︑那種外國該子墳上的小天使石像要多少銭一個幌?

   1不要想到這些!到了那個時候再想!再問!現在称鷹該睡着了︒

 だが萎は︑采采のために美しい墓を作ってやろう︑白い石を切り出し︑美しい花々を植えよう︑晩には︑月光が墓

石を照らすだろう︑と彼女の想いを語り続ける︒そしてやがていつの間にか眠りに就いた妻の寝顔は︑灯を消して暗

くした部屋に差し込む残秋の下弦月を受けて緋紅の頬に微笑を浮かべているのだった︒

       一六九

(15)

一七〇

 気弱な妻は生活への意欲を失っている︒不幸な采采を燐れみ︑現実には満たされない幸せの代償を空想に求め︑逃

避し︑諦めと死への憧れをさえ示す︒今や死は︑妻にとって心地よい思い出のうちに采采と一体になる方途である︒

しかし︑このように落魂した妻は︑夫としてはなんとも重荷である︒かれの焦躁は単に妻や仕事のためだけではなく︑

采采の死による重い悲しみが意識の底に伏在していることの表われでもある︒ただかれはやはり︑病気の妻のために

あ暮らしということに︑あるいは生きるための日常に心を砕かざるをえない︑夫にとっては︑いつ象でも過去に恋々

として傷ついている妻は︑もどかしく︑腹だたしいのだが︑勿論それは堕や硬直化してしまったとはいえ︑妻に対す

るいとおしさの感情の形を変えた流露でもあるのだ︒こうして︑寝入った妻の掛け布団をなおしながら漏らす夫の嘆

息には︑悲しさとやりきれなさがない交ぜになっており︑小市民の日常的な感情としてごく実感的である︒

 次に表現に関わっていくつかの特徴について考えてみたい︒

  執着一九三一年型的珠光的派克筆︑筆尖指着粟上鋪着的一張四百字的原稿紙底第二行第三格︑書着虚空的圏子︒

 冒頭︑妻の横で夫が机に向かっている場面であるが︑ペン先が机上の原稿用紙の二行目第三コマにあって意味のな

い丸印を識していたという描写は沈思する夫の姿と心理を表現して鮮やかである︒だがここで﹁一九三一年型の真珠

色のパーカーを執りながらしと︑謂わばさりげなく小道具を示してみせている︒それはニュータイプなのだ︒垢抜け

ていて︑都会的なセンス︒かれの社会的ステータスをはっきりと印象づける︒一般的に万年筆ではなく︑ここでは最

新型の真珠色のパーカーでなければならない︒施蟄存らの小説の新しさは︑ひとうにはこうし︑たモダンな景物を意識

的に作品に取り込み︑それにある意味を担せたという点にある︒また︑

  但是︑這個聲音都使他開始感贅到室内巳経完全黒暗了︒這巳経是没有燈火不能篤字的時候了︒

   あるいは︑

(16)

  用鼻子倣出來的冷笑的聲音從躰上畿出来︒他畳得鷹該進一歩地解繹這個不幸的誤會了︒

 といった表現︒これらはいずれも妻から発せられた声が夫の心に突き刺さり︑心の変容を促していくさまを表現し

ている︒  ﹁この声﹂というのは︑﹁天又夜了﹂という妻の何気ないひと言である︒声〃が暗くなったこと〃を感じさせ

るのである︒普通︑机に向かっているものが暗くなったことを感じるのは︑その視覚によってであろう︒声が感じ

させるという表現を取って示されようとしている事は︑暗くなったという事実ではなくて︑机に向かっていながら仕

事に集中しておらず︑なにか帳然として浮遊したような夫の心的情況なのである︒       ︑

 ﹁鼻でつくった冷笑しという表現も面白い︒しかも︑それを妻が発したとするのではなく︑﹁ベッドの上から発せら

れた﹂と・声を発する主体の側からではなく︑それを受けとめる客体の感覚において捉えさせていること︑そうした︑

科白を介在させての焦点の移動が興味深い︒例えば︑これを映画の一シーンに移してみよう︒病床に横たわる妻にカ

メラの焦点を当てて︑彼女が冷笑するのを捉えようとすれば︑目の前で行われたひとつの行為として︑それはまさし

く写実である︒妻の心のありようがその表情に浮かんでいるかもしれない︒しかし︑もしこの﹁冷笑﹂を発する妻の

姿が直接画面にはなく︑あっても小さくぼやけた地点に置かれて︑それを受けとめる夫が大映しになるという構図で

あるとすると・その﹁冷笑﹂は全く別の意味と機能を持ってくる︒それは︑受けとめる側の意識や心理に一旦吸収さ

れ・夫の心理的なコンテキストの中で︑かれの意識や心理の変容−軽いとまどいや苛立ちなどのーを伴いながら

観る者に届けられる︒そこでは︑﹁冷笑﹂が発せられたという一次的意味は次要の位置に退き︑それを夫がどのように

受けとめたのかということが重要になってくるだろう︒施蟄存による感性の表現は︑このように︑絶えず他者の発語︑

行為を一旦受けとめて︑それを主体の感性によって濾過させるような視点の設定や描写方法によってなされるのであ

       一七一

(17)

一七二

る︒﹁感覚到﹂﹁覚得﹂﹁想着﹂といった動詞や︑感情表現を表す語彙の頻用というかれの描写上の特徴は︑このことと

深く関わっている︒

 さらに︑意象を駆使することもその特徴のひとつであろう︒一篇の最後は次のように綴られる︒

  地已経睡熟了︒爾頬顯着緋紅顔色︒微笑着︑好像還在承受月的光︒又好像還在妄想着在花醐石上穿鮭子︑坐了馬

 車玩公園︑和采采的美麗的墳︒

 緋紅色の頬と月光︑花闘岩と美しい墓と︒現実と夢あるいは幻想との交差の中に寂しい妻の心象風景が浮かびあが

る︒

今少し敷行すると・施蟄存に慧象樗醇連伶五首がある・﹁夏呆景﹂と題する︑その一節︒

  夜的極司斐爾公園︑

  満是絨黙的鰹子︒

  在月光的海水裏︑

  投露了繊痩的素足︑

  來來往往地

  浮況在行藻︒

 ジェスフィールド公園は洗練された上海の象徴である︒外来語が原語のままで頻用され︑エキゾチシズムを醸し出

す︒煙子はまき貝︒﹁美人蝿﹂とも言う︒若い女性のイメージである︒絨黙︑繊痩はいずれもまき貝のそれではなく︑

美しい女性の姿を形容して︑そのイメージを豊饒にする︒﹁月光的海水﹂という表現も︑平凡ではあるが︑静寂かつ浪

漫的な雰囲気はたっぷりである︒か細い素足は即物的にまき貝のそれをイメージさせるのではない︒それは美しい女

(18)

性の素足の隠喩であって︑まき貝を唱いながら︑イメージの上では︑うら若く美しい女性が広がっていくという︑オー

バーラップの効果が周到に生かされている︒

 施蟄存はかつて上海大学で丁玲と同学であった︒そして︑一九二〇年代後半︑それぞれ北京と上海にありながら︑

偶然にも同じ時期に文学の道を志し︑二八年の革命文学論争の洗礼も受けている︒その丁玲が左朕に参加し︑﹁水﹂で︑

作家として変貌を遂げ﹁多事之秋﹂から﹁母親﹂へと︑プロレタリア文学への作風を強めている時に︑また︑友人の

戴望飾が一九三一年に左朕に加わったものの︑翌年すぐフランス留学に旅立ち︑象徴派の影響を受けつつある時期に︑

施蟄存は︑左朕にも加わらず︑フランスにも行かず︑だが﹁現代﹂の編集者として文学的︑社会的な現実に身を置き

ながら︑創作面では︑日常的で項末な心理や感覚に実在感を与え︑それらを自覚的に再構成して︑このように幽寂な

心理的世界へと一歩を踏み出して行ったのである︒

五  ﹁薄暮的舞女﹂論

  ﹁薄暮的舞女﹂は﹁現代﹂一巻二期に発表された︒まず︑梗概を紹介しておくと︑生活のためにダンスホールで

踊り︑客の相手をするダンサーがいる︒彼女︑素要には子平という恋人がいるが︑投機事業で金を作って彼女と普通

の〃家庭をもつはずだった子平は︑事業に失敗して蘇州に帰らなければなくなったと電話をしてくる︒素要は︑ダ

ンスホールを辞め︑部屋の模様がえをして家庭を作って子平の来訪を待ち俺びていたのだ︒ダンスホールの支配

人や馴染みの客が彼女を求めて電話で誘いかけるのも︑娩曲に断っていた︒しかし恋人は来ない︒そして︑もはや待っ

      一七三

(19)

      一七四

ても来ないと了解した時︑彼女はやるせなく辛い気持を振り拭い︑今一度︑盤惑的な嬌声をつくって︑先刻彼女を誘っ

た男に電話を掛けるのであった︒

 施蟄存の小説の状況設定は︑多くの場合暗闇であると指摘し︑﹁幽暗本来就可以給人造成一種瓢忽朦朧︑含糊隠約之       ︵2e︶      ︵21︶ 感﹂と述べたのは余鳳高氏であった︒厳家炎氏もまた﹁素餐在一個黄昏的心理変化過程︑表現得相当活擾生動﹂と述

べるが︑いずれも妥当である︒物語は︑表題のように薄暮のうちに展開する︒そして素髪が﹁希望﹂にとらえられて

いる間は︑それでも夕暮れの日差しはやわらかく明るく歩道に零れ︑部屋にはいりこむが︑素愛が﹁希望﹂を失う時︑

その光も急速に消えて︑周囲は黒々とした暮色にとざされていくのである︒フロイディズムに理論的根拠を求めつつ︑

光と陰の交叉︑黄昏から夜暗への移行のうちに︑人物の虚ろな心理を暗示する方法は︑﹁春陽﹂や﹁魔道﹂あるいは﹁霧﹂

などにもみられるが︑施蟄存の巧みな意匠といわねばならない︒

 こうして﹁薄暮的舞女﹂においても︑まず︑黄昏の朦朧として風景の中に︑踊り子たちの生態と情緒が全体的に写

し出される︒

  人椚會得在毎個晴天的夕暮︑在從聖比也爾路経過聖母院路而通到西陵路這段禰漫着法國梧桐樹葉中所流出來的辛

 辣的氣息的朦朧的舗道上︑看見七個幻異似地緻弱的女子︑用魅人的︑但同蒔是憂馨的姿態行進着︑這就是素要率領

 了地底同伴照例地到希華舞場去的勢影︒

 共同生活をしている素愛ら七人の踊り子たちが﹁出勤﹂する冒頭の光景である︒サンピエール通りから聖母院路を

経て西陵路に至る︑フランス梧桐の葉から流れ出した刺激的な恩吹が立ち罷める朦朧とした舗道に︑か細い女たちが︑

まるで七つの幻影のように︑魅惑的なしかし憂馨な姿で行くのが見える︑というロングショットにおいて︑鮮烈な梧

桐の息吹とともに︑読む者の前に示されるのは︑﹁彌漫﹂﹁朦朧﹂﹁幻異似的﹂といった表現によってかもされる不鮮明

(20)

でぼやけた色調の画面である︒そして︑その風景に仮託されているのは︑悲しい女たちの心的外傷である︒華やかな

ネオンの巷で︑酔客の前に体をさらし︑嬌態をつくって媚を売る生活と︑それに対する社会的な蔑視は︑おそらく彼

女らの意識のうちにストレスと劣等意識として蓄積され︑それとの葛藤に疲れた時に︑それらは精神的な瘤疾となっ

て表出する︒それゆえに︑﹁六個親密的同伴︑已経同時懐着失侶的稠帳和謝於地的佳運之難璽羨這爾種情緒在髄園梧桐樹

葉中鐙行了﹂というくだりで︑まともな生活に戻る素霊を除いた六人の女たちは︑失望と恨みと羨望のないまざった

感情を抱いて梧桐の中に消えていくのである︒シルエットとして突き放して写そうとする施蟄存の描写によって︑彼

女たちの周囲にたゆたっている曖昧な︑憂謬と倦怠の空気は︑彼女らの日常的な意識の主調音として了解することが

できるだろう︒

 素髪は︑他の六人から離れて︑ひとり苦界からの脱出を試みる︑彼女は踊り子としての﹁自由な生活﹂から逃れ︑

平静な安穏な生活を得たいと思う︒﹁私は生活のあり方を変えなければならない︒﹂このままではおかしくなってしま

う︒自分の全てがひとりの主人に属し︑自分はひとつの部屋に閉じ籠って︑そこには唯一人の人だけが出入りするよ

うな生活を︑と彼女は望んでいる︒しかし訪ねてくる子平を待ちながらベッドを整えている素要には︑既にみずから

の運命を欺くことへの後ろめたい感情が兆している︒

  但是地底眼晴却繊悔似地凝住在新換上去的純白無垢的床巾上︒貞潔代替了邪淫︑在那裏初次地輝耀着荘嚴的光芒︒

  ﹁是称這放浪的女子囑︑敢於這様地正硯着我?﹂能言的床巾從光芒裏得出這様的詰問︒

 みずから設えた真白いシーツの上で︑純潔が邪淫に取って代わるのを素愛は凝視する︒﹁私を正視することができる

の?﹂とシーツは問いかけてくる︒私は決して﹁ありきたりの生活を送れる﹂女ではない︒﹁私は踊り子をやめること

はできない﹂と素要は思う︒ここには既に素霊の願望の崩壊が予感されている︒

       〜七五

(21)

一七六

そして︑そうした崩壊への予感はおそらく彼女の無力さから来ているのだろう︒自分の生活を変える試みが︑自力

でなされるのではなく︑子平に救われ支えられることによって︑即ち︑全能の他者の力を待ってはじめて為されうる

という︑彼女の側からすればよるべない状態が︑彼女の決意を動揺的にしているし︑また絶えざる不安と諦めに追い

込んでいる︒素霊は﹁拘束﹂を肯んじない︒妻子のある男に身を委せもするが︑その男のために﹁貞節﹂を守る必要

はないと考えている︒私は私の願望に忠実でありたいだけであって︑誰もそれを省める権利はないのだと考えている︒

踊り子という仕事も必ずしも卑しいことはない︑もし﹁新鮮的生活﹂を望む人がいれば︑踊り子もよいと思っている︒

そのような素愛は︑当時の誉葉でいえば﹁新しい女性﹂ということになろう︒儒教的な価値観が強いる女性への抑轡

に抵抗して﹁自由﹂を信条として生きるような︑二〇年代から三〇年代の都会の新女性である︒しかし彼女らは︑み

ずからの欲求を満足させるために︑ぽとんど全颪的に他者に依存しなければならないという限界を負っていた︒そし

て︑彼女らの﹁自由しな精神の中には︑その運命的な依存性のゆえに︑抜きがたく︑謂わば構造的に︑不安や諦念が

存在する︒しかも果たせるかな︑その不安はしばしば現実のものとなるのである︒

 素愛の心の震えから苦痛を伴った諦めへの転化を施蟄存は次のように描く︒

  素愛伶倒地溜下了軟楊︑錦塾子和牟渉彼遺棄在地板上了︒垂在天花板上的摩沙破璃燈一亮︑一個充満着改攣了式

 様的房間底新鮮的氣息頭震地流動起來︒在這種迷人的氣息裏︑一堆白色的締滑落在燦陵底脚下︒

 一度はつれなく拒絶した客の下へ︑今度は自分から出かけるために着換えをする︑結尾の一節である︒﹁白色的締滑

落在素愛底脚下﹂という事実の描写の中に彼女の願望の喪失と衿持心の急激な弛緩が暗示され︑しかも生めかしく視

覚的である︒施蟄存はここで︑再び苦界に身を沈める素髪に対して︑おそらぐ同情の哀歌をものしているのではない︒

﹁新しい女性﹂の自立意志の未成熟︑それ故の苦脳を彼岸から冷静にみつめているのである︒

(22)

 ﹁薄暮的舞女﹂の構成上の特徴は︑全体のおおよそ三分の二が︑素愛の︑三人の男と交わす電話でのやりとりによっ

て成っているという点にある︒謂わば﹁電話体小説﹂である︒こうしたアクティブな構成上の試行も現代派文学を特

徴づける指標である・劉瞭は﹁ヒ磐8国Φ①弓ぎ・︒§亀vにおいて︑全綾画シナリ颪の小説を試みて

いる・こうした響な手法は﹁形態的には暫い収獲であつ転とする近年の評価もあるが︑纂存︑劉瞭にとつ       ぬ  ては︑かれら自身の︑当時勃興しつつあった映画芸術などへの関心と相即するものであっただろう︒

六  ﹁赤道下﹂論

 ﹁赤道下﹂は︑﹁現代﹂二巻一期に載った︒冒頭に﹁給已在赴法途中的詩人戴望野﹂と識す︒わざわざそう識すこと

にどういう意味がこめられているのかは分からない︒またこの小説を読んだ戴望野がどういう感想をもったのかも詳

らかにしない︒しかしこれはある意味で現代主義の詩潮を求めてフランスに旅立った詩人を送るに相応しい情趣に貫

かれた作品であるとは言える︒そこには全く﹁中国﹂が感じられないからだ︒まず︑この小説を特徴づける次のよう

な描写から紹介した方が分かりやすいだろう︒

  我豊得我從來未會這麿熱勃勃地愛過地︑而姥也似乎封於我的全身感麗了什麿新鮮的食慾似的在姫底眼晴裏︑姫的

 的肢腿和一切的動作上表明飽喫着底愛情︒

 あるいは︑

  我禁不住在遮陽肩衣之下抱住了那浴衣緊縛着的細髄︑順在粉鼻下印了一個熱情︒

 また更に︑

       一七七

(23)

一七八

  ⁝1儘管休來好嚇!來!來!曖晴⁝⁝﹁弐!別動了︑瞳圓嘘濁︑疲剛!別動了︒饒我唱︑陵!襲!

  1称這小寳貝︒下趙可別硬階︑不然我就要貢的把祢呑下去︒祢説不敢了︒説不説?

   於是地便向我狂吻了一會児︒

 五・四以降の︑性を扱った文学には︑確かに瞠目すべき性描写がなくはなかった︒例えば郁達夫の﹁沈論﹂におけ

る性には自虐的なメランコリーが漂っていた︒民族的な劣等感に性意識が重ね合わされるという形で性が社会性を獲

得していた︒また丁玲の﹁渉菲女士的日記﹂でも︑性は自我の発見と解放という普遍的モチーフの展開の中で︑セン

チメンタリズムと苦悩を伴って問題にされていたと言える︒そのように︑二〇年代文学においては︑性は忽せにでき

ぬ自己発見の道程の上に置かれていたのであり︑伝統的な観念に囲饒されながら︑苦悩する青年を通じて︑そこに﹁中

国﹂を感ずることができたのである︒しかし劉晒鴎の場合は︑まず︑マレー半島の︑ある小島という︑意想外の︑非

日常的な世界で︑男女が愛を交わし合うという情況を説定することによって︑中国の伝統的なしがらみを軽々と

飛び越している︒椰子の林︑灼熱の陽光と篠突く縢雨の中での激しく刹那的な愛を扱うこの︑異国趣味を基調とした

官能的なロマンスは︑同じ性を描いてはいても︑郁達夫や丁玲と同列に論じうる因子をほとんど持たないと言ってよ

い︒少なくとも︑二〇年代の五・四的なリアリズム文学に接穂できる性格のものではないであろう︒

 ﹁赤道下﹂は︑確かに︑社会や人生に誠実に向き合ってきた五・四文学を超脱しためくるめく程解放的な世界であ

ると言える︒しかし︑やや結論的に署えば︑社会的︑思想的近代化を阻んできた申国の伝統社会がはらむ問題性に跳

ね返っていくものが︑この小説にはない︒自己の文学が切り結ぶべき伝統社会についての深い省察を欠いている︒こ

うした官能の世界の創出そのものが文学的な冒険であり得たとしても︑作家自身もその内に在る﹁現実﹂に対する深

く鋭い批評意識に支えられぬ限り︑どのような冒険も︑単に新奇な通俗ーーこの小説について書えば︑ハイカラな通

(24)

俗小説ーに終わるだけである︒デニス・キーンは︑横光利一の文学を批評して︑社会や﹁人間存在のあるべき姿に

ついての強い道徳観を作家の震緩いた﹃講型の欠如﹂を指摘してい謎︑郁達夫芋玲にあって︑劉露に欠

けるものも︑まさにそのような︑強い自我意識に支えられた﹁現実﹂に対する批評精神であると言ってよい︒

 先回りして結論を急いだ嫌いがあるが︑如上の事柄を︑この小説における人物形象と文体︑表現を検討することに

よって︑確かめていきたい︒物語は次のようなものである︒マレ!のある小島にひと組の男女︵裏と珍︶が新婚旅行

に来た︒二人は紺碧の海が広がるバンガローに滞在して奔放な愛を謳歌するが︑やがて珍と嚢は︑二人の世話をして

くれている精桿な体つきをした非路と可憐な華茄の兄妹にそれぞれ惹かれていく︑ある縢雨の夕刻︑外に出たまま帰

らない珍を捜しに出た裏は︑素裸の珍が非略の黒い腕の中に身をまかせているのを目撃して︑﹁苦悶に戦標﹂し︑衝動

的に︑彼を密かに慕っていた華茄を凌辱する︒

 この作品を読み込む際のひとつのポイントとして︑珍という女性がどのように描かれているかということがあるの

だろうと思う︒珍は美しくしなやかな肢体をもち︑官能的でコケティシュでありながら︑その精神的な相貌を窺わせ

る叙述は全くないと言ってよい︒もとより︑舞台は︑日常から隔絶した別世界ではあるが︑しかしそこを訪れる人間

には別に日常的な﹁生活﹂があったはずであり︑思惟や行為の端々には﹁生活﹂につながる個性が垣間見られてもよ

さそうなものである︒しかし︑そうした性格描写は︑珍については施こされていない︒これは社会的︑道徳的規範に

露程も囚われない・謂わば無性格な女性の造形である︒いや︑彼女を取り巻く社会〃がそもそもないのだ︒また珍

の・嚢に対する愛情表現の言葉も通り一遍で︑無機質かつ没個性的である︒例えば﹁裏︑裏︑別再不腺我了︒我寂翼

嚇!﹂とか︑夜︑闇を破って闘こえてくる原地人の叩く鼓声を聞いて﹁嚢︑我伯這鼓聲怪難受︒他個會不會大畢來殺

死了我﹂など︒ここには明らかにひとつの方法意識が働いている︒それは︑人物の意識や性格を︑個性的にかつ鮮や

       一七九

(25)

       一八〇

かに彫琢するのとは異なり︑箋たる寂しさだけを心底に秘めて︑無感情な女性として︑読む者に︑その意識を捕捉さ

せない︒美しくはあっても平板な︑人形のような類型の中にその性格を止どめている︒そのように︑珍の意識の大部

分は捨象されているが︑ただ性的なものにまつわる感覚だけは︑鋭敏かつ大胆である︒例えば︑非略の逞ましく均整

のとれた骨格と︑緊張して黒光りした皮膚を圏の当たりにして︑彼女は次のように感ずる︒

  然而珍的意見是他姻底眼晴怪可伯地簸敏︑不像文化人那麿地鎭静︑地説地最不高興銀非路磁着了睨綾︒

 これは勿論単純な恐怖ではない︒彼女の深奥の欲情が非略の︑男としての力に魅入られることの畏れと好奇心を含

んだ予感である︒ここに描かれるのは︑謂わば︑全人格的な側面から性感覚︑性意識を疎外された女性像であり︑そ

れは確かに︑現代社会において︑疎外され︑物化された性のかたちであるとも言えるのであろう︒しかし︑劉納鴎の

場合は︑そうした性の疎外や物化に対する本質的な﹁調刺﹂の視点を欠くために︑珍を︑単なる新奇な現代女性のス

テレオタイプとしてか描き出すことができず︑つまるところ︑風流な旧小説の﹁佳入﹂と選ぶところがなくなるので

ある︒  他方︑この珍に対する男性︑裏はどう描かれるのか︒劉晒鴎は︑都会の現代人としての裏を形づくる心性として﹁精

神的飢餓﹂とか﹁孤独﹂などを付与してみせる︒しかし︑嚢はみずからの︑愛惰に対する飢えや孤独感を慰籍するた

めに︑肉体的︑物的対象として︑珍を求めるにすぎない︒珍の愛を得て︑彼は次のように感ずる︒

  我想︑我現在確實是一個人佑有着姫︒我得自由地領略地的iI遙細長的腰︑這園美的躁︑這柔肥的手指︑和封在

 這一封活勃勃地閃櫟着的瞳子裏的地全副精神︒我得命令姫︑使姥笑︑使姻嬰︒有必要時也得打地︒而地也是服服貼

 貼地服從着我︑永不敢稽微逆了我的意︒

 珍に対して︑ここに見うる嚢の性格は︑肉体的に彼女を占有したことの自足感であり︑かつ︑それを美的玩弄物と

(26)

してみる姿勢である︒﹁必要とあれば︑彼女を打ち据えることさえできる﹂と誇る嚢からは︑女性と結ぶべき精神的紐

帯を求めようとする志向は窺えない︒従って︑嚢が口にする﹁愛﹂とか﹁幸福﹂という科白は︑欲情の満足という以

上の意味を含まず︑その結果︑かれは︑絶えず女が﹁離れる﹂ことに不安を感じ︑彼女の言動を神経質に嫉視しなけ

ればならないという軽薄な俗物性が露わである︒豪たかれは︑原地人の生活を極めて単純で安穏なものとだけ認識し︑

﹁かれらには恋愛するもしないもない︑ただ性欲だけだよ﹂という陳先生の書葉を諾う姿勢であり︑彼を慕う華茄に

対しては放逸に振るまうなど︑原地人に対する蔑視観が伏在している︒そうした道徳的厳格さを欠くかれの人格のあ

りようが︑基底的性格としての﹁精神的飢餓﹂や﹁孤独﹂あるいは﹁寂翼﹂や﹁苦悶﹂を底の浅いものにしている︒

こうして︑南国のバンガローに住まう彼のハイカラな生活は︑実は因襲的な観念に満ちており︑その女性観も本質的

に前近代的であって︑性的な欲動の次元でのみ描かれる珍と︑好︸対の﹁才子﹂のそれなのである︒しかも劉晒鴎は︑

こうした男女を︑モダンな風俗画の中に描き出すことに精力を傾注するのみで︑かれらを批判的に見る視座を決定的

に欠いていることによって︑その文学的モチーフにおいて︑五・四以来の持続する伝統からまったく脱落している︒

 文体あるいは語彙について言えば︑当時の都市的感覚と風俗を表現する新しさは︑随所に見いだすことができる︒

総じて︑その特徴は景物を写実的︑観照的に描くのではなくて︑主体の︑主観的︑感覚的な印象を景物の中に織り込        ハ   んでいく手法である︒景物を﹁情緒化﹂する︑と言ってもよいだろう︒とくに劉晒鴎の場合は︑情景描写に人物の主

情的トーンを重ね合わせようとする傾向が強く︑情景そのものよりも心境の暗示として︑やや軽薄な都会的感性に生

命が与えられている場合がある︒そうした例をいくつか挙げたい︒

 既に引用したように︑孤島にやって来て浜辺で愛し合う男女を描いた冒頭の場面で︑愛情を食欲のように飽喫

する︑という措辞は︑即物的で俗に流れるが︑しかし︑アンチ・モラルで強烈な表現になっている︒また﹁順在粉鼻

       一八一

(27)

      一八二

下印了一個熱情﹂の印熱情や︑珍的﹁手揺動着我︒接着是一個温熱的騰塵住了我︒我的祖露的胸前是頭髪︑唇痕

和眼涙﹂︵珍が﹁我寂翼郡!﹂と叫んで嚢に抱きつく場面︶など︒これら即物的でぶっきら棒な表現には刺激的な力強

さがある︒

 また次のような表現は︑比較的凡庸な景物の比喩ないし凝人化であるが︑人物主体の感じ方に従って風景を情緒化

していく手法がよく表われている︒

  屋外的陽光豊得特別美媚︒

  地底美麗的腱毛在那直射光線下雀躍着︒

  這橿水和藍的天︑白的砂均在那紅瞼的陽伯伯的微笑下閃礫着︒

 櫃水と藍天︑白砂と紅瞼︒光と色彩のコントラストは鮮やかで印象的である︒だが目映いだけで︑どこか軽薄な感

じも否めない︒

 そのほか︑

  愛撫和愉樂是戴在海燕的翼上︒

と︑二人の悦楽の生活を表現するあたりはいかにも鼻持ちならず気取っているが︑そうした鼻持ちならなさも含めて︑

ここはモダンである︒

 また︑   穿過酬座天成的椰林︑我椚終於在曖闊的海邊畿見了我椚自己︒

  我椚的思想是眼在頭上旋舞着的海鵬一般地自由的︒

  我椚在無人的砂上追逐着︑遊戯着︑好像整個天地都是騎於我偶的愛一般地︒

(28)

 といった文体は︑漢語文としてはやや不自然であり︑外国文体ないしは翻訳調である︒それはおそらくヨーロッパ

語の影響でもあろうが︑文体の面からも異国的な情趣をかもすことに与って力があるといえる︒さらに︑上記の引用

文にも見られるように︑劉柄鴎の場合はとくに︑﹁是﹂﹁的﹂あるいは﹁是〜的お構文を頻用する.﹂とが特徴である︒

しかも時には相当無理をして︑この構文の中に叙述する内容を押し込んでしまうような印象を受ける︒例えば結尾の︑

  半個鐘頭之後︑海鴎歌送的是甲板上一封專待文化方式給他椚解決一切的︑相愛着的丈夫︑妻子︒

 という一文は・互いに自己欺隔的な﹁愛﹂に生きようとする夫婦の姿であって︑ニヒルな作者の人間観が示される

のだが・ここにおける﹁是〜的﹂構文は︑いかにも稚拙で無理がある︒思う姿しれは︑劉晒鴎が日本統治下の台湾で

生まれ・青山学院・慶応大学と︑長く日本に学ぶなど︑呆語のセンスを深く身につけていた.﹂とによる︑果語の

影響であろう・またその影響は︑語彙のレベルにまで及ぶのであって︑例えば今の例文中で︑﹁文化方式﹂とい︒つのは︑

意味としては・垢抜けた都会の男女の〃エチケットに従って︑ハイカラに︑紳士的に﹁一切を解決する﹂というの

だろう︒その場合・日本語では確かに﹁文化的﹂と使うと思うが︑それに相応する漢語は﹁文明﹂であろう︒そのよ

うに日本語としての意味を生かしたまま︑漢語の中で使用する語彙の例をほかにも散見する︒例えば︑

  姫那爾隻董脚在微亮的燈光下又顯得是那麿様地綺麗︒

  金色的光綾吃着地的漏身造成一個眩惑的維那斯︒

  我微聞露了鼻喰聲和漱私底裏的職標︒

  我想我要的是誰豫︒

  我似乎覚到了甚磨前兆似的随帥眼葉茄跳出了屋外︒

  只畳得爾隻脚︑機械的地︑歪歪顯顯地働動着︒

       一八三

(29)

       ︸八四

における︑﹁綺麗﹂﹁眩惑﹂﹁戦藻﹂﹁誰擦﹂﹁前兆﹂﹁機械的地﹂などは︑漢語として不適切では勿論ないが︑ここでの

使われ方には﹁和臭﹂が感じられるのであり︑おそらく劉晒鴎が日常的に使っていた日本語における意味を敷衛した

用法である︒

 施蟄存と劉晒鴎の小説をこのように見てくると︑共に現代主義文学の系譜に属するとは言っても︑当然のことなが

らその傾向は一様ではないことが分かる︒それは一口で言えば﹁現実﹂に対する認識の深さということになろうか︒

施蟄存は︑人物の心理的陰影に分けいることによって︑時代の人間存在の探求に向かう姿勢を見せる︒他方︑劉晒鴎

の描き出す人物形象は皮相な風俗のレベルに留まっており所詮︑都会的な唯葵派であったという印象もないではない︒

そこから直ちに︑その後分岐していく二人の生き方や政治的立場の相違に論を進めることは牽強付会にすぎるとして

も︑三〇年代の後半に至って︑対蹄的な位置に進み出ていくことになる異質な個性のありようは確認できるように

 ︵27︶

思う︒

七穆時英の剰窃など

       し  施蟄存は四年に亙る﹁現代﹂主編のあいだに︑編集者として︑時々に起こる様々な問題に対処している︒﹁現代﹂と

いう雑誌の性格を考える上でも︑それらは別に整理されなけれぼならないと思うが︑ここでは︑そのうちの一︑二に

触れておきたい︒

 ﹁現代﹂三巻二期︵一九三三年六月︶に雪炎という一読者の投書が掲載されている︒雪炎は︑穆時英﹁街景﹂︵﹁現

(30)

代﹂二巻六期︶の冒頭の描写が劉晒鴎訳﹁色情文化﹂︵第一線書店︶に収められている池谷信三郎作﹁橋﹂の最後と酷

似しており︑剥窃の嫌疑がかかると述べて︑実際に穆時英の文章と劉哨鴎の訳文を比べてみせている︒

 穆時英の﹁街景﹂はこの様に始まる︒

  ﹁明朗的太陽光浸透了這静寂的︑秋天的街︒

   浮着輕快的秋意的︑這下午的街上:1

   三個修道院的童貞女︑在金黄色的頭髪上面︑塵着雪白的帽子︑施着黒色的法衣︑慢慢地走着︒風吹着的時候︑

 一陣太陽光的雨從樹葉裏濯下來︑滴了地椚一帽︒温柔的會話︑微風似地從姥椚的階唇裏漏出来:

  ﹁又是秋天了︒﹂

  ﹁可不是囑!一到秋天︑我就想起故國的風光︒地中海帝邊有那麿暖和的太陽呵!到這比極似的︑古銅色的冷陣國

 來︑已経度過七個秋天了︒﹂

  ﹁我的弟弟大概還穿軍衣杷︒﹂

   ﹁希望称的弟弟是我的妹妹的懸人︒﹂

   ﹁阿門!﹂

   ﹁阿門!﹂

 それに対して劉晒鴎の訳文は次のようなものであった︒

  晴朗的街上︑三個碧眼的尼姑︑載着雪白的帽子︑捲起黒色法衣的裾裾︑遮着黒色的洋傘代用傘︑慢慢走過︑温柔

 的會話︑似微風一様從姥偲的唇間漏將出來︒

  ー春天到了︒

      一八五

参照

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