曽 我 兄 弟 の 継 父 曽 我 祐 信 の 歴 史 像
1 治 承 四 年 の 記 事 の 検 討 を 中 心 に ー
坂 井 孝 一
曽我兄弟の継父曽我祐信 の歴史像
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はじめに工藤祐経に実父河津三郎祐通を殺された曽我十郎祐成・五郎時致の兄弟が︑源頼朝による鎌倉幕府の草創という激動の
中にあって様々な苦難を経験した末︑建久四(一一九三)年五月廿八日の深夜︑ついに仇敵祐経を討ち︑自らも壮絶な死
を遂げた話は﹃曾我物語﹄の名であまねく知られている︒恐らく︑当初よりこの事件は﹁曽我﹂の名を冠して語られ︑鎌
倉末期に所謂﹁真名本﹂が著された頃には︑既に﹁曽我﹂の物語として定着していたのであろう︒これは︑兄弟が事件当
時︑継父曽我太郎祐信の本領曽我庄にあって﹁曽我﹂を自らの名字とし︑社会的に﹁曽我の者共﹂と認識されていたから
であると思われる︒しかし︑その﹁曽我﹂兄弟の父ということになると︑継父曽我祐信ではなく実父の河津祐通を指すこ
とがほとんどであろう︒兄弟の目的が実父祐通の敵を討つことにあったのであるから︑それも当然と言えば当然かも知れ
ない︒また実際︑﹃曾我物語﹄の中でも︑幼き日の祐成すなわち一万が︑﹁母はまことの母なれども︑曽我殿はまことの父
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にてなきこそ口惜しけれ﹂﹁我らが父をば河津殿と申すなりけん﹂と語るなど︑﹁河津殿﹂祐通に比べて﹁まことの父﹂ではない﹁曽我殿﹂祐信は︑はるかに影の薄い存在として描かれている︒そのため︑これまでの﹃曾我物語﹄研究でも︑河
津祐通についてはしばしば考察が加えられてきたが︑曽我祐信についてはほとんど問題にされてこなかった︒しかし︑史
実を明らかにするという歴史学的な立場からすると︑河津祐通は﹃曾我物語﹄中の記述以外よりどころとする史料がなく︑
極めてあやうい存在であると言わなくてはならない︒これに対し曽我祐信は︑幕府の公的な歴史書﹃吾妻鏡﹄にもその名
の見える鎌倉初期のれっきとした御家人であった︒しかも︑事件の日まで兄弟を養い育てた養父であったという厳然たる
事実もある︒とすれば︑彼こそ確かな史料によって知り得る︑兄弟の最も近しい人物であったと言えよう︒
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ところで︑かつてその著書﹃中世武士団﹄において曽我敵討事件を考察された石井進氏は︑﹃吾妻鏡﹄や文書類を駆使して曽我祐信の人物像についても明らかにされている︒すなわち︑彼が﹁伊東氏の一門と同じ﹃祐﹄という一字を共有し
ており︑父の名は不明なものの︑祐親の親族であったことはたしかである﹂こと︑そして﹁はじめは平氏方の大庭景親に
従って頼朝を攻撃しているが︑のちに降伏してその罪をゆるされ︑御家人として頼朝につかえた﹂こと︑﹁武芸の達者︑
とくに弓射の名人であった﹂こと︑しかし︑その﹁勢力はけっして大きなものではなく︑むしろ東国の一小御家人にしか
すぎなかった﹂ことなどの諸点を指摘されたのである︒さらに氏は︑曽我氏と北条氏との関係にも言及され︑﹁御家人で
ありながら御内人をも兼ね︑とくに北条氏の重要な所領の一つである陸奥国の津軽の所領支配の役にあたっていた曽我氏
の一族﹂が︑﹁鎌倉初期︑和田合戦のややあとぐらいから北条氏嫡流家の家臣としてあらわれる家であり︑直接の関係は
証明できぬものの︑おそらくは曽我祐信の一族か後喬と考えられる﹂と主張された︒これらの見解は︑曽我祐信や曽我氏
に関する歴史像として極めて妥当なものと考える︒
ただ︑問題点が全くないというわけではない︒たとえば︑氏の場合︑祐信の人物像に関しては﹃吾妻鏡﹄や文書類を用
いて明らかにしているが︑論述の進め方については基本的に﹃真名本曾我物語﹄の展開に即した形をとっているため︑祐
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信と兄弟との関係︑兄弟の境遇に与えた祐信の影響といった点に焦点があてられることがないのである︒また︑前稿において私は︑﹃吾妻鏡﹄の曽我関係の記事が複数の原史料︑すなわち幕府に残された記録︑﹃真名本﹄のもとになったものと
同一の︑﹁曽我記﹂とでも呼び得るような原初的な作品︑そしてそれとは別の種類の﹁曽我記﹂などによって構成されて
いるのではないかということを論じたが︑氏の説では︑そうした史料上の問題にも考慮がはらわれていない︒そこで本稿
は︑こうした問題点を克服しつつ︑確かな歴史像を描き得る兄弟の最も近しい人物︑曽我祐信の人物像とその立場につい
て考察し︑そこから兄弟の置かれていた境遇を明らかにするということを主題としたい︒これはまた︑﹃真名本﹄を中心
に描き出されてきた兄弟の境遇や生涯に対し︑別の角度から光を当てる作業でもあり︑曽我敵討事件の歴史像を構築する
一つの足掛かりとなると考える︒
曽我兄弟 の継父 曽我祐信 の歴史像
5 第 一 章 ﹃吾 妻 鏡 ﹄
と﹃真 名 本 ﹄ の 記 事 の 概 観
具体的な考察に入る前に︑曽我祐信に関する﹃吾妻鏡﹄と﹃真名本﹄の記事について概観しておこう︒まず﹃吾妻鏡﹄
について見てみたい︒曽我祐信の名が見える記事は︑﹃吾妻鏡﹄の中に全部で16例ある︒一方︑曽我兄弟の記事は12例で
ある︒ただし︑兄弟の場合は︑五郎の元服に関する建久元(一一九〇)年九月七日条を除いて︑すべて建久四(一一九
三)年の記事である︒しかもそのうちの9例が︑敵討事件のあった五月廿八日から事後処理の行われた六月までに集中し
ており︑残りの2例も七月・八月の所謂後日談の中に見えるものである︒これに対し︑祐信の場合は︑五郎の元服の際の
1例と敵討事件前後の3例のほか︑治承四(一一八〇)年に3例︑元暦元(=八四)年に1例︑文治元(=八五)年
に1例︑文治五(=八九)年に3例︑さらに事件後一年以上経過した建久五(一一九四)年に4例見られ︑その初出か
ら終出に至る十五年間に︑ほぼ四・五年おきの間隔で均等に分布している︒内容的に見ると︑兄弟の場合︑五郎の元服以
外はすべて敵討事件関係の記事であるのに対して︑祐信の場合は︑治承・寿永の合戦や奥州合戦など合戦に関する記事が
最も多く︑次いで﹁御弓始﹂﹁流鏑馬﹂などの﹁射手﹂として選ばれたものが続き︑他に儀式の際の﹁随兵﹂﹁伝馬﹂など
の御家人役勤仕の例が見える︒
こうした兄弟と祐信との間に見られる記事の分布や内容の相違は︑﹃吾妻鏡﹄の編纂者が︑兄弟に関する記述では﹁曽
我記﹂及び別種の﹁曽我記﹂を多用したのに対し︑祐信については幾種類かの﹁曽我記﹂よりも︑むしろ合戦や儀式の際
の﹁合戦記﹂﹁随兵記﹂といった﹃吾妻鏡﹄編纂者が通常用いる原史料をそのまま活用した︑ということによるものと考
えられる︒また︑建久元年・四年の祐信の記事には曽我兄弟の﹁継父﹂という説明が付されているのに対し︑他の年の記
事では一切そうした注記がない︒これらのことから︑﹃吾妻鏡﹄に見える祐信の記事は︑建久元年・四年の分については
﹁曽我記﹂との関係を視野に入れて考察する必要があるものの︑それ以外の記事については︑おおむね一般の御家人と同
等の史料的価値を有するものとして扱うことができると言えよう︒
一方︑﹃真名本﹄において祐信の名が見えるのは巻二・四・十である︒巻二では︑夫河津祐通を失って嘆き悲しむ﹁河
津の女房﹂︑すなわち兄弟の母である﹁曽我の母﹂の再婚相手として描かれ︑巻十では︑二人の子供を失って絶え入るほ
どに悲しむ﹁曽我の母﹂を慰める優しき夫として描かれている︒いずれも﹁曽我の母﹂との関係の中で登場し︑強烈な個
性を持つ﹁曽我の母﹂に対し︑優しく理解のある夫といった役回りである︒また︑﹃真名本﹄の中心をなす巻三から巻九
では︑兄弟の幼・少年時代を描く巻四にしか現れない︒しかも︑祐信はそこでも︑﹁継父﹂﹁曽我殿﹂として簡単に触れら
れるだけで︑ほとんど旦ハ体的な動きのない︑言わば姿の見えない存在となっている︒こうした﹃真名本﹄における人物像
が︑祐信の影を薄くし︑先行研究においても彼を軽視するに至った所以であろう︒
しかし︑これは︑先に見た﹃吾妻鏡﹄の祐信の記事の分布や内容と明らかに異なっている︒そして︑﹃吾妻鏡﹄の彼の
記事が︑敵討事件前後の記事を除き︑おおむね一般の御家人と同等の史料的価値を有するものであるということになると︑
曽我兄弟 の継 父曽我祐信の歴史像
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﹃真名本﹄における人物像が︑果たしてどこまで実像を伝えているものなのか疑わしくなってくる︒もし︑それが物語の形成過程における文学的な造形によるものであるとすれば︑なぜそうした造形がなされたのかといった点を考察すること
が︑物語の形成に関わる一つの重要なテーマとなってくるはずである︒ただ︑その前提として︑﹃真名本﹄の人物像が歴
史的な人物像とどの程度懸隔のあるものなのか︑またどの部分に史実の反映が見られ︑どの部分に虚構の可能性が指摘で
きるのか検討しておく必要があると考える︒
以上︑﹃吾妻鏡﹄と﹃真名本﹄に見える曽我祐信の記事について概観してみた︒本稿の主題からすれば︑﹃吾妻鏡﹄の記
事の検討をまず行い︑その考察結果を念頭に置いて﹃真名本﹄の記事を検討するという方法をとることが望ましい︒また
その場合︑先に見た﹃吾妻鏡﹄の記事を合戦に関するもの︑﹁射手﹂として選ばれたもの︑建久元年・四年のものに分類
して考察を加え︑しかる後にそれぞれの内容を比較検討するという手続きをふむことが必要であろう︒ただし︑本稿では︑
紙数の都合により︑合戦に関する記事︑中でも治承四年の合戦に限定して︑以下︑論を進めていくことにしたい︒
第 二 章 ﹃吾 妻 鏡 ﹄ 治 承 四 年 の 曽 我 祐 信
第一節治承四年の合戦と曽我祐信
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﹃吾妻鏡﹄における曽我祐信の初出記事は︑石橋山の合戦に関する治承四(一一八〇)年八月廿三日条である︒先ず︑その記事を見てみよう︒
①裳同国住人大庭三郎景親︑俣野五郎景久︑河村三郎義秀︑渋谷庄司重国︑糟屋権守盛久︑海老名源三季貞︑曽我太郎祐
信︑瀧口三郎経俊︑毛利太郎景行︑長尾新五為宗︑同新六定景︑原宗三郎景房︑同四郎義行︑井熊谷次郎直実以下平家