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創価教育学の形成過程をふりかえる―

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創価大学教育学会第13 回教育研究大会報告 シンポジウム

指定討論2

 

創価教育学の形成過程をふりかえる

― 牧口常三郎・戸田城聖のライフ・ヒストリーから―

塩 原  将 行

はじめに

 私は,創価大学の職員として 20 年余り,創価教育の源流を拓いた牧口常三郎と戸 田城聖,そして,創立者池田大作先生のライフ・ヒストリー,および,本学の歴史に 関する資料の収集と整理に従事してきた。その中で,麻生千明先生の「牧口の教育学 形成における単級教授へのとりくみ」(『牧口常三郎全集』の「月報4」)を読んでいた ことから,本日の麻生先生の講演は大変に楽しみに聞かせていただいた。

 

1.創価教育の源流を求めて

 私が〝創価教育〟について真剣に考えるようになったのは,大学の職員として,創 価大学の「創価」とはどういう意味なのかという問いを持ったことがきっかけであっ た。私立大学は建学の精神をもって設立され,本学は創立者によって建学の 3 モットー が掲げられている。その建学の理念をさらに凝縮したのが「創価」という言葉ではな いかと考えてきた。「創価」は価値創造を縮めた言葉で,それは,1930年11月に第一 巻が出版された『創価教育学体系』に求められる1。同体系は,当初総論4巻・各論8 巻で構想されていたが,5巻に膨らんだ総論が完結しないまま,4巻までが刊行された。

 私が関心を持ったのは,出版された 4 冊の書物の内容よりも,「創価」という言葉 がなぜ生れたのか,そこにはどのような意味が込められているかということであった。

1 国会図書館所蔵の『創価教育学体系・第1巻』には,「内交」(内務省交付)印があり,

奥付の発行日「十八」に「二十三」という紙が貼られている。当時は発行日の 3日前ま でに内務省に提出することが法律で義務づけられており,提出した 2冊のうちの 1冊が

「内務省交付本」として旧帝国図書館に受け入れられている。その 1冊が現在,国会図 書館に所蔵されている「二十三」貼紙付の『第1巻』である。『第1巻』の奥付に記載さ れた印刷日は「十五日」,発行日は「十八日」であり,その紙は,発行日の 3 日前まで に内務省へ提出できなかったために貼られたものと推測できる。

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そして,その究明のプロセスの一端は,「『創価教育学』誕生の時期をめぐって―牧口 常三郎と戸田城聖の対話を手がかりに―」という論考にまとめた2。なぜそこまでこ だわったのか。それは,「創価」という言葉の誕生の時期について,1929年とするも の,1930年とするものなど諸説があったからである。わずか 1年の差であるが,本学 の名称だからというだけでなく,1928年とされる牧口の日蓮仏法の信仰に入った時期 と,「創価」という言葉の誕生の時期が極めて近いことが気になったからである。

 牧口の〝入信3〟の時期について,彼自身による明確な文言はない。また,1940 年 代に入信した牧口門下達によってその時期が語られているが,各々の証言は微妙に異 なっている。先の論考で私は,牧口の信仰における深化過程があることに注目した。〝入 信〟したその時から,日蓮仏法の教義を深く理解し帰依したのではなく,段階を踏ん でいったのではないかということである。そこで,さらに大きな問題は,牧口の入信 動機は何かということになるが,この点は,後で触れる「創価教育の源流」で,私自 身の見解を述べさせていただいている4

 ここで強調しておきたかったのは,創価教育学,なかんずく「創価」という言葉に 凝縮された牧口の思想の核心部分を正確に理解しようとすれば,日蓮仏法の影響を論 じることも大切であるが,彼の人間形成の過程を辿ることの方がより大事ではないか ということである。このことにいち早く着目し,研究に取り組んだのが,創価大学教 育学部で教鞭をとられた斎藤正二名誉教授である。牧口の生誕から小樽に住んでいた 18 歳までを,700 ページに及ぶ大著『若き牧口常三郎 上』(第三文明社,1981 年)

の中で緻密に考察されている。この著作が生まれた背景には,『牧口常三郎全集・第1 巻』(第三文明社,1983年)に収録された『人生地理学』の膨大な補注5作業などを通 して,牧口を教育学者・地理学者としてだけとらえるだけでなく,彼の生涯をつぶさ に観ていかなければ牧口を貫いてきたものがわからないとの考えがあったのではない かと思われる。

 1941(昭和16)年の創価教育学会臨時総会における戸田の発言が,次のように報じ られている。

「〔戸田は〕学会の沿革と事業報告について,学会発展の歴史を述べるには牧口先生 の心理過程を語らねばならぬとて,先生の人生地理学の出版(明治三十六年)から創 価教育学大系の上梓に至るまでの径路を要領よく纏めて述べ6 ……」(傍線引用者)。

2 『創価教育』第4号(創価教育研究所,2011年),190 ~ 221頁。3 牧口や戸田が日蓮 正宗に入信した頃は,定まった授戒の儀式がなかったようである。

4 『第三文明』2013年12月号(第三文明社),76 ~ 81頁。

5 『牧口常三郎全集・第2巻』(『人生地理学 下』)の「第19章 気候」の後半以降に対 応する補注は全集には収録されていないが,担当した斎藤正二はかなりの量の補注を執 筆していたので『創価教育』第5号(創価教育研究所,2012年)から順次掲載している。

6 『価値創造』第1号(創価教育学会,1941年7月),2面。

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 このように牧口と 2人で創価教育学会を創立した戸田は,同学会の歴史を説明する にあたり,『人生地理学』にふれることからはじめているのである。

 横道にそれるが,斎藤正二の功績として特記すべきことは,牧口研究を担う多くの 人材を直接間接に育てたことである。それを象徴するのは,1996年斎藤ゼミの 4年生 が卒業論文を執筆中に,牧口全集へ収録されていない論文7編を一挙に発見した。こ のニュースは,私が牧口・戸田の資料収集と歴史発掘に本格的に取り組む起点にもなっ た。なぜなら,牧口全集が出版されても,著作物すら全て見つかっているのではない,

つまり未開拓の地平であることに気付かせてくれたからである。

 以来私は,牧口常三郎と戸田城聖のライフ・ヒストリーとそれに伴う文献の発掘に 心を砕いてきた。〝未発見の文献があるのではないか〟という目で見ていくと新しい 事実や資料が見つかるものである。創価教育について研究を進めていけば必ずと言っ ていいほど新資料が見つかるというのが,その後の私自身の体験である。それは探究 の最前線にいるという証であるとも思っていた。

 

2.教育の現場から生まれた創価教育学

 創価教育学の起点について,牧口自身は北海道尋常師範学校在学中に教生として臨 んだ授業の経験を挙げている7。そして,卒業した牧口が,母校の附属小学校訓導となっ て取り組んだのが,本日のシンポジウムのテーマである単級教授である。それは,牧 口自身が希望したといわれているが,彼の教師としての起点は単級教室の子どもたち にあったのである8

 後に牧口が,「創価」という言葉に結実させた教育学は,単級教授の実践から始ま る様々な過程の中で形成されていった。上京後牧口は,『人生地理学』出版前に日本 最初の少女雑誌とされる『少女界』を,岡本常次郎のもとで編集している9。岡本と 牧口は,北海道師範学校の単級教室を一緒に運営していた関係にある10。そして,『少 女界』の編集経験は,『人生地理学』出版後の女性のための通信教育の団体「大日本 高等女学会」の創立へとつながった。さらに,東京市内の小学校長時代には併設の夜 学校の教育にも力を入れ,貧しい人々が住む地域にあった三笠尋常小学校の校長とし ても全力でその任にあたっている。

 牧口の教育学がこのような教育の現場11から生まれたものであることが,「創価」

7 「四十五年前教生時代の追懐」(『牧口常三郎全集・第7巻』,第三文明社,1982年),

409 ~ 413頁。

8 『第三文明』2013年2月号(第三文明社),90 ~ 95頁。

9 この時牧口は,澎湃のペンネームでお伽噺などを執筆している(『第三文明』2013年 5月号(第三文明社),87頁参照)。

10 『第三文明』2013年4月号(第三文明社),91 ~ 92頁参照。

11 教育の現場には,教える対象がどのような子どもたちであるのか,また,彼らの生活 環境も含まれる。

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という言葉を考える上で極めて大事なのではないだろうか。

 牧口が北海道で単級教室を担当していた頃,彼が教えた場所,そして学校の行き帰 りに子どもたちと一緒に歩いた道や,近くにある大通公園を,雪の強く降る日に歩い てみたことがある。単級教室があった北海道尋常師範学校の附属小学校は郊外に移転 したため,子どもの足ではかなり遠く,雪の日には低学年の児童は深く積もった新雪 の道を歩くことは出来ない。なぜなら,だれもが先を歩いた人の足跡をたどるもので あるが,歩幅の短い小さな子はそれができないからである。牧口はそのような子供た ちをおんぶしてあげることもあったという。また,学校に着いた子どもたちのかじか んだ手を牧口がお湯で温めてあげたという話もあるが,その子は,厳冬の季節にもか かわらず手袋を持っていなかったことを意味している。もともと北海道における単級 は,全道で必要とされた僻地教育を想定したもので,当然附属小学校の教室には,多 様な階層の子どもたちが含まれていた。

 牧口の足跡をたどっていくと,常に彼の眼は子どもたちに注がれていることに気付 かされる。その牧口が,教師となって最初に取り組んだのが単級教授であり,その後 の彼の生き方にも大きな影響を与えたのではないかと考えている12

 また牧口は,創価教育学会の活動の軸に月1回の〝座談会〟を据えた。その座談会 の始まりと考えられるのは,大日本高等女学会の〝懇話会〟である。彼が 30 代で通 信教育の事業を起こした時,教材の送付にとどまらず,月1回の懇話会を開き,みず から率先してその懇談の輪に入っている。さらに,そのような懇話会を,尋常小学校 の児童から 10 代の少女たちまで対象として各地で開こうとした。学年の異なる生徒 が 1 つの教室で学ぶ単級教授の経験が,〝懇話会〟に何らかの影響を与えているので はなかろうかと考えている。

 

3.ライフ・ヒストリーから見た創価教育

 現在私は,月刊誌『第三文明』で「創価教育の源流」という連載を担当し,2013年 1月より開始した「第一部牧口常三郎」を全19回で終え,現在「第二部戸田城聖」(全 23回の予定)を書き進めている。

 すでに牧口と戸田の伝記としては,熊谷一乗『牧口常三郎人と思想―』(第三文 明社,1971年),美坂房洋編『牧口常三郎』(聖教新聞社,1972年),西野辰吉『伝記  戸田城聖』(第三文明社,1985年)などがある。その後は本格的な伝記は公刊され ていないが,『牧口常三郎全集』全10巻(第三文明社,1981 ~ 96年),『戸田城聖全集』

全9巻(聖教新聞社,1981 ~ 90年),『年譜牧口常三郎・戸田城聖』(第三文明社,1993年),

『三代会長年譜 上巻』(創価学会,2003年)などの出版が進められ,本格的な創価

12 詳しくは,拙稿「創価教育の 80年その言葉の誕生と学校設立の構想」(『創価教育』

第4号,創価教育研究所,2011年),238 ~ 256頁参照。

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教育研究の基礎が整えられてきた。

「創価教育の源流」では,近年新たに見つけることができた 2人の著作13や関係資料 を踏まえ,可能な限り憶測を排して記述するとともに,これまで年譜等でも紹介され てこなかった新たな史実も数多く加えさせていただいた。

 ここで,牧口と戸田のライフ・ヒストリーという視点から,見過ごされてきたこと をいくつかあげておきたい。

 第1 は,これまで述べたように,牧口の中で,どのようにして「創価教育学」が形 成されてきたかということ。本日の麻生先生の講演は,その始点ともいえる単級教授 についての多くの示唆が含まれていた。

 第 2 は,「創価教育学体系」出版以降,創価教育自体がどのように発展していった かということ。

 その第1歩は,『創価教育学体系』がなぜ総論すら完結させなかったのかを問うこと から始まり,その上で,総論の完結よりも優先したものは何か。そして何ゆえに戦時 下において検挙につながるような宗教運動に傾斜していったかまで見ていく必要があ るのではないか。日蓮仏法に出会ったことは当然大きいが,体系全四巻以後の発展は,

彼が若い頃から一貫して求め続けてきたものと深く関係しているように思われる。牧 口という人物の生涯を誕生から獄死まで通観して初めて“牧口常三郎”の本当の姿が 浮かび上がってくるのではなかろうか。

 第3 は,戸田城聖を通して創価教育のことを考えてみること。戸田は,19歳で牧口 に師事し,「創価教育」という言葉も,2人の会話から生れた。また,『創価教育学体系』

は,第3巻まで戸田が原稿の整理を担当した。牧口の創価教育について最もよく理解 し,その証明者となった14のが戸田であった。牧口の死後は後継者となり,創価学園・

創価大学を創立した池田大作先生に,創価教育の学校の構想を託したのも,戸田であ る。しかし,創価教育の歴史において,このような大事な位置にいる戸田は,これま でほとんど研究対象とされることはなかったといってよい。「創価教育の源流」の「第 二部戸田城聖」では,創価教育が継承されていく中で戸田城聖が果たしてきた役割に ついて詳しく紹介している。

 そこでは,従来のように戸田を「実業家」とか「宗教家」というような定型的な枠 にあてはめるのでなく,悩み多き青少年期には同人雑誌『囁き』に多くの作品を投 稿15した文学青年であったことなども交え,体系出版以降には,多くの学習参考書16

13 新たに発見された著作や未収録の著作をあわせると,牧口が全集およそ 2冊分,戸田 が全集10冊分以上になる。

14 『牧口常三郎全集・第8巻』(第三文明社),14 ~ 15頁参照。

15 拙稿「支部沈黙と戸田甚一戸田が同人誌『囁き』に投稿した20の作品を手掛か りに―」(『創価教育』第5号,創価教育研究所,2012年),62 ~ 104頁。

16 戸田は,『推理式指導算術』をはじめ 30冊の学習参考書などを執筆している(『第三 文明』2015年6月号,第三文明社,76 ~ 81頁)。

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や教育雑誌17・学習雑誌18を出版したことなども紹介した。これからは,牧口が語っ た創価教育の学校を作りたいとの構想にどのように応じていったか。そして,それを どのように池田に託していったかを考察していく予定である。とにかく,牧口常三郎 と池田大作をつなぐ存在として,戸田城聖の研究にもっと光をあてていかなければな らないというのが私の正直な実感である。

 最後に,池田(大作)研究の足場として,牧口・戸田という人物をどのように位置 づけていくのかということである。21 世紀に入り,世界の各所の学術機関に池田研 究のための研究所等が設置され,多くの研究者によりアプローチされるようになった。

当然,いろいろな角度からの視点が考えられるが,池田大作という人物の核心に迫ろ うとするなら,最も影響を与えた人物について深く知ることは不可欠であろう。

「創価教育の源流」の連載にあたって,次のように記した。

「この池田会長の人格を,既存の〝尺度〟で推し測ろうとしたり,従来の〝常識〟で さぐろうとしてもなかなか難しい。池田会長の基底となる部分まで理解するには,池 田会長に最も影響を与えた人物について知ることが大事である。その人物とは,十九 歳の時から師事してきた戸田城聖会長であり,戸田会長の師,牧口常三郎会長である。

(中略)戸田会長と牧口会長,この二人の歩んできた道を辿ることは,池田会長と創 価学会をより深く知ることにつながる19」。

 

おわりに

 今回,牧口・戸田という 2人のライフ・ヒストリーを追跡して,あらためて実感し たことが 2 つある。

 1 つは,ファースト・ハンドの資料の大事さ。推測を積み重ねて書かれた文章も,

わずか一片の文書の発見で,それが証明されることもあれば,一転して否定されるこ ともある。根拠となる資料をいかに多く集めることができるか,それがライフ・ヒス トリーの生命線である。当然,偉大な人物であればあるほど,1人の人間の力で,また,

一生という限られた時間で出来ることではない。それを乗り越え,対象となる人物を できる限り正確に描くためには,それぞれのトピックについて緻密な研究を行った上 で,それを共有し,積み上げていくことが必要である。今後創立者である池田大作先

17 戦前に戸田が編集兼発行人となった『新進教材環境』『進展環境新教材集録』『新教材 集録』『新教』『教育改造』については,『第三文明』2015年7月号(第三文明社)の 76

~ 81頁を参照。

18 戦前に戸田が編集兼発行人となった『小学生日本』『小国民日本』『少国民日本』につ いては,『第三文明』2015年9月号(第三文明社)の 74 ~ 79頁を参照。

19 『第三文明』2013年1月号(第三文明社),80頁。

18 戦前に戸田が編集兼発行人となった『小学生日本』『小国民日本』『少国民日本』につ いては,『第三文明』2015年9月号(第三文明社)の 74 ~ 79頁を参照。

19 『第三文明』2013年1月号(第三文明社),80頁。

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生について,本格的なライフ・ヒストリーを編んでいこうとするならば,その時まで にどれだけの蓄積を行うことができるかが大事であろう。

 もう 1 つは,牧口・戸田・池田の 3 人が生きてきた,1931 年の満州事変から 45 年 のボツダム宣言受諾までのいわゆる〝15年戦争の時代〟をどうとらえるかということ である。国家間の総力戦の最中では,言論・出版・集会などの活動が厳しく制約され ている。その時代状況を十分に踏まえた上でないと,3人が考えてきたことを正確に 理解できないだけでなく,テキストの誤読すら生じかねない。牧口の三男洋三の妻貞 子の生前の言葉が,今も私の胸に突き刺さっている。

「あの時代を生きた者でなければ,本当のことはわからない」

 しかし,たとえそうであっても,証言を聞き,資料を判別し,読み込んでいく作業 を粘り強く重ねていくことにより,その壁を乗り越えていかなければならないと考え ている。

参照

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