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制度論的解釈について

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アダム・ ス ミス政治経済学の制度論的解釈について

アダム・ ス ミス政治経済学 の 制度論 的解釈 について

田 島 慶 吾

 

アダム・ ス ミスの経済社会学

第一項

本稿 は、ス ミスの経済学 を経済社会学 として把握す ることを目指す ものである。ヽ経済社会学 と は「経済の社会学的条件の研究」、 または、経済の制度論的構造の研究 を意味す る。ス ミスは「商 業社会」として表象 された、優れて経済的な社会 について、その社会構造論的諸条件 を分析 した。

一方で人間の社会的行為、他方で、歴史社会的な諸制度 を中心 とす るこの分析 は第一 に記述的、

客観的分析 であるが、同時 に「人類の諸感情 に基づ く自然的正義の体系の歴史的実現の過程」(「 民社会の自然史」)というス ミスのヴィジ ョン②か ら批判的、規範的な分析で もある。ス ミスの「商 業社会」 に対す る批判の根拠 は、 このヴィジ ョンである。

ス ミスの「商業社会」0の記述的分析 と批判的分析 とはどのような関係 にあるのか。我々は、ス ミスの経済社会学的分析 において、制度 とは諸個人の行為 に とって「 チャンス」 を意味す るもの と考 える。制度 とは、人間の社会的行為か ら生成す る客観的な実在であるが、一度形成 された諸 秩序、例 えば、慣習、道徳、市場関係、法秩序、支配構造、等々 は、諸個人 の行為 に とって、準 (ルール)とな り、同時 に、 それ を遵守す る「チャンス」 を生 む。 これは逆 に言 えば、諸個人

はこの「チャンス」か ら逸脱する可能性 を示 している。

この「尊守」 と「逸脱」の可能性か ら、ス ミスにおいては諸制度 と諸個人 とは常 に「緊張」の 状態 にある。我々がス ミスの体系 において見 るのはシステム論的な均衡 ではない ゝむ しろ諸対象 領域の「緊張」である。ス ミスには「制度 と人格 の緊張」がある。我々が ス ミスの体系 に見 るの は「競合す る諸力の緊張」である。「事物 の自然的過程 と人間の自然的感情」の緊張 こそがス ミス

‑85‑

(2)

の経済社会学 を動学 的、社会変動論 的 な もの とした。

第二項

 

ス ミスの経済社会学

ス ミス経済学の制度論的把握 とは、具体的には、ス ミス経済学 は第一 に、国民国家 を単位 とし ている (「国防 は富裕 よりも重大である。」)、 つ まり、主権者―国民の政治的単位が同時に経済的 単位 となっている。第二 に、「 自由の合理的体系 (rational system of liberty)」 (LJ(B),p.421.

151頁)と呼 ばれ る合法的統治が法制度的、支配構造的要件 をなす。第二 に、『諸国民の富』の主 題 は、資本投下の自然的順序論であ り、国内農業、製造業 に基盤 を持ち、余剰が輸出されるとい う国民経済の特定の型 を示 している。そ して、第四に、 この資本投下の自然的順序 を支 える主体 的根拠 として「生活態度 (mamers)」 が挙 げられ る。我々 は、以上の、倫理 (マナーズ)、 法 と統 治、政治経済学の総体 を「経済社会学」 として把握する。

本論文 の目的は以下の諸点である。第一 に、ス ミスが『感情論』で展開 した「徳」論 を「国民 精神」論、マナーズ論 として読む。第二 に、正義の法、及び、法執行機関 としての国家論 を、法 秩序、支配秩序論 として読む。第二 に、『諸国民の富』の理論的核心 を「資本投下の自然的順序」

論 として把握 した上で (自然価格論ではな く)、 この「順序」を支 える主体的根拠 (動機付 け)と して「国民精神」論 を理解する。第四に、『法学講義』での「最後 に論 じるべ き治世論の最後の部

Fヨ」 として挙 げられた「治世が国民のマナーズ

(mamers)に

与 える影響」「商業が人民のマナー ズに与 える影響」が『諸国民の富』での「主権者の義務」論中、「公教育」論、「宗教的教化」論 に実現 された として、体系が完結 していることを示す。そして最後 に、我々のス ミス理解 は、単 にス ミスにお ける諸制度、制度 と個人 との間の均衡 を見 るので はない。ス ミスは社会的行為 を

「チ ャンスを志向 した行為」 と把握す ることにより、 この「チャンス」か ら逸脱する行為の可能 性 と、「緊張」の存在 を示 した。最後 に述べ られ るべ きは、ス ミスの体系 における「緊張」である。

本論文が「序説」である意味 は、上記の目的が概略的に取 り扱われているか らである。

第二項

 

「チャンス」 とは何か。

ス ミスは「 自然的 自由の体系」、或いは、「商業社会」の実現のための歴史社会的な客観的条件 として、経済的には、市場の自由 (財処分、企業の自由、労働 の自由=自由労働、労働選択、労 働移動

)、

諸規制 の欠如 (消費規制、生産規制、価格規制、等)、 法制度的 または行政的 には、法 的秩序の国家 によって保証 された「安全 と正義」 を挙 げた。 これ らを客観的条件 とすれば、倫理 学で展開 された「行為の一般的諸規則」、或いは、「道徳性の一般的諸規則」 は主体的条件 と見な

(3)

アダム・スミス政治経済学の制度論的解釈について

され よう。

前項 で述べたス ミス経済学の制度的枠組 みへの言及 は、マナーズ論 を別 にすれば、 さして 目新 しい もので はない。我々の新 しい観点 は、ス ミスの社会的行為論 と上記 の制度的枠組 み とへの行 為論的接近方法 にある

0。

ス ミスの社会的行為論 との関係で言 えば、制度 とは行為 に とつて「チヤ ンス」 を意味する。行為のチャンス とは特定の期待 を基準 にして、行為が行われ る可能性、蓋然 性 を意味す るもの としようK61。 ス ミスは行為の「チャンス」の期待の基準 として「慣行」「習慣」

「道徳の一般的諸規則」「法秩序 (法制度

)」

「支配秩序」 を挙 げた。

先ず、慣行 と習慣 について、ス ミスは『感情論』第五部第二編「道徳諸感情 に対す る慣習 と流 行 の影響 について」で「慣行」について次の ように述べている。「様々な職業 と生活状態 にある人々 が親 しんでいる諸対象 は非常 に様々であ り、彼 らを非常 に様々な情念 に慣れさせ るので、 自然 に 彼 らの中に非常 に様々な性格 と態度 とを形成す る。」 (TMS lSt,p.389.309頁)「それぞれ違 った情 念が彼 らに とって慣行的 になるのに違いない。」(ibid.310頁 )ス ミスはこうした慣行、習慣への顧 慮へのチ ャンスを慣行的同感 と呼 んだ。 また、慣習 についてはス ミスは次 にように述べている。

「行為 についての一般的諸規則 は慣習的な省察 によつて、それ らが我々の心の中に定着 させ られ た時 には…慈愛心の間違 った表現 を矯正するのに大いに有益である。」(ibid。

,p.269。

191頁)

更 に、慣行・ 習慣がいわば無 自覚的な行為であるのに対 し、ス ミスは「公平な観察者」概念 を 用いて、「道徳性 の一般的諸規則」(ibid.,p.266.189頁)、「行為の一般的諸規則」(ibid.,p.273.208頁)

を導 きだ し、 これ らの諸規則の顧慮へのチャンスを「義務の感覚」(Cfoibid.,p.273.208頁)と呼ん だ。行為の一般的諸規則の中で、正義の徳 はそれが、「最大の正確 さをもって、それが要求す る全 ての外面的行為 を決定す る」(ibid.,p.309.229頁)が故 に、「正義の一般的諸規則への顧慮」

(ibid.,

p.527.421頁)は「最 も神聖」である とされ、特権化 される。以上のス ミス倫理学 は、「道徳性の一 般的諸規則 を扱 うことによつて倫理学 と普通呼 ばれ るのが適切 な科学」(ibid.,p.525.420頁)と て定義付 けられ る。

道徳性 の一般的諸規則の中で、特 に、「公共社会の力」(ibid。,p.546.433頁 )によつて強制可能 な

「正義の一般的諸規則」(ibid。,p.527.421頁

)、

「 自然的正義の諸規則」(ibid.,p.547.433頁)を「法」

とすれば、ス ミスの挙 げた諸徳の中では「正義の法」のみが固有の意味で「法」 と規定 される。

正義の法が特権的地位 を占めるのは、それが、国家 によって強制可能 な「法秩序」 をな している か らである。 こうした法秩序の強制機関 としてス ミスは「国家」 を挙 げた。

が、同時 に、国家 は身分秩序の維持のための機関であることにより、ス ミスはこの身分秩序、

或いは、支配秩序の顧慮へのチ ャンスを「歓喜への同感」と呼んだ(Cf.ibid.,pp.108‑17.72‑78頁

)。

‑87‑―

(4)

ス ミスは歓喜への同感 を「諸身分の区別 と社会の秩序」(ibid.,p.114.76頁 )への「慣習的な顧慮」

(ibid。,p.117.78頁)とすることによって、「行為 についての一般的諸規則 は慣習的な省察 によっ

て、それ らが我々の心の中に定着 させ られた時には…慈愛心の間違 った表現 を矯正するのに大い に有益である」 との前言に結びつけた。

こうした ものは、「慣行・慣習」 を「行為の事実上の規則性」、「道徳性の一般的諸規則」を「行 為 に対す る規則」、「法」 を「行為 を強制する規則」 とすれば、行為者 にとってはそれを遵守する チャンス(Chance)=「根拠が存在 しているために、一定の確実性 をもって存在 している客観的な 行為の可能性」が与 えられ る。

そしてこのような諸々のチャンスの上 に、個人の利己心の追求のチャンスが与 えられ る )。 そ し て このチャンスの内実 は、「正義 と慎慮」

(Cfoibid。

,p.303.227頁)である(後

)。

ス ミスが主要な 徳性 として挙 げた、仁愛、正義、慎慮、 自己規制の中で「規則」 を持つ とされるのは、正義 と慎 慮のみである

0。

更 にしか し、 この利己心追求のチャンスは同時 に「効用

(utility)」

によって歓喜への同感 とも 結びついている(『感情論』第四部、参照

)。

歓喜への同感 は上述の とお り、「諸身分の区別 と社会 の秩序」への「慣習的な顧慮」 と結びついてお り、歓喜への同感 を行動の基準 とするチャンスは 大 き くなる。

か くして、ス ミスにおいて、諸個人 は慣行0習慣、行為の一般的諸規則、正義の諸規則、法秩 序、支配秩序 によって、行為の「 チャンス」 を与 えられている。 このような諸個人 における行為 のチャンスの総体 を「人格」、そのような人格の集合体 を「国民精神」、或いは、マナーズ と呼ぶ。

第一節

 

ス ミスの道徳哲学体系における政治経済学の占め る位置について。

第一項

 

ス ミスの道徳哲学体系

周知 の ように、ス ミスの道徳哲学体系 は、第一部門 として自然神学、第二部門が「厳密な意味 でそう呼ばれている倫理学」、第二部門が、正義 に関連 していて、「精密で正確な諸規則 と相容れ、

まさにその意味 によって十分で特殊 な説明が可能な道徳分野」、つ まり、自然法学の第一部門であ る正義論、第四部が、「正義の原理ではな く、便宜の原理 に基づいていて、かっ、一国家の富、権 力、及 び、繁栄 を増大 させ るよう意図されている政治的諸規貝

U」

を検討する分野、つ まり、 自然 法学 の第二部門である治世論 となっているC9D。 この内、倫理学 に相 当する分野 は『感情論』初版 (1759年)と して刊行 された。 自然法学 はその末尾で、「法 と統治の一般的諸原理」を取 り扱 う著

(5)

アダム・スミス政治経済学の制度論的解釈について

作 を準備 しているとス ミスが述べた ものに相当す るが、 これ は大 き く、正義論 (Justice)と 治世 (Police)と に別れ、 この治世論の中でス ミスは、後 に『諸国民の富』に結実する諸議論 を展開 した。図式的に言 えば、ス ミスの倫理学 は、市民社会倫理の同感理論 による道徳感情論的根拠付 けを意図 した ものであ り、そこでは人間の自然的諸感情 に基づいた正義の徳が主題化 された。 自 然法学では正義の自然的諸規則=「法 と統治の一般的諸原理」と、「 この諸規則が様々な時代 と社 会の変遷の中で経験 した変革 (「治世、収入、軍備、等、法の対象である全ての もの」

)を

考察 の 対象 とす ることが予告 され、『法学講義』 において「正義論」 と「治世論」が扱われた。 そして、

『諸国民の富』は、「統治、法、 自然的正義の研究 とい うよ り広範 な研究の一部」として位置づ け られた。ス ミスの未完の「 自然法学」 については見解が分かれるところであるが、 ここでは立 ち 入 らない。上記のス ミスの体系の概観 により、容易 に、倫理学 (同感理論 による、人類 の 自然的 諸感情 によって根拠づ けられた正義の徳)→自然法学・ 正義論→ 自然法学・ 治世論→政治経済学

とい う構図が浮かび上がって くる。

第二項

 

ス ミスの方法―制度 と人間本性

ス ミスの道徳哲学の基本的原理 は、人間本性 に由来する不変の諸原理 と可変的な歴史社会的諸 制度 とい う観点である。D.スチ ュアー トはこの点 を以下の ように述べている。

スチュアー トはグロティウス、プーフェン ドル フの自然法学がスコッ トラン ドの各大学で教授 され、その結果、スコッ トラン ドにおける自然法学の伝統が形成 された と述べた後 に、しか し「 こ れ らの著者の法 に関す る理論 はあまりに抽象的であ り、彼等の見解が適用 され る社会の特殊 な条 件 を特定す ることがで きなかった」。 このような事態 は18世紀 の半 ばに「根本的な変化」を見た。

即 ち、モ ンテスキュウの『法の精神』である。モ ンテスキュウが「 自然法学 を、歴史、及 び、哲 学 に結びつけた」。「モ ンテスキュウは法の科学 を立法者 (legislatOr)の様々な目的 を説明す るも の として用いることにより、政治社会 に結合 した。法の科学 は、今度 は、統治 (政

)の

本性 を 説明 した。…人間の精神の諸能力 はあらゆる時代 において同一であ り、 この人間 とい う特殊 な種 によってあ らわにされ る諸現象の多様性 は、単 に人間が置かれた様々な状況の結果 に過 ぎないの である、 とい うことは反論 の余地のない公準である。」いの

自然法学+モンテスキュウの政治社会学がスコッ トラン ド啓蒙の基本的な枠組 みである。 こう した基本的な観点 は、スコッ トが述べた ミラーの証言 によるス ミスのエディンバ ラ講義 における

「市民社会の歴史」の基本的枠組 みをなす ものであ り

(11ヽ

更 に、 自然法学(「自然権 の体系的歴史 化」)とモンテスキュウ『法の精神』 とを理論的歴史 (theOretische Geschichte)の 中で相互浸透

‑89‑―

(6)

させ る試み としてス ミスの歴史哲学 を規定 した、W.Hasbachに よって再確認 された(121(がしか し、Recktenwaldの指摘 に も関わ らず

(10、

ス ミス とモ ンテスキュウの「政治社会学」に関 しては、

十分 に展開 された ことはない)。

更 に、Medickはス ミスの方法 を「 自然的歴史」的方法 と規定 し

(1り

、次の ように述べた。ス ミス の方法 とは、「恒常的な人間本性 と、可変的な社会の状況 という普遍的な理論的想定か ら、経験的 に記述可能 な文化的諸現象、及び、社会的かつ政治的諸制度 を歴史的に説明 し、かつ同時 に批判 的に判断 を下す」

(1動

方法である

(10。

歴史社会的制度 と人間本性 に由来する行為 とい う二つの概念の統一 をなすのは、「社会経済的諸 条件 と人格」の観点である。W.Herlnisがヴェーバーに関 して行 った論断はス ミスにも妥当するで あろう。「人間の生存条件 は『質』に対 して、古風 な言い方 をすれば、人間の『徳性』に関 して何 をもた らすか、 という問題」

(1の

「一方では人間のPerson、 つ まり、人間性の無限の形成可能性 と、

他方では『生活諸秩序』¨・社会的諸秩序 と諸力… との緊張関係が実際彼のテーマではなかったろ うか」

(10。

しか しなが ら、行為 と制度 とは相互 に外的な ものが関係 し合 うのではない。両者 は「個 人の側 にお ける社会的規範 の内面化 と個人 的利 害 の社会制度 へ の客体化 の絶 え間 ない相互 関 係」(10の中にあるが、根元 は個人の社会的行為、或いは、人間の普遍的な原理 に由来す る行為であ る。我々は、ス ミスにおいては行為 とはむ しろ「ハ ビツゥス(habitus)」 と呼ぶべ きものであると 考 える。歴史社会的 に可変的な諸制度 と不変の人間本性 に由来す る諸原理の結節点 は、生活態度

(manners)と して規定 される。

ス ミスが人間本性の諸原理 と見な した ものは、人間の諸情念 に由来す る、第一 に、倫理学 に関 する命題で、人間諸感情の他人 のそれへの依拠関係 (reference)で ある。第二 に、富追求の原理 である「 自己の状態 を改善」す る性向(経

=富

に関す る原理

)、

第二 に、偉大 さを求 める支配本 能、或 いは、評価 (esteem)を求める性向 (政

=支

配 に関する原理)である。 これ らの諸原理 は『感情論』初版 において次の ように対象領域 を形成する。

「全ての一般的諸規則 は法 と名付 けられるのが普通である。 こうして、諸物体が運動の伝達 に おいて守 る一般的諸規則 は運動の諸規則 と呼ばれ る。 しか し、(1)我々の道徳諸能力がその検討の 対象 となるあ らゆる感情 または行為 を是認する、 または、否認す るに際 して守 る一般的諸規則 は はるかに正当にその ように名付 けられるであろう。 それ らは法 と呼ばれ るのが適当な ものに対 し て、即 ち、(2)主権者が彼の臣民たちの行動 を方向付 けるために定 める一般的諸規則 に対 して、は るかに大 きな類似性 をもつ。 それ らは後者 に似て、人々の自由な諸行為 を方向付 けるための諸規

(7)

アダム0スミス政治経済学の制度論的解釈について

則であ り、 それ らは合法的支配者 によって規定 された ことが非常 に確実な ものであ り、報償 と処 罰 とい う強制力 をも伴 うものである。」(TMS lst,p.215。 285頁)また、 この文 に続いて次のよう

にある。(3にの世 において外面的な繁栄 と逆境 とが普通 に配分 され る一般的諸規則」(ibid。同上

)。

即 ち、倫理、法 と支配、経済である。上記の引用文では、人間の諸行為の一般的諸規則 は「法」=

「法則」とされ、それぞれに対応す る対象的領域 の存在が示 されている。即 ち、「我々の道徳諸能 力がその検討の対象 となるあらゆる感情 または行為 を是認す る、 または、否認す るに際 して守 る 一般的諸規則」の支配す る領域 とは、「道徳」の世界であ り、「主権者が彼の臣民たちの行動 を方 向付 けるために定 める一般的諸規則」、「人々の自由な諸行為 を方向付 けるための諸規則」の支配 す る領域 とは「法 と統治」の世界であ り、「 この世 において外面的な繁栄 と逆境 とが普通 に配分 さ れ る一般的諸規則」の支配す る領域 とは「経済」の世界であると理解で きる。

我々は この ような人間不変の諸原理 と、 それか ら展開され る諸制度 とい う観点か ら、 ス ミスは 社会的行為一般 を「法」(上記の意味での)を 志向す る行為 として規定 した、 と考 える。の。我々は こうした行為論的観点か らス ミスの政治経済学の制度論的解釈 を試みるが、 しか し、我々の所論 を展開す る前 に、従来のス ミス研究 を一瞥する必要があろう。

第二項

 

政治経済学 と正義論

第一項で述べたス ミス道徳哲学体系 における政治経済学 の位置 に関 して、有力 な、或 いは、通 説的な解釈 とは、 ここで仮 に「経済学の生誕派」と名付 けるものである。つ ま り、「経済学の生誕 派」とは、「ス ミス道徳哲学か らの経済学の独立」を意味 し、近代 自然法 を道徳感情原理 によって、

経験的主体化することによって、人間性 の経済心理的分析(『感情論』における同感原理 による徳 性論)から、同感内容 の社会的被規定性 の認識 を経て、社会的規定性の「環境」分析 に至 り、政 治経済学へ と発展 した とす る思惟である。

1ヽ

この際に、近代大陸 自然法の思考様式 (法的諸権利 を中心 とす る諸概念、問題設定、論理展開

)の

受容 の もとにス ミスの経済学が形成 された とす る。幼。これは例 えば、「ス ミスは単 に改革 と立法 とを欲 したばか りでな く、そのために社会 を研究 したのである。単 に人間性 の経験心理的研究 に入 ったのではな く、環境 の分析の研究 に没頭 した のである。」。。(高島善哉

)、

「同感の主観性認識がス ミスにおける歴史的環境分析 を必然な らしめ、

それが経済学の生誕 を導いた」。。(田中庄司)、「ス ミスが公民的な徳 よりも厳密 な正義 を選 び、能 動的 自由よ りも受動的 自由を選 んだ ことは明 らかである。これ こそ、自然法学の伝統の選択であっ た。」(25)(Hont and lgnatieff)と 具体化 され る。

‑91‑

(8)

「経済学の生誕派」が従来の、 諸個人 の利己心の自由な追求が、結果 として社会全体の富裕化 をもた らす"式(20の俗流ス ミス解釈 に比較 して優れている点 は、ス ミス政治経済学 に先行す る「正 義の法」という制度的枠組 みの存在 を認識 している点 にある。 ここで、「正義」とは「消極的な正 義」、つ まり、 自由権 (生命、身体)、 所有権、契約権 (個人権

)を

侵害 させ ない正義の法 と、侵 害 しない限 りで実現 される正義の徳 とを意味 し、 このような正義の法がス ミス経済学の「法的要 件」として把握 され るという理解である。更 に言 えば、『感情論』で特権的な位置 を占める正義の (消極的な正義)は、他の諸徳 とは異な り、正義の法 として厳格化 され、つまり、個人の善悪 の判断 を許 さず、立法機関によって強制可能であ り、 この点で『法学講義』「正義論」における「法 (私法、家族法、公法

)」

の議論の前提 とな り、正義の法 をルール として尊守すれば、個人の利己 心 に基づ く自由な (つま り、他人の権不Uを侵 さない とい うことによって他者 を志向 し、かつ同時 に、その限 りで自由な)諸行為 は、社会全体 の富裕化 を実現する方向へ誘導 され る (治政論 『諸 国民の富』

)、

とい うのである。この点 に古典的 自由主義の核心 を見いだ したのはハイエクである。

「 自由主義の理論が正 しい行為の規則 に与 えた重要性 は、単 なる個人や集団の行為一各々が 自分 の知識 に基づ き、 自己の目的を追求す る行為一の自生的ない し自発的秩序 を維持す るのに、それ らの規則が不可欠な条件であるとい う洞察 に基礎 を置 く。少な くとも、十八世紀の自由主義の理 論家の偉大 な創始者、デイ ビッ ト・ ヒュームやアダム・ ス ミスは、利益の自然的調和 を想定 した のではな く、むしろ様々な諸個人の異なる利益 は適切 な行為の規則の尊守 によって調停で きると 主張 したのである。」。つ

諸個人の利己的な行為 を誘導 して、結果 として社会全体 の富裕化 を実現するという「 自生的秩 序」の概念20がス ミスにおける「経済的 自由主義」の骨子であるとするこのような考 え方が、い わゆる「マ ンデヴィルの逆説」である Private Vices,Public Benefitsを 、例 えば、マンデヴィ ル自身の「巧妙な為政者の手 (the dextrOus management of a skilful politician)」 (2oに依 る

ことな く、克月艮した もの とされ る●0)。

ス ミスの経済学 を正義論の立場か ら見れば、消極的正義 を遵守する限 り、個人の利己心 に基づ く行為 は、結果 として社会の全般的富裕 (消費財で定義 された富裕

)を

実現 し、 この もとでは、

配分的正義 はそれな りに実現 され るとす るものであるカメ

3り

、 この考 えは同時 に、経済 と政治 (統 治構造、政体)と の関係 についての自由主義的理解 に結びつ く。「正義の法」は立法 によって公共 的に強制可能であ り、それ故 に、政体 と政府 とにむすびついている。広範な分業 と商品交換の体

(9)

アダム・スミス政治経済学の制度論的解釈について

系に基づ く市場関係 は、社会的富裕化 を実現す る とい う経済学的意味 においてばか りでな く、等 価交換 は交換的正義 の実現であ り、交換が任意の ものである限 り、外的強制、権威 の排除、人 に よる人 の支配の最小化 を実現す る。 こうした市場関係 は外的な諸権威、諸権力 (人による人の支 配)を 最小限度 にまで排除 した社会関係である。JoCropseyは この市場関係の政治学的意味 を「政 治の脱道徳化、外的権威 の消滅」と把握 した。ao Pierre Rosarlvallonの 巧 みな表現 を使 えば、「市 場思想 は、社会関係 を脱人間化す る事 によって、諸個人 の自律 という理想 をある意味で完成す る。

市場 は反位階制的組織化 システムの理想型 を表す」

00。

「ス ミスにおいては、市場 は政治的で社会 学的な概念である。 この ような もの として市場 は、経済的意味 を持つ」。つ。

道徳哲学の体系か ら「生誕」 したス ミスの経済学 とは結局、 ロビンズの言 う「経済的 自由の体 (System Of Economic Freedom)に 帰着す るように思われ る。つ まり、「或 る法 と秩序の枠 組 み と幾つかの必要な政府 によるサー ビスが前提 されれば、経済活動の対象 は、 自生的な協働 の

システム (spontaneOus co―operation)に よって最 もよ く達成 され る」(35)とす る考 えである。

第二項

 

シヴィック・ ヒューマニズ論、 または、「立法者の科学」論

以上 の主流的解釈 に対 して鋭 く対立す るのは、古典的共和主義 の伝統 に由来す るシヴィック・

ヒューマニズム論、 または、「立法者の科学」論である。 自然法学の伝統が「法」「権利」(主観的 権不

U)で

あるのに対 し、 シヴィック・ヒューマニズムの伝統 は「義務」 と「人格」「卓越性 として の徳」である。つ まり、ア リス トテレス由来の古典的道徳哲学の前提す る「 シヴィック・ ヒュー マニズム」的人格、「市民的人格」「公共的徳性」の共同体への参画 による実現 を目指す。Pocock の定義 によれば、「 シヴィック・ヒューマニズム」 とは「 自足 に向かっての個人の発展が可能であ るのは、ただ個人が市民 として、つ まり、 自立的に意志決定 を行 う政治共同体、つ まり、ポ リス ない し共和国の自覚的 自立的参加者 として行動す る場合だけである、 と主張する思考 スタイル を 指す。」00

このような立場 はス ミスの次の文章 に親和性 を持つ。「政治学の研究 ほ ど、公共精神 を促進する 傾向が多い ものはない。即 ち、市民政府 の様々な体系、それ らの長所 と短所 について、我々 自身 の国の政治構造、諸外国 との関連 におけるその国の地位 と利害関係、その商業、その防衛、それ が苦労 している不利 な点、それが晒 され るか もしれない危険、前者 をどの ようにして除去 し、後 者 をどのようにして防止す るかについての研究である。 この理由で政治 についての諸研究 は、 も

しそれが正当であ り、 また妥当で、実行可能 な ものな らば、思索のあらゆる仕事の中で最 も有用 である。」 (TMS lSt,p.355.284頁)

‑93‑―

(10)

シヴィック・ ヒューマニズム論の立場 に立つ論者 にあっては、その主題 は「徳性」であ り、更 に言 えば、循環論的歴史観 に基づ く、共同体 (共和国)解体期 おける商業活動 による富裕化 (=

「奢修」。つと観念 された自己利害の追求)と徳性 (政治的、公共的徳性)の腐敗 の問題である。商 業活動が奢修 を生み、 この奢修が共同体の解体 に結びつ くのは、それが公共的徳性、公共への参 加 によって実現 され る政治的徳性 を腐敗 させ るか らであ り、この徳の腐敗 に対す る解毒剤 として、

公共精神、武勇の徳、立法者、政治家、等の観念が強調 され る。 このような古典的共和主義の伝 統 は政治学者 によって広 く知 られていた。

0。

イ ングラン ドにお けるコモ ンウェルスマ ン (Com…

monwealthman)に関 しては、Caroline Robbinsの 先駆的研究

(39)が

ぁるが、「 シヴィック・ ヒュー マニズム」の言葉 を敷衛化 したのは、言 うまで もな く、J.G.A.PocOck のであることは周知のこと であろう。

シヴィック・ ヒューマニズ論の影響 は、ス ミスを共和主義者 として、「立法者 (legisiatOr)」 念 を強調 したA.So10moが41、ス ミスの「失われた政治学」、つ まり、公共の利益 に対立す る諸個人、

及び、諸集団の活動 を抑制す ることを目指 した憲政機構 に関する政治学 を考察 したDoWincド4a や、Winchの所論 を受 けたPeter Mcnamaraの「政治家の科学」め、ス ミスの自然法学 を「法 と 統治の一般的原理」の基礎・ 批判的規範 となるべ き「正義 を原理 とする法の体系」の構築 とした HaakOnssenの「立法者 (legislatOr)の科学論」(4りHaakonssenの影響 を受 けたJ.T.Youngの 議論

4り

、独立 した土地所有者 による「 シヴィック的政治」によって商業の もた らす道徳的腐敗 を 防止す る とい うcivic mentalityを 研究 したJ.Dwyerの所論

(4o、

科学的ス トア主義者 としてのス ミス解釈 を打 ち出 したAthol Fitzgibborlz つ、ス ミスの慎慮の徳の考察から、ス ミスをシヴィック 的伝統 の代表者 とするAnton Heuber(48)、 N.Phillipson(49)、

(50、

枚挙 に暇ないほ どである。

こうした論者 に通底す るス ミス解釈 とは、ス ミスは、その倫理学の部分 において実現 されるべ き「卓越性」 としての徳、人間的善 を、その政治学 (エコノ ミー論 を含む

)に

おいてそれ らを実 現すべ き諸制度 を考察 した、 とし、従 って、ス ミスの道徳体系か ら、経済学が分離、独立 した と す るのではな く、経済学 は道徳哲学の制度的一分野 とされる。 このような考 えがア リス トテレス

の伝統

(51)に

連 なるものであることは明 らかである。

第二項

 

シヴ ィック ヒューマニズム とオイコス経済

しか しなが ら、我々が シヴィック・ ヒューマニズム的ス ミス解釈 を取 らないのは、シヴィック・

ヒューマニズム論 はオイコス経済 を想定 しているように思われるか らである●幼。

17世紀か ら18世紀 にかけて、経済学が一つの科学(国民経済学)と して成立 した時、ア リス ト

(11)

アダム・スミス政治経済学の制度論的解釈について

テンス由来の「家政学 (オイコス

)」

の性質が変化 し、「国民経済学」 として形成 された点 に、旧 ヨーロッパ社会の根本的な変化 を見たのは、例 えば、オ ッ トー・ ブル ンナーである。ブル ンナー はその古典的な論文「『全 き家』 と旧 ヨニロッパの『家政学』」において、「家政学」とは「古典古 代 と中世 と近世初頭の意味 における『哲学』の全体系の中の一分肢 に過 ぎない」0とし、次のよう

に述べている。「 この『哲学』は周知の ように論理学、形而上学、 自然学、倫理学か ら成 るもので ある。倫理学 は人間 と共同体 の全領域 を包含 してお り、二つの領域、即 ち、狭義の、個別的人間 の学 としての倫理学、家の学 としての家政学、ポ リスの学 としての政治学か ら成 っていた。…倫 理学 と政治学 において も、対象の統一 を作 り出 しているものは、支配の原理、即 ち、個人 の場合 には衝動 に対す る理性 の支配、ポ リスにあっては統治者の支配 なのである。…倫理学の中心概念 は徳 (arete,宙rtus)であった。倫理学、家政学、政治学の頂点 をなす ものは、それぞれ、人間、

家長、政治家の徳論 であった。」●。

家政の単位 である「全 き家 (das garlze Haus)」 の家長のみが政治的義務 を持 ち、 この義務 に よって政治共同体 に参画 し、参画す ることによって「徳性」を実現す るとい う思惟である。更 に、

家政学 は、「家 における人間関係 と人間活動の総体、即 ち、夫 と妻、親 と子、家長 と奴隷、及び、

家政 と農業 において必要 とされ るもろもろの職務 の達成 を含む」。つ。 このような「家政学」の伝統 を見 ると、我々 は、例 えば、ハチ ソンの「道徳哲学」 における構成 を想起せ ざるを得ない。ハチ ソンの道徳哲学の体系●0は「倫理学、エコノ ミクス (OeconOmicks)、 政治学」か らなるが、そ の「エ コノ ミクス」で論 じられ る内容 とは、「家族 の成員の法 と権利」 とされ、具体的には、「婚 姻、支配者 と従僕の権利」である。上記 の「倫理学」が近代 自然法学 とシヴィック・ ヒューマニ ズム論 を整合的に理解 しようとした とされるハチソンの道徳哲学の体系 に反映 されていることは 明 らかである。そして更 に、ハチ ソンが「エ コノ ミクス」 として観念 した ものが「オイ コス」で あることは明 らかである。

ハチ ソンにおいては、『道徳哲学入門 (A Short lntroduction to Moral Philosophy)』 (1747)、

第二部「 自然法の諸要素 (Elements of the Law of Nature)」 第十二章「商品 と貨幣の価値」が 唯一経済的な議論であ り、第二部「エ コノ ミクス と正義の諸原理」が三章 にわた る「エ コノ ミク ス」部分である。『道徳哲学体系 (A System of Moral Philosophy)』 (1755)では、「商業 にお ける商品の価値、及び、貨幣の本質」は第二部で考察 され、第二部 は「政体 (Ci宙I Polity)に いて」となってお り、「エ コノ ミクス」に該当す る部分 はその第一章か ら第二章で考察 されている。

ハチ ソンは「家政学」にいたるまでの議論で自然法学 に由来する諸権利論 を議論 しているが、現 在我々が経済学 とい う言葉で想像す るような固有の議論 は価値論 を除 けばない。つ。つまり、近代

‑95‑―

(12)

自然法学の影響 を受 けつつ も、ハチ ソンは「オイコス」的思考か ら逃れ ることはで きなかった こ とは明 らかである。ス ミス もまた、『法学講義』「正義論」「家族法」の中で「夫 と妻」「親 と子」

「主人 と召使 い」「後見人 と被後見人」等 を論 じているが、 この部分が、その経済学 との関係 にお いて最 も関係の希薄な部分であるとの印象は否めない。つまり、 この部分 は、ス ミスの経済学=

「政治経済学」 とは対立する「家政学」 に由来す る部分であるか らである。

私見 によれば、 シヴィック・ ヒューマニズ論的思考、つ まり、土地所有 (不動産所有

)に

基づ く、 自足的経済である家政 を経済的、及び、政治的単位 とした、政治的共同体への参画によって 徳性 を実現するとい う思惟 とは、明示的にはではな くとも、 こうした「 オイコス」的見地 を継承

していると思われ る。

第二節

 

ス ミスの経済学の制度論的解釈 について。

我々がス ミス解釈 として選択すべ きものは、後者ではない。何故 な ら、前述 した ように、シヴィッ ク・ ヒューマニズム論が想定する経済 とはオイコス経済であるか らであ り、ス ミスの政治経済学 はオイコス経済の否定の上 に成立 していると考 えるか らである。

しか しこれは必ず しも前者 を選択す ることを意味 しない(後)が「社会の安定 と秩序ある繁 栄 を人間の徳 とい う変数 に依存 させ るのではな くて、制度 とい う構造 に依存 させ ようとした」60

とい う基本的観点 9を維持 され るべ きであろう。

近代 自然法の影響 にしろ、 シヴィック・ ヒューマニズムの影響 にしろ、中心 となるのは、人間 の不変の本性 と可変的な社会歴史的な諸制度、或いは、人間本性 を情念 とすれば、情念 と社会的 諸制度の関係である。

ス ミスは人間の本性 を情念 として把握 してお り、詳細 は別稿〈

6の

に譲 るが、社会的、非社会的、

利己的の各情念がそれである。 この ような諸情念がいかに可変的な歴史社会的な状況の もとで、

行為の適宜性 として意味づけられ、或いは、情念が情念 を規制することにより。

1)行

為の一般規則 として、行為の準則 とな り、制度 として外化 し、逆 にこの制度の もとで、人間の行為 に対 して影 響 を与 えるかが、行為論的に見たス ミスの方法である。経済学の生誕派 において、正義の法、及 び、政府 による「正義の法の執行」がス ミス経済学の制度的枠組み として理解 されていることを 見た (情念 としての利己心 を誘導す る法制度)が、 しか し、問題 は、例 えば、ス ミスは利己心 を 制御す るのに正義の法 という制度だけで十分であると考 えたのか、或いは、それに加 えて、宗教、

慣習、道徳、教育 という社会的制度が不可欠であると考 えたのか、である。後者の問いにイエス

(13)

アダム・ スミス政治経済学の制度論的解釈について

と答 える立場 を、 ス ミス経済学 の制度論 的解釈 、 と呼ぶ。

ス ミス経済学の制度論的解釈 において重要視 され るものは(正義論 を除 けば

)、

具体的 には、教 会制度、家族制度、教育制度、等の社会制度である。 このような立場 は、 ロビンズが「ス ミスの 理念的な経済 とは、経済的活動 を保障する道徳的、法的な諸規則 と支持 とい う宗教的、社会的、

政治的な制度的構造 を前提 としている」 としてむ しろ批判的 に展開 したカメ

6幼

、ス ミスの制度論的 解釈 の典型的かつ代表的な理解 は、例 えば、NoRosenbe■ ♂60でぁろう。Rosenbergは従来のス ミ ス研究で「無視 された来た主題 とは、個人の利己心の追求 をより広い社会の利害 と調和 させ るよ うな社会の制度的諸構造 を規定す るとい うス ミスの努力である」 としてス ミスの制度論的解釈 を 試みた。更 に、ス ミス とヴェブレン、コモンズ との上ヒ較 を試 みたSober6り、ス ミスの基本的な枠組 み を、憲 政 的、法 的 な保 障 ばか りで な く、非 法 的 な、宗教、慣 習、道 徳、教 育 に求 めたW.

SammuelS6り、ス ミスの政治経済学 を「十八世紀的枠組み、前産業革命期」にのみ妥当す るもので あ る とす る WoS.Gramm(60、 制 度 論 の観 点 か ら「立 法 者 (legislator)」 概 念 を強 調 したJ.Z.

Mulleメ

6つ

を挙 げることができる。こうした立場 に共通す る見解 は、市場 メカニズムを有効 にする のに必要な「社会的枠組 み (Social Framework)」 の概念である。つ まり、市場 その ものが「制 度」 として把握 されている。更 にこの ような観点 は、いわゆる「社会的市場経済」の概念へ と通

じるものである●0。

我々が以下で展開す るのは、 こうした制度論的解釈 によるアプローチである。が しか し、我々 は「制度」 という言葉 を、特定の社会制度 として把握せず、最 も一般的な意味 において用いる。

即 ち、「制度」 とは「諸個人 によって一般的に承認 された思考 と行為の習慣的な様式」"と定義す る。

第二節

 

ス ミス経済学 と制度

第一項

 

経済社会学

我々は以下で、ス ミスの政治経済学 を国民経済形成 の論理 として把握する。 この、特定の構造 を持つ国民経済の制度的枠組 みの考察 を経済社会学的接近 と呼ぼ う。「経済分析 は人々がある時 に いかに行動す るかによって もた らされ る経済効果 は何であるか とい う問題 を取 り扱い、経済社会 学 は人々 をして この ような行動 に至 らしめた ものは何であるか とい う問題 を取 り扱 う。」0

我々 は、国民経済学形成 の観点か ら見た場合 のス ミス経済学の制度論的枠組 み と言 う場合、

=国

民精神、或いは、マナーズ論、正義の法

=法

的要件、統治

=支

配構造、経済

=資

本 の自然

‑97‑―

(14)

的投下論 に基づ く国民経済形成論、の四点 を考 えている。

我々は、ス ミスにおいて倫理 とは、マナーズ (経済 に対 して選択適合的な生活態度)であ り、

「商業社会の法的要件」(legal needs of a commercial society)」 (Jolm Durln)C71)と しての法 と 市場経済 と適合的な支配構造論である統治形態 とを法秩序、支配秩序 とする。両者 は一括 して合 法的支配 とも呼べ る。即 ち、ス ミスにおける支配の社会学である。 このような制度的要件の もと で、ス ミス経済学 は国民経済形成の論理 として成立 した。以下、順 に展開する。

第二項

 

ス ミス道徳哲学の構成 と「治世論の最後の部門」

『感情論』で展開された倫理学 (徳性 に関す る判断能力 と徳の本質)はス ミスの自然法学 (『 学講義』)で展開 され る「法 と統治の一般的諸原理」、特 に、正義の感情論的基礎づけを媒介 とし て、 自然法学の第一部門である「正義論」の前提 となるべ きものであった。後に『諸国民の富』

において展開され る政治経済学 は、『法学講義』では「治世論」として考察 されている。「正義論」

は治世論の前提、或いは、市場経済の法的要件 としての位置づけを与 えられ、その政治経済学 に 先行す る歴史社会的前提 を明 らかにす る。倫理学→正義論→治世論の展開は、人間諸性 向の分析 か ら、 これを規定す る社会的環境要因の分析 として把握 されるが、我々が ここで注目するのは、

『法学講義』「治世論」の組立 である。

「治世論」の対象は、「一国の貿易、商業、農業、製造業 に関 してなされ るあらゆる諸規制」(LJ

(A),p.6。

)であ り、その目的は「一国の富裕 を促進する」政府の諸意向が「 どの程度、 この富裕 を

促進す るか」(ibid.)に答 えることである力

Y7幼

、その構成 を見 ると (Cf.LJ(A),p.353.)、 治世論 の最後 は、「商業の良 き、または悪 しき影響 と、悪 しき影響 に対す る自然の治癒法」(ibid。)となっ てお り、 これはLJ(B)「治世論」の末尾における「治世論の最後 の分野、つ まり、商業の国民の マナーズに与 える影響 を考察 しよう」(LJ(B),p.326.538頁 )と して周知の分業批判論 として具体 化 されている。つ まり、ス ミスの『法学講義』 における「治世論」の「最後の分野」 とは「商業 の国民のマナーズに与 える影響」なのである。そして、 これは『諸国民の富』第五編 における「主 権者の義務」論で展開 された、主権者の第二の義務 としての「公教育」論、「教化」論 に直結 して いる。

ここで注 目したいのは、「マナーズ」である。我々はこれを「生活態度」と訳す。 ここで、 もし、

『感情論』における徳論が我々が「生活態度 (mamers)」 と把握するもの と同 じならば、ス ミス の体系 は完結する。つ まり、『感情論』での議論 は、同感 と正義 とを中心 としつつ も、マナーズ論 として読 む ことが可能であ り、 これが更 に、法 と統治の人間学的前提 とな り、法、統治、経済 と

(15)

アダム・スミス政治経済学の制度論的解釈について

い う制度的環境の もとで、治世論の最後 において、「商業の国民のマナーズに対する影響」が考察 され るとすれば、 ここでは、マナーズに関 して前提一被前提の関係が成立 し、体系が閉 じること になる。

第二項

 

正義の法 と統治 一、正義の法

正義の法 に関 してはそれがス ミスの「商業社会」の法制度的枠組 みをなす ことはこれ まで十分 に言われてきた。『感情論』初版で主題的な徳性 とされたのは「正義」、消極的な正義であつた。

ス ミス自然法学の目的は、同感理論 によって市民政府が導かれ るべ き法 と統治の諸規則 を根拠づ けることにある。市民政府の第一の義務 は、正義の徳か ら由来す る正義の諸法(「隣人 の生命身体 を守 る諸法」「隣人の所有権 と所有物 を守 る諸法」「他の人々 との約束 によつて、隣人 に帰属する ものを守 る諸法」(TMS lst,p.84.132頁))の維持である (「正義の目的 は侵害か らの防止 にあ る。 そして これ は市民政府 (c市il government)の基礎である」 (LJ(B),p.398。 90頁))。 正義 の諸規則、或いは、正義の法 は諸個人の利己心 を誘導 して、結果 として社会全体 の富裕化 を実現 す る「ルール」 となる。正義の諸規則 はそれが強制 され得 るとい う点でその他の諸徳、仁愛や慎 慮 の徳 とは異なっている。 この法の強制執行機関 は「国家」 となる。ス ミスは『法学講義』 にお いて「治世論」に入 る前 に、「商業社会」の法制度、統治機構 とい う制度的要件 を簡潔 に「 自由の 合理的体系 (rational system of liberty)」 (前)と総括 した。「 自由な合理的な体系」 とは「 自 由 と財産 に対す る完全 な保障」 (LJ(B),p.421.152頁)、「適度 に制限 された様々な統治形態 と自由 と所有の安全 との幸福 な混合物」(ibid.151‑52頁)とされ、「 自由の合理的な体系」が「 自然的 自 由の体系」 に先行す る政治社会的な枠組みをなしていることを認識 している。つ まり、ス ミスの 言 う「 自然的 自由の体系」 とは、政治社会的な「正義」 を前提 している とい う認識が示 され る。

二、支配 について。

「支配」 とい う概念がス ミスに とって、人間不変の諸原理の一つ と考 えられていた ことは強調 すべ きことである。ス ミスは支配本能 を説得本能 と等値 した上で次のように述べている。「我々が 信 じる人 は必然的に我々がそれ らに関 して彼 を信 じる、その物事 において我々の指導者であ り指 揮者である。我々 は彼 を一定の程度の尊重 と尊敬 をもって見上 げる。…信 じられたい とい う欲求、

他の人々 を説得 し、指導指揮 したい とい う欲求 は我々の自然的諸欲求の全ての内で最強の ものの ように思われる。 それは恐 らく人間本性の特徴的な台旨力である会話能力 (faculty of speech)の

‑99‑―

(16)

基礎 となっている本能である。他の どの動物 もこの能力 を所有 していない し、我々は他の どの動 物 において も、その同類たちの判断 と行動 を指導指揮 したい とい う、どんな欲求 も発見 しえない。

大 きな野心、本当の優越性への欲求、指導指揮す ることへの欲求 は全 く人間に特有の ものだ と思 われ るし、そして会話 は野心のための、本当の優越性 のための、他の人々の判断 と行動 とを指揮 指導す ることのための偉大 な道具である。」 (TMS 6th,p.336.437頁 )

更 に、ス ミスは分業

=交

換 において も、 この原理が妥当す ることを確認する。 ス ミスは「交易 し、取 り引 きし、交換 を行 う人間の性向が、分業の原因である」と述べた後で、「 この交易すると い う人間性向 を基礎づ けている人間の精神の原理 とは何かを問 うならば、それは、全ての人間が もっている説得す るとい う自然的性向である。― シリングを相手 に与 えるとい うことは、我々に は、実 に単純で、平明な意味 を有 していると思われるが、実際 は、そうすることがあなたの利益 にかなっているのだか ら、あなたはそうすべ きであると説得す る議論 を提供 しているのである。

人間は常 に、事柄が 自分たちに とって重要でない時でさえ、相手 を自分の意見 に従わせ ようと努 めるのである。」(LJ(A),p.352.)

「支配」 と言 うことが、ス ミスにおいて人間本性の不変の原理 として把握 されていた ことは以 上か ら明 らかであろう。つ。

三、支配構造 または統治の形態

上記の「支配」はス ミスの体系において「統治論」 として展開 され る。つ まり、「市民政府」論 である。ス ミスは市民政府の第一の義務 を「国防」としているが、ス ミスはここで、「国家の英知」

論 を個人 の利己心 を越 えるもの として導入 している。「他の諸技術 の場合、分業 は個人 の慎慮 に よって導入 され る。 そ してその場合、彼等 は多数の生業 に従事す るよりも、特定の生業 に限定す る方が、 よ りよく自分たちの私的な利益が増進 された りす るとい うことを承知 している。 ところ が、兵士 という生業 を他の全て とは独立 に一つの特殊 な生業 になしえるのは国家の英知だけであ る。」(WNI,p.697.1019頁)国民経済 に先行する国民国家の存在 は個人の利己心 には還元 しえな い次元 を持 っている。「国防は富裕 よりも重大である」との認識 こそ、ス ミスにおいては国民国家 がその限界 をなす ことを示す言葉 はないであろう。

ス ミスは、市民政府が「一定の服従 を前提」(WNⅡ

,p.710。

1035頁 )してお り、そのために正義 の厳格 な執行、及び、支配―被支配の関係の維持 を政府の第二の義務 とした。4ゝ 統治 とは、財 の 不平等 を前提 として、所有権の安全 を確保することであ り、政府 とは所有権 の安全、正義の諸法

(前)の強制機関である。

(17)

アダム・ スミス政治経済学の制度論的解釈について

ス ミスは統治の基本原理 として「功利 の原理 と権威 の原理 (the principles of authority and

utility)」

(LJ(B),p.401.98頁Cf.LJ(A),pp.200‑01.p.215。

)を

挙 げたが、「功不りの原理」 とは、

「社会の正義 と平和」を維持す るための「公共的な功利感 (public utility)」 (ibid。,p.402.同)に 基づ くものであ り、「最 も貧 しい もので も最 も富 める者、及び、最 も有力な ものによる侵害 に対 し て補償 を得 ることがで きる」(ibid.100頁 )と され、「侵害か らの防止」とい う点で上記の「法秩序」

と結びついている。支配関係、身分関係の維持 は「権威 の原理」によって説明 され、 これは「我々 よりも優れた ものに対す る同感 (our sympathy with our superiors)」 (ibid.同

)に

その基礎 を 持 ち、特 に、「富者」の境遇 に対す る同感がその根拠であるとされ る。 これは『感情論』における

「歓喜への同感」 によって基礎づ けられた。つ。

従 って、ス ミスにおいては、市民政府 は、侵害か らの防止の点で法秩序の強制機関であ り、身 分秩序の維持 とい う点では「歓喜への同感」 に結 びつ くとい う二重の原理 を持つ。

ス ミスは更 に、第二 としてある種 の公共土木事業 と公共施設の建設、維持 を挙 げたが、 これに ついては後述 しよう。

第四項

 

法秩序 (Rechtsordnung)、 支配秩序 と経済の関係

上記の法 と統治 に関するス ミスの見解 は周知の ことが らである。 しか しなが ら、我々は更 に先 に進みたい と思 う。法制度、合法的統治が「 自然的 自由の体系」の前提である とはどのような意 味であろうか。ス ミスにおいては、「 自由の合理的体系」とは単 に、法制度的、政治的制度 として 把握 されているのではない。それ は、「法秩序」、及び、「支配秩序」として理解 されているように お もわれ る。

0。

つ まり、ス ミスはここで、個人の行為のチャンスの基準 として法秩序・ 支配秩序 と経済秩序 と の関係 を述べているわ けである。法秩序・ 支配秩序 は、行為の基準 として経験的に妥当す る秩序

として個人 に理解 され る。 この法秩序・支配秩序 により「個人 の利害関心 は様々な影響 を受 ける。

この事実 により、個々人が経済的財 に対する処分力 を保持 した り、或いは、一定の条件下で、将 来 この ような処分力 を獲得 した りす るチ ャンスは、計算可能 なチャンス となる。」(Weber,N憔

σ %%グ Gasθ

JJsσ

,S.187.495覇

)

我々 は、慣行・ 習慣 に対 するチ ャンス (「慣行的同感」

)を

「行為の事実上の規則性」 として、

「道徳性の一般的諸規則」 を基準 にして行われ る行為のチ ャンスを「行為 に対す る規則」 として 区別 した。 ス ミスは、 この ような「道徳性 の一般的諸規則」の顧慮のチ ャンスを「義務 の感覚」

として把握 し、更 に、「道徳性の一般的諸規則」の中で も特 に、強制可能 な もの、国家 とい う機関

‑101‑―

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