武村耕靄と明治期の女性日本画家に関する研究
著者 田所 泰
雑誌名 美術研究
号 427
ページ 15‑78
発行年 2019‑03‑28
URL http://doi.org/10.18953/00008954
武村耕靄と明治期の女性日本画家に関する研究一五
武村耕靄と明治期の女性日本画家に関する研究
田 所 泰
はじめに一、武村耕靄の画業(一(幼少期(二(師範学校時代(三(職業画家時代二、明治期における女性画家の諸活動(一(絵の師匠(二(外国人女性への教授(三(学校教師(四(女性賓客への対応おわりに
はじめに
大正四年(一九一五(一月に「閨秀作家號」として発行された『日本美術』
第十七巻第三号には、野口小蘋(一八四七︱一九一七(や上村松園(一八七五
︱一九四九(、池田蕉園(一八八六︱一九一七(等の作品図版や、女性画家に
関する記事が多数掲載された。そのうちのひとつである若月松之助の「女流
作家の價値」では、女性画家に関する次のような見解が示されている。 古來女流作家には決して乏しくは無い。しかし日本の文明が最も明らかに、慶應、明治との間の一線で分劃されたやうに、女流作家は日露戰爭なる太い一線を界として全く新しい存在をなしたと見ることが出來る。日露戰爭後に於て夥しく女流作家の輩出したといふことは注目すべき現象である(中略(この國運隆興の機會に乗じて明治四十年文展の第一回
は開かれ、全國の美術家は一時に起つて、この機運に遲れまいとした(中
略(この時になつて女流作家が初めて社會に觸れたといふ事實がある
若月はさらに続けて、これ以前には奥原晴湖(一八三七︱一九一三(や野
口小蘋、跡見花蹊(一八四〇︱一九二六(等がいたが、彼女たちはいわゆる「旧
派」に属する画家であり、その制作に時代精神との交渉が見られなかったと
する一方、日露戦争後の女性画家については、「確かに時代の子として生き
やうとした」とし、その具体的な例として、いわゆる「美人画」の制作を挙
げている。
ここで指摘されているように、明治三十七、八年の日露戦争、あるいは明
治四十年(一九〇七(の文部省美術展覧会(以下文展(開設以後、次第に女
性画家の活躍が目立ちはじめ、その存在が社会的な注目を集めるようになっ
美術研究四二七号一六
た。また、それ以前の女性画家が時代精神を踏まえた制作をしていなかった
とする点については、一概に首肯し得ないものの
((
(、この前後では一見、女性
画家の活動の場が日本美術協会や日本画会から、官展や院展へと移行し、主
な画題が花鳥や山水から人物画、とりわけ「美人画」へと変化したように見
えることは事実である。しかしながら、明治末年以降に見られる女性画家の
台頭は、決して唐突な出来事ではなく、それ以前からの活動を土台として実
現されたものであり、前後の時代を有機的に結びつけ、ひとつの大きな流れ
として女性画家の活動を捉えることが必要であるように思われる
(2
(。
一方、現在の女性画家研究は、個々の作家研究をはじめ、女性画家を取り
巻く社会制度や、女性を対象とした美術教育、また女性画家どうしの交流や
団結の様相解明など、多角的な視点で進められている。
女性日本画家を対象とした作家研究の早い例としては、昭和三十三年(一
九五八(に関千代氏が発表された「上村松園とその作品」(『美術研究』第一
九五号(や、昭和五十三年十月に埼玉県立博物館にて開催された「奥原晴湖
展」、昭和五十七年の守屋正彦氏による「野口小蘋研究︱︱野口家蔵品を中
心として︱︱」(『山梨県立美術館研究紀要』第三号(などが挙げられる。さら
に近年では、柿内青葉(一八九〇︱一九八二(や島成園(一八九二︱一九七〇(、
栗原玉葉(一八八三︱一九二二(、長山はく(一八九三︱一九九五(など、大正
期に活躍した女性画家の研究が盛んに行われ
(3
(、パトリシア・フィスター氏や
仲町啓子氏等を中心に、近世以前の絵を描いた女性たちに関する研究も進め
られている
(4
(。
また、昭和六十年代にはアメリカのリンダ
・
ノックリンにはじまるジェンダーの視点を取り入れた研究が開始され、忘れられていた女性画家の掘り起
こしや、彼女たちを取り巻く社会制度の解明、女性画家どうしの交流や団結 の様相が明らかにされるなど、多くの成果がもたらされた
(5
(。
このような研究状況にあって、やや等閑に付され気味であったのが、明治
期の女性日本画家である。先述のとおり、奥原晴湖や野口小蘋等に関する作
家研究は現在でも盛んに行われており、展覧会もたびたび開催されている
(6
(。
その一方で、この時期に活動した女性画家の新たな掘り起こしや、画壇や社
会における活動・交流の様相などについては、現在ほとんど研究が進められ
ていない。その原因のひとつには、明治期に活動した女性画家の多くが、い
わゆる「旧派」と呼ばれる団体に属していたことが挙げられるが、さらにま
た、ジェンダーの視点を導入したことも、その一因となっているように思わ
れる。リンダ
・
ノックリンがその論文「なぜ女性の大芸術家は現われないのか?」において示した、社会制度のなかで女性がいかに不利な状況に置かれ
ていたかを明らかにするという方法論は、日本の美術史研究にも応用され、
その結果、日本画と洋画に関する次のような認識が一般化した。すなわち、
「日本画は上流家庭の子女の嗜みであり、教養の一つと考えられたが、油絵
は男のする事とみなされたのである
(7
(」。こうした両者における女性の学習環
境の違いが明らかにされたことは、ジェンダーの視点によるひとつの成果と
いえるが、他方でこのような認識は、ジェンダーの視点を踏まえた美術史研
究者の関心を、より困難の多かった、別の言い方をすれば、より性差の大き
かった洋画家へと集める傾向を促したように思われる。
このように明治期の女性日本画家は、発展史観的な美術史研究からも、ジ
ェンダーの視点を踏まえた美術史研究からも取りこぼされて来た存在であっ
た。先述のとおり、大正期に見られた女性画家の隆盛を考えるためにも、また、
武村耕靄と明治期の女性日本画家に関する研究一七 近世から続く女性画家の活動の展開について検討をするためにも、明治期の女性画家の活動や交流の様相を明らかにすることは不可欠な作業である。本稿ではこうした大局的な問題を見据えた考察のひとつとして、武村耕靄という日本画家を取り上げ、検討を加えてみたい。
武 たけむらこうあい村耕靄(一八五二︱一九一五(は明治八年(一八七五(に開校した東京女
子師範学校(現お茶の水女子大学(をはじめ、共立女子職業学校(現共立女子
学園(や東洋女学校(現東洋女子高等学校(、神田共立女学校などで図画教育
に従事し、明治三十四年に開校した私立女子美術学校(現女子美術大学(に
おいても、川端玉章(一八四二︱一九一三(や河鍋暁翠(一八六八︱一九三五(
等とともに日本画の指導に当たった。また、耕靄は近代日本最初の女性図画
教員でもあり、現在ではもっぱら美術教育者として認識され、その研究も主
として図画教育や女子教育という観点から行われている
(8
(。
他方、日本画家としては、日本美術協会や日本画会、日本南宗画会などに
所属し、日本画会では評議員を、日本南宗画会では幹事を務め、明治四十年
の文展開設にともない結成された正派同志会でも、評議員に任命されてい
る。また、耕靄の晩年に当たる大正二年十月に、大阪の石塚猪男蔵が発行し
た番付『改正日本書畵評價一覽』では、「金九拾圓」という評価が与えられ
ている。これは同番付に掲載された女性画家のなかでも三番目に高く、奥原
晴湖と同等、野口小蘋よりも高い評価であった(表
((。ちなみに、同番付
に掲載された大正二年の第七回文展日本画部審査員の平均評価額は一〇四
円
(9
(。これらの数値だけで単純に当時の評価を推し量ることは出来ないもの
の、耕靄が女性画家のなかでもよく知られた存在であり、比較的高い人気を
誇っていたことが窺えよう。
さらにもうひとつ、耕靄に注目してみたい理由がある。耕靄が生きたのは、 江戸から明治、そして大正へとまたがる期間であり、明治七年から亡くなる大正四年までの日記がほぼ完全な状態で現存している。その一部は養嗣子である武村忠氏が昭和六年十二月に刊行された『耕靄集』に翻刻・紹介されており、耕靄研究の基礎資料となっている。この資料にいち早く注目された青木茂氏は、耕靄の日記に記されたアーネスト・
F・フェノロサ(一八五三︱
一九〇八(の講演内容とその感想を引き、当時の日本の美術家たちがフェノ
ロサの講演をいかに聞き、受け取ったのかを知ることが出来る資料として紹
介されている
(((
(。
このように耕靄の著述は、明治期における画家たちの生の姿を伝えるもの
であり、女性画家に限らず、当時の画界の様相を知る上できわめて重要な資
料であるといえる。
以上のことから本稿では、まず武村耕靄の画業について整理する。次に耕
靄の活動をとおして見えてくる明治期の女性画家の活動について考察を加
え、その上で、明治から大正へと展開する女性画家の活動について、ひとつ
の試論を提示してみたい。その際、いかに女性が画家として活動するのに不
利な状況にあったかという従来のジェンダー論的な視点ではなく、どのよう
画家名 活動地 評価額
土佐千代女 京都 金 (30 円
中林清淑 東京 金 (00 円
武村耕靄 東京 金 90 円
奥原晴湖 東京 金 90 円
來禽女 京都 金 90 円
跡見花蹊 東京 金 85 円
野口小蘋 東京 金 80 円
河邊青蘭 大阪 金 70 円
亀井晴川女 東京 金 70 円
上村松園 京都 金 70 円
江馬細香 美濃 金 65 円
榮女 東京 金 65 円
池田蕉園 東京 金 60 円
冷泉女 京都 金 60 円
野口小蕙 東京 金 60 円
跡見玉枝 東京 金 60 円
前田錦楓 東京 金 50 円
伊藤古仙 東京 金 40 円
表 ( 『改正日本書畵評價一覽』掲載の 女性画家の評価
美術研究四二七号一八
に女性画家が社会に需められていたのか、という点に注目しながら考察を行
っていきたい。女性が社会で画家として生計を立てていくには、その活動を
支える需要の存在が不可欠であると考えるからである。
一、武村耕靄の画業
武村耕靄については、先述のとおり、美術教育者としての経歴がすでに、
前村晃氏や金子一夫氏により明らかにされているため、本稿ではそれら先学
の研究を踏まえつつ、主に画家としての活動に焦点を絞り、見ていくことに
したい。なお、詳細は巻末の年譜に譲ることとし、ここでは主な事項を取り
上げ見ていくこととする。
さて、耕靄の画業について記すに当たり、本稿では多く、共立女子大学図
書館が所蔵する耕靄の日記を参照した。この日記は耕靄のご遺族より同大学
へ寄贈されたもので、同大学図書館には日記のほか、本画作品や写生帖、図
画教育資料など四〇〇点以上の関係資料が収蔵されている。日記は万延元年
(一八六〇(から文久三年(一八六三(までの幼少期のものを除き、明治七
年から亡くなる大正四年まで、大正三年の一年間を欠くほか、ほぼ完全なか
たちで現存している。その多くは四六判大の和綴じ本で、表紙に年月ととも
に「窓のくれ竹」などと記される(表
2(。それではこれらの日記、さらに
は当時の文献資料などをもとに、耕靄の画業について見ていこう。
(一(幼少期
武村耕靄は嘉永五年(一八五二(、江戸芝口の仙台藩邸にて、仙台藩士武
村仁左衛門(一八一三︱一八九二(、留 るせ勢(?︱一八五七(の間に生まれた
(((
(。
名は千佐、あるいは貞
(((
(。耕靄は日記のなかで自らについて記す際、「千佐」 嗣子である武村忠氏は十一月二十五日とされている
(((
(。日記のところどころに
記された、文部省や東京府などへ耕靄が提出した履歴書や出品目録の控えで
も、十一月とするものが複数認められ(挿図
2、関係資料(
((–日記(
(((、
また当時の人名録などにも、十一月生まれとするものが見受けられる
(((
(。一方
で明治二十年の東京府工芸品共進会へ耕靄が提出した出品目録の控えには、
「嘉永五年一月廿五日生」とあり(挿図
3、関係資料(
((–日記(
(((、や
はり当時に刊行された人名録のなかにも、一月生まれとするものが見出せ
る
(((
(。このように耕靄の誕生月については、一月とする説と十一月とする説の
ふたつがあり、武村忠氏が後者を採っているためか、現在では十一月と見る
挿図 ( 《歴史人物画帖》より「源渡妻 阿津磨」とその落款 共立女子大学図書館蔵
あるいは「千佐子」という表記
をほとんどの場合しているが、
彼女が使用した印章のなかに
は、「武邨貞印」や「貞子之印」
などの印文を刻したものもあ
り、たとえば共立女子大学図書
館が所蔵する《歴史人物画帖
(((
(》
(共立女子大学図書館資料目録表
題:武村千佐子関係資料(
101(–
画集①、以下関係資料(などに
おいて、その使用が確認できる
(挿図
((。「耕靄」はその雅号
で、ほかに雲林、白逸、玉蘭軒
などと号した。
耕靄の誕生月日について、養
武村耕靄と明治期の女性日本画家に関する研究一九
日記 表紙記載事項 記載年代 寸法
番号
( 幼年日記 安政 7 年~文久 3 年 (6.4 × (2.(cm
2 明治八年より同十年まて/探花孤悰 一/耕靄(朱白文連珠印) 明治 7 年 (2 月~明治 (( 年 9 月 (8.2 × (2.8cm
3 明治十一年/窓のくれ竹 二 明治 (( 年 ( 月~明治 (2 年 3 月 (8.( × (2.8cm
4 明治十二年/窓のくれ竹 三/履歴あり 明治 (2 年 3 月~明治 (4 年 (2 月 (8.2 × (2.(cm
5 明治十五年一月より/窓のくれ竹 明治 (5 年 ( 月~明治 (6 年 ( 月 (8.2 × (2.7cm
6 明治十六年春/窓のくれ竹 明治 (6 年 2 月~ 3 月 (9.( × (3.9cm
7 明治十六年秋/窓のくれ竹 明治 (6 年 6 月~明治 (7 年 2 月 (8.8 × (3.5cm
8 明治十六年/日記/武邨 明治 (6 年 (( 月~明治 (7 年 (0 月 24.7 × (6.5cm
9 明治十七年二月より/窓のくれ竹 明治 (7 年 2 月~ (2 月 (8.( × (2.7cm
(0 明治十八年/窓のくれ竹 明治 (8 年 ( 月~ (( 月 (8.4 × (3.0cm
(( 明治十九年より廿一年まて/窓のくれ竹 明治 (9 年 ( 月~明治 2( 年 9 月 (8.2 × (2.(cm
(2 日記/明治二十年八月箱根より鎌倉への旅行日記 明治 20 年 8 月 (3.2 × (7.0cm
(3 旅中日記 明治 2( 年 8 月 (2.6 × (6.4cm
(4 明治廿二年春より同廿三年夏まて/窓のくれ竹 明治 22 年 ( 月~明治 23 年 6 月 (8.0 × (2.(cm
(5 明治廿三年七月より/同廿四年五月まて/雑記/千佐子 明治 23 年 7 月~明治 24 年 5 月 2(.0 × (4.0cm
(6 明治廿四年七月より廿五年夏まて/窓のくれ竹 明治 24 年 7 月~明治 25 年 5 月 (8.( × (2.4cm
(7 廿五年/窓のくれ竹 明治 25 年 5 月~明治 26 年 2 月 (8.2 × (2.5cm
(8 窓のくれ竹/明治廿六年の日記春 明治 26 年 2 月~ 7 月 (7.5 × ((.9cm
(9 明治廿六年癸巳八月より 秋/窓のくれ竹 明治 26 年 8 月~明治 27 年 9 月 (7.6 × ((.7cm
20 明治廿七年甲午第一月より/窓のくれ竹 明治 27 年 ( 月~ 8 月 (8.2 × (2.6cm
2( 明治廿七年八月より/窓のくれ竹 明治 27 年 8 月~明治 28 年 3 月 (8.2 × (2.5cm
22 廿八年四月より/窓のくれ竹 明治 28 年 4 月~ (( 月 (8.( × (2.(cm
23 明治廿九年一月より/日記 明治 29 年 4 月~ 6 月 (7.6 × (2.3cm
24 廿九年/窓のくれ竹 明治 29 年 7 月~明治 30 年 3 月 (8.4 × (3.0cm
25 明治三十年/窓のくれ竹 明治 30 年 4 月~ 5 月 (9.4 × (3.2cm
26 にとへの前/明治三十年八月/みちのくの旅日記 明治 30 年 8 月 24.5 × (6.7cm
27 日光の記 明治 30 年 8 月 24.4 × (6.8cm
28 明治三十一年自一月/窓のくれ竹 春 明治 3( 年 ( 月~ 8 月 (8.2 × (3.0cm
29 窓のくれ竹 茶の湯覚へ書 明治 3( 年 ( 月~明治 4( 年 6 月 (7.5 × (2.0cm
30 明治三十一年八月より/窓の呉竹 あき 明治 3( 年 8 月~明治 32 年 2 月 (8.3 × (3.2cm
3( 明治三十二年春日/窓のくれたけ 明治 32 年 3 月~ (2 月 (8.2 × (2.4cm
32 三十三年/窓のくれ竹 明治 33 年 ( 月~ (2 月 (8.8 × (2.7cm
33 明治三十四年春より/窓のくれたけ 明治 34 年 ( 月~ (2 月 (8.7 × (3.3cm
34 窓のくれ竹 三十五年春 明治 35 年 ( 月~ 7 月 (8.7 × (3.5cm
35 窓のくれ竹 三十五年夏 明治 35 年 8 月~ (0 月 (8.9 × (3.4cm
36 三十六年一月より/窓のくれ竹/千佐子畧歴あり 明治 36 年 ( 月~ 7 月 (9.3 × (3.6cm
37 明治三十六年夏/窓の呉竹 明治 36 年 5 月~ (2 月 (9.3 × (3.7cm
38 明治三十七年より三十八年まで/窓の呉竹 明治 37 年 ( 月~明治 38 年 8 月 (9.( × (3.7cm
39 明治三十九年/窓のくれ竹 明治 39 年 ( 月~ (2 月 (9.3 × (3.7cm
40 明治四十年一月より/窓のくれ竹 明治 40 年 ( 月~ 8 月 (8.9 × (2.9cm
4( 明治四十一年春より/窓乃呉竹 明治 4( 年 ( 月~ (2 月 (9.2 × (3.5cm
42 明治四十二年一月より/窓のくれたけ 明治 42 年 ( 月~ (2 月 (9.5 × (3.2cm
43 明治四拾三年一月より/窓のくれ竹 明治 43 年 ( 月~ (0 月 (9.4 × (3.5cm
44 明治四拾四年一月より/窓のくれたけ 明治 44 年 ( 月~ (( 月 (9.3 × (3.2cm
45 明治四十五年一月より七月半迄/窓のくれ竹 明治 45 年 ( 月~ 7 月 (9.3 × (3.(cm
46 大正元年/窓の呉竹 明治 45 年 7 月~ (2 月 (9.4 × (3.0cm
47 大正二年/窓のくれ竹 大正 2 年 ( 月~ (2 月 (9.3 × (3.(cm
48 大正四年一月より/窓のくれ竹 大正 4 年 ( 月~ 5 月 (7.6 × ((.9cm
49 (無記) 大正 4 年 ( 月~ 2 月 (9.2 × (3.(cm
表 2 共立女子大学図書館が所蔵する武村耕靄の日記一覧
美術研究四二七号二〇
向きが優勢となっている
(((
(。とはいえ、いずれについてもこれまで詳しく検討
されたことがないため、ここで少し、考察を加えてみたい。
耕靄の日記には、明治十五年および十七年に開催された内国絵画共進会へ 提出された履歴書の控えが書き残されている。第一回展のものは次のとおり(『日記』五(。履歷書
東京府神田區駿河臺
鈴木町六番地寄留
武村千佐女
号耕靄
嘉永五年十一月廿五日誕生
一父武村仁左衛門
一師山本琴谷文久二年三月入門春木南溟元治元年一月入門
一明治二年陸前國仙臺ニ到リ松島近傍ノ勝地ニ遊フ
一幼年ヨリ山本琴谷春木南溟等ニ従ヒテ漢画ヲ学ヒ専髙雅ヲ旨トシテ之
レヲ習修セシハ前條ニ掲クルガ如シ因テ又泰西画術ノ精功ナル風調ヲ得
ント欲シ明治六年中ヨリ川上冬崖ノ門ニ入リ之ヲ研究シ傍ラ泰西画論書
ニ就テ其術ヲ講習セリ蓋シ此際漢画ニ資シテ其便ヲ得ル者少ナカラズ明
治九年職ヲ東亰女子師範学校ノ教員ニ奉シ尓来専ラ畵学ノ教授ヲ憺任シ
挿図 2 各履歴書控え 右:明治 (4 年に文部省へ提出したものの控え(『日記』4 より)、中:明治 (5 年に第 ( 回内 国絵画共進会へ提出したものの控え(『日記』5 より)、左:明治 (6 年に第 2 回内国絵画共進会へ提出したものの控え(『日 記』7 より) 共立女子大学図書館蔵
挿図 3 明治 20 年に東京府工芸品共 進会へ提出した出品目録の控え(『日 記』(( より)共立女子大学図書館蔵
武村耕靄と明治期の女性日本画家に関する研究二一 テ當時ニ至ルまた、第二回展の控えには次のようにある(『日記』七(。
第三号書式
履歷書
東京府下神田區駿河臺
鈴木町六番地寄留
武村千佐
号耕靄
嘉永五年十一月廿五日誕生
一父武村仁左衛門
一術歷ハ第一囬ノ通リニ御坐候也
いずれも誕生月は十一月とされているが、第二回展の際に公刊された『第
二囬内國繪畫共進會出品人畧譜』(以下『畧譜』(は、耕靄の誕生月を一月と
している
(((
(。この『畧譜』は「諸言」によれば、出品者の「自記スル履歷ニ就
キ之カ繁ヲ削リ之カ要ヲ摘
(((
(」んで編纂されたものであるといい、耕靄につい
ての項は、その記述内容から、第一回展の際に提出された履歴書をもとに、
記されたものと考えられる。
ここで改めて日記に記された同履歴書の控え(前掲挿図
2中(を見てみる
と、「十一月」の「十」の字がひとつ上の「年」と一部重なり、字間もここ
だけ不自然に詰まっていることがわかる。また墨色もわずかに異なり、この
「十一月」はもともと「一月」であったものが、のちに「十」が書き加えられ、 「十一月」へと改められた可能性が高い。さらに日記の文久二年一月二十五日条には、「千佐の御たん上にて子供ミな〳〵きたりおふるまいいたし」と
あり、また晩年の大正四年一月二十五日条にも、「千佐子誕生ニ付赤飯たく」
との記述が見られ、江戸時代から一貫して、耕靄は誕生日を一月二十五日に
祝っていた
(((
(。なぜ誕生月が一月から十一月へと改められたのかは不明だが、
以上のことより耕靄の誕生月日は、一月二十五日と考えてよいだろう。
耕靄の父親である仁左衛門は、耕靄の記すところによれば、「通稱仁左衛
門房 フサヨシ善と名のり給ひ号を桃氷又老年に帛翁と号し給ふ幼名千代吉と称へられ
しよし性厳粛篤實にして質素を貴み奢侈を悪みかりそめにもみだりなる事を
嫌ひ能人に親切に直練 (ママ(を好み給ふ」(『日記』十六(人物であったという。維
新後には荒物屋や焼酎屋などの商売を手がけるが、いずれもうまくはいかな
かったようで、耕靄は後年、その頃のことを次のように回想している
(((
(。
實情私は、父が老年になりまして幾度も失敗致しましたことを、如何に
も氣の毒に思ひましたから、盡せますだけは一家の生計を助けまして、
少しでも安心を與へやうと、日夜此ことばかり思つてゐましたから、自
分の身の苦しいなどゝ思ひます隙もなく、唯心配のみ致してゐました。
仁左衛門はまた、耕靄が絵を学ぶことを積極的に奨励した。幼い頃より絵
を描くのが好きだったという耕靄に対し、仁左衛門は素人ながらいろいろな
助言や注意、批評を与えたという
(((
(。耕靄はそのようすを次のように語ってい
る
(((
(。
父は出來上つたものを示しますと、不出來の時は無言でピーツと裂き棄
美術研究四二七号二二 てゝ居ましたので、それか (ママ(非常な獎勵となり、或る時はあまり酷いと思
つて父を恨んだ事がないでもありませんが、それ等の事がどれだけ修業
上の藥となりましたやら、只まう夢の樣であります。
一方母親の留勢は、戦国武将松永久秀、および江戸時代前期の歌人松永貞
徳の後裔ともいわれ、埼玉県さいたま市岩槻区馬込に所在する天台宗寺院、
満蔵寺の第四十九世住職松永里教(秀泰(の娘として生まれた。留勢の母は
留勢が二歳の頃に秀泰と離別して佐竹侯に仕えたため、留勢も同邸内で育
ち、のちに仁左衛門へと嫁したという(『日記』十一(。留勢は安政四年(一
八五七(、耕靄が七歳のときに亡くなり(『日記』三十九(、仁左衛門はその後、
いね子という女性を後妻として迎えている。武村忠氏によれば、仁左衛門は
いね子を「召使のやうに取扱つて、母(筆者注:耕靄のこと(に「お母さん」
とは呼ばせなかつたさうですが、年がいつてから進んで「お母さん」と呼ん
で仕へた
(((
(」という。実際に明治二十六年以降の耕靄の日記には、「母上」と
いう言葉が頻繁に登場するようになる。耕靄は留勢が亡くなった後の仁左衛
門について、次のように記している(『日記』十六(。
千佐子の実母早世なりけれは父母にかわりて慈愛又家庭の教養のこす所
なし先妻の義を重んし数年後妻を容れ給ハず大ひに千佐子の為に圖り給
ふ事暗々中にあり
これによれば、仁左衛門が後妻を迎えたのは留勢が亡くなってからしばら
くのちのことであり、また仁左衛門が耕靄の教育に対し、さまざまに心を砕
いていたようすが知られる。 絵が好きな少女であった幼い頃の耕靄は、草双紙の挿絵を写したり、彩色をしたりして楽しんでいた
(((
(。『日記』一には、『偐紫田舎源氏』第二十四編上
冊の挿絵から、ふたりの女性像が写し取られており、その一端が垣間見られ
る(挿図
4、関係資料(
((–日記(
(((。やがて師につき絵を学びはじめた
耕靄は、最初狩野探逸に師事し、ついで狩野一信(一八一六︱一八六三(に
学んだ。一信に入門したのは増上寺の《五百羅漢図》制作も終盤に差しかか
っていた頃であり、病床にあった一信にかわり、その妻が手本を出してくれ
たという
(((
(。文久二年三月からは、山本琴谷(一八一一︱一八七三(のもとへ
と通いはじめる。日記の同年三月五日条には、「おとん様とちさとまつとは
しめて琴谷様へいんたち」とあり、この日仁左衛門に連れられ、はじめて琴
谷のもとを訪れたことがわかる。また、四月三日条には「らんのお清書かき
之事」との記述があり、同十日条には、「琴谷様へらんと竹との清書をもん
挿図 4 『日記』( の表紙裏に描かれた女性像、万延元年頃 共立 女子大学図書館蔵
武村耕靄と明治期の女性日本画家に関する研究二三 てゆき」と記される。耕靄は琴谷からもらった手本を写し、それを直してもらうという方法で絵を学んでいたのだろう。さらに文久四年の一月、耕靄は春木南溟(一七九五︱一八七八(の門へと入った
(((
(。耕靄によれば、南溟は「最
早御老体で被在つしやると申しますので、私は主に其子息の南華さんに敎
は
(((
(」ったという。このように、耕靄は狩野派、南画、南北合派とさまざまな
流派の画法を学んだ。
南溟入門当時に描かれた耕靄の作品に、《大黒天図》(挿図
5、関係資料
(
(((–作品①(がある。本作には画面上方を余白として、米俵に乗り、大
きな袋を担いで打出の小槌を手にした大黒天が表されている。落款には「元
治甲子十一月廿七日天社甲子白逸女史時年十三歳月日誕辰皆属子」とあり、
元治元年(一八六四(十一月二十七日に描かれたことが知られる。さらに面
白いことに、この日はちょうど年月日すべての十二支が「子」に当たってお り
(((
(、耕靄の生年である嘉永五年の十二支もまた、「子」であった。おそらく
耕靄はこうしたことから、ネズミを神使とする大黒天を描いたのだろう。武
村忠氏は本作について、武村家が所蔵していた狩野洞春筆の大黒天図を手本
としたものと推測されている
(((
(。また、本作の落款には「白逸女史」との署名
があり、この頃の耕靄が「白逸」と号していたことが知られる。さらに本作
には、「武邨雲林」の朱文方印と「白逸画印」の白文方印の二顆が捺されるが、
共立女子大学図書館が所蔵する各々の納品書と思しき資料から、前者は文久
元年十二月に(挿図
6(、後者は元治元年の夏に(挿図
7(、それぞれ刻され
たものであることがわかる。したがって、文久元年当時、耕靄は「雲林」と
号していたと考えられ、「白逸」と号すようになったのは文久元年から元治
挿図 5 《大黒天図》とその落款、元治元年 共立女子大学図書 館蔵
挿図 6 「白外画印」「武邨雲林」「貞子 之印」納品書、文久元年 共立女子大 学図書館蔵
挿図 7 「白逸画印」納品書、元治 元年 共立女子大学図書館蔵
美術研究四二七号二四
に当たる。したがって、この扇子自体もそう遠くない時期につくられたもの
であろう。出席者の一覧と思しき記載のなかに、「耕靄」の文字が確認でき(挿
図
9(、この頃にはすでに、「耕靄」と号していたことが知られる。
明治維新で世間があわただしくなると、耕靄は仙台へと赴き、そのままし
ばらく同地に滞在
(((
(、明治二年(一八六九(の冬には再び東京へ戻り(『日記』四(、
芝の愛宕下(現東京都港区新橋(に住した
(((
(。明治四年八月には深川黒江町(現
江東区(五番地に宅を借り、翌五年四月には神奈川県久良岐郡北方村(現神
奈川県横浜市(の佐藤喜左衛門の貸家へと移る(『日記』二十八(。維新後の生
活が苦しくなった際には、耕靄は中国向けの扇などを描いて家計を支えたと
いう
(((
(。その一方で、この頃には英語を学ぶために横浜山手のアメリカン・ミ
挿図 8 《南溟喜壽宴雅集圖扇子》、明治 4 年頃 共立女子大学図書館蔵
挿図 9 《南溟喜壽宴雅集圖扇子》部分
元年までの間のことであったと推
測される。なお、挿図
6の資料に
は、「白外画印」という印文を刻
した印章の印影も含まれており、
文久元年頃には「白外」という雅
号も使用していた可能性が考えら
れる。一方、「耕靄」という雅号が用
いられた早い例としては、春木南
溟の喜寿を祝って催された宴のさ
まを描いた扇子が挙げられる
(((
((挿
図
8、関係資料(
(((–作品⑥(。
南溟の生年は寛政七年(一七九
五(であり、その喜寿は明治四年
武村耕靄と明治期の女性日本画家に関する研究二五 ッション・ホーム(現横浜共立学園(へ通い、また東京築地に在留していた
アメリカ婦人、メアリー・パーク(後のデイビッド・タムソン夫人(にも英語
を学んだ
(((
(。
明治六年には川上冬崖について西洋画法を学び、その傍ら、西洋の画論書
なども研究したという(『日記』五(。
明治八年三月二日、耕靄は工部省製作寮の雇いとなり(『日記』四(、女工
伝習所の助教兼通弁となる
(((
(。しかし翌九年一月には伝習所の廃止が決定
(((
(、二
月十日付で免職となった(『日記』二(。
(二(師範学校時代
工部省製作寮の女工伝習所を免職となった直後の明治九年三月十七日、耕
靄のもとへ「平岡君」を介し、「田中君」より「御用話」がもたらされる(『日記』
二(。ここでいう「平岡君」とは、当時工部省営繕寮の営繕頭であった平岡
通義、また「田中君」とは文部大輔で東京女子師範学校設立に尽力した田中
不二麿のことであろう。両人ともに耕靄の日記に登場し、交際のあったこと
が窺われる
(((
(。翌十八日には東京女子師範学校の摂理中村正直に面会、四月七
日には同校にて「英学手傳」を仰せつけられた(『日記』二(。
東京女子師範学校は、女子教育の促進を目的に、その任に当たる女性教員
を養成するために設置された学校で、明治七年三月に設立、翌八年十一月二
十九日に開校した
(((
(。明治十五年七月には予科を廃して附属高等女学校が設置
され、明治十八年八月には東京師範学校と合併、東京師範学校女子部とな
る。明治十九年二月、附属高等女学校が文部大臣官房附属となって高等女学
校となり、六月には東京高等女学校と改称。明治二十三年三月には高等師範
学校から女子部が独立して女子高等師範学校となり、東京高等女学校は再び 附属女学校となった。耕靄は明治九年四月に東京女子師範学校雇いとなって以降、東京師範学校助教諭(明治十八年九月七日(、高等女学校掛(明治十九
年二月二十日(、東京高等女学校教諭(明治二十年十月二十六日(、女子高等師
範学校教諭(明治二十三年四月二日(を務めた
(((
(。
先述のとおり、耕靄ははじめ、「英学手傳」として同校の雇いとなってい
るが、金子一夫氏は開校当初の東京女子師範学校に英語科がなかったことか
ら、耕靄が英語を担当したのは、明治十年二月に廃校となった東京女学校(通
称竹橋女学校(の生徒を迎えるため、師範学校内に設置された英学科でのこ
とであったと推測されている
(((
(。たしかに明治八年七月に定められた同校の学
科には、英学は含まれていない
(((
(。他方で耕靄の日記には、明治九年の「七月
四日ヨリ十一日迄大試驗終ル事十一日ヨリ十三日迄英学試驗相終ル事」とあ
り、明治十年の項にも、「二月一日ヨリ大試驗十日マテ同十二日十三日英學
試驗也」と記されている。また同年二月七日条には、「竹橋女學校之義ニ附
テ三時ヨリ七時迄講堂ニ於テ柴田氏田中氏浅岡氏大村氏関氏松本氏原氏宮川
氏秋山氏等ニテ英學之義務ヲ議論スル事」とある。これらの記述からは、必
修科目ではなかったものの、明治十年以前から英語の教授が行われていたよ
うすが窺い知れよう。さらに『日記』二には、次のような記述が認められる。
十年八月廿七日文部省ニ於テ助訓ノ任ヲ拝命候事
同九月廿二日舎中副監兼勤受命之事
同十年十月十三日文部省ニ於テ増給之事
同十月廿五日本課生徒英學教授科ヲ給ル事
同日舎中副監兼勤之御手當トシテ金子ヲ給ル事
同十月廿三日華族學校江女教員一統参校之事
美術研究四二七号二六
同廿五日英学新教員御雇ニ及事
ここには明治十年八月から十月の出来事が記されており、十月二十五日に
は「英學教授科ヲ給ル事」とある。前後の記載内容が給金に関わるものであ
ることから、この「教授科」という記載はおそらく、「教授料」の誤記であ
ろう(挿図
(0、関係資料(
((–日記(
(((。また、記述は前後しているもの
の、同じ二十五日には英語の新教員が雇い入れられている。さらに日記の明
治十一年一月十二日条には、「旧十二月廿五日博物舘ヨリ拝借ノ画學書滿期
ニ付返納ニ參ル再同書ヲ拝借シ帰宅ス」とあり、以後の日記にも同様の記述
が散見される
(((
(。このときに耕靄が借りたと思しき本が、ウォルター・スミ
スの
American Text Books of Ar t E ducation
という美術教育書。耕靄の日記にはその書名とともに、同書に倣ったと思しき図形数種が描き込まれている(挿図
((、関係資料(
((–日記(
(((。
これらのことから、耕靄は自らそう述べているように、着任当初は英語の
教授を担当していたと考えられ、図画教授を務めるようになったのは、明治
十年十月に新しい英語教員が採用されたのち、博物館などで画学書を借りは
じめた明治十年末頃から翌十一年はじめ頃のことであったと推測される。ま
た、耕靄は明治九年六月十四日に朝鮮国公使が学校へ参観した際、梅に山水
の画を贈っており、同年七月三日に太政大臣の三条実美や文部大丞の九鬼隆
一等が参観に訪れた際には、同校で習字を担当していた坪内みつ子とともに 席画を行っている(『日記』二(。このように、耕靄の画力は英語の担当であ
った頃から教員の間に知れ渡っていたようで、のちに図画の担当となったの
も自然な成り行きであったといえよう。
一方で耕靄は、明治十年代から画家としても、積極的に活動している。
明治十三年四月十七日、耕靄は一日より内務省東京上野博物局出張所にて
開かれていた第一回観古美術会を訪れ、その日の日記に次のように記してい
る(『日記』四(。
午後觀古博覧會ヲ縦覧ス舘内陳列ノ美術何レモ珍竒精功ノ美品タリ就中
挿図 (0 『日記』
2 よ り 明 治 (0 年
(0 月 の 記 載 共 立 女 子 大 学 図 書 館蔵
挿図 (( Walter Smith, American Text Books of Art Educationに関する記載(『日記』3 よ り)、明治 (( 年 共立女子大学図書館蔵
武村耕靄と明治期の女性日本画家に関する研究二七 古画ノ部ニイタリテハ余一歩ヲ惜ミ時ノ漏ル〻ヲ忘レ其名筆ノ味意ヲ
ミ感賞シテヤマズ而シテ應擧先生ノ鯉鴨ノ図神妙ツクセリト云フ可シ夫
其労苦幾計リ余為ニ感涕シテ而シテ謂ラク當世ノ人泰西ノ画ヲ以テ獨リ
真物ニ工ミナリトシ而シテ皇國ノ画工ヲシテ写生ニ拙キトナス冝ナル哉
此謂ヤ方今國画気韻ヲ先ニシ形ヲ後ニス故ニ以テ粗ニワタリ真ヲ失ス然
リ而シテ今應先生ノ筆ヲ觀ルニ蓋シ皆写生ニ本ツキ一ツトシテ真ヲ失ル
ナク気韻其中ニ含メリ故ニ先生ノ衆ニ異リ世ニ賞セラル所以也ト而シテ
吾カ粗亡ニ落イラザル後ノ戒ニセント家ニ帰ル (ママ(テ是ヲ記ス
ここでいう円山応挙の「鯉鴨ノ図」とは、おそらくは伊達宗城が出品して
いた《鯉魚水禽図屛風絵》のことであろう
(((
(。耕靄は「気韻」を重んじるあま
り形体描写がおろそかになっていた当時一般の画風を批判し、応挙の作品に
見られるような、写実に基礎を置きつつ「気韻」に富んだ作風を目指すべき
だと、自戒を込めて記している。
およそふた月後の六月七日、耕靄は工部美術学校を参観し、さらに一週間
後の十四日には、同校教師、アレッキ・サンジョヴァンニの宅を訪れ、油絵
や水彩画を見せてもらった(『日記』四(。そのときサンジョヴァンニから聞
いた話を、耕靄はその日の日記に書き留めている。
同氏謂ラク輓近公園ノ觀古美術舘ニ至リ日本ノ画風ヲ見ルニ其淵源蓋シ 歐州ト等シカル可ク察ス歐州ニテモ往時ヨリ油繪等ノ委シキアルニアラズ其始メハ物ノ形ヲ見又ハ天然物ヲ美トシ其形象ヲ單墨ニ紙上ニ写スニ始マリ夫ヨリ遂ニ水彩ノ如キ彩色ヲ加ヘ漸々密ニワタリ又進ンテ油繪ニ至ル蓋シ日本画ノ起リシ始メモ若カル可シ然シテ日本画ハ其始ヨリ漸々進ンテ彩色ノ密ニ至リシニ似タレトモ當時マテ来リシ所ノ画風ヲ見ルニ始ハ歐州ト同シ様ニ起リ半開ニシテ止マリシモノト推ス其筆力ト画ノ想像実ニ工ミナリ然シテ其真ニセマラザルヲ惜ムすでに見たように、耕靄は狩野派や南画、南北合派、さらには西洋画など、
挿図 (2 《花籠図》額裏 の墨書、明治 (3 年頃 共 立女子大学図書館蔵
挿図 (3 《花籠図》落款部分
さまざまな流派の画法を学んでおり、伝統的な
日本絵画に西洋画的な写実性や空間表現を取り
入れた作品を数多く残している。こうした日本
画改良の意識を耕靄がいつ頃から抱くようにな
ったのかは、さらなる検討を要する問題ではあ
るが、先の応挙の作品やサンジョヴァンニの話
などに刺激を受けたであろうことは、わざわざ
日記に書き記していることからも想像に難くな
い。明治十五年五月に龍池会にて行われたアー
ネスト・フェノロサの講演や、鑑画会における
新しい日本画の創造活動に先んじて、耕靄がこ
のような意識を抱いていた点は、注目に値する
ものといえよう。
この頃の制作と考えられる作品に、《花籠図》
(図版二、関係資料(
(((–作品④(がある。同
美術研究四二七号二八
の設色疎画で、幅四尺五寸、長二尺、《山水》は紙地の水墨疎画で、幅三尺、
長五尺七寸。いずれも非売品であったという。このうち《松島真景》(挿図
(4(は明治十八年、母方の先祖とされる松永貞徳の墓所がある京都の日蓮宗
寺院、正覚山實相寺へと奉納された(『日記』十(。この年、實相寺のある上
鳥羽村在住の詩歌連俳を好む有志者の会、輟耕吟社により、貞徳の墓前にあ
ったという葦の丸屋の旧跡修繕が行われた
(((
(。偶然このことを知った耕靄は實
相寺へ連絡を取り、九月二十二日に遠忌法要が予定されているとの返信を受
け、輟耕吟社へ漢詩と和歌、および金三円を、實相寺へは《松島真景》とそ
の表装費金一円を贈った(『日記』十(。『日記』十に残されたこのときの書
簡の控えには、《松島真景》について次のように記されている。
前文中の粗画なるものは先のとし故ありて奥洲 (ママ(松しまに遊ひ候節真景
を写しとり其図にて明治十五年の内國繪画共進會へ出品致し候絹地額面
壱葉右所持いたし居候を古き拙画ながら此度実相寺へ奉納致度是又通運
便にて本日さし出候
ここでいう「松しまに遊」んだのがいつのことを指しているのかはわから
ないが、維新の折に仙台へ赴いた際、耕靄は「松島近傍ノ勝地ニ遊」んだと
いい(『日記』五(、そのときの写生をもとにしている可能性も考えられよう。
明治十七年には四月二十日と五月十一日に、鑑画会の席上にて行われたフ
ェノロサの講演を、耕靄は聴講している。これは鑑画会の第四回と第五回に
当たり、前者では「日本美術再興論」が講じられた
(((
(。その日の耕靄の日記に
は、西洋と日本との画風の違いは、「其國の文学と國民の情生とに因」ると
するフェノロサの説が記され、さらに当時の文人画についての次のような話
挿図 (4 《松島真景》明治 (5 年 京都・正覚山實相寺蔵
作は籠に盛られた花々を
水彩で描いた静物画で、
額の裏板には墨書で、「明
治十三年十一月╱武村千
佐╱所持」と記され(挿図
Takemura
武村耕靄」とロ (2(K oai
、画面右下には「ーマ字と漢字によるサイ
ンが認められている(挿図
(3(。題材、技法ともに西
洋画風であり、裏書の時期
から、サンジョヴァンニに
指導を受けて描かれたもの
である可能性も考えられ
る。明治十五年の十月一日よ
り、東京・上野公園にて開
催された第一回内国絵画共
進会へ、耕靄は《花鳥》《松
島真景》《山水》の三点を
出品する
(((
(。『日記』五によ
れば、《花鳥》は絹地の設
色密画で、幅二尺、長四尺
五寸、《松島真景》は絹地
武村耕靄と明治期の女性日本画家に関する研究二九 が書き留められている(『日記』九(。
近来文人画を貴む人の説は画と書と同一のものなれば書の筆意を以て画
を画くをよしとし粗暴のものを画きて喜ぶ同氏は是れをとらずと画ハも
と天然の形象、位置、彩色、主意等已 (ママ(て備りたるをよしとす故に只筆意
のみをとらず
ここには先年、観古美術会の会場にて応挙の絵を見て耕靄が抱いた感想に
相通じるものが読み取れる。もちろん、日記の記載には耕靄の主観が多分に
反映されているものと思われるが、いずれにせよ、耕靄はフェノロサの文人
画批判を、賛意をもって受けとめていたと見なすことが出来よう。その一方
で、五月十一日に行われた「画士を教育する方法」という講演については、
その日の日記にフェノロサへの反論を記している。フェノロサは講演のなか
で、手本による教育では新図を考案するには不向きであり、同じような絵ば
かりが多くなるとして、線の習練よりはじめるのがよいとする。これに対し
て耕靄は、線ばかりでは飽きてしまうため、適度に図をまぜるべきであると
し、また日本絵画に同じような図が多いのは、手本による学習のせいではな
く、流派によっては新図の創造を厳しく戒めていたからだと説いている(『日
記』九(。
横山大観が回想しているように、東京美術学校の日本画科では、最初の課
程で毎日のように線の練習を行っているが、耕靄が予想したとおり、大観ら
はそうした授業に飽きてしまったという
(((
(。また、大観は続く課程で線のみに
よる古画の模写を行い、「これは兎に角、繪らしい仕事でしたから次第に興
味を覺え」たと語っている
(((
(。ここからは、耕靄の述べる教授法が、実際の教 育現場により適したものであったことが窺える。フェノロサへの反論は、耕靄の図画教員としての経験に基づいた見解であったといえよう
(((
(。
明けて明治十八年の春、この頃に描かれた作品に、《萬古春風》(挿図
(5、
関係資料(
(((–作品②(がある。絖地の画面には逆
S字形に枝をくねらせた
白梅が描かれ、右上には「萬古春風/髙木君清鑒/乙酉春日/耕靄女史」と
の落款が記される。また、「武邨氏」の朱文方印および「耕靄」の白文方印
が捺される。本作の構図は、左右反転しているものの、藤堂凌雲の同一画題
作品《萬古春風》(三重県総合博物館蔵(にきわめて近い。両作の関係につい
てはさらなる検討が必要だが、耕靄が凌雲の作品を知っていた可能性は充分
挿図 (5 《萬古春風》とその落款、明治 (8 年 共立女子大学図書館蔵
美術研究四二七号三〇
にあるだろう。
耕靄はこの年の元旦、「書初に新年の御題にてよみしこしをれを認」とし
て、歌会始の御題「雪中早梅」に対する、「ひらけゆく御代の光にみそのふ
の雪さへかほる梅のはつはな」という歌を詠み、その日の日記にも書き残し
ている。また、翌十九年の元旦にも、耕靄は歌会始の御題「緑竹年久」に対
して「栄え行く御代のためしに幾千代もみどり久しき園のくれたけ」という
歌を詠み、一月五日には描き初めとして、「絖へ竹林清泉の圖」を描いてい
る(『日記』十一(。これらのことから類推すれば、《萬古春風》は明治十八年
の描き初めとして、描かれたものである可能性が高いといえよう。
翌明治十九年の三月三日、耕靄は小石川植物園内にあった図画取調掛の事
務所を訪ね、「岡倉氏狩野芳崖氏同友信氏に面會圖画につきて談話」をした(『日記』十一(。このとき岡倉天心(一八六三︱一九一三(からは、「婦人に
美術の入用なる旨」などを聞いたという(『日記』十一(。また、同年八月三
十日にも耕靄は同所を訪れており、その折には狩野芳崖(一八二八︱一八八
八(より、美術にはつりあい、すなわち調和が大切だとの話を聞いている(『日
記』十一(。その日の日記には次のようにある。
圖画取調所へ行狩野芳崖君の話しに美術の美の字ハ其意味廣大なり述尽
しがたしつりあひよしといふて可ならん其故ハ世界の万物こと〳〵く陰
陽を得て成立ざるものなし美術も又然り陰陽寒暖中和の内に美ハ生しも
ろ〳〵の形象つりあひよろしけれハ是真の美術なり
狩野芳崖はこの年、岡倉天心やフェノロサらとともに奈良の古社寺調査を
実施しており、その記録である《奈良官遊地取》(東京藝術大学大学美術館蔵( を、この日耕靄は目にしている(『日記』十一(。
またこの頃より、日記には跡見玉枝(一八五九︱一九四三(と渡辺幽香(一
八五六︱一九四二(の名がしばしば登場するようになる。玉枝はこの年、耕
靄も発起人のひとりとして名を連ねた共立女子職業学校(現共立女子学園(
の図画教員として迎えられ
(((
(、幽香は耕靄の日記明治十九年十二月三十日条
に、「渡辺幽香君へ英文章出来送附す」として登場する。耕靄の日記にはほ
かに、玉枝と幽香が年始のあいさつにやって来たことや、玉枝へ病中見舞い
の礼に行ったこと(『日記』十八(、幽香より砂糖を贈られたこと
(((
((『日記』二十(
などが書き留められており、親しく交際していたようすが窺われる。
明治二十年の八月には、四日から十三日まで、牧野、脇屋、佐藤同道で箱
根へ写生旅行に出かけた(『日記』十二(。このうち牧野と脇屋はそれぞれ、
門下生の牧野英子(晴靄(と脇屋貞子(耕雪(であろう。耕靄らは塔ノ沢の
新玉の湯に逗留、早雲寺で元信の龍虎図などを縦覧し、また近傍へ出かけ写
生を行っている。このときの写生帖(関係資料(
(((–作品⑨(
(((には、
宿前を流れる川岸からの風景(図版三(a((や、阿育王山阿弥陀寺からの眺
望(図版三(b((、山路より望む富士(図版三(c((などが写されている。
なお、図版
三(
b(の写生については、左上に「塔峯阿育王山阿弥陀寺境内
ヨリ石垣山ヲ眺望スル圖于時明治廿年八月五日冩」とあり、同日の日記に、
「寺院前より石垣山の眺望よろし冩生す午後一時三十分帰舎す昼飯後冩生せ
し図を彩色す」と記されていることから、現地では鉛筆による写生のみを行
い、宿へ帰ったのちに彩色を施していたことがわかる。
明治二十一年の十二月一日より十日まで開催された、第二回東洋絵画会展
(於同会事務所(では、同会から依頼を受けた耕靄ら東京府内の女性画家た
ちにより、十二ヶ月の屛風が制作され、出品された
(((
(。『繪入朝野新聞』の評
武村耕靄と明治期の女性日本画家に関する研究三一 によれば、揮毫した画家は跡見玉枝(一月:郡鶴(、富田花汀(二月:初午稲
荷詣(、中林清淑(三月:梅(、佐久間棲谷(四月:山桜に小鳥(、杉浦玉舟(五
月:雪毬花に萱草(、武村耕靄(六月:百合に萱 (ママ(草と猫(、奥原晴翠(七月:山水(、
杉浦椿崖(八月:虫撰み(、渡辺晴嵐(九月:渓流に八歌鳥(、高林芳谷(十一月:
蘿に鶏(、跡見花蹊(十二月:寒流水禽(の十一名。このうち耕靄の図は、次
のように評された
(((
(。
六月武村耕靄氏の百合に萱草と猫の圖は初め圖を定めらるゝ前に一同打
合せをされざりしと見え萱草の並びたるが些面白からざれども夫は一幅
の畵の外の評とするも蝶を狙へる猫の形狀は今少しあるべし又百合の花
の施彩も思はしからず
前半部分の批評はおそらく、五月を担当した杉浦玉舟の雪毬花、すなわち
大手毬に萱草の図との、題材の重複を踏まえてのものであろう。この批評は
『繪入朝野新聞』に掲載されたのち、『繪畵叢誌』第二十三巻に転載された。
これに対し、耕靄は東洋絵画会事務所へ宛てて書簡を送り、『繪畵叢誌』第
二十五巻にその全文が掲載された
(((
(。
拝啓陳は二月二十五日發兌の繪畵叢誌第二十三巻なる第三回繪畵展覽會
十二ヶ月屛風畵の批評を讀みけるにおのれか畵きし六月猫に百合の圖を
評せられしことばに萱艸の並ひたる云云と記されぬるはいかなるひかめ
にやあらんおのれか畵きし圖には萱艸のおもかけだになく夏艸の繁りた
る中に黄姫百合の咲みだれかたへの蘭にうち雜りたるさまを物せしなり
さて黄姫百合の葉のさまはいたく萱艸とは異りたれど花の形ち瓣の數く ちなしの色などはわすれ艸にいとよく似かよひたれば黄姫百合を宜男に見たがへられたるも理りなりけりそも此花は去にし明治十三年六月の頃なりけり駒込なる植木屋喜兵衞といふ者より黄姫百合はいと珍らしき花なりとて八重に薄紅のしぼり鳳凰百合に添へておこせしを何れも美しければ愛でつるあまりやがて畵に寫し置きたるをとり出して白き高砂百合に紅の鳳凰百合と黄の姫百合とを添へて畵きしなりされど此花などは人の目に近からねば名を記して送らばやと思ひたりしにくちなしの物いはですぎたれバこそかゝるひがめもいできしなりけりされば自ら招ける罪とや言はんされどかくてうちすきんも本意ならねば此よし少か申のぶるになんかしこ思ひきや名も愛らしき姫百合をよき男てふ草に見んとは
武村耕靄
ここからは、耕靄の画題が『繪入朝野新聞』で報じられたように「百合に
萱草と猫」ではなく、黄姫百合に蘭と猫を描いたものであったことが知られ
る。残念ながら、そのくわしい図様はわからないものの、自らの作品に対す
る誤解を、あえて声を上げ解こうとする耕靄の姿勢は、注目すべきものとい
える。当時は欧化主義的な教育を憂い、儒教的な道徳教育を行うべきである
とする主張と、それに反対する主張とが対立し、いわゆる「徳育論争」が繰
り広げられていた時代で
(((
(、耕靄の勤務していた東京高等女学校においても、
明治二十二年一月十一日、校長の矢田部良吉が次のような演述を行っている(『日記』十四(。
女子教育の大切なるを (ママ(事を考ふ実に此教育の方法ハむづかしき物なり當 校生徒の内にても年少の人ハとにかく年長したる女子は一曽 (ママ(將来の事
美術研究四二七号三二
を考ねばならず女子は学問するのみを大切と思ふは大なるあやまちなり
男子は外に出て外交上の事又ハ國會議事とかいふ如き事務に奔走せねば
ならねど婦人は家事の主務者たれば学校にて学科を学ふかたわらよく
〳〵家事を脩むる事を学はねばならず家にある時は父母に願ひて割烹裁
縫買物掃じ衣服の調度より奴婢の召使ひかたまで見習ひ行なふべし
その一方で、耕靄の日記明治二十一年五月二十六日条には、次のようなこ
とがあったと記されている。
学校の下りより三條家へ参る夕方帰宅不在中能勢君の来り給ひし由故に
翌日曜日夕方より同君の邸を訪ふ談話のうち千佐子の性質善良なれども
温和に過て強剛の氣性にとぼし物事あまりひかへめなり是よりハ務めて
事を充分に為し意見を吐露し行ひを活潑にすべし云々千佐子此忠告を以
て大ひに悦ふ将来の記懐にとて茲にしるす
ここでいう「能勢君」とは、東京高等女学校の教頭であった、能勢栄のこ
とであろうか。耕靄が先のような主張を『繪畵叢誌』へ送ったのは、このよ
うな身近な者からの助言を踏まえてのことであったのだろう。
明治二十二年に入り、四月に耕靄は日本美術協会へ入会
(((
(、七月二十七日に
は、同会列品館にて開かれた絵画品評会へ、課題制作である《窓稚竹図》(絹
本(を出品する
(((
(。同作はその後、他の同会出品作とともに宮内省へ差し出さ
れ、天皇皇后御覧の上、皇后御用品となった
(((
(。耕靄は以後も同会の絵画研究
会へしばしば出品しており、明治二十四年一月二十五日の会へ出品した課題
制作《隠士出山》は宮内省の御用品に選ばれ
(((
(、金四円が下賜された(『日記』 十七(。
明治二十三年の一月には、例年のとおり、耕靄は元旦から各所へ年賀に赴
いており、四日には野口小蘋の宅へと立ち寄っている(『日記』十四(。九日
には、こんどは小蘋が耕靄宅へと年賀に訪れた(『日記』十四(。野口小蘋と
はそれ以前より、御前揮毫などで顔を合わせていたことが日記の記述などか
ら知られるが、明治二十三年以降の日記には、小蘋をとおして揮毫を依頼さ
れたり
(((
(、小蘋へ火事見舞いに行ったり(『日記』二十(、小蘋の依頼による塾
生を受け入れたりしていたことが記されており(『日記』二十二(、親しい付
き合いのあったようすが知られる。
この年の十月二十一日より十一月三十日まで、上野公園桜ヶ岡日本美術協
会列品館にて開催された日本美術協会展へ、耕靄は《幼稚園保育図》(図版
四(a((と《函根堂島松ヶ岡真景》を出品
(((
(、《幼稚園保育図》は「圏排旗奪
嬌容掬ス可シ布局精細作圖ノ勞ヲ想フ」として銅賞牌を受賞
(((
(、さらに有栖
川熾仁親王の買い上げとなった
(((
(。耕靄の日記には、明治二十三年八月二十日
条に、「幼稚園の草稿を画く」、翌二十一日条に「幼稚園下圖」、さらに二十
二日条に「幼稚園画く」とあり、八月下旬頃に《幼稚園保育図》の制作に当
たっていたことがわかる。また十一月十七日条には、「日本美術協會ニテ褒
賞授与式擧行に付出頭す幼稚園保育の圖へ銅牌を受本日有栖川總裁宮列品舘
御通覧の折幼稚保育圖思召に入御購求あり度旨御尋に付御約定申上る」とあ
り、褒賞授与式の際に、日本美術協会総裁有栖川熾仁親王の買い上げとなっ
たことが知られる。なお、《函根堂島松ヶ岡真景》についても、「山水草稿画
く」(八月二十三日条(、「山水下圖出来上る」(同二十四日条(など、同作に関
するものと思われる記述が耕靄の日記に散見される。
《幼稚園保育図》について耕靄は、日記の明治二十三年十月二十日条に、