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王通『中説』訳注稿(六)

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Academic year: 2021

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(1)

一一王通﹃中説﹄訳注稿︵六︶ 中説卷第六禮樂篇︵一︶子曰、吾於禮樂、正失而已︒如其制作、以俟明哲︒必也崇貴乎

  先生が言った﹁私は礼楽について、その正しきあり方を失った部分を元に戻すまでである︒礼楽を制作するということについては、賢明なる人物の登場を待とう︒どうしてもというならば、賢明なる人物を輔佐する立場に就くであろうかね﹂︒

⑴  吾於禮樂

  ﹃論

語﹄先進﹁先進於禮樂、野人也︒後進於禮樂、君子也﹂︒⑵  吾於至而已  阮逸注﹁正禮樂沿革之文而已﹂︒⑶  如其至明哲

  ﹃論語﹄

先進﹁求也、爲之比及三年、可使足民︒如其禮樂、以俟君子﹂︒﹃書﹄説命上﹁羣臣咸諫于王曰、嗚呼、知之明哲、明哲實作則﹂︒⑷  必也崇貴乎  阮逸注﹁王道盛、則可以制禮作樂︒明哲君子、必得公輔崇貴之位、乃助成王道也﹂︒﹃論語﹄八佾﹁子曰、君子無所爭、必也射乎﹂︒ ︵二︶賈瓊・薛收曰、道不行、如之何︒子曰、父母安之、兄弟愛之、朋友信之︒施於有政、道亦行矣、奚謂不行

  賈瓊と薛収が言った﹁道がこの世に展開されなければ、どうしたらよいでしょうか﹂︒先生は言った﹁父母からは安心され、兄弟からは敬愛され、友人からは信頼される︒これを政治に実施していけば、道も展開されるのであって、どうして展開されないなどと考えるのか﹂︒

⑴  道不行

  ﹃論

語﹄公冶長﹁子曰、道不行、乘桴浮于海︒從我者其由與﹂︒⑵  父母安之

  ﹃大戴禮記﹄

曾子事父母﹁孝子無私樂、父母所憂憂之、父母所樂樂之︒孝子惟巧變、故父母安之﹂︒⑶  朋友信之

  ﹃論

語﹄公冶長﹁子路曰、願聞子之志︒子曰、老者安之、朋友信之、少者懷之﹂、同學而﹁曾子曰、吾日三省吾身︒爲人謀而不忠乎︒與朋友交而不信乎︒傳不習乎﹂︒⑷  施於至行矣  阮逸注﹁亂世道不能濟天下、則修身以正家、可矣﹂︒⑸  施於至不行

  ﹃論

語﹄爲政﹁或謂孔子曰、子奚不爲政︒子曰、書云、孝乎惟孝、友于兄弟︒施於有政、是亦爲政︒奚其爲爲政︵何晏集解、包曰、施、行也︒所行有政道、與爲政同︶﹂︒

王通 ﹃中説﹄ 訳注稿 ︵六︶

池   田   恭   哉   

(2)

一二

︵三︶子謂任・薛・王・劉・崔・盧之昏︒非古也︒何以視譜

  先生が任・薛・王・劉・崔・盧の各氏の間での婚姻関係を評した︒﹁古くからのやり方ではない︒族譜を見て何をしているのか﹂︒

⑴  非古也

  ﹃禮記﹄

檀弓上﹁武子曰、合葬、非古也︒自周公以來、未之有改也﹂︒⑵  何以視譜  阮逸注﹁古者、氏族家譜、所以標門地、謹昏姻也︒任姓、出黃帝六代孫大壬︒薛姓、出黃帝六代孫奚仲、居薛︒此二姓同譜︒王姓、出舜之後、封於劉、至漢有王於齊者、號王氏︒此二姓同譜︒崔姓、帝嚳・姜嫄之後、居崔邑︒盧姓、亦姜姓之後、居盧國︒此二姓同譜︒皆古禮不通昏也﹂︒

︵四︶文中子曰、帝之不帝久矣︒王孝逸曰、敢問元經之帝、何也︒子曰、潔名索實、此不可去︒其爲帝、實失而名存矣

  文中子が言った﹁帝が真の意味での帝でなくなってしまってから随分になる﹂︒王孝逸が言った﹁ずばり質問しますが、﹃元経﹄における帝とは、如何なる存在なのでしょうか﹂︒先生は言った﹁名称により実態を表すのであって、帝の名称をなくすわけにはいかない︒いったい帝に関しては、実態がなく名称だけが虚しく存在するようになってしまった﹂︒

⑴  帝之不帝久矣  阮逸注﹁百王稱帝者、相沿前代號也︒自秦始皇始、故曰不帝久矣﹂︒⑵  敢問至何也  阮逸注﹁三代稱王、故春秋書王、以尊天子、稟正朔也︒秦漢稱帝、則元經書帝、以尊中國、而明正統也﹂︒⑶  潔名至可去  阮逸注﹁舉後帝之名者、貴存前帝之實也︒中國天子、不可去此號﹂︒⑷  文中至存矣  阮逸注﹁實、道也︒名、空號爾﹂︒﹃元經﹄晉太煕元年傳﹁文中子曰、帝之不帝久矣︵阮逸注、秦兼三皇五帝而傳、非其道 也︒尊虛名而已︒故曰不帝︶︒挈名索實、此不可去︵春秋書王、所以尊周也︒元經書帝、所以正國中也︶︒改元立號、非古也︵古者國君始即位、則稱元年、無改元之禮︒自漢有初元中元之號、後世因之、此亦不去︶︒其於彼、必自作之乎︵後漢自作年號、不必盡取古︶︒故書年號、帝稱名、沿漢舊制也︵經書晉者、本中國號也︒太熈元年帝正月者、存舊制也︶﹂︒

︵五︶或問謝安︒子曰、簡矣︒問王導︒子曰、敬矣︒問溫嶠︒子曰、毅人也︒問桓溫︒子曰、智近謀遠、鮮不及矣

  ある人が謝安について質問した︒先生は言った﹁簡潔である﹂︒王導について質問した︒先生は言った﹁恭敬である﹂︒温嶠について質問した︒先生は言った﹁剛毅なる人物である﹂︒桓温について質問した︒先生は言った﹁智慧は取るに足りないくせに謀略は大きく出て、与えられた任務にほぼ耐えられない﹂︒

⑴  或問至簡矣  阮逸注﹁謝安、字安石︒爲東晉相、處富貴而獨退靜、破苻堅而無喜色、終優遊東山︒此簡可見矣﹂︒⑵  問王至敬矣  阮逸注﹁王導、字茂弘︒事晉元・明・成三帝、爲相、毎進爵、必拜元帝山陵︒此恭可見矣﹂︒⑶  問溫至人也  阮逸注﹁嶠、字太眞︒與王導平王敦・蘇峻之亂、皆有功︒初、鎭武昌、聞國難、泣涕、率兵來赴天子、留嶠輔政、嶠讓王導︒此果毅可知矣﹂︒⑷  問桓至及矣  阮逸注﹁溫、字子元︒爲晉將軍、破李勢平苻健有功︒爲大都督、又北伐不已︒爲慕垂所敗、歸而潛有簒志︒此智近謀遠之驗﹂︒﹃周易﹄繫辭傳下﹁子曰、德薄而位尊、知小而謀大、力小而任重、鮮不及矣﹂︒

(3)

一三王通﹃中説﹄訳注稿︵六︶ ︵六︶賈瓊問羣居之道︒子曰、同不害正、異不傷物︒曰、可終身而行乎︒子曰、烏乎而不可也︒古之有道者、内不失眞、而外不殊俗、夫如此故全也

  賈瓊が人と一緒に居る際の道のあり方を質問した︒先生は言った﹁同調しつつも自身の正義が揺らぐことはなく、相違しつつも相手を傷つけることはない﹂︒︵賈瓊が︶言った﹁一生をかけて実行すべき道でしょうか﹂︒先生は言った﹁どうして行わないという手があろうか︒道を弁えた古の人は、内面では真実を見失うことはなく、一方で外面では周囲の人たちと反目することはなく、そうであるが故に道を全うできたのだ﹂︒

⑴  羣居之道

  ﹃論 語﹄衞靈公﹁子曰、羣居終日、言不及義、好行小慧︒難矣哉﹂︒⑵  同不至傷物  阮逸注﹁外雖同而内必正、内雖異則外無傷、此中庸者乎﹂︒﹃宋書﹄謝弘微傳﹁微子異不傷物、同不害正、若年迨六十、必至公輔﹂︒⑶  可終身而行乎  問易篇︵四六︶注⑺、參照︒⑷  内不至殊俗  嵆康﹁與山巨源絶交書﹂︵﹃文選﹄卷四三︶﹁今空語同知有達人、無所不堪、外不殊俗、而内不失正、與一世同其波流、而悔吝不生耳﹂︒⑸  古之至全也  阮逸注﹁知道、可與適道者也︒不失眞、可與立者也︒不殊俗、可與權者也︒三者備、何往不全﹂︒

︵七︶繁師玄曰、敢問稽古之利︒子曰、執古以御今之有乎

  繁師玄が言った﹁ずばり古に関して考察をめぐらせることの利点をおうかがいします﹂︒先生は言った﹁古の道を執り行うことで、今の事柄を処理していくのではないのかね﹂︒

⑴  稽古之利

  ﹃書

﹄堯典﹁曰若稽古帝堯︵孔安國傳、若順、稽考也︒能 順考古道而行之者帝堯︶﹂︒⑵  敢問至有乎  阮逸注﹁今之有利者、皆古有之矣、故必稽古﹂︒﹃老子﹄第十四章﹁執古之道、以御今之有︵王弼注、有有其事︶︒能知古始、是謂道紀︵無形無名者、萬物之宗也︒雖今古不同、時移俗易、故莫不由乎此、以成其治者也︒故可執古之道、以御今之有︒上古雖遠、其道存焉︒故雖在今、可以知古始也︶﹂︒

︵八︶子曰、居近識遠、處今知古、惟學矣乎

  先生が言った﹁身近な事柄から遠方の事柄について認識し、現在の世に居りながら過去の世について知識を得る、これこそ学問ではないか﹂︒

⑴  居近至知古

  ﹃呂

氏春秋﹄察今﹁有道之士、貴以近知遠、以今知古、以益所見、知所不見﹂︒⑵  居近至矣乎  阮逸注﹁孔子曰、吾非生而知之、好古、敏以求之﹂、見于﹃論語﹄述而︒

︵九︶子曰、恭則物服、愨則有成、平則物化︒子曰、我未見平者也

  先生が言った﹁恭しくあれば人々は敬服し、誠心誠意であれば物事は成し遂げられ、公平無私であれば人々はそれに教化される﹂︒先生は言った﹁私は公平無私なる人物にお目にかかったことがない﹂︒

⑴  恭則物服  阮逸注﹁儼然、人望而畏之﹂︒﹃論語﹄陽貨﹁子張問仁於孔子︒孔子曰、能行五者於天下、爲仁矣︒請問之︒曰、恭寛信敏惠︒恭則不侮、寛則得衆、信則人任焉、敏則有功、惠則足以使人﹂︒⑵  愨則有成  阮逸注﹁先誠其意﹂︒﹃論語﹄子路﹁子曰、苟有用我者、期月而已可也、三年有成﹂︒﹃禮記﹄祭義﹁是故先王之孝也、色不忘乎目、聲不絶乎耳、心志嗜欲、不忘乎心︒致愛則存、致慤則著、著存不忘乎心︒夫安得不敬乎﹂︒

(4)

一四

⑶  平則物化  阮逸注﹁無私於物、物亦公焉﹂︒⑷  我未見平者也  阮逸注﹁隋政多私﹂︒

︵一〇︶或曰、君子仁而已矣、何用禮爲︒子曰、不可行也︒或曰、禮豈爲我輩設哉︒子不答、既而謂薛收曰、斯人也、旁行而不流矣︒安知教意哉︒有若謂先王之道、斯爲美也

  ある人が言った﹁君子は仁さえ備えていればそれでよく、どうして礼が必要となろうか﹂︒先生は言った﹁礼がなくては仁を展開できないのだ﹂︒そのある人が言った﹁礼など私にとって何の意味があろう﹂︒先生は答えず、しばらくして薛収に言った﹁この人物は、色々な範囲に渉りつつも物事の変化の流れがわかっていない︒私の言いたい内容が理解できるはずもない︒有若が、先王の道は礼が調和を為す点においてこそ美しい、と言っている﹂︒

⑴  不可行也  阮逸注﹁行仁必以禮節之﹂︒﹃論語﹄學而﹁有子曰、禮之用和爲貴︒先王之道、斯爲美︒小大由之、有所不行、知和而和、不以禮節之、亦不可行也︵何晏集解、馬曰、人知禮貴和、而毎事從和、不以禮爲節、亦不可行︶﹂︒⑵  禮豈爲我輩設哉

  ﹃世説新語﹄

任誕﹁阮籍嫂嘗還家、籍見與別、或譏之︵劉孝標注、曲禮、嫂叔不通問︶︒籍曰、禮豈爲我輩設也﹂︒⑶  斯人也

  ﹃論

語﹄雍也﹁伯牛有疾、子問之︒自牖執其手、曰、亡之、命矣夫︒斯人也、而有斯疾也︒斯人也、而有斯疾也﹂︒⑷  旁行而不流矣  問易篇︵三八︶注⑶、參照、張氏注﹁原指觸類旁通而不失其正、此指蔽於一曲而不知大體︒又、兪樾以爲王通借易語而反用之、本句當作斯人也、旁行而流矣︒見諸子平議補錄卷十二﹂︒⑸  有若至美也  注⑴、參照︒ ︵一一︶文中子曰、七制之主、道斯盛矣︒薛收曰、何爲其然︒子曰、嗚呼、惟明王能受訓︒收曰、無制而有訓、何謂也︒子曰、其先帝之制未亡乎︒大臣之命尚正乎︒無制而有訓、天下其無大過矣︒否則蒼生不無大憂焉

  文中子が言った﹁七制の君主たちの道は何と盛大なことか﹂︒薛収が言った﹁どうしてそのように盛大なのでしょうか﹂︒先生は言った﹁ああ、ただ賢明なる君主のみが﹁訓﹂を受け入れられるのだ﹂︒薛収が言った﹁﹁制﹂がないのに﹁訓﹂があるというのは、どういうことなのでしょうか﹂︒先生は言った﹁先帝による制がまだ失われていないではないか︒大臣による命がまだ正しいではないか︒﹁制﹂がなくとも﹁訓﹂さえあれば、この世の中に大きな過失は生じないであろう︒そうでなければ、民衆はきっと巨大な不安に包まれざるを得ない﹂︒

⑴  七制之主  王道篇︵三二︶注⑴、參照︒⑵  道斯盛矣

  ﹃論語﹄

泰伯﹁孔子曰、才難、不其然乎︒唐虞之際、於斯爲盛︒有婦人焉、九人而已﹂︒⑶  何爲其然

  ﹃論語﹄

雍也﹁宰我問曰、仁者雖告之曰、井有仁焉、其從之也︒子曰、何爲其然也﹂、﹃禮記﹄孔子間居﹁子夏曰、言則大矣美矣盛矣、言盡於此而已乎︒孔子曰、何爲其然也﹂︒⑷  惟明王能受訓  阮逸注﹁續書有訓﹂︒⑸  其先至正乎  阮逸注﹁若孝武之制未亡、霍光之命尚正、則可以訓前漢諸帝也︒光武之制未亡、桓榮之命尚正、則可以訓後漢諸帝也﹂︒⑹  無制至憂焉  阮逸注﹁若昌邑王不廢、東海王不讓、則必有兵爭起而生民憂也﹂︒﹃論語﹄述而﹁子曰、加我數年、五十以學易、可以無大過矣﹂︒

(5)

一五王通﹃中説﹄訳注稿︵六︶ ︵一二︶薛收曰、讚、其非古乎︒子曰、唐虞之際、斯爲盛︒大禹・臯陶、所以順天休命也

  薛収が言った﹁﹁讃﹂とは古の世にはなかったのでしょうか﹂︒先生は言った﹁唐︵堯︶・虞︵舜︶の時代において、それが盛んであった︒大禹・皋陶は、それによって天に順応して命に安んじたのである﹂︒

⑴  讚其非古乎  阮逸注﹁續書有讚﹂︒非古、禮樂篇︵三︶注⑴、參照︒⑵  唐虞至爲盛  禮樂篇︵一一︶注⑵、參照︒⑶  大禹至命也

  ﹃書

﹄大禹謨﹁益贊于禹曰、惟德動天、無遠弗居︵孔安國傳、贊佐、居至也︒益以此義佐禹、欲其修德致遠︶﹂、同臯陶謨﹁臯陶曰、予未有知思︒曰、贊贊襄哉︵言我未有所知、未能思致於善、徒亦贊奏上古行事而言之、因禹美之、承以謙辭、言之序︶﹂︒﹃周易﹄大有﹁君子以遏惡揚善、順天休命︵王弼注、大有、包容之象也︒故遏惡揚善、成物之性︒順天休命、順物之命︶﹂︒

︵一三︶文中子曰、議、天子所以兼採而博聽也︒唯至公之主、爲能擇焉

  文中子が言った﹁﹁議﹂とは、天子が様々な方面から意見を取り入れて、幅広く耳を傾けるためのものだ︒ただこの上なく公明正大な君主のみが、その善なる﹁議﹂を採択できる﹂︒

⑴  議天至聽也  阮逸注﹁續書有議﹂︒﹃新語﹄思務﹁君子博思而博聽、進退順法、動作合度、聞見欲衆、而采擇欲謹﹂︒⑵  唯至至擇焉  阮逸注﹁公朝共議、擇善而從﹂︒﹃論語﹄述而﹁子曰、三人行、必有我師焉︒擇其善者而從之、其不善者而改之︵何晏集解、言我三人行、本無賢愚︒擇善從之、不善改之、故無常師︶﹂、同﹁子曰、蓋有不知而作之者、我無是也︒多聞擇其善者而從之、多見而識之、知之次也﹂︒張氏注﹁參見問易篇、昔黃帝有合宮之聽、堯有衢 室之問、舜有緫章之訪、皆議之謂也︒大哉乎︒併天下之謀、兼天下之智、而理得矣﹂、問易篇︵八︶︒

︵一四︶文中子曰、誡、其至矣乎︒古之明王、敬慎所未見、悚懼所未聞、刻於盤盂、勒於几杖、居有常念、動無過事︒其誡之功乎︒

  文中子が言った﹁﹁誡﹂とはこの上なく優れているなあ︒古の賢明なる君王は、まだ見ぬ物事に対して慎み深くあり、まだ聞かぬ内容に対して自らを律し、戒めの言葉を盤盂︵円形や方形の盛り器︶に刻みつけ、几杖︵肘かけや杖︶に彫り込み、じっと自分自身を省み続け、行動においては過失がない︒それが﹁誡﹂の功用なのだなあ﹂︒

⑴  誡其至矣乎  阮逸注﹁續書有誡﹂︒⑵  古之明王  問易篇︵一〇︶注⑶、參照︒⑶  敬慎至未聞

  ﹃禮記﹄

中庸﹁是故君子戒慎乎其所不睹、恐懼乎其所不聞﹂、﹃大戴禮記﹄衞將軍文子﹁子貢對曰、賜也焉能知人、此賜之所親覩也︒孔子曰、是女所親也︒吾語女耳之所未聞、目之所未見、思之所未至、智之所未及者乎﹂︒⑷  刻於盤盂  張氏注﹁如湯之盤銘、苟日新、日日新、又日新︒盥盤銘、與其溺於人也、寧溺於淵︒溺於淵猶可游也、溺於人不可救也﹂︒⑸  勒於几杖  張氏注﹁杖銘、惡乎危︒於忿㚄︒惡乎失道︒於嗜欲︒惡乎相忘︒於富貴﹂︒⑹  動無過事

  ﹃大戴禮記﹄

保傅﹁是以慮無失計、而擧無過事﹂︒

︵一五︶薛收曰、諫、其見忠臣之心乎︒其志直、其言危︒子曰、必也直而不迫、危而不詆︒其知命者之所爲乎︒狡乎逆上、吾不與也

  薛収が言った﹁﹁諫﹂とは忠義の臣下の心意気を示すものなのですねえ︒その心志は実直で、発言は率直です﹂︒先生が言った﹁きっと実直でありながら他者を圧迫せず、率直でありながら他者を陥れない︒それは天

(6)

一六

命を弁えた者の仕業だろうなあ︒凶暴な振る舞いでお上に盾突くような人間とは、私は関わり合いにならない﹂︒

⑴  諫其至心乎  阮逸注﹁續書有諫﹂︒⑵  其志至言危  阮逸注﹁志直、若周昌云、口不能言、心知不可、是也︒言危、若樊噲云、陛下獨不見趙高之事乎、是也﹂︒張氏注﹁論語・憲問、邦有道、危言危行︒邦無道、危行言孫﹂︒⑶  必也至爲乎  阮逸注﹁不迫、若賈誼曰、今之進言者、皆云天下治、臣獨以爲未、是也︒知命、爲知其君可諫則諫、進退不違天命也﹂︒⑷  狡乎至與也  阮逸注﹁狡、謂志不直也、言不危也︒非忠順、故曰逆﹂︒﹃論語﹄述而﹁子曰、暴虎馮河、死而無悔、吾不與也﹂︒

︵一六︶賈瓊曰、虐哉漢武︒未嘗從諫也︒子曰、孝武其生知之乎︒雖不從、未嘗不悅而容之︒故賢人攢於朝、直言屬於耳︒斯有志於道、故能知悔而康帝業︒可不謂有志之主乎

  賈瓊が言った﹁暴虐な人物ですねえ、漢の武帝とは︒諫言を聴き入れた例がありません﹂︒先生が言った﹁孝武︵武帝︶は生まれながらにして物事がわかっていた人物だろうかね︒諫言を聴き入れることこそしなかったが、いつだって進んで諫言することを容認した︒だから賢者が朝廷に参集し、率直なる言葉に耳を傾けた︒武帝は道に志を寄せたからこそ、過去の失策を後悔し、帝王としての業績を安定へと立て直し得たのだ︒志のある君主であると言わずにおれようか﹂︒

⑴  孝武其生知之乎

  ﹃論語﹄

季氏﹁孔子曰、生而知之者、上也︒學而知之者、次也︒困而學之、又其次也︒困而不學、民斯爲下矣﹂、又禮樂篇︵八︶注⑵、參照︒⑵  孝武至容之  阮逸注﹁子言漢武大體生知、不由人諫而理也︒若初即位、崇太學、立明堂、黜百家、策賢良、雄才大略、此皆天縱也︒如 汲黯之訐、方朔之滑稽、雖未聽、亦能容之矣﹂︒⑶  故賢至帝業  阮逸注﹁賢人、若仲舒・申公・枚臯・相如・嚴樂輩、是也︒此數子、毎大臣奏事、則皆辯論之︒是攅於朝、屬於耳也︒晩年下詔、覺用兵之悔、封丞相旧千秋爲富民侯︒是知悔而帝業康也﹂、張氏注﹁漢武帝自通西域後、軍旅連出、師行三十二年、海内虛耗︒晩歳悔遠征伐、乃下詔深陳既往之悔、曰、軍士死略離散、悲痛常在朕心、是擾勞天下、非所以優民也云云、自是不復出軍、思富養民︒史臣曰、末年遂棄輪台之地、而下哀痛之詔、豈非仁聖之所悔哉︒見漢書・西域傳﹂︒﹃論語﹄里仁﹁子曰、士志於道、而恥惡衣惡食者、未足與議也﹂、同述而﹁子曰、志於道︵何晏集解、志、慕也︒道不可體、故志之而已︶、據於德、依於仁、遊於藝﹂︒⑷  可不謂有志之主乎  阮逸注﹁續書所以有志﹂︒

︵一七︶子曰、姚義之辯、李靖之智、賈瓊・魏徵之正、薛收之仁、程元・王孝逸之文、加之以篤固、申之以禮樂、可以成人矣

  先生が言った﹁姚義の弁才、李靖の智慧、賈瓊・魏徴の正直、薛収の仁愛、程元・王孝逸の文雅、これに篤実さを付け加え、礼楽を上乗せすれば、完成された人間といえる﹂︒

⑴  姚義至篤固  阮逸注﹁七子各得一長、更能敦篤則固﹂︒⑵  申之至人矣  阮逸注﹁既固矣、必能成之禮樂、通才然後及也﹂︒﹃論語﹄憲問﹁子路問成人︒子曰、若臧武仲之知︵何晏集解、馬曰、魯大夫臧孫紇︶、公綽之不欲︵馬曰、孟公綽︶、卞莊子之勇︵周曰、卞邑大夫︶、冉求之藝、文之以禮樂︵孔曰、加之以禮樂文成︶、亦可以爲成人矣﹂︒

︵一八︶子謂京房・郭璞、古之亂常人也

  先生が京房・郭璞について、古の人倫に悖る人物だと評した︒

(7)

一七王通﹃中説﹄訳注稿︵六︶ ⑴  子謂至人也  阮逸注﹁京房、字君明、習災變之學、以卦直日用事︒本姓李氏、而輒自推律改爲京氏︒郭璞、字景純、好陰陽筭術、被髪銜刀、竟坐誅︒二子並乖正經、亂人倫者也﹂、張氏注﹁京房、字君明、本姓李、東郡頓丘人︒治易、事焦延壽︒其説長於災變、分六十四卦、更直日用事、以風雨寒溫爲候、各有占驗︒初元四年以孝廉爲郞︒數以災變干政、爲大臣所非︒建昭二年、下獄棄市︒時年四十一︒見漢書・晆兩夏侯京翼李傳︒郭璞、字景純、河東聞喜人︒好經術、博學有高才、詞賦爲中興之冠︒好古文奇字、妙於陰陽算暦︒嘗以災變上疏晉元帝、遷任尚書郞︒後爲王敦所殺、時年四十九︒見晉書・郭璞傳﹂︒

︵一九︶子曰、冠禮廢、天下無成人矣︒昏禮廢、天下無家道矣︒喪禮廢、天下遺其親矣︒祭禮廢、天下忘其祖矣︒嗚呼、吾末如之何也已矣

  先生が言った﹁冠礼が廃れて、世の中から完成された人間がいなくなってしまった︒婚礼が廃れて、世の中から家庭の道義が失われてしまった︒喪礼が廃れて、世の中の人々が両親を軽視するようになってしまった︒祭礼が廃れて、世の中の人々が祖先を蔑ろにするようになってしまった︒ああ、私にはこれをどうにもできないなあ﹂︒

⑴  冠禮至道矣  阮逸注﹁士冠・昏禮、二十而冠、三十而昏︒成人正家、不可廢也﹂︒⑵  喪禮至祖矣  阮逸注﹁亦言士喪・祭禮也︒孟子曰、未有仁而遺其親也︒又曰、祭必自其祖﹂、﹃孟子﹄梁惠王上﹁未有仁而遺其親者也︒未有義而後其君者也︵趙岐注、仁者親親、義者尊尊︒人無行仁而遺棄其親也、無行義而忽後其君長︶﹂、同滕文公上﹁且志曰、喪祭從先祖﹂︒⑶  吾末如之何也已矣

  ﹃論語﹄

子罕﹁説而不繹、從而不改、吾末如之何 也已矣﹂︒

︵二〇︶越公問政︒子曰、恭以儉︒邳公問政︒子曰、清以平︒安平公問政︒子曰、無鬭人以名

  越公︵楊素︶が為政の道を質問した︒先生は言った﹁恭しく倹素であることです﹂︒邳公︵蘇威︶が為政の道を質問した︒先生は言った﹁清廉で公平であることです﹂︒安平公︵李徳林︶が為政の道を質問した︒先生は言った﹁他者を凌いで名声を得ることのないようにすることです﹂︒

⑴  越公至以儉  阮逸注﹁楊素驕侈、故規之﹂︒問政、﹃論語﹄中屢見、子路﹁葉公問政︒子曰、近者説、遠者來﹂︒⑵  邳公問政  阮逸注﹁蘇威封邳國公、爲僕射﹂︒⑶  邳公至以平  阮逸注﹁威以老臣貴位、引其子夔預朝政、非清白公平也、故亦規之﹂︒⑷  安平公問政  阮逸注﹁李德林封安平郡公﹂︒⑸  安平至以名  阮逸注﹁德林文學擅名、然多自負、見毀於時、故規之使無鬬名﹂︒

︵二一︶子謂薛收・賈瓊曰、春秋・元經、其衰世之意乎︒義直而微、言曲而中

  先生が薛収と賈瓊に対して言った﹁﹃春秋﹄﹃元経﹄とは、衰退した世の中の状況を示す著作なのだねえ︒その意味内容は真っ直ぐだが含蓄があり、表現方法は婉曲だが核心を捉えている﹂︒

⑴  春秋至而中  阮逸注﹁直微曲中、蓋權行取中﹂︒﹃周易﹄繫辭傳下﹁於稽其類、其衰世之意邪︵韓康伯注、有憂患而後作易、世衰則失得彌彰、爻繇之辭、所以明失得、故知衰世之意邪︶︒夫易、︙︙其旨遠、其辭文、其言曲而中︵變化无恒、不可爲典要、故其言曲而中也︶、

(8)

一八

其事肆而隱︵事顯而理微也︶﹂︒

︵二二︶越公初見子︒遇内史薛公、曰、公見王通乎︒薛公曰、鄉人也︒是其家傳七世矣、皆有經濟之道、而位不逢︒越公曰、天下豈有七世不逢乎︒薛公曰、君子道消、十世不逢有矣︒越公曰、奚若其祖︒公曰、王氏有祖父焉、有子孫焉︒雖然、久於其道、鍾美於是也︒是人必能敘彝倫矣

  越公︵楊素︶が初めて先生と面会した︒たまたま薛公︵薛道衡︶と出会ったので言った﹁あなたは王通と面識があるのか﹂︒薛公は言った﹁同郷の人です︒彼の家は七世代に亘り学問を伝承し、すべてが経世済民の道を弁えてきましたが、地位には恵まれませんでした﹂︒越公が言った﹁この世に七世代も地位に恵まれぬことなどあり得ようか﹂︒薛公が言った﹁君子の道が消失しては、︵孔子の如く︶十世代でも地位に恵まれぬことはあります﹂︒越公が言った﹁︵王通はその︶先祖と比較してどうか﹂︒薛公が言った﹁王氏には先祖がおり、子孫もおりましょう︒しかしながら、然るべき道に久しく執心し、先祖の美点が挙って王通に集まっています︒この人物は、必ずや天下に常なる道を示すことでしょう﹂︒

⑴  越公至通乎  阮逸注﹁楊素問薛道衡﹂︒⑵  鄉人也  阮逸注﹁並家河東﹂︒⑶  是其家傳七世矣  阮逸注﹁家傳儒業﹂、王道篇︵一︶、參照︒⑷  而位不逢  阮逸注﹁不逢明時﹂︒⑸  天下豈有七世不逢乎

  ﹃禮記﹄

檀弓上﹁天下豈有無父之國哉﹂︒⑹  君子道消

  ﹃周易﹄

否﹁小人道長、君子道消也﹂︒⑺  十世不逢有矣  阮逸注﹁若孔子、自弗父何嗣厲公及正考甫佐戴武宣公、至孔父嘉立殤公、至仲尼、凡三百年、不遇明時﹂︒⑻  久於其道

  ﹃周易﹄

恒﹁恒︵王弼注、皆可久之道︶︙︙恒亨无咎、利貞、久於其道也︵道德所久、則常通、无咎而利正也︶︒︙︙聖人久於其 道、天下化成﹂︒⑼  鍾美於是也

  ﹃左

傳﹄昭公二八年﹁是鄭穆少妃、姚子之子、子貉之妹也︒子貉早死無後、而天鍾美於是︵杜預注、是、夏姫也︒鍾、聚也︶︒將必以是、大有敗也﹂︒⑽  是人必能敘彝倫矣  阮逸注﹁六經續而彝倫敘﹂︒﹃書﹄洪範﹁天乃錫禹、洪範九疇、彝倫攸叙﹂︒

︵二三︶子出自蒲關、關吏陸逢止之曰、未可以遯我生民也︒子爲之宿、翌日而行︒陸逢送子曰、行矣︒江湖鱣鯨、非溝瀆所容也

  先生が蒲州の龍門関を通過した折、その関所の官吏である陸逢が制止して言った﹁我ら民衆を見捨てて立ち去ってはなりません﹂︒先生は︵彼が賢者たることを覚って︶その下に宿泊し、明くる日に出発した︒陸逢は先生を見送って言った﹁どうぞ行かれてください︒大きな河や湖に泳ぐ巨魚は、とてもではないですが小さな水たまりに収まり切るものではないのです﹂︒

⑴  子出自蒲關  阮逸注﹁自長安出蒲州龍門關北歸晉﹂︒⑵  關吏至民也  阮逸注﹁陸逢、賢人、隱於關吏﹂︒⑶  子爲至而行  阮逸注﹁子知其賢、意在生民、故特爲宿、未忍去﹂︒⑷  陸逢至容也  阮逸注﹁聖道大、非羣小所知﹂︒賈誼﹁弔屈原文﹂︵﹃文選﹄卷六〇︶﹁彼尋常之汙瀆兮、豈能容夫吞舟之巨魚︵李善注、莊子曰、弟子謂庚桑楚曰、夫尋常之溝、巨魚無所還其體、而鯤鰌爲之制也︶、横江湖之鱣鯨兮、固將制於螻蟻︵晉灼曰、小水不容大魚、而横鱣鯨於洿瀆、必爲螻蟻所見制︒以况小朝主闇、不容受忠迕之言、亦謂讒賊小人所見害也︒︙︙莊子、庚桑楚謂弟子曰、吞舟之魚、碭而失水、則螻蟻能苦之︒戰國策、齊人説靖郭君曰、君不聞海大魚乎︒蕩而失水、則螻蟻得意焉︶﹂︒

(9)

一九王通﹃中説﹄訳注稿︵六︶ ︵二四︶程元曰、敢問風自火出、家人、何也︒子曰、明内而齊外︒故家道正而天下正

  程元が言った﹁ずばり﹁風は火から起こる、それが家人の卦だ﹂とはどういうことか、おうかがいします﹂︒先生が言った﹁内側をはっきりさせた上で、外側をきちんと正すということだ︒だから家政の道が正しきを得て、天下の政治が正しきを得る﹂︒

⑴  敢問至何也

  ﹃易

﹄家人﹁象曰、風自火出、家人︵王弼注、由内以相成熾也︒孔頴達疏、風自火出家人者、巽在離外、是風從火出︒火出之初、因風方熾、火既炎盛、還復生風︒内外相成、有家人之義︒故曰風自火出、家人也︶﹂︒⑵  故家道正而天下正  阮逸注﹁治國者先齊家﹂︒

︵二五︶子曰、仁義其教之本乎︒先王以是繼道德而興禮樂者也

  先生が言った﹁仁義というのは教化の根本だろうかね︒先王たちは、仁義によって道徳を継承し、礼楽を興隆させたのである﹂︒

⑴  仁義其教之本乎

  ﹃論語﹄

學而﹁孝弟也者、其爲仁之本與﹂︒⑵  先王以是繼道德而興禮樂者也  張氏注﹁朱熹・答余彝孫曰、文中子曰、仁義、教之本、先王以是繼道德︒此先道德而後仁義之説也︒此説得之﹂、﹃朱文公文集﹄卷六〇︒

︵二六︶子曰、禮其皇極之門乎︒聖人所以嚮明而節天下也︒其得中道乎︒故能辯上下、定民志

  先生が言った﹁礼というのは皇極︵大いなる中庸︶への入り口であろうかね︒聖人はこれによって明るい南に向かい世の中を取り仕切るのだ︒礼というのは中庸の道にかなったものであろうかね︒そのために世の中全体の秩序を整え、人民の志向を安定へと導くのだ﹂︒ ⑴  禮其皇極之門乎  皇極、王道篇︵一︶注⑿、參照︒﹃周易﹄繫辭傳下﹁子曰、乾坤其易之門邪﹂︒⑵  聖人所以嚮明而節天下也

  ﹃周易﹄

説卦﹁聖人南面而聽天下、嚮明而治﹂︒⑶  其得中道乎  阮逸注﹁解上文皇極義﹂︒﹃禮記﹄中庸﹁誠者、不勉而中、不思而得、從容中道、聖人也﹂︒⑷  故能至民志  阮逸注﹁上不偪下、下不僭上、人志自定、是中也﹂︒﹃周易﹄履﹁象曰、上天下澤、履、君子以辯上下、定民志﹂︒

︵二七︶或問君子︒子曰、知微、知章、知柔、知剛︒曰、君子不器、何如︒子曰、此之謂不器

  ある人が君子について質問した︒先生は言った﹁物事の微細な点を察知し、明白な点を知悉し、柔軟さの意義を熟知し、剛健さの意義を理解する存在だ﹂︒︵そのある人が︶言った﹁君子は器ではない、とはどういうことでしょうか﹂︒先生は言った﹁上述の内容が、︵ある方途に合わせて作られたような︶器ではないということである﹂︒

⑴  知微至知剛

  ﹃周易﹄

繫辭傳下﹁君子知微知彰、知柔知剛、萬夫之望︵韓康伯注、此知幾其神乎︶﹂︒⑵  君子不器

  ﹃論

語﹄爲政﹁子曰、君子不器︵何晏集解、包曰、器者、各周其用︒至於君子、無所不施︶﹂︒⑶  此之謂不器  阮逸注﹁即此微・章・柔・剛是不器﹂︒

︵二八︶文中子曰、周・齊之際、王公大臣、不暇及禮矣︒獻公曰、天子失禮、則諸侯脩於國︒諸侯失禮、則大夫脩於家︒禮樂之作、獻公之志也

  文中子が言った﹁北周・北斉の時代、王公大臣たちは礼について議論

(10)

二〇

する余裕がなかった︒安康献公︵王一︶はおっしゃった﹁天子が礼を廃れさせると、諸侯たちが自国にて礼を修めた︒諸侯たちが礼を廃れさせると、大夫たちが家庭にて礼を修めた﹂︒礼楽の興隆ということが、安康献公の念願だったのである﹂︒

⑴  周齊至禮矣  阮逸注﹁北齊高洋至高緯二十八年、後周自宇文覺至介國公二十五年、日尋干戈、雖有名臣、豈暇及禮哉﹂︒⑵  獻公  王通祖父・王一、王道篇︵一︶、參照︒⑶  天子至於家  阮逸注﹁周東遷邦、禮喪︒韓宣子適魯曰、周禮在魯矣︒此諸侯脩於國也︒魯三家專政、八佾舞庭、孔子自衛反魯、乃定禮樂、此大夫脩於家也﹂︒⑷  禮樂至志也  阮逸注﹁禮論・樂論、蓋推獻公之志而作﹂︒

︵二九︶程元問六經之致︒子曰、吾續書以存漢・晉之實︒續詩以辯六代之俗︒修元經以斷南北之疑︒讚易道以申先師之旨︒正禮樂以旌後王之失︒如斯而已矣︒程元曰、作者之謂聖、述者之謂明、夫子何處乎︒子曰、吾於道屢伸而已、其好而能樂、勤而不猒者乎︒聖與明吾安敢處

  程元が﹃続六経﹄の意図するところを質問した︒先生は言った﹁私は﹃続書﹄によって漢代晋代の実態を保存した︒﹃続詩﹄によって六代の風俗を弁明した︒﹃元経﹄を撰修して南北両朝に存在した正統性に関わる疑念を決着させた︒易の道理を称揚して孔子の趣旨を闡明した︵﹃賛易﹄︶︒礼楽を正しきあり方に戻して後世の王たちによる失策をはっきりさせた︵﹃礼論﹄﹃楽論﹄︶︒それだけである﹂︒程元が言った﹁礼楽の創始者を聖と称し、祖述者を明と称する、とありますが、先生はいずれの立場にあるのでしょうか﹂︒先生は言った﹁私は道のあり方を繰り返しはっきりさせるまでで、ただ好き好んで道を楽しみ、道に専心して飽きることがない人間なのだなあ︒聖や明については、私はどちらの立場にもあろう としないのだ﹂︒

⑴  程元問六經之致  阮逸注﹁續經﹂︒⑵  吾續書以存漢晉之實  阮逸注﹁續書起於漢高祖、止晉武帝﹂︒⑶  續詩以辯六代之俗  阮逸注﹁六代詩、見上﹂、問易篇︵五二︶、參照︒⑷  修元經以斷南北之疑  阮逸注﹁晉東遷、故南朝推運暦者、因以齊・梁・陳爲正統︒後魏據中原、故北朝推運暦者、以北齊・周・隋爲正統︒於是南北二史、夷虜相稱、而天下疑矣︒元經者、所以尊中國、故中國無主、則正統在晉・宋、中國有主、則正統歸魏・周﹂︒⑸  讚易道以申先師之旨  阮逸注﹁申明十翼也﹂︒⑹  正禮樂以旌後王之失  阮逸注﹁後王有不合周公制作者、則論而正之﹂︒⑺  如斯而已矣  問易篇︵四五︶注⑷、參照︒⑻  作者至謂明

  ﹃禮記﹄

樂記﹁故知禮樂之情者能作、識禮樂之文者能述︵鄭玄注、述謂訓其義也︶︒作者之謂聖、述者之謂明︒明聖者述作之謂也﹂︒⑼  吾於道屢伸而已  阮逸注﹁言我亦不作、亦不述、蓋以微言絶、大義乖、則我再三伸明之爾﹂︒⑽  其好至者乎  阮逸注﹁言我但好學不厭而已﹂︒﹃論語﹄述而﹁子曰、黙而識之、學而不厭、誨人不倦、何有於我哉﹂、同﹁抑爲之不厭、誨人不倦、則可謂爾已矣﹂︒⑾  聖與明吾安敢處  阮逸注﹁不敢當程元所言﹂︒﹃論語﹄述而﹁子曰、若聖與仁、則吾豈敢︵何晏集解、孔曰、孔子謙、不敢自名仁聖︶﹂︒

︵三〇︶子曰、有坐而得者、有坐而不得者︒有行而至者、有行而不至者

  先生が言った﹁静坐して道を会得することがあれば、静坐して道を会得しないこともある︒実行に移して道に到達することがあれば、実行に移して道に到達しないこともある﹂︒

(11)

二一王通﹃中説﹄訳注稿︵六︶ ⑴  有坐至至者  阮逸注﹁老子曰、坐進此道︒書曰、行之惟難︒坐之行之、一也︒而有得有不得、有至有不至︒此言人性差殊、各由所習、遂相遠也﹂、阮逸注引老子、第六十二章、書、説命中︒有行而不至者、原作有不行而至者、張氏注﹁兪樾諸子平議補錄卷十二、有不行而至者當作有行而不至者、與上文有坐而不得者相對成文︒︙︙以阮注證之、則正文無不行而至之意明矣﹂、今據改︒

︵三一︶子曰、見而存、未若不見而存者也

  先生が言った﹁物事を目にしてからそれを心に留め置くことは、物事を目にしないうちからそれを心に留め置くことに及ばない﹂︒

⑴  見而存  阮逸注﹁因所見而存諸心﹂︒⑵  不見而存者也  阮逸注﹁不待見而心常存之、猶言不勉而中、不言而信也﹂︒

︵三二︶子曰、君子可招而不可誘︒可棄而不可慢︒輕譽苟毀、好憎尚怒、小人哉︒

  先生が言った﹁君子は礼により招聘することはできるが、利益により誘惑することはできない︒別々の道を歩むことはあっても、その道を侮ることはできない︒軽率に人を称賛し、いい加減に人を批難し、好んで人を憎悪し、やたらと人に怒るのは、小人のやり方だなあ﹂︒

⑴  君子可招而不可誘  阮逸注﹁可以禮招、不可以機誘﹂︒⑵  可棄而不可慢  阮逸注﹁棄、謂道不同︒慢、謂傷名教﹂︒

︵三三︶子曰、以勢交者、勢傾則絕︒以利交者、利窮則散︒故君子不與也︒   先生が言った﹁権勢を頼みにした交際は、その権勢に陰りが見えれば終わってしまう︒利益を頼みにした交際は、その利益がなくなれば離れ離れになってしまう︒そのため君子はそうした交際はしない﹂︒

⑴  以利至則散

  ﹃莊子﹄

山木﹁夫以利合者、迫窮禍患害相棄也﹂︒⑵  君子不與也

  ﹃荀子﹄

大略﹁多知而無親、博學而無方、好多而無定者、君子不與﹂︒

︵三四︶子謂薛收、善接小人、遠而不疎、近而不狎、頹如也

  先生が薛収を﹁うまく小人と付き合い、彼らを遠ざけつつも疎外することなく、近付きつつも馴れ馴れしくせず、拘りのない態度である﹂と評した︒

⑴  頹如也  阮逸注﹁頹如、不矜持之貌﹂︒

︵三五︶子遊汾亭、坐鼓琴︒有舟而釣者過、曰、美哉、琴意︒傷而和、怨而靜︒在山澤而有廊廟之志、非太公之都磻溪、則仲尼之宅泗濱也︒子驟而鼓南風、釣者曰、嘻、非今日事也︒道能利生民、功足濟天下、其有虞氏之心乎︒不如舜自鼓也︒聲存而操變矣︒子遽捨琴、謂門人曰、情之變聲也、如是乎︒起將延之、釣者揺竿鼓枻而逝︒門人追之、子曰、無追也︒播鼗武入於河、擊磬襄入於海、固有之也︒遂志其事、作汾亭操焉

  先生が汾亭に出かけ、座って琴を奏でていた︒舟に乗った釣り人が通りかかり、言った﹁何と美しいことか、琴の音の意図するところは︒悲傷の感がありながらも調和しており、哀怨の情がありながらも静謐である︒山野にいながら朝廷にいるかの如き志を抱き、太公望が磻溪にて釣り糸を垂れていたようではなく、仲尼が泗水のほとりにて学問を講じていたようだ﹂︒先生が突然に﹁南風﹂を奏でると、釣り人が言った﹁ああ、

(12)

二二

現在の世にあってできることではない︒道は人民を利するものとなり、功績は世の中を十分に救えるというあたりは、虞氏︵舜︶の心意気であろうかね︒舜が自ら奏でた音色には及ばない︒音声は舜のものを残しているが、節操が変化してしまっている﹂︒先生はすぐに琴を手放し、門人たちに言った﹁感情が音声を変化させるとは、こういうことを指すのか﹂︒立ち上がって釣り人を引き入れようとすると、彼は釣竿を揺らし、櫂を船縁に打ち鳴らしながら去ってしまった︒門人がそれを追いかけて行くと、先生は言った﹁追いかける必要はない︒振り鼓の役の武が黄河の流域に逃れ入り、磬を打つ役の襄が海辺の地帯に逃れ入ったという例が、そもそもあるのだから﹂︒かくしてこの事の顛末を記録し、汾亭操を作ったのであった︒

⑴  汾亭  張氏注﹁河津縣誌稱、汾亭在汾河岸疏屬山、今址不可考︒今山西河津市呉村疏屬山有唐代修建之文中子汾亭﹂︒⑵  有舟至琴意  阮逸注﹁釣、隱者也︒聞琴知意﹂︒⑶  傷而至而靜  阮逸注﹁傷怨和靜、乃縵傷絃調也﹂︒⑷  太公之都磻溪

  ﹃水

經注﹄卷一七・渭水﹁又東過陳倉縣西︵東南隅有一石室、蓋太公所居也︒水次平石釣處、即太公垂釣之所也︒其投竿跽餌、兩䣛遺跡猶存、是有磻溪之稱也︶﹂︒⑸  仲尼之宅泗濱也

  ﹃禮記﹄

檀弓上﹁曾子怒曰、︙︙吾與女事夫子於洙泗之間︵鄭玄注、言有其師也︒洙泗、魯水名︶﹂︒⑹  南風

  ﹃禮

記﹄樂記﹁昔者舜作五弦之琴、以歌南風﹂、﹃孔子家語﹄辨樂解﹁昔者舜彈五弦之琴、造南風之詩︒其詩曰、南風之薫兮、可以解吾民之愠兮︒南風之時兮、可以阜吾民之財兮﹂︒⑺  今日事

  ﹃書﹄

牧誓﹁今予發、惟恭行天之罰、今日之事、不愆于六歩七歩、乃止齊焉﹂︒⑻  不如至變矣  阮逸注﹁所傳南風、聲則存矣、而所操者之情、則變而不類﹂︒ ⑼  鼓枻

  ﹃楚辭﹄

漁父﹁漁父莞爾而笑、鼓枻而去︵王逸注、叩船舷也︶﹂︒⑽  子遊至而逝

  ﹃莊子﹄

漁父﹁孔子遊乎緇帷之林、休坐乎杏壇之上︒弟子讀書、孔子絃歌鼓琴︒奏曲未半、有漁父者、下船而來︒︙︙客乃笑而還、行言曰、仁則仁矣、恐不免其身︒苦心勞形、以危其真︒嗚呼、遠哉其分於道也︒子貢還、報孔子︒孔子推琴而起曰、其聖人與︒乃下求之︒︙︙乃刺船而去、延緣葦間﹂︒⑾  播鼗至於海

  ﹃論

語﹄微子﹁太師摯適齊、亞飯干適楚︵何晏集解、孔曰、亞、次也︒次飯、樂師也︒摯・干、皆名︶︒三飯繚適蔡、四飯缺適秦︵包曰、三飯・四飯、樂章名︒各異師︒繚・缺、皆名也︶︒鼓方叔入於河︵包曰、鼓、擊鼓者︒方叔名︒入謂居其河内︶︒播鼗武入於漢︵孔曰、播、搖也︒武、名也︶︒少師陽・擊磬襄入於海︵孔曰、魯哀公時、禮壞樂崩、樂人皆去︒陽・襄、皆名︶﹂︒⑿  固有之也

  ﹃周易﹄

无妄﹁九四、可貞无咎、固有之也﹂︒⒀  作汾亭操焉  阮逸注﹁文中子撰此操﹂、張氏注﹁王績・答馮子華處士書、吾家三兄、生於隋末、傷世攖亂、有道無位、作汾亭操、蓋孔子龜山之流也︒吾嘗親受其調、頗謂曲盡﹂、﹃東皐子集﹄卷下︒

︵三六︶子之夏城︒薛收・姚義後、遇牧豕者、問塗焉︒牧者曰、從誰歟︒薛收曰、從王先生也︒牧者曰、有鳥有鳥、則飛於天︒有魚有魚、則潛於淵︒知道者蓋默默焉︒子聞之、謂薛收曰、獨善可矣︒不有言者、誰明道乎

  先生が夏城に行った︒薛収と姚義が後から追いかけ、豚飼いに出会ったので、道を尋ねた︒豚飼いは言った﹁どなたを師としているのかね﹂︒薛収が言った﹁王先生にお仕えしています﹂︒豚飼いは言った﹁鳥がいる鳥がいる、それは天空を舞う︒魚がいる魚がいる、それは深淵に潜む︒道を弁えた人間は黙って過ごすものだろう﹂︒先生はこの一件を耳にすると、薛収に言った﹁自分だけ節操を守るのもよかろう︒だが言葉を発する人間がいなければ、誰が道を宣明するというのか﹂︒

(13)

二三王通﹃中説﹄訳注稿︵六︶ ⑴  夏城  阮逸注﹁絳州有夏城縣﹂︒⑵  薛收・姚義後   ﹃論語﹄

微子﹁子路從而後﹂︒⑶  遇牧至塗焉

  ﹃莊

子﹄徐无鬼﹁至於襄城之野、七聖皆迷、无所問塗︒適遇牧馬童子、問塗焉﹂︒⑷  子之至生也

  ﹃論語﹄

微子﹁長沮・桀溺耦而耕、孔子過之︒使子路問津焉︒長沮曰、夫執輿者爲誰︒子路曰、爲孔丘︒曰、是魯孔丘與︒曰、是也﹂︒⑸  有鳥至於淵

  ﹃詩﹄

大雅・旱麓﹁鳶飛戾天、魚躍于淵﹂︒⑹  知道者蓋默默焉  阮逸注﹁牧者亦隱士也︒意謂魚鳥尚得其所、知道者何不黙而遁﹂︒⑺  獨善可矣  阮逸注﹁斥牧者﹂︒﹃孟子﹄盡心上﹁古之人得志、澤加於民、不得志、脩身見於世︒窮則獨善其身、達則兼善天下﹂︒⑻  不有至道乎  阮逸注﹁既云知道、即不可獨善其身、必當言於天下、使明而行焉﹂︒﹃論語﹄憲問﹁子曰、有德者、必有言︵何晏集解、德不可以億中、故必有言︶、有言者、不必有德︒仁者必有勇、勇者不必有仁﹂︒

︵三七︶子不相形︒不禱疾︒不卜非義

  先生は人を見た目で判断しなかった︒疾病のために祈祷することはなかった︒正しくないことについての占いはしなかった︒

⑴  子不相形  阮逸注﹁不可以貌取人﹂、﹃荀子﹄非相﹁相形不如論心、論心不如擇術﹂、﹃孔子家語﹄子路初見﹁澹臺子羽、有君子之容、而行不勝其貌︒︙︙孔子曰、里語云、相馬以輿、相士以居、弗可廢矣︒以容取人、則失之子羽﹂︒⑵  不禱疾  阮逸注﹁無妄之疾、勿藥有喜﹂、﹃論語﹄述而﹁孔疾病、子路請禱︒子曰、有諸︒子路對曰、有之︒誄曰、禱爾于上下神祇︒子 曰、丘之禱久矣﹂︒⑶  不卜非義  阮逸注﹁不疑何卜﹂︒

︵三八︶子曰、君子不受虛譽︒不祈妄福︒不避死義

  先生が言った﹁君子は実質を伴わない評判が立っても受け入れない︒分を越えた幸福を希求しない︒正義のために死することを厭わない﹂︒

⑴  君子至死義  阮逸注﹁三者常德也﹂︒﹃孟子﹄告子上﹁生亦我所欲也、義亦我所欲也︒二者不可得兼、舍生而取義者也﹂︒張氏注﹁兪樾諸子平議補錄卷十二、死義當作義死、言死固當避、以義而死、則君子不避也︒義死與上句妄福對文﹂︒

︵三九︶文中子曰、記人之善而忘其過、溫大雅能之︒處貧賤而不懾、魏徵能之︒聞過而有喜色、程元能之︒亂世羞富貴、竇威能之︒慎密不出、董常能之︒

  文中子が言った﹁他者の良い点を記憶に止めて過失を忘れ去るというのは、温大雅のなし得ることである︒貧困や卑賤なる境遇にあっても惑うことがないというのは、魏徴のなし得ることである︒自らの過失に対する批評を耳にして喜悦の色が見えるというのは、程元のなし得ることである︒乱世において富貴を獲得することに恥じ入るというのは、竇威のなし得ることである︒発言に対して慎重で軽々しく言葉を口にしないというのは、董常のなし得ることである﹂︒

⑴  記人之善而忘其過

  ﹃後

漢書﹄董扶傳﹁蜀丞相諸葛亮、問廣漢秦密、董扶及任安所長︒密曰、︙︙任安記人之善、忘人之過云﹂︒⑵  處貧賤而不懾  問易篇︵一八︶注⑴、參照︒﹃論語﹄雍也﹁子曰、賢哉回也︒一簞食、一瓢飲、在陋巷、人不堪其憂︒回也、不改其樂︒賢哉回也﹂︒

(14)

二四

⑶  聞過而有喜色  周公篇︵一九︶注⑴、參照︒⑷  慎密不出

  ﹃周易﹄

繫辭傳上﹁君不密則失臣、臣不密則失身、幾事不密則害成︒是以君子慎密、而不出也﹂︒

︵四〇︶陳叔達謂子曰、吾視夫子之道、何其早成也︒子曰、通於道有志焉、又焉取乎早成耶︒叔達出、遇程元・竇威於塗、因言之︒程元曰、夫子之成也、吾儕慕道久矣、未嘗不充欲焉︒遊夫子之門者、未有問而不知、求而不給者也︒詩云、實獲我心︒蓋天啓之、非積學能致也︒子聞之曰、元、汝知乎哉︒天下未有不學而成者也

  陳叔達が先生に言った﹁先生が道を成し遂げる様は、何とも早いようにお見受けするのですが﹂︒先生は言った﹁私は道に対して志を持つことはあっても、早く成し遂げようなどと思っているはずがなかろう﹂︒陳叔達が外に出て、道中で程元・竇威と出くわしたので、このやり取りについて語った︒程元は言った﹁先生の成し遂げられた道に対し、我々がお慕いして随分になるが、これまで心満たされなかったことはない︒先生の門弟として過ごしてきて、これまで質問して回答が得られなかったとか、欲求して与えられなかったとか、そういったことは一度もない︒﹃詩﹄に﹁誠に私の心に適う﹂とある︒思うにこれは天がそうさせたのであって、学問の積み重ねがそうさせたのではないのだろう﹂︒先生がこのことを耳にすると、言った﹁元よ、お前はわかっているのかね︒この世には学問せずに道を成し遂げた人間などいないのだよ﹂︒

⑴  吾視至成也  阮逸注﹁子謁隋文帝時、年二十一、是早成﹂︒⑵  於道有志焉  禮樂篇︵一六︶注⑶、參照︒⑶  通於至成耶  阮逸注﹁言志學於道、非務早成﹂︒⑷  夫子至欲焉  阮逸注﹁所問道、必充其欲﹂︒⑸  遊夫至者也  阮逸注﹁凡登門者、皆充欲﹂︒⑹  詩云至我心

  ﹃詩﹄

邶風・綠衣﹁我思古人、實獲我心︵毛傳、古之君子、 實獲我之心也︶﹂︒⑺  蓋天啓之

  ﹃左傳﹄

閔公元年﹁以是始賞、天啓之矣﹂︒⑻  蓋天至致也  阮逸注﹁言早成亦非志學、蓋天縱生知爾﹂︒⑼  天下未有不學而成者也  阮逸注﹁必須學﹂︒張氏注﹁論語・子張、君子學以致其道﹂︒

︵四一︶或問長生神仙之道︒子曰、仁義不修、孝悌不立、奚爲長生︒甚矣、人之無厭也

  ある人が長生きのための神仙の道術について質問した︒先生は言った﹁仁義を修養せず、孝悌も成されずに、何が長生きだ︒ひどいものだ、人々が長生きばかりを貪り求めるのは﹂︒

⑴  甚矣至厭也  阮逸注﹁秦皇・漢武、無厭妄求﹂︒

︵四二︶或問嚴光・樊英名隱︒子曰、古之避言人也︒問東方朔︒子曰、人隱者也

  ある人が厳光や樊英が﹁名隠﹂とされることについて質問をした︒先生は言った﹁彼らは古の毀誉褒貶の評価に係わずにいた人物だ﹂︒東方朔について質問した︒先生は言った﹁人隠︵世間の中に自らを紛らした隠者︶である﹂︒

⑴  嚴光樊英  阮逸注﹁光、字子陵︒少與漢光武同學、除爲諫議、不就、耕於富春山、釣於瀬上︒樊英、字季齊︒明經、善推歩之術︒順帝徵、不出、隱於壺山︒此並不求名而隱、故曰名隱﹂︒⑵  名隱  周公篇︵三五︶、參照︒張氏注﹁名隱二字疑是旁注混入正文者﹂、似是︒⑶  古之避言人也  阮逸注﹁避毀譽之言而已﹂︒﹃論語﹄憲問﹁子曰、賢者辟世、其次辟地、其次辟色、其次辟言﹂︒

(15)

二五王通﹃中説﹄訳注稿︵六︶ ⑷  問東方朔  阮逸注﹁朔、字曼倩︒漢武帝時爲郞、諸郞呼爲狂人︒醉歌曰、陸沈於俗、避世金馬門﹂︒⑸  人隱者也  阮逸注﹁詭跡混俗、不自求別於衆人、故曰人隱﹂︒

︵四三︶子曰、自太伯・虞仲已來、天下鮮避地者也︒仲長子光、天隱者也︒無往而不適矣

  先生が言った﹁太伯や虞仲といった人物たちより後、世の中に土地を離れる形での隠者は少ない︒仲長子光は﹁天隠﹂と称すべき人物である︒どこであろうともその道は一つなのである﹂︒

⑴  自太至者也  阮逸注﹁古公長子太伯、次虞仲、少季歴︒季歴子昌有聖瑞、太伯・虞仲知立季歴以及昌、於是如荊呉、以讓季歴︒一云虞仲乃仲雍之孫也︒君於呉、後武王克商、封虞仲於周︒未知孰是︒言二人皆奔之遠地、以避賢君︒故曰避地﹂︒避地、禮樂篇︵四二︶注⑶、參照︒﹃禮記﹄大學﹁故好而知其惡、惡而知其美者、天下鮮矣﹂︒⑵  仲長至適矣  阮逸注﹁因言數人、其隱則一、而道德相遠︒或藏名、或混俗、或讓國、皆執一有跡也︒惟天隱浩然太虛、孰爲名、孰爲俗、孰爲國、惟變所適、人不能知、是天隱也﹂︒天隱、周公篇︵三五︶、參照︒

︵四四︶子曰、遁世無悶、其避世之謂乎︒非夫無可無不可、不能齊也

  先生が言った﹁世の中を避けても未練がない、これが真に世を避けた﹁天隠﹂ということであろうかね︒あの可なることも不可なることも同じに見做す境地になければ、﹁天隠﹂とはなり得ないのである﹂︒

⑴  遁世無悶

  ﹃周

易﹄乾﹁子曰、龍德而隱者也、不易乎世︵王弼注、不爲世俗所移易也︶、不成乎名︒遯世无悶、不見是而无悶︒樂則行之、憂則違之︒確乎其不可拔、潛龍也﹂︒ ⑵  遁世至謂乎  阮逸注﹁避世、即天隱也︒生世間、治則彰、亂則晦、樂則行、憂則違、適時而已︒又何悶哉︒此與名隱・人隱・地隱異矣﹂︒﹃莊子﹄刻意﹁此江海之士、避世之人、間暇者之所好也﹂、又禮樂篇︵四二︶注⑶、參照︒⑶  非夫至齊也  阮逸注﹁可不可齊致、則成天隱﹂︒﹃論語﹄微子﹁逸民、伯夷・叔齊・虞仲・夷逸・朱張・柳下惠・少連︒子曰、不降其志、不辱其身、伯夷・叔齊與︒謂柳下惠・少連、降志辱身矣︒言中倫、行中慮、其斯而已矣︒謂虞仲・夷逸、隱居放言、身中清、廢中權︒我則異於是、無可無不可︵何晏集解、馬曰、亦不必進、亦不必退、唯義所在︶﹂︒

︵四五︶文中子曰、小雅盡廢而春秋作矣︒小化皆衰而天下非一帝︒元經所以續而作者、其衰世之意乎

  文中子が言った﹁﹃詩﹄小雅の道が全く尽き果ててしまって﹃春秋﹄が世に現れた︒﹃続詩﹄小化の道が全く衰亡してしまってこの世は一人の皇帝による統一がなされなくなった︒﹃元経﹄がそれに合わせて編まれるに至ったのは、世が衰亡していったことを表出しているのだろうかね﹂︒

⑴  小雅盡廢而春秋作矣  阮逸注﹁四夷交侵、故春秋作、以尊中國﹂︒﹃詩﹄小雅・六月序﹁小雅盡廢、則四夷交侵、中國微矣︵毛傳、六月言周室微而復興、美宣王之北伐也︶﹂、問易篇︵五一︶注⑴、參照︒⑵  小化皆衰而天下非一帝  阮逸注﹁續詩有大化・小化、亦大小雅之義也︒及其衰也、四夷僭帝號、故曰非一帝﹂︒⑶  元經至意乎  阮逸注﹁救世衰、故續春秋之法﹂︒其衰世之意乎、禮樂篇︵二一︶注⑴、參照︒

︵四六︶子在絳、出於野、遇陳守︒曰、夫子何之乎︒子曰、將之夏︒陳守令勸吏息役︒董常聞之、曰、吾知夫子行國矣、未嘗虛行也

(16)

二六

  先生が絳州に居た折、郊外に出かけると、︵当時絳郡守の任にあった︶陳叔達に出くわした︒︵彼が︶言った﹁先生はどちらへお出かけですか﹂︒先生は言った﹁夏城県に向かっているのだ﹂︒陳郡守は官吏たちに人民への労役を止めさせた︒董常がそのことを耳にし、言った﹁私は先生が各地を巡られると言って、実際には巡られなかったという例は聞いたことがない﹂︒

⑴  子在至陳守  阮逸注﹁叔達時爲絳郡守﹂︒⑵  將之夏  阮逸注﹁絳州夏城縣﹂︒⑶  陳守令勸吏息役  阮逸注﹁慮其師見役民﹂︒⑷  吾知至行也  阮逸注﹁漢置八使行國、以觀天下風俗︒文中子一布衣、出行而郡守息役、是不虛行也﹂︒﹃詩﹄魏風・園有桃﹁心之憂矣、聊以行國︵鄭玄箋、聊出行於國中、觀民事以寫憂︶﹂︒

︵四七︶賈瓊事楚公、困讒而歸、以告子︒子曰、瓊、汝將閉門卻掃歟︒不知緘口而内修也︒瓊、未達古人之意焉︒

  賈瓊が楚公︵楊玄感︶に仕え、讒言に困惑して戻って来、その事情を先生に報告した︒先生は言った﹁瓊よ、お前は門を閉ざして引き籠ろうとでもいうのか︒口を閉ざして自らの内面を修養するということがわかっていない︒瓊よ、まだ古人の意図を把捉しきれていないな﹂︒

⑴  楚公  張氏注﹁指楊玄感﹂︒⑵  閉門卻掃  江淹﹁恨賦﹂︵﹃文選﹄卷一六︶﹁至乃敬通見抵、罷歸田里、閉關却掃、塞門不仕︵李善注、司馬彪・續漢書曰、趙壹閉關却掃、非德不交︶﹂︒⑶  汝將至修也  阮逸注﹁古人杜門卻掃者、義在緘口淨其内也﹂︒ ︵四八︶仲長子光曰、在險而運奇、不若宅平而無爲︒文中子以爲知言

  仲長子光が言った﹁苦境にあって奇策を巡らすのは、平静な中に無為でいることには及ばない﹂︒文中子は物事の道理のよくわかった発言とした︒

⑴  在險至無爲  阮逸注﹁運奇、一時之用︒無爲、長世之圖﹂︒⑵  文中子以爲知言

  ﹃左傳﹄

襄公一四年﹁泰伯以爲知言﹂︒

︵四九︶文中子曰、其名彌消、其德彌長︒其身彌退、其道彌進︒此人其知之矣

  文中子が言った﹁名声はどんどん消失しながら、徳はどんどん増長する︒存在はどんどん後退するのに、道はどんどん進展する︒この仲長子光という人は、この点を理解している﹂︒

⑴  其名至之矣  阮逸注﹁此人、即謂仲長子光也︒退宅平無爲、則知消長進退之極致也﹂︒﹃左傳﹄莊公四年﹁鄧曼歎曰、王祿盡矣、盈而蕩、天之道也︒先君其知之矣﹂︒

︵五〇︶子曰、知之者不如行之者︒行之者不如安之者

  先生が言った﹁それについて知っている人間は、それを実行する人間には及ばない︒それを実行する人間は、そこにそのまま身を委ねる人間には及ばない﹂︒

⑴  知之者不如行之者

  ﹃荀子﹄

儒效﹁不聞不若聞之、聞之不若見之、見之不若知之、知之不若行之︒學至於行之而止矣︒行之、明也︵楊倞注、行之則通明於事也︶︒明之爲聖人︵通明於事、則爲聖人︶﹂︒⑵  知之至之者  阮逸注﹁委物以能、不勞聰明、安然而事自行、此亦廣上文無爲之義﹂︒張氏注﹁論語・雍也、知之者不如好之者、好之者

(17)

二七王通﹃中説﹄訳注稿︵六︶ 不如樂之者﹂︒

︵五一︶仲長子光字不曜、董常字履常︒子曰、稱德矣︒子之叔弟績、字無功︒子曰、字、朋友之職也︒神人無功、非爾所宜也︒常名之︒季弟名靜、薛收字之曰保名︒子聞之曰、薛生善字矣︒靜能保名、有稱有誡、薛生於是乎可與友也

  仲長子光は字が不曜、董常は字が履常であった︒先生が言った﹁字によりその人物の徳を表しているのだ﹂︒先生の二番目の弟の王績は、字が無功であった︒先生が言った﹁字というのは、友人が呼ぶものであろう︒﹁神人無功﹂︵神なる存在は功績を誇らない︶など、お前ができることではない﹂︒常に彼を︵字ではなく︶名前で呼んだ︒末の弟は名が静で、薛収が彼に保名という字を与えた︒先生はこれを耳にすると言った﹁薛収は字をうまくつけた︒静謐でいることで名声を保つとは、よき呼称であり戒めの意もあり、薛収はこれだから友人として付き合えるのだ﹂︒

⑴  不曜  張氏注﹁老子第五十八章、聖人方而不割、廉而不劌、直而不肆、光而不曜﹂︒⑵  字朋至職也  阮逸注﹁朋友呼而字之、非自立也﹂︒⑶  神人無功

  ﹃莊子﹄

逍遙遊﹁故曰、至人无己、神人无功、聖人无名﹂︒⑷  子之至名之  阮逸注﹁績終自號無功子、自作傳、棄官不仕﹂︒⑸  有稱至友也  阮逸注﹁表德則稱之、未有可稱則誡之、蓋益友矣﹂︒周公篇︵四三︶﹁子謂、姚義可與友﹂︒

  本稿は、筆者が香川大学教育学部在職中に着手し、これまで﹃香川大学教育学部研究報告  第Ⅰ部﹄に連載してきた﹁王通﹃中説﹄訳注稿﹂︵一︶~︵五︶に継続する研究成果である︒

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