経営戦略とイギリス資本
一輪西製鉄所の合併と分離をめぐって一
奈倉文二
1 はじめに
本稿は,第2次大戦前において日英合弁の一大兵器鉄鋼メーカーであった日 本製鋼所について,英国側出資者の態度・要望等を検討することを通じて,従 来不明であった同社の複雑な経営戦略の諸側面を解明しようとする一連の試み の一つである。
日本製鋼所は,日英同盟を背景に,海軍のバックアップのもと,1907年(明 治40年),北海道炭磯汽船株式会社(北炭)と英国兵器会社ヴィッカース及びアー ムストロング両社の共同出資(出資比率2:1:1)により設立された(工場室蘭
1911年操業開始)(1)。
操業当初の英日資本の関係は,様々な試行錯誤はあったものの,英国からの 資本・技術導入を中心に,概して良好であった。しかし,第1次大戦以降,と
くにワシントン会議(1921〜22年)における四国条約(日英同盟廃棄)及び海 軍軍縮条約を経過して,英日資本間で(日本側の北炭は既に三井財閥傘下に編 入)様々なあつれきが生じてきた。そのうちの主要な問題を列挙すると次のよ
うなものがある。
①日本製鋼所による北海道製鉄(輪西製鉄所)の合併(1919年)をめぐる問題。
②ワシントン海軍軍縮の補償策(1926年実施)についての英国側の要望。
③軍縮下の日本製鋼所経営再建策をめぐる英日資本及び日本海軍の思惑・態度。
④日本製鋼所からの輪西製鉄所分離(1931年)についての英国側の提案。
⑤英国側による株式売却(日本側による買取り)要請(1920〜30年代)。
これらの諸問題は,いずれも日本製鋼所の会社固有の複雑な性格(日英合弁 であると同時に日本海軍兵器工場としての性格)に起因するものであるととも
に,その起趨は,英日資本及び日本海軍にとって重要な意味をもったはずであ る。ところが,これらの諸問題については,日本側の資料を見る限り,殆ど問 題の所在すら知り得ず,まして英国側の態度・要望等については不明であり,
従来の研究においても何ら解明されていない(2)。そこで,筆者は,主として英 国に現存する諸資料(3>の検討を通じて,これらの諸問題を順次明らかにする予 定である。
本稿においては,そのうちの最も基本的な問題である輪西製鉄所の合併と分 離をめぐる問題点を解明することを企図している。
(1)日本製鋼所の英文名称は (the)Japan Steel Works (略称JSW)であるが,
資料表現上は Nihon Seiko Sho (略称N S S),あるいは単に Seikosho と も言う。ヴィッカース社の正式名称は Vickers, Sons&Maxim Co., Ltd. , 1911年以降 Vickers Lirnited である(以下単にV社と称す)。アームストロング社 の正式名称は Sir W. G. Armstrong, Whitworth&Co., Ltd. である(以 下単にA社と称す)。1927年10月の両社合併契約によりヴィッカース・アームストロ ング社(Vickers−Armstrongs Limited;以下V−A社と略)が成立した(1928年1 月)。なお,Vickers Limitedは以後も持株会社として存続した。
A社やV社の歴史については,J. D. Scott, WσκERS:AH sめry,(London,
1962),Clive Trebilcock,7んθ y cんθr8 Bro抗θrs:ノ4r1ηαπ乙θ7τ孟s απ4 Eπ孟θr一 prどsθ1854−1914(London,1977),Kenneth Warren,。Ar配8孟roπ8s o∫EJsωlcん:
Groω仇ごπ翫9θπθθrごη9αη4孟胤α鵬θη孟8オ0オんθMθrgθrω娩y娩θrs,
(London,1989),徳江和雄「第1次大戦前のイギリス軍需産業における独占資本4 社の行動」(茨城大学人文学部『紀要(社会科学)』第7号,1974年2月),安部悦生
「イギリスにおける持株会社と管理一20世紀初頭から第二次世界大戦まで一」(明治 大学経営学部『経営論集』第37巻第2号,1990年3月)などを参照。
(2)拙著『日本鉄鋼業史の研究』(近藤出版社,1984年)の日本製鋼所の記述も,同社 の基本的な史料集である『日本製鋼所社史資料(上)』(同社,1968年)や営業報告書 などに依拠するにとどまっている。その意味では,本研究は筆者にとって十数年来の 宿題でもある。なお,同社の歴史に関する近年の研究として,長谷部宏一「1910年代
の株式会社日本製鋼所」(『経営史学』第22巻第4号,1988年1月)がある。
V社の側が日本製鋼所にどのように関わったかについては,次の2文献で多少考察 されている。R. P. T. Davenport−Hines, Vickers as a multinational before
1945 ,G. Jones(ed.),Br頗sんMμ厩παあoη1αZs:Or g πs, Mαπαgθηzθ鷹αη(!
Pθがormαπcθ(Cambridge,1986),〔これは氏のPhD.論文The British Arma一 ments Industry during Disarmament,1918−36 (Cambridge University,
1979)を基にしている〕,及びClive Trebilcock, British Multinationals in Japan,1900−41:Vickers, Armstrong, Nove1, and the Defense Sector ,T.
Yuzawa and M. Udagawa(ed.),Forθ gπB泓8語θ8s π」αpαπ6げorθWorZ4 Wαr 丑,(Tokyo,1990)。
(3)英国側の一次資料は主として次の二つからなる。
①Cambridge University Library所蔵の岡c舵rs Arcんごひθs(以下[VA]と 略して,その分類番号を付す。)本資料集は,かつてヴィッカース本社(Vickers PLC)が所有していたものだが,数年前にケンブリッジ大学図書館に寄贈され,再 整理された。
②Tyne and Wear Archives Service(Newcastle upon Tyne)所蔵の旧A社 関係資料集であり,ムrπLS孟roπg Pαpθr8, RθπdθZ Pαpersなどからなる。
もっとも旧A社関係資料は①にも一部含まれており(A社がV社に合併されたこ となどによる),本稿では殆ど①を利用した。
近年刊行された近(現)代英日(経済)交流史に関する次の2文献の中でも,上記 資料を利用してA社やV社について若干の記述がなされている。01ive Checkland.,
B漉α ガsEπcoμπ θrω航Mθ ノ 」αpαη1968−1912,(London,1989).Marie Conte−Helm,」αpαπ侃d孟んθノVor孟んEαs孟qプEπgZαπ4:FroηL 1862孟o仇e Prθsθπ Dα)ノ,(London,1989).
なお,筆者は,十数年前から数回,日本製鋼所(本社及び室蘭製作所)で資料収集 を試みたが,当時収集した資料も本稿で一部使用している(NSS資料と略)。
2 北海道製鉄(輪西製鉄所)の合併と英国側の対応
日本製鋼所(室蘭)は,前述のごとく,北炭と英国資本との合弁会社である が,輪西製鉄所は,これとは別個に北炭により設立され,三井財閥による北炭 の支配(1913年1月)を経て,第1次大戦期に急速に発展する。とくに1917年
1月に資本金300万円の北海道製鉄株式会社(半額北炭出資,残り半分を三井 合名と三井鉱山で折半)として独立後,僅か1年後(1918年1月)には,資本 金が一躍5倍の1500万円に増資されたほどである (出資比率は以前と同様)。
しかしながら,こうした輪西製鉄所の飛躍的発展は,「鉄飢謹・鉄価高騰」とい
一
う第1次大戦期特有の条件によるところ大であり,したがって,大戦終了とと もに同所は厳しい経営環境のもとにおかれることになるω。
日本製鋼所による北海道製鉄株式会社(輪西製鉄所)の合併については,そ の経過と問題点は後に詳しく見るが,概略的に言えば,第1次大戦末期に計画 され,大戦直後の1919年7月の臨時株主総会における合併契約書の承認を経て,
12月1日に実現した。これにより日本製鋼所の資本金は,1500万円から倍額の 3000万円となり,日英出資比率は1対ユから3対1に変化した(その内訳も含 めて第1表を参照されたい)。
第1表 日本製鋼所・資本金及び出資者の推移
(単位:千円)
出 資 者 1907年 1909年 1919年 1931年
北海道炭磧汽船 5,000 7,500 15,000 7,500
三 井 合 名 3,750 1,875
三 井 鉱 山 3,750 1,875
V i c k e r s 社 2,500 3,750 3,750
(Vickers−Armstrong社*) 3,750
Armstrong社
2,500 3,750 3,750合 計 10,000 15,000 30,000 15,000
(出 典) T【istory of Capital of Japanese Campanies in statement for㎡
[VA−1239],及び株式会社日本製鋼所『日本製鋼所社史資料(上)』1968 年,422頁。
(注) *1928年1月以降,Vickers−Armstrongs Limited。
この合併の目的については,従来,通説的には銑鋼一貫経営を企図したもの と言われてきた(一貫経営の必要性と有利性)。つまり,高炉を所有しない日 本製鋼所にとっては原料銑鉄購入難の解消の必要性であり(大戦期の異常な鉄 飢饒に直面して痛感),単純製銑メーカーであった北海道製鉄(輪西製鉄所)
にとっては販路確保による経営維持の有利性であるという(礼だが既に筆者 が明らかにしたごとく,日本製鋼所の主要製品は大砲等の兵器及びその原料鋼
材(鍛鋼品・鋳鋼品・特殊鋼鋼材)であり,他方,輪西製鉄所が製造する銑鉄
(りんさいせん
ヨ西銑)は普通銑鉄であって,日本製鋼所室蘭工場が必要とする兵器用高級 鋼材原料銑鉄としては不適格であり,事実,室蘭工場は以後も輸入銑鉄を購入
しつづける(とくに燐分の低いスウェーデン銑鉄,英国ヘマタイト銑鉄,のち には大倉財閥による「満州」本渓湖銑鉄〉。したがって,一貫経営目的はあく までも表面上の理由であって,むしろ合併の真のねらいは,その背後に潜んで いたと考えられるのであり,筆者は,それを日本製鋼所における日本側出資者 フ「資本的独立」,とりわけ三井財閥の支配力の強化・確立と推定した(3)。
とすれば,この日本製鋼所による輪西製鉄所合併については,英国側出資者 にとって看過できない問題であったはずである。そこで,以下,具体的に英国 に現存する資料によって,英国側出資者の態度を可能なかぎり明らかにしてお
こう。
もっとも,本問題については,それほど多くの資料が確認されていない。多 くの記述は,後の海軍軍縮補償問題や輪西製鉄所分離問題あるいは株式売却問 題と関連して,それぞれの問題の発端として輪西製鉄所合併問題にふれている。
それらに共通して言えることは,次のようなことである。
輪西製鉄所合併の根拠は明確でなかったこと,とくに高級鋼と兵器の生産と 銑鉄の製造とを一つの会社に結合するという理由は全く明快とは言えなかった こと(その合併が三井によって代表される日本側取締役のもとに進められたと いうことを唯一の例外として),V社とA社がその提案を受け入れた当時,両 社ともにその合併に一定の疑念を抱いていたこと(4)。
さらに,より具体的に次のように三井のねらいを推察しているものもある。
三井は,輪西製鉄所に多くの投資をしたが,大戦終了とともに輪西製鉄所の 経営状態が悪化して,その投資が丸損になることを三井は知っていたに違いな い。三井は,より多くの資本を輪西製鉄所に付加する替わりに,日本製鋼所に 資金を貸してその工場を買わせたのである,と(5)。
また,後に(1926年),V社側代表のダグラス・ヴィッカースは,かつて我々 は日本側と同じだけの株式を所有していたが,輪西合併がこれを変えてしまい,
今や我々は少数者(asmall minority)になってしまった,と,当時V社代 攝lとして日本製鋼所取締役に選任されていた油谷に書き送っている(6)。
これらの記述は,先の拙論を根拠づけるものである。上記のダグラス・ヴィッ カースの書状は,輪西製鉄所の合併政策は,日本側の利害によって促されたも
のであるが,英国側は反対することはフェアではないと考えたので同意した,
と述べている。では,輪西製鉄所合併が提起された当時においては,英国側出 資者(V社及びA社)は,どのように対応したのであろうか。
日本製鋼所による輪西製鉄所の合併を日本側が最初に英国側に提起したのは 1918年9月のことであるが7>,当時はまだ第1次大戦の最中であり,英国側両 社にはこの申し出をすぐに検討できる余裕はなく(8),最初に検討したのは翌 19年2月の日本製鋼所英国側株主委員会の会議のことである(9)。
当日の会議では,輪西製鉄所の合併とともに松田製作所(広島製作所)の合併⑩についても検討されたが,輪西合併については滝報によるコミュニケイ
ションがはかられるべきこととされるにとどまっている(11)。しかしながら,会 議の1日後に日本側に発信された電報は,必ずしも照会的な文面の強いものと は言えず,提起された合併案に基本的に承認を与えつつ,詳細を知らせるよう に依頼したものと受け取られるものであり⑫,また,同日付英国側セクレタリー からの書状も,日本側取締役を信頼して提案を基本的に承認する電文を送った こと,密接な相談の機会がないので詳細については何の見解表明もできないが,
日本の同僚(Japanese colleagues)に当該問題の処理を委ねる旨,記してい る(より詳細な情報提供を依頼しつつ)(13。
なお,本書状において,とくに三井財閥が北海道製鉄に深く関わっていると いう事実から考えて,提起されている輪西合併が日本製鋼所を強化するだろう と述べていることに注意しておきたい。つまり,合併が提起された当時におい ては,三井が日本製鋼所に大きな影響力をもつに至ること自体当然予想されつ つも,そのことをもって明確な反対根拠とはせず,むしろ日本製鋼所の強化の 上で望ましいと考えていたものとも思われるのである。
さて,この電報と書状を受けた日本側は,輪西合併案について基本的な承認 を得たものとしてその実現に向けて準備を進める旨,やはり電報と文書で回答 した(1駕とくに書状での回答においては,大戦終了後,日本の製鉄業界が異常 なまでの不振に陥っており,北海道製鉄もその例外ではなく,これ自体非常に 深刻な問題と述べつつも,他方で,前年9月の書状で既に述べたごとく,今回 の合併案の究極的なねらいは,製鉄業に携わることよりも,むしろ従前からの 三井所有の鉄鉱石を確保することにより,将来の資源確保の不安を解消するこ とにある(15),としている。つまり,輪西製鉄所合併の主要目的は製鉄業兼営に はないこと(したがって銑鋼一貫経営目的ではないこと)を自ら述べ,そのこ
とを根拠として,製鉄業界(及び北海道製鉄)の不振が合併案の実現にとって 大きな妨げにならないというのである。そして,英国側の要請にあるような自 らの見解が形成できる程満足のゆく詳細な案については,残念ながら提供する ことはできないこと,事態をペンディングにしておくわけにはいかないこと,
合併の実現は早ければ早い程良いこと,合併準備が完了すれば詳細を知らせる ことができることなどを回答して,言わば全面的委任を要請しているのである。
そして,早くも5月半ばには,日本製鋼所重役会議において,正式に輪西製 鉄所買収の提案(6月1日時点の簿価による)が実行に移されることが決めら れた,との電報が日本側から出されている個。また,ほぼ同時期に団琢磨(当 時北炭会長,三井合名理事長,日本製鋼所顧問)からも,この合併案が適切か つ健全な施策である旨の電報が発せられている(1の。
こうして,英国側株主の十分な検討期間と意見反映の機会もないままに,7 月10日の日本製鋼所重役会議において合併契約書草案の承認が出席者の全員一 致で決定され(1鋤,さらに,同月31日の臨時株主総会において合併契約書(及び それに必然的に伴う定款の変更)が提案され,一括承認された㈲。合併期日は,
当初10月1日が予定されていたが,手続きがやや遅れて(英国側の委任状受領 などに手間取る)12月1日となる。
以上から明らかなごとく,日本製鋼所による輪西製鉄所合併が提起された当 時,英国側出資者2社は明確な反対の意志表示をしたわけではなく,第1次大 戦末・終了直後という十分な検討の余裕がない時期に,詳細な情報も与えられ ず,やや疑問を持ちつつも日本側取締役を信頼して止むを得ず承認したものと 言える。
なお,付言すれば,日本製鋼所設立時に積極的に関与した日本海軍は,輪西 製鉄所合併にどのような態度をとったかという点についても,今のところ資料 的に詳しく明らかにされ得ない。ただ,合併に先立ち,海軍との交渉が行なわ れなかったこと,海軍側は何ら利益のあるものとは考えなかったことが後に間 接的に示されている⑳。
いずれにせよ,輪西製鉄所の合併により日本製鋼所の会社としての性格は大 きく変化した。つまり,日英同盟を背景として英国大兵器会社の緊密な協力の もとに設立された日本海軍兵器工場(並びにその原料鋼材製造工場)としての 性格は部分的なものへと後退し(室蘭工場及び広島工場),他方で,それとは 生産力的に有機的連関をもたない普通銑鉄製造工場(輪西製鉄所)を擁iすると
いう,言わば二本柱の会社への変化である。そして,資本的には英国側の関与 が制限され,日本側の「資本的独立」,とりわけ三井財閥の経営的支配権が及 ぶ会社への変化である。とはいえ,室蘭工場(及び広島工場)は,依然海軍受 注を中心に生産を続けており,「ワシントン軍縮」(1922年)までは,いわゆる 八八艦隊案等の海軍拡張計画のもとで規模拡張をはかっていることにも注意し ておきたい⑳。
(1)前掲拙著,413〜417頁参照。なお,輪西製鉄所の系譜及び正式名称は次の通り。北 海道炭磧汽船株式会社輪西製鉄場(1909年7月操業,1913年2月同輪西製鉄所と改称)
→北海道製鉄株式会社(1917年1月)→株式会社日本製鋼所室蘭工業所製鉄部(1919 年12月、1924年12月同輪西工場と改称)→輪西製鉄株式会社(1931年9月)→日本製 鉄株式会社輪西製鉄所(1934年2月)→富士製鉄株式会社室蘭製鉄所(1950年4月)
→新日本製鉄株式会社室蘭製鉄所(1970年4月)(現在に至る)。
(2)富士製鉄株式会社室蘭製鉄所編『室蘭製鉄所五十年史』同社,1958年,115頁。同 様な記述は,日本鉄鋼業史に関する文献の各所に見られる。
(3)前掲拙著,417・418頁。
(4) WANISHI IRONWORKS [VA−685]. Wanishi Kozan Kabushiki Kaisha(WANISHI MINING Co.) [VA−1239].同様な記述は,その他各
所にあり。
(5)BH. Winder, NIHON SEIKO SHO(THE JAPAN STEEL WORKS
LTD) (1925年一筆者推定)[VA−Ll6&R313].なお, B. H. Winderは,
当時V社のアジア管理(Asiatic Supervision)音区門の責任者として,日本製鋼所と の連絡・指導に携わった。
(6)1926年1月25日付,Douglas VickersよりK. Yutani宛書状[VA−L55&
R284]。なお, K Yutani(油谷堅蔵)は,元海軍少将であるが(1923年予備役編 入),退役後V社の日本代表(Representative in Japan)となり,さらに,25年6 月にはV社代理人として日本製鋼所取締役に選任されている(前掲『日本製鋼所社史 資料(上)』378頁参照)。これ以降,V社は油谷を通じて日本製鋼所について詳しい 情報を得つつ,トップマネイジメントに自らの意向を反映しようと試みる(この点詳
しくは別の機会に論じる予定)。
(7)1919年2月7日付,H. Harrison(JSW, English Secretary)より樺山宛書 状([VA−Ll5&55])。なお,そこで指摘されている1918年9月1日付(別の資
料によれば4日付)樺山よりJ.H. B. Noble宛書状は残念ながら未確認である。
(8)両社ともに大戦中は本社を疎開させ,株主に対して決算報告すらできない状態であっ た。後にV−A社側は,輪西製鉄所分離問題に関連して,この合併申し出があった時 のことを次のように表現している。 when the Great War was at its zenith・♂
(1930年3月31日付,V−A社副社長よりNSS取締役宛書状[VA−Ll6])。
(9) Minutes of Meeting of the Committee of English Shareholders (1919 年2月4日[VA−L55])。出席者は, J. H. B. Noble(in the chair), Saxton
W.A. Noble, F。 B, T. Trevelyan(以上A社), Vincent Caillard, Trevor Dawson, Douglas Vickers(以上V社),H. Harrison(Secretary)。なお,こ の英国側セクレタリー(JSW, English Secretary)は, A社側の役員である。英 国側株主委員会は,日本製鋼所設立当初は頻繁に開催されたが,第1次大戦中は殆ど 開かれた形跡がなく,大戦後には海軍軍縮補償問題などに関連して開催されている。
⑳ 1920年11月に実現し,日本製鋼所広島工場となる。
(11)前掲議事録。
(1勾 English Directors approve amalgamation in principle if Japanese Directors satisfied will strengthen Seikosho if so they must leave details
to you .(1919年2月7日付J。 H. B. Nobleより樺山宛電報(コードからの翻 訳文)[VA−L55]).
(13 前掲2月7日付H.Harrisonより樺山宛書状。
(玲 we will proceed to carry out propositions… .(樺山より J. H. B.
Noble宛電報,1919年3月7日東京発,19日受領)及び同年4月14日付樺山よりJohn B.Noble宛書状(ともに[VA−L55])。後者の書状は, 「大正八年(西暦一九 一九年)北海道製鉄会社合併当時英国側ト交換シタル文書一括」(NSS資料)にも 収録されている。
(19 the vital point in this amalgamation proposition lies not in ironbusi一 ness but in the ownership of ore mines formerly in possesion of Messrs.
Mitsui&Co., thus relieving us from anxieties of charging materials in the future .(前掲4月14日付樺山よりJ. B. Noble宛書状)。この前後の文章の
日本語訳が前掲・『日本製鋼所社史資料(上)』270頁に掲出されている。
(1⑤樺山よりJ.H, B. Noble宛電報,1919年5月16日東京発,22日Elswickで受領
[vA−L55]。Elswickはニューカッスル市にあり,当時A社の本社と主要工場 があった。なお,この頃の日本製鋼所重役会議議事録(英訳文)は,[VA−R288]
に殆ど収録されているが,残念ながら236〜240回(5月1日以降8月7日以前)が欠
けている。
(切 Dr. T. DanよりJ. H. B. Noble宛電報(1919年5月17日東京発,23日Elswick で受領)[VA−L55]。
(18 日本製鋼所第239回重役会議議事録(英訳文)(前掲「大正八年(西暦一九一九年)
北海道製鉄会社合併当時英国側ト交換シタル文書一括」所収)。出席者は,高崎社長,
水谷・樺山・磯村・広沢各取締役及び寺島監査役である。当時の役員は,他にJ.H.
B.Noble, F. B. T. Trevelyan, Douglas Vickers(以上取締役),Saxton W.
A.Noble,坂東喜八(以上監査役)であるが(日本製鋼所『営業報告書』参照),見 られるごとく,イギリス人取締役・監査役は1人も出席していない。ただ,広沢取締 役は,Arther T. Dawsonの辞任と同時に(1918年2月), V社代理人として取締 役に選任されていたが(前掲『日本製鋼所社史資料(上)』276頁),当時はV社の見解 が彼を通じて日本製鋼所重役会議に反映されていなかったようである(この点,後の 油谷選任経過と併せ,別の機会に述べる予定)。
(1⑨ 日本製鋼所臨時株主総会(1919年7月13日開催)議事録(英訳文) [VA−L15,
L55&R287]。
⑳ 1926年9月26日付K.YutaniよりMajor B. H. Winder宛書状( Re:NIHON SEIKO SHO(N. S. S.) [VA−R313&L55])。この書状で,油谷は海軍 艦政本部の考え方を伝えつつ,油谷自身は,輪西製鉄所合併について「大きな過ち」
(great blunder)であり,なぜ英国側株主がそのような馬鹿げた合併に同意したのか 不可思議である,と述べている。
¢1)前掲拙著339〜343頁。
3 輪西製鉄所分離案(英国側の提案)とその帰結
日本製鋼所による輪西製鉄所の合併後も,銑鋼一貫経営は実現しなかったこ とは既に述べた通りであり,輪西製鉄所は製品銑鉄の殆ど全てを外販すること を余儀なくされ,インド銑鉄等との競合のもとで,とくに戦後恐慌(1920年)
以降経営不振に陥る。1924年には,日本製鋼所・北炭・三井鉱山3社により
「輪西製鉄組合」が結成されたが,これは,日本製鋼所にとって「経営負担」
となっていた製銑部門(及び採鉱部門)を,資本的一体性は保持しつつも,そ れらの業務を組合組織として「分離」し,三井財閥各社の協力によって経営合 理化を企図する方策であった。「組合」結成以降,高炉改修,副産物剛賦コー
クス炉の建設等も進展し,経営改善がある程度図られたが,それでもなお根本 的改善には至らず,とくに昭和恐慌(1930年)のもとでは再び「赤字」を計上 するに至る。そのような状況のもとで,日本製鋼所は,製銑部門(及び採鉱部 門)を再び正式に分離することとした。こうして,日本製鋼所からの輪西製鉄 所の分離が決定され,1931年に輪西製鉄株式会社が設立される(1)。
この輪西分離問題は,従来から,日本製鋼所による「経営合理化方策」の一 環であると同時に,当時進展しつつあった「官民製鉄合同問題」(最終的には 1934年の日本製鉄株式会社設立に帰結)の準備策として位置づけられてきた(2)。
しかしながら,英国側の資料を見ると,輪西分離問題の発端は,英国側出資者
(V−A社)代理人であった日本製鋼所取締役(油谷堅蔵)の提起にあったこ と,さらに,英国側の正式提案を受けた日本側の対応の過程で,分離案の内容 が変化していったことがわかる。この点は,従来全く知られていなかったこと であるので,経過をやや詳述しつつ,問題点と帰結を明らかにしよう。
(1)溌端と英国側の提案内容
油谷が,輪西製鉄所分離が日本製鋼所の再建にとって最も重要な問題である と認識していたことは既に1925〜27年の英国側(V社)への書状で示されてい るが(3), 「経過年表」に示すごとく (以下第2表参照),日本製鋼所関係者
(樺}山・水谷・磯村)との非公式の話し合いが進められたのは1928年からであ る。この頃,油谷は,英国側(1928年1月以降V−A社)と連絡をとりつつも,
本問題は「非常にデリケイトな問題」なので「1真重かつ継続的に」(「海軍の圧 力」をも利用することによって)進められる必要があり,英国側が行動を起こ すのは「時期尚早」と考えていた。しかし,29年初頭には,輪西製鉄所の合併 目的が達成されているか否かと何人かの日本製鋼所取締役に問題提起して,輪 西分離(別会社設立)の可能性を議論しており,このことは,三井側でも看過 できない問題として取り上げられ[29年3月,三井合名会社の会議(General
Meeting)],その中で一部に強硬な反対論が出たことが伝えられている(4)。
同年ll月,油谷は,輪西製鉄所分離iの時機は熟したと判断し, V−A社に対 し,分離実現に努力するように強く勧める書状を送った(5)。その中で,油谷は,
輪西分離が英国側にとって有益なことは言うまでもないが,海軍当局者も強く 望んでいること(海軍は現在の日本製鋼所の状態を好ましく思っておらず,こ のままでは日本製鋼所に対する海軍注文の減少は必至であることなど)を伝え,
第2表 輪西製鉄所分離問題・経過年表
[1928年] 油谷堅蔵(元海軍少将,V−A社代理人として日本製鋼所取締役),輪西製鉄所分離構 想につき,英国側と連絡を取りつつ,日本製鋼所関係者(樺山・水谷・磯村)と非公式に 話し合う (海軍の要望も伝える)。
[1929年初頭] 油谷,日本製鋼所取締役(複数)に輪西製鉄所の合併目的が達成されているか否か と問題提起し,輪西分離(別会社設立)の可能性を議論。
[3月] 三井合名会社の会議で本問題議論。反対論出る。
[5月] 油谷,輪西分離の必要性と積極的根拠を英国側に伝える。
[11月] 油谷,輪西製鉄所分離の時機は熟したと判断し,V−A社に対し,分離実現に努力 するように強く勧める。海軍当局者も望んでいることを伝え,日本側取締役からは輪 西製鉄所分離を提起しにくいので(合併を提起した関係上),英国側から提案するよ うに要請。
[1930年1月] V−A社,輪西分離に関する諸案[(A)一(F)](副社長シムへ提出)。
[3月26日] 輪西製鉄所分離に関する英国側関係者会議。上記諸案検討。
[3月末] V−A社副社長シム,訪英中の日本製鋼所会長樺山と数回会合,英国側の提案を 伝える(上記諸案中のA案一第3表参照)。
[3月31日] V−A社副社長より日本製鋼所取締役宛書状。輪西製鉄所分離を正式に提案
(新会社の資本金総額等にはふれず)。
[7月頃まで] 日本側での検討:三井は英国側提案に難色(3%配当分の損失)。別の案
(プランG)を対案として考慮。
[8〜10月頃〕 輪西分離問題棚上げ(大恐慌や製鉄合同法案準備のため)との報。
[11月18日] 日本製鋼所からV−A社宛回答。輪西分離自体については重役会は完全に同意。
しかし,V−A社提出の分離案採用は株主全員一致の承諾を得ることは不可能。対案
(プランG一第4表参照)を提起。
[12月から翌年1月初頭] V−A社,プランGを検討(とくに無条件同意か,何らかの条件 を付けるかの検討)。
[1931年1月6日] V−A社,日本製鋼所会長及び取締役に対し,プランG受入回答。
[3月] 製鉄合同法案は議会提出されず。
[3月28日] 日本製鋼所臨時株主総会で輪西製鉄所分離承認。
[4月7日] 新製鉄会社創立準備委員会設置,創立準備に着手。
[5月頃] 新会社設立延期(製鉄奨励金獲得の手続き等のため)。
[8月までに] 上記困難解消。
[9月18日] 輪西製鉄株式会社創立総会(資本金1900万円,9月30日営業開始)。
[10月21日] 日本製鋼所臨時株主総会,日本製鋼所の半額減資を決定。
[12月26日] 日本製鋼所半額減資実施(資本金1500万円)。
(出典)前掲r日本製鋼所社史資料(上)』469〜477頁,及び[VA−914],[VA−1239],
[VA−L16],[VA−L17L[VA−L55],[VA−R284],[VA−R313],
[VA−R338]中の各種資料。
さらに,日本側取締役からは輪西分離を提起しにくいので(輪西合併が日本側 取締役から提起された関係上),英国側から問題を正式に提起するように要請
している[とくに樺山会長の訪英の機会(ロンドン海軍軍縮会議への参加)を とらえて輪西分離問題を議論するように強く要請]。
V−A社は,これを受けて具体的な検討に入った。翌30年1月には,輪西製 鉄所分離に関する様々な案が,当時V−A社副社長G.G. Simのもとに提出
された(6)。
そこに提出された資料では,輪西製鉄所を分離すべき理由・根拠として,次 の諸点が簡明に指摘されている。日本製鋼所による輪西製鉄所合併以降も,自 社所有鉱石や輪西銑鉄の使用割合は極めて少なく,輪西保持の根拠がないこと,
財政的にも丸損であること,海軍当局者も輪西製鉄組合に反対であり,輪西分 離がなされなければ注文を減らすと圧力をかけていること,輪西分離がなされ ると三井が失う分をV社(実際はV−A社)が得ることになるので,あらゆる 反対が三井サイドから起こること,このことを油谷は最初から予期し,海軍当 局の圧力を強調しながら,日本側取締役を一人ずつ説得してきたこと,そして,
今や英国側が事態を改善する(かつて失われたものを取り戻す)絶好の機会が 訪れたこと,などである。
さて,当時V−A社のもとに集約された諸案は,大別すると(AXDXEXF)案と(B)
(C)案に分けられる。(A)案が後のV−A社提案に採用される案であるので,ここ ではその内容を紹介し,他の諸案については(A)案との違いを簡単に指摘するに 止めておく。
(A)案の内容と実施手順は第3表に示す通りである。まず,V−A社が,日本 製鋼所株式のうちの三井合名と三井鉱山の持株を額面価額(750万円)で購入 する(これにより資本金3000万円の日本製鋼所発行株式の内訳は北炭とV−A 社ともに1500万円となる)。次に,新製鉄会社を資本金1900万円で設立する (そ の内訳は北炭750万円,三井合名及び三井鉱山750万円,日本製鋼所400万円)。
さらに,日本製鋼所から輪西製鉄組合に貸付中の固定財産全部[及びイ介川鉄道 会社(7〕株式全部]を新製鉄会社に帳簿価格で譲渡する。その価格を1900万円と 仮定する。最後に,日本製鋼所の資本金を1500万円に減少し,減資金1500万円 を株主に現金で払い戻す。この結果,日本製鋼所出資内訳は,北炭とV−A社 ともに750万円となる。
次に,(DXE)案が(A)案と異なる部分は新製鉄会社資本金1900万円の出資割合だ
第3表 輪西製鉄所分離案 (A案:1930年3月,V−A社提案)
Nihon Seikosho Hokkaido Tanko Remarks
Income Outlay Income Outlay
(1)The whole shares which now belong to Mitsui−Gomei&Mitsui−Kozan shoud be transferred to V−A Limited at face monetary value of shares.
As a result of doing so,the invested capital of Nihon−Seikosho wi11 become as follows:
Hokkaido−Tanko−Kisen−Kaisha
¥15,000,000 Vickers−Armstrongs Ltd.
¥15,000,000
(2)To establish newly an Iron
Manufacturing Co.,with a capita ifully paid) ¥19,000,000 Investments and amounts invested:
Hokkaido−Tanko−Kisen−Kaisha
¥7,500,000 7,500,000
Mitsui−Gomei&Mitsui−Kozan
¥7,500,000
Nihon−Seikosho ¥4,000,000 4,000,000
(3)The share fixed asset串of Nihon.
Seikosho, which are now lent to Wanishi Iron Association&the whole shares of Kaisen Railway Co,,should be transferred to the newly proposed Iron
manufacturing Co.,at the book value.
It is assumed the book value to be
¥19,000,000 19,000,000
(4)The capital of Nihon−Seikosho to be reduced to¥15,000,000&this reduced capital to be paid back to
shareholders in cash. As a result 15,000,000 of doing so, the invested capita1
of Nihon−Seikosho will become as follows:
Hokkaido−Tanko−Kisen−Kaisha
¥7,500,000 7,500,000
Vickers−Armstrongs Ltd.
¥7,500,000
19,000,000 19,000,000 7,500,000 7,500,000
(出典) Kabushiki Kaisha Nihon Seikosho;Proposed Separation
@ Ironworks from Nihon Seikosho [VA−R338].
of Wanishi
Mitshi−Gomei Vickers一 New proposed Mitusi.Kozan A㎜strongs Iron Mfr。 Co.
Income Outlay Income Outlay Income Outlay 1
7,500,000 7,500,000
19,000,000
@1
7,500,000
19,000,000
7,500,000
7,500,000 7,500,000 7,500,000 7,500,00019,000,000 19,000,000
けであり,(D)案の場合,日本製鋼所出資額を600万円,他の2グループを650万 円ずつとし,(E)案は,日本製鋼所出資額を500万円,他の2グループを700万円 ずつとしている。(F)案は事実上(A)案と同じである。(D)案が元々の油谷の提案,
(A)案が北炭の提案であり,(EXF)案は油谷による代案であるという。これらは日 本製鋼所が輪西製鉄組合に投資した400万円分の1930年時点での価値をどう評 価するかという点を除いては,本質的な差はない。
これに対し,(BXC)案は次の点で(A)案と異なる。(B)案の異なる点は,第1に,
新製鉄会社の資本金を2000万円,日本製鋼所の出資額を500万円とし,うち100 万円を運転資金とすること,第2に,三井は輪西分離により日本製鋼所から得 ていた配当金(年間約2万ポンド)を失うことになるので,新製鉄会社は,分 離以前に得ていたと同率の配当を分離後5年間,日本製鋼所から補償として受 け取ること,である。(C)案の異なるところは,新製鉄会社は,分離後3ないし 5年間,日本製鋼所から配当金の4分の1を受け取ることである。(B)案は三井 鉱山による提案であり,(C)案は日本製鋼所の一取締役の提案とのことである。
この2案は三井側への補償策を考慮しているが,いずれの案も,日本製鋼所に ついては三井合名及び三井鉱山が手を引き,元々の出資者である北炭とV−A 社のみが関わる案となっていることに後の議論との関係で注意しておきたい。
以上諸案の末尾の「提言」の部分では,まず(D)案を提起して交渉すべきであ り,(DXE)案の間で妥協が図られるだろうとしているが,実際のV−A社の日本 側への提案は(A)案で代表されることになる。
すなわち,同年3月26日には,輪西分離に関する日本製鋼所英国側関係者会 議が開催され,前記諸案の比較検討が行なわれた。会議の結果は以下の通りで
ある(8)。
輪西分離・新会社設立が実現すれば,V−A社への配当は倍加する(日本製 鋼所が現在の収益を上げると仮定して)。これにより三井の利益が減少するこ
とに考慮をはらい,輪西分離の提案は,まず(A)案から始められるべきだが,三 井側が補償を要求したならば,(c)案の線で交渉されるべきである,と。
この会議結果に基づき,G. G. Simは,数回樺山会長と会合し,輪西分離の ための提案を行なった。その内容は,前記(A)案に基づくものであった(9)。
V−A社は,この会談の際の樺山の勧めもあって,会談直後に輪西分離の正 式提案を日本製鋼所取締役宛に送付した(瑚。
この文書において,V−A社は,日本製鋼所による輪西製鉄所合併後の歴史
8
的経過を述べ,銑鉄製造と高級鋼及び兵器製造の結合の利益がないことは明ら かなこと(日本海軍当局も同様の認識であること),したがって,輪西は分離 されるべきことを正式に提案している。その提案内容は,設立手順の説明はや や異なるものの,ほぼ前記(A)案と同様である。ただ,新製鉄会社の資本金総額 と出資内訳については言及されておらず,上記諸案[(A)一(F)]の共通点だけを 述べた形となっており,詳細は今後の交渉で詰めるものとされている。もっと も,(BXc)案に見られる三井側への補償策は何ら言及されておらず,また,直前 のG.G. Simと樺山との会談で(A)案に基づく説明がなされているので,日本製 鋼所側はV−A社提案を前記(A)案と同様なものと受け取ったものと思われる。
(2)日本側の対案
輪西製鉄所分離についての英国側の正式提案を受けた日本製鋼所は,具体的 な対応策を迫られた。しかし,その詳細は,当然ながら英国側資料では十分に 明らかとはならない(この点についての日本側資料は殆ど不明である)。間接 的情報ながら,断片的に明らかになる事実経過は,大要,以下の通りである。
1930年7月の2度にわたる油谷情報によれば,日本製鋼所幹部や関係者で,
輪西分離問題についての議論は相当行なわれていたようであり,とくに油谷は,
樺i山会長,水谷叔彦常務(30年12月より31年10月まで会長兼務),磯村豊太郎 取締役(北炭代表,31年10月以降日本製鋼所会長)らと頻繁に意見交換をして いた。しかし,樺山・磯村らは,団琢磨(三井合名理事長)と緊密に相談して おり,彼らを通じて得られる団琢磨の見解は,英国側の提案が会社のオリジナ ルな目的には合致することを認めつつも,輪西製鉄所の分離は,三井側に日本 製鋼所の3%配当分の損失をもたらすので,そう簡単ではない,とのことであっ た。当時既に日本側取締役の間では,V−A社提案とは異なる別の案が議論さ れていた(先に検討した(A)一(F)案と区別して,プランGと呼ばれる)。このプ ランGは三井サイドから出されたものと推定されるものである(11)。
1930年8〜10月にかけては,大恐慌の深刻な影響や「官民製鉄合同法案」が 日本政府によって準備され,年末までに議会通過見込との報道などにより,輪 西分離問題はしばらく棚上げになるとの情報が英国側にもたらされている働。
しかし,同年11月18日付けで,日本製鋼所会長からV−A社の正式提案(3 月31日付書状)に対する回答が寄せられた(13。それによれば,日本製鋼所重役 会は,輪西製鉄所を分離すべきことについては(海軍当局の態度もあって)完
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全に同意したが.しかし,V−A社提出の分離案については,株主の全員一致 の承諾を得ることは不可能である,と。そして,V−A社提出に対する修正提 案(対案)を提出した。これが7月頃から検討されていたというプランGであ
る。プランGの詳細な内容は定かではないが,概要は次のごとくである(1切。
第4表に示すごとく,新製鉄会社を資本金1900万円で設立し,その出資内訳 を北炭750万円,三井合名及び三井鉱山375万円,V−A社375万円,日本製鋼 所400万円とする。日本製鋼所から輪西製鉄組合に貸付中の固定資産全部及び 伶川鉄道会社株式全部を帳簿価格をもって新製鉄会社に譲渡する。その価格を 1900万円と仮定する。日本製鋼所の資本金を1500万円に減少し,減資金1500万 円は現金をもって株主に払い戻す。この結果,日本製鋼所出資内容は,北炭 750万円,三井合名及び三井鉱山375万円,V−A社375万円となる。つまり,
V−A社としては,従来日本製鋼所に出資されていた株式の半分が,新製鉄会 社に移転されることによって新製鉄会社にも部分的に関与する形となり,製鉄 部門分離・半額減資された日本製鋼所に対しては,従来通りの出資比率(25%)
のまま関わることになる。
第5表 輪西製鉄所分離案比較 (単位:千円)
V−A社提案 日本製鋼所対案
( (A)scheme ) ( Plan G )
出 資 者 J.S。 W W.1. J.S. W W.1.
Hokkaido Tanko Company 7,500 7,500 7,500 7,500 Vickers−Armstrongs Limited 7,500 3,750 3,750 Mitsui Gomei 3,750 1,875 1β75 Mitsui Kozan 3,750 1,875 1β75 Japan Steel Works 4,000 4,000
Total 15,000 19,000 15,000 19,000
(注)J.S. W.:Japan Steel Works, W.1.;Wanishi Ironworks.
(出典)[VA−685],[VA−1239]。
このプランGと先のV−A社提案の(A)案とを比較対照すると,第5表の通り である。ともに設立手順を省略し,設立されるべき新製鉄会社と製鉄部門分離・
半額減資後の日本製鋼所の出資内容を表示してあるが,両案の相違は明瞭であ
る。すなわち,新会社及び日本製鋼所の資本金総額は,それぞれ1900万円,
1500万円と両案は全く同じであるが,(A)案の場合,V−A社は日本製鋼所のみ に関わり(輪西製鉄所からは手を引き),日本製鋼所の出資比率は英(V−A 社)日(北炭)50%ずつとなって,輪西製鉄所合併前の日本製鋼所の出資比率
に戻る形となるのに対し,プランGの場合は,V−A社も北炭や三井2社(合 名及び鉱山)と全く同様に,従来日本製鋼所に出資していた株式の半額を新製 鉄会社に移転する形となるのであり,したがって,日本製鋼所に対する出資比 率は,輪西分離前と全く変わらないのである。
(3)英国側の妥協と帰結
日本側の対案(プランG).を受けた英国側は,どのように対応したであろう
か。
英国側にとって,輪西製鉄所分離の目的が同所合併以前の日本製鋼所への関 与のみに復帰することにあったとすれば,この対案は到底受け入れ難いもので あったはずである。
事実,プランGが内々に検討されていた1930年7月時点において,油谷は,
英国側が新製鉄会社にも関与すると配当は日本製鋼所より新会社の方が悪くな るので具合が悪い,と英国側に否定的な考えを伝えている(15)。しかし,油谷の 情報を受けたAntony Vickers(V−A社派遣の日本製鋼所取締役)は,プラ ンGについて,もし,三井側が新製鉄会社のV−A社株式を一定期間後(例え ば3〜5年後)に日本製鋼所の三井所有株式と交換してもらえるならば,と,
早くも条件付き同意の考えがあることを示唆している(1⑤。
V−A社が日本側の対案(プランG)を正式に検討したのは,30年12月から 翌31年初頭にかけてのことであるが,30年12月にまとめられた文書の内容は以 下のようなものであった㈲。
我々の最初の提案は日本製鋼所株式を北炭とV−A社とで折半出資するとい う元の形に戻ることであった。これは,海軍の要望であるとともに,輪西が日 本製鋼所にとって負担であったという基本的な理由に基づくものであった。し かし.三井グループは我々の提案にはそのままでは同意しそうもない(配当が 減少するので)。そこで,条件付の同意も考えた(上記の条件付同意案)。しか
し,最新の油谷情報によれば,三井グループは,このプランG以外の案は受け 入れそうもなく,また,日本製鋼所の利益は,輪西分離が遅れれば遅れる程不
利になる。そこで,輪西分離案の決定にあたって考慮すべき重要なファクター は,次の諸点である,という。
① 日本製鋼所の配当率の2%への低下(これは輪西製鉄所を保持しているた
め)。
② 日本政府が「官民製鉄合同」案を準備していること。
③合同が実現すると,輪西の株式の価値は確実に上がること。
そして,日本側の対案(プランG)については,無条件同意か,条件付同意 かの回答と考えていたようであり,もし無条件同意を選択するならば,
(a)我々(V−A社)の日本製鋼所株式は375万円に減るが,配当率は上がる。
新製鉄会社(輪西製鉄)の方で所有する375万円分の株式の価値も上がると予 想されること。
(b)合同案が通過し,輪西製鉄も吸収されると,我々(V−A社)も新合同会 社の株式を所有することになり,それらの株式はおそらく将来販売し得ること。
ところが,もし条件を付ける場合には,
(a)数年後の株式交換(日本製鋼所の三井所有株式と新製鉄会社のV−A社所 有株式との交換)の機会は非常に少ない,と思えること。
(b)交渉を遅らせると,合同が既成事実になってしまうこと。
以上の諸点を指摘して,事実上,無条件同意の方向を示唆している。
さらに,翌年1月初頭の日本側への回答直前にまとめられたと思われる文書 は,より明瞭にV−A社にとっての有益な諸点を以下のように列挙している(醜
(a)日本製鋼所が,輪西製鉄所から解放されれば,おそらく利益率は高くなる
こと。
(b)日本製鋼所が元の形に戻れば,日本海軍からの注文も増えること。
(c)日本政府準備の製鉄合同案が実現すると,新製鉄会社(輪西製鉄)も吸収 され,新合同会社の株式は,後日販売し得ること。
V−A社は,以上のような検討を経て,1931年1月6日付で日本製鋼所に対 して,日本側の対案(プランG)を無条件で受け入れる回答を行なった。その 内容は以下のようなものであった⑲。
我々(V−A社)は,日本側の対案を注意深く検討した。我々は,新製鉄会 社(輪西製鉄株式会社)には関わりたくはなかったが,我々の要望をむやみに 主張することは,日本製鋼所重役会を困惑させてしまうことになり,それは我々 の望むところではない。それで,この対案に同意することにした,と。
こうして,英国側代理人・油谷の提起を発端とし,英国側の正式提案により 組上にのぼった輪西製鉄所分離問題は,日本側の対案を英国側が受け入れるこ
とにより急転回し,以後は日本側の主導権で殆ど事務的に処理されてゆくこと になる。以後の経過については,周知のごとくであるが,簡単に述べると以下 の通りである。
1931年3月時点では,「官民製鉄合同」法案は,政府部内の不一致もあって,
議会上程されずに一時頓挫するが,日本製鋼所は,3月25日に臨時株主総会を 召集して輪西製鉄所分離を正式に承認し,新製鉄会社創立準備委員会を設置し て(4月7日),創立準備に着手した。しかしながら,新製鉄会社にも製鉄奨 励金の交付を得るための条件を整備することにやや手間取ったために,一旦新 会社設立は延期され,その条件整備を待って,同年9月,輪西製鉄株式会社は 設立された(9月18日創立総会,9月30日営業開始)。輪西製鉄所分離に伴い,
日本製鋼所は,規定方針通り,半額減資の手続きを取る(10月21日日本製鋼所 臨時株主総会による決議,12月26日半額減資実施)⑳。
(4)小 括
日本製鋼所からの輪西製鉄所の分離(輪西製鉄株式会社設立)は,以上の経 過を経て実現したが,その内実は英国側の当初の提案とは大きく異なるもので あった。そもそも,英国側の提案のねらいはどこにあったのか。英国側は,何 故自らの提案にあまり固執せず,日本側の対案を無条件で受け入れたのであろ
うか。
日本製鋼所からの輪西製鉄所分離を提案した英国側の当初のねらいは,輪西 合併前の日本製鋼所の状態への復帰にあったことは明らかである[30年1月に V−A社のもとで集約された(A)一(F)の諸案は,いずれもこの目的に合致してい る]。元々輪西合併に批判的であった英国側は,合併後の日本製鋼所にとって 輪西製鉄所の経営不振が日本製鋼所全体の営業成績の低迷と配当率の低下をも たらし,したがって,英国側への配当減少をもたらしている事態のもとで,輪 西分離による旧来の状態への復帰を追求した。英国側にとっては,元々日本海 軍との協力のもとに海軍兵器工場としての性格を有する日本製鋼所を設立した のであって,輪西製鉄所の保持はその趣旨に合致しないという大義名分も存在 した(前節参照)。
英国側による輪西分離の提案は,当然のことながら日本側(とくに三井財閥)