近 藤 国‑ の生涯 と思 想「〕
後 藤 恒 允
TheLifeandThoughtofKuniichiKondou
KuniichiKondouaccomplishedbrilliantachievementsinpractice ofJapaneseand̀learntolearn'education.
Andhewrotemanybooksinwhichhetheorizedit. Thepurposeofthispaperistoconsiderhisachievementsand
clarifyhisthoughtabouthuman,educationand languagewhichproducedthem.
TsuneyoshiGOTO
序
近藤 国‑ は,平 成八年 ( 1996)五 月二 日呼吸不 全 の ため秋 田市秋 田大学 附属病 院 で八十五歳 の生 涯 を閉 じた。追 って同 月八 日, 遺族 お よび遺徳 を 偲ぶ 多 くの関係者 が参列す るなか,秋 田ベ ル コ会 館 で葬儀 が しめや か に執 り行 われ た。
近藤 国‑ の逝去 につ いては関係諸 団体 の機 関誌 等 に報ぜ られ たが, その一つ 日本学 び方研 究会 月 刊誌 『 学 び方』 ( 通巻 第
187号) では 「 秋 田県学 び 方教育 の草分 け近 藤 国一顧 問逝 く」 と題 して次 の
よ うな記事 を載せ て い る ( 冒頭部 省略) 0 先生 は, 明治
44年
(1911)男鹿市 に生 まれ,秩 田師範 に学 び, 以後,和光 学 園,秋 E E l 師範 附小 教 官
,5校 の小 学校 長
,2校 の中学校長 のほか, 指導主事, 高校 や短大 の講師 をされ ま した。 昭 和
44年 には秋 田県学 び方研 究会 を発足 させ てそ の会長 とな り, 本会 の副会 長 の ちに顧 問 にな ら れ るな ど, 東北地方 におけ る 「 学 び方教育」 の 推進 に尽 くされ ま した。 また,倉揮栄吉先生や 故滑川道夫先生 ら と戦前 の 「 北方教 育」生活綴 万運動 に も尽 くされ, 県国語教育研 究会 長 とし て 日本 の国語教 育 界 に も大 きな功績 を残 され ま
した。 ( 26頁)
ここには, 当該研 究会 の草創 に携 わ った故 人へ の追悼 の意が述べ られ, その教 育上 の業績 が経歴 お よび貢献 した二つ の領域 にわた って簡潔 に紹介
され て,会 員一 同が あ らため て故 人 を偲ぶ ための 一つ の よすが とな ってい る
。また,秋 田県国語教育研 究会 長伊藤勲 は
,『 国語 秋 田』 第66号 に追悼文 を載せ て,近藤国‑ の業績
を次 の よ うに とらえてい る。 ( 冒頭部省略) 先生 の業績 の第一 は, なん とい って も戦後 の混 乱期 の 中で, 昭和二十一年 九 月に秋 田県国語教 育研 究会 を創 立 した こ とだ と思 い ます。先生 と のつ なが りで,石森延 男先生,芦 田恵之助先生, そ して本 県出身の滑川道夫先生 を講師にお招 き
して, 第‑ 回研 究大会 を旭 南小学校 で開 いてお ります。
その前年,厳 しい寒 さの中 を,教科書編集 のた め に視察 に見 えた石 森延 男先生 を案 内 されて, 県内各地 をまわ った ときの こ とは,先生 は何 度 もお話 されてい ま した。戦後 の国語教 育 の出発 にあた り,秋 田県は大 きな役割 を果 た した とい
う自負が こめ られていた よ うに思 われ ます。
さ らに先生 は, 県国語教 育研 究会 を育 て発展 さ せ るため に, もっ ともふ さわ しい指導者 を招 い て くだ さい ま した。石 森 ・芦 田 ・滑川先生 の他 に,西尾実先生,石井庄 司先生,倉揮栄吉先生, さ らには大村 は ま先生,大橋 富貴子先生 た ちで す。 国語教育 界 を リー ドしてお られ る先生 たち に学 び,影響 を受 け るこ とに よって,県国研 は, 学習者 に視 点 を置 き,教科 書教材 のみ に縛 られ
るこ とな く,子供 の発想や地域性, さらには学
23秋田大学教育学部教育研究所 研究所報第 3 4 号 平成 9 年 3 月
ぶ 力 を大事 に した国語学 習指導 を心 がけて,研 究 を続 けて きま した。 これ は, 県国研 に とって は非常 に幸 いな こ とだ と思 ってい ますD 先生 は人 と言葉 を大事 に され, 国語教育 の発展
を心 か ら願 ってお られ ま した‑‑‑
ここには,秋 田県国語教育研 究会創 立 の原動 力 とな り,幅広 い交友関係 に よって 中央か らす ぐれ た指導者 を招 いて学習指 導研 究 を充実 させ る とと もに, その成果 を全 国に向けて問い掛 けてい った す ぐれ た組織 力,指 導 力が たたえ られ てい る。 ま た, 県国研 の探求 した学 習指 導 の方法論 が時宜 に か ない, さ らには時代 を先取 りす る先進 的 な研 究 であった こ とが述べ られてい る。
近藤 国‑ の業績 に対 しては,生前 も次 の授賞が あ り,授賞 の理 由 とな った各事 項 には彼 の活動分 野 と時期 お よび貢献 の 内容 の一端 を うかが わせ て い る。
昭和3 2年 秋 田県教 育功労 賞 ( 主 として国語教 育 に対 して 秋 田県教 育委員会 ) 昭和3
8年 実 践 国語 賞 ( 主 として話 し方教 育 に
対 して 実 践 国語教育学会 )
昭和43年 垣 内松三 賞 ( 主 として読解鑑 賞指導 に対 して 実践 国語教 育学会) 昭和44年 感謝状 ( 遠藤 熊吉 の言語教 育 の研 究
と普及 西成瀬遠藤翁 顕彰会) 昭和4 5年 教育功労 賞 ( 主 としてペ ス タロ ッテ
精神 の研 究 と普 及 に対 して 日本学 び 方研 究会)
昭和4 5年 博 報 児童教 育賞 ( 主 として読書指 導 に対 して 博 報堂)
昭和57 年 勲五 等瑞 宝章
ここに見 られ る , 「 話 し方教 育 」 「 遠藤 熊吉 の言 語教 育 の研 究 と普及
」「 ペ スタロ ッテ精神 の研 究 と 普 及 」 「 読書指導」は, 先 に紹介 した二つ の追悼文 の中には見 られ ない具体 的 な事 項 であ り,近藤 国
‑ の 活動 が 多彩 で あ った こ とを ものが た って い る。
以上 の追悼 記事 や受 賞歴 を したため たのは,早 に故 人 をひたす ら賛美 した り,思 い出の人 として 追憶 す るため ではない。彼 の教 育実践者 としての た ぐい まれ な 自己形成 の跡 は,彼 の逝去 とともに か えって統一的 な生 きた全体像 となって著述 の な か に立 ち上 が ってお り,一個 の精神像 として リア ルに結像 しつつ あ る。 また,地方 に根 を据 え, 自 分 の授業実践 に基づ い た事実 か ら学 説や理論 に異
議 を申 し立 て た り, 中央の教 育思潮 に新 しい流れ を作 り出 してい った, いわば周縁か ら中心 を活性 化 してい った強 い情報発信 のエネル ギー は, か え って鮮やか に人々の心 に蘇 って い る。 さ らに,彼 が 当代 の教育 問題 か ら研 究課題 として とりあげ た 事柄 はす ぐれ て現代 の教 育 問題 にその ままつ なが
ってい る。
彼 の逝去 したい ま, 彼 の生 きた時代 と彼 の内面 に探 り入 って, 二つ の追悼文 に概 括的 に述べ られ ていた事 項 を具体 的 に統一 的 に再 現 し, あ らため て教育実践 に打 ち込 んだ生涯 の意義 と精神 といっ た ものに検討 を加 えねば な らなだ ろ う。
近藤 国‑ が逝去 してか ら数箇 月経 ち,彼 の薫 陶 を受 け た関係者 の間に も, その生涯 にわた る教育 活動 を客観 的 に再構 成 し,彼 が生前著 した単著 冊,編共著 冊,論考 編,講演 ・座 談会 記録 を 体 系化 して整理 し,学術 的立場 か ら評価 しなおす 気運 が 出て きた。散 逸 した彼 の実践記録や著述 が あ り, また収 集 され た著述 を整理 し体 系化 す る視 座 が定 まってお らず, この作業 は必ず しも容易 で はない。 しか し, この作業 を通 して彼 の教育実践 の実 態 に迫 り, 記録 に とどめ てお くこ とが彼‑ の 追悼 の一つ の形 とな る とも考 え られ る。 この論考 はそ うした意 図 を実現す る一つ の試み であ り,吹 の よ うな研 究課題 を揚 げ る。
第一 に,彼 の 自己形成 の過程 をで きるだけ体 系 的 に とらえ, その 中か ら彼 を学 び方教 育や 国語教 育 (と りわけ話 し方教育) の実践 に駆 り立 てた も の を明 らか にす るこ とであ る。 いわば,彼 の教 育 実 践の理 念 となってい る ものの源 を探 り当て るこ
とであ る
。その ため には, 彼 の学業形成 の過程,読書体 験 に よるペ ス タロ ッテ その他 の魂 との出会 い とその 深化 の過程, 彼 の人的交 流に よる自己形成 の過程 な どを明 らか に し, そ うした過程 で形成 され た核 軸 を とらえるこ とが必要 とな る。
第二 に,地方 におけ る実 践運動 の実 態 につ いて 考察す るこ とであ る。 ここでい う実践運動 とは, 一つ は 『 実践 国語』 を主 な舞 台に した秋 田の話 し 方教 育活動,二つ は昭和
40年代 におけ る秋 田の学 び教 育活動,三つ は秋 田県国語教育研 究会 の形成 お よび活動 を指 し, これ らが地域 の活動 に とどま らないで,教育実践 の源 になって波 及 してい った 点 で実践運動 として とらえ よ うとい うのであ る
。その ため には,なぜ その実践運動 が起 きたのか,
ー 24‑近藤国‑の生涯 と思想( ‑)
どの よ うな実践運動 だ ったのか, どこに独 自性 が あったのか な ど,つ ま りその原 因 ・実 態 ・比較 ・ 影響 ・評価 につ いて考 察す るこ とが必要 に な る。
そ して, こ うした実践運動 に近藤 国‑が どの よ う な立場 で どの よ うな役 割 を果 た したか明 らか にす るこ とが課題 とな る。 と りわけ,戦前 はほ とん ど 無名 であった遠藤 熊吉 を話 し言葉教 育 の先覚 者 と して発掘 し, その価値 の高 さを主張 し続けて近代 の国語教育 史の 中に定位 してい った近藤 の業績 に は注 目せ ねば な らないだ ろ う。
第三 に, この こ とは必然的 に昭和年代 の秋 田県 教育 史, と りわけ国語教 育史 を考察す るこ とが要 請 され る。 この文章 では,近藤 国‑ を切 り口に し た史的考察 を試み たい。
第 四に,近藤 国‑ 白身の学 び方教育論 ( 生涯教 育論 も含む) ,お よび国語教 育論 につ いて論 究す る
こ とであ る。 と りわけ国語教 育論 は近藤 国‑ の得 意 とした分 野 であ り,読書読解指導論 ・音声言語 指導論 ・作文教 育実践論 ・国語科 単元学習論 の各 論 につ いて個別 に論究 したい。 ただ,論 を展開す る方便 とはいえ これ らを切 り離 して扱 うこ とは当 を得 ていない。伊藤勲 も 「 先生 は人 と言葉 を大事 に され」 と述べ ていた よ うに,近藤 国‑ が国語教 育論全体 の視座 として 「人 と言葉」 を一体 の もの と捉 え よ うとしていた こ とは,例 えば昭和 四十二 年 に 『 実践 国語』誌 に六 回にわたって掲載 した 「 現 場 講座 」 の副題 が いずれ も 「人間国語科へ の道」
となってい るこ とに もうかが え る。近 藤 国一 に と って国語教 育 の 目的 は一 人一 人の児童 の言葉 を輝 かす こ とと生命 を輝かす こ ととの一体化 であ り, 言葉 の 自覚 的 な 「国語生活者」 の形成即 人間形成 で もあった。 そのため に も,近藤 国‑が言語研 究 につ いて どの よ うな学説 に依 り, どの よ うな言語 観 を もって いたか を明 らか にす る必要 が あ るo
第五 に,近藤 国‑ の教育実践論 が現代 の教 育 に 対 して どの よ うな示唆 を与 え るのか, あ るいは今 日か らみて どの よ うな課題 を もって いたのか考察 す るこ とであ る。 あ る個 人 を教育実践 の研 究対象 を と りあげ るこ とは, その成果 と精神 を批判的 に 継承 し研 究者 自身の教 育実践 の血 肉に して い く意 味 もあ る
。この ささや か な試論 は,郷 土 に根 をお ろ して着 実 を実践 を続 け なが ら一地方 に とどま らない普 遍 的 な存在 意義 を発揮 して いった一 人の人間の生涯 を検 証 しよ うとす る ものであ る。 この試論 を踏み
‑ 25
台に して,近代 国土教 育論 史上 か ら見た本格 的 な 近藤 国一研 究が始 まれば,筆 者 に とって望外 の幸 せ とな る。 また,若 い教 師諸君 には,教 育実践者 としての 自己形成 に近藤 国‑ の生涯が一つ の典 型 として参考 とな り, お役 に たてれば幸せ であ る。
第一章 近藤 国‑の生涯
さきに, 第一 の課題 として近藤 国‑ の人間 とし ての, また一 人の教 師 としての 自己形成過程 を体 系的 に とらえ るこ とを明 らか に しておいた。 その ため, ここでは仮 説 として次 の時期 区分 を設け, で きるだけ資料 に語 らせ るこ とに よって近藤 国‑
の人間像 を浮 き彫 りに してい きたい。
Ⅰ 学習期
小学校 時代 鈴木先生 の薫 陶 自己学習力育成 の実践
旧制秋 田中学校 時代 ペ スタロ ッテ との出会 い 秋 田県師範学校 時代 教育実践 の基盤形成 東京遊学時代 ペ ス タ ロ ッチ研 究 の深化 と実践
化 の忘 向
日 小 学校 時代 鈴 木先 生 の薫 陶 自己学習力育 成の実践
近藤 国‑ は明治 四十 四年三 月三 十 一 日秋 田県南 秋 田郡船 川港町金川 に父亀蔵母 イツの四男一女 の 長 男 として享 延生 した。
船 川港 町 は, 昭和 二十 九年 に南秋 田郡 の五町村 が合併 して男鹿市 として市制 を施行 す る とき中心 とな った町 であ り, さらに翌年 には近 隣二町 が合 併 して現在 に至 ってい る。 男鹿市 は, い うまで も な く男鹿半 島の大部分 を 占め,豊 富 な観光 資源 と 漁業資源 に恵 まれ た地域 であ るが,船 川港 を中心 に した交通運輸 は秋 田県 の産 業経済 の近代化 に重 要 な役割 を果 た して きた。
船 川港 は北西 にあ る本 山火 山群 が北西季節風 を 防 ぐ天然 の良港 で, す で に藩政 時代 か ら北国海運 航路 の避 難港 として重要視 され, 明治維新 前後 に は国 内外 の軍艦 の寄港 もみ られ る。 この天然 の良 港 が近代 的 な港湾 として修 築 されてい った背景 に は, 国 内外 の政 治経 済情 勢がか らんでい る。( 注
1)近藤 国‑が誕生 した明治 四十 四年 ( 1 911 )前後
の世 界 史の流れ をみ る と,列 強の帝 国主義 的植 民
地政策 が進 み, 日本 も資本主義経済政策 に よる国
家 の近代化 を急 ぎなが らア ジア大 陸へ の進 出 を寓
秋田大学教育学部教育研究所 研究所報第 3 4 号 平成 9 年 3 月
っていた時期 であ る。 日本 は明治三十七, 八年 の 日露戦争 に勝 って韓 国 ・中国 ・ロシア‑ の経済的 軍事 的進 出 を推 し進 め, さ らに大正三年
(1914)か ら七年
(1918)にか けて第一 次世 界大戦 に参戦して一 層ア ジアに地歩 を固めて いった。 こ うした 時代 の流れか ら船 川港 の役 割 をみ た とき軍事 面 と 貿易面 で注 目され るこ とにな ったのは 自然 の な り ゆ きで あ り, 明治十年代 か ら大正 十年代 にかけて 秋 田県の一大事 業 として修 築 が計画 され実行 され てい った。 また船 川港 までの陸上輸送 を強化 す る ため に, 明治三十八年
(1905)に開通 した奥羽本 線 の支 線 と して,船 川 縁 の布 設工 事 が 大 正 元年
(1912)に開始 され大正五年 (1916)に前面 開通 してい る。
船 川港 を核 に した交通運輸 の整備 に よって, 軍 事面 では船 川港 か ら多 くの部 隊が派遣 されてい っ た。例 えば,大正 八年 十二 月の シベ リア派遣軍秋 田・ 盛 岡部 隊
1,800名, 同十一年五 月秋 田歩兵部 隊 の
800名 な どであ る。 船 川港 か らの海外派兵 と学校 教 育 との関係 につ いては
,『男鹿市 史』上巻 に次 の よ うな記述 が あ り,近藤 国‑ が小 学生 であ った頃 の雰 囲気 を伝 えてい る。 ( 注2 )
大正 三年 四 月二十 三 日
,『 脇 本 第一 小 学校 沿革 史』には , 「 朝鮮 守備 隊帰還,船 川港上 陸, 本 日 当地通過, 児童職 員大倉 にて歓迎。」の記録 が あ る。 また
,『 船 越小 学校 沿革 史』には, 同 じ日の 記銘 に , 「 午前八時 ヨ リ講堂 ニ テ訓話 ヲナ シ,同 九時半 ヨ リ, 町 ノ西端 二於 イテ帰営 軍隊 ヲ歓迎 ス。学校 尋常 四 甲 ノ教 室 ヲ将軍休 憩所 トシ, 此 ノ所 二於 イテ茶 菓 ・洋酒等 ノ饗 応 ヲナ ス。午前 十時 出立 ニ‑, 八郎橋 上 二於 イテ職 員児童一 同 見送 ヲナ シ, 帰校 セル‑十一 時ナ リ」 と記載 さ れ, 同年 四 月二十七 日,再 び朝鮮守備 隊が帰還
=‑・ 歩兵 第一連帯六七六名 ‑‑ して船 川港‑上 陸 した 目には , 「 本 日‑ 二時間授業 ノ後,帰還 軍 隊 ヲ町 ノ西端 二於 イテ歓迎 ス」 と記録 されてい て,船 川港上 陸の帰還部 隊 を歓迎 し,歓送 して い る状況が わか る。
ここか らの推論 で あ るが近藤 国‑ の学 んだ船 川 小学校 で もお な じよ うな歓迎行事 が行 なわれ たで あろ う。近藤 国‑ が軍事 礼賛 の時代状 況 を どの よ うに とらえて いたか は さだか ではないO後 にペ ス タロ ッテに学 び平和 を尊 んだ近藤 国‑ が, 昭和二 十年 の終戦 までの軍 国主義 と戦後 の世相 に対 して どの よ うな考 え を もって歩んだか,一 つ の研 究課
‑ 26
題 であ る
Oまた,交易面 では大正 八年 四月に小樽 間の定期 航路 が開始 され るな ど国内外 か らの出入貨物 が増 加 し,船 川港 は港湾機能 を着実 に形成 しなが ら, 地域 開発振興 の基盤 にな ってい った。
近藤 国‑が誕生 した頃の船 川港 町 は,港町 とし て整備 されつつ あった興 隆 の時期 であ り,海上輸 送 に よって外 国に, 陸上輸送 に よって県内外 に開 か れつつ あ った時期 であった。近藤 国‑ が,秋 田 中学校 に通学 しえたの も船 川線 の開通 と整備 に よ る ものであ り, この船 川線 を通 って東京遊学 の途 にのぼ ったのであ る。
この よ うな時代 を背景 に して,近藤 国‑ が船 川 尋常小学校 に入学 したのは大正七年
(1918)四月であ る。 この頃船 川尋常小学校 で どの よ うな小学 校教育 が行 なわれ たか を知 る資料 として次 の記事 が あ る。
『 脇本 第‑小 学校 沿革 史』の 「 大正六年 度施 設一 覧」 に よれば,大正期 におけ る小学校 経営 の全 容 を知 るこ とが で きる。
全体 の構成 は, イ教授, ロ訓練,‑養護, ニ職 員,ホ家庭 との連絡 とな っていて,イ教授 では,
「児童 ノ個性 ヲ顧 ミ,攻究的 自力 ヲ開拓 シ,自学 的興 味 ヲ湧発 セ シ メ,郷 土資料 ヲ参 酌 シ,教授 ノ徹 底 ヲ期 ス
。」とし,一般 的方面実践事項 とし て発 音矯正,教案 等八項 目,特殊 的方面事 項 と して出席奨励, 児童政活等 一 〇項 目をあげてい る。 また, ニ職 人の項 では, その一つ に 「 授業 研究会」を挙 げ , 「 指定教科 或‑適宜 アル教科 ニ ッキ,学年順 二毎 月第二木曜交番 二行 ヒ,授業 ノ研 究 ヲナ スモ ノ トス
。」と印 されていて,授 業 研 究が 日常化 されてい る。
明治末期 の比詰校 ,大正 後半 の船 川校 に も類似 の記録 が見 られ るこ とか ら,大正期 の教育 は, 就学率 お よび出席率 の向上 とともに,小学校教 育態勢 の充実 ぶ りを量 り知 るこ とが で きる
。「 教 授上 の方針」 として,教 材 の選択,発表 力の養 成, 反復 練習,教案 立案,校 外教授,授業法研 究,校 長 の 出題 に よる一斉 考査 等 は,実 に きめ 細か く教 師の役割 を明確 に示 して い る。( 注3 )
この記事 は簡潔 で あ るがか な り適切 に一地域 の
教育状況 を描 出 していて, これ を理解 していただ
くため には大正 前期 の秋 田県の教 育状 況や, さ ら
にその背景 にな ってい る 日本 の教育状況 につ いて
の説明が必要 であ る。 しか し, ここではそれ には
近藤国‑の生涯 と思想( ‑ ‑ )
言及せ ず,近 藤 国‑ との関連 で二つ の こ とに簡略 に触 れてお きたい。
一 つ は , 「児童 ノ個 性 ヲ顧 ミ,攻 究的 自力 を開拓 シ, 自学的興 味 ヲ湧発」せ しめ る, いわゆ る自学 力, 自己学 習力の育成 とい うこ とであ る。
内外 の事 情 か ら急激 な近代化 を迫 られ た明治時 代 には,学制 が一応整 ったけれ ども,教 師が 児童 の実態 に十分 配慮す るこ とな く知 識 を外 か ら注 入 す る指 導法 が主 にな りが ちであ った。 それ に対す る批判 は, 明治初年 に開発教授 の導入 に努 め た井 沢修 二, 明治三十年代 に統合 主義 を唱 えた樋 口勘 次郎, 明治末年 に 自学輔 導 の教授法 を唱 えた岡千 賀衛 な どに よって な されて いた。大正 時代 に な る と,学 習活動 を児童 の 自己 目的化 させ よ うとす る 教育思潮 が いわゆ る八大教 育主張 な どに よって主 流 とな って いった。秋 田県 で も,大正 八年 に青年 教育者 同志会が結成 され て 自由教 育 が唱 え られ, 県 内の教 師 に 多 くの共 鳴者 が 出た。 この一連 の動 き と して昭和 十年 に は 白楊 会 秋 田支 部 が 結 成 さ れ,全 国に六百九名 (うち秋 E I ]県の会 員二百二十 三 人) の会員 を擁 した。 この会 の唱 え る自由教育 とは 「 知 識 に対す る 自学, 技芸 に対す る自習,追 徳 ・訓練 に対す る自律 自治, 身体養護 に対 す る自 数 日青 と,学校教育 の全部 をひ っ くるめ てあ くま で も自己が 自己 を教 育す るの立場 に児童 を立 たせ る ところの 自己教 育域 は 自教 育」 を指 してお り, 白楊 会 はその後 も篠 原助 市,小 原 国芳 な どを講 師 に招 いて活発 な活動 を続 け たの であ る。( 注
4)『 脇本 第‑小 学校 沿革 史』に例 示 され た 自学 九 日己学習力の育成 とい う学 習指 導法 は,学 習者 と しての近藤 国‑ の 目か らは どの よ うに とらえ られ ていたのだ ろ うか。近藤 国一 に「 私 の受 けた教育
」と題 す る学 習個体 史 が あ り, その ( 小 学校 時代〉
五年生 の記轟 に次 の一節 が あ る。 ( 注
5)私 た ちが本 当に意 識的 に勉 強 し生活す るよ うに な ったの は五年生 か らであ る。担任 は鈴 木先生 であ った。担任 の鈴 木先生 には思 い出が た くさ んあ る。第一 は指 導が新鮮 であ った こ とであ る。
先生 は文部省 唱歌 のほか にその ころ歌 われ た童 謡 を教 えて くれ た。 「 か な りや 」 「 背 くらべ 」 は わた くした ちの愛 唱歌 となった。 またそれ まで 鉛筆 やすみ で描 いて いた絵 を クレ ヨンで描 かせ て くれ た。私 たちの生 活 は急 に明 る く華や か に なった。
第二 の思 い出は子供 の生活や作 品 を心 をこめて
はめ て くれ た こ とであ る。 あ る時 「 水泳」 とい う題 で泳 げ る よ うに な っ た体 験 を作 文 に書 い た。先生 は私 の手 を握 って 「お前 はで きない こ とが で きるよ うになったのだ。 お前 は生 まれ変 わ ったのだ ぞ」 とほめ て くれ た。
第三 の思 い出 は予 習 を勧 め て くれ た こ とで あ る。「明 日,勉 強す る ところを前 の 日に必ず調べ てお くこ とが大切 です。 そ うでない と明 日の勉 強は楽 し くないの です」 とい うのか先生 の 口癖 であった。予 習す る といって も教科書以外 に参 考書 も何 もない。 そ こで教科 書 を読 み,初 め て 知 った ところに棒 線 を引 く程 度 であった。先生 は時々,特定 の子供 に 「明 日はお前 に当て るか ら必ず勉 強 して こい よ」 と言 われ た。奥羽地方 の地勢 の学習 の時,私 は先生 に「お前 に当て る」
といわれ た。
そ こで家 に帰 る と大 きな画用紙 を求め,奥羽地 方 の輪郭 を書 き, 出羽 山地 と奥羽 山脈 を入れ た り発 表 の練 習 を した。次 の 日の発 表 で私 が もっ ともよ く学 習 した とい うので先生や友達 に称 賛 され た。鈴 木先生 の指導 に よって私 は予習や 自 己学習の習慣 を身につ け た。
第一 の思 い出にあ る音楽や 図工 の 「 新鮮 な」学 習指 導法 には,秋 田の 自由教育 の影響 がみ られ よ うか。 ちなみに大正 八年 に青年教 育者 同志会 が秋 田市 で開 いた講習会 では, 開催 中に市 内の小 学校 児童 自由画展覧会 が開かれ た り児童劇 試演が児童 に よ り行 われて い る
。第二の思 い出には, 児童 の生活実 態か ら出発 し てその発達状 況 を支援 し自己効 力感 を実感 させ て 児童 の 自己実現 を促進 しよ うとす る, 児童 の側 に 立 った教育 が な され ていた こ とを示 してい る。
第三 の思 い出には,方法論 的には未熟 であ るが
「 児童 ノ個性 ヲ顧 ミ,攻究的 自力 ヲ開拓 シ,自学 的 興 味 ヲ湧発 セ シメ,郷 土 資料 ヲ参 酌 シ,教授 ノ徹 底 ヲ期 ス。」とした 自己学 習力育成 を 目指 した学習 指導法が実施 され ていた こ とが示 され てい る。近 藤 国‑ は 自己学 習の思 い出 として,六年生 の とき, 消 防小屋兼町 内集会所 で高等科 の生徒 が だれ とな
く始め た夜学 に参加 し,学校 の授業 の予 習 を した こ とも記 してい る。
自伝 め いた この学 習個体 史には, い うまで もな く執筆時点 での近藤 国‑ の主観 的 な素材選択が あ り潤色が あって, 自分 の生涯 を自己学習,生涯学 習の連続 として意味付 け よ うとす る意 図が見 られ
‑ 27‑
秋糾大学教育学部教育研究所 研究所報第 3 4 号 平成 9 年 3 月
る。 そ こに一種 の虚構 的想像 力が働 いてい る。 し か し,近藤 国‑ が鈴 木先生 を小 学校 時代 の最 も印 象深 い教 師 として追憶 し,秋 田中学校 進学 の決 意 を促 した恩 人 として敬慕 してい るこ とは,近藤 国
‑ の教育実践 の始源 を 自己確 認 してい る点 で看過 で きない。教 師の学 習指導,教 師の言葉,教 師の 存在 その ものが一 人の人間の生涯 を決定す る重大 な契機 にな るこ とが, ここに も示 されてい よ う。
『 脇本 第‑小学校 沿革 史』 の記事 につ いて, 二 つ 目に 「 発音矯正」 に触 れ たい。
明治政府 は,学校制 度 を急 いで整備 し, 言語 的 な統一 を図 るこ とに よって国民意識 を醸成 しよ う とした。 この ため学校 教育 では国語す なわち標準 語 を使 うこ とが奨励 され, 方言 は矯正 の対象 とな って撲滅 され よ うとしたO 詑音傾 向の著 しい秋 田 県 では殊 に重要 な教育課題 だ ったわけ で, 明治三 十 四年 には知事 武 田千代三郎 の依頼 を受 けて伊 沢 修 二が詑音矯正 の講 習 を実施 してい る。 こ うした 時代 背景 を反映 して男鹿地方 では明治末年 に次 の よ うな発音矯正や標 準語 の指導が行 なわれ た こ と が 『 男鹿市史』上巻 に書 かれて い る。
椿校 の 『 令 発達 綴 明治号』 には, 明治 四十 四年 十一 月三十 日付 け, 南秋 田郡 訓令 甲第九号 とし て, 郡 長三神正健 よ り郡 内小学校 に達せ られ た,
『 発音講習会規程 』が綴 られ てお り, 講習会 の 目 的 は発音矯 正 の普及 とし, 南秋 田郡 を五 区に分 けて,五六学校 の小学校 長 を会 員 として開催 し てい る。 また, 議師 は, 同年 十 月の発音講習会 に出席 した ものがつ とめ てお り,各校 長 は, 請 習会終 了後,校 内発 音矯 正会 を集 中的 に開 いて, 各学校職員 に教 授 し,矯 正 の実 を挙 げ るよ う努 め よ と指 導 してい る。 ( 中略)
また,明治末期 以降か ら大正 にかけては , 「 郷 土 方言」 , 「 詑音調
杢」 , 「言語教 育 の方法」 , 「 言語 教育講 習」 , 「 発音矯正」等 の表現 で, 学校 経営 上 の重点事 項 として取 り上 げ られて い る。 ( 注6 )
ここに見 られ る , 「言語教育 」な る ものが,対話 や コ ミュニケー シ ョンの力 もし くは論理 的 な思考 力 を養 お うとす る今 日の話 し言葉 の指導 ・音声 言 語教育 とは違 い,形式的 な話型 の習得や発 音矯正 を主 な 目的 にす る もの で あ っ た こ とが うか が え る。近藤 国‑ の学習個体 史 には ここでい う 「 言語 教 育」 を受 け た こ とは書かれて いない。 しか し, 詑音傾 向の著 しい秋 田県 とい う一つ の地域 で 「 言 語教 育」 をいか に して話 し言葉 の指 導 に引 き上 げ
てい くのか,方 言 を矯正 の対 象 ではな く人間に と っての もう一つ の母語 として復権 させ てい くか と い う課題 に,彼 は後 に教 師 として取 り組 む こ とに な る点 で , 「 発 音矯正」の記述 は見過 ごす わけには いか ないのであ る。
( I) 旧制秋 田中学校 時代 ペ スタロッテ との 出会
しヽ
近藤 国‑ は大正 十三年 四月に秋 田中学校 に入学 した。近藤が 中学校 に入学 した大正 十年前後 の世 相 をみ る と, 第一次世 界大戦後 の好景気 につ ぐ世 界的 なインフ レに よって国内で も労働 争議や小作 争議 が続発 して政治経済面 の混乱が起 こ り, また 大正 十二年 に起 こった関東大震 災 は国家経 済 に壊 滅 的 な打撃 を与 えた。 こ うした内外 の変動 は国家 体制 の根幹 を揺 るが し, この ため 同年十一 月には
「国民精神作興 二関 スル詔書」が 出 されてい るo こ うした世相 を反映 して大正 八年改正 の 「中学校 令 中改正」 では, 第一条 に 「中学校 ‑ 男子須要 ノ高 等普通教育 ヲ為 ス ヲ以 テ 目的 トン特 二国民道徳 ノ 養 成 二カム‑ キモ ノ トス」 と,従 来 の文 言 に 「 特 ニ」以下 を加 えて国体護 持 の ための教 育 を推 し進 め てい る。
近藤 に とって, 入学 したての頃の中学校 生活 は 注入主義 的 な指導 に よる授業や試験 の 多 きな どの ため必ず しもな じみや す い ものではなか ったが, 三年生 以降に変化 が起 こ り,生涯 を決定 した二つ の出来事 を経験 してい る。
第一 は, 自分 の資質 を 自覚 した こ と, 自己同一 性 ( ア イデ ンテ ィテ ィ)をつかんだ こ とであ る。
(注7)第二の変化 は国語 が好 きで 自信 が 出て きた こ と であ る。軟石, 鴎外,吉 田絃二郎,啄木等々 を 読 み耽 った。 四年 の夏,芥 川が 自殺 した。 それ を新 聞 で知 った 日は, 夜蚊帳 の 中で思 わず泣 い て しまった。五年 の時 に吉 田の影響 を受 け芭蕉 の古池の句が生 まれ る経過 を書 いた。そ して『 苦 心玲】 龍』 と題 して校 友会雑 誌 に投稿 した。 また 上 級生 が主宰 していた雑誌 『 草笛』 の同人 とな って創作 を書 いた。 東京か ら出ていた 『 少年世 界』 に投稿 して入選 した こ ともあ る。 こ うして ア イデ ンテ ィテ ィが だんだん育 ってい ったの で あ る。三年 の秋 には円本 の 『 明治大正文学全 集』
が 出版 され, 四年 の時 には岩波文庫 が創刊 され
たが, それ らを求 め て愛読 した。英語,数学 は
駄 目であ ったが 国語 は私 の慰め であ り安 住所 で
28‑近藤国‑の生涯 と思想
(」あった。
人間は己の宿命 に したが ってただ一つの生 を生 きるしかない。 その宿命が 己の内か ら兆す抑 えが たい志 向に よって決定 され, その志向が 己の資質 に合致 してい るとき, 人間は主体 的な生 を生 きた といえる。近藤 国‑ は文学 を愛好 した多感 な少年 時代 に,彼 は国語教 師 としてい きる己の宿命 を形 成 していた といえる
。第二 は,ペ スタロッテ との出会 いに よる進路の 決定 であ る。
五年生 にな ると次の進路 を決めなければな らな い。 その ころ私 の家 に佐藤信先生 の兄にあたる 操 さんが下宿 していて, 卒業間近 の冬休 みに「こ の本 を読んでみなさい」 といって一冊の本 を貸 して くれ た。小原国芳の 『 母 のための教育学』
であった。私 はそれ を感動 して読 んだ。 そ して その本 に何度 も出て くるペ スタロッテの伝記 を 読みたい と思 った。操 さんに訪ね る と 「 県立図 書館 に行 って 『 ペ スタロ ッテ全集』の第一巻 を 借 りて読 んだ らよい。玖村敏雄 ( 広 島高等師範 学校教授)の書 いた 『 ペ ス タロ ッテの生涯』が 載 っている」 と教 えて くれた。 むずか しい本 で あったが大意 は とれた。私 はペ スタロッテの生 き方 に感動 し小学校教 師になろ うと決心 した。
小学校教 師になるためには師範学校 に人 らねば な らない。同級生の多 くは高等学校や専 門学校 を志望 していた。師範学校 は専 門学校 になって いないため何 とな く軽蔑 されていたがペ スタロ ッテにあこがれていた私 はいささかの迷 い もな
く師範学校 を志望 した。
小原国芳の 『 母 のための教育学』 は大正十 四年 七 月に第一版が出 されてか ら十数 回の改正版が出 されたロングセ ラーの本 である。小原国苦は周知 の ように, 児童 の 自発性 をひ さだす こ とを一つの 眼 目として真善 美聖健 富 を統合 した 「 全 人教育」
を唱えて玉川学 園 を創始 した教育学者 である。『 母 のための教育学』 は彼 の教育理 念 を平易 に母親 た ちに説いた教育学の入 門書 であ るが,古今東西の 聖哲の言葉 を博 引傍証 して教育の原点 を示 してお り,現代 の教育 に対す る警告 の書 ともなってい る。
本 書 ではペ ス タロ ッテ は博 引傍証 の一部 にす ぎ ず,近藤がペ スタロッテに関心 をもった とすれば, 彼の慧眼であった といえる。また,玖村敏雄 の「 ペ スタロッチの生涯」 は,昭和二年 に イデア書院刊 の邦訳 『 ペ スタロッテ全集』 の第一巻 に載せ られ
た もので,後に昭和三十五年玉 川大学 出版部か ら 単行本 として刊行 され, 改訂 を重ねて昭和五十五 年 には十八版 となってい る。 この本 は,波乱 に 満 ちた苦難の生涯 のなかで キ リス ト教 による慈愛 を 失 うこ とな く教育技術 の開発 に身 を捧げた教育 の 革命者ペ スタロッテの伝 記 であ り, 高次の人間形 成 を目指 してや まなか ったペ ス タロッテの志が と
らえ られている。
近藤 国‑が この二著 に よってペ ス タロッテに触 れ,教育 に対す る純粋 を内的動機か ら 「 初等」教 育 に身 を捧 げ ようと自己決定 したこ とは,教員 を 志望 す る後進 に一つの示 唆 を与 える もの として評 価 で きよ う。後 に東京に遊学 して旧制 中学校以上 の教員 になれ る力 と資格 を得 なが ら,退職 まで義 務教育 に迷 わず徹 してい った姿勢 にペ ス タロッチ か ら受けた影響 の強 さをみ るこ とがで きよう
。( ヨ 秋 田県師範学校 時代 教育実践の基盤形成 近藤国‑が秋 田県師範学校本科 第二部 に入 った 昭和 四年 は, 同校 の転換期 に当た っていた。 その 一つの理 由は,一年 間の修業年 限だった二部が昭 和六年一 月の 「 師範学校規程 」改正 に よ り二年 に 改め られたこ とであ る。 これは,本来第二部 は第 一部 の補充的施設 として定めた ものであったが, 近年第二部 の入学志願者が激増 し, また卒業者数 において も第一部 を越 え る状況 にな り, もはや補 充的地位 に止めてお くこ とがで きに くくなったた め であ る。秋 田県師範学校本科 第二部 の志願状況 も 『 秋 田大学百年 史』に よる と大正十四年 は志願 者一一六名合格者七二名競争率一 ・六一倍 だった のに対 し,大正十五年志願者一八二名合格者六五 名競争率二 ・八〇倍,昭和二年志願者一八 四名合 格者七二名競争率二 ・五六倍,昭和三年志願者二 一三名合格者七五名競争率二 ・八四倍,近藤の受 験 した昭和 四年 は志願者二七二名合格者六一名競 争率 四 .四六倍,改正前年の昭和五年には志願者 二八二名合格者六〇名競争率 四 ・七〇倍 と急増 し てお り, この改正 を契機 に師範教育 は二部主流の 内容 に変 わってい くのである。
二つ 目の理 由は,昭和 二年 に秋 田県師範学校が 焼失 し, 四年六 月十二 日に新築 の保 戸野校舎 に移 転 したこ とである。保戸野校舎 の落成祝賀会 は翌 五年 四月三十 日に行 なわれ,五 月か らここでの本 格 的な授業が再 開 された。 したが って,近藤 国‑
が学 んだ師範学校 時代 は教室 も十分 に確保 で きな
ー 29‑秋 田大学教育学部教育研究所 研究所報第 34 号 平成 9 年 3 月
計 四 体 操 栄
二日占二 工 担 手図 i 農 業 ノ 又 商 莱 ヽ 汰
刺経 皮 演 哩 物 及 化 学 博 初 数 学 哩 姫 負 及 地 文 国
三五ロ及 漢
ー1敬 i 八 H 修 身 授毎 数教 時 週 学 料 目 料 本 第
木 写 本 法 物 悼 質 日本 H 教 心 追 堤 課 王 生 料 輿 秤 ㍗ 阜 杢 邦
三五口「コ 育讐 徳
小珂 箪 経 及 化 悼 質 国 勢 代 現 痩 芙 習 論 要 ノ 臣 i 】 部 校 技 一画 理 敬 揺 敬 授 哩、 作 敬 敬 節 ノ
於 ケ
単、 五
IS敬 正 法 く ̲
⊆汰 ̀ 、 地 史 理数 文 ̲ の l と 弓 く
ル 板
千午 撃 教授 文
翠心
い苦 難の時代 であ った。
さて,近藤が学 んだ頃の本科 第二部 の 「 学科 課 程表」 は次の表 の よ うであった。( 注
8)近藤 国‑ は,三井宇一郎か ら国語学 の講義 お よ び 『 国文学講座 』 ( 文献 書院)の手 ほ どきを受 け た。
三井 か ら提示 され た夏休 みの課題 で 『 太平記』 の 表現研 究 を行 い, その際参考 に した五 十嵐力の諸 著作か ら 「 生 きてい る古典 」 を学 び とってい る。
また鈴 木勝三郎 か らは次 田潤 の 『 万葉集新 講』 を 借 り指導 を受 けた。 いずれの場合 も近藤 L xJ ‑ の 自 主的 な学習 を教 官が支援 す る形 態にな っていて, こ うした師範 の雰 囲気 が近藤 に 「 水 を得 た魚の よ うに快適 を 」思 い をさせ た。
近藤 は また, 師範時代 の思 い出 として和 田喜 八 郎 の薫 陶 をあげて い る。和 田喜 八郎 は大正十三年 七 月か ら昭和七年三 月 まで校 長 として在籍 し,す ぐれ た経営手腕 を発揮 して秋 田県師範学校 の困難 な時代 を乗 り切 った人物 であ り,深 い学殖 で教職 員や生徒 に も敬 愛 されていた。
修 身は教頭先生が担任 され たが, ときどき校長 の和 田喜八郎先生 の訓話 が あ った。訓話 とい う よ りも体 験談 で,先生 が感動 され た事 実,す ぐ れ た教 師の実践,先生 自身の研 究調査体 験, に つ いて話 され た ( 中略)0
和 田先生 は また 自分 が読 まれていた本 を希望 す る生徒 に貸与 して読書 を奨励 され た。私 もお借
‑ 30‑
近藤国‑の生涯 と思想
(」りした。昭和三十九年 の夏,私 は沖縄 の先生 た ちに招 かれて講演 に行 った。 その節,先生 た ち は沖縄 県師範学校 長 をされ た和 田先生 が いか に 名 校 長 で あ っ たか を 口 を きわめ て賞 賛 して い
た。( 注
9)国立大学 の教 育学部 では稀 な例 を除 いては学部 長 自身が学年全体 に講義 し, その講義 を通 して学 生 の生涯 に刻 み残 され るよ うな感動 を与 え るこ と は な くな った し, それ は現行 の制度 では不可能 を こ とで もあ る。 引用 した文章 は, 学生 の数 も少 な い良 き時代 の懐 か しい師範学校 の風景 で もあ る。
教 育実 習 は教育学部学生 に とっては,初 め て臨 床的 な実践 の場 に立 た され るだけ に,学部 での講 義 以上 に鮮 烈 な印象 を受 け るこ とは師範時代 も変 わ らない。近藤 国‑ は三学期 に師範学 校第一 附属 明徳小学校 高等科 二年 に配属 され,後 に児童文学 者 ・国語教 育学者 として大 きな足跡 を残す こ とに なる滑川道夫 に指導 を受 けて, そのず ぐれ た授業 に驚嘆 してい る。二 人はや が て親交 を深め,秋 田 県 と中央 との交流 を促進 し秋 田県国語教 育 界の発 展 に尽 くす こ とに な る
。ちなみ に滑川道夫 は, 当時 の明徳小 学校 の雰 囲 気 に触 れて次 の よ うに述べ て い る
。私 が専 攻科 を卒 業 したのは昭和 四年三 月で,招 かれて第一 附属 明徳小学校 に赴任 した。森 岡亀 蔵 とい う主事 が 「 二 行の教 育」 を提 唱 して特色 を 発揮 しよ うとしていた。 四年女子組 の担任 で, 国語研 究部 に配属 され た。 国語研 究部 には主席 訓導 の柿崎勘右衛 門や,藤井吉次郎,小松寛 な どとい う先輩 の研究科 が いて県下 の国語教育 界 に指導 的地位 を もっていた。小松 寛 さんが読 み 方研 究部主任 で,新参 の私 が綴 り方研 究部主任 とい うこ とにな った。主事 の方針 もあ って教 育 研 究活動 が活発 で,研 究会,研究授業 が たびた び行 なわれ た。 それに教生指導が あって, にわ か に 多忙 になった, 向 こ うみずの年齢 であ った せ いか,猛 烈 な勢 いで国語教育書 をむ さぼ るよ うに読 み漁 った時期 であ る。専攻科 時代 に も読 ん でいた形象理論 を中心りこ新刊書 を読 んだ。垣 内先生 の形象理論 が よ うや く国語教育会 に普及 し,実践指 導 と結合 しつつ あ る時期 で もあって, 私 の興 味 を引 きつ け た。 ( 滑川道夫 『 北方教 育』
実 践 と証 言‑』東京法令 昭和54 年所収
21ペ ー ジ)
‑ 31
後 に戦後秋 田県 国語教 育 史 と近藤 国‑ との関係 につ いて述べ る節 で も触 れ るよ うに,滑川道夫 は もとよ り柿崎勘石衛 門,小松寛 は秋 田県国語研 究 会会長 等の役割 を果 たす 人物 であ り,教 生時代 に 一つ の関係 が結 ばれ た といえ る
。また, 注 目されて い るのは,垣 内松三 の形象理 論 が秋 田県の実践界 に受容 され てい った実 態が述 べ られ てい るこ とで あ る。昭和六年 に滑川道夫 に よって刊行 され た処 女作 『 文学形象 の綴方教育
』が綴方教 育へ の形象理論 の適用 であ り,後 にふれ る近藤 国‑ の 『 実践 的読 万教育 の体 系』 は読 方教 育‑ の形象理論 の通 用 であ るo
( p g ) 東京遊学時代 ペ ス タロ ツチ研 究 の深化 と実 践化 の志 向
東京遊学時代 は, 近藤 国一 に とって生涯 の 中で 最 も充実 した意義深 い期 間であ った。その理 由 を, ペ スタロ ッテの 『 隠者 の夕暮』 の章節 を引用 しな が ら述べ るこ とに したい。 『 隠者 の夕暮』はい うま で もな くペ ス タ ロ ッテ の処 女 作 と もい え る著 書 で,彼 の教 育 に対 す る理 念が隠境的 な表現 に濃縮 され て表現 され てい る。 したが って, そのアフォ リズムの含意 は 多様 に汲 み取れ もす るわけ で,以 下 に述べ るこ とは悪 意的 な解釈 に陥 る恐れが あ る けれ ども, それに よってわた くしな りに東京遊学 の意味づ け を した ものであ る。( #1 0 )
○
人間は彼の要 求 に駆 り立 て られて, この真 理へ の道 を本性 の奥底 にみつ け る。 ( 六)
○ 人間 をその境遇 にお いて幸福 にす る知 識の 範 囲は狭 い。 しか もこの範 囲は近 く彼 の周囲 か ら,彼 の身の近 くか ら,彼 の最 も近 い関係 か ら始 まって, ここか ら広 が ってゆ く。 しか もどの よ うに広 が る場合 で も, それ は真理 の あ らゆ る浄福 の 力の この 中心点 に準拠 しなけ れば な らない。 ( 十一)
近藤 国‑ は師範学校 を卒 業す る と母校 の船 川小 学校 に勤務 し, 四年 の間 に尋常科五,六年, 高等 科 一, 二年 と持 ち上 が りの学級 を担任 した。近藤 はい よい よ高等科 二年生 を卒 業 させ る とい う年度 になって力不 足に気づ き, 師範学校 の専攻科 に再 入学 してペ スタロ ッテの教 育学 と, 国文 学 の勉 強 を深め よ うと決意 したD
いか な る職業 人 で あれ,職 業上 の切実 な実践的
課題 が 内発的動機 とな って その解決 のため に真剣
な 自己研修 を再 開す る。ペ スタロ ッテの 言 うよ う
秋 田大学教育学部教育研究所 研究所報第 34 号 平成 9年 3月
に,生活上 の身近 な必要 感 か ら知 識 を広め深め て ゆ くこ とが 多 くの人間の た どる生涯 だ といえ る。
しか し, その動機 が いか に強 い ものなのか, また いか にその動機 を具体化 し実現す るのか, さらに はその動機 を 「中心点」 に して生涯 にわたって探 求 し続 け うるか どうか とい うこ とが その人間の生 涯 の有 り様 を決定す る。近藤 が東京遊学 を終 えた とき, あ る先輩か ら 「 君 は文理大, 日大,法政大 と学 んだがみん な中途半端 ではないか」 と忠告 を 受 け たが,彼 は 「それ は違 い ます。私 の理 想 は小 学校教 師 です。ペ スタロ ッテの よ うに人間や教育 の本質 が わか る教 師 にな りたい と思 い ました。 そ のため に この よ うに遍歴 したの です。」と考 えてい る。 まさにペ スタロ ッテ の実践や理 念 を体現 すべ く人間教育 の本質 を探 り求 めて生涯 「 遍歴」す る こ とが,近藤 の 「中心 点」 をなす一貫 した動機 と な ったo我々 は,生涯 自己研韓 を積 むべ き教職 に あ る人間 として, その出発 に当た り, いか に生涯 を貫 く教 育 的課題 を設定 し, それ を 「 準拠」 とし て 自己 を律 してい くか を問 うときに,近藤 の東京 遊学 に一つ の モデル を兄いだす。 この こ とは, と りわけ若 い教 師諸 君 には人生設計 をす る ときの参 考 になろ う。ペ ス タロ ッチが第六節 で言 ってい る こ とは, 人間 な らだれで も真理 を求 め よ うとす る 内面 の力 を もってい る し, それ を人生 の叡知 に ま で向上 させ うる とい う 「 一般 的陶冶 の理 念」 につ いて述べ た ものであ るが, それ を教育者 としての 生 き方 に限定 した とき,教育 の本質追求 をいか に 内的要求 として 「 本性 の奥底 にみつ け」続けてい くかが,教 師の 自己形成 の理念 にな りうる といえ よ う。
○ 人間 よ,汝 自身 , 汝の本質 と汝 の諸力 との 内的感情 こそ陶冶す る自然の第‑ の主題 だo ( 五 四)
○ しか し汝 は地上 にお いて 自分一 人のために 生 きてい るのではな い。 だか ら自然 は汝 を外 部 との関係 の ため に, また外部 との関係 に よ
って陶冶す る。 ( 五五 )
〇 人問 よ /これ らの関係 は汝 に近 ければ近 い だけ,汝 の使 命 を達 す るよ うに汝 の本質 を陶 冶す るのに大切 だ。 ( 五六)
○
近 き関係 に よって育成 され た力 は, いつ も 遠 い諸関係 に対 す る人間の知 恵 と力 との源泉 だ。 ( 五七)
近藤 の東京遊学 は,彼 の力量 を正 当に評価 した
り彼 の学 習動機 に理解 を示 して くれ た多 くの人間 の誠実 な善 意 と, 多 くの偶 然 な好機 に よって実現 され継続 され た。
まず東京遊学 を具体化 したのが, 師範学校 長大 野膨毅 であ る。近藤 が専攻科 入学 の決意 を校 長太 田修祐 に打 ち明け た ところ, 太 田は快 諾 して この こ とを大野 に紹介 した。前年 に刊行 され た近藤 国
‑ の 『 実践的読方教育 の新体 系』 を太 田が高 く評 価 したため と推 測 され る。大野 は近藤 を 自宅 に読 んで事 情 を聞 き,即座 に東京文理科大学‑ の一年 間の内地留学,恩 師 乙竹岩造博士‑ の紹介,秋 田 県学務 課 との交渉,職場 等 につ いて世話 をす るこ とを引 き受 け た。大野膨毅 は和 田喜 八郎 につ いで 昭和七年三 月か ら十 四年 八 月 まで在職 し,優 れ た 経営手腕 を発揮 した人物 であ り,現在 の よ うな長 期 の内地留学制度 のなか った時代 に,一 人の卒 業 生 に対 して この よ うな手続 きを惜 しみ な くとって くれ た こ とは,大野 の慧眼 と近藤‑ の期待 の大 き さを物語 る ともいえ よ う。 ちなみに,昭和六年 九 月に明徳小学校 か ら滑川道夫が東京高等 師範学校 へ 第‑号 の教育研 究派遣生 として 「内地留学」 に
してい るが,期 間は三 カ月であった。
上 京す る と,近藤 は和光 学 園に職 を得 て, 午前 中は一年生 の授業 を担 当 し, 午後 は 「 東京文理科 大学秋 田県委託生」 の身分 で乙竹 若造 に師事 しペ ス タロ ッテ を研 究す るこ とにな った。 乙竹 若造 は 当時 の有数 な教育学者 で
,『日本庶 民教育 史
』『 現 代教 育学概 論
』『日本教育 史』等 の著書 が あ り, そ の該博 な学殖 と実証 的 な研 究態度, 重厚 な人柄 に 近藤 は敬服 し,後年 「隠れ た努 力の威圧 が神秘 の 影 さえ帯 びて我々 に敬 慶の情 をお こさず にはいな か った」 と述べ るよ うな印象 を もった。
東 京文 理 科 大 で は 乙竹 の他 に加 藤 仁 平 に師事 し,特 に二宮尊徳研 究 に影響 を受 けた。
近藤 は内地留学 の期 間 を二年 間に延 長 して もら い, 東京文理科 大学 の他 に,一年 目は 日大 の高等 師範部 の夜学,二年 目は法政大学高等師範部 の夜 学 に通 い,勉 学 に努 め た。近藤 が受講 した講義 を あげ る と次 の よ うな ものが あ る
。日本大学 佐 々木英夫 キ リス ト教全 史 東恩納 寛惇 日本 史
木村亀二 刑 法 龍 山義亮 教育学 亘理章三郎 国民道徳
山田孝雄 国語学
32‑近藤国‑の生涯 と思想‖
法政大学 御重活 勇 上代文学 岩垂憲徳 漢文 学
夜学 で習得 した学 問 は和漢洋 にわた り,殊 に御 重 活 勇の講義 を通 して 『 古事 記
』『 万葉集
』『 奥 の 細道
』『 古事 記伝 』 に深 い関心 を もつ よ うにな り,
また岩垂憲徳 の 『 孟子』の授業 では吉 田松蔭 の 『 講 孟余話』 を参考 に しなが ら聞 くな ど, 日本文学 も
し くは 日本文化へ の関心 を深め てい る。本居宣長 や吉 日松 蔭 の何 に近藤 国‑ が ひかれ たのか, それ は彼 の教 育実践 とどの よ うにつ なが るのか につ い ては後 に考察 したい。
近藤 の東京遊学 に とって有意義 であ ったのは, 和光学 園に勤務 し, 東 京高等師範学校 附属小学校 の授業 を参観 す るこ とに よって, す ぐれ た実 践指 導 に触 れ,実践研 究 に参加 しえた ころ であ る。
和光 学 園は,小 原 回芳 を慕 う教 師や 父母 たちが 新 しい成城 学 園 を 目指 して創 立 され たばか りの学 校 で,教 師の八割 までが成城学 園の教 師 で 占め ら れていた。和光学 園小 学校 長が た また ま男鹿市脇 本 出身の吉 田慶助 であ った ところか ら, 同 じ秋 田 県出身の東京大学 図書館 司書 の小 野源蔵 か ら近藤 の こ とを聞 き,新 人 と して近藤 を採用 したの であ る。小 野源蔵 は, 滑川道夫 を初 め秋 E E l 県か ら東京 に遊学 した数 多 くの人間 に手助 け を した人物 とし て忘 れが たい存在 であ る。 また吉 田慶助 は,後 に 秋 田県教 育長 となって行政 に携 わ り近藤 の活動 し やす い環境 をつ くった。近藤 は和光学 園で繰 り広
げ られ る自由でのびのび した学 習活動 に触 れ, ま た顧 問 で あ るペ ス タ ロ ッチ研 究 の大 家 小 西 垂 直 ( 京都 大学総長) の指 導 を も受 け るこ とになったO 後 に帰秋 した近藤 がペ ス タロ ッテ祭 を主催 し,小 西重直 を講 師 として招 くこ とになったの も, こ う
した東京遊学 中の人的交流 に よる成果 であ る。
東京高等 師範学校 附属小 学校 での授業参観 では 作文教育 で著名 な田中豊 太郎か ら教 え を受 け た。
また,橋本為 次 の精密 な授業計画 と反省記録 を書 いた大学 ノー トを見 る機会 が あ って肝 に銘 ず る と ころが あ り,近藤 は以後, 晩年 に聖霊 高等学校 の 講 師 を勤め る ときまで,これ を実行 す るのであ る。
以上, 東京遊学 の動機 ・実態 ・帰秋後 におけ る 成果 の還 元等 につ いて簡略 に述べ たが,これ を『 隠 者 の夕暮』 の五 四〜五 七節 との関連 で意味づ け を す る と次 の よ うになろ う。
先 に近藤 の 自己陶冶 につ いて,ペ スタロ ッテの 実践や理 念 を体 現すべ く人間教育 の本質 を探 り求
め て生涯 「 遍歴」す るこ とであ る と述べ た。 しか し, これは近藤 「 一 人の (自己 目的の) ため」 に 設定 さるべ き目標 では な く,秋 田の教育環境 とい う 「自然」 は,秋 凹の教 育環境 その ものの発展 の
「ため に」, 大野膨毅 ・吉 田慶助 ・小 野源蔵 といっ た秋 田県関係 の人物 との出会 い を もた らし, また 彼 ら との 「 関係」 を通 して乙竹岩造 ・小西垂直等 との人物 と出会 い を もた ら し, これ ら 「 外部 との 関係 にお いて」 自己陶冶す るこ とが で きた。 しか も, これ らの人物 お よび近藤が書物 の中で出会 っ た優 れ た人間像 が,近藤 の求 め る学 問や精神 に「 近 か った」が ゆえに近藤 の 「 使 命 を達 す るよ うに」
彼 の 「 本質 を陶冶す るのに」 有効 であった。
二年 間の東京遊学 は,彼 に秋 田に帰 りが たい未 練 を残 したに違 いない。 この こ とは,遠藤 熊吉著
『 言語教育 の理論 及び実際』の解 説文 「 遠藤 熊吉 と 標準語教育」 で描 いた遠藤熊書 の姿 に 自己投影 さ れて い る
。明治二十八年,家 をつ ぐため不本意 なが ら帰郷 しなければ な らなか った。青春 多感 な時代 であ る。劇 的 な別離 を して東京 を去 った。佐 々木信 綱 は次 の よ うな色紙 を先生 に贈 った
遠藤 ぬ しの ききょうせ らるるに 故 さ とに よ しかへ る ともふみ わけ し
み くにのみ ち をわすれ ざらなむ この色紙 は私 も見せ て もらったが, 八十 に近 い 年齢 なが ら先生 は感 にたえない, とい うふ うで あった
D(169頁)
「 劇 的 な別離」とい う表現 といい , 「 先生 は感 に たえない, とい うふ うであ った。」とい う思 い入れ とい い解 説文 か ら逸脱 した感 情 の流 露 が み られ る。
けれ ど も,遠藤 熊吉 が佐々木信綱 に励 まされて
「( み) くにのみ ち をわすれ」 るこ とな く,地域 の 言語生 活の向上 に貢献 して 「 遠 い諸 関係 に対す る 人間の知 恵 と力 との源泉」 となった よ うに,近藤 国‑ ち,郷 土 にペ ス タロ ッテの理 念に基づ く教育 実践 を普及 し,国語教育 を向上 させ るため に , 「 知 恵 と力 との源泉」 とな るのであ る。
教 える とい う仕事 は,教育 の本質 を探 し求 め専
門的知 識 を求め てその根源‑尋 ね往 くこ とと, そ
れ に よって得 た もの を学 習者 ( 彼 の指導 を受 け る
身近 な人間 も含め て) に還 元 してい くこ ととのス
パ イラル な行程,す なわ ち,往相 と還相 とを限 り
な く繰 り返 し深め てゆ くこ とだ とす れば,近藤 の
33‑秋 田大学教育学部教育研究所 研究所報第
34号 平成
9年
3月
東京遊学 と帰郷 とは,振 幅 の大 きい往還 だ った と い え る。
さて,近藤 図一 は,遺稿 となった未発表原稿 の 中で次 の よ うに述べ てい る。
私 た ちの行動, わけて も学習,研 究行動 は次の よ うに現 れ る。
欲求 ・欲望 ‑ 必要 ・疑 問 ・体 験 ・思考 ・習慣 ・ 学習 その他。
これ らは問題解決 とい うよ りも人間の あ り方, 生 き方 であ る。 そ して これ らの内容 を決定す る ものは 「人間 らし く生 きる」とい う命題 であ る。
人間 を尊重す る, 人の命 を尊重す る,真 ・善 ・ 美 ・聖 を尊重す る, とい う人間の本性 を限 りな
く尊重す るこ とであ る。 この図式 は厳密 にい う と以下 の よ うに なる。( 人間 らし く生 きる‑ 人間 らしい欲求 ・ 欲望 を もつ‑ そ こか ら必要 ・ 疑 問 ・ 体 験重視 ・思考 ・想像 ・習慣 その他 が生 まれ る。) 私 は十九歳 の時, 師範学校 を卒 業 して教 師 にな
ったが,私 に こ うした生 き方 を教 えて くれ た人 は, 第一 にペ ス タロ ッテ であ り, それ を強化 し て くれ た恩 人は小 原国芳先生 であ る。続 いて小 西垂直博士 であ る。私 は これ らの恩 人に限 りな く痛感 してい る。 そのおか げで人間の 人間の道 をふみ はずす こ とが なか った。
ここには,近藤 国‑ の終生 の テーマ であった学 び方学習 は人間の生 き方 その ものであ る とい う信 条が晩年 におけ る人生 回顧 として語 られてお り,
‑ 34
しか もこの信 条 の素地が東京遊学 に よって形成 さ れ た こ とが感謝 を込め て振 り返 られて い る。近藤 国一 に とって東京遊学 はその意味で も意義 深 い も のであ った。
注
1 以下の事項は男鹿市史編纂委員会 『 男鹿市史』上 巻 平成七年三月刊行によった。
2
同前書
867頁。
3
同前書
1125‑
1126頁。
4
『 秋田県教育 史』第六巻 通史編二 秋田県教育 委員会編 昭和六十一年
87‑8頁。
『 ふみの会』第1 9 号 秋 田県教育協会 平成
5年
5月
3頁。
6 1
に同 じ
。1127‑
1128頁。
7
近藤 国‑ 「 私の受けた教育ロー 中学校 時代‑」
『 ふみ の会』第
20号 秋 田県教育協 会 平 成
5年
3頁。
8
秋田大学教育学部創立百周年記念会 『 秋田大学教 育学部 秋田大学百年史』昭和
48年
139頁。
9
近藤国‑ 「 私の受けた教育∈ト 師範学校時代‑」
『 ふみ の会』第21 号 秋 田県教育協 会 平 成
5年
3頁。
10