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荒井 賢太郎(あらい けんたろう) 近代上越の政治家・思想家 上越市ホームページ

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Academic year: 2018

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あらい けんたろう

高田藩士の家に生まれる

荒井賢太郎は、1863 年(文久 3)10 月 7 日、高田城下の市の橋

(現・上越市西城町三丁目)に高田藩士荒井直静の長男として生ま

れました。賢太郎は、藩校修道館・新潟学校第四分校を経て、新潟

学校師範学科に学び、師範卒業後は 1880 年(明治 13)から 1884

年(明治 17)まで柏崎小学校に勤務し教鞭をとりました。

東京帝国大学で法学を学ぶ

1884 年(明治 17)、賢太郎は司法官を目指して上京し、司法省法

律学校に合格しました。しかし、同校は一年で廃校となったため、

改めて第一高等学校、東京帝国大学法科大学に学びました。後に総

理大臣となった若槻礼次郎とは大学の同期で、親しく交友を深めま

した。

大蔵省に勤める

1892 年(明治 25)、東京帝国大学法科大学卒業後は大蔵省に勤務

し、奈良県庁収税課長への出向を経て、大蔵省主計官、参事官、主

計局長などを歴任しました。その後は 1905 年(明治 38)韓国統監

府参与官に任ぜられ、1910 年(明治 43)朝鮮総督府発足後も財政

担当の度

た く

支部

し ぶ

長 官

ちょうかん

(大蔵大臣のような役職)として、朝鮮銀行、

朝鮮殖産銀行を興すなど金融機関の創立整備を行いました。1916

年(大正 5)に帰国した賢太郎は、翌年に貴族院議員に選ばれてい

ます。

農商務大臣に就任

1922 年(大正11)6 月、賢太郎は加藤友三郎内閣の農商務大臣

になりました。新潟県出身の最初の大臣として、第一次世界大戦後

の不景気打開に取り組みました。

翌年 8 月、加藤の病死による内閣総辞職で任を解かれましたが、

その後も枢密顧問官、枢密院副議長の要職に就きました。1938 年

(昭和 13)1 月、賢太郎は枢密院副議長の現職のまま 74 歳で亡く

なりました。

1983 年(昭和 58)、顕彰表示板が高田文化協会によって、生家が

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