近世後期︑外圧軋よって促進された統仙国家体制樹立への意欲は︑早く林子平をはじめとする海防論者たちの素
朴な危機観の中に爾芽をもつが︑幕末に至って幕閣・諸藩士乃至庶士︑鎖撰・開国︑尊王的・敬幕的七いう立場と
主張の相違をこえて維新運動の渦中にあったひとびとの中に︑多かれ少かれ意識されていたのである︒その時点に
おける外圧の性格と国内情勢とを反映した立論がなされたのであるが︑ここでは嘉永六年のペリー渡来を契機とし
て越前福井藩主松平慶永によって唱導された将軍継嗣運動にもられた統一国家形成への動きに着目し︑慶永の謀臣
であり啓沃着であった橋本左内の生涯と思想の究明を通して︑封建社会と統仙体制という矛盾した二命題がどのよ
うな論理構造において合致させられていたかを考えてみたいと思う︒
︵1︶ 左内については戦前彼を﹃勤王志士﹄にみたてるいくつかの伝記的論者がものされた︒しかるに戦後奈点本辰也
氏は︑彼を絶対主義思想の形成においてとらえ上げ︑﹁明治絶対主義政権の原型であった幕末滞政改革の立役者で
あり︑否そればかりでなく︑それを吏に幕府の規模において全国的に仕上げんとした指導的人物であった﹂として
#末における統一国家観成立の背景とその限界 ︵三三︶ 三三
幕末における統一︒国家観成立の背景とその限界
㌻橋本左内 の 生涯と 思想−−
口 山 宗 之
︵2︶′ ︵3︶ 新しい豊富てられている︒私もまた先学の慧に附して将軍継嗣運動をめぐる小論姦表し宗︑本論払おい
ては旧稿墓くふれることのなかった彼における近代日本成立への霊的意義を認めるとともに︑急その蔽い難
い反近代的封建的性格をも追求し︑彼についてのこの二面からの考察蓋して#末における近代的思惟の成長の過 程を再吟味してみたい︒
︵l︶滋賀貞氏﹁蕊橋本左内﹂︑西村文肌氏﹁橋本左内﹂︑大久保竜氏﹁橋本左内研究﹂︑平泉没博士﹁国史学の骨髄﹂同﹁武士 道の復活﹂︑などがある︒
︵2︶﹁近世封建社会史論﹂二五七頁以→︑平凡社刊﹁世界歴史事典﹂橋本左内の項︒
︵3︶小論﹁橋本左丹の政治運動とその理念﹂石本歴史廃由十七芝︒是﹁安政五年の岩間題をめぐる政治思想史的考察−−
三傑撃啓擁立派の性格i﹂︵史淵第五十島︶﹁粟国体論の妄察−友江新三氏の批判装えてー﹂石本歴史魂五
十音︶賢いても薯的にふれておいた︒なお本論は旧警の重複を避けるため㌧旧摘め甘藷近用いた史料の垂引はつと
め毒さな=かった︒このため史料賢る論証を省いた部分があるが︑前記の小論と併読願えれば辛いである︒
二 1 橋本左内︵名は綱紀︑号ほ霊・冨・容安・桜花暗畔楼︶笑保五年︵茎二望三月十言︑福井常磐町に T
l︶ 越前福井港奥外科医橋本彦也の撃とし基をうけた︒宮田松陰覧くれること四年︑大塩平八郎の乱造立つこ ︵2︶ と三年であり︑同年の生れには明治の啓警心想家福沢諭吉がある︒ 七才藩医舟岡周斎︑八才藩儒高野呉斎笹ついて等量び︑十三才のと嘉立医学所済世舘に入って漢方を修め た︒十五才笈んで滞儒・朱子学者・吉田東芝入門︑断然群姦く才覚をあらあし︑東署して﹁其居士殆思慮 第三十巻 罪仙骨
︵三四︶ 三四人﹂と感歎せしめた︵鯛縫鵬詣︶︵請撃同じ頃彼ほ自ら啓発録を著して︑医師鷺をいさぎよしとせず︑真の
志は政治写とする所懐を吐露しているのである︵諾む︒時代はペリー来航の五年前慧元芸針八︶︑
風雲正に急ならんとする幕末変革期の前夜であった︒時流は長き沈滞を破って新たなる段階へ突入せんとする︒
琴氷二年十六才秋冬の頃彼は父の許しを得て大阪遊学の途に上り︑緒方洪庵の適々斎塾に入った︒彼が正式に蘭 学億撃たのはこの暗から㌃れる︒上阪の動機は蘭㌃医術牒牒たと思われるが︵糾㌍等もと
もと医術を﹁霞﹂とみる彼である限り︵閉せ医生としぺの研驚けでなく︑新しき時代の脚光を浴びつぺる
蘭学を通して︑その初志貫徹のいとぐちを求めようとしたのではなかろうか︒こうして彼は革氷五年閏二月︼日父
の柄賢り帰国するまでこ年三・四カ月間緒方塾に在り︑大いに蘭学に没頭した︒教科書としての﹃扶氏経験遥訓﹄
︑﹃病学通論﹄ ﹃ローセ氏人身究理望 ﹃イスホルンンク氏理学蕃﹄などの原告訳書を目ら読破理解するまで上達し
たのである︒
大阪より帰国後は父に代って患家の診察に当り︑父の死後寡永五年十一月薄命により家督を相続︑医員に任ぜら
れて二十五石五人扶持を給され︑重患を治癒すること再三に及んだ︒翌六年二十才笠原良策・宮永長山・大岩主二
ら在郷前方医先莞ちと贋物講読会を開き︑このころ種痘に関する出精の改憲って薄主から慰労の辞を得た︵糾︶︒
ぺリー来航して国内大いに沸鹿し︑二百年来独断博行の旧例を依って幕府が諸大名以下陪臣・庶士・農商にさえも ︵
3︶ 開国の可否についての意見を上申せしめ︑藩主松平慶永が強硬な拒絶論を答申したのは︑その同七年の八月であっ
た︒この時左内は︑前途有為の蘭方医としての道をまっしぐらに歩んでいたのである︒慶永とはまだ直接の交渉
はなかったっ
安政元年︵一入五四︶彼は更に江戸遊学を企てる︒しかもそれは笠原良策宛書翰に﹁先渾学中も先考病気二付︑
︵三五︶ 三五 #末における統仙国家観成立の背景とその限界
宿志を不遂︑千今道憾不少候︑今度は何分宿志遂度所存匿て罷出候﹂﹂のべ . 戸に到着︑はじめ坪井信長︑ついで杉田成卿に蘭学を学び︑塩谷宕陰に漢学を学んだ︒彼ほ孜々として研輩の口を
送る︒暫時琶て牒苔の価値を批判しうるはどの学識牒霊室り︵調靴︶﹂先輩半井仲庵によって稀有の英才と
激誉れ︵桐山箪︶︑彼自らは仲庵の原望遠竺可畏又可欣可悪﹂と翠心を燃し︵㌍︶︑笠原良策へ外科の原書
買入を相談︑他人の宝にならぬよう全部求めるぺく︑これこそ当時第云急断であると説き︵調靴︶︑是フランス
人偏の針法研墓の近く入手出来るのを限りなく喜んでぃるのである︵諾︶︒
しかしながら反面彼は︑吉田鮫陰の下田渡海失敗の風聞に接して﹁是等こても時勢御推察可被→候﹂とのべ︵閑竿
﹁近来.ハ少々ツ︑頂へ相交候﹂と語っているよう義︶︑この間篭用針条約前後の緊凋し薯もっ て感じ︑政治への脱皮の過程を着実に歩みつつあったと想像される︒蘭学への沈潜ほ︑彼の政治への目覚めのほげ しさとうらほらの関係にあったともいえよう︒ 2 安政二年六月左内は慶永から学芸上達の褒辞及び印僑を給され︑七月末薄命により帰国︑十月医員を免ぜられて 衡書院番に抜擢され︑やがて十一月二十八日学校制度取調べのため再度上府︑いよいよ身を国事に委ねんとするの である︒ 安政二年十二月五日林鉄蔵が左内へ宛てた書翰によると左内が儒官名義ででも藩主に登用され︑大いに活躍した
いと話したことが芝︵遽仇敵︶︑翠二年晋八日笠原良寛宛左内番翰には︑最近読書議論扇廃し︑わずか覧〝
数行の著せよ姦句の詩を吟ずるの窒あって︵調臥︶︑書斎的藷からの脱皮を伝えている︒こうして彼は︑安政 第三十巻 第一号
︵三六︶ 三六二年末ごろから水戸藩士菊池為三郎・武田耕雲斎・藤田東湖らヾ薩薄士西郷隆盛らとしはしほ面暗︑現実へ対する.
異常な関心をみせ始める︒更にまた本来の研究対象であった蘭学についても︑彼は従来の医学のみでなく︑理化学・
兵学関係書軋も目を浮は㌢︵調軌︶︑それとともに国内なかんずく藩政に関しても﹁;例之有短相乱し︑例な 彙致義二牒ハ㌔中略︶音パ屈;も難放相成可申候﹂とその守旧性をつ嘉≡窪蓋しはじ
めた︒しかも一方洋学研究によって得られた世界情勢へ対する知識は︑必然的に彼を海防た目覚めしめ︑時に﹁五
大洲年式徳を腹候革も﹂夢みつつ︵用㌔︶︑海防の手段としての洋学の蓑性諸めて認識するので㌍こうし
て彼は軽輩御書院番にすぎぬとはいえ︑宿望の政治の活舞台の中へのり出したのである︒彼の藩政への登用は参
政鈴木主税らの推挽によるといわれるが︑彼の洋学へ対する好学と識見とがあずかって力あるのであり︑要するに
︵6︶ 薄︑ひいては時代そのものが彼を必要としていた︑ともいわれよう︒しかしこの頃までの彼の消動はもちろん藩主
慶永と結びついてのものでなく︑また彼自身の具体的な構想にもとずいたものでもなく︑いわば﹃書生の論議﹄を
出ぬものであった︒
彼に対して慶永がまず課した仕事は︑福井藩校明道館の改革であった︒安政三年五月末江戸を出発︑六月十四日
福井に帰着︑七月十七日明道館講究師岡様の心得をもって勤務︑蘭学掛を命ぜられ︑九月二十四日明道飴幹事をも
って側役支配を兼ね︑翌四年正月十四日明道館学監同様心得べき命を受け︑四月建議して飴中に洋書習学所を設け
経史の外に経済有用の学を講ぜしめ︑学枚組織︑の改良・学制の定立・人材の養成・兵制の改良・武器の製造・物産
の開発等笑いにつとめた︵餌攣望謂誰轡︶︒その基.訝をなすものは﹁徒賢人之糟粕芸め︑文字上彗 恍惚忙捌か相覚へ候口臭似にて︑即鵜鵡芸とも可申﹂き政治とかかわりのない古い学派に対するたたかいに始まり
︵㌍五︶﹁学館ほ人材教育之場所炭間︑政誓・鱒鱒無之候ては不相成候︵中略︶人材教育の道︑平生教育の主
幕末における統国家観成立の背景とその限界
︵三七︶ 三七恵と違候而政教二夕分れ完成と中老に候︑.左候ては学館は太平姦候表道具而己﹂というどとく︵認諾J︑あ くまで政教壷︑空理空論芸定する実学精神にあり︑洋層習学所についても﹁彼ノ長蒜て学び取︑我慧純明 之学を補助﹂すること年忌義を見出されてい又謹四一︒ かくして彼の卓抜な手腕窟切なる処置と軋より︑明道館治績並びに積年の滞弊大いに好転したことは︑四年三
月九日瞥旧師吉墓が横井小柄へ宛てた惹中に賞誕の吉敷をもってのべているところであり︵謹謎〜一︑慶 永も全くその趣旨に共感︑素質賛助を惜しまなかったのであった︒
しかし左内の真骨頂は安政四年八月三度1府︑慶永の侍読兼御用掛として惟幕に参し︑その旨を体して行った一
橋壁署擁しての将軍継嗣運動に求められなければならない︒蒜継嗣問題が世上の関心をひくに至?たのほ︑ぺ
リー来航後の動揺期にあって#薄体制の最頂点に位する将軍家定がその任に堪えない凡庸暗愚の人物であったこと
に起園する︒随.って欝としてのいわゆる名君たち︵松平慶永・島津斉彬・山内豊信・松芸裕・伊達宗城・徳川
︵尾張︶慶恕等︶は︑孟宗家将軍へ対する封建的名分論に規制されつつも︑側近閣老及び紀州慶福派の血統尊重
論をのりこえて英明なる継嗣の必要を説き︑その→に雄藩主を糾合した封建権力の再編成賢り国内・外からする ︵
8︶ 幕藩体制の危機をのり切らんとした︒
左内ほ明道館学監の職を村田氏薄に譲り︑数人の学生をひき示て八月十日江戸鱒到着︑﹁寝食ヲ忘レ平常大好物 之読書も等閑垂﹂て継嗣運動の周旋に拙守至った︵鯛錮︒︶︒かくし .
もに警を名指しての公式建白完った︒翌安政五年芽二十二旦堀田は︑通商条約勅許奏請の.ため川路聖警石瀬 忠警伴って上京の途賢いた︒′二十七日左内もまた慶永の命を受け︑門要人ととも牢京にトる︒その目的は公 第三十巻 第一号
︵三八︶ 三八卿に入説して庭番へ対する将軍継嗣たるべき勅命を受けること︑および堀田らを側面から援助して﹁唯無訳打払と
申論文ハ防留︑讐牒元なる儒纂尽説酢﹂するに冬型﹀︑鳶かも在京中の梅田雲凝らの反幕撰夷の意図
とは全く相反するものであった︒彼は所期の運動を続ける︒縛紳諸家笹識を求めて接近︑内大臣三条実万・膏蓮院
宮・太閤鷹司政通に継嗣の必要を入説し︑遂に壁早を諷した英傑・人望・年長の三要件をもって将軍の継嗣を定め
るべき内勅の発せられんとする迄こぎつけた︵胴臥︒︶軋掛れ盟雛馳紬摘凋詣蒜射訟㌶那錮張詰貰左内
は四月五日京都発同十一日江戸帰着︑十八日側向頭取格となり勝手許御用掛を命ぜられ︑役料百五十石を給せられ
た︒しかるに幕閣では紀州派の巨頭たる井伊直弼が四月二十三日をもって大老の職につき︑一橋派の排撃弾圧につ
︵9︶ とめて着々布石を固める︒かくて左内ほ輩下を公卿へ入祝せしめ︑井伊を京都へ召命︑遥勅調印の罪を問わしめて
失脚させようと図った︒
しかる竺ハ月二十五日井伊は遂に継嗣を慶福に決定発表するに及び︑攣氷らの年来の宿願であった二橋慶喜推挙
策は完全紅瓦解し去ったのであった︒痛撃を受けた﹁橋派ほ挙大臣輔佐論−魔窟を大臣︑慶喜をその輔佐として幕
政に参加させる−へ血路を求めていく︒慶喜推挙の熱意人後におちぬ左内もまたこれに賛成し協力し︑これを指導
したことは当然であったと思われる︒しかしそれほ︑彼においては十分に具体化するに至らなかったであろう︒何
故なら慶福決定後十日にして七月五日慶永が隠居急度憤を命ぜられるや事態ほ全く二変した︒左内は格瑚こめた継
嗣運動を悉く拗喪断念せぜるを得なかったのである︒慶永ほ受謹の翌日﹁家門之易﹂の重さを説いて藩士の動揺を
いましめ︵瑚85㌶﹂︶︑同時意内ら側近五臣た記念品蚤えて実際の活動より全く手をひいたのであった︒最初
いくばくかの動揺がむったが︑福井薄ほ結局この旨を体する︒
−く︶
幕末における統山国家触成立の背景とその限界
︵三九︶ 三九第三十巻 第一号
︵四〇︶ 四〇もとより左内は藩主の意に従った︒七月六日彼ほ御用掛をも兼命されたのであるが︑深く慶永の運命を悲しみ︑
先に輩下近藤了介を上京せしめて井伊礼問と.血橋への勅命降下とを策していたのであるが︑七月十四日了介へ書翰
を送って情勢の変化を語り﹁此節の義故︑自然御為にも害と﹂ならぬよう︑その運動の中止を指令したのであった
︵還㌔︶︒そうして自分濾卑鹿の身より登用され︑知遇を得て帝政の枢機墓加し啓発につとめたのであるが︑行
届かぬため﹁今般勧忠義二過候より紆人の忌怒を御受被遊候様相運候義︑奉職不行届之段深奉恐入候﹂と自己の不
明を恐催し︵調鮎︶︑いま慶永の意造って自重につとめなかったら﹁天下ハ扱匿︑当御家之和衷運﹂となろうと主
家の憲紅深い顧慮を払い︵調毎慧からの精忠の念を按針している︒
かくして彼は主家の運命を憂えるために仙切の政治運動から手をひいた︒そうして通商条約調印後︑井伊の圧迫
︵.10︶
に対して水戸・長州・薩摩薄をはじめとした下士・浪士層による反井伊斗争がもり上り︑政争急を告げる折柄にも
かかわらず︑この現実から全くおもてをそむけ︑幕命を体して﹁此事に不限万事細密晦被遊侠事常山被対御宗家候
て弥増之御忠節と奉存候﹂と嘩氷にひたすらの謹慎を願い︑﹁自此陪従縦酔歌﹂ ﹁鼓腹日吟安楽歌﹂なる二詩を呈
して蒜を断念︑悠々自適の生活をすすめるのである︵胴㌫︶︒紀州派の血統霊論をのりこえた針も漂権威の
重圧と主家の運命の危険に遭遇したとき︑その積極的精神はかくももろく屈伏せざるを得なかった︒それほ水戸降
勅後における封建的名分論者会沢正志斎の意識・行動と何らえらぶところはない︒あたかも彼はこれと時を同じう
して︑か・つての研究三味の生活に再び興味をもち返して来る︒そして思い出したように笠原良策へ﹁千今旧交御忘
不被成候ハ\︑折々高論御重示可被下候﹂といい送るのである︵胴か響かっての洋学生左内に思わず知らず帰り
つつあった︒現実政治上の対決に完全に敗れた彼にとって︑もほや洋学ほ政治とのつながりを全く喪失し逃避の手
だてとなるにすぎない︒
希府権威へ対するいささかの反逆者でもなかった彼の上にも︑幕府の追捕の手ほのびた︒安政五年十月二十二日
夜#史が藩邸内左内曹舎へ来て書類を押収し︑翌日同邸内沌勘蔵方へ預けとなり︑十月二日入獄︑安政六年︵小八
五九︶十月七日二十六才をもって刑死したのである︒この間数回の訊問をつけ︑彼の逮捕の原因となった上京運動 ︵慶永︶
の全貌が明らか紅されたのち︑取調べに当った幕史が﹁右之通なれば何も指で悪しきト申事ハナイ︑主人之存も能
分ツタ﹂ ﹁其趣意に於てハ何も憩イ事でハナイ﹂ ﹁善事でも仕過きてハぁるい﹂と評したことを記しておかなけれ
ば㌢ない︵相紅︶︒
幽囚の生活に入って刑死までの一年間︑彼ほただ慶永の赦免に心を痛め︑はとんど面接文通をせず︑読書詩作に
専念し︑悠々自ら楽しんだのである︒かつての志士左内の面影ほもはや何処にもない︒自らの運命に何ら矛盾を感
ずることのない︑すべてをあきらめ切った胃年囚徒があるのみであった︒
T︶彼は西洋医術に強い関心をよせ長崎の蘭方医を自宅に招いて研習し︑率先して囚人の解剖な行うなど福井薄における西洋治
療の囁矢をなしたといわれる︵橋本巣岳全集一山五九〜山 二ハ一二見︶︒
︵2︶諭吉とほ後年緒方洪庵の滴々斎塾で前後して学んでいる︒適々斎塾姓名録によると左内は率水軍二面春︑諭吉は安政二年三
月九日左内退塾後の入門となつている︵緒方富雄氏﹁緒方洪庵伝﹂所収︶︒
︵3︶六月六町慶永ほ平穏第一という#府の方針を聞き﹁今にも戦争と勇気加倍凛々討死は覚悟と申候処ケ様なる事︵中略︶堂々
たる蒋府之御良策不堪聴昨夜も余りの事にて乍恐不相済事虹候待ともつら々々怨み奉り候位﹂と憤慨したが︵咋夢紀事欝∵
三三貢︶翌安政元年ぺリーの再演にあたっても﹁兵端を開くへき勢に及ひ候而も猶御英断之如く碑乎として御許容如芝﹂い
ことを願っている︵同一三六頁︶︒らなみに彼は安政三年十月に至って﹁何分今更と相成打払も何も難施病人之御響諭至当
之御論と奉存候︵中略︶今日と相成候而ハ拙策も無之恐入供﹂と棟爽の不可能をみとあている︵同第二・二ハ頁︶︒
︵四こ 四仙
幕末における統劇国家観成立の背景とその限界
︵四二︶ 四二
攣一手巻 第一号
︵4︶このころ彼はもほや蘭学のみでなく英・・独語紅もあるていど通じていたことがうかがわれる故︵全集九五︑〟一至頁︶︑洋
学と称するのが適切である︵平凡社刊﹁世界歴史事典﹂洋学の項参照︶︒
︵5︶ ︵8︶この点については後に述べる︒
︵6︶天保九年就封以来慶永は鋭意洋式兵制の採用に努力し︑寧水元年洋式大砲を鋳造︑同二年蘭学者市川斎宮を招僻して洋学特
紅兵書を講ぜしめ︑同三年種痘所設置・御家流砲術制定︑同五年弓隊を廃して銃隊とし︑同六年蘭学者坪井信良招牌︑安改
元年工場をもうけ銃砲火薬を製造せしめた︒学事ぬついても革氷五年横井小柄に諮問して学校問答書軍を呈ふしめ︑安政
二年薄校明道館を創立するというように着々振興政策をとっている︵年譜︑山崎正頚氏﹁横井小柄伝﹂上肇三五頁以下︶︒
∵万左内は大阪遊学当時好学精進を慶永から遣使褒賞され薄手当金を支給されて給費生の創始をなし︑在藩医即時代も慰労
の辞を得たはどであり︵年譜︶︑半井仲魔転よって﹁橋本ハ︵中略︶何を承り候ても応答如響︑此人工年を仮候ハ\満天下之
霞生皆吾国へ引附可申﹂と推奨されている︵全集七二頁︶︒かく考えるとき慶永の革新的意図な担う〟人として左内登用の必
然性ほ十分にあったと考えられよう︒このころ慶永をたすけたのは執政本多修理・参政鈴木主税・側用人中根雪江であった
といわれる︵咋夢紀事第一・五頁︑宇野哲人博士﹁洋学史談﹂四二七〜四四八頁︶︒その鈴木は安政三年二月に捜した︒
︵7︶左内は吉田東隻を通じて崎門学の影響を受けたと仙般にいわれているようである︵伝記学会編﹁山崎闇斎とその門流﹂所収・
胎門道統略図︶︒しかるに左内ほ﹁経世有用之学起而後義理之学始て世二可行奉存候﹂とのべるどとく︵全集四〇八頁︶︑学
問の要は経済有用にありその究極ほ政治につながらねはならぬとし︑日本古来の儒者中敬服に催するものほ熊沢蕃山・新井
白石・槻山陽のみであるといい︑崎門学派をあげていない︵同二五七頁︶︒むしろ彼の攻撃の対象となったのは慶永所撰橋本
左内小伝に﹁先是︵左内登用以前︶福井学派率俺崎門︑入唐談空理︑無益於世道︑綱紀︵左内︶憂之︑好諭薯導︑務削除其弊︑
学風大変﹂とあるよう監︵全集所収︶︑崎門学そのものであった︒
︵9︶しかし左内らは﹃違勅﹄を道義的に不徳とみたのでなく︑あくまで井伊を失脚させるべき手段と考えていた︵小論﹁安政五
年の遊勅間誉めぐる政治思想史的羞1蒜壁魯擁立派の性格⊥貢淵警十七鴫︶︶︶参照︒
︵10︶部品下誓ると九月十七日以降薩藩士有庖新七・長州警山県半警が会合し︑十月習井伊の登城姦う計画髪てて
いた旨記してある︵有景七先生伝記及歳三〇ニ主〇三頁︶︒左内も乞れに加担したことになっているが彼ほ七月中旬 から九月中旬へかけ病床にあり︵年譜︶︑左内の同僚中根雪江が水戸降勅の周旋をつつしみ中なる故匹拒絶し︵再夢庭草八
堅陣勅と慶永乞の恕薗係を強調しているのを考えるとき︵昨夢紀事窮四・三五八〜三瓦九貢︶︑真偽のはどはきわめて疑わ
しい︒
三 1︑
左内の生涯はH蘭方医乃至洋学生時代目政治活動時代臼幽囚時代︑の三段階に分けられる︒しかる蒜の 真生命は安政二年十月医員を免ぜられて和書院番に登用された日より五年七月慶永が帝謹を蒙った日に終る第二期 軋あったことは︑いケまでもない︒これ以前︑蔚方医術及び西欧科学の攻究に孜々として励んだ時期があったわけ であるが︑それほあくまでも第二期における飛躍への準備的忠義をもつものに外ならず︑また慶永受誼後の蒜問 は藩主へ罫の及ぶのを恐れて活動を完全に断念した︑いわば隠退後の余生ともいうべき期間にすぎなかった︒左内 の情熱は慶永とともにその旨を体して行った将軍継嗣運動に注がれたのであるが︑披ほこれによって外圧に対抗す る統山国家体制身二挙につくり上げようともくろんだのである︒ 周知のどとく将軍継嗣運動ほ嘉永大年ペリー渡来を契機とした国家的危機の打開策とレて慶永により立案された ものであったが︑そこには本来分権的な封建社会→に統蒜制をめざすという矛盾に加えて︑親藩家門のいわゆる
︵四三︶ 四三
幕末における統一国家観成立の背景とその限界
企てられたものであることを銘記する必要がある︒すなわちそれは正しく﹃国土の危機﹄への対応であったが︑同
時濫徳川幕藩体制擁護のための方策に外ならなかったのであり︑封建階統制の頂点に英明の将軍を擁した幕威の強
︵5︶ 化︑とくに大名への支配権の徹底こそが﹃国土の危機﹄を防ぐものと思惟されたのである︒
将軍継嗣運動の基本的性格はこのようなものであった︒安政四年八月以降これの周旋に携った左内は︑終始慶永
のよき介添であり︑また啓沃者としてかりそめにもその意をのりこえることがなかっ・た︒そうして﹁方今諸蛮菜願
復な求め︵を暴威するもので大名の背叛を招くと論じていることである︒すなわち慶永にとって外からする国土の危機ほ︑同 時に内なる徳川将軍による社会秩序の危放としてとらえられていたのであり︑この危機を克服するものとして慶永 ほ病弱暗愚な将軍家定を輔佐し︑幕威を維持するに足る継嗣の必要を痛感して水戸老公斉昭の第七子︑一橋慶喜転 ︵ 2︶ 着目したのである︒このように継嗣運動ほ︑つねに・﹁外諸侯と連ひ御家門之名を汚し罷在候申に候ヘハ幕府の御大
︵3︶ 事天下之安危に関係の秋軋当り不及なから御為に相成程の忠勤可仕心掛﹂という親藩家門の立場から将軍の威令恢 政道も是迄之御振合立行兼足利氏之末世同様富可有御坐欺と致恐怖候﹂とのべ︵川舟愕
を防ぐため 第三十巻竺号
、
︵四四︶ 四四
名君であった彼の立場の特殊性は︑いちおう国民的危機の対応策であっ雪﹂の運動に執拗な古さと︑さまさまの歪
みを負うべく宿命づけたのである︒
︵1︶ 革氷六年七月琴府は旧例を破って諸大名以下にひろく開国の可否を諮問し意見を上申せしめたが︑慶永の答申書
ほきわめて強硬な拒絶論であり開戦にそなえて武備を増強することを説くのであるが︑注目しなければならないの
は︑彼がその理由として﹁御武徳之衰弱を見透候時は異国は扱置全国之大小名迄も如何見取可申哉に而御国地の御
○
同・劇 四真
岡・ 四六
︶︑衰国の攻撃を受けた場牒関西諸侯両備を持し﹂幕Ⅷの指令堅ない■ものが出て譜の 牢そうして特覧都へ入学る諸大名及び政治の表面に浮び上って来た朝警抑圧するために︑ 紀事 六七 等閑国は幕府の弱体化
之宗昼喪之勢眼前﹂という深牒な対外危機観にめざめつつ︵幽撃将軍鶉の必要性を彼の牒論鷺開国
通商肯定の構想担おいて理論化するのである︒すなわち薄単位の分立意識を捨て︑慶永・斉彬ら衆望を担う﹃名君﹄
たちを網羅した強力体制をととのえ︑米・露と条約を結んで弱小国への侵略をもくろむのであるが︑この構想を実
現する木可欠の前提として﹁常山建儲﹂すなわち将軍継嗣が求められたのであり︵諾砥慧︑掌の支謂力の強 化 による封建体制の再編成こそが左内にとっても外的危機に対処するべき緊急最大の要件であったのである︒しか
もそれは﹁英二天下の風濱変仕︑殆牒芸昔に返﹂るというような︵桐馳一一︑牒府の盛代への復古を夢みる意識
軋よっ.て支えられており︑このことは﹃国事﹄を周旋しっつも這び幕謎を蒙む1るや︑もろくも屈服してしまう権 ︵
8︶ 威への鋸さが端的紅示しているところである︒けれどもかつて洋学生としての研彊をつみ新知識を呼吸した彼ほ︑
親蒲家門意識にもとずく幕府の支配権強化を也ざしていたとはいえ︑あの水戸学派軋みられるような封建主義むき
出しの古さとは自らおもむきを異にしているのであり︑また維新運動の指導者としての倒幕派にみられないような
明治維新への先駆的傾斜を︑いく.つか指摘することが出来るのである︒あたかも幕末の進歩的思想家として開国通
商を唱え公武合体運動聖貝献し︑維新後参与として明治政貯に迎えられるや公議政体論を献策し︑近代国家体制の ︵
9︶ 原型を示した横井小柄に相通ずるものを左内の申に見出すことが出来るよう軋思うのである︒
2
周知のごとく幕末において尊王乃至尊王心の所在はとりたてて強調す亨きものでない世上の常識と化しており︑ ︵
10︶ いかなる立場にあるものも多かれ少かれ意識し︑何らかの顧慮を払うところのものであった︒それが現実の政治問
題︑とくに外圧への対策紅からんで浮かび上≠たとき︑天皇・朝廷が因循なる幕府と対置され︑それへの抵抗を可
能とする高次の神秘的権威としての存在意義をよび起して来たのである︒嘉永・安政にあっては時代の進展に伴い
幕末における統副国家観成立の背景とその限界
︵四五︶ 四五′
︵四六︶ 四六
望十巻欝喜
和親から通商へ進む過程において︑通商を拒否する尊接派により尊王はもっとも熱情的に唱導された︒
しかるに旧稿に詳論したところであるが︑彼には︑かくのどとき天皇へ対する神秘的熱情はどこにもない︒尊撰
派における天皇への郷愁が︑わが古代を理想とする故にいたずらなる観念的論議や時代錯誤的復古主義へおちいり
へ11︶ 勝ちであり︑近代国家形成への道を見失いがちであった当時︑このことはまず注意されなければならない︒遥勅を
単純に憤る公式的な名分論にわずらわされなかった故に彼は冷静に現実をみつめ︑外圧の国民的危樅を敏感に感じ
とり︑それをはね返すぺき方策は︑ただ幕府の規模疫おける統劇体制の樹立以外にないと結論したのである︒
次に彼がハリスの単身来日を壮挙として﹁乍外国人実に感服の至︵中略︶此に感興せずして徒に彼を英視仕候ほ︑
何等之票俗客か︑不可与語者と膚候﹂姦し︑ているように︵地謡︶︑撰牒恩から全く自由な開国論者であった
ことを挙げなければならない︒しかも彼のいう開国は幕府当局がとったその場しのぎの避戦論でなく︑国力充実後
の鎖国復帰を志す立場でもない︒安政四年十仙月彼は鎖国の不可能なこと︑西欧諸国の帝国主義的脅威から免れる
ためには開国以外にないこと︑その間紅あって急速に国力を伸張し︑列国に伍していくためにほ朝鮮・満洲等の弱
小地方への進出・侵略しかないぃと︑などを論じ嘉語㌔︶︒また安政五年四月H交易は庶民の困窮を来し国
の衰弊を招く ⇔キリスト教を許容すれば国内の変乱を生ずる 囲外国人雑居は不慮の事件の因となり外国との戦
争をひき起すもととなる︑と憂慮する平岡円四郎へ対し︑彼は H交易は富国強兵の基盤であり ⇔キリスト教紅
ついては日本の僧低を米国へ遺し︑キリスト教義を学はせて彼等紅正邪を論弁させたらよい 国外国人雑居による
摩擦は暗が経てば嫌悪の念も白扇えよう︑と答え︑きわめて開明的な対外責をのべている︵研謂詣一重︺︒
このような論議は維新後︑明治政府の歩む方向をすでに十余年前さし示していた︑といえるのである︒たしかに尊
撰思想は︑幕末日本における民族防衛憩識臥前期的表現ともいうべきものであった︒しかしそれが神国思想と為政
者的階級意識と賢り歪められたとき国民的危機鶴を喪失して自2の支配権の動揺を変える意識正直癒して︑ふえ ︵ 12︶ って蕗骨な封建反動性を示し︑近代国民主義国家へ展開するべき道を見失ってしまったのである︒彼が尊援論乃至 尊扱派と気脈を異止し誓いうことは︑とりもなおさずこの意味賢ける反近代的傾向から自由で聖たことを意
味する︒ 更に考えねばならないのは︑洋学生であり蘭方医であったという彼の来歴である︒嘉永年聞から原書により海外
の新知識に接しえた彼は︑同時代.の志士たをに比して何らかの新しさを持ちえたのは当然であろう︒それ故に彼ほ 封建的名分論のダブーとされた﹃不悍公儀いたし方﹄にこだわらない構想をねり︑将軍継嗣運動にためらいなく身
小溜疑ニハ不可拘ハ勿論﹂とのべるよう蓋撃すでに彼は部分的富雄↓鴻誹頂琵ているのであ
る︒もとより洋学的教養を直ちに封建社会への批判エネルギトとみなすことほ早斜にすぎるが︑洋学に対する知識 ︵
15︶ の有無は︑ともかくも近代的なものへの近接の度合いを示しているといえるのではあるまいか
5
以上のように左内ほ︑安政期乃至は文久以後の尊撰倒幕派の意識に比べてはるかに開明的であり︑多分に近代的
なものへの近接を示していたことほ明らかであろう︒彼ほぺリー渡来紅よる封建為政者の側からの対応策として企
てられた将軍継嗣運動にその生命をかけるのであるが︑それは概念的な名分論や憤慨的ヒロイズムに惑わされるこ
となく︑封建的規模によるとはいえ統一日本の構想が着実にくみ立てられていた︒
しかるにすでに旧稿にものぺたとおり︑彼には反面蔽うことの出来ない反近代的・封建的なものが根強く存在し
︵四七︶ 四七
#末における統苗家槻成立の背且言その限界 も多少とも持っ を投ずることが出来たの
て い た も の で であ ーて∴
が、−ノま
︑安政四年三月村田氏寿へ与えた書翰に﹁畢寛日本国中空家と見候上ほ︑ 空国一滞に拘泥する封建的分立意識は︑倒幕派志士たちが文久以後に至って
第三十巻 第ご号
︵四八︶ 四八ているのである︒逆にいえば彼ほこの古さの故に︑当初の近代的思惟の葡芽が生命あるものに生長することなく歪
められたものへ去勢されてしまい︑幕末における近代思想の正しい開拓者たり得ずして終ったのであった︒
第一に洋学へ対してとった彼の態度をみよケ︒沼田次郎氏が指摘されたように︑洋学ほ封建制に対する批判者的
︵16︶ 性格を持ちつつも︑その受容の過程紅おいてむしろ封建制補強の具としての役割を果したのであったが︑彼におい
てもこのことは﹁洋学之義筋合正しく相関候時ほ︑其利移有之候得共︑万一杜撰軋相成候時は︑其害言ふへからす﹂
というごとく︵蛤讃︶︑
彼ノ長に就て学び取︑ ′︑ ︵17︶ 力説するのであるが︑一方においてほ常に洋学の危険を指摘し︑その対策を講ずることを忘れなかった︒むしろ彼
における洋学の意義は﹁当今海苔等頻に有之御時節に候得は︑尊王撰英之方︑彼の所長を知り候事肝要たるべし︑
而
実用的な段階に止まるものであり︑﹁仁義を旨とし五倫を明にし︑家国を治め候修行﹂としての儒教的教養にうらず
野蒜彼は︑志士たちが殆んど例外なしに持っていた天皇への神秘的熱情を有せず︑﹃神州﹄や﹃叡膚﹄にかか
わりのない国土の危機を感じ︑それの防衛に努力したにも拘らず︑彼の危機観ほ徳川幕府による支配秩序の動揺を
憂える意識に直結した結果︑現規模における封建制の再編成へ目標をそらきれてしまい︑近代国民主義国家樹立へ
の方向を見失ってしまったことが指摘されなければならない︒彼が精魂を傾けた将軍継嗣運動は︑彼自ら幕府初期
の盛代への復古をめざしていたように︑むしろ宗家徳川将軍の支配権力の安泰のためにこそなされたものといえる けられて︒そ︵鯛肛四︶︑ほじめて存立を許されるもの なるところのない封建為政者的古さを藤里するのである︒ 典型的にあらわれているのである︒彼ほ ﹁兵法・器械術・物産・水利・耕地等の諸術を︑ 我義理許之学を酢助﹂するため︵同︶︑明道館内鱒洋書習学所を設立し︑洋癌究の急務を
︵18︶ 学観と全く異
掛である︒それは要するに以上のような彼の政治意識における封建的古さの
4
それではこのような彼の二律背反性︑近代的なものと反近代的なものとの共存は︑どのように理解したらいいで
あろうか︒
彼のもつ近代性は︑変革期という時代の圧力と︑それとの対決の申へ自らの進路を求めようとした積極的意欲と︑
洋学的識見とが大きく作用したことはいうまでもない︒また彼は藩医という封建階統制の下層の出身であり︑それ
だけに現実の中でなまなましい呼吸をし︑また自ら現実への批判的精神をもり上らせていったのである︒大阪・江
戸における洋学生としての研鍍は︑これに拍車をかけたことであろう︒しかも彼は︑尊撰思放から自由を且場で国 ︵
19︶ 土の危機に強く目覚めていたにもかかわらず︑反・倒幕派の比較的容易に脱却しえた幕府・将軍の権威からなぜ自
由であれえなかったか︑むしろ幕府・将軍の権威の擁護・代弁者として封建制再編成の方向へ走らざるな得なかっ
たか︒
ここで考えられるこ.とは︑彼と藩主慶永とのつながりである︒封建社会において︑とくに左内のごとき軽輩が一
薄の指導的任務につき︑一滞の運命を担って国事を周旋するに当り︑藩主とのつながりほ欠くことの出来ないもの
である︒藩主の権威を負ってこそ始めて活動が可能となるのである︒彼ほ慶永とたしかに密接なつながりを持って
いた︒﹁京地の事ハ左内か恩ほん様蒜ふへ﹂しと信警れ︵諾詣竺.︶︑必要とあらほ慶永迄書を出すこと
芸め︑その草案を示し下書を票させているように︵ほ認諾︶︑慶永を必要のとおり動かすことが出来た︒し
かし彼がかくのどとく藩主の恩寵を蒙り十分に利用サることが出来たということは︑却って彼をそのまま現秩序維
持を願う封建権力・為政者の立場に博結せしめ︑西洋近代政治の片鱗をうかがいつつ︑なお中央集権的封建主義を
︵四九︶ 四九 #末における統一国家観成立の背景とその限界
︵五〇︶ 五〇
第三十巻 第音
挙も出ることの出来なか?た大きな原因があったといわれよう︒彼には在野意識というものは全くな︷︑そのた
め幕政lの真の批判者の立場町立つことが出来ず︑従って現状否定的でありえず︑つね紅政権担当者としての幕府と
ともに歩まねばならぬ宿命を背負いこんだのであった︒
東風注目すべきは︑彼には運動をすすめるに当って民衆へのアッピールや︑民衆のエネルギーに対する評価がみ られないことである︒彼の統小国家の構想紅ほ︑人材を陪臣処士にかかわりなく登用することを説いているものの︑ 民衆の動員までには及ばなかった︒わずか紅北海道開拓の⊥環として﹁内地之乞児・雲介之類二頭を立︑相応之婦
道し蝦夷へ督すこをいう筈ぎず︵鯛配四︶︑民衆を積極的監讐料豪の成員篭書上げようとする意欲は全 みられない︒彼は十五才の著﹃啓発録﹄において︑士道の碩廃に着目し﹁今若ン天下二審アラハ︑手柄功名ハ却デ
百姓町人ヨ量=中略︶牒三嘆カハ茅存ル﹂とのノ晶四︶︑士階級からの危機観を表明した.のであるが︑その 後も﹁人心を失ひ戌怒を犯し候ハ︑実二国家之御大事︑万事之成敗皆此ヱトすべく候得共︑俗情二拘ほり姑息二安
牒其書聖牒︑︵中略︶其政令法度季候者ハ刑罰を以て御懲し被成牒︵謹四︶﹁下民迄も響難
或様致し不置ほ危量なり﹂とのべるよう蓑重民衆へ対し上から支配者として臨む態度芸嘗めて いる︒このことほ彼の携った将軍継嗣推挙というような特殊な運動の形体がそれを余儀なくせしめたのであろうと
考えられるものめ︑はやくも明和四年︵山七六七︶林子平が﹁士ハ ︵中略︶心ノ大本二武備アリ且義理ヲモ農人ヨ
ヅハレレリ︵中略︶然共士ニモツタナキア県農ニモ志ノ尊キアリ山カイニハ云カタレ︵中略︶天草ノ龍城ノ如ク志
ヲニ言ル牒ハ又苧サニハ㌢﹂とのべ︵髭欄襲脚全︶︑海国兵談︵衰ハ年著述﹀革具国の制は1
にも云如ク郭を丈夫妃鶉て民を守ル所トして部外に人家無︑然ル故に龍城紅及ても城下の地下人商曹等流浪して逃
隠る専なく上卜共に郭を守レり日本流ほ︵中略︶籠城の時は城下の地下人膚雷の類をば乗物にするゆへ︑逃亡の者
移ク出来して逃迷︑其上︑天を怨︑︑︑君を怨て噂泣の声︑街紅瀞︵中略︶此故匿寵城卜成ば逃亡人移ク出来して目も
当弦ぬ騒動を生々温軍記賢所の如ごと論じ︵謹琴︶海防に牒る完の力の結集の不可欠を説い
ているのをあわせ考えるとき︑左内の支配者的民衆観がその近代的展開を阻止する大きなブレーキをなしていたこ
とは疑いないであろう︒安政六年春尊撰運動の代表的思想家吉田松陰は︑百姓一揆のエネルギーを自らの斗争に利
用Jようとし︵媚酎諸表第︶︑大橋宝︵22・頂和泉ら倒叢志士たちはその行動の正当性を積極的些屑衆に訴え︑ そ臥支持をえようとはかって小るのである︒いうまでもなく倒幕派は封建支配者の立場紅立つものであるが︑彼ら
がともかくも民衆へ着目し得たことほ︑国民主義国家成立への相対的進歩派としての意義をみとめることが出来よ
ちノ○
しかる紅左内の民衆へ対するかくのごとき関心の欠如は︑彼が︑近代的なものへの塑牙を多分に有しながらもそ
れを育て上げていくことが出来ず︑逆に封建反動的な反近代的性格を蔽うべくもなく示していることの大きな原因
となったと考えられる︒
︵tLJ井野辺茂雄博士によれ裾現存する答申審の中︑開国を唱えたもの筑前藩以下二十二蒲︑避戦論を唱えたもの尾張藩以下十八
#︑拒絶論を唱えたもの肥前藩以下十九薄であり︑大勢の向うところほ開国にあり避戦論紅あった︒諸有司・滞士・庶士眉
の意見は残存するもの少小が︑拒絶論は少くおおむね避戦論直傾いている︵新訂維新前灸の研究五〇二〜五〇六頁︶︒
︵2︶この間における慶永ゐ震恩をもつともよく示すものほ安政三年十月六日徳川慶恕へ与えた苔翰に﹁第一之憂慮ハ当時儲副未 夕御建立無之乍恐大樹公ハ御病身と申発令も多くハ宰執有司之儀より出候儀於天下懐疑慨候折柄二候得ほ建儲之山条は治乱
之急務天下属望之基本二候得ハ盲も早く御決定被為在鑑就而ほ宗宝之内幸三楕公ハ御英発之由己に文恭大君之御放轍も
被在候得者労以西城へ御建立室当之租儀と奉存候左候得ほ四海之渇望を緊き国本益田く泰山磐石之墓相定候故天下之侯伯土
︵五一︶ 五山
幕末における統山国家禰成立の背景とその限界
︵五二︶ 五二
第三干巻 第言了
庶之心志も自ら振興可仕儀と奉存候﹂とのぺたものである︵昨夢紀事轟二・二〇頁︶︒同様な表現は腰司家家臣三国大学が
﹁今也天朝之神威を不汚様幕府之根元を堅固浸し列侯仙致不挟私心内乱を未筋ヱ消滅し外夷之親鶴を蒜スル三ハ十余州之
人物執其不欲﹂といえるのに典型的にあら■われている︵中根雪江宛藷翰︑同軍三・七四貢︶︒
︵3︶慶永たおける家門意識はたキえば安政五年五月斉昭へ対して︑射し勅許を待たず通商条約把調印するようなことがあれ拭﹁外
満杯点違勅之璽荷候ハ\以之外なる御大撃と﹂なる放それ以前に継嗣な定めるぺきである︑その上でならば大政委任の建
前から﹁或は蒜之樅宜を以て;不応叡慮とも行末之見詰二基き外国徹処置杯葡之候而も不苦義﹂とのべていることや
︵咋夢紀事第四・七丁七二頁︶︑同年六月神奈川横浜の警衛を命ぜられて﹁全く外様同様之和歌扱二而何共心外萱梅御情な
き御遣ひ方二而祖先へ対し世間江対し面皮も無之﹂い故辞退したように︵同二三頁︶︑終始彼の思惟と行動とを制約して
いる︒
︵4︶慶永及びその外の∵橋派は諸大名が朝廷の権威を擁して背叛することを極力警戒して︑いる︒﹁京師の御堅固ハ#府の御安心
にて︵中略︶御内密被仰進候国持諸侯方競望の宗源を御放絶?御∵筆にも可被為成哉との御微意﹂ ︵中根雪江による慶永の
口上︑昨夢紀事第⊥・二六四〜二六五璽﹁外様大名杯も内心一ェ公辺を如何存居候哉も難計候へハ御所点一寸も命下り候ハ
\徳川の天下ハ夫切と存候へハ我々身二取候てハ白夜心配仕儀貫家も御同様と御察申候︵中略︶如何こも徳川の天下御危く
・御坐候﹂ ︵斉昭︑同軍二・山九九〜二〇〇頁︶ ﹁先ツ内地の大変革に手を下し又京畿守衛の義を厳重にし京節点物を容れか
たき様になし毘て墨国条約之事を関東限の権官にて及所置外国の事二付而ハ京師は圧付ケて仕廻ふへき皇国安全の策﹂ ︵山
内豊信︑同二三七頁︶などはその例である︒
︵5︶一般に継嗣運動における一橋派ほ#府独裁強化の反動的方向をとる紀州派笹対し︑#閣の専制を諸雄藩合議制によって牽制
しようとする意図をもったと解されている︵遠山茂樹氏﹁明治維新﹂八七頁︶︒しかし﹁天下の事為すへからさる勢となりに
たるも釣る所ハ上に吃然たる主宰坐さすして万機閣老の手より出るを以上危踏︑\\下疑ふ有様なれハ何事も指毘て例の西城の
件こそいよいよ肝要ならめ﹂という言葉からうかがえるように︵慶永︑咋夢紀事第一・三九一頁︶︑一橋派が閣老の手によっ
て万事裁断されるのを大名の背叛を招計︑幕府権威を失墜させる因となるとし︑英明な牒将軍の万機親裁により幕権の恢復
をめざしている事実を考えるとき︑この説ほ必ずしも当を得ていないと思われる︒
︵6︶彼は福井港紅おける殖産興業︑奉書紬・漆器粗製産の発展に対し﹁何れ夫々江売捌︑利潤之効無之てハ不相済義と﹂説くの
であるが︑それほ国内市場でほなく購買力の高い対外貿易が蒲財政に莫大の利益をもたらすものであると論じた︒そうして
﹁姦商﹂の介在を許さぬ﹁潰売﹂すなわち官貿易が主張されている ︵全集三五〇〜三石︑二五七頁︶︒
︵7︶彼は朝廷へ入説する諸大名を秩序を乱すものとしてほげしく論難し︑国政は#府によって動かされねばならないことを力説
するのであるが︵小論﹁橋本左内の政治運動とその理念﹂︵石本歴史第四十七号≡︑﹁爽秋附入候はゞ︑自然皇国の御恩を
忘却仕︑内応等仕候様の不屈者出来可仕も難計﹂︵全集六九四頁︶﹁是非々々別二贅明之御方御択︑副儲之御設輿御座而ハ︑
︵中略︶其中二内諸侯自然幕府ヲ軽視致候様成朽候而ハ︑恐多之真二候﹂・︵同五九山〜五九二頁︶とのぺているように︑外
国の来故に際して大名の背叛をつよべ警戒しておヶ︑その対策として継嗣が考えられているのである︒
︵8︶ このような彼の活動は︑いわゆる志士の中にあってきわめて特異な性格をもつものである︒志士とほ幕末史の展開過程にお
いてみるとき︑大づかみにいって三つの系統に大別出蘇る︒H水戸学派に代表される初期の尊王嬢夷論考出薄の庇護から
はなれあるいは浪士として自由な立場で斗ったもの 韓薄乃至薄主の庇護をうけ主として公武合体的な行動をなしたもの︑
で′ある︒Hは藤田東洩・会沢正志斎らに典型的にみられる型で︑海防論から転化した撰夷論を尊王思想とむすびつけて理論
化したものであるが︑それほ結局尊王=敬#という主張に矛循がなかった安政以前に止まるもので︑朝#の対立が顧著にな
った安政以後ほ目標を凍って狼狽し︑純粋封建主義イデオロギーをあからさまに露呈しっつそれまでの時代の指導権を急激
に喪失していく︒Hほとくにぺリー来航後﹃王室畜生﹄の名で京都公卿の周辺に活動した山派と︑薩長をほじめとする諸薄
紅おいて諸政改革をめぐる政争を通して進出して来たいわゆる尊重派と呼ばれるものである︒彼らほ安政大獄において吉田
#末における統一国家観成立の背景とそ.の限界 ︵垂二︶ 五三
⊥五四︶ 五四
第三十巻 第一号
松陰・梅田雲浜ら指導者を失ったが︑文久以後倒幕派に成長し︑文久三年八月十八日政変で一旦ほ後退したが1やがて藩の
主導権を自己の手中に収めるとともに維新運動の推進者となり明治政権の立役者とな・つた︒これらに対して 崗は時期に応
じて興った型を示しっつも#末を通じて存在するが︑藩主の旨を受け語の権威・後盾を負い︑藩主を通して自らの構想の実
現に動き得たということにおいて著しい特色をもつが︑反面それが彼等の致命的限界となってあらわれる︒ここに論ずる橋 本左内や島津斉彬の旨をうけて動いていた頃の西郷隆盛などは︑この代襲的なものである︒
︵9︶率要一年以後福井落と小柄とのつながりは浅からぬものがあるが︑左内は大阪緒方塾在学中同四年五月頃二回にわた?て面
会︑小柄の勧誘をうけて熊本遊学の頑望をもち︵全竺八︑三五頁﹀︑安政五年四月在京中紅もー度会談している︵同八六〇
責︑朝井小柄遺稿二重二重︒左内はその思想形成にあたって多べ小柄から影響をうけたようである︒たとえば政教姦夫
学論滋学論・開国論にお小て﹁学政義と申す心は人才生育し政事の有用に用いんとの心にて候﹂ ︵横井小柄追稿三頁︶
﹁学ほ人事日用之上に有之︵中略︶遠ほ日用人事之上に衡座候﹂ ︵同六六〇〜六六一塁 ﹁崎門の学は其弊甚国防に陥り﹂
高八四二書 ﹁唐璧武の大道を明にし経て西洋芸其の課に及ぼす﹂ ︵同八九頁︶・﹁鎖国の旧習に泥み︑理非を分たず一
切紅外国を拒絶し・て必戦せんとするは宴安に溺る1の徒に増るといえども︑天地自然の道理を不知して必敗を取るの徒也﹂
︵同山三頁︶という主張ははとんどそのままの形で左内に受取られている︒
︵讐井野辺茂雄博士﹁幕末志士の思想的背景﹂︵﹁蒋末勤皇思想の研究﹂所収︶︑小論﹁幕末国体論竺考察−−永江新三氏の批
判に答えて−﹂ ︵日本歴史第七十三号︶参照︒
︵11︶︵13︶︵1qこ︵22︶小論﹁反#思想の展開﹂ ︵日本歴史第九十四口三参照︒
︵㍑︶国良主義国家をどう定義するかにつ心て丸山英男氏は﹁単竺づの国家的共同体に所属し︑共通の政治的制度を上に戴いて
ゐるといふ客観的事実は未だ以て近代的志味に於ける喜民﹄を成立せしめるには足らない︒そこにあるのはたかだか人民
乃至は国家所属員であって喜民﹄ではない︒それが喜民﹄となるためには︑さうした共属性が彼等自らによって積極的 ∫
に意欲され︑或は少くも望ましきものとして意識されてゐなければならぬ︒換言すれば一定の集団の成員が他の国民と区別
ヽヽ されたる特定の国民として相互の姦ハ通の特性を意識し︑多少ともその蒜性を守り立てて行こうとする意欲を持つ限りにお
いて︑ほじめてそこに﹃国民﹄の存在を語ることが出来る︵中略︶由民主裁こそは近代国家が近代国家として存立して行く
ため不可飲の精神的推進九である﹂といわれる︵日本政治思想史研究三三主二二義︶︒
︵14︶神風連嘉中に上野堅固・斎藤求三郎・福原秀久のごときいちおう﹁蘭学者として知ら﹂れた者が含まれているのほ︵神風
連烈士退文集三六六頁︶一︑その一例である︒
︵望たとえば#未の進歩的思想家としての佐久間象山・横井小柄にしても﹁唯々百姓共鱒後ろ指をさ1れ候て松城の馬鹿どもと
被申候はんが恥かしく他薄の門人多々居合せ候所にて︵中略︶魔に嘲けられ候半事岩国の御恥辱とも奉存候﹂ ︵象山書翰集
二二九宰 ﹁凡国を治むるは則民を治るにて︑士は民を治るの異なり﹂ ︵横井小楠遺稿三六頁︶ ﹁海軍強盛なれは︵中略﹀
外は以て洋夷の侵蒐を防ぎ内は以て不通の人心を制すべし﹂ ︵同二三頁︶というように彼らの意識には古い一面を蔵するの
を免れないのであるが︑幕末史上にのこしたその足跡は近代的なものの先駆的意義を担うものであった︒
︵16︶ ﹁#末洋学史﹂二六九頁︒
︵望H学二栓に通じた者にほじめて洋学科を学ばせ 日生徒を厳選し 崗洋書習学所以外での原書研究を禁止した︵全集二四
五〜二四七頁︶︒このようぬ洋学を危険視する態度は︑琴要一年十月洋学生として廟鎮をつみつつも﹁夫世之学和蘭之方技
術芸之徒︑概皆無頼凡流之子弟︑市略︶侵制度勒倫常者鮮﹂とのべ︵同ニハ貢︶︑また安政三年三月﹁訪市川︵斎宮︶︑入
論其偏急之弊︑並蘭学奇抜淫行之害﹂とあるように︵同二三責︶︑登用される以前すでにあらわれているのである︒
︵柑︶安政五年六月の建白書において斉昭は蘭学者の活動が﹁諸大名初心得違︵中略︶昔の大友小西の如き者出来﹂する原因とな
ると諭している︵昨夢紀革労四二四四皐︒なお小論﹁晩年の会沢正志斎−幕末政治思想史研究の山節⊥︵香川大学経済
論叢第二十九余塵二号︶参照︒
#末における統一国家観成立の背景とその限界 ︵五五︶ 五五
︵五六︶ 五六
第三十巻 第一号
︵讐彼ほ農村の疲弊︑ことに耕作殿民の窮乏化に着目し芽鱒の正法﹄にのつとった均田法の施行を主張するのであるが︑㌻万
﹁耕作之儀は惰と勒とに有て生穀増減あること移し︑均田・勤倹・勧農の政行はれ︑情農の悪弊を革め候宿方無之ては︑瞥
善政被仰出候ても益なき事に奉存候﹂とのべて農民の貧富の階層分化を勤勉と怠惰にもとずくとみており︑また近郊農民の
都市労働者化を﹁旦展をすれば暮し安し︑供を好む人情にて﹂ ﹁安を盗むより自然と御徳を背候﹂と単純に規定する純封建
的な農民統制論を披濁した︵全集三五一〜ユニ五二頁︶︒
︵聖しかし子平における国民主義的傾向を過大に評価することは許されない︒﹁他国之者御国中へ入併て身を持候事をも可被相
禁候﹂というような薄単位の閉鎖主義がのべられているし︵林子平全集琴一重三頁︶︑また同じ海国兵談において﹁大泉乱
の者出て民を悩し国家を動乱する時は兵を出シ威武を示シて暴客を討伐レ国家の害を除ク是政の為に兵に用ル也其外一揆の
徒︑出て干発起ル事あり︵中略︶惣て不慮の動乱あるが為に平生武を不忘は国家軋主なる者の惧にして是兵の正面︑武備の
轟中也﹂と論じ︵同罪′一挙二四九〜三五〇頁︶︑兵は対外危機へ備えるのと正に同じく国内の民衆制圧の兵とみなされてい
るのである︒
四
しかしながら古いままの封建的権威が重苦しくそびえ︑これに対する尊擁派の攻撃もまだ倒幕という当面の目標
を見出すに至らず︑まして倒幕後にうちたてるべき新しい政治制度の外郭さえつかめていなか・つた安政当時におい
︵1︶ て︑左内の果した歴史的意義は決して過小評価すべきでほないと思う︒彼における封建的反近代的傾向の存在ほみ
のがすことの出来ないものであるが︑若くして蘭学に通じ︑英・独語をも解した彼の識見は︑倒幕という過程を経
ることなしに天皇を将軍紅おきかえね明治絶対主義国家の原型と︑それの進むべき方向とを無意識の中に予知して
いたともいえるのである︒
彼の画く統∵国家ほ﹁今之警ても随分嘉出来候半欺﹂とのべるよう基準あくまで封建制の機構に
おいて企てられたものであったが︑このことは小まだ反幕活動が表面化せず︑幕府的権威が強い圧力をもていた
.安政という時点と︑藩主の恩寵をうけ︑その全幅の信頼と期待との中にあったという彼の存在の条件が︑それを余 儀なくせしめたといえるかも知れない︒その限り匿おいて彼は︑たしかに近代的思惟の先駆的担い手の一人という べきであり︑幕末から明治への政治思想乃至政治構造的展開における橋渡し的役割を果した忘るべからざる冨
士﹄であったと考えられる︒
︵1︶遠山茂樹氏﹁明治維新﹂九五︑二・忘〜二芸︒遠山氏は建設プラン・の極度の貧困ほ真木和泉・久坂玄瑞・平野国臣ら文 久期の指導的志士にも共通する政治恩憩の著しい特徴であったといわれる︒維新後天皇制絶対主義国家形成における指導者
であった大久保利通も︑慶応年間に入るまでは主君たる島津久光の璽心をのりこえることが出来なかった︵鹿野政直氏﹁日
本近代思想の形成﹂一一八頁︶︒
︵一九五六・八・一・稿︑一一・四・補︶
附記 本論は昭和三十一年度文部省科学研究奨励金による成果の一部である︒
#未における統一国家観成立の背景とその限界 ︵五七︶ 五七