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体育の社会学的研究課題 §文化社会学的側面の研究課題

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体育の社会学的研究課題

§文化社会学的側面の研究課題

体育研究室 大 西  国 男 Topics of Sociological Research

in Physical Education(Nα6)

§Some items for studying Culture〜Sociologica1 Profiles(No.5)

by Kunio Onishi

Ibaraki UniverSity, MitO. Japa皿.

Oct 30.1963

§文化社会学的側面の研究条件(その5)

皿 社会移動とアマチュアリズム

1 アマチュアリズムの本領

amateurはIoverを意味するものであってartやsportやgarneに対して特別の愛

情を持っているものである。然し決してそれらに専念しているものではない。*(1その主旨 からすると生活の第一次的活動としてではなく閑1暇階級がその余暇を利用して社交的活動 として,あるいは貴族としての教養として常に高尚な品位ある生活態度の基底をなしたも のと考えられる。

古代オリンピア競技に出場した選手は,他の選手たち(報酬によって彼等の武勇を自負 し宣伝していた)と区別して,敬慕の気持からamatorと呼称されたのである。

今日におけるアマチュア精神は,古代ギリシャ時代におけるamateurの精神から直接 の影響を受けて生まれたものでなくて*(2むしろ近代社会の機構からスポーツ界に必然的 に生まれ,その後において古代におけるアマチュアの精神を復活させたものであると云う 考察がなされている。

近代の体育はドイツを中心として発達したものであって,ドイツ体操,スエーデン体操

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デンマーク体操はその代表的なものとして欧州大陸にぼっ興した。これら18世紀における 組織だった身体活動は体操として今日の体育の基礎をきついたものと見ることができるの である。

また,イギリス諸島において1ヰ,古代から愛好されたスポーツが近代的発達を遂げつつ あった。すなはち自国及び大陸から移入された各種の競技が,イギリス人に親しまれ愛好 され継承されて近代化し,現代スポーツへと発展していったのである。ここにおいてイギ

リスに所謂,近代アマチュアリズムの芽ばえがあったと見ることができる。

多くの思想家,教育者の輩出によって人文主義思想,科学研究,実学主義思想がおこり,

古代ギリシャ,ローマの文芸が復興され,18世紀における合理主義思想の展開は教育の世 紀を出現し,欧州における体操教育の興隆を喚起したことは史実の示すところである。ま

さに身体活動を体育として合理化し,組織化したのは18世紀におけるこれらの教育(体育)

をもって蟷矢とするものであって,今日の体育の基礎をきついたものであると云っも過言 ではないであろう。

古代ギリシャ,ローマの体育を顧みるとき体育は自由民のためのものであり,閑暇階級 の独占物であったと云うことができる。然し,その目的としたところは,あくまでも身心 の調和的発達であり有能な軍人養成であって,国家のために奉仕する体力と技術を身につ けることを義務づけられたものであった。この点からして当時の体育の本領とするところ は,軍国主義的社会における強制された体育であり,かっ祭礼競技としての神への奉納と 云う意義をもったものであったことが知られている。

古代オリンピア祭礼競技が,厳格な監督のもとに激しい訓練を経てのちに,厳正なる競 技規則に従って技備が競われ,勝利者はただオリーブの葉冠をもってそのシンボルとし た。そして,その栄誉と名声をかち取らんとしたところに,近代アマチュアの大いに学ぶ べき規範の存することを見出すことができる。

然し,古代オリンピア競技の末期的現象は,今日におけるアマチュアスポーツのもっ多 くの問題点や種々の現象に,大きな示唆を与えるものがあると考えられる。時代の流れに 従って競技者の偉大な努力と栄誉を讃える記念品としては,物質的な報酬としての賞品が 与えられるようになり,次第に職業選士も出現し,やがては競技者に対する後援団体,ス ポンサーの出現,政治勢力のための競技者養成に及ぶなどは,古代オリンピア競技の絶滅 の根源をなしたものであると云えるであろう。

近代スポーツにおけるアマチュアリズムは有産階級,有閑階級の娯楽的な身体活動によ

る遊びとして発生したものであると云えるのであって,運動による余暇時間の消化と社交

的遊戯的雰囲気を生活の中に導入することによって,有暇時間を楽しみ生活を亭楽しよう

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としたところに出発的があったと云うことが出来るのではないか。

このような運動種目が,古代スポーツ文化の継承として人々のうちに温存し発展してい ったところに,その精神文化の発芽があり,意味所与的に精神体系の分化が生れてきたの であり,sportsのもつ語原(dispot=carry away)のよって来る所や,recreatlonとsports の関連性や,スポーツマンシップの精神体系などの種々の事柄が組織化され体系化される に至ったと見ることが出来る。

スポーツのもつ本能性や基本的欲求の発露は,現代における社会的現象として一つの大 きな要素を持つに至ったのであるが,スポーツのもつ娯楽性と本能的基本的な人間的要求,

生活的危機に対処する類似性,希望,憧れ,刺戟と興奮など,社会生活における各面にお いて人々の不満や逆境に対する慰安の場となる可能性をも包蔵する。これが,マスコミや 企業の波にのって大きくその波紋を拡大して来たのである。

このような現代的現象は,アマチュア選手を職業化に導き,努力と名誉に酬いるに物質 的な報酬をもってし,勝敗のもつ偶然性はギャンブルの対象となるに好適のものを持って いる。このことは,やがて職業選手の発生を促し生計の手段として利用されるに至るので

ある。      

スポーツが政治に外交に職業に経済に各方面に利用されるとき,現代スポーツ界のもつ 憂慮されつつある問題点が露呈して来るのである。これらの一角に,現代アマチュアリズ ムの問題に対する論義の根底があり,多面にわたる(スポーツ界におけるいろいろの事柄)

社会的事象が生じて来たのである。

このように,スポーツ競技者の態度や競技会の主催運営の仕方によって,アマチュアス ポーツは一瞬にして職業化しやすい要素を多分に包蔵している傾向にあることを教えると ころが多いのである。

近代スポーツの母国と云われるイギリスにおこるアマチュア精神が,伝統的な階級意識 によるものであり,有閑階級の独占物であったと云うこと,そしてその貴族的,階級的精 神から発芽したスポーツマンシップは,ゼントルマンシップによるものであったと云うこ とから考察すると,今日のスポーツマンが、常に品位のある高尚な教養高き人々であり,

かつまた社会的上位にあって指導的役割をになう人々であるべき所以のものがあろう。現 代の如くスポーツが大衆化された時代においても,この事柄は十分納得してかかるぺき事

である。

然し,スポーツのもつ本能性や人間の基本的欲求や娯楽性は,一般大衆の大いに歓迎す

るところとなり,セミ・プロやプロ・スポーツマンの出現を見るに至ったのである。而し

てこの現実事態は,スポーツのもつ本来の性格や発生的特質の如きものが,スポーツの普

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及発達とともにその性格を変貌しその特質を歪曲しつつあり,この点では,スポーツは危 機に直面していると云えるのである。

アマチュアの問題はいよいよ紛糾をきたし,アマチュアリズムのもつ本質を逸脱せんか に見えるのである。ここに至ってアマチュア規約は次々に付加され,しかも一方において はその規約を合法的に回避しようと策をめぐらし,また,これに対処すべく再びアマチュ ア規約が追加されると云うような手段によって,アマチュアリズムの本質を維持すぺく繰 り返される努力は,却って悪循環の様相を呈して来るのではないか。しかも,このような 悪循環と,規約に対する過度の依存性と対立的な回避が,かえってアマチュアリズムをゆ がめ,スポーツやアマチュアリズムの本質を失うのではないかという危惧の念さえ起させ るものである。

アメリカにおいては,アマチュア規程は各スポーツ団体に共通した精神を成文化するこ とによって,プロフェショナル・ポーツと区別し,プロ・スポーツの勃興に対処したもの であったと云われるのであるが,成文化された規約はイギリス同様であって,どこまでも 両者の区別を明確にするために法的解釈が強調された点では,初期のアマチュア規程に共 通する現象であると見ることができる。

このように成文化された条文によって,アマチュア規程が法的に判定されるようになっ て来ると,種々な事例や解釈に疑義が生じ,その都度条文を追加して否定するようになっ て来る。そこで却って条文の法的性格に抱泥するのあまり,アマチュア精神を度外視して条 文の規約のみを強調しすぎることになり,自ら己の行動を抑制し消極化し,スポーツの発展 を阻害するような結果を惹き起すことすらあるのではないか,と云う疑問を残すのである。

アマチュアの定義が,各国各種目団体によって統一されていなかった事や,国際的にス ポーツ種目別に相違点を持っていたと云うことは,現代の如くスポーツの地域性や民族性 が打破されて,その領域を世界的スポー・ツ文化として継承する時代において国際競技とし て実施されるときは,当然そこに紛争を生ずる原因となって来る。

各国におけるアマチュア規程の成文化により,それぞれ異なった解釈によって定義され たものでは,現代運動文化としてのスポーツの発展はあり得ないのである。この点でも,

アマチュア規程の国際的統一を必要とするに至ることは,当然のなり行きと云うべきであ

ろう。

近代オリンピック競技の開催に当って,クーベルタンをして真剣に考えなければならな

かった事柄に,スポーツの世界においては各国共通の原則によって,アマチュア規程を成

文化することが重要なことであったと云われている。この統一なくしては,オリンピック

競技の復活は不可能であったと見るべきである。

(5)

各国のもつアマチュア規程の解釈は妥協と矛盾に満ちたものであり規程の解釈の統一は 至難の事であって,その解釈の一致を見ることは容易ではなかったと考えられる。然し,

このような努力は,現代アマチュアリズムに関する考え方を明確にすると共に,スポーツ マンの活動に十分な示標となった事は納得に余りあるところである。

現代においてもなおかつ,アマチュア問題が世界的に完全に一致を見ることは至難な状 態であり,しかも世界的統一を加える必要が強く要望されているのである。

その論議の要点は,常にアマチュアスポーツマンの誇りや,ゼントルマンシップの保守 的精神の要素を通して,現代アマチュアスポーツのモラルとして遵守されるべきところに

ある。而して,これらの誇りや妥協や遵奉の精神は,一般社会から受ける社会信頼と尊敬,

憧れと希望のもとで高く評価され,不相応な期待と要求が課せられるところにおこってい ると考えることが出来よう。

スポーツが、初期は有閑階級の独占物であったものから、次第に庶民の中に浸透して来 たものであるから,スポーソが一般大衆化されたことによって起る新しい傾向こそ,現代 アマチュア問題発生の起点となっている。すなはち,このことからスポーツによって起る 弊害が次第に多くなり,殊に金銭上の問題が中核となっている場合が多いのである。人々 の関心,期待,憧れと希望,経済的欲求,マス・コミの効果,文化,思想,政治にも及ぶ 波紋となって,スポーツそのものの発展を圧迫してしまう観さえあるのではないか。

      *

i参考)Baillet−Latourのアマチュア観によると 「……スポーツを見るよりは、自身それを試 みることを楽しむ傾向は甚だ好ましい現象であり,その努力はプロフェショナルによって ではなく,真のアマチュアによってのみ到達し得る境地でありまして,この故にわれわれ はスポーツにおいて,精神ならびに練習上においてアマチュア以外の何物にも何らの興味

を抱かぬのであります。

万一スポーツのセミ・プロに発展するときは、青少年の野望はおおいに刺戟され,必ず や彼等の競技労動を最も高く評価売却せんとして彼等の才能を資本化し,寸刻を争って熱 中するに至るのでありましょう。この報酬の可能性は,彼等をして学業その他必要の努力 を怠らしめ,その将来に課せられた使命を誤らしめ,価値に対して誤れる見解を抱かしめ 勝ちとなります。特に彼が運動界のスターである場合には、競技会に参加することによっ て得た報酬は,通常のある仕事に対し,賃銀として得る報酬に比してあまりに容易に得ら れるべく,その結果,絶望的因難の感は仕事を失敗に終わらしめ,彼の将来の災となるゆ えんであります。

かくして,正に人生の第一歩に立つ青年の多くがそのスタートを誤り,終生の基本的利

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得が永久に妨げられる如き,誤れる生活の基準をやむなくとるに至り,彼等の眸には,ス ポーツは金銭上の利得以外には何等重要性を持たぬことになります。かつては・一日の労動 後や休みの力の娯楽慰安であったスポーツは,転じて特殊の受難となり勝利に不当なプレ

ミアムが課せられたスポーツの連続的勝負に,金銭上の得失の上からきた法外な望みが娯 楽としてプレーを純真に親しむ心に代わるようになる。彼等は止むを得ず練習し,肉体を

ただ酷使する不幸な人間となるのであります。老若を問わず,同じ対象である健全なるス ポーツの練習から直接に得られる体育的,社会的,道徳的な利益のみを目標として,スポ 一ツを楽しむ人達を彼等と比較するならば,両者の精神がいかに相違せるかは多言を要し ません。……アマチュアリズムは,事実上,法則上の問題であるよりも精神上の問題であ り,その故にアマチュア綱領を徹底的に理解させることは,なかなか困難な企てでありま す。元来、プロフェショナルに対するアマチュアの定義は,各個人を類別するためつくら れたものでありますが,この法則そのものが区別を生ぜしめるものではなく,個人の行為 と態度とによってその区別が生ずるものであります。……

クーベルタン男の言のごとく,真に罪のあるのは,多くの場合において親とか,競技者 を使っている人々とか,権力者とか,これに附随して連盟の指導者だとか、あるいはいわ ゆるジャーナリズムとかいうものであります。そして,親や競技者を使っている人々は,

利益になるからとか,広告になるからとかいうので,ついに若い者をしてスポーツに専念 するに至らしめ,これがために彼等をして学業を放棄せしめ,職業を求むることを忘れし むるに至り,権力者とか指導者は,国際競技を過激にすぐる程多くやらせるため,競技者は あまりに連続的な練習をし,またあまりに頻繁な遠征をやらなくてはならなくなります。

…… v(ラツール伯はペルギーの10C委員で1925年のプラーグ会議によって第二代会長となった)。

これは1692年7月のロスアンゼルスの10C会議の席上で開陳された彼のアマチュア観で あり,クーペルタンのそれを継承したものであり,10Cのアマチュア精神となっている。

(新体育学講座・アマチュアリズム,井上春雄著,道遥書院,昭・36参照・引用P69〜)

(註)前掲講座13巻P・15*(1Century Dictionary Vo1,1 amateur;10ver one who has an esp㏄ial

10ve for any art study on pursuit. but does not practjse it.*(2 amatorという呼称も古代オリンピ

ア競技が鍍止された392A,D以後は,ギリシャ,ローマの競技者たちの間にamatorについて激しく論 争がくり返されていたようであるが,その後はamatorと云う言葉は,スポーツに関する限り約1400 年間は使用されることはなかったのである。

2 社会移動とアマチュアリズム

古代オリンピア競技の壌絶は,競技に参加する名誉を得て勝利の栄光をかち取ることで

は満足できなくなり,物質的,名声利得は競技者のあこがれであり,勝利こそスポーツの

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最大の目的と化し,スポーツマンは職業化し,野卑になり,勝利のために手段をえらばず,

果は賭にまで利用されるようになってしまったとき,人々は次第にスポーツを嫌悪し回避       、

していった為である。

現代アマチュアリズムは多くの問題点を抱えている。この問題は,スポーツ界のみなら ず社会的問題として大きくクローズアップされて来ている。時代の移り変りによって影響

を受けつつあるスポーツとアマチュアリズムの問題は何処にあるのか。その問題の起点に なっていると思はれるものを考察してみるとく井上春雄,アマチュアリズムより〉

その1は,経済問題である。スポーツが人間の本能的要素をもって発生したものであっ て,純粋なスポーツの在り方こそ,アマチュアの本領であり,規程の本質であると考えて 来たのであった。然し,他面では人間の本能的欲求として経済的豊かさ,物欲,名誉欲の 抑制をスポーツマンに要求している。ここに問題の発生がある。

身体活動は,人間生活の根幹をなしていたことは否定出来ないのであるが,それが余暇 の利用やレクリェション的要素のみをもって発生したものでないことも疑う余地がない。

また,文化人類学的な発達の過程において,身体活動が文化の発展に果して来た役割は絶 大なものがあったと云うことも出来る。

スポーツ的活動が,国家のため社会のため個人のために果して来た役割は,多種多様の 形で文化の発展に貢献して来たものであって,これらすべての点で人間生活と密接な関係 において直結して来たのであったQ

人々が生活し,スポーツし,余暇を楽しみレクリェションすることによって,人生を楽 しい明るいものとし,あるいは学校教育に利用しては全人的な人間形成の手段となって来 たのである。従って,スポーツが特別の階級の人々の独占物であつたり,大衆から遊離し た有産階級の占有物であることが不合理であるのは当然のことである。

今日スポーツが一般大衆の中に広く浸透し,ある人々の独占物であることは許されない のであるが,然し,われわれがスポーツを行う以前に,経済的な生活の安定と云う事柄が ある。その後に,われわれは技術の練磨と記緑の向上があり,勝利の栄誉を望むことが可 能となってくるのである。アマチュア規程は,この事に関してあまりにも否定的であると 云うべきではないか。すなわち,人々の持つ根本的な生活条件を抑制しているのである。

ここに,ノン・プロ,ステートアマチュア,ブロークンタイム・ペイメント,プロフェ ショナルの問題を発生する惹起点があると見るのであるQ

その2は,現行アマチュア精神は,初期の規定を適応することが困難な面を多く発生し

て来ている。スポーツがその発生を人聞の本能的活動に由来するところに興味があり,一

般大衆に普及する。スポーツ人口は日々に増加し,スポーツの地域性も特殊性も打破され

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て,世界人類のスポーツとして華々しく国際競技の実施される今日に至っている。

スポーツはその時代の社会思潮に大きく左右され,社会生活に基盤を置いて発展するも ので,その時代の社会要求に応じ個人の要求を達成するところに,スポーツが初めて人類 に貢献できるのであるQ

現代のように社会機構が複雑化し,社会移動の多い時代に,初期のアマチュアリズムに憧 れ,その精神こそ至上最大のものと考え,これに徹底すべきであるとすれば,この問題の 解決に多くの困難を伴うのである。否,不可能と云うべきではなかろうか。然し,今日に 於ても,アマチュアの本領とするところは生活するための手段としてスポーツは存在しな いと云う指導精神は厳然としているのである。この事は,すでにスポーツの特質,スポー ツマンシップ及びアマチュアリズムの本領について考察を試みたところである。この点で は「問題解決に多くの困難を伴う」の故をもって妥協することはあり得ないのであり,ま た,妥協すべきではないと考える。

その3は,アマチュア規程は法律化していても,なおかつ一貫性に欠ける点のあること である。

アマチュア規程がプロフェショナルに対して個人の存在区別をなそうとするものであ り,個人の態度や行動の点で規定を設けたものであった。

然し,人々がスポーツを愛しスポーツに専念し,優勝によって得る名声と物質的利得は スポーツ愛好者を刺戟するに十分である。そこで,職業としてスポーツに専念しようとす る若者が生れるのは当然である。いくら厳重に規制し次々に条文を追加補足しても,アマ チュア精神の理解が不足すれば,その効果をあげる事は不可能である。一に指導教育する ことによってスポーツマンシップとアマチュア精神を認識させるより他ないのである。

このような根本的考えの上に立って,なおかつ各国各スポーツ団体におけるアマチュア 規定に一貫性を欠くのである。*殊に現代の如くスポーツ競技が国際的発展を遂げた時代に おいては,この見解の相違が,アマチュア競技者の生活態度をあいまいにするのであろう。

自分の持っている才能を伸すためにその才能を利用することが出来ず,他に時間を費し て収入を得なければならない。個々の問題においても国内,国際状勢の上からも,現代社

会機構の中においても,妥当な解決策を発見出来得るかどうか熟慮する必要があろう。      

現在のような状態で放置することは,却ってスポーツの発展を阻害し,アマチュアリズ ムが軟弱なものとして破壊されるのではないかとさえ危催する声も起りつつある。

その4は,勝利者にもたらす利得があまりにも多すぎることである。スポーツによって

得るものは精神的,身体的,社会的面で純粋なものであって,スポーツを行うことによっ

て自然に身につくものであった。しかし現実社会の事実は,このような純粋なものとは限

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らな、・のである。

新聞,ラジオ,テレビ,その他マス・コミが彼等に与える讃辞とその効果は,彼等を一 躍英雄にし有名人にする。彼等の練習と努力は,この時を目標に全力を傾注するのであ る。また,上級学校入学に当って勧誘を受けては有利に展開したり,就職のための条件に なったりして恩恵を受けることがあると云う。彼等自身もそれを目的として練習に予念が ないという事実が起るのである。

スポーツは大衆のものであり,このような物質的経済的に利得のある所にスポーツの普 及発展があり,また技術の練磨…と記録の向上があると云う者がある。スポーツを楽しみに 行い生活をエンジョイすることによって精神的,身体的に得るところの多い事は勿論であ

る。然し,勝つためにプレーする青年が若々しい斗志を燃やさずにおかないところに,ス ポーツの本然の姿がありスポーツの発展があることを忘れてはならないのである。

スポーツが人間形成の場として行われ,学校教育にも社会教育にも大きな役割を果して いることは疑問の余地がない。**然し,現実には勝利の名声と栄誉を練成の目標に置き,

かつ日々の練習を人間形成の目標においていることは皆無であるとは云えなかろう。これ は,スポーツの持つ全人的人間完成の要素と,人間のもつ現実的,打算的要素の内在する 離れ難いスポーツの現代的特質とも云うべきものであろうか。

その5は,アマチュアと云うのはプロ以外のすべてを含めて考えているのではないかと 云うことである。

若しアマチュア資格を失った者が,直ちにプロとして活躍できるか(プロからアマチュ アに復帰する場合の規約や問題点,また汚染原則くプロと試合し,またプロのコーチを受 けるような場合〉の問題にも納得のいかない面が残っている)無資格者は公式競技の出場 を停止され,しかもプロとしての生活を選ぶことができない場合などに,その人々をいかに 取り扱うかについて考慮されるぺきである。また,競技会運営やスポーツ競技団体の管理の 面に於ても,経済的貧困による個人的過重負担や運営困難の多い事が苦慮されている。***

たしかにスポーツの本質はアマチュアリズムにあることにちがいないQプロ・スポーツ はショーであり興業であって,余暇の利用でもなければレクリェションでもない筈である。

この点では地域社会の密接な人間関係を誘発することも不可能であり,教育的手段として 利用することもできないのである。

然し,現実事実としてアマ,プロニ者の関連は不可分の関係にあると見ることができ

る。この事は最早社会的通念として明瞭なものとなっている。アマチュア・スポーツマン

であっても,彼等の狙うところは将来プロ・スポーツマンとしての憧れの過程にあって努

力し研鎖している人も多いと云えよう。純粋であるぺき少年や学生生徒の中にも,将来プ

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ロとして活躍することを考えながら精進している者も存在しょう。

彼等の技備に対する物質的,社会的な富や名声や広告的価値は,スポーツに志ず青少年 を魅惑するに十分なものをもっている。現実にアマチュアからプロに転向する人々も多く,

その都度しばしばアマチュアリズムの問題が燃焼しきれず,不愉快な事件として報導され る結果となっている。

3 現代思潮とアマチュアリズム

以上の如く,アマチュア・スポーツとプロフェショナル・スポーツの問題は,それぞれ 二者のイデェアを明確に区別することが出来てなおかつ現実実際には満足されないものを もっている模様である。次にプロとアマに関する各方面の実態と諸家の意見について資料

(参考※)とし考察する。

形影相伴う関係に一後ろ向きの目で観念的に批判すぺきではない一近ごろ,とかくアマ チュアとプロのけじめが問題にされているようである。一つには,プロ野球や相撲などと いうスポーツ界の世界をはじめ,芸能界でも,勝負ごとでも,さらに作家といわれるもの でも,きのうまで会社員や学生で,仕事の合い問にアマとしてやっていた人が今日から結 構プロとして通用していることがよくあるという事実。もう一つはアマ倫理の問題で,野 球ではアマがプロのコーチを受けただけでも非難されるのに,碁・将棋では素玄戦が行な われゴルフにもアマ・プロ混合のオープン戦というものがある。

一体「アマとかプロという言葉自体がもともとあいまいなのだから区別がつかなくなる のは当り前だ」という説も成り立つ。……プロというのは,そのものが生産や商業という 仕事ではなかったもの,いわば二次的にか三次的に発生した職業についていう言葉らしい。

だから,プロと普通いわれている職業は,何ほどか人生にとって,ゆとりとか遊びの要素 があるものに限られている。・…・・ただし,遊びの要素を持ったものが,職業として自立化

してプロとなるには,大衆に受け入れられねばならない。……

遊びの要素と大衆化,このことを成立させる基盤は,生産力が高くなって,レジャーが 多くなることと,テレビなどのマスメディアが発達することである。戦後,わが国はプロ が普及したのは,このためである。実は,影と本体のように,同じ原因でアマが発展する。

これが,アマがプロに食い込んで来た根本的な理由で,アマがのびるのとプロの普及とは,

相伴っている。

アマとプロの実力が接近した別の理由として,戦後の民主主義の発展,合理精神の成長

が考えられる。実力あるものをどんどん受け入れてゆくという開放的な空気が育って来

た。……また,終身雇用制というのは,先進諸国に列を見ないわが国の制度だが,会社問

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で有能者を引き抜くようになれば,この制度もくずれ始めるだろう。………現在,アマが プロへと接近して行く姿は,何かこの実力主義時代の夜明けを思わせる。…・・

アマ・プロ問題では最近,特にスポーツの世界で,アマの倫理ということがやかましく いわれている。従来,日本のスポーツにおいては,武道と同じように,何か「道」をきわ めるものという修身主義がまといすぎていたように思われる。スポーツを修養と考える人 が,もちろんあってもいい。しかし,スポーツはそれを楽しめばいいのだという人や,将 来機会があればプロで立ってゆくためにやるのだという人があっても,一向にさしつかえ ない。ただ,アマ・スポーツの問題は,それがゆきすぎて,学校全体の教育や研究をスポ イルするとか,日本の産業界の障害になるとか,つまり社会的な禍を与えているかどうか で議論されるぺきである。たとえば,学校の野球部学生が野球に没頭するのは,ある経済 学部の学生が語学に没頭するのと同じで,これは個人の問題である。だが,それらの学生 が一般の単位もとれないのに卒業証書を与えられるとすれば,それは社会に対する詐欺で

、 あろう。これはスポーツの問題でなくて,教育する側の問題である。

プロは見せ物で,アマは修養が目的だと云う意見もある。しかしアマスポーツも発展す れば必然的に「何々大会」という形で,人に見てもらうものになる。その必然の道程に,

現在のアマ・プロ問題が横たわっているのである。……自然のレールに乗ったものは,元へ 戻してもまた同じ道を歩むだろう。アマ・プロ問題は,後ろ向きの目で観念的に批判すべ

きではない。修身の問題としてではなく,社会的な視野で考える必要のある問題である。

(安達和久・神戸大助教授く経営統計論〉朝日・昭36.12.5)

プロと普通いわれている職業は,何ほどか人生にとってゆとりとか遊びの要素のあるもの に限らていて,しかも,プロとアマの実力が接近して来た現代ではアマがのびるのとプロ の普及とは相伴って,影と本体のように発展するものである。ただ,教育に障害を与え社 会に禍を及ぼさないことが必要である。しかもそれは個人よりも,学校や社会に責任のあ

る場合が多い。

スポーツが悪いのではない。プロ・スポーツが悪いのだ,アマチュアリズムにかえすの がスポーツの本道だ。と云ってもアマチュア・スポーツの必然性を無視した幻想的な意見 であって,現代社会に於ては,いくらもとえ戻そうとしても,自然の道に乗ったものはまた 同じ道に返るのである。アマ・プロの問題は社会的な視野において考えるぺき事である。

*競技種目によるアマチュアの相違一同じアマチュアスポーツでも細かい点では種目によ って,また国によって非常に違う。それはそのスポーツのまた国の歴史的な事情による。

イギリスの貴族の間で発達したラグビー,ポートなどは選手の生活が安定していたから,

(12)

オリンピックに劣らぬほどきびしい規定が生まれた。イギリスのラグビーのプロ・リーグ ははじめこの厳しいルールの適用をきらった地域が独立し,それが発展してプロとなった。

ところがラグビーのはじまりであるサッカーは非常にルーズでアマチュアは給料さえもら わねばプロのクラブのメンバーになってよいし,世界選手権はプロとアマの区別をしてい ない。庶民の階層に普及発達したスポーツはこの傾向が見られ「プロレタリアとプロフェ ショナルの両プロは相通ず」などといわれるのはこの間の事情を物語っている。

サッカーやスキーは仕事を休んだために減された賃金の保障を認めている。卓球は選手 権大会中だけ商行為を禁ずるというルーズなもので昭和32年末,卓球の藤井則和選手がイ ギリスのバーグマンと世界一周巡業に出掛けたが,試合ができずロンドンで立往生したこ とがあった。これは国によってアマチュアに対する考え方が違ういい例である。イギリス の卓球界がアマチュアと見た藤井選手が日本では完全にプロなのである。そのため日本協 会がその試合を許可しなかったのである。テニスも国際的には割合ルーズで,ウィンプル トンの勝者には相当賞金がついている。国際的に共通でしかも目につくことは,プロ教師 にコーチしてもらってもいいと認めているスポーツの多いことである。しかしラグビーな どははっきりこれを禁じている。

このように各スポーツの細則が千差万別のところから,オリンピック憲章は国際スポー ツ連盟のアマチュア規程を一切認めない方針ををとっている。スキー,サッカーなどでは 国際連盟からアマチュアと認定されていても,オリンピック憲章でプロとみなされ,オリ ンピックに出られないものも多いQ

日本では体協のアマチュア規程によれば「体協の規程は加盟団体の適用する規定の最大 限の線を示すもので,加盟団体の規程は体協のもの以上の寛容は許されない」また「国内

.    の競技会では国際連盟のものより優先する」とある。ところが各スポーツ団体はそれぞれ の国際連盟の規約を採用しているから各団体の規程が優先することになる。体協では一度 プロに転向したらアマチュアにもどれないとしているが,事情によって転向を認めている ものもあり,体協と競技団体の調整がとれていない。また許可さえあればプロとの練習や 試合を認めているものもあるし,馬術では馬のカイバ料として優勝者の賞金を許可してい

る○

日本では野球が盛んなためこれにまつわるプロ問題が多い。高校生や大学生がそのまま プロとして立派に通用し,スターとして使えるところに複雑さを増し,引抜き合戦や高い 契約金が生まれている。

日本で特殊なのは祉会人野球という存在である。これは普通ノン・プロといわれている

が,規約の上からは体協のものとほとんどかわりがない。ただプロから容易にアマに転向

(13)

できる点,会社自体も公然と宣伝の具としている点では体協の云うアマチュアとは程遠い。

これについて体協のアマチュア審議会委員長の鈴木良徳氏は「われわれからいわせればあ れは明らかにプロだ。普通ノン・プロといわれているが,ノン・アマといった方が正しい のではないか」といっているQ

**

烽ニ結びつける悪風一責任はほとんど周囲に一日本の学生スポーツマンはアマチュア である。例外はボクシングである。学生がプロ入りして活躍している。……これは学校の 部活動を離れたクラブ活動で,学生スポーツの多くは学校を単位とする部活動である。し たがって,この部活動が学校教育の一環として入格の陶冶と身体の練磨という目的のもと に各アマチュア競技団体に属して対外競技を行っている。学生選手がアマチュア規程にひ っかかるのはどんな場合か。高校から大学に進学する場合。在学中,卒業前のプロとの交 渉の三つの場合に大別できよう。

一部の選手が学業を怠けスポーツに専念しすぎるとの批判はよくあるが,これはアマチ ユアリズムとは直接関係はなく,そのため在学をのばすものもちょくちょくある。然しこ の場合ほとんど∂)種目が四年間しか学生競技に出られない規定をもっているから競技のた め在学をのばす悪弊は除かれている。

私大のなかには運動選手の授業料を免除したり,生活費を援助したりしてスポーツを将 励している学校が多い。これはしかし一部の有力な選手だけのようである。外国でもスポ 一ツ選手にスカラーシップを設けている。やる以上便宜的に流れず制度化した方がすっき

りするのではないか。私立高校の場合,有力選手をとろうとして越境入学(私立高校には 公立高校のような就学区域制がないから)を行い公立高校でもこの規則をくぐって養子縁 組入学と云うようなことが行われる。これは行き過ぎの例である。

学校が選手の勧誘に熱を入れすぎるので,父兄の方から授業料の免除,合宿補助などの 経済援助を当然のように条件としてくっつけて来るのが多くなったのは悪い傾向である。

有名選手になるとすぐに金と結びつける悪風はプロ野球の引抜きの影響とみてよいだろ

う。

こうみて来ると,学生選手のアマチュア資格違反は選手の自覚も大切だが,周囲や環境 がそういう立場に追いこむ場合がほとんどだということになる。

***

u会社チーム」は日本独得一強くなるために無理一アマ復帰の最も重大なのは野球 一事業会社が会社名で各種のスポーツのチームを持ち全国的な大会に参加しているのは日 本独得の形態といってよい。社会人のスポーツがクラブをよりどころに発達した欧州では

こんなことはないし,アメリカにもバスケットその他例外的に会社のチームはあるがクラ

ブがやはり主体のようである。会社のチームとなると宣伝臭が出やすく,宣伝のためによい

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選手をとるということでジその面からアマチュアリズムと引っかかってくる。

体協のアマチュア規程では,ユニフォームにつける印は宣伝効果のある商標はいかぬが 会社名ならよいとしている。五十歩百歩の感を免れない。一番問題のある社会人野球の実 態をみると,セミ・プロ的,アマチュア的などと強くなるために相当の「無理」をしてい

ることがわかる。

プロとなった選手が,アマチュアに復帰しようとする場合,どのような規則が設けられ ているか。体協加盟競技団体の規則を拾って見ると,多少ニュアンスの違いはあるが,お よそ次の三つに大別することが出来る。①復帰を認めないもの②復帰を認めているもの③ 復帰を認めるか認めないかの条項を持たないものなど。以上はそれぞれの国際競技連盟な

り団体の規則によっているものが多い。

転向を認める種目でアマチ手アに復帰した選手もオリンピックには出場できない。オリ ンピック憲章はそのはじめに「プロから転向したものは,現在アマチュアであってもオリ ンピックには参加出来ない」とうたってある。

問題になるのは野球で,「プロ野球が社会人から選手をとり,プロをやめた選手を社会 人が受け入れる相互扶助を確立したわけだ」といわれ,これに割り切れないものを感ずる 人が多い。これを代表する意見は「プロとアマチュアは全く性格を異にしているものであ る」プロは野球を企業としている以上これと思った選手はどんどん引き抜いて行く,とこ うが後は野となれ式で使えない選手はぽいとほうり出して社会人野球にしりぬぐいをさせ ている。これも一ケ年,暫定措置で半年でアマチュアに帰れるのでは区別はあってないよ うなものだ。転向期間を3年くらいにすれば,採る方も慎重になるし,行く選手もよく考 えるだろう」というのである。

半面,現状でよいとする意見は「…・・野球以外で職を探そうとしてもこのセチ辛い世の 中で簡単に職にありつけない。二年も三年も放っておかれたのでは若い人の将来を誤るこ とになる。それよりもプロで身につけた技術を生かして行けば,社会人球界にもプラスに なるのではないか」と云うのである。これらは,プロとアマを本質的に区別するよりも社 会政策的な考え方に重点を置いた見方といえよう。

自己の犠牲に立つアマ(香山 蕃氏,日本ラグビー協会会長)アマチュア・スポーツとは各 自が好きでやるスポーツ,精神的,肉体的,金銭的にもすべて自己の犠牲においてやるこ とがその真髄だ。自己の犠牲なく,自分のなんらかの利益のためにやるのではアマチュア 精神から外れているのではないか。その基準から割出しておのずと限界というものが出て

くる。

それぞれの立場に誇リ(浅野均一氏,体協理事)日本でアマ。プロ問題がよく起るのは各

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大西:体育の社会学的研究課題      177

自がそれぞれの立場に徹していないからだ。プロらしかなぬプロ,アマチュアらしからぬ アマが日本には多いのだ。一度プロになったものがアマチュアに戻ろうとかアマチュアに プロ行為があるなどは自分の立場に誇りを持っていない証拠だ。……自分の立派さに誇り を持つぺきだ。他の立場を侵さず,良識を持って限界をきちんとして行けば問題は起らな いのではな、・か。

金で学生を勧誘するな(東俊郎氏,体協国内総務主事)アマチュアリズムは明確なもの だ。反するものはそれによって裁くぺきだ。しかし多くの学校の場合,アマチュアという より教育上の問題ではなかろうか。学校の指導方針が誤っている場合が多い。スポーツ選 手の入学もよく問題になるが,私立学校がスポーツでの特技を人問の優秀性の一つの要素

と考え入学させるのはやむを得ないだろう。プロ野球が学生に引き抜きの働きかけをする のは良くない風潮だ。プロ野球は普通の就職と変り職業の内容で誘うのではなく金の多少 で誘うのだ。これは他の学生にも悪影響を与える。社会人野球はアマチュアとは認められ ない。アマチュアというならばもっと自粛すぺきだろう。バレーボール,バスケットボー ル・などにもレクリェションの段階を起えるものが出て来つつあるが,これは厳重に取締 るぺきであろう。

善意で両者の混乱防げ(神田順治氏,前東大野球部監督)アマチュアとプロの問は複雑だ。

このためとかくルーズになりやすいが,アマチュアのスポーツマンは積極的な意欲をもっ てアマチュアリズムの確立に努力すぺきで,プロもアマもたがいに善意を持っておれば,

とかくのいざこざも解決すると思う。

私はスポーツを通じて人間を作ろうとする教育的な意義を求めているが,やはり経済的 な裏付も否定出来ない。そこにプロの入って来るスキ間を感じる。……現在国際的には国 のお抱え選手(ステート・アマチュア)が問題になっているが,こういう行き方には反対 だ。しかし例えばオリンピックなど海外遠征している問の給料はどうなるだろうか。こう いう問題については,やはり国あるいは関係会社が温かい気持で盛り上げてゆかなくては ならまい。このために親たちも指導者もみんな,プロとアマチュアというものについての 理解が必要で,無知から純粋なアマチュアを知らず知らずに汚すこともある。

以上の如き現代スポーツ界の現状と,それに関連して起るアマ,プロの問題は,不十分 な自覚と不用意な行動によって,純粋であるアマチュアリズムが社会や環境によって利用

され汚染されることによって惹きおこされているd

アマチュァスポーツの中にも中学生から高校,大学に到る組織だった管理に属するレベ

ルの高い選手層から,町の中小企業の店員や従業員のチームにいたる巾広い層を持ってお

り,同じスポーツ種目の中でも組織化され技術の高いものと,趣味からまたレクリェショ

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ンとしてスポーツを楽しむ層に及ぶ広範なものまでがある。ここで問題になるのは,レペ ルの高い選手層であってしかもピラミットの頂点にある人達である。底辺にあり組織など に関係のないスポーツ愛好者にはアマチュア問題は起り得ないのである。すなわち本業が 明らかであり,仕事に精励であり,宣伝の後光効果がないからである。

商品や商社の宣伝にアマチュアスポーツが利用される事は,純粋なるぺきアマ・スポー ツの精神と相反することであり,学校がスポーツを宣伝の具にする如きは当然批判を受け るべきことであろう。実業団チームやノン・プロ野球が「会社での職務は名ばかりだ。プレ 一は宣伝合戦だ」などと云われるのは,その本業とスポーツの区別を明瞭にしないからと 云えよう。プロとアマの一番大きな違いは「報酬をもらうかどうか」であり,一番大きな 特徴は「趣味,嗜好からスポーツを愛し,スポーツの精神とアマチュアリズムの精神の昇 華したものである。それは,フェアープレーの精神にもとづき,正義を愛し,名誉を重ん

じ,正直で誠実な人間としての高尚な意識が根定にある」ものとして理解すべきである。

イギリスで初めてアマチュア規程が適用され,プロとアマを区別したのは19世紀の中頃 であって,同国のポートのヘンレー・レガッタであるといわれる。当時はいろいろのスポ 一ツに賞金がかけられていたので,賞金目当ての職業団競技者を除く目的であったと云わ れるが,同時に身分的差別(筋肉労働者や工員などはアマチュアでないとした)がなされ た事は注目に価する。

このことはアマチュア規程の問題,改正の問題の基底となっていたものと思われる。さ らに教育関係者や教育的見地にたつ人を中心にく規定でしばるよりもアマチュアの意義を 明らかにし,その精神を十分理解し徹底させる必要がある〉という活動が起っている。

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(参考※)論説「プロとアマチュア」昭和33年3.月19日〜23日・朝日新聞。参照・引用 アマチュアリズム・井上春雄著,新体育学講座,適遥書院,1961。参照・引用

第59次国際オリンピック委員会会議の所見・A.0.ロマノフ,体育とスポーツN(L32(OLYMPIA No.181963 June)べ一スボール マガジン社。

4 スポーツマン綱領

アマチュアリズムがブルジョア社会の中に生れたものであり,社会的地位を問題点にお いて規程がもうけられたものであった事から,今日の大衆化されたスポーツ〈階級的なも のから離脱した庶民的傾向へと〉発展しつつあるとき,アマチュア規程の拘束性と否定性 は一般大衆スポーツ活動の中にしばしば問題を投げかけている。

然し,これらの問題の発生するところは,現代スポーツ社会における階級的,社会的地

位の問題を擁護し排他的,否定的な規程の条項に対する対立によって起る当面の問題のみ

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をもって解決されるものではない。むしろそれは,アマチュアリズムの厳守と共にその根 本精神を認識させ,アマチュア精神の尊厳とスポーツの本質を一般大衆と共に十分吟味し てみる必要があるのではないか。規程で拘束するより前に大衆の理解と認識によって庶民 階級の中に正しく浸透して行くことも可能となるであろう。

すでにイギリスはじめ西欧諸国には,アマチュア規程の他にスポーツマンの倫理綱領が 定められ,日本にもスポーツマンの綱領が定められた。(1955<昭・30>1月)その根本 精神は,しばしば述べたようにアマチュア規程はプロスポーツとアマチュアスポーツを区 別するためのものだけであってはいけないし,規程そのものがスポーツマンを区別するも のでもない。要は個人の行為と態度を律すぺき筈のものである。

アマチュア規程を法律化し,スポーツマンを規制しアマチュアスポーツマンを統制しょ うとする傾向を強く打ち出しても,現実社会ではこれが却ってアマチュアリズムの本質を ゆがめ違反を生じ,スポーツマンの大衆化に伴って勝利者の栄誉と名声はマスコミやジャ 一ナリズムの好餌となってますます英雄視されてくる。而して一般スポーツマンをますま す刺戟し,スポーツに親しみ努力し勝利をかち得ぺく専念するようになる。

アマチュアスポーツから得るものは精神的,身体的なもの以外は何も要求しないところ にアマチュア精神の本領があると解するのであるが,現実社会においてはこのような純粋 な気持を,そのままスポーツ界に引用し得るかどうかは困難な問題となって来ている。ス ポーツが身体活動以外にその目的を持たないものであり,活動の過程において技術の向上 や勝利の追求を目指しているのであるから,身体活動以外に物質的社会的利得を目的とし

ないところにスポーツの本質があり伝統がある。

スポーツの陥りやすい幣害からスポーツマンを守り,スポーツの特質を歪曲することを 防止せんとする配慮がアマチュア規程として明文化されるのであって,勝利の栄冠に伴う 各種の物質的利得を追って競技に専念し,余暇の利用を楽しむスポーツがプロフェショナ ルスポーツになりセミ・プロスポーツに置きかえられることは,真のスポーツの発展を阻 害するものとなることをおそれるのである。

スポーツは身体活動によって行なわれる。身体的,精神的,道徳的な発展を促進し,障 害を克服するところにスポーツの技術の研鎖があり,競技に対する憧れや尊厳さがあり・伝 統的な規則や行動慣習があり,善良な気質や活発で高尚な活動を身につけることが可能で

ある。青少年の陥り易い幣害を除去するために,この点で教育的配慮も十分行われるべき

である。

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(参考)スポーツマンの綱領

1.競技する者はスポーツを愛好し,ひいてはそれを心と身体の糧とし,明るい光とすがすがしい空 気の中で純粋にスポーツを行うこと。

2.競技する者はスポーツを行うことによって社会的な名声や物質的な利益を得ようとの考えを持た

ないこと。

3.競技する者は審判の判定を重んじ,その決定に満足しない場合でも感情に支配されぬ行動をとる

こと。

4.競技する者はつねに明朗で,相手を尊重しつつ自分の最善を尽し,その成果に満足すること。

5.競技を審判する者は規則にしたがって公正に判断し,競技を明るくなめらかにすること。

6.競技を見る者は感情にとらわれた応援をせず,美しい精神とすぐれた技術をたたえ,スポーツに より良い発展をねがうこと。

スポーツマン綱領は,競技者,審判,観衆の立場について望ましい姿を示したものであ

る。而して各階層各方面に起り得ると思われる各種の弊害を末然に防止し,あるいは最小限

にくい止めようとする配慮によったものである。この綱領の制定にあたっては種々の議論

がかわされた。ある時は賛否を論じある時は内容の通俗的なのに失望するかに見えた。然し

究極の目的を要約するとき上記の網領となって生まれたのである。スポーツ界にこのよう

な倫理網領の実践が要望されることは勿論のこと,アマチュアリズムの確立を期するため

に教育的配慮がなされたのである。(前掲,新体育学講座・アマチュアリズム参照)

参照

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