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アメリカ戦略諜報局(Office of Strategic Services)と連合国戦犯政策

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アメリカ戦略諜報局(Office of Strategic Services)と連合国戦犯政策

著者 郭 貴炳, 崔 誠姫

雑誌名 PRIME = プライム

巻 44

ページ 81‑88

発行年 2021‑03‑31

その他のタイトル Office of Strategic Services and Allied War Crimes Policy

URL http://hdl.handle.net/10723/00004154

(2)

論文

アメリカ戦略諜報局(Offi  ce of Strategic Services)と連合国戦犯政策

  郭   貴 炳  翻訳:崔 誠 姫

(ソウル大学校・院)

1.はじめに:第二次世界大戦戦争犯罪と朝鮮人

周知のように2015年日韓間での日本軍「慰安婦」

問題合意、2018年10月30日韓国の大法院強制動員 判決、その後今日までも続いている日韓を中心に 繰り広げられている外交的葛藤は、「1965年日韓 協定体制」が時効を過ぎたことを明らかに示して いる(金昌禄、2013)。すなわち、1965年に日韓 間で結ばれた「大韓民国と日本間の基本関係に関 する条約」と「財産及び請求権に関する問題の解 決と経済協力に関する協定」をもとに成立した法 的枠組みの中では、被害者中心の正義樹立の原則 のもと問題解決を促す市民社会および国際社会の 要求を正しく受容できない状態があらわれたとい うことがいえる。このようなコンテクストのもと、

韓国および日本の学界での関連研究は、謝罪と賠 償を受けられない被害者の問題、まともに処罰さ れない加害者、遅延している正義を今からでもど のように樹立できるかを中心に行われている。

多くの研究は遅延している正義の主要な原因と して、不完全な戦犯裁判に注目している。代表的 なものとして内海愛子(2007)は、朝鮮人捕虜監 視員が連合軍捕虜虐待に対する責任を過度に負 い、戦犯裁判で処罰され、朝鮮半島で国民国家が 構成された以降も依然として日本人として取り扱 われ、日本軍に動員され不当な待遇を受けた被害

については、まともに認定も補償もされていない 点を指摘している。周知のとおり朝鮮人を含む

「慰安婦」制度は人道に反する罪に該当し得る項 目であり、戦犯裁判の準備の段階で日本軍が犯し た戦争犯罪として考慮されてもいたが、東京軍事 裁判等の主要な戦犯裁判で、制度の運営それ自体 に対する法的責任が扱われたとは言い難い。した がって、植民地人、特に朝鮮人の観点から第二次 世界大戦以降の戦犯裁判がもつ限界は、日本の植 民地構造に対する無関心と没理解といえよう。

しかし、このような無関心と没理解を単純に法 的条文の厳密ではない適用や、執行当局の意志の 不足と批判するだけでは十分とはいえない。より 根本的な批判と被害者中心の正義回復を促すため には、戦犯裁判が正義を穏全に樹立不可能とさせ た、歴史的構造を把握する必要がある。第二次世 界大戦後、戦犯裁判は法的には国際人権法の進展 を為した事件として評価し得るが、同時に連合国 が戦後秩序を(再)構築しようとする試みと密接 に関連している。つまり、戦犯裁判という法的装 置がもつ統治装置としての性格と、アジア地域で の具体的な作動様相を把握するとき、戦犯裁判が もつ意味と限界が明らかに示されるだろう。

本稿は戦犯裁判が植民地人、特に朝鮮人に対し て加えられた統治装置としての効果と意味を糾明 する巨大な作業の試論を試みるという実験的意図

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アメリカ戦略諜報局(Offi  ce of Strategic Services)と連合国戦犯政策

をもって作成された。まず、本稿は戦犯裁判が連 合国戦犯政策として確立されていく過程を簡潔に まとめ、このような過程から戦時諜報組織であった アメリカ戦略諜報局(Offi  ce of Strategic Service)

の役割と活力に注目する。戦略諜報局が戦犯政策 企画においては大きな役割を果たしたとは言い難 い。しかし、戦略諜報局は実際戦犯裁判が実行さ れる過程で、戦犯裁判の具体的な形態と関連し、

重要な役割を果たした。特に戦略諜報局はアジア 地域での戦犯裁判実行に、影響力を発揮してもい た。具体的には戦後、戦略諜報局のタイでの活動 をみていくこととする。そして、最後に戦略諜報 局という窓を通じてみた、戦犯裁判の意味と限界 を考察したい。

2.連合国の戦犯政策構想および実行:ニュルン ベルク(Nürnberg)へ向かう道?

第二次世界大戦連合国の戦争犯罪政策形成過程 は、単一で統一的な青写真のもと、着実に準備さ れたというよりは、国家の立場の差異による意見 対立、国家的・国際的水準(scale)において多様 な個人と組織の介入、戦況の変化、大衆的世論の 浮上などにより、さまざまな変曲点を経て左右衝 突した過程に近い。ケロッグ―ブリアン条約

(Kellogg-Briand Pact)をはじめとする国際法的 合意と、第一次世界大戦終戦後、ドイツの皇帝ヴィ ルヘルム二世(Wilhelm Ⅱ)の処罰に失敗した歴 史的経験等の影響で、枢軸国の戦争犯罪を処罰す るという意志はあったが、どのような方式を選ぶ か(裁判の形式を取るのか、取るなら法廷はどの ように構成するのか等)、どのような国際法的根 拠を通じて、戦争犯罪を処罰できるかは戦争の土 壇場までも決定できなかった(康誠賢・孔晙桓・

郭貴炳・李ジェイム、2019)。

戦犯政策の形成と関連する既存の研究は、このよ うな過程の複雑性と歴史的偶然性を捕捉し、ニュル

ンベルク国際軍事裁判(Nürnberg International  Military Tribunal)の実行を通じ、戦犯政策が固 定化したものと解釈している。ニュルンベルク軍 事裁判を中心にみると、1944年半ば以降、アメリ カの役割が決定的であったことは否認できず、こ のようなアメリカの立場を決定するにあたり、重 要な部署として陸軍省(Department of War)が 浮き彫りとなる。このような観点からアメリカを 中心にみた連合国の戦犯政策決定過程は、1944年 半ば以降、組織犯罪と共謀の概念を核心とする バーニーズ(Murray Bernays)中佐の戦犯裁判 案がさまざまな部署と個人の法律的助言、および 組 織 的 調 律 過 程 を 経 た 末、1945年 ト ルーマ ン

(Harry S. Truman)大統領の就任が決定的な契 機となりアメリカの公式政策として力を得て、連 合国間の調律を経てニュルンベルク軍事裁判につ ながる一連の過程として整理することができる。

この過程はまた平和に反する罪、人道に反する罪 という重要な戦争犯罪概念が法的に具体化され、

現実で力を得ていくのかという過程でもある

(Smith, 1982; Kochavi, 1998; 林博史, 2004)。

筆者がみるに、このような研究は二つの限界を もっている。まず、戦犯裁判はヨーロッパでだけ 繰り広げられたのではなく、アジア・太平洋地域 でも行われたという点を考慮すれば、以上の研究 はニュルンベルク裁判を除外した他の戦犯裁判 を、ニュルンベルク裁判の不完全な実行としての みみられるような効果をもつ。ニュルンベルク裁 判が東京軍事裁判をはじめとする、以後の主要裁 判の原形となったという点を否認することは難し いが、西欧中心的であり法学中心的な既存の接近 を超え、1950年までも続いた他の戦犯裁判に視野 を広げ、連合軍の戦犯政策を包括的に理解する必 要がある。

第二に指摘したい点は、上記で指摘した視野の 限界により、連合軍諜報組織をはじめとする、多 様な行為者の役割が十分にあらわれていない点で

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ある。アジア地域で繰り広げられたBC級裁判は、

植民地での利権を放棄できない西洋列強と民族国 家を形成しようとする脱植民独立運動間の不安定 な政治環境の中で行われた。この地域での戦犯裁 判は、日本帝国に協力した民族主義指導者の威信 を損傷させながら、戦後日本の経済的・政治的影 響力を縮小させようとする、既存の植民地支配権 力の意図が強く反映されていた(Lingen, 2016)。

戦犯裁判はアジア地域での西欧列強の覇権を、

(再)確立するための装置(dispositive)であった。

この過程でニュルンベルクで確立された法的原則 よりも、戦犯裁判を実行する実務者の力量と判断 が重要な役割を果たしがたく、第二次世界大戦中 にこの地域で活動していた諜報組織も重要な役割 を担った。

したがって、連合国の戦犯政策を国家、国家間 協議、そして連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)

中心の権力上層部での議論過程を中心にみること と同様に、現実的条件を十分に反映できないまま、

上層でつくられる原則と指針を現実化した実行組 織を総合的に把握する必要がある。本稿ではいく つかの諜報組織の中でも戦略諜報局(Offi  ce of  Strategic Services、以下OSS)が戦犯政策およ び戦犯裁判進行に与えた影響を論じ、戦犯裁判が 統治装置としてもつ意味を考察したい。

3.戦略諜報局(Office of Strategic Services)

の戦犯政策参与の試み

OSS局長であったドノバン(William J. Donovan)

はOSS結成当初から戦争犯罪問題に関心を抱いて いた。1942年 8 月17日備忘録でドノバンは、ドイツ と日本の残虐行為に対する証拠を収集するだけで はなく、このような残虐行為に対する指揮責任を、

どの水準まで問わなければならないのかに対し議 論が必要だという意見を提示してもいた。1943年10 月末、ドノバンは戦犯裁判の実行可否が不確実で、

ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)大統 領が彼に公式的に戦犯目録を作成せよと指示した ことがないにもかかわらず、ルーズベルト大統領 に対しOSSがすでに潜在的なドイツ戦犯目録を作 成している点を報告してもいた(Salter, 2007: 

309-310)。

ナチ・ドイツの戦争犯罪を分析し、戦犯容疑者 を目録化し、戦犯裁判を通じて彼らを処罰するこ とに関する研究は、OSS研究調査部(R&A)とい う部署を中心に行われた。これとともにナチの残 虐行為がドイツ実定法に従う合法行為という反論 に対抗するため、ナチ時代に制定された実定法は ハーグ条約などの国際法に違背するため、「法的に 無効」(legally invalid)であるという論理を開発 していた。ドノバンは1944年10月 6 日に戦争省次 官マクロイ(John J. McCloy)に、「戦犯に関す る問題(Problems concerning War Criminals)」 

(R&A 2577)を提示してもいた。調査分析課(the  Research and Analysis Branch) の ノ イ マ ン

(Franz Leopold Neumann)博士は、ナチに反対 するドイツ人が、ドイツ法にしたがって戦犯を処 罰する方式を主張し、ドノバンはこの主張に力添 えをした(Salter, 2007: 313-315)。

1944年12月15日、ドノバンは陸軍法務官室の戦 争犯罪部と協力をはじめた。OSSは今後、裁判の 証拠を収集し、潜在的被告の目録作成作業に協力 することとなった。ドノバンは1945年 3 月まで副 大統領だったトルーマン(Harry S. Truman)に ドイツ人が1933年以前の法に従って戦争犯罪者を 審判し、処罰しなければならないという意見を提 示した。これは先述のように戦犯裁判をドイツの 脱ナチス化プログラムの一部に統合しようとす る、OSS内のノイマンをはじめとするフランクフ ルト学派の学者の見解と一致するものでもあった

(Salter, 2007: 317-320)。しかし、上述のとおりす でに陸軍省の主導のもと、アメリカの戦犯政策の 方向は国際条約を通じた国際法廷案に傾いていた。

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アメリカ戦略諜報局(Offi  ce of Strategic Services)と連合国戦犯政策

1945年 4 月12日にトルーマンが大統領に就任し、

1945年 5 月 2 日にはジャクソン(Robert H. Jackson)

大法官がアメリカ首席検事(US Chief of Counsel  for the Prosecution)に選任され、OSSは戦犯裁 判に介入する機会を得ることとなった。ジャクソ ンは新たな組織である首席検事局(the Offi  ce of  the Chief of Counsel ,OCC)を構成し、ドノバン を自身の副官(deputy)に任命した。ドノバン は1945年 5 月と 6 月の間、ヨーロッパとアジア地 域のフィールドオフィス(Filed Offi  ce)を含む、

OSS全組織に戦争犯罪研究を最優先課題として設 定した。ドノバンはOSSが作成した戦犯裁判関連 報告書および証拠資料、潜在的な戦犯目録をジャ クソンに提供し、民間人要員38名と軍人要員66名 を含む、全104名の要員をこの組織に派遣した

(Salter, 2007: 328-345)。

ドノバンのこのような戦犯裁判に対する関心 は、OSS要員が被った拷問や殺害に対する復讐心 と、連合軍のため活動したドイツ人スパイが起訴 され処罰されることを防ごうという意図から出て きた(Waller, 2011; 324)。これと同時に、ルーズ ベルト死後、戦争が終結されるにしたがい、存廃 の危機に置かれたOSS組織を維持し、ニュルンベ ルク裁判をドイツの脱ナチス化を実現する主要な 心理戦として展開しようとする意図もまたもって いた。このため、ニュルンベルク裁判をメディア に積極的に露出させようと試みたが、法的形式を 重視したジャクソンとの葛藤の中で、自身の意図 を成し遂げられず、OSS組織もまた1945年10月に 解体された(Salter, 2009)。

ここで興味深いことは、戦犯裁判をメディアに 積極的に露出させようとする戦略が、心理戦の一 環として企画されたという点である。ドノバンと ノイマンをはじめとするOSS要員は、戦犯裁判を ドイツの脱ナチス化を遂行するプログラムの一環 と考え、これはOSSが戦犯政策形成期にドイツ人 が直接ナチスドイツを処罰する方式で、裁判を構

想したことと同じコンテクストに置かれていた

(Salter, 2009)。これは戦犯裁判がもつ重層的な 性格をよく示していると同時に、実行過程で参与 主体の介入にしたがって、他の効果をもつ装置に もなり得たことをよく示している。

4.アジア地域での戦犯裁判とOSSの関与:タ イの朝鮮人捕虜監視員の事例

アジアでの戦犯裁判はヨーロッパでの戦犯裁判 に比べると、戦後処理と脱植民地化の問題がとも に結合しより一層複雑な様相を帯びており、さら に不安定な政治環境で進行された。また、基本的 にナチスドイツを処罰するためのさまざまな法的 概念と原則を、アジア地域でそのまま適用させる ことは困難であった。特に朝鮮問題と関連しては、

アメリカ・ワシントン行政府内に専門家もほとん どいなかったため、地域で活動していた組織実務 者の性向と力量が、より大きく作用し得る環境で あった。このような組織の中にはOSSと戦時情報 局(Offi  ce of War Information, OWI)などアメリ カの諜報組織も含まれていた。

OSSはマッカーサー(Douglas MacArthur)と ニミッツ(Chester W. Nimitz)が管轄する区域 ではまともに活動できなかったが、中国、インド、

ビルマなどで活動し朝鮮と関連する心理戦を企画 し繰り広げられた。したがって、OSSの活動は主 に朝鮮人の独立運動支援、中国共産主義者との協 力や中国地域での心理戦活動等は、既存の研究で 相当な部分が究明されてきており、特にOSSが朝 鮮人「慰安婦」と関係し作成した文書は、パン・

ソンジュ(1992, 1997)の研究によって韓国では よく知られている。しかし、戦犯裁判関連活動に ついては研究が十分に行われてきたとは言い難い。

本 章 で 主 に 扱 お う と し て い る こ と は、OSS  XL20581として知られている文書で、1945年 9 月

6 日当時、タイで朝鮮人捕虜監視員900名、日本

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軍所属朝鮮人兵士5,000名、朝鮮人「慰安婦」1,500 名がいたという内容が主に紹介された(パン・ソ ンジュ、1992; 245)。報告書は「慰安婦」問題の ほかにもタイ国内の朝鮮人、特に捕虜監視員に対 する詳細な内容を含んでいるが、その内容につい てはまだ十分な分析が行われていないと思われ る。報告書の作成日は 9 月 7 日、配布日は10月15 日で、配布日当時OSSはすでに解体され中央組織 は戦争省傘下の戦略諜報団(Strategic Service  Unit, SSU)として再編され、文書に押されてい る直印からも、その事実を確認できる。この報告 書はハリー・ムンシル・ジム(Harry Moon Sil  Jim)に対する尋問をもとに作成されたものだ。

報告書によれば、彼は朝鮮で産まれ1925年ハワイ ホノルル(Honolulu)へ行き、1933年再び朝鮮に 戻り捕虜監視員となった。この報告書では捕虜監 視員の地位の特性、月給および処遇、彼らの現在 の配置状況等が詳細に示されている。報告書によ れば戦争が終わった後、捕虜監視員をはじめタイ の朝鮮人は「Korean National Association」を組 織し、支部ごとに代表者を選ぶ一方、内務部、外 務部、財務部、通信部などの内閣を構成し、ハ リー・ムンシル・ジムは協会の代表(president)

であった。彼らは連合軍の協力を得て、光復軍に 急ぎ合流したいという意見を表明していた。報告 書は多くの朝鮮人が深刻な戦争犯罪を犯し、捕虜 を虐待したという点もまた明示している。

筆者が発見したことによれば、この報告書の 原本となる備忘録は1945年10月 6 日付で作成さ れた報告書で、ローソン(Robert W. Lawson)

が陸軍法務官室法務官補(Assistant Staff  Judge  Advocate)であるチャプラ(Charles A. Chapla)

少佐に送った報告書である( 1 )。タイトルはWar  Crimes(Original Documents) で あった。 こ の 文書によると、ハリー・ジム(Harry Jim)はロー ソンの要請に従い、捕虜収容所日本軍関係者が朝 鮮人捕虜監視員を虐待したという陳述を、朝鮮人

捕虜監視員から多数確保した。しかし、ローソン は朝鮮人捕虜監視員が連合軍捕虜を虐待し、朝鮮 人に対する待遇と関連して日本軍関係者を米軍が 起訴する位置にあるとは考えていないと述べてい る。ただ、朝鮮人捕虜監視員の日本人に対する反 感を利用し、連合軍が身元の確認が不可能な場合 や、関心をもっている日本人を確認できると提案 した。そして、このような措置を通じて日本人を 刺激し、捕虜を虐待した朝鮮人捕虜監視員の身元 を確認できると提案している( 2 )

この報告書に添付された1945年 9 月 6 日付報告 書は、XL20581号とほとんど同じ内容を含んでい るが、文段番号が付与されておらず、形式が多少 異なっている。報告書の配布線もX-2 Kandy, CID  Bangkok, X-2 Bangkok等、アジア地域の組織に 限定されている。多くの朝鮮人が戦争犯罪を犯し たという内容に加え、いくつかの地域の朝鮮人捕 虜監視員を招集し、戦争犯罪関連部署が罪を犯し た朝鮮人の身元を確認し、逮捕できるようにしな ければならないという文が残されている。

以上の文書で扱われた「Korean Organization」

はタイで動員された捕虜監視員の李鶴来が言及し た高麗人会である可能性が高い。李鶴来によれば 日本の敗戦後、タイにいた朝鮮人捕虜監視員は数 か所に点在しており、彼がいた本所では周辺分遣 所の捕虜監視員が集まり20名ほどが一緒にとど まっていた。彼によればバンコクでは高麗人会と いうキャンプが組織され、彼らもすぐに合流する 予定であった。そのような中で「 9 月28日夕方ま で高麗人会に集合すること。集合しない者は処罰 する」という連合軍の命令が伝達され、高麗人会 で連絡を担当しこれを伝えた。そして、李鶴来は 戦犯確認手続きを踏むこととなる。(李鶴来、

2017:60-62)10月15日付報告書ではすでに戦犯 確認手続きが行われていたため、朝鮮人捕虜監視 員と高麗人会を活用した戦犯の身元確認、および 逮捕計画と関連する文章が削除されたと思われる。

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アメリカ戦略諜報局(Offi  ce of Strategic Services)と連合国戦犯政策

タイの事例は、朝鮮にいた捕虜監視員の処罰事 例と比較すると、いくつか考えるべき点がある。

朝鮮内の捕虜収容所問題と関連し、米軍は600名 の関係者の中で日本人だけを横浜戦犯裁判に引き 渡し処罰した。朝鮮人捕虜監視員は戦争犯罪容疑 者の代わりに、日本人将校や兵士の捕虜虐待嫌疑 を告発し証言する参考人となった(孔晙桓、

2017: 133-136)。朝鮮とタイにいた連合軍捕虜が 経験した虐待と残虐行為の程度は、非常に異なっ ていた。地域によって捕虜監視員に対する処理が 異なっていたことは、タイと朝鮮にいた連合軍捕 虜の状況が異なっていた点に相当起因していると いえる。タイにいた連合軍捕虜は、泰緬鉄道建設 過程で動員され、生命の危機を経るほどの劣悪な 状況を耐えなければならなかったこととは異な り、朝鮮にいた連合軍捕虜は虐待をまったく受け なかったとは言えないが、相対的にずっとよい条 件にいた。また、タイにいた朝鮮人捕虜監視員は、

連合国捕虜を労役の現場に追いやり、捕虜を監視 する役割を担っていたため連合軍捕虜の恨みを得 るしかなかった。

これに加え筆者が強調したい点は、戦犯裁判が もつ効果とこれに関係する組織の問題である。ア メリカの立場から朝鮮にいた朝鮮人捕虜監視員の 処罰が、駐韓米軍政の正当性を高めることに寄与 しがたいと判断された可能性が高い。一方、タイ における朝鮮人捕虜監視員の処罰は、タイ地域の 統治と戦後処理に驚異的な要素ではまったくな かった。さらにOSSはタイ地域の戦後軍政に責任 を負う立場ではなかったため、連合軍捕虜と本国 の世論をより重要に考慮したといえよう。した がって泰緬鉄道建設過程で行われた捕虜虐待がメ ディアの注目を受けていた状況、連合軍捕虜の朝 鮮人捕虜監視員に対する反感などと合わせ、朝鮮 人捕虜監視員に対する処罰は不可避という判断を 下したと考えられる。

もう一つ指摘したい点は、朝鮮人「慰安婦」問

題がまったく戦争犯罪の問題として考慮されてい ない、という点だ。文書上では朝鮮人「慰安婦」

の数字に言及しているだけで、ハリー・ムンシ ル・ジム(Harry Moonsil Jim)もローソンも、

朝鮮人「慰安婦」らが受けた重大な人権侵害には まったく言及していない。OSS中国支部は戦争中 に中国地域で中国人が日本軍に協力する状況を防 ぐため、日本軍がどのような女性であっても「慰 安婦」にするという内容の伝達を配布してもいた

(パン・ソンジュ、1992)。OSS調査部は朝鮮人「慰 安婦」問題を日本の統治がつくり出した道徳的堕 落の一つとして提示し、朝鮮での心理戦に活用し ようとする計画を立てていた点( 3 )を考慮すれば、

朝鮮人「慰安婦」問題に対する沈黙はより意味深 長に迫ってくる。

5.おわりに:戦後新秩序確立と戦犯裁判

ここまで簡略に述べてきたように、アジア地域 での戦犯裁判は国家組織上層での複雑かつ大胆な 調整及び葛藤の過程で作られた政策が、地域的ス ケール(scale)の実務組織水準で現実化される 重層的過程である。アジアでの戦犯裁判は、旧日 本帝国を解体し、自身らに有利な秩序を再編しよ うとする連合国、特にアメリカ本国の意図が協力 に反映されたものであるが、これと同時にこの地 域で活動した多様な組織、特にOSSをはじめとす る諜報組織支部の活動の中で具体的な形態を整え ていった。結局、朝鮮人捕虜監視員に対する処理 が地域ごとに異なり、日本軍「慰安婦」問題が心 理戦の素材としては考慮されたが、重要な戦犯裁 判としては考慮されなかった過程に対する探究 は、戦犯裁判政策を樹立した本国中央政府組織の 無関心のみならず、地域レベルでの組織活動と戦 犯裁判がどのような主題を対象に作動した装置で あったのか、ということに対する考慮の中でより 一層深化されよう。結局、第二次世界大戦後、戦

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犯裁判を道徳的・法的正当性の次元から批判し、

このような被害者中心の正義を樹立する歴史的課 題の解決は、戦犯裁判が実際に行われた過程に対 する詳細な分析を通じ、さらに一歩先に進むであ ろう。

参考文献

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アメリカ戦略諜報局(Offi  ce of Strategic Services)と連合国戦犯政策

 ( 1 ) Robert  W.  Lawsonは1945年 8 月25日 Harold Graves中佐とともにタイに到着し、

一連の活動を終えた後、 9 月 7 日にKandy 支部に帰還した。(Reynolds, 2004: 385)

 ( 2 ) ローソンはバンコク出発直前、朝鮮人捕虜 監視員に会い彼らの陳述を翻訳する時間が 不足していたと明らかにし、彼らと関連す る日本語資料など、主要関連資料はタイ駐 屯英国軍で残虐行為と戦争犯罪責任者の Clague少佐の元にあると明らかにしてい る。

 ( 3 ) この文書は韓国国史編纂委員会韓国史デー タベース(http://db.history.go.kr/id/kd̲ 

021̲0020̲0010)で確認できる。

参照

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