貨 幣 の 慣 値 と 数 量 説
大野
純
一
本稿にU﹁●宍二・ユ困マ葺巴臼著U油oρ§三M仲痒m臣oo二〇"}o尽"おN悼中くo葺O鉱傷毛o詳の一節な謬出し
五ものであろ︒忠實に﹃貨幣債値に就いて﹄と題す可きであるが便宜上本題に改め六こと彪御噺りして
なくo蓋し該著より引離され牝内容はそれによつてより明白に窺ひ得るからであろo
吾々は目標に從つて︑先づ貨幣債値の本質性に進まう︒が此庭に︑制限を設け︑以後の叙述に重
要なるもの\みを観察するであらう︒
貨幣慣値換言すれば貨幣の客観的交換償値の問題に關しては︑論者の隊伍を三班に分ける乙とが
出來る︒其一派は︑貨幣は必然に素材領値を持πねばなら諏︑と主張する︒即ち貨幣が一般的交換
手段πる乙とは︑貨幣は評債に基く財の交換を可能ならしむと言ふことであつて︑貨幣は此職能を
管むが故に憤値の尺度となるのである︑而して︑債値の尺度πる貨幣は︑必然に其自身儂値を持π
貨幣の債値と籔量観一七七
商學討究第一巻(上)日七八
ねばなら澱︑何となれば︑其自身償値あるものにして初めて債値の尺度だb得るからである︑とす
る︑1囚昌闘︒︒︒℃罎窪σq︒ご[o貫U一︒三等の襲名する金属主義の立揚︒彼等にとつて︑費買は交換の
高次の形式に過ぎない︒責買に於ける心理過程は交換の其と何等異る所がない︑即ち與ふる財竜受
くる財も共に讐方の當事者によって評債されると考へる︒されば︑囚三$は︑﹃経濟財の償値は︑
貨幣即ち貨幣片によつてではなく︑貨幣の橿値即ち一定重量の貨幣片に含む慣値量によつて︑測定
せられる︑﹄①と言ひ︑U一〇鑓は︑私有財産と自由競箏に基く今Hの國民経濟にあつては︑比較商品
として其自身債値を持つ慣格財が存在しなければなら諏︑①と言ふのである︒Uδ匡は︑生産者は買
好きの消費者に劃し﹃吾々の商品に幾何を下さいますか︑例ば金の如き︑一般向きの劉象で評慣し
て下さい︑﹄⑥と渤誘し得なければなら孤とする︒故に金属主義の見地よbすれば︑交換手段並びに
領値尺度力る職能は︑貨幣に於ける實禮債値の必然性を要求するのである︒吾々は︑有慣値なる
貨幣財を要求せんとする此基礎付けの中に︑金属學説固有の規範を見出し得る︑と信ずるものであ
る︒彼等は︑交換手段としての貨幣は同時に債値の尺度である︑然るにメートルは其自身長さを有
するが故に尺度πb得るが如く︑其自身慣値を持つものにして初めて債値の尺度泥るが故に︑貨幣
は領値を持πねばなら粗︑と考へる︒惟ふに例へば隼§︒竃︒=も亦全く他種の金属主義者である︑
'
何となれば︑彼は﹃終極の問題﹄から同様の要求をなすに至つ禿からである︒言ふ海もなく︑彼の
考へは次の如くである︑即ち縄濟人は貨幣の中に終極的充足を庶幾する︑然して此庶幾は(世界の
無限の問題は形而上學的なるも︑貨幣の問題は常に肚會科學的なるが故に)肚會の解散に際しても
荷︑経濟人は貨幣の中に慣値ある財を所有し︒肚會的生産物の分配に與かり得る︑と言ふことに存
しなければなら粗︑と︒㈲
貨幣債値の論箏た於ける第二斑は︑素材領値の必然性は否定するも爾素材慣値なき貨幣に慣値性
を認めんとする論者によつて構成される︒此即ち職能債値論者である︒彼等によれば︑賃幣に於け
る慣値性は︑其職能即ち貨幣が責買にょり個人的慾望を充足し得る可能性よら生ずるのである︑職
能は言は里債値實膿なうとする︑=o巻℃=巴津﹁一︒戸Q∩一3ヨ︒ご〜を房2Ω﹁巷N︒r︿・乏一窃oご囚膏三δ
ω︒α9等は此派に結合する名前である︒鵠・)5によれば︑貨幣にあつても亦有用性と稀少性は慣値
の根源である︑⑥貨幣の有用性は︑直接消費或は生産に充用せらる\財に封し︑交易に充用し得る可
能性の中に存し︑稀少性は︑先づ第一に貴金属産出の自然的制限の中に︑次には貨幣の造出が國家
的規定に從ふと言ふ事實の中に存すと言ふ︒出︒一津﹁凶9は︑財の慣値一般を職能の債値なうとし︑⑥
貨幣以外の財も亦︑一定の機能によつて直接(清費)︑間接(生産)人間の慾望を充足するが故に慣
貨留の債値と鍛量翫一七九
商學討究第∴巻(上)︼八〇
値を有す︑とするのである︒此派の論者は︑個値を決定するものは︑素材ではなく職能であると言ふ
芝によつて︑貨幣が︑素材償伍を超越せる職能債値を持つ事實を説明し得る︑と信ずるのである︒の
U曾冒σqが其著﹃クナツプ以後の貨幣學説﹄に於て商品學説と名ける此二學説に封し︑絶樹に貨
幣の﹁慣値﹂を否定せんとする學説が極端なる劃立をなす︑彼等にとつては︑貨幣が債値を持ち得
ると言ふ乙とは︑考ふるを許さぬ事柄である︒囚暴℃㍗浮民一×︒3固ω叶︒ごH﹂︒雪碧昌の名は此に属す
るであらう︒此學派は︑領値は財の性質ではなく人間の心裡に存在する即ち慣値は慾望充足に
關する財と人間との關係に基くと言ふかの心理的維濟観の意味に於てのみ︑貨幣の債値を否定せん
とするものではない︒此種の貨幣論的見解は︑心理的或は物質的経濟観の論箏には關係せ澱︒財は
物的性質として償値を持つとするも︑術貨幣は慣値を持つ乙とは出來澱であらう︑彼等の観察によ
れば︑貨幣概念と債値性とは全然相容れ楓︑﹃経濟の他の側面﹄πる貨幣は︑領値なき現象であり︑
從つて債格を持た顧︑而して如何なる財も︑貨幣として︑職務を管むや否やー而してその間は
1経濟の意味に於ける財πる之とを停止するに至るとする︒指圖論者は︑費買は本質上軍に交換
の高次の形式ではないと観︑働費買の心理に於ても亦其見解を確謹せんとするのである︒即ち交換
に於ては隻方の財が評債せられるが費買に於ては一財のみが評慣され貨幣は詐慣され澱︑此場合貨
幣は評償の甥象ではない︑﹃其自身﹄評.慣されはしない︑蓋し貨幣は財ではないからであるとする︒
此見解よりすれば︑金属貨幣にあつて竜省貨幣︑貨幣實燈は評慣されるものでない︒
ヘへ故に此學説によれば︑結局貨幣は慣値を意味するが決して慣値を持つものではない︑而して此償
値意味は︑貨幣其自身から持つものではなく︑貨幣がその時々に購買し得る財貨の量から獲得する
のである︑とは言へ職能慣値學説の意義に於てではない︒此購買力︑国聾巽の用語に從へば分配
力︑は通常貨幣の﹃領値﹄と稽せられると乙ろのものである︑鵠窪隻×窪は日ふ︑﹃貨幣は凡てそれ
によつて購買し得るもの\憤値を持つ︑﹄①﹃而して貨幣債値と名くるものは︑吾々の知る物慣よ亜
構成されπ一種の反映観念に過ぎ滋︑﹄と︒駒評慣は︑商品論者と指圖論者︑金属主義者と名目主義
者の分岐黙である︑‑直観即ち認識の磯端其自身に於て合致せ澱限ムー言語を以つて此庭に架
橋することは出來ないのである︒
吾々にして若し文獄を通観するならば︑實際的理由からは兎竜角貨幣と財との結合を提唱する乙
とあるも︑素材慣値性を貨幣の本質に属せずとする學説が到る庭に勝利を博しつ㌦あるを容易に確
認するのである︒而して職能慣値學説と指圖學説との間には非常に多くの接鯛黙が存し︑爾者は互
に相接近するが故に︑前者は思想的結構にょつてのみ貨幣に慣値性を讃明せんとする︑と言ふ之と
貨幣の債値と鍛量観一八一
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を事實上認め得るのである︒而して其は︑貨幣に劃し債値論を慮用するが爲めの組織學的理由から
か︑或は叉内的強制︑i非分析的にして印象を輩純に受納する人間は常に所謂貨幣領値の或観念
を持つと言ふ否定し得楓事實と︑財の慣値の意味に於て貨幣の個値を云々し得ずと言ふ科學的認識
とを結合せんとすること︑から生ずるのである︒
貨幣慣循の本質に關する明確なる見解が竜し藪量説に劃し大なる重要さを欠くならば︑吾々は貨
幣債値本質の論孚に鯛れずにをくことが出來るであらう︑然し乍ら︑此が観察は以後の叙述を非常
に容易ならしむるが故に︑尚しばし是非共此庭に留まらねばなら胆︒
吾ヶの考ふるところを以つてすれば︑貨幣に素材橿値あるを要せ澱と言ふ乙とは︑素材個値なき
貨幣の存在する事實にょつて謹明されるのである︑ドo言は︑紙幣は貨幣ではない︑紙幣制度は縫態
である︑鋤と言ふも︑かく簡軍力るを得ない︑若し彼が﹃自由私鋳の金属本位の下にあつては︑吾々
は金属主義者である︑然して︑獲態の揚合の爲に常態の揚合を不完全なりとするが如き貨幣の定義
は放棄しなければなら澱﹄⑰と言ふならば︑此に劃し科學的批評は向けられ諏︒吾々は︑紙幣はi
金属貨幣と同檬に物償に影響する以上i貨幣なりと槻る︑只紙幣に於ては︑ω凶§ヨ︒一が貨幣の観
念化と名くるものが顯著に現はれて居るのである︑㈹ωo紆が振替貨幣に於て從來貨幣が達し力最高
の形式を見出す限う︑㈲吾々は彼に全然同意するのである︒
職能債値論者ω{ヨヨ①一並びにOQ︒富は誠に深刻なる叙述を以つて貨幣の非憤値性と其具禮的現象
とを指摘する︒きれば︑Q︒一已ヨ色は貨幣の象徴性等々を繰返し説くのである︑㈹害々は先づ彼に於てこ
次の言葉を讃む︑﹃客髄の経濟慣値は︑客禮が可交換的として立ち入る所の相互關係に於て成立する
ものとするならば︑貨幣は此關係の濁立性を取得し力表現である︒輕濟關係即ち劉象の可交換性の
中から︑此關係の事實が析出せられ︑かの謝象に封して概念的なー然し可見的象徴に結合しπ1
存在を取得することによつて︑貨幣は抽象的財産慣値の表示となるのである︒﹄㈹と︑ω︒色騨竜亦同様
に︑實に嚴密なる言葉の意義に於ける貨幣は︑内的︑主観的︑非激學的︑從つて統一的︑心理的なる
(領値の)現象の外的︑客観的︑而して藪的表現でなければなら澱︑㈹と言ふのである︒
此二著者は︑貨幣に於ける非素材慣値性を明かに認識するに竜拘らず︑爾他の論者と共に︑貨幣
は橿値即ち職能慣値を有つと言ふ強要に到達しだのである︒吾々の考へでは︑貨幣は軍に償値關係
の表現手段であつて︑其自身償値事物ではないとの観念は︑貨幣は慣値を持つ事は出來ない︑償値
を持つては居な・い︑が債値であると言ふ解繹に導く︒故に吾々は︑貨幣を物其自身として概念し︑定
義しやうと欲するならば︑それを償値の客観化と解し且つ名けなければなら諏と信ずるのである︒
貨幣の償値と籔量訊一八三