日本「実業」の精神構造 : 武藤山治にいたる「実 業精神」論の系譜
その他のタイトル A Study of the Spirit of Capitalism in Japan
著者 市原 亮平
雑誌名 關西大學經済論集
巻 13
号 3
ページ 233‑278
発行年 1963‑09‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/15434
武藤山治の政治や経済上の事納はいままでに何度となく扱ってきたcしかしまだまだ分析の手の届いてない分野
がある︒彼の自由主義の日本自由主義全体のなかにおける位置づけ︑彼の経営実践の日本資本主義における位置づ
け︑等は彼の遭難事件の謎とともになお判然とはしていない︒このことは昭和史のうえできわめて大きな事件とい
われる金融恐慌と帝人事件の突発にたいし彼が提供した油と火との意味が釈然としていないこととも相即する︒た
とえば金融恐慌の発端となる震災手形法案にたいする武藤の攻撃に︑政商
1
1鈴木商店の経営している佐賀紡績と鐘
( 1 )
紡との利益の競合が第一動機として底在していたとみる見解︒帝人事件の発端となった武藤の番町会攻撃が︑彼の
(2) 経営する時事新報と競争する読売新聞の資金源を摘発しょうという底意にあったとみる見解︒これらはいづれも武
藤の政商攻撃をたんに私小説的利己的動機においてみる点軌を一にしている[
日本﹁実業﹂の精神栂造︵市原︶
日 本
論 文
﹁実業﹂
の 精 神 構 造
市 ー武藤山治にいたる「実業精神」論の系譜ー—
原
亮
平
関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第三号
昭和二年六月号 しかもこのような解釈ー_—武藤が終生実践して憚らなかった自由主義をさまざまな狭雑物において曲解したり斜視したりするーーは彼の死とつながった時事新報紙上での番町会攻撃においても彼にまといついた︒当時武藤のも
( 3 )
とで事件を担当した和田氏はのべている゜ー
﹁時事の記事に対しては︑資本主義のルツボの中に︑もがいてゐるインテリ階級とか︑現在の支配階級の腐敗
を憤ってゐる右翼的傾向の人とか︑番町会一味の辛辣な暗躍に被害をうけてゐる財界人とか︑その支持も多かっ
たが︑武藤の知己や友人など常に接触する範囲に於ては︑彼れはその環境上から支配階級が大多数を占め︑これ
らの
人々
が︑
この余りに刺戟的な︑然も現在の自由主義経済の中で︑ともかく許されてゐるとされてゐる番町会
一味の行動と︑資本主義陣容が持つ現有勢力を根本から揺り動かす武藤の企ては︑当然彼をその親しい周囲から
全く孤立させたと云ってもよかった︒四面楚歌の心境を彼は味はねばならなかった︒時として深夜目をさます
時︑自分の企てが遂に自身を自分の環境からひとりぼっちにしたといふやうな寂審を覚えさせたにも拘らず︑彼
は︑それを甘受しないではゐられないほど切迫した気持があった︒﹂
われわれは彼の政商攻撃が彼の思想とイデオロギーの深奥から由来していることを理解せねばならぬ︒そのため
にわたくしは彼の思想的根拠たる﹁実業精神﹂を分析することにしょう︒
註
(1 ) 白柳秀湖﹁鈴木商店没落の経済史観﹂太陽 (2 ) 御手洗辰雄﹁正力松太郎﹂二
0
ペー ジ (3 ) 和田日出吉﹁人絹﹂三六
0ーニページ 九七ページ
﹁思想の科学﹂者たちが現代の実・虚業論について特集して論じあっているが︑七人の論者とも曖昧模糊たる答案
( 4 )
しかかいていない︒武藤の﹁実業精神﹂といったばあい︑わたくしはこの七人の思想の科学者と同一な非生産的な
分類学をまぬかれるため︑そもそも﹁実業﹂なる概念を日本思想史上政策
1
1実践的に使用した二人の代表的イデオ
ローグ福沢諭吉と中江兆民の意味内容から始めるのが妥当とおもう︒
福沢に一系列の実業論があり︵たとえば明治二十六年四月著の﹁実業論﹂をみよ︶︑しかも現実のリアリスティックな
( 5 )
状況判断に立っておこなう﹁複眼主義﹂のため︑明治社会の状況変化にともない彼の﹁実学﹂論じたい変貌をと
げていることを忘れてはならない︒明治初期の啓蒙時代における福沢の実業論の狙いはなによりも旧漢字・儒学と
むすびついた封建倫理や伝統主義や身分観から人欲・貨殖欲を﹁解放﹂させ実業の官府や政界とくらべものになら
ぬ低劣な位置をひきあげ生産諸力を展開する主体的エトスを醸成することにおかれた︒儒教や封建的士道への激し
( 6 )
い批判や︑古事記を暗誦しながら自己の生計すらたたないような学問への嘲笑や﹁文明男子の目的は銭にあり﹂と
の俗流的功利主義をおもわせる諸発言はことごとくこの底怠に出たのである︒だが彼は致富衝動や貨殖慾を無原則
(7) に﹁解放﹂させ讃美し拝金の徒となったのではなかった︒︵その門下高橋義雄のごときは﹁拝金学﹂という本まで著した︒︶
のち武藤にひきつがれる誠実・規律・合理主義などの﹁実業精神﹂の作興を彼は徳川社会に栄えた商人倫理や明治
政府と野合した旧財閉中心の虚業倫理に代るものとして訴えた︒彼は﹁既に容れられたる上でも常に鼻息を窺ふて
日本
﹁実
業﹂
の精
神構
造︵
市原
︶
実業とは何であるか︑虚業は何であるか︑との問いを発したばあい︑
一
︑ 実 業 精 神 に お け る 二 つ の 経 路
人は即答に困るのではあるまいか︒近頃
り︑士族学者の流が無形の精神を練磨して学事政事に心酔したるが故なり︑其心酔中に他の凡庸をして先鞭を着 れば︑其奇必ずしも奇ならざるを発明す可し︒即ち其次第は実業社会に国中最上の智識を応用せざりしが故な
関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第三号
恰も他人の晴雨を卜し一晴一雨我喜憂の種子となる﹂御用商人や政商を﹁到底永久し可きものに非ず﹂と断じて次
﹁抑も開国に引続き王政維新前後の世態は我士族学者の流をして精神知識の発達一方に走らしめ︑人生学ばざ
れば智なしとの辛苦怠らずして得たる其智識も亦これを用ひんとする所は唯政治法律等を目的にするのみにし
て︑其政治の性質は即ち精神上の事なり︒天下一般の気風既に勢を成し淫々留めんとして留む可らず︒実業社会︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑は挙げて之を奮時の職人町人の輩に一任して顧みる者なき其間に︑内外の商売極めて多事にして極めて不整頓の
折柄︑無一銭の商人等が其社会に人なきを利し︑恰も虚に乗じて業を営み手に唾して巨萬の富を致したる者少な
からず︒而して其人物如何を尋れば︑曽て学問上の教育なきは勿論天稟の気品さへ甚だ高からずして︑畢生の心
事唯目前の銭あるを知て他を知らず︑甚だしきのは目に一丁字を排へざるのみか耳に人の言を聞ても坊間の俗談
に非ざるより以上は其意味を解すること能はざる程の下郎にして︑
の運動を左右する者あり︒其資産の大なると其人品の賤しきと誠に不釣合なる次第にして此流の賤丈夫に何程の
財を私有せしむるも恰も西洋にてジュー人種の富む者と一般︑唯財を積で財を殺すに過ぎず︒凡そ三十年来俄に
家を興したる人多しと雖も︑金銭の境界を離れて共に君子の談を談じ︑共に君子の楽みを楽みて相互に逆ふこと
莫きを得る者は実際に甚だ多からざる可し︒左れば西人の言に︑富を致すは其人の徳義オ智に困ると云ふに反し
て︑開国以来に興りたる我富豪中には往々不徳無智の輩あるこそ奇なるが如くなれども︑聯か事の次第を吟味す 一大家の主公と稲し居然世に処して商売社会 のような﹁政商﹂論をのべている︒
四
けしめ恰も自分等の留守中に奇利の余地を遺したるが故なり︒試に思へ︑学者が書を読み理を講じ眠食さも忘れ
て自痩するまでに勉強し︑政事家が常にあらゆる難局に逢ふて千辛万苦する其勉強辛苦を以て実業に当りたらん
には︑何を企てて成らざることあらんや︒既に先天遺伝の能力ある上に加ふる心に必死の忍耐勉強を以てす︒実
業社会の全権は夙に此流の士人に帰す可き筈なりしに︑開国以来数十年を空ふして自から利せざるのみか︑立国
( 8 )
の大本たる実業を萎靡不振の境遇に放榔して今日に至りしとは無限の憾なりと云ふ可し︒﹂︵時事新報・明治二十六
年三
月三
十一
日︶
五
右の文章で力点をおいて考えねばならないのは﹁武士道精神﹂の実業界における必要性ということである︒彼は
別のところで﹁痩我慢の説﹂を強調しているが︑これも結局武士道精神ということである︒勝海舟が江戸を官軍に
平和裡にあけ渡したこと︵むしろ内乱を堵して斗うべきだ︶への非難として︑江戸が兵火にかからなかったかわりに︑
ある非常に大切な精神が失われた︑というのである︒明治二十七年日清戦争にいたる間に紡績業を中心とした消費
財部門の産業革命は進行しており︑福沢はその著﹁実業論﹂の序文で﹁実業革命の期近きに在る﹂を期待し︑本来
の士族が︑さうでなければ士族以外の者の﹁士化﹂した国民中の最良分子が﹁心事を一転﹂し実業社会に走るのを
歓迎し﹁実業の春色来復の徴﹂として喜んでいる︒福沢の論調に楽観的自由主義
1
自由貿易論と自由放任主義の色1
( 9 )
調が濃化してくるのは此頃からである︒彼はいう︒ーー︑
﹁掠斯くと方針を定めたる上にて政府は実業社会に対して如何す可きやと云ふに︑唯政府たるものの分限を守
り︑其職分に於て務む可き限りを務めて分外に逸することなく︑商売工業の事に関しては大自由大自在を許して
之に一任し︑商工の運動に尾して政府も共に運動す可きのみ︒従前の説諭法干渉法の如きは一切これを取らずと
日本
﹁実
業﹂
の精
神棉
造︵
市原
︶
―i ‑ ‑ ● ● ● ● ● ‑ ‑ ・ ・ 一
関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第三号
敢って愛に断言するものなり︒抑も王政維新の革命は士流学者の企てたる革命にして︑其事成りし後も政事学事
等の注意は頗る綿密を致し着々実効を奏して見る可きもの甚だ多しと雖も︑殖産実業の一方は之に身を委ぬる人
物もなく従前のままにして差置くのみか︑偶ま政府の筋より手を出し蕨を容るることあれば︑不知不案内なる官
吏輩が思付きしままに事を企て国益など稲して騒々しき沙汰のみなれども︑実際に益を為したる例は甚だ少な
し︒奮工部省を始め諸府縣題の実跡に照らしても其無益なりしを證するに足る可し︒彼の北海道開拓の如き何千
万の大金を費して何物を得たるや︒所費と所得と比較して商売上の双露盤に当らざるは天下に明白なる事実にし
て︑畢覚するに之を評して素人の仕事と云はざるを得ず︒其他諸処にある官有の鉱山なり山林なり又は諸工場な
り︑近来こそ手を引きたるもの多けれども︑前後これが為めに国庫金を浪費したる高は実に容易ならず︒何れも
皆双露盤に迂き素人仕事の不始末ならざるはなし︑然りと雖も是等は単に政府の損己に止まるのみにして尚ほ忍
ぶ可しとするも︑忍ぶ可らざるは民間の実業に関する法律規則の不都合にして干渉の甚だしき一事なり﹂︒
以上福沢の実業論を考察してわかることは︑彼の実業精神の構造が一面封建的武士道や身分観からの功利・貨殖
欲の﹁解放﹂と︑一面﹁かの人類の歴史とともにふるい﹂放恣な致富衝動や商人倫理の﹁禁欲﹂
1
1﹁士化﹂という二
.面的要請をもっていた︑ということである︒福沢の実学精神に前者ー功利・貨殖欲の﹁解放﹂のみをみた和辻哲郎
氏が﹁明治の先覚者たる福沢の思想がその本質において井原西鶴や三井高房や石田梅厳のそれと竜も変るところが
(10) ない﹂と断ぜられたのは︑後者の一面をみおとしたからである︒また後者ーー功利や貨殖の﹁禁欲﹂倫理としての
武士道精神の鼓吹ーーよ3みをみとめ前者をみないものは︑福沢の実業精神が基本的に封建的支配層の意識形態たる
武士道に制約されていると判じて︑これがすぐれて日本型﹁資本主義精神﹂
Ge is t de s Kapitalismus
とし
ての
一面
︑
六
こで丸山氏は徳川社会の伝統主義と妥協した宋学・心学・水戸学などの実学︵前期的﹁実学﹂か︶
A無
理 無 則
>
の機会主義を掛してつねに原理によって行動し︑
七
( N )
杉村広蔵氏のいわゆる﹁生産力資本主義﹂をささえる実体を備えていることをみのがしてしまうcわれわれは従来
多くの福沢研究が前者と後者とを切り離し︑両者を不可分の統一化││'否定的に止揚しあったものとしての﹁士魂
商オ
﹂
1
1日本型﹁資本主義精神﹂ーとしてみず︑機械的に切り離してあるいは西鶴流の町人精神の徒︑あるいは
(1
1)
生産力的エトスを欠除した士道の再興者としてバラバラに評価する傾向のあったのを遺憾とする︒既往の福沢研
究においてこの点を適確にとらへていたとみられるのに︑丸山真男氏の﹁福沢諭吉の哲学﹂なる論文があるが︑
こ
と伝統主義と手を
切った福沢の実学︵近代的実学/.︶との間に重大な﹁倫理の転換﹂と方法意識の革命とがあることをあとづけておら
れる。ー—「福沢に数学と物理学を以て一切の教育の根底に置くことによって、全く新たなる人間類型、彼の所謂
日常生活を絶えず予測と計算に基いて律し︑試行
(1
3)
錯誤を通じて無限に新らしき生活領域を開拓して行く奮斗的人間の育成を志したものであった﹂︒こういうA無理
掠奪性等の属性をもつ前期的資本の﹁無概念性﹂を克服し原理原則として生産
力的エトスを具備するような﹁奮斗的人間の育成﹂はまさに﹁国民の士化﹂の魁けとして大学において供給されな
ければならない︒彼らこそ近代実学の実践場を﹁実業界﹂にもとめ﹁日常生活を絶えず予測と計画に基いて律し﹂︑
﹁資本主義の精神﹂内容としてあげたもろもろの生産力的エストーー批却労・節約・周到・果断・
滅実・純潔といった禁欲的相貌をおびるものーーを日本の風土で培槌してゆく日本資本主義の開拓者でなければな
らない︒そして彼らこそ真実福沢に即していえば﹁実業人﹂なのであった︒神田の三田塾で実業教育をうけ﹁実業
人﹂として三井財閥にはいった中上川彦次郎をはじめ朝吹英二︑藤山雷太︑池田成彬︑藤原銀次郎らの人材は従来
日本
﹁実
業﹂
の精
神構
造︵
市原
︶
ゞ ゞ
ウェーノーカ 無則>を排し︑阿誤投機︑商略︑
関西
大学
﹃経
済論
集﹄
第十
三巻
第三
号
( U )
の世辞と投機と阿護と追従のいわゆる﹁前垂主義﹂とは無縁の生産力的エトスをもっており︑まさに﹁士魂商オ﹂
の持主で三井家を前期的独占体から産業資本の集中・集積を基盤とした近代的独占体に推転させる動力ともなった︒
福沢における実学の旋回︵前期的実学から近代的実学へ︶は同時に実業概念の旋回︵前期的虚業から近代的実業へ︶をも伴
っていたのであり︑日本経済界における士魂商オの先駆的なそしてもっとも敏感な実践者は福沢の係累でその膝下
に学んだ中上川彦次郎といわねばならない︒彼の三井家でおこなった体質改善のための政革措置は福沢のイデオロ
ギーの何たるか︑その﹁実業﹂精神の何たるかを赤裡々にしめしている︒中上川の高弟鈴木梅四郎︵慶応卒三井銀行
( 1 5 )
に入る︶は中上川の日本型﹁資本主義精神﹂の所在を次のように語っている︒ーー︑
﹁中上川先生は鉄道経営者としても︑銀行家としても︑将た又︑工業家としても到る処に於て大成功を為して
居られるが︑どうして斯くの如く成功されたのであるが︒それは先生の偉大なる性格に基因して居るといはわば
ならぬ︒されど私は進んで先生が有せられたる偉大なる性格の特徴を挙げて見ようと思ふ︒
まず第一に︑先生は正義の権化ともいうぺきであって︑正義に対する観念は極めて高く且つ強く︑何事をなす
にも正義を主としてこれをはづれた事は一切なされなかった︒凡てこの実業と云へば︑営利的事業であって︑多
数人を対手としてその間に利益を獲て行くものであるから︑どこまでも町嘩親切を旨として行動しなければなら
ぬが︑単に口先ばかりのお世辞を浴せかけ︑虚言をつき︑権謀術数を弄することは︑先生の最も限として捜斥し
たるところであって︑先生は如何にも真面目に正々堂々たる態度を以て正義によってやったのであるが︑この優
秀なる点は︑当時実業家として斯界に異彩を放したものである︒何如かというと︑当時の実業家は多く金を儲け
るのが主たる目的で︑それは無論当然のことではあるが︑併し金を儲けるが為には︑正義どころか︑如何なる陪
八
.a ..•
資本主義の現実はどうであったか︒ 面に唱道されて︑
九
農業と工業との間にお 劣な手段も敢て許せぬという有様であった︒而して政府の役人の為すところは︑如何なる事も御無理御尤もとして聴従し︑時には虚言も方便的だといって人を欺くことを商売上の掛引と心得ている時代で︑未だ実業家といふ
︑︑
︑︑
︑︑
も素町人の域を免れなかったが︑先生は是を晒となし︑文明的実業家としては飽く迄も正義を重んじ︑これを以
て押通して行く︒即ち武士道で行かねばならぬといふことを喝破されたのである︒かくて実業界に武士道を唱道︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑し︑鼓吹したのは中上川先生を以て喘矢となさなければならぬ︒﹂
ところで中上川はもとより武藤以下の﹁士魂商オ﹂を財閥内部に供給した福沢の実業論の構造はどのように変貌
していったか︒ここには充分な紙幅があたえられていないので︑そのアウトラインを単線的に描いてみよう︒
福沢は明治の啓蒙時代ー﹁美しくも薄命な古典的均衡﹂の時期には資本主義の推進力を﹁ミッヅルカラッス﹂
(16) 中心の﹁殖産社会﹂にもとめ︑彼の﹁痩我慢﹂の説にしめられる武士道的抵抗精神は政治面において鮮明にとなえ
られ
る︒
︵幽郷隆盛の反乱に﹁日本国民抵抗の精神﹂をみいだした﹁丁丑公論﹂をみよ︒︶明治二十年半ば以降になると政商
批判よりも﹁富豪要用﹂論に力点がおかれてき︑貧富の階級分化を必然視するとともに武士道精神はもっぱら実業
﹁官
民調
和﹂
﹁内容外競﹂のロジックにより多くよりかかり︑生産力の主体を財閥資本におきか
えてくる︒かくて﹁中等種族﹂への期待は減殺し貧富の懸隔は合法化され︑彼の生産力説はもっぱら大財閥内部の
体質改善によって現実化することとなる︒こういう彼のリアリスティックな相対主義的対応を余儀なくさせた日本
スミスは﹁国富論﹂中で﹁国民経済﹂のヴイジョンにふさわしい資本形成と市場形成の理論をうち出している︒
すなわちスミスは市場の基礎構造を都市と農村︵または農業と工業︶間の分業としてとらへ︑
日本
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業﹂
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造︵
市原
︶
" ‑・・・・・‑‑
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こなわれる分業と素材転換が中心となって都市内部にも分業がおこり相互に市場が形成されてゆくとみ︑農業に資
本が先に入れば農
1
工を基軸に国内市場が大きくひらけ︑国内市場が十分に発展したうえで国外市場がひらける︒1
しかし農業より先に商工業に資本が投下された場合は農業に資本が入ってこない程度に応じて国内市場は相応にせ
まく︑外国市場がその国の工業の市場的基礎として優位に立つ︒第一の形の場合.でも資本蓄積がすすむにつれて資
本は農←工←商と投下されてゆくから外国市場のウエイトはたかまるが︑その場合も国内市場が充分開発され︑
れを基礎に国民的生産力が展開したうえで外国貿易ー市場が要請されてくるのと︑第二の形のばあいは資本蓄積は
不充分で国内市場も開発されないまま外国貿易
1
1市場が不可欠の存在として連結されてくるという重大な差異を生
(17) じてくる︒このスミスの資本投下ー市場形成論は﹁資本論﹂における封建的生産様式から資本主義生産様式への移
行の﹁二つの対抗的な途﹂に脈絡しさらにレーニンの高度に戦略的なユンケル的改良型プルジョア進化とアメリカ
(18)︵
1 9)
的革命型プルジョア進化との資本主義化の﹁二つの対抗的な途﹂論にまで発展してゆく︒レーニンはいう゜ー
﹁資本主義にも二つあります︑黒白人組的ー十月党的資本主義︵黒白人組とはニコ
9 ラ
イニ
世時
代の
極右
団体
︑十
月党
は一
九0五年に結成されたプルジョア・地主の政党のこと︑つまり封建社会の懐中にそだちその搾取方法を利用した﹁上からの
資本
主義
﹂の
こと
であ
る
1
筆者
註︶
と︑
こ
ナロードニキ的([現実主義的︑民主主義的で稿極性に﹂あふれた︶資本主義が
あります︒われわれが労働者のまえに資本主義の﹁貧欲と残忍﹂を暴露すればするほど︑第一種の資本主義はそ
れだけ持ちこたえがむづかしくなり︑第二種の資本主義への移行がそれだけ必然的となります︒そしてこれはわ
れわれには都合がいい︑プロレタリアートには都合がいいのです︒⁝⁝
国際プロレタリアートは資本を二重にしめつけています︒ーー'十月党的なそれから︑民主主義的なそれに変え
10
ありません︒その先は破滅なのです︒﹂ アジアに去りました︒ ることによって︑また十月党的な資本を自分のなかから追い出し︑のことは資本の土台を拡大し︑ありません°|—資本のほとんどすべてが民主的です。十月党的な資本はイギリス、資本にとってかわらせるための斗いです︒そして民主的な資本は︑最後のものです︒それから先︑
十月党的資本主義化をとるか︑ それを野に移すことによって︒ところで︑
フラ
ンス
から
︑
こ
その死を近づけるのです︒西ヨーロッパでは︑すでに十月党的な資本はほとんど
ロシャ革命とアジアにおける革命は︑すなわち十月党的な資本を追出し︑それを民主的な
その行く道は
明治革命が成功しアジアの中の西洋化をなしとげ社会や経済の成熟が明治以後の急速な西欧文物の移植入をなし
とげさせ︑台木を枯死させることなしに接木を扶育させていったゆえんはどこにあったか︒アジアのうちにただひ
とり資本主義化に成功した秘密は︑ともかく薄幸にせよ自由民権運動が敗惨するまで啓蒙時代と一種の﹁古典的均
衡﹂期をもつことができ︑国民主義と民主主義との密月期を経験し︑十七世紀中葉のイギリス経済に比し距離と歪
みとをもったにせよ︑とにかく︑国内市場をふまえた﹁国民経済﹂とよぶことのできる一種の﹁自然的な径路﹂に
よる産業構成をそれらの底辺にもつことができたことにある︒明治二
0
年にいたる﹁古典的均衡﹂の時期において︑スミスのすでにのべたような市場形成・資本投下の第一型をとるか︑第二型をとるか︑民主的資本主義化をとるか︑
の対抗は日本資本主義の体質を決定づける問題としてなお激しく斗われていた︒在
野の中小生産者が日本型本源的蓄積の進展と自由民権連動の壊滅とを分岐点として﹁権力斗争時代﹂︵明治元年より
︵日
本資
本主
義の
独占
的段
階︶
へと
同二十三年にいたる﹁源始的蓄祐﹂の始期ーー絶対主義の確立期︶から﹁残存斗争時代﹂
( 19 )
推移してゆき︑政治的ヘゲモニーの角逐場裡から脱落しさったとき︑スミスの想定した第二型の市場構造が第一型
日本
﹁実
業﹂
の精
神構
造︵
市原
︶
ロシ
ャに
︑
. ,
•―恥—---・---
のそ
れを
︑
レーニンの措定した十月党的資本主義が民主的資本主義を制圧した︒在郷中小生産者は財閥首導の上か
らの資本主義に圧倒され︑以降は大正デモクラシー時代にはいって﹁中小工業問題﹂を提起する﹁残存斗争﹂的存
( 2 0 )
在にすぎなくなるが︑明治二
0
年代に定着して︑農業資本主義化を不可能にする定生地主制と軽工業中心に定置されていった「上からの」.再生産軌道の敷設とは、低賃金・狭溢な国内市場と外国貿易・商品輸出•海外移民と「商
この時点で福沢は地租増徴策で農業剰余をすぺて国家財政'~国家資本のルートにのせて大資本の育成に用立
奴主的資本主義のコースであり︑ て︑低賃銀が必須とする狭監な国内市場のための国外市場を再生産圏内を﹁商権﹂として確保し︑スミス市場形成
( 2 1 )
論のいう第二型ーー農工商の顛倒的資本投下のコースを指向していった︒これ上からの資本主義化ーー十月党的農︐
﹁明
治二
0
年迄は⁝⁝多くは民間に平分し﹂た﹁天下の財﹂は財閥資本に集中集積され﹁天下の利権を左右する﹂にいたり︑経済繁栄は﹁下層の貧人﹂はもちろん分化してゆく﹁ミッヅルカラッ
ナッョナル•インクレスト﹁中等種族﹂中心の﹁国民的利益﹂はもはや﹁殖産ス層﹂も素通りして国外市場に再生産機構としてむすびつき︑
(22) 社会﹂からうしなわれてしまった︒
福沢が武士道精神の鼓吹や民心の﹁士化﹂の主方向を政治から経済の論理の方にうつし︑富豪要用を力説してい
った
地点
で︑
関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第三号
日本のばあい権力斗争時 いぜん﹁ナロードニキ的資本主義﹂の推進を意向し上からの資本主義化に拮抗する論理をうちだして
いったのが日本のルソーといわれた中江兆民である︒もちろんこういってもマルクスやレーニンの二つの資本主義
論を機械的公式的に日本にあてはめるつもりはない︒そもそも﹁マルクスのいう二つの径路は︑それらの全過程に
おいて別個のものではなく︑しばしば距離がなくなり交叉する﹂ 権戦争﹂とを必至にしてゆく︒
︵モ
ーリ
ス・
ドッ
プ︶
し︑
'
‑
・
--、~-、... 一‑
乎 ︒
日本﹁実業﹂の精神構造︵市原︶ 代から残存斗争的代にいたる間︑
( 2 3 )
らに一層﹁二つの径路﹂は多岐となり攪乱されてきている︒このような条件的状況的思考の必要なことを大前提と
したうえで兆民の実業論は日本型﹁下からの資本主義﹂化ーー﹁現実主義的︑民主主義的で︑積極性にあふれた﹂
( 2 4 )
﹁ナロードニキ的資本主義﹂のイデオロギーを代表するものとして次に分析してみよう︒
兆民は︑明治二
0
年という転換の年に﹁政府の特竃を蒙れる豪商に抗した﹂大阪中等商人七︑八0
人に﹁自由主義を吹込み同府商人の元気を振起せしめんと欲し﹂組織した大阪苦楽部の機関紙東雲新聞を通じて︑中等商人を中
心とした資本主義の生長とそれに伴う中産階級の成熟を期して論陣を張った︒政府と結託する特権資本を﹁租税と
号する官用公用の金を貰ひ来り︑或ひは借り来り︑それを第一.歩の資本として事業を為したる﹂
商人﹂と罵り︑これを抑圧される﹁生産力の乏しき我日本国の実業家﹂にむかい︑彼らの掠奪資本的本質を暴露
( 2 5 )
し︑他を侵さず頼らない資本の自主独立を望んでいる︒ーー̲
﹁此等虚業家は経済海中の鰐鮫ともいふ可くして︑常に他の小魚を喰い殺して︑己れの腹を肥やす奴なり︒此
時の巨利を占むる奴なり︒ ﹁ナロードニキ的資本﹂は不断に農奴主的資本に﹁上昇・転化﹂したが故に︑さ
﹁虚
業家
﹂
等虚業家は社会の暗黒なるに乗じ︑他の実業家の明かに見ること能はざるに乗じ︑狡々猾々の手段を施して︑
故に又経済社会の鴎桑とも謂ふ可故に社会の暗黒なる処が正に虚業家の利益なり︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑し︑此輩は俗人の目には︑実業家中にても最上の実業家なり︒而して︑余は之れを目して虚業家と日ふ︒此輩は
何︱つ実地に社会に益する者に非ざればなり︑社会に益せざるのみならず︑他の実業家を喰い殺して︑自ら腹を
肥やすが故に︑虚業家と日ふよりは︑寧ろ悪業家と日ふこそ︑更に適当なり⁝⁝彼れ等の業は何故に虚業と云う
﹁鰐
鮫
これら﹁悪業家虚業家﹂は大官からの恩恵によって利を独占するものであるが︑この大官の恩恵は租税から支出
される︒租税は勤労大衆の汗と油との結果だから︑したがって彼等は︑勤労大衆を﹁打ち従へ︑打ち亡ぽして﹂経
( 2 6 )
︵2 7
)
済界にその地歩を占める︒かくの如きは不都合といはざるを得ぬ︒.これを征伐せずして︑何を征伐すべきか︒いか
に征伐すべきか︑それは自主独立の︑苛酷な租税や官僚的干渉主義に苦しむ実業家が﹁限られたる経済社会の区域
﹁実業家政治家﹂として︑自らが政治の主体となり﹁我僚人民の頭まに関
( 2 8 )
し︑銭裏に関す可き行政官は成るだけ公選にする様なり行くこと﹂を訴えている︒兆民の自由党左派を支えたナロ
ードニキ的立場よりする以上の実業論は藩閥政府の保護干渉排斥
( I
日本型原蓄国家批判︶を中心とした﹁偽党撲滅︑
( 2 9 )
海坊主退治﹂という現実の運動によって政策化された︒ここで上からの資本主義のイデオローグ福沢の実業精神と を拡げて︑第一に政治社会に迄進出し﹂ 等の掛引は貴顕人への賄賂なり﹂︒ 関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第三号
彼れ等は米一粒も作ることなし︑米一粒をも此所より彼所に運ぶこと無し︑附木一枚も作ること無し︑附木一
農や工や作る者なり︑社会を益する者な
り︑商は運ぶ者なり︑社会に益する者なり︑彼等は作らず運ばず︑唯他人の作りたる物︑運びたる物を使ふのみ
なり︑費やすのみなり︑彼等の衣るや一通りに衣るに非ず︑必らず美服なり︑其食ふや一通りに食ふに非ず︑必
らず美食なり︑其住ふや一通りに住ふに非ず︑必ず美屋なり︑而して︑彼等は微塵程の利益も社会に注入するに
彼等が無一物の身上より数十万の身代と成る道行の第一歩は︑先づ当時当途の貴顕中にて︑梢や已れの性質と
似て︑即ち鰐鰐然たる人物を捉まへて事を為すなり⁝⁝︑是故に彼れ等の資本は︑貴顕人よりの恩恵なり︑彼れ 非ずして︑社会の物を多分に減らす奴なり︒ 枚をも此所より彼所に運ぶこと無し︑少しも社会に益すること無し︑
一四
. .. 一 ・ ・ ● ● . .... 、.,n/
ら両者との関連で武藤のそれを論じてみたいとおもう︒
一五
下からのナロードニキ的資本主義のイデオローグ兆民のそれとを比較吟味してみよう︒
福沢の政商
1
1
0
虚業批判は明治初年における﹁有知有財有力の中産社会﹂待望論が二年代の﹁富豪要用﹂論に屈折してゆくのに対応して微温的となり︑君主制批判も天皇利用の実利的姿勢にかわってゆき︑明治の﹁原蓄国家﹂にたい
( 3 0 )
しても必要悪という消極的態度を内安外競のロジックの適用によってますます強めていった︒ところが兆民は原始
したがって彼の産業育成
1
1干渉政策の支持も原蓄国家の﹁征国家
1
1藩閥政府じたいとの対決が第一眼目であり︑
( 3 1 )
伐﹂後に出現を所期する共和国家を主体とした保護政策であり︑また彼の奢俊排撃や地租軽減論やルソー流の重農
. ( 3 2 )
主義への傾斜等はいづれも下からのナロードニキ的資本主義の推進につらなるものであった︒とくに福沢の﹁富豪
要用﹂論ががいまや﹁開国の世﹂に出たから︑立国のために﹁富豪の必要なるは軍隊の必要なるが如し﹂という前
提から︑富豪の家屋は﹁国家商戦﹂の立場よりみると私有であっても公共性を帯び一種の国家事業なり︑故に﹁貧
富不平均の苦情は断じて云ふ可らず﹂という主旨に立っていて︑それ以前のミヅルカラッス論や拝借金制度や政商
( 3 3 )
批判の力を弱めたのにくらべると︑兆民の政商ー虚業批判の戦斗的な一貫性は注目されてよいであろう︒
以上われわれは日本資本主義化の二つの経路に即して福沢と兆民の実業論の構造を分析してきたので︑次にこれ
註
(4 )
﹁思想の科学﹂一九六二年八月号
l
ここでの実業論の陳腐なことはたとえば永井道雄氏が尾高邦雄氏の職業社会学よりする職業論よりはじめていることに集約してしめされる(‑四
l一五ページ︶︒また大野力氏は現代は技術革新や消
費性向の変化によって虚業が実業となり︑実業が虚業になる御時世だ︑といっている︵二
0ページ︶︒何のことをいっ
ているのか︑これでは﹁思想の科学﹂ではなく﹁思想の非科学﹂ではないか︒
(5 )
福沢の状況判断と方法意識をもっとも鋭くとらへたのは丸山真男氏であり︑たとえば﹁福沢諭吉の哲学﹂
日本﹁実業﹂の精神構造︵市原︶ ︵国家学会雑
関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第三号
誌六一巻︵下︶︶をみられよ︒﹁複眼主義﹂は図書昭和三三年十一月号所収特集﹁福沢諭吉﹂中の丸山論文より引いた︒
(6 )
﹁学者と町人﹂全集第一0
巻︒
( 7 )
武藤はいうーー﹁福沢先生は明治の半より熱生が一身の生活安定なしに余りに政治の方面に狂奔するのを見て︑之を矯
正せんとに盛んに熟生向ひ金に儲の必要を説かれました︒当時世間に於て三田を拝金宗の本山とまで唱えるに至れるほ
ど先生は此点を強調されました︒﹂([乱の身の上話﹂ニニページ︶また川合真一﹁福沢諭吉先生を語る﹂三八ページ以
下には拝金宗といわれた三田の雰囲気を伝へている︒
(8 ) 福沢選集︵第四︶二八七
l九ページ︑傍点は筆者︒
(9 ) 福沢選集︵第四︶二九八
i三
00
ページ0
•
( 1 0 ) 和辻哲郎﹁続日本精神史研究﹂所収﹁現代日本と町人根性﹂はこういう歴史学派的町人観が基本視角とされている
eま
た山路愛山のごときも福沢を﹁冷悧なる商人を作り・・・・・・利に聡き地主を造る﹂地上の目的だけを追求した'﹁党派の首
領﹂にすぎず︑﹁彼の弟子等が⁝⁝唯物的に流るる﹂を非難し︑﹁幸に世は福沢君の弟子のみに非ず﹂﹁此世は未だ全
く唯物的•…••の世界に変ぜざる」を喜んでいる(史論集、みすず書房刊四四一ーニページ)。これも福沢の実業イデオ
ロギーを曲解し人欲の﹁解放﹂面だけを抽象した一面観の例であろう︒
( 1 1 )
杉村広蔵氏はマックス・ウェーパーの資本主義精神論を適確にとらへその著作﹁経済倫理の構造﹂でこれを﹁生産力資 本主義﹂なる表現であらわされている︒これはわが国のウェーパー研究史上注目されるぺき先駆的な理解水準の高さで
あった︒︵大塚久雄﹁近代賓本主義の系譜﹂ニニ七ページ︶0.
( 1 2 )
たとえば川合真一氏の﹁福沢先生を語る﹂は丸山氏の視点をまった<欠いていて︑彼の拝金宗といわれる実利主義と痩
我慢の説にみられる武士道精神とをパラパラに説明しているにすぎない︒
( 1 3 ) 東洋文化研究第三号所収
0
•
( 1 4 )
白柳秀湖﹁中上川彦次郎﹂︶一八七ページ︒
( 1 5 )
前掲中上川伝一九二i
三︒
ヘー
ジ︒
( 1 6 )
この時期に福沢は門下生が宮府に入るのを批判しさらに財閥の中に入るのも拒み独立自尊の独立企業家となれ︑と奨め
てい
る︒
一六
( l T ) このスミスの資本投下ー市場形成の理論をはじめてウニーバーの資本主義精神論とむすびつけて市民社会形成の型を追 求されたのは大塚久雄氏の﹁資本主義と市民社会﹂︵昭和十九年世界史諧座所収︶であった︒
( 1 8 )
スミスの資本投下
1 1市場形成の理論はマルクスの﹁二つの対抗的な途﹂にさらに私が引用した>ーニンの﹁二つの資本 主義﹂論と脈絡していると考へるが︑この関係を否定する論者も多い︒たとえば上山春平﹁本源的蓄積における国家権
カ﹂︵河野健一一絹﹁資本主義への道﹂所収︶など︒私はこういう見解は採らないが︑その積極的理解はこ4では述べな
( 1 9 ) 除村訳﹁レーニンのゴリキーヘの手紙﹂八七
l八ベージ︒
( 1 9 ) 中 小 企 業 論 の 立 場 か ら 日 本 中 小 企 業 の 歴 史 的 変 遭 を 日 権 力 斗 争 時 代 口 権 力 斗 争 か ら 残 存 斗 争 へ の 過 渡 期 回 残 存 斗 争時代に三分された牛尾真造﹁中小企業論﹂︵経営経済学大系一
0)
参照︒ただし氏はこの有益な段階規定をいささか も肉付けしていないが︑これは恐らくこの段階概念が
Le wi s Co rr ey , Th e C r is i s o f th
e m id dl e c l as s ,
1935 (
邦訳
宮
田訳﹁中産階級史﹂︶からの直移入であるからだろう︒
( 2 0 )
福沢の﹁富豪要用論﹂や地租軽減反対論が開花していった明治二十年代のもつ経済史的意味は山路愛山によって次のよ
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑ うにのべられている︒ー﹁明治二十年迄はは天下の財多くは民間に平分し︑大富豪と雖も未だ独力を以て天下の利権
︑︑︑︑︑︑︑︑︑
を左右するに至らず︑従って其弊害を感ずることの少なかりし︒⁝⁝二十年︑二十年の事業熱勃典に至りては富豪は倍
︑︑
︑ す其富を増加すぺき機会を作り︑此の日本の社会は始めて富豪の勢力を感ずるに至れり﹂︵﹁現代金権史﹂︶︒
( 2 1 )
﹁ミッヅルカラッス﹂に期待し﹁有和有財有力の中産社会﹂を期待した福沢が資本主義のトレーガーを﹁少数の大富 豪﹂に置きかえるのは明治二十三年末頃からであるが同二十四年の﹁貧富論﹂ではさらに鮮明な主張となっていった︒
同二十五年には﹁凡そ内に愉快なるものは外に対して無力なり︒人事の定則なれば我翡は我々国の大義を重んじて他を
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
観みるに追あらず︒断じて︵貧富︶平均の陳腐説を排して富豪維持の必要を主張するものなり﹂と﹁富豪の要用﹂をい
いきっている︒︵傍点筆者︶
( 2 2 ) いままでの福沢研究は多いが︑私は服部之総氏のように従来の丸山真男︑長谷川如是閑氏らの﹁福沢惚れ﹂を一蹴した
うえでの﹁最大に狡智かつタフな絶対主義者﹂として規定する﹁福沢嫌い﹂に賛成できない︒かといって﹁典型的市民的
自由主義﹂とみる丸山説にも同じ難い︒私は彼を上からの資本主義化︵初期独占から近代的独占へ︶のトレーガーとし
日本﹁実業﹂の精神構造︵市原︶
一七
‑"'‑ ‑‑‑‑‑‑
ての﹁産業資本﹂のイデオローグに近いとみるが︵福沢や中上川・武藤の政商批判や三井財閥内部の前期的要素との抗 争をみよ︶︑必ずしも膚接していたとみるわけではない︒私はその点﹁生産力説﹂のイデオローグとして規定するのが 一番妥当と考へている︵独占資本のイデオローグではもちろんない︶︒さらに一言すれば︑服部の﹁絶対主義明治政権
の原則的支持、これに対立する·…••プロレタリアートの運命についての徹底的非情」から福沢を「最大に狡智な」絶対
主義者だとみる見解は彼の﹁帝室論﹂や﹁尊王論﹂を鵜呑みにすることにもとづく︒山田昭次氏﹁天皇制イデオロギー と福沢諭吉﹂︵﹁史苑﹂一八巻一号︶は福択がはじめきわめて犀利な天皇制批判を発表していたことをあきらかにして
おり︑単純な絶対主義者でなかったことがあきらかにされている︒
( 2 3 ) マルクスの﹁二つの経路﹂を日本にあてはめた現実分析としてたとえば堀江英一氏﹁産業資本の確立とその矛盾﹂︵新
日本史購座所収︶がある︒こ4
で堀江氏は︑明治二十年代に小営業が天皇制と結合した政商の巨大工場に発展し︑他 方では一般にマニュファクチュアに発展したことを主張し︵二段階同時滑込説︶︑前者を特権マニュー上からの資本主 義︑後者を私的マニュー下からの資本主義に擬した︵﹁日本のマニュファクチュア問題﹂︱︱七
l八ページ︶ことを自
己批判されている︒すらはち下からの資本主義化とみたものが実は商学・高利貸・地主から転化した上からの資本主義
化をいみすることを確認しておられる︵同一九ページ︶︒
( 2 4 ) 市民革命期における徹底した反封建
11
資本主義化の担い手は﹁ナロードニキ的資本主義﹂の先頭に立つ小プルツョア急
進主義者でありルソーはその代表的イデオローグであった。レーニンはいう。「『勤労源理』と『均等性』••…•これら
の原理の小プルショア的性格はきわめて明瞭である⁝⁝︒⁝⁝これらの原理は︑現在の歴史的時期における現実的で進 歩的なものをぽんやりした形で実際に表現している︒すなわち︑それは︑最奴主的大土地所有を絶減しようとする斗争 を表現しているのである︒﹂︵﹁農学綱領﹂全身一三巻二=ニページ︶のルソーに師事したかのロペスピエールはこの
︑﹁勤労の原理﹂と﹁均等性﹂の原理に立脚して革命独裁をおこなったわけである︒
( 2 5 )
﹁四民之目醒﹂八九l九三ページ︒
( 2 6 )
前掲書九四ページ︒
( 2 7 )
同書九三ページ︒
( 2 8 )
同書八一ページ︒
関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第三号
一八
( 2 9 ) 戦争の船舶運送を独占した岩崎の利益は白柳秀湖によると千五百万円︵﹁財界太平記﹂︶田中惣五郎によると百四十万 円とみつもられている︵﹁岩崎弥太郎﹂︶︒西南戦争は岩綺だけでなく三井︑大倉︑藤田伝三郎︑松本重太郎︑浅野総
一郎ら多くの政商に莫大な利得をあたえ本源的苦稼のテコともなったのである︒
( 3 0 ) 服部之総氏は福沢の断乎たる絶対主義者としての戦略的一貫性を前提としたうえで戦術的に変化をみられる︵著作集
VI•明治の思想ー一八二i三ページ)。
( 3 1 ) 兆民は﹁君民同治﹂という表現を借りて実は﹁共和政治﹂を主張していたのであって︑﹁鳴呼聖天子上に在あり⁝⁝﹂
という文章も逆説的な表現技術とみなければならぬ︒兆民の低い姿勢でしかもあくまでも戦略的一貫性を守り抜こうと したコースは福沢のそれと対照的だった︒したがって福沢の地租増徴論を支持され兆民の地租軽減論や重農主義への傾 斜を斥けられ兆民を﹁プルジョワ的改良主義﹂とみる河野健二氏は兆民の木々をみて森をみていない謬りをおかしてお られる︵人文︑昭和三十六年
v n
集所収︶︒また兆民が福沢と違ってまづ何よりも権力との対決を眼目としていたから︑彼を明治政府の干渉政策と一致するとみるのは保護政策の権力的主体の階級的性格の変化をみないもので︑たとえば絶 対主義的重商主義とそれと市民革命を隔てた議会主義的重商主義とを規制
11
保護政策一般の中に解消して同一視するの
と同じ誤りをおかしておられる︵同論文九三ベージ︶︒
( 3 2 )
河野氏はルソーを同じ十八世紀的な股本主義の枠内に兆民を押しこめられるが︵同八八ページ︶︑これの前提として明 治革命は﹁土地問題をすでに解決﹂したとみる前提があり︑筆者は到底賛成できない︒
( 3 3 ) 兆民は商業についても工業と同じく虚業的なものと実業的なものを飾い分けて前者を批判している
0
│
'│
日本
の商
人に
庄一種類あり︑その一は﹁封建的の商人﹂であって封建制の埓内で百事を守り祖法を守る︒その二は﹁維新的の豪商﹂
で維新の動乱を利して﹁交を官人社会に求め︑然る後官人社会と商業会社との中間に立って﹂﹁暗黒裡に莫大の利を得
た﹂商人である︵﹁四民之目醒﹂四八ページ︶
二種の豪商はいづれも﹁真正十九世紀の商業﹂ではない︒商人は﹁今0 ,
︑︑
︑︑
より少しく意気を豪にし︑眼孔を大にし共益の念を焚成﹂せよ︑そのため﹁学理を応用﹂せよ︑と訴えている︵同七一 ページ︶︒ナロードニキ的見地よりする﹁資本主義的精神﹂の強調とみるべきだ︒
日本﹁実業﹂の精神構造︵市原︶
一九
ャ, . ‑ ー・・・一 ̲
武藤は﹁私の身の上話﹂で自分が福沢のイデオロギーを継承して﹁実業同志会﹂の結成をはかった所以を次のよ
( 1 )
うにのべている。ー—»
﹁福沢先生は明治の半より︑塾生が一身の生活安定なくして余りに政治の方向に狂奔するのを見て︑之を矯正
せんとして盛んに塾生に向って金儲けの必要を説かれました︒⁝⁝それがため塾生は塾を出ると盛んに民間実業
界各種の方面に身を投ずるに至りました︒今日では帝国大学其他の学校卒業生を多数実業界に見るようになりま
したが︑以前慶応のやうな高尚な学問をした学生が民間商事会社や個人商店に雇はれ︑当時の無学な前垂掛の番
頭や倣然と構へた上役の前に忍んで卑近の仕事に従事するに至ったのは︑全く当時福沢先生の号令一下の然らし
めたところであります︒
思ふに福沢先生の御意中は先づかくて埜生をして身を実業界に投ぜしめ︑各自産をなさしめたる上︑政治のた
めにも大いに尽さしめようとの御心であったに相違ありません︒若し福沢先生が今日猶此世にお出でになったら
近時の政党政治の弊害に対し︑如何に強く国民に向って覚醒を叫ばれたでしよう︒従っ.て夙に三田出身の実業界
に於ける成功者に向っても︑必ずや政界革新に協力すべき号令を出されて居たに違ひありません︒然るに先生は
塾生の一身を思ふの余り強く拝金の催眠術をかけたまま之を解かずしてお亡くなりになったため︑明治初年には
専ら政治に狂奔した三田出身者が︑後になって全く政治から離れるに至ったのであると思ひます︒﹂
武藤は一人一業主義の戒律は終生破らず︑鐘紡以外の他業を兼営することは一度もなかったが︑政治運動には二
二
︑ 独 占 段 階 に お け る 実 業 精 神 論
関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第三号
二0
の六甲館の宿屋に私は2その時訪問したのでありますが︑さうしていろいろの話の中 一度目は第一次護憲運動を皮切にした大正デモクラシー運動︵とくに軍縮運動に稽極的であった︶で
あり︑二度目は実業同志会結成以後の昭和政党政治時代における政治浄化
1
1実業化運動である︒両度の政治運動に
従うにいたった動機はつねに福沢の言葉で語られているが︑そのとき武藤の胸中にあったものは日本型﹁資本主義
精神
﹂
I
﹁士魂商オ﹂のイデオロギーであった︒試みに第一次護憲運動の推進力となった政治結社1
1憲政擁護会の
発起人の一人で三田出身︑三田出身の実業家のクラブ交詢社の有志で︑大正デモクラシー運動の指導者であった菊
( 2 )
地武徳の武藤との交渉を綴った回顧録を引いてみよう︒ーー贔
﹁簡単に申しますと議会に議員︑代議士選挙当時選挙の度毎に殆んど武藤君を煩わさなかったことはない︒八
回選挙をやりましたが︑殆んどその中の六回位までは故朝吹英二先生と︑武藤山治君の御世話で大部分を賄って
きたのであります︒のみならず私は武藤君︑さうして先輩の御世話を受けたのでありますけれども︑なんら政治
上に貢献したことはない︒たった一っ大正の初めに於ける憲政擁護運動に尽したといふことが︑私の終りであり
初めであったのであります︒ところがこの憲政擁護の運動の時に︑丁度武藤君が神戸から出て参りまして︑築地
に︑今度の憲政擁護運動については︑大浦兼武という乱暴人がおる︒誰でも市ケ谷に引っ張って行くから︑君も
必ず引っ張られる︒さうすると君は身体が弱いから︑市ケ谷に一週間おると死ぬ︒そんな場合には遺族が困りは
しないか︒それは何にもないから︑困るに極っておるし︑甚だ心配である︒今更どうすることも出来ないといっ
たならば︑その事ならばわれわれ二人で以て万一の事があれば︑必ず君の遺族の世話は引き受けてやるから︑そ
んなことの心配ならば︑断じて心配せずにこの憲政擁談運動に邁進せよといはれたのであります︒その時は非常
日本
﹁実
業﹂
の精
神構
造︵
市原
︶
そこへ福沢桃介君がきた︒ 度参加している︒
―fl,̲̲ ̲̲ ‑‑‑一‑
のに︑協力しないと云ふのは如何にも不人情でないか︑一体営業税と云ふものは誰が払って居る︒糸屋綿屋が払 二度目の武藤の政治運動は営業税全廃をスローガンとして中小商工業者を組織して大正十一年以後の﹁大日本実
業組合連合会﹂運動とこれの解体を契機に彼が結成にふみきった・﹁実業同志会﹂運動とにわかたれるであろうCこ
(3) の運動の動機を武藤にきいてみよう︒1
﹁一体今日の実業家諸君は重大なる利害を忘れて極く目先のことに余りに没頭し過ぎて居る︒私が今回運動を
起しました最も近い動機は︑諸君の中に或は御関係があるかどうか知れませぬが︑大阪で取引先の綿屋糸屋から
頼まれて︑営業税の全廃の運動に参加したのにある︒是は大正三年頃から大阪の実業家諸君が熱心に唱道され︑
毎年議会の始まる毎に東京に運動員を送って︑当局者並に政党の幹部に営業税全廃を懇願希望して居るが︑毎年
其希望を達せずして帰る︒所が紡絞会社と云ふものは営業税の問題に対しては利害が極めて少なく負担が重いこ
とはないのである︒故に私共紡績業者は取引先から此営業税全廃運動を頼まれる度毎に︑どうも下手に之を運動
して収益税にでもなると云ふと紡鮫会社はつまらぬから︑成るべく微温的にやって欲しいと云って︑まあ内幕を
示すのは甚だ遺憾でありますが久しく此運動に微温的に参加して居った︒所が両︱︱︱年前から取引先が悩んで居る
って居るのか︑紡績会社が払って居るのか︑結局我々が払って居るのも同じではないか︑して見れば人情から言
ふても利害の上から言ふても之に熱心に骨折らぬのは間違って居るぢゃないかと云ふので︑此両三年前から私共
が主となって熱烈なる営業税全廃の運動を起す様になった︒そして両三年間東京へ始終委員を出しまして︑大臣 およばずながら努力した訳であります︒﹂
関西大学﹃経済論集﹄第十三巻第三号
に感激したのであります︒もう外に心配はないのでありまして︑矢でも鉄砲でも持ってこいといふ気になって︑
や政党の幹部諸君へ運動しましたが︑毎年其目的を達しないC所が段々に私等が研究しました結果一体日本の実
業家と云ふものは立憲政治の下に於て与へられた選挙権を少しも行使して居ない︒大臣や政党の幹部諸君に頼む
必要はない︒我々は与へられたる投票権を持って居るのであるから︑之を行使して営業税全廃の目的を達しなけ
ればならぬ︒斯ふ云ふのが私の実業同志会を起しました最近の︑固より是は全般ではありませぬけれども︑小さ
な一の動機であります︒大阪では今日十一人の代議士を出して居る︒御当地も十六人の代議士を出して居るが︑
大部分辞設士とか政治家である︒真に実業家に理解を持って居る実業家代議士は殆どない︒彼等の多くは殆ど代
議士と云ふものを一の道楽として居る︒さう云ふ者の手に依て諸君の諸会が代表されて居ると云ふことを発見し
たのであります︒﹂
ここで武藤によってのべられている構想はさきに検討した兆民の︑苛酷な徴税︑官僚の干渉・統制に苦しむ実業
家が﹁限られたる経済社会の区域を拡げて︑第一は政治社会にまで進入し﹂
をつくり︑実業党を力にして虚業家退治をおこなおうという発想と瓜二つではあるまいか︒彼が﹁残存斗争時代﹂
にはいった中小企業層を動員しょうとしたことはあきらかであるが︑その﹁実業党﹂作りを支えたものは福沢より
( 4 )
︑継承した﹁実業精神﹂であった︒実業精神とは何か︑武藤にきいてみよう︒ーー'
﹁実業なる言葉は英語の
Bu
si
ne
ss
と云ふ言葉の訳語である︒
日本
﹁実
業﹂
の精
神構
造︵
市原
︶
﹁実業家兼政治家﹂として自らが政党
源語は
Bu
sy
(忙
しい
︶と
ne
ss
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のま
たは
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と︶とが結び合って出来たので︑西洋の辞書には
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(仕事︶と註釈されている︒彼の米国自動車王ヘンリー・
フォード氏も﹃実業とは仕事のことである﹄と言って居る︒然るに我国に於ては︑実業と言ひ︑実業家と言ヘ
ば︑何か商工業︑または商工業に従事するものに限るやうに解せらるるのみならず︑商工業の中でも︑大組織の
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