当時 の 日記か ら見 た日清戦争13
当時の 日記か ら見 た 日清戦争
岡 崎 一
序 論
日清 戦 争 は 宣 戦 布 告 前 の 明 治27年7月25(ま た は23)日 に実 質 開始 した が 、 開始 日の解 釈 を巡 っ て は当初 か ら混 乱 が あ った 。 また、 終結 時 期 につ いて も、諸 説 が 存 在 す る状 況 で あ る(本 稿 で は狭 義 に[日 清 講 和 条 約 が批 准 され た]明 治28年 5月8日 まで とす る)。 戦 争 前 後 の動 き も割 愛 しが た い ので 、実 際 には最 後 通 牒(明 治27年7月20日)前 後 か ら明 治 天皇 還 幸(明 治28年5月30日)ま で を取 り扱 うが 、
その ため 、 明 治28年8月1日 に 陸奥 宗 光 が 尾 崎 三 良 に語 っ た"三 国 干 渉 、遼 東 還 付 ノ経路"("百 部 計""極 秘 密 二"出 版 され"知 友 二 送"ら れ た ものの 薩 長政 府 に"忌 マ"れ"絶 版"・"没 収"と な っ た)"陸 奥 二取 テ光 暉 ア ル履 歴"『 舞i々録 』
に"詳 悉"さ れ て い る(『 尾 崎 三 良 日記』 下 巻74‑75)一 の記 載 な どま で は 充 分・
に含 め られ な い。
それ は 兎 も角 、 日清 戦 争 は 近代 日本 初 の対 外 戦争 で あ り、本 稿 は この異 常 な時期 に 当時 の 日本 人(お よび在 日外 国人)が どの よ う に思 考 し行動 してい た のか を改 め て検 証 す る試 み で あ る。 この 結論 が 一 見 出 て い る よ うな問 題 を敢 えて取 り上 げ る の は、 当時 の 文献(具 体 的 に は 日記)を 調 査す る過程 で、 当 時 の 人 々が 必ず しも好戦 一色 に染 まっ てい た わ けで はな い こ とが判 明 して きたか らで あ る。例えば樋 口"一 葉 か ら 『徒 然草 』 の 講義 を受 け た穴 澤 清 次郎"が 、"戦 争熱 に浮 か されて"、"「戦 争 と文学 」 と云つ た風 な 質 問 を した"時 、 一葉 が 「わ れ われ 仲 間 で は、 少 し も戦 争 な ん て影 響 され ませ ん ね」と"毅 然 と した態 度"で 答 えた とい う逸 話(『樋 ロー 葉全 集 』 第3巻[上]403;「 一 葉 さん 」 『一 葉 』[旧 筑 摩 書 房 版 全 集 月報]第2号)な どは 鮮 や か な事 例 と言 え よ う。 実 際 、"露 の よ"(『 樋 ロー葉 全 集』 第4巻[上]323)と い う虚 無 的 ・無 常 観 的 人生 観 を持 っ てい た 一葉 の 日記 に は"戦 況 の進 展 につ いて は 全 く記 録 が な く、無 関心 なほ どに冷 静 に 見 え る"(第3巻[上]403;「 一葉 さ ん」)。(た
くざ
だ し これ は程 度 問題 で 、,特に短 歌 「ふ る郷 に か さ る錦 はか ら衣 よにか ち色 や きて か
くぎ くげ くとつ
へ る ら ん 」・「つ る きた ち 冴 し 霜 よ の 月 か け も こ と し ハ い か に の と け か る ら ん 」[第 3巻(下)689]が 証 明 す る よ う に 、一 葉 は 実 際 に は 日清 戦 争 に 関 心 を 持 っ て い た 。) 因 み に"戦 争 に 熱 狂 した の は 士 族"や"知 識 人"で 、"民 衆 の 多 く は 、 開 戦 動 機 の わ か りに くい こ と も あ っ て 戦 争 そ の も の に た い し て 無 関 心 で あ っ た 。 ジ ャ ー ナ リ ス
14当 時の 日記か ら見た 日清 戦争
ト生 方 敏郎 は 「政 府 の事 情 も何 も知 らぬ地 方 民 は 、 どう して この戦 争 が起 った か は 容易 に臆 に落 ち なか っ た で あ ろ う」 と指 摘 して い る(『 明 治大 正 見 聞史 』)。長 谷 川 如 是 閑 も 「その ころ を い くら回想 して み て も、 私 た ちが 戦争 に たい して深 い関心 を
もって い た ような覚 え は全 くな い」 と回想 した(『 あ る心 の 自[叙]伝 』)"(藤 村 108‑09)。 岡本 綺 堂 も"い よ〉 開 戦 とな る まで は一 般 国民 が割 合 に冷 静 一 一褒 め て いへ ば冷静 だが 、悪 くいへ ば無 関心 の姿 であ つ た"(3)と 記 してい る。
心 理 的一 元 化(好 戦 的 態 度)と 、それ か らの逸 脱(戦 争 に対 して距 離 を置 く態 度) この 落差 こそ 本稿 の注 目す る ところ で あ るが 、本 稿 の 関心 事 は この落 差 の(多 様 な)原 因 を考 察す る こ と よ りも、 この落 差 の 諸相 を明 らか にす る こ とにあ る 。
こ の場 合 、 有 効 な分 析 手 段 とな る の が 日記 で あ る。 た と え 自 己 を賛 美 ・弁 護 し た り事 実 を誇 張 ・歪 曲 ・隠蔽 して い る場 合 が あ る と して も、(正 岡子 規 「陣 中 日記 」 の よ うに最 初 か ら公 表 を意 図 した もの は別 と して)本 来公 表 を意 図 してい ない秘 匿 的性 格 の もの だ け に、日記 に は執 筆 者 の 表 向 き(粉 飾)の 顔 とは異 な る裏 側(真 実) の 顔 が覗 い て い る。 そ こに こそ 公 的 な 日本 近代 史(本 稿 の 場合 に は 日清戦 争 期 正 史) で は な く、 私 的(非 公 式)故 に真 実 の 歴 史 が 姿 を現 す 。 例 え ば 明 治27年8月16 日 に公 布 され た軍 事 公債 条 例(勅 令)を 例 に取 ろ う。 この軍 事 公債 募 集 は、 当時 日 本 銀行 馬 関(現 在 の 下 関)支 店長 だ っ た高 橋 是 清 が 、"恰 度 封建 時代 の軍 用 金 を取 立 て る に彷彿 た る もの か あつ た"(『 高橋 是清 自傳』479)と 批 判 的 に 回想 してい る もの だが 、 そ れ は兎 も角 、 この勅 令 の こ とは 次 の よ うに 『原 敬 日記 』 に も記 載 され て い る。
[明治27年8月18日]軍 事 公 債 五 千 萬 圓募 集 の勅 令 出づ 、 但 差 向 三 千 萬 圓 を募 集 す る事 と な し、 利 率 も六 朱 まで を許 す 事 と規 定 せ し も今 回 は 五 朱 とな せ り。(第1巻219)
これ に対 して、 明治27年11月25日 に跡 見花 険 は30円 を出 費 し(『跡 見 花 険 日記 』 第2巻330)、 依 田学 海 は累 積 的 に応 募 し遂 に は1万 円 もの 額 と な り"や ・・家 産 の 形 を為"す に至 っ て い る ほ どで あ る(『 学 海 日録 』 明 治27年12月14日 、 明治28 年1月17日 、 明 治28年6月25日)。 この よ う な こ とは 日記 に よ っ て初 め て知 り
うる貴 重 な 史実 と言 え るが 、 こ の よ うな共 通 項 が他 に もあ る のか ど うか を検 証 す る こ とも本稿 の主 眼 の一 つ で あ る。
本 稿 で は、 公 表 を 意 図 した(あ る い は 当 時 既 に公 表 さ れ て い た)日 記 は、 紙 幅 の関 係 もあ り、(前 記 の子 規 「陣 中 日記 」 を例 外 と して)原 則 と して取 り扱 わ な い。
具 体 的 に取 り上 げ る 日記 の執 筆 者 は、従 軍者 よ りも銃後 者 の 方 が多 い 。 そ の氏 名(生 没 年 、 日清 戦 争 開始 時 の年 齢 、 戦 時 中 の主 な 身分 、 主 な 居住 地)、 日清 戦 争期 の 日
当時 の 日記か ら見た 日清 戦争15
記 原 題 ま た は 使 用 日 記 版 本 名 、 公 刊 形 態 は 、 以 下 の 通 りで あ る(著 者 名50音 順)。
● 跡 見 花 渓(1840‑1926年 、54歳 、 跡 見 女 学 校 校 長 、 東 京)『 明 治 二 十 七 年 当 用 日 記 』(金 原 喜 一 、 明 治26年)[明 治27年1‑12月]花 践 日 記 編 集 委 員 会(編)『 跡 見 花 険 日 記 』 第2巻(跡 見 学 園 、2005年)
● 池 辺 三 山(1864‑1912年 、30歳 、 日本 新 聞 社 客 員 記 者 、パ リ)「 欧 羅 巴 漫 遊 日記 」 (明 治27年8‑10月)日 本 近 代 文 学 館(編)『 池 辺 三 山(二)』 文 学 者 の 日記2(博 文 館 新 社 、2002年)※ 初 出 のr三 山 遺芳 』(三 山 会 、昭 和3年)の テ クス トを参 考 資 料 と して併 載 してお り、 こ れ を本稿 で も小 活 字 で示 した。
● 石 井 十 次(1865‑1914年 、29歳 、 岡 山 孤 児 院 院 長 、 岡 山 市)「 明 治 二 十 七 年 信 仰 之 生 涯 」(明 治27年1‑12月)・ 「十 次 日誌 」(明 治28年1‑12月]『 石 井 十 次 日誌
(明 治 二 十 七 年)』 ・『石 井 十 次 日誌(明 治 二 十 八 年)』(石 井 記 念 友 愛 社 、1963‑64年)
● 巌 谷 小 波(1870‑1933年 、24歳 、『京 都 日出 新 聞 』 主 筆 、京 都 市)「 甲 午 日録 」(明 治27年1‑12月)桑 原 三 郎(監 修)『 巌 谷 小 波 日 記[皇 雛 ヨ擁]翻 刻 と研 究 』 白 百 合 児 童 文 化 研 究 セ ン タ ー 叢 書(慶 慮 義 塾 大 学 出 版 会 、1998年)
● 上 田 貞 次 郎(1879‑1940年 、15歳 、 正 則 中 学 校 学 生 、 東 京)「 処 世 余 録 」 第 ニ ー 六 冊(明 治27年11月 一明 治29年8月)上 田 貞 次 郎 日記 刊 行 会(編)『 上 田 貞 次 郎 日記 盟奪 擁 年』(慶 応 通 信 、1965年)
● 内 田 魯 庵(1868‑1929年 、26歳 、 作 家 ・翻 訳 家 、 東 京)「 回 想 録 資 料 ノ ー ヰ罐 詔 一朗 日記 抄 」(明 治27年 分)・ 「日記 自 十 月 九 日 」(明 治27年10月9日 一 12月31日)・ 「日記 」(明 治28年 分)野 村 喬(編)『 内 田 魯 庵 全 集 』 別 巻(ゆ ま に 書 房 、1987年)
● 尾 崎 三 良(1842‑1918年 、52歳 、 貴 族 院 勅 選 議i員 ・法 制 局 長 官 ・錦 鶏 間 砥 候 ・法 典 調 査 会 委 員 ・宮 中 顧 問 官 、 東 京)「 日誌 」 伊 藤 隆 ・尾 崎 春 盛(編)『 尾 崎 三 良 日 記 』 下 巻(中 央 公 論 社 、1992年)
● 勝 海 舟(1823‑99年 、71歳 、 枢 密 顧 問 官 、 東 京)「 海 舟 日記 」 第 二 十 五 号(明 治 25年9月 一明 治31年12月)勝 部 真 長 そ の 他(編)『 勝 海 舟 全 集 』 第21巻(勤 草 書 房 、1973年)※ 以後 、 海 舟 の傍 証 に際 して巻 数不 記 の 場合 は、 当 書 か らの 引 用 とす る。
これ
● 亀 井 鼓 明(1861‑96年 、33歳 、 伯 爵 ・第1師 団 従 軍 写 真 家 、 東 京 ・遼 東 半 島)
「従 軍 日乗 」 亀 井 鼓 明 『従 軍 日乗 』(亀 井 舷 常 、1899年)※"家 扶'に 筆 録 させ後 日
"考訂 補 輯"さ せ て もい る の で
、 通 常 の 日記 とは 異 な る。 また写 真 機 器 修 理 の ため 一 時 帰 国 し て い るの で、 従 軍 日記 と して は一 時 中 断。
● 国 木 田 独 歩(1871‑1908年 、22歳 、『国 民 新 聞 』[従 軍]記 者 、東 京 ・遼 東 半 島)「 欺 か ざ る の 記 」 第 四 一 第 七(明 治27年4月 一 明 治29年5月)国 木 田 独 歩 全 集 編 纂
16当 時の 日記 か ら見 た 日清戦争
委 員 会(編)『 国 木 田 独 歩 全 集 』 第7巻(学 習 研 究 社 、1965年)
● 黒 田 清 輝(1866‑1924年 、27歳 、[従 軍]洋 画 家 、 東 京 ・遼 東 半 島)体 裁 不 明
『黒 田 清 輝 日記 』 第2巻(中 央 公 論 美 術 出 版 、1967年)
● 近 衛 篤 麿(1863‑1904年 、30歳 、 貴 族 院 議 員 ・学 習 院 院 長 、 東 京)「 日 誌 」 近 衛 篤 麿 日記 刊 行 会(編)『 近 衛 篤 麿 日記 』 第1巻(鹿 島 研 究 所 出 版 会 、1968年)
● 高 瀬 真 卿(1855‑1924年 、38歳 、 東 京 感 化 院 長 、 東 京)「 萩 村 日 記 第 五 」(明 治27年5月 一 明 治28年6月)・ 「萩 村 日 記 第 六 」(明治28年6月 一 明 治29年3月) 長 沼 友 兄(編)『 高 瀬 真 卿 日記 』 第2巻 〈淑 徳 大 学 ア ー カ イ ブ ズ 叢 書2>(淑 徳 大 学
ア ー カ イ ブ ズ 、2013年)
● 田 中 正 造(1841‑1913年 、52歳 、 衆 議 院 議 員 、 東 京 ・栃 木 県)「 日記 」5冊 田 中 正 造 全 集 編 纂 会(編)『 田 中 正 造 全 集 』 第9巻(岩 波 書 店 、1977年)
● 留 岡 幸 助(1864‑1934年 、30歳 、 留 学 生 、 米 国 コ ン コ ー ド ・ニ ュ ー ヨー ク)「 渡 米 準 備 日 記 」(明 治27年2‑5月)・ 「滞 米 日記 」(明 治27年5月 一 明 治29年5月) 留 岡 幸 助 日記 編 集 委 員 会(編 集)『 留 岡幸 助 日記 』 第1巻(矯 正 協 会 、1979年)
● 原 敬(1856‑1921年 、38歳 、外 務 省 通 商 局 長 、東 京)日 記 第 九 冊(明 治25‑28年) 原 奎 一 郎(編)『 原 敬 日記 』 第1巻(福 村 出 版 、1965年)
● 樋 ロ ー 葉(1872‑96年 、22歳 、小 説 家 、東 京)「 水 の 上 日記 」(明 治27年6‑7月)・
「水 の 上 」(明 治27年11月)・ 「水 の 上 日 記 」(明 治28年4‑5月)・ 「水 の 上 につ 記 」(明 治28年5月)・ 「ミつ の う へ 」(明 治28年5月)・ 「水 の 上 」(明 治28年5‑6月)・ 「水 の う へ 日 記 」(明 治28年10‑11月)塩 田 良 平 そ の 他(編 纂)『 樋 ロ ー 葉 全 集 』 第3 巻(上)(筑 摩 書 房 、1976年)※ 以 後 、 一 葉 の傍 証 に際 して 巻 数 不 記 の場 合 は、 当書 か
らの 引 用 とす る。 な お、 当書 で は 、"草 稿 が 冊子 に書 か れ て い る場 合 、稿 本 の頁 を表示 す るた め に、 カ ギ括 弧(」)・ 丁 番 号 ・表裏 の略 号(オ ・ウ)を 本文 中 に施 し"(「 凡 例」v)て い るが 、 読 み 易 さと い う観 点か ら、 こ れ ら を本 稿 で は省 略 した 。
● 正 岡 子 規(1867‑1902年 、26歳 、俳 人 ・新 聞 『日本 』[従 軍]記 者 、東 京)「 陣 中 日 記 」 (『日本 』 明 治28年4月28日 、5月9・16日 、7月23日)正 岡 忠 三 郎(編 集 代 表)
『子 規 全 集 』 第12巻(講 談 社 、1975年)
● 南 方 熊 楠(1867‑1941年 、27歳 、 留 学 生 ・大 英 博 物 館 東 洋 図 書 目録 編 纂 係 、 英 国 ロ ン ド ン)Collins'HandyDia,y,1894(LondonandGlasgow:Collins,1893)[明 治 27年1‑12月];CharlesLettsllDiary(London:Letts,1894)[明 治28年1‑12月]長 谷 川 興 蔵(校 訂)『 南 方 熊 楠 日 記 』 第1巻(八 坂 書 房 、1987年)
● 森 鴎 外(1862‑1922年 、32歳 、[従 軍]軍 医 ・作 家 、 東 京 ・遼 東 半 島 ・台 湾 「租 征 日記 」(明 治27年8月 一明 治28年10月)木 下 杢 太 郎 そ の 他(編 輯)『 鴎 外 全 集 』
当時の 日記 か ら見 た 日清戦 争17
第35巻(岩 波 書 店 、1975年)
● 山 本 瀧 之 助(1873‑1931年 、20歳 、 小 学 校 教 員 、 広 島 県 福 山 町)「 明 治 二 十 七 年 録 」(明 治27年1‑12月)・ 「明 治 二 十 八 年 録 」(明 治28年1‑12月)多 仁 照 廣(編 著)
『山 本 瀧 之 助 日 記 』 第1巻(日 本 青 年 館 、1985年)
● 依 田 学 海(1834‑1909年 、60歳 、 漢 学 者 ・作 家 、 東 京)「 学 海 日録 四 十 」(明 治 27年1‑10月)・ 「学 海 日 録 四 一 」(明 治27年10月 一 明 治29年10月)学 海 日 録 研 究 会(編 纂)『 学 海 日録 』 第9‑10巻(岩 波 書 店 、1991年)
在 日 外 国 人
● ニ コ ラ イ[Nikolai、 本 名 は1.D.Kasatkin](1836‑1912年 、57歳 、 日本 ハ リ ス ト ス 正 教 会 主 教 、 東 京)「 日記 」 中 村 健 之 介(監 修)『 宣 教 師 ニ コ ラ イ の 全 日記 』 第 3‑4巻(教 文 館 、2007年)
● ベ ル ッ[ErwinvonBalz](1849‑1913年 、45歳 、 帝 国 大 学 医 科 大 学 内 科 学 教 師 、 東 京)DasLebeneinesdeutschenArztesimerwachenden■apanト ク ・ベ ル ツ(編)・
菅 沼 竜 太 郎(訳)『 ベ ル ツ の 日記(上)』 岩 波 文 庫(岩 波 書 店 、1979年) 序 で に 、 直 接 役 立 っ た 参 照 文 献 は 、 以 下 の 通 りで あ る(著 者 名50音 順)。
1.研 究 書
、(1)日 清 戦 争 関 係
● 大 谷 正 『近 代 日本 の 対 外 宣 伝 』(研 文 出 版 、1994年)
● 大 谷 正 『日清 戦 争 近 代 日本 初 の 対 外 戦 争 の 実 像 』 中 公 新 書2270(中 央 公 論 新 社 、 2014年)
● 中 塚 明 『日清 戦 争 の 研 究 』(青 木 書 店 、1968年)
● 原 田 敬 一 『日 清 戦 争 』 戦 争 の 日 本 史19(吉 川 弘 文 館 、2008年)
● 藤 村 道 生 『日清 戦 争 一 束 ア ジ ア近 代 史 の転 換 点一 』岩 波 新 書(青 版)880(岩 波 書 店 、 1973年)
(2)日 清 戦 争 以 外
● 長 沼 友 兄 『近 代 日本 の 感 化 事 業 の さ き が け 一 高 瀬 真 卿 と東 京 感 化 院 一 』 淑 徳 選 書1(淑 徳 大 学 長 谷 川 仏 教 文 化 研 究 所 、2011年)
2.研 究 書 以 外 (1)個 人 作 品
● 岡 本 綺 堂 『随 筆 思 ひ 出 草 』(相 模 書 房 、1937年)
● 尾 崎 行 雄(尾 崎 男 堂 全 集 編 纂 委 員 会 編)『 尾 崎 男 堂 全 集 』 第4巻(公 論 社 、1955年)
● 勝 海 舟(勝 部 真 長 そ の 他 編)『 勝 海 舟 全 集 』 第14巻(勤 草 書 房 、1974年)
● 亀 井 蝕 明 『明 治 二 十 七 八 年 戦 役 写 真 帖 』 上 ・下 巻(亀 井 玄玄常 、1897年)※ 項 目は上 ・
18当 時のH記 か ら見た 日清 戦争
下 巻 の通 し番 号 に なっ て お り、上 巻 は第 一 か ら第 七 十 四 まで 、下 巻 は 第七 十 五 か ら第 百 五 十 まで。
● 陸 掲 南(西 田 長 寿 ・植 手 通 有 編 輯)『 陸 掲 南 全 集 』 第4‑5巻(み す ず 書 房 、1970年)
● 高 橋 是 清(上 塚 司 手 記)『 高 橋 是 清 自傳 』(千 倉 書 房 、1936年)
● 樋 ロ ー 葉(塩 田 良 平 そ の 他 編 纂)『 樋 ロ ー 葉 全 集 』第3巻(下)(筑 摩 書 房 、1978年)・
第4巻(上)(筑 摩 書 房 、1981年)
(2)新 聞(写 真 復 刻 版 は 省 略)
● 内 川 芳 美 ・松 島 栄 一(監 修)『 明 治 ニ ュ ー ス 事 典 』 第5巻(毎 日 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン ズ 、1985年)
● 中 山 泰 昌(編 集 代 表)『 禦 明 治 編 年 史 』 第9巻 再 版(財 政 経 済 学 会 、1970年)
凡例 ・断 り書 き
紙 幅 の 関係 か ら、 原則 と して 図版 は省 略 し、 日記 自体(と そ の引 用)も 、 網 羅 で は な く取捨 選 択 した。 日記 の 記載 中、 印象 的 な箇所 や(日 記執 筆 者 に とっ て)特 徴 的 な個 所 を優 先 的 に 引用 した が、戦 闘 関係(特 に戦 況 を丹 念 に記載 して い る亀 井 『従 軍 日乗 』 と依 田 『学 海 日録 』)に つ い て は適 宜 摘 録 ・省 略 して 引用 した。 台 湾 関 係 は省 略 した。
日記 か らの引 用 を徹 底 して 時系 列 的 に並 べ れ ば 、 同 日の 記 載 同士 の比 較 が 容 易 に な り、 そ れ な りに 興 味深 い発 見 も得 易 くな るわ け だが 、 項 目(章 ・節)別 に分 け、
更 に取 捨 選択 も行 な っ たた め 、 そ の分 、 同 日の 記 載 同士 の 比較 が 容 易 で は な くな っ て い る。 そ れ で も同 日の記 載 同士 の 比較 が少 しで もで き る よ うに、 引 用 に は配 慮 し た。 同 日の記 載 は、 従軍 者 →銃 後 者 → 在 日外 国 人 の順 序 で 引用 した。
日記 か らの引 用 は 、 当 日の 記載 を全 て網 羅 した わ けで はな く、原 則 と して関 係個 所 に 限定 した ため 、〈前略 〉・〈後 略 〉 を必ず しも明示 して い な い。 当 日の引 用 は 、[該 当(年)月 日](必 ず し も記 載 日とは 限 らない)、 日記 本 文 、傍 証(日 記 執 筆 者 の姓 、 [既刊 日記 の 巻 ・号 数 また は該 当 年]、 ペ ー ジ)の 順 で あ る。 必要 に応 じて 、 ※(註 釈 ・論 評)を 付 した。
日記 の レイ ア ウ ト(分 か ち 書 き ・スペ ー ス空 け な ど)に は 、必 ず し も従 わ(ま た は従 え)な か った場 合 もあ る 。
旧字 体(旧 漢 字 ・変 体 仮 名 ・合 字 な ど)は 、 原則 と して新 字 体 に改 め た。 ル ビは、
パ ラル ビ と した。 漢 数 字 は、(差 し支 え の な い限 り)原 則 と して ア ラ ビ ア数 字 に 改 め た。 〈ペ ー ジ〉(頁 、p.お よびpp.)自 体 の記 載 は 省 き、 数 字 のみ で 記載 した。
誤 植 ・脱 落 な どは 、[]で補 訂 した(マ マ とい う校 訂 は、な るべ く避 け る よ うに した)、,
当時の 日記か ら見た 日清 戦争19
校 訂 が不 十 分 ・不 適 当 あ る い は誤 っ て い る場 合 さ えあ るが 、 そ れ を一 々指摘 す るの は煩 項 に なる ので 、特 に 断 る こ とな く直接 的 に改 訂 した。
当 該 年(明 治27年 か 明治28年)が 自明 の 場 合 には 、 〈年 〉 表 記 を 省略 した場 合 が あ る。
共 通事 項(主 に戦 況)の 引用 記 載 につ いて は 、利 用 メデ ィア(主 に新 聞)の 違 い (例 え ば依 田学 海 は 『国会 』・『東京 朝 日新 聞』・『国 民新 聞』、 山本 瀧 之助 は 『日本』、
上 田貞 次 郎 は 『時事 新 報 』 他)を 考慮 す る必 要 が あ るが 、(紙 幅 の 関 係 もあ り)本 稿 で は 引用 記 載 の比 較(異 同 の検 討)ま で は原 則 と して 行 な い得 なか っ た。
第1章 朝 鮮 関連 宣 戦 布 告 までの 経緯 を前 もっ て略 記 す る 。 ・
明 治27年7月20日 、 駐 朝 公 使 の大 鳥圭 介 が 朝 鮮 政 府 に対 しで清 国 との 宗 属 関 係 破 棄 な どを要 求 す る最 後 通 牒 を発 す る(回 答 期 限 は22日)。
7月23日 、 日本 軍 が朝 鮮 王 宮 を 占領 し、 国王 の 高 宗 を手 中 にす る。 そ して 日本 側 の圧 力 に よ り、大 院 君 が 国政 総 裁 に就 任 。
7月25日 、大 院君 が 清 との宗 藩 関係 解 消 を宣言 し、大 鳥 に牙 山 の清 軍掃 討 を依 頼 。 同 日、 日本 艦 隊 が豊 島 沖 で清 軍 艦 と交 戦 し(豊 島沖 海 戦)、 防護 巡 洋艦 「浪 速 」(艦 長 は東郷 平 八 郎 大佐)が 清 兵 を載せ た英 国籍 輸 送 船 「高 陞号 」を撃沈(「高 陞号 」事 件)。
7月29日 、 牙 山 に向 った 日本 軍(大 島混 成 旅 団)'が 清 軍 と交 戦 し、勝 利(成 歓 の戦 い)。
第1節 宣 戦 布 告
8月1日 、 日清 両 国 は 互 い に 宣 戦 布 告 し た 。 こ の こ と は 、 諸 日 記 に 次 の よ う に 記 載 さ れ て い る 。
[8月t日]清 国 に対 し 開 戦 の 詔 勅 発 表 せ ら る 。(原219)
[8月3日]三 十 年 間 に 於 て 養 成 し た る 経 験 的 文 明 を 東 洋 に 布 か ん が た め の 天 父 の 御 摂 理 な る 此 度 の 戦 … … 之 れ 天 父 が 好 ん で な させ 玉 ふ と こ ろ に あ ら ず し て 激 流 の 岩 に 送 る が 如 き 而 已(石 井 明 治27年209)※ ク リス チ ャ ン内 村 鑑 三 の 有 名 な義 戦 論(「 日清 戦 争 の義(訳 文)」 『国民 之友 』第234号[明 治27年9月3日]「 特 別 寄 書」 欄)と も通 じ合 う もの が あ る。 因 み に 内村 も 〈摂 理 〉 とい う言葉 を用 い て い る。
[8月3日]是 日、 清 国 と 宣 戦 の 詔 を よ む 。(頭欄)「宣戦詔 を発せ らる」(依 田 第 9巻370)
20当 時の 日記か ら見た 日清 戦争
[8月4日]車 中夕 版 ノ新 聞紙 ヲ読 ミテ清 帝李 鴻 章 ガ 日本 ニー 着 〈簿 〉 ヲ輸 セ シ ヲ責 メ其 勲章 ヲ號 ヒ タル ノ報 ヲ見 ル。
「聞説 天 皇 討満 清 西 来 羽報 最 閾情 有 人 如何 風 雲 変 只 謂 書 生不 識 兵 」 此 程 ヨ リ毎 日ノ新 聞 紙 二 日清 ノ戦報 ヲ載 セ ザ ルハ 元 シ(池 辺225)
車中夕版 の新聞紙 を読みて清帝、李鴻章 が 日本 に一着を輸せ しを責め、其勲章 を號ひた るの報 を見る。
聞説天皇討満清、東来羽微最関情。憂心欲問風雲変。誰謂書生不識兵。
この程 よ り毎 日の新聞紙 に日清の戦報 を載せ ざるはな し。(池 辺226)
[8月5日]○ 日本 国の 決心 、 決 心 に小 決 心 、大 決 心 。/朝 鮮 に戦 ふ よ りは一 直 北 京 を陥 る に あ り。 朝 鮮 独 立 を保 た ん もの 先 づ 兵 を京 城 に入 れ 云 々。/此
目的 を達 す る は頗 る果 断 神 速 大 度 一致 を要 す と錐 も、小 は大 に敵 す べ か らず。
胆 を大 な ら しむ、 心 を大 な ら しむ 、愛 国 心 を。/戦 の 持 永 、 実 業 交 易 法 、 姑 息 平 和 を止 め、 朝 鮮 取 るべ か らず、 又 永 く世 話 す るの 義 あ り。/支 那 事 情 政 治 行 届 かず 、支 は痛癒 易 し。/人 民 諸 会社 組 合 に 自衛 に富 む 。国 家 的結 合 弱 し。
/然 る に他 に戦 ふ もの は先づ 克 く内 を治 め よ。/[中 略]/○ 弊 政 革 新 は頭 ま 別 つ な り。/[中 略]/東 洋 の大 平 和 を旨 とす べ し。/政 府 た と ひ下 策 に 出 つ る事 あ り とす る も予 は為 国家 官 民 の 一 致 を図 る も の な り。/何 お か 下 策 と 云 ふ 、 妄 りに大 兵 を動 せ しは不 同 意 な り。大 兵 を動 か さ ば なぜ 直 に 開戦 せ ざ る、 直 に決 せ ざ る は虚 勢 の た め に 大 兵 海 外 に 出 した り。 今 に及 ん で 四十 日経 過 して 漸 く戦 を開 け り。而 て直 に支 那 を討 つ を以 て 上 策 とせ り。之 不 同意 な り。
然 れ ど も此 不 同意 を以 て 上 下官 民 の 一致 を害 ふ もの に はあ らざ るな り。
○朝 鮮 の事 少 々。/秀 吉 の と き七 年 焦土 。/今 度 も朝 鮮 戦争 不 可 。 [中略]
○ 末路 の 政府 俄 か に大 軍 に依 頼 。 楠 氏 、 北 條 、 長 州 征 伐 、 今 度/○ 日本 支 那 の保 存 法 。剣 不 、孔 子 の 教形 。 日木魂 。 有 形 に は家 屋 の事 、 船 舶 の事 。/[中 略]/腕 力 の 戦 は 感情 強 く道 理 の 戦 は感情 弱 し。/日 清 に怒 らば解 散 に怒 れ。
/支 那 兵 と 日本 兵 と一 人 交 換 に思 ふ べ か らず 。 彼 れ は盗 賊 無 獺 の徒 な り、我 れ は良 家 の子 弟 な り。/[中 略]
一、小 細 工 、対 外 交戦 国内 に明 か にせ ず。
に
一、北 京 を 陥 れ ん 先 北 洋 館 を 討 ち 沈 め 。 只 戴 に こ ま る は 支 十 人 と 日本 一 人 。(田 中413‑16)※ 記 載 が 断 片 的 な た め 、誤 解 を招 きか ね な いが 、"対 外 交 戦 国 内 に 明 か にせ ず"と い う政府 批 判 と"支 那 兵 と 日本 兵 と一 人 交換 に思 ふ べ か らず。 彼 れ は盗 賊 無 頼 の徒 な り、 我 れ は 良家 の子 弟 な り。"と い う差 別 的 日清 兵 比 較 論 は明確 。"日 清 戦 争 中
当時の 日記か ら見 た 日清戦 争21
の日本軍 と朝鮮 人民 ・中国人民 との関係が実際に どのようなものであ り、 日本軍が どの ような矛盾 に逢着 したかが明 らかにされず、その うえ 日本軍 とたたかった清国軍が どの ような歴史的性格の軍隊であったか も明 らかに されないまま、 もっぱら日本軍の連 戦連 勝 だけが喧伝 されることによって、朝鮮人や中国人にたいするあやまった蔑視感が 日本 人のあいだにひろめ られ"(中 塚218)た が、田中 もその例に漏れなかった。
[8月9日]倫 敦伊 東 祐 侃 英 国新 聞 ノ 日清 戦 報 ヲ載 セ タ ル者 ヲ送 リ来 ル 其 ハ 余 ノ嚢 二英 国二乞 ヒタ ルニ応 ジ タ ル也 。
此 夜 一 簡 ヲ裁 シテ之 ヲ伊 東 君 二謝 ス 且 ツー 絶 ヲ添 ユ 左 ノ如 シ
「方 里 東 天 飛 戦 塵 我 兵何 日破 天 津 中宮 英 使 四 隣駿 慷 慨 聞鶏 蹴 挫 人 」 (池辺234)
[8月11日]夜 ホ テ ル ノ食 堂 二在 リ ー 老 入 ノ疎 服 鄙 狸 ナル ガ入 リ来 リ帽 子 ヲ脱 セ ズ礼 ヲ施 サ ズ突 然 トシテ余 二話 セ ン トス。其 操 ル所 ハ独 逸語 ナ リ 余 一 辞 ヲ解 ス ル 能ハ ズ 此 老 人 乃 チ英 語 ヲ以 テ操 ル 余 其 話 ノ 日清 戦 争 二係 ル
コ トヲ解 セ リ ト錐 余 ノ英語 ハ 全 ク迂 拙 ニ シテ充 分 是 二対 シ答 フベ キ力 無 シ 喉 [細川 護成]乃 チ是 二 答 フ
老 人 大 二喜 ビ刺 ヲ懐 二 索 リ取 出 シテ侯 二捧 グ 之 ヲ見 レバ 則 チ英 国 ウエ ー ル ス 地 方某 市 二在 任 セ ル独 帝 国領 事 ダー ン氏 ナ ル者 也
日ク 「日本 必 ズ清 二勝 ツ可 シ。」侯 日 ク 「余 誠 二之 ヲ祈 ル」 ト。(池 辺236‑37) [8月112日]今 井 海 軍 大尉 座 二 陪 ス 細 川 侯 ノ伯 林 ヨ リ此 二 来 リ賜 ヘ ル ヲ聞 キ 直 チ ニ 日清 戦 報 ノ伯 林 公 使 館 二達 セ ル ヲ聴 カズ ヤ ト問 フ。 余伯 林 公 使 館 書 記 吉 田 ヨ リ聞 キ シ所 ヲ以 テ話 タル ニ大 尉 ハ 日 ク 「今 朝 此 地 ノ新 聞 ニ ハ我 海 軍 威 海 衛 ヲ攻 メ テ取 ル コ ト能 ハ ズ 陸 軍 兵 万 余 釜 山 ト元 山 トご 上 陸 ス ト見 ヘ タ
レ共其 実 否 如何 ヲ知 ラズ云 々」 ト言 フ
東 方 ノ戦 報 二 耳 ヲ傾 ク ルハ 誰 シ モ 同 ジ心 也 去 レ ド身武 官 職 二在 ル者 ハ 亦 タ 格 別 ナ ラザ ル ヲ得 ズ(池 辺238)
今井海軍大尉座 に陪す 、侯 の伯林 より此 に来 り玉へ るを聞 きて、直に 日清戦報の伯林公 使館 に達せる を聞かずや と問ふ。余吉 田書記官 よ り聞 きし処 を話 したるに、大尉 曰 く、
今朝此地 の新聞 には我海軍威海衛 を攻めて取 ること能はず、陸兵万余釜山 と元 山とに上 陸す と見へ たれ ども其 の実否如何 を知 らず と、東方の戦報 に耳 を傾 くるは誰れ しも同 じ 心な り。去れ ど身武職にあるものは又格別な らざるを得ず、[後略](池 辺241)
[8月18日]食 後 話往 々 日清 戦 争 ノ事 二 及 ビ 日 ク 「日本 ノ戦 功 ヲ祝 シテ ー杯 ヲ挙 ゲ ン」 卜二 人[ス トッ クホ ル ムの 水 道 技 師 と銀 行 家]ガ 云 エ バ 細 川 侯 ト 余 ト楷 二 喜 ンデ杯 ヲ挙 ゲ タ リ
22当 時の 日記か ら見た 日清 戦争
[中略]
藪 ハ 日本 人 ノ足 跡 多 カ ラ ヌ地 ナ レバ 誰 モ 我 一 行 ヲ珍 客 視 セ ル ノ ミナ ラ ズ 目下 日清 戦 争 ノ事 実 日 日各 国 ノ新 聞 紙 二 記 載 セ ラ ル ル折 ナ レバ 殊 二 目ヲ 日本 人 二 淺 ゲ リ 注意 セ ル モ勿 論 ナ リ ト思 フ(池 辺258‑59)
[8月18EI]鳴 呼 日清 の 問 に戦 争 は起 りぬ。/東 洋 に於 け る二 大 国 民 は殆 ど 生 死 の衝 突 を始 め た り。/血 を異 境 の 土 神 に供 す る兵 士 あ り。 涙 を茅 屋 の 隅 に呑 む寡婦 あ り。 鳴 呼戦 争 は 開か れ た り。(国 木 田191)※"寡 婦"については、
菱 田春草の物議 を醸 した(が 校長 の岡倉天心の裁定 で最優等 となった)東 京美術学校卒 業 制作 《寡 婦 と孤 児》(明 治28年)が 直 ち に連 想 され る。
[8月23日]
ノ 報 知 ヲ載 セ 陸 海 共 二 日 本 利 ア ラ ズ トノ 報 ア リ シ ト聞 ク (池 辺276)
ρ
食 後 談 話 十 時 二 至 リ此 日此 国[ロ シ ア]ノ 官 報 二 日 ク 日清 戦 争 一 勝 一 敗 一 喜 一 憂
食 後 談 話 少 時、 此 日此 国 の官 報 に 日清 戦 争 の報 知 を載 せ 、 陸 海共 に 『日本 利 あ らず 』 と の報 あ り しと聞 く、一 勝 一敗 、 一 喜 一憂 。(池 辺278)
[8月26日]雨 降 ル 此 日ハ 日曜 ナ レバ セ ン トペ ー・・トル ス ホ ッ フ ノ 公 苑 及 ビ 離 宮 ヲ 観 ン ト思 シ モ 雨 二 妨 ゲ ラ ル 依 リ テ 終 日 寓 館 二 在 リ 郵 着 ノ 東 京 諸 新 聞 ヲ 読 ム 日清 ノ宣 戦 前 論 鋒 甚 ダ 鋭 尖 ナ ル ヲ 見 ル(池 辺283)
第2節 明 治天 皇 発 賛
既 に(8月5日)参 謀 本 部 内 か ら宮 中 に移 され てい た 大本 営 は、 戦 争指 導 の ため 9月13日 に広 島へ 移 転 し、15日 に到 着 した(第5師 団 司令 部 庁 舎 に広 島大 本営 開設)。
そ の象 徴 で あ る 明治 天 皇(大 元 帥)の 発 賛 は、諸 日記 に次 の よう に記載 され て い る。
[9月13日1大 元 帥 陛 下 御 発 奮 大 吉 日。/[中 略]大 元 帥 陛 下、 御 発 車 ヲ奉 祈 願 ル御 神 前 祭 典 ヲ行 フ。 此 日ヲ以 テ 大 本 営 ヲ広 島二移 さる ・に付 、 本 日広 島へ行 幸 あ らせ らる。 此 日、 秋 気 新 涼 爽 快 、 可 人 征 清 之 将 軍勇 気 百 倍 、 況 や 大 轟 之 西進 之 盛 事 二於 て をや 。 陛下 万 歳 々 々万 々歳 。(跡 見312‑13)
[9月13副 御 発 賛 、 広 島へ 迎 え らる。(勝499)※ 海舟の記載 が花渓な どの 記載 とは対照的に異様に短いのは、漢詩 「偶感 二十七年作」(勝 第14巻404)を 見て も判 る通 り、そ もそも海舟が 日清戦争に批判的だったことも関係 しているか もしれない。
[9月13日]今 朝 天 皇 を宮 城 の 前 面 に て其 の新 征 を送 り奉 りた り。 帝 者 の 壮!吾 ナポ レオ ンを羨 み た り。 鳴 呼 帝 王!帝 王!こ れ を羨 む の吾 は亦 山林 の生 活 を羨 む。 吾 は不 思 議 の 心 を有 す 。(国 木 田213)※ 独歩の二重心 理が良 く窺 える。
当時 の 日記 か ら見 た 日清戦争23
[9月13日]天 皇 陛 下 廣 島 に行 幸 せ らる、 大 本 営 を同 地 に進 め られ た る為 め な り、 先 是 山縣 有 朋 総 指 揮 官 と して 朝 鮮 に赴 き、 陛 下 に は伊 藤 、 西 郷 、 大 山 其 他 の 文官 供 奉 せ り。(原220)
第3節 平 壌 の戦 い(以 後)
9月15日 、 第1軍 は 平壌 総 攻 撃(曾 て参 謀 本 部 顧 問 ・陸軍 大 学 校 教 官 だ っ た ド イ ツ軍 人 メ ッケ ル直 伝 の 包 囲戦)を 開始 し、16日 に 占領 した(平 壌 の戦 い)。 以 後 の こ とは、 諸 日記 に次 の よ うに記 載 され てい る。
[9月15日]本 日我 軍 平 壌 を略 取 す(巌 谷228)
[9月22日]明 日 ノ約 ア レバ トテ午 後侯 爵 二 従 ツ テマ ホ メツ トパ シヤ ヲ訪 フ [中略]
B清 戦 争 ノ事 二談 偶 々 及 ブ 両 国 ノ為 メニ不 幸 ナ コ ト杯 弦 ハ 外 交 家 的 口吻 ア リ 面 白 ク聴 カル ・モ亦 情 ア リ。(池 辺299)
[9月22日]日 本 人 の態 度 が 、 一般 に予 想 して い た よ りも有 頂 天 に な っ て い ない こ とは 、認 め ね ば な る まい 。 今 や 第二 軍 が 編 成 中 で あ る。 『時事 新 報 』 を 先 頭 に全 新 聞紙 は、 敵 を完 全 に粉 砕 す る まで は、 い か な る条 件 の も と で も講 和 しな い こ と を要 求 して い る。(ベ ル ツ170)
[9月24日]昨 日は 日曜 日、 午前 九 時二 十 分 民 友 社 を出 で ・一 番 町 な る教 会 堂 に出 席 して植 村 正 久 氏 の 演 説 を き く。 今 日の時 勢 の 意 味 に就 き説 く処 あ り。
日本 を して再 び精 神 的 大 潮 にむ ち う た しむ る は今 日、 支 那 との戦 闘、 我 が 国 大 勝 利 の 時 に あ り。 日本 を して 日本 の伝 道 を な さ しむ る も今 日な り云 々。(国 木 田221)※ 独歩が植村の 日曜説教 を聴 いていたこ との確証。
[9月24副 中 井 芳楠 、横 山安 克氏 よ り、 二 十 六 日午 後 七 時 、 ホ ル ラ ン ド ・ ロー ド林[権 助]領 事 宅 にて 日本 人 会 を 開 き、 同 日在 英 日本 人 の名 義 を以 て 、 今 回海 陸戦 戦 捷 を祝 し、 併 て 表 誠醸 金 の 儀 相 談 す る に付 通 知 あ り。 予 は 出席 せ ず と返 事 、 但 金 一 膀 寄 附 す 。(南 方351‑52)※ 在外 日本 人の行動 の一例 と し て注 目される。なお、林は当時 ロン ドン総領事館一等領事 だった。
[9月24副 朝 よ り靖 国神 社 にゆ きて 、清 国の 分 捕 物 をみ る。社 の拝 殿 の下 の左 右 の屋 中 に陳列 せ り。左 のか た は葉 ・最 の旗 ・帽子 ・孔 雀栩 等 を列 し、右 のか た に は兵 卒 の服 と戎 器 を列 す 。提 督 軍 門の標 旗 も左 の うち に在 りき。(頭榊
が
「官妓の服か と疑ふ ものあ り。両袖あ りて、丈ははつか に背 と胸 を掩ふのみ。 黄色純子に紫 の縁あ り」
(依 田 第9巻381)※"官 妓 の 服"に つ いて は 、r時事新 報 』9月1日 第4面 「雑 報 」 欄 に も記事 一 「○ 軍 中 に妓 を携 ふ 」 が あ る。
24当 時 の 日記か ら見 た 日清戦争
[9月25日]春 木 座 に ゆ き て 日 本 大 勝 利 の 劇 を み る 。 安 城 の 戦 松 崎 大 尉 戦 死 の 場 よ し。 八 百 蔵 こ れ に扮 す 。 勘 五 郎 山 田 少 尉 に 扮 し て 、 砲 戦 よ く実 際 を う つ す 。(依 田 第9巻381)※ 日清 戦 争期 の演 劇 状況 を物 語 る一 例 。 安城 渡(実 際 に は佳 龍 里)の 戦 で松 崎 直 臣 歩 兵大 尉(歩 兵 第21連 隊 第12中 隊 長)が 戦 死 した の は7月 29日(成 歓 の戦 いの 際)。 補 足 す る と、"歌 舞伎 の側 で も今 度 の戦 争 を よそ に眺 め て ゐ る わ け で は なか つ た 。浅 草 座 の 川 上一 派 に対 抗 して 、先 づ 第 一 に開場 した の は本 郷 の春 木 座 で あつ た 。春 木座 は後 年 の本 郷 座 で 、そ の当 時 の経 営 者 は溝 口権 三 郎 で あ る。狂 言 は 『日 本大 勝 利 』 で 、 初 日は 九月 十 一 日、浅 草 座 と十 日間 の 差 で あ るか ら、 この 当時 と して は これ も早 手 廻 しの 部 で あつ た 。/筋 立 は新 聞記 事 の継 ぎ合 せ で、俳 優 は市 川 八 百 蔵(後 の 中車)[、]暮 井 松 之助 、四代 目中村 芝 翫 、中村 勘 五 郎 、そ れ に大 阪 俳優 の 中村 雀右 衛 門、
中 村 富 十郎 、 市 川 駒 之助 等 が 加 はつ て 、先 づ 相 当 の 顔 触 れ で あつ たが 、 脚本 も大 阪 仕 込 み の 勝何 某 の筆 に成 つ た の で、 ど こ まで も在 来 の 歌 舞 伎 調 を離 れず 、 俳優 もか ういふ 現 代 物 に は不 馴 れ の連 中 の み で あつ たの で 、舞 台 の上 の 活 気 に 乏 し く、 時 節柄 とて興 行 成 績 は左 の み に悪 くも なか つ たが 、 そ の 評 判 は甚 だ悪 く、 八 百蔵 の李 鴻 章 は 高 田實 に遠 く 及 ばず とい ふ不 評 で あ つ た 。殊 に その 眼 目 とす る戦 争 の 場 が 兎 か くに薔 式 の 立廻 りに流
れ、 一 向 に實 感 を誘 は ない といふ の が不 評 の 大 原 因で あ つ た"(岡 本42)。
[9月26日]吾 人 神 心 を 有 す る も の 此 の 際 に 於 て(日 清 開 戦)高 尚 和 平 の 思 想 を 以 て 須 ら く大 平 和 の 秋 を 祈 り又 た 平 和 を 講 ぜ ざ る 可 らず 況 ん や 万 国 平 和
会 員 た る も の を や(石 井 明 治27年260)
[9月26日]夜 林 領 事 宅 に て 日本 人 会 勝 軍 を 祝 す 。 七 時 開 会 、 四 十 入 斗 り あ り し 。 会 頭 中 井 芳 楠 君 を 始 め そ れ 彰 祝 辞 あ り、 盃 を 挙 ぐ。 望 月 小 太 郎 氏 詩 、 次 に 予 ど"一(命 や る 迄 沈 め た 船 に 苔 の む す 迄 君 が 代 は 。 今 一 つ)。[後 略](南 方352)※ 熊楠 が 祝 勝 会 で都 々逸(し か も国歌 に まつ わ る)を 詠 ん で いた とは面 白い 。 [9月26日]美 狭 古 と ・ も に 川 上 音 次 郎 の 日清 戦 争 の 劇 を み る 。 満 場 殆 ど 立 錐 の 地 な し。 音 次 ・浅 次 の 両 人 、 新 聞 記 者 に扮 す 。 高 田 実 、 李 鴻 章 に 扮 す 。(依 田 第9巻381‑82)※ 川 上 の 『日清 戦 争』7幕 劇 は、 明治27年8月31日 か ら浅 草 座 で 開演 した 。"こ の劇 場 は 明治 二 十五 年 四 月 か ら浅 草 区新 猿 屋 町、 俗称 どぜ う屋 横 町 に 新 築 開 場 した もの で、 浅 草公 園 の吾 妻 座 に 対抗 し、 小 劇 中 で は先 づ 高 等 の 地位 を 占 めて ゐ たが 、興 行 成 績 はあ ま り思 は し くなか つ た ら し く、 最 初 は 澤村 座 とい ひ、 更 に浅 草 座 と改 称 し、 今年 も三 月 以 来 殆 ど興 行 を休 ん で ゐ る有 様 であ つ た が 、 こ の興 行 は 近 来無 比 の大 當 りで、 連 日満 員 の好 成 績 を挙 げ た。/[中 略]勿 論 一種 の 際 物 で あ る か ら、 む つ か し く論 評 す べ きで は ない が 、 短 時 日のあ ひだ に纏 め た急 仕 事 と して は、 人 物 の 配合 や場 面 の変 化 に も相 当 の注 意 を梯 つ た跡 が あ り、 そ の後 に続 出 した 各種 の 日清 戦 争 劇 の
当時の 日記 か ら見 た 日清戦 争25
なか で は、や は り此 の 『日清 戦 争』 な どが優 等 の地 位 を 占め る もの"(岡 本38)と い う。
高 田 は李 鴻 章 役 が 好 評 で 、"こ れ か ら俄 に売 出 した"(岡 本39)。 な お 、 迫 真 性 追 求 の 結 果 、 座 員 の 間 で負 傷 者 が続 出 し、"二 名 の医 師"が"舞 台 の 後 ろ に附 添 ひ治療 を為 す程"だ っ た とい うが、可 笑 しい こ とに負 傷 者 は 支那 兵 の 方 が多 く日本 兵 の 方 は少 なか っ た 。 因み に当時 は"陸 海 軍将 校 の 家族"が"東 西 の桟 敷 を充 たす 有 様"だ っ た とい う(「○
川上 芝 居 の支 那 兵 卒 に負 傷 多 し」 『時 事新 報 』9月16日 第1面 「雑 報 」欄)。
くう
[9月30日]東 京 府 民 勝 軍 之 大 祝 日也 。/[中 略]毎 戸 二国旗 ヲ謁 ヶ、 勝 軍 可 祝 達 し有 之。 晩 二祝 宴 ヲ開キ、 我 帝 国万 歳 ヲ唱 ふ 。(跡 見317)
[9月30日]山 縣 有 朋 第 一 軍 を率 て先 発 し、 大 山巌 第 二 軍 を率 て 出発 す と云 ふ 。(原220)
[10月1日][頭 欄]出 軍者 を見 て涙 を流 せ り/か れ らの家族 を憶 ふてな り(石 井 明 治27年266)※ 素直な感情 の顕れ と言 えよう。堺利彦 も"或 日、私 は梅田停車 場のそばで、第四師団の兵が 出征するのを見送つた。道の両側の群衆が歓 呼す ると、軍 隊中の騎馬 の将校 が挙手 の礼 をす る。私 はその光景に痛 く胸 を打たれて、頻 りに涙を垂
らしてゐた。それほ ど私 は愛国者であつた。"(『堺利彦傳』[改造社 、大正15年]167) と回想 している。
[10月2日]ユ 山 駅 ニ テ 葡萄 ヲ買 フ ビ ッ フエ ノ主 人造 モ 日清 戦 争 ノ事 ヲ問 ヒシバ 可 笑 シ(池 辺307)
[10月6日]公 使 館 ヲ訪 ヒ公 使 高 平小 五郎 君 卜云 フニ 面 ス 余 曾 テー 度 ハ 会 ヒ タ リ シ人 ナ リ
日清 ノ戦 争 ノ話 ナ ド承 ル 朝 鮮 及 天 津 当 リニ領 事 館 ノ履 歴 ア ル 人 故 其 話 モ 委 敷 様 二思 ハ シメ ヌ(池 辺310‑ll)
公使館 を訪 ひて公使高平小五郎 といふ人に面す。一二度は逢 ひたる事あ りし人 な り、 日 清の戦争の話など承る。(池 辺311)
[10月8日]午 前 十 一 時 出社 四 時帰[中 略]帰 途 坂 井座[京 都]見 物 日清 戦 争 、 中 山安 兵衛 市 川 重五 郎 一座 十一 時 後帰(巌 谷230)
[10月12日]軍 艦 に乗 り込 む こ とに付 き国 元 よ り不 安 の 由 申 し来 り辞 退 を す ・め らる 。今 朝 只 今 、 一書 を 裁 して 決 心 を 申 しや る。/昨 夜 は奮 暦 の九 月 十 三 夜 と今 井 氏 云 ふ。 共 に散 歩 して 九段 に至 り義 太 夫 を聞 きぬ 。 人生 の 事 、生 死 の 事 、古 今 英雄 の事 蹟 、 ロー マ 、 ギ リ シヤ の古 英 雄 、昔 時 の文 明 、 千古 の人 情 な ど 思ひつ"け て義 太 夫 を き ・ぬ 。/[中 略]/吾 何 故 に好 み て 軍艦 に乗 り 込 み て生 死 の 問 に突 入 す る か。 曰 く吾 を 自然 の うち に 更 生 せ しめ ん が た め な り。 更 に言 ひ換 ゆれ ば 愈 々 シ ンセ リテ イ な る 自然 の児 とな らん こ との た め也 。
26当 時の 日記 か ら見 た 日清戦争
また他 の言 を以 てす れ ば、吾 が 霊性 を して 一段 の進 歩 あ ら しめ ん た め な り。(国 木 田236‑37)※ 独歩 における義太夫の意味、(ワーズワー ス流の 自然観を髪髭 させ る)"自 然の兜"へ の拘 りが注 目される。
[10月22日1今 朝 上 陸 レた り。[中 略]/朝 鮮 人 の住 宅 を見 た る は是 が は じ め て な り。/朝 鮮 人 の 生 活 を實 見 した る も始 め て な り。/小 丘 と疎 林 と、 畦 道 と、 海 澤 と、 岩礁 と退 潮 、 満 潮 と夕 陽 と、 白衣 と、 野 牛 とは更 らに 一段 の 光 景 を加 ふ に似 たれ ど も、 寧 ろ吾 を して此 の民 の生 活 其 の もの を憐 ま しめ た り。/彼 等 は現 今 己 れ の 国 の如 何 に な りつ ・あ るか を知 らざ るが 如 し。 人 民 、 政事 、戦 争 、相 関す る幾何 ぞ。大 同江 畔 の此 の 光 景 は吾 を して後 年 決 して忘 る ・ 能 は ざ る 印象 を与 へ た り。/昨 夜 士 官 室 に於 て艦 長 を は じめ と して 互 に集 会 雑 談 し政 事 談 尤 も盛 ん な りき。何 故 に軍艦 製 造 費 を こ ばみ た る か てふ 問 は切 々 吾 に向 つ て 発 せ られ た り。/[中 略]/戦 争 。 流 血 。 軍艦 。 人生 の 事 實 な り。
さ れ ど宇 宙 こ れ爾 を包 む大 事 實 な る に非 ず や 。(国 木 田240‑41)※(亡 国の 民で ある)"朝 鮮 人の生活 を實見 した"こ とに よる憐潤、 また現実 よりも宇宙一"大 事實"を 優先する認識が注 目される。
[12月19日]井 上 公 使 の厳 酷 な る 談判 に よ り、 朝鮮 政 府 に大 改 革 を行 ふ 事 とな り去 る十 七 日開化 党 諸 氏 の み を以 て 、新 内 閣 を組織 した り。[中 略]而 して 、
ん
太 院 君 は 、 退 く事 とな りた る な り。 東 学 党 は 尚 ほ諸 方 に蜂 起 して止 まず 。 王 妃 は、相 不 変 陰 謀 百 出す 。/此 頃 、閾 后 井上 公 使 の厳 談 が 一 時 の驚 喝 な るや 、 又何 れの 程 度 に伯 の 心 が あ るや を知 らん と欲 し、 日々公使 館 に出 入 す る某 氏 に 托 して、窃 か に探 ら しむ。 公使 燗 眼 之 を看 破 す 。 曰 く、今 日の 事 二途 あ るの み、
其 一 策 は、 李 鴻 章 を聰 して顧 問 とす る な り。 二 策 は東 学 党 を煽 動 して 京 城 に 入 ら しむ る な り と、 某 苦 笑 して去 る。(時 事 新 報)好 逸 話 とい ふ可 し。(上 田 33)※ 問題 の"逸 話"の 出典は、高見亀(朝 鮮京城特派員)「○京城特報」(『時事新報』
明治27年12月18日 第3面 「雑報」欄)申 の 「王妃我公使の内意を探る」。
第2章 清 国 関連 戦 闘 の経 緯 を前 もって 略 記す る。
明 治27年8月10日 、 日本 艦 隊 が威 海 衛 を攻 撃 。
9月17日 、 黄 海海 戦 で 日本 艦 隊 が勝 利(そ の結 果 、 制 海権 をほ ぼ掌 握)。
10月24日 、日本 の第1軍 が鴨 緑 江 渡 河 を開 始 し、第2軍 が 遼 東 半 島上 陸 を開始 。 10月26日 、 第1軍 が 九連 城 を無血 占領 。
当時の 日記 か ら見た 日清戦 争27
10月29日 、 第1軍 が鳳 鳳 城 を攻 撃 し、31日 に 占領 。
11月6日 、 第2軍 が遼 東 半 島 の 花 園 口 に上 陸 し、 金 州 城 を 占領 。 また7日 、大 連 湾 も占領 。
12月13日 、 第1軍 が 海城 を 占領(以 後 、 逆 襲 が4回 繰 り返 され、 「海城 の 難 戦」
と呼 ば れ る)。
12月19日 、 第1軍 が鉦 瓦塞 を 占領 。
明治28年1月10日 、 第2軍(の 乃 木 希 典 少 将 率 い る歩 兵 第 一 旅 団 を主 体 とす る混成 旅 団)が 蓋 平 を 占領 。
1月20日 、第2軍 が威 海 衛 の北 洋 艦i隊攻撃 を 目的 と して 山 東 半 島栄 城湾 に上 陸 し、
作戦 を 開始 。
1月30日 、 第2軍 が威 海衛 攻 撃 を開 始 し、2月2日 に 占領 。
2月5日 、水 雷 艇 隊作 戦 が 開始 し、 北 洋艦 隊 の主 力 で あ る定 遠 を夜 襲。 以 後 の 攻 撃 で、7日 に は北 洋艦 隊 を撃 滅 。
2月 上 一中旬 、劉 公 島攻 撃 ・陥落 。
3月 上 旬 、 第1軍 が遼 河 平 原作 戦 を完 了 し、遼 東 半 島全 域 を占領 。 3月4日 、 第1軍 が牛 荘 攻 略 戦(初 め て の市 街 戦)に 勝 利 。 3月7日 、 第2軍 が営 口 を占領 。
3月9日 、 第1軍 が 田庄 台 を 占領 し、市 街 を焼 き払 って 撤 退 。
第1節 内 外 片 々
[10月31日]夜 第 二 軍 司 令 官 の 許 に て 談 話 会 あ り 山 本 芳 翠 誰 話 す 詩 あ り贈 を 為 す
贈 芳 翠 画 伯
踏 破 韓 山 戦 血 脛 刀 光 幟 影 入 丹 青 軍 営 一 夜 無 聯 甚 絵 事 還 為 柳 敬 亭(森 240)※ 従 軍 画 家 と して の芳 翠 は 、「朝 鮮 豊 島沖 海 戦 之 図」(『東 京朝 日新 聞 』 明治27 年8月10日 附録)な どを発 表 してい た 。
[1t月1日]帰 途 靖 国 社 に て 分 捕 品 を 見 遊 就 館 見 物(巌 谷231)
[11月11日]○ 錦 町 壱 丁 目 の シ ヲ ラ マ を み る 。 豊 島 の 海 戦 よ り始 り黄 海 の 戦 ま で あ り。 中 に つ き て 平 壌 立 見 隊 の 牡 丹 台 下 の 戦 、 松 林 中 の 接 戦 を よ く う つ せ り。(依 田 第10巻11)※ ジ オ ラ マ館 は、 神 田 錦 町1丁 目に 前 日(10日)新 築 開 業 して い た。 安 藤 仲 太郎(有 名 な油絵 師)の 筆 に な る牙 山 ・豊 島 ・平壌 ・海 洋 島 に お け る 日本 軍大 勝 の"實 況 十 飴 図 を掲 げ"て い た(「 ○ 日清 戦 争 ジ ヲ ラマ館 」 『時事 新 報』
ll月ll日 第6面)'。
28当 時 の 日記 か ら見 た日清 戦争
[11月18日]け ふ は精 覧 会 日な れ ば、 荊 婦 と ・・もに歌 舞 妓 座 にて 劇 をみ る。
此 日の 名題 は海 陸連 勝 朝 日の御 旗 にて、 こ の頃 の戦 の初 め を作 れ り。 朝鮮 国王 宮 の 場 に て大 鳥 公使 圭 介 を団十 郎扮 して議 論 よ し。 振威 露 営 、成 歓 大 勝 とつ"
き、 次 に金 助 町裏 借 屋 にて 、団 十郎 の 浪 士進 藤 新 九郎 よ し。 この子 新 五郎 を菊 五 郎 扮 す 。次 に平壌 玄 武 門 、菊 五郎 、原 田重 吉 に扮 す 。 次 に大 同江 船頭 か ち蔵 、
団十 郎 扮 して 海 戦 の ものが た りお も しろ し。[中 略]こ の 日大 鳥 氏 み つ か ら西 桟 敷 に て 見物 す。(依 田 第10巻13‑14)※ 大鳥圭介が 団十郎扮す る自分 自身を
どのように見物 していたのか、極めて興味深い。
[11月19日]十 五 日の薄 暮 、大 連 湾 を抜 錨 して威 海 衛 に進 発 した り。/[中 略]
/十 七 日の薄 暮 、威 海衛 の前 面 に観 兵 式 を行 ひ て帰 る/観 兵 式 とは冷 評 な り。
/十 八 日の 朝 、 大 連 湾 に帰 れ ば千 代 丸 佐 世 保 よ り来 る。 もた らす 処何 ぞ 、 曰 く敵 艦 ター クー に在 るの 電 報 大 本 営 よ り達 した る か故 に石 炭 を も積 まず して 急 航 し来 る と。/馬 鹿 な!敵 艦 の 太 沽 に在 る こ とは旗艦 已 に数 日前 之 れ を知 り居 りた る な り、 而 して 空 し く敵 の威 海 衛 に遁 げ込 み た る に 及 び観 兵 式 を行 ふ/馬 鹿 な!此 の如 き冷 評 は士 官 室 に於 て発 せ られ た り。/伊 東 司 令 長 官 と 参 謀 長 とは士 官 の仲 間 に不 信 用 を極 め居 る な り/昨 日朝 十 一 時 頃 よ り午 後 一 時 頃 ま で旅 順 の方 に砲 声 を き ・ぬ/[中 略]/昨 日聞 く。 英艦 陸 兵 六 千 を舟
山郡 嶋 に揚 げ た り と。 之 れ舟 山列 嶋 を 占 領 した る 者 に非 ず や 。 衆 評 英 の 下 心 を悪 む。 英 は機 敏 な り。/舟 山列 嶋 は 上 海 の 沖 に在 り。/[中 略]/新 朝 野
新 聞 に て 松 蔭 の 七 生 説 を 読 み ぬ/哲 人 美 士 は 必 ず 其 の 信 仰 を 有 す[中 略]/
凡 そ 宇 宙 観 と 人 生 観 を 有 た ぬ 者 程 其 の 見 識 の 卑 し き は 非 ず と は 軍 人 と 交 は り て 感 ず る処 な り。(国 木 田249‑51)※"伊 東司 令 長 官 と参 謀 長"が"士 官 の仲 間"
に"不 信 用 を極 め"て いた こ と、"機 敏"な 英 国 の"下 心"へ の警 戒 、"宇 宙 観 と人生 観 を有 た ぬ""軍 人"に 対 す る独 歩 自身 の侮 蔑 な ど、興 味 深 い記 載 。
[11月20日]騎 り て 出 づ 天 后 宮 を 観 る 鐘 楼 鼓 楼 よ り大 香 炉 に 至 る ま で 皆 塊 麗 僻 邑 の 物 に 似 ず 所 謂 天 后 聖 母 の 像 は 南 欧 諸 国 祠 る 所 の 処 女 マ リ ヤ に 髪 髭 た
り今 工 兵 廠 之 に 居 る 処 々 封 印 を 貼 付 し 間 雑 人 を し て 近 か しめ ず(森241‑42)
※ 鴎 外 の 比 較 文 化 論 的 視 点 が 冴 えて い る。 後 に 亀 井 も天 后 宮 に注 目 し、 明 治28年5 月17日 に"支 那 地 方 港 湾 ノ在 ル所 必 天 后 宮 ノ在 ラサ ル ハ 靡 シ余 力経 歴 ス ル所 二於 テ モ 魏子 窩 旅 順 口皆 之 レア リ此 ノ地 亦 其宮 殿 ア リ今 者 我 大連 湾 要 港 部 大 連 湾知 港 事 鷹 ト為 シ 海 軍 々 人入 テ此 ノ社殿 二営 ス是 ヲ以 テ殿 内安 置 ス ル所 ノ偶 像 ハ 之 ヲ庭前 二 出 シ テ雨 露 ノ 侵 ス所 ト為 リ剥 落 原 トノ形 躯 ヲ存 セ ズ然 レ トモ 本 殿 ハ 光緒 十 八 年 秋 ノ経 営 ニ シ テ今 ヲ距 ル僅 二 四年 以 前 ノ築 造 二係 ル ヲ以 テ 粧 飾華 美 ニ シテ 金 壁燦 然 目ヲ奪 フ其 門頭 天 后 宮 ノ三
当時 の 日記か ら見た 日清 戦争29
字 ヲ顔 シ海 不 揚 波 ノ 四宇 ヲ大 書 ス清 人 ノ之 ヲ信 奉 ス ルハ 猶 ホ我 舟 師 ノ金 刀 比 羅 宮 二 於 ル カ如 シ"(652‑53)と 記 して い る。 奇 し くも津和 野(亀 井 藩)関 係者 が 共 に天后 像 に関心 を示 した こ とは興 味深 い。
第2節 旅 順 ロ占領(以 後)
ll月21日 、 第2軍 が旅 順 口 を 占領 した(が 、 そ の後 の旅 順 市街 にお け る残 敵 掃 討 作 戦 が、 「旅 順 虐 殺 事 件 」 と して ア メ リカ のNewYorkMorldや イ ギ リス の7肋 θ3 等 の外 国紙 を通 して 世界 に報 道 され る こ とに な る)。 この こ とは、 諸 日記 に次 の よ
うに記 載 されて い る。
[11月21日]此 日 は第 二 軍 旅 順 に逼 る の 時 な り予 等 心 窃 に衛 生 材 料 の 給 せ ざ らむ こ とを恐 れ た りき是 に 至 りて 人 と物 と皆 備 り部 署 全 く定 ま る 同僚 皆 快
と呼 ぶ夜 半 報 あ り云 く旅 順 我有 とな る と(森242)
[11月24日]放 順 口 占領 の 報 始 め て到 る 此 の報 知 二依 而 オ レの 進 退 が い よ〉 定 まる と云 の だか ら愉 快 一 層 也(黒 田351)
[11月24日]号 外 、/旅 順 口 占領/右 攻 撃 ハ 十 九 日 よ り始 ま り、 激 し き戦 争 ガ引 続 きた る後 、 廿 一 日に全 く略 取 せ られ た り。(跡 見330)
[11月24日]夜 旅 順 口陥 落 の報 あ り(巌 谷233)
[11月24日]今 宵 旅 順 口 占 領 の 報 を 得 た り。 此 攻 撃 は 十 九 日以 来 劇 烈 な る 戦 闘 の 末 二 十 二 日 に 終 り を 告 げ 、 首 尾 よ く我 全 勝 に 帰 し た る も の な り。(上 田 24)
[11月24日]梅 潭 い ふ 、 旅 順 の 攻 撃 の 日延 期 せ ら れ し は 、 長 州 の 兵 隊 の 来 着 を ま つ が ゆ へ な り。 薩 人 の み 功 あ らせ て は 、 両 国 人 矛 楯 を 来 さ ん 事 を お そ る ・が ゆ へ な り。[中 略]げ に さ る 事 も あ りけ ん か し。(頭 欄)「長人佐久間に命 じて、
のち山東に向はしめたるも、 さる心あ りてにや」む か し京 都 を攻 め し足 利 、 鎌 倉 を う ち し 新 田 等 、 お の 〉 そ の 功 に ほ こ り て 、 終 に 両 家 の 確 執 と な り し事 あ り。 鑑 み ず
り く む む
ば あ るべ か らざ るか 。 午後 号 外 あ りてい ふ 、我 軍 は去 る十 九 日よ り烈 し き砲 撃
む む む
の うへ 、 廿 一 日全 旅 順 を 略 取 す 。(依 田 第10巻15)※ 史 家 と して の 学海 の 眼 光 が 光 っ て い る。 対 外 路 線 を巡 る 薩 長対 立 は、 庚 申事 変(1884年12月)の 事 後 処 理 の 際 に も見 られ た こ とで あ る。
[11月25日]旅 順 口 占 領 ハ 全 く廿 一 日 払 暁 よ り 始 り、 一 日 に し て 略 取 せ り。
帝 国 万 歳 、 市 中 万 歳 之 声 天 二響 き 、 勝 利 之 祝 に て 賑 々敷 事 也 。(跡 見330) [11月25日](頭 欄)「旅順城 を抜 きし公報」 今 朝 の 新 報 に 、 大 山 大 将 巌 の 公 報 を の す 。[中 略]又 国 民 新 聞 の 社 員 小 林 萬 吉 が 広 島 よ りの 報 に 、 敵 の 定 遠 ・鎮 遠
30当 時 の 日記か ら見た 日清戦争
の 二 艦 は 、 と も に 我 艦 隊 の 猛 烈 な る砲 撃 に 遭 ふ て 撃 沈 せ ら れ た り。(頭 欄)「敵の 鎮遠 ・定遠 の事 は謂 云な り。た 噸 遠坐礁の事は まことな りといふ」[中 略]夜 に 入 りて 又 号 外 の 配 達 あ り。(頭 欄)「この号外は頗る誤多 し。[後略](依 田 第10巻15‑16)※
"今朝 の新 報"と は 『国民 新 聞』 の こ とで
、具 体 的 に は 『国 民新 聞附 録』 に関 係 して い る。
そ れ に は、小林 萬 吉(在 広 島国 民新 聞社 特 派員)が 至 急 報 と して紹 介 した大 山の 公報 「旅 順 口 占 領 の 詳報 」(24日 午 後6時10分 広 島発 、 同 日午 後6時57分 国民 新 聞社 着)が 掲
す
載 され、 また小 林 自身 の至 急 報 「我艦 隊敵 の 二 大艦 を撃 沈 ず 」(24日 午 後5時17分 広 島 発 、 同 日午 後6時27分 国 民新 聞社 着)も 掲 載 されて い る 。
[11月26日]今 朝 、旅 順 ノ 占領 ヲ 聞 ク 。[中 略]今 夕 新 聞[具 体 的 に は 『日本 』 明 治27年11月25日 第2面 「雑 報 」 欄 「● 旅 順 占 領 の 快 報 」]ヲ 見 、 狂 喜 ス 。 実 二 目 出 度 シ。 此 ノ 夜 、 歯 抜 ケ タ ル ヲ 夢 ミ、 亦 鷹 ヲ夢 ム 。 吉 力 凶 力 。(山 本 183)
む
[11月27日]去 る 二 十 五 日 の時 事 新 報[第4面]に 、 旅 順 占 領 の 公 報[正
確 に は 「旅順 口 占領 の公 報 」]を の せ た り。 其要[「 占領 公 報 の要 報 」]に 曰 く、
二 十 一 日の 払 暁 よ り全 軍 三 道 よ り進 み て 、 同 日午 後 四 時 頃 まで に 陸 上 諸 砲 台
を、 二 十 二 日午 前 中 に海 岸 諸 砲 台 を 占領 し終 り、舷 に我 全 勝 に帰 し、 戦 利 品
む
甚 だ 多 く、 特 に大 口径 の大 砲 弾 薬 等 あ り。 此 役 我 死 傷 二 百 余 名 あ り。 又 海 軍
公 報 は 、 今 日達 せ り。(上 田25)
[12月1日]旅 順 口 は 二 十 一 日 に 陥 り た り。 二 十 四 日 か 五 日 に 一 寸 と上 陸 し て 饅 頭 山 砲 台 附 近 を 見 物 し た り。/始 め て 支 那 人 の 死 膿 を 見 た り。 今 ま 尚 ほ あ り〉 と眼 底 に 印 象 せ られ 居 る な り。/『 戦 死 者i一 の 實 見 は 、 吾 を して 『戦 』 な る 文 字 の 眞 面 目 な る 消 息 を 直 感 せ し め た り 。(国 木 田255)※"r戦 死 者 』 の 實見"の 衝撃 が 、 あ りあ りと伝 わ って くる。
[12月11日]米 国 ニ ウ ヨ ー ク ウ オ ー ル ト[NewYorkMorld]特 派 員 ク リー ル マ ン[JamesCreelman]氏 ハ 夙 二 朝 鮮 二 入 リ戦 地 二 従 行 シ今 亦 旅 順 ロ ノ 陥 落 ヲ 實 見 シ 帰 テ 其 ジ ヤ パ ン ガ セ ツ ト記 者 二 語 ル 所 ヲ東 京 日 々 新 聞 二 抄 出 記 載 セ ル ニ 三 ノ 評 語 ア リ其 所 論 亦 大 二 見 ル ベ キ モ ノ ア リ 因 テ 左 二 転 載 ス
沈 黙 ノ兵 彼 レ日 ク 日本 軍 ハ 或 点 ヨ リ見 ル トキ ハ頗 ル奇 異 ナ リ其 進 行 ス ル ニ ハ 音 楽 ナ ク旗 幟 ナ シ沈 黙 ニ シ テ實 用 一 方 二働 キ其 組 織 堅 固 ニ シテ 而 モ 極 メテ 精 練 ナ リ最 高 将 官 ヨ リ最 下 士 卒 二至 ル マ テ愛 国心 ヲ以 テ 陶 冶 セ ラ レ将 士 悉 ク具 ハ レ リ
に
衛 生 ノ完 全 衛 生 及 ビ輻 重 ノ整頓 セ ル ハ 世 界 二 比 類 ナ キ 所 ナ リ但 シ 日本 ノ 輻 重 部 ハ 馬 ノ鉄 欠 セ ル カ為 メ ニ 困難 シ多 ク ハ 人 ヲ以 テ 労作 二 服 セ シ メ タ リ