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哲学的思考の汎用性と固有性について

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哲学的思考の汎用性と固有性について

著者 重野 豊隆

雑誌名 星薬科大学一般教育論集

号 35

ページ 17‑33

発行年 2017‑12‑10

URL http://id.nii.ac.jp/1240/00000839/

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哲学的思考の汎用性と固有性について

On Versatility and Characteristic of the Philosophical Thinking

重野 豊隆

SHIGENO Toyotaka

(星薬科大学 哲学研究室)

はじめに

教養の推奨や教養形成を扱った現在出版されている著作の中には、哲学的思 考に深い関わりのあるものが散見される。そこで求められている哲学的思考の 特徴とはどんなものなのか、哲学的思考の汎用性と固有性に着目して、以下の 順で概略的に考察することが本稿の目的である。

1に、現在世の中で求められている教養とはいかなるものなのか。各界で 活躍している人の考え方に沿って、教養の特徴について考察する。(第1章)

2に、教養としての哲学的思考とはいかなるものなのか。世界のエリ-ト が哲学に関心を抱く理由に沿って、哲学的思考の汎用性について考察を進める。

(第2章)

3に、「概念の創造」としての哲学的思考とは、どういうことなのか。そ の問いから見出される哲学的思考の固有性について考察する。(第3章)

最後に、結語として今後の課題について触れておきたい。

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なお、本文中の引用の出典に関しては、( )を付して、著者名(同一著者 の複数の参照文献がある場合には略記号で区別)、引用頁数(原典と邦訳のあ る場合には、原典/邦訳の順に頁数を数字で明記)を記し、本稿の最後で「参 照文献」として出典をまとめて記した。

第 1 章 世の中で求められている教養とは 第 1 節 本物の教養とは

ライフネット生命保険株式会社代表取締役会長兼CEOの出口治明氏は、『人 生を面白くする本物の教養』の中で、本物の教養の特徴について自らの読書経 験や他人との交流体験などを踏まえて、およそ次のように述べている。

第一に、教養の目的は人生を豊かにすることにある。「教養とは、人生にお けるワクワクすること、面白いことや、楽しいことを増やすためのツ-ル」で ある。従って、教養とは他人からの高い評価を求めたり、箔をつけるために利 用するといったようなものではなく、あくまで自分の人生のために、それも自 分の人生をより彩り豊かにし、人生をもっとエンジョイできようにするための ツ-ルに他ならない。このように出口氏の発想は、あくまで自分の人生の豊か さを目的としたいわば自律的な教養観であって、決して他者から高い評価を得 ることを目的とした他律的な教養観ではないといえる。(出口, 20-21)

第二に、教養と知識との関係においては、知識はあくまで教養という目的の ための手段である。確かに教養は人生という目的を実現するためのツ-ルでは あるが、「教養を身に着けるためには、ある程度の知識を持っていることが必要」

でもある。その際の知識とはあくまで道具や手段にすぎず、決して知識を増や すこと自体が目的なのではない。このように出口氏は、知識を得ること自体を 目的とするのではなく、教養のための手段とみなす点を強調する。(出口, 20- 22)

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第三に、教養の身に着け方として重要なことは、「自分の頭で考えられる」

ことにある。単に「何かを知っている」というだけでは不十分で、知識を素材 にし「自分の頭で考えられる」ことが教養を形成していくことに繋がる。ここ で、出口氏は重要な指摘をしている。すなわち、本当に「自分の頭で考えている」

のかどうかを測るひとつのバロメ-タ-(尺度)として、「腑に落ちる」とい う感覚を持ち出している点である。確かに本当に自分でよく考えて納得できた とき、我々は「腑に落ちる」という感覚を抱くはずである。この感覚は、柳田 邦夫氏が、当事者がある物事が起こった所以の説明をどこまで納得して理解で きるかを自問自答した際に、「腹に収まる物語」という了解の仕方こそが最大 の関心事だ、と述べている点に類似している。(出口, 22-25, 柳田, 227-231)

教養とそれに基づく行動との関係においても、出口氏は、教養を身に着ける 過程で起こるこうした「腑に落ちる」という感覚こそ「行動力やバイタリティ の源泉」になり、「本気を呼び起こす」のであると指摘する。ところが、実際 には「腑に落ちる」ことはしばしば軽視されがちである。我々は何かわからな い事柄があった場合、それについて誰かからその安直な説明を聞いただけで、

もうわかった気になりがちである。安直な「答え」の要求に応じてきれいに整 えられたさまざまな情報が、ネット空間などにあふれている。ただし、こうし た整えられた安直な「答え」は、世の中の物事に関する多くの情報が削ぎ落さ れて、成立している場合がある。だが多くの場合、この削ぎ落された部分に事 の真相が隠されている。(出口, 24-27)

逆に「なんとなく腑に落ちない」という感覚が少しでもあれば、安易な妥協 はせず探求を続けることが重要である。例えば、別の見方から考えてみる、さ らに別の情報を探してみる等、情報を探る方法はたくさんあるはずである。探 求を続けるうちに、あるところで本当に「腑に落ちる」という感覚が得られる。

それが納得できたということの証なのである。(出口, 25-26)

このように出口氏は、腑に落ちて身に着けた教養を実際の行動へと結びつけ ることも視野に入れている。そうした過程や吟味を経ることなく、「答え」な るものの特質を見抜かないで行動に移ると、その成果は徒労に終わる。自分の 頭で考えて、本当にそうだ、その通りだと「腹の底から思える」のかどうか、「腹

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落ちする」のかどうかが重要であり、外見上分かりやすいいわば「偽りの明晰性」

に騙されてはいけないのである。この意味で、我々には、結論は急がず、とき には保留する態度も重要となる。また安易に「答え」を求める習性に染まった マニュアル思考には、「腹落ちする」に徹することは至難の業なのである。(出 , 26-27)

第 2 節 世界のリ-ダ-にとっての教養とは

出口氏もその共著に名を連ねている『リ-ダ-の教養書』の中で、著者たち は世界のリ-ダ-が求める教養の特徴について、自ら紹介する図書の推薦理由 とも関連させ、およそ次のように述べている。

第一に、ニュ-スビックス編集長の佐々木紀彦氏によると、そもそも教養と は「普遍的な知恵」のことである。というのは、そうした知を保持していると、「ク オリティの高いアイディアが次々と生まれやすくなる」からである。歴史の風 雪や科学の洗礼をくぐり抜けてきた「時代や国を越えた知」こそが、教養なの である。(佐々木, 6-7)

「普遍」のストックを自分の中に多く備えていれば、それと時代性を掛け 合わせることにより、無数のアイディアが湧いてくる。しかも、普遍に基 づいたものは、人間の本質に根差しているだけに、持続性と爆発力のある アイディアであることが多い。(佐々木, 6-7)

佐々木氏は、これと対照的な場合として、「普遍」を持たない人間は、つねに「時 代性」という名の「今」にふり回されてしまうことを指摘する。例えば、ビジ ネス書の乱読などはその最たる事例であり、ハウツ-もの、似たような内容の ビジネス書などをいくら読み続けていても、それは「一瞬の気晴らし」にすぎ ず、自らの「知の土壌」は豊かにならないとまで言い切る。世代や国や分野を 超えたビジョンや理念を生むには、教養が不可欠である。それがなければ、目 の前のわかりやすい数字を追うだけで、先行者を真似してただ追いかけるだけ

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に終わってしまう。このように、佐々木氏は、教養(の知)に特定の時代的も しくは歴史的状況に制約されない普遍的で汎用的な知という特徴を見出してい る。(佐々木, 6-7)

第二に、佐々木氏によると、教養とは中期的、長期的にこそ人生を豊かにす るものである。「教養とは、短期的には、何か目に見える恩恵をもたらしてく れるものではない。ただし、中期的、長期的には、あなたの人生を豊かにし、

成功確率を上げてくれる」ものである。仕事においても、豊かな教養を持つ者は、

いわば頭の中に多くのブレ-ンを抱えているようなもので、何か決断に悩んだ ときは、著作を通じて「心の友人」となった賢人にバ-チャルに相談すればよい。

頭の中で異分野をつなげやすくなるし、人の交流という点でも広げることがで きる。また、教養がある人は話が面白いので、その周囲に人が集まる。さらに、「教 養を育むのは何よりも楽しい。教養とは肩肘張ったものばかりではなく、人生 最高のエンタメ」でもある。このように佐々木氏が人生を豊かにする点を強調 するのは、出口氏と同様の立場といえる。(佐々木, 8-9)

第三に、経営学の楠木健氏によれば、教養とは、「自分がかかわっている事 象について、自分が自由に考えるための基盤となるもの」である。元々「教養」

という言葉は、明治期に翻訳されて定着した日本語であって、元をたどれば、

「リベラルア-ツ(liberal arts)」という言葉であり、直訳すれば、「自由の技術」

のことである。「自由の技術」とは、「機械的な技術(mechanical arts)」と対に なる概念である。「機械的な技術」が、何らかの目的をまず始めに掲げ、その 目的を上手く達成するための方法であるのに対して、教養とは自由な市民とし て持つべき「ア-ト」であって、技術というより「技芸」というイメージに近 いものである。我々はいろいろな物事に囲まれて生きている。その中で、自分 の価値基準に照らして始めて、その人なりの意見や考えが出て来る。自分が関 わっている事象について、自分が自由に考えるための基盤となるもの、これこ そが教養である。教養とは本来、「その人がその人のため」の知的基盤を形成 するものである。教養は人間の知的能力の根本的なところに関わっている。要 するに、「教養の定義とは、人が他者に強制されず、自分自身でつくりあげて いく独自の価値基準を持っているということ」である。このように、楠木氏は、

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教養に対して自由に考えるための基盤及び独自の価値観という面を強調してい る。(佐々木, 12-14,66)

楠木氏は、「自由の技術」というかぎり、逆に自由でない状態を考えてみると、

教養の意味合いがはっきりすると指摘する。自由でない状態とは、「奴隷の状態」

である。それは自分以外の誰かによって決められた価値基準への隷属を強制さ れている状態であり、自分の頭で考え、自分の言葉でものを言えなくなってし まう状態が「不自由」ということにほかならない。こういう状態から解放され て、自由になるためにこそ教養がある。この意味で、我々にとっても「教養と いうのはとても実践的で実用的なもの」だといえる。実は、教養は結果におい て実用的となる。なぜならば、それは特定の目的に対してどれだけ役に立つか を事前に狙って得られるようなものではないからである。重要なことは、教養 においては動機が内発的であるという点にある。つまり、教養というものは、

何かよいこと、得をすることをあらかじめ目指して学ぶものではない。たとえ ば、昇進のためにのみ必要な試験の点を取ろうとして英語を勉強するとすれば、

これは昇進を誘因とした行動に他ならない。誘因とは、文字通り自分の外部に あって自らを誘う要因である。これに対して、教養とは、インセンティブが効 かないもので、その人の内発的な動因によっておのずと形成されて来るものな のである。(佐々木, 12-15)

第四に、楠木氏によれば、教養とは「抽象度を上げて物事を理解しようとす る姿勢」である。目の前の具体的な事象に対して、「これは要するに何なのか」

と考えることができれば、これが抽象度を上げることに通じる。それは思考の 汎用的有効性を強化することでもある。思考の抽象度を上げると、だんだん世 の中の実際の出来事もしくは世俗から離れていって、役に立たなくなるという イメ-ジを抱きやすいかもしれない。だが実際は、抽象度を高く上げて思考す ればするほど、実用的となる。この意味で、特定の目的にしか適応できない教 (知識)に関しては、「すぐ役立つ知識ほどすぐに役だたなくなる」といえる。

教養を身に着けて抽象度を上げて思考することができれば、すぐに役に立たな くとも本質的なことが何であるかが理解でき、具体的な事象が起きたときでも その物事の本質が判断できる。(佐々木, 18-21)

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経営の意思決定をする際、どの選択肢が一番すぐれているかは事前にはわ からない。どんなに分析して予測しても、実際にやってみなければわから ない面があります。だとすれば、事前に最も強固な寄りどころとなるのは、

その人の中にある「論理的な確信」しかない。それは、具体的なレベルで 仮定に仮定を重ねて、各オプションの期待値を計算していくような作業で はなく、物事を単純化して「ようするにこういうことだ」と本質をつかみ、

自らの確認に基づいて決断する。この論理的な確信の淵源となるものが、

教養である。(佐々木, 26-27)

意思決定の論理的な確信の淵源という意味で、教養ほど実用的なものはない。

どんな状況で、何に直面しても、教養を持つ人であれば、それを軸にして考え 行動できる。教養は情報や知識よりもはるかに汎用性がある。

第 2 章 教養と哲学との密接な関係 第 1 節 世界のエリ-トが哲学を学ぶ理由

グロ-バル人材育成のIGS代表取締役の福原正大氏は、『世界のエリ-トは なぜ哲学を学ぶのか?』の中で、世界のエリ-トに求められる三つの力として、

「個人力×語学力×国(組織)力」を取り上げた上で、世界の中で活躍してい くためには、単に正しい知識を得ればよいのではなく、その知識を使って自分 自身がどのように考えるかが常に求められると指摘する。その際に必要なの は、情報のインプット力、それを自分の頭で考える思考力、最終的に自分の考 えを表現するアウトプット力である。世界の中で起こっている問題には唯一の 正解なるものが見出しがたいがために、こうした総合力が求められる。物事に 対して本当にそうかと疑ってみることが、さまざまな視点から多面的な考え方 をするきっかけになる。こうした能力が求められる世界のエリ-トが哲学に注 目しそれを学ぶ理由について、福原氏は、およそ次のように述べている。(福原,

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40-49)

第一に、ここで求められている哲学とは、学問の一ジャンル(分野)として の哲学という意味というよりはむしろ、より視野を広げて「正解のない問題に ついて考える」能力に他ならない。これからの時代、グロ-バルな国際社会で リ-ダ-シップを発揮して活躍し、世界の人に認められるためには、哲学的思 考が必要不可欠である。そのためにはまず「自分の頭で考える力を養う」こと が最も効果的であり、それこそ哲学なのである。肝心なことは、ネットで検索 しても正解が出ない問題を、その人ならではの思考力(判断力)で問い続けら れることである。それによって身に着くものが教養に他ならない。インタ-ネッ トの普及により、知識の簡略な整理化が進行している現在、我々にすべきこと があるとすれば、それは哲学的思考の質を向上させることに他ならない。(福原, 16-22)

世界でエリ-トと呼ばれる人たちの特徴は、多様性のある考え方を受け入れ、

それを自分なりに考えるという素地が備わっていることにある。相手の主張に なんらかのヒントはないか、真理に近づく道はないかと、さまざまな討論のな かから新しいものを創造しようとする感覚を持っている。そのためには、まず 自分は無知であるという自覚から始めることが前提とされる。哲学は時代を超 えた他者との対話の歴史でもある。議論や批判の連続といってもよい。先人の 知恵を吸収するとともに、周りの人たちと考えをすり合わせることによって、

「真理(有効な解決策など)」に近づこうとするのが哲学的思考である。そして 他者を理解しようとするならば、議論や批判を含めた対話をするしかなく、そ れが「シンプルかつ一番深いコミュニケ-ション」でもある。(福原, 98-102)

第二に、哲学的思考を身に着けるためにより有効な方法とは、「対話のツ-

ル」として本を読むことである。読書で得られる知識の土台がないと、短期的 には成功するかもしれないが、長期的にはうまくいかない。読書は単に知識を 得るためのものと受け取られがちであるが、実は「対話のツ-ル」という契機 がより重要である。というのは、著者との対話とは単に知識を得るだけではな く、そこに「自分の思考を掛け合わせるという行為」にほかならないからであ る。著者と対話するように読み始めると、知識と哲学的思考のサイクルが稼働

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し始めて、読み進めるのが楽しくなる。(福原, 54-56)

福原氏が的確に指摘しているように、読書をする際に重要なことは、いかに 読書の質を向上させられるかどうかにある。ある特定の本を読む必然性がどこ にあるかの吟味が重要になってくる。その本が、何よりもまずその時に自分が 興味を湧く話題、自分がどうしても考えざるを得ない問題に触れているかどう か。例えば、自分の価値観が否定されたとき、モヤモヤとした感情が溜まった りする。この場合、自分のこのモヤモヤとした感情の正体を知るには、必要な 知識を得た上での哲学的思考が有効である。(福原, 54-62)

本に書いてある内容の中で何に着目するかは本来自由であり、人によって 違っていてもよいともいえる。ただしその際に、あらゆる解釈の可能性の中か ら何が「正解」なのかと問うのではなく、著者に対して「あなたならどう考え る」と問いかけ、そこから自分なりの解釈を自分の頭で考えることがずっと重 要である。さてどういう本と対話することがより効果的かというと、それは哲 学の古典である。というのは、哲学の古典は何千年もの間生き残ってきた「答 えのない問題」と格闘して生まれたからであり、それだけ厳選された良書といっ てよい。そうした良書が我々に行動のヒントを与えてくれ、行動へと促してく れる。このように、福原氏は、哲学的思考を鍛えるためには、哲学の古典を通 して過去の思想家たちと対話することがもっとも効果的であると強調する。(福 , 152-156)

第三に、「知識を教養に発展させるために必要なものこそ、哲学的思考法」

である。教養は知識の発展形であり、知識があってこそ、教養を育てることが できる。本で知識を得て、それが「本当か」と疑い、こうした哲学的思考を経て、

さらにそれによって得られた「真理」を行動へと移すことで、自分なりの付加 価値をつけて、教養へと発展させることができる。我々の知識には、なにかし らの「バイアス(先入見や偏見)」が潜んでいることが少なくない。だからこそ、

知識を疑うことによって、知識と真理がどれくらい乖離しているのかを考えて みる必要がある。現実に起こったことを、どこまで論理的に説明できるのか、

それともできないのかを問い、説明できないとしたら、それはなぜなのか。さ らにそれを突き詰めて、疑い、考えることで知識は教養に発展する。こうした

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過程が教養を身に着けることである。ただし、ここでいう「疑う」とは、誤っ ている点を見つけて非難する、あるいは揚げ足をとるというような意味合いと は異なり、自分の考えを深め、新しい考えを作り出するための「問い」という ニュアンスで理解するのが有効である。「疑う」ためには、自分とは違う考え を許容することがまず大切である。多様性を受け入れることによって自分とは 異なる考えから刺激を受け、自分の考えを深めたり、新しい発想を得たりする。

これが教養を深め、さまざまな問題解決につながっていく。(福原, 78-80)

土台があってこそ、テクニックが生きる。いまの世の中を見渡すと、ビジ ネスパ-ソンにしても学生にしても効率を重視する傾向が強いと感じま す。最短ル-トをたどり、より短時間で問題解決を図るノウハウを求める 人が多いように思う。・・・ノウハウやテクリックも大切ですし、ないよ りはあったほうがいい。しかし、決定的に欠けているものがある。こそが、

哲学的思考法なのです。本質、原点、根源といった、根っこの部分につい て、時間をかけてでも考えようという視点が大切なのです。・・・長い人 生で自分なりの成功を収めるには、根っこの部分を疑ってみる作業が欠か せない。・・・知識を疑い、実際に経験をしながら考え続けなければ教養 は身に付きませんし、真理には近づけないのです。(福原, 93-94)

知識を疑うことが教養につながるという面では、クリティカル・シンキング も哲学的思考の重要な特徴を共有する。クリティカル・シンキングに必要なの は、「前提を疑ってみること」「自分なりの解釈をして考えを持つこと」「自分 なりの考えを主張すること」であり、正解のない問題に答えるため、自分とは 異なった意見という刺激を受け取りつつ、自分の考えを深めたり、新しい考え をつくり出そうとすることが重視される。自分の知識は、あくまでも多種多様 な考え方のうちのひとつにすぎないことを前提としている。(福原, 78-79, 重 a, 34-45)

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第 2 節 教養としての哲学

公務員の経験もありヘーゲルの研究者でもある哲学者の小川仁志氏は、『教 養としての哲学』の中で、現在世界で教養が求められている事情について次の ように指摘する。すなわち、とりわけ、21世紀に入り、グロ-バリゼ-ショ ンやインタ-ネットによって常識そのものが変わりつつある。そのため、何を するにしてもゼロからル-ルを作ったり、新たな枠組みを考えたりする必要が 生じてきている。だがそのためのモデルはどこにもなく、自分の頭で考える能 力を自ら開発し、それを十二分に発揮していくしか道はない。こうした事情を 踏まえて、教養と哲学の特徴を次のように述べている。(小川, 1-29)

第一に、「本来教養は、精神の成長を意味するもの」である。教養を意味す るラテン語のeruditioなどは、自然の中から自己を形成していくことを意味し ていた。英語では教養のことをcultureと言うが、この語には「耕す」という 意味がある。それゆえ、精神の陶冶こそが教養の真の意味なのである。そのた めには、幅広い知識が求められるのは間違いないが、それだけでは足りない。

これまで本稿で紹介ししてきた論者たちと同様に、小川氏もまた、「精神を陶 冶するには、自分の頭でしっかりと考え力が求められる。」と指摘し、自分の 頭で考える点を強調する。(小川, 2)

第二に、なぜ今、教養としての哲学が求められるのかの理由として、ヘ-ゲ ル研究者の小川氏は、「教養は、ドイツ語のBildung という語で表現され、ヘー ゲルによると、その教養形成のプロセスは、精神が様々な事柄を経験し、徐々 に鍛えられていくものである」と指摘する。それゆえ、自分を疑うことが大き な意味を持ってくる。自分を疑うことで始めて、私たちは新たな世界を切り開 き、精神を鍛えることができるからである。そしてそれを可能にする学問こそ が哲学に他ほかならない。(小川, 4-5)

グロ-バルに活躍する世界のエリ-トは哲学の基礎知識があるのが当たり前 であり、しかも、彼らにとって西洋哲学の知識は必須である。例えば、フラン スのバカロレア(大学入学資格試験)での哲学の問題は、自由や平等の意味に ついて数時間もかけて考えさせる仕組みになっている。そうなると、授業では

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機械のように暗記するのではなく、じっしりと考え、徹底的に討議することが 必要になってくる。ビジネスの交渉の場でも、随所に哲学用語や哲学者の名前 が出てくることがある。教養あるエリ-トほどその使用頻度は高くなる。(小川, 6-7)

また同様に、後藤道夫氏もヘーゲルを引き合いに出して、「教養はたんなる 読み書きの能力でもなく、たんなる知識でもない。それは、ヘ-ゲルの教養把 握がそうだったように、自分の生活全体を社会全体のなかで位置付け、自覚し、

そこに能動的に参与していく能力と態度なしにはありえないものである。」と 述べている。(後藤, 154)

第3章 「概念の創造」としての哲学 第 1 節 哲学の汎用性と有用性 

社会哲学者の萱野念人氏は『哲学はなぜ役に立つのか?』の中で、哲学の特 徴について次のように述べている。

第一に、哲学とは「概念の創造」である。これは、ドゥル-ズとガタリの共 著『哲学とは何か』の中で、主張されたひとつの特徴的な哲学観である。萱野 氏は、それを説明するために、分子生物学者の福岡伸一さんが、『生物と無生 物のあいだ』の中で、「生物とは何か」という問いに答えようとしている際に行っ た哲学的思考(法)を事例として挙げている。この「生物とは何か」という問 いは、実は実証的なアプロ-チだけでは答えられない問いである。いくら「こ ういう観察結果がある」とか、「こういう実験デ-タがある」という事柄を単 に列挙しても、「生物とは何か」という問いに答えたことにはならない。その 問いに答えるには、そうした実証的なデ-タをさらに総合して、「概念的に加工」

しなくてはならない。このとき必要となるのが概念の働きであり、広い意味で の哲学である。つまり、哲学とは「概念を使って物事を考えること」、逆に言 えば、概念を使って考えていれば、すでにそれは哲学への第一歩といえる。(萱

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, 8-10)

第二に、哲学はひとつの学問分野である以前に、「知の営み」における特定 の働き方である。というのは、哲学とは、物事を捉えるために概念的に考え、

その概念を練り上げたり、新たに概念を創出したりする知的営みに他ならない からである。この意味で、哲学をひとつの学問分野だと考えることには、本来 無理がある。萱野氏は、概念的に考えることはどんな分野でも多かれ少なかれ 実践していることであり、従って、哲学を特定の学問分野としてのみ捉えるこ とはあまり意味がない点を強調する。(萱野, 10-12)

では、概念的に考えるとはそもそもどういうことなのだろうか。そもそも「・・・

とは何か」という問いには、概念を使って答えるしかない。とはいえ、「・・・

とは何か」と問えば、すべて哲学になるというわけではない。哲学が概念的作 業と切り離されないものである限り、そこには「概念的に答える」ということ が求められる。こうした哲学的思考の特徴としては、「総体的」ということが 挙げられる。哲学が概念によってある対象の知識をまとめあげようとする。「・・・

とは何か」という問いに対する答えは、その対象に対する総体的な定義になら ざるを得ない。もちろん、総体的といっても、哲学は決してほかの学問に対し て優位な位置にあるということでない。そうではなく、哲学はできるだけ物事 のトータルな把握をめざすものだからである。哲学的思考がなければ、あらゆ る知識は断片的なものにとどまってしまう。(萱野, 10-17)

例えば、我々が、「国家とは何か」と問うときに知りたいのは、「そもそもな ぜ国家なんてものが社会のなかに存在しているのか」、「どのような原理によっ て国家というものがなりたっているのか」ということである。従って、「国家 とは何か」という問いに哲学的に答えるには、そうした疑問を概念的に考える ことで解明しなければならない。(萱野, 11-12)

学問の一分野としての「哲学」も、こうした概念による思考が純化され、制 度化されたものに他ならない。実はそれが時代を経て継承され、再構成された のがいわゆる「哲学史」である。これに対して、概念による思考という本質か ら哲学を捉え直してみると、それはあらゆる学問分野に見出される。この意味 では、哲学には固有の対象というものはない。あらゆるものが哲学の対象にな

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りえる。哲学は概念的に考えるということによって、我々が何かをわかったと 思うとすれば、それは「物事の原理を飲み込めた」ときである。つまり、哲学 を実践すればするほど、物事を理解できるようになるはずである。このように、

哲学の特徴とは、概念を用いた思考(知)の汎用性にあるといえる。また、こ れまで哲学は他の分野の学問と結びついたり、隣接学問の成果を積極的に取り 入れたりすることで発展してきた。哲学はアリストテレスの時代からクロスオ

-バ-なもの、領域横断的なものであって、実はこうした領域横断性も哲学の ひとつの特徴であるといえる。(萱野, 15-17)

第 2 節 ドゥル-ズにおける「概念の創造」としての哲学的思考

前節で萱野氏によって取り上げられた、哲学とは「概念の創造」であるとす る哲学観は、哲学のひとつの特徴的な固有性を表しており、それは、G・ドゥ

ル-ズ(Gilles Deleuze)が『哲学とは何か』の中で、主張した特徴的な哲学観

である。

第一に、「概念の創造」としての哲学的思考には、「潜在的なもの」に関する ドゥル-ズ独自の存在論がその背景にある。加賀野井氏は、G・ドゥル-ズ編 著『哲学の教科書ドゥル-ズ初期』の「はじめに」中で、「概念の創造」とし ての哲学的思考について次のように述べている。(加賀野井, 14-25)

ドゥル-ズの提起する「生の概念の内在学」では、その実在性のレベルが問 われることになる。ドゥル-ズは、それを潜在性に置き、「生は潜在的なもの しか含んでいない」と主張する。このような「潜在的なもの」の存在論において、

注目すべき点は、潜在的なものは不定形なカオスのようなものではなく、完全 に決定されているとされていることにある。ドゥル-ズは、潜在的なものにお ける本来的な多様性と、その潜在的なものが現実化することによって実際に得 られる多様性とをはっきりと区別する。現実化された諸事象は、その諸事象が 現実化したところの潜在的なものとは類似点を一切持たない。ドゥル-ズが好 んだ生物学的な例によって説明すれば、生物学における胚もしくは遺伝子の発 生的・遺伝的な差異化作用においては、現実化された人体が、潜在的な遺伝子

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との間にいかなる類似性を持たないのと同様である。(加賀野井, 16-18)

第二に、ドゥル-ズの「潜在的なもの」の存在論は、ベルクソン哲学の中に 潜んでいながらベルクソン自身によっては主題化されなかった「差異」の概念 を全面に据えて、ベルクソンの「生の哲学」を解釈することによって形成され た。ドゥル-ズによれば、「差異の哲学」としてのベルクソンの哲学は、方法 論と存在論との両面において、遂行されている。一方において、事象相互の本 性の差異を確定する直観という方法論の問題がある。他方においては、事象の 存在が或る仕方でその本性の差異において存在するとして、差異そのものも或 る存在するものであるという存在論の問題でもある。(ドゥル-ズ, 11-14/123- 140, 重野a 128-129)

肝心なことはドゥル-ズにおいて、いかにして潜在的なものと可能的なもの、

現実化と実在化とを区別しているかのその仕方にある。すなわち、可能的なも のの実在化の過程は類似と限定という二つの規則に従う。なぜなら、実在的な ものはそれが実在化する可能的なものに類似し、それも、可能的なものがすべ て実在化されるのでないかぎり、実在化にはひとつの限定が含まれるからであ る。これに対して、潜在的なものは現実化されねばならない。その現実化の規 則は創造と差異である。なぜなら、現実的なものはそれが現実化する潜在的な ものに類似してはおらず、それも、現実化の過程は、出発点である潜在的なも のと到達点である現実的なものとの差異に他ならないからである。つまり、潜 在的なものと現実的なものとの区別という点に関して、現実化の過程が際立っ て創造的であることを示している。このように、哲学のひとつの固有な特徴と しての「概念の創造」という事態が、我々の生のいかなる存在論的レベルもし くは層(相)において生起しているのか、ドゥル-ズの哲学は示唆を与えてく れる。(ドゥル-ズ, 88/42, 重野a. 128-130)

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結語として

最後に、以上のように哲学的思考の汎用性と固有性について、多様な哲学観 に沿って概略的に考察してきた限りで、この考察を具現化するために今後の具 体的課題(問い)について触れることが許されるならば、次の点を述べておき たい。

第一に、哲学的思考の汎用性と固有性との関係をより具体的に明らかにする ために、具体的な問題や論点に沿って考察してみること。

第二に、具体的な問題や論点のひとつの例示として、人間的生の具体的なあ り方に沿って、病とそれからの治癒の過程を考察し、「癒し」に関する新しい 概念の提唱を試みること。

第三に、具体的な問題や論点の別の例示として、医療系の学問で重視される

「科学的根拠」という概念に関して、科学と疑似科学とをいかにして区別する かをテ-マとする科学哲学もしくは科学論の議論に沿って、「科学」もしくは「科 学的」に関する新しい概念の提唱を試みること。

利益相反

開示すべき利益相反はない。

参照文献

 本文中に引用したり直接参照した文献に関しては、下記の<  > 内の略記

号を用いて、(原著のペイジ数/邦訳のペイジ数)の順に明記した。

・ Gilles Deleuze (1956). Bergson et difference (L’etudes bergsoniens, vol. IV, P. U. F

1956) (G・ドゥル-ズ『差異について』,平井啓介訳,青土社, 1989) < ドゥ

ル-ズ >

(18)

・ 小川仁志(2016).教養としての哲学, PHPエディタ-ズ・グル-プ< 小川 >

・ 加賀野井秀一訳注 G・ドゥル-ズ編.哲学の教科書ドゥル-ズ初期, < 加賀 野井 >

・ 萱野念人(2017).哲学はなぜ役に立つのか?, サンゾ- < 萱野 >

・ 後藤道夫「収縮する日本型<大衆社会>」(現代思想 2016.11 vol.44-21)

< 後藤 >

・ 重野豊隆(2005).「差異化としての持続」(新田義弘・河本英夫編『自己意識 の現象学』世界思想社 p.121-133) < 重野 a>

・ 重野豊隆(2009). 「クリティカル・シンキング」への哲学的考察,星薬科大学 一般教育論集,27, p.37- p.55. < 重野 b>

・ 出口治明・楠木健他(2017).リ-ダ-の教養書,幻冬舎 < 佐々木 >

・ 出口治明(2015).人生を面白くする本物の教養,幻冬新書391 < 出口 >

・ 福原正大(2015).世界のエリ-トはなぜ哲学を学ぶのか?, SB新書297 < 福 原 >

・柳田邦男(2014).僕は9歳のときから死と向き合ってきた, 新潮文庫. < 柳田 >

参照

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