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小学生の思考の論理性について

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Academic year: 2021

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小学生の思考の論理性について

若  松  忠  道

On the Logic used in the Thinking of Children by T. Wakamatu

1.論理指導の素地

数学は公理を源にした演緯体系になっていて論理的に記述されるから,数学の学習には論理が不 可欠である。もとより論理が数学的思考のすべてを支配するわけではない。創造的思考には直感や 感情も関係するが,そこでもまた論理が大きな役割を持っている。 算数では論理が表面に現われないで,式や計算で解を示すことによって正当性を主張する。論理 が数学教育の問題としてはじめて取り上げられるのは,中学校で図形の論証が出てくるときである。 高校の教科書には``論証"の項目があるが,いくつかの論証形式をそこだけで扱い,他の教材の中 にあまり浸透していないように見られる。その後の数学の学習で,論理に弱いために思考が進まな いという例がしばしばある。論理の指導は数学教育の一つの問題であるといってよい。 中学校の図形の論証の学習が困難なのは論理だけの問題ではない。今までの式と答による規格化 された表示に代って,正確さ(これは論理に関係がある)と適当な省略を伴った文章表現が要求さ れる。それは多様性をもち,ことに適当なということは子供に苦手である。記号による表現という ことも新しいことである。このような数学の内容ではない附属的な困難と共に,既習のどれらの定 理をどんなに組み合わせて証明するか,また図形をどんなに移動して考えればよいかというような 図形の学習内容そのものの難しがある。さらに論証に入った当初出会ラ,わかり切ったことをなぜ 理くつでもう一度確かめなくてほならないのかという疑問がある。数学の体系ということは,一応 の説明が与えられても,論証をはじめた最初の段階では理解しにくいことである。それに論理その ものがある。論理的に説明されたものも,目で見た図形に存在する事実であるとしか認識しない, つまり論理の効力を全く認めない者がたくさんいる。そういう人が論理を用いて何かすることは不 可能である。このように各種の困難が一度に出てくることがまずこの教材における問題点である。 そこでこれらの困難を順次別々に解決する方法が考えられる。まず論理は,図形を材料にしない で一般的な命題を例にして論理そのものとして学習させる。体系については,子供によくわかるよ うな非ユークリッド的空間の具体例と対比させて,われわれの住むこの空間の基本的性質を調べる ことが意味のあることだと認めさせようとする試みなどである。 論理を図形から切り離して図形の論証の前に指導しておくことは,現在行なわれる方法の中の困 難を和らげる有効な方法であろう。一方現行のやり方で,中学校のある時期から急激に論理的扱い

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52       小学生の思考の論理性について 方をすることにも問題はないであろうか。小学校においても将来の論証を見越して,自然にこれに 移行できる準備をしておく必要はないだろうか。 どんな概念でも,全くそれを知らない者に説明したり定義を与えたりすることはできない。子供 達が経験によって漠然と持っているものを指示して見つめさせ,気づいた事を構造化してゆくこと が説明である。心の中に持っていないものは指し示してやりようがない。その意味で,整った論理 の指導をするまでに,何等かの素地というようなものは必要であろう。 論理的傾向はほぼある年令(中学の頃)に発現して,それ以前の指導はあまり効果がないなどと 言われる。いちいち把握できないさまざまな機会にそれぞれの経験を重ねて熟するものと思う。そ の成熟の揃った頃を見計らって指導することは効率のよいことである。その成熟は上に必要である と述べた素地が自然にできたものである。しかしそれで十分なのだろうか。どの子供も形式的な論 理指導に耐えるものを育てているだろうか。すくなくとも従釆の図形を通しての論理能力の発展に は個人差が大きすぎて,そうではないと思われる。 その素地とはじっさいどういうことができることを指しているのか,どのようにして育つのかと いうことがわかれば,計画的指導もできよう。一応考えられるのは,言語の指導の中,理科や社会 などの因果関係を考える中などに並んで,算数も教科の性質上大きな役割を持ち得るのではないか ということである。しかし従来の学習の仕方では算数はその役割を果していないかも知れない。そ れだけに新しい配慮をすることによって,算数の学習の中で論理的素地を培う可能性を期待できる。 論理の指導体系全体のうち,まず小学校の算数の中でその素地を養う努力をすることが,正統な 考え方ではないかというのが一つの仮設である。 次の数問の答を観て,そこに現われた小学生の考え方の様相から,上記の素地としてどんなこと が考えられるかを見よう。

2.テストの問題と子供の反応の考察

問1 ふくろの中に赤いビー玉と青いビー玉が入っています。赤いビー玉は2こではかはみな青 いビー玉です。ふくろの中のビー玉ではどちらがたくさんでしょう。 この問題は,具体的数値を示さない抽象的な場面で思考することは小学生には困難であるという 例にあげてあったものをここに借用したものである。ここにある論理は〝一般に全体は部分より大 きい(p-ウq)。今の場合,袋の中のビ-義(A)は全体であり,青いビー玉(B)はその部分である (p:A⊃B)。だから,袋の中のビー玉が青いビー玉より多い(q: N(A)>N(B)'。つまり((p-q) p)→qの形である。ふつうこんな形式は意識されないが,目の前の場面を一般法則に照らしてそれ に合致するものだとする態度や習慣が,この論理に関係する。 結果は次の通りである。 (イ)は正解で, 2年生の解答例に``青いのほ一つの類だから袋の中の方 が多い''というのがある。 (ロ)は青と答えた者で,理由の記述は別に示す。 (-)は青や袋の中の ビー玉の個数がわからないから答えられないとした者, (-)は理由が書いてなくわからないとした

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者や調査者が答の真意をつかみかねたもの。 田上小2年(42人)    3年(41人)    6年(42人) (イ) (正解) (ロ) (育) (-) (数不明) (-) (其他) 1人 18 22 1 3 24 8 3 8 10 16 8 青とした理由は,書いてない者や説明しにくいと書いた者などが少数あるが,大部分は,赤はたっ た2個であるが〝ほかはみな青"と書いてあるから青が多いと思った,という意味のことが書いて ある。 以上の結果から客観的な確実なことを引き出すことはできないけれども,次のようなことが考え られる。 (1)答に青と書いた者は明らかに赤と比戟しているのである。問題をよく読まない結果だという 解釈もできるが,一読このように比戟してしまったことは,対等な関係にあるものは比戟し易く, 包摂関係にある物の間の比戟はしにくいという傾向を示していることは否めない。割り合いの問題 でも並列されたものの割り合いはできるけれども部分の全体に対する割り合いは理解しにくいと言 われるのと,同じ傾向に支配されているわけである。 具体的な物を指して,あるいは``全体・部分''という言葉によってそのことだけを問えば,全体 と部分の多少を知らない者はほとんどなかろう。しかしそのことがこの問題を考える際の前授とな る法則であり,今の場面をその法則に照らして考えなければならないとする論理的態度の方が,全 対とよりも対等な部分とが比戟し易いという傾向よりは弱かったということになる。またこの法則 がここで強く働かなかったのは,数の大小の概念が基本的なもの(それは集合の概念である)につ ながって正しく把えられていなかったことにも一つの原因がある。 論理を育てる要点の一つとして,基礎的概念を正しくつかませることと,法則化された基礎事項 によって判断する習慣の大切なことが,ここによく現われている。 (2)青いビー玉と赤いビー玉を比戟させたもう-?の理由は,多くの子供がそう書いているよう に,赤は2個だから少ない,他は青だと書いてあるから多いように思われる,するとこの両者は容 易に比戟できると考えたことから来ている。このうよに子供の判断の資料は,感覚的なもの,感情 的なもの,日常的にあり易いことなどから採用されがちで,真理性に対する鋭い吟味がない。そし てその種の資料が豊富にあれば,それによって論理は被われて出てこない。中には,青も2個かも 知れないからわからないと書いたのもいる。これは青の個数について一応の吟味はしたので半歩前 進している。全体集合を考えることができなかったのである。 このような正しくない判断資料によって論理が被われてしまうのは,もちろん論理そのものが弱 いか,ほとんど存在しないからである。この状態を破るには,判断の根拠が不確かであることを示 して破棄させる,ふつうによく用いられる方法がやはりよいであろう。 〟逆は必ずしも真ならず"

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54      小学生の思考の論理性について ということを教えるのには,逆は成立しない,しかもそれ自体は正しい命題を例としていくつか挙 げるようなものである。だがこの例のような一つの命題は簡単であるが,感覚・感情・日常性など に支配される傾向の是正は一度や二度ではできないだろう。破棄さるるべき判断の仕方はどんなこ とかということを,子供が全体的につかむことができるように,度々の警告の中で系統立てる必要 がある。その一方正しい判断の資料は何かということを,これまた系統立てて与えなければ,旧来 のものを破棄した結果落着く先がないので有効とならないであろう。正しい資料とは,論理でっあ たり,法則であったり,基本的な概念であったりする。 (3) (-)の答をした者は3年生に少ない。 (ロ)と(-)を合計すると自然な傾斜をなしている が,あるいは2年と6年では数値が与えてないからわからないと答えた意味がちがっているのか, よくわからない。とくにかく数値がないと思考しにくいという傾向の存在は確かである。 しかしそのことは自然な思考の傾向なのだろうか,あるいは教育の歪ではないのだろうか。元来 数は集合の要素を対応関係によって比較するところから抽象されて生まれてきたものである。その 過程で数の大小を定める際,もし部分集合と全体集合の関係を扱ってあれば,後者の一般的関係の 認識が,数概念より抽象的だとは言えないと思う。数の扱い方が技術的にだけなされ,集合から正 しく抽象する過程を通って来ていないためではないのか。この間の結果は,数は思考の中で具体的 で集合は抽象的であるということを示しているよりも,数の指導の歪を示しているのではないかと 思う。もっとはっきり調査してみる必要がある。 問2 赤いかみときいろいかみを2枚かさね,図(略,正五角形の一風点を重ねたまま350 くら い一方を傾けてある)のようなかたちにきりました。これをずらせてはりました。赤いかみが-ま いだけのところと,きいろいかみが1枚だけのところと,どちらがひろいでしょう。 この問題の論理は, A, Bを2枚の紙の広さ, C, Dをそれぞれの紙の重なった部分の広さとす るときA-B, C-D→A±C-B±Dという形式である。数学ではしばしば出てくる型である。答 の類別は

2年    3年    6年

じ 同 赤 黄 21人    25     29 16 5 5 同じと答えたのがすべて正解とは言えない。 6年生の中に5-6名が,同じ広さから同じ広さを 引いた残りだから同じである,という意味のことを書いている。これが正解である。他の答えをす べて類別して述べることはできないが,重ねて切ったからとか,ずらしたからとか,少しずつずら せば同じとかいうような表現であり,転移できる理解をしているのかどうかわからない。むしろこ の場合は正しく表現できることが,この論理を知っていることだと言ってよかろう。 同じと答える者も,赤,黄と答える者も理由には,見れば同じだ,というように書いてあり,つ まり感覚に頼っている。また赤が上に重なっているからというような独断によって,上にある色が

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広いという者も相当数ある。問1の(2)で述べた通りである。 6年生には,赤の重なっていない部分を切り分けてみたり,形が細長いか幅広いかという吟味を してみたり,論証めいたことをする者が何人かいるが,結局最後は感覚に頼っている。三角形や平 行四辺形の求積の経験が生きているのであろう。自分の主張をなんとか人に認めさせようとか,自 分が考える手だてを見つけようとする努力と工夫は育って来ていると見られる。それは論証-向け ての進歩である。しかしそのことは,直ち転そこに用いらるべき道具としての論理の認識とはなら ないことを示している。 全体で数名であるが,広さとは何かということがよくわからない者もいる。 本間の型の論理は図形の論証の中で自明のことのように用いられる。その型を一般的原理として 把えなければもちろんそれを用いることが論証をしたという意味を持たない。じじつA-B, C-D までほ出してそのあとの結論は出せないというのはよくあることである。 聞3 おばあさんが「うそつきには神さまがばちをあたえる」といいました。おとうさんが「よ しおはうそつきだ」といいました。いもうとが「それならよしおちゃんには神さまがばちをあたえ る」といいました。おばあさんのいったことはほんとですか。いもうとのいったことはまちがいあ りませんか。 妹の言は"それなら"という言葉で祖母と父の言を論理的に結びつけている。それを明らかに解 っているのが6年生に3人,おそらく解っているのだろうと思われる者が5人いて,下学年には1 人もない。 祖母の言に対しては

2年    3年    6年

うそ      4人     8    18 わからない  15      15     13 ほんと     17      15 という数である。妹の言についてもこれと同様に,神の存否,罰を与えるものかどうか,迷信であ る等の批判はあるが,論理には気づかないのが多い。 上表から学年の上がると共に迷信の脱落がみられ,罰などというのは教訓にすぎないと書いたの もいる。下学年では〟ぉ母さんが言っだ'というようなのが目立つ。外部の権威の消失も論理の伸 長の条件ではなかろうか。問1の(2)で破棄される必要を述べたのは,感覚・感情・自分の馴れ 親んでいることなど幼児の自己中心的特徴に基づく事柄であったが,ここではやはり幼児の特徴で ある依他的なことからの解放が必要だと言える。それは論理形式の説明や習熟ということと別の面 の指導である。 問4 5はじっすうです。じっすうはふくそすうです。 5ほふくそすうですか。 前問と同じ三段論法の問題である。しかし正答は,理由の明確なものだけで (2年) 4人, (3年) 9人, (6年) 25人

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56 小学生の思考の論理性について となって前問よりはるかによい,たしかに前間は文脈も複雑でその中の論理を捉え難い。本間はそ の逆である。実数・複素数というものは全く知らない,判断の方法は論理しかない場面である。そ のような場合にはこの程度に論理を用いるということがわかる。いままでの問題は考えるべきこと, 論理にあまり強くない子供達にとってはその代りに判断資料となり得ることがあまりに多かったの である。本間の正答率が正値(形式別にちがうだろう)で,これを妨げる部分は間1の(2)や前間 で述べた注意をしなくてほならないということである。 この正答率も然しそう高くはないので,残りの人に対してほ形式を認めさせる指導が問題になる。 低学年で解らないのは自然放置しても6年でこの程度にはなることも示しているが, 6年生の残り の者か中学校までどんなに変るのか,形式によっては(例えば問2)どうなのか,それについて何 時本質的な深い学習をする機会があるのか,などの問題は残る。 残りの者の解答を見てみよう。わかりませんと答えた者が (2年) 14人, (3年) 15人, (6年) 7人 で意味がわからないと書いてある者が多い。 6年に``実数が何か複素数が何か自分は知らないから 答えられない"とはっきり書いたのがいるが,他の者も同じ意味だと見てよい。つまり事実を知る ことによって判断したいということで論理の力を認めていない。 ちがいますと書いたのは (2年) 15人, (3年) 10人, (6年) 5人 で,理由は``5ほ実数だから"というのが多い。つまり5は実数であって複素数ではないという意 味である。問題文に,実数は複素数です,と書いてある意味は読みとることができなかったのであ る。要素についての知識のない集合まで含めた,一般の集合の包摂関係の認識がないのである。こ れは一つ上にあげた14人, 15人, 7人の者についても同様であろう。 小学校でも集合の学習をすることになったが,具体的な集合についての操作をすることに終った のでは集合の学習とは言えない。それは図形の類別や,特別な加法の応用問題であるだけである。 集合の学習とは,そのような具体的場面の学習を通して,集合一般にあてはまる法則を習得するこ とでなくてはならない。そのことを言葉で表わせばほとんどそのまま論理的法則になる。問1,間 4の結果もこの集合と論理の学習の一体性を語っている。 問5 みかんとりんごがおなじかずあります。なしはりんごよりたくさんあります。みかんとな しはどちらがたくさんありますか。 理由まできちんと書いた正答者が (2年) 11人, (3年) 18人, (6年) 27人 これは数の大小に関する推移律の問題だが,数の大小順はよく馴れた事実なので具体的数値は与 えてないけれども正答率は高い。みかんやなしの個数がわからないから判定できないと答えた者は (2年) 6人, (3年) 4人, (6年) 3人 で問1よりずっと少ない。用いられる論理もはっきりしているし,馴れた事実でもあるからできた

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ので,問1では集合概念のないことが,判断材料としての具体的数値を要求したものと見られる。 他の歴史的時代の前後についての推移律の問題では問5よりすこし惑い。推移律などは一つの量 についてわかっても直ちに他の量-転移するとは限らない。入念にいくつかの量を例にして一般化 をほからなければならない。 間6 おとうさんはいつもぼうLをかぶっています。いまぼうLをかぶった人が通りました。そ れはおとうさんだと言えますか。 逆命題はもとの命題から論理的には導かれないことをいう問題。   I

2年    3年    6年

正答      8人   12人    33人 いいえ(誤答) 20    17 ほい (〝〝) 13    11 はいと答えた者は大体,ある命題があればその逆命題は当然成立すると考えているようである。 いいえと答えた者は,理由を書かないのが相当あり,多くは``父なら通りすぎないで家に入るはず だ'とか"ちがったぼうLをかぶっていたのだ"とか"人とは他人のことだ"とか,勝手な想像を してそれに依っている。問1で述べたことを裏書きする。 3.他の例とまとめ 鹿児島市内のある中学校の生徒を対象にした調査では,論理がよく解る者がおよそ四分の一位い て,その比率は学年によってほとんど変りがない。他の者は問題によって出来たり誤ったりして不 安定である。上学年にゆくほどわずかによくなるが,論証指導の効果であるのか自然の成熟の結果 か判定し難い程度である。ことに非現実的な命題を材料にした問題では誤答が三分の一くらいで, そうでない問題の正答は事実の認識を元にしたもので,論理を用いたのかどうかわからない。論理 を特別に指導されたことはなく,図形の論証の中で指導されている。 この報告を見ると論理がわかるか否かは何か先天的なものがあるのではないかと思うほどであ る。ある命題から裏命題が成立すると結論するのが多いところを見ると,論理形式に対する深い肯 定の気持や借用を持っているのでなくて,教わった通りにその形式を運用していると,多くの場合 偶然に答が当るというような盲目的な使用をしているのではないかとすら疑う。論理の理解は難し いという他の事例をあげる。 小学校のある4年生に,事実認識による判断を防ぐために,非現実的命題で構成された三段論法 の問題を与えたら全部できなかった。それから三段論法の指導をした。まず条件も結論も知識によ って真実と認めることのできる命題(数題の問題)から,そこにある論理構造を抽き出してみせた, ベン図も構造図も用いた。同様の練習問題をくりかえし,内容を知らない命題についても適用する 練習をさせた。その結果最初に与えたような非現実的命題による問題でテストしたら,こんどほほ とんどできた。しかしそれは(A-B〈B-C)-(A-C)の形に命題を配列したときだけで,条件を

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58 小学生の思考の論理性について (B-C〈A-B)と配列した問題に対してほ強硬にその不成立を主張した。合接や離接に関する交 換法則の指導が抜けていたためかも知れないが,何か論理が形式的に覚えられていたに過ぎないと いう気がする。 よく行なわれる初等的な論理の指導法は,推論形式を合成命題として,真理表によってそれが論 理的に真であることを認めさせようとするものである。この場合でも上と同様の結果が起る可能性 はある。 論理について操作ができて,それによって正しい答が出るならば,それで十分ではないかという こともできよう。しかしそこには他の教材における,形式的操作の獲得と,具体的なものからの抽 象作用を経た理解の間の問題と同じことがあるのではなかろうか。ある大学生は,背理法によるあ る証明について,どの段階も書いてあることは論理も何もよく解るのだが,証明された内容は信ず ることはできないと言う。 小学校における論理指導の役割は,もし出釆るものなら,他の諸概念のように,具体からの抽象 作用を通すという段階に当ることではなかろうか。その観点でテストの問題毎に述べたことをまと めてみよう。 (1)子供は論理的に多くの誤りをするけれども,それは論理的要求がないということではない。 極めて少数を除いて,解答には何らかの理由を附して答えようとする。ただその理由づけが見当ち がいで,有効な手段としての論理も教えられていないので持ち合わせないのである。また6年生に もなると論証のように分析して自説を認めさせようとする努力・傾向が生まれるが,それと論理の 収得とは別である。きちんとした指導の必要がある。 (2)推論の形式は,述べられる内容とは独立な真理であるということは,習得させ難いことであ る。テストの各問題では論理の使用を強要していないけれども,大部分の問題で学年が上ると成績 がよくなってくるのは,諸経験の中で自然に論理を習得してきていることを示している。たとえば 数の大小関係の推移律のような馴れ親んだことについては特によい。論理の明確な表現も認識を深 めることを考慮しながら,子供にふさわしい具体例をとりあげて,しかも一般化を目ざした不断の 指導が,機会をとらえてはなされる必要がある。 (3)小学生の論理の指導においては,論理そのものだけについて注意しても不十分である。子供 は何によって判断するかという,もっと広い視野で観察して,望ましい論理的判断ができるように するには何を取り除かなければならないかを考えるべきである。場合によってはそれは迷信であり, 教師や親,教科書であり,場合によっては自己中心の狭い視野である。これを剥ぐことは一朝にで きないだろうし,算数科の中だけでも出来まいが,また算数の中にも多くの機会や場面はある。 (4)集合の概念は論理と密着している。集合の指導の第一は,われわれが言葉で表示するいろい ろなものはある集合のメンバーであると考え,その集合の問で包摂関係があるものだという一般的 な事実を認めさせることである。大人はそれを自明なことのように思って注意もしないが,子供に とっては必ずしもそうではない。集合の指導というと計算に匹敵するような有効な思考の道具とい

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う技術的なところに目が向けられがちであるが,もっと人間の認識の基本に関係したことを考える べきである。 (5)論理的態度は基本的な法則に依拠するところから出てくる。低学年からこの法則に依って考 えを進める態度,法則は自分で一般化し確かめる学習が習慣化しなければならない。計算や解き方の 手法を覚えるだけという学習は,およそこのことと縁遠い。また数,その演算,量,関係,図形な どの概念も歪曲されないよい概念を与えて,それに基づいて考えてゆくようにしなければならない。 数学が進展するのは,演縛的論理のみにはよらない。したがって子供が新教材を受け入れる(こ とを是と判断する,あるいは理解する)のほ,形式論理のみによることはできない。たとえば分数 をかけるとき,なぜそれがかけ算になるのかということは演緯的には説明できない。別の論理が必 要である。それを探ることは数学教育の一つの大きな問題であると思うが,論理的傾向を養成する ために,これも無視できない。 すべての論理形式を体系的によく解り自由に使えるようになることは,中学校やその後の数学教 育に任せたらよい。小学校では集合の概念の基本的なところの理解,それを基にして諸教材をでき るだけ簡明な体系に整えて,次々の教材を基本的なものから導かれたものとして,はっきりした理 解の下に学習する習慣をつける。その間に,具体例の助けを借りながら,論理的表現で考えを進め られる場面ではできるだけそうする機会を持つ。こうして,中学校でまとまった指導ができるため の素地-ものごとは理づめで確かめることができ,そうすることは有効なことだという認識-を育ててゆくことが小学校における論理指導の目標だろう。

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