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『宗教研究』新第4巻第2号(*34号)

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(1)

――目次――

1,

口絵,釈尊降誕像・基督降誕図

2,

大雲経寺と国分寺(上),矢吹慶輝,Keiki YABUKI,pp.1-27.

3,

看話と念仏(上),鈴木大拙,Daisetsu SUZUKI,pp.28-50.

4,

般舟三昧経の研究(下),赤沼智善,Tomoyoshi AKANUMA,pp.51-70.

5,

釈尊の降誕と灌頂に現はれたる不滅の観念,津田敬武,Noritake TSUDA,pp.71-79.

6,

正理学派に対する龍樹の論書(上),「バーイダルヤ」について,山口益,Susumu

YAMAGUCHI,pp.80-100.

7,

原始仏教における縁起観の開展(中),特に赤沼,宇井,和辻諸氏の説を読みて

―縁起観の根本精神,木村泰賢,Taiken KIMURA,pp.101-130.

8,

「大事」の地位と説出世部の仏陀観(上),久野芳隆,Hōryū KUNO,pp.131-142.

9,

怒と宗教,岸本英夫,Hideo KISHIMOTO,pp.143-149.

10,

ストラウス氏の印度哲学を読みて,甲斐実行,Jikkō KAI,pp.150-152.

11,

新刊紹介,pp.153-159.

Posted in 1927(昭和2)年

(2)

1■ ノ ▼ 代時リー■推・像言延岡巨鯨耳睾既巨嗣イヒ 7侶帥㌫帝 ;”1!,誕 陣 〉け 基

t ノ イ /’、ゾ ソ レIJソ 人〃 ア r■rl ノ 木組 川・■什・l・ √ 〃/ ノ 美 術 相 似 l一ト ノ 〃;組

(3)

1Ct

−桝分寺の創設

間分諾芸大舅天芋三年︵七四一︶三月甘四日・天下に詔して問毎に悍菜る金光明四天王

射幸真水m一寸町、実には水田

絶間之晋、撃た品華浦望晋違けしめ,僧譜は

此の時宗光明鵡勝主

十町姦し、何事には甘仰望には十撃票し買といふに偶因する。

節≡適法沌華野買十邦を焉して之姦管しめ・吏に仰㌍は七講読畠り、犬慧別に親

ら金字金光明地勝託辟Jで果して、構毎に品を安椚せしめた。

薔政納経折の誹制度は概ね北進文化の支那の綿制捜品倣し誓とは扇彗や講彗と﹁糾モ

非議糾㌢鼠照すれば川瞭であ云。特に新文化の輸入を以て丑じた沸教の綿如姉が、勢ひ詫に

於けろ先推囲の綿綱腔の膜倣と慧のが常撃あ・つ佗。尤も管此とは囲艮H仰の佃水晶にし、

大男押ヰご用分場︵上︶

大雪経寺と国分寺︵上︶

二、紙用胡の大更捏昔三、聖武朝の国分ヰ

一、岡分骨の釧敬

印、関係猫北ハの他り封川 五、翌景朝り閲元窃

矢 吹 慶 輝

(4)

G:ヱ 拭家糾枇、聞艮性情む伺うせざ一〇ものがあつたから、支那の榊煙が北ハ伯移桃JJれたわけではなかっ た。従って﹃琉紀﹄十証、天草十六年十月の條下に﹁是の時の将門の秀者は唯だ決如及び紳取扶伸二 人のみ﹂といはれし三論㍍の道悪紺帥は、大黒元年︵七〇一︶に入植し養老元年︵七一七︶に裾朝し、 ﹁愚志﹂一客を著はして僧侶の拒む論じたが、招紀にその漑粟■軍用へた中に 今日本の素綿む察すろに仰は・でわ′でーと軌摸全く大蛸追硲の魂敢の法則む梢ふるに薫れり。 とあるが如きもその一例である。然し草制付制は勿論、一般に宗教行政が支那の椎倣であつたこと は予‖ふを保たない。今述べた道悪︵天草十六年十月寂︶は招紀に法師尤も†巧に妙にして即門家の工 ︵こ いひ、 匠も皆勤服したと伯へ、﹁.大安守を中城に蓮眈氾するや、法師に勤して其の串を勾舘せしむ﹂と 他伯にlま追慈が入排の際、倫に西明ヰの間取りぉして水たので、大安事は両肌寺を模して造られた ︵∵︶ ものとしてゐる。是などは形式に過ぎないが、全く支那草院の椎倣であつた。そこで天草十三年の 閥分守則畑の金岡に封し▼ 捕捌の諸施設中にその光距となったものが無かったかどうか。後に述べ る柁に閉分苛設肝の動機には色々んつたが.先つ庸制の柁倣に古里にか否かを錮鶉する必尖がある。 それは前にしては武周朝の天授元年︵六九〇︶即ち持続天日Mの朱鳥四年に講州に建てられた大根宥綬 章と.玄宗朝の開元二十六年︵七三八︶即ち雄武天真の天草十年に誹郡に附かれた開元尊とが存在し てゐたからである。両者仇に天下の州郡に問丸寺院を設龍したものである。仰し本邦の同分尊が閥

(5)

】G3 元寺の膜放とするには怜りに申きに火する戚がある。そこで園分辛か果して天中十三年︵七四一︶に ︵二り 捕先に創設されたものでJ・りつたかどうか。それには舘然閉分♯創建の年時が先決問題でJのる。 岡分草創建の年時に就いては﹁‖本紀﹂大武天真十川︵十三︶年︵六人五︶の便下に

三月壬申、詔して諸岡毎家に彿合一で作らしめ、乃ち彿像及び鮮を舵き、以て祀邦供養せしむ

とあるにより、講同軸家とは誹同司の政務を司る宮家即ち固辞を謂ひ、﹁講同軸家作俳令﹂とはその

︵M︶ 陶腑に作れ一心仲介亨クで以て、是が囲分尊の起原だといふ説が今匂。仰し諸岡毎家の四字で諦比の ︵罰︶ 私宅と見て、天武朝に始めて1天†の民宅に彿宇を構ふるを許すしと解郡したものが普通であつた。 若し講囲毎家け用船鹿西に作られた伸介と見るのが至常にとすると.囲分ヰの光耀は既に天武朝に

成ったと見てもよい。又同じ大武朝でも、﹃金光明緯宗﹃仁‡緯盲共に諸岡で溝せしめられた、自

︵バ︶ 凪五年︵六七六︶に周分守の端緒が聞かれたといふ読もある。又﹁扶桑略記﹂宜の辟統天真の朱鳥六年 ︵六九二︶の條に 勅ふ∵り天下紙背を計らしむるに凡そ五百川十五寺.守則に炸分宿一千兼を施入す。大官大事、

発財奴碑、用々施入す。椚洪抑を改めて調刺激千斤を加へ新たに之を鰯る。

とん乙が如さは、一拍して囲分ヰにるべき準備は眈に伐ったものとも兇らる∼。天武朝の十三年︵六 八宜︶に帥分草り超脱がぁつたとすると,武闘朝の天授元年︵六九〇︶の大王折譲仁先んじて出水た 大館押辞せ囲分帝人上︶

(6)

】G4 ことに㍍る。 併しそれ等は端緒が開けたといふので、閉分寺の通日ではあつたらうが正ほの近因ではなかった。 節一朗分寺の名祁はなかったし、又聞毎に侶車尼寺一で乾くといふ予う㌧組織的剖一的のもめではな かった。暇令、その濫鮨は前朝に起ってゐたとしても.形惜が整ひ制腔とじつての閉分守は塊武朝 としなければなら小甘い。同分事の名描は招紀の弛武夫畠大中十三年正‖十五‖の條に 故太政大い勝頂朝〓、党封九千月々起上す。二千声は桁に依りて北ハ家に返し用ひ、三千声は議 団の囲分ヰに施入す。以て攻六の彿像七造る料に充つ。 とあるから天神十三年三月の詔が下る前にも閥分守といふ名桝が見えてゐる。是などは此の年の三 月以前に聞分守則設の溝が既に熟してゐたものとも‖心はれる。併し寺には三繋が揃はなければなら ぬが、陶分守の俳と法と何とは何であつたか、又如何にして備はつたか。此の際、最も流行した彿 菩醗井に辟此ハは何であつたか。天中十三年の詔一で見ても研か号るが如く﹁余光明捏﹂﹁法華粧しは凶 分守に放くペからざろものであつた。然るに是より前.天草六年︵七三凹︶十一月.太政官の奏文に ’ノ’P 彿敢の洗晒は必す阿児に在り。人S■才好一で煙りて研司む凹面せん。比凍の旧家は寧業を布にせ す。多く嘱箭に山一烏一﹂と甚に決意に轟けり。今より以後、迫俗を諭せす。掬すろ所の伎人は唯に 法華耕一部.或は満船‡粧一部小・闇諦し、兼て硝彿ノで僻し、揮わ三年以上へ仕らん者を取って得度 大空推帝ミ囲分出Ⅴ︵上︶ 臼

(7)

165

せしめん。

とあり、常時にれりて荊妻串たりし腔維公蟻の科目Lしして選ばれしは法華金光明の二郎たらしは へじ︶︵八︶ 注意すべきことでJのつた。元凍﹁令光明雑音﹁鍍紀﹂九、紳準一年︵七二王七Jl、﹁敬納骨彿﹂の詔に

固家中安の常に冊揖一でして金光明揮を詔ましめ、新し此の繹無くんば﹁敢勝‡杵﹂を晒せしむとあ

り。此の年九バ、三千人′∵腔し■t〓家せしりに。元来.金光明組に江北涼以水、欺繹ぁつたが、故に 絹ふ﹁金光明緯﹂lミ古澤S艮無識澤川谷本む指し,﹁最勝※描しは新評の鶉津滞十谷本をいつたもので ある。詑武天真以前沃古詩★川ひ、以綾は新繹が流石するやうになつた。新謬は武周長筆二年︵七 〇三︶、人中ム細事が設肌皇Jれて川もにく鐸出されたもので新に支那から日本に樽ったものであつた。 績鋸十、榊喘五年︵七二八︶十二月己北︵≠八‖︶の順に

金光明繹六十閏峡六雷門十容む諸岡に規っ。観別に守谷。是よヤ弗▼諸岡の所有する金光明経、

或は圃ごとに八鱒或は闊ごとに囲幕なり。進上至って果し仰へて媚下す。絆の到る口に随て即

ち輔訳せしむ。同家小安ならしめんが鶉なら。

とあるから.聞亦ホわ中心㍍一匂ペき金光明法華の頒緯井にその識詞仰のことは、亜武朝に在りて 天草l以前夙︿か・h侶はれたことがわかる。 ﹁九︶ 天草九年﹁七︰二七︶三日丁乱︵三‖︶に詔して、同毎に珊迦仰像∴胆拙作許磋二娼豆造・ししめ、又﹁大 大朝腫坤ご㈹分譲ハ上︶ 五

(8)

】G6 般若経﹂山部Jで果さしめた。同年八パ、閏畿内二此及び七通り諸国に命じ、僧侶をして毎〃敷皮、敢

勝王轡で識ょし聖 月毎の六西日に殺互一で朴⋮した。同月、天下大草囲土安寧の常に、宮中十五避に

於いて僧七r1.人を講じ了、大股弟紺、常勝王純一で晒せしめ、回付人を伎し、又諸国に五百七十八人

を度した。以上は天下直訴机上闇係せるものであるが、中央部では同九年九月、再読四畿二箪▼ 仰

正以下沙捕以上、鱒て∴†二百七十六人に細井に軌一で腸はるといふ程、仰月の数が多くなり、又金

光明粁は徹る塞Hされ、同九咋十パ、金光明畏勝※粁を大柿膜に溝せしむ。朝廷の儀一に元‖︹同

じと佃ふるが如きもその一つでぁつた。だから休も法も仰も訪問に仰はり、愈々囲分草細説の準備

が整ったわけでぁる。

﹁元尊称晋﹂二十二には天草九年︵七三七︶三月の郡迦像大股若維を講州に造焉したことを以て、﹁是 同舟ヰの棚輿なりLといひ、又天草十年七月、居組二市坪で囲分尊に納めるとして、前年の像雑造

常に和封臆するものと見て、仲秋は是り畔既に闘亦寺があつたやうに弛︰いてゐる。

更に天神十年︵七二八︶叩月には、周豪隆ホなたしめんが翁に、戎畿七泣に詔して、三日常勝王経 を諌ょしめたし.天中十二咋︵七川〓︶六月には天下の珊偶に令して、閥毎に法華経十部む果し七韮

塔を建てしめた。此の勅令は此のパの班午に勅して天下に大赦した稜、乾せられたものでぁる。同

年九丹廣嗣が兵を起して乱一で㍍すや、閤畿内七追の諸岡に勅して岡別に靴音像一姫高さ七尺なる

人雲搾寺亡国分坤︵上︶

(9)

】爪7 ▲■ 造り、叉﹁純音絆し十挙で寧Jしめた。此の十二年六月の閥毎に繹捲霊山果せしめた縦線に贋嗣が を 玄防む除かんことノで上衣したこしし、同年九月川畿七泣に命じて闊毎に粗菓像と軌音経とを造果せし めたことから比ると、同分寺≠揖立には阿礼中耳S碗酌の意沈もめったものらしい。それ故に天神十 三年︵七四一︶三月、天†に㍊して、閏別に同分附事たる金光明寺、岡分尼寺たる法準章を造らしめ た以前から既に同別に廿里嘩 某紺、蛙仰があつたのであるから、岡分草の準備が出水てゐたことが 知らるゝ。 翻亀元年︵七∴囲︶七月、太上大金S病む斬ろが鶉に山階♯に膜ぉ節み、薬師像ケ安臆し,同五年 八ハ、軌音便一打七十十姫イで造りて畏太子の病を斬った。天草六年︵七三囲︶正月、光明黙后が些袖 幕に西金宰で建つるや、攻六膵迦彿及び華嘩錐決、紳⊥等像を安粧した。l壬勢奈庇傭を追伸健司 の長官としたのが、天草九年八‖、玄防が侶正と行アリ、良敏が大雨廊となつた時でぁつた。加之、 天津十年八月、天下の訴因をして囲郡の間を造らしめた。斯く俳法仰が畿内は勿論天下に分布され、 又分布さるべき状況でぁつたから串靖上の囲分ヰは天草十三年前に在ったものと見て可からうと思 ふ。仰だ閥分#といふ名がその以前に見苦ら1こいと云に過ぎない。併し的確に鶉鹿東ね仰はった虹 賓としては、詔に柚かなムが如く、天草十三年からとしなければならね。 天草十三年は天草九年水の疫病洗わも下火とl;り、十二年の煩別の反乱も隼足し.恍に腔々閲別 大所叫押帝王囲分骨︵止︶ 七

(10)

8S 大酸抑専守し開分骨︵上︶ 八 に粁橡の批氾焉のみつた綾で、三野が価︿天下の結団に行きわたり、若しくは行きわにるペき状況で あつ化上に、風雨時■で得て五穀も利尻勤した。そこで正月新京に怒り恭仁宮に御して﹁宮垣未だ就らす 紹すに膵幌■で以てLして朝黒々受けさせられ、伊勢大棚非に七追訴観祉に遷都を報告され、諸方面 に於いて清新の束分に充ちた年であつた。公明 ‖本棚教は架武朝に大興隆をなしたもので、国分 ヽヽヽヽヽヽヽ 尊は従殊の郡中心の仰放が会同的に披及さる∼に至った剖制約大姉葉で、異に天平彿教の産物であ った。即ち仰常=薩にに澤迎.粟叫枇☆等の竹倣が捕に造られ、紅には時に年穀成熟イで斬れる﹁五穀 成約粋﹄あり︵天草十∵年七月︶.文面を斬らしひろ常に大安∵難帥∵冗典,興頑の周章で大典掟を読 ましめたこともあつたが︵同十七年≠バ︶.﹁金光明粁﹂と﹃決非紺﹄と﹁般若経しと﹁仁王捏﹂とが時に食 信され、之を縛証すろ︰紬城川 胱の仰が揃って、国立寺院に化して所謂r感摘Lの所願をなさしむると 同帖に、政教﹁致の軍で射げんとしたものが闘分尊である。 要するに問分寺の名印形醗が創設されたのは天草年間で、若し的碓の年時を取る打†らば天草十三 年︵七四一︶としなければなら互い。そして玄宗朝の閏元♯は川元二十六年︵七三八︶即ち天中十年の ︵一〇︶ 設置であつたから、花が間分薄か皿元‡め撞倣とするには除りに年代が接近し過ぎてゐる。そこで 店制り模倣とするには先つ抑統天真の四年︵六九〇︶に出水た武川朝の大震辟寺との㈱係を調発すペ きである。

(11)

169 タケチ 旺︵こ 大安寺は奈甚七大叶叫で大昔写して鵡L両川り苦い守で、椙ノ漑寸、Tr折大帝、晶印大寺、大甘火守ごいび、連邦ミ共 に稚潰され㍗大昔で、此り帖は近江叔から火利の新郎ド棉されて大安守Jし在ろ帖の:ミでわつ㍗。 ︵こ︶ r扶鞄略記♭六にほ大里元咋、聖武夫島が先帝の”川謂わⅢんて、大宜大井な艮潰ぜられん亨して、嗣く斑エわ求められ六 時、偶々道珪寸J郡ヾろLりが楢川より配り、西明雄結構り悶か有っ/しゐ㍗ので、そり設計lこ依りて洩られ㍗りが我川の大安寺 で・わろご申してゐろ。そ︰で情冊追加︵霊︶ご利州掩†郡の人、鞘〓氏り〓r一り本邦二読甜宗机り道忠ご別人に凡てゐろものも わろ。?邦軍用潤ぃ∴には此守り=どか祁侶艮㍊り博に記L一ヽゐろ。仰L何れの怖でも大安寺が西明寺の柿間lニよりて鱒して 造られト∵ミ﹁ム=ごに抑通ははい。 ︵三︶ 辻希ナ福相上背.﹁‖木棚取虹之榊究b 〓、一二に膏‖水化陽の草腫用談む引き、本邦の四分尋l‡庸の閲元瑚の別爬に放つ ㍗Lの寸あ拭わ拭け、問邦雄は叩ル∴十穴隼に穴†諸郡lこ班てられ㍗LのでT闘元二‡ハ咋l‡我天平十咋に仲⋮れ−で、この削 がれちl=代用に探川宇㌧れて川分守ご在りtりヾしl上北勺ふべからす﹂写して、天授元咋lニ純けらlt㍗大仰昭雄む以て、﹁北岡分苛 の削日義ヱに耽らひ・し光らんLエ︰iiはれ一\ゐろ。 ︵四︶ 同上古ハに﹁盟約揖トハヰ久∴卑十二月川帆相和祈︶む引けり。 ︵五︶ ﹁邦隼持邦﹄二∵∴不満帝十‖咋∴パわ使丁。 ︵六︶ 境野井澤代署当仲秋史論㌢五∵二正二務田。本朝り﹁肌大井川分骨り数理﹂ほ四分守の愈壷に園†ろ有益叱蕗考節約で わム。 ︵七︶ 翻助力咋︵七二四︶十八一十一Ⅴ∴十二人り附佗り名僧む将校・し㍗が、此り誓久lニよりて、仰⋮畔眈1二期拍によりてW製 に興ろの解据わ防止ぜん与し主︰亡がわかろ。特用め槍の糾ほ此の後、析武矢島廷併十七隼、同≠隼、曜哺失血弘仁用句l、 仁明大畠水利二伸等の咋分通常l二閥†る粗㍑によりて粕座か檻柁り陀弊わ矯jIミぜん写し㍗。 ︵∧︶ 以下﹁妃h並に﹁拍氾しょりの引誹lェ多く托一々椚名む列桝†ろ=ミむ精†ろ。特に和式朝り記祁叫、引川昔ね提げ圧い場 令l‡r椚紀h九から十入込の捏武大島鋸に伐つわLのでわぁ。 大喪柁砕ま阿分坤︵上︶

(12)

】70

二 武川朝の大岩紹寺

武川朝の大中㍍揮ヰは先.っ基端一で武川の蒋命に発してゐる。 川中丹ポの嗣典七年︵六九り︶.則大武后は開披Jで革めて周と脱し改元して天授と言った。武后は高 ㌫が夙妓の常に政雄に購へh㌧くヘリつた撤慶五年︵六六〇︶以稜、好捕を舘麗してH司の泰郎を#決し てゐたが、此の怖から名賀北ハl二井命を痙ぐるに至ったもので、川文イセ始融とし、拭暇に亦を仰び、

帝姓一で武とし、基の仙、諸制度七更新した。臣にして竹位に㍍たものに卵非が在ったが、婦にして

命を革むるもの﹁佃記ム∵りて以雄二千年明 穐に一人耳Lといはれ、所調音水未曾有の﹁非常之縫Lで あつた。此の非常の担に際して∵那柄となつたものには数多あつたが、大仁−ナポ縦事の起因となつた﹁大 ‡緯﹂はその■詫罷るものでJのつた。 常て元常が基の惰石たるむ痛廃した鶉め効を奏しなかったが,㍑似令焚文が喘石を献じたのもそ

の一つでぁつたし、閲申の日経九■肯伶人、百官㌫戚囲夷伸長六茜伶人が、閑に請って革命哲補うた

のも、鳳凪が明堂よ︰飛び赤雀が冊堂に基ったのも、亦速くは武后が十囲才で太宗の才人となるや、

大空搾寿ご四分瑚︹上︶ 一〇 ︵九︶ 境野窮汁氏輩当仲秋虹詣トニ華こに此り﹁挟作り二晋憐は多分文殊押㌍でわつ㍗らうか﹂ミ詰掌りれてゐろ。 〓0︶ 咋鵬な守択ざしt延僧守lェ、此のm止りでlは問丸守の膵似でわつ㍗。

(13)

17】

﹁賦姉娘﹂なる歌曲が洗宿し、庸塗二代にして﹁武王﹂が代って天下を有つと仰はった翁め、武術購来

季君茨が非なくして謀殺され、常時、太也李押凪が﹁其の人已に陛下の宮小に在り、三十年を過ぎ

ゃして常に天下に王たるべしLとの撃一〓むしたことも、偶凪二年︵六七七︶に介利を柑たと糾して光

宅尊を立てたことも、足守構非命麓醇に何等かの口鱈となつたものであらうが、基等の巾で、店屋

麓薙の卵柄仁嘩ち叩嬰な役‖を描じたものは、天授雅問と燭式部と﹁大震緯﹂とでぁつた。

庸は李姓なろを以て、徒非、氾を光とし俳七稜としたのを武川天授二年︵六九一︶−Iq月、改めて彿 先迫稜となし、制︵詔︶を下して﹁揮数は咋命の階を聞くを以て追放の上に升すLとHってゐる。此の

坪数が革ゐの鵡捕となつたといふのを諸相に大震維の識文を謂ふとしてゐる。

茜歳通天元年︵六九六︶、武后甜製の八十弗腋序に

堰最期に因む捕え、明りに彿記を承く。金仙旨を降して大震の偶、先に彩れ、玉長姉を披きて賢

雨の文、後に及ぶ

と云ってる。技に﹁大黒之偶光彩Lとは﹁大震経Lの偶文を指し、﹁聖雨之文稼及Lとは﹃賛両捏﹂の懸紀 ︵扱言︶を去ふ。此の二経文は武后削ら過去の椚田によりて、仰の柁記な永けたと祁せるもので、

武周の革命に宗敢的混鶉を附し托珊要綱仲であつた。

又同じく武川朝の大兄元年︵七〇こ五月.武氏の一族、武並祀の建碑、栗栖耐の撰文、河内大霊 火車搾寺号岬分守︵上︶

(14)

172 苛碑︵抑偶に﹁大震薄墨竹雄肺之欄Lといふ︶にも

大王は基の掲慶を発き、㌍両は北ハの殊胡を兆す。

とあるから.大霊賓雨の二粁は武川叩命と雄綾なる閥係がぁつたものとせぎるを得ない。野面種に ︵︼︶ 閲しては別草に譲り、錆には奈霹と武周革命とに就いて述べることにする。但し﹁三階数の研究﹂ ︵∴︶ 附猫二の二、﹁奈露と榊自今命トの幕下に﹁鞘漸繁り﹂﹁俳刺就記﹂﹁仰史略﹂﹁福年通論﹂等に依り

て詳述してゐるから、今基の嬰頃のみむ摘記する

一、諸仰火”ポ饉戯上の郎梢ケ梢へ、天授非命の識■で㍍したものとしてゐる。

二、大事捏中に記瓶された箱識の内容に閥しては▼1紳皇受命之野といひ1刑天は是弼勒の下生− 閤膵提豆となるLの記串を以てしてゐる。 三−大狛露献上の年帖毛細年始諭﹂一ど除く以外、諦伯竹載初元年七月としてゐる。

四、新繹大震錯た閲し﹁鞘仰望は偶撰となし﹁彿仙統記しは勅繹となし扁虹略﹂は訳詞となし﹁迫

艦﹄ほ此の時の大公紹の軍数を四谷としてゐる。

︵三︶ 以上四境は㌍するに載初・光年七月.大震損文中▼捕瑚下珪の授記︵辣言︶を以て、それが正に別天

武后が天命を受けて王者たるべき洩記だと曲如し、大震粧宰晶子に収拾し・仇て以て天授非命の

改をなしたと開ふのである。そこで問題と打でるのは何故に奈露■で利用したか。大事種の如何なる

大空拍寺子阿分寺︵上︶

(15)

173

部分を如何に曲解したか。此時の位用された大事経は発揮か新繹か購た抄評か。詳細は﹁三階数の

︵五︶ ︵円︶ 研究﹂型二部附筍 二の五、﹁大事粧の佃凍L、同じく二の七、﹁大事躍と乱文井に疏﹂に述べたか、

今本清に必要な緊項丈を略記すろ。

大霊揮の名祁は本緯の補間新.大中完減華薩に起因したもので、大雪辟、無想軒、大雪無想杵或

は無想大震経とも呼ばれてゐる。大霊の二字を冠せる絆此ハは東部に属するものを合せて東部程ある

が、技に謂ヰ大黒経とはー識丈の此本となつたものー北掠曇無孤評の大方等大事︵無想︶経と解秦竺 彿食滞の木霊無想経との就れかでJのつて、緯餓其の・仙から見、且つ現存の紆文からすると、塁無敵 謂大事雑を底本としたものらしい。此の識繹は北掠玄始三年︵四一四︶から同十年迄の間に凍郡内兆 苛で繹出されたもので,五空ハ幕囲怨或ほ九十酔紙と伯へてゐる。油艦には武用大震粁む四怨とし

てゐるが、今基の本がないから判然とはわからない。

前に節円墳に武川火中需鮮を以て﹃粥川購しは低域となし﹁統記﹂は勅繹となし﹁仰史略しは珊評と決め

て居ることを記したが、興しむべきは軟評なれば獅変ら椙りに珊評でぁつたとしてもヨ叫周刊定職﹄

以下維故に其の鮭渦を朋絶して屠るペき竿だのに、その串のないこと是である。武川胡の大事鮮な

るものは暗から暗に非り去られた戚なきを待なかった。

然るに偶々、大英博物椰減、スクイン戊煉焼山土本小に欠損破爛の一晰片があつて,その内解は天 大虔細専電阿分強︵上︶

(16)

大窪搾寺ミ囲介守︵上︶ 一四 川 控強固や贋式部や符明国縫識や大震鮮などの、所謂、武周革命の識文の何であつたかを語ってゐる ものである。以下、暇りに本晰片■で﹁武后登極識疏﹂と名けて叙述を進めろことにする。合冊天授空 風のことは鞘新捷群にも其の文を載せてゐるが、廣武覇と澄明国縫識と大震経とに閲しては︰般に 判然しなかったやうである。仙り研究先細は別として、滋には大書揮乱文の∵順に就いて述べろ。 現存識謂﹃大館宥維﹄は六準二十七根皮︵串︶より成り、軍歌の分放からすると、六客車の稜三谷は節 三十六▼ 七の雨咄授を説明したもので、大略、第三十六、七咄皮が仝粧の半ば一ピ占めてゐる。今﹁武 后発揮誠就﹂巾、大野水練文を附押せる部分からすると∵那三十六根皮の華徳碓羅門が提噂通多及び六 群比丘の恥や舎利供養の折を彿に尋ねた一段と、第三十七触肢の印光天女授記の一段とが正妻なる 部分を占めてゐる。掟輩遁多の悪逆が羊柿力位なりとする‖小憩、即ち大柿現逆の説は沸教の捕池で あつて正道ではないが﹁賓雨持しから頚椎すると此の〓伽は武后の非違を沼疏するに好布令の文字で あつたらしい。 ︵六︶ 現存経文と武后雅相識就との∴々の対照はコ二階敢の研究﹂附鼎二の七▼ ﹁大霊紺の識文井に疏﹂に 猛りて、今唯だ如何なる経文む武川非命の懸應としたかの大要のみを述べる。 大震緯節二十六根性に、善徳が介利供養を志訳す一〇や、梨見売子が偶一で以て介利は容易に得べか らざるを椰々の幣喩を似て説明してゐる。例へば憤河の一触沈巾に沌北が生えるとか、拘用羅凪が自

(17)

17Jl

くなるとか、鮎に毛が年号それで袈裟か山水るとか、蚊の脚で人の渡れる椅が出水るとか、小舟

に須洞山を載せ得るとか、鼠奴等が兎の狗に維♭て天に登りて月一ぎ食ふことが出水ちとか、凡そ是

等の不可偶の殿定が訳し欝現するとせば介利が狩らるるなど∼云って殆んど介利を得ることの不可

構を説いてゐる。

そこで﹁執成しは1前に那を光宅に聞くLと云ったり、﹁軸受武后︶天下に臨御して頻卜′に介利を得た りLなどとして,武同朋む血て碓井正法の約世だと謳歌した。此の介利云々は恐らく偶凪二年︵六七 ︵七し 七︶に光宅坊構術の北で石函を掘り出し把握が・不忠誠にも俳介利萬怜粒な得たといふ佃説に依っ たものらしい。武周光宅の改元は申㌫の嗣鵠元年︵六人囲︶九月で、武后は中㍍朝になムと露骨に弘 奪の奥の手ぉ出したやうでめる。そこで,﹁武后登挿識しに1前岡如於元警の対句として﹁今衣・應於d 城初こと言ってゐるのは二・=ふまでもなく城初元年七‖S・奈霹上衣の脚末な指したものでめ一心。

そこで木霊杵姉仲は恐らく光宅の由から計訳されてゐたのかも知れない。支那では此の俳令利が非

常に苅婆融されー例の押返之の俳骨衣の如きもその義軍で語り佃へてゐるもので、光宅⋮現の彿

介別の具備は別として、兎に角此の錮仲は宗教が政約に利用され托一例であつた。

﹁大崇堅には上紀二人,華紙製見の問答ぉ経へて、故に渾元天女′でして、此の二人の過去をー!ミlは

しめて左の本姓椰に移ってゐる。

大技挿守モ紳介専︵上︶

(18)

】7G ︼六 大要柁郡ご囲分守︵上︶ 過去阿仰舐劫に同性倍加非ゐ♭、畢艶城に在りて大事緯を説いた。時に挽王の大柿進離王、王夫 人の護法、大口の法林衆、常共に彿桝に詰りて合利の可特不可得を論じて、彿及び弟子廊阿男の榊 潰哲受けた。そこで観‡は同性脛俳の前で顧■で敬し、未凍梓迦彿出世後、法滅の畔、出家修喝 渾 戒を帝ちて大勢力を基し、破戒や怒行の比丘一で﹁騙接して遊方無伽決起王至Lらしめんと。夫人も弟 子の僻糾明も亦この蔚を敬した。渾光天女は此の本姓沼に因みて如殊に控記︵投首︶を論うた。此の 授記の一節が忠想外の意味に摘じて、恰かも瓢箪から齢が飛び出したやうな串件となつた。授記の 内容は次の独りである。 丁ショウカ その時の大臣は即ち今の誇徳で、華徳は梓迦の滅後訂二十年、阿叔迦と枕して闇渾提に王となり. ﹁大日在を縛﹂.又﹁大に介利一で得﹂、護持正法の大葉をなす。渾光天子は鱈に此の時の王夫人でぁつ フしO J﹁− 汝︵浄光天子︶、彼の彿に於いて押く一たび大粒整鮭を聞くことを待、是の因線を以て今天身一ピ待、 ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 我が揖他に仇ひ彼た深溝を血くこと一で得たり。是の天形一ピ捨て印ち女功一で以て闘士に王たるべし 又云く ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ .汝、爾の時に於いて署に是苦醗、衆生を化せんが承に現に女身を受く と。紆文中に偶、﹁自在を柑﹂の語めるや﹁執成しは之を解滞して這は﹁紳畠︵武后︶が載図を降伏して

(19)

177 威力等しき無き﹂の意なりとし、絆に﹁晒翰王所統細の四分の二軍得Lとあるは、﹁今紳患︵武后︶が而

悌押掟の一天下に王たるな卜、若し弼翰王に比せば即ち四分の⊥是行了り﹂と断定して支那の帝王た

るペき預言ならとした。又1女身を以て同士に王たるペし﹂、﹁賓は是れ芋薩.衆生を化せんが焉に現 に女身を受くL、﹁外道溝邪異見Jで鵜伏すL等の絆文は其の嘩 武后に滴用され、経に﹁大自在を得、

五城を受持して軽輩夷となり、川根の城︰巴取落邦子女人大小を教化し、五戒を受持して正法を守逃

せしむ﹂といへるに射し、﹁榊畠は晋練成を挿すLとし、肯姓む教化して五紙一で受拝せしむ辞と云っ てゐる。尤も武后は嗣理九年︵六九二︶五月、天下に令して屈殺栗捕を禁じ、嘩久親元年︵七〇〇︶

此の林⋮を附いた。市姓一で敢化して五戒を受持せしむとは恐らく此の新のことむ指したものらしいが、

縄光凶惑を托はんが鶉めの朱避のにに過ぎなかった。又経文に﹁人l七城盛にして漉粍痛苦愛惜恐怖 醐難あることなく、一朝芋粥を成就し共通す﹂とウ0は、武川朝の大〓ポ姉にして亦忠を並すもの は子孫繁Hにして安無を得、改姓新は土天罰む降して〓滅せしむるの意ならとして、武后が川の宗

宗ぉ嬢滅した非違の耕疏とした。

更に﹁大雪紹﹂銅三十七咄便にも押北天子に閲する懸記の一條がめる。絆文に云く

唯だ刷くは如兆よ、絹耗姓の購に、赴の天女︵浄光天子︶米兆の郡わ耽さtよへ 鶉典子、沖今諦I=漁り、北面に之か耽くべ・し。カ健か以ての故に北沢弗L己りて七甘坪後、赴の博大竺ド︼小浦わり、名けて 火求相中ミ周分呼︵上︶

(20)

78 大望押♯ご阿分キ︵上︶ 一八 無明ゴ〓ふ。彼岡に河わり右りて黙冊ごHひ、南澤城ぁり名けて熱穀ごElひ、非の域に王わり名けて牢染ご‖ふ。其の玉大人 一女わ種山〓†名りて御苑ご‖、宍小机︶。非の王囲土此の女な生めろわ以ての故に、票水難熱に・して快㌍掘り写し。人民蛾娩嚢 祝痛苦亜用恐怖組緋わろ、=ナ〃く、一明岩耶か成就J典赴・し、開比の諸よ成光りて師励†。 宥秀のほほ鎌瀬に・して立代†。北ハのγ㌔忽然ごLて崩御わ免れざりき。宵の時、綿指帥ち此の女か準じて以て鷺闘わ椙ぐ。女、 眈に正む受けて天下み威伏†。m渾沌叩、所有脚土、悉く氷りて林野し拒泣†ろもの光L。女王は‖准lニ邪見わ緋状L、彿舎 利わ供韮壱んご欲†ろが甥の故に遍く間作鑓lこ七質塔み鱒、†。︵中略︶浅か誇りて沖戒わぬつもの有ろかjLては伏隼恭敬L、 破戒号して正江わ持つもの有ろわ、jLてほ呵葦建碑L、滅びて餞無から﹂む。晃年して十洩超畢な修習J、五戒わ受縛・し常窮な 耗訝して無塵一切の衆化わ牧草L、大聖掩わ祝いて以て北ハの心な誹ふ。 と。斯くして浦二十年、大雪粧を受持し詔詞し聾果し解説し、葦泣きて女身を輔じ、無塾碍彿の安 里駒に生じ▼ 畢に如⋮免劫を経て作彿して渾資材長加水と成るといふのが武后に射すろ怒記なりとし て識文に擬せられた大要である。是等の経文に対する﹁識疏しの解粋は在の如くである。 問うて日く、終に披りて壌を取るに此の闘士と同か不か。 答へて日く、加水の説教陪臨不同あり、前節四谷は︵大釜維六谷中の前四谷︶桁数なり。徒弟六谷 は隠致な♭。彿滅後を計るに今に至って一千七百年打†り。繹に皿だ七育と云うて一千と言はぎる ヽヽヽ は此れ階数な♭︵中略︶。南天埜と言ふは此の他線ペて走れ而闇淳堤研翫の境なろが故に摘と耕す る行丁り。又鶉に日く、大枇婆哩諭に四諦を痕て以て四方に配す。南方を名けて迫諦と圧す。泣は 謂く八正、八邪を以て即ち耐出石泣の君たるを踊はす。指摘の化の故に惧だ摘と言って除を云は

(21)

179 ぎるな㌔卦卦とは禁U・此に月と云ふなり、月若し出現せば必ず二摘めb・一に捕掠を作し二 ヽヽヽ に炎熱を除く。和良の抑宇、斯の二偶に同じきが故に天竺とロムなり。一小囲ありとは︵中略︶大 店の固、岡澤提を統ぶ、四大下に比するに即ち小国なり。 ヽヽ 名けて無想と日ふと言ふは即ち前に維に云く、渾光天女−無想三昧を修す。故に囲を知恵と名く る捏了り。今刺急か修すろ所の勝差常如誠、人衆生等想の故に、観を無想と名くるなり。 0 ∩▼00 紆に日く、彼の圃に河あり課河と名くとは、但だ珪死を河と名け煩悩智罠と耕す。即ち翻余輩薩 慈悲化珪を賦は寸。大河申に於いて煩悩一ぜ除くが故に。又荊に椎るに、武氏は羽姓にして北方に 在り、北方色郊、羽又水たり、故に貴河とロム。凱水姓を成すは即ち黒衣を来す︵中略︶。伏して 承るに、刺真幼少の畔已に細版を披たり固に惟るに黒衣の義なり︵中略︶。折に日く、渦岸城あり 00 名けて熟穀とロムとは次下に緯に云く、基‡陶土、此の女を珪するを以ての故に、穀米豊熟−快 緊縮うなしと。故に熱敷と名くる捏了り。又鵡にHく、此の駒の茄河.串照仙水に解す。其の河の両 ︵八︶ 岸城即ち紳椰.五穀熟成、絃の‖に屈す云云 その牽瑚附令婿に放くペきものがある。文小、﹁刷−皇幼少の帖.已に細批を披托りLとは武后が嘗 て成業守の月たりし窄云ふ。武后ほ貞如十一年︵六三七︶十四才にて太小ポの才人となり、同二十三年 ︵六田丸︶太宗の脱するや、二十六才で娯御と共に成業尊の月となつセ。併し山前宗が父太㌫の淡に侍 大電軽呼号国分甘︵上︶

(22)

】SO 大丞推守ミ開分譲︵上︶

二〇

った峠、悦に東新に蒸すと倦へてゐて、高宗は元と武氏を愛してゎたので、偶、太宗の忌日に♯に

詣でゝ武氏の沌くのを見て埠 宮に内れて対偶とした。永徽∴ハ年︵六五五︶遂に‡真后が贋されて武 氏が金后となつたのが三十二才でJのつた。武周革ゐは中宗の嗣甥七年︵六九〇︶で武后が六十七歳の

畔であつた。此の﹁識疏﹂は恐ら︿此の頃に古かれたものである。

新たに拗飽から〓上した武后畳梓識襲似通︶は前にも述べた通り.大震綜の外に紆桝田線識、贋

式部、天姥堂開基の他の抑孤を解説したものである。内容から見ると和明固線識が堪ろ先安であつ

たやうに忠はるゝ。音別囲紹識は大基柄物鞘減.スクイン嘉本第千二百五十二批﹁評語火本国緯﹂。 ︵九︶ 巴里閥民問洋館鱒.ヘリオ木型事亘二十六批及び二千申八十六兢の﹁北=賢菅薩混此和明辟﹂﹁紆香

火本国紆を指したもので∵倶に今日迄迭群であつた。帯明国縫識とは、符香火葬因鮭を指したもの

︵一〇︶ で、識文舛に疎は﹁三階数の研究﹂附鱒一の六、﹁詮朋因繰識疏Lに詳述してゐるから.技には提識の重

要頃日のみを列探する。

大雪終末、津光天子の説話には夫王の崩嘩女王たるペき授紀あるも、弼勒の記恥がない。武后

は天授元年︵六九〇︶に斐榊畠帝と糾し、畢寧一年︵六九三︶に令噛尭紳鬼帝と加批し、同三年︵六九 四︶には越古令愉華紳皇帝と加地し、更に符斐元年︵六九空一円には嘉氏越古命翰弛納金帝と加耽

した。偶、同筆打、文武宜九〓川以上が封串む上りて撞課したので、慈氏越古の竹耽だけは除去し

(23)

18 †4トレー† 化が.その代ら同年九月、天冊金瓶堂紳皇帝と耽した。慈氏は言ふまでもなく弼勒の評語である。 金輸は輔輸王に金銀釧餓の囲相ある中、その甘位の輪王たるを自耕したもので、大事経文から出た 閣渾提琵のm心悪から凍たものと思はる∼。武后は沸教では彿滅後永い問彿敢従の希望の光らであつ た弼勒の下生と胱し、硝醸葺の〓現にとし、又支那‖心愁では盛んに大の文字を位川した。年兢を天 浮、天冊茜歳、茜歳油天など∼名け、自らは天冊金晒並翻皇帝と脱した。則天の′洗は中宗が位に彼 た翻親元年︵七〇五︶に一度、則夫大典曳帝の令兢を上り、武后が大潮の期近くや、帝桝を去♭て し 刑天火詑亀后と桝したのに起因し、則大島后は玄宗の開元十川年︵七二六︶の迫就であつた。永昌元 年︵六八九︶、武后は〓ら名を改めて些と榊し化。此の合成文字が何を象ったかは明瞭である。想ふ に則天文字も亦州天受命の意を拭したもの∼やうである。その巾、彿敢S糊湖下珪の思想は支那六 朝以水、川になつては特に法如宗の勃興によりて櫨になったもので、阿州陶俳放たる浄土教と中神し た思想であつた∩拗て武后が珊瑚り下井としたのは何に伏ったか。﹁武后登相識疏﹂の文からは昔明固 ︵一一︶ 線識即ち﹁打香火本国紺﹄に基いたものとなつてゐ.る。その引文は併しいから、別詔﹁火揖経と武伺革 命Lに捕るが、 誰んで接するに、弼物とは帥−り榊真の應なト。渦勒とは梵語なり、此に胸じて基氏と云ふ。探す るに耕作終に云く、慈悲心を女となすが故に、紳畠は常に其の鴻l二分すべし炎 大祭抑♯ま囲分瑠︵上︶

(24)

lF2 と解押してむろもりがそれでみる。 帯明因描誠に止1凶隼で誅出し天†で粛清†Lと耕して捕※殺慧の非行一で描適せるものやl 武后︰パ″ 先方大原か上田て榊和に在ごの夜●∵=や、武后が束龍の服を着たり、新豊の炭山に刷通が涌出したり 大白掲寺に飛雲聞が出奔たり.基他、打承火水同種文ぉ膳手に取捨して、武川朝に著しき串蹟に附 骨し謳歌したものであろ。﹁符備火本国緯﹂は偶紺といふよりも追放抑州ハに近似のもので.又恐らく 大震鮮ヰと密接の閥係あろ大‡光明守は摩月設と聞係がめろ如く雄測すろ人もあるが、詔脊火本国 揮に擬せる追放鬼眈のものであ′11ノ損じ併し本持は武川朝に偶作されたものでなく、その以前より 行はれてゐたもので、それが偶、爪川串命に利川されたと謂ふに過ぎない。詳しい粥は別常に語る。 前に武岡湛命に摸も丑要七新柄一で供したものに大雪捏、天授鞍闘の外に構武郭がめつたことを述 べたが、天柁弗闘のことlま辞評へ仏どに二出てゐるし、又大事緯は﹁武后登締胡瓜しから桝かであるが、山 水−戯武威なるもの∼常文が判然しなかった。然るに走亦武后登挿識融から柄にさる∼こと∼なつ た。その銘文の一節申に 歌H,非一郎非知、交レ七兼レ身、傍山之下到ヨ田地人一 の漕が・のる。﹁非新﹂とは﹁歌〓1−の前文に﹁化彿葬より氷りて頂を摩して受配JでなすLとの語を承け陀 もので、大婁雑文を預想した背きガで,のる。﹁交七満身Lとは女字だ卜しし、1仰山之下到︰拍雅人−tは諦 大勇柁骨ミ椚分守︵上︶

(25)

18さ ︵一二︶ 字で、帝は山︵傍山︶と出︵旧例︶との合成で、要するに姉即ち女詫の意なりとした。天柁弛固なるも

のは﹁漸俳聖后妃梢では武后の一門▼武承嗣が惰って洛水の石に款し、捕同藤をして朝妊に赦せし

めたものとしてゐる。演武銘も亦恐らく同様の連絡から現はれたものであらうが、牽強も此に至り

て極まれもと謂ふペきである。

要するに大事緯が武川革命の附梯となつ克とすることも﹁誠洗﹂からだけすると解党曲耶に過ぎな

いことゝなる。識疏は六幕の崇無孤詳−大事雛を耽りてゐるから、此の時の大事紅は薪繹とも蒐鐸

と皇一昆れないもので、又偶鐸だともされない。擬誠に必栗な経文を晒用したといふに過ぎない。

尤も識胱む棟準とせす、紀樽を根城とすると、大事経文中に、武后・で洞勒に附骨したことになつて

ゐる。此の意味に於いては碓に偶綴である。

以上武后正極識と現存曇無識評の大事経とによトて、大棺蒜が如何なる忠魂で武周非命に識とな

ったかを見た。併し武后韮梅誠なるものが﹁火事経し文を引いた桝は現存の於無識繹以上に出てゐな

いが﹁油鑑﹂には武川大事緯は四幕としてゐるのに、武后韮極識は六容の大事揮お取ってゐるし.又

綿博大掌紋を上りて、則天一旦洞勒の下生としたと佃へてゐるから、土光火事雑文の如何なるもので

あつたかは識疏だけで師首は山水ないのかも知れない。

大事終末によると押北天予は火‡を嗣いで女詫となり、無地の衆珪を敢蝦し、大岩組な説いて其

大館揮守ぜ紳介呼︵上︶

(26)

1と事4 大豊搾寿ご阿分専︵上︶ ● 二四 の心一で調伏することになつてゐるから、武后は大霊鮨豆よりて武川朝を肇め、岡崎に大震緯を天下 に頒布するのが筋邦始りに弊行したことになる。 大震緯♯の山水ほざつと上越の如くである。前に﹁令石輩福﹂六十四所収の河内大震詩碑のことを 述べた︰か、それによると此の守は元と桁文帝の建てた長毒草を改名して大霊草としたもので、大事 繹草は大王幸とも耕せられたことがわかる。金石輩編六十九に溌ヤポニ年︵七〓︶据碑の涼州衛大雪 守碑がめる。碑文小、 大霊♯は育涼州牧張天職が卯年の年に澱く所なり。本、宏減車と名く。彼、改めて大震となす。 刑天大理真如▼臨融の‖、創めて諏州に各火中言問くに因り、陥って兢を改めて天順風となす。 とめるから、武川主なつてから巫〓の宏減尊を改めて大宝寺としたものである。長安志に傾注城東而 隅の大”ム錐寺のことむ記して、武后の時、光明ヰ侶再‖涙が大震轡で進め、紹申女まの仰があつたの で名な改めて大震綽寺となし、遥に天下に介して毎州に一大霊揮守を描かしめたと佃へてゐる。若 し東大♯む紙用分草としたといふ梢説が輿鱈だとすると、此の長安の大震緯穿と地方のそれとは日 本の閥分ヰにその形式が似て居一匂と∴︰=つてもよい。又﹁令不純詔﹂十二に裁ってゐ今後周大瓶の贋舶 三年︵九重ニ︶に据挿した大㍍寺値鞘籠記は青州船端邸順の大宝寺内壁花の佗膳一で記せしもので, 伏して以るにジ円山大震守は未だ基の始祉の時政知るべからぎるなり。阿て青枠を兜るに云く、

(27)

】8∂ 関金年中、骨て修建あり、桐し幸は峻視に居り地は基郊に枕するを以て、弗像の凌夷を祝.粕藍 の荒磯を見る。 と云ってる外、武周朝の大震尊たる記薪はない。訳し此の寺が武周の大震粁守の一つでぁつたとし ても,涼州大中lJヾ守.河内大中宥輩.惰拉坊速の大中宥粁草と共に、武周朝の大震ヰは郁雄在った尊を改 捕して大里ポ捏識の‖現を記念したものが多かつたことがわかる。 聞元寺ほ貼らく未満侶梢の‖次だけで見ても、各地に此の名の事が在ったことになってゐるが、 武周胡の俳授記事は同相中に二三散見してゐるのみで、大霊粁尊の名は見澤・らない。情義倦から見 ちと俳授記事の名祁も大霊緯の柁記と㈲係して出た名祁のやうに想はれ、肝⋮時に在りては中火に於 ける邦妻な守であつたに加速ない。中火地力に在った大ご維寺は大王緯惰造恥井上融画してゐる上 に、申㌫が榊親元年︵七C五︶に位に復してからは組べて武周朝の制便を止めて、損慶以前に祝した から、大震尊の桝兢は除り長く招かなったのではあるまいか。併し現に涼州や河内に大震事があつ たのであるから.一帖は天下の各州に大竹ユ‘緯尊む山何勝配臆したのは串野でぁつたに知遇ない。 以上に述べた研からすると大震雑事の設躍には 一、武川非命の卵疏に利川された大公粁識の山北他に出たこと。印も侶朝が天下に侶を失はぎらん が謂めの策略に関山したもので、其の川異教なる信俳の動機だけから〓たものではなかったこ 火辞柁帝王囲分場︵上︶

(28)

1鋸 tと0 二、此の時の大望踵は識現存の﹁識琉﹂︵燦焼損土本︶からすると埜無識繹の﹁大やポ経L文の一部のみ

を任意に選び取ったもので、大空鮭に甘通せる金柑の宗旨の信仰術前のためから甘たものでは

なかったこと。

三、威武銘も天柁艶聞も常時の間識符瑞の信仰を利用せんが秀めの構造であつたが﹁大事挫﹂と

﹁貿丙種しとは偶造ではなかったが牽強附骨の曲解であつたこと。

甲現存の﹁識疏﹂からすると、隋代の惰饉であつた﹁静香火本田緯﹄に絞りて、則天武后を溜勒の

下生となし−﹁大‡鮮﹂文によりて武后を渾光天子に擬し、武川融お企利成得の正はの治世とな し、支那に女帝たるペき懸記だと猫耕し、更に﹁畢耐拝読大柿現泣のm仙想によりて武周朝の一非

速を粁誰したもので、徹頭稚児正法治化り輿悪から出たとは溜められないこと。

五,劉界は﹁胴元放しに﹁天授邪三野Lと言ってるが、そは則夫武后七弼瑚︵仰︶とハ与し、大震鮮等を 綴︵法︶となし、之に後に述ぶる偶仰︵仰︶恨鴻等一味智以てしたことJで指摘したもので、沸教如 上に極めて柿ハuる一例であつたこと。 六、要するに大中ポ抑尊の設龍は武周朝出lもするも、支邦彿放出よ卜するも怜♭香ばしからざる

事躊であつたこと。

大密紆寄せ阿分守︵上︶

(29)

18丁 の講翫が此の準仲に榊綿してゐ化ことが注意さる∼。︵未ハ空 旺︵こ 本草の籠林は近刊捌骨コ二階軟り岬先払附斜二り二、﹁大祭純ご武川弗ぬ﹂︵六八五−七大二︺わJl海婁し㍗掛合が多いか ら、一々引氾わ堰けろこミわ軍略・して、同薄か引川†ろ︰ビ∴トニ†ろ。 ︵二︶ 冒一隅収の研究やハ九五−七〇二。 ︵三︶ 叫㍍銅盤六咋ハ一ハ八九︶に永=日経軸の二年拭わり、舵和の吹元lェ十二月で、大蛇攻元に嗣畏七年九ノーでわつお。 ︹四︶ 冒一隅秋の研究し七一六−七二〇。 ︵五︶ 問⊥、七三六−七初七。 ︵六︶ 同⊥、 ︵七︶ 終盤諒。 ︵八︶ 原文li三隅耽の研究b六九二−六九三。文叫多くの則夫文字わり、今鵡宰ド吹む。 ︵九︶ 椚衆純‖墜一︵結一り一〇一ポ︶に曹捏華−球祝此沌明経年鱒妄り申号崩しくゐろ。 ︵−0︶ コ二隅釈の研究卜七二〇1セ二人ハ。 ︵tこ 同上、七二Clセニ古ハ。 ︵l〓︶ 祥細ほフ︰齢秋の研究♭ヰ一九−七三〓狩川。 大店柁帝王囲介守︵上︶

(30)

188

締宗に公集と云ふもの一、又は話頭と云ふものがある。而して此の公案又は謂疏に封して∫夫・帥

ち柿的畏怖とでも云ふペきもの中−運らすこと一で、﹁石Lるとも云ひ、﹁盤しすると・も云ふ。これが﹁宥謂﹂

の語の由来である。棉的思惟と云ふ文字は北〓油に位はぬが、ここでは、一個の公案につきて、一その

鶉を棚得せんため、心の仰くことを概括的に云ふのであえこ知的論理的忠椎とその趣を英王するの

で、暇りに締約と名づける。諭歩の進むに従って予の朗読も明かになることであるが、兎に乃石

請の心理的方面む研究して、これが念彿と如何なる適に於いて交渉を石するか,ど見たい。締宗祁門

の人々は、維々祁円満に椛るので、宥謂と念彿などと云ふと、何か一和の早倉鮎ぉして、それは蹄

を念俳化せんとすろ企でぁると想像する。併し此諭の著名は全篇を通じて純粋に坤問的立場を維持

したいと偲ふ。

㌫致鮮検は全人の生前の上に於ける鮭励であ一〇から、公人を構成して居る諸般の心力が、その中

前脚描ゾ、念俳︵上︶

看話と念彿︵上︶

鈴 木 大

(31)

】紬 に働いて屠る主は諭ぉ供たぬ。併し個人と云ふものが認めらるろ以上,各仰の宗放縦徐には、亦そ

の人の仰性が譲まれなくてはならぬ。而して今その型な大別して知的と偶的とする。即ち知的嘉政

経碗と情的宗教経験と云ふものを認めるのである。併し此意味は知的なるものに偶発は全く欠けて

居り、又情的なるのに知性が少しも存在しないと云ふことではなくして、只各自の描藩なる畔性が、

一は知的で、一は憫的でぁると云ふに過ぎぬ。知の中に惜かあら、偶の巾に知がめることほ.宗教

杵喩ぉ金人の辟駿と云ふことで、充分に了解せらると信す。黙際吾等の生活の上に於いては、知と

憫と意と、千椰茜梯の度合で.舶錯綜し、細作用して居るが故に、畢問上の分類などは、特に定規

的に常てはめらるペさでない。

予は締約縦蠍を以て㌫敵組忽の最も知的な型でぁると見催すのでめろ。

・それから知的にせよ、蛸的にせよ、すべての宗教粧廠は醐秘的意識の自覚に到りて、その意義を

全うするのである。即ち宗敢経験の珪命は紳秘的源泉から流れ出ると言ふのである。榊秘的意識又

は意識の紳輔的偶感とは、櫛試で云ふ悟りの郎である。締は悟と同一簸でぁつて、怖なき越に締は

ない。悟とは又見件のことである。見性と云ふと、﹁性Lなるものが帽足せられて、増蛮的存在であ サムポーす1 るかの如くに思はれもする。それ故騨に悟り又は紀兇と云ふたガがよいかも知れぬ。鬼に乃締約 珪椚の基調は楢である、釧路的意識の認知である。 宥持せ念彿︵止︶

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190 三〇 宥隋ミ念彿︵上︶ ︵揮ほ情でわろ=ミ和光詑†ろまても光いやうに息ほれ・力ので、此ト音弾着の文わ引くこご托止める。班ほ別lニー焉か革†る横 付わらんL知れn。︶ ﹁中常心是迫Lと苗泉は云ふた。榊私的意議なr云ふものが稀にあ去かと問はれるかも知れぬが、 それは耳場の加速である。此では心理畢的方面の考察を専にするのであるから,予はやはら紳秘的 意識なるものを怒めて、それで稀経験乃軍需教程唸を加而したいと思ふのである。それまでは紳秘 的忠誠には何如なム特性があつて、中常心的意識から拓別せられるかと云ふに、これを列森すれば 大冊左の如くである。 節一は、言給不及。富来で言ひ損はせねのは、すべての成仰の榔性でぁるから、納経的意識も一 椰の戚惜かと考へらるかも知れぬ。が、此場合に於けるい冨給不及は、鰐に了知分別の認識性を経れ て居ると云ヰ醐締的意誠の消極的方面を示したのに過ぎ氾。粁瞼が如州にも裾経であるので、ま詞 と賀詞とを分つべき碑隙がない。従って判断と云ふものが〓凍ぬ。柿家ではこれを冷暖白知と云 ふ。富来の作用でその境地を他に佃ふることが不可鴨であるとの窓であろ。 第二は、一椰の恕識性を帯びて居ることであるが、此は今も言ふ如く.普通まおを晶けた認識で 打てくで、究客を同一にしセ状膿に対する内的知螢であ一わ。紳秘的意識の戚傭でないことは此凱で列 即する。それは戚受でなくども認知でぁるからだ。

(33)

19l 第三は、その椛成でウリ。頑−紳秘的鮭搬はそれ白根が叔彼のものである−それから何威か外へ敬展

するとか▼進出すろとか云ふことがない。﹁かうだ﹂と云ふことが、此蹟で認知せられた以上は、そ

れを否定することが出凍ぬ、﹁さうである﹂と他から亦これ患‖定するより外ない。彗を見て此は白

いと云ふたとすれば、経れも此に封して何等の論難を入れ能ふ伶地がないと同様である、推珊的津

はない。紳秘的意識は常心自評寸底のものである。仙から此柿成を犯すことが出水ぬ。

都田咤.をの没我性である。柿成哲冊びた紳秘的窓識と云へば自我の念をその本褒として居る如 く思はれんも知れぬ。が、此盛には﹁我がLと云ふ意識がない。琵客を淀如した塵でJのるから.そ

の無我であるのは、諭叩上常に然るべきであるが、今此に没我性であると云ふのは、推理の結果で

レバリレバズ

なくて、欝地溝諭の上にかくの如き境地が円ら捌けてくるのである。締組⋮に、﹁浅水洗現助郷胡現Lと 云ふ言薙がめる、紳秘的忠識の没我性な言ひ詮べきものでJのる。予は是を受御性とは云ひたくない。

第五は剃那性である。紳秘的意識は忽然として凍て、忽然として去るものである。既に没我の情

態であるとすれば,理紛の上からも.本質的に永紹性を石たねは明白である。﹁清浄本然∵宕何忽生 山河大地Lと云ひ、又は忽然念剋など云ふ文字哲見ても、此﹁忽﹂の一句子に、火に心理的立場の

合まれて居ることがわかる。

叔後に.これは翻秘的意識上のもの∼職級ではないが、これに必然と附随して凍る戚膀がある。 †駆モ企●︵上︶

(34)

192

三二

窄詣ミ念彿︵上し

それは安寧卒研の心柿である。求めたものが独られた、倦みが蔽やされた、術くべき越についたと

云ふ戚じである。﹁水到混成﹂の境地である。それからヌ此心埋的絆鱒で土基にした督埋は.いつも

汎曲論的、又は内在的一榊諭的傾向を新して居ろ。沸教のやうに始めから汎醐諭伯仲向を和すろも

のはー固より益々そのノ仰向む苗潤するやうになる。基数の如き超越的一両諭暫邸一で有する㌫放でも、

紳秘的意識を醗得したもの∼所説には、著しく和人合致の思想を跡つけ構ふのでぁる。をれがため 此種の教徒は往々にして異端満と石像され、迫㌍Jでうける。緯の如きは明白に草木闘士悉皆成仰の

思想を鼓吹するが、押上ルポの㍍旨に在りても、此遁の椚息は見誤まられぬほどに脛然として居る。

極菓では一々の草木がみ㍍無弛の妙法の菅野を満山して居るではないか。

此の如き意識の怖城を導き〓すー﹂き、㌫敢経験はその通すべき境地に通したと云ひ得ると.予は 考へる。それ故締㌫に於ける邪謂の修行も、此紳締約意識を聞拓するのトl的でなければはらぬっ

此の如き紳秘的忠誠が基地となつて、その上に柁々の㌫教組騒が色どられるのである。心規準的

には、此の如き意誠が何れもの㌫数的井高わ下に洗れて㍍ろが、宗教的生活には叉仙の要素が附け

加はらなくては、各基咄色あ・る所動を川如しない。他の異系と云ふは、固より非人々の牲埋的、心

理的性向をも企むのであるが、一般に言へば、一定の形式む典へた思想系統である。これが常串者の

(35)

193

意識に一椰の準備的仰向を丑やろ、或ろ意味では、示唆とも言へる。併し此示唆は系統的思想であ

るから.佃眠的のもので㍍いことは明かである。そんなら此系統的‖仙想が、どんな挽特に吾人の意

識に一種の仰向な典へて、㌫敢経験の突先とする醐線的意識・で野現するか。仔細に愚見の在る所を

述べんとすろは、木精の‖的でないから、今は只柿宗の方而から、此竣の一郎息に脚するTガの軌察 を記述するに.1−︰めたいと思ふ。

締完動代の梢紀には、偶人々々の㌫敢雑感につきて、その内面的過相ぉ目匁細雨に誹き苑したも

のがないので、此椰の文宮を鎗披に持ち出し碓はぬ。が、客枇約数述殊に支加漉の叙述でも、牲意

して調べて行けば、その問にnら一椰の廊紡が筒める。此麒では㌫能や臨折、徳叫 などの記串を

綜合して、宗敢忠識の締的鞍展虹︰部を記して見る。

宗教は邸問でない、信心には知識はいらぬと、批問ではよく言ふ。それで支那締宗の六剋と云は

れる慧他の如さも、無塵文Hの薪裏り、又は氷約き坊詫と邪催されて居る。併しながら、芯地の場

合には、その仙購草新たる紳秀り坤新肌〃アワしに対比せしめんため、殊に彼努無準者の如くに侍へて

居る。をの鱈は慧他にも棚嘩い知識ありしことは、﹁紘賛納経﹂お識んでもわかる。此港は純粋のも

Sでないにしても、火脚に於いて、慧偶の弟子によりて細まれだものである。その小に慧傭の説教

が晰け的に漉せられて居る、その中にほ祁々の大衆絆典が引川せられてある。彼はその頃の敏和畢

宥捕ビ念彿︵上︶

(36)

1911 新のやうに.科註的解耶の近着ではなかったであらうが、揮典の意味に大醗土通じて屑たことは疑 はれぬ。こんな知識がなくては締㌫に射する例解は始めよりあり得ないのである。 ﹁求めよ、輿へられん﹂土石ふが、まづ求めんとする意志が動かなくてはならん。そうして此意志 は偶然に動くものでない、基動くに先ちて自己反省と云ふことがなくてはならぬ。n己反椚と云ふ のは、此盛では購い忠味にとるので、円己を中心にした請々の関係の址現につきて、知的新藤の術 はるゝことを云上のであろ。此名察がなくては、不満の念の起寸やうがない、求めんとする意志の 仰く時節がない。慧能は金剛揮をきいて.韮栴に弘忽を見たいと顧ふに至ったと云よ記事があるが、

此顧ひに先ちて、金剛雑をいくらか如し得るだけの知的準備が慧偶に あつたことは疑ふを得ね。 薪をHって居ながら、彼は何か考ふる研があつた、そこへ金剛杵がはいつて米た、曲豊棚應の好時 節が熟したので、肛ちに芯拇へ向ふの決心が出た。何問月の問、米描きをやったと云ふ、そのmに も征は決して米の白く写匂のを見守って居なかった。仰皿ハの所説につきて系統的知識・で得ることに 鳳んだことは疑む容れぬ。弘払にしたところが、何百人の弟子でかゝへて居ながら、只ばんやらと 何等の教授をもなさすに、彼等のごろ′1するに任せておいたことはあるまい。慧帖が此間の知的 準備は苅々として進捗して㍍たものと見るより外ない。 刷秀の偶に対して狸晋きせられた土石ふ、﹁本凍無一物Lの絶句は、或る意味では、慧他の投機偶で 有括ミ念彿︵上︶

(37)

H賂 般ポが山るのでふ∵る。 椚銅ミ念帥︵⊥︶ あつた。∵旦撥心して、へ≠剛般若の′海草に怨じてから、彼は付かぉ求めT止まなかった。紳秀の侶 を一見するに粁りて、今まで疑結して居たものが、此に始めて忽然として水滞した。口を衝いて出て 凍たのが、﹁昔堤本非勧両現出≠有レ異本塞無二物再塵歩境域こと云ふものであつた。此水澤があつ たからして、その後明上座の追跡いト甲ユし、1不日心華 不m心意.正路奥底噂耶開基明上座春雄而‖L と絶叫し礪ふたのであろ。 律し此に注意しなければ在ら氾ことば、慧能の紳秘的絆喩に督隼的内容十一朗へたのは、金剛杵で あつたが、此金剛群が帥Jり彼の神経的志誠Jで、鳴き〓したものとは予=へないいであム。両弟の問にお ■ ける此榊係に往意す∴ごことが必要でJウリ。令剛般若だけでは、榊祓的蕊誠む粥現するの能囚と行了ら ぬ.これに今∵?澤く求ひるの意志が加はらなくてはならぬ。此拭く求むるの意志は、金剛般若の 背畢では満足昭雄ぬ、此〓仙想系統の成正を吋能ならしむるところの税理即ち内的経験に揺蔚するの 要がめる。即ち金剛般若の晋坤む雄きたものにして.慧他の全人的雄渥の上にこれ炉働き氾るまで には、只の‖仙想としてでは物足りね、彼が滋識の上に、神秘的偶鳩が、一たびなりとも現はれ互く てはなら氾。これによりて、始めて慧細が﹁求むる心Lは光止す乙のである。即も普通の嵩尭で言 へば、恨喩によりで般若が己がものとなるのでJ直る。般若から椚瞼がm五のではなくて.冊喩から

(38)

19G 眉∴品・こ念悌︵L︶ l 三六 徳山の場合も慧鹿と桐一里に兄1れる。彼は金剛般若の西軍にわいて、自らも許し、人も許した ところの描純な準新であつた。慧掩などよりも、†つと系統めるM心準でたどつて居たのだ。それが 南方に締㍍の一派めることを聞いて.それは魔の所説だと考へ、崩の山奥から、金剛の註疏む背負 って出て水た。丁腔代従仰維が〆マスカスへの道中と同じい。逆維主宕ふことが彿故にある、面白 い言韮である。﹁不闘焉Lでは手のポけやうもないが、反封して拍やうと云ふ意志の奥−皆ひそれが ヽヽヽヽヽ 意識せられないまでも、こ1には維のひつかかりがJ山一U。印ちこの潜在意識に働古かけて、その人 を動かすべき代囲わ可値がある。或る意味で言へば、徳山も悍錐も.反射新一旦認めて、これに打克 たんとしたとき、潜在意識のカでは、耽に却ってそのものに打克たれて居るとも考へらるるのであ る。慧傭は購経で、徳山は邁経でぁつ程.両者の違ひはそれだけで、その他の意識は何れも同じ方 向に進宿して居る。 即ち徳山も基斬は令剛般苅の習隼を僻押するだけでは、蒲止して居なかったのだ。更に深く求む るの心がなかったら、南方の・楯魔に対しても、その心の動くことがない、盛が一旦幼いたら故壊、 ﹁過去心不対わ、現在心木レ可ね、来水心不レ叶わ仁者欲如加甲卑こと切り込まれる除地が出て氷る。 かう切り込まれると、今まで滑れの情建に在った不満不足S追求心が、忽然として意識の中鮎に突入 してくる。保羅の鴨侶・い▼亦これである。即ち彼がスチーブンの従容として死に就くを見て以凍、〆

(39)

197 †スカスの途上で幻覚的に基楷を見て、三=H∵〓したと云ふ、その間の精紳的惧惰、是はやがて亦 他山底でなければらぬ。潜在意識と現前意識と、互に背反した方向に働いて居るのである。一方で は、基衡の幻兜に逢って.最綾の決右む見たが、これと同様に、徳山には徳山としての解決の謝が 水た。即㍉龍邦に紙燭一で吹浦せられて、刺秘的意識の醐門が聞かれた。金剛般若の解決がここで始 めて仰解せられた。令剛の許雌は此の如くにして悉く焚毀せられた、日はく、﹁明知玄群邪l一竜致] 於大脇軸融純機−似lい浦弾於か野Lと.締は知的であるので、徳山の解決は、宗教的には、保凝の と追ふが、心和坤的には同じ村き方である。 ヒルモ ヒルモ 徳山の場合では、知的内容むもつた紳秘的意識の衣詮は、﹁遣得三十棒道不毎三十棒Lと云ふ肴今 を通じての一大肯萎‖であつた。令剛般若の督勲では決して此の如き衣詮あるを見傭はぬ。刺繍的意 識の揮胎があつたので,般若が珪椚になつた。敢舶埋にNへ・トれて屠るものは、祉々にして此漣の 消息を見失ふことがある。故に序に此鮎に言及ぶ。 今一つ臨折の暦例を目して、刺繍的意識とそのM心想的内容との聞係を述べて見る。臨折は大愚の 下で、﹁瀧塵の彿扶多ヰなしLと岬祓したが、これには輌楯的ぷ通の押鹿たけでなく、系統的M心想の 内容が輔・hれて川る=とほ明∩でみ一心り臨済も誹典い曾†lニ加代乙机性に抑諭的講義を有って屈 に。帥も仇敵に別してハ系統的に糾糾せLれた知識の桝れ鶉であつたのである。それにも杓はらす. 有舗寸−食俳︵上︶

(40)

198

三八

智括ミ念彿︵上︶ 敏江丑葉の下工二年㍍て、而かもH等問答の発料となるべきものに投石しない。これが吾人新根の 踵でぁろ。既に和應の知識あり、多少の年月を柿的修杏に華やし、而から睦州仇啓摺ろ..・持たなけれ

ばならねこと こは什應透の刑息を佃ふるものであるか。

臨研は三年の問に只猷々として冗坐して居たものとは考へられぬ。沸教に対して多少の知的了解

もあるものが、前垂に劃して何と問を賛すべき純を知らぬと云ふこと、此に臨折の忠誠に向つT心

理準的分析な試ひべき必要があろ。茄糞の骨下に参すろやうになつたとき、彼は既に何か求むるこ

とがあつたものに和迩禿い。心神に何かの不満を兜えたのである。組絨せられた知識の所有者とな

っても、そこに何となく物足らね心持があつた。此知識が胆なる概念的でなくて、濫発的とならな

ければならぬのであ・つた。而してかく蔽兜的となろには、彼の意抽は∴たび紳秘的稚頂を受けなく

てはならぬのである。臨研は三年の■問此擬魯に逢着せんと勉めたが、どう手を出してよいか判然し

ない。即ち一仰の′肛斑的睨念によりて、従来の知誠わし井桁経験上の串饗とするには、何踵に消次の

一問を捻出すべきか、臨折には此れがわからない。求むべきものが有ると云ふ忠誠はある、これある

が故に坐楯描道する、求めて縛られぬと云ふ郁糊があろ、併し北ハ描紳がつかめなく疑問のま詞も姿

嗣も判然せ聖 只疑問のみがある、これが臨折の三年問の井活であつた。疑問の奥の賓、求め一〇も

のの和好そのものが、わからすに、而かもこれが一椰の脅威であるときほど、人間の宗教は産前に

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