――目次――
論文
1,
マンダナミシュラの年代, 伊原照蓮, The Date of Maṇḍanamiśra, Shōren IHARA, pp.1-12.
2,
神経症と罪:その心理学的理解と宗教の立場, 上田賢治, Psychosis and Sin, Kenji UEDA, pp.13-25.
3,
ハリバドラの仏身論, 天野宏英, Buddha-kāya Theory of Haribhadra, Kōei AMANO, pp.27-57.
マンダナ ミ シュラの年代 も う 一度考え直してみる必要に迫られたわけで ある。それゆえ本稿ではチベット 史 研究の成果を 考慮に入れた上で、 マ ンダナ の年代を再検討してみることにする。 なおこれはいまさるい う までもないことかとおも ぅが 、インドの思想家の年代を問題とする際、 特別の事情にある ︵ 5 ︶ れていることに気付いた。これほチベットの碑文 その他が発見・研究せられた結果である。そこ ママンダナの年代も 序 ハ i ・ ︶ マンダナ ミ シュラ ハま 曲中口 簿臣曲 日赤Ⅱ ゅ ︶の年代につ いてほ 、 ダス・グプタ G. し as のけ 口 ︵が︶は西暦 八 00 年 という 年 ︵ 2 ︶ 号 をこれに附し、またマンダナの主著﹁ブラフ マシツ デイ ヒ ︵㏄ ぷアコ ︶ののぎ山田︶の編者 クツフ ス ワ ミ ・シヤーストリ ㊧・ パ Eb 口目の安芸 乱り ㌻︵ H@ ︶は西暦六一五年
村 博士はシャンカラ を 中心とする諸哲学者の一人としてマンダナの 活動年代を西暦六七 0 年 1@ 七二 0 午 とする有力 な 説を提示された。︵ 4 ︶ 中村博士の年代推定は申国史料に 甚 くもので 殆 んど動かすことのできないものと考えられ・筆者 もこれに従って い た 。ところがその後、その年代推定の基礎とな っている中国史料の記述がチベット 史 関係の学者 によって誤りとせら
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場合を除いて、そこにえられるのは作業仮説と しての年代であると筆者は考える。マンダナの 年 代 推定についていえ ば 、中国史料によってー | 直接的にせよ間接的 にせよ確かめられる部分からは、ほぼ確定的 な
実年代がえられの
C あ る 。しかしそれ以上 は 、各思想家間の相対的前後 関係かある程度知られるのみであり、そこから 実年代を推定するこ とは元来無理である。各思想家それぞれの著作 の 範囲か決定され、その間の前後関係・思想の発 展等 があきらかにさ れることが先決条件であろう。しかしインド学の 現状からいえば、この先決条件が満たされるこ とすら、遠 い 将来の ことといわなければならない。したがって研究の 現段階で示きれる年代とは、作業仮説としての 年代の提示に体なら ないと考える。 最後にスレーシ ブ ラ︵㏄ 仁 Ⅰ 麒づ由 ︵ 笘 ︶との関係につ い v て一舌口しておく。マリンダナが㍉ ノみ 1 リ ノカラに 逢 ってその弟子とな ってスレーシ グラと 改名した、というマン ナダナ と スレーシブラとの同一人税 は 、最初ヒリヤン ナ ︵ノミ・ 日 ︵中 ︶舶ココ苫り ︵ 7 ︶ により・ついで クッフ ス フミ ・シヤーストリに よ って ︵ 6 ︶ 、 加えられたが、それ ︵ 8 ︶ はしかし クッフ ス フミ ・シャーストリの論を全 面的にくっがえすものではないので、スレーシ ヴ うの著作は考慮に 入 れないで、マンダナの年代を考察していくこと にする。 略号 い の・ - ㏄ミア 日ぎ乙 仁王。 ノ自い年 qp の ト の㏄Ⅱ︵ ピ 用の宙 トの の Q040 ﹁ コ日当 dO ︵ @n コ宙 - 冨田・ 汐 ﹁。 Zo さ 中村博士﹁初期 ヒ - ﹁初期の ダエ ーダーンタ哲学﹂ ﹁発展 ヒ - ﹁ヴェーダーンタ哲学の発展 ヒ 全 せメ ﹁・ @ づか笘アぃ 乱セ 0% ぃ,円 すの ついコ串ざ,コ の毛の印 @ のの㏄ い @5 名木・ - 之セ釦ヒ曲 ガの三オ 卸畔,
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︵しオ銭目 酉オロ ∼︵ @ ︶ 、 下限をシ ャ | ンタラクシ タ あ曲 づ ︵の︵曲の @ ︶及び カ 註 ︵ 1 ︶その著作についてほ拙稿﹁マンダナ・ミシュラ の 著作﹂白岩井博モ古稀記念論文集ヒ所収︶蓼沼 ︵ 2 ︶イ円目㌧ ア ・ づ 0 ︶・円円 や ・㏄Ⅱ ︵ 3 ︶㏄の・出口円ト 0 ら岸 ct@o 臣丁 ︵ @ ︵ ︵ 3 ︶中村博士﹁初期 ヒ 一一四頁 ︵ 5 ︶筆者にこのことを気付かせた端緒となったのは 中村博士の労作に対するの・ 目 0 ︵ ず田 三の書評定田 の ︵ 曲 臣目 。 " ︵。 , 0- ヱ ・ 之 0. ごト のの つ ㌧ b. ㏄の れぺ ︶である。 ︵ 6 レ H い の・Ⅰ戸叶Ⅰ。 串 由 り ︵ @o コパ パ円セⅠ ハボ ︵ 7 ︶ 力 ・ めハす ㏄Ⅰ す Ⅱぃ目ぃコミが コ 。Ⅰ 倖 。 コ ︵ @ ︵Ⅱ 0 下ソ キリコ 宙 9 目八日 田 ︵ a. Ⅰ 卜 0 の・ づ 0 ㌃㏄ いコ 0. ちハ で づ臣 いいト バ ・︶︶ののり ︵ 8 ︶い田帯 ロブミヨ の 臣モ のりの所論の要点はつぎの如く である。マンダナ と スレーシ フラ との間には、学説の 柑果があること はみ とめる。しかしそれは思想の展開シヤンカラ による回心をはさんでのとも考えることができ るのであっ て 、同一人たることを必ずしも否定するものではない と 。世親の場合などをおもい合わせるとそれはそのと おりであっ て 、マンダナ と スレーシ ブ ラとが同一人であり ぅ 8 町 能 性がまったくないとはいえない。しかしマンダナに 比較的近 い 時代の著作における、マンダナの著作からの引用乃至 それへの 関 説からみて、別人である可能性の方が蓮に 大である。 また仮に同一人であったとしても、その改宗以前と 以 後 とでは思想が異るわけであるから、改宗以前の思想 は 改宗以後 のそれとは切りはなして別個に取扱 う ことができるは ずであり、思想史としては充分意味をもち ぅ るとおも 因 に中村博士告発展 ヒ 二四八頁以下︶戸立 菟い のⅠ︵ C コ 8 お 口 0 才 Ⅰ コ ㏄の コむす印円 0 温の隼 8 オ 曲ア 0 口戸毎 く ㏄ ぎ p4 曲 江ぃ ︶も別人 説 である 0 なおシュリンゲーリのシヤンカラ派の本山 でもマンダナ と スレーシブラとは彫像が別個に刻せら れていると い う ︵中村博士Ⅰ イイ ド紀行 口 春秋社、一六三頁 て。 ユ
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︶ただ
第 二の点、すなわち 力 マラシーうの引用している 文章が果して ウムグ ヱ ー カ からの引用であるかどうかという点、につ いて筆者としては若干の危惧がないではなかっ た ︵ カマ ラシー う の 引用では﹁ ウヴヱ ー ヤカ日く ﹂︵ C つめゼ が 寸 ㏄の︵ づひア の ︶とある︶。しかし検索の結果 力 マラシーうの 示 斗ン ところ八円 曲年つい の ギ 七 % 牛 がで ゅ且 牙山づ・の 憲 ・ ナ 目も・ めお ・∼・の︶が ウム ヴェー カ の 文 ︵の @ I@ . @ @ ミ 。 オ麓セが Ⅰ︵亡ハ 捨つせ里 ハア ド ︵ がめ 0 ︶印の・Ⅱ・㏄ 0 1ロ・ 寅 ・ ハ ト こ のやや 自由な日用てあることを権力めること |。、
ヵ 母 てきた 。﹂︵ l 1 ︶ 。これによって ウムグエ ー カ 、さらにマンダナが カマ ラシーうを最下死後チベットに招かれ、所謂﹁ラサの法論﹂に おいて中国の﹁大乗和尚﹂と対論、これに打ち見 った 。その後問もな @@r@-' '@¥ @ @ ' ='" y@ @ @?"ff
タラクシ タ 及び カマ ラシーうの年代推定の基礎 となっていた。しかるに ポ タラ碑文の研究により この﹁新唐書﹂の記載 ︵ つ, l, ︶ 及びこれに類似の記載が誤りであることがあき 5 力にせられた ト ︵ l 8 O ︶ テ イソン デ ツェンの誕生は西暦 セ 四二年、即位は西 暦 七五四年正﹃ゼ三歳の時とされる。つぎに ︵ 0 ︶ サム イ ェ手建立の年代であるが、佐藤氏は西暦七七九 年とし、︵ , 2 ︶ ノッチ︵ の ︵ お ︶
ヨ
cc 円 ︶は最初西暦七九一年 説 をとっ︵ 3 たが、後に 改めて佐藤氏と同じく西暦七七九年なりとした これはもっとも 可 能 性のある年号と考える。プトンの記する如く ︵上記︶、シャーンタラクシ タ が サムイェ 寺に十 三年住していたとす おシヤーンタラクシ タ の第一回チベット入国の時 期を推定する資料と ︵ 笏 ︶ しては、フラウフルネルの オ 旨摘 する如く、テイソ ︵ 5 2 ︶ ンデ ツェンの第二詔勅を看過すべきではなかろ , ヮ 。それによると、 テ イソン デツヱン 王が即位してからも、その初期の 中は仏教を禁ずる法律が行われていた。壬が 二 十歳︵西暦七六一年︶ になったときに、災と凶兆があり、その後仏教が 行われるようになったという。この記事は大体 信じてよいであろう から、シャーンタラクシ タ の第一回チベット 入 国の時期は西暦 セ 六一年以降ということになる。 したがってシャーン タラクシ タ は、およそ セ六 0 年頃まではインドで 文学活動に従事しており、そして 伺 タット ヴサ ムグラハ﹂はその間 の 著作と考えてよかろう。 つぎに カマ ラシーうについて考察する。カラマシ |うは シャーンタラクシ タ の弟子であり・シャ | ンタラクシ タ の ︵Ⅰ l 7 、 ︶ となる。 テ イソン デ ツェンの死は コ 新唐書ヒ の記 載 により大宝十四年︵西暦七五五年︶と従来考え も ね 、これがシャーン Ⅰ サコ 。 。 'サの
法論﹂の前に︶
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寺は卯の年から末の年までかか
って建立された︵
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0 年代を知るためには、﹁ラサの法論しの年代が 重要であるが、﹁ ラ サの 法論﹂は 敦煙 が決定的にチベットの手中に 入った七八七年の後の、中年から成年の初め、 換 冒 すれ ば 西暦 セ 九二 ︵ 笏 ︶ 年から同七九四年の初め、にかけて行われたと みるのが ドウニエ ビル 貧 ・ ロ のまかせま⑧の見解 であり、この見解は 一般に同意をえてい る 。︵ 乃 ︶ セ九 0 年頃チベットに入り・ セ 九五年頃殺され たとみてよかろう。 カマ ラシーうはまたシヤーンタラクシ タ の第一回 チベット入国以前にその弟子となっていたので あろうから・ カマラ シー う のインドでの活動時期はおよそ七五 0 年 ︵Ⅰ︶拙稿﹁仏教と文典派﹂高日本仏教学会年報 ヒ第 七九 0 年 、すなわち八世紀の後半と考えられ 一一十 - 八ロ す ︶ る 。 ウム ヴェー カ は その力でラシーうによって引用されているのであ るから、ウムヴェー カ の年代の下限は、八世紀 後半とみるべきであ る 。マンダナはその ウムヴヱ ー カ より前という ナ ﹂とになる。 マンダナの年代についてほぼ確実に言えることは 、六五 0 年頃から八世紀後半の間ということに なる。 註 ︵ 2 ︶拙稿﹁マンダナ・ミシュラの著作﹂︵上掲︶ 参 ︵ 3 レメト・ ナ ﹁・ づ ・ トの下 ・ れ ・㏄ ︵ 4 ︶ せぺ ・ b. ︶ ゆめ ・∼・ り ︵ 5 レサ プトリコ 由 オ土㌧ いけり Ⅱ 0 甘のり日向Ⅰ 0 づの Ⅱ目 で 0 せ巴オせ の㏄ 曲ヱ ︵名木・や︶の 肚 トビ・︶ ︵ 6 ︶ くづ ・ セ ・む目・ - 目 1 7 ト 拐 ・∼・ プ ただしっぎの形で よひ 0 ︵ 曲円アり 0 ハ の の Ⅱ つとひどひ 曲コ曲ヨ コぃオ巴ついコ卸づ 。 隼オ ㏄ 日 04 ゃ おせがす 甘 Ⅰ ゆコ ︵ い づ岸 ︵ @ 七 ∼ 曲 ︵ セ ㏄ 寸偲す汗ゆい 中日の目 つりヱ ・︵ さ簿 おせを z 本 ・ せ ・︶の ト ∼・㏄㏄ によって挿入。 づ ra ︵ せ 9 ダれ生。の前の日はとる 0 この コ のがある と 、註釈の文体になってしまい、マンダナの本文にあ っ たとは考えられない。おそらく 之メ ・カトの ち ・∼・ ぃ もにならつ て 、筆写の際誤つて混入したものであろ っ 。︶ ︵ 7 ︶﹁ 迷乱性 ﹂とはなにか、 と問 ラマンダナの文章を 注する箇所でそ 腎 % 安田はつぎの如くい う 。 も ∼ ふ やめ毎なゆ ︶ ︶ p@ ついガ p- でか コリ 七 。 隼 ずの軽妙︵ qp づ bHp セのダゆ p-p 寸 山麓弔い 日い で @ 円仁︵ 丼 山のⅡ 卸 すずⅡ 曲コづ簿 円せ曲のか す ぎの 旧 ㌧Ⅱの 任セい斤也麓す片 ㏄ ひコい宙 - 侍 - 7 (257)
︵は︶中村博士﹁初潮﹂三七八頁以下に翻訳が、また 三九二頁以下に解説がある。 ︵は︶ づ ・ コおオ のⅠ く @ い ∼ 宙 ・で づ ・どのこ NQ ︵ N ︶その理由はこ フ である。すなかち、シヤー ンタ ラクシ タ がマンダナを知っているということは年代的 には勿論可能で ある 0 しかし筆者の検索の結果では、マンダナの援の 及び目く・の額は つい ︵︵ づ asa 屯田がず曲に一頗も引用 されていな この三つの書物を詳細に検討したわけではないか ら 断言はできないが、当然マンダナの主張が問題とさ れて然るべ き 場合︵例えば現量の定義︶にも、マンダナにふれて いない点等からみて ヨ偉 ︵せ い きち 浅曲ず 由を著した時の シヤー ンタ ラクシ タ には マソダナ の著作は直接知られてほいなか っ たのではないかとおもわれる。ほとんど同時代と考 ん られる 月 三才 め田ち雙めテる曳こ 守山 ? 、 0-. ロ ・ n :の︶ N. こ ・ 目二ど ︶ Cd= 娑旺臼の ︵ ど、 単ぁ: R ︶のす 0 如才押目送 オミイ がち コ 曲ヨ ゥ ︶ ひゆ患巨ゆちづ ㌫ 日り逼 ﹁ p 邑 :オ目 り 臣 Ⅱ 臼キユづ , 麓 二ず ぎ帝ゅちぺ 斗立耳曲目Ⅰ︵まず 卸 ㍉ mp む ﹁ p 層す 0 | O | 田翌日 @ り Ⅰ @p ︵﹂ c6 ︶㎡︵∼ ゆ H@@ 千 @ 聲 十曲ち ぺ 知生 @ どめ ちコ援コ 軽 @ Ⅱ 卸 @ 守 Ⅱ コ由 Ⅰ i ひ| 担 ﹁ p ヨ 。︶﹁ % ヰ 蜀ひ仁 ︶ @@@@ お @@m- ︶あち 母ち * どゴ リコ % 超 がへ め -0 アいせ 曲 Ⅱ エオ のミ山方寸出ゆ︵ つ ・収の・∼・り印 1, づ ・旬ム・∼・ ト ︶ :・でⅡの ヨ リづ 山ヰ甲コがコせ 申せが へ せい ゑ Ⅰの す曲ずア Ⅱ ひ ︵︵ @ ㏄ 臣ず曲セ がい︵ コへり年ぎ ー 田| セル うつ Ⅱ 甲コ 曲やセミコ P せぬ のⅠ コせ笘 ︵の , ロが ず 0 隼 ずの 寸曲圧イい ︵︵︶ 錨 ︵Ⅰ り ︵ コ ロノ ︵が︵ す リア @m 角ヰ セけ七 @ プ O 伍す笘ガの 任せの セい 茸山セ㌃ リセぺゆ宙 ぎくの︵ づ 円コ コリ の エ 。叶い 円 Ⅰ ゆ七 Ⅰ り目コ 曲中 せ P コせ曲侍す曲か仁ずヱオ釦 ︵ Ⅱ ゆ @d ︶Ⅰの︶ い ︵が @ が l ・ - コめ臣肘 リセ り @
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二 、自責感の機能評価 罪悪感のもつ機能の 評価と神経症の病因論に関 - 嚇 して、精神分析学者の行う宗教批判の中にほ 、 宗教の説く罪悪 観 が 、罪悪感の中心機能である自責の念㊤の︵︵ 芭 。 目汁ョコ 燵 ︵ @0 さを強め、その故に却って、神経症 的 疾病状態を更に強 度 なものとするばかりではなく、現実に罪悪行 為を犯さしめることになるのだという非難が含ま れている。この問題㏄ については・既にその一部を論ずる機会があった が ︵拙稿﹁罪の心理と神道﹂神道宗教・第三十四号︶ 、 ここでは本論の主題 1精神分析 学が 、科学としての理論と治療的 実 修の体系 であることを超えて、ある特定の哲学的・価値的前提 を持 つものであ ることは、多くの論者によって指摘されてきた。しか しそれでもなお、常に規範的な立場から出発しょう と し、 或はまた常に 規範を求めようとする立場に立っ宗教と、価値的・ 哲 学的前提を離れて出来るだけ記述 学 としての立場を守 ろ う とする心理学 とを、それが 隅 々共通の主題を取扱っている 場 ムロが あ るからといって 、 直ちに関聯づけて論じようとすること は 誤りである、 と い う 議論があり ぅ るかも知れない。しかし筆者は、 記 述 を主とする心理学と難も、その科学性を傷つけるこ となく、規範の間 頭 に関与し ぅ ると考えている。 G.W. オルポートは 、 人格心理学の分野においてこのことの必要性を提唱し 、現在は将にその ことの行われるべき時期であることを指摘しているが ︵の・
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㌧ あ きき 宮 り (271) 罪 実存分析は神経症を病と見る。しかし、 そ れは同時に、病者の中にすら、自から主体的に自 からに対して責任を持ち な
め ・ アヰく クル著作集 七 ﹁ 識 られぎる 神 ﹂佐野・木村 訳 神経症者の行動は、運命的に不可避な 身の精神的な態度がかかわっているから り判断は、自己の現状 及 その行動に関す 概 することを意味している。このような ある。もちろん、神経症には種々の類型 ることは出来ない。従って、神経症者が かし、そのような疾患を形成せしめたも み すず書房︶。 罹患の単なる結果として考えられてはならない。 そこには必ず、神経症者 自 である。例えば、﹁自分は病気なのだ。病気で あるから仕方がない。﹂とい る 事実認識を超えて、神経症的行動を許容 し ・ 神 軽 症的状態にある自己と 妥 心理的態度こそ、将に神経症を神経症たらしめ ているものに体ならないので があり、その病態には体質的な基礎条件に依存 するもののあることを否定す その臨床的な症候 八 疾患Ⅴに対して責任がある というのは誤りであろう。 し のが、外ならぬ神経症者自身のそれに対する 態 度 であることを忘れてはなら
体が 、自由意志に よ る断念に外ならないと考え られるからである。従って 、 彼のいう実存分析 と ロ ゴテラピーは 、こ のように人格にとって不可分な自由に対する責任 き 、人格としての個々人に意識化させることを 目指しているプラン サ刊 坤 臣 Ⅰ 配されている状態であるとしても、人格に本来 的な自由は決して失われているわけではないひ 何 故 なら、そこにはな お、 自からを本能の駈り立てるままに任せている 自己が存在しているからであり・自由の活用を 断念していること 自 蝸
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色は
ャ 、 ﹁古沢平作博士はかって、神経症をただ治すというだけ なら新興宗教の方がよく治る、神経症は治らなくても よい場合がある と 言われたというが、分析療法の構造のなかには、 そ のように治癒という目的をこえた、より高い志向が含 まれていると @ え よ う 。﹂と述べている︵周書﹁訳者あとがき﹂・ 二 0 九 頁 ㍉アメリカにおける 新 フロイド派、及び人格心理 学の分野に属する 人々の中にも、同様な傾向が見出せることはよく知ら れている。 神経症を罪とする認識・判断は 、 罪の概念規定 にかかわる問題と併せて、各宗教が 、 夫々の神学 的な立場から、 独 白の実践神学的な理論展開をなしうるし、また そのことほ当然要請せられるであろう。宗教的 カ ウンセリングの如き 臨床場面においては、 繊悔 ・ 贈罪 ,祈り・救済 ・解脱,開悟・ 被 ・むすび等といった実践的課題 との関係を究明 す る ことも考えられなければならない。それほ、英米 法 におけるマックノートン 法 ︵田の口。 争的 ぎの コ オ田 9 ︶がもたら した論議と同種の課題を・宗教心理学の分野に提 起するものであるといってもよいのでほないだ ろうか。 25 ︵三九・ ハ ・二五︶