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『宗教研究』179号(37巻4輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

マンダナミシュラの年代, 伊原照蓮, The Date of Maṇḍanamiśra, Shōren IHARA, pp.1-12.

2,

神経症と罪:その心理学的理解と宗教の立場, 上田賢治, Psychosis and Sin, Kenji UEDA, pp.13-25.

3,

ハリバドラの仏身論, 天野宏英, Buddha-kāya Theory of Haribhadra, Kōei AMANO, pp.27-57.

(2)

マンダナ ミ シュラの年代 も う 一度考え直してみる必要に迫られたわけで ある。それゆえ本稿ではチベット 史 研究の成果を 考慮に入れた上で、 マ ンダナ の年代を再検討してみることにする。 なおこれはいまさるい う までもないことかとおも ぅが 、インドの思想家の年代を問題とする際、 特別の事情にある ︵ 5 ︶ れていることに気付いた。これほチベットの碑文 その他が発見・研究せられた結果である。そこ ママンダナの年代も 序 ハ i ・ ︶ マンダナ ミ シュラ ハま 曲中口 簿臣曲 日赤Ⅱ ゅ ︶の年代につ いてほ 、 ダス・グプタ G. し as のけ 口 ︵が︶は西暦 八 00 年 という 年 ︵ 2 ︶ 号 をこれに附し、またマンダナの主著﹁ブラフ マシツ デイ ヒ ︵㏄ ぷアコ ︶ののぎ山田︶の編者 クツフ ス ワ ミ ・シヤーストリ ㊧・ パ Eb 口目の安芸 乱り ㌻︵ H@ ︶は西暦六一五年

村 博士はシャンカラ を 中心とする諸哲学者の一人としてマンダナの 活動年代を西暦六七 0 年 1@ 七二 0 午 とする有力 な 説を提示された。︵ 4 ︶ 中村博士の年代推定は申国史料に 甚 くもので 殆 んど動かすことのできないものと考えられ・筆者 もこれに従って い た 。ところがその後、その年代推定の基礎とな っている中国史料の記述がチベット 史 関係の学者 によって誤りとせら

マンダナ

シュラの年代

(3)

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場合を除いて、そこにえられるのは作業仮説と しての年代であると筆者は考える。マンダナの 年 代 推定についていえ ば 、中国史料によってー | 直接的にせよ間接的 にせよ確かめられる部分からは、ほぼ確定的 な

実年代がえられの

C あ る 。しかしそれ以上 は 、各思想家間の相対的前後 関係かある程度知られるのみであり、そこから 実年代を推定するこ とは元来無理である。各思想家それぞれの著作 の 範囲か決定され、その間の前後関係・思想の発 展等 があきらかにさ れることが先決条件であろう。しかしインド学の 現状からいえば、この先決条件が満たされるこ とすら、遠 い 将来の ことといわなければならない。したがって研究の 現段階で示きれる年代とは、作業仮説としての 年代の提示に体なら ないと考える。 最後にスレーシ ブ ラ︵㏄ 仁 Ⅰ 麒づ由 ︵ 笘 ︶との関係につ い v て一舌口しておく。マリンダナが㍉ ノみ 1 リ ノカラに 逢 ってその弟子とな ってスレーシ グラと 改名した、というマン ナダナ と スレーシブラとの同一人税 は 、最初ヒリヤン ナ ︵ノミ・ 日 ︵中 ︶舶ココ苫り ︵ 7 ︶ により・ついで クッフ ス フミ ・シヤーストリに よ って ︵ 6 ︶ 、 加えられたが、それ ︵ 8 ︶ はしかし クッフ ス フミ ・シャーストリの論を全 面的にくっがえすものではないので、スレーシ ヴ うの著作は考慮に 入 れないで、マンダナの年代を考察していくこと にする。 略号 い の・ - ㏄ミア 日ぎ乙 仁王。 ノ自い年 qp の ト の㏄Ⅱ︵ ピ 用の宙 トの の Q040 ﹁ コ日当 dO ︵ @n コ宙 - 冨田・ 汐 ﹁。 Zo さ 中村博士﹁初期 ヒ - ﹁初期の ダエ ーダーンタ哲学﹂ ﹁発展 ヒ - ﹁ヴェーダーンタ哲学の発展 ヒ 全 せメ ﹁・ @ づか笘アぃ 乱セ 0% ぃ,円 すの ついコ串ざ,コ の毛の印 @ のの㏄ い @5 名木・ - 之セ釦ヒ曲 ガの三オ 卸

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︵しオ銭目 酉オロ ∼︵ @ ︶ 、 下限をシ ャ | ンタラクシ タ あ曲 づ ︵の︵曲の @ ︶及び カ 註 ︵ 1 ︶その著作についてほ拙稿﹁マンダナ・ミシュラ の 著作﹂白岩井博モ古稀記念論文集ヒ所収︶蓼沼 ︵ 2 ︶イ円目㌧ ア ・ づ 0 ︶・円円 や ・㏄Ⅱ ︵ 3 ︶㏄の・出口円ト 0 ら岸 ct@o 臣丁 ︵ @ ︵ ︵ 3 ︶中村博士﹁初期 ヒ 一一四頁 ︵ 5 ︶筆者にこのことを気付かせた端緒となったのは 中村博士の労作に対するの・ 目 0 ︵ ず田 三の書評定田 の ︵ 曲 臣目 。 " ︵。 , 0- ヱ ・ 之 0. ごト のの つ ㌧ b. ㏄の れぺ ︶である。 ︵ 6 レ H い の・Ⅰ戸叶Ⅰ。 串 由 り ︵ @o コパ パ円セⅠ ハボ ︵ 7 ︶ 力 ・ めハす ㏄Ⅰ す Ⅱぃ目ぃコミが コ 。Ⅰ 倖 。 コ ︵ @ ︵Ⅱ 0 下ソ キリコ 宙 9 目八日 田 ︵ a. Ⅰ 卜 0 の・ づ 0 ㌃㏄ いコ 0. ちハ で づ臣 いいト バ ・︶︶ののり ︵ 8 ︶い田帯 ロブミヨ の 臣モ のりの所論の要点はつぎの如く である。マンダナ と スレーシ フラ との間には、学説の 柑果があること はみ とめる。しかしそれは思想の展開シヤンカラ による回心をはさんでのとも考えることができ るのであっ て 、同一人たることを必ずしも否定するものではない と 。世親の場合などをおもい合わせるとそれはそのと おりであっ て 、マンダナ と スレーシ ブ ラとが同一人であり ぅ 8 町 能 性がまったくないとはいえない。しかしマンダナに 比較的近 い 時代の著作における、マンダナの著作からの引用乃至 それへの 関 説からみて、別人である可能性の方が蓮に 大である。 また仮に同一人であったとしても、その改宗以前と 以 後 とでは思想が異るわけであるから、改宗以前の思想 は 改宗以後 のそれとは切りはなして別個に取扱 う ことができるは ずであり、思想史としては充分意味をもち ぅ るとおも 因 に中村博士告発展 ヒ 二四八頁以下︶戸立 菟い のⅠ︵ C コ 8 お 口 0 才 Ⅰ コ ㏄の コむす印円 0 温の隼 8 オ 曲ア 0 口戸毎 く ㏄ ぎ p4 曲 江ぃ ︶も別人 説 である 0 なおシュリンゲーリのシヤンカラ派の本山 でもマンダナ と スレーシブラとは彫像が別個に刻せら れていると い う ︵中村博士Ⅰ イイ ド紀行 口 春秋社、一六三頁 て

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︵ 5 し ﹁したがって︵ 迷乱 と分別の両者は附記 のドヨゆ 。 0 口 曲の性質という点で同一であるのだから︶ 二 切 知者の知 ヒ ︵の曲︵ 1 マ ラシーラ︵本の日が 瓦給団 ︶に一応求めることがで きる。ダルマキールティと、シヤーンタラクシ タ 及び 力 マラシーラ とは、中国史料との関係から、ほぼ確定的な実年 代 がえられるので、まずこの点の検討から始め よ,ヮ 。 マンダナ と ダルマキールティとの関係については 、前者の著作コスポータシソディ ヒ ︵のです。 丑 P 往 桂ま︶の中に ,ダ ル マキールティの﹁ブラマーナダールティカ﹂︵ ㌧ ぷヨ囲宙ヰゆ ㍉︵ 好 こからのかなり長文の引用があ ることはすでに指摘 した。またマンダ 々 はその比較的初期の作品で︵ 2 レ ある﹁ヴィデ イ ヴィ グエ ーカ 六せニ乙 まつの 方麓 ︶の中 で 現量︵ 笘舵 目キ ゅ も へ1 ︶ を 論じているが、その中でまず、﹁現量の定義 は 分別を除くことである﹂︵ずが 迂い口ぜ 0 らオ簿 ︵ 4 曲 ヨ 弓 Ⅱ角田 セ欝 寸ゆ 巴燵ヰゆ 曲 り 曲 目 ︶ と い う敵 者の主張が掲げられる。︵ 3 ︶そして﹁分別﹂ ︵ 汀 号鐘 e の概念にマンダナの立場からの批判 が 加えられた後に 、 ヒ 女 ムレ に﹁ 迷乱性 ﹂︵ すァ Ⅱ ゅコ孟舐 ︶ レ Ⅰはいか みみ るこ とかが問われる。そこで は ﹁送礼なきこととは、 有効な働きをもちムロ ︵ 4 ︶ 致することである﹂︵の︵︵ ア主 屯守 いお 旧話 田甘 曲 目 P す アぺゆコ ︵が︵ づ P 旧 ︶という 敵 者の見解も示される。そし てこの一節の末尾で マンダナはつぎのようにいう。 C254) 4

(6)

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ヴム ヴェー カハ C 呂づの宙 ︶がマンダナの著作﹁ バ | グナーグイヴェー カ b ︵ い ず苧が コ 学才のず 曲 ︶に 註 を 書いていること、 ㈲その ウム ヴェー カ の言が力マラシーうによっ て 引用されていること、によって知られる。この ことは中村博士によ てすでに指摘されているところである。︵ 9

︶ただ

第 二の点、すなわち 力 マラシーうの引用している 文章が果して ウムグ ヱ ー カ からの引用であるかどうかという点、につ いて筆者としては若干の危惧がないではなかっ た ︵ カマ ラシー う の 引用では﹁ ウヴヱ ー ヤカ日く ﹂︵ C つめゼ が 寸 ㏄の︵ づひア の ︶とある︶。しかし検索の結果 力 マラシーうの 示 斗ン ところ八円 曲年つい の ギ 七 % 牛 がで ゅ且 牙山づ・の 憲 ・ ナ 目も・ めお ・∼・の︶が ウム ヴェー カ の 文 ︵の @ I@ . @ @ ミ 。 オ麓セが Ⅰ︵亡ハ 捨つせ里 ハア ド ︵ がめ 0 ︶印の・Ⅱ・㏄ 0 1ロ・ 寅 ・ ハ ト こ のやや 自由な日用てあることを権力めること |

。、

ヵ 母 てきた 。﹂︵ l 1 ︶ 。これによって ウムグエ ー カ 、さらにマンダナが カマ ラシーうを最下

(7)

死後チベットに招かれ、所謂﹁ラサの法論﹂に おいて中国の﹁大乗和尚﹂と対論、これに打ち見 った 。その後問もな @@r@-' '@¥ @ @ ' ='" y@ @ @?"ff

タラクシ タ 及び カマ ラシーうの年代推定の基礎 となっていた。しかるに ポ タラ碑文の研究により この﹁新唐書﹂の記載 ︵ つ, l, ︶ 及びこれに類似の記載が誤りであることがあき 5 力にせられた ト ︵ l 8 O ︶ テ イソン デ ツェンの誕生は西暦 セ 四二年、即位は西 暦 七五四年正﹃ゼ三歳の時とされる。つぎに ︵ 0 ︶ サム イ ェ手建立の年代であるが、佐藤氏は西暦七七九 年とし、︵ , 2 ︶ ノッチ︵ の ︵ お ︶

cc 円 ︶は最初西暦七九一年 説 をとっ︵ 3 たが、後に 改めて佐藤氏と同じく西暦七七九年なりとした これはもっとも 可 能 性のある年号と考える。プトンの記する如く ︵上記︶、シャーンタラクシ タ が サムイェ 寺に十 三年住していたとす おシヤーンタラクシ タ の第一回チベット入国の時 期を推定する資料と ︵ 笏 ︶ しては、フラウフルネルの オ 旨摘 する如く、テイソ ︵ 5 2 ︶ ンデ ツェンの第二詔勅を看過すべきではなかろ , ヮ 。それによると、 テ イソン デツヱン 王が即位してからも、その初期の 中は仏教を禁ずる法律が行われていた。壬が 二 十歳︵西暦七六一年︶ になったときに、災と凶兆があり、その後仏教が 行われるようになったという。この記事は大体 信じてよいであろう から、シャーンタラクシ タ の第一回チベット 入 国の時期は西暦 セ 六一年以降ということになる。 したがってシャーン タラクシ タ は、およそ セ六 0 年頃まではインドで 文学活動に従事しており、そして 伺 タット ヴサ ムグラハ﹂はその間 の 著作と考えてよかろう。 つぎに カマ ラシーうについて考察する。カラマシ |うは シャーンタラクシ タ の弟子であり・シャ | ンタラクシ タ の ︵Ⅰ l 7 、 ︶ となる。 テ イソン デ ツェンの死は コ 新唐書ヒ の記 載 により大宝十四年︵西暦七五五年︶と従来考え も ね 、これがシャーン Ⅰ サコ 。 。 '

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法論﹂の前に︶

馬に蹴られて死んだハ

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寺は卯の年から末の年までかか

って建立された︵

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そこでシャーンタラクシ

の年代を知るために

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0 年代を知るためには、﹁ラサの法論しの年代が 重要であるが、﹁ ラ サの 法論﹂は 敦煙 が決定的にチベットの手中に 入った七八七年の後の、中年から成年の初め、 換 冒 すれ ば 西暦 セ 九二 ︵ 笏 ︶ 年から同七九四年の初め、にかけて行われたと みるのが ドウニエ ビル 貧 ・ ロ のまかせま⑧の見解 であり、この見解は 一般に同意をえてい る 。︵ 乃 ︶ セ九 0 年頃チベットに入り・ セ 九五年頃殺され たとみてよかろう。 カマ ラシーうはまたシヤーンタラクシ タ の第一回 チベット入国以前にその弟子となっていたので あろうから・ カマラ シー う のインドでの活動時期はおよそ七五 0 年 ︵Ⅰ︶拙稿﹁仏教と文典派﹂高日本仏教学会年報 ヒ第 七九 0 年 、すなわち八世紀の後半と考えられ 一一十 - 八ロ す ︶ る 。 ウム ヴェー カ は その力でラシーうによって引用されているのであ るから、ウムヴェー カ の年代の下限は、八世紀 後半とみるべきであ る 。マンダナはその ウムヴヱ ー カ より前という ナ ﹂とになる。 マンダナの年代についてほぼ確実に言えることは 、六五 0 年頃から八世紀後半の間ということに なる。 註 ︵ 2 ︶拙稿﹁マンダナ・ミシュラの著作﹂︵上掲︶ 参 ︵ 3 レメト・ ナ ﹁・ づ ・ トの下 ・ れ ・㏄ ︵ 4 ︶ せぺ ・ b. ︶ ゆめ ・∼・ り ︵ 5 レサ プトリコ 由 オ土㌧ いけり Ⅱ 0 甘のり日向Ⅰ 0 づの Ⅱ目 で 0 せ巴オせ の㏄ 曲ヱ ︵名木・や︶の 肚 トビ・︶ ︵ 6 ︶ くづ ・ セ ・む目・ - 目 1 7 ト 拐 ・∼・ プ ただしっぎの形で よひ 0 ︵ 曲円アり 0 ハ の の Ⅱ つとひどひ 曲コ曲ヨ コぃオ巴ついコ卸づ 。 隼オ ㏄ 日 04 ゃ おせがす 甘 Ⅰ ゆコ ︵ い づ岸 ︵ @ 七 ∼ 曲 ︵ セ ㏄ 寸偲す汗ゆい 中日の目 つりヱ ・︵ さ簿 おせを z 本 ・ せ ・︶の ト ∼・㏄㏄ によって挿入。 づ ra ︵ せ 9 ダれ生。の前の日はとる 0 この コ のがある と 、註釈の文体になってしまい、マンダナの本文にあ っ たとは考えられない。おそらく 之メ ・カトの ち ・∼・ ぃ もにならつ て 、筆写の際誤つて混入したものであろ っ 。︶ ︵ 7 ︶﹁ 迷乱性 ﹂とはなにか、 と問 ラマンダナの文章を 注する箇所でそ 腎 % 安田はつぎの如くい う 。 も ∼ ふ やめ毎なゆ ︶ ︶ p@ ついガ p- でか コリ 七 。 隼 ずの軽妙︵ qp づ bHp セのダゆ p-p 寸 山麓弔い 日い で @ 円仁︵ 丼 山のⅡ 卸 すずⅡ 曲コづ簿 円せ曲のか す ぎの 旧 ㌧Ⅱの 任セい斤也麓す片 ㏄ ひコい宙 - 侍 - 7 (257)

(9)

︵は︶中村博士﹁初潮﹂三七八頁以下に翻訳が、また 三九二頁以下に解説がある。 ︵は︶ づ ・ コおオ のⅠ く @ い ∼ 宙 ・で づ ・どのこ NQ ︵ N ︶その理由はこ フ である。すなかち、シヤー ンタ ラクシ タ がマンダナを知っているということは年代的 には勿論可能で ある 0 しかし筆者の検索の結果では、マンダナの援の 及び目く・の額は つい ︵︵ づ asa 屯田がず曲に一頗も引用 されていな この三つの書物を詳細に検討したわけではないか ら 断言はできないが、当然マンダナの主張が問題とさ れて然るべ き 場合︵例えば現量の定義︶にも、マンダナにふれて いない点等からみて ヨ偉 ︵せ い きち 浅曲ず 由を著した時の シヤー ンタ ラクシ タ には マソダナ の著作は直接知られてほいなか っ たのではないかとおもわれる。ほとんど同時代と考 ん られる 月 三才 め田ち雙めテる曳こ 守山 ? 、 0-. ロ ・ n :の︶ N. こ ・ 目二ど ︶ Cd= 娑旺臼の ︵ ど、 単ぁ: R ︶のす 0 如才押目送 オミイ がち コ 曲ヨ ゥ ︶ ひゆ患巨ゆちづ ㌫ 日り逼 ﹁ p 邑 :オ目 り 臣 Ⅱ 臼キユづ , 麓 二ず ぎ帝ゅちぺ 斗立耳曲目Ⅰ︵まず 卸 ㍉ mp む ﹁ p 層す 0 | O | 田翌日 @ り Ⅰ @p ︵﹂ c6 ︶㎡︵∼ ゆ H@@ 千 @ 聲 十曲ち ぺ 知生 @ どめ ちコ援コ 軽 @ Ⅱ 卸 @ 守 Ⅱ コ由 Ⅰ i ひ| 担 ﹁ p ヨ 。︶﹁ % ヰ 蜀ひ仁 ︶ @@@@ お @@m- ︶あち 母ち * どゴ リコ % 超 がへ め -0 アいせ 曲 Ⅱ エオ のミ山方寸出ゆ︵ つ ・収の・∼・り印 1, づ ・旬ム・∼・ ト ︶ :・でⅡの ヨ リづ 山ヰ甲コがコせ 申せが へ せい ゑ Ⅰの す曲ずア Ⅱ ひ ︵︵ @ ㏄ 臣ず曲セ がい︵ コへり年ぎ ー 田| セル うつ Ⅱ 甲コ 曲やセミコ P せぬ のⅠ コせ笘 ︵の , ロが ず 0 隼 ずの 寸曲圧イい ︵︵︶ 錨 ︵Ⅰ り ︵ コ ロノ ︵が︵ す リア @m 角ヰ セけ七 @ プ O 伍す笘ガの 任せの セい 茸山セ㌃ リセぺゆ宙 ぎくの︵ づ 円コ コリ の エ 。叶い 円 Ⅰ ゆ七 Ⅰ り目コ 曲中 せ P コせ曲侍す曲か仁ずヱオ釦 ︵ Ⅱ ゆ @d ︶Ⅰの︶ い ︵が @ が l ・ - コめ臣肘 リセ り @

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できる。すなわちすでに指摘されている如く ︵ l ︶ 、 も しウム ヴェー カ が カナクヂ のマショープルマン ハ ペ曲 か 。 せゅ Ⅱ ヨ 曲目︶十エ ︵ 2 り の 保護の下にあった詩人 バヴブ ーテイ︵ し 二の つりヴ オ里 むと同一人であることが め とめられれ ば、 マショーブルマン 王 ほ ついては、Ⅲ西暦七三一年中国へ大使を派遣し ていること、㈲その九年か十年後、カシミール の ラリターディト ヴ ︵ 3 ︶ ヤ ︵Ⅰの︶ 田 ︵ゅ田︵ ya ︶ 王 と戦って敗れたこと、が知ら れているから、ウムヴェー カ の年代は八世紀前 半 ということにな

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る 。したがってマンダナはそれ以前ということ になり、一応 セ 世紀後半がマンダナの年代として 想定される。 ところで伝説によれ ば 、ウムヴェー カ はクマー リラの弟子であって、その著コシュローカグール ティカ ヴ サーク ヤ ︵ 4 ︶ | ﹂︵ 凹 0 ア 4% ︵守がせ セ曲ヰアセリ ︶ は 、クマーリラの子 ヂャヤミ シュラ︵ オ鴻邑か ︵しと協力して作った ものという。また で ンダナもクマーリラの弟子といわれる。 ウムヴェ 1カ は マンダナの著作にも註釈を書いているの であるから、結局 ウ ム ヴェー カ はマンダナの後輩ということになろ - ワ 。しかし ウム ヴェー カは 、マンダナの 著 ﹁。 ハ| グナー ブ イ グエ ー カし ︵ 5 ︶ の 註釈において、多くの箇所で田寓目 巴手の ∼の曲 田コ 9 。 凹 ︵ er コド ︵ 申 40 日 9 田 品を挙げているから、 両者の年代の上の間 隔を余りせ ば めることはできない。 以上の諸条件を考慮して・マンダナの活動時期 を 西暦六七 0 年11六八 0 年を申心とするその 前 彼 とすることは、 作業仮説として一応みとめることができよう。 別言すれば中村博士の示された西暦六セ 0 午 七二 0 年 と同時代で あるが、ただその活動時期の中心を二十年程度 引き上げて考えるわけである。これほしかし ウム ヴェー カとバ ブブー テ ィ の同一人 説 が成立った場合のことであって 、 極めて暫定的仮説といわなければならない。 なお最後に ウム ヴェー カ の年代と関連してシ ャ |クヤ マティ 6 曲こう日が︵ @ ︶及び 力 ルナカゴー ミ ン 八パ 曲円弔 P 柑の㏄ 0 日 ご田︶ 0 年代について附言しておきたい。ダルマキール テ ィ の﹁ブラマーナグールティカ L に対する、 シャー クヤ マティの ︵ 6 ︶ 註と、力 ルナカゴーミンの 託 とがムロ致する点か ら ・前者が後者に依存していることが指摘された 。ところで 力 ルナカ コ ーミンは ウム ヴェー カ を引用している。︵ 7 ︶それゆ スカルナカゴーミンの年代の上限 は 、もし ゃム 、ヴェー カとバヴブ| ティとの同一人税が成立つならば八世紀前半 と 考えることができよう。シャー クヤ マティはそれ よりさらに後という ︵ 8 し ことになる。フラウ ヮ ルネルは、シャー ク ヤマ 一 ア イ に西暦六六 0 年 七二 0 年 という年代を附 しているが・もし ウ ム ヴェー カと バグ フ ーティとの同一人 説 がみ と められるならば・上記の理由によりこれは早きに 失することになる。 11 (261)

(13)

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︶拙稿﹁マンダナ

ミ シュラの著作﹂︵上掲︶

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その心理学的理解と宗教の立場

(15)

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宗教によって種々異なるニュアンスがあるとは いえ、多くの場 ムロ 、信仰主体の側における罪悪感 に 重要な意味を見 出そうとする宗教の立場からすれば、以上の記 述 によって明らかなように、フロイド的精神分析 学の罪悪感放神経症 理解には、決定的に対立せざるを得ない何かが あるといわなければならない。もちろん精神分析 学 と難も、その臨床

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二 、自責感の機能評価 罪悪感のもつ機能の 評価と神経症の病因論に関 - 嚇 して、精神分析学者の行う宗教批判の中にほ 、 宗教の説く罪悪 観 が 、罪悪感の中心機能である自責の念㊤の︵︵ 芭 。 目汁ョコ 燵 ︵ @0 さを強め、その故に却って、神経症 的 疾病状態を更に強 度 なものとするばかりではなく、現実に罪悪行 為を犯さしめることになるのだという非難が含ま れている。この問題㏄ については・既にその一部を論ずる機会があった が ︵拙稿﹁罪の心理と神道﹂神道宗教・第三十四号︶ 、 ここでは本論の主題 1

精神分析 学が 、科学としての理論と治療的 実 修の体系 であることを超えて、ある特定の哲学的・価値的前提 を持 つものであ ることは、多くの論者によって指摘されてきた。しか しそれでもなお、常に規範的な立場から出発しょう と し、 或はまた常に 規範を求めようとする立場に立っ宗教と、価値的・ 哲 学的前提を離れて出来るだけ記述 学 としての立場を守 ろ う とする心理学 とを、それが 隅 々共通の主題を取扱っている 場 ムロが あ るからといって 、 直ちに関聯づけて論じようとすること は 誤りである、 と い う 議論があり ぅ るかも知れない。しかし筆者は、 記 述 を主とする心理学と難も、その科学性を傷つけるこ となく、規範の間 頭 に関与し ぅ ると考えている。 G.W. オルポートは 、 人格心理学の分野においてこのことの必要性を提唱し 、現在は将にその ことの行われるべき時期であることを指摘しているが ︵の・

下 @0 臣 -" つめ せ いす 0-0 雙り主ぎ ︵ 0 年の㌃ fo ぺ 0 日 如か 臣 りの・ ヒ由曲 ⅡⅡ ゆ Ⅱ 笘 Ⅱ % 高ぃ︵ @o 目とオ のまの 毛,づ 0- ・ 簿 。 之 0. ナ ぶ ぶ 、筆者に とっては力強い証言だといわなければならない。

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ける責任、特に自我機能の自律性を 、 全く予想 していないとすることは極めて困難であるが、 し な 理解がなされた場合においてすら、そこには、 主体の側における積極的な価値判断と、それへ て ﹁かくあらねばならぬ﹂とする存在への関与 にもとづいた罪悪感が 、 何らかの意味づけを な さ てはいないように思われる。宗教が精神分析 学 的 罪悪感の分析、及び自我機能の分析を通じての 得ない根本理由の一 つ はここにある。 かし、例えそのよう の決断と行為によっ れる余地は与えられ 人間理解に、満足し 韓, 的な治療のテクニ イクと 治療目的をまで考慮に 入れて検討するなら、神経症的疾病状態に陥入っ ている主体の側にお

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(18)

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はないのかということである。この疑問は

一見して受ける印象ほど、決して矛盾した問い

かけではない。精神医学

的に判断せられる疾病概念には・単なる

記 述

的立場を超える事実への価値的態度が、大前提

として予想されているか

らである。そうして、このような疑問は

、古

小数の立場から精神治療友カウンセリングの分野

にかかわゆを持とうとす

神経症が病気ではなく罪であるという評価は

、マ

ウラーによって最も尖鋭な形で提起されている

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るとするのが彼の見解である。 マ ウラー以外にも同様な主張をもつ心理学者は多い。 例えば、ショウベンは、神経症も或はまた精神病です ら 、疾病の一様 態として理解するよりも、防衛的な生の様式であると 見徴 した方が一層事態を正確に見ることになろ うとい ぅ 意見を述べてい るし ︵ 巳 ・Ⅰの す 0 ヴ 0 コ ぢ @" 円 0 ミリ 乙 pOo コ 盤で︵ oh ︵ プの之 0 トヨル - 円円 er し o コい - ヌペ ・ @ レ ︵︶のⅡ @ 亡 のか コ目りリヒい す o-o ㏄ ヨい ︵。 びご 、またフラウ ニングも、神経症を病と見るのは環境条件を重視する ところから結果きれる見解で、若し人格の自由と責任 を 認める立場から 判断すれば、これを 罪 と見ることの方が正しいとして いる︵ し ・の 田 q0 ま日記 @" 戸ロ on 宙 ぎの 0 ︵︵ 訂卜 ︵。 コのぺぺ Ⅰのわ日 - ヰ Ⅰ。Ⅱコアの 年 すゼ円プハ @ 日 Ⅲの ぜ 。 す 。 円ず e Ⅰの で の けヰ - 。 吊ツ Ⅱ oc のお・し目 0 年日 コの ︶ 0 ヰづ曲じヰ 0 ︵ 臼いいお 。 づ臼 ・ ま 。 Z0. ど ぶ ど 。ナイトも、神経 症の最も顕著な特 色は 、 彼らが自己の弱点・過失を容易に認めながら、 それによって更に本質的な弱点・過失を見ることから 眼 をそむけている 点 にあるとし、この自己自身への不誠実に罪を見よう としている㊤・ ト ・ メ 三ぬ アニ " のの 了 @ 三田 ヨがコ毎づ の日 0 ず 0 い さ ゆ @ Ⅱの @ ㏄ @ い 00 ∼︵︶ つい Ⅰ い由 Ⅱ 0 品 C 串ぺ ・ " 弔俺 S0 Ⅱ ぃ ︶ 弓いせ 。 す 0 ︶ 0 ㏄ せ,づ 0-. トナ Zo.P の ど 。 もちろん此のような考え方が、実際の治療場面、特に 面接のテクニイークにどのよ フな 影響 音 持つのかにつ いては、問題が 残きれている。マウラーは、ロジヤーズの い ねめる 来 談 者中心療法を批判し、それがフロイドの立場と基本 的には何ら相違 す 善 二八八頁︶。精神病友神経症をも含む問題領域 の 根本的な解決は、それを病としてではなく、 罪 として扱うことにあ の他、反社会的行動現象の説明に当って、それは 社会全体が病んでいるからであるというような 言い方がなされる 場 ムロも、同様な基本的事実評価についての誤りが あり・疾病概念が不当に拡大使用されていると 主 張 するのである︵ 同 ではなく、自己の実践行動に対する道徳的自己 評 価の結果に体ならないとされる。従って・神経 症の治療に際し、 ﹁疾病﹂という判断形式によって、一切の道徳的 な 観念の導入を拒否することは、問題の解決を 根本的に不可能なら しめるばかりではなく、更に、人格成長の方向 を 決定的に誤まらしめるものですらあると考え も れる。今日、犯罪 そ 得ない根本の理由は、自己に対する存在の責任 き 、自己自からの内に負お う としないところに 由 来している。神経症の 者の持つ罪悪感は 、 決して、衝動的な欲求 と過 大 に成長した超自我機能との葛藤による空虚な 懲 罰 欲求に起因するの " 円プ ㏄の ぺずずぎ弔 隅斗 び 屯せの 目宙オの

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き 宮 り (271) 罪 実存分析は神経症を病と見る。しかし、 そ れは同時に、病者の中にすら、自から主体的に自 からに対して責任を持ち な

め ・ アヰく クル著作集 七 ﹁ 識 られぎる 神 ﹂佐野・木村 訳 神経症者の行動は、運命的に不可避な 身の精神的な態度がかかわっているから り判断は、自己の現状 及 その行動に関す 概 することを意味している。このような ある。もちろん、神経症には種々の類型 ることは出来ない。従って、神経症者が かし、そのような疾患を形成せしめたも み すず書房︶。 罹患の単なる結果として考えられてはならない。 そこには必ず、神経症者 自 である。例えば、﹁自分は病気なのだ。病気で あるから仕方がない。﹂とい る 事実認識を超えて、神経症的行動を許容 し ・ 神 軽 症的状態にある自己と 妥 心理的態度こそ、将に神経症を神経症たらしめ ているものに体ならないので があり、その病態には体質的な基礎条件に依存 するもののあることを否定す その臨床的な症候 八 疾患Ⅴに対して責任がある というのは誤りであろう。 し のが、外ならぬ神経症者自身のそれに対する 態 度 であることを忘れてはなら

体が 、自由意志に よ る断念に外ならないと考え られるからである。従って 、 彼のいう実存分析 と ロ ゴテラピーは 、こ のように人格にとって不可分な自由に対する責任 き 、人格としての個々人に意識化させることを 目指しているプラン サ刊 坤 臣 配されている状態であるとしても、人格に本来 的な自由は決して失われているわけではないひ 何 故 なら、そこにはな お、 自からを本能の駈り立てるままに任せている 自己が存在しているからであり・自由の活用を 断念していること 自 蝸

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筆者がこの小論で試みようとしたのは、不安心 情 、特に罪悪感を主兆候とする神経症が、心理学 ・精神治療学友 医 学の立場から、従来は疾病という概念によって 包括される異常状態として取扱われて来ており、 かつ、そのことに 基 本 的な疑問を持たないままに放置せられている のだが、心理学そのものの理論的展開と並行して 、宗教の立場から 考 察した場合に 、 果してこれには何らの本部ムロも ないのであろうか、という単純な疑問を追求して みようとすることで あった。それは更に包括的な立場から表現する なら、宗教が世俗的な心理学による人間理解と、 如何なるかかわりの 在り方を持ちうるのであろうか、という問いに 対する解答の試みであるといってもよい。特に カ ウンセリングなどの 如き臨床的な問題場面においては、このような 疑問が 、 避けることの出来ない切実緊急の課題と して、我々の前に提 示されているのである。 ここでは・臨床的な問題処理の方法について論 ずることはしなかった。寧ろ神経症についての 墓 本 的な事実判断 と 、その評価が当面の中心的関心事なのである。 そうして、宗教が神経症を罪と見ることの意味 とその理由が 、 主と して て ウラーの精神分析 学 批判を手掛りとして 検 記 されたのである。 罪 マウラーは精神医学者であり、神学者で はない。彼の発言、 或は 問題の提起は、すべて 心 理学の次元においてなさ とれたものである。しかし。神経症が病では なく罪であるという命題には、どうしても神学的 臭気のあることを否定す 症 るわけにはゆかないという立場もありうる であろ ,フ ︵ し ・Ⅰの 毛ず - 。 し 0 弓の鵜 す 0-0 ぬゼ曲コ年円 すの 0-0 簿 いつ の ド 戸叶 甘 りのが日の ヴ笘コ のロ ハ のの づヒ ︶ 経円訂目 0 目 コ田 oh 宮井 0 ∼巴の ド ︵の。 づ 0 デパく 目、 之 0 ダぷさ 。事実、多くの宗教が 、 特にキリスト教の 如く、人間がその本性に︵ 神 おいて罪を脊負っているとする立場の宗教 が、 病を罪の結果であるとする信仰的・神学的判 断を下しているのであ㌍ 五 、問題の位置づけ

(25)

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ャ 、 ﹁古沢平作博士はかって、神経症をただ治すというだけ なら新興宗教の方がよく治る、神経症は治らなくても よい場合がある と 言われたというが、分析療法の構造のなかには、 そ のように治癒という目的をこえた、より高い志向が含 まれていると @ え よ う 。﹂と述べている︵周書﹁訳者あとがき﹂・ 二 0 九 頁 ㍉アメリカにおける 新 フロイド派、及び人格心理 学の分野に属する 人々の中にも、同様な傾向が見出せることはよく知ら れている。 神経症を罪とする認識・判断は 、 罪の概念規定 にかかわる問題と併せて、各宗教が 、 夫々の神学 的な立場から、 独 白の実践神学的な理論展開をなしうるし、また そのことほ当然要請せられるであろう。宗教的 カ ウンセリングの如き 臨床場面においては、 繊悔 ・ 贈罪 ,祈り・救済 ・解脱,開悟・ 被 ・むすび等といった実践的課題 との関係を究明 す る ことも考えられなければならない。それほ、英米 法 におけるマックノートン 法 ︵田の口。 争的 ぎの コ オ田 9 ︶がもたら した論議と同種の課題を・宗教心理学の分野に提 起するものであるといってもよいのでほないだ ろうか。 25 ︵三九・ ハ ・二五︶

(27)

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(28)

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ちなみにⅢの当該個所をみると、次のことく 説 かれている。 ﹁須菩提 よ、 夢の如く実体を有せず無実体を自性とし、 宮相上空であり、一切 種 清浄となった所の、かの一切 の 無漏法の自性 は 、 一相 にして無相である。それ 雀ゅ漏 法の自性︶が 如来阿羅漢等正覚であると知るべきである。須菩提 よ 、菩薩摩 詞薩 はか マ丁ア """ ナ 従って、この四部の各々について、その仏身論 を 考察すべきであるが、Ⅲと㈲に は 彼の特色ある 仏身論は述べられ ていない。

論 本 東北目録によると、五部の書が ハサ バ トラ に 帰 せられている。その中、当面の問題である仏身論 に 言及するのほ 次 ︵ 7 ︶ の 四部である。 ㈲般若波羅蜜多二万五千 頚 ︵ 之 0. びま = ㈲般若波羅蜜多八千 頗 解説・ 現観 荘厳明︵ z 。 乙 べの ︶ - 以下本書を﹁大話 ロと 称す︶ ㈲薄伽梵功徳 宝集頚 難語釈︵ 之 0. ミ篤 ︶ ㈲般若波羅蜜多 優 破堤金輪親親荘厳と名づくる 註 ︵ Zc. ピ聾 以下本書を﹁小誌 ヒと 称す︶

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いて検討を加えることにする。管見によれ

ば、彼

の 仏身論にはユニークな点があり、インド仏教

史上注目す

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有しているからである。

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ハリバ ふうの仏身論 以下

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同一である。但しこの場合、法身 の 語は三身の綜括的名称で、 楡 他行 旅 における 如 く 自性身の異名とし ては 用いられていない。 ︵ q. ︶ さて、問題は㈲と㈲である。この 雨 註釈書の中 に 特異な四具 説 が説かれている。そこで以下、 , ﹂の 雨 註釈 書 、就中 ︵ 円 ︶ 後者の﹁小誌已に基づいて論述を進めてゆこ う ﹁小詰﹂は正式の標題が示すごとく﹁親親荘厳論 碩 ﹂の註釈 書 である。従って 一 論の構成がコ論 頚 L のそれに副って いることほ云 う までⅠもない。﹁ 込珊頗 ﹂によると、 全八章 は ﹁ 境 乱ゆ りせ曲 ﹂、﹁

行笘

のぜ 0 ぬ斡 ﹂、﹁果で ア 曲宙 ﹂に三分される。 ︵:,レ ー, 即ち第一 | 第三章が﹁ 境 ﹂に、第四 | 第セ章が ﹁ 行 ﹂に・そして第八章が﹁ 果 ﹂に配当される。

一輪をこのように︶

境 、行、果と組織的体系的に構成している点は たとえば無着の摂大乗論と軌を一 こする。︵ @ i 2 レ そ してまた﹁論 頚

﹂がの

﹁ 果 ﹂において仏身を論じ、かっ 、 と 。これは、いわゆる自性 身 、受用身・変化身 の 三身 説 で、大乗荘厳経論等に説かれる 楡 他行 派 のそれ︵本論三五頁 '" 。 @;.;<",y@ ・ 巨, @'. ゴ ー ,. せ '-.@@ 須

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(30)

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八 自性 身と 、 有 受用︵の キ 約日 ヴア oga ︶の 穿 と 、同 様に他は変化身と、有事業︵雀荘 簿ぎ じの法身 とで、四種であ ︵﹁ l, 3 ︶ る 、と説かれる。Ⅴ と 、四種の名称︵即ち自性 身 ・受用身・変化身 ・法身︶を用いている点も摂大乗論等と同様であ る 。ただ摂大乗論等 は 自性 穿 と法身とを同義異名と解する。従って 、 自性 身 と法身とを同一とみるか別異とみるかに よって、三身 説ど四 身説 とに見解が分れてくるわけである。 ハリバドラ は、第八章の註釈の冒頭に 、 ﹁一刹那親等覚を修習したものは、第二刹那に 法 身を現等覚する。そしてそれ︵法身︶は自性 身 等の差別によっ ︵ 4. l ︶ て 四種である。﹂ という。これでみると、彼は法身の語を綜括的 と 個別的との二様に用いている。即ち前者 は 第八 章の標題﹁法身魂 等 覚 ﹂︵ 笘ず 代目 麓ォぜ甲 洋三さ 呂す 0 らず 斡 ︶に用いられ 6 場合であり、後者 は 四種に類別された中のそれ である。法身の語を このように二様に用いる例は成唯識論に見出す ナ ︶と三できる。 力 ︵ l , ︶ その点はともかくとして・彼は 、 この冒頭の言葉にお いて、自性 身 と法身とを 別 立した 四身 説を主張し ている。とすれ ば 、ここに一 つ 問題が起る。 な ぜなら、彼は﹁親親 荘厳論 頚 ﹂の仏身論を三身 説 ︵即ち著作Ⅲと㈹︶ と四身説 ︵著作㈲と㈲︶との二様に解釈している ことになるからであ る 。何故、このような異なる二説をなすに至っ たのであろうか。ハリ バ ドラ自身の思想上の変化 によるものか、それ とも三身説を説く田及び㈹の著者に問題がある の、、カ 目下何れとも決定し難 ︵ 6 1 レ ㎏ 。 ただ 四身説がハ リバドラ の 創説 であ ることはインドにおいても承認されていたよ う である。即ち 、レすァせ卸 打銭 曲再仁 コ簿は﹁その建立 ヘ 即ち法身を自性 身ょ ︵ リ l, 7 ︶ り別立 すること︶は、ハリ バドラ の懇意︵︵の中年 すの 卜 ︶によるもので、 遮 遣すべきである。﹂と 述 へている。もっとも 彼の言によると、 四身 説は必ずしも一般的には 承認されていなかったようであるが。 (2 ㏄ ) 30

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