法 宗 教 学 の 思 想 史 的 意 義 五 回
法霧教学の思想史的意義
1 1 8 ﹃ 日 渓 三 書 ﹄ を 素 材 と し てl
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次 は じ め に 一 ﹃ 日 渓 三 書 ﹄ 解 題 二法霜教学の課題ω
﹁ 正 学 ﹂ 樹 立 の 基 本 姿 勢 帥民衆教化の論理 目 は じ め に ① 日 渓 法 案 、平2
厚
主
士 山固た
三法霜教学の特質ω
﹁ 兼 学 ﹂ 的 狼 拠 伺﹁円解﹂思想 む す び に か え て 彼は江戸中期西本願寺派第四代能化︵在職、享保 21 寛 保 1 ﹀ に し て 、 初期真宗学確立期といわれる学林 能化時代の頂点に位置する著名な学匠である。法森教学の宗学史ハ真宗学史﹀上での評価・位置づけについては、明治 @ 期以来、前回慧雲博士をはじめとする宗学大家によるあまたのが高説あり、さらにその上に一言を加える余地のない かのごとくであるが、今から約二十年前、薗田呑融氏が法課教学の思想史的意義の再検討を促すベく次のような問題提起をされていたことは、近世仏教思想の見直しが要請されている現況の中で再読するとき、 なお重要な研究課題の 残されていることを示唆せしめる。 人はしばしば能行説と所行説を簡単に対比し、 かつ本来親驚の教学の内部に内在していたもので、それが時代 の 推 移 と と も に 顕 彰 さ れ た と 、 説をはじめて明確にすることができたのは、︵換言すれば親驚教学の中にそれを発見しえたのは︶、 いともたやすく考えがちであるが、問題はしかく簡単ではない。法震が法体大行 かれの天台や 華厳ないしは仁斎の古学などにも及ぶ広汎な諸学探究の結果にほかならぬ。かれの法体大行説のみをとり上げて 高 い 評 価 を 下 だ し な が ら 、 一方ではその原因をなした諸学研究の必然の成果ともいうべき対鳳揮論争の片言双句 をあげて、聖浄混請の過失をつくようなことは、正しい思想史的考察とはいいがたいであろう。これを要するに ③ 法案の対外論争と宗学思想には不可分の内的関連があったといわねばならぬ。 法案の広汎な諸学探究の学識に鑑み、従来よりの宗学史的評価に対する鋭い批判と、広く近世思想史上での位置づけ の必要性を提起されたものと受け取れる。そして、薗田氏自らも法案教学への考察を深められ、 ﹁ 知 空 以 来 の 能 行 説 で固められた学林の中へ、絢欄たる学識をふりかざして宗学に新傾向を吹込んだ法案のデビューぶりは、 まことに華 やかなものであった。そのかげには伝統派からの根強い抵抗があったにもかかわらず、少くともかれの生存中には、 めだった反対は起らず、学林の内外は法震の所行説によって風麻酔されてしまった。真宗教学は僅々二十年程の聞に、 ③ 能行説から所行説へと百八十度の転換をとげたのである﹂と、結論づけられた。ところで問題は、言われるところの 所行説への学説転換が、思想史的には如何なる学文的背景のもとに行なわれ、 かっそれが如何なる意義を持つのかと いう点にあると思われるが、薗田氏は﹁法案の本派学事史上に果した役割は、近世的展開を教学の上に実現したこと ⑤ 、 に求められなくてはならない﹂と展望されるのみで、﹁近世的展開﹂の内実については言及されないままとなってい 法 震 教 学 の 思 想 史 的 意 義 五 五
法 宗 教 学 の 思 想 史 的 意 義 五 六 る
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近年、近世仏教思想を近世思想史上に位置づけ、とくに幕藩制イデオロギーとしての仏教思想の歴史的位置を跡付 けんとする試みが盛んである。なかでも、幕藩制国家のイデオロギーとしての自己形成をめざした主体的・能動的な 思想だったという意味において﹁幕藩制仏教﹂と促え、かつ中世仏教思想史との連続性の中で近世仏教の全体像を構 築せんとして、目下、精力的な仕事をしておられるのが大桑斉氏である。大桑氏は、言われるところの﹁幕藩制仏教 ﹁法震の教学は真宗を大乗仏教に解消す @ るのではなく、逆に真宗教学としての自律性において大乗仏教を包摂せんとする﹂ものであったとし、その際﹁華厳 @ 的思惟を普遍的なものとして前提としつつ、個別的自律性の確立をめざし﹂、もって﹁幕藩制仏教を形成﹂する一翼を の形成﹂という視野の中で他宗派の仏者とともに法諜思想にも言及せられ、 荷なったとされる。ところで、大桑氏においては、 ﹁幕藩制仏教﹂の基本的思惟として仏者の思想に規定性を与えた のが、唯心浄土・己心弥陀という民衆に内在する﹁﹃心﹄の自律性﹂であったとされ、この基本的思惟をもって﹁幕藩 制仏教﹂を成り立たしめる論拠とされるが、氏は近世仏教を﹁幕藩制仏教﹂として位置づけることに性急なあまり、 ﹁ ﹃ 心 ﹄ の 自 律 性 ﹂ な る 概 念 を 固 定 的 ・ 非 歴 史 的 概 念 に 陥 れ て し ま っ た 嫌 い な し と し な い 。 法 震 教 学 の 形 式 に お い て も 、 法震のめざす真宗の﹁自律性﹂を、当代諸思想の中でどのように位置づけ、 かつまた言われるところの民衆の心に内 在する﹁自律性﹂をどのように取り込むことによって教学形成に向ったのか、そうした問題については一向に明らか で は な い と い え よ う 。 本稿では、以上のような研究状況を念頭に置きつつ、法案教学の近世思想史上での位置を確定するための端緒とし て 、 ﹃ 日 渓 三 書 ﹄ ︵ 以 下 、 ﹃ 三 書 ﹄ と 略 称 す ︶ を 取 り 上 げ る 。 周 知 の よ う に 、 ﹃ 三 書 ﹄ と は ﹁ 学 則 ﹂ ﹁ 独 語 ﹂ ﹁ 鳥 語 ﹂ を 合 綴 し た も の で 、 数 多 い 法 震 の 著 述 の 中 で 、 後世まで最も愛読されたこともあって、 宗 派 内 で は 余 り に も 著 名 で 、﹁学則﹂にいたっては現在ひろく利用されている﹃僧侶必携﹄にもその一部が資料として掲載されているほどである。 いま改めて素材として取り上げること自体に問題性を感じられる向きもあるかもしれないが、法震が﹃三書﹄を述作 するに至った動機や、そこに断片的ながら散在する法案教学の片鱗を窺うとき、 われわれは﹃三書﹄を通じて法宗教 学の思想的課題や特質がいかなるところに所在するのか、その手懸りを得ることができるであろう。ところが、 =司 書﹄の著名などにはその思想史的重要性が見過され、従って未だ正当な位置づけもなされていないのであり、ここに 敢えて取り上げる所以である。 ﹃日渓三書﹄解題 ﹃ 三 書 ﹄ と は 、 ﹁ 学 則 ﹂ ﹁ 独 語 ﹂ ﹁ 鳥 語 ﹂ を 合 綴 し た も の で 、 僧銘︵僧僕門人、法豪弟子︶の後序を附して安永九 年京都銭屋・丁字屋から刊行されたが、この﹃日渓三書﹄こそ法震の数多くの著述の中で、後世まで最も広く愛読さ れたものである。以下、内容の性格上、 ﹁ 学 則 ﹂ と ﹁ 独 語 ﹂ ・ ﹁ 鳥 語 ﹂ に 分 け て 若 干 の 解 題 的 検 討 を 加 え て み よ う 。 ﹁ 学 則 ﹂ の 成 稿 は 、 ﹁学則﹂末尾門人南麟践によると﹁享保十五康成季夏﹂とあるから、 一 七 三
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︵ 享 保 日 ︶ 年 、 法 震三十八歳の時と考えられる。この時期の法震は、能化若震の後継者としての信任あつく、学林きつての俊英として 重きをなし、代表作の一っと考えられる﹃阿弥陀経聖浄決﹄二巻をまとめたのは、 ﹁ 学 則 ﹂ 成 る 前 年 ︵ 享 保 M ︶ の こ と で あ っ た 。 ﹁学則﹂の出典については法案自らは明かにしていないが、注釈書によれば、唐の﹃管子﹄弟子職篇に﹁学則﹂の 二字が見えることに拠るという。しかし、例えば僧錯著﹃日渓学則聞信紗﹄にしばしば登場してくるように、享保十 二年刊の﹃但棟先生学則﹄に触発されての述作であったことを窺わしめる。井上哲雄著﹃真宗本派学僧逸伝﹄﹁法案﹂ 法 宗 教 学 の 思 想 史 的 意 義 五 七法 森 教 学 の 思 想 史 的 意 義 五 /¥ の 項 に よ れ ば 、 ﹁日渓学則の著作に至っては機軸を祖徳学則に取ると離も、宗侶之に由て始めて学問の用心を知る﹂ とある。但し、それが学問方法・思惟様式においていかなる影響を受けたのかについては、今後さらなる検討を必要 と し よ う 。 と こ ろ で 、 ﹁学則﹂は法霧門下の学侶を対象にして示された真宗学徒の学問規則だが、門弟達にどのように位置づ けられていたのだろうか。僧錯の﹃日渓学則間信紗﹄に、 ノ 如 ク 、 余りト云へトモ五百年来、吾宗−一於テ学文ノ事ヲ大キユ教ヘタルハ是カ始ナリ。古来学文ノ事ヲ一 E − 一 付 テ ハ 今 カナ掬キ シカト手本−一定メテナケレトモ、西吟師講堂建立ノ序、或ハ恵空師ノ叢林業、近頃恵然師ノ和字ノ学則 アリ、此等ノ短章長文、或ハ漢語和語ニテ伝ルコト幾計アレトモ、或ハ不具或ハ大器量ヲ育ルニ共道狭シ。 r
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中 略﹀古来今コレヨリ外ニナシ、此云ヘハ六十余州此学則ニ離レテ外ニ学文ノ手ヨリハナキヤウナリ。宿植善根ノ 人ハ各別吾党ノ学則ニテ実ニ天下ノ祖宗門下ノ学則ナリ。余レトモ卑謙シテ日渓学則ト云、但徳学ハ儒者ノコト ナ レ ハ 、 至 日 / \ テ 父 母 ヲ 顕 ス 、 コレカ彼家ノ要ナリ、今ノ学則ハ日渓師如実修行ヨリ出ルナレハ、 一 挙 百 話 ノ 金 言 深 グ 信 ス ヘ シ 。 ︵ 一 J 二 丁 ﹀ とある。法震門下に連なる注釈書ゆえ珊か誇張もあろうが、学林教学の本格的な手引書であったことがわかる。 ﹁ 学 則 ﹂ は 広 汎 な 学 識 を 踏 ま え 、 かつ﹁学則﹂にふさわしく筒明にまとめられているために、注釈なしには読みこ な す こ と が 難 し い 。 一つにはそのためか、異例に多くの注釈書が書かれている。刊本としては泰運著﹃日渓学則解﹄ 一 巻 ︿ 明 和 八 年 刊 、 平 安 書 林 、 龍 谷 大 学 図 書 館 蔵 ︶ が あ り 、 写 本 と し て は 玄 珠 著 ﹃ 日 渓 学 則 考 証 ﹄ 一 一 巻 一 冊 ︵ 嘉 永 三 年 、 龍 谷 大 学 図 書 館 蔵 ︶ 、 僧 舘 著 ﹃ 日 渓 学 則 聞 信 紗 ﹄ ニ 巻 二 冊 ︵ 宝 磨 二 年 、 龍 谷 大 学 図 書 館 蔵 ﹀ 、 鳳 令 者 ﹃ 日 渓 学 則 和 解 ﹄ 一 巻 ︵ 明 和 元 年 、 龍 谷 大 学 図 書 館 蔵 ﹀ が あ る 。 さ ら に 未 見 写 本 に 覚 了 著 ﹃ 日 渓 学 則 科 文 ﹄ 一 冊 、 仰 誓 著 ﹃ 日 渓 学 則 裳 筆 ﹄ 一冊、僧銘著﹃日渓学則講要﹄二巻二冊、僧朗著﹃日渓学則綱要紗﹄一巻、著者不明﹃日渓学則義記﹄二冊などがあるとい
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次 に 、 ﹁ 独 語 ﹂ ﹁鳥語﹂に言及しよう。ともに日野正崇寺に自筆本を蔵するが、その成稿年月は不明である。ただ ﹁ 学 則 ﹂ と 合 綴 さ れ て い る と こ ろ か ら 、 ﹁学則﹂に前後して執筆されたものとほぼ推測できよう。写本は龍谷大学図 書館・尊経閣文庫に蔵するが、注釈書の一本もないのが﹁学則﹂のそれと比してきわだった相違をみせている。それ は、おもに﹁独語﹂﹁鳥語﹂の内容的性格によるものと思われる。﹃浄土真宗教典島第二によれば、 ﹁ 鳥 語 ﹂ は ﹁ 聖 浄 並 論 、 内 外 交 言 、 蓋 一 時 筆 語 、 頗 似 一 一 竹 窓 随 筆 之 様 こ と い い 、 ま た ﹁ 独 語 ﹂ に つ い て は ﹁ 体 裁 粗 与 ニ 鳥 語 一 向 、 或 云 、 両 書 之 差 微 意 自 見 ﹂ と 評 し て い る 。 ﹃ 教 典 志 ﹄ の 記 述 は 、 き わ め て 簡 略 だ が 、 ﹁ 聖 浄 並 論 ﹂ ﹁ 内 外 交 言 ﹂ と 総 括 し 、 かつ明末万歴三高僧の一人である株宏の﹃竹窓随筆﹄との類似を指適するなど、両書の性格を適確にいい当てている。 ⑪ す な わ ち 、 両 書 と も 漢 文 章 立 て な し の ︿ ﹁ 独 語 ﹂ は 二 十 六 篇 、 ﹁ 鳥 垣 間 ﹂ に は 四 十 二 篇 ﹀ 短 文 に よ っ て 構 成 さ れ て い る が 、 内 容 は頗る豊富で、取り上げられている話題は、真宗教学論、浄土教論、聖道諸宗批判、宗界批判等、当代仏教界の抱え 込 ん で い た 諸 問 題 を は じ め 、 ﹁外教﹂の易学、先王・孔子学・老荘思想に親近性を示しつつも、孟子・朱子・仁斎学 には痛論を浴せるなど、実に多方面にわたっており、法案独自の風格と卓識には、 一 驚 を 喫 し え な い 。 ﹃ 教 典 士 山 ﹄ で この両書が﹃竹窓随筆﹄を扮儲併せしめると指適されたが、それが単なる摸倣でないことは、この﹃竹窓随筆﹄を解題 した荒木見悟氏が﹁﹃竹窓随筆﹄がこれだけ周到に時代の急所にふれる問題意識をもっていたればこそ、それは当時 ⑪ 、 の知識人に愛読され、すばらしい感化を及ぼし得た﹂と論評された内容が、﹁独語﹂﹁鳥語﹂を熟読すれば、ある意 味では法震の場合にもあてはまるのではないかといっても、株宏や荒木氏に対して借越・非礼にはならないのではな い か と さ え 思 わ れ る ほ ど で あ る 。 法 宗 教 学 の 思 想 史 的 意 義 五 九法 宗 教 学 の 思 想 史 的 意 義 六
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法霧教学の課題
(イ) ﹁ 正 学 ﹂ 樹 立 の 基 本 姿 勢 ﹃ 一 一 一 書 ﹄ は 学 文 の ﹁ 次 第 ﹂ ﹁ 本 末 ﹂ を 明 確 に し て ﹁ 正 学 ﹂ 樹 立 の 筋 目 を 立 て よ う と し た も の だ が 、 法 案 を し て ﹃ 一 一 一 書 ﹄ 述 作 へ と 意 欲 せ し め た 動 機 は 、 一つには当代仏教界諸宗僧侶の堕落ぷりと、二つには。承応の閲摘。沈静後の学 林教学の形骸化への鋭い批判が胸中にあったからだと思われる。まず、名聞・栄達の心たくましき諸宗僧侶のあり様 を断罪する法震の言辞は、まことに手きびしい。その一端を紹介してみよう。 は し い た わ が ま ま 者、利に趨らざれば則ち名のため、誕に之らざれば則ち放なり。是を以て教え弥三両うして、人弥ミ卑く、理弥ミ , 、 ら 明 か に し て 人 弥 ミ 昏 し ﹂ ﹁ 近 き 世 に 之 れ ︿ 仏 教 | 平 田 註 ﹀ を 学 ぶ ハ ﹁ 学 則 ﹂ 白 序 ︶ 、 ﹁ 口 に 空 理 を 談 じ て 、 心 に 世 栄 を 慕 ふ 。 争 衡 抗 静 の 情 、 尚 ほ 俗 よ り も 大 な り 。 我曹泊諮として皆是れなり。塘を隔てて皆を致す、門を並て誹詩す。世俗の所謂る有礼の土たるも及ばず、有心の者、 誰 も 恥 と 為 さ ず ﹂ ︿ ﹁ 独 語 ﹂ 3 ︶ 等 々 。 か く し た 僧 侶 の 堕 落 を 招 い た の は 、 ﹁ 教 の 倒 る ﹂ ︵ ﹁ 学 則 ﹂ ﹀ た め な の か 、 い ず れ に せよ、仏道に﹁志﹂ある者は、この憂うべき実態を仏教界全体の危機的事態として受けとめるべきことを学徒に促し ている。そうした危機意識の自覚は、法震をして諸思想一致的視野における﹁正学﹂樹立へと向わしめることになろ う 一 方 、 学 林 教 学 の 形 骸 化 へ の 批 判 と い う 点 に つ い て 、 法 震 は 学 林 教 学 の 荷 な い 手 と し て の 境 遇 に あ る た め に 、 上 掲 の 僧 侶 批 判 ほ ど に 歯 切 れ は よ く な い 。 し か し 、 例 え ば ﹁ 浄 門 の 徒 、 ま た 閥 解 せ ず ば 見 識 浅 闘 に し て 説 は 融 即 せ ず ﹂ ︿ ﹁ 学 則 ﹂ 開 解 章 ﹀ ﹁ 解 と は 何 ぞ や 、 日 く 、 大 乗 経 論 に 就 て 融 会 す る な り 。 : : : 文 に 就 て 義 を 解 す 、 之 れ を 義 解 と 調 ふ 、 文を離れ て 義 を 解 す 、 之 を 円 解 と 謂 ふ ﹂ ︵ 同 右 ︶ と い う と き 、 ﹁融即﹂﹁融会﹂を内実とする﹁円解﹂の主張が先学能化の知 空や若葉の教学にはほとんどみられない法粟教学の創見であり、その立場から﹁融即﹂を伴わない﹁義﹂のみによる 学解が批判されているものとすれば、 ﹁義は局すればなり﹂﹁義解は我法に長ず︵執する意︶﹂という、やや抽象的な 表現とはなっているものの、知空・若震などの教学が結果的には﹁義解﹂に執着することによって﹁見識浅晒﹂に陥 っていることを暗に批判したものと推察することができよう。実際、薗田氏の指適されたように、 ﹁ 知 空 以 来 の 素 朴 なる能行説で固められていた本派学林の中に、絢欄たる学識をふりかざして、本派教学に新傾向を吹込んだ﹂のは、 ほかでもない法案だったのである。 さて、このように仏教界全体を閉塞的状況として危機的に眺望していた法案は、だからこそ軒 b p ﹁ 正 学 ﹂ 樹 立 を 己れの緊要な課題として、そのため学文の﹁次第﹂ ﹁ 支 本 ﹂ を 明 示 し よ う と し た の で あ る 。 で は 、 ﹁ 正 学 ﹂ 樹 立 の 基 本的立場はいかなるところに置かれるべきか。 ﹁学則﹂自序に法震の基本姿勢が示されている。 菩祖之を五百年に察して、義を真俗の聞に立て、意に両忘を欲するなり。其れ真なる者は華厳・法華よりも高 し、其れ俗なる者は人天教に寄る、麻酔鹿として地に委るが如く然り。人其の卑を見て其の高を見ず、吾れ之を慨 嘆する所以なり。有も法を弘んと欲せば、須く此に由るベし、而して他に従ふ勿れ。 ﹁義を真俗の間に立て、意に両志を欲するなり﹂とは、 ﹃ 聞 信 紗 ﹄ ﹃和解﹄等の注釈書によれば、真・俗両諦にわた っ て 宗 義 を 建 立 す る こ と に よ っ て 、 いわば意図的に両諦への関わりを忘却せしむるといったあり方であるという。 ペ コ まり、真俗二諦の立場をつとに蘭明にしたもので、如来への奉仕と王法・国法への奉仕を促したものにほかならない が、ここで改めて留意すべき点は、 ﹁意に両忘を欲する﹂との典故についてであろう。 ﹃ 学 則 解 ﹄ に よ れ ば 、 ﹁ 両 忘 ﹂ の出典は﹃荘子﹄内篇・大宗師篇・第六﹁其の莞を誉めて築を非らんよりは、両忘して道に化するに如かず﹂に基く 法 宗 教 学 の 思 想 史 的 意 義 ム ノ、
法 集 教 学 の 思 想 史 的 意 義 ム ノ、 ものだという。尭を聖天子としてほめたたえ、築を暴君としてそしるのよりは、どちらのことも忘れて絶対の道と一 ⑫ 体となる方がまさっている、とする荘子的政治思想の表明だが、 ﹃ 学 則 解 ﹄ の そ の 指 摘 が 当 て い る と す れ ば 、 ﹁ 意 を 両忘に歓す﹂という表現は、真諦門・俗諦門に創刊牒を生じさせることなく、知らず知らずのうちに両諦にわたって宗 義を立てるということであり、そうすることによって名聞・放逸に堕すことを防止し、 か つ 教 化 の 実 効 も あ る は ず だ 、 との法震の意図が働いていたと思われる。彼のその基本的立場は孫弟子僧鋸によって、さらに具体的な説明が加えら れ て い る 。 余 レ バ 祖 師 ノ 建 立 ハ 義 ヲ 真 俗 ノ 間 − 一 立 ル ハ 双 照 − 一 テ 亦 真 亦 俗 ナ リ 。 此 亦 真 亦 俗 ヨ リ 非 真 非 俗 ニ 入 ル 、 今 日 ノ 我 人ハ非真非俗ヨリ入テモ亦真亦俗ニ出ル、在家出家、善悪男女ニヨラス此身ナカラ本願大智海ニ入レハ、 夕 、 難 有ト云言ハノミ残テ身ノ上ヲ忘レタリ、身ノ上ヲ忘レタレハ非真非俗ナリ、其上王法国法ヲ守ルハ双照ニテ亦真 亦 俗 ナ リ 、 可 知 、 コレカラミレハ七祖相承シ玉ノ他力ノ信心ハ非真非俗ナレトモ、今日ノ我人ニ合点サセン為ニ 太子ヲ借テ、亦真亦俗ト全備シ玉フコトナリ、此全グ祖師ノ自力ニ玉フコトニ非ス、大経ノ宗致ナリ ︵ ﹃ 間 信 紗 ﹄ 本 、 十 七
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十 八 丁 ︶ こ こ で は 、 他 力 の 信 心 に よ っ て 己 れ を 忘 れ し む る を ﹁ 非 真 非 俗 ﹂ 、 国 法 へ の 遵 守 を ﹁ 亦 真 亦 俗 ﹂ と 規 定 し 、 そ の 双 方 に渉って﹁義﹂を立てて﹁双照﹂するは﹁大経ノ宗致ナリ﹂という論理が展開されているわけだが、こうした僧舘の 理解の拠り所は、﹁是レ私自一弁スルニ非ス、如此妙義ハ笑榔管、折衝篇処々ニ聞説スル処ナリ﹂として、法案の﹁妙 義﹂であることを強調していることからして、法案教説の敷街であることが推察される。そして真俗両諦にわたる この﹁妙義﹂は、法案によれば﹁麗麗として地に委るが如く﹂だという。傍点部がこれまた﹃荘子﹄内篇・養生主篇 @ 第三の一節﹁土の地に委るが如し﹂に拠っていることがほぼ間違いないものとすれば、その意はまるで土くれがもとの大地に落ちたときのように、ことさら﹁土﹂と﹁地﹂を切離したという形跡が残らない見事さを表現したものだか ら、法案がこれに拠って意図するところは、真諦と俗諦を知らず知らずのうちに﹁融合﹂させて、両諦の創刊牒を無化 す る こ と で あ り 、 よって﹁有も法を弘んと欲せば、須く此に由るベし﹂ということごとく、真俗不二の教説を、教化 の最良の方法として称揚するのである。 かくみてくると、法震のいう﹁正学﹂樹立の基本方針は、 ﹃荘子﹄を援用しての﹁融即不二﹂の論理で貫かれてい ることが明かであり、こうした基本姿勢のもとに学文の荒廃を匡し、教化の実践理論を構築せんとしたのである。 で は民衆教化の具体的方法について、彼はどのような思想を展開するのだろうか。 ロ民衆教化の論理 法案にとって主要な教学的課題は、近世中期における民心の複雑・多様な実態を踏まえて、民衆教化のあり様を教 学として樹立することであったと思われる。以下、その経緯を考察しよう。 法案は学文の帰結する所として﹁報恩﹂を重視し、 ﹁ 学 則 ﹂ 第 一 章 に 配 置 し て い る 。 す な わ ち 、 仏 の 恩 は 一 ニ 世 に 通 じ、報は現未に亘ることを明らかにし、 かつ仏教﹁四恩﹂論︵父母の恩←国王の恩←師長の恩←世尊の恩という小よ り大に向う階程的﹁四恩﹂︶を展開しているのが報思章である。ところで、人は﹁世尊の思﹂
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仏 思 を 知 り う る の か 。 法 案 の 衆 生 論 に よ れ ば 、 ﹁恩を知る者を聖と為し、恩を知らざる者を凡と為す、之を知らざる者は愚慧の致す所、一ニ 世一観せば其れ忘るべき乎。衆生の有擬智之を知るを得ず﹂というように、凡夫にとって仏恩を知ることはとうてい 不可能であり、無明を破して照し給ふ﹁仏願の力用﹂によってのみ、 ﹁如来の妙理﹂を覚了せしめることができるの だ と い う 。 と も あ れ 、 かかる衆生にあっては、彼等が自力でもって広大なる﹁世尊の思﹂を知って報謝することは至 法 宗 教 学 の 思 想 史 的 意 義 ノ、法 霧 教 学 の 思 想 史 的 意 義 六 回 難なことで、だからこそ﹁恩の小なるは見やすく、大なるは見難﹂き衆生のために、世尊の教えは、 ﹁ 小 よ り 大 に 向 ぃ、卑より高に違す、物をして各々其の性を遂げ、其の本を達せしむ﹂方法をすでに開示していた、とする。 ︵ な に か 但 傑 学 人 性 論 を 訪 郷 と さ せ る 表 現 だ が 、 いまここでは問わない︶その方法をさらに﹁閥解﹂して、衆生教化の教学 として新たに構築することが法震の思想的課題だったのである。 ﹁ 志 ﹂ と は ﹁ 道 を 致 す 所 以 ﹂ だ か ら 、 僧俗ともに ﹁ 志 の 大 な る と き は 則 ち 道 大 に し て 、 志の小なるときは則ち道 小﹂となる。ところが﹁今時の人、志を立つこと弱き故に、中道にして廃す﹂場合が多い。法案はこうした認識に立 っ て 、 師 た る 者
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学侶が﹁道に志す﹂心構えを﹁学則﹂立志章で次のように説く。 今の師たる者、之︵民のこと︶をして穀より入て穀を忘れしむを以て警となす。若し穀を求るを以て非と為せ ば、民を殺し尽して民を治めんと欲するが如し、其の成るを求めるは、亦難しからず、物をして其の性を遂げ、 其 の 志 を 達 せ し む は 、 則 ち 亦 何 を か 加 え ん 。 ﹁師たる者﹂の﹁志﹂は教導にあるが、右の一文は衆生日民衆教化についての法震の見解を示すもので、興味深い民 衆観を展開している。何故ならば、それは仏者にありがちな抽象論的な衆生としてではなく、現実的な民衆の諸相を 踏まえての民衆観に立っていると思われるからである。法案によれば、民衆の人欲を逃れがたきは奈何ともしがたく、 彼 ら の ﹁ 穀 ﹂H
世 俗 的 欲 望 を 求 め る 心 を 否 定 す る こ と は 、 ﹁ 民 を 殺 し 尽 し て 民 を 治 め ん と 欲 す る が 如 ﹂ き も の だ と い ぅ。日野龍夫氏は﹁世俗的欲望は元禄期を経て商品生産の発達に刺激されてますます膨張し、自己を論理化できない まま流動してい句﹂という表現によって近世中期人の内面的矛盾の現実を描写してみせたが、現実における自己矛盾 の原基である人欲を悪として否定するか、あるいは否定しがたき歴史的実態として肯定・承認するかという両方いづ れに立脚するかによって、朱子学的思惟と古学派的思惟が分岐すると見るのが近世思想史の共通理解となっている。﹁ 礼 を 以 て 心 を 制 す ﹂ ︵ ﹁ 弁 道 ﹂ ﹀ と 宣 言 し て 流 動 化 す る 民 心 の 統 合 を 意 図 し た の は 荻 生 但 棟 だ が 、 法 帯 林 も 但 棟 と は あ る 種の確かな共通認識に立ち、民衆のあるがままの﹁本性﹂ ︵人欲︶は、その﹁性﹂のままに遂げしめんとするほかは なく、民衆の世俗的欲望を肯定・承認した上で、 なおかつ民心の世俗的欲望に基づく主体性を﹁無﹂に帰せしめる方 法︵﹁穀より入りて穀を忘れしむじを﹁正学﹂として構築する方向に向った。 ﹁ 正 学 ﹂ と は 何 か 、 ﹁ 正 学 ﹂ の め ざ す と こ ろ は 何 か 、 について論究した﹁学則﹂正学章の中で、衆生論をめぐる聖 浄二門の相違点を論じた次の箇所は、まことに示唆深い。 聖道諸教、多く機を論ず、若し機より之を論ずれば、則ち今時の衆生、人道の心すら尚なし、況んや仏心をや。 但た他力真実智願、之を摂し、之を融する為なり。凡聖差別の機、混然として弘願一機となる、之を法の真実と 日ふ。彼此相対す、之を自力といふ、唯だ仏願に託す、之を他力といふ、仏を以て心に摂すは、則ち恭敬の心乏 し く 、 心を以て仏に帰すは、則ち恭敬の心生ず、龍樹恭敬の心を勧むは此の為なり。 右の一文を意訳して述べれば、概ね次のように言えよう。聖道諸教は﹁此土入証の法門﹂をめざす立場から、﹁機﹂
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人 間 の あ り 方 を 論 じ て 、 此土での人々の ﹁ 仏 心 ﹂ を 強 調 す る こ と に な る が 、 現実の民衆はその意に反して﹁人道の 心 ﹂H
仁義礼智の徳を正しく持つことすらなく、己れの世俗的欲望の充足ばかりを願い、欲望の趣くままに行為する。 そんな民衆にとって﹁仏心﹂など持ち合わせているはずがなく、聖道諸教の衆生論は空論でしかない。また、﹁仏を以 て心に摂す﹂聖道の教えでは己心を本とする故に、外に﹁恭敬の心乏しく﹂て、民衆教化の論理とはなりえない。要 は、現今の民心の動向をありのままに認識し、その実態を踏まえつつ、なおかつ民心を包摂・摂取する方法l
﹁ 他 力 真実智願﹂をもって民心を摂・融すれば、凡聖差別の機は混然として﹁弘願一機﹂となるーこそ、 ﹁ 法 の 真 実 ﹂ と い うものだ。だから﹁心を以て仏に帰す﹂他力の信心こそ、 ﹁ 人 道 の 心 ﹂ な き 、 ﹁仏心﹂なき民衆に最もふさわしい教 法 宗 教 学 の 思 想 史 的 意 義 六 五法 宗 教 学 の 思 想 史 的 意 義 六 六 説であり、我を忘れて仏願に帰入せしめられるとき、如来への﹁恭敬の心﹂も生じ、 また﹁人道の心﹂をも喚起する こ と に な る の で あ る 、 と 。 法 震 の 所 説 を 敷 街 し て 、 ﹃ 聞 信 紗 ﹄ で も 次 の よ う に い う 。 ︵ マ マ ︶ 我心ヲ物トシテ修行スルカ聖道ノ根本ナリ、阿関大日モ我心ニアリ、唯心ノ弥陀己心ノ浄土ニテ外−一ハ尊フへ キ仏体ナキ故ニ恭敬心ナリ、余ルユ仏ノ安スル心法ノ助ニ、外−一仏ヲヲクナレトモ、心ヲ本トスルナレハ恭敬ノ 心ナキ筈ナリ、浄土門ハ我心ノ上ニ無量ノ仏ヲ含有ストハ云ハヌ、我心身ハ浅間敷モノト思テ弥陀ニ肢入スルナ リ 。 往 生 ス マ シ キ モ ノ カ 往 生 サ セ シ メ 玉 ヘ ル カ 故 ニ 恭 敬 ノ 心 生 ス ハ 末 、 四 十 二 丁 ﹀ 法震の教学は、唯心の弥陀・己心の浄土という聖道門的・観念的衆生論を明確に否定して、現実の民衆の歴史的・社 会的あり様から自覚的に浄土門的衆生観を選び取っての立論であったことが知られよう。その意味で、法案教学は幕 藩制中期の歴史情況を鋭敏に踏まえて教学樹立へ向ったのであり、儒者ならぬ仏者側からの幕藩制イデオロギー論へ の 積 極 的 参 画 で あ っ た と い え よ う 。
法隷教学の特質
(イ) ﹁ 兼 学 ﹂ 的 根 拠 ﹁学則﹂兼学章は、真宗学徒が﹁正学﹂とともに儒学を学ぶべきことの必要性を論じ、 ﹁ 文 ・ 質 彬 彬 と し て こ れ を 得 と な す ﹂ と い う 如 く 、 ﹁ 正 学 ﹂ ︵H
﹁ 質 ﹂ ﹀ ﹁ 兼 学 ﹂ ︵ H H ﹁ 文 ﹂ ︶ 兼 備 し て は じ め て バ ラ ン ス の と れ た 学 文 が 成 立 す る も の だ と 述 べ て い る 。 だ が 、 ﹁ 外 学 ﹂ た る 儒 学 を 兼 学 せ ね ば な ら ぬ と す る 理 由 は 、 ﹁ 近 き 世 、 円 解 昭 昭 た れ ど も 学 に門戸なし、解に発するに長ずるも字を知るに短かし、是を以て学徒は手分して儒林に入り﹂ということから推察して 、 いまだ仏教教学︵真実教学を含めて︶が自律的学問体系として確立していない学文の草創期にあって、すでに多 様な展開を見せていた儒学諸流に学ぶことを通してしか、﹁正学﹂樹立の目的は達せられないという、法案の仏教界学 文状況への批判的認識があったからだと思われる。しかし、 ﹃ 三 書 ﹄ こ と に ﹁ 独 語 ﹂ ﹁鳥語﹂を一読すれば明白なご とく、彼をしてかくも深く儒学や老荘学に関心を持たしめた内的理由は、前記した法震の教学的課題と密接な連がり があるためだと見るべきだろう。すなわち、彼の﹁正学﹂樹立の基本姿勢たる﹁真俗不二﹂ ﹁真俗本ごに立っとき、 真宗学徒が内外の経典を渉猟して学文の幅を拡げることは、流動的にして捉えどころのないアナ i キな人心を収束す る 論 理 を 摸 索 し 、 かつ衆生利益←民衆教化←民心統合←安天下の目標達成に役立ちうることだとすれば、 ﹁ 外 学 ﹂ 兼 備はまさに必須条件となる。こうして法震は、儒学や老荘学に深い見識を備え、もって﹁正学﹂を荘厳し、 また兼学 をもって﹁正学﹂を補強せんとしたのである。その際、 ﹁学者文を学ぶを欲するは、古文により今に従ふなかれ﹂と いう如く、祖探の古文辞学の方法を取り込んで﹁古学﹂日﹁聖学﹂ ︵先王・孔子の﹀道に親近性を示し、その立場か ら孟子・仁斎批判を展開している。 孟子批判で注目されるのは、孟子の﹁性善﹂説をめぐる法震の次の見解であろう。 彼︵孟子﹀性善なりと言ふ、性は善にして悪を兼ることを知らず、性は天なり、 天は能く地を包む、悪を兼る の理を知るべし、人の性は善悪を兼ねる、故に其れ触れる所に由て発す、聖は善の盛んなる者、其れ悪を受けず、 壮者の時疫に染ざるが如し、仁を専にして其の義に依らず、是れ聖の境、義は地理に属す、陰分の気、其の象は 氷柱の如し、又た兵刃の象あり、之れを用る者、己ことを得ず、置て先すべからざるは、其れ唯だ義か、故に日 く 、 訟 を 聴 く こ と 、 吾 れ 猶 ほ 人 な り 、 必 ず や 訟 な か ら し む 乎 、 此 れ 仁 を 以 て 化 す る こ と を 伸 す る な り 。 ︵ ﹁ 独 語 ﹂ 幻 ︶ ﹁ 性 諮 問 ﹂ 説 に 立 つ 孟 子 は 、 人 性 に は ﹁ 善 ﹂ ﹁悪﹂兼備していることを知らない。人性は﹁天﹂に基づくが、 ﹁ 天 ﹂ に 法 宗 教 学 の 思 想 史 的 意 義 六 七
法 寡 教 学 の 思 想 史 的 意 義
﹂ 、
t、
− , , , , , はよく﹁陰分の気﹂にして﹁悪﹂なる﹁地﹂を包み込む働きがあることを以てすれば、人性には﹁善﹂ ﹁ 悪 ﹂ 具 有 さ れてることがわかる。従って、人性の触れるところによって、 ﹁ 善 ﹂ な る 性 と ﹁ 悪 ﹂ な る 性 の い ず れ か が 顕 現 す る 。 ﹁ 善 ﹂ に 触 れ れ ば ︵ ﹁ 仁 を 専 に し て 其 の 義 に 依 ら ず ﹂ ︶ 、 ﹁ 聖 の 境 ﹂ に 達 し う る こ と が で き 、 逆 に ﹁ 悪 ﹂ に 触 れ ば ︵ ﹁ 義 ﹂ を 専 ら に す れ ば ︶ 、 ﹁ 氷 柱 ﹂ ﹁ 兵 刃 ﹂ の 如 く 、 こ れ を 持 ち つ づ け ざ る を え な い 。 だ か ら 、 ﹁ 仁 ﹂ を 専 ら に し て ﹁ 義 ﹂ に 依らない方法、即ち﹁仁を以て化す﹂方法が講ぜられなければならない。 結 論 を 先 取 り し て い え ば 、 法震はその方 法を﹁天道流行﹂という非合理的・超越的存在による﹁無為﹂の働きに求めることになるが、その前提的理解の方法 として、法案のいう﹁仁﹂とは何かが明らかとならねばならない。 法震は、孟子の﹁仁﹂説を批判して次のようにいう。 又日く、仁は人なり、合て之を言は道なりと。軒の心、人の天地を持つを以て仁と為すと。是れ末を遂て本と 為るなり。唯だ人の天地を持つを知て、人の天地に持せ被れるを知らずや。軒が辞を以てせは、子は父母を子と し、臣は君を臣とする者なり、仁の字たるや、人に従ひ二に従ふ、此れ天地人に従ふに似ると難も、人は天地を 以 て 拠 と 為 し た る 者 な り 。 先 づ 天 道 を 見 て 之 れ を 行 ふ こ と 人 よ り す 。 此 れ 聖 学 の 実 処 な り 。 ハ ﹁ 鳥 語 ﹂ 7 ﹀ ﹁聖学﹂の究極的拠り所は﹁天道﹂にあるとする立場から、孟子の﹁仁﹂説が批判されている。孟子は、 ﹁ 仁 ﹂ と は ﹁人﹂のことで、人とは﹁天地﹂を内在させることを以て﹁仁﹂の人となすが、 ﹁ 人 の 天 地 に 持 た せ 被 れ ﹂ て い る こ と を 知 ら な い 。 ﹁天地﹂が﹁人﹂に従うようにいうけれども、実はその逆で、人は﹁天地﹂を拠り所として生きてい るのだ。従って、人聞の行動・実践はことごとく﹁天道﹂に依拠しているのであり、ぞれゆえ﹁天道﹂は﹁聖学の実 処 ﹂ で あ る こ と が 知 ら れ る 。 ま た 、 法 震 は 仁 斎 が ﹁ 怪 力 乱 神 を 語 ら ず を 以 て 聖 学 の 極 処 と 為 す ﹂ ︵ ﹁ 独 語 ﹂ 路 ﹀ と い う の に 対 し 、 ﹁ 聖 学 ﹂ の 究 極 的拠 り 所 が ﹁ 天 文 ﹂ ハ ﹁ 天 礼 ﹂ ・ ﹁ 天 道 ﹂ ︶ た る に 究 極 す る こ と を 知 ら な い 妄 説 だ と も 論 断 し て い る が 、 要するに孟子や仁斎 が 批 判 さ れ る の は 、 彼 ら が ﹁ 本 を 究 る に 力 な く 、 故 に 唯 だ 人 事 の み 之 れ を 示 す ﹂ ︵ 同 右 ︶ か ら で 、 ﹁ 人 事 ﹂ を 大 き く 包 容し、その拠り所となっている﹁天道変化の理﹂
H
非合理にして超越的存在の働きに畏敬せず、目を塞いでいるから だ、と法震はいう。法震が超越的存在の﹁天﹂ に 畏 敬 の 念 を 持 つ の は 、 宗教家として当然のことともいえるが、そ れにしても﹁其れ天道を言ふは則ち常に怪なり、 所 調 る 易 は 変 易 な り ﹂ ハ 同 右 ︶ ﹃ 聖 学 の 離 は 唯 だ ﹃ 周 易 ﹄ に あ り ﹂ ︵ ﹁ 独 語 ﹂ 臼 ﹀ な ど と い う 言 辞 に 接 す れ ば 、 思 想 形 成 に お け る 非 合 理 的 存 在 の 導 入 に 際 し て の 、 ﹃ 易 経 ﹄ か ら の 影 響 が 極 め て 大 き か っ た こ と が 推 察 で き よ う 。 ところで、真宗学者である法震がかくも熱心に﹁聖学﹂を論じ、 ﹁聖学﹂の拠り所は﹁天道﹂にあるのだと力説し な け れ ば な ら な か っ た の は 、 何 故 か 。 ﹁聖学﹂日﹁上古の学﹂を通じて、己れの思想的課題にどのような展望を切り 拓 こ う と し た の だ ろ う か 。Y
古の学は無為を宗とす、尭舜より以下、礼楽刑政を以て、無為の中に浸す、終日礼楽にして礼楽を忘る。其 ︵中略﹀野は人の和を以て意を為さず、天に応ずるを以て極と為す、人を和するに心あるときは、 れ 礼 た る な り 。 則ち人を和すを得ず、人を忘れて人和を得る、舜唯だ無為を見て、礼楽を見ず、所謂る無為を見るは、無為を見。
ざるなり、故に孔子日く、無為にして治る者は舜かと。無為は天道流行の称なり。声なく臭なし、之れを静と謂 ︵ 中 略 ﹀ 貯 に 在 る は 則 ち 一 の 仁 、 其 れ ふ 一 に 無 為 の 中 、 白 か ら 礼 楽 形 政 あ り 、 一 に 乾 徳 の 中 、 元 亨 利 貞 あ り 。 混融を以てすれば仁と日ふ、其の分布を以て礼と日ふ、分布する離も一混融を離れず、混融すと睡も一分布を出 で ず 、 所 語 る 混 融 と は 、 分 布 し て 融 す る な り 。 ︵ ﹁ 独 語 ﹂ 却 ︶ ここには﹁上古の学﹂に託した法案の政治思想が披涯されており、めざす﹁正学﹂樹立の﹁兼学﹂的根拠が開示され 法 宗 教 学 の 思 想 史 的 意 義 六 九法 宗 教 学 の 思 想 史 的 意 義 七 0 ていると思うのだが、柳か長文の引用なので、 四段落に分かって要約的に整理してみよう。
@
﹁上古の学﹂は何よりも﹁無為﹂を宗とする学問であり、尭舜以下の先王は礼楽刑政を以って﹁無為﹂の中に 浸し、終日やすまず礼楽に没頭して礼楽たるを忘れさせた。このことを以って﹁礼﹂というのだ。@、先王の舜は、 ﹁ 人 の 和 ﹂ を 政 治 の 理 念 と は せ ず 、 ﹁ 天 ﹂ に 応 ず る を も っ て ﹁ 極 ﹂ ︵ 政 治 の 究 極 的 拠 り 所 ︶ と し た 。 何 故 な ら ば 、 ﹁ 人 を 和する﹂心が己れにあるときは未だ﹁人を和す﹂を得ず、 ﹁ 人 事 ﹂ ︵ ﹁ 人 為 ﹂ ︶ を 忘 れ て ﹁ 天 道 ﹂ に 応 す る ︵ ﹁ 天 道 ﹂ に ま はじめて﹁人の和﹂を得ることができるからである。 や 天 地 の 合 な り ﹂ ︵ ﹁ 烏 語 ﹂ 3 ︶︶孔子は、舜のその本意を知るが故に﹁無為にして治る者は舜かと﹂評したのだ。の、 かせる﹀とき\ ︵﹁人は人に非ずして即ち天地なり、人の和なる ﹁ 無 為 ﹂ と は 、 ﹁天道流行﹂のことを指して名称したもので、従って、 ﹁ 人 事 ﹂ に よ ら ず 、 ﹁ 天 道 ﹂ に 随 ふ と き 、 お のずとその中には礼楽刑政が具わっているものだ︵何故ならば、 ﹁ 天 道 ﹂ は ﹁ 活 ﹂ H H ﹁ 運 動 ﹂ に し て 、 ﹁ 多 く を 融 す る ﹂ 働 き が あ る か ら だ ︶ 。 @ 、 ﹁ 仁 ﹂ と は ﹃ 易 ﹄ に い う ﹁ 乾 徳 ﹂ H H 天子に具わっている徳のことであって、﹁混融﹂す るときに﹁仁﹂の働きとして顕われ、 ﹁ 分 布 ﹂ し て は ﹁ 礼 ﹂ と し て 顕 現 す る 。 ﹁ 混 融 ﹂ す る と は ﹁ 分 布 し て 融 す る ﹂ こ と だ か ら 、 ﹁礼﹂は﹁仁﹂を離れず、従って﹁天道流行﹂すれば、その﹁無為﹂の中にはおのずと礼楽刑政は完備 す る こ と に な る の だ 。 以上の中に、法案の思想的課題の要請による政治思想のすべてが言い尽されているといっても過言ではあるまい。 法震にとって﹁聖学﹂とは、要するに、治者が﹁礼楽﹂という具体的政治制度を以って主体的に民衆支配を貫徹して おきながら、被治者の側の主体性を忘却せしめて、彼らに支配されているという実感を持たせない政治の術を学ぶこ とであり、その理論的根拠としたのが﹁天道﹂に依らない﹁人事﹂を否定し、 ﹁人事﹂を包摂する﹁天道﹂の働きに ﹁人事的価値を相対化する論理として老荘の相対融 帰依・帰入せしめるという不可知論の立場であった。かくして、が 受 容 さ れ 、 一 方 で 、 ﹁ 天 道 ﹂ の働きを無限に絶対化リ信仰化させるために導入される論理が次に見る大乗仏教的 ﹁ 融 合 ﹂ 理 論
U
﹁ 円 解 ﹂ 思 想 で あ っ た と 思 わ れ る 。 (ロ) ﹁円解﹂思想 法帯林教学を特色づける中核思想が﹁円解﹂の思想であることは、宗学諸家の一致した見解であろう。そして宗学的 には、聖浄融即不二の説として、華厳の円融の哲理に根拠ずる本体論的立場を示すものとき切それが浄土門別途の 立場を陥没させているか否かをめぐって論義がなされているが、上述の経緯からして、この﹁円解﹂の思想は、実は 法震の思想的課題と密接不可分な教説として創出されたものであることが明らかであろう。法案においては、先行教 学日﹁義解﹂に執する教学では、最早、無限に複雑な現実世界に対応できないとし、 ﹁ 正 学 ﹂ 日 真 の 教 学 樹 立 の た め に 、 開 解 に よ っ て 説 は ﹁ 融 即 ﹂ し 、 ﹁ 解 を 広 に 聞 い て 行 を 略 に 摂 す ﹂ る 方 法 、 す な わ ち 、 ﹁ 円 解 ﹂ の 教 学 を 提 示 す る に 至 っ た 。 円解の義解に於けるは天の地に於けるが如し、地に随ふ者は死し、天に随ふ者は活く、円は仁なり、義は義な り、義の物象に於けるは圭角あり、円の事相に於けるは混然なり。彼の水を見ざるや、陽に随て諜様、陰に随て 氷柱と為る、氷は水の死せる者なり、何をか死と調ふや、運動せざればなり、運動は治、住著は死、故に一に滞 す る 者 は 死 人 と 為 し 、 多 を 融 す る 者 は 治 人 と 為 す 。 義 解 は 我 法 に 長 ず 、 円 解 は 二 空 に 契 ふ ハ ﹁ 学 則 ﹂ 開 解 章 ︶ 法 震 の い う 解 リ ﹁ 円 解 ﹂ と は 、 ﹁ 御 家 安 心 ﹂ へ 執 着 す る ﹁ 義 解 ﹂ か ら 脱 却 し て 、 広 く 大 乗 仏 典 ︵ 華 厳 ・ 天 台 ︶ や 儒 教 教 典 ハ 易 経 ・ 荘 子 な ど ﹀ な ど 諸 学 に ﹁ 融 通 ﹂ ﹁ 融 会 ﹂ す る こ と で あ っ た 。 し か し て 、 ﹁ 円 解 ﹂ の ﹁ 義 解 ﹂ に お け る 関 係 は 、 ﹁ 天 の 地 に 於 け る が 如 ﹂ き も の で 、 ﹁ 地 ﹂H
﹁ 義 解 ﹂ に だ け 随 え ば ﹁ 運 動 ﹂H
﹁ 融 通 ﹂ せ ざ る 故 に ﹁ 死 ﹂ し 、 閉 鎖 的 ・ 法 祭 教 学 の 思 想 史 的 意 義 七法 震 教 学 の 思 想 史 的 意 義 七 自己完結的な学文に執着してしまうが、﹁天﹂に随えば﹁天通﹂は運動態なるがゆえに、多くを﹁融通﹂して、複雑・ 多様な現実社会に鋭敏に対処しうる教学となるであろう。 そ う す れ ば 、 ﹁ 同 川 ﹂ は ﹁ 仁 ﹂ と な っ て 、 知らず知らずの ﹁無為﹂のうちに、活動態たる﹁如来﹂は人々をして他力不思議にいざない、 帰 入 せ し め ︵ 真 諦 門 的 領 域 ﹀ 、 活動態 たる﹁天道﹂は彼らをして白から礼楽刑政をなさしめずにはおかないであろう。これいづれも、 ﹁ 如 来 ﹂ 日 ﹁ 天 道 ﹂ の 無為にして﹁多くを融する﹂働きにほかならないからである。という。 このことに関連して法震は、宗祖親驚の教説から﹁高祖日く、円頓中の円頓、了義中の了義と﹂ ﹁ 高 祖 日 く 、 他 力 不思議に入りぬれば、則ち義なきを義と為すと﹂の二箇所ほど引用し、そしてそれぞれ次のようなコメントを付して い る 。 ﹁円解に非ずんば則ち何ぞ此旨に達す﹂﹁能所忘れずんば、則ち此接に至らず﹂と。すなわち、 ﹁ 円 解 ﹂ の 思 想 を す す め 、 一方では能行説を明確に否定しようとしたものだが、もとよりそれは民衆教化における教化者の主体性 の獲得に対する、民衆的存在意識の﹁他力信心﹂における収奪を意図したものにほかならなかった。 むすびにかえて 以 上 、 ﹃三書﹄に窺われる法震の教学的課題と特質について、若干の考察を行なった。主十部以上に及ぶ法震の彪 大な著作群のうちのたった一巻にすぎない﹃日渓三書﹄のみをもって法震教学の性格を論ずることは、あまり意味の な い こ と か も し れ な い 。 しかし、﹃三書﹄の成った享保十五年前後に彼の代表作とされる﹃阿弥陀経聖浄決﹄ ︵ 同 十 四 年 述 ︶ 、 ﹃ 浄 土 折 衝 篇 ﹄ ︵ 同 十 六 年 述 ︶ 、 ﹃笑蜘管﹄︵同十七年述﹀も述作されており、この時期の法震の思想が﹃三書﹄に 集約的に表出していると見倣すことが許されるのではなかろうか。 法案の教学的課題は、薗田氏の指摘にもあるように、知空・若震能化時代における教団教学の﹁近世的定着﹂を一
応 果 遂 し た 後 を 受 け て 、 ﹁近世的展開﹂を教学の上に実現することにあったと思われる。問題はその内実を問うこと でなければならない。法案もまた真俗二諦の立場から、如来への奉仕、王法・国法への奉仕をともに促すことを以て 民衆教化の課題とした。しかし、法震に映る現前の衆生日民衆は、 ﹁人道の心﹂を持たず、ましてや﹁仏心﹂など持 ち 合 せ な い 、 ひたすら世俗的欲望に執着する姿であった。法震は、こうした民衆のありょうリ﹁心﹂の実態を、幕藩 制中期のすぐれた思想家らしく、民衆の実態に即してひとまずありのままに承認する認識の柔軟性を見えていた。そ して彼は、民衆のそうした﹁心﹂の実態を承認した上で、 なおかつ利養・放逸に堕す民心をどう掌握し、被らをして 奈何に如来に恭敬せしめ、国法を順守せしめるかを現実的・具体的な課題として、 ﹁ 正 学 ﹂ 樹 立 に 向 っ た 。 法 課 教 学 の 特 質 は 、 お も に ﹁ 古 学 ﹂ H ﹁聖学﹂論と﹁円解﹂思想に見られるが、実は同位相のものとして位置づけ て い る 。 ﹃ 周 易 ﹄ を も っ て 離 奥 と し 、 ﹁天道﹂という超越的存在をその究極的拠り所とする彼の﹁聖学﹂論によれ ば ﹁ 天 道 ﹂ は そ の 活 動 的 本 性 に 基 づ き 、 ﹁ 地 道 ﹂ ﹁人道﹂を﹁仁﹂をもって﹁混融﹂する働きを有するゆえ、人人 は﹁人為﹂を放棄し、﹁天道﹂にまかせるとき、おのずとその中に﹁礼楽刑政﹂が具わるものだとした。 一 方 、 ﹁ 心 を 以 て 仏 に 帰 せ し む ﹂ H 我を忘れて仏願に帰入せしめる方法 H 学解が、融即不二の﹁円解﹂思想にほかならない。ここ で展開される活動態たる﹁如来﹂の働きは、先の﹁天道﹂と同質のもので、﹁如来﹂は人欲に執する衆生の﹁能所﹂ ︵
H
民衆的自律性︶を忘却せしめて他力不思議に帰入せしむる働きをなす。しかし、それは﹁真俗本ごの論理に基 づくものであり、その意味で﹁聖学﹂論と﹁円解﹂思想は不可分なものである。 かくなる﹁聖学﹂論と﹁円解﹂思想の創出は、法案教学 H ﹁正学﹂樹立を保証するものだが、同時にそれは幕藩制 中期の複雑・多様な社会的動態に対応した現実的教学であり、ために幕藩制支配秩序を弁証する教学として西派宗学 隆 盛 の 一 時 期 を 現 出 さ せ た の で あ る 。 法 震 教 学 の 思 想 史 的 意 義 七法宗教学の思想史的意義 七 四 なお、法案教学の形成にとって但徳学や老荘思想、あるいは﹃易経﹄の影響すこぶる大きいと推察するが、さらに 稿を改めて考察しなければならない。 ① 註 一 克 禄 六 三 六 九 三 ︶ J 寛 保 一 克 ︵ 一 七 四 一 ︶ 年 。 法 案 の 略 伝 に つ い て は 、 薗 田 呑 融 ﹁ 日 渓 法 震 の 生 涯 と 業 績 ﹂ ︿ ﹃ 近 世仏教﹄八号︶、井上哲雄著﹃真宗本派学僧逸伝﹄に詳 しい。なお、薗田論文には日渓法霧略年譜、日渓法案著 述 目 録 が 付 載 さ れ て い る 。 前 田 慧 雲 著 ﹃ 本 願 寺 派 学 事 史 ﹄ ﹃ 真 宗 学 苑 叢 談 ﹄ 、 西 谷 順 誓 著 ﹃ 真 宗 教 義 及 宗 学 の 大 系 ﹄ 、 鈴 木 法 深 著 ﹃ 真 宗 学 史 ﹄ 、 普 賢 大 円 著 ﹃ 真 宗 教 学 の 発 達 ﹄ 、 大 原 性 実 ﹁ 日 渓 法 一 家 の 宗 学 ﹂ ︵ ﹃ 顕 真 学 報 ﹄ 二 号 ︶ な ど が あ る 。 薗 田 前 掲 論 文 。 同 右 。 薗 田 呑 融 ﹁ 初 期 真 宗 学 の 思 想 史 的 一 考 察 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 研 究 ﹄ 第 八 輯 ︶ 。 大 桑 斉 ﹁ 仏 教 思 想 論 ﹂ ② @ ④ @ ⑥ ︵ ﹃ 講 座 日 本 近 世 史 9 ・ 近 世 思 想 論 ﹄ 所 収 ︶ 。 同 右 。 岩 波 書 店 ﹃ 国 書 総 目 録 ﹄ 第 五 巻 、 = 一 五 八 頁 。 ﹃ 真 宗 全 書 ﹄ 第 七 十 四 巻 。 本 稿 第 二 ・ 三 部 で 引 用 す る ﹁ 独 語 ﹂ ﹁ 鳥 一 語 ﹂ の 数 字 は 、 筆 者 が 付 し た も の で あ る 。 荒 木 見 悟 著 ﹃ 竹 窓 随 筆 ﹄ ﹃ 荘 子 ﹄ 第 一 冊 ︿ 内 篇 ﹂ ﹀ 岩 波 文 庫 、 一 八 三 J 一 八 四 頁 。 同 右 書 、 九 二 J 九 三 頁 。 日 野 龍 夫 ﹁ 礼 楽 へ の 帰 依 ︵ 上 ︶ ﹂ ︵ ﹃ 文 学 ﹄ 第 三 六 巻 第 七 号 ︶ 日 野 龍 夫 ﹁ 書 評 ・ 中 野 三 敏 著 ﹃ 戯 作 研 究 ﹄ ﹂ 五 十 巻 第 三 号 ︶ 。 普 賢 大 円 前 掲 書 、 註 ② 参 照 。 ⑬ ⑨ ③ ⑦ ⑪ ⑬ ⑫ ⑪ ⑬ ⑬ ︵ 龍 谷 大 学 ︶ ︵ ﹃ 文 学 ﹄ 第