中国西部地域における伏義・女嫡図像
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ふ く ぎ じ よ か 神話的な来歴を持つ一対の男女神、伏義と女嫡との図像を建築物や墓室の内部に画く風習は、中国の中原地域にお いては、とりわけ後漢時期に盛んであった。特別の持ち物を持ったり、下半身を絡み合わせたりして対偶神であるこ とを強調する、人身蛇尾のこれら二神の図像は、漢代の墓室を飾る画像石や壁画などの上に、重要な画題の一つとし て画かれて、少なからざる数の例が現在にまで遣されている。墓室内部に配される図像は、現実の生活の場での絵画 を反映するところがあったと考えられ、実際に宮殿などの建物にも同様の図像が画かれていたことは、後漢時代の文 学 作 品 で あ る 、 (文選巻十一﹀の記述からも確かめることができるのである。 一時期、盛んに画かれた伏義・女嫡の図像も、中国本土においては、三国両晋時期以降、それを描く 風習が急速に衰退していった。一方、中国の縁辺地域においては、この二神の図像を画く風習が、さらに下った時期 まで受け継がれていた。いささか文化伝統を異にする遠い地域において、中原に由来する文化伝統が遅くまで引き継 がれていたという現象は、どのように理解したらよいのであろう。こうした特殊な習俗を、元来は縁のなかった地域 の人々が伝承するに際して、その核となったのは、いかなる要素であり、どのような観念であったのだろうか。 王延寿の﹁魯霊光殿賦﹂ こ の よ う に 、 伏義・女嫡図像の東方への伝播の例は、高句麗古墳の壁画などにいくつか見ることができる。そこでは、たとえば 五盃墳の例に見えるように、太陽と月とを頭上に捧げる姿をとった伏義・女嫡の図像が墓室の天井近くに画かれ、こ 中圏西部地域における伏義・女嫡図像(上)(小南) - 1ーうした二神の配置は、 四神など宇宙構造に関わる他の画像とも組み合わされて、基室の内部空間が一つの小宇宙を構 成していることを、図像的に表明するものであったと考えられる。ただ、伏義・女嫡図像の東方への伝播は、朝鮮半 日本の壁画・装飾古墳などの図像の中に、伏義・女嫡に関係すると推測できる図像は、現在までの 島 ま で で 止 ま り 、 ところ、見出されていない。 伏 義 ・ 女 嫡 図 像 は 、 一方、中国の西部地域へも伝播していた。河西走廊を通って、敦煙、 さらには吐魯番(トゥル ファン﹀にまで、墓室の壁面などに二神を組み合わせた図像を画いたり、網絵にして貼り付けたりする習俗が伝わり、 時代的には、説晋南北朝から唐代前半期にまで及んでいる。中国西部地域には、多数の民族が居住して、 たがいに複 雑な文化関係が結ぼれているが、そのことを反映して、この地域における伏義・女姻図像の出現の情況も複雑である。 この小論では、まず中原地域での伏義・女嫡図像使用が意味するところを考え、さらに中国西部地域における伏毅・ 女嫡図像の発見例を挙げつつ、この地域におけるこ神図像の使用の特徴と、中原文化との関わり合いについて考えて み た い と 思 う 。
伏義・女嫡図像の出現
伏義と女嫡とは、別々の来源を持った、元来は互いに関係のない、 二柱の神であったと推測される。伏義(伏犠・ 包犠・庖犠などとも表記される﹀については、戦国時代に成立したであろう諸子の書一物や歴史書などの中に、この人 物への言及が始めて見えて、そこで記述されている伏畿には、神話的な神格というより、文化英雄的な色彩が強い。 よく知られているのが﹁周易﹂繋辞下伝の次のような言葉であろう。 む か し 、 包 犠 氏 は 、 大地の法則を観察し、鳥や獣の文様や地理を観察し、近くは身体に備わる道理を見つけ、遠くはさまざまな外物 かれが天下全体を王として支配していたときに、仰いでは天体の現象を観察し、防御しては - 2ー 龍谷大学論集から道理を見つけて、このようにして始めて八卦を作り出し、神明が具えている力をすべてに行き渡らせ、万物 の多様な有りかたに区分をつけたのであった。 縄を結んで網を作り、 それを用いて佃猟や漁掛を始めたのは、 ﹁周易﹂の離の卦をモデルとしたものであったのだろう。 ここでは、伏義は、網を発明し、人々が狩猟や漁協切によって生活できるようにした太古の支配者だとされており、 そうした文化英雄としての仕事が形而上化されて、この世界の動きを探知するための八卦を伏義が発明したという事 跡になったものであろう。あるいは﹁世本﹂作篇では、伏義が意や琴を作ったとされるなど、楽器の発明に関わる人 物であったとする記録も少なくない。楽器の発明は、音楽の創造と一体のものであり、音楽は、神話的な伝承の中で t主 ﹂の世界を秩序づけるための重要な手段だとされている。 こ の 伏 裁 に つ い て 、 ﹁周易﹂繋辞伝では、太古の王者として、包犠│神農│黄帝という系譜を想定して、その事跡 を記述しており、太古の時期の伝説的な帝王という性絡が顕著である。現存の文献に記述されている伏義のそうした 性 格 は 、 おそらく、元来は神話的な存在であった伏載が、歴史的な人物へと変化した結果であったのだろう。中国で は、伏義のみならず、舜や再ほか、多くの神話的な神格が歴史化され、太古の時代の支配者へと、その性格を変化さ せているのである。ただ、歴史化される以前の、元来の神話伝承の中で伏義が具えていたであろう性格や機能につい て は 、 それを検討するための資料が十分には遣っていない。 こうした伏義の場合とは対照的に、女嫡については、文献記録の記述のム中にも、古い神話的な要素が多く留められ ている。女摘は、中国古代の代表的な女神である一方で、現在も中国の南方地域で語られている洪水神話に登場して、 現存する人類を生み出した原始の母神だとされている。その伝承の歴史も長く、複雑な内容を具えた女嫡神話の全体 を述べるためには、別に詳しい論考を用意せねばならないであろう。ここでは、中国古代の女嫡という女神について、 その顕著な性格のいくつかを拾い上げて紹介してみたい。 中国西部地域における伏義・女嫡図像〈上)(小南〕 - 3 ー
原始の混沌に秩序をあたえ、 子﹂覧冥訓には、次のような記事がある。 現在のような世界をつくりあげた神だとされている。 ま ず 第 一 に 、 女 嫡 は 、 ﹁ 准 南 太古の時代、大地の四方の果てにある極(天を載せる柱﹀が壊れ、九つの州が分裂して、天は大地全体を覆わ なくなり、大地は九州の全てを載せなくなった。火が燃え上がって消えることなく、洪水は広がって止むことが なかった。猛獣は民衆を食らい、猛禽は老人や子供を撞っていった。この時にあたって、女嫡は、五色の石を精 うみがめ 錬して蒼天の欠けた部分を補修し、龍の足を切って、それで四つの極を作り直し、黒龍を殺して中原地域を安全 にし、葦の灰を堤防にして洪水を止めた。蒼天が補修され、四方の極が正しく立てられ、洪水もなくなり、中原 地域は安定し、悪い動物たちも死滅して、民衆たちは生き返ったのであった。 女 嫡 は 、 四角い大地を背に負い、丸い天を胸に抱いて、春はやわらかに、夏は暖かく、秋は万物をしおれさせ、 冬はちじこまるように ︹ 気 を 巡 ら せ ︺ 、 身体を真っ直ぐに伸ばして寝ており、 もし陰陽 四角い大地を枕にして、 の気が詰まり滞って通じなくなれば、 それに穴を開けて通りを良くし、気が乱れて万物のありかたに逆らい、民 衆を傷つけることが重なれば、 その乱れた気を遮断するのである。 このように、太古の時代の大混乱を治めたのが女摘だとされるのみならず、 それ以後も、気が滞った ﹂ の 女 神 は り、乱れたりせぬよう調節をし、この世界が順調に循環運動をするよう見守って来たとされている。後漢時代に書か れた、王充﹁論衡﹂談天篇にも、次のような記事が見えて、同様のことを語っている。 せ ん M g よ く 儒者たちの書物に、次のように云っている、共工は、天子の位をめぐって繭頭と争い、負けたことから、腹を 立 て て 、 ︹大地の西北の端にある︺不周の山に頭突きをくらわせた。その結果、天を支える柱は折れ、大地を吊 り下げている綱も切れてしまった。女嫡は、五色の石を精錬して、蒼天を補修し、植の足を切り取って四つの極 を 立 て た 。 ︹その補修でも完全には修復できず︺天が西北の部分で欠けているところから、 日月はその方向へ移 - 4ー 龍谷大学論集
動して行くのであり、大地は東南の部分が欠けているために、全ての河川はそちらの方向へ流れてゆくのである、 と 以上の二例は、ともに女嫡の補天と呼ばれる神話を中心にして、この女神が、現在の世界の秩序を確立したことを 強 調 し て い る 。 ﹁論衡﹂では、共工が大暴れをしたため、大災害が起こり、そのために損傷した世界を、女嫡が修復 したのだと言い ﹁准南子﹂の記事も、あるときに災害が発生したが、女摘の努力によって、天地を安定させること ができたと記している。 し か し 、 おそらくは、女摘が秩序 e つけたのは、過去の特定の時代に発生した災害なのではな く、世界の始まりのときに存在した、原始のカオスであったのだろう。中国の神話的な大洪水も、尭帝の時代など、 それは神話が歴史化された結果であって、元来は、天地の始まりのときに あった原始の無秩序であり、原始の海に関する神話であったと推測されるのである。原始のカオスが秩序づけられて、 特定の時点で発生したと語られているが、 現在の世界が出現するのであるが、元来の女禍は、そうした原始の無秩序に秩序をあたえて、現在につながる安定し た字宙を創造した神だとされていたのであった。 ちなみに言えば、女嫡が五色の石を精錬して、天の裂けた部分を補修したとあるのは、 おそらく虹と関係するので あろう。虹の色彩は、補修のため天に貼り付けられた五種の石の色なのである。雨上がりには虹が出現する。中国の 洪水神話においても、洪水を引き起こした大雨が上がったあと、虹が見えたという一節があって、虹の出現は、女嫡 の補天の仕事が完成したことを告げるものだとされていたのであろう。旧約聖書にも、 ノアの洪水が終わったあとに 虹が出現し、その虹は、神と人との約束を象徴するものだとされているが、中国神話においては、 より現実的に、天 の裂け目につめられた五色の石が見えているのだとされたのであった。また、虹が蛇と強い関係を持つとされるのは、 世界各地に見られる民俗伝承であり、中国でも、甲骨文の虹字は双頭の龍形に作られている。伏義・女摘が、 詳しく見るように、蛇身(龍身﹀を特徴としていることも、そうした民俗観念と関わっていたのかも知れない。 の ち に 中国西部地域における伏義・女嫡図像〈上)(小南〉 - 5ー
女摘の神話的な性格の中で、もう一つの重要な働きは、人類が、この神の手で生み出されたとされていることであ る。後漢の応勘﹁風俗通義﹂には、次のような記事が見えている。 人々が語り伝えるところでは、天地が開闘したが、まだ人聞はいなかった。女嫡は、黄土を叩き固めて人聞を 作った。その仕事は大変で、力をこめて丁寧にやっている時間もないところから、泥の中に縄を引いて、それを 引き上げ︹したたり落ちる泥のしずくを、そのまま︺人聞にした。そうしたことから、富貴な身分にあるものは、 黄土で作られた人なのであり、貧賎な一般の人々は、縄のしずくからできた人なのである。 おそらく中国の新石器時代遺跡で少なからず発見されている、人面を持った陶器をめぐる信仰伝承と 関わるものであっただろう(図一)。黄土を叩き固めて人を作ったとあるのも、土器制作の過程で叩き締めが行われ ることと関連しそうである。陶器の空洞部分に人の霊魂を宿すことができるという宗教観念が、人聞は黄土で作られ たとする神話と関係していたと推測される。民間伝承の中では、女嫡が、陶器の人形に息を吹きかけたところ、人形 が動き出したなどと語られているのである。 一方で、この神話が、人聞社会における階層制の起源を説明していることも興味深い。現在の社会で地位と財貨と を独占しているのは、女摘にちゃんと作ってもらえた人々なのであり、 こ の 神 話 は 、 一般民衆たちは、面倒くさくなった女嫡によ おざなりに作られた人々だとされているのである。この神話が生み出されたのは、すでに階級格差が厳然と存 在した社会であり、階級格差は生来のものだと説明するこの神話は、社会格差を固定化する働きを具えていた。 このように、伏義と女嫡とは、元来は別々の起源を持つ、たがいに無関係な二柱の神話的な神格であったと考えら っ て 、 れるのであるが、この二神が、ある時期以降、伏義が男性的要素(陽的要素﹀を代表し、女嫡が女性的要素(陰的要 素﹀を代表するとして、二柱で一対をなす神だと考えられるようになった。これら二神が対をなす存在だという観念 が広がるのは、現在に遺る文献資料や考古資料によって判断をすれば、前漢時代中期以後のことであっただろう。 - 6ー 飽谷大学論集
前漢時代前期にまでさかのぼれば、 長沙馬王堆一号墓からは。非衣。と呼 ばれている烏画が出土しており、その 南画の最上部に画かれている蛇身の女 神 が 、 まだ伏義と対にされる以前の女 新石器時代人面陶萱(両性具有〉 嫡(原始女嫡﹀の姿を表したものだと 〈 は 考 円 、 え 盤 太 る の 陽 こ 中 ( と に 円 が ウ 盤 で サ の き ギ 中 る と~ ~こ 燐
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が の と ' い 蛇 が る 身 い 〉 の る と 女 〉 月 神 を左右に配して、天界の中央、最上層 に位置を占めている。この自画には、 上下方向に、天上世界、地上世界、地 下世界が重層的に画かれているのであ 図ー るが、その天上世界部分において、陽 的要素(太陽﹀と陰的要素(月﹀には さまれ、その中央上部に位置している この女神は、宇宙の最高神であり、一 人で陰陽を調節して、この世界の秩序 を保つ、孤独な絶対神であったと推測 中国西部地域における伏義・女嫡図像〈上)(小南〉 - 7ーすることができるであろう(図二﹀。 この南画の女神が確かに女嫡の前身であったと断定することは難しいのであるが、 長沙馬王堆一号漢墓出土鳥画 図二 ただ、その下半身が蛇身をなす ことから言っても、馬王堆漢墓から少し下った時期に出現する、人頭蛇身として画かれる伏義・女嫡とまったく無関 係であったとは考えにくい。それゆえ、馬主堆漢墓出土の非衣に画かれている女神を、伏義と女嫡とが対をなす神だ とされる以前の、原始女摘であったと推測するのである。この原始女嫡は、みずからの尻尾を絡み合わせて大きな固 環を作っている。この園環は、宇宙の楯環的な秩序を保持することを意味するもので、女嫡の重要な神話的機能を象 徴していたと考えられる。女鍋一人で作っていた園環が、やがて伏裁と女嫡とのこ神による交尾そのほかの図象によ - 8ー 龍谷大学論集
って取って代わられるのである。 世 ι う ちなみに、馬王堆一号漢墓は、初代の駄侯夫人の墓であり、夫人は紀元前二ハ
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年前後に死去したと推定されてい る。その墓中から出土したT
字型吊聞を非衣と呼ぶのは、同じ墓中から見つかった遺冊(副葬品目録﹀に見える非衣 の名が、この遺物と対応するからである。この非衣は、他の多くの副葬品が棺や停の内部の空間に納められているの とは別に、死者の内棺の蓋の上に載せられたかたちで発見されたのであった。 中国古代において、故人が使用していた衣服が、 その人の魂の依り代とされたことは、 たとえば﹁儀礼﹂土喪礼篇 の最初に記述されている、招魂(復﹀の儀礼に故人の衣服が用いられていることからも知られる。このT
字 型 非 衣 が 、 三枚の絹を接ぎ合わせて、袖の付いた上着の形態を取っているのは、そうした衣服の愚霊の機能と関わるものであっ た と 推 測 さ れ る 。T
字型の上の一辺に軸が入れられ、紐でつり下げられるようになっていることから、葬送儀礼の中 で 、 ﹂ の 非 衣 が つ り 下 げ ら れ て 、 死者の魂の依り代とされてきただろうことが知られる(﹁儀礼﹂士葬礼篇に見える 銘 で あ る ) 。 埋葬のあとには、死者の魂がこの衣に愚依し、 天上世界まで飛んで 一方、非衣の非の字は飛に通じる。 行くことを期待して、この非衣を棺蓋の上に載せたのであったろう。非衣の上には、死者自身の姿が画かれ(この吊 画の中央、地上部分に、下ぶくれした顔の老婦人が画かれているが、この墓から発見された女性の遺骸と面影が似て いる)、その上部に天上世界が表されているのも、 死者の魂が天上世界へ昇ることを期待して、 そうした図像構成が 取られたものと考えられる。 なお、同じ馬王堆の三号墓からも、同様の形態の非衣が出土している。三号墓は、 あった利稀の墓であって、利稀は、一号墓に葬られた母親に先立って、前一六八年に死去したことが知られる。三号 墓から出土した非衣にも、基本的に、 二代目の軟侯で、長沙国の相で 一号墓のものと同様の図柄が見えるのであるが、 ただ最上層の女嫡の図像だけ が見えていない。同じ家族の墓から出土した、 ほぼ同じ時期の二つの非衣のうちで、女嫡の姿が一方にしか見えない 中圏西部地域における伏義・女嫡図像〈上)(小南〉 - 9ー企
L .一一ーーーーーーーーも.
: 1____一...一一一----⑤一一...白--一J' f;二::~ じ.Jj .--'-ーーーー 111:"1: のは、宇宙の最上層に女嫡が位置して、 その女摘が、陰陽を調和 させ、この世界の調和を保っているという観念が、前漢の文帝時 期ごろには、人々の聞に、 まだ十分は定着していなかったことを 反映するのであろうか。 右:浅井頭墓 前にも推測したように、伏義・女摘が対をなす神だと考えられ るようになるのは、前漢時代後半期からであった。この時期に、 原始女婦が、伏義と女嫡との二神に分裂したのである。対をなし ている伏義・女嫡図像のもっとも古い例として、洛陽の前漢時代 後半期の醇室墓に画かれた壁画を挙げることができる。 その一例が、卜千秋墓の壁画であお。この墓の副葬品の中から、 左:卜千秋墓 ﹁卜千秋印﹂と刻された銅印が発見されており、被葬者は卜千秋 とその妻とであったと推測された。この墓の形態は、もっとも簡 単化して言えば、ト千秋夫妻の棺を納めた主室(棺室﹀と、その 図三 左右に翼を広げたかたちで付加された、副葬品を入れるための耳 室 と の 二 つ の 部 分 か ら 成 っ て い る ( 図 コ 一 左 ) 。 耳 室 が 、 小 碍 ( レ ンガ﹀を積んで作られ、天井部分がアーチ型をなしているのに対 して、主室は、ずっと大型の空心蒋(土を焼いて作った、 コンク リ l ト・ブロックのようなもの﹀を組み合わせて作られて、小屋 形をなし、その屋根の部分は両流れの切り妻形式になっている。 -10ー 龍谷大韓命集"
図四 上:卜千秋墓 中段右:浅井頭墓 下:洛陽老城西北角墓
その主室の屋根の棟の部分には、左右の屋根をなす空心碕時の間に候められた、特殊な形態の蒋が水平に並べられてい る。この主室の棟の部分に並べられた璃(墓頂脊碕)の下面(すなわち、棺の中の死者と相対する位置)に、下地を 塗った上に、彩色の画像が画かれていた。 この墓頂脊蘇は、全部で二十個からなり、墓室の奥から墓門の方へと、墨書で番号を付けて並べられていた。これ ら二十個の蘇の上には様々な図像が画かれていたが、その中でも主要な図像だけを、墓室の奥から墓門の方向へと順 に紹介すれば、次のようである(図四上﹀。 一番奥に女嫡が画かれている。女嫡は、豊かな髪を詣に結った女性として画かれるが、その下半身は、先が少しば らけた長い尻尾になっている。この女嫡の前には月あり、その月の円盤の中には蛤除(蝦墓)と桂樹とが画かれてい る。月の向こう側、女嫡と対照になる位置には、肩から羽根が生えた老人風の人物が、三段にフサが着いた節を持つ て立っている。神仙の一人なのであろう。このように、墓頂脊蘇の奥の部分には、女嫡・月・仙翁が一グループをな し て 画 か れ て い る 。 墓頂脊時画像のうち、この女嫡グループとは対照的な位置には、伏義が画かれており、両端に配された女嫡と伏義 との聞には、様々な動物(龍や一角獣など、神々の世界と関わりを持つ動物﹀たちが、みな伏義の方から女嫡の方へ 行進しているというかたちで画かれている。発掘簡報は、これらの動物について、 双龍・二巣羊・朱雀・白虎などの 名 を 与 え て い る 。 この墓頂脊噂の墓門に近い端に画かれているのが、伏義と太陽とのグループである。伏裁は、中年過ぎの男性のよ うに画かれ、冠をかぶっている。その身体は、膝から下が、女嫡と同様に蛇状をなすが、尻尾の先はばらけて、魚の 尻尾に近い。伏義の前には、飛んでいる烏を載せた円盤があって、太陽を表している。太陽をはさんで伏義と対照と なる位置に蛇状の動物が画かれており、発掘簡報は、これを黄蛇に比定している。 - 12ー 龍谷大学論集
特に興味深いのは、女鍋の方へ行進する動物たちと、 伏義グループとの間にある図像である(図四中段左)。 部分の左端には双暑を結った仙女がいる。仙女の前にはウサギがいて、芝草のような、おそらく仙草の一種であろう 植物を口にくわえている。その後ろに、三首の鳥の上に立った女性と、まだらの蛇の上に立った男性とがいる。女性 は、懐に烏(三足烏﹀のような鳥を抱き、男性は弓を手に持っている。女性が乗る鳥の下には、九尾の狐が、男性が 乗る蛇の下には蛤除がいる。これらの動物はみな、仙女の方向へ、 さらに速くは、女嫡の方向へ進みつつある。 ここに画かれている男女二人を、この墓に葬られている卜千秋夫妻だとする解釈は、首肯できるものである。墓主 それぞれに鳥と蛇とに乗って、死後の世界へ向かう姿が画かれたのだと考えられるのである。 女性が懐に懐いている鳥は、太陽の中の三足烏と関係するもので、女性の魂が太陽と合一することを願うものであろ 人 夫 妻 が 、 そ の 死 後 、 うか。男性が弓矢の道具を身につけて冥途の旅に出発することは、 ﹁儀礼﹂土葬礼篇の記述にも見えるところである。 男女の前にいる仙女は、死者の魂を迎えて、女摘が支配する、死後の世界にまで道案内する役目を果たすのであろう。 動物たちがみな、伏犠の方から女嫡に向かって歩を進める様子に画かれているのも、死者の魂が、伏犠・太陽・陽の 世界を離れ、女禍・月・陰の世界へ帰するという、基本的な運動を表していると考えられる。 卜千秋墓の壁画は、死者が納められた主室の天井の、死者が棺の中から見上げれば、 正面になる位置に画かれてお り、その図像は、墓門近くの伏義から、墓室奥の女嫡の方向へと、 一つの方向性を以って配列されていた。その運動 の方向性とは、死後の魂がたどる道の方向を表していたと考えられるのである。もしこうした想定が正しいとすれば、 卜千秋墓の頂脊壁画の内容と馬王堆漢墓出土の非衣に画かれた昇天図像とには、無視できない数の共通性があるとい その行方の終着点には、女嫡がいる。た だ、卜千秋墓の図像の場合には、女嫡と対照になる位置に伏義が配置され、伏義のいる世界が、死者の魂が、そこか ら死後の旅に出発する、出発点となるとされているのである。卜千秋墓の図像もまた、馬王堆の非衣の図像と同様に、 うことになるだろう。両者はともに、死者の魂の行方を画いたものであり、 こ の 中国西部地域における伏毅・女嫡図像(上) (小南) - 13ー
死者の魂を安全に彼岸の世界に導くことを願って固かれたものだと推測されるだろう。 卜千秋墓とほぼ同時期のものだと考えられ、同様の図像が画かれた墓葬として、同じく洛陽市の西郊、浅井頭で発 見された漢墓がある。この浅井頭噂室墓の基本的な構造は、卜千秋墓と同じであるが、その主室には、男性のものと 推測される棺しか納められていない。耳室も、向かって左側にしか付いていない。 " -J -、 ふ iJI 主室の構造は、右側にも耳 室が付けられるようになっている。すなわち、その妻が死んで葬られる時には、右側の耳室が作られる予定であった が、なんらかの理由で、妻は合葬されず、右側の耳室も建造されぬままになったのであった(図三右)。 浅井頭墓においても、主室の頂部に、十四個の脊曜が並べられ、 その砲には、白膏泥を塗った上に彩色をほどこし た図像が画かれていた(図四中段右)。ここでも墓門に近い一端には、人頭蛇尾の伏義と太陽とが固かれ、墓の奥壁 に近い、反対側には、人頭蛇尾の女嫡と月とが固かれている。ただ女摘に当たる神は、冠を着けており、あまり女性 的には見えない。あるいは、この基に葬られたのが男性主人だけで、その妻は合葬されなかったことが、女嫡が女性 らしく画かれなかったことに関係するのであろうか。伏義と女嫡が配された両端の中間には、仙界や天上世界の動物 ただ、卜千秋墓にあった、墓中に葬られた夫婦が が配されており、卜千秋墓の壁画と同じ図柄の配置になっている。 女摘の方へと死後の旅に出発する図像は見られない。 ちなみに、以上二つの洛陽漢墓のほか、墓室の脊梁部分下面に天象図が画かれた例としては、同じ洛陽老城西北角
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ほぼ同時期のものであろう、星象を画いた図がよく知られている。ただこの墓の星象図は、前室の 城 外 の 前 漢 墓 の 、 脊梁下面に画かれたものであり、 また円形に配列すべき天象が、 やむを得ず横並びに画かれたもので、太陽と月とは 円環上に配列すれば対照になるべき位置に配されている点で、 前二者とは同じくない(図四下)。 伏義・女嫡が画か れた棺室脊梁の図が、太陽と月とを両端に置いているのと異なっているのである。後室(棺室﹀が死者の遺骸を納め る場所であるのに対して、前室は祭聞のための空間であったと考えられる。前室天井に画かれる日月・天象図は、そ - 14ー 龍谷大学論集晋西・陳北
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朝刊'J:.'!".~唱が,.. ~ ...山東・徐州
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後漢時代伏義・女嫡図像一覧 図五 中国西部地域における伏義・女嫡図像(上)(小南〉 - 15ーの祭杷のための空間が小宇宙をなすことを示すものであり、そうした宇宙的な空間でなされる祭組が、宇宙全体にそ の効力を及ぼすことを期待されていたのであった。それに対して、棺室天井にも日月図が画かれるが、そこでは、 と月とが伏義と女嫡とに関連付けられて、図像の両端に配されている。こうした図像配置の違いは、図像に託された 機能、効果の違いを反映したものであろう。棺室脊梁の図像は、死者の魂の安寧を願って画かれたものであり、その 図像配置は、死者が天上世界に昇り、そこで再生することを祈願するためのものであったと考えられる。 卜千秋墓と浅井頭墓との墓室の構造は、洛陽焼溝漢墓の編年で言えば第二形式に属するもので、前漢時代の後半期
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の墓葬だと年代づけされている。発掘報告は、副葬品などの年代をも考慮して、卜千秋墓を前漢中期より少し遅れる、 昭帝│宜帝期(BC八六lBC四九﹀に比定し、浅井頭墓を成帝│王葬期(BC一一一一一│BC六﹀に比定する。すなわ ち これら二つの墓の図像から、前漢時代後半期における伏義・女嫡伝承の展開状況をうかがうことができる。それ をまとめれば、次のようなことを確かめることができるであろう。 a この時期に、女嫡と対になる神として、伏義が導入された。死者の魂がめざす先に女嫡がいるという観念は、馬王 堆出土の非衣に固かれた図像に表明されているものと同じであるが、 その女嫡とは対照的な位置にあって、死者が魂 の旅に出発する、その起点の場所に伏義がいるとされたのであった。こうした二神の位置づけからしでも、この伝承 の中核には女嫡がおり、伏義という神は後から付加されただろうことが知られるのである。女嫡は、元来、宇宙の最 高所にあって、陰的要素と陽的要素との双方を支配し、この世界の安寧を保つ絶対神であったが、それと対になる伏 義が出現すると、伏義が陽的要素(太陽・男性など﹀を代表するのに対して、女嫡は陰的要素(月・女性)を代表す ることになったのである。 原始女嫡が一人でこの宇宙の調和を保っているという段階から、伏義・女嫡の二神が陰と陽とのこつの要素を別々 に担うという新しい段階へと、中国の人々の信仰観念が一歩を進めたのは何故なのであろう。これが女嫡伝承だけの 日 - 16ー 龍谷大学論集現象ではなく、西王母の場合も同様であって、原始西王母が西王母と東王父とに分裂するのもほぼ同時期であったと 推仇されることからすれば、こうした信仰伝承の変化は、個別的なものではなく、中国の基礎的な社会の変化と、そ れを反映した、人々の意識の構造の変質とに密接に関わるものであったと推測されるのである。
伏義・女嫡の諸形態
前漢時代後期の洛陽壁画墓の姿を見せた、二神が対をなすかたちで画かれる伏義と女嫡との図像は、後漢時期にな その流行範囲を拡げた。現在に遺る後漢時代の伏義・女嫡図像の実例は、後世に って、中原文化地域の全体にまで、 遺りやすい材質であるということから、墓室の壁面を飾る画像石や画像曜の上に刻されたものが大部分を占めるので あるが、後漢時代の画像石・画像砲の主要な流行地域では、多少の差はあるが、全てこれら二神を画いた図像を見る ことができる。具体的に言えば、山東・徐州地域の画像石では、墓室や洞堂の重要なモチーフの一つとして伏義・女 摘の図像が配されており、 四川の画像噂や画像石棺にも、多くの伏義・女嫡図像が刻されている。また南陽の画像石 墓では、墓門の扉石近辺にに伏義・女嫡の図像が刻されるのが通例であり、また、中原文化と北方文化とが接触する、 快北・晋西地域の画像石においては、必ずしも伏義・女嫡図像が顕著ではないにしろ、この二神と関わるだろう彩色 の図像などを見ることができるのである(図五)。 後漢時期の伏義・女嫡図像において、伏義と女嫡とが左右に平等に並ぶようになったことがもっとも重要な特徴で あり、これら二神の関係は、両者が蛇尾を互いに巻きつけあって、文字。とおり交尾の様子をなしていることに、典型 的なかたちで示されていると言えるだろう。前漢後半期の、伏義と女嫡とが離れ離れに、画像の両端に配され、伏議 を出発点、女嫡を到着点とする動きが表されるという基本的な図像構造と比べるならば、伏義の地位が相対的に上昇 し、伏義と女嫡とは対等の神格だとされるようになるのが、後漢時期なのであった。 中圏西部地域における伏義・女嫡図像(上)(小南) - 17ーまず最初に、蛇身の男女二神が、当時、本当に伏義・女嫡と呼ばれていたのかどうかを確かめておこう。中国には、 さかのぼれば新石器時代以来、様々な神々の図像が遣されているが、 それらの神の大部分は、本来の名称を確かめる ことが困難なのである。神々の図像に与えられた名称は、あくまでも仮称である。そうした例とは異なり、後漢時期 その当時にも伏義・女掘と呼ばれていたことが知られる。まず文献資料を挙げれば、 王延寿﹁魯霊光殿賦﹂は、霊光殿に画かれていた図像を描写して、次のように云っている、 の人頭蛇尾の神像は、幸いに、 さかのぼっては、天地問閥、時間の始まりのときの様子を書きとどめているが、 五龍は翼を並べ、人皇氏は五 つの頭を持つ。伏義はその身体に鱗が生え、女嫡は蛇の下半身を持つ ︹ よ う に 画 か れ て い る ︺ 。 ﹁文選﹂では、李善がこの賦に注を付け、 ﹁列子﹂の次のような一文を引用している。 伏義と女嫡とは、蛇身で人面ではあるが、偉大な聖人としての徳を備えていた。 A 柑 w v この引用に対応するのは、現行の﹁列子﹂のテキストでは、黄帝篇に次のようにある一文であろう。 庖犠(伏義﹀氏、女姻氏、神農氏、夏后氏は、蛇身で人面を持ったり、頭は牛で虎の鼻を持ったりしており、 人間の姿ではなかったが、 立派な聖人としての徳を備えていた。 このように、伏義と女姻とは、人面で鱗身・蛇身などの姿をしていたと記述されており、しかも並列するように画 かれた神としては、後漢時代の画像石などに見える、これまでも伏義・女嫡と呼ばれて来た、 一対の男女神が最もふ さわしいことは確かである。 さらに加えて、画像に附せられた当時の銘記を通して、 より明確に二神の名前を確定することができるのである。 この時期の伏議・女姻図像を網羅的に検討した、山本忠尚﹁伏義女嫡図像考﹂の論文は、そうした銘記の例を三つ挙 げてい仇。その中でも、山東省梁山県の後銀山後漢墓の壁画は、少し特殊な例である。この墓の前室西壁には、墓主 人の車馬出行図が画かれており、 その車馬行列の上に、進賢冠をかむり、赤い官服を着けた、下半身が蛇尾となって - 18ー 龍谷大学論集
図六 山東後銀山後漢墓壁画
図 七 左 と 下 武 氏 洞 画 像 石
いる男性神がいる。その男神の横に墨書があって、 ﹁伏戯﹂と書かれているのである。この墨書によって、蛇尾の男 この伏戯と対になる女嫡の姿は見えない。 神 が 伏 義 で あ る こ と を ↓ 確 か め る こ と が で き る ( 図 六 ﹀ 。 せば、伏戯から少し離れた左端に、牛を屠殺している様子の女性らしい人物像がある。動物犠牲の処理に関わる女神 , -3 -、 + J J I 強いてさが しかし、この人物が女嫡であると判断できる証拠は見つけられない。この墓の年代は、後漢時 代の半ばごろで、車馬行列の図があることから、被葬者は官僚階層の一員であったと推定される。 で あ っ た の だ ろ う か 。 後銀山漢墓以外の二例は、 ともに男女二神が対になって画かれており、その傍らに、神の名を記した刻銘が遣され たものである。よく知られているのが、山東省の武氏問群の中の洞堂の一つ、普通、武梁胴と呼ばれている洞堂の西 壁に刻された伏義・女嫡図像の例である。この石製の澗堂の西壁には、もっとも高い位置に西王母が刻され、その下 に、太古以来の帝王たちの図像が時代順に刻されてい刷。その帝王図像の最初に置かれているのが伏義であって、人 こ の 図 像 、 が 伏 義 を 表 し た も の 面蛇身の男女の二神が、 その下半身を巻き付けあった姿で表わされている(図七左)。 であることが知られるのは、その横に、次のような刻銘が遺るからである。 あお 伏戯は蒼のエッセンスを体現し、初めて王者の仕事を行った 伏戯倉精 初造王業 画卦結縄 以理海内 八卦を画き、結縄の文書を作って、天下を治めたのである この銘文には伏戯(伏義)の名しか見えないが、図像には、 上半身は人間で、下半身は蛇尾となっている男女二人 の人物が画かれている。すなわち、現世の支配者たちの中でも最古の存在だと考えられた伏裁は、もう一人の女神と 対 に な っ て 、 この世界を統治したとされていたことが知られる。人面蛇身の神の一方が伏義であると知られれば、対 にして画かれている女神は、文献資料などによって、女嫡であったと推測して間違いはないであろう。 武梁桐堂西壁の伏義図には欠けた所があって、はっきりせぬ部分があるが、この武氏桐堂群の画像石の中には、同 じ二神をより明確に示しているものがいくつか遣されている。たとえば、後石室の第五石と呼ばれている画像石に刻 - 20ー 龍谷大学論集
された図像がその一つであって、画面中央右側の進賢冠をかぶった男性の神が伏義、左側の頂上が三つに分かれた冠 り物をかぶった女性の神が女摘である。伏義、女嫡ともに、肩のところから羽が生え、また下半身は蛇尾になってお り、その蛇尾を絡み合わせている。 伏義は手に矩を持ち、女鍋は手に規を持っている(図七下)。 ﹂れら二神が規と 矩とを持つことの意味については、あとでまとめて論じたい。なお、武氏洞堂群に関しては、 いくつかの碑文が遣っ ており、これらの嗣堂が紀元一五
O
年前後に建てられたことが知られる。その画像の年代も同時期のものであること は 確 か で あ る 。 最近、報告があった、四川省筒陽県の鬼頭山崖墓に納められた石棺の図像では、伏義のみならず、女嫡の方にも刻 銘が付けられてい句。この図像は、石棺の後ろ側の短辺に刻されたもので、いささか稚拙な絵であるが、右に伏義が、 左に女嫡が画かれている。伏義の右上の位置に﹁伏希﹂と刻まれた文字があり、この図が伏義を画いたものであるこ とが確かめられる。女摘の方も、その右上に﹁女経﹂と刻されており、女鮭は女嫡と発音が通じる。なお、伏義と女 ﹁蛮文﹂という刻銘があって、玄武であり、女嫡の左側に画かれた鳥 嫡の聞に刻された背中の盛り上がった亀には、 には、﹁九﹂と刻されて、鳩に通じるだろうとされている︿図八)。 物の形態などから、後漢晩期のものだと推測されている。 なお、鬼頭山の崖墓の年代については、 副葬遺 以上に見た三つの題記がある図像例から、人頭蛇尾の男女二神を、後漢時代の人々が、確かに伏義・女嫡と呼んで いたことが知られた。ただ、後漢時期の伏義・女嫡図像は、その形態や持ち物などが一律ではなく、多様な姿に画か れている。まず、それらをいくつかの類型に区分して整理を加えた上で、 ﹂の二神の性格や機能について考える必要 があるだろう。神々の形態や所持物は、その神の機能と密接に関わっていると考えられるからである。 伏義・女蝿二神を、 その持ち物で大きく区分をすれば、伏義が太陽を、女摘が月を所持する例が多い(第一類﹀ほ 中国西部地域における伏義・女嫡図像〈上)(小南〕 - 21ー義
務
か、伏義が矩(曲尺)を、女肱が規(コンパス)を所持する 画 像 も 多 い ( 第 二 類 ) 。 そ れ 以 外 に は 、 二神が楽器を持つ 例が四川の画像に見え ( 第 三 類 ) 、 また南陽の画像石では 二神がそれぞれに曲蓋を持つ例がいくつも見えている(第 四 類 ﹀ 。 同じく南陽の画像石には 二神の中聞にひょろ長 い樹枝状のものが画かれる例があり ( 第 五 類 ) 、 後述する 四川筒陽鬼頭山石棺画像 ように、この樹枝状のものは稲妻を表したものだと推測さ れる。また、所持口問ではないが、伏義・女嫡がその尻尾を 絡み合わせる例が、特に山東の画像石に多いが、 この形態 的 な 特 徴 も 、 これら二神の性格・機能と密接に関わるもの で あ っ た ( 第 六 類 ﹀ 。 な お 、 ﹂ れ ら の 所 持 口 聞 や 形 熊 的 特 徴 は、単独で表明されるのではなく、伏義が太陽と矩との両 凶 八 者を持つなど、複数のものを一度に画きこんでいる図像例 が 多 い ( 図 五 ) 。 画かれた神の形態や所持品が、その神の性格や機能と密 接に関連していると考えるのが、宗教的図像学(イコノグ ラ フ ィ l ﹀の基本的な方法であるだろう。そうした観点か ら、伏義・女嫡二神の図像に表されている所持口問が持つ意 味を考えてみたい。ただ、 たとえば南陽の画像石に画かれ - 22ー 龍谷大学論集た伏義・女嫡が曲蓋(柄のが曲がった日傘﹀を持っていることの意味については、 まだよく分からない。曲蓋が貴人 にさしかける犠性用の日傘的なものであることは知られでも、それを二神がそれぞれに手にしているのはなぜか、そ の曲蓋がしばしば植物(おそらく神仙観念に関わる植物であろう)状に表されるのはなぜなのかなど、未解決の問題 が遺る。それ以外の持ち物については、 なんとかその意味が推測できそうなのである。 伏義・女嫡がそれぞれに太陽と月とを両手で掲げたりしているのは、前漢後半期の洛陽の墓室壁画において、伏義 に太陽が、女摘に月が配されていた伝承を引き継いだものである。さらにさかのぼれば、馬王堆一号漢墓出土の吊画 ク非衣。において、原始女嫡がその左右下部に太陽と月とを配した姿で画かれている、そうした画像構成の背後にあ った観念を受け継いだものであっただろう。すでに述べたように、原始女嫡は、ただ一人で、天上の高所にあって、 太陽の象徴される宇宙の陽的要素と月に代表される宇宙の陰的要素との双方を調整しつつ、宇宙の順調な運行を支配 している、絶対的な権力を持った一人神なのであった。 その唯一絶対的な神格が、前漢時代中期ごろに二つに分裂をした。女鍋の権限が宇宙の陰的要素のみを支配するこ とに限定される一方で、陽的要素を支配する伏義が、女嫡と対になる神として登場して来たのであった。伏義と女嫡 との二神の働きを合わせることによって、原始女嫡の宇宙的な働きが実現されると考えられたのであった。伏義・女 摘の第一類の形態において、二神が腹部にそれぞれに太陽の円盤と月の円盤とを付けたかたちで表現されるの(第一 類 A ﹀は、二神の存在がそのまま陽的要素と陰的要素とを代表するものだという観念を表明したものであろう。 二神が太陽と月とにそれぞれに関連づけられる場合に、伏義と女嫡とが、それぞれの頭上に、両手で太陽と月とを捧 げ持ったかたちに画かれる(第一類
B
)
のは、伏義・女嫡の二神が陽と陰とを支配していることを図像的に示したも のだと考えられる。 これも図像例が多い、伏義と女嫡とが規と矩とを手に持つことの意味の検討は、あとにまわして、これら二神が楽 一 方 、 中国西部地域における伏義・女嫡図像(上)(小南) - 23ー器を手にしていることについて、先に検討をしたい。図像としては、伏義がガラガラのような鳴り物を、女嫡が排笠 を持つ例が多いように見える。文献資料において、伏義が楽器を発明したとされていることは、すでに見たところで ある。この二神が楽器を手にするのは、単に音楽を楽しむためではなかっただろう。神々が音楽を奏することによっ て、宇宙の調和が保持されているという観念は、中国の神話の中に、しばしば見えるところなのである。庇籍が﹁楽 論﹂において、音楽の効用について、次のように言うのも、そうした観念を承けたものであった。 それによって天地の本体を秩序付け、万物に備わる本性を十分に 伸ばしてやろうとしてのことであった。それゆえ、天地八方の音楽を定めて、陰陽や八風の発する声を迎え入れ むかし、聖人が音楽を初めて制定したのは、 させ、黄鐘の楽器の中和の音律を調和させて、すべての生き物や存在物の気の流れを通じやすくさせたのである。 だから音律が和すれば、陰陽は調和し、音声が正しければ、 万物はそれぞれのありかたを十全に発揮して生きる。 男と女とは立場を変えることなく、君と臣とはそれぞれの立場からはずれることがない。天下の者たちは、観点 を一つにし、九州の者たちは生き方のリズムを共有するのである。 この院籍の議論は、哲学的に表現されてはいるが、 あったと考えるべきであろう。伏義がリズム楽器を、女嫡がメロディ楽器を持つように画かれるのも、陰陽による区 その基礎には、音楽が世界を調和させるという神話的な観念が 分があったものであろうか。とりわけ女嫡が排箆などの吹奏楽器を持つことについては、 天下の調和は気を通して実 現される、それゆえ、宇宙を安定させるために用いられる楽器には、吹奏楽器が多いのだと考えることができそうで ある。中国古代の気の観念の基礎には、人々が呼吸する息という具体的なものがあったのである。 このように、伏義・女摘の持ち物は、これら二神によって宇宙の調和が図られていることを象徴的に表すものであ った。伏義・女摘の持ち物としてしばしば見えている、規と矩も、同様の宇宙論的な意味を持っていたと考えるべき であろう。規は円形を画くためのコンパスであり、矩は方形を正しく画くための曲尺︿かねじゃく・かねざし)であ -24ー 龍谷大学論集
る。規と矩の両者が対比的な物日間であったことは、円形は陽と対応し、矩形は陰と対応することからも知られる。た だこの場合、注意すべきは、大多数の画像において、伏義が方形を画くための矩を持ち、女嫡が円形を画くための規 を持っていることである。伏義が宇宙の陽的要素を代表し、女摘が陰的要素を代表するとすれば、規と矩の配分は逆 になり、伏義が陰的持ち物を、女摘が陽的な持ち物を持つことになっているのである。 そうしたことから、林巳奈夫氏は、規矩の所持は陰陽の対照とは関係なく、伏義が矩を持つのは八卦を画いたこと と関係し、女嫡が規を持つのは天を修理する(補天﹀ために用いたものだと説明をし、山本忠尚氏もその説に従って 伺 いる。しかし、規と矩とを二神に持たせていることについては、他の持ち物の持つ意味とも対応して、やはり伏義・ 女姻の宇宙論的な機能と結びつけて理解すべきではなかろうか。陽を支配する神が陰的要素の強いものを所持し、陰 を支配する神が陽的要素の強いものを所持するのは、 二神のそれぞれが陰陽を統合していることを表すのであって、 原始女嫡の超越的な力の伝承が、こうしたかたちで継承されていたと考えられるのである。 一見すれば矛盾するようなかたちで陰陽の統合を考えるのは、伏義・女嫡の場合だけに限られなかった。少し時代 は下るが、六朝時期の道教の神話的な地理では、中国東方の海上には、方諸と呼ばれる、四角い神仙の島があるとさ
ω
れていた。方諸は、一方で、月から神聖な水を取るための道具だとされ、太陽から火を取る凹面鏡である陽燐と対にω
なるものである。その方諸の名を持つ方形の神仙の島が太陽の昇る地点に近いところに位置するとされているのも、 そうした矛盾を統合した、そこが超越的な場所であることを示すものであったと推測される。伏裁と女嫡とが、陰陽 の観点からは矛盾する持ち物を持つ背景にも、同様の思考が存在したと考えられるのである。 これまでには、伏議・女嫡の図像を個別に取り出して、その特徴を見てきたのであるが、 二神の性格やその機能は、 むしろ墓室や洞堂に画かれた図像全体の中で、これらの神がいかなる位置を占めているかということを通して、 中圏西部地域における伏義・女嫡図像(上)(小南〉 よ り - 25一図九南陽朕麟闘画像石
, 一 干 ‘ ー 一白
相包囲--得勘健.‘... ぬ..-荷量・・健闘・蜘司附. . 圃幽咽.値"錫.園""'"弘治向島.帽'騎"唱a・幽_ 4脳-・・・酎翻耐胴岨制帽島、副-・E・ ・ - - ー ー
図十一宿県画像石
良く示されるであろう。 そ う し た 、 図像全体の構図の中でのこ神の位置づけを考える前に、 神 々 の 世 界 の 中 で 、 義・女鍋がどのように位置づけられていたのかをまず見ておこう。 図九は、南陽蹴麟崩の後漢墓の画像石で、前室の天井部分に画かれていたであろう天象図である。この図像では、 真ん中に、三叉状の角のあるかぶりものを付けた神が坐っている。その四方に朱雀・玄武・青龍・白虎の四神がいる こ と か ら し て 、 この坐った神は宇宙の中央に位置する神格であるに違いない。これを太一 (太乙)神だとする説明も あるが、太一と決めるためには、 その証拠がまだ不十分である。青龍の外側には、 日輸をお腹に載せた伏義がおり、 一方、白虎の外側には、月輪をお腹に載せた女鍋がいて、その外側には、 南斗六星が配されている。この図像配置から、伏義・女嫡の宇宙構造全体の中での位置づけについて、そのおおよそ 鈎 を知ることができるだろう。ちなみに、北斗は死を掌り、南斗は生を掌るとされる。しかし、この図では北斗が万物 さらにその外側には、北斗七星が配される。 生成の方向である東方に、南斗が粛殺の方向である西方に配されている。これもまた、前に見た、陰陽の矛盾とその 超越を意味する配置であったのかも知れない。なお、伏議・女嫡と四神との関係について言えば、膜麟崩の画像石で いずれにしろ、女 は女嫡と白虎とが並べられているが、女嫡と玄武とが結びつけて画かれている場合も少なくない。 嫡は陰の領域に位置するとされているのである。 願麟崩の画像石墓では、 四神と伏義・女嫡とが画かれていた。同様に墓の前室天上に画か 一つの典型となるであろう。この墓の前室天井の北半分 この蓮の華が天の その前室の天上部分に、 れた伏義・女嫡図像としては、安徽省宿県の蘭椿墓の例が、 には、円盤内に入った蓮の華を中心にして、 その左右に伏義と女嫡とが刻されている(図一
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M 刷 中央を表明することについては、林巳奈夫氏に論証がある。伏義と女嫡とは、互いの尻尾の先を右手で取って、蓮の 華を中心にすえ、 その周りを園環運動している様子に画かれている。天の中心を廻る伏義・女摘の固環運動は、この 二神が天の運動を代表し、この二神の力によって宇宙がつつがなく運行していることを表明するのである。なお、こ 伏 中国西部地域における伏義・女嫡図像(上)(小南〉 - 27ーの前室の南側の天井石は失われているが、その部分にも同様の図が画かれていたと推測される。 伺 同じ宿県の画像石には、図一一のような例もある。この場合には、伏義・女鍋が、その尻尾を絡み合わせることに よって、三つの園環を作り、その中央の園環は、内部に蓮の肇と四尾の魚を入れ、右側の園環には、強蛤とウサギが 入り、左側の園環には、烏と九尾狐が入っている。この図もまた、伏義と女嫡とが、太陽 H 陽と月 H 陰とを調整しつ つ、宇宙全体の運行をつつがなく見守っていることを表すのだろう。なおこの図では、伏義の側に月が、女嫡の側に 太陽が配されており、これも、規矩の場合と同様に、陰陽の矛盾を、 より高い段階で統合していることを表すのであ ろ う か 。 ほぼ同じ時期に、原始西王母もまた二つに分裂し、西王母と東王父との二神によって、原始西王母の宇宙論的な機 能が担われることになった。この西王母・東王父の体系と伏義・女嫡体系との聞には共通する要素が多い。それゆえ、 これの二つの体系が、どのように重なりあい、逆に、両者の聞にどのような区別があったのかは、興味深い問題であ る。ただ、二組みの対をなす神たちの体系の起源や流行した地域についての地理的な違い、あるいは二つの信仰を担 まだ十分な分析が進んでいない。ここでは、いくつか個別的な例を挙げて、 った人々の階層的な差などについては、 そうした問題を考える手がかりとしたい。 きわめて大雑把に述べることが許されるならば、後漢時代の中期以後には、西王母の伏義・女嫡に対する優位が確 定して、伏義・女姻は、西王母より一段下の存在として、画像に配置される傾向が強くなると言えるだろう。たとえ ば、図十二に見えるように、西王母は、蛇尾の男女二神が絡み合わせた尻尾の上に座を占めている。この二神は、便 面ハ団扇の一種﹀を手にして、西王母の侍者のように画かれているが、伏義・女摘がこうしたかたちに変形され、西 王母の侍者のように画かれたのだと考えられる。伏義・女摘が行っている宇宙の調整作業を、西王母が、 置から指導しているという観念がこうした図像を生み出したものであろう。 より高い位 -28ー 龍谷大学論集
西王母画像石 折南画像石墓の画像石には、西王母・東王父よりも高い位 置に、伏義・女嫡が刻されたものも見える(図十三﹀。ただ この場合には、伏義・女嫡の聞に、二神を結びつける、もう 一人の神がいる。伏義と女嫡との聞に、同様の神が画かれて いる画像は他にも少なくないのであるが、その中央の神の形 図十二 態は様々である。この神について、男神である伏義と女神で ある女鍋との聞を取り持つ、高襟神だと説明されることが多 い(図五﹀。高楳神は、男女の聞を取り持ち、両者を結婚さ せて、多産をもたらす神である。高楳神の桐は野外にあり、 済南画像石 中圏西部地域における伏義・女鍋図像(上)(小南〉 図十三 - 29ー
〉雪片付』
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場 出 宝t 図十四四川合江石棺画像配置図浄場,~I'雄き霊
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春 の 季 節 に は 、 主君も后妃たちを引き連れて、高楳神を杷るとされており、その 洞のもとで歌垣なども行われたのであろう。伏義と女嫡とのベアは、官同様神の力 上:筒陽三号石棺 を得て結合したとき、別々に配された西王母・東王父よりも高い位置を占めるこ とができたのだと言えるだろうか。 四川省の画像噂や画像石棺に表された神々の体系は、 主として、人々の死後の 魂の行方を反映したものだと考えられ、伏義・女鍋は、そうした死者の旅路の中 前頁下:祭経石棺 途に位置するものとされていた。そのことをよく示すのが、画像石棺に刻された 図像の配置関係である。石棺は、特に四川省から多く出土しており、現在までに 五十件以上が発見されているとされる。その石棺の多くのものに、伏義・女嫡ほ か、死者の死後の運命と関わると推測される図像が刻されているのである。 前頁中:南渓二号石棺 そうした画像石棺の図像の中でも特に普遍的な画題は、左右に闘のある門の図 そこで門を守る役人が出迎えている場合も多い。そうした門闘の図は、 己 ぐ ち ほとんどが石棺の短辺、墓室の入り口に近い方の木口の部分に刻されている。そ 像 で あ り 、 の反対側の短辺には、都県新勝の画像石棺が典型的な例になるように、伏義・女 嫡の図を刻するものが少なくない。また、画像石棺側面の長辺部分の中央には、 図十五 門を刻したものがいくつも見える(図十五﹀。 こうした図像配置は、石棺が、単に死骸を納めるための容器なのではなく、死 者の魂を彼岸(天上世界﹀に送るための装置であっただろうことを示唆する。す なわち、石棺の頭部に画かれた門闘は、死後の魂がくぐるべき門闘であって、石 中国西部地域における伏義・女嫡図像(上)(小南) - 31一伏議
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関
口
尊属 天上世界へ女 嫡
現世から門
関
口
棺側面に画かれている門(天門日天への入り口﹀の前に立つ闘なのであった。死者 の魂は、石棺頭部の木口部分から、門闘をくぐり、石棺中央の天門を通り、伏義・ 女嫡の聞を通って、天上世界へ入るという観念が、こうした図像配置にも反映して いると考えられるのである(図十六﹀。 こうした想定が正しいとすれば、 死者の魂 は、天への門をくぐったあと、 さらに伏義・女摘の聞を通過してはじめて、天上世 界に参入することができるとされていたことになろう。伏義・女嫡のもとまでやっ 石熔図像と魂のゆくえ て 来 た 死 者 の 魂 は 、 より高い段階へ進むため、そこで陰陽の結合が行われたと想像 される。陰陽の結合があってはじめて、天上世界に入ることができたのである。こ うした観念と密接に関連していたと考えられる夫婦合葬の制度の展開については、 章を改めて述べたい。交尾する伏義・女嫡
図十六 漢代のある時期(前漢の中期から後期にかけての時期であろう﹀ 原始女嫡 は、伏義と女嫡との二神に分裂した。原始西王母もまた、 ほぼ同時期に、西王母と 東王父とに分裂をしたと推測される。なぜ、それまで独り身で宇宙を支配してきた 大女神たちが、この時期になって、そろって男女二神に分裂することになったので あろう。恐らく、それは、単に人間の心の構造が変化して、そうした対偶をなす神 が求められるようになったという理由だけからの変化ではなかったであろう。こう した変化の背後には、人間の精神構造の歴史的な変遷があったことは確かであるに - 32ー 龍谷大学論集しても、そうした変化が具体的なかたちを取るに際しては、当時の社会と密接に関わっている儀礼や習俗を介して、 そうした変化が定着されたと考えられるのである。漢代における神々の変貌は、その相当に大きな部分が、当時の墓 葬制度の変化と密接に関わっていた。漢代という時期は墓葬制度の大きな変革期であったが、様々な変化の中でも、 とりわけ夫婦合葬制度の展開が、神々の世界にも大きな影響を及ぼしており、原始女嫡と原始西王母とが、男女の対 観念と制度とは一体のものであり、 そうした制度を反映したものであったと推定される。 議・女嫡の図像が墓中に多数、画かれるようになることと、夫婦合葬が盛んに行われることとは、表裏一体の現象で 偶神に分裂したのも、 あったと考えられるのである。 馬王堆漢墓が作られたすぐあとの時期に、股周時期以来の木榔基を基本とする伝統的な墓葬制度が終りを告げた。 それまでは、死者はそれぞれに独立した棺構内部に埋葬され、 一つの墳丘に家族墓が営まれることはあっても、たと しかし、漢代になると、墓の基本的な構造が変化し、 え夫婦であっても、原則的に墓室を共にすることはなかった。 それまでの木榔の中に木棺を納めるという棺郭制度が衰退し、内部に大きな空間を持った墓室構造が発達してきたの であった。そうした新しい性格の墓葬では、その主室(棺室)の内部に、夫婦の棺を合わせて納めることが多くなっ てきた。前漢時代後半期にそうした例が出現していることは、 まえに洛陽の壁画墓を紹介したところで見たところで ある。後漢時期になると、 たとえば南陽の画像石墓の構造に見るように、主室は二つに区分されて、夫婦の棺二つし たとえ妻以外の女性が幾人も家にいて、墓主人の男性と親しくしていたとしても、 か入らないように作られている。 並んで墓に入れるのは、男一人、女一人に限られていたことが知られるのである。 こうした夫婦合葬の習俗が盛んになるについては、 おそらく当時の家庭の構造変化を反映するところがあったであ ろ う 。 墓 葬 形 式 の 変 化 が 、 死後の魂の救済(魂がつつがなく彼岸へ行けるこ し か し 、 それ以上に重要であるのは、 と﹀と密接に関わっていたことである。すなわち、夫婦を合葬することによってはじめて、死者の魂の安寧が図れる 伏 中圏西部地域における伏義・女嫡図像(上)(小南〉 - 33ー
と、当時の人々は考えたればこそ、夫婦合葬形式の墓葬が広く行われたのであった。夫婦を合葬するというのは、理 念 的 に 言 え ば 、 陰と陽とを結合させることであり、 死者たちが彼岸の世界(天上世 陰陽が結合することを通して、 M 開 界)に再生できると考えられていたと推測されるのである。 図像に示される伏義・女鍋の二神の結合は、 そうした夫婦の死後の霊魂の結合を象徴するものなのであった。たと えば南陽の画像石墓の墓門の扉に、左右に分けて伏義と女嫡とが画かれているのは、夫と妻とが、その死後に、それ ぞれに仮に伏義と女嫡とになることを象徴したものであっただろう。擬制的に伏義と女嫡とに化した夫婦の魂が、伏 義と女嫡のように結合することによって、二人は天上世界に再生すると考えられたのであった。房中術によって永遠 の生命を得ょうとする宗教的な実修も、同様の観念を背景に持ったものであったと考えられる。 伏義・女嫡が交尾の姿で表されることが多いのは、この二神が、そうした男女の結合(陰陽の結合﹀と密接に関わ っていることをあからさまに表明している。神々がその尻尾を絡み合わせる図像は、戦国時代初期の骨侯乙墓出土の そうした図案が、夫婦合葬制度と結びつき、夫婦結合 漆器の図案(図十七﹀などにも見えているが、漢代になって、 の象徴として、墓室の内部に盛んに画かれることになったのであった。もちろん、 さかのぼれば世界各地の新石器文 化に見られる、豊鏡の象徴としての蛇のイメージが、そうした図像の基礎にあったに違いない。 南陽の画像石に見える伏義・女嫡図像では、両者の聞にイナズマを表したであろう樹枝状のものが画かれているこ とを、伏義・女摘の形態的な区分を述べたところで指摘した。この樹校状のものがイナズマを画いたものであったろ うことは、たとえば、同時期の徐州の画像石に、神々の出行図があるが、その中に画かれた雷神が、一方でカミナリ 一方でイナズマを表す樹校状のものを持つことからも知られる(図十八﹀。このイナズマも男女
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﹁史記﹂漢高祖本紀には、次のような記事が見えている。 を 表 す 太 鼓 を 叩 き 、 の結合を象徴するものであっただろう。 高祖は、父を太公といい、母を劉盤という。以前のこと、劉姐が大きな水沢池の岸辺で休息をしていたとき、 - 34ー 龍谷大学論集図十七曾侯乙墓出土漆箱画像
夢の中で神と出会った。 こ の 時 、 カミナリが鳴りイナズマが光つ て、あたりは暗くなった。太公が行って視でみると、劉姐の上に蛇 龍がいるのが見えた。この事件のあと、劉魁は妊娠をし、このよう にして高祖が生まれた。 右:徐州画像石天神出行図 この記事は、母親が蛇龍と交わって、漢の高祖が生まれたという物語 り を 伝 え て い る が 、 その交わりに際して光ったとされるイナヅマと同じ 性格のものが、伏義と女嫡との聞に画かれているのである。すなわち、 こうした持ち物もまた、伏義・女摘の性的な結合を象徴するものであっ たことが知られるのである。 説晋時期以後になると、墓葬の規模や構造は、漢代に比べて、簡素な ものに変化する。そうした変化は、時代の混乱の中で、大きな墓室を造 るための経済的な基礎が失われたことだけが原因で引き起こされたもの 左:南陽画像石 ではなかったであろう。そのもっとも大きな原因は、漢代に盛んであっ た、墓葬構造それ自体やそこで行われる儀礼を通して死者の安寧を祈る 図十八 ことができるという観念自体が衰退したことにあったと考えられる。社 会の混乱の中で、古来の家族制度や祖霊信仰を基礎にした魂の救済がほ とんど無効であることを、人々は、多くの経験を通して痛感したのであ った。死者の魂の救済は、そのまま自己の魂の救済の問題でもあった。 このようにして、人々は、大規模な墓を造って魂の救いを祈るよりも、 - 36-龍谷大名論集