共 同研
究報
告特集
一近 代
日
本
に お け る文 化
・文 明
のイ
メ ー ジ日
本 古 代
文
化
の
形
成
遣 隋
・唐留 学
生
の場合
一村 山
出
1
古 代
に お け る 文 化認
識日
本
文 化につ い て考
える場 合
, さ かの ぼっ て古代
に お い て文化
が どう認 識 さ れ てい た か を知る こ と も参考
に な ろ う。奈 良 時 代の天平 勝宝3
年 (751
) に 成 立 し た詩集
『懐
風藻
』 の序
文に は国 初か ら近 江朝
に至 る ま で を次の よ うに要約
してい る。逖
く前修
に聴 き, 遐に載 籍 を観 るに, 襲 山降 蹕の世 に, 橿 原建邦
の時
に, 天造 草 創 にして, 人 文
未
だ作
らず あ り き。神后坎
を征
し, 品帝
乾に
乗
じ た まふ に至 りて, 百済入朝
して,龍
編を馬厩 に啓 き, 高 麗上表して, 鳥 冊 を鳥 文に 図く。 王
仁始
めて蒙
を軽島
に 導き, 辰 爾終
に教 を訳
田に敷
く。 遂に俗
を洙
泗の風 に漸
め, 人 を齊魯
の学
に趨か しむ。 聖徳
太 子に逮
ぴ て, 爵を設 け官 を分か ち, 肇めて礼 義 を制 め た まふ。 然す がに
専
らに釈
教を崇
み, 未だ篇 章 に遑 もなか り き。国初
の頃
は人文 (
天文
に対 する語 ) す な わち人 間の文 化が まだ見
られ な か っ た が,応神朝
に百 済か ら来た阿直 岐が良馬 を献 上し, 王仁が皇子菟 道
稚郎
子 に経籍
を教え, 敏 達朝
に は高麗
か ら送 っ て き た鳥
羽の表
の鳥文
を 王 辰爾
が見事
に解読
し, その結
果人々 を孔 子の学に導 き, 聖徳 太 子の 時に 冠位
を定め礼義
を制 定 したが , そ れ で も専
ら仏教
を あ が めて, 未だ詩 文 を作 るこ と は なか っ た, とい う。 文化 は文 字 一 そ れ は当然 思 想 を ともな う も の で あっ た 一 の伝来
に よっ て儒 学・仏教の 学 問 的 政 治 的な展開
をみ た が , 文 学 (文 学 は本 来 学 問の こ と) を創 造 し文雅
を楽
し む まで に は至 らなか っ た。 その転機
がお とず
れ る の は天智
朝で あっ た, と見てい る。北海学 園大学人 文論集 第 10 号 (1998年
3
月) 淡 海 先 帝の命
を受けた ま ふ に 及至 びて , 帝業
を恢 開 し, 皇 猷 を 弘闡 し た まふ 。 道は乾 坤 に格 り, 功は宇 宙 に光れ り。 既に し て以 為 ほ しけ ら く, 風 を調へ 俗 を化 む るこ とは, 文 よ り尚きこ とは莫 く, 徳 を潤
ら し 身を光 らす こ と は, 孰か学
よ り先な らむ と。 爰 に則ち庠 序 を建て, 茂才を微 し, 五礼 を定め, 百 度 を興 し た まふ 。 憲 章 法 則, 規
模
弘 遠, 夐古
よ り以来
,未
だ有
らず。是
に 三階平
煥, 四海殷 昌
,旒績 無為
,巌廊
暇 多し。 旋文学の 士 を招き, 時 に置 醴の遊 を開き た まふ。 此の際に当た りて, 宸 翰 文 を 垂 ら し, 賢 臣頌を献る。 雕 章 麗 筆, 唯に百 篇の み に
非
ず
。 但 し時に乱 離 を経, 悉 爆 燼に従ふ。 言に湮滅
を念
ひ,軫悼
して 懐 を傷 ま し む。大
化
の改新
を機
に律 令 国家
建 設 に ふ み だ した天智
天 皇が, 近 江の 大 津宮
に即位
し, 治世
にあ た っ て風俗
を整 え 民 を教 化す るに は文 (学問
な ど)よ り貴
い ものは な く, 徳を養
い 身 を立 て るには学 (学
問 )が大切 で最
優 先す べ きで ある と,庠 序 (
学校 )
を建
て て秀才
を招
き, 五礼
と諸法規
を定
め, 宮 廷 に し ば し ば文 学の士 を招い て酒 宴の遊び を催 し, 天 子 自ら詩 文 を作 り賢 臣
が讃美
の詞章
を献
じ た。 こうし て 美し く飾 っ た詩 文は百 篇に と どま ら なか っ た が, 壬 申の 乱の た めに 灰 塵に 帰 した, と述べ る。 こ こ に奈 良 時代 に お け る 日本 文 化につ い て の 認 識が 示 されてい る。 治世 に つ い て の讃
美や文飾
は お くと し て, 『古 事 記 』 「日本
書 紀』 『懐 風 藻』 『万葉 集
』 な どを参考
に して も, 天智朝
にお け る文 化へ の志 向とその 実現へ の努
力はか な り信 頼で き る もの で あ ろう し, 詩 集の 序で あ る た め に詩 歌 文 章 へ の偏 りは ある もの の ,古
代 国家
に とっ て の文 化な る もの の イメ ー ジ が示 さ れてい る。後
世 しばしば論
じ られ るH
本
文化
の外
発性 (
あ るい は雑 種性
な ど) とい う認 識が既 に 認め られ る が , その ような文 化が古 代 に お い て は 直 接 的効 用の 面か ら緊急 な国 家 的要 請 として 求め ら れ たで あろ う。 中 国 を 中心 とす る漢 字 文 化 圏の 中で , 近 隣 諸国 に 立ち ま じっ て, 国家 と し て 自立 する こ と と国 際 的な優 位 性 を競 うこ とが避 けら れ ない 状 況 に当 時の 日本は置
か れて い たか らで ある。 外 発性の文 化 とい っ て も, そ こ に 日本の内なる欲 求 と か 意 図が働 い て い 一一90 −一一日本 古代 文化の形成 一 遣隋 ・唐留学生の場 合一 (村 山) た であろうこ と も否
定
で き ない はず
で,海彼文 化
の摂取
に積極 的
な方向
が あっ て,受容
すべ き文 化 を選 択 して摂 取 し, 日本
に お い て熟成
発 酵 させ て変
質 させ て い く とい うプロ セ スが あ っ たで あ ろ う。古代
国家
の確
立 に と も ない古来
の 土着
文化
や和
風化
し た文 化の意義
が徐
々 に 認め られ る ように な るの であ
る。『
懐
風藻
』 の成
立時期
は 聖武
天皇
が娘
の孝謙
天皇
に譲位
して か ら3
年
目 で, 翌勝
宝4
年
に は東
大寺
で大仏 開
眼会が催
され る。 大仏
造 立は聖武朝
の 政 治的
文化 的
な象徴
で ある。遠
く欽
明朝
の仏教
公伝
に端
を発 す る と し て も, 仏 教が国家 仏教 となっ た天 武 朝 以 降に築か れ て きた政 治 ・ 文 化の一 つ の帰 結である とい っ て よい で あろ う。2
文化
形成
の様
相中
国を中
心とする百済
・新羅
・高麗
な どの大陸文化
の輸
入は,文 物
の伝
来
だ けでな く, 文物
や技
術 な ど を も た ら した人材
の渡 来 と, 逆に 日本か ら の人 材の派 遣 によっ たと考 え な けれ ばな らない 。大 陸 文 化の 受容 は 『懐 風 藻 』 序 文 に は応
神朝
以来
と述べ られ る が, 画 期 的 な意 義 を もつ の は仏 教の公 伝であろ う。 欽 明13
年 (552
)に百 済の 聖 明 王 は わ が国
に釈迦 仏
の金銅像
1
躯
・幡
蓋若干
・経論若
干を贈
り , こ の受容
を物部
尾 興 と中臣鎌足
は 反対
し た が,蘇我稲
目は向
原の家
を寺
と して安置
し た。 以後 排 仏 ・崇仏両
派の 仏 教 論争
は熾 烈 を きわ め, 遂 に馬子 (稲
目の 子)
が厩戸皇
子(
聖徳 太
子)
と と もに物部氏
を攻
め滅
ぼすが, その折
に持
国 ・増
長 ・広
目 ・多聞
の 四天王 に戦
勝 を誓 願 し, 願い が かな っ て馬 子は大 和の飛鳥 に 崇 峻元 年 (588
)に法興寺 (飛鳥 寺・元 興寺 と も)を着
工 , 厩戸
皇 子は難 波の 荒 陵に推 古 元 年 (593
)に 四天王寺 を着工 した と伝えられ る。法 興
寺
の建
立 に あた っ て, 百 済は馬 子の要 請で僧 恵 総 ・令
斤 ・恵 窟 ら を 遣わ して仏舎
利を献 じ,僧
の聆
照律師
・令
威 ・恵衆
・恵宿
・道厳
・令 開
ら, 寺工 の太 良 未太 ・文 賈 古子, 露盤博士 の将 徳 白昧 淳, 瓦博士 の麻 奈 文 奴 ・陽貴
文 ・稜貴
文 ・昔麻 帝
弥 , 畫工 の白
加 ら も献
じて い る。仏
教の 受容は仏
北海学 園 大 学 人 文 論 集 第
10
号 (1998
年3
月)像
や経典
だ けに と ど ま らず, 仏舎
利 を安 置 し て仏 像 を礼 拝 し,経
と律
を研
究
し戒
律 を守っ て修 行 する僧 ら の教 団が必 要で あ り, これ ら を擁す る伽 藍 が欠か せ ない 。 百 済 は寺
院の建 築工 , 塔 頂相 輪
の鋳 造師
, 造 瓦師
,仏 画
の絵師
ら先 進的
な特殊技
術 者 を提 供 したの で ある。 推 古4
年 (596
)に落成
す る と, 渡 来 し た高 麗 僧 慧 慈 と百 済僧
慧 聡が 法 興寺 に住み,仏教
を弘め三宝 の指 導者 となっ た。本尊
の丈
六 の釈迦如来像
は止利 仏師 (
百済 系渡来
人,司馬
達等
の孫
の鞍作鳥 )
が推 古
14
年 (
606
)
に完成
して金堂
に安
置され た。 聖 明王 に贈
られて初
めて仏像
に接し, 仏 法の功徳 を耳に し た欽 明天 皇 は, 「仏
の顔
き ら き ら し(
仏
相 貌 端 厳 )」 と も 「か くの 如 く くは しきの り(
如是
微
妙之法 )」 とも感 動 し た とい うが, そ の よ うな金 色 燦 然た る仏 像が鎮 座し, 壁に は仏 画が描か れ た こ と は, 具体 的 な 姿 を もた ぬ 自然神
を信仰
して い た 当時の人々 に とっ て は大 きな驚
き であっ た ろ う。本尊
を中
心に深遠
な思想
と教理 を蔵
す る伽
藍,朱
の柱
・白
い 壁 ・緑
の櫺
子に瓦 屋根の金 堂 ・塔 ・講 堂 ・鐘楼
・経蔵
な ど を囲
む 回廊
が シ ス テマ テ ィ ッ クに構 築
さ れ た 空 間か ら は, 異 国語
の読経
や時
に は唱歌音楽
も流
れ, 法会
の時
に は伎楽
も舞わ れ た りす る。 こ の異 国 的な情 景 は人々 の耳 目を奪っ た に違い ない 。 ま だ竪穴 式住
居や板
葺 きの家
屋が多か っ た飛 鳥の地 に, 甍を 並べ 塔が そ そ り立つ伽
藍 は, 当 時の人々 の感 性 に も心に も変 革 を迫 らずに い ない よ うな総合
文化
の 現 出で あっ た はずで ある。こ とは
仏
教に限
らず,例
えば推古
10
年 (
602
)
に は百済僧
の観勒
が渡来
し, 暦の 本, 天文 地理 の 書, 遁甲方術の 書を も た ら し たの で, 書 生 を 選 ん で観 勒 に学ば せ て い るが, 方術 を学ん だ山 背 凵立 を除き, 暦 法 を学んだ玉 陳 (陽胡 史の 祖 ) と天文 遁 甲 を学ん だ 大友 高 聡は渡 来人 で あ っ た。 伽 藍建 築 ・ 造 仏 の技 術 ・ 工芸ばか りで な く , 学 芸の 摂 取の 面で も渡来
人 の学力
に頼
らな け ればな ら なか っ た 。史
書に記さ れ て い る こ との 一端に過 ぎない が, こ れが古代 冂本 に お ける文 化 形 成の 様 相で あっ た。だ が, こ の よ う な外 来の文 化 をただ受 動 的に受 容す る の で は な く,
先
進 諸 国の文 化を積 極 的に摂 取 し,自
ら を変 革 し よ う と し たの が遣 外 使 と留学 生の派 遣で あっ た。 遣 隋 ・唐使 は中 国文 化の摂取 と国 際的な情報 の 把握 を 92 −一日本 古代文化の形成 一 遣 隋 ・唐 留学生の 場合一 (村 山) 主眼 と して お り,
留学
生を重 要視
して い た こ と はいう
まで も な く,特
に東
ア ジ ア の政
治 ・ 文 化の中心 とな っ て い た隋 ・ 唐 に派 遣 された留 学 生の任 務 は重 大で あっ たはず
である。小
稿
で は,前節
で触
れ た 『懐
風藻
』 の成
立 と東
大寺大 仏
の開
眼 に あわせ て勝宝の 頃 を一応の下 限 と し, そ れ まで に派遣 さ れ た留 学
生の 動 向を通 し て,古代 文化
の形成
の様相
を見た い と思
う。3
留 学 生
の往
還 留 学 生に は, 学 問 ・ 技 術 ・ 芸 能 な どの研 究 を目的とする一般の学 問生 と仏教
の研 究
を目的
とす る学 問僧
がお り,彼
らは長
期間
にわた っ て十
分に研究
す るた めに派
遣 さ れ た。 これ に対 して渡 唐 前に 日本
で 一応の 研 究 ・ 修 行 を積
ん だ専門
家で, その分野 の特
殊 な問
題 を研 究す る た め に派 遣 さ れ た請 益 生 と請益僧
が い た。遣 隋使の派 遣 は, 推
古
8
年 (600
)か ら同22
年
(614
)まで に4
次にわ た り, その後遣 唐
使の派遣
は舒
明天皇
2
年
(630
)か ら仁
明天皇
の承和
5
年
(838
)
まで17
次
にわ た っ て い るこ の間に派
遣
さ れ た留
学 生の数
はお びた だ しい もの で あろ うが, 史書に記録 され た者は きわめ て少な く, 貢 献 し た 内容 もあま り明らか で は ない 。 帰 国 後の活 動や業 績の詳 細が知 ら れ る場 合 はむ しろ珍 しい ので ある。 とい うの も, 官 撰の史書
は政 治 的 動向
の記録が 中心で あるた め と, 留 学生 は遣 外使 の ような名 門 出 身の高 位 高 官 と は異 な り, ほ とん どが中 流以 下の官人の 子 弟で あっ た ため に, 史 書に取 り上 げら れ る機
会 が とぼ しか っ た ことに も よる。 だか らとい っ て留学
生の業
績 が軽 微 であっ た こ と は意 味し ない で あろ う。 む しろ社 会 的に も精 神 的に も深 層 に おい て 日本
の 文 化を向上 さ せ るの に多
くの 寄与を して い た と考え るべ き で ある。 と は い う もの の , 小 稿で は生命
の危 険を冒し て先 進 文 化の摂 取に 情 熱 を燃や し た留 学生の足 跡 を どの程度
汲み 取る ことがで きる か 。該 当す る
時
期の留
学 生派遣の記事
を以 下 に 摘記す るが,特
に説明 し ない もの は 『日本 書 紀 』 『続 日本 紀』に よ り, 『日本古
代人名 辞 典 』 (昭 和33
〜52
北海学 園 大学人 文 論集 第
10
号 (1998
年3
月)年
), 森 克己 氏 『遣 唐 使 』 (昭 和41
年 ) を参 考 に し た 。(
1
) 第
3
次遣 隋
使推
古
16
年 (608
)9
月 出発
,推
古17 年
9
月帰
国。 大使
小 野
妹
子, 小 使 吉士雄 成, 通 訳 鞍作
福利
。学 問生 は倭 漢 福 因 ・奈 羅 訳 語 恵 明 ・ 高 向漢人玄理 ・新 漢人 大 圀 ,
学
問僧
は新 漢 人 日文 (旻 )・ 南 淵 漢 人 請 安 ・ 志賀漢
人慧隠
・新
漢 人広斉
。なお , これ以 前に派 遣 され た
薬 師
恵日 が こ の頃帰
国し た よ うで ある。 (2
) 第1
次 遣 唐使
舒明
2
年 (
630
)
8
月出
発,舒
明4
年
8
月帰 国。 使 節 犬.
L
三 田耜
, 薬 師 恵 日。派 遣
留学
生の記事
は ない が, 三 田耜は唐の高 表 仁 に送 られ,同
時に学
問
生勝 鳥養
,学 問僧
霊雲
・旻 ら も新
羅の送 使 に と もな われ て 帰 国 し た。(
3
)第
2
次遣唐
使 白雉4
年 (653
)5
月 出発, 白雉5
年7
月帰 国。 第1
組
の
大
使 吉士長 丹, 副 使 吉士駒, 送 使 室 原御
田。第
2
組
の大 使 高田根 麻 呂, 副使 掃 守 小 麻呂, 送 使土
師
八手。第
1
組の学 問生は巨 勢 薬・氷 老人 (或本
に坂合部 磐積
も)
, 学 問僧
は道 厳 ・ 道 通 ・ 道 光 ・ 恵 施 ・
覚勝
・弁
正 ・恵 照 ・僧
忍 ・知聡
・道
昭 ・ 定 恵 ・ 安 達 ・ 道
観
(或本
に知弁
・義徳
も) 。 第2
組の学 問僧 は 道福 ・ 義 尚 。白雉
5
年
(654
)に,第
1
組
の 大使 吉
士長 丹
,副使吉
士駒
らが 百済
・新
羅の 送
使
と と もに帰
国 した。 なお,伊吉博得
の伝 えに よる と, 学 問僧のうち, 覚勝は唐で没 し, 知 聡 は海上 で 没 した。 藤 原鎌足 の 長子定恵 は天
智 4 年
(665
)に劉 徳 高 らの 船で帰 国し, 学 問生 氷 老 人は天智
3
〜7
年
の間に使 人 と と もに
帰
国 した とい う。 (4
) 第3
次遣 唐使白雉
5
年 (654
)2
月出
発, 斉 明元年 (655
)8
月 帰 国。押 使 高 向 玄理, 大使 河 辺 麻 呂, 副使 薬 師 恵 日, 判
官
書麻
呂 ・宮
阿弥
陀 ・岡宜 ・置 始 大 伯 ・中 臣間 人 老 ・ 田辺 鳥。学問僧 は 恵 妙 ・智国 ・義 通 ・智 宗 ・妙 位 ・法勝, 学 問生 は高 黄 金 ら (伊 吉 博 得の伝 えに よ る)。 94
日本 古代文化の 形成 一 遣隋 ・唐 留学生の場合一 (村 山)
斉
明
元年
に大使
河 辺麻
呂らは帰 国
し たが ,伊吉博 得
の伝
えによると,学問僧
の恵妙
は唐
で没 し,智国
・義通
は海
上 で没 した 。 生 還 し た学 問僧
智 宗は持 統
4
年 (690
)
に新
羅船
で帰 国 し, 妙位 ・法 勝 と学問
生高黄
金 らは倭 種 韓 智 興 ・ 趙 元 宝 ら と と もに , 天 智
3
〜7
年
の間
に使
人に と も なわれて帰 国 した とい う 。
ま た , 去る某
年
の遣唐
学 問生 の土 師 甥 ・白猪 宝 然が 天武13
年
(684
)12
月に新羅
の送使
に と もなわ れて 帰 国 した。 (5
) 第7
次遣 唐使
大 宝
2
年 (
702
)
6
月 出発, 帰国
は慶 雲
元年
(704
)7
月,
慶
雲4
年 (707
)3
月,養
老2
年
(718
)10
月の3
回。 執 節使 粟 田真 人,
大使
坂合部大
分,副使
許 勢 祖 父,判
官鴨
吉 備麻
呂 ・掃守
阿賀
流, 伊 吉 古麻 呂, 録 事 錦部
道 麻 呂 ・ 白
猪
阿麻留
・ 山於億
良 。学
問僧
は道 慈 ・ 弁 正 。第
1
次は慶
雲 元年
に執節使
粟田真 人 ら, 第2
次は慶 雲4
年
に副使
巨勢邑
治 らが帰 国 し, 第3
次は養
老2
年
に次期の第
8
次遣唐使船
に乗
っ て大使
坂 合部
大 分 と学 問僧 道慈
が帰
国した。 なお, 掃 守 阿賀
流 ・白猪 阿麻 留らの乗 船 は南 海 に
消 息
を絶
っ た。 (6
) 第8
次 遣 唐 使養
老元年
(717
)3
月 出発
,養老
2
年
10
月帰 国。 押使
多
治 比県
守, 大使大 伴
山守
, 副 使 藤 原馬 養。学問僧
は玄 肪, 学 問 生 は吉備
真備
・大
和 長 岡 (大 倭 小東
人)
・阿部
仲麻
呂。養
老2
年
に押使 多
治 比県
守 ら は帰
国した。 (7
)第
9
次遣唐使
天 平
5
年 (733
)4
月出
発, 帰 国は天 平6
年 (
734
)
11
月, 天平
8
年 (736
)8
月の2
回。大使 多
治 比 広成, 副使 中 臣
名代
。学問僧
は栄叡
・普 照 ・ 玄 朗 ・玄法 。第
1
次 は天 平6
年に大使 多
治比 広成, 学 問 僧 玄 肪 ・学
問生吉 備 真 備 ・大 和長 岡ら, 第
2
次は天 平8
年
に副使 中
臣名
代が帰 国, 随伴者
と して唐
僧 道珞 ・ 婆 羅
門僧菩提僊
那 ・ 林 邑僧 仏 哲 ・ 唐人袁普卿
・唐
渡 来 人 皇 甫 東北海学 園大 学 人 文 論 集 第
10
号 (1998
年3
月)朝
・波斯
人 李 密 翳 らがい た。 学 問僧
栄叡
は帰
国の 途中
で 没 し, 玄 朗 ・玄法 は栄 叡 ・普 照ら と と もに鑑 真 を来 日さ せ る苦 難の 中で還
俗
して 別行 動 を とっ た 。(
8
) 第
10
次遣 唐使
勝 宝
4
年
(752
)
閏3
月出
発,帰 国
は勝
宝5
年
12
月
,勝 宝
6
年 正 月, 勝 宝6
年4
月の3
回。 大使藤
原清
河,副使
大伴
古麻
呂 ・ 吉 備 真 備 。学 問
生 は藤原躙雄
・膳大
丘 ・ 船 夫 子 , 学 問僧は行賀
。第
1
次 は勝宝5
年
に副
使 吉備
真備
・学問
僧普
照, 第2
次は勝宝6
年
正月に 副 使 大 伴
古麻
呂が唐僧 鑑真
・法
進 ・曇静
・思 託 ら を連れて帰 国 し た。第
3
次は勝 宝6
年4
月に判官布勢
人 主 ・大伴御
笠 ・ 巨万 大 山 らが帰 国した。 大
使藤
原 清 河は帰 国の 途につ き な が ら, 逆 風に 遇っ て唐 に 戻 り, か の地で 没し た。4
遣 隋 留 学
生の 動向
留
学 生の名の 初 見は推古朝
の第
3
次 遣隋
使 (推古
16
年
9
月)
の時
で ある。前
回 の 遣 隋使 (推古
15
〜16
年 4
月 )と ともに 来 日し た 送 使 裴 世 清の 帰 国に と も ない , 再 度の 大 使 小 野妹
子,副使
に吉 士雄成
, 再 度の 通 事 鞍 作福利
ら が派 遣 さ れ るに あた っ て, 同行 した高向
玄理 以下の 留 学 生8
人はす べ て渡
来系氏族
の出身
で あり, 古 代 日本の文 化 形成に渡 来 系 官人が い か に重 要な 役割 を果 た し た か が窺わ れ る。 こ の うち, 歴史 的に顕 著 な働 きを見せ るの が高 向 玄理 ・僧旻 ・南
淵請 安 らで あ る。南
淵請
安 は漢 人 系の 渡 来 人で, 学 問僧
と して 入唐し, 舒 明12
年 (640
) に 高 向玄 理 らと新 羅 を経て帰
国した。2
人の在 唐 ・在 新 期 間は32
年にわ た り, 隋 ・唐
で 政 治 ・文 化 を学
び新 羅の 文 化 に も触れ ,啓
発 さ れ る とこ ろが多
か っ たで あろ う。 請 安の 名は 『日本 書紀
』 の 皇 極3
年 (644
)正月1
日の条
に, 中 大 兄皇 子 と中
臣鎌足が 「 倶に手に 黄 巻を把 りて, 自ら周孔 の教を南
淵先 生の 所に 学ぶ 。 遂 に路上 , 往還 ふ 間に , 肩を並べ て潜に図 る 1 と出 る だ けである。請 安 は大 化新 政
府 樹 立 に大 き な示 唆 を与え た と思わ れる が , 一一96日本古代 文 化の 形成一 遣 隋 ・唐留学 生の場合一 (村 山) 新
政
府に参与 した形 跡が ない 。 改 新直前
に没 し たの で は ない か とい う推
測 もある(
日本 古典 文学大系
『日本書紀 下
』昭和
40
年)
。高 向玄 理 も漢 人 系の渡 来 人で ある。 漢 人 は
朝
鮮か らの渡 来 人で ,中
国系
と称 して東 漢 氏 の配 下で 生産 組 織 を構成
してい た と推 測 さ れて い る(
同前 )
。皇極
4
年 (
645
)
6
月に大化新政府
が樹 立
して,皇極
上皇
と孝徳
天皇
の も とで, 中 大 兄は皇 太 子に, 中 臣鎌 足は内 臣になっ た が, こ の 時 「 沙 門 旻 法師
・高向史
玄理 を以て, 国 博士 とす」 とあ り,新
政府
の政 治顧 問 と し て律令
官 制 整 備の 中心となっ た (こ の国博 士は,令
制 によ る地 方教 育 機 関 の 国学の教 官と は別で ある)。 玄 理は大 化2
年 (646
) に新 羅 に派遣 され て 人 質 を要 求 し,新 羅 は これ に応 じて翌 年に上 臣の金 春秋が来 日する。 「貢 質 」 は服属
の一形 態で あり,対新外交
に お い て改新政府
の樹
立 をきっ か けに こ の よ うに 要 求 したの は国
家 意識
の現れ と考
え られ る。 こ の時
の玄理 の名
は 「小徳高 向博
士黒麻 呂
」と和風
に記
さ れて い る。新 羅
は朝鮮半 島
に お ける百
済
・高麗
な ど との緊
張関係
が あっ て応
じ た もの ら しい 。 さ らに孝徳 朝
の白
雉
5
年
(654
)
に玄
理 は遣唐押使
とな り, 大使
河辺臣麻
呂,副使薬 師
恵 日 ら と入唐
した が,唐
土で没 し た。 玄 理 は新政府
の 内政 ・ 外 交 面で重 要 な役割
を果た し た 。玄理 と と もに国 博士 となっ た僧 旻 は, 大 化 元 年に霊 雲 (舒 明
4
年8
月帰国)
と ともに十師
の 一人 と な っ た。 これ は唐 仏教界
の高僧
に よ る自治的統
制機 関十
大 徳制
に学
ん で,新政府
の ブ レイ ン になっ た と推 定
さ れ る(同前
)。 大 化6
年 (650
)に宍 戸国 司が 白雉を献 じ たの を休 祥 と解い て, 祥 瑞の儀
式 を行
なわせ年号
を白雉
と改
元 した。白雉
4
年
5
月
に僧 旻
が病
臥す る と孝徳
天皇 は親
し く見舞
い ,手
を執
っ て 「若
し法 師今
日亡 なば,朕従
ひ て 明 日亡 なん」 と述べ た とい う。 翌6
月に 入寂す る と, 僧 旻の た めに 画工狛堅部子麻
呂・鰤
魚戸直
らに命
じて多
くの仏 菩薩像
を造 り , 川 原寺
(或 本 に山田寺 ) に安置
し た とい う。 天皇の信任
の厚
かっ た こ とが知
られ る。 この 期の 留 学 生は, 古代 の 日本が 国家 と し て の理 念 と体 制 を確 立 さ せ る 事 業 に直 接 的に貢献 した。 請安 ・玄 理 ・僧旻 ら は, 派遣 され た隋 (581
〜619
) が滅 びて, 唐 (619
〜907
)が 国家を統
一 し て い く時代
(628
完
成 )を体 験 し北海学 園大学人文 論集 第 10 号 (1998 年3月) た。 律
令
格 式の 体 系が 整い つ つ あっ た隋
か ら唐
へ の 転 換 期に で あい ,律令
と膨 大 な官 僚 機 構 に よっ て中央集権
的な 大帝 国を建 設 し, 都の 長 安が繁 栄 しつ つ ある様相
を実際
に見 聞
し たの で あ る。請安
と玄理 は新 羅 を経
由 して 帰 国 する が, それ は新
羅 が隋
に行
くル ー トを確保
して い たか ら で あり, 新 羅・日本 間の 往 還 に も新羅
を頼
っ てい た ようで ある。 新 羅 もい ち早 く23
代 法 興王 (在
位514
〜540
)
の時代
に中
国 に習 っ て律 令 を制 定 (520
)して年号
も立て ,仏教
を公認 (
527
)
して統
一王 国発 展の途
上に あ っ た (『三 国史 記』)。 請 安 と玄理 が訪
れ たの は26
代 真 平王 (579
〜632
)・27
代
善徳
女王(
632
〜647
)
の頃
で仏教
文 化の 隆盛 期 にあた り, 新 羅の都
慶州
に滞在
したで あろ う2
人 は,多
くの寺
院が建 ち並 び, 仏 教 研 究 も盛ん で, 仏教 が国 家 統 一 に重 要な役割
を果た してい る こ と を認識
し, 仏 教に と も な う建築
・絵
画 ・ 音 楽 などの文 化 の興 隆に も触れ て, 日本
の将来
に つ い て強
い 示唆
と確
信を得た に 違い ない 。 舒 明朝
に 帰 国 し た僧
旻 ・請安
・恵 隠 ら学 問 僧は, 第 一 に統一 国家 に見 あ う体制
・制度
の実
現,第
二 に統
一 国家
の原理 ・ イデオ ロ ギー と して の仏教
の興 隆
につ い て建 言
し た で あろ うし (田村 圓澄氏 「仏 教 伝来
と古代
日本
』 昭和61
), その実 現に実 際 に参 加 し た の で ある。5
遣 唐 留 学 生
の動 向
(1
)舒 明
2
年 (630
)の 第1
次遣 唐使 に は留学 生 の 名は 見 ら れ ない が, 舒 明4
年の帰 国 時 に学 問 僧霊 雲 ・旻, 学 問生勝 鳥 養 ら を と も な っ てい る。 霊 雲は 大 化 元 年に僧 旻 と ともに十 師に な っ て お り, 旻に つ い て は前 節で詳 し く触 れ た。白雉 4 年 (
653
)
の第
2
次遣 唐
使 派 遣の時は学 問僧が多い 。 統一 国家の 確 立 と隆 盛の た め に , 真の 意 味で 仏 教興隆の 主導権
をに ぎり, 教 学 と鎮 護 国 家の 面 か ら も, 文化 摂 取の 面か ら も, 国家 仏 教 と し て の権
威 を高
め る こ と の必 要 性が一層 認 識 さ れ た こ とに よ る で あ ろ う。 ま た大帝
国 唐お よ び近 隣諸
国の 国際 的な関係
に つ い て情 報 を得る こ とも必 要で あっ た ろ う。 98日本 古代文 化の形成 遣隋 ・唐留 学生の場合一 (村山 )
学 問僧
のう
ち,定 恵 (
貞慧 )
は中臣鎌足
の長 子
で,11
歳
で学 問僧
として 入 唐 し, 玄 弉の門 弟の神 泰 につ い て学ん で10
余 年で 内経 外 典に通 じ, 百 済 を経
て帰 国
した。鎌 足
が年
少の定
恵 を入 唐 さ せ た理 由 を,学 問
の ほ か に,高官
の子 を人質
と し て送る こ とで唐 との和
平を保
証す る意味
が あっ たの で ない か と も推 測 され てい る (田村
圓 澄 氏 『飛 鳥・ 白鳳 仏 教 論 』 昭 和50
年 )。 定 恵 は百 済 滞 在 中の ある 日,帝郷千
里 隔辺 城四望
秋
(帝郷
は千
里を隔て辺 城 は 四望
秋
な り) と詩一韻 を賦 した と ころ, 百 済の士 人の中
に こ の句
に続
け る者
は な く, そ の才能
が妬
ま れた とい う。 『家伝
』の記述
で あるか ら粉飾
はあるに し ろ優
れ た 人材
で あっ た ら しい 。帰
国後
間 も な く23
歳
の若 さで早 世 して い る が,毒
殺
さ れ た と も想像
さ れ て い る。定
恵 は孝徳
天皇
の皇胤
とす る伝
えが あっ て その面か らの推
測 もある が,皇
胤説
は中
世 以 降の伝説
に も とつ く憶 説
と し て退け られ る直
木孝
次郎
氏 (『古
代 日本 と朝 鮮・中 国』 昭 和23
)に従 うべ き であ ろ う。 氏は当 時の僧
尼の多
くが渡来
系の人々 であっ た中
で ,定
恵 と同
行 し た安 達 (中 臣 渠毎
の子 )・道 観 (春 日粟田百 済の 子 ) ら3
人は特
に 仏 教 と関 係が深 い と はい えない 氏 族の子 弟で ある こ と に着
目して, 内 臣の鎌
足 が唐 を中
心 に動
きつ つ あっ た国際情勢
を的確
に把握
す る必 要
が あ り,唐
の 進ん だ文 化 や制 度 を深 く理解
す る た めに,最
も信頼
で き る子 の定
恵を学 問
僧 として入唐させ , その将
来に期 待 した と推 定さ れ たのが 当た っ てい る よ うに思 う。道 昭 (道 照。
俗
姓 船 連 )は入 唐後
玄弉
に師事
して愛
さ れ,禅 定
を習
う と こ ろ深 く, 帰国 にあ た り舎
利経
論を こ とごと く授け ら れ た とい う。 帰 国後 は 元興寺
の東南 隅
に禅院
を建
て て住
み,多
くの修行者
が禅
を学ん だ。 文武
4
年 (700
)に72
歳で没 した 時に, 遺 教に よ り粟 原で火 葬さ れ た。 『続日本
紀』 に はわ が国の 火 葬の始 ま りで ある と記 す。 道 昭 を敬 重 し て い た 持 統 天 皇 も遺 詔 に よっ て 没 後に 荼毘 に付
さ れ た。 火葬
さ れ た最初
の天皇 とい うこ と に な る。 こ れ も仏 教 文 化の 一面な の である 。坂
合部磐積 (
境部
石積
に も作
る)
は第
2
次遣唐使
の時
は学 問生 として入 唐 し, 天智4
年 (665
)に は唐 使 劉 徳高
の 送 使 の役
目 もに な っ た第
5
次 遣 唐北海 学園大学人文論集 第
10
号 (1998
年3
月 ) 使の1
員 と し て ふ た たび渡 唐 し, 天智
6
年
に 帰 国 した。 天武11
年 (682
) に命
じ られ て 『新 字 』44
巻 を編 纂 し てい る。 こ の実体
は不 明で諸説
はある が, 小 島憲 之 氏の 推 定 に よ れ ば,当時
の唐土 に お い て通 用 字が 「 今 字」 に 統一 さ れ るが, 文 献に残る 「古 字 」 もあ り, 古 ・今
の別 を標
示 し説 明す る 啓 蒙 書や字書
が必 要にな っ て い た 。 この文字 問題
に敏感
であっ た磐積
は帰
国後に この 旨を報
告して 『新字
』 の編 纂を命
じ ら れ た ら し く, 『新 字 』 の 内 容 は字の 音の ほ か , 古字
と今字
を指摘
し, 通 用字 (い わ ゆ る正 ・ 俗 字 を含 む)
や, その 訓詁
を示 し た もの で あろうし, 多 少の国字 も含 まれてい た 可能性
も あ ろ う (『万 葉 以前
』 昭 和61
年 )。 東 野 治之氏は前 年か ら始まっ た 国 史編纂
に資
す る た め古
語や国 語を表 記す べ き文 字 を選定 した書で ある と想定
さ れて い る (『国史
大 辞 典7
』 昭 和61
年 )。 唐に お け る文字問
題に触発
さ れて, わ が国で使 用 する文 字に つ い ての 整 理が なされ た とす れば, 文 化の 基礎 的な部
分に も国家 意識
が働 い た とい うこ と で あろ う。派 遣 時 期 は不 明で ある が, 天
武
13
年 (
684
)
に新羅使
に送られ て帰
国し た遣 唐 学 問 生の 土 師 甥 と白猪 宝 然は, と もに文武 4 年 (
700
)
に完
了 し た律令
の撰定
に加
わ っ て い る。 選定
のメ ン バ ー は ,刑
部親
王 ・藤
原朝
臣不 比等
・粟
田朝 臣真
人 ・下 毛野朝臣古麻
呂 ・伊 岐連 博
得
・伊 余 部連馬
養
・薩 弘格
・土師宿
祢甥 ・坂合部 宿 祢 唐 ・白猪史骨 (
宝然)
・黄文連備
・旧 辺史
百枝
・道
君首名
・ 狭井宿 祢
尺麻
呂 ・ 鍛造大 角
・額
田部連林
・田 辺史首名
・山口伊 美
篋
木
麻
呂
・調伊美伎
老 人 で , 実 質 的 な中心 は藤原 不 比 等であ っ た。 名に下 線を付 し た の は渡 来 系 官 人で, か な りの割 合 を占め て お り, その 中に 新 帰朝
者の 甥 と骨
(宝 然 ) も 加 え ら れて重責を果た し たの で ある。 (2
)大宝 律
令
が完成
し た 翌年
,32
年
ぶ りに遣唐 使が任 命され た。 第7
次遣 唐 使 (大 宝2
年 )で ある。 執 節使 は律令
の撰 定 に あた っ た粟田真人 であ り, 具体
的な折衝
な どの実
務を担
当す る録 事3
人の うち, 錦 部 道 麻呂 ・ 白猪 阿 麻 流 は渡 来 系 官人 で あ り, 後に地 方 長 官を歴任 し, 万葉 集の 代 表的 な歌人 一 ユ00
日本 古代文化の形成一 遣隋 ・唐留 学生の場合一 (村山 ) となる山 上
憶良
も渡来 系
の可能性
が ある。 こ の 時の留 学 生 は学 問僧
の道
慈
・弁
正(
子の朝
慶 ・朝
元 も)の名
が知
られ る 。道
慈
は俗 姓額
田氏。10
数 年 在 唐 して その 間に, 仏 教の 経 ・律
・論
三蔵
の奥
深い教
理 に精 通
し, 五明 (
古代
イ ン ドの 学 問 ) すな わ ち声
明(
文 法学
・訓詁 学)
, 工巧 明 (技術
・工芸・暦 数 ) ,医方
明(
医学
・薬学
・呪 )
,因明 (
論 理学)
,内
明(
哲学
・ 仏教学
) を学ん で , 養 老2
年
(718
)
に次期
の第
8
次遣 唐使
と と もに帰 国
した 。井
上 薫氏 は道慈
が唐
の義 浄
の新訳
『金光
明最
勝 王経
』(
703
)
を舶載
し, 『日本
書 紀』 の編 纂 に も加 わっ た と推定
さ れ てお り (『日本古
代 の政 治 と宗教
』昭和
36
年
), 田村
圓 澄氏 も 『日本書紀
』 の仏教
関 係 記 事の編集
に は道 慈
の意見
が 反映
して お り, 欽 明 朝の仏
教 公 伝 記事
に お け る百 済 聖 明王 の 上表文
に 『金光
明最勝
王経
』 の表 現の 借 用が認 め ら れ るこ と を指 摘 さ れ た (『飛鳥
・白鳳仏 教論
』昭和
50
年 )。 天 平 元 年 (724
) に律
師に任ぜ られた道慈
は,大安寺
を奈良
に移建
す る事 業
を指
導して い る。 こ の伽
藍 は堂 塔 の結構 の美しさ で有名
で あ っ た が, 道 慈 は寺 院建 築の技 術 に つ い て もす ぐれ た知 識を もっ てい たの で あ る。 その後
天 平9
年 に講 師 と して大極
殿に お い て国
家 仏 教の 要で あっ た 『金
光 明最
勝王経
』 を講
じて お り, 「家伝
』に は優
れ た僧 綱 と し て少僧都神 叡
と と もに時政
を補
け た と賞賛
さ れ てい る。五 明を
学
ん だ道慈
に認
め ら れ る ように , 当時の 僧は仏 教の教理研究
と修
行, 国家鎮護
と済
民教化
ばか りで な く, 文 学 ・技
術 ・ 工芸
・医学
の面
で国
家か ら重 用 さ れ る場合
が少なか らず, 文 化 的に寄 与 する と こ ろが多
か っ た こ とが知
ら れ る。文学
の面
で も, 道 慈 は 「唐に 在 りて本 国の皇
太 子に奉
る 」 と題す る基皇
子(
後
の聖武
天皇 )へ の献 詩一首 ,三 宝 聖 徳を持ち
百 霊 仙 寿を扶 く
寿は 日月の共 長 く
徳
は 天地の 与 久 し くあら む を残 し て お り,他
の 一首
と と もに 『懐
風 藻』 に 収め られて い る。弁
正 は俗
姓 秦 氏で渡 来 系 氏 族の 出で ある。 大宝2
年 (
702
)に子 の 朝 慶 ・朝
元 と と もに入唐 し, 竜潜時代の 李隆 基 (唐の 玄 宗 )に遇っ て囲碁の相 手 をつ と めて い る。 次子 の 朝 元 は養 老2
年 (718
)に帰 国 して , 同5
年に 医術北海学 園 大 学 人 文 論集 第
10
号 (1998
年3
月 ) の学 業に優れ師 範た り うる人材 として後 生の勧励
の た めに賞 物 を賜 っ た。 天平2
年 (725
)に弟
子 を とっ て漢 籍 を教 授 し, 天 平5
年に は第9
次遣 唐使 の判 官
と して入唐 し, 玄宗
に謁 見 し た時に父 弁 正の縁
で特
に優 詔 を与え ら れて い る。 帰 国 後 は天 平9
年
に宮 中の図書経 籍
の保管
・国史編纂
等 を司る 図書 寮の 頭 (長宮
),同
18
年
に 中央 財政
の収
支計 算
・管
理 を司 る主 計 寮の 頭 を歴任 した。弁
正 その人 は長子の朝 慶 と と もに 唐で没 した。 弁正 の 詩二 首は 『懐
風 藻』 に収
め られ て お り, 厂唐
に在
りて本 郷 を憶ふ 」 と題 す る一首
日辺日
本
を瞻
雲 裏 雲 端 を望む
遠
遊
遠 国に労き長 恨 長安 に 苦しぶ には故 国を思 う切々 た る心が こめ られて い る。
第
8
次遣唐
使 (養 老 元年
)に は,学
問生吉 備 真 備 ・ 大 和 長 岡 ・阿部仲麻
呂ら と学 問僧
玄 肪の名が見 え る。吉 備 真 備 (下 道 朝 臣 )は
22
歳
で 入 唐 し, 経 史に博
通 して朝 衡 (
阿部 仲麻
呂)
と と もに留 学 生 と し て の名声
を上 げた。 『扶 桑 略 記 』に よ る と,19
年
の 留 学の 間に学んだの が 三史五 経, 名 刑 竿 術, 陰 陽 暦 道, 天文漏剋, 漢音
書 道, 秘 術 雑占
13
道にわ た り, 学 業 衆 芸 をこ と ご と く窮
め,唐朝
はこ れ を惜 しん で帰 国
を許
さ な か っ た とい う。 天 平7
年
(735
)
に玄
防・長
岡と と もに 帰国 し, 唐礼
130
巻 (唐 高宗 の永 徽 礼 )・太衍暦1
巻 (太衍 暦の理論 )・ 太 衍 暦 立 成12
巻 ・測 影鐵 尺1
枚 (太 陽の 影 を図る鉄
尺)
・銅
律管
1
部 (調 律 用の銅
の管 )
・鉄如 方響
写律管
声12
条 (鉄製
で 方響
の よ う な形を した音 階 調器)
・楽書
要 録10
巻 (則 天 武 后 撰の 音楽 書
)・弦纏
漆角
弓1
張 (弦 を巻き 漆 をぬ っ た 角の 弓 )・馬上 飲 水 漆 角弓1
張 (弓 に馬 ヒ飲
水 の 図が ある漆 塗 り の角 弓 )・面 を露し四節
を塗れ る角
弓 (4
か所の 節 を漆 塗 り にし他
は生地
を出
した 弓)・甲を射る箭20
隻 (甲 も通 す強い 箭20
本 )・平射 箭10
隻 (儀
式 と か遊戯
に 使 う矢
)な ど, 多 くの書 籍 ・ 天文器 具 ・楽 器 ・武器 な ど を献上 して い る。 天平9
年 (737
)に中宮
亮に任ぜ られ た が, この年疫病
が蔓延 し て藤
原不比 等の4
子が あい つ い で 病 没 し た た め, 玄 防 と ともに政 界で 重 き を なすよ うに なっ た。同 12 年
(740
)に大 宰 少弐の 藤 原 広 嗣 (宇
合の長子) が 上 表 して時 政の得失 を述べ , 僧正玄 防 法 師 ・右 衛士督 従五位上下 道 朝臣 真 備 を除 くこ とを直 言 して兵 を挙げた が鎮 圧 さ れ た。 真備
は東 宮 学士 を兼 一102
一日本 古代 文化の形成
遣隋・ 唐留学生の 場合一 (村 山) ね て春
宮
大 夫 とな り,東宮 (
後
の孝謙
天皇
)は真備
に礼記
・漢書
を学
び ,恩寵 甚
だ厚
か っ た とい う。 同18
年
に吉備
の姓 を賜 り, 勝宝4
年 (
752
>に は第10
次遣唐使
の副使
に任
ぜ ら れて, 大使藤 原清河
・副使
大伴 古麻
呂 ・留
学
生藤 原 刷 雄 と と もに 入唐, 大使 清 河 と と もに延光
寺に 鑑 真 を尋ね て渡
日 して戒
を伝
え る よ うに請
い ,帰国
に あ たっ て真備
は普
照 と ともに第3
船に 乗 り勝宝5
年
(753
)
に帰 国
, 唐僧 鑑真
・法進
ら8
人 を ともなっ た 副 使 大伴
古 麻 呂は勝 宝6
年
に帰 国
した。 真 備 は宝 字2
年 (758
)
に大 宰 大 弐に任 ぜ ら れ, 大 宰 帥船
王 と と も に西
辺の軍事
的 防 備に専念
した が, これ は遣 渤 海 使 小 野田守が唐の安 禄 山の変
を報
じた こ と に よ る。 また同
8
年
の恵美 押 勝 (藤 原仲麻
呂)の謀 叛にあ た っ て は, 真 備の す ぐれ た作 戦 によっ て叛 軍は術 中 に落
ち,旬
日で 平 定 する こ とがで きた功
で従
3
位 勲2
等に叙
せ られ, 参 議中衛大将
に任
ぜ られ た。 武器 の献
上 に も うか が わ れる よ うに大 陸
の武
芸 も学
んでい た の で ある。神
護2
年 (766
)に中
納 言か ら大 納 言 を経て右 大 臣 へ と異例
な早
さで累
進 した。 同じ時
に道鏡
は太政
大 臣か ら法王 とな っ た。称
徳 (
孝謙
重祚
) 天皇 の崩 後, 右 大 臣真 備 ら は文 室 浄三 (智努
王 , 天武
天皇
の孫で,長親
王 の子)
を皇 太 子 に立 て よ う と し たが ,藤
原 百 川 ・永 手 らに 反対
さ れ,白
壁王(
天 智 天 皇の孫で, 志貴 皇
子の子。後
の光
仁 天 皇 )が皇
太子に立 て られ たの を機
に政
界 を去 っ た。 真 備は その ほか に律 令
の刪定
に たず さわる な ど, 政治家
と して も学 者
として も奈 良時
代の文化
に大い に貢 献 し た。大 和 長 岡は 『家 伝 』 に文
雅
と して大 倭 小 東 人の名で あ げられて お り, 文 章に す ぐれ風 流 を わ き ま え た人材
と し て知 られ て い た。 若 くか ら刑名
の学
(法 律 学の一種 )
を好
み, 入唐 し て疑問
の多 くを明 らか に し,当時
法令
にた ずさ わ る人 は疑 義が ある と長 岡に質し た とい う。養
老6
年
(722
)に 矢 集 虫麻
呂 ・ 陽胡 真 身 ・ 塩 屋 吉 麻 呂 ・百済 人成 らと と もに , 養 老 律 令 の選 定の功 に よっ て田 を賜っ て い る。 天平10
年
(738
)に刑部 少 輔 と な り, 同13
年
に 藤原広
嗣の 乱の 同調 者を断 罪す る に あた っ て ,中臣名代
(遣 唐 使 ) ・塩 屋 吉 麻呂 (律 令 撰 定 者 )と と もに裁 判 のた め に現地 に 派遣 された。 同16
年
に西 海道
巡察使
次官
, 宝 字 元 年 以 後 大 和 宿祢 長 岡の姓 を賜 り, 河 内守 ・参 河 守を歴 任 し た。 北海学 園 大学人 文論集
第
10
号 (1998
年3
月)学 問 生 と して派
遣
さ れ なが ら, つ い に帰 国で きなか っ たのが阿部 仲 麻 呂 で ある。 入唐後
は仲
満さ らに朝 衡 と改名
し, 科 挙に応じて進士科
に及 第 し 唐の朝廷 に仕官
した。第
9
次遣唐使 (
天 平5
年 ) と と もに帰
国 し よ うと し たが唐朝 (
玄宗)
が許 さず, 衛尉 少
卿 (従3
品 )に達 した。 第10
次 遣 唐 使 (勝 宝5
年
)の大 使 藤 原 清 河・副使 吉備真
備 らと延光 寺
で 鑑真
に会 っ て来
日伝 戒
を請い , 自分 も帰国
の途
に着
い た。 「唐 土 に て月
を見
て よ み け る」と題 す る一首
天の原ふ り さ け 見 れ ば春 日 な る 三 笠の
山
に い で し月か も(
古
今 集 羈 旅 歌, 巻4
−406
) は, 左 注 に よ る と明 州 (逝 江 省寧 波 )で 唐の 知 友が送 別の宴を開
い て くれ た折の作であ る とい う。 唐僧
鑑真
・法進
らが 同乗
した副 使 大伴
古麻
呂の船
や, 副使
吉備真備
の船
は前
後 して帰
国 し た が, 大 使 藤 原 清河 と阿部仲
麻 呂 の船 は難
航 して安 南 (イン ドシ ナ東部,
現在
のベ ト ナ ム )に 漂着
し, 再 び 唐に戻
っ た。2
人は唐朝 (
玄宗)
に仕 えて,仲麻
呂は左散騎常侍
,鎮安南
都護
に抜櫂
された が宝 亀元年 (
770
)に唐で 没し,清
河 (河 清 と改名 ) も宝亀
9
年 (778
)に唐で 没 して瀦 州 大 都 督 を贈 られ た。仲麻
呂は文 名 高 く, 王 維 ・李 白らと交 遊が あり,唐
土 にあっ てわが国
の遣唐使
の た め に 種々 の便宜
を図っ た こ ともよ く知 られ てい る。学 問 僧 玄 肪 (
俗姓
阿刀)は唐の玄 宗か ら三品 に準 じて紫 袈 裟を賜 り, 天 平7
年 (735
)に 多 治比広成
と と もに帰 国して 経 論5
,000
余巻
・諸 仏像 を請来
し た。 同9
年に僧正 に任
ぜ られ て内道場
の仏事
を主 宰 し た。 聖武天 皇の 母 皇 太 夫人藤原宮
子 は長 年 病 気 に悩ん で い た と こ ろ, 玄 肪の看 護に よ っ て 快 癒 し てい る。 玄肪 に 医術 の心得が あっ たか ら で あろ う。 こ れ 以後 栄 籠が 日に盛 ん とな り, 沙 門の行い に背
くよ うに な っ て時 人の憎
む とこ ろ とな っ た。 同12
年の大宰
少 弐藤
原広
嗣の乱 は平 定 され たが , 同17
年に玄 防 は筑紫観
世音寺
に左 遷 され て 翌年 に大宰府
で 没し た。 一104
一日本古 代 文化の形成一 遣 隋 ・唐 留学生の場 合一 (村 山) (