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中央学術研究所紀要 第17号 090山崎守一「K・R・ノーマン 三つのパーリ語辞典(訳注)」

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チルダスの時代以前にも、パリ語の語童目録が作られたが、真の意味で公けにされた最初のパ英辞典はロバ ︵2︶

卜・シザ・チルダス角呂①耳○閑の閏。g号刷︶の辞典であった。チルダスはオックスフォド大学でヘ

フライ語を研究した後、セイロン民政庁︵ogさpQa扇閏乱8︶に入った。セイロンで彼はパリ語を学び、その

︵3︶︵4︶

時、タナ︵弓昌ロ○日︶とゴジャリー︵の○鴨1己がすでに使用していたパリ文献があることを知った。一 方、ス。ヘンス・ハディ︵g98国閏号︶はイギリスの読者を対象とした二冊の本の中でシンハラ語資料に基づい ︵5︶ た仏教を発表していた。しかしながら、一八六四年にチルダスは病気のためイギリスに帰国せざるをえなくなっ

K・R・ノーマン

ミチルダスの辞典

三つのパーリ語辞典

、 チルダスの辞典 パリ聖典協会の辞典 批判的パリ語辞典

山崎守一訳注

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三 つ の パ ー リ 語 辞 典 た。が、一八六八年に、王立アジア協会︵詞昌巴シ里胃旨99①ご︶の秘書官をしていたラインホールド・ロスト ︵詞①旨自国困○の己博士と出会うことによって、チルダスは再びパリ語に興味を燃え上がらせた。そして翌一八 ︵6︶ 六九年には﹃クッダカパタ﹄︵尿盲目画百日二国小謂︶の刊本を発表した。しかしながら、チルダスはパリ研 究をもっと前進させるためには、パ英辞典を使用することが必要であると思い始めていた。.。ヘンハゲンのファ ウスベル︵両画匡吾佳一︶はすでに価値の高い諸原典テキストを発行していた。他の四散した資料もヨロッパの学会 の学術誌に存在していたし、セイロンの学者たちも重要な中世の作品を出版していた。チルダスはこれらの資料 を基にして、辞典の編墓に情熱を傾けた。 チルダスは一八七二年に﹃・ハリ語辞典﹂︵シ白目○口mご呉号①勺農伊閏︺唱僧①︶の第一部を出版した。そし て短期間ではあったが、インド省図書館︵盲g四○霞8巨耳囚ご︶館長補佐を経て、一八七三年にロンドン大学ユニ バシティ・カレジ︵ご己ぐ閏里go呂偲①︶でパリ語と仏教文学の教授となった。一八七五年、﹃パリ語辞典﹂ の第二部を出版したチルダスは、冒頭で辞典の基盤となったパリ原典テキストを詳しく説明したが、利用でき た原典テキストの数は多くはなかった。一八三七年にタナがごハヴァンサ﹂︵言呂習四目困大史︶の利本を

︵7︶︵8︶

出版し、シュピゲルG豆①帰一︶が一八四一年に﹃カンマヴァクャ﹂負煙9日画く騨冨冒掲磨説︶、一八四五年に ︵9︶ ﹁パリ逸話集﹂︵シロ①a○国勺農8︶を出版していた。ファウスベルは一八五五年に﹁ダンマパダ﹂egggg且四 ︵Ⅲ︶ 法句経︶の刊本を出版していたが、それにはラテン語訳と註釈からの長い引用文が添えられていた。また一八七五 ︵、︶ 年までには、ファウスベルはダンマパダの他に﹃五本生話﹂を、一八六一年に、﹃ダサラタ・ジャタヵ﹂e尉閏胃冨

︵u︶︵皿︶

]騨農巴を一八七一年に、﹃十本生話﹂を一八七二年に出版していた。全﹁ジャタヵッタヴァンナナ﹂

︵両国厨詳冨ぐ四口昌画目本生経意義解説︶のうち、一八七五年に出版されたファウスベルの刊本の第一刊第一部がチ 91

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︵形︶ ルダスに利用できた。当時、第一巻は完結していたが、そのうち第二部が出版されたのは一八七七年であった。 ︵蝿︶ ミナエフ︵旨ご葛①gは一八六九年に﹃パティモッカ﹄︵勺凶は白鳥穴冨戒本︶の刊本を出版していたし、また、 私︵ノマン︶がすでに述べたように、チルダスは彼の辞典が出版される数年前に﹁クッダカパタ﹄の刊本を

︵略︶︵Ⅳ︶︵肥︶

出版していたのである。ドゥ・アルヴィスa︶シ冒尉︶とクン︵固曽巳によるカッチャャナ︵〆肖&冨口巴の ︵四︶ パリ文典の研究は一八七一年にスナルによって出された完壁な文法の刊本において頂点に達した。﹃ミリンダパ ン皇︵冒匿目g農冨ミリンダ王の問い︶の初めの部分のトレンクナ︵弓吊ロ呉弓﹃︶の刊本は印刷中であったが、 出版される前にチルダスは利用することができたのであった。チルダスが手にすることができたすべての中

で、最も重要なものは一八六五年に出たスブティa号自gによる﹁アビダナッパディピカ﹂︵レウ三

︵皿︶︵蛇︶

号目幽弓邑召涛巴の刊本であった。文法上の問題が起こるとチルダスはクラブのパリ語文法を参照した。この 文法は﹁アビダナッパディピヵ﹄を基とした語章を採用していた。仏教や仏教徒の特殊術語の一般的な検討

︵閉︶︵鈍︶

に際して、チルダスはドゥ・アルヴィスの﹁仏教徒の浬梁﹄、ゴジャリの﹁キリスト教の証言と教理﹄、ビュ

︵弱︶︵妬︶

ルヌフの﹁インド仏教史入門﹂、そしてス・ヘンス・ハディの﹃東洋の修道院生活﹄を参照した。 チルダースが彼の辞典に採用した上一記以外の参照文や引用文は、正規の経典類とそれらの経典の註釈の中から彼 が利用できた諸々の写本を基盤としていた。チルダスは辞典全体に対するはしがきの中で、彼が時として個々の 単語の意味を調べるために何時間も費やしたことや、彼の翻訳が辞典の使用者からの承認を得ることができないか もしれないということに気づいている、ということを一記した。チルダスはこの仕事で彼を援助するセイロン人学 者の援助を得ることができた。彼は協力を得た三人の学者の名をあげ協力を一記している。三人の中でスブティが 最も大きな貢献をしたように思われる。また、これら三人の学者たちは、チルダスの質問に答えるとぎ、諸々の

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三 つ の パ ー リ 語 辞 典 註釈︵鼻吾農胃冨の︶と副註含恵の︶を参照したことが彼の論評から明瞭であるご チルダースは一八七六年七月二十五日若干三十八歳の若さで亡くなった。チルダースの辞典についてリス・デ ︵”︶ ︵調︶ ヴィッッ角どの口いく己の︶は次のように言った。﹁この偉大かつ重要な仕事はウィルソン︵弓房目︶の辞典がサンス クリット語の研究に果たしたと同じように、パリ語の研究に対して果たした。そしてパリ語の研究に未だかつ てなされたことのない最も価値ある貢献であるばかりでなく、さらに研究が促進されるための不可欠の手段であっ た。しかし、ウィルソンの辞典と同様に、とって代わられるべきものであることは確かであった。というのはチル ダスの辞典はそれが公刊されて以来、東洋学における最も顕著な特色であるパリ原典テキストの出版を急速に 促進させることを可能にしたからである。チルダスの辞典はパリ聖典協会弓農弓①風99①q︶に携わってい る編集者たちによってなされるそれ以降のすべて鋤仕事それ砿やがてこの辞典を不充分なものにしてしまうの で鐙るがの基礎で鐙ったごチル域スの辞典が基にした資料が比較的小さな範囲であったにもかかわらず、そ れは五十年もの間、学者たちに便利に利用された。 トマス・ウィリアム・リス。デヴィッッ︵目言白閉乏昌冨員魚一ごmロ四a号︶は一八四三年五月十二日に生まれ た。高等学校卒業後、彼は事務弁護士になるための良い就職口を拒んでブレスラゥ大学a昌蔚風ご旦犀閉宮巳 に行き、そこでステンッラ︵陣g旦関︶教授の指導の許に、サンスクリット語を研究し、博士号︵も巨吊呂冨開 口○9日︶の学位を取得した。一八六四年、チルダスがセイロンを去った年であるが、リス・デヴィッッはセイロ ン民政庁に入り、そこで言語学的訓練を受け、間もなくシンハラ語やタミル語の研究知識を得た。また、仕事がら 二、”ハリ聖典協会の辞典 93

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一九○二年蓄ハンブルクで開催された第十三回国際東洋学者会議において、リス。デヴィッッは新しいパリ語 辞典に対する彼の計画を報告した。そのパリ語辞典は以下の学者たちによって公刊されたすべての作品、すなわ ︵酌︶ ち、オルデンベルク︵○丘①号①侭︶の﹃律蔵﹂︵ぐ旨四冨官国冨︶、ファウスベルSm巨号住己の﹃ジャタカッタヴァ ︵鋤︶ ンナナ﹂︵両国菌宮冨ぐgg呂本生経意義解説︶、トレンクナ︵弓局go冒閏︶の﹃ミリンダパンハ﹂︵言寓目眉目富 ︵劃︶ ミリンダ王の問い︶等に加えて、パーリ聖典協会が設立されて最初の二十年間に発刊されたすべての新しい資料に 基づくことになるであろう。また、その仕事は、ヨロッパにおける最高のサンスクリット学者の七人もしくは八 人が編纂に携わるという国際的規模でなされるべきであった。その辞典は遅くとも一九○六年までには出来ること が期待されていたが、その意図が受け入れられ、熱意があるにもかかわらず、実際にはその事業は期待はずれになっ てしまった。ドゥロワゼルe日’︵︶厨①馬︶とコノROpO弓︶とマ、ヘル.H・ボド︵冨号巴国由○号︶夫人の 三人が、約束を果たしただけで、一九○九年までに辞典の八分の一のみが成されたにすぎなかった。漸次に他の共 同研究者は彼らの資料を送り返してきた。彼らの中には全く何もせず、彼らに送付されてきた資料の束を開かない に書き加えていた噂 て、新しく出版されたパリ原典テキストを広︲い範囲に渡って読み、新しい単語に出くわすとそれらすべてを辞典 していた﹃チルダスの辞典﹄がリス・デヴィッッに送られてきた。チルダスはいつも辞典に白紙をはさんでい る。リス・デヴィッッは一八六二年以来チルダスと文通していたし、チルダスの死後はチルダス自身が所有 しいもっと大きな辞典を作るのに欠くことのできない条件であることに最初の頃から気づいていたように思われ 一八八一年にパリ聖典協会を設立した時から発刊しているパリ原典テキストの冊数が増加し続けることが、新 彼唯仏教や︺ハリ語に興味をも︵一ようになった。そして一八七二年にイギリスに一戻った。リス・デヴィッッは特に

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三つのパーリ語辞典 まま送り返してきたものもした一そこで一九○八年に二、へ写やゲンで開催された東洋学者会議の席上再び同僚 と討議した後、リス・デヴィッッはパリ聖典協会の学術誌Qo巨昌巴旦言①弔農弓①倒曾Q①ご︾畠s︶に辞典の 全概要を発表した。その後、第一次世界大戦が始まり、国際的パリ辞典に対する計画は終馬した。 新しい辞典の計画内容が忘れ去られなかったのは、リス・デヴィッッがウイリァム・ステド︵弓邑国冒聾&①︶ から受けた助力があったからである。ステドは一九○四年にエルンスト・ヴィンディッシュ︵両目際弓旨昌呂︶と 一緒にパリ語を研究した。そして一九一五年のパリ聖典協会の報告において、リス・デヴィッッはステドが ︵犯︶ ﹃チュッラ・ニデサ﹄︵p﹄旨己&①の煙小義釈︶の刊本を完成して、辞典の仕事に全精力を捧げている旨を報告す ることができた。リス・デヴィッッとステドは新しい計画について共に相談し、ステドがグラスゴからコ ルズドンに引っ越してきてからは、リス・デヴィッッの家からほんのわずかの距離になって、二人は一緒に研究を 始めた。一九一六年になるとリス・デヴィッッは彼らが随意に処理した資料を編集するというすべての仕事をステ もし最初の試みの失敗から学ばればならない教訓があるとするならば辞典というものは。多忙な大学人によっ て彼らの片手間の時間に書かれることはできないということである。辞典の編纂にはいつも十分な注意力が要求さ れたが、ステドは十分に注意を払ったのである。ステドが利用することのできた資料の内容について今となっ ては正確なことはわからないが、次のものを含んでいた。すなわち、チルダスの辞典、チルダスの辞典に加え られたリス・デヴィッッの増補、これは新しい資料を蒐集してから四十年以上の成果を表わしており、すべて重要 な参照文の約十パセントの量になると見積られる。また、チルダスの辞典に加えられたケルン︵︻①目︶の増補 ︵詔︶ ︵残念なことに多くの誤りと誤植を含んでいる︶、これはリス・デヴィッッの貢献と同じような量になるものと見積 ドに委託した龍︾ 95

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一九一六年の段階でリス・デヴィッッは辞典について依然として希望をもっており楽観的であったし、数年も すればできあがるであろうと考えていたことを、ステドはわれわれに告げている。リス・デヴィッッはこれまで ︵鈍︶ られる。モリス︵言○日の︶がパリ聖典協会の学術誌の初期の号に発表したパリ語の語黄に関する論文、死の時 にエドモンド・ハディ︵両ロ日Ca国自身︶によって蒐集されていた資料︵恐らく全体の五パセント︶、Hで始ま る語黄に対するステン・コノ︵聾①ロ︻○口○言︶の資料︵これはパリ聖典協会の一九○七年の学術誌に発表された︶ ︵調︶ と“sで始霞る語章に対するステン・コノの資料︵これは一九○九年の学術誌に発表された︶出版のた趣に この資料を編集中であったディネス・アンデルセンe冒硯シ国鳥品目︶が.。ヘンハゲンにおいて彼に利用できえ た資料集から多くの参照箇所を付け加えたが、コノの資料は全く誤りがなかったわけではなく、もちろん彼の資 料が発送された一九○二年までに出版されていた原典テキストに限定されていたのである。ボド夫人のBと別で 始まる語棄の資料集︵﹃パ英辞典﹂の第一分冊のはしがきにおいてリス・デヴィッッはこれがMをも含んでいると述 べているが、ステドはあとがきにおいてBと別のみであると述べている︶もあった。また、ドゥロワゼルe昌昌の の①eが蒐集したKで始まる語章︵ステドはKのうちの半分であるという︶、リス・デヴィッッはW・H。D・ラ ゥス︵”○5①︶が蒐集したCNの資料集に言及するが、ステドはE・J・トマス︵目9日閉︶が蒐集したN ︵説︶ のみに言及する。これらに加えて原典テキストと翻訳を含めたパリ聖典協会のすべての出版物に付けられた索引 があった。索引のいくつかは私がすでに述べた共同研究者によってなされた作品にすでに含まれていた。これらの 索引のいくつかにはたくさんの誤りが見つけられた︵ステドによると﹃カタヴァッッ﹂︵尻胃冨ぐ臼昏匡論事︶ ︵詔︶ の翻訳の語章索引は六十パセントの誤りを含んでいた︶。最後にステド自身によって寄稿された莫大な量の資 料があった。

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三 つ の パ ー リ 語 辞 典 に成された仕事を大いに過大評価したばかりでなく、ほとんどトラブルらしきものもなく印刷の用意をすることが できると考えていた。この点でリス・デヴィッッは誤っていた。一例を示せば次のようになる。チルダスの辞典 に対するリス・デヴィッッの増補ははかりしれないほどの価値があったが、しかしそれらはほとんど全部といって いいくらい参照文から成っていたが、翻訳がついていなかったのである。それぞれの単語に対する訳文を見い出す ことは、リス・デヴィッッが出版した翻訳が存在するなら、その翻訳を通した検索を必要とさせたし、あるいは註 釈が利用できるなら、註釈に頼ることを含めて翻訳されていない原文の検討を必要とさせた。それにもかかわらず、 ステドは大いに促進し、そして一九一八年の年報において、会長リス・デヴィッッは第一巻︵AO︶と第二巻 ︵KN︶が出版準備中であることを報告した。私が思うに、それら二巻の印刷準備ができているということを、 このことは意味していた。なぜなら、リス・デヴィッッは辞典の出版のためにパリ聖典協会が用意しておいた資 産を使える時がないと嘆いていたからである。そんな環境のもとで、リス・デヴィッッとステドの共同の編纂の もとに一九一二年に辞典の第一分冊が世に出たことは偉業であった・辞典の初めの部分でステドはリス・デヴィッ ッの援助と指導を受けた。ステドは編纂するに当たって頻繁にリス・デヴィッッと相談した。それからリス・デ ヴィッッはステドの仕事を校閲した。一九三一年十二月二十七日、それは第四分冊が出版される直前であったの だが、リス・デヴィッッが八十歳で亡くなってからは、多くの示唆、特に心理学的術語に関する示唆を与えてくれ たリス・デヴィッッ夫人の助力を受けはしたが、ステドは一人で仕事を遂行した。リス・デヴィッッ夫人はまた、 ぐ罰園邑四と閏烏薗国に関するステードの説明文を要約し校閲した。 共同の編纂者たちは、彼らが利用でき得る資料がとり扱われるべき方法についてある意志決定をした.彼らは彼 らの辞典が古典的かつ文学的なパリ語の辞典であるべきだと望んでいたのであった。﹁アビダナッパディピ 97

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カー﹄︵Pg己園口煙弓且目函︶のような辞書的タイプの原典テキストにおいてのみ見い出され、文学における立証 のない語黄は省略された。この結果としてチルダスの辞典に見い出された約九百語は排除された。固有名詞もま たとり除かれた。﹁ジャタカ﹂︵菌国百本生経︶の韻文、物語と註釈部分間では区別がなされなかった。サンスク リット対応語はもしそれらがヴェダの時代まで棚るなら、たとえそれらが古典時代にもしばしば続いていったこ とを明確にすることなしに﹁ヴェダ語﹂︵ぐ&ごとして分類された。星印︵*︶の付けられた語形は慣例による もの、辞典に見い出せないもの、再構築されたもの、すなわち立証されない語形であったが、後世の特殊な文献、 例えば文法学、文典、あるいは医学文献に見い出されるサンスクリット形にも星印が見付けられた。時にはまた、 インド・ヨロッパ語の言語学上の非常に長い検討もあった。 ステドが第四分冊の中で発表したリス・デヴィッッの死亡記事において、ステードは二人の編墓者がとった方 法を明確にした。彼らは歴史と事実が彼らの信頼できる尺度であること、また、一つの語黄を後世の註釈家たちに よってつけられた意味で翻訳するのではぽく、最古の長老たち︵弓篇目の︶やゴタマ︵⑦○国日巴・ブッダ直属の弟 子たちの考えであるかのように、本物の意味をつかむべきであることに同意した。彼らは二人とも倫理学や心理学 の慣用語を翻訳することの困難さに気づいていた。それら慣用語において東洋的な考えはキリスト教的考えの支配 している西洋的な表現方法とあまりにも多く衝突した。 ステドはリス・デヴィッッの死後一人で続行し、辞典は一九二五年に八分冊で完成された。最後の分冊に対す る後書きの中で、ステドは辞典の歴史のようなものを書いており、編纂者たちの指針となるべき根本方針が﹁現 在において︵ある辞典より︶すぐれ、完壁というより不完全であり、多分未だかつてない︵辞典︶﹂ということであつ ︵調︶ たことを明らかにした。ステドはいくつかの欠陥を一覧表にした。多くの問題点が文法、構文論、音韻論、語源

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三 つ の パ ー リ 語 辞 典 学文学哲学、そして仏教心理学の分野で起こった。多くの場合、ステドはその問題点を述べるにとどまり, それら問題の解決を後世の研究者に残したままであった。 パリ聖典協会の﹃パ英辞典﹂の完結はチルダス辞典が公刊されて第五十回目の記念日であった。ステドが 一九○四年に。︿リ語の研究を始めたとき、チルダスの辞典を買うべきか、あるいは新しい国際的な辞典が一九 ○五年に出るまで待つべきかどうかを、どのように熟考したかを彼は告げている。ステドは二十年後の一九二五 年に彼自身が完成するまで新しい辞典を待たなければならないということに少しも気づいていなかったのである。 新しい辞典を出版することの財政的負担は大きかった。一九二六年のパリ聖典協会の報告において、協会の会長 として夫君の後を引き継いだリス・デヴィッッ夫人は次のように述べた。﹁辞典を世に出すという費用のかさむ仕事 は、原典テキストや翻訳の発行を見合わさなければ困難であるが、今回は主として日本の篤志家たちの気前のよい 寄付によって支払い不能にならずに完成させることができたのである﹂と。 一九五○年に私︵ノマン︶がパリ語の研究を始めたとき、﹁パ英辞典﹂はちょうど初めて再版されたばかりで ︵鮒︶ あった。そしてステドのパリ語辞典の後書きに記された、パリ語辞典として理想的な形態に近づきつつある 第二版を二十年以内に出したいという彼の希望は、第二次世界大戦によってすでにくじかれていた。﹃パ英辞典﹂は 再び一九五二年、一九五九年、そして一九六六年に再版され、再版の機会ごとにあらわになった誤りや誤植のいく つかは取り除かれていった。その他に改善もなされた。それら︵分冊︶は一巻本として印刷され、連続したペジ が打たれた。さらにハドヵヴァで製本され、初版本の正誤表が編入された。一九七二年になると、一九六六年 に再版された辞典が売り切れてしまったので、パリ聖典協会の評議会は、出版以来五十年近くも経った辞典をも う一度再版する必要に直面した。その時の評議会は私︵ノマン︶に改訂版︵第二版︶を準備するよう依頼するこ 99

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しかしながら:以前リス・デヴィッッが述べたように、まもなく私は辞典などというものは片手間の時間に作 ることができないということに気づいた。特に大学の授業と行政の負担に直面し、さらに、一九七二年以前から﹁批 判的パリ語辞典﹂︵シ○国胃巴も農目昌︵︶口閏ご編纂の事業に加わることを招聴され、一九七八年にルドヴィヒ・ アルスドルフP且言侭匿aogの悲しい死後は彼を引き継いで編纂責任者となっていたので、この辞典における 役割が増大していた。そこで﹃パ英辞典﹂に常勤の研究者が必要とされることが明らかになったが、その志願者は いなかったし、それにもまして重要なことは、たとえ人が見つかっても、その人に支払える資金がなかったことで ある。しかし二つの問題はほとんど同時に解決された。というのも、一九五九年以来、パリ聖典協会の会長であっ たホナ︵国○日閏︶女史は、生前にも財産の一部を協会に寄贈していたが、一九八一年に亡くなったときに、そ の遺産のすべてが協会に寄贈されたので、少なくとも数年間研究助手に支払うことができるようになったからであ る。また、ほとんど同時に、学校で数年間教鞭をとっていたマガレット・コン︵冒四晶胃四○○国①︶夫人が、学 問の世界に一戻りたいと決心したからである。このコン夫人はすでに﹃ヴェッサンタラ・ジャタヵ﹂︵く①閉四国国3 ︵虹︶ 両国百︶の翻訳を出しており、パリ語を研究しているすべての学生によく知られていた。 パリ聖典協会はケンブリッジ大学と交渉を始め、結果としてパリ語辞典編纂の研究助手のポストが東洋学部 過ぎ去っていた。 い辞典ができるまで五○年くらい経つであろうと示唆したが、再版の時点︵一九七九年︶にはその五○年がすでに ればならなくなった。パリ聖典協会の委員会が、一九二三年にリス・デヴィッッの辞典がとって代わられ、新し 版し、それが最後の再版となることが期待されたが、われわれの計算が狂い、一九七九年にまたもや再版をしなけ とを決定した。改訂版を準備するのに必要とみなされたむこう十年間の需要を満たすために、初版本をもう一度再

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= つ の パ ー リ 語 辞 典 弓胃巨辱a9帝昌堅陣匡忌①の︶に設置された。このポストは.ハリ聖典協会によって全費用が賄われ葛コン夫 人が一九八四年十月一日からこの職に任命された。彼女はその職について二年のうちに大いに仕事を進めた。われ われは辞典を編墓するにあたっての方針を明確にし、問題点を討議するために時々会った。コン夫人は、他の学 者たちから送られてきた資料も含めて、私が蒐集したすべての資料をカドに写した。それらの資料は、特定の一 単語に対する見解から、多読の結果選び出されたカドの大きな束に至るまで、あるいは新しく出版された作品に 付された索引から抽出された語黄目録の範囲にまで渡っていた。改一訂版の全般に渡る指示や最終的な責任をとるこ とを除いて、事実上、私は辞典をコン夫人に渡した。それは今や彼女の辞典であり、彼女の名前は、辞典が公刊 された蹄私たちばむこう卜年間であることを期待しているのだ津表題紙に載ることであろう。 この辞典は一九二五年以来今日に至るまで出版された原典テキストからの資料をすべて含むことを目的として作 られる。しかし、われわれは特に学生を対象として、改訂版を一巻本のままで出版したいので、われわれがとり入 れることのできる資料の数には必ず制限が生ずることは明らかである。まず第一にわれわれは、改訂版に三蔵の原 典テキストを全部そろえたいと願っているが、同様に註釈文献︵翼吾異胃園の︶から最も重要な語黄項目をとり入れ たいと願っている。われわれは﹁パ英辞典﹂の初版本ではとり入れられなかった﹁アビダナッパディピカ﹂ ︵少喜匙園ロ“g且冒圃︶に見い出される語章を、改一訂版では取り入れることになったが、大部分をロマ字転写で 出版された作品に限定することになろう。﹃パ英辞典﹂の初版本の編墓者たちは、サンスクリットの語童に適応は しているが、文学的原典テキストに見い出されないこれらの語は排除したことを、正当化した。しかしながら、中 世パリ原典テキストの中には、リス・デヴィッッやステドに知られないものも多一くあった。それらの著者たち は、そのような諸文典を自由に駆使し、そのように諸文典が含んでいる語黄を文学語にしたのである。それ故に、 10:

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これらの語黄を辞典︵改一訂版︶に載せるための根拠がある。パリ作品に依然として見されないこれらの語童でさ え、まだ出版されていない他の原典テキストに存在することはよくありうることである。 註釈︵鼻嘗烏胃園の︶で十分説明されていない語章の意味を必要な時に確かめるために、もちろん副註︵画面の︶を 参照し、場合によっては副註から註解を引用するであろうが、われわれはローマ字本にのみ限定することに決定し ているので、事実上、副註の大部分を排除することになる。われわれは引用することが本質である箇所を除いては、 引用文よりむしろ出典箇所を明白にするだろう。一九二五年以降に、貢リ語固有名詞辞典﹂e員ざ口四ご旦宅目 ︵哩︶ 卑呂閏z四昌朋︶が出版されたので、結論的にいえば、固有名詞をとり入れる必要性はほとんどなくなったのであ る。このような制限を加えても、パ英辞典の改一訂版は、初版本の一・五倍になりそうであったし、量が増大するこ とは必ず販売価格に影響することでもあった。 改訂版の印刷費用を低く押える唯一の方法は新しい印刷方法を用いることであった。パリ聖典協会は、手許に ある辞典を編墓するための彪大な量の資料を取り扱うために、ワドプロセッサを使用することを長い間考えて いた。ワドプロセッサは高品質の印刷機に連結されたとき、写真印刷可能な原版を作ることができるので、辞 典は安い費用で印刷することが可能となるからである。しかしそれでも改一訂版の三分の二の量である現在の辞典を 再版するよりも費用は必然的に高くなることは予想できよう。それ故に、われわれはもう一度初版本を何とかしな ければと考えざるをえなかった。新しい改一訂版を購入する余裕のない学生のためには、補助金を受けた現在の価格 で初版本を印刷し続けるしかないということを決定することは不可能ではない。

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三つのパーリ語辞典 一九二六年のハリ聖典協会の年報の中で書リス・デヴィッッ夫人は新しい辞典言すなわち一批判的薯ハリ語辞 典﹂がデンマクから刊行されたことを記した。リス・デヴィッッ夫人はその辞典が固有名詞を含んでいて、辞典 編纂の事業の進行には長い年月を要することを述べた。それ故に、﹃批判的パリ語辞典﹄の編纂者たちが、一九二 ︵“︶ 六年以降パリ聖典協会が出版することを決定し、同じ年報の中で彼女が載せた新しい資料を使用することができ るだろうと、彼女は願っていた。一九二四年に﹃批判的パリ語辞典﹂の第一分冊がようやく発刊されたのである が、そもそも約百年前に起こった出来事に端を発していたのであった。 一九世紀の初期に、デマク人言語学者、ラスムス・ラスク︵宛開冒吊屈開5はインドとセイロンを訪問し、

みごとにパリ原典テキストの写本を蒐集して一八二三年に帰国した。デンマク人学者、ヴェステルゴル

︵弓①興国闇閏eはシュピゲルa宮閲巴︶の助力により、それらを.。ヘンハゲンの王立デンマク図書館︵罰昌巴 ︵幅︶ ロ①昌普巨耳目色に保管し、これら写本のカタログを作成した。私がすでに述べたように、シュピゲルは一八四 五年に﹃ラサヴァヒニ﹂︵記四囲乱冨昌真味運戴︶と﹁スッタニパタ﹂a昌冨日3s経集︶の﹁ヘビの経﹂ ︵妬︶ a国鴇あ昌国︶の写本の部分を﹁パリ逸話集﹂︵PpRgs勺農8︶において発表した。ファゥスベル︵句四屋号琶一︶ ︵頓︶ が一八五五年に出版した﹁ダンマパダ﹂eg日日眉目蝕法句経︶の刊本と、何年もかけて彼が遂次出版した﹁ジャ ︵岨︶ タカ﹂︵両国百本生経︶の各巻は、すべてこれらの写本に基づいていた。 しかしながら、この辞典は一人の人がこれら写本群に成した仕事に負うところが大きい。すなわち、カル・ヴィ ルヘルム・トレンクナ︵○四ュ式三房一日目吊胃酉︺閏︶である。これは彼のデンマク語の名前であるが、V・トレ 三批判的鱈ハ鵬″語辞典 103

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ンクナとしてよく知られていた雷トレンクナはファウス雪ヘルがパリ原典テキストに対して行なった転写に精 通する以前に、西洋語と東洋語の広い範囲を研究していた。その後トレンクナはファウス。ヘルによって開発され た音訳するというシステムを用いて、.・ヘンハゲンにあるパリ写本の大部分と、ロンドンから借りられた他の パリ写本を転写し続けた。彼は一八五四五五年までに﹁アビダナッパディピヵ﹄︵シg己圃目g且冒圃︶ ︵網︶ の刊本、また一八五八年までには﹁ダトゥマンジュサ﹄e園日日農首出︶の刊本を作成していた。また、一 ︵別︶ 八六○年までには﹃ミリンダパンハ﹂の刊本を作成し、印刷準備中であった。ごくわずかの三蔵の原文テキストを 参照したチルダスの辞典が一八七五年に発行されたその時までに、トレンクナは﹃律蔵﹂︵ぐ宮幽冒亘冨園︶と ﹁経蔵﹂⑦昌国豆冨冨︶とそれらの註釈のほとんどすべてを読み、それらから抜粋をしていた。 一八六一年から九一年まで、トレンクナは.・ヘンハゲン孤児院︿の︵︶隠昌樹gOg冨冒呪醇望旨日︶で子供た ちにデンマク語と歴史と地理を教えた。しかし彼は、一八七九年から一八八三年にかけて﹁律蔵﹂が発刊され、 また、一八九○年までに遂次、パリ聖典協会の種々の刊本が発刊されたとき、彼は生涯を通して、それらの原典 テキストからの資料を、今までに蒐集した資料に加え続けていた。ヘルマ・スミス︵国堅目日の目岸ごとディネス・ アンデルセンe冒閉シ目角用巳が、トレンクナの蒐集した資料に基づいて一つの辞典の出版を開始することを 一九一六年に決定したとき、彼らはトレンクナの資料に、一八九○年以降出版されたパリ原典テキスト、特に パリ聖典協会によって発行されたテキストから加え始めた。﹁批判的パリ語辞典﹄を出版するという彼らの決意 は、パリ聖典協会が﹃パ英辞典﹂を出版するという決意をしたときと、同様の結果となってしまった。すなわち、 国際的な辞典を作るという計画が、第一次世界大戦の勃発によって最終的に崩壊したことを意味していた。二人の 編纂者︵スミスとアンデルセン︶は外国人の共同研究者の助力がなくても辞典を編纂することに自信をもっていた

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三 つ の パ ー リ 語 辞 典 彼らはその辞典を一﹄批判的パリ語辞典﹄sQ旨の巴吊︺|豊巨昌○己肖ごと呼んだ岳︾それに億一弓の理由かあ︸一 た。トレンクナの資料が批判的基盤に基づいてはじめて処理されたものから成り立っていたからであったし、原 典テキストの現在刊行されている刊本の多くが、その特質として読み方を再検討されねばならなかったからである。 その辞典はそのように批判的であるべきことを公言したが、その批判は﹁低級批判﹂の標題の部類に入った。なぜ なら彼らはパリ三蔵聖典とそれに関連する比較的新しい著作についてしか仕事をしていなかったからである。彼 らの計画は上座部︵国5国乱烏︶の三蔵聖典と仏教の他の学派によって残された記録とを照合し、同様に、ジャィ ナ教の伝承の比較的深層の部分をも照合するという高級批判に対して、検討された資料を単純に提供することで あった。彼らはパリ語のみでそれらの検討が成し遂げられることを示そうとしたので、結局は別の人たちがさら に比較研究をしなければならなくなった。彼らは彼らが提供している資料が、もっと一般的にかつ有益になるため には、伝統的なパリ語文法から最も必要な項目を含むだけでなく、固有名詞や原典テキストの表題や個々の節を その新しい辞典は概して好感をもたれた雲書評家たち娃編纂者たちの批判的努力による他の特徴と同様に韻 律の基準を適応しようとした試みに賞賛をもって述べた。それにもかかわらず、﹁批判的﹂という語はパリ聖典協 会の辞典を批判しているものと、英国人学者たちに受けとられた。そしてこのために、一九三三年の王立アジア協 会の学術誌Qo巨冒堅旦牙①詞昌巴酔巴胃旨曾g①ご︶に載せられたリス、デヴィッッ夫人の書評には、その賞賛を よく思わないことが一記されていた。﹁批判的パリ語辞典﹄の編墓者たちは確かにパリ聖典協会の辞典のある面に も含むことを正当化した。 に峰伝統的なぎ1−ヅ語一 できた。 し↑まz またその仕事か少なくとも十五年はかかると見積っていた﹄彼らに八年後の一九二四年に印雁を始めることか 105

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ヘルマ・スミス︵国①冒閏m目昏︶が一九五六年に亡くなり、一年後にヘンドリクセンは他の要務のため編纂者 の職を放棄せざるをえなかった。一九五七年ミュンヘンで開催された第二十四回国際東洋学者会議で、その事業の 再開を促進する決議がなされ、一九五八年に.・ヘンハーゲンで開催された会議において、国際的基盤に立ってこの 一批判的画ハリ語辞典﹄の編纂者たちは辞典を公刊するのに要する時間を見積ると、悲しくなるほど遠い道の りであることがわかった。第一分冊が出てから二十四年後の一九四八年に第一巻の第十一分冊である最後の分冊が 発刊されたが、その辞典は第一文字︵A︶を完結したにすぎなかった。ディネス・アンデルセンe言①の吟且⑦耐①口︶ は一九四○年に亡くなり、ハンス・ヘンドリクセン︵国四口⑳国①国鳥時のg︶が共同編纂者として後を継いだ。しかし ながら、辞典が余りにも彪大なものになったため、一国だけで辞典を取り扱い続けることはデンマクのインド学 の能力を超えているということは明らかであった。一九四八年以降の何年かは、それ故、パリ聖典協会の刊本や 他から出された刊本を参照しながら、.。ヘンハゲンに保管してある写本のトレンクナー自身の転写に。ヘジ照合 を入れ替えることによって、トレンクナの資料を他の学者たちにもっと使い易くなるよう、改めたり手を加えた りするのに費やされた。 的﹄部分﹂と呼んだ。 彼らの批判は正当化され、パリ聖典協会の刊本に対してなされた書評に見い出される論評によって支持された。 会の刊本のいくつかの水準に批判的であったが、その一つが読承方の再検討の必要性を述べたことであった。再び ネット田四目①gがそれ程批判的でなかったのと同様に、彼らも批判的ではなかった。彼らはまた、パリ聖典協 に多少批判的で喉曾︾ただしかし書評家たち藍例えば一九二五年の王立アジア協会の学術誌におけるL・D・↑ハ ︵艶︶ これに反して編墓者たちはパリ聖典協会の翻訳シリズに卒直な賞賛を公言し、﹁協会の事業のうちで真に﹁批判

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三 つ の パ ー リ 語 辞 典 辞典の編纂を続けることが同意された。出版は再開され、|AからOまでの母音を含むことが予定された第二巻の 第一分冊が一九六○年に発刊された。それに続く分冊の執筆分担者が世界中から募集され、私が辞典編纂事業に加 わるための招聴を引き受けた一九七一年までには、第二巻と第三巻︵K以下の子音を含んでいる︶の初めの部分に 対するすべての資料が、チェコスロヴァキア、デンマク、イングランド、フランス、ドイツ、オランダ、インド、 日本、それにスリランカからやってきた学者たちに分担された。そして彼らの多くは仕事のやり方に精通するため 一九七六年の初めまでには九分冊が発行され、第二巻の残りの資料を満たすためには、多分もう六分冊が必要で あろうと予測された。この第二巻は初めのうちミュラ・クリステンセン︵冒色庁司○胃再9mg︶氏の監修の下 に出版されたが、第五分冊からはずっと、ハンブルクのアルスドルフ︵ど乱OS教授が編纂責任者as8吋台Q烏e に任命された。彼はこの辞典を復活させることを決議したミュンヘン会議で重責を果たした人たちの一人であっ た。第二巻の初めの諸分冊において、各執筆者間で、資料のとり扱いや言語学的問題の処理において、広範な相違 が認められた。しかしながら、アルスドルフ教授の編墓のもとに発行されたそれに続く分冊、そして彼によって実 際に印刷準備された第八分冊と第九分冊の場合、これらの処理の不統一の多くが排除された。 一九七五年にアルスドルフ教授は、第二巻の完結まで編纂責任者として仕事を続ける意向のないことを表明した。 そして私︵ノマン︶が母音EとOを構成する第二巻の後半の諸分冊を発行する責任を引き継ぐことを求められた。 一九七八年三月にアルフドルフ教授は悲劇的な死を遂げ、辞典編纂事業にかなりの精神的打撃をもたらした。母音 Uと一Uの残りの部分もまた、私に任された。アルスドルフ教授の死は当時印刷中であった第十分冊をやや遅らせ ることにはなったが、しかし一九七九年三月に出版された。また第十一分冊は一九八一年十一月に、第十二分冊は に﹃ラヘン 一九椎 ゲンを訪れた︹︾ 10?

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しばしば私は、なぜ二つのパリ語辞典がなければならないのか、また、二つの辞典の相違は何であるかを尋ね られる。この事情を、二つの辞典の歴史の簡潔な説明がより明らかにしてくれるであろう、と私は思う。すなわち、 一九八二年十月に第十一二分冊は一九八五年末に発行された。第十一二分冊の発行が大巾に遅れたのは、印刷方法が 一部分変更したからであった。つまり﹁批判的パリ語辞典﹂が過去に使用した書体ばかりでなく、区別的発音符 を広い範囲に渡ってとり扱うことになったために、印刷所にとっては困難な仕事となったからである。今やこれら の問題は克服され、すでに資料が印刷所に回っている第十四分冊が遅れないで出版されることが望まれている。 これら諸分冊の刊行が進むにつれて、第二巻の長さについて初期の見積りが誤りであることが明らかになってき た。今や第二巻は十六分冊を含むのではないかと思われるし、第一巻の巻末に付けられたと同様な最新の参考文献、 増補された略記号表、そして補遺と正誤表を伴った後序S旦侶○日の冒囚︶の一分冊が付け加えられることと思われる。 第二巻が終わりに近づくにつれて、必要とされるス。ヘスをもっと正確に計算することができるようになったので、 計算違いのある程度までは発見された。しかし、第二巻の出版が始まったとき、予見されたよりも取り入れる資料 が今や多くなってしまったので、大いに長くなってしまったのである。トレンクナ自身の資料の他に、現在ヴィ ルヘルム・ガィガ︵弓屋の言の烏曾︶や他の学者たちによってなされた大変価値のある専門化された資料の蒐集 があるが、それらはこの辞典に利用されえなかった。また、ビルマのチャッタサンガャナ合彦鼻昏幽のg協冒ロ巴 版の多数の巻の索引に基づいた多くのカドもある。パリ語原文テキストは一九六○年︵第二巻第一分冊︶にお けるよりも一九八六年においてさらに多く利用されうるようになっている。特に、ちょうど私が述べたように、ビ ルマ版のパリ語原文テキストがある。しかし、この期間にパリ聖典協会によって出版された刊本は決して少な い数ではなかった。

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三 つ の パ ー リ 語 辞 典 国際的なパリ語辞典を作ろうとする計画が失敗したことから始まり、それ以降、二つの辞典はそれらが成立する 環境により異なってきた。パリ聖典協会の辞典はリス・デヴィッッ自身が蒐集した資料と一九二○年代初頭まで に出版されたパリ聖典協会の刊本の索引に大いに基づいていた。辞典の編纂者たちは、単語の意味を確立しよう とするとき、時々註釈害を参照したが、註釈害の刊本はほとんどなかった。また、・ヘジ照合のみが与えられ、文 学的語黄、すなわち文献において証明されたもののみが含まれた。それ故使い易い一巻本の辞典であった。 一方、﹃批判的パリ語辞典﹂の方は、﹃パ英辞典﹂より遅れて始まり、未だに続行中であるので、編纂者たちに 利用できる資料ははるかに範囲が広がっているし、さらに増大しているからである。なぜなら原文テキストがどん どん出版されているからである。包括する分野もまたより大きいのである。文法的作品や辞書的な作品に含まれて いるすべての︽,語形臓採剛される.初期の註釈書それら砿﹃批判的べリ語辞典一の初期の分冊において べ︲聖典協会の刊本がまだ利用できないとき、東洋でなされた刊本から引用されたのだがばかりでなく、後 期の註釈︵ロ圃副註︶も参照している。現在、そのような刊本はわずか一本だけがロマ字体で利用することがで

きるのだがそれば﹃デ淵ガ・ニヵャ・アッタヵ頚些e侭冨嵐圃冨典昏烏鷺園長阿含︶に基づいた副

︵認︶ 註であ為、一般にそのような聖典テキ翼卜の東洋でなされた刊本を参照しているのである。しかしながら二つ の辞典の間で最も大きな相違は、﹃批判的パリ語辞典﹄が参照したもののほとんどの原典から文章や句を引用した という事実である。これは通常、読者が提示された意味の正確さを独自に判断しうるのに十分な長さであった。し かしパリ聖典協会の辞典は、。ヘジ数が与えられているのみで、与えられた意味の正確さを判断しようとすれば、 原典にたよることが必要となるのであった。 もちろんこのような結果が、大きさをかなり異なったものにしているのである。﹃批判的パリ語辞典﹂の第一巻 109

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というのはこのすぐれたパリ語辞典には資金と財源が十分ではなく、辞典の初版本の完成まで資金と財源が 確保されるかどうかの保障さえないのである。近年、その辞典の費用はユネスコからの若干の援助に加えて、カ ルスベルグ財団合凹1号の侭国○匡且目○国︶とデンマク学術会議e四日呂困①の①胃89匡口巳︶によって賄われて きた。しかしながら、一九七八年に、二つのデンマクの財団は、現在の進ゑ具合から判断して、多分一九九○年 になるか、あるいはそれ以降の早い時期になると思われる第二巻の完結のあかつきには、その辞典に財政的援助を 与えることができない、と通告してきた。 一九七九年、マィンッで開催された会議で、たとえ第二巻完成後、財政的後援を失ったとしても、引き続き﹃批 唯文字Aのみを含んでいるがパ;リ聖典協会の辞典が文字Aに対して九十九。ヘージしか割いていないのに対して言 五三八・ヘジからなって、さらに補遺と一訂正に二十三・ヘジが加わっているのである。﹁批判的パーリ語辞典﹂の第 二巻は現在、の富8g凋営、の語まで達したし、これまでに五九二・ヘジが出版されている。概して第二巻は多分、 約八百・ヘジになり、文字Oまで達することと思われる。辞典の残りの部分を完成させるには多分、これまでと同 等の大きさでもう三巻必要となろうし、我為は辞典が完了する最後の日を予測することはできないが、しかしなが ら、この辞典に関係した誰もが辞典を完成させる価値のあることを確信しているのである。なぜならそれは最後の ﹁パリ語・英語辞典﹂であるからである。将来何か他のパ英辞典がとって代わることを想像することは不可能で ある。五十年もすれば、パリ聖典協会の辞典の第三版を作る動きが出てくるのももっともなことであると私は想 像することができるが、とって代わるべくすぐれたものを作るための資金と財源はそう簡単には手に入ってこない だろうと思う。そしてその時までに﹃批判的パリ語辞典﹂が依然として終了していないとしても私は全く驚きは しない、ル用心気/・

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三 つ の パ ー リ 語 辞 典 判的パリ語辞典﹄の準備がなされるべきであることを決議した。デンマク王立科学・文学院︵宛昌巴口煙昌呂 シo且①日昌旦⑳928画目斥詳の耐︶と共同して辞典の出版に携わっているマインッ大学の研究者たちは、マインッ 大学で辞典に専任できる研究助手を顧用するための助成金を獲得しており、個々の編慕者たちの費用を賄うための 財政源もやがて獲得できるものと期待されているのである。デンマク当局には.・ヘンハーゲンにおいて辞典専用 の図書館と事務室を提供し続けて欲しいし、諸分冊の印刷準備がなされたとき、出版のための資金を調達してほし い、とわれわれは思っている。しかしながら、管理職と事務職の人員の支払いは依然として未解決の問題であるの で、多分われわれは財源の援助を懇請しなければならなくなるであろう。六十年以上も前に日本の寄付者がパリ 聖典協会の辞典の援助をしてくれたように、多分われわれに援助の手をさしのべて下さるのは、日本の寄付者であ る畠ノと思屋ノ。 、/’一 々こ伊藍えにクーラ ﹄割 邑苫冒免の亀葛、Fへ ︵ワ﹄︶詞○○冨嵐①局 ︵3︶qの弓匡Hpg ︵4︶且.い]の○ぬ、 ︵5︶”の己のロの①困一 ︵6︶両○○三国①︻ ︵7︶︵3︶を参照。 ︵8︶両m己庸ね座“罰 戸 弓 注 L 一 例えば:クラブの︾一年リ語文典辞書かある︽閃ロ呂瞥︾﹄。。ごs§so謎艮さ︽⑦ミミミミ震量胃G8ご畠言冒言冒曾 罫免のpご冨旧ミ侭慧負叱興○具○蒼守o昌函函俣 詞○○巨号愚︾淫b計誉苫国連旦罫嗣顛愚トミ侭員鴇、Foaop易試 旦の弓匡吋口○匡鼠国葬、二昏昏さ負蒼8,⑦巳○日ご○屍笥 且。い]⑦○ぬ関与︾○豊さ苫画塁包副審冴蒼画いく○房︾FopQop岳冨 ”gg8困閏号︾同房討ミミミ宮号冴員Fggご屍g建言詞篭ミミ団員§冴蒼、Foaop鹿認 罰○Q屋号鼠震︻冒呂凹冨目吾四、房営昌呂耳目巴昌○口四目邑○扇のご︾舌ミ葛ミミ葛⑮記ミミ﹄の§詩普§唇扇宅 閃普房鴨畠﹃民ミミミ罵忌貢ぎ忍冬&ご冴闇s、§ミミ団ミミミ8ミミ国冒邑扇虐これは渇磨本︵尻画白日四国&︶ l唾

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︵産︶︵1︶を参照三︾ ︵羽︶旨日①の島醇]君賦画壁画輿琴営シ寺昌苫昌、○巳○員号○届臼 ︵型︶ロ⑦○鴨1雰国胃同己ミミ・鴎負苫包ロミミ苫鴎旦尋、○琴爵昏忌詞亀崎さ震而閏昌○国画匡呂冨の日も巳︵︶貝号︵︶届忠 ︵妬︶両、ロ﹃弓○員︾尋旦さ暮忌註。苫動ご皆冴さ︽尽旦壁画農旦包琴冴悪罵閏ごSm震も四コの畠瞳 ︵妬︶罰のロ①ロ8国印a雲圃試員亀弓ミ。苫邑S冴蒼、F○国Qoご屍9. ︵”︶貴弓胃闘の里侭・津胃国口目の﹃ご︾ご壁ミミミきゐ酎忌忌愚き§ごT南国どら9鵠︾gいふ ︵別︶トレンクナによるミリンダ王の問いは一八八○年にロンドンで刊行された。ぐ弓局go百2ミ蔓ミ§§貫屍g ︵岨︶国邑①牌口四員庚添四R圏ggg冨国冒日ご︾ごミ葛ミ﹄のミミ馬、言画風P司芦昂員四且富国ご目]︾屍目 ︵肥︶画︻具昌息昏RS§§恕恩ミミ・国巴后屋$ ︵正︶青白$里P冒厨﹄苫﹄ミさ§墨。苫ご穴胃局旨呂国吋のミミミロミミ罫、雨宮啓hS偲員照﹄○○ざgg屍露 ︵○国四国巴辱口匡匡尉岸吊口岸ご皇室雲四日のmpQzo﹃ぬ胃⑪詞①己国貝①ロウ罰号の詞○昌巴少忽胃旨の○口のq︶ ︵別︶﹄ミミ富冒ご員包爵員&常。g言閉富合録臥の号目旦○巳○日g屍$パリ語負に英語とセイロン語の訳が添えら ︵照︶︵6︶を参照。 ︵肥︶]冨旨画逼の麓 の雲ハリ原文にラテン語訳を添えたものである¥ ︵9︶両m宮①m①一︾﹄苫胃号冒、更冒P詞負眉目ミミ詞[守員蝿軍のミミ、㈲①冒圃億房串 ︵川︶ぐ司○巨号e二口言ご§員旨昌蒼︶○具︶①ロロ四m①ご屍訊. ︵u︶言司呂号佳]・副烏萄冒曾の︾o8の呂借の昌民臼 ︵皿︶言司呂号佳]︺b房ミミ言奇冒貫o8gg鴨冒易昌 ︵過︶ぐ局呂号色︸︾恩誼奇営曹の、o8g冨鴨己屋員 ︵皿︶く局○巨号色一目胃萄冒貫ご鴇尋ミミ尋爵○ミミミ苫冒曽門OaO邑届計両国富の第一巻は一八七七年にロンドンの 弓昌9国陣。pから発刊され、一八九七年に第七巻が完結した。 ︵咽︶︺巨冒画逼の黛串寺働尋罵o雷口吻璽昌﹄聾勺里閏各匡吋函屋宅 れている。

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三つのパーリ語辞典 ぐ○]ご再︶﹂唾cm−毎 ︵弧︶︵別︶を参照。 ︵羽︶ミ苫亀§嘗言︾&餌○国の号の侭︾ぐ○昌唱雪浄ぐ巳目扇ぎ︾ぐ巳冒虐器好く○一貝]麗醇ぐ巳ぐ︺届認自民,胃 ︵羽︶国函言房目の離吊胃茸巨昌目閏昌は初版本か一八一九年に出版され一八三二年に第二版か出てしる。 目旨]房昏①○ヶくどく邑冨員扇四pgzoHm鼻巴 ︵鋤︶苛冒曾員罫。ミミミミミ堂8ぐ園屋号色庁弓一白︾畠司葛巳自﹄亀穿ぐ。一自民麗菖o一頁届雪菖巳ぐ﹄$岸 ぐ巳ご房﹂唾cm−ぐ己言︷当﹄函@式 ︵師︶リス・テヴィッッとステドの記述の相違は国青野観忌葺きミミ毎弔古謡画畠涛吾ロミミミミ&胃Qご貞乏詞どの ロ四a身四国Q弓三雷日聾巴少詞8国員8︵岳目︶︺ロ三“や司誤を象よ・ ︵犯︶ざ︽ミミ9ミさ毎︶胃選ミ曾ミミミロ勇8ミ馬吉日目巴呉89望弓①腺ロンロ眉、鼠冨︻の駒どのロ四a8勺目い ︵詔︶国︻のg︾ご§o侭馬奇苫§宮﹃尋ごミミ言静昌苫○萱ミSら息冒の︵尽き§号冒照苫肉§.﹄岳昌苫尋ご§鷺冒菅§荷 ︵錐︶君聾①。①帝Q︶︾、ミ冒苫ミ鳥旨、咽巴時目①営め○白のg︺FopQo国ご屍. ﹄ご畠討菖苦ミz詞〆く員︺望︾P日輿のa臼ごこぶ ︵鈍︶烏、国吻に発表した一連のパリ語童研究、zg朋画目C吊己隅がある。一八八四年、八五年、八六年、八七年、八九 年、九一九三年のそれぞれの号に掲載された。 ︵妬︶聾曾悶○国。員員序凶8四四9局巴z具朋尋。aの国偲冒昌侭乱昏国ご畠国“岳員g﹄認目 ︵妬︶陣g尻目○言︾詞のぐ勝&四目両三四侭&ご犀。許のの。﹃ロ言朋琵且曾の目︾ごF関言○四号ご雪自身国偲冒昌侭昌昏の ︵謡︶ステドの後書きはその後、一巻本として出された再版本に付されている錆一国ざ串吏旦自賢一普鳥ご吋昏転向葛廻尊 ︵州︶一ハ英辞典﹂は一九四九年に第一回目の再版がなされた暑 ︵虹︶冨閏闇討・酔○目の四目詞旨冨乱司の○日胃門戸目胃専熱員。§国冒ミミ、葦、営尽尋吻目誌§胃シ国匡&冨鴛国豆p 弓尉四目竺幽扇。時日国昏の弔巴﹄四国・冨巨鴛吋呉①・ず昌昌冒巨三房ロ①。で巴邑は固いの沖日ご盟国匿巴①印の蔚胃己巳のめ書○×幹︶﹃Q己司式 頚︶亀︺自画岳︵︶Pg﹄鴎卸 FOpQCp﹄や﹄卸 b計斡ミミベ唖夢Cp国苧路 113

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︵団︶︵鯛︶を参照。 ︵記︶一九二四年まで公刊された翻訳シリズの中には以下のものがある。 脚ミ導畠旦暮、画ミご配忌包§冴湧の冴討爵画寒亀噌司蕃且︾画蔚善愚苫画毒⑮量目尋鼻富国詞どの勺豊丘〃らs︾乞曽色目 ○○℃①己壷四mの冨岸や画﹄ ︵別︶︵別︶を参照。 〆 、 〆 、 〆 、 〆 、 49484746 、 一 、 ノ ー ノ 誉 ︵唾︶の咽冨巴巴開①戸田Pb計菩苫国連ミ路宣竺碩さ鳶黄白舌蒼陽﹄画く○房、届雪﹃︾己路 ︵蝿︶ホナ女史の遺産がパリ聖典協会に寄贈され、その一部が﹃パ英辞典﹂と﹁英・︿辞典﹂︵両国唾豚亨も昌目88閏己 の価格を安く据えおくために当てられている。 ︵“︶リス・デヴィッッ夫人は諸註釈のテキストを出版することを計画していた。9罵倒の︵己隠弓︶も﹄霞 ︵蝿︶z伊乏例蔚晶四日goo忌尉の冒忌9m夢言尋恩烏記侭繍耐璽ミミ尉畠易︼国四a日用屍急 ①ロロ︶ 口両闇三﹃○○・二弓四吋・﹄や函鍔 の§s§風ミミミ弔費胃§ごsg員言ミミミ碁や旨信ミミ、印園ジロ眉留己冨品詞ごmpm亘口少ら己 ⑦愚ミ○雪。ミミミ。こさ葛三寄寓ミミのミヨ屋の旨の巴帰吋四印の再&ご冨号座頭画8①︾ら届 専一ミミgミさ馬亀寅ミ言ミミ長い間シ匡眉画目冒刷詞どのロ四a房、畠5. ミミ塁ミミロ尽房言亀ご箇昌s昌啄ミミミ雲司.牌弓○&言胃砕少弓①且寅ごロ国苛冒己農P乞畠.自青陣︶:ミ ズミミ吋旦曽言苫甥扇ミ曾急ごシ窯9s、ぐ○昌︾言三筋両辱め己四ぐ匙の︾らご葛○]固︾可冨厨詞ごmpga少己圏葛巳目 とスミスによる刊本が出版されている。里、ロミミ薯ミミ目言暮帯b寓言も興吾sa身ロン且①厨自国且国め目目 ︶トレンクナによるシ9画扇。§冒昌宮圃と己冨言日鼠旨閏の刊本は出版されていない。しかし後者はアンデルセン ︶︵進︶を参照︽ ︵9︶を参照露 ︵叩︶を参照。 邑胃駒包目鼻ミE誉畠ミミ曇ぐ○諒烏員罵言画亘眉目言︵岳昌岳巴︶.

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三 つ の パ ー リ 語 辞 典 KoR・ノマン先生が、昭和六十一年十一月九日より三十日まで日本に滞在され葛各大学や研究機関において 特別講演をされた。来月にあたって七篇の講演資料を用意されたが、訳者はその邦訳の許可を先生からいただき、 その中からすでに震弓冨も呂弓①斡曾Q2弓肖巨図①日①具の四目巴日喚︾を﹃中央学術研究所紀要﹂第十六号︵昭和六 十二年七月︶に掲載する機会を得た。さらに今回は富目胃①①勺昌目8○国閏雨⑦どの邦訳を発表することになった。 本論には三つのパリ語︵英語︶辞典、すなわち、 チルダスのロ言註○画四q旦昏①勺山鹿F四国”匡陣m① パリ聖典協会の勺堅目国口哩耐壷冒只5国鯉ご デンマクから刊行されているシ○国骨片巴勺凹目目gご冨四q の三﹁パ英辞典﹂が、どのような目的でどのように編墓されたか、いわば成立過程が洩れなく述べられている。と はいってもPQ言8−勺農目目さロ騨昌は、まだ編墓途上にあり、ようやく全体の五分の二の完成が目に見えはじめ たばかりで、全巻の完成には常に財政との闘いがあり、長い道のりであることを知ることができよう。しかし弔昌 国侭房面目昌○ご画この改訂版が近い将来手にすることができることは、パリ研究を志す者にとっては誠によるこ 目ぎぎ罫旦憩ミご言冴謹ミミミ煽道﹄ぐ○房烏員[員F三目局員員己屋乞腿﹄麗与 ﹄b鴎崎苫ミ言苫旦騨§邑苫目ざ鴎亀さ聡尽s§曽詳曇国6旨員邑旨 ︵詔︶b崎言富蔚旨の§8ミミミミご言慧ミミ冨賞且のロ匡辱号望ぐ幽逸ぐ。一F己己 あと↑かき 貝u 114 訂IL

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ばしい限りである。

参照

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