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中央学術研究所紀要 第30号 093山本佳央「立正佼成会における「根本道場」の変化について-その2-」

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はじめに 一本部教会の東京教会への変更l経過の概略 一一規則類から見る変更の構想 仙教規から会規への変更 ②本部教会の規則の変更 ③教規施行時代の立正交成会 a単立教会から教団へ b教団と本部教会の未分化の形態 側会規の定める立正佼成会 a地域別支部組織の体制

山本佳央

93

立正佼成会における﹁根本道場﹂の変化についてlその一一

I地域別支部組織への変更と東京教会発足を中心にI

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b新体制の意義

C﹁根本道場﹂の語を使用しなかった意義

三変更後の状況

仙教団と教会の関係

a教会の設置について b新体制における教会の持つ意義 ①自主性、創造性を期待する意義 ②教団本部と教会の連結の必要性

②変更後の東京教会

a変更手続き b東京教会の法人形態 C東京教会の活動形態 ③変更後の立正佼成会本部 a﹁教務委員会﹂の構成 b画期的な機構改革の実施 C強力な教会長就任の意義 ..機関としての根本道場﹂を編成する取り組み ①﹁教会布教特別研究会﹂の活動

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きたと言える。 立正佼成会では六○数年の歴史の中で、数多くの変革を実施して活動を続けてきている。それは単立宗教法人﹁立 正交成会﹂を﹁立正交成会本部教会﹂に変更し、その所属する教団である宗教法人﹁立正交成会﹂を設立し、導き の親子関係を基本とする支部組織から地域別の支部組織へと改編し、さらには﹁立正交成会本部教会﹂を﹁立正佼 成会東京教会﹂に変更し、一七六の支部を教会と改称したこと等である。これら組織を挙げての大変革を実施して はじめに そのような組織変革の中での教団の﹁根本道場﹂の変化について、筆者は﹃中央学術研究所紀要﹂第二九号︵平妬 ②教会長会議での報告 四その後の変更及び状況 ⑩支部を﹁教会﹂と改称したことについて a地域社会への活動に備えた改編

b三段包括関係

C﹁教会﹂の機能について ②東京教会を吸収合併する あとがき 立正佼成会における「根本道場」の変化について−その2

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︵四県六教区︶・九州︵七県七教区︶地方の教区制施行。佼成会は、新編成によるブロック制法座方位 成一二年刊︶に﹁立正佼成会における根本道場の変化について﹂と題して小論を発表させていただいた。そこでは 根本道場を本部教会から立正佼成会本部に変更したと考え、さらに布教本部の設置を本格的な根本道場の再編成と とらえようとしたものであった。 ﹃立正佼成会史年表 昭和三四年七月一日に、 ﹁四国︵四県六教 当番実施﹂︵八五百 と書かれている。﹄ と書かれている。いわゆる導きの関係を基本とする支部組織から地域別支部組織への変更、﹁ブロック制を段 階的に実施すること﹂の第一歩である。これはその後、当初の予定を手直しして続けられて行く。 本部教会の東京教会への変更l経過の概略 地域別支部組織への変更を経て、東京教会を発足させた変革は、非常に大きなものであり重要なものであったと 考えられるので、本稿ではこの時期を中心に根本道場の変化について論考してみたい。 なお、教団名称の表記については次の方針によった。 すなわち、長沼妙佼副会長の遷化後、地域別支部組織に変更され、その後、教団の名称は﹁立正交成会﹂から﹁立 正佼成会﹂︵昭和三五年六月一日から︶と変更されている。本稿では、その違いを記述する方が良いと考え、教団 名を﹁立正佼成会﹂で統一することはしなかった。但し、教団名を﹁立正佼成会﹂で統一して記述している﹁立正 佼成会史﹂等の引用文においては、そのままとした。 ︵八五頁︶ 年表・索引﹂ の巻には、 96

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﹁第四次支部長︵杉並支部長以下在京二五支部長︶および本部員の任命式を行なう。この任命式をもって、 地方支部組織への再編成は、事実上、一段落をつげる﹂︵九一頁︶ されている。なお、﹃年表﹂からその後の経過を拾い上げてみると、 ﹁佼成会は、本部事務機構を改編し、秘書室・総務局︵総務・財務・出版の三部︶・教務局︵教務・青年の一一 部と儀式係を統合︶の、一室一一局制となる﹂︵九三頁︶ と本部の事務機構が改編されたとの記事が続き、 昭和三五年四月一 と記されている。 と続く。 同年 同年 同年九月二一一日に、 同年一二月一五日に、 I この概略からは、地域別支部組織への転換が行なわれた後、それぞれの地域の支部を統括するために教区が設け られ、さらに教団の規則が変更されるとともに、本部教会の規則が変更されて東京教会が発会したことが分かる。 立正佼成会における「根本道場」の変化について−その2 七∼九八頁︶ ﹁佼成会は、宗 ○月一八日に、 ﹁東京教会の発会式を行なう﹂︵九八頁︶ 一月一五日に、 ﹁宗教法人﹃立正交成会本部教会﹂は、規則の一部を変更し、﹃立正佼成会東京教会﹂と教会名を改める﹂︵九 なお、 日に、 宗教法人﹃立正交成会﹂規則を一部変更し、会名を﹃立正佼成会﹂と改める﹂︵九七頁︶ 97

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会規をはじめとする規則類を整備したことは、地域別支部組織への変更を経た立正佼成会を内容として規定して いると考えることができる。では、会規や規則はどのような内容の変更を構想していたのだろうか。それを次に見 ることにする。 なお、﹃年表﹂には記録されていないが、立正佼成会の憲法ともいうべき会規が、教規を大幅に変更して昭和三肥 五年九月二一一日に施行されていることを付記しておかねばならない。 一方、﹃立正佼成会会規﹂︵昭和一一一五年九月一三日施行︶は本部について次のように変更して規定している。 ﹁第一九条立正佼成会本部は、立正佼成会信仰の中心であり、教化活動の発する本源である。 第二○条本部は、東京都杉並区和田本町にある大聖堂に置く。﹂ 教規は根本道場である本部教会を本部として信仰の中心としており、支部教会及びすべての信者によって護持さ 教規から会規への変更 教団の本部について﹁立正交成会教規﹂︵昭和二七年一月二八日施行︶は次のように規定している。 ﹁第八条本教団発祥の根本道場たる立正交成会本部教会を本部として信仰の中心とする。 第九条立正交成会本部教会はこの教団の本部であって、支部教会及びすべての信者によって永遠護持され

二規則類から見る変更の構想

る O ー れると規定していた。

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②本部教会の規則の変更 本部教会から東京教会への変更は、所轄庁による規則変更の認証を得て行なわれた。この手続きについては後に 考えることにするが、変更された内容は名称を﹁立正交成会本部教会﹂から﹁立正佼成会東京教会﹂に変更したこ い と、圭貝任役員を九人から五人にしたこと、また総代会をなくしたことなどが挙げられる。なお、事務所は本部教会 時代は教団の事務局と同じ和田本町二七番地に置いていたが、東京教会となって事務所は和田本町一二番地とした ことも変更の一つになるだろう。さらに大聖堂が完成したことに伴ない、事務所を大聖堂に移転した。その手続き は、﹁事務所を和田本町九一一一一一一番地立正佼成会大聖堂内に置く﹂と規則の変更を行ない、昭和三九年七月一三日に 東京都知事によって認証されている。 会規は﹁根本道場﹂という語を使わずに、立正佼成会本部が﹁信仰の中心﹂﹁教化活動の発する本源﹂であると し、その本部は大聖堂に置くとしていることが分かる。 a単立教会から教団へ 立正交成会がはじめて宗教法人となったのは昭和一一三年八月であった。敗戦直後に施行された宗教法人令は信教 の自由・政教分離の原則にのっとって立正交成会のような新しい宗教団体にも法人となる道を開き、税制上の特典 側教規施行時代の立正交成会 次に、教規施行時代の立正交成会の状況などを考えていきたい。 99 立正佼成会における「根本道場」の変化について−その2

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100 を受けることを可能にした。当初は、法人格を取得しなくても宗教活動を続けることができたので法人化の手続き はとらなかったのだが、﹁一万世帯をこえた会員の会費収納、本部道場建設のための醸金、二五坪の既存会堂に加 えて百数十坪の道場建設による不動産の取得︵見込︶は、佼成会として会務処理のために法人格を得ておく必要を 痛感させ﹂法人化することになった。設立された宗教法人﹁立正交成会﹂は東京都知事所轄の単立教会であった。 ﹁しかし、会員の激増につれて支部が増加し、ことに地方支部の結成があいついだことは、佼成会の機構を重層 的にし、やがて重層的複合的機構を法的にも明文化することを、つまり﹃教団﹄としての法的機構を整えることを 促した。また、単立教会は都道府県知事所轄の宗教法人であるのに対して、﹃教団﹂は文部大臣所轄であって、宗 教団体としては一段上とみなされていたことは、﹁教団﹂としての組織を整えることの必要性のもう一つの要因で ㈱ あった﹂と田心われるが、﹁文部大臣所轄の教団に脱皮するために、東京以外の﹂、茨城支部が法人格を取得したこと により、﹁教団﹂としての立正交成会を法的に構成することが可能となった。 そこで、﹁都知事所轄の佼成会教会を同じ立場の本部教会が受けつぎ、文部大臣所轄の佼成会教団が既存の二法 人の上に新しく組織され﹂た。それが昭和二五年一○月のことである。 その後、宗教法人令が廃止され、認証制の宗教法人法が施行された。立正交成会では昭和一一七年一月二八日に教 規を制定し、それを基本法として立正交成会規則・本部教会規則・茨城支部教会規則を改正し、それぞれ認証され ている。この一一七年の一一一月末現在で会員数が一一一一一一一、一一一一一二世帯で、はじめて一○万台にのっている。 , 会員数の伸びは急激であるから、﹁道場の増設はぜひ必要である﹂と第一一修養道場が昭和一一六年七月に竣工、さ らに事務局が昭和二七年一月末に完成し、﹁会員一○万世帯を擁する教団の事務中枢が出現した﹂という状況であ る。

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立正佼成会における「根本道場」の変化について−その2 立正交成会 図2(会規に変更された当時) 101

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b教団と本部教会の未分化の形態 先述の概略を図示すれば図1の﹁教規施行当時﹂のようになると考えられる。 ﹁本部教会は教団発祥の根本道場であり、教団の本部・信仰の中心であって、教団に包括される支部教会および すべての信者によって永遠護持される、と規定している。これによって、本部教会と支部教会はともに佼成会の被 図 包括法人であるが、立場を異にし、根本と枝葉、中心と周辺、﹁本末﹂の関係にある﹂とされている。 また、﹁教団と本部教会の二法人の運営はむしろ未分化の形で行なわれた。法的に分離させてみても、実態は分 化していないのであるから、運営は未分化で、事務的に区別できるという程度であった。そのことは役員人事によ っても知ることができる﹂とされている。 これらのことから図1では、本部教会は茨城支部教会と同じ一号法人ではあるが、特別の位置付けにされている。 教団の本部は本部教会と事務機構とで構成されているが、本部の実態は、本部教会そして教団事務機構が揮然一体 となって構成されていたと考えられる。この図1で事務機構と本部教会が画然と区切られているのは、それぞれの 機能や性格を明らかにするためである。 本部修養道場が宗教法人法第二条に規定する﹁礼拝の施設﹂にあたり、根本道場である本部教会がその本尊を礼 拝の対象として宗教活動を行なっているのだが、同時にそれは、教団に包括される支部教会およびすべての信者に よって永遠護持される形となっている。教団の管理統括は二号法人としての教団が担うのだが、根本道場である本 部教会と教団の双方が十分に分化されない状態で運営されていたわけである。その一例として次を挙げることがで 102 きる。

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側会規の定める立正佼成会 次に、会規や規則類の変更に盛り込まれた新しい体制について考えることにする。 諸井は、一一四年以来、道場当番のお役を通じ、青年部と接触の多かった人物であるから、青年部の要望する 指導者としては、もっとも適任と考えられた。二九年一月以後、毎月の青年部懇談会に、課長の諸井と次長の 岡部公重は、それぞれ第一三支部長・第七支部長の肩書きで出席し、青年部男女の指導は、以後、実質的には 指導課が担当することとなった︵﹃立正佼成会史﹂第一巻、六二一頁︶。 これは、組織が三部から五部一六課になっていったことからも、発展に次ぐ発展を重ねている当時の立正交成会 の実態を浮き彫りにしていると思われる。事務局にある教団教務部の一課である指導課の課長と次長に本部教会の 支部長が任命されている。まさしく教団と本部教会の未分化の状態と考えることができる。 昭和二五年四月一一八日制定された最初の﹁宗教法人立正佼成会庶務規定﹂は、総務部・事業部・社会部の一一一 部をおき、総務と執事が各部の事務を監督するという、簡素なものであったが、一一八年六月五日にいたって、 ﹁事務分課分掌新規定﹂が施行され、五部一六課からなる事務機構が定められた。後に青年部指導を担当した 指導課も、教務部所属の課として、この時、誕生した。この段階では、各課に課長はおかれず、各担当理事が 責任者として事務責任をもったが、同年一一月二○日、事務組織がさらに整備細分されるにおよんで︵指導課 の場合は、下に布教・放送・儀式の三係が設けられる︶、早急に主要職員を選任する必要が生じ、一一八年一一一 月一○日の理事会において、五人の課長が任命された。このうち指導課長には諸井克次第一三支部長が任命さ れ一四日就任したのである。 これを図示すると図2の﹁会 103 立正佼成会における「根本道場」の変化について−その2

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規に変更された当時﹂のようになる。 して支部を統括するため、 引 けられる一︶とになった。乏 個 が本部拝殿で行なわれた。

b新体制の意義

a地域別支部組織の体制 ﹁新体制は在京の支部を八四から二五に減らした一方、地方に多数の支部を新設することによって成功した﹂。そ して支部を統括するため、全国を一八︵当初は一○であったl筆者注︶の教区に分け、それぞれの教区に教会が設 引 りられることになった。そのさきがけとして昭和一一一五年一一月一五日に、東京教区には東京教会が設けられ発会式 104 地域別支部組織の体制となり、全国の各地域に布教の拠点が確立されたことになる。これを図1では、宗教法人 ﹃立正交成会﹂、宗教法人﹃立正交成会本部教会﹂と宗教法人﹃立正交成会茨城支部教会﹂であったものが、図2で は宗教法人﹃立正佼成会﹄、宗教法人﹁立正佼成会東京教会﹄と宗教法人﹃立正佼成会茨城教会﹄となったとして いる︵法的な変化を明確にするためにこのような記述とした。但し、図やその他の記述では、特別な場合を除いて 単に立正佼成会、東京教会、茨城教会とする︶。 ブロック制施行当初は全国を一○の教区に分ける考えであったが、その後一八教区になり茨城教区が設けられた。 茨城教区には、図1で法人となっている茨城支部と日立、水戸、土浦、鹿島、下館、平、小名浜の茨城県全域にあ る支部で構成される教会が設けられ、宗教法人﹃立正交成会茨城支部教会﹄は、昭和三六年七月一五日に宗教法人 ﹃立正佼成会茨城教会﹄と変更認証されている。

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昭和一一一五年には、﹁本部教会﹂の物的な面も包括法人である﹁立正佼成会﹂の教団の方に併合いたしまして、 ﹁本部教会﹂に所属しておりました会員、支部組織等を再編成いたしまして、﹁東京教会﹂というように名称を かえてきておるわけでございます。この昭和三五年の時点での﹁本部教会﹂から﹁東京教会﹂への変更は、地 域別組織への組織がえによりまして、東京地区の会員は、本部直属会員のような意識があったのですが、全国 一律の観点から、﹁東京教会﹂というように名称を変更いたしまして、﹁本部教会﹂の従来の施設は全て﹁教団﹂ へ統合いたしまして、名実ともに、﹁本部﹂と﹁教団﹂は一体のものに、すなわち一法人という形態にしたわ けでございます。もちろん、財産移転、登記等も、この時点で行っております。︵以下、略︶︵宮部公男﹁新宗 教教団﹃立正佼成会﹄の組織と機能﹂、﹃宗教法﹄第一一号、八一一一頁︶ ﹁本部教会の従来の施設﹂すなわち、今まで本部教会が所有していた土地・建物等の不動産を教団に移し、本部 と教団を一体のものにしている。これは、﹃中央学術研究所紀要﹄第一一九号の拙論で浄土真宗本願寺派の例を見た が、﹁法律上被包括寺院たる本山本願寺を包括法人たる宗派と一体化するためには、本願寺の資産を宗派法人の資 可 産とすることが要請せられる﹂一﹂とと同様に、本部教会の施設を教団のものとして、教団を実態のある存在にして て考えることにする。 それはさらに、﹁本山を教団の内部に位置づけるためには、本山を単位法人としてではなく教団内の一機関とし

⑱⑲

て構成する以外にないように思われる﹂ことから、﹁従来の本部教会の性格を教団に吸収し﹂たことになる。 図1においては、本部教会が根本道場の機能を果たして布教を展開し、茨城支部教会をはじめ多数の支部を生ん それはさらに、﹁ いることが分かる。 これは具体的にはどのような変更が行なわれたことになるのだろうか。当時の状況を知る宮部氏の論文を引用し 105 立正佼成会における「根本道場」の変化について−その2

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でいくことにより、理論的には立正交成会に包括されている本部教会が、立正交成会とは未分化の状態で教団を管 理・運営してきたと理解できる。 ところが、地域別支部組織への変更を経て、大聖堂を完成させた時期になる図2では、大聖堂を根本道場︵見え る意味での︶として、立正佼成会本部が全国的に布教を展開していくことになる。会規一九条は、﹁立正佼成会本 部は、立正佼成会信仰の中心であり、教化活動の発する本源である﹂と規定しているが、この図2では根本道場と 表記している。会規が根本道場の語を使用しなかった理由は次に考えることにするが、この立正佼成会本部は、か って本部教会時代に布教を展開した根本道場機能と教団事務機構とで﹁一機関﹂として構成されることになる。な お、教団事務機構と根本道場は実態では津然一体となって立正佼成会本部の機能を果たすが、図2で区分されてい るのは、それぞれの機能や性格を明確にするためである。 106 C﹁根本道場﹂の語を使用しなかった意義 昭和三九年、会員が待ちに待った大聖堂が完成した。大聖堂は法的には一一号法人である教団が所有するので、全 国の立正佼成会会員のための﹁礼拝の施設﹂となっており、それを一号法人たる東京教会︵正確には東京教会をは じめとする全国の教会︶が宗教活動に使用する形になった。 地域別支部組織への変更を行なって、各地に存在する道場を拠点として信仰活動を行なうようになったが、それ ぞれの道場における信仰活動が誤りなく生き生きとしたものとなるよう生かし育む、根本︵の︶道場として立正佼 成会本部がある。大聖堂を﹁礼拝の施設﹂として使用するのは東京教会をはじめとした全国の教会であるが、あく までも﹁信仰の中心﹂であり、﹁教化活動の発する本源﹂は立正佼成会本部なのである。しかし、その立正佼成会

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の 変 化 に つ い て − そ の 2 本部は、安武敏夫氏のご見解のように﹁一機関として構成﹂された根本道場であって、本部教会のような単位法人 の形態を備えてはいない。つまり、立正佼成会本部は、﹁礼拝の施設﹂を持っているが、全国の教会と同一の一号 法人としての組織形態を備えておらず、そのことから大聖堂は﹁見える意味での根本道場﹂となっている。 本部修養道場を﹁礼拝の施設﹂として本部教会が使用して根本道場の機能を果たしていた時と比べると、﹁根本 道場﹂の持つ意義及び内容が異なっており、これが会規第一九条が立正佼成会本部を﹁根本道場﹂とせず、根本道 場の意味する﹁信仰の中心﹂﹁教化活動の発する本源﹂と規定した意義だと考えられる。

㈹教団と教会の関係

a教会の設置について ブロック制の実施が行なわれた後、教団に総務局と教務局が設置され一一局制が敷かれた。佐野元章教務局長は教 務局の働きを次のようにコメントしている。 教務局としては、もちろん布教を推進するための機関ではあるけれども、単に従来の教務部の延長ではなく、 各支部の布教面を大極︵局l筆者注︶的に見つめ、その方向をあやまらないように梶をとってゆくようなもの です。そして各支部の指導は支部長さんに任せ、それぞれの支部員は支部長さん自身が完全にはあくしていな ければこれからの教勢の伸張はないと思うのです。支部長さん方は会長先生からの直接のご指導をうけてそれ を支部員に伝達するのです。教務局は、それを更に側面から補佐して布教の推進をはかるlこれが理想の形な のではないでしょうか。私は永年地方支部長としてのお役を頂いていたので、支部長というものの責任がいか 変更後の状況 107 立正佼成会における「根本道場」

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さらに、昭和三五年五月一五日の﹃交成新聞﹄では、﹁さる四月一日付で発令された教務局の佐野局長は五月五日 教務部の役割についての要旨を次のように語っ﹂ている。 ①従来は教務部と青年部が独自にそれぞれ企画を立て布教活動してきた感があった。今後は青年部と教務部の 間で話し合いを密にし統一した方針にもとづいて布教効果をあげていきたい。 ②地方支部会員の指導は所属の支部長に一任し、教務局からの布教は原則として幹部を対象にして行なう。 ③布教を行なう場合は教区長を通じて行なう︵近日中に教区長が発令される予定︶。 ④∼⑦︵略︶ 二○頁︶。 成という点に力を注ぐつもりです︵教務局長佐野元章﹁布教活動の推進力として﹂、﹁交成﹂昭和三五年六月号、 端会員への直接指導をするという方向をとっていたようですが、それを改めて教務局としては主として幹部養 に重かっ大であるかを経験してまいりました。従って、今までの教務部の在り方が、とかく地方布教などで末 108 ここでは地方支部の会員指導は支部長に一任し、教務局は幹部を対象にした布教をするという考えが再確認され、 教会という考えが誕生する前の段階を示す教区長の語が用いられ、その教区長を通した布教が述べられている。し かしその後、東京教会が発足したことを報じた﹃佼成新聞﹂では、 十五日に発足した東京教会は在京一一十四支部︵川崎支部除く︶に西多摩、豊田、南多摩の都下三支部を加え た東京教区二十七支部の事実上の統合機関として誕生したもので、これを皮切りに全国十教区にそれぞれ教会 が明年中に設置されることになった。この教会が今後それぞれの教区の支部に対する布教方針、運営を指示し 統率することになり、これによって地方の自主性が確立されるものとみられている。将来は教務局が直接、支

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以上を通観すると、立正佼成会本部を﹁信仰の中心﹂﹁教化活動の発する本源﹂とする具体化の作業が﹁産みの 苦しみ﹂にも似た状態で始められたことがうかがえる。一号法人とは組織形態が異なる教団に﹁一機関としての根 本道場﹂を何を軸として、どのように具体化させていくか。地域別支部組織への変更という未曽有の大変革を行な った後ホッとする間もないままに、これもまた、それに引けを取らない大変革を一歩一歩、歩み始めていることが 引用したところでは、地域別支部組織の編成が進むにつれて教区長を通した布教という考えが示されており、さ らに教会という考えが浮上してきたととらえることができる。この教会設置は、﹁立正佼成会史﹄でも新体制を効 果的にするために必要であったととらえている。それは、昭和三五年一一一月号の﹃佼成﹂誌上に掲載された﹁新体 制の一年をふりかえって﹂と題する庭野会長の総括的見解を要約しながら、次のように説いている。 また、教区制ブロック組織を最も効果的に運用するために、地方、地方の特殊性や実態を完全に把握するこ との必要さを強調している。そのため佼成会には中央に総括的な教務局があるが、それに加えて、それぞれの 地方に即した指導の必要性からして、それぞれの教区の実状に即した一教会の単位の必要が生まれたのである。 その結果、モデルヶースとして、三十四︵五の誤り。l筆者注︶年の十一月十五日に東京一一十四支部を包括す る東京教会を発足させた。こうした意味の教会は今後、全国の地方教区にも生み出されて行くこととなった ︵﹁立正佼成会史﹂第一巻、三一八頁︶・ これは、当初は支部長が直接、会長からの指導を受けてそれぞれの地域で布教を展開するという考えであったが、 分かる。 年一一月一一五日︶。 部の布教面の指導をせず、教会と教務局の間で布教方針、計画を討議する予定である︵﹁佼成新聞﹂昭和三五 109 立正佼成会における「根本道場」の変化について−その2

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ができる。 た﹂。 低 導きの親子関係を根底に置いた組織では親子の情愛にも似た暖かい人間関係が基本となっている。そのため、そ のつながりは系統・関係を経て末端にまで及び、いわば芋づるのように引き上げられる強い紳で結ばれている。こ の引き上げられた全体が教団ということであって、本部教会が本部となってその教団を統括していたと考えること おける布教センター的な存在にする考えになっていると見受けられるのである。 理解できる。いわば、教団本部を根本道場とし、﹁根本道場の出張所﹂の機能をそれぞれの教会に担わせ、教区に を踏まえた上で、教区における布教方針などを各支部に伝え布教を推進する、という考え方に変化していることが それぞれの支部が所属する教区に教会を設置することによって、本部の指導や方針を受けた教会が地域の特性など その後、ブロック制の実施によって新しく組織が再編成されたが、そこでの人間関係は単なる地域を同じくする 110 b新体制における教会の持つ意義 ブロック制が実施された後、﹃佼成新聞﹂には支部や教会の﹁自主性﹂﹁創造性﹂に満ちた活動を期待する記事が 多くなる。これはどのような意義があるのだろうか。それを見てみたい。 ①自主性、創造性を期待する意義 、 ブロック制が実施される以前の支部は、﹁導きの親子関係の連鎖を一般的には前提とする﹂ものであったが、ブ ロック制が実施されたことによりその﹁支部の内部組織であった系統・関係は今や意味を失って解体し、その代わ り支部の包括区域を地区割りして法座、法座を地区的に細分して組、そして最末端は平均三○世帯ほどの班となっ

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その後、この構想は変更され教会は法人化されなかったが、形態は一号団体である教会の実態に可能な限り近づ けていくことになったと推測できる。このことが、支部や教会の﹁自主性﹂﹁創造性﹂のある活動を期待し、促進 を望む﹃佼成新聞﹄等の記事の狙いであったと考えることができる。 ②教団本部と教会の連結の必要性 森岡清美博士は、立正佼成会における地域別支部組織への変更をとらえて、﹁おやこモデル﹂から﹁なかまl官 僚制連結モデル﹂へと転換されたとしており、そして、それぞれのモデルの相違を次のように解説しておられる。 着させる必要性のあるものに変化している。そこから次のような構想が出てきたと考えられる。 仲間の役割分担の関係となっている。かつてのような親子の強い緋で結ばれた人間関係を、組織の中に醸し出し定 立正佼成会本部の生かし育む働きかけを受けながら、教会が地域の特性を踏まえた布教方針や布教計画を打ち出 していく。そして支部がその布教方針や布教計両にもとづいて、﹁自主性﹂や﹁創造性﹂のある運営・活動を行な うことによって、強い緋で結ばれた人間関係が確立され、いわば教団本部の心臓から教会という動脈を経由して、 各支部の﹁法座、組、班﹂という毛細血管を血が流れていくように、立正佼成会の教えによる救いがそれぞれの地 しかも教会の﹁自主性﹂﹁創造性﹂に満ちた運営や活動は、教会がそれぞれ宗教法人として活動することにより 得ることができる。先にあげた﹁新体制の一年をふりかえって﹂と題する総括的見解の中で、庭野会長は﹁今回の 鰯 教会という名称の法人格は先ず中央において東京教会として発足し、順次各地方教区に及ぼす形をとったのです﹂ と明言している。このように当初は、教会の形態は宗教法人法第一一条でいう一号法人である教会の形態にする、と いう構想があったことが分かる。 域で実現されていく。 111 立正佼成会における「根本道場」の変化について−その2

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いえモデルやおやこモデルでは、本末とか親子という関係がそれ自体として末寺や支部などの地方的単位を 縦に結合させ、やがて信仰中枢に結びつける契機であったが、なかまモデルでは、地方的単位が信仰中枢を介 して互いに仲間であるに過ぎず、いえモデルやおやこモデルの場合のような、教団への構造化の自然発生的な 契機を欠いている。ここに本部事務局の官僚制機構が発達する必要があり、これによって地方的単位間の調整、 地方的単位の教団への統合が保証される。そこで、なかまl官僚制連結モデルというのである︵森岡清美著﹁新 宗教運動の展開過程﹂創文社、一九八九年、三一七頁︶。 ブロック制の実施という教団あげての組織変革は、このような教団本部と教会、さらに支部との連結の必要性を 含んでいることが理解できる。当初は、佐野教務局長の言葉に見たように、地方支部の会員指導は支部長に一任し ようと考えていたが、やがて本部と教会、さらに支部との連結の重要性を認識していくことになったと思われるの である。 112 このような教会の意義を考えると、この組織変革は単に﹁地域別支部組織﹂への転換で終わるものではないとい うことになる。支部を包括する各教会が一号団体である教会としての実態に近づけた形で活動できるようになり、 しかも、それぞれの支部の特徴を把握した上で、教団本部が打ち出した布教方針を把握し、地域に見合った布教の 方針を開発する機能も備えて活動することが期待されるようになっている。 一口で言えば、立正佼成会本部の﹁根本道場の出張所﹂としての機能を教会が受け持つことになり、それを教務 局と教会で検討していくことによって実現していく体制となっている。地域別に支部を再編成することはいわば緒 についた段階であり、それぞれの教区に置いた教会が、そのような活動をすることができるようになって初めて、 ブロック制の実施が結実したと言えるものとなっているのである。

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②変更後の東京教会

次に、本部と東京教会の関係を見ながら変更のあとを辿ることにしたい。

a変更手続き

先にも見たことで重複もあるが、確認しながら見てみたい。本部教会は本部であり、同じ被包括法人である他の 支部教会からは護持される特別な存在として位置付けられていた。﹁支部教会は事実上、本部教会と同列に並びう ⑳ るものではなく、本部教会とは文字通り本部と支部、したがって本末、あるいは親子の関係に立っていた﹂。とこ ろが地域別支部組織への転換が行なわれて東京教会が発足したが、東京教会は﹁宗教法人立正佼成会が包括するも 四 う一つの単位法人茨城教会と同列に置﹂かれている。 一方、教会に統括される支部は、上に見たように﹁内部組織であった系統・関係は今や意味を失って解体し、そ の代わり支部の包括区域を地区割りして法座、法座を地区的に細分して組、そして最末端は平均三○世帯ほどの班 以上考えて来た﹁教団と教会の関係﹂をふりかえると、立正佼成会本部では﹁一機関としての根本道場﹂を具体 化させつつ、地域の教会を﹁根本道場の出張所﹂として機能させようとしていたととらえることができる。それを 教務局と教会とで検討しながら構築していくことになる。まさにブロック制の実施に優るとも劣らない大変革であ ったと考えられる。 四 となった﹂。 以上にあげた相違を考えると、本部教会を東京教会に﹁変更﹂したというよりは、本部教会を解散して新しく東 113 立正佼成会における「根本道場」の変化について−その2

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京教会を発足したという方が実態だったのではないだろうか。そうであるならばそれは、本部教会の法人規則の変 更を認証申請したことは、あくまでも便法に過ぎず、本部教会を解散させ、東京教会を設立させる実態に沿った手 続きが採られる必要があったのではないかと思われる。 114 b東京教会の法人形態 昭和一一一五年一月二五日の﹃交成新聞﹂に﹁在京支部当番発表﹂とある。内容は﹁一一月の在京支部当番表が次のと 鯛 おり教務課から発表された﹂として日割りが続いている。 その記事に続いて﹁法座編成も決定﹂とあり、﹁また二月の在京支部法座編成表が教務課から次のように発表さ

㈱四

れた﹂と第二道場と第三道場での、在京支部法座修行の場所が発表されている。 ここで注目したいことは、東京教会に統括される在京支部の当番表と法座編成が教務課から発表されていること である。﹃立正佼成会史﹂年表・索引の巻で見たように昭和三四年一一一月一五日に杉並支部長以下在京一一五支部長 の任命式が行なわれ、地域別支部組織への編成は一段落をつげた。そして、翌三五年一一月一五日に東京教会が発 足している。在京支部の支部長が任命されて活動態勢を整えている頃であるが、それと同時に東京教会も発足に備 えて、本来であれば教務課ではなく、東京教会の設立準備機構が当番や法座の編成を決定し、発表しなければなら ない。しかし、この間の事情経過には次のような記録もある。 先にもふれたように、教会というものは、便宜的な机上の全国の区分けで、教会長以下の管理組織をもって いなかった。支部長が何か困難な問題に出会った時に、教会長に相談し、教会長が指導助言を与えるというこ とはしばしばあったが、支部長は従来からの習慣で会長に直属するといった性格をもっていた。東京の支部長

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本来であれば、在京支部の支部長たちは東京教会長に﹁直属﹂しなければならないものが、かっての本部教会の 時のような形態を残していたことになる。このことからも教務局が教会と布教方針を検討していくという考えは、 東京教区については十分に浸透することができなかったのではないかと推測できる。 四 本部教会の存在した時代でも、﹁一一十七年十一一月以降理事会の開催が見られるようにな﹂り、理事の人員も増や され、﹁九名となった。つぎに、二十八年五月、本部修養道場屋上の追加工事、車庫・教師住宅の建設、方南町土 地追加買収等、施設拡充の件が理事︵﹁理事会﹂か。l筆者注︶に一任されることになった。さらに同年九月には、 不動産買収に関する議決権一般を理事会に委任することとなった。ついでその年の十一月、本部教会の総代会は、 法人の運営にかかる一切の議決権限を教団に委任することを決定した。教団への委任とは教団評議員会への委任で あるが、実際は教団理事会への委任に異ならなかった。このように︵中略︶理事会の正規の活動が軌道にのり、人 鋤 員が増強されただけでなく、権限の拡充が実現していった﹂とあり、本部教会の総代会自体が、法人の運営にかか る一切の議決権限を教団理事会に委任していたことが分かる。 東京教会規則第一○条には﹁この法人の事務は、責任役員の定数の四分の三以上で決し、その議決権はおのおの 平等とする﹂となっている。東京教会が発足した後も、東京教会の責任役員会で一切の運営が決定されるというこ 会は、その後、在京 第二巻、一一三五頁︶。 れたとしても力を発揮するようなものにはならなかった。 たちは、信仰の深さと修行の経歴からしても、教団の重鎮であったから、支部の上の機構は、もしそれが満か 昭和三十五年十一月十五日、東京教会の発会式が行なわれ、書類の上では事務所が置かれたが、この東京教 会は、その後、在京の組織の幹部が代表役員・責任役員以下に名を連ねる形で続いている舎立正佼成会史﹄ 115 立正佼成会における「根本道場」の変化について−その2

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C東京教会の活動形態 東京教会に所属する支部の活動形態を以下に見てみよう。 かって一一人三脚ともいうべき日敬会長・妙佼副会長が一体となって会を指導して来たが、ブロック制移行後 の時期には、事務組織の統轄者として理事長が位置づけられ、布教組織を担う全国の支部長は会長に直属する いつぽう、布教組織の方は全国に新しく編成された一二七の支部と、それを地方ごとにまとめる一○の教会 剛 ︵後の教区にあたる︶に組織された。東京教会はその段階で、中核の一一四の支部の他に、川崎、豊田・西多摩 ・南多摩・海外を包括することになっていたが、当時の教会は全国の支部を整理するための便宜的なもので、 実質的な機構はほとんどなかった。 教団本部を支える二四の支部の役割は、多岐にわたっていたが、その主なものをあげると、戒名当番であっ た。︵中略︶はじめの頃にはそれに類するものとして方位・姓名鑑定をする当番もあった。 また、本部、第一一、第三道場の受付、清掃などの道場当番、さらに本部施設周辺の交通整理などにあたる交 通当番が、支部単位で一日交代で割当てられた。︵中略︶これらの当番は佼成会会員の修行実践の訓練の場と して重要な役割を果した︵﹁立正佼成会史﹄第一一巻、一一三四頁︶。 形になっていた。 116 とはなく、かつての本部教会の運営形態を継承していたのであろうか。そうであれば、東京教会が独立した宗教法 人としての形態を備える状態にはなかったことになる。法人としての形態を備えなかったということは、東京教会 としての自主的な活動、創造性のある活動にはつながらなかったことになる。

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の変化について−その2 ここに、﹁布教組織を担う全国の支部長は会長に直属する形になっていた﹂とあるが、地域別支部組織の体制に なれば会長直属ではなく、それぞれの地域の﹁教会長に直属する﹂ことが本来ということになる。また、﹁教団本 部を支える一一四の支部の役割﹂は﹁東京教会を支える二四の支部の役割﹂ということになるであろう。そして、教 務課が支部当番表や法座編成を決定していたことをあわせ考えると、東京教会所属支部の活動形態は本部と本部教 会の未分化な時代の状態を継続していたということが考えられる。 側変更後の立正佼成会本部 さて、東京教会が、かっての本部と本部教会の未分化な時代の状態を継承していることの論理的な帰結は、立正 佼成会本部もかつての未分化であった時代の状態を継承していることになる。勿論、それを黙認していたわけでは なく認識していた人たちがいて、新しい体制のもとに立正佼成会本部を編成するために数々の努力を重ねている。 また、教区に設けられた教会を実態あるものとする努力も重ねられている。それを見ていきたい。 a﹁教務委員会﹂の構成 昭和三六年三月一五日の﹁佼成新聞﹂に、﹁教務各課の活動方針﹂と題して、佐野教務局長らを囲んだ懇談会か ら教務各課の役割が解説されている。 教務委員会を運営し、佼成会全体の布教行事計画と実施、結果の検討などを行なう︵教務委員会は、教会長の 中から数名、総務、秘書の両課から各一名、それに教務局全課長が参加して構成する︶。同課の任務は教会お 教務一課では、 117 立正佼成会における「根本道場」

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よび支部の指導育成であるが、︵中略︶また、教務一一、三、四課と連絡をとり、全国教会長会議、支部長会議、 主任、会計会議を開催して、全国的な布教線の統一をはかる。︵中略︶ これは本部l教会l支部の布教計画の統一をはかるために改善されたもので、すでに本年二月から実行され、 四月から円滑に行なわれることになっている。 ここでの教務一課の目ざす任務は﹁教務委員会を運営し、佼成会全体の布教行事計画と実施、結果の検討などを 行なう﹂こと、﹁教会および支部の指導育成﹂であることが分かる。しかし、﹁佼成会全体の布教行事計画と実施、 結果の検討などを行なう﹂や﹁本部l教会l支部の布教計画の統一をはかるために改善されたもの﹂ということは、 教務局で全国の教会や支部を統括する考えであるということになる。 それは一見、.機関としての根本道場﹂の編成に近い考えに見受けられるが、肝心の教務委員会は数名の教会 長はともかく課長や課員で構成されており、教団本部の役員中枢の参加が得られていない。この教務委員会の構成 では﹁一機関としての根本道場﹂の編成は強力なものとは言い難いと懸念される。 また、﹁計画と実施、結果の検討﹂というPlanlDOlSeeのプロセスで全国的な布教線の統一をはかる ことには、教会や支部に期待する自主性や創造性と両立させるために、本部側からのきめのこまかな調整や取り組 みの必要性も予測される。 ﹁佼成新聞﹂には、一二月一日付で施行される﹁画期的〃新機構〃発令される﹂と題 118 b画期的な機構改革の実施 昭和三六年一一月一一五日の した記事が掲載されている。

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十一月十五日、本部拝殿で、教団の画期的な機構改編が発表され、それにともなう新人事が発令された。新 機構は主として布教面の指導系統の明確化に重点がおかれ、会長先生l教会長l支部長l主任とつづく縦の線 がとくに強力に打ちだされた。教務、総務の二局は職務分掌を教団の運営面にしぼって側面から布教ラインを たすけ、おのおのがその立場を守って広宣流布に総力を結集することになった。これは、いわば本会のなが年 の懸案であった﹁布教﹂と﹁運営﹂の分離が完全になされたわけで会長先生のご指導はこの縦の線を通じて遅 滞なく末端まで徹底されるわけである。教会制度の充実を頂点とする教線の直線化は今回の新機構中とくに注 目されるところであり、新教会長としてもとくに岡野理事︵近畿教会︶、森岡理事︵千葉教会︶、細谷理事︵埼 玉教会︶、鈴木前教務一課長︵奥羽教会︶、福富前出版課長︵中国教会︶、竹内前調査統計課長︵東海教会︶と、 会の最高幹部である六氏が新任された。 さらに、この記事の横に﹁新機構の意義を認識せよ﹂と題した社説がある。そこには、 今回の新機構でとくに注目されるのは布教面︵指導面︶の主軸となる会長先生l教会長l支部長l主任のライ ンが強力に打ち出され、運営面を担当する教務、総務の二局をとおさず会長先生のご指導が直接、教会長を通 じて末端まで遅滞なく流れる縦の線が明確に確立されたことである。これはかねてからの懸案であったいわゆ る政教の分離を意味するもので、布教は布教、運営は運営とおの︵おの︶の職掌を正しく自覚した上で、いっ そうの広宣流布に総力を結集することになったわけである。今回の新機構の第一の意義はここにある。 ブロック制が実施され新体制になった当初は、教務局長も布教は支部長に一任するとしていたのだが、次第に教 図 会の必要性が認識されるように変化して﹁教会と教務局の間で布教方針、計画を討議する﹂という路線変化のもと に教団の運営を見直していたと考えられる。 119 立正佼成会における「根本道場」の変化について−その2

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C強力な教会長就任の意義 教団の最高幹部を教会長として任命していることについて、﹃立正佼成会史﹂は、 ブロック制実施以前には、教団本部と支部の間に、導きの親子の確かな手ごたえがあった。連絡や手取りの 上での効率に問題があるといわれながらも、導きの親子関係が本部から地方支部へ、そして地方支部から本部 へのコミュニケーションを保障していた。教団本部の中枢にある人には、地方支部まで確実につながっている 実感をもつことができた。 ところがブロック制はこの確かな手ごたえを破壊し去ったのである。そこで、昭和三十六年十一月、教会長 八名を任命するに当たり、理事のうちから四名、課長のうちから三名を選任して、本部と地方支部とを結ぶ太 いパイプを敷設したのであった。さらに三九年三月、理事のうちから九名を教会長に新任したのも、同じ意図 120 この記事に見る新機構は﹁運営面を担当する教務、総務の一一局をとおさず会長先生のご指導が直接、教会長を通 じて末端まで遅滞なく流れる縦の線が明確に確立された﹂としている。先にあげたように教務一課で﹁教会および 支部の指導育成﹂をしたり、﹁教務委員会﹂で﹁本部l教会l支部の布教計画の統一をはかる﹂ことは、側面から 援助をするという原則に反すると考えられたのだと推測できる。総務、教務の一一局を通さず縦の指導線を強化する ことに軌道の修正が行なわれたのである。 縦の線を強化するために﹁会の最高幹部である六氏﹂がそろって教会長に新任されたが、その後、昭和三九年に 国 は教団の最高責任者である理事長が近畿教会長に任命されたこともあわせて考えると、新教会長に任命された人は 立正佼成会の中枢を担う人ばかりである。それを次に考えることにする。

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と説明している。 地域別支部組織の体制に変わり、系統・関係のつながりが断たれたことにより、本部と教会との連結を強固にす る必要性を充分に認識するところとなったわけである。 しかもそれは、教会に﹁根本道場の出張所﹂としての機能を担わせようとしたことを併せ考えると、最高幹部と 目されるような強力な教会長を任命し、縦の指導ラインの強化を行なうと同時に、一号法人とは組織形態の異なる 二号法人の役員に布教の現場を肌に感じつつ、教団運営に従事させるという狙いもあったのではないかと考えるこ とができる。つまり、教務局と教会との間を連結するパイプを強固なものにするとともに、布教現場から遊離しな いように教団役員を教会長に任命したのだと考えられる。﹁なかまl官僚制連結モデル﹂という考えを学んだけれ ども、その﹁なかまl官僚制連結﹂には、このことも含まれるのではないかと考えられる。 “ このような理事や本部役職者の教会長就任の体制は、昭和四四年に布教本部を設置したときまで続いた。この体 制を廃止したことについては後に改めて考えることにする。 d﹁一機関としての根本道場﹂を編成する取り組み ①﹁教会布教特別研究会﹂の活動 その後、教団では昭和四○年四月一日に大幅な機構の改編を行なっている。それは、 改編の主な点は、①トップ・マネジメントを強化するため、理事を一一十一人から三十人に増強︵予定︶。常務 理事制による常務会の発足。さらに会長および理事長の諮問機関として専門委員会を設置したこと②布教及び に出るものであった含立正佼成会史﹄第一一巻、九八頁︶。 121 立正佼成会における「根本道場」の変化について−その2

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和四○年四月二日︶。 こと③従来の一一局制を廃止して、布教、運営の各部門の合理化をはかった、ことなどである︵﹃佼成新聞﹂昭 運営についての総合計画と人事管理の適正化を図るため、企画、人事、渉外の三部からなる会長室をもうけた ついやした。 昨年の八月以来、現在までに、北関東、新潟、福島、近畿の各教会を予備的に調査し、大まかな教会活動を 122 閏 ﹁職務分掌を教団の運営面にしぼって側面から布教ライン.をたすけ﹂る、とされていた教務、総務の一一局制を廃 止して、﹁布教及び運営についての総合計画と人事管理の適正化を図るため﹂に会長室が設けられたが、同時に﹁布 教、運営の各部門の合理化をはかった﹂ことも併せて考えると、一部署の形態にする流れがあることがうかがわれ る。昭和四一一一年一月一日に設置された布教本部を本格的な﹁一機関としての根本道場﹂ととらえれば、ようやくそ れに一歩近づいた形態となっていることになる。その会長室企画部の活動を﹁佼成新聞﹂の記事で追跡していくと、 その感を強くさせられる。それは﹁教会診断﹂と題し、次のように報告されている。 さる〃四月教会布教特別研究会︵責任者、川手企画部長︶〃が国民皆信仰に向かって活動をつづける各教会を 調査し、分析することによって教会活動を側面から援助しようという目的で正式に誕生した。この研究会は、 企画部、教学部、教務部、青年部、人事部そして出版社の各本部機構が力をあわせ一つの機関をつくったもの で、教会側と協力して問題点の解決を図るものである。研究会のおもな活動は、①教会および支部の実情②一 般世間の人の本会に対する認識、態度③一般的な社会環境、の三点にわたる調査と、それに基づいて教会の問 題点を摘出し、分科会、全体会議を開いて教会長、支部長など教会の幹部と話し合い、問題点に対する一定の 解決策を導き出すことである。したがって、その資料はぼう大なものとなり、一教会の調査期間も約一ヵ月を

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つかんだ上で、一一月に北関東教会、一一一月に神奈川教会の〃診断“を完了した。ひきつづき、同研究会は、新潟 教会の〃診断“に着手している︵﹁佼成新聞﹂昭和四○年九月一一百︶。 この﹁教会布教研究会﹂は、この機構改編の前年八月から活動を﹁予備的に﹂開始して継続していることが分か る。この特集で調査分析を受けた神奈川教会の権田教会長は感想を次のように述べている。 私が神奈川教会長に就任して二年目だが、教会の姿をつかむことはできた。しかし、それはバク然とつかん だものであり、決して具体的ではなかった。気候が温暖でありそこに住む人たちがのんびりしていることは感 じていても、その人たちに、布教をすすめていく上での具体的な資料が欠けていた。また、各支部から問題が 出されてくるが、それらは断片的であり、指導をするのに資料がとぼしかった。 今回の調査によって、そうした点は明らかになったのである。調査の内容は、決して目新しいものではなか ったし、私自身も感じていたことではあったが、それらが具体的な数字や資料ではっきりと提示され、〃なぜ なのか、ではどうしたらいいのか“という点が解明された点に最も効果があったと思う。 こうした調査分析は、布教活動をすすめていく上で当然なされるべきものであろう。自分の〃力“を知らず して、ただ直進してもカベにぶちあたって悩むだけだし、布教をすすめる相手がどういう状態にあるのかを知 らなければ効果も半減するにちがいない。これからの布教活動はもっと科学的に、そしてもっと綿密な計画の もとにすすめなければならないと感じている。 こうした調査機関が本部の中に設けられ、教会と一体になって調査をすすめていくことは、誠に喜ばしいこ とである。また、それは、本部機構の各部にとっても貴重なものであろう。 教団理事の立場にもある権田教会長のこの発言は、当時の教団本部と教会の連携をどのように実現しようと考え 123 立正佼成会における「根本道場」の変化について−その2

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ていたかを推測する上で貴重なものである。ここでは、教会長として個人的な経験から布教をすすめるのではなく、 教団本部と連携をとった上で、教会の機能を充実させて綿密な計画のもとに布教をすすめることの大切さが述べら れている。それは教団本部と教会の連結の必要性を認識し、同時に教会に﹁根本道場の出張所﹂としての機能を持 たせようとする考えを根底にしていると思われる。 つづいて立った庭野会長も、この報告にふれ、﹁綿密な調査による実態をつかんだ上で、布教をすすめてい くのはこれから特に重要だろう﹂と述べられた︵﹁佼成新聞﹂昭和四○年五月一三日︶。 ここでは、﹁布教特別研究会﹂の活動が教会長会議に報告されるという形で、教団本部と密接な連携をとった上 ることを報告した。 124 ②教会長会議での報告 そしてさらに、同年五月の定例教会長会議にこの﹁布教特別研究会﹂の調査結果が発表されている。それは、 同研究会の活動はこれまで公にされていなかったが、教会単位に組織、運営、布教活動などの全般にわたり、 精密な調査を行ない問題点や今後の方向などについて教会側と討議を行ない助言を行なうものである。調査を 行なった教会は北関東教会につづいて、神奈川教会が一一番目。 権田教会長は、資料をもとに調査の経過、その中から出てきた問題、今後の方向などを具体的に説明し、﹁こ の調査をとおして支部長や主任が会員の実態を正確に掌握できた。各支部ともどこに布教上のあい路があるの かはっきりして具体的な解決策を立てる上で、非常に役立った﹂と、この調査の成果を強調した。このあと星 北関東教会長が発言し、同じく客観的に正しく事実をとらえた調査結果が、その後の教会活動に役立ちつつあ

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で調査をし、その結果、支部長や主任が会員の実態を掌握して、布教上の具体的な取り組みに非常に役立ったこと が述べられている。それにより、教会の機能を充実させて綿密な計画のもとに布教をすすめることの大切さが述べ られ、また、教団本部と教会との連結をさらに確固たるものにしようとする姿勢もうかがえる。 その後、昭和四三年一月、立正佼成会本部に﹁布教本部﹂が設置された。﹁布教及び運営についての総合計画と 鋤 人事管理の適正化を図るため、企画、人事、渉外の一二部からなる会長室﹂が設けられた後、上に見てきたような活 動を通じて一部署としての機能が集約されてきたと理解することができる。 ﹃立正佼成会史﹂は、﹁教団の総務部・経理部を事務部門とすれば、これ︵布教本部l筆者注︶は布教総合開発部 鋤 門ともいうべきものであって、教団の一一大機能が一一つの部門に明確に分けて担当される体制であった﹂と記述して いるが、﹁布教総合開発部門﹂という語自体が、今までに見てきた経過を物語るように思われる。それを本格的な ﹁一機関として設けられた根本道場﹂と考えることができる。ブロック制の実施からほぼ一○年の間にわたる、微 調整と手直しの繰り返しによって徐々に、徐々に達成された体制と言えるだろう。

四その後の変更及び状況

W支部を教会と改称したことについて a地域社会への活動に備えた改編 立正佼成会では昭和四四年一月一日に、﹁布教組織を改編し、支部を教会と改称する。国内の一七三教会を、北 次に、教団本部と教会の関係についてその後の経過を考えていく。 125 立正佼成会における「根本道場」の変化について−その2

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と、地域社会への活動淀 あるのではなかろうか。 田 海道・東北・北関東・関東・中部・関西・中国・九州の八教区にまとめる﹂という布教体制の改編が行なわれた。 この改編について、 佼成会に対する一般社会の期待に応えて、地域社会への奉仕活動を強化し、広範囲な国民皆信仰活動を進めて ゆく体制に改編したことが知られる。地域ごとに社会的活動を推進するためには、同じ活動体なら支部という より教会と称したほうがとおりがよく、教区で活動を統一するよりは教会長の自主的な判断に委ねるほうがよ く、また教会内が会員分布にかかわらず、市町村の区画に沿った編成をとっているほうがやりやすい︵﹁立正 佼成会史﹂第二巻、一六三頁︶。 地域社会への活動に備えた改編であることを示唆している。しかし、これについては次の点も見ておく必要が 126 この新体制では﹁教会﹂︵支部から改称された教会を﹁教会﹂とする。以下同じ︶の上には教区が置かれたが、 教区は事務連絡を主な目的とし、また、﹁教会﹂長の自主性のある活動を期待したので、教区長を置かなかった。 鋤 そして﹁従来、一一○人いた教会長は、新体制の﹁教会﹂長就任者一一一人をのぞいて全員本部に集結﹂されている。 先に﹁強力な教会長就任の意義﹂で教団本部の中枢を担う最高幹部が教会長に任命された目的を考えたが、それ らの人達は本部に集結されたわけである。 新しい教区は従来の教会に等しい位置付けにあるが、教区の機能はかっての教会と同じものとはなっていない。 つまり、受け皿となる機関となっていないために、﹁教会診断﹂等で見たような﹁教会布教特別研究会﹂が組織的 に積み上げてきた成果、教団本部の役員が教会長として赴任して築き上げてきた成果等は、継承されないまま終息 せざるを得ないことになっていることが分かる。

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さらに﹁支部を教会と改称する﹂と言うが、新しい﹁教会﹂はかっての教会の性格を継承するのかどうか、が説 明されていない。かっては本部の指導や方針を受けた教会が、地域の特性などを踏まえた上で教区における布教方 針などを各支部に伝え布教を推進する、という考え方であった。それを思い起こすと、支部は﹁教会﹂となること によって布教の実質的な推進部門から、地域における立正佼成会本部の﹁根本道場の出張所﹂としての機能を担う 部門へと変化していくことが命題となる。 支部がまだ教会と改称されていない時期に、教会を一号団体である教会の実態に可能な限り近づけることが、地 域別支部組織への転換の仕上げになると考えていた。しかし、この新しい体制では﹁教会﹂の上部機構は事務連絡 のための教区ではあるが、東京教会に焦点を当てて考えると、在京﹁教会﹂と東京教会と教団の﹁三段包括関係﹂ に近い状態ということができる。

b三段包括関係

C﹁教会﹂の機能について さらに教団と教会の関係について見てみよう。渡部菱氏は次のように記述している。 本法においては、宗教団体は、法二条一号の宗教団体と二号の宗教団体との二種に限られ、この両者の中間 に存する宗教団体を認めず、その結果、三段包括関係を規則中に規定することは、法の規定内容から認められ ない︵昭和一一七・七・三一宗務課長回答、昭和一一七・一○・一七文調宗一一九○︶とし、これは法律関係の 複雑化を避けたためと説明されるが、この分類は必ずしも実態に即していない︵渡部藷﹃逐条解説宗教法 人法﹄改訂版、二九頁︶。 127 立正佼成会における「根本道場」の変化について−その2

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だろうか。 新しい このような東京教会の状態は、その後、平成一○年五月二六日に宗教法人﹁立正佼成会﹂と宗教法人﹁立正佼成 会東京教会﹂との合併が、正規の手続きを経て文部大臣によって認証された。 この合併によって法人規則等と現実との誰離について是正の手が加えられたわけである。しかし、なお在京の各 ﹁教会﹂は東京教会が本部と未分化の状態であった時代の活動形態、さらに内部組織の形態を継承したままである ことは、検証の望まれる一つの課題として残されていると思われる。 ②東京教会を吸収合併する 東京教会はその後、東京教区と多摩教区に分けられたり、首都圏布教区とされたり、幾多の経過を経てきた。記 録では﹁本部道場・大聖堂を道場としてきた二四の支部・教会︵この﹁支部・教会﹂は、在京の一一四の支部と改称 倒 後の一一四の﹁教会﹂を意味する。l筆者注︶の上部組織は、一一○年の間にさまざまな変化をたどっ﹂てきたとされ 新しい﹁教会﹂の性格や機能が明らかにされていないために、教団本部がもたなければならない機能と﹁教会﹂ が担わなければならない機能との境界線が不明確な状態になっている部分もあるように見受けられる。 ている。 128 ㈹ これまでは一一一教会と本部で根本道場の機能を担っていく体制であったが、国内一七一二﹁教会﹂のすべてがそれ を担っていくとは考えられない。また、新体制に関する意識の転換や教育、人材の養成などの対応はどうであった

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3)(2 (1) ( 6 (5)(4) つ広範な意義を明確にできることを期したい。 ないだろうか。意味するところは前後の関係からお分かりいただけると思うが、さらに研讃して﹁根本道場﹂の持 わせていただいた。本稿では使用しなかったけれども、文字通り﹁本源としての根本道場﹂という考えも可能では な必要性から﹁︵教団内の︶一機関としての根本道場﹂﹁根本道場の出張所﹂﹁見える意味での根本道場﹂などと使 るとき、﹁根本道場﹂の概念をさらに細分して考えなければ説明できないようになってきた。本稿では、そのよう うえで、﹁根本道場﹂という語が極めて有意義な概念として考えられてきた。しかし、今回のまとめを行なってい 立正佼成会の﹁根本道場﹂に関する拙稿はこれで三本目になる。立正佼成会という宗教団体の組織を考えていく あとがき 立正佼成会における「根本道場」の変化について−その2 注 ﹁立正佼成会史﹂ ﹁立正佼成会史﹂ 制となっている。 宗教法人令は﹁包括﹂という語を使わず、﹁所属﹂という語を使っていた。 ﹁立正佼成会史﹂第二巻、九一頁。 ﹁立正佼成会史﹂第二巻、九四頁。これによると当初は代表支部による教区制であったが、その後切り替えられた教区 教団の責任役員と同じ人物で構成されていた。 ﹁第二道場﹂、﹁研修会館﹂と呼ばれた施設の所在地。現在の杉並教会と中野教会の事務所の所在地。 ﹁立正佼成会史﹂第二巻、三九頁。 129

(38)

前同書、第二巻、四五頁。 前同書、第一一巻、三○頁。 前同書、第二巻、四五頁。 前同書、第二巻、五二頁。 前同書、第二巻、五四頁。 前同書、第二巻、四九頁。 前同書、第二巻、四七頁。 前同書、第二巻、九四頁。 ( 8 17)⑯(15)(14)(13リ⑫(11)(lCリ ⑳⑳(21)例(19リ(18リ 9 頁 ○ 7 ) 安武敏夫一教団組織と宗埜 ﹃立正佼成会史﹂第二巻、 前同書、第二巻、九○頁。 前同書、第二巻、九四頁。 ﹁佼成﹂昭和三五年一一一月 ﹁立正佼成会史﹄第二巻、 谷口知平﹁本山・末寺と包括・被包括宗教法人寺院l本山と宗派一体化の問題についてl﹂﹁民法論﹂第四巻、四○九 ﹁佼成新聞﹂昭和三五年一一月一一五日。 ﹁佼成新聞﹂昭和三六年一月一五日。 ﹁教団組織と宗教法人制度について﹂﹁宗教法講座﹂第六号、一○頁。 会史一第二巻、九八頁。 年一一一月号、一○頁。 第二巻、四八頁。 130

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