≪目 次≫ まえがき、学習スケジュール ・・・・・・・・・・ 62 1 武蔵国の戦国時代 ・・・・・・・・・・ 63 2 松山城をめぐる主な合戦 ・・・・・・・・・・ 64 3 松山城主上田氏一族について ・・・・・・・・・・ 69 4 松山城合戦に登場する人物 ・・・・・・・・・・ 70 5 関連する一族の系図 ・・・・・・・・・・ 71 6 松山城関連年表 ・・・・・・・・・・ 72 7 松山城の縄張り ( 国指定史跡) ・・・・・・・・・ 73 8 松山城にまつわる伝説と伝承 ・・・・・・・・・・ 73 9 松山城攻防戦に関する小説・軍記を読んで ・・・・ 75 10 松山城関連の史跡を訪ねて ・・・・・・・・・・ 77 11 戦国時代の背景と暮らし ・・・・・・・・・・ 79 あとがき、参考・引用文献 ・・・・・・・・・・ 80
武 州
松山城の戦国攻防史
第 25 期 ふるさと伝承科 A班
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伊 豆 田 純 也 星 啓 作 長 谷 部 紀 久 細 野 春 男 小 島 賢 一 利 根 川 宏 小 山 尚 代 井 上 直 光 佐 藤 恭 子 大 瀧 喩 西 村 千 代 子 高 橋 悦 子 新 井 正 昭 加 地 修 東 秩 父 村 浄 連 寺 に て―まえがき― 「ふるさと伝承科A 班」は、課題学習のテーマ選定に当たり次のことを基本とした。
・ふるさと伝承科にふさわしい ・埼玉県内を対象 ・全員が楽しく参加できる ・各自テーマを提案する 上記の考え方に基き、話し合いを行い「武州松山城の戦国攻防史」をテーマとして選定 し、各種勢力の狭間で繰り返された松山城の争奪・攻防戦を中心として、比企・武蔵の 戦国史をいろいろな角度から学習することにした。 松山城の攻防は、次の3段階に分けることが出来る。 1 埼玉県の中央部に位置する比企地方は、鎌倉幕府の成立を支えた比企氏、畠山氏等の 出身地であるが、この段階は松山城成立以前の出来事である。その後室町幕府の崩壊で 迎えた戦国時代には、河越城(扇谷上杉 )、 鉢形城 ( 山内上杉 ) を拠点とする扇谷上杉 氏と山内上杉氏による第1次騒乱があり、戦国期に入るとさらに岩付城(太田)を拠点 とする有力大名の狭間に位置する松山城は争奪戦の中心となった。 2 小田原を拠点とする新勢力の後北条氏が北関東へ勢力を拡大し、熾烈な戦いと政治的 駆け引きにより、旧勢力から松山城を奪った。その後も旧勢力を引き継いだ上杉謙信・ 岩付太田連合の巻き返しと、後北条・武田信玄連合が争奪戦を繰り広げた。その後、後 北条側が優勢となり上田氏が城を守って、束の間平和が訪れたかに見えた。 3 しかし天正18年( 1578 )、 秀吉は全国統一の総仕上げとして関東地方を統一し、 松山城も後北条氏から豊臣氏さらに徳川氏へと主が代わり、徳川幕府の成立後、慶長6 年(1601)に廃城となった。 以上の段階を追いながら、松山城の戦国攻防戦に焦点を絞って学習したことにより、 (1) なぜ全国的に戦国時代に突入して行ったか? (2) 戦国の世の戦いと終戦処理方法 (3) 一族を永続させる為の知恵・方策 (4) 戦乱に巻き込まれた庶民の苦しみや生活 等を垣間見られたこと (P79 参照 ) は、望外の喜びである。 課題学習スケジュール 月日 午前 午後 1 01/14(木) A,B班の構成メンバー決定 2 01/21(木) A班の役割決定(正副リーダ、書記、編集担当) 3 01/28(木) 事務局へ班の構成メンバー提出、テーマ提案書の配布と提出期限2/4 4 02/04(木) 課題学習の進め方の話し合いと各自の提案テーマ集約 5 02/18(木) 課題学習設定会議Ⅰ (テーマ一覧表配布と話し会い) 6 02/25(木) 課題学習設定会議Ⅱ (テーマ決定(松山城の戦国攻防史)と調査日程決定) 7 03/04(木) テーマと指導講師を事務局へ提出 8 03/11(木) 終業式 クラス別ホームルーム 9 04/08(木) 始業式 新井さんの説明 10 04/15(木) 11 04/22(木) 原稿 ページの説明 12 05/06(木) 13 05/20(木) 14 05/29(土) 清正公神社 養竹院 金剛寺 東明寺を見学 15 06/03(木) 16 06/17(木) 17 07/01(木) 19 07/22(木) 20 09/09(木) 2年生対象発表会 21 09/15(水) 1年生対象発表会 自主活動 (内容検討・原稿校正) 自主活動 (原稿校正・最終チェック) 原稿提出 自主活動(3グループの役割分担と班員の所属決定) 自主活動 (第1次原稿集約) 自主活動 (第2次原稿集約と読み合わせ校正) 自主活動(新井、加地さんの説明、午後:松山城跡見学(太田学芸員の説明)、妙賢寺見学) 自主活動(東秩父・浄蓮寺見学)、午後(嵐山史跡博物館の栗岡学芸員の説明)
武蔵国の戦国時代 15世紀以降の武蔵国は、室町幕府の関東支配の要である鎌倉府と、本来は鎌倉公方を 補佐する立場の関東管領上杉氏との間で確執が始まった。やがて鎌倉公方は堀越公方と古 河公方に、上杉氏は関東管領職をめぐって山内上杉氏と扇谷上杉氏に分裂していった。そ のためさまざまな戦いが武蔵国で繰り広げられていくことになる。以下、武蔵国において 繰り広げられた主な合戦について述べる。 15世紀後半の関東の情勢 後北条氏の領国拡大図 (1)永享の乱 永享10年( 1438 )~永享11年( 1439 ) 将軍義教と鎌倉公方足利持氏の対立が足利家の内紛から始まった。それは同時に、関東 分国一円化を目指す足利持氏と独自の守護領国支配を行う関東管領山内憲実における争い が絡み、鎌倉公方対幕府・山内上杉氏が武蔵国を舞台に争うこととなった。永享の乱によ って、鎌倉公方である足利持氏側が敗北する。その後も持氏の遺子である成氏を援護する 公方側と山内上杉氏との間で、結城合戦(嘉吉元年、 1441 )が起きるが、再度公方側が 敗北する。そのため、次第に鎌倉府(公方)は形骸化していき、代わりに公方補佐役の関 東管領家が台頭することになる。 (2)享徳の大乱 享徳3年( 1454 )~文明14年( 1482 ) 永享の乱後、足利成氏による公方復権運動が起こり、一度は鎌倉府の再建をみる。しか し、足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺するという事態を引き起こしたことから、成氏は 鎌倉を追われ古河に逃げる ( 康正元年、 1455) 。成氏が古河に住んだので古河公方と呼ば れるようになった。その後、山内・扇谷上杉氏と古河公方の間で戦いが続く。この戦いを 「 図 解 日 本 史 」 よ り 「 武 蔵 武 士 と 戦 国 時 代 」 よ り
享徳の大乱と言う。 享徳の大乱は関東管領家が幕府に援軍を求め、幕府側もこれに呼応した。そして、両上 杉氏は武蔵国内に前線基地を築き、各地で古河公方との間で戦いが繰り広げられる。その 間に山内上杉氏の内部で執事職の跡継ぎをめぐって長尾景春の乱(文明8年、 1476 ~文 明12年、 1480 )が起きる。 文明14年( 1482 )に古河公方は、幕府側に和睦を申し入れ30余年の長きにわたっ た享徳の大乱はようやく終止符を打つことになる。 (3)長享年中の大乱 長享元年( 1487 )~永正2年( 1505 ) 文明18年( 1486 )、 長尾景春の乱の鎮圧や幕府と古河公方との和睦に尽力した太田 道灌が、主君である扇谷定正によって誅殺される事件が起きる。太田道灌は扇谷上杉氏の 家宰として両上杉氏を束ねる要であった。その要が外れたために両上杉の対立が続き、長 享年中の大乱と呼ばれる抗争が始まる。 長享年中の大乱は長享元年( 1487 )の下野勧農城(足利市)の攻防に端を発し、翌年 には須賀谷原(嵐山町)や高見原(小川町高見)において大規模な合戦が行われた。中で も須賀谷原合戦は、「両上杉戦死者700余、馬亦数百疋」(松蔭私語)と記されている ように凄まじい戦いであった。 15世紀後半に入っても両上杉家の戦いは治まらなかった。当初は扇谷上杉氏が優位で あったが、明応3年( 1494 )に扇谷上杉定正が急死すると、次第に山内上杉方が有利に なっていった。扇谷上杉氏は和議を申し入れ、山内上杉氏方の勝利でこの大乱は終わりを 告げる。このように15世紀後半から16世紀初めにかけて、武蔵国では山内上杉氏と扇 谷上杉氏との対立に、古河公方が絡む形で戦いが繰り広げられていった。 この時代の武蔵国は、北の山内上杉氏や南の扇谷上杉氏に加えて、東の古河公方という 3つの勢力に分けることができる。 長享年中の大乱の後、しばらく平穏な時代になるが長くは続かずに、再び両上杉氏と古 河公方との間で紛争が続いた。そして、北条早雲がこの間隙を縫いながら扇谷上杉氏との 同盟を破棄して相模国に侵攻する。また、早雲の子である氏綱の時代になると、氏綱は江 戸城や河越城などを攻略し武蔵国に勢力を拡大していった。 2 松山城をめぐる主な合戦 松山城をめぐる合戦は、大きく2つに分けることができる。天文6年( 1537 )~天文 16年( 1547 )までは後北条氏が武蔵国に進出するために起こる合戦で、永禄3年 ( 1560 )~永禄6年( 1563 )は、後北条氏の支配が完成する合戦であると言える。 天文15年( 1546 )の河越夜戦によって、後北条氏は両上杉氏・足利晴氏軍に勝利し、 山内上杉氏方の北武蔵における拠点だった松山城も後北条氏の支配下に入った。 松山城は、南北に小田原・鎌倉と上州を結ぶ鎌倉街道上道沿いにあるので、後北条氏が 上野国や武蔵国を制圧するのに大変重要な城であった。一方、岩付城主太田氏にとっては、 後北条氏の進出を阻止する楔を打ち込むためにも、松山城は欠かせない重要な拠点であっ
た。そのため、松山城をめぐってその後、北条氏康と太田資正との間で激しい攻防が繰り 広げられることになる。以下に松山城に関連する主な合戦について述べる。 (1)松山城風流歌合戦 北条氏綱(早雲の子)は大永4年( 1524 )には江戸城を、天文6年( 1537 )には河 越城を奪い、その勢いをもって松山城に迫った。その当時の松山城主は扇谷上杉朝定の家 臣の上田政広、城代は難波田弾正であった。後北条氏が攻めてきたので、弾正は家来を引 き連れ城を出てよく戦ったが、敵が多勢のため城に引き返そうと敵に背を向けたところ、 後北条氏側の侍大将である山中主膳が走り寄ってきた。そして 「あしからじよかれとてこそたたかはめなど難波田のくづれ行くらん」 と問いかけてきた。難波田弾正はそれを聞いて、駒を止めると振り向いて 「君をおきてあだし心を我もたばすえの松山波もこえなん」 と答え、ゆうゆうと駒をひき返し城中に帰って行った。 この歌の意味は、山中大膳が勝ちに乗じて、「難波田弾正ほどの人が、なぜこの位の戦 いで逃げるのですか 。」 と問いかけたのに対し、難波田弾正は、「私には上杉朝定という 若い主君がいるのに、ここで無駄に戦死したならあなたの軍勢により松山城は落城するで しょう。だから、私は主君のために生きながらえて松山城を守るのです 。」 と答えたので ある。この歌は「拾遺集」と「古今集」にある歌をもじったものだが、戦いの最中に歌を もって問答したことを考えると、二人とも教養もあり風雅な武人であったことが窺える。 この合戦は、その後「松山城風流歌合戦」と言われて有名になった。この戦いは非常に激 戦であったが、松山城は落城しなかった。後北条氏側はついにあきらめて城下に火を放っ て引き返した。
(2)河越夜戦 天文14年( 1545 )~天文15年( 1546 ) 氏綱は、若い上杉朝定が城主になったばかりの河越城を攻撃し、これを奪い天文6年 ( 1537 )、 娘婿の北条綱成に守らせた。松山城に逃げていた上杉朝定は氏綱の死をきっ かけに河越城を取り戻す戦いを仕掛けることになる。 上杉朝定は山内上杉氏や古河公方に応援を頼み河越城奪回を計るため、天文14年 ( 1545 )9月河越城を取り囲んだ。守る河越城側は北条綱成率いる3千人に対して、攻 める両上杉氏・古河公方連合軍側は8万の大軍であり、軍事的には圧倒的に優勢であった。 戦いは天文14年9月26日に始まった。後北条軍は籠城してよく数ヶ月持ちこたえた。 落城寸前のところで小田原から氏康軍8千人が駆けつけた。翌年の天文15年4月20日 に包囲していた連合軍を夜戦で撃破し、後北条軍の大勝利でこの戦いは終わった。この戦 いは河越夜戦と言われ、戦国時代の三大奇襲戦(桶狭間の戦い、厳島の戦い)の一つに数 えられている。この戦いによって扇谷上杉氏の当主上杉朝定は死亡する。山内上杉氏の当 主である上杉憲政は、平井城(藤岡市)に逃げ、その後越後の長尾景虎を頼る。そして上 杉の名跡と関東管領の職を長尾氏に譲ることになる。一方、古河公方足利晴氏は後北条氏 によって隠居させられる。河越夜戦の後、後北条軍はその勢いで松山城も攻め落とした。 ここに室町幕府の古河公方や関東管領の旧勢力は一掃され、後北条氏が関東における覇 権を確立することになる。その後、武蔵国は武田信玄や上杉謙信ら新興勢力との争いに巻 き込まれていく。 (3)太田資正と北条氏康との戦い 天文15年( 1546 )~永禄6年( 1563 ) 河越夜戦後、関東管領上杉氏は急激に衰え、後北条氏の力が強くなっていった。しかし、 岩付城主太田資正は後北条氏に対して徹底的に対抗していたので、太田氏と後北条氏の戦 河越夜戦合戦図 「 日 本 の 合 戦 」 よ り 「 日 本 の 合 戦 」 よ り
いが松山城をめぐってしばらくの間続くことになる。永禄4年( 1561 )に太田資正は松 山城を攻略して、上杉憲勝を城主に置いた。上杉謙信が関東から引き上げたこの年の12 月には、後北条軍は大軍でもって松山城を攻めたが城は落ちなかった。その後、永禄5年 ( 1562 )に氏康は上杉氏と争っていた武田と連合して松山城を再び包囲し、翌年の2月 にかけて両者の間で激しい攻防戦が続く。後北条氏側は武田勢と併せて5万6千余の軍勢 で、十重二十重に松山城を攻め立てたが、松山城の守りは固く中々城は落ちなかった。こ うした状況の中で、松山城主上杉憲勝は岩付城主太田資正に援軍を頼もうとしたが、後北 条方の軍勢のために使者を出すことが出来なかった。そこで、日頃から飼い馴らしていた 犬の首に手紙をつけて岩付城まで運ばせた。これが、軍用犬の起こりだと言われている。 当時の松山城の縄張りを見ると、城を守るための工夫が随所に見受けられる。城が中々 落ちなかったので、後北条勢は、信玄が連れてきた金堀衆を使って城の下に地下道を掘っ て城の飲料水を絶つ作戦にでた。その結果、城の飲料水を絶つことに成功し松山城は落城 する。一方、上杉謙信は松山城の援護のために越後から石戸の渡(北本市)まで来たが、 城は降伏した後で結局決戦に間に合わなかったので、引き上げざるを得なかった。 北条氏康と太田資正による永禄5年( 1552 )の松山城の攻防戦について、岩殿山の中 興一世とされる僧栄俊が、法灯や秘伝を師から弟子に伝える証しとして授けた「血脈」の 裏に記した文書が残っている。その中にその当時の合戦の様子が生々しく書かれている。 (4)松山城の最後の攻防戦 天文18年( 1590 ) 永禄6年( 1563 )の太田資正と北条氏康との戦いは、後北条氏側が勝利を治めて松山 城は後北条氏の支城になった。氏康は、以前のように上田朝直を城主にして城を守らせた。 その後は上田一族が松山城を支配していく。しかし、天正18年( 1590 )豊臣秀吉が 今まで西日本に向けていた目を東に向け、後北条氏に対して討伐軍を発した。松山城、鉢 形城や河越城は後北条氏の支城であったので、この戦いに巻き込まれることになる。 討伐軍は、東海道と東山道の両道から後北条氏の本城である小田原に向かった。東山道 方面の総大将は前田利家で、他に真田昌幸軍や上杉景勝軍も加わり、総勢3万3千余人で あった。一方、松山城主上田能登守朝広は小田原城に加勢していて留守であった。守る松 山城側は、山田伊賀守(城代)や難波田因幡守(大将)など200余、雑兵2300余人 「 後 北 条 氏 の 城 」 よ り
であった。松山軍勢は城を守ってよく戦ったが、寄せ手の大軍にはかなわず4月に開城し た(諸説ある )。 その後、岩付城(5月 )、 河越城(5月 )、 鉢形城(6月)も相次いで 落城し、後北条氏の本城である小田原城も7月に落ちた。 天正18年の「松山庚寅合戦図」によると、当時は、三の曲輪の東北側に、寝古屋曲輪、 外曲輪や北曲輪等が存在していたが、廃城後に開発が進み現在はその曲輪の面影はない。 現在の吉見町根古谷地区は、その当時の城下町で武士達が住んでいたところと言われてい るが、現在は地名だけが残っている。当時市野川は吉見百穴の付近まで大きく蛇行してい たが、現在の「大沼」に至る北東方面は湿地帯であったことを考えると、松山城は守るの に大変適した機能を有する城であったことが、その縄張りから窺える。 松山城は落城し、後北条氏や松山城主上田氏も滅亡した。その後、徳川の世となり松平 内膳正広が一万石を領し城主として居住するが、慶長6年( 1601 )に松平家が浜松城に 移封されて松山城は廃城になる。松山城に籠城した武士達の多くは帰農したり、徳川家の 旗本となっていった。 いずれにしても、松山城は、築城以来慶長6年の廃城に至るまで城の攻防が非常に明ら かな県内でも由緒ある城跡の一つであり、一度は訪れる価値があると考える。 3 松山城主上田一族について 松 山 庚 寅 合 戦 図 ( 写 ) 秀 吉 の 関 東 攻 略 図 「 武 州 松 山 城 」 よ り 「 武 蔵 武 士 と 戦 国 時 代 」 よ り
(1)上田氏の登場:松山城主の上田氏は、その出自は源姓を名乗っているが経歴は詳ら かではない。 永徳2年(1382) に上田源蔵人親忠が、鎌倉五山の一つである名刹円覚寺の、 有力な後援者でかつ大般若経の施主として突如、関東中世史上に登場する。「鎌倉大草 紙」には、応永23年(1416)「10月 6 日」 (12 月 6 日説もあり ) に、上田上野介が鎌倉 六本松で戦死(禅秀の乱)し、一族4人も討死したという記録がある。現在ではこの記録 は誤りとする説が有力であるが、これが、文献に上田氏が現れる最初である。以後、関東 管領上杉氏の重臣として再登場して以来、相模・武蔵を舞台に、江戸初期の寛永10年 (1633) に上田善次郎(法名日忠)が没する迄の約250年間、室町・戦国の動乱時代を通 じて命脈を保ち続けたのである。上田氏は鎌倉を本拠とする関東日蓮宗の有力な信者であ り、清正公神社境内の大題目板碑、浄蓮寺に祀られた3基の法篋印塔や墓石等、上田氏に 関連のある比企地方の史跡から、上田氏と日蓮宗の深い関係が窺える。 松山城が存在する要衝の地であった比企地方は、応安元年(1368) に起った「平一揆の 乱」で秩父平氏一族が没落した為に支配形態が変わり、扇谷上杉氏の北進と共に比企西部 に上田氏が進出して根を下ろしたと考えられる。文明6 年 (1474) に「上田上野介在郷の 地」の記述から、比企郡小川に本拠を置く上田氏の存在が知られ、後に後北条氏に「大河 原谷・西之入筋案独斎於知行」「松山は上田氏の本地本願」と言わしめた。上杉謙信の要 求にも応じなかった背景には、こうした事実に基づくものと考えられている。 (2)両上杉氏と上田氏の関係:松山城主上田氏が歴史上に明確に現れるのは、15世紀か ら16世紀初頭の比企地方である。扇谷上杉・山内上杉氏の対立と両上杉の疲弊に乗じた後 北条氏の攻勢は、関東各地を戦乱に巻き込み、比企・松山城・河越城も例外ではなく、常 に戦闘の最前線として幾多の合戦があり多数の戦死者が出たが、上田氏一族では、須賀谷 原合戦で上田中務丞が討死にした。天文15年 (1546) 後北条軍は河越城の救援の為、両上 杉・古河公方軍を急襲すると連合軍は総崩れとなり、扇谷上杉朝定と重臣の難波田弾正父 子は討死し、上田小三郎(法名蓮順)・上田某(法名行宗)等が戦死した。 この河越夜戦を境にして、比企・松山地方は扇谷上杉の時代から後北条の時代に入るが 平和が訪れた訳ではなく、太田三楽斎資正と北条氏康の間で、永禄6年(1563)春に至る まで松山城の争奪戦が繰り返された。河越夜戦から4か月ほど経った天文15年 8 月末に太 田資正が松山城に夜襲をかけ、城代垪和氏を破って松山城を奪回し城主となったが、兄の 資時が急死した為、急遽跡を継いで岩付城主となり、松山城には扇谷の血を引く上杉憲勝 を城主とし、城代に上田闇礫斎朝直を置いた。 (3)後北条時代以後の上田氏:ところが、後北条氏は上田氏を裏切らせて再び松山城を 奪い返し、上杉憲勝を追放して上田氏を城主とした。その後、越相同盟により武蔵の後北 条氏支配が公式に定まり、上田氏は松山城主としての地位が確立し、以後、天正18年 (1590)の秀吉軍の攻撃により、松山城が落城して後北条氏と共に滅びるまで、上田氏3 代の44年間が平和の時代であったと言える。戦国時代の終わりの天正 2 ~17年の16年間は 比企・松山地方にとっては常に戦国の最前線という過酷な役割から解放され、この間、城 主上田氏の歴史は案独斎に始まり長則から憲定へ3代を重ねたが、最後の城主憲定の消息 は不明である。
4 松山城合戦に登場する人物 ・上杉朝定 ( うえすぎ ともさだ) 武蔵の戦国大名。扇谷上杉家の最後の当主。 大永5年( 1525 )上杉朝興の子として生まれる。天文6年( 1537 ) 4 月に父が死去 したため、家督を継いで当主となる。ところが若年の朝定が家督相続したのを好機と見た 北条氏綱に河越城を攻められ、朝定は敗走して以後は松山城を居城とした。天文10年 ( 1541 )、長年抗争していた宿敵・山内上杉家の上杉憲政と和睦し、北条氏康に対抗す る。天文14年( 1545 )に河越城を攻めるが、翌、天文15年北条氏康の奇襲に遭い、 河越の戦い(いわゆる河越夜戦)で当主朝定は討死(享年 22 歳)し、扇谷上杉家は断絶 した。
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太田資正(おおた すけまさ) 後北条氏の支配に抗した岩付城の武将。 扇谷上杉朝定に従い、後北条氏と抗争する。天文15年( 1546 )の河越夜戦で大敗す るが、同17年岩付城主となる。その後、北条氏康から松山城を奪取し、松山城主に上杉 憲勝(上杉氏の縁者で七澤憲勝)を置く。しかし、永禄6年( 1563 )に奪い返された。 その後も松山城を巡って攻防が繰り返された。( 1522 ~ 1591 年、享年 70 歳)・
上杉憲勝(うえすぎ のりかつ) ( 七澤七郎 ) 太田資正から指名された松山城主。 「天文15年( 1546 )8月28日岩付城主太田資正は、上杉氏の縁者七澤七郎を上杉 憲勝と名乗らせて松山城主とした。しかし、城代にした上田闇礫斎の裏切りにより、後北 条氏に松山城を再度明け渡した。この功により上田氏は、後北条氏から従前の領地を殆ど 安堵された松山城主になる」とある (『 武蔵松山城主・上田氏』(梅澤太久夫著:P59))。 資 料 ① 「 東 松 山 市 史 ・ 資 料 2 太 田 資 正 書 状 : 前 略 扇 谷 官 領 之 舎 弟 七 澤 七 郎 、 奥 州 に 流 牢 候 を 尋 出 引 取 、 彼 七 郎 を 取 立 、 岩 付 よ り よ き 者 弐 百 騎 付 、 松 山 之 城 主 に 仕 候 処 ---- 後 略 。 資 料 ② 謙 信 伝P334 に も 七 澤 と し て 登 場 す る 。・
北条氏康(ほうじょう うじやす) 戦国時代の武将。相模の戦国大名。 後北条3代目の当主で、関東から山内、扇谷両上杉家を追放するなど外征に実績を残す と共に、民政制度を充実させるなど政治的手腕も発揮している。天文6年(1537)氏康はま だ若い上杉朝定が城主となった河越城を攻撃し、これを奪って自分の城とした。その後、 天文15年( 1546 )~永禄6年(1563)にかけて、松山城をめぐって岩付城太田資正と北 条氏康の間でめまぐるしい攻防が展開されるが、結果的に松山城は後北条氏の支城となり、 扇谷上杉から寝返った上田氏を城主とする。 (1515 ~ 1571 年、享年 57 歳 ) ・上田朝直(うえだ ともなお) 後北条氏に仕えた武将。武蔵国松山城主。 上田氏は、元々河越夜戦 ( 天文 15 年,1546)で滅亡した扇谷上杉氏の重臣であったが、 その後太田資正が松山城を奪い取ったさい、急遽資正が岩付城主になるに当たって、上田 朝直を松山城の城代とした。しかし朝直は、資正の不在を衝いて北条氏康に内応し、松山 城攻略に貢献して松山城主となった。戦記などでは、朝直は裏切り者として暗いイメージ があるが、朝直は戦国武将の常として、本領と一族の安寧を守る強い意志の持主であった と考えられる。その一つに松山城攻防戦が一段落した後、これまでの合戦の犠牲者を慰霊 する供養塔を清正公神社境内(東松山)に建立している。なお、上田氏の墓所は東秩父村 の浄蓮寺にあるが、埼玉県の史跡に指定されている。(1516? ~ 1582 年)5
関連する一族の系図 景勝 朝興 朝定 宅間 重能 犬懸 憲藤 ● 能憲 ● 能孝 持朝 憲房 政真 定正 朝良 ● 朝宗 ● 氏憲 憲方 憲定 氏定 持定 房能 清方 ● 朝房 越後 憲栄 房方 朝方 房定 頼成 清子 加賀局 扇谷 重顕 朝定 頼重 重房 憲房 ●山内 憲顕 憲国 憲景 憲長 ● 憲政 ● 輝虎 房憲 憲清 憲賢 憲盛 定昌 庁鼻和 憲英 憲光 憲信 氏憲 ● 顕実 ● 憲房 ● 憲寛 ●山内 憲春 ● 憲実 ● 房顕 ● 憲忠 ● 顕定 上杉氏略系図 ●関東管領就任者 ●山内 憲方 ● 憲定 ● 憲基 1 5 4 6 年 武蔵 に進攻した北條 氏康との河越夜線 戦 に敗北し平井 城へ逃れた。 更に越後守護代長尾景虎( 輝虎 ) ( 上杉 謙信 ) を 頼 り、 関 東管領職 と上杉の名跡を景虎に 譲 った。 太田道灌の殿様であったが、山内 上杉氏の讒言に乗り道灌を謀殺。 14 9 4 年 山 -上 杉 憲 定 と 戦 い 荒 川 で落馬し急死。 1 4 5 4 年 鎌 倉 公 方 -足 利 成 氏 に謀殺される 越後上杉から養子で入る。 扇 -定 正 や 長 尾 為 景 と 戦 い 1 5 1 0 年 越 後 で 敗 死 足利貞氏に嫁し、尊氏を 生んでから足利氏に重用 される。 本来の拠点河越城を北條氏に追 われ、一時松山城に退く、念願 の河越城奪回を試みたが河越夜 戦で戦死、これにより扇-上杉 家 滅 亡 ( 享 年 2 2 ) 後の 謙信 秀吉の北條勢圧軍とし て、松山城に現れる。後 に米沢藩主 ◎ ● ● ◆ ◆ ● ● ● ◆ ● ◆ 現在の当主 18代 資暁 ● ▲ ◆ ◆ 資勝 道灌 太田氏略系図 ● ● ● 道真 資房 資清 資長 資康 資家 資頼 道可 岩付太田氏 資宗 法名全鑑 資正 資時 江戸太田氏 資高 資武 景資 潮田資忠 資綱 氏資 梶原政景 寿能城主 氏房 北条氏政の子 康資 三楽斎道誉 道也 道真の子で家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活 躍した 江戸城を築城した武将として有名 太田氏は清和源氏の一家系で室町時 代の武将摂津源氏の流れを汲み 扇谷上杉氏の家宰の家柄である 記号:●扇谷上杉氏に属す ◎山内上杉氏に属す ◆後北条氏に属す ▲上杉謙信に属す 扇谷上杉朝定に従い北条氏と抗争 天文15年河越夜戦で大敗 天文17年岩付城主となる 永徳4年(1561)に長尾景虎が関東へ 出陣の際先陣を務め北条氏より松山城奪還 するが永徳6年に奪い返される松
山
城
主
上
田
氏
系
図
梅澤太久夫2006年「武蔵松山城主・上田氏」 第3 4 図を参考に作成 ①~④は松山城主 法名連忠 左衛門尉 法名連順 法名連調 賢調 法名連聖 法名連好 能登守、 案独斎 法名宗調 善次郎 最初は扇谷上杉方に属していたが、河越夜戦で扇谷上杉氏が滅亡した後、 後北条方に転じ、領地を安堵された (政盛) 蔵人入道 政方 蔵人 小三郎 左衛門 ③長則 蔵人左 連久 (法 名 ) ①又次郎 政広 ②朝直 左近太夫 ④憲定 上野介 日円 善次郎 法名日上 法名日忠 天 文 1 6 年 ( 1 5 4 7 ) 松山合戦で後北条氏 に内応 天 文 1 5 年 ( 1 5 4 6 ) 河越夜戦で討死 永 正 7 年 ( 1 5 1 0 ) 権現山で蜂起 (戦 国 大 名 の 先 駆 け ) 今川氏室 太田資高室後北条氏略系図
● 早雲 長綱 (幻庵) ● 氏直 氏邦 氏房 ● 氏康 為昌 氏照 女 ● 氏綱 女 吉良頼康室 (高源院) 足利晴氏室 (芳春院) 綱成 女 女(長称院) 女 (早川殿) ● 氏政 氏規 氏盛 氏秀 北条氏繁室 女(尾崎殿) 千葉親胤室 太田氏資室 女 小田原北条氏をなぜ後北条氏と呼んだか、鎌倉時代の北条 氏とは全く出自が異なり伊勢氏の流れをくんでいる為、近 年の歴史学者が区別するため名付けた。 伊勢新九朗 号を早雲庵 宗瑞と称し た。 早雲は北条 姓を称して いない。 生年は永享 4年(14 32) 永世16年 始めて北条姓を名のる 上杉謙信の養子(影 虎)となり、謙信亡き 後、家督争いに敗れ自 害した。 先のNHKの大河ドラマ 『天・地・人』にも登場 幕府から任命された以前の守護 大名と異なり、自力で領国の集 権化を進め、強力な支配体制を 確立した戦国大名の先駆け。 特に後北条氏は歴代、年貢の取 り立てを緩くする等、農民の為 を考えた政治を行い、周囲の人 望が厚かった。 天 正 1 8 年 秀 吉 の北條征伐に より敗死 氏直、氏規は高野山 へ追放、後に許され て河内に知行地が与 えられた 。 ●印は小田原北条氏の当主を示す。 氏盛は関が原で功を上げ、 江戸時代も生き続けた。6 松山城関連年表
時 代 松 山 城 攻 防 陣 営 西 暦 年 号 年 月 / 日 松 山 城 主 山 内 上 杉 扇 谷 上 杉 後 北 条 岩 付 太 田 徳 川 松山城に関する情報 及び周辺地域に関する情報 1394~1428 応永年間 築城年は不明 1416 応永 23 上田上野介? 松山城主上田上野介討死-鎌倉六本松の合戦--これは誤り 1454 享徳 3 鎌倉公方足利成氏、関東管領山内上杉憲忠を殺害 1455 享徳 4 1/21 鎌倉公方足利利成氏、関東管嶺上杉氏らと分倍河原で戦う。 上杉氏大敗(享徳の乱) 以後、足利氏は古河に入城し、古河公方と呼ばれる(3/3) 1457 長禄 1 4 古河公方に対抗する為、太田道灌(扇谷上杉の家宰)江戸城 を築く、この頃、上杉持朝河越城を築く 1471 文明 3 上杉方は 古河城を攻撃、しかし翌年は古河城を奪われる 1476 文明 8 大田道灌が駿河国守護今川氏の内紛調停のため数ヶ月武蔵野 国を離れる間に情勢が大きく変化した 1477 文明 9 3/18 太田道灌(扇谷上杉の家宰)、長尾景春と戦い、上田上野介 や松山衆に河越城を守らせる。長尾景春(山内上杉の家宰白 井長尾景信の子であるが)相続に不満を持ち、山内上杉への 叛意に変わっていった 1480 文明 12 長尾景春は児玉で蜂起。道灌は塚田、定正は大谷(東松山 市)に出陣した。景春は龍穏寺(越生)で太田道真(道灌の 父)に敗れる 1482 文明 14 古河公方と室町幕府の和議が成立し、30年近く続いた享徳 の乱は終結。太田道灌の働きで扇谷上杉は勢力を拡大。山内 上杉は危機感を持つ 1486 文明 16 扇谷上杉定正、太田道灌誅殺。嫡男資康は山内上杉につい た。 1488 長享 2 山内・扇谷上杉氏、松山で合戦(詳細不明)。山内上杉は越 後国守上杉房定と連合し、扇谷上杉は古河公方足利利政と連 携した。 6/8 扇谷上杉定正、須賀谷原で山内上杉顕定を破る 6/18 須賀谷原合戦(700名戦死)。関東諸将山内上杉顕定に属す 1494 明応 3 扇谷上杉定正は北条早雲を味方に引き込み、山内上杉顕定は古河公方足利利政と結んだ。 1524 大永 4 1/14 北条氏綱が江戸城を攻略し、扇谷上杉朝興は河越城から松山城に移る 1537 天文 6 7/16 扇谷上杉朝定、北条氏綱に破れ、河越城から松山城に逃れる 天文 6 7/20 難波田弾正 後北条勢の松山城攻撃。城主難波田弾正(善銀) 1546 天文 15 4/20 上田朝直 滅亡 両上杉氏・古河公方、北条綱成を守将とする河越城を攻める が敗れる。扇谷上杉朝定没(扇谷上杉氏滅亡)、松山城主難 波田弾正敗死「河越夜戦」 8/28 上杉憲勝 岩付城主太田資正、松山城攻略。上杉憲勝を城主に置く 1546以降 天文 16 上田朝直 上田氏を城主とする松山城は後北条氏配下の城として、上杉 氏との争奪戦の真只中にあつたが小倉城が形成され、後北条 氏の重臣で江戸城代の遠山氏が城主となり、上田氏を監視 1560 永禄 3 この頃、太田資正、松山城を占領 1561 永禄 4 9 上杉憲勝上田朝直 岩付城主太田資正、松山城攻略。上杉憲勝を城主に置く。資正が比企政員へ感状 10/5 武田信玄、北条氏康に応じて松山城を攻める。近衛前久、上杉政虎に松山城の危急を告げ関東出陣を促す。 1562 永禄 5 3 上杉憲勝 和 睦 上田朝直 上杉憲勝、和睦により松山城を退去する。北条氏康・氏政、 上田朝直に城を守らせる。 5 10 上杉輝虎(謙信)、松山城を攻める。 11/11 上杉憲勝 北条氏康・武田信玄、松山城を攻める。城主上杉憲勝防戦す。 1563 永禄 6 2/4 上杉憲勝 落 城 上田朝直 後 北 条 松山城、後北条・武田軍により落城。上杉憲勝城を明渡し、 北条氏康、上田朝直に元の如く城を守らせる。 後北条が完全に支配下に治めた 1569 永禄 12 4/23 上杉輝虎(謙信)、後北条氏へ越相一和の条件として、松山城 の引渡しを求める 4/24 上田朝直 北条氏康・氏政、上杉輝虎(謙信)に松山は上田の本領であるとの書状を送る 1571 元亀 2 6/10 後北条家、松山本郷町人に市の掟を発給する 1574 天正 2 11/20 上杉謙信、松山城下など焼き払う 1576 天正 4 9/24 上田長則 城主上田長則、松山本郷町人に町定を発給する 1582 天正 10 8/16 上田長則 城主上田長則、松山本郷町人衆に荷留を命じる 1590 天正 18 3 豊臣秀吉、後北条氏攻めのために京を発し、小田原へ向う 1590 天正 18 4 後北条氏、松山城は太田氏房に属し、岩付城と合せて1500騎 の兵力とされる。 1590 天正 18 4~5 上田憲定 落 城 松平家広 豊臣秀吉の関東攻略の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢に よって松山城落城。徳川家康、関東に移封。松平家広、松山 城に1万石で入封 '5/20岩付城、6/23八王子城、7/6小田原城、7/16忍城落城 1601 慶長 6 徳川忠頼 廃 城 徳川家広の弟忠頼、5万石にて浜松城主転封。松山城廃城 城を支配した氏族 徳 川 段 階 後 北 条 段 階 安 土 桃 山 時 代 室 町 時 代 上 杉 段 階 後 北 条 氏 康 武 田 信 玄 岩 付 太 田 氏 上 杉 謙 信 対7 松山城の縄張り(国指定史跡) 下図のように松山城の曲輪構成は、西から東に向かって本曲輪・二ノ曲輪・三ノ曲輪 (旧春日曲輪)・曲輪四が一直線に並び、それらを取り囲みながら惣曲輪・兵糧倉跡を始 め大小様々な腰曲輪が配されている。曲輪の周囲には大規模な空堀と切り落としがあり、 城址の南側の斜面には堅堀も認められる。 縄張りの絵図掲載 平成20年3月28日の官報告示(文部科学省告示33号)で松山城跡は国指定史跡に なった。既に国指定史跡である嵐山町の「菅谷館跡」に「松山城跡 」、 「杉山城跡(嵐山 町 )」 及び「小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町 )」 が加わる4つの城館跡の広域指 定である。 ≪発掘調査≫ 発掘調査は惣曲輪と本曲輪で実施し、柱穴や溝の跡、造成の痕跡が認められた。 熱を受けた陶器や炭化材、焼土も多量に出土しており、火災の後に造成されていることを 確認した。 出土した遺物の年代は、15世紀後半から16世紀中頃が中心で、輸入陶磁器の染付・ 白磁類、国産陶器に加え、石臼・石鉢などの石製品、鉄玉・小太刀などの鉄製品、板碑、 壁土などである。 これらの出土品には、唐物茶入、大皿風の盤・青白磁の梅瓶などの威信財が認められる。 なかでも朝鮮半島産の粉青沙器は関東では稀有な出土例で、文献資料が豊富な中核的な城 である松山城跡の特徴といえる。 8 松山城にまつわる伝説と伝承 (1)軍用犬(太田三楽犬)の伝説 太田家譜によれば、永禄2年迄後北条氏の侵攻を妨げた理由として有名な軍用犬を使用
した事が記してある。岩付で飼育した犬を松山城に置き、松山城で飼育した犬を岩付に置 き、敵が来襲した時に文書を竹の筒に入れ、犬の首に結び付けて犬を放すと、犬はそれぞ れの故郷である松山城や岩付城に走り危急を知らせた。よく訓練した犬は 2 時間程で目的 地に到達したという。「山楽犬の入替ト云ハ此事ナリ」と記されている。 (2)霧吹きの井戸 霧吹き城といわれた河越城と同じように松山城にも霧ふきの井戸があった。城の東北部、 市野川が近づく辺りの曲輪の隅に「井水」とあり、敵が近づくと井戸から霧が噴き出し、 辺り一帯を白く包み、地理不案内の寄せ手がまごまごしていると城兵が切り込んだという。 寄せ手は井戸から霧が噴き出し始めると攻撃の手を緩めたという。 (3)百足原のお茶の水(白米城伝説) 天文6年( 1537 )北条氏綱、氏康親子が松山城を攻めたとき、城兵の奮戦激しく攻め あぐみ攻略出来ず、それではと水路を断つ戦法を採った。夜陰に乗じ密かに城内に忍び込 み井戸に毒物を投げ入れた。この為井戸水は使えなくなった。だが城に水が無い事が敵に 知られたら一大事と、城内では毎日夕方になると城の高台に数10頭の馬を引き出し、わ ざと敵に見えるように並べて兵糧蔵の白米を馬にかけていたのである。後北条方から見る と、夕日に映えて光る米はいかにも水に見えたという。後北条方の侍が百足原の清水の付 近を巡回中、清水で洗濯中の老婆を見かけて近づき「この清水で何10頭の馬を洗う事が 出来るか?」と何気なく聞いた。老婆は、「あれは水ではなく米を使って水があるように 見せかけているのだ」と話した。後北条方は早速清水を止めて攻めた為落城した。後にこ の事が近隣に伝わり老婆の家は没落した。(この伝説は各地方にある 。) (4)恨みは深し濁り水 市野川の水の濁りは松山城が落城し、小田原城に籠城中の上田上野介の奥方が、夫の武 運を祈りつつ市野川に金の簪を投げ入れて「淵に葬る吾が亡骸は人目に触れるな水よ濁 れ」と祈ると、とたんに水は濁ってしまった。「嬉しや念願天に通じたか」と日頃信仰す る岩室観音に合掌し終わるとざんぶと身を投げた為、その水は濁ったという。 (5)松山城の坑道合戦 地上戦が激しいまま中々決着しないので、業を煮やした武田勢は金堀の技術者を甲州よ り呼び寄せ、本丸に向かって地下道を掘り始めた。城側もその穴に向かって逆に穴を掘り 汚物を流し込んだという伝承が残っている。 (6)天正の松山合戦に石炮が使われた 「関八州古戦録」の「攻具ヲ用意ス」の攻具とは石炮を意味すると思われる。「新編武蔵 風土記稿」に「天正18年彼城ヲ責シ時爰ヨリ石炮を放セシト」とある。農民達は石拾い に狩りだされ、長谷村一帯には手頃な石が無くなったと伝えられている。 (7)市野川の長瀞魔の淵 上杉朝定は、河越夜戦に22歳で討死にした。朝定夫人は捕らわれ、辱めを受けるより は潔く最後を飾ろうと付き添う婦人達と本丸下の市野川に身を躍らせた。深い淵は今もそ の人達の霊が残っていて、近づく女性を沼に引き込むという。
9 松山城攻防戦に関連する小説・軍記物を読んで (1)主な小説・軍記物の紹介 ・「謙信伝」(布施秀治著 謙信文庫) 七澤(上杉)憲勝は氏康・信玄連合軍に敗れ松山 城を開城した。上杉謙信が石戸の陣(北本)まで駆 け付けていたが間に合わなかった( P334 )。 ・「天と地と」(海音寺潮五郎 文春文庫) 上杉謙信が武蔵の国に進攻する動機が述べられて いる(下巻 P354 )。 ・「箱根の坂」(司馬遼太郎 講談社) 早雲が扇谷上杉定正の援軍として山内上杉顕定に 対抗する様子が描かれている。又、ここでは上田左 衛尉は扇谷上杉の家老で松山城からやって来たとさ れている(下巻 P280 )。 (2)『武田信玄』(火の巻 新田次郎 文春 文庫) 永禄5 年( 1562 )11月、甲信軍(武田信廉 (号:逍遥軒)を総大将とした武田軍)1万5千は 碓氷峠を越えて上野に入り、箕輪城、倉賀野城には それぞれ2千の兵を充て、主力1万1千はそのまま 安中口を一路南下して武蔵国松山城を取り囲んだ。甲信軍が到着するのと同時に、あらか じめ打ち合わせてあったとおり後北条軍も到着した。松山城は荒川の支流市ノ川を西側に 見下ろす丘陵にあった。丘陵全体が自然の城の様相をしていた(P32 )。 松山城攻撃の部署ははっきり決められた。城の南から西、つまり市ノ川に面した方から 甲信軍が攻め、城の東から北側は後北条軍1万が攻める事にした。城兵3千は、城の中に 立て籠もり籠城作戦に出た。城は地形を利用していたため、攻めて側は少数部隊しか動か す事が出来なかった(P33 )。 鉄砲の射程距離に入ると突然城内から撃ちかけて来た。引き寄せるだけ引き寄せての狙 い撃ちだったので外れる弾丸は少なかった(P34 )。 逍遥軒は市ノ川沿いの道を北に向かった。右側が松山城を形成する丘であり、左側が田 圃であった。逍遥軒は丘の斜面に並んでいる無数の穴に気がついた。「あれはなんだ」と 侍臣に訊ねると、侍臣は土地の熊谷五郎蔵を連れて来た。五郎蔵が「百穴と申します」と 答えると、逍遥軒は「人間が掘ったものには間違いないのか」とか「木の鋤や棒で穴が掘 れるのか」等と訊ねた。五郎蔵は「この辺には石がございません。どこまで掘っても赤土 ばかりですから、土を掘るのはそうむずかしことではございません」と話し、これを聞い た逍遥軒は信玄に対し、「松山城を地下から攻めるつもりですから、心利いたる振矩師 (測量師)と金山掘り方衆の小頭を寄こしてもらいたい」と要請し金山掘り方衆らを松山 に呼んだ(P48 )。 謙 信 伝 P334 よ り
逍遥軒は第1、第2、第3の坑道担当者を決め、どの隊が本丸地下に1番乗りするか競 わせた。城主上杉憲勝は、敵の穴が来そうなところに溝を掘って待って敵の穴が開いたら、 そこに糞尿を流し込んでやるのだ。と城内でも逆堀りが始められた。(P54) 後北条軍は、何等なすところがなかった。いつの間にか松山城攻撃の主導権は甲軍に奪 われたかの感さえあった(P58 )。 後北条軍の使者は、上杉憲勝に「今 日中に後北条に降れば、城も人もすべ て後北条方の麾下として迎えると言わ れています。女子供の身の安全も絶対 に保障いたします」と氏政 の書状を出した(P61 )。 松山城の城内から城兵やその家族が 姿を現して、続々と後北条軍に投降した。時に永禄6年2月6日であった(P62 )。 (3)松本清張の小説『黒い空』 (角川文庫) ~ 「河越夜戦」から清張の歴史観を考える ~ 『黒い空』は、河越夜戦で討死した扇谷上杉朝定と重臣の難波田弾正憲重の末裔達が結 束し、逃亡した山内上杉憲政の子孫に対し440年間の怨念を晴らす殺人事件で、「黒い 空」の主役である鴉の習性や東松山の話題を織り交ぜながら、 郷土史家が事件の糸口を 探るという筋書きである。清張は、河越夜戦を判り易く説明しており、事件の推理よりも この夜戦の方が興味深い。そこで、この夜戦から著者の歴史観を考察してみたい( P1 ~ P26 )。 冒頭、著者は、東明寺境内の『川越夜戦跡』碑は『河越』が正しいと指摘した上で、郷 土史家が大学講師に質問する形で、学者の説に対し次の疑問を投げ掛けている。 ① 主力軍4万5千の山内上杉陣営であった砂久保は、当時は人家どころか水もない 原野なのに、なぜ半年間も野営生活ができたのか。 ② 北条氏康軍は、砂久保の憲政軍を撃破した後、扇谷朝定軍の東明寺を襲撃するの に、なぜ、わざわざ足場の悪い赤間川(新河岸川)沿いを、長時間も迂回したのか。 著者は、「まさにその通りで、自分は学説をまるごと信じて疑いもしなかった 。」 と講 師に心情を吐露させた上で、それまでの学説を 痛烈に批判している。つまり清張は単に学説を 信ずるのではなく、常識に則った合理的な論理 の展開が重要であると考えており、作家の井沢 元彦が『逆説の日本史』で、同様に学者の説を 批判しているのが興味深い。 (4)義経と郷姫(悲恋柚香菊 河越御前物語 篠 綾子著 角川書店) 川越市に流れる入間川、私はこの近くに住ん でいますが、徒歩10分位にある河越館の事は <重頼・郷姫供養塔> 現在の市野川方面から見た百穴
あまり知りませんでした。この度上記の本を課題学習にて読む機会に恵まれ、新しい発見、 そして深く感動し胸が熱くなりました。ドラマ等で取り上げられるものは有名な源義経と 静御前であり、河越重頼の二女郷姫が正室でありながら余り話題になる事がなかったよう な気がします。政略結婚が当たり前の時代、郷姫は17才で義経に嫁ぎ夫と共に生きた年 月を知るにつけ、耐えに耐え本物の愛情を義経に捧げつくしたと思います。また義経も最 も信じ愛したのは郷姫ただ一人だったと思います。 河越館に戻る事もなく、落ちのびた奥州平泉で最愛の夫と娘小菊4才、郷姫22才で一 生を終りましたが、悔いのない生涯でしたと多くの人に伝えたいです。 今年は郷姫が大 好きだった柚香菊を沢山館跡に供え、往時を偲びたいと思います。 なお、この本で取り上げられている河越館は河越氏の時代ですが、山内・扇谷上杉の戦 いの中で上戸の陣としてこの史跡は使われています。 10 松山城関連の史跡を訪ねて (1)松山城跡(吉見町) 小雨の降る中、吉見町埋蔵文化財センターの太田氏 に案内をしていただいた。 城は東に関東平野の低地が続き、西側の北武蔵地域 に広がる丘陵・山間部への玄関口と言える場所に位置 している。城跡は民有地となっているが一部発掘調査 も行われ、陶磁器、石臼、石鉢、鉄玉、板碑、壁土等 が出土している。 建物は残って いないが柱穴や溝の跡もあり、山の上は広く平場や 空堀がしっかりと残っていた。各曲輪は敵が攻め込 みにくいように複雑で、通路の奥が見えないように 曲がって作られているのもなるほどと思った。 戦国時代の松山城を巡る激しい攻防戦のことを知 って、いろいろと想像がふくらんだ。 (2)妙賢寺(東松山市) 正門の脇に菜の花、紫の花大根が咲き、本堂の脇の枝 垂れ桜が美しい。 本宿通りの一画にあり、松山城主上田氏ゆかりの寺と して知られる。浄蓮寺文書に見られる「堀之内道場」の 故地と推定されている。上田氏一族の墓といわれる2基 の宝篋印塔や、天文17年(1548)上田朝直あての曼荼羅 (市指定)を所蔵している。 <太田氏の説明を聞く> <一の曲輪に立つ碑> <妙賢寺本堂>
(3)浄蓮寺(東秩父村) 松山城主上田氏の菩提寺で、杉の大木に囲まれ大きな銀杏の木も見事である。鎌倉時代 末、大河原神冶太郎光興の草創と伝えられ、開山 は日蓮上人の高弟六僧の1人、日朗上人である。 広い境内には右手に本堂と祖師堂が高い鐘堂でつ ながれて造立されている。渡り廊下の上に鐘楼が 建っている変わった造りである。左手には鬼子母 神堂、三十二番神堂があり、奥に上田氏累代の墓 地がある。正面に上田氏3代の宝塔、左から「蓮 好」(政広 )、 「宗調」( 朝直 ) 、 「 蓮調 」 ( 長 則 ) と並び、最後の城主上田憲定によって造立さ れた。その両側に4基の五輪塔と3基の宝篋印塔および1基の笠部が配置されている。 (4)養竹院(川島町) 太田道灌の陣屋跡と言われ、正門前の参道に銀杏 の大木が2本そびえ立っているのが印象的である。 道灌の養子資家が、鎌倉円覚寺の禅僧叔悦 ( しゃく えつ ) 和尚を開山とし建立したものである。 祖父資清 ( 道真 ) 、父資長(道灌 )、 開基資家以 下9代の位牌が安置されている。 (5)東明寺(川越市) 河越夜戦跡。(市指定) 「新編武蔵風土記稿」によれば「稲荷諏訪天満宮三 社塚上(中略)天文15年の河越夜戦、難波田弾正 憲重が、東明寺口の古井戸に落ちて死せるとみえた るは、この廃井戸を埋めてその上に築いた塚」とあ る。市内の行伝寺に残る過去帳には、天文15年 (1546)4月20日に2800人余りが戦死し、その 中に扇谷上杉持朝、難波田憲重、上田小三郎の名が みえる。 (6)清正公神社板碑(東松山市) 元亀2年(1571)城主上田朝直が、一族や家臣の冥福を祈っ て建立した供養塔で、高さ2.73m、幅61㎝、厚さ9㎝の見 事な板碑である。 昭和12年(1937)に現在の場所に移され囲いも造られてい た。この銘文は摩滅が著しく現在は判読不能だが、(施主上 田能登守源朝臣朝直入道暗独斎桑門宗調 生年七八)と記さ れていた。これにより、晩年の朝直は長則と同じ能登守を名 乗り、明応2年(1493)生まれであることがわかる。 <上田氏三代の宝塔> < 清 正 公 神 社 の 板 <養竹院正面> <東明寺河越夜戦碑>
(7)埼玉県立嵐山史跡の博物館での勉強会 東秩父村の浄蓮寺を訪ねた後、「埼玉県立嵐山史跡の博物館」の学芸員である栗岡氏か ら、松山城の戦国攻防史(概要)について解説を受ける。 天文15年(1546)両上杉連合軍は、後に河越夜戦と呼ばれた後北条氏との戦に敗れ敗走 し、比企一帯は後北条氏が支配したが、その後も後北条氏と上杉氏との間で松山城を巡る 攻防は続いた。そして、天正 18 年( 1590 )に秀吉軍に攻められた松山城は落城し、江 戸時代へと引き継がれていった。このように戦国時代の幕開けから、安定した徳川時代へ の変遷について、解りやすく解説していただいた。 11 戦国時代の背景と暮らし (1)なぜ全国的に戦国時代に突入して行ったのか? 室町幕府の弱体化が一番の原因と思われる。将軍足利尊氏は幕府開設当初から南北朝問 題を抱えてスタートした。その上、幕府体制である三管領(細川氏、斯波氏、畠山氏)、 四職(山名氏、一色氏、赤松氏、京極氏)が組織としてうまく機能せず、内部抗争を重ね た。応仁元年( 1467 )東軍細川氏、西軍山名氏両軍の激突から応仁の乱が始まり、全国 戦乱の時代に。文明9年( 1477 )には一応終息するが、乱れた統治のままで下克上・群 雄割拠・大名領形成の戦国時代に入っていく(武蔵国も後北条氏康・武田信玄・上杉謙信 等の覇権争いに巻き込まれた。北条氏康が制圧したが秀吉軍が後北条氏を破り、その後徳 川家康の統治下に入る。)。 (2)戦国の世の戦いにおける処理方法 ア 皆殺にするか、生け捕りにして奴隷にしたり、人身売買が行われた。 イ 責任者は処分(死・出家・流刑)され、家来は一般的に生命が保障された。 秀吉軍に徹底的に抵抗した後北条氏の場合は、氏政・氏照が死、氏直・氏規は高野山 出家という処分を受ける。氏規・氏盛は関が原の戦いで功名を得て河内国狭山藩主に なり代々続く。 ウ 降伏して協力者になる事を約束し、全て許されて領地も安堵された。 エ 和平の条件として人質を交換するという事も行われた。 オ 内応すると云う事が頻繁に行われ、戦いの前又は最中に条件を出して内応を促すも ので、扇谷上杉の重臣だった上田氏が、後北条氏に内応した為松山城は落城し、その 後上田氏は後北条氏方として松山城主になった。 (3)一族を永続させる為の知恵と方策 ア 比企氏の場合 比企能員は、鎌倉幕府2代将軍の室に娘がなった事により権勢を振るうも、北条時政 に誅殺され一族は滅亡したが、2人が生き残り川島町の中山館を構えた。次ページの太 田資正感状(感謝状の意味)は比企政員宛のもので、政員が代官として太田資正の為に 働いている事が書かれている。また、政員の子供則員の墓所が金剛寺(川島町)にある。 イ 太田氏の場合 松山城合戦では、太田資正が岩付から松山城を奪取・敗戦を繰り返すが、最終的には
北条氏康に敗れる。太田氏を再興したのは お勝の方で、家康の室から水戸藩主頼房の 養母となり、その立場を利用して甥の太田 正重を重臣として送り込む。なお、現在活 躍している資暁氏は水戸系太田氏で道灌よ り18代目にあたる。 ウ 養子・猶子縁組をする事も抵抗無く行わ れた。長尾景虎は元関東管領山内上杉憲政 の養子になり、上杉姓を譲り受け上杉謙信 となった。又謙信も景勝を養子に迎えた。 景勝は米沢藩に移封になり米沢藩主上杉氏 として代々続くのである。 4 戦乱に巻き込まれた庶民の苦しみや生活 乱取り・放火・人身売買・刈田等不法行為が 行われたが、被害を受けた側の資料は残ってい ない。支配者側の制札は多数残っているが、禁 止の札が出されるのは不法行為が終わった後で、 庶民が被害を受けた後であることを忘れてはならない。兵が乱取りするのは自分の収入の 為であり、黙認していたという一面がある。勝利した大名も建前としては、不法行為を禁 じるが、末端では色々な行為が行われた。この時、村として団結し、自衛権が備わってい た所は、被害が軽く済むと言うのが実態だったかも知れない。年表に天正2年 謙信が松 山城下を焼くとある。森鴎外の「山椒大夫」では人身売買が描かれ、笹本正治の「戦国時 代の民衆たち」では苦しむ民衆の苦労する姿が描かれている。 あとがき 早いもので、課題学習を始めてから半年が過ぎた。テーマが決まってからが大変で、何 をどうするのかが大騒ぎ。松山城に詳しいメンバーのリードと、フレッシュ・メンバーの 行動力が相俟って、報告書の編集に漕ぎ着けた。全員による協働の賜物に、ただただ感謝。 そして、本報告書を取り纏めるに当たって、元埼玉県立歴史資料館館長の梅沢氏、吉見町 埋蔵文化財センターの太田氏、県立嵐山史跡の博物館の栗岡氏を初め、多くの方々に多大 なご尽力を戴いた。この場をお借りして深く感謝申し上げたい。 参考・引用文献 1 後北条氏の城 埼玉県嵐山史跡の博物館 11 埼玉の城址30選 (西野博道著) 埼玉新聞社 2 埼玉の戦国時代"城” 埼玉県嵐山史跡の博物館 12 図解日本史 成美堂出版 3 比企の中世再発見 埼玉県嵐山史跡の博物館 13 関八州古戦録 (軍記物) 4 武州松山城 長澤士朗 吉見町 14 武蔵松山城主上田氏 ( 梅沢太久夫著) 5 松山城跡 吉見町教育委員会 15 東松山史編 東松山市文化財保護委員会 6 松山城址 比企の自然と文化財を守る会 16 中世武蔵人物列伝 埼玉県歴史資料館 7 武蔵武士と戦国時代 (田代脩著) さきたま出版会 17 甲陽軍鑑 8 中世考古学セミナー 資料集(2000) 嵐山史跡の博物館 18 上杉謙信伝(布施秀治著) 9 武蔵武士と寺院(2007) 嵐山史跡の博物館 19 太田道真と道灌(小泉功著)幹書房 10 町内遺跡Ⅰ 松山城発掘調査報告 吉見町教育委員会 20 東松山の歴史 東松山市市史編纂課 太 田 資 正 感 状