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「養護教諭と子どもとの関係」についての考察 −子どもに対する養護教諭の側面的支援の在り方− [ PDF

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Academic year: 2021

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(1)「養護教諭と子どもとの関係」についての考察 −子どもに対する養護教諭の側面的支援の在り方− 学校看護婦の夜明け 歴史が動いた 保健室NOW 子ども百花繚乱. 綿々なる関係. 発達・社会システム専攻 石川. 目 第1章. 次. フカエ. 滅のスローガンとなっている。ただ、もっと感動した. 学校看護婦・養護訓導時代における活動の. ことは、このスローガンが私にとっては職務上の大先 注. 1. 歴史. 輩である千葉千代世が. 第1節. 学校看護婦∼子どもへの治療援助時代. 日教組婦人部長として中央執行委員会に提案し決議さ. 第2節. 学校看護婦∼職制運動への目覚め時代. れたと知った時である。その事を誇りにまた、子ども. 第3節. 養護訓導・教育職としての誕生期. たちへ側面的に支援できる立場を大切にしながら、子. 養護教諭と子どもの考察. どもたちとの心の交流を大事に小学校教育活動の中に. 第1節. 養護教諭の成り立ちと戦後すぐの子ども. いた。その間に得られた子どもたちとの関わり一つ一. 第2節. 養護教諭が捉えた子どもの身体発達の阻害. が、私にとっては自分の存在感や生き甲斐の一部分に. 要因と時代要因. なっていた 。つまり 、子どもたちと自分は「相思相愛 」. 第3節. 保健室から看た子ども. だと思っていた。. 第4節. 今の子どもの目から見た保健室と養護教諭. 第2章. ところがある日「子どもたちの顔なんか見たくない 」. −心のケア援助時代−. という気持ちが出現してき、その思いが日増しに膨ら. 保健室はどんな場所. み私全体を埋め尽くしてしまった。つまり、自分自身. 第1項. −保健室を学校での居場所として選んだ子どもの. のメンタルヘルスを保持・継続出来ない状態になっ. 事例をもとに−. た。自分の中で悩み、葛藤、混迷が続いた 。「なぜな. 第2項 「 先生だけど先生のような気がしない先. のか 。」「子どもたちが変わったのか、自分の力量が. 生」−学級崩壊の事例を通して. 無くなりつつあるのか 」「学校という空間が子どもた. 第3章 子どもたちを側面的に支援し続ける存在とし. ちを追い込んでいるのか」と。. ての養護教諭. 修士論文のテーマも混沌たる状況の中で二転三転と. −多目的な保健室は子どもにとってどのような存. したが、自分に起こっている「なぜだ?」と言う疑問. 在か− 終. 1951年(昭和26年). 章. 結. をきちんと受け止め見据えて次へのステップにしたい 語. と考えた。. 1,研究の目的. この様な状況が起こり得る養護教諭の職務の変容に. 「教え子を再び戦場に送るな」この言葉は私が新任. ついて少し触れておきたいと思う。社会の急激な変化. の時に心ふるわせたものであり、日教組にとっては不. につれて子どもたちの心身の健康問題も多様化し、そ. 注 1 1951(S26)年「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンを提唱・1959(S34)年参 議院初当選・1965(S40)年再度当選・971(S46)年退任・1976(S51)年衆議院当 選 -1-.

(2) れに伴って養護教諭の職務内容が質的にも量的にも大. 以上のような動機・問題意識から 、 「子どもと養護. きな変化を遂げてきた。. 教 諭 と の 関 係 」 についての考察を行うことを本研究の. 養護教諭の職務内容については、1947(昭和2. 目的とする。すなわち養護教諭という我が国独特の職. 2)年に制定された学校教育法28条により 、 「養護. 種は、どのようにして誕生し、子どもにとってどのよ. 教諭は 、児童生徒の養護を司る 」とされ 、主として「外. うな存在だったのか、また今後、子どもへのスタンス. 科的処置や病気の手当を行う」など保健管理に当たる. はどのようにとっていけばいいのかを考察する。つま. 教員として位置づけられていた。しかし、1955年. り、歴史をに見、今を共に生き、未来へどのように繋. 頃より、子どもの“こころの健康”に多くの関心が集. いでいけばと考察することが、本研究の目的である。. まりだしたのである。その最大の理由はその頃から、. 2,内容の概要. 不登校・自殺・いじめ等々が学校を中心とした問題と. 第1章・養護教諭誕生に至るまでの約52年間を3期. して浮上してきたからである。そこで、養護教諭の職. (1∼3節)に分ける。. 務内容が実態にそぐわないとして、1972(昭和4. 第1節. 7)年に保健体育審議会が 、「児童生徒の健康管理に. 学校看護婦∼子どもへの治療援助時代18. 88∼1923年. 関する施策」の中で 、 「養護教諭は専門的立場から、. 第2節. すべて児童生徒の健康および環境衛生の実態を正確に. 学校看護婦∼ 職制運動への目覚め時代1. 924∼1940年. 把握して、疾病や情緒障害・体力・栄養に関する問題. 第3節. 等心身の健康に問題を持つ児童生徒の個別指導に当た. 養護訓導・教育職としての誕生時代. 1. 941∼1940年. り、また、健康な児童生徒についても健康の増進にあ. 研究の方法としては、記録として残されている文. たるのみならず、一般教員の行う日常の教育活動にも. 書・記録・編著などから、学校看護婦・養護訓導の目. 積極的に協力する役割を担うものである 」 と答申した 。. には子どもがどのように映っていたか、またその当時. さらに、近年では“いじめ対策委員会”の連絡・調. の学校看護婦・養護訓導がどのような側面的支援を、. 整役しての要望から保健主事を養護教諭に当てること. 子どもに行ったのかを考察すると同時に、大まかな時. が条例化された。このことは、今や保健室が「心身的. 代の背景を掴みたい。. に弱い子ども 」や 、 「いじめから避難してくる子ども 」. 第2章・本論文中最も重要な章となる。子どもとの日. たちにとっての「駆け込み寺」化している現実に目を. 々の関わりの中で、子どものサポーターとしての養護. 向け始めた結果と言えよう。また、地位の向上を促す. 教諭と養護教諭自身のメンタルヘルスの保持・継続の. ように「保健の授業もどうぞやってください 」 「教壇. 役割を果たしてくれた子ども、逆に阻害要因となる子. に立てますよ」と動き始めているのである。. どもたちに視座を当てる 。なお 、この章は1947(S. それでも、さなざまな心身の問題を抱えた子どもを. 22)年から今日までと長い時代を対象としている事. 丸ごと受け止め、暖かなまなざしで子どもたちを側面. で、視点の拡散化を防ぐために「養護教諭と子ども」. 的に支援続けることは 、 養護教諭としての本務であり 、. に焦点を当てる。焦点の主材料の一つを東京都養護教. やり甲斐に通じると思う。また、2002年からの学. 員研究会発行の『会誌 』(清水孔版、1967年)を. 校五日制や総合的学習導入等で子どもを取り巻く環境. 用いた。発刊の1967年から1997年までの30. に変化をもたらすであろう状況下では、問題を発する. 年間に渡る動向や会誌に中に著されている材料に求め. 子どもを学級へ繋ぐ導入役としての、養護教諭へ向け. た。また主材料の二つ目を筆者の実践記録・ケースス. られる社会的は要請とも一致するのではないだ ろう. タディーや子どもへのアンケート等から、子どもたち. か。. を側面的に支援続けるためにはどのようなスタンスに. -2-.

(3) 立てば子どもにも養護教諭にも望ましいと言えるのか. 我が国初と言われた学校看護婦がどんなに子ども. を掴んでいきたい。. たちのトラホ−ムを治したいとの願い洗眼と、予防に. 第3章・終章・本論を補足・充実させて行く上で、保. 心血を注いだかを次の引用文が物語っている 。「トラ. 健室での子どもとの実践的関わりを通してこれからの. ホームの子ども66,4%が僅か半年で42,6%に. 養護教諭のスタンスの取り方・子どもとの関係を述べ. 下がり、さらに一年後には24,1%まで罹患率が下. ていく。終章に入り今後の課題と共に「養護教諭と子. がっている」. どもの関係」が益々混迷と煩雑さにみまわれ、養護教. この時期における学校看護婦のすざましい活動を、. 諭が憔悴度を高めるであろうが、子どもを側面的に支. 強く補強できる史実を述べたい。広瀬は1908(明. 援続ける養護教諭たちと、いかほどかの自信と勇気を. 治41)年岐阜市高等小学校、後の京町小学校に専任. 分かち合えたられたらと願うものである。. 学校看護婦として就任した。広 瀬 は 専 任 と し て 正 式 に. 第1章学校看護婦・養護訓導時代における活動の歴史. 就 任 し た 学 校 看 護 婦 史 上 最 初 の 人 で あ っ た 。 広瀬は当. 第1節 学校看護婦∼子どもへの治療援助時代. 時のことをこのように回想していた。. この期を1888年(明治21年 )から1923年(大. 広瀬はトラホームの子どもたちに対する洗眼はもち. 正12年)の35年間と設定した。その主な理由はこ. ろんのことだが、学校で洗うばかりでは、本当の撲滅. の人が居なかったら今の「養護教諭」は無かったと思. にはならないと考え、家庭訪問を行い保護者への啓蒙. える森川初枝(のちの荒畑寒村夫人)が、浅草区に三. にも力を注いだ。家庭訪問に関しては「余計なお世話. 校兼務の区嘱託で採用された年だからである。従って. だ」と言う中傷も随分あったようだが、一軒一軒回っ. この年、1924年(大正12年)は学校看護婦にと. て衛生指導を行った広瀬の頭の中には、子どもの厳し. って歴史的な年の始まりであることから、その前の1. い現実を何とか打破したい、この子 ど も の 苦 痛 を 和 ら. 923(大正12)年までを一つの区切りとした。言. げ た い と言った熱い思いがたぎっていたと言える。こ. い換えれば「学校看護婦の夜明け」時代とも言えるか. の業績・人徳は広く地域に根付き1973(昭和48 ). らである。. 年に創刊された京町小学校百周年記念誌に写真入りで. このような時期において、学校看護婦はどのような. ぺージが開かれた。. 存在であり、どのようなまなざしで子どもを看ていた. さらに当時の学校長杉山捨一は「京町小学校創立1. かを裏付ける資料として岐阜県竹の鼻小学校に残され. 00周年を迎えて」の中で下記のように述べている。. ていた文書を見ることができた。この竹の鼻小学校と. 「京町小学校の過去には日本教育の先駆者推進者とし. 筥松小学校は我が国初の公費による学校看護婦がトラ. て教育史上に残る幾多の貢献をして参りました。明治. ホーム治療のため雇われたと言われている 。(本論文. 41年12月現在の 養 護 教 諭 の 前 身 で あ る 学 校 看 護 婦. に資料添付). が 配 置 さ れ た こ と も そ の ひ と つ で あ り ま す 。これは知. 当時、日本中の子どもたちの間にトラホームが蔓延. 育万能時代の当時の教育界では考えられないほどの一. していた。医師も設備も乏しい時代である。此処に引. 大飛躍であり、現在の養護教諭の草分けとして、また. 用した竹の鼻小学校小学校においても前記の資料を裏. 学校教育に保健衛生・健康面を新しく取り入れこれを. 付ける数値があった。. 重視する風潮を高めたことは非常に意義深く教育史上. 「竹の鼻小学校では当時トラホームにかかっていた子. 有名であります 。」いち学校看護婦がこの様な高い評. どもたちがは66,4%であるが、看護婦を採用半年. 価を受けているのは他に例がない。. 後、42,6%に下がっています。さらに半年後、つ. 広瀬は、養護訓導にもまだまだほど遠いこの時代に. まり看護婦を置いて一年後には24,1%までトラホ. 一介の学校看護婦としてこの地域に根付き<子ども>. ームの罹患率が激減しています 。 」 -3-.

(4) の健康を阻害しているものを克服するための援助を行. 苦しくて耐えられない時、ここに駆け込めほっと一. い、保護者の支援はおろか親たちからは深い信頼と敬. 息ついて心を安心させておくことができる場所の意味. 愛を得られたのである。さらに後年「広瀬ます先生の. ある。. 碑」の建立に至る社会的評価を受けた。. 教師だけど教師のようでない人. 子どもを側面的に支援続けたのが養護教諭だという. 「○○先生は先生だけれど 、ふつうの先生ではない 。. 誇りと仮説を持つ私に大きな勇気を与えてくれた。. だから気持ちを話しやすい」という子どもがいる。教. 第2章. 科中心の学校教育の中でただ一人授業を持っていない. 養護教諭と子どもの考察. 教師ということで孤独感や劣等感を養護教諭自身が持. 第4節子どもの目から見た保健室と養護教諭−心のケ. ちやすいと言われるが、子ども側から見るとそれこそ. ア援助時代− 第 1項 今 の 子 ど も に と っ て 「保 健 室 は 学 校 で の 居 場 所 」. が魅力で、自分の心を解放し対等な気持ちで向き合え るのではないだろうか。. −保健室を学級以外の居場所として選んだ子どもの事例. いろいろな目的で行けるところ. を通して− 登校拒否は1970年代から増え始め1990年代から不登. 「保健室は体の具合が悪くなったときに行くけれど、. 校という表現が体勢を占めるようになった。学校に行けなく. 別にどこも悪くなくても、ただ何となく行きたい時が. なった子どもや或いは学校に行かなくなった子どもを、ど. ある」と語ってくれる子どもがいる。保健室は、自由. のように表現するかは、子どもの状況や論じる側の立場で. 度の高い多目的でファジーな場所・空間と言える。. 論議が交わされることであるが、今回の事例は約4ヶ月の. しかしこのような子ども側から見た保健室の「自由で. 不登校の後保健室登校を選んだ子どもであることから「学. 多様な豊かさ」の魅力は、反面、課題にも成りうるの. 校に行けなくなった」との立場をとり不登校後と捉える。. である 。 それは二律背反的課題と言えるのではないか 。. 年々増加する不登校への対策を検討してきた文部省は、. 近年重要視されてきた学校に於ける養護教諭の職務. 1992年に「学校不適応対策調査研究協力者会議」の最. について、保健主事にもなれたり、管理職への道が開. 終報告をまとめ、「不登校はどの子にも起こりうる」との視点. けたり、学級での授業がもてたりと一見地位向上に見. から、教師と子どもが心理的に強い絆で結ばれて、子ども. えることが果たして子どもにとって「お母さん的存在 」. にとって教室や学校は自己の存在感を実感でき、精神的. であり得るか、そして、綿々と続いた子どもへの側面. に安心しておられる場所、つまり「心の居場所作り」を心が. 的支援が継続していけるのかは最大の課題といえよ. けるべきだとの見解を提唱した。. う。 なぜなら、子どもへの支援を続ける養護教諭と. しかし、現実の学校現場で各教室が子どもにとっての「心. 学校の管理側に立つ養護教諭は同一・同質で有り得な. の居場所」のなる得ることは、現実の教育課程・子どもの. いからである。言い換えれば子どもの心のケアワーカ. 課題から見ても矛盾に満ちていると言っても過言ではな. ーとしてカウンセラー的な力量をつけるか、或いは教. い。なぜ矛盾かと言った論議はこの節の主旨からはずれ. 師として力量の高い、うまい保健授業や総合学習の一. るので別の機会にしたい。では、「なぜ、不登校の子どもと. 翼としてそのポストを占める力量をつけるか、養護教. 保健室」 なのだろうか。. 諭として大きな選択の時でもある。しかし、あえて力. 結. 説したい。子 ど も を 側 面 的 に 支 援 し 続 け る 存 在 ・ お 母. 語. さん的存在としての養護教諭だからこそ、子どもとの. 学校であって学校でない場所. 関係がその職制誕生と共に続いてきたのであり、これ. 「学校には行きたくないけど、保健室なら行く」と. からも継続発展が望まれるのである。. いう子どもがいる。この子どもにとって保健室は学校 内にありながら、<学校>とはちがう場所である。 -4-.

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