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大伴家持の吉野行幸儲作歌の性格

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(1)

大伴家持の吉野行幸儲作歌の性格

著者 菊地 義裕

著者別名 KIKUCHI Yoshihiro

雑誌名 文学論藻

巻 91

ページ 1‑20

発行年 2017‑02

URL http://id.nii.ac.jp/1060/00012943/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

大伴家持の吉野行幸儲作歌の性格

菊   地   義   裕

  『万葉集』巻十八には、

題詞に「吉野の離宮に幸行さむ時の為に儲け作る歌」と記される大伴家持の吉野行幸儲作歌が伝わる。直前には「天平感宝元年五月十二日に、越中国守の館にして大伴宿禰家持作る」の左注をもつ「陸奥国に金を出だす詔書を賀く歌」(四〇九四〜四〇九七)が、直後には「右、五月十四日に、大伴宿禰家持興に依りて作る」の左注をもつ「京の家に贈らむために真珠を願ふ歌」(四一〇一〜四一〇五)があり、配列から天平感宝元年(七四九)五月十二日から十四日の時期に作られたと考えられる歌である。

  「陸奥国に金を出だす詔書を賀く歌」

(以下「出金詔書歌」) は、作歌の前月、東大寺の毘盧遮那仏の鍍金に用いられる金の産出を賀して発せられた聖武天皇の「出金詔書」(『続日本紀』宣命第十三詔)において、大伴氏の祖先以来の功業が称えられたことに端を発して詠まれたものである。その直後に配される当該歌については、伊藤博が「出金詔書歌」と「根源を等しうし、おそらく、同時に相ついで形成されたもの」(注1)と言い、小野寛が「「陸奥国出金詔書」によって目覚めさせられた皇統讃美意識の落し子であった」(注2)と評するように、従来双方は密接なかかわりをもって製作されたものと見られている。全体は次の通りである(注3)。高御座  天の日継と  天の下  知らしめしける  すめろきの  神の尊の  恐くも  始めたまひて  貴くも  定め

(3)

たまへる  み吉野の  この大宮に  あり通ひ  見したまふらし  もののふの  八十伴の緒も  己が負へる  己が名負ひて  大君の  任けのまにまに  この川の  絶ゆることなく  この山の  いや継ぎ継ぎに  かくしこそ  仕へ奉らめ  いや遠長に(

18・四〇九八)

  反歌いにしへを思ほすらしも  わご大君  吉野の宮をあり通ひ見す(四〇九九)もののふの八十氏人も  吉野川絶ゆることなく仕へつつ見む(四一〇〇)

  長歌には主体を異にして「見したまふらし」「かくしこそ仕へ奉らめ」、二つの行為がうたわれる。前者は「大君」の、後者は「八十伴の緒」の行為である。また反歌では、第一反歌で「わご大君」が「吉野の宮をあり通ひ見す」ことが、第二反歌では「もののふの八十氏人」が「仕へつつ見む」ことがうたわれ、長歌に呼応して主体と行為とが示される。清原和義が指摘するように、当該歌は「長歌から反歌に至るまで、天皇・臣下、天皇・臣下とくり返す波動によって截然と歌った 歌」(注4)として、その展開をとらえることができる。この点を踏まえると、長歌は「あり通ひ見したまふらし」までの十四句が前半、それ以下十三句が後半ということになり、内容に応じて句数にも配慮した作とみられる。  ただし長歌には、柿本人麻呂以来の吉野讃歌が一様に示すところの吉野の景の直接的な叙述は見られない(注5)。それに替わって意が用いられるのは、行幸に従駕する「八十伴の緒」の臣従を述べる後半の叙述である。これは他の讃歌には見られない当該歌独自のものである。しかも前後半の展開の文脈は「み吉野のこの大宮に  あり通ひ見したまふらし  もののふの八十伴の緒も」であり、「あり通ふ」主体は、第一反歌にもうたわれるように、第一義的には天皇であるが、「八十伴の緒も」とあり、官人もまた天皇に従って「この大宮にあり通ひ」仕えるという内容である。共通部を考慮すると、天皇に関する叙述は「見したまふらし」の一句のみとなる。当該歌は天皇に仕える臣下の側に、より比重を置いた作品といえよう。

  本稿ではこうした当該歌独自の叙述に注目して、この作品

(4)

の性格を明らかにしたい。

一、「あり通ひ」の表現

  長歌では冒頭、吉野宮が「高御座天の日継と  天の下知らしめしける  すめろきの神の尊」が「恐くも始めたまひて  貴くも定めたまへる」宮として提示される。この「すめろきの神の尊」については、小学館『日本古典文学全集』本が「天武・持統両天皇」と解し、神野志隆光も笠金村の養老七年(七二七)の吉野讃歌を見合わせつつ、これによるべきことを論じている(注6)。

  金村歌には吉野宮について、「山川を清みさやけみ  うべし神代ゆ定めけらしも」(6・九〇七)とうたわれ、創始について「神代」の語が用いられる。この「神代」については、吉井巌が人麻呂の吉野讃歌の「山川も依りて仕ふる神の御代かも」(1・三八)の表現を踏まえて持統朝とみるべきことを説き(注7)、かつて神野志が天武朝を新王朝とする認識から天武朝と解したところである(注8)。壬申の乱に際しての天武天皇の吉野への隠棲、それに端を発しての律令国家の形成、続 く持統天皇の天武秩序確認のための吉野へのくり返しの行幸(注9)を合わせ考えると、聖武天皇の即位の前年、皇位の継承にかかわって二十年ぶりに復活した吉野行幸に際してうたわれた金村歌の「神代」は、天武・持統朝とみるべきである(注

したものと解される。 とはいえ、聖武朝のうちにあって同様に天武・持統天皇をさ 該歌の「すめろき」も、二か月後に孝謙天皇に譲位する時期 様の理解に立つものと考えられる。赤人歌から十三年後の当 神野志が指摘するように、これも聖武朝の共通認識として同 の反歌(6・一〇〇六)にもうたわれるところであり、吉井・ 10)。「神代」は天平八年(七三六)の山部赤人の吉野讃歌

  こうした「すめろきの神の尊」を含む冒頭の、宮の提示部分は天武・持統皇統に対する讃美表現と理解できる。小野寛は「天の日継」の句に注目して、これが皇位の「神聖なる継承者」の意で用いられた家持の独自句であること、また「出金詔書歌」前後の作品から見られ、「家持が初めて歌った皇統讃美の表現」の中心的詞句であること(注

もこれと時期を等しくして皇統への讃美の表現として用いら 11)、「すめろき」

(5)

れたことを指摘している(注

12)。冒頭部は皇統の始祖として 天武・持統天皇をとらえ、それ以来の宮として吉野宮を位置づけたものである。そしてその「大宮」に聖武天皇が「すめろき」の皇統に連なる存在として「あり通ひ見したまふ」という内容である。第一反歌を合わせ見ると、見る対象は「吉野の宮」ということになる。第一反歌には「吉野の宮をあり通ひ見す」にかかわって「いにしへを思ほすらしも」ともあり、皇統ゆかりの宮で「いにしへ」(天武・持統朝)を思う天皇の姿がうたわれる。示されるのは「いにしへ」を受け継いでいまここにいる天皇の姿であり、それは「天の日継」としての聖武天皇の姿である。長歌の「み吉野のこの大宮に  あり通ひ見したまふらし」の表現で意図されているのも、「すめろき」以来の皇統を負う「天の日継」としての天皇の姿である。またその姿に確認される、受け継がれきた皇統と解される(注

13)。

  吉野を「見る」天皇像は、人麻呂の吉野讃歌の第二長歌に、やすみしし  我が大君  神ながら  神さびせすと  吉野川  激つ河内に  高殿を  高知りまして  登り立ち  国 見をせせば……(1・三八)の表現にまず見出される。その後の例では、天平八年(七三六)行幸時の赤人の歌に見られ、次のようにうたわれる。やすみしし  我が大君の  見したまふ  吉野の宮は  山高み  雲そたなびく  川早み  瀬の音そ清き  神さびて 見れば貴く  宜しなへ  見ればさやけし  この山の  尽きばのみこそ  この川の  絶えばのみこそ  ももしきの 大宮所  止む時もあらめ(6・一〇〇五)

  反歌一首神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは  山川を良み

(一〇〇六)

  長歌の冒頭「やすみしし我が大君の  見したまふ吉野の宮は」とあり、天皇が宮を「見る」ことがうたわれる。一首では、その「吉野の宮」は「山高み雲そたなびく  川早み瀬の音そ清き  神さびて見れば貴く  宜しなへ見ればさやけし」と、山川の神聖かつ清浄な自然を備えたところとして示される。吉野宮を「見る」ことは吉野の山川の自然を「見る」ことと同じと解される。反歌でも、「吉野の宮にあり通ひ」、高々

(6)

と宮殿をお造りになっていらっしゃるのは、山や川がよいからだと、同様に宮と山川が一体の存在としてうたわれる(注

とが窺われる(注 持は吉野讃歌のなかでも赤人歌の表現に注意を向けていたこ は、赤人のこの天平八年の歌と家持の当該歌のみである。家   吉野讃歌において「あり通ひ」「見したまふ」の句を含むの 14)。

15)。ただし、

赤人の「あり通ひ」の表現は、「神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは」で、吉野への反復・継続の往来をうたうとはいえ、天武・持統朝以来の歴代の天皇の「通ひ」に現天皇のそれをも含めた内容である。当該歌の聖武朝に限っての「あり通ひ」とは内容を異にする。これは、当該歌が「すめろき」(天武・持統)に対する存在として「大君」(聖武)を位置づけ、またその「大君」に従う存在として「八十伴の緒」をうたうことと無関係ではあるまい。「八十伴の緒」もともに「あり通ふ」のだから、おのずと当代に限定されることになる。

  また「見したまふ」についても、赤人の歌では宮を「見したまふ」こと、すなわち吉野の山川を「見したまふ」ことと 解されるが、家持の歌では、前記したように吉野の自然が具体的な景として示されていない。これは極めて異例なことである。人麻呂以来赤人のこの歌まで吉野讃歌では必ず吉野の景がうたわれる。しかし、「見したまふらし」というとき吉野の自然が意識されないということはあるまい。  この箇所では、「見る」ことについて「あり通ひ見したまふらし」と表現される。「あり通ふ」の語は『万葉集』に十八例あり、そのうち宮を対象とする例が五例で、当該長反歌の二例のほかは、赤人歌の「神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは」(6・一〇〇六)、田辺福麻呂歌集所出の「難波宮にして作る歌」長反歌の「やすみしし我が大君の  あり通ふ難波の宮は」(6・一〇六二、天平十六年頃)、「あり通ふ難波の宮は」(一〇六三)の三例である。また「都」を対象とした例が、巻十七の境部老麻呂の「三香の原の新都を讃むる歌」の長歌に見え、「山背の久邇の都」について「あり通ひ仕へ奉らむ万代までに」(三九〇七、天平十三年)と表現される。老麻呂の例以外は天皇についての例で、いずれも当該歌に先行する。

(7)

  また家持の使用例は、当該歌の長反歌の二例を除くと五例で、次のように見られる。1.

   思ふどちかくし遊ばむ今も見るごと      延ふつたの行きは別れずあり通ひいや年のはに      ここばくも見のさやけきか玉くしげ二上山に       見れば渚にはあぢ群騒き島回には木末花咲き     ……布勢の海に舟浮け据ゑて沖辺漕ぎ辺に漕ぎ

17・三九九一)

2.

布勢の海の沖つ白波

  あり通ひいや年のはに見つつしのはむ(

17・三九九二)

3.

  名のみも聞きてともしぶるがね      語らひぐさといまだ見ぬ人にも告げむ音のみも      いや年のはによそのみも振り放け見つつ万代の       に朝夕ごとに立つ霧の思ひ過ぎめやあり通ひ      常夏に雪降り敷きて帯ばせる片貝川の清き瀬      ……皇神のうしはきいます新川のその立山に

17・四〇〇〇)

4.

片貝の川の瀬清く行く水の

  絶ゆることなくあり通ひ 見む(

17・四〇〇二)

5.

の海を(     もみたむ時にあり通ひ見つつしのはめこの布勢       こそいや年のはに春花の繁き盛りに秋の葉の     恋は増されど今日のみに飽き足らめやもかくし       姫に藤波咲きて浜清く白波騒きしくしくに      櫂掛けい漕ぎ巡れば乎敷の浦に霞たなびき垂      明らめ心遣らむと布勢の海に小舟つら並めま      思ふどちますらをのこの木の暗繁き思ひを見

19・四一八七)

  1・2は天平十九年(七四七)四月二十日の「布勢の水海に遊覧する賦」の長反歌、3・4は同年四月二十七日の「立山の賦」の長反歌、5は天平勝宝二年(七五〇)四月の「六日に布勢の水海を遊覧して作る歌」の長歌である。1・2・5の「あり通ひ」の対象は「布勢の海」であり、3・4の対象は「立山」あるは「立山」が見えるところである。いずれも「布勢の海」や「立山」の風光に触れつつ讃美する文脈で使用され、その勝景を「いや年のはに」「絶ゆることなく」、継続的に見ることがうたわれる。「あり通ひ」の理由はその風光

(8)

に心引かれ、くり返し見たいと思うからである。家持が「あり通ひ」の語を用いるときには、例外なく対象の風光への讃美の思いが背景を成していることがわかる。これは家持の歌にのみ見られる顕著な傾向である(注 16)。

  五例はいずれも当該歌前後の作で、1〜4は二年前の歌、5は翌年の歌である。当該歌の「あり通ひ見したまふらし」にも、風光への讃美の意識が働いているとみるべきであろう。当該歌は越中での儲作歌であり、家持は実際に目にし得ない景はうたわず、むしろ「あり通ひ」の語に吉野の風光およびそれへの讃美の思いを凝縮したのではなかろうか。風光の地だからこそくり返し通うのである。またそれゆえに天皇は「見したまふ」にちがいないのである。

  一首において吉野の風光は「あり通ひ」の語をもって暗示の景として示される。それは「すめろきの神の尊」が創始した宮に変わることなく備わる景である。「あり通ひ」の語をもって、変わらぬ風光、宮の長久を暗々裏に示しつつ、その景をくり返し通って見る人麻呂以来の天皇像を描出する。そしてそれによって永続する皇統をも示す。「あり通ひ見したま ふらし」は、家持なりの工夫として皇統讃美の表現を意図したものと考えられる。  長歌の後半においては、「八十伴の緒」の将来にわたっての永続的な臣従が、吉野の川と山を譬喩に「この川の絶ゆることなく  この山のいや継ぎ継ぎに」と表現される。これも人麻呂の「この川の絶ゆることなく  この山のいや高知らす」(1・三六)、赤人の「その山のいやますますに  この川の絶ゆることなく」(6・九二三)の表現に倣ったものとみられる(注

17)。ただし人麻呂も赤人も、その前提として人麻呂は吉 野の川の、赤人は吉野の山と川の景を具体的に述べて、それを受けて用いている。家持がそれを知らないはずはないから、家持においては、前半で吉野の風光を「あり通ひ」に託したことを受けて「この川の……この山の……」と表現したのであろう。しかもこれらの詞句は、「この川の絶ゆることなく この山のいや継ぎ継ぎに  かくしこそ仕へ奉らめいや遠長に」と、臣従の永遠を示す譬喩として用いられている。これは従駕の官人がともに見る景だからこそ成り立つ表現である。実際、第二反歌には「八十氏人も」「絶ゆることなく仕へつつ

(9)

見む」とある。高松寿夫は二首の反歌について「天皇と従駕の群臣との視線の共有」があることを指摘している(注

18)。

長歌において従駕の官人が見ることは直接にはうたわれないが、ともに見る存在として天皇の「あり通ひ見したまふ」行為に「八十伴の緒」の視線も重ねてとらえられているのであろう。

  このように整理すると、「あり通ひ」には吉野の風光が暗示されるとともに、その風光に接すべく吉野へと赴く天皇、また官人たち一行の君臣一体の姿が示唆されているといえよう。前掲の家持の「あり通ふ」の例でも、「布勢の水海」の遊覧を内容とする1・5には「思ふどち」の語が含まれ、その風光は共有の景として示される。前半を受けて後半が「八十伴の緒も」と、「も」を伴ってうたい起こされるのも「あり通ひ」の共有に呼応してのことと考えられる。

二、「己が名負ひて」の表現

  長歌の後半では永続的な臣従の思いが述べられる。反歌では第二反歌が呼応する。「もののふの八十伴の緒」「もののふ の八十氏人」は、ともに先行する吉野讃歌には見られない詞句である。吉野を詠出の場とする讃歌では、従駕の官人は「大宮人」の語(1・三六〈人麻呂〉、6・九二〇〈金村〉、同・九二三〈赤人〉)を用いて総体としてとらえられる。したがって、これらの語句は「己が負へる己が名負ひて  大君の任けのまにまに」と、官人個々の従駕を述べる文脈の形成にかかわって意識的に選ばれたものと考えられる。  「己が負へる己が名負ひて」の「己が名」は「八十伴の緒」

、すなわち「八十氏人」が負う氏の名である(注

は『古事記伝 祖より負へる家の職を負てと言ふ也」と述べる。宣長の見解 負ひて」については、『万葉集略解』が「宣長云」として「先 19)。「己が名

三十九之巻』に次のように見られる。

古は氏々の職 業各定まりて、世々相   ヒツギて仕

職即 ワザ 奉りつれば、其   ヘ  ノ

其家の名なる故に、即   チ  ノ

  チ

職業を指ても名と云り、   ノ  シ

  氏族は祖先以来、家の職を代々受け継いで朝廷に仕えてきたから家の職によって家の名があるという。「己が名」が氏の名、家の名であることは家持の「族を喩す歌」(以下、「喩族歌」)から窺われる。この歌は天平勝宝八年(七五六)六月の

(10)

作で、左注に淡海三船の讒言によって同族の出雲守大伴古慈斐が解任された折の作と伝えられる歌である。左注の伝えは『続日本紀』同年五月十日条が記す内容と異なり、その実際についてははっきりしないが、「族を喩す」とあり、古慈斐が関与した事件を受けて大伴一族に自戒をうながすべく作られた歌である。代々朝廷に武をもって仕えてきた大伴氏の氏族意識を前面に押し出した作で、長歌に氏が負う名をさして「祖 おや

の名」がうたわれる。……秋津島  大和の国の  橿原の  畝傍の宮に  宮柱 太知り立てて  天の下  知らしめしける  皇祖の  天の日継と  継ぎて来る  君の御代御代  隠さはぬ  赤き心を  皇辺に  極め尽くして  仕へ来る  祖の職と  言立てて  授けたまへる  子孫の  いや継ぎ継ぎに  見る人の  語りつぎてて  聞く人の  鑑にせむを  あたらしき 清きその名そ  おぼろかに  心思ひて  空言も  祖の名絶つな  大伴の  氏と名に負へる  ますらをの伴

20・四四六五)

  冒頭以下、祖先の宮廷への奉仕がうたわれ、まず天孫降臨 に従い「国まぎ」しながら平定に奉仕したことが述べられる。続いて引用箇所となり、神武天皇以来、天皇の御代ごとに隠すところのない赤心をもって継続的に奉仕してきたこと、代々奉仕してきた「祖の職 つかさ」を授けられた子孫は、見る人が語り継ぎ聞く人の手本となるはずのものであることがうたわれる。また「あたらしき清きその名」を疎かに思ってかりそめにも「祖の名絶つな」と、「祖の名」を絶やしてはならないことが大伴の氏人に呼びかけられる。「大伴の氏と名に負へるますらをの伴」の呼びかけには、「ますらを」としての意識のもと「大伴」の「名」への強い自負が込められている。  要点とするところは「祖の職」は「あたらしき清きその名」、すなわち惜しむべき清き名であり、「大伴の氏と名に負へるますらをの伴」はけっして「祖の名」、祖先の名を絶ってはならないということである。「祖の名」は「祖の職」と表裏し、「祖の名」は祖先が朝廷に奉仕してきた来歴、氏の由来、その伝統ということになる。氏族にとってそれは「今ここにある」ことの由縁を成すものである。それゆえに神聖な「清きその名」として「ますらを」によって受け継がれるべきものとい

(11)

一〇

うことになる。

  宣長の説く通りで、当該歌の「己が名」は「祖の職」に基づく「祖の名」であり、氏の名、家の名を内実とする。「もののふの八十伴の緒も  己が負へる己が名負ひて」には、「ますらを」の自負のもと祖先以来の氏の伝統を身に負って従駕する官人像をみることができる。

  家持の作歌では、「祖の名」はもう一例、当該歌の直前に配される「出金詔書歌」の長歌でうたわれている。……(A)大伴の  遠つ神祖の  その名をば  大来目主と  負ひ持ちて  仕へし官  海行かば  水漬く屍  山行かば  草生す屍  大君の  辺にこそ死なめ  かへり見は せじと言立て  ますらをの  清きその名を  古よ  今の現に  流さへる  祖の子どもそ  大伴と  佐伯の氏は 人の祖の  立つる言立て  人の子は  祖の名絶たず  大君に  まつろふものと  言ひ継げる  言の官そ

  (B)

梓弓  手に取り持ちて  剣大刀  腰に取り佩き  朝守り 夕の守りに  大君の  御門の守り  我をおきて  人はあらじと  いや立て  思ひし増さる  大君の  御言の幸の  一に云ふ「を」 聞けば貴み 一に云ふ「貴くしあれば」

18・四〇九四)

  引用は長歌の末部で、「出金詔書」(宣命第十三詔)で大伴氏の忠誠が賞されたことを踏まえての祖先の奉仕への回顧(A)、「大君の御門の守り」に対する新たな忠勤の心の表明(B)から成る。Aの要点は、

  ①

てのものであること、   大君の辺にこそ死なめかへり見はせじ」と誓いを立て    て仕へし官」は、「海行かば水漬く屍山行かば草生す屍    「大伴の遠つ神祖のその名をば大来目主と負ひ持ち

  ②

伝えてきた「祖の子ども」なのだということ、 大伴は「ますらをの清きその名を」昔から今に至るまで

  ③

の三点である。 る言の官」なのだということ、 つかさ    孫は「祖の名絶たず大君にまつろふものと言ひ継げ 大伴氏と佐伯氏は祖先が立てた誓いに、「人の子」たる子

  ①は大伴氏の「祖の職」を示したものであり、②ではそれが「ますらをの清きその名」ととらえられる。そのうえで、大

(12)

一一 伴氏は「ますらをの清きその名」を受け継いできた「祖の子ども」であり、「祖の名」を絶やすことなく、変わらぬ奉仕を言い継いできた、言葉通りの「官」の氏であるとうたわれる。「喩族歌」同様、「祖の職」と「祖の名」は表裏し、「祖の名」は「ますらをの清きその名」とされる。家持の「氏の名」に対する認識は、「出金詔書」を契機に、氏族の「職」の伝統への自覚と表裏して「出金詔書歌」の作製を通して明確化されたものであろう。  この歌では特に、③の箇所で「人の子は祖の名絶たず  大君にまつろふもの」とうたわれる。これは「出金詔書」で天皇の「内兵」として祖先以来の忠誠が賞され、故 かれ、是を以て子は祖の心成すいし子には在るべし。此の心失はずして明き浄き心を以て仕へ奉れ……と述べられたところと呼応する。松田聡は当該歌の「己が負へる己が名負ひて……かくしこそ仕へ奉らめいや遠長に」について、第十三詔中の右の「子は祖の心成すいし子には在るべし。此の心失はずして明き浄き心を以て仕へ奉れ」を「直接に承けたもの」と指摘する(注

20)。「出金詔書」から「出 き姿への感慨を通して作られたものといえよう(注 に抱かれた氏族伝統への自覚を背景に、廷臣としてのあるべ まえると、当該歌は「出金詔書歌」の製作を機に家持に明確 ひて」の臣従の表現のごとくなるであろう。こうした点を踏 の奉仕に即してとらえれば、当該歌の「己が負へる己が名負 もの」、「子は祖の心成すいし子には在るべし」、これらを実際   うか問題を残すが、「人の子は祖の名絶たず大君にまつろふ 金詔書歌」への展開も考慮されるべきであるから、直接かど

21)。

三、「己が名負ひて」と「大君の任けのまにまに」

  「己が名」

は「祖の職」の継承にもとづく氏の名と考えられる。したがって、「己が名負ひて」の表現は官人の氏人としての立場を示すものである。しかし行幸従駕の場合、官人は氏人として従駕するわけではない。あくまで天皇に仕える臣下の一員として従駕する。その意味で、「己が名負ひて」は行幸従駕に際しての必要条件とはいえない。むしろ続く「大君の任けのまにまに」の方が従駕の実際に即したものといえる。

  『万葉集』での使用においても、「大君の任けのまにまに」

(13)

一二

が当該歌も含めて七例、類似の「大君の任きのまにまに」(

18・

四一一六)、「大君の命のまにま」(

20・四三三一)が各一例あ

り、家持の歌での使用を中心に(家持以外は二例)、天皇の命を受けて国司や防人が任地に赴くことを内容とする。行幸従駕の例は当該歌のみだが、行幸の場合も天皇に従う廷臣の立場は「大君の任けのまにまに」の方が無理のない表現である。

  「己が負へる己が名負ひて」

と「大君の任けのまにまに」とは、双方とも官人の立場を示すものではあるが、根本的に質を異にする。双方の並置は当該歌の特色であり、また歌の性格を考えるうえで注目すべき点である。

  前記したように、「己が負へる己が名負ひて」の臣従の表現は、「出金詔書歌」で「人の子は祖の名絶たず  大君にまつろふもの」という認識と無関係ではないと考えられる。この認識は「出金詔書」の「子は祖の心成すいし子には在るべし。此の心失はずして明き浄き心を以て仕へ奉れ」という祖先の心での奉仕の指示とも通底する。

  それが詔書として公布されているということは、「祖の名」を継承し、それを「己が名」として朝廷に「仕へ奉る」とい う考え方が、当時社会に認知されたひとつの思想としてあったことを示している。あらためて「祖の名」に注目すると、『万葉集』には三例あり、家持の「出金詔書歌」「喩族歌」の二例のほか、天平元年(七二九)の「摂津国の班田の史生丈部龍麻呂自ら経きて死ぬる時に、判官大伴宿禰三中が作る歌」に一例見られる。天雲の  向伏す国の  もののふと  言はるる人は  天皇の  神の御門に  外の重に  立ちさもらひ  内の重に 仕へ奉りて  玉かづら  いや遠長く  祖の名も  継ぎ行くものと  母父に  妻に子どもに  語らひて  立ちにし日より……(3・四四三)

  この歌でも、「祖の名」は「いや遠長く」「継ぎ行くもの」とうたわれ、その継承すべき事柄は「もののふ」として宮殿の内外で「仕へ奉る」ことと解される。一首は「出金詔書歌」より二十年前のものである。

  また、『続日本紀』にも「祖名」は二例あり、次のように記される。

  〇

……是を以て汝等も今日詔りたまふ大命のごとく君臣祖

(14)

一三 子の理を忘るることなく、継ぎ坐さむ天皇が御世御世に明き浄き心を以て祖の名を戴き持ちて、天地と共に長く遠く仕へ奉れとして、冠位上げ賜ひ治め賜ふ……

(天平十五年〈七四三〉五月五日条〔「宣命」第十一詔〕)

  〇

たまふ天皇が大命を、衆聞きたまへと宣る…… ……己が家家己が門々祖の名失はず勤め仕へ奉れと宣り

(天平宝字元年〈七五七〉七月二日条〔

「宣命」第十六詔〕)

  二例とも宣命中に見え、前者は「君 きみおみおやの理」を忘れることなく「明き浄き心を以て祖の名を戴き持ちて」、「長く遠く仕へ奉」ることが、後者は「己が家家己が門々祖の名失はず勤め仕へ奉」ることが求められた文脈での例である。「祖の名を戴き持ちて」「祖の名失はず」の表現は、ともに朝廷に「仕へ奉る」態度であり、これらの「祖の名」も朝廷に職を奉じ仕えてきた祖先の来歴を内実とするものと考えられる。後者の例は、当該歌より八年後の例になるが、「己が家家己が門々祖の名失はず」は、「己が負へる己が名負ひて」と重なる内容である。

  当該歌にみる「己が名」の認識は、家持に即してとらえる と、「出金詔書歌」に端を発したものとみられるが、「祖の名」の継承観念は天平期には歌に表現され、その後の詔書にも示されるほどに朝廷の内外に浸透した共通の認識であったと考えられる(注

22)。

  家持はそれを「出金詔書」を契機に「ますらをの清きその名」(

18・四〇九四)として、

「ますらを」意識のもとにとらえ直し(注

と見通される。 朝廷奉仕の礎を成すものとして「出金詔書歌」に示したもの 23)、「祖の名」の継承を氏族の、またみずからの

  家持には、こうした「ますらを」意識のもとに「名」を詠んだ歌がもう一例見られる。天平勝宝二年(七五〇)三月の「勇士の名を振るはむことを慕ふ歌」がそれである。ちちの実の  父の命  ははそ葉の  母の命  凡ろかに 心尽くして  思ふらむ  その子なれやも  ますらをや 空しくあるべき  梓弓  末振り起こし  投矢持ち  千尋射渡し  剣大刀  腰に取り佩き  あしひきの  八つ峰踏み越え  さしまくる  心障らず  後の代の  語り継ぐべく  名を立つべしも(

19・四一六四)

(15)

一四

ますらをは名をし立つべし  後の代に聞き継ぐ人も語り継ぐがね(四一六五)

  左注には、「山上憶良臣の作る歌に追和す」とあり、山上憶良の最晩年にあたる天平五年(七三三)、病床にあった憶良によって詠まれた「山上臣憶良、沈痾の時の歌一首」に追和したものとみられる。憶良の歌には、士やも空しくあるべき  万代に語り継ぐべき名は立てずして(6・九七八)とあり、男子たる者が「万代に語り継ぐべき名」を立てることもなく空しく世を去ることへの慚愧の念が吐露されている。

  憶良の歌は「立名」の思想を負うものであるが、家持もまた長歌において「ますらをや空しくあるべき」といい、「後の代の語り継ぐべく名を立つべしも」とうたう。男子たる者空しくあってはならず、後の世の人々が語り継ぐにふさわしい名を立てなければならないという。その思いは反歌でも反復され、端的に「ますらをは名をし立つべし」とうたわれる。反歌の「後の代に聞き継ぐ人も語り継ぐがね」の表現は、「喩族歌」において、「祖の職」を継承する子孫のあるべき姿として 「見る人の語りつぎてて  聞く人の鑑にせむ」ことをうたうのと通底する。「祖の職」を内実とする「祖の名」が「ますらをの清きその名」であって見れば、その名を継承し、「後の代に聞き継ぐ人も語り継ぐ」ほどに名を揚げることが「ますらを」のあるべき姿ということになる。その点で「祖の名」の継承と「立名」とは相互に関連する。  しかも右の長歌冒頭では、父母が「凡ろかに心尽くして  思ふらむその子なれやも」と、「ますらを」たる者は父母によって慈しまれた存在であることが示され、それを受けて、その子たるものは「ますらを」として「名を立つ」べきことがうたわれる。  父母の慈に「立名」が表裏するのは、「立名」は父母への孝という考え方にもとづくからである。こうした思想を示す代表的な経書に『孝経』がある。『孝経』(古文孝経)「開宗明義章」には次のように記される(注

24)。

身體髪膚、受于之父母。弗敢毀傷、孝之始也。立身行動、揚名於後世、以顯父母、孝之終也。夫孝始於事親、中於事君、終立於身。大雅云、亡念爾祖。聿修其德。

(16)

一五 (身体髪膚、これを父母に受く。敢て毀傷せざるは、孝の始めなり。身を立て道を行ひ、名を後世に揚げ、以て父母を顕はすは、孝の終りなり。それ孝は親に事ふるに   始まり、君に事ふるに中し、身を立つるに終る。大雅に云ふ、「爾 なんぢの祖を念ふこと亡からんや。その徳を聿 べ修む」と。)

  身体はすべて父母から戴いたものであり、それを傷つけないで守るのは「孝の始め」、また人として成長して正しい道を踏み行い、名を後世に語り継がれるように揚げ、父母の名を世間にあらわすのが「孝の終り」という。また孝行は親に仕えることに始まり、次に君に仕えて忠を尽くし、立派に身を立てて終わるともいう。父母への孝は「立名」と表裏し、それはまた主君への忠をも導くものとする考えが示されている(注 25)。

  また、こうした事柄にかかわって思い起こされることとして、『詩経』大雅「文王之什」に収められる「文王編」の一節が引かれる。「文王編」は周公の作とされる詩で、周の初代武王の父である文王(西伯を追号)を天命を受けて王となった 存在として敬仰し、その徳を忘れぬよう武王の子の成王に教え諭した内容をもつ。『孝経』の引用部分は、前二句と対をなし、次のようにうたわれる(注

26)。

王之藎臣  無念爾祖  

    無念爾祖聿脩厥德 からんや 王の藎臣、爾の祖を念ふこと無 じんしん

厥の徳を聿べ修む   爾の祖を念ふこと無からんや

  成王の忠臣たちに呼びかけて、盛徳ゆえに天命を受けた汝の祖たる文王を忘れてはならないことをいい、文王の徳を述べあらわして、これに倣って徳を修めていかなければならないという。子孫は祖先の徳を受け継いで多福を求めなければならないというのである。『孝経』の文脈で理解すると、「子は親の遺体」であり、子孫は代々祖先を忘れずその徳を受け継ぎ、多福を求めて怠ってはならないということになる。

  『孝経』が説く父母への孝は、

「立名」「忠君」の教えを導き、引いては祖先の徳への追慕・顕彰をも含意する。これらの事柄は、家持の「ますらを」意識と表裏する「祖の名」の継承にもとづく祖先の顕彰や「立名」の思想とそのまま重なる点

(17)

一六

である。いずれも孝の思想のうちにあるといってよい。「それ孝は親に事ふるに始まり、君に事ふるに中し、身を立つるに終る」のであり、官人が「祖の名」を継承し祖先の徳を追慕・顕彰することは親への孝に属し、その孝の精神で主君たる天皇に仕え尽くすのが忠である。また忠をもって身を立て名を揚げることによって親の恩に報いて孝が果たされることになる。必然的に「祖の名」の代々の継承は朝廷への永続的な臣従を実質として内在し、双方は表裏の関係を成すことになる。おのずとそこに志向され、また立ち現れるのは君臣一体の理想の関係である。

  当該歌で家持が「大君の任けのまにまに」の前に「己が負へる己が名負ひて」の句を据えたのは、「大君の任けのまにまに」では示し得ない、君臣一体の世界を一首に仮構するためであろう。当該歌において「己が負へる己が名負ひて」は据えられるべくして据えられているのだと考えられる。

  「大君の任けのまにまに」

についてもその使用に目が向けられなければならないが、この句については、小野寛が「大君の命かしこみ」との比較を視野に、家持は「ますらを」意識 にもとづき「天皇の「みこともち」であるという自覚」に根ざして使用していることを分析している(注

27)。行幸従駕に

際しての使用はこの例のみであるが、国司の赴任等にかかわって、「ますらを」意識のもと、積極的な姿勢で用いられるこの句を据えたのは、「己が負へる己が名負ひて」に示される「ますらを」としての意識に呼応して天皇への臣従の姿勢を強く打ち出すためであろう。これによって、君臣一体への志向はより強く示されることになる。君臣一体への志向は前半の「あり通ひ」の表現からも窺われたところであり、これを受けて「己が負へる己が名負ひて」「大君の任けのまにまに」の表現によってその実質が得られているのだと考えられる。

の性格は君臣一体の理想の関係を希求した、官人による寿詞 の寿ぎでもある。一首は吉野での宮廷讃歌とは質を異にし、そ たり、その永続の誓いはそれにもとづく皇統の繁栄を願って 「かくしこそ仕へ奉らめいや遠長に」の臣従の表明はそれに当 保証されることになる。吉野の川や山をよりどころにしての は、臣従する「八十伴の緒」の忠の表明によって最終的には   「己が負へる己が名負ひて」の臣従による君臣一体の関係

(18)

一七 ともいうべきものである。

  反歌二首では、第一反歌で長歌前半を受けて、天皇が吉野にくり返し通って宮をご覧になり、「いにしへ」を思われることが、第二反歌では長歌後半を受けて、「八十氏人」も絶えることなく仕え続けて吉野を見ることがうたわれる。天皇と臣下とがともに吉野を見ることについては、前記したように高松が天皇と群臣の「視線の共有」を指摘し、その意味を宴席における「君臣和楽の理想的なあり方」を示すものと論じている(注

28)。反歌における君臣の和楽は、

君臣一体の理想の関係を希求した長歌の補完として当然あるべき、求められる世界である。しかも天皇については「いにしへを思ほすらしも」と、長歌冒頭の「すめろき」の表現と呼応して、皇統の始原を成す天武・持統朝が提示され、君臣がともに吉野を見るなかで、「いにしへ」をよりどころに君臣和楽の現在と未来とが確認される。ここに意識されているのは天武・持統を始祖とする皇統の万代であろう。   長歌の「己が負へる己が名負ひて」の詞句はこの歌だけに見られる、極めて特異な表現である。そこには氏族の歴史を負って従駕する官人像が示されている。氏の名を負っての行幸従駕といったことは個人の感慨は別にして、組織に生きる律令官人にはあり得ないことである。氏の名である「祖の名を戴き持ち」仕える、その理念を支えたのは儒教の孝の思想であり、親への孝と主君への忠が表裏するところに、当該歌における君臣一体の世界が仮構されることにもなったと考えられる。それは、家持が天孫降臨以来の「伴」の氏族の継承者として、「ますらを」の自負のもと強く希求する世界でもあったのである。  家持が当該歌に求めたのは、皇統とともにある廷臣のあるべき姿、君臣一体・君臣和楽を内容とする理想的な君臣の関係であった。  なぜ吉野かという点については諸説見られるが(注

29)、「出

金詔書歌」の製作を背景に当該歌が作られたとすると、皇統とともにある廷臣氏族のあるべき姿の詠出という目的にかかわって、皇統の始原の地である吉野が選ばれたのではなかろ

(19)

一八

うか(注

30)。吉野の選択は、

廷臣が天皇に仕えていまここにあること、その奉仕の原点の確認ともなるからである。吉野への行幸を仮構した当該歌は、皇統の万代を祝した、家持の内なる寿詞というべきものであった。

(1)伊藤博「家持の芸」(『萬葉集の表現と方法

下』塙書房、

一九七六年一〇月)(2)小野寛「家持と陸奥国出金詔書」(『大伴家持研究』笠間書院、一九八〇年三月)(3)本文上問題となる箇所は二箇所。「己が名負ひて」、元暦校本・西本願寺本等「於能我名負々々」、『万葉集略解』所引宣長説により「於能我名負弖」、「まにまに」、西本願寺本等「麻久々々」、『万葉考』により「麻尓々々」と解す。(4)清原和義「吉野─遙か越中より」(『萬葉集の風土的研究』塙書房、一九九六年五月)(5)該当する讃歌は、1・三六〜三九(持統朝、柿本人麻呂)、6・九〇七〜九一二(養老七年〈七二七〉、笠金村)、3・三一五〜三一六(神亀元年〈七二八〉、大伴旅人)6・九二〇〜九二二(神亀二年〈七二九〉、金村)、6・九二三〜九二七(同、山部赤人)、6・一〇〇五〜一〇〇六(天平八年〈七三六〉、赤 人)。(6)神野志隆光「吉野行幸の「儲作歌」をめぐって」(「高岡市萬葉歴史館叢書

26 歌の道─家持へ、

家持から─」二〇一四年三月)。(7)吉井巌「万葉集巻六について─題詞を中心とした考察─」(『万葉集への視覚』和泉書院、一九九〇年一〇月)、同『万葉集全注

巻第六』

(有斐閣)(8)神野志隆光「補説

聖武朝の皇統意識と天武神話化」

(『柿本人麻呂研究─古代和歌文学の成立─』(塙書房、一九九二年四月)(9)持統天皇の吉野行幸の意義を天武秩序確認のためとする点については、拙稿「万葉集にみる飛鳥と吉野の交流」(「明日香風」第一二六号、二〇一三年四月)参照。(

( 一一五号第一〇号、二〇一四年一〇月) 10)拙稿「笠金村の養老七年吉野讃歌の主題」(「國學院雑誌」第

( 第八集』有斐閣、一九七八年一二月) 11)小野寛「陸奥国に金を出だす詔書を賀く歌」(『万葉集を学ぶ 12)注2小野論文。

13)家持の「すめろき」

「御代」の認識については、注2小野論文、鉄野昌弘「賀陸奥国出金詔書歌」論(『大伴家持「歌日誌」論考』塙書房、二〇〇七年一月)参照。(

14)赤人歌の性格については、

拙稿「山部赤人の天平八年吉野讃歌の特質」(「文学論藻」第八九巻、二〇一五年二月)参照。

(20)

一九 ( 15)注4清原論文。

16)掲出以外の「あり通ふ」の用例は、3・三〇四、6・九三八、

13・三二三六(雑歌)、

10・二〇八九、

( 2・一四五、3・四七九(挽歌)。 12・三一〇四(相聞)、

17)沢瀉久孝

『万葉集注釈』。天平八年の赤人歌の「この山の尽きばのみこそ  この川の絶えばのみこそ」(6・一〇〇五)の表現ももちろん知るところであったろう。(

( 〇〇七年三月) 持の作品に触れながら─」(『上代和歌史の研究』新典社、二 18)高松寿夫「宮廷公宴における視線の共有─山部赤人、大伴家

( (6・九四六、赤人)で自身の名。一例が「己が名を告る」 19)「己が名」の用例は全体三例。他は一例が「己が名惜しみ」 10・二一三九)で雁を対象とする。

20)松田聡

「家持の宮廷讃歌─長歌体讃歌の意義─」(「美夫君志」第五七号、一九九八年一二月)。(

21)伊藤博『万葉集全注

  巻第十八』は、「己が名負ひて」について、「前の長歌四〇九四に「ますらをの清きその名を  いにしへよ今のをつつに  流さへる祖の子どもぞ」などと述べるところに直結するもの」で、当該歌が「出金詔書歌」に「連動しての詠であることを明示する」と述べる。(

八四号、二〇〇三年七月)は、当該歌の詞句の出典に留意し 22)新沢典子「大伴家持の吉野讃歌と聖武天皇詔」(「萬葉」第一 ( 書歌」との関係はやはり重視されるべきであろう。 年前の詔書に依拠したと特定できるものであろうか。「出金詔 元年には見られる。その点で時を等しくした詔書ではなく、六 えるものが多く、「己が名」にかかわる「祖の名」の例も天平 一詔に注目して作歌したと説く。当該歌の詞句は他の歌に見 て、家持が『続日本紀』天平十五年五月の宣命第九詔、第十

23)「出金詔書歌」

の第一反歌にも「ますらをの心思ほゆ大君の御言の幸を聞けば貴み」(

( らをの心」がうたわれる。 18・四〇九五、異伝省略)と、「ます

24)『孝経』は養老令「学令」経周易尚書条に大学

・国学で学ぶべき一経として規定され、天平宝字元年(七五七)四月四日には、孝を「百行の本」と称揚し、家ごとに『孝経』一本を蔵して学ぶべきことが命じられた(『続日本紀』)。また、養老令「戸令」の国司巡行条には、国守の属郡巡行に際して褒賞すべき人物の条件に「孝悌」が挙げられる。『孝経』の孝の思想が社会秩序の形成にかかわって重視され、浸透していたことが窺われる。『孝経』の訓読・解釈は、林秀一『孝経』(明徳出版社)による。(

「士」は卿大夫に次ぐ者。『白虎通』には「士者事也。任事之 ればすなわち忠、弟を以て長に事ふればすなわち順)とある。 章」にも「以孝事君則忠。以弟事長則順」(孝を以て君に事ふ 25)忠(忠誠)が親への孝から導かれる点については、『孝経』「士

(21)

二〇

称也」とあり、君に事えて事に任ずる称である。仕える者の立場にかかわって、父に仕える孝を君に移して仕えれば、君に対する忠の徳となり、兄に仕える弟(従順さ)を移して長上(目上)に仕えれば、長上に対して従順の徳となると説かれる。(

26)『詩経』

の本文は『十三経注疏  附校勘記  上冊』(中華書局)による。訓読・解釈は、高田眞治『漢詩大系  詩経下』(集英社)による。(

27)小野寛

「大君の任のまにまに─家持の「ますらを」の発想─」(『大伴家持研究』笠間書院、一九八〇年三月)(

28)注 18高松論文。注

20松田論文も

「宴における披露を想定して」の作とする。なお、当該歌を対象とするものではないが、「見る」ことの共有については、青木生子「人麻呂と「いにしへ」」(『萬葉挽歌論』塙書房、一九八四年三月)にも指摘がある。(

のと考える。 う見解を示す。本稿も歌の性格からこの方向で理解すべきも という願望が先にあって、そのために吉野行幸を想定」とい に対して、『萬葉集全歌講義』は「行幸従駕の歌を詠作したい 例に倣って即位後の行幸が意識された結果とする説。これら とする説、二か月後の七月に孝謙天皇が即位することから、前 ど天平感宝元年の状況を踏まえて吉野行幸の実施を予想した 29)大きく分けて二説。瑞祥の出現・改元・詔書の発布・叙位な (

第九〇号、二〇一六年二月)参照。 ころである。拙稿「天武天皇の「よき人」の歌」(「文学論藻」 ることは、『万葉集』では巻一の二七番歌に端的に示されると 30)吉野が有徳の君子と有徳の人臣とが集う君臣和楽の聖地であ

参照

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