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重森三玲の作庭における見立の表象

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重森三玲の作庭における見立の表象

著者 有澤 晶子

著者別名 ARISAWA Akiko

雑誌名 文学論藻

巻 87

ページ 54‑70

発行年 2013‑02

URL http://id.nii.ac.jp/1060/00012934/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

日本や中国における庭園は単なる自然のミニチュアか否か︒

﹁重宝也可秘々々﹂すなわち︑心にとめて大切に取り扱うもの

であり︑秘すくし秘すべし︑でしめくくられ︑日本最古の作

庭秘伝書とされる﹃作庭記﹄︵作者不詳・平安時代二世紀末

︵1︶から一二世紀後半頃までに成立︶の冒頭には次のようにある︒

石をたてん事︑まづ大旨をこころふべき也︒

一︑地形により︑池のすかたにしたがひて︑よりくるぐらして所々に︑風情をめ□□□□︑生得の山水をおもはへて︑

その所々は□こそありしかと︑おもひよせおもひよせた

つべきなり︒ はじめに

重森三玲の作庭における見立の表象

︵2︶これについて重森三玲は︑次のように記している︒

ここで﹁石をたてん事﹂とあるのは︑石を立てるだけ

のことではなくて︑庭を作るということは︑という意味

である︒庭は石を立てるということが中心の美的構成で

あることから︑﹁庭を作る﹂ということの代名詞として

﹁石をたてん事﹂といったのであり︑そのことに注意して

おく必要がある︒

このようにまず︑庭園全体のことについて述べたものである

という前提を示している︒そして︑次の記述について︑﹁生得

の山水︑即ち生きている大自然の風景を思い出して︑その所々

には︑なるほどと合点のゆくような風景を造るべきだと主張

している﹂と解釈した上で︑次のようにつづく︒

有澤晶子

五四

(3)

﹁ここでむずかしいのは生得の山水ということである︒これ

は生きた自然のままの山水ということであるが︑生きた山水

ということは︑対象としての自然ではなく︑自己の中に生き

て映る自然の山水ということであって︑これには上古以来の

神と人とを同体のものとして含めた意味があって︵以下略︶﹂

と考察している︒

﹁生得の山水﹂に対する三玲の考え方は︑早くはすでに﹃枯

︵3︶山水﹄の著でも述べている︒﹁自然美としての景色のみでなく︑

その上に追加された風情感の上からのみ自然の美を見ている

のである﹂とし︑その風情感とは︑﹁自然に対する自我主観を

強調することによってのみ︑自然の美は存在する﹂ものだと

して主観を強調する︒さらに山水について︑室町初期以来︑

中国山水画や画論等の流入によって︑﹁最初は自然への景観に

対して山水と称し︑後には庭園に対してまでもしだいに山水

と称するようになった﹂﹁山水画的な庭園が発達し︑庭園を

もっぱら山水と称することが流行したとみるべきである﹂と

する︒

つまり︑実際の自然の風景を見ながら造るのではなく︑自 然の風景を心の中に収めて︑そこに過去からの自然に対する思いなども勘案し︑自らの心象も投影して作り出すものであるということであろう︒そのような作り方は︑中国の山水画が︑自然の風景を心の中に写し取って︑場を換えて一気に描き出す写意表現によることと共通の創作方法をもっていると考えることができる︒すなわち庭園は︑自らの美的追求をつらぬいて造っていくものであり︑そこに作り手の精神が積み重ねられ︑庭は人間の精神世界を象徴した独自の世界観を形成していくことになる︒

重森三玲︵一八九六〜一九七五︶は専門に造園を学んだわ

けではなかったが︑日本全国の三○○の庭園を三年かけて克

︵4︶明に実測調査し︑﹃日本庭園史図鑑﹄全二六巻にまとめあげた︒

その後さらに庭園の分析分類も系統化が進められ︑﹃日本庭園

︵5︶史大系﹄全三五巻を著している︒こうして三玲は日本庭園の

歴史︑特性を掌中にし︑同時に造園家として作庭にその成果

を昇華させている︒

三玲は︑日本庭園の根本概念は象徴主義である︑という明

確な見方を示している︒そして庭園は︑各々そのテーマをも

五五

(4)

ち︑抽象を具現化するものととらえ︑それによって現代に展

開する表現としての日本庭園の存在を可能にしている︒

中国から受容した庭園文化が日本的変化を遂げながら形づ

くられた枯山水式庭園が︑その独自性を鮮明にする後期枯山

水︵東山時代以降︶への変化を三玲は﹁砂をもって水に代え︑石

をもって海や山に代え︑全く異なった領域の材料によって︑

別格の庭園を構成して行った⁝︵略︶:・姿に見えぬ景色その

ものを具現化したものであった﹂会枯山水乞と解する︒庭の

見立の質的変化ととらえることができるだろう︒つまり︑池

園式庭園では海を見立てるに水をもってし︑築山と植栽で山

を見立てたが︑枯山水ではそれが砂と石になった︒これによ

り単なる素材の変化にとどまらず︑より抽象的なテーマへと

表現の可能性をひろげたのである︒

︵6︶重森三玲に関する研究は︑中田勝康﹃重森三玲庭園の全貌﹂

で︑三玲が作庭した庭について︑﹁重森三玲の格闘を記録︑証

明︑考察すること﹂を目的に︑写真つきで非公開庭園も含め

て二三の庭を作庭順に解説している︒このほかに︑三玲が

実測調査した庭園をどうとらえたかを考察している︒これ以 外では︑三玲の主な京都の庭を紹介する書として一重森三玲﹄

含j︶I︑Ⅱがある︒また︑建築学会や造園学会等における茶室を

︵8︶対象にする研究や個別のテーマについての研究等がある︒

本稿では︑庭園の見立表現の特徴を明らかにするために︑

三玲の作庭とそこに投影される古典庭園の特徴とを対比させ

ながら検討してみたい︒三玲は︑﹁庭は︑あくまでも︑自然を

︵9︶乗り越えた︑別の自然が創作された時にのみ存在する﹂とい

う︒その創作が如何なる意図のもとに作庭されたのか︑そし

てそれはどの時代の如何様な創作精神に基づいて発展熟成さ

せたものなのかを考察し︑作庭の根底に流れる見立表現の世

界観を明らかにしたい︒

庭園は総じて作庭年代やその後の変遷を記録することは稀

で︑確たる文献資料がない︒しかも建造物と同時期に作庭さ

れているとは限らない︒そこで三玲は様式︑手法によって分

類して歴史を推し測っている︒三玲はどのような基準で分類

し︑庭園の様式と変遷をどうとらえたのであろうか︒基本的 |・三玲による庭園研究 五六

(5)

には︑古くからある分類法を参照しながら︑﹁系統的に庭園様

式を分類﹂しようとした︒その目的は︑体系化や鑑賞のため

以外に︑﹁自ら作庭する場合﹂に有効と考えたからであると明

言している︒したがって︑この庭園研究は︑三玲の作庭の基

︵川︶礎となったものということができる︒

三玲は庭園の様式を︑形式︑用途︑内容によって分けて系

統化している︒それぞれの時代の庭園の用途は︑求める精神

に応じて内容が決まり︑その内容にみあった形式が生まれた

ということになろう︒三玲が全国踏査によって為し得たもの

だが︑そこには三玲独自の観察眼や視点がある︒ただし現在

は︑たとえば毛越寺庭園︵岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢︶

や平等院鳳凰堂庭園︵京都府宇治市宇治蓮華︶などは︑配置

全体で︑極楽浄土に見立てた空間ということで浄土庭園とい

う言い方で類型化されている︒三玲の場合は︑毛越寺庭園は

洋池式︵用途様式による分類で社寺様式をさらに細分した呼

称︶大池泉観賞式︵形式的様式分類︶で︑さらに﹁舟遊廻遊

を含む﹂という複合的な構造を示し︑平等院鳳凰堂庭園は︑

形式としては池泉様式でさらに舟遊式といった分類を用いて ︵Ⅲ︶いる︒

石組みの手法による大別では︑蓬莱系統石組︑仏教系的石

組︑絵画的石組︑風景的石組の四系統をあげている︒さらに

これが時代や作者によって﹁千変万化﹂するものととらえて

いる︒蓬莱などのテーマは時代の求めるところによっており︑

時代が移るに従って︑テーマも変わってくる︒﹁テーマは各々

その時代の人々の生活に必然的要素﹂であり︑﹁必然性の無く

なったテーマなどは︑およそ無意味である﹂二枯山水乞と述

べている︒

すなわち三玲は︑庭の実測データに文献資料を補って膨大

な蓄積をおこないながら︑作庭の表現一つ一つに込められた

意味を分析し︑表現の分類をおこなって︑庭園の過去から現

代までの長い歴史の変遷にあわせて組み替えていった︒三玲

の創作は︑そのような把握をした上で︑さらにそれを超える

現代における作庭をおこなおうとしていたことがわかる︒

二.三玲の作庭に対する考え方

人はなぜ庭をつくるのか︑三玲は自問自答している︒人は

五七

(6)

︵1︶松尾大社における作庭

三玲の遺作となった庭園で︑一九七五年に完成した︒松尾

大社︵京都市右京区嵐山宮町三番地︶の由来については︑﹃釈

日本紀﹄一本朝月令﹄などの記載をあげ︑その創建者が秦氏で

あることを示し︑七○一年に創建︵大化の改新で大宝律令の

制定の年︑文武天皇の勅命のもと秦都理によって創建︶され︑

さらに﹃新撰姓氏録﹄から︑渡来人である秦氏の脈系を示し

ている︒

ただし︑神社と庭園は本来︑無縁であった︒三玲は次のよ

うに指摘する︒﹁平安時代以降︑神社自体に庭園の作庭された

︵吃︶実例は全くない﹂︒一見へ庭園があるように見える庭は上家族

の住居庭園がそのまま利用されたにすぎず︑神社が庭園をも 自然美を再現したがる︑ただそれは︑﹁自然の意訳﹂であって︑﹁超自然的︑超現実的︑超写実的﹂なものとなる傾向にあるとする・作庭にあたっては︑この千変万化を会得することによって新しい創作ができるのだという認識をもっている︒以下︑実際の作庭から三玲の作庭意識を見ていくことにする︒

①磐座︑磐境の﹁上古の庭﹂

これを造る際の三玲の考え方は﹁伝統的な古い時代の庭と

いうものを再現するのではなく︑古い時代のものをよく研究

することによって︑それを参考として︑現代の庭を作るべき

である︒参考にするということは︑イミテーションを作ると いったない理由は︑元来神社は︑﹁神を斎く場所であり︑祈る場

︵咽︶所﹂で︑﹁風流を楽しむ場所﹂ではないという歴史がある︒神

社に作庭をおこなうことへの変化は︑﹁松尾大社造園誌﹂の記

載によると明治四年に神職世襲が廃止され︑新たに神職が任

命されて︑宮司が境内に常住するようになり︑神社という場

所が人を接遇する場の機能をもつようになったことからとい

垂勾ノ○

さて︑松尾大社の作庭について︑三玲は次のように述べて

いわくらいわさかいる︒﹁当社の作庭は︑この場所に上古の盤座・盤境を設け︑

社務所西側には平安期としての遣水を中心とする曲水の庭を

︵M︶作り︑下方旧池を改造してここに鎌倉期の池庭を設計した﹂︒

以下︑具体的にその詳細を検討する︒ 五八

(7)

いうことではない﹂﹁古い庭を充分研究し尽した上で︑そうし

た伝統を一切捨て去ることが必要である﹂︵﹁松尾大社庭園﹂︶

とする︒捨て去る︑とは否定するということではない︒この

考え方は松尾大社の上古の庭に限ったことではなく︑三玲の

作庭に対する基本的な考え方である︒それは伝統表現に共通

するものでもある︒芸能で﹁型から入って型をでる﹂という

言い方をするように︑伝統表現を探求し︑その神髄を会得し

えてはじめて伝統を掌中にして伝統に裏打ちされた自分の表

現ができるように︑三玲の作庭もまた︑単なる模倣の段階を

超えている︒だからこそ︑三玲の作庭は︑伝統の表象を内包

して同時にモダンであり得るのであろう︒

磐座︑磐境については︑﹁この石組みは庭園としての石組で

はない︒庭園以前のもの﹂︵﹁琴苔普﹂三二であり︑﹁もとよ

り庭園ではないから︑この石組は全く庭園的な石組ではない︒

殊に盤座は石そのものが神格化されたもの﹂とあるように︑

上古の時代における石への信仰の投影をもってこの時代感覚

を表現したものである︒

くしいわまど三玲による上古の庭の調査の中でも︑櫛石窓神社︵兵庫県 篠山市福井︶は︑神山としての小山があり︑その山頂に巨岩

みたまいわが立つ︒﹁境内に霊厳あり高さ數丈巍然として秀づ﹂と表現さ

れ︑今は︑樹木で岩が山麓からは見づらくなっているようだ

が︑三玲が見た光景は次のようなものであり︑当時の写真資

料からもそれを裏付けていることがうかがえる︒﹁八個の巨岩

が神秘そのままに立ち︑二個の立石が更にも増して屹立して

いるし︑多数の小石が横石や臥石となって︑やや円形に磐境

的構成﹂をとっていて︑神が磐に鎮座し︑神聖な領域が意識

化されていると認めている︒これらは﹁大部分のものは自然

のままであるが︑一部の小石は人工によるものと見られる構

︵応︶成﹂とする︒

磐座磐境に関するその他の特徴を︑三玲の調査から抜き出

すと︑人工的に移動した立石系のものは︑﹁決して組み合わさ

れていない点は︑後世の庭園石組と大きな差﹂があり﹁無技

巧的な技巧﹂であるとする︒そして︑石に神格を認め︑石を

神体とした神社を﹁延喜式神名帳﹂から一○三社の名前を列

︵略︶記している︒作庭に石がなぜ重要なのかは︑こういった古代

からの石に対する意味づけが集積した存在であることがあげ

五九

(8)

②﹁曲水の庭﹂

中国に始まる曲水の日本における記載が﹃日本書紀﹄には

じまることはすでに解説中で触れられている︒奈良時代から

おこなわれた曲水の宴は︑この曲水の庭でおこなう詩歌の遊

びである︒平安時代の特徴としてある遣水は︑まず︑外の川

から庭に水を引く遣水が池泉に流れこむ︒その遣水を緩やか

な曲線を描いた流れの意匠につくる︒つまりここでは︑奈良

平安を象徴する遣水と曲水によって︑雅な平安の庭の表象が

応用されている︒

平安時代の庭園のありようを今に伝える庭としては︑前述

の岩手県平泉の毛越寺があげられる︒毛越寺については︑﹃日

本庭園史大系﹄二巻に現地調査による詳細を三玲は記載して

いる︒それによると︑毛越寺庭園は︑﹁寝殿造りの発想を持っ

た庭園であり︑しかも﹃作庭記﹄の影響も見られる﹂として

いる︒冒頭でもあげた﹃作庭記﹄は︑中国からはいってきた庭造 られる︒りが日本風に変化を遂げてきた九世紀末からの平安時代の庭園技法の集大成を見ることのできる書とされる︒二万字程度の短いものではあるが︑日本では最古の造園書と位置づけられている︒ただし図はない︒書の成立は平安時代後期二一世紀末〜一二世紀後半︶で︑著者ははっきりしていない︒藤原頼通の子︑道長の孫にあたる橘俊綱︵一○二八〜一○九四︶

︵Ⅳ︶説もあるが︑飛田範夫弓作庭記﹂からみた造園﹄はその矛盾

を指摘し俊綱より後に書かれたものとしている︒

﹃作庭記﹄には︑﹁四神相応の地をえらぶ時︑左より水なが

れたるを︑青竜の地とす﹂︵四神相応の地を選定する時は︑南

面する建物から見て︑左から水が流れているのを青龍の地と

する﹂︵小埜訳︶とし︑遣水は建物の東からでて︑南へむかわ

せ︑さらに西へ流すべきとする︒﹁遣水のたわめる内ヲ竜の腹

とす︑居住をそのハらにあつる︑吉也︒背にあつる︑凶也︒

又北よりいだして南へむかふる説あり︒北方ハ水也︒南方ハ

火也︒これ陰をもちて︑陽にむかふる和合の儀歎﹂︵遣水が湾

曲する凹の内側を龍の腹とす︒住まいをその腹に当てがうの

は吉である︒背に当てがうのは凶であると︒また︑遣水を北

(9)

から出して︑南へ流すという説がある︒︿陰陽五行説からいけ

ば︑﹀北方向は水である︒南方向は火である︒これは陰によっ

て陽に対抗する和合ということであろう︒︶︵小埜訳︶遣水を

龍に見立て︑庭には龍が棲む︒そこに陰陽五行を配当させて

いる︒遣水は︑平安京では湧水が豊かで︑貴族の館では︑水源は

廷内からとれた︒それができない場合は︑外の川の水をひき

こんだ︒遣水を建物の床下を通し︑せせらぎの音を楽しんだ

という︒遣水の形は︑﹁谷川様︑山河様︑大河様﹂と︑自然の

景観に見立てるにも︑歌に詠めるような雅な風情を選択して

いる︒自然の風景を写し取り︑選び取り﹁縮小しているとこ

ろが︑自然をそのまま原寸大で写しとるイギリス風景式庭園

と異なる点である︒中国庭園から学んだ自然を縮小して表現

することが︑日本の庭園の伝統となって現代にも影響を与え

ている﹂と飛田範夫﹃作庭記からみた造園﹄では述べるが︑

ただ縮小しているのではなく︑そこにはさらに作り手の選択︑

意思が込められ︑心象に写し取ったイメージ︑理想的な世界

の構築があると見るべきであろう︒ 毛越寺の遣水は︑現在は毎年五月に曲水の宴が催されているが︑それは一九八六年に遣水の遺構が復元されたことから毎年おこなうようになったとされる︒三玲はこの曲水を見てはいない︒毛越寺の解説によると︑曲水の宴は︑一九八六年に﹁大泉が池﹂の遣水の遺構が復元されたことを記念して開かれるようになったとされる︒三玲による実測図にも遣水はほぼまつすぐに描かれ︑現在の曲線上の形状とは異なる︒﹃日本庭園史大系・飛鳥・奈良・平安の庭﹄で実測した庭園には︑曲水の庭はでてこない︒﹁平安期以来の遣水は殆ど残っていない︒毛越寺にその趾があったり︑法金剛院で発掘されたりし

︑っ−︶やノ︑たが︑羽爵︵盃のこと︶を渡し得るものではない﹂と述べて

いる︒大系の中で︑このほかに曲水が確認されている例は︑室町

︵略︶時代の巻に横岳山崇福寺︵福岡県筑紫郡太宰府町︶があるが︑

室町期までくると︑﹁曲水式の伝統が曲流の形にだけ残って来

たもの﹂という程度になる︒さらに︑室町期の武将細川高国︵一

四八四〜一五三一︶を中心とした作庭で︑曲水宴式の池庭例

を五庭あげ︑﹁いずれも中国詩歌を愛し︑曲水宴を好んだ関係

一ハー

(10)

が理解される﹂と記している︒︵洛中洛外図屏風にも︑細川屋

館の曲水式池庭が描かれていることをあげている︶・なかでも︑

北畠神社庭園︵三重県一志郡美杉村上多気︶の蓬莱曲水池泉

観賞式様式で︑﹁曲水式意匠は︑一種の装飾性を主張した意匠﹂

︵重森完途︶といい︑それに﹁互いの石と石とが有機的にから

み合って︑どの石をも取りのぞくことができないという意匠

は︑まことに詩的な構成であるといえる﹂︵完途︶と評価され

る﹁豪華な石組意匠﹂が融合して成り立っている︒このよう

な意匠は︑三玲による曲水の創作にもまた言える︒このほか

︵姐︶に︑江戸初期の巻に収められている太宰府天満宮庭園︵福岡

県筑紫郡太宰府町︶がある︒本来は平安時代の作庭であった

のが︑江戸初期に改修されたものである︒文献としては多く

の記載があるが︑実測図で書かれた当時の場所とその形は︑

現在復元されている曲水の宴の場所とは異なっているようで

ある︒三玲は﹁遣水は景観の上だけでなく︑曲水宴を催す上

からは︑実用性が強く要求されていることであり︑曲水宴が

好調であるためには︑水流の傾斜に問題があって﹂︑せせらぎ

が生まれる勾配が不可欠だとする︒ ③池泉廻遊式の﹁蓬莱の庭﹂

仏教伝来の影響は作庭の分野にも及んでいる︒これについ

て三玲は︑庭園が仏教化したのではなく︑﹁神と仏と︑延命の

蓬莱思想が三重にある﹂﹁この時代の庭園が直ちに神・道・仏

の三教一致的なものとして成立﹂したと述べている︒それは

﹁中島の配置等には︑上代の神池神島の影響が多く︑多島式の

ものには蓬莱式の影響が多く︑石組などの細部的なものには

仏教的内容が見られる﹂︵﹁飛鳥・奈良・平安時代庭園の様相﹂︶

といった形態をとって現れる︒池の形態は﹁蓬莱思想による

蓬莱︑方丈︑猿洲︑壺梁等の多くの中島を設けることが典型

化﹂し︑この時代の特徴を特定している︒それは上代の神池

神島と神仙思想の蓬莱島とが混合することによって移行を容

易にしたと考えている︒平安時代には︑作庭を﹁石を立てる

こと﹂と言うほど石組は作庭の中心であったと三玲は言う︒ 松尾大社の曲水は︑うねる曲線と流れが強調されて︑曲水の存在を主張し︑今は過去となった曲水の宴という文化の印を秘めつつ︑流水の意匠を示している︒ 一ハーー

(11)

﹃作庭記﹄は石に特に関心が高い︒

なぜ石組を重視するのか︑それは庭園において︑地割りや

植栽は時とともに変化してしまうのに対し︑石組は﹁永遠不

滅﹂で︑﹁作者の当初の作成意図がそのまま伝えられている﹂た

めという︒

中古︵平安︶時代は︑池泉には舟遊がつきものだったのが︑過

渡期には舟遊と廻遊が兼用で︑中世︵鎌倉室町︶の時代にな

ると︑舟遊はなくなって廻遊だけとなり︑その場合︑大和絵

的と墨絵的の二つの意匠に分かれるとする︒

以上のように︑三玲は︑本来庭のない松尾大社に︑上古︑

中古︑中世それぞれの時代を象徴する庭園の表現を用いなが

ら︑総体として斬新な現代の庭園を作り上げた︒それは︑各

時代の表現の精神から︑人間共通の精神へと昇華させて︑美

的表現として抽象化させることによって成し得た作庭であっ

たといえよう︒

︵2︶石像寺庭園の作庭

石像寺︵兵庫県丹波市市島町中竹田︶は六五五年に創建さ れた曹洞宗永平寺派の寺院とされる︒寺院には江戸時代に作

︵鋤︶られた庭があったと三玲は記している︒ここに一九七一年か

ら翌年にかけて作庭をおこなっている︒寺の背後に石蔵山が

ありその山上に盤座があることから︑上代の表現を示すため

に︑作庭にあたっては﹁四神相応﹂の庭を設計したとする︒

四神相応の考え方は︑古くは中国戦国時代から前漢の間に

制作されたことが﹃礼記﹄の軍隊を動かす場合の配置に関す

る記述に見える︒

﹁行軍するときは︑前軍には朱烏を描いた旗を立て︑後軍に

は玄武を描いた旗を立て︑左翼軍には青龍を描いた旗を立て︑

右翼軍には白虎を描いた旗を立てる⁝四獣をもって行軍隊形

かたど︵創︶を作るのは天文に象るのである﹂︒

さらに﹃准南子﹄天文訓︵前漢︶には天上の四神獣を五行

に配当している︒東方は木で︑その獣として蒼龍︑南方は火

で︑その獣として朱烏︑西方は金で︑その獣として白虎︑北

方は水で︑その獣として玄武︑さらに中央は土で︑その獣と

︵鯉︶して黄竜がそれぞれ配当されている︒後漢の墳墓石刻や瓦当

には︑四神文様の出土品が知られている︒﹁天に四星の精があ

一ハ一二

(12)

り︑それがくだって四獣の体を生じたのだが︑血の通ってい

る動物では︑この四獣が長なのである﹂﹃論衡﹄王充︵西暦二

︵甥︶七年〜九六年頃︶というように︑天の星座を動物に見立て︑

それをさらに地上の動物として投影させ︑五行思想で方角と

色彩に適合させてきたこの概念を︑三玲は庭園の上に具現化

させていく︒日本では飛鳥時代の高松塚古墳︵一九七二年発

掘︶︑キトラ古墳︵一九八三年発掘︶の天文図と四神の彩色壁

画がよく知られる︒勿論三玲はキトラ古墳に出会うことはな

かったが︑高松塚古墳は︑ちょうど作庭の時期と重なる︒三

玲は︑中国の洛陽︑それを模した京都が四神相応の地であり︑

四神は東西南北を守護する神であり︑﹁この四神相応の庭は︑

未だかつて︑日本庭園の中には出現しなかったのであるから︑

本庭は日本で最初の四神相応の庭であり︑日本庭園史に特筆

される一頁を加えたことになる﹂という認識をもっている︒

完途による解説からその表現を抜粋してみる︒

玄武:﹁亀石組が意匠﹂﹁色は黒色の石で︑亀頭石・亀尾石・

両脚石等があって︑やや写実的表現﹂﹁甲にあたる部分は伏石﹂

﹁敷砂も黒砂﹂︒ 青竜:﹁青石の長石で竜の姿を意匠し︑苔地の意匠で竜の手足の形態をとった表現﹂﹁地表は青砂﹂︒白虎:﹁白虎であるから白い石一石で︑しかも︑虎がⅢえているような姿の石﹂﹁敷砂は白川砂﹂︒朱雀:﹁朱雀の石組は︑やはり鞍馬の赤石を用いており︑鳳凰が羽を広げた形の意匠﹂﹁敷砂は︑やはり赤砂﹂︒このように︑石でその形を象り︑石の色で配当された色を表現している︒

石による見立表現の具象化により︑古代中国から日本の古

代に伝わったこの概念を意図的に明示することで︑古代人の

考え方を想起させる意志的庭園となっている︒

︵3︶東福寺方丈庭園八相の庭

東福寺︵京都市東山区本町一五丁目︶は臨済宗東福寺派本

山︑鎌倉末期の一二三九年に創建された︒しかしなぜかここ

には庭園がなく︑一九三九年に三玲が作庭をおこなった︒こ

の年ちょうど三玲は﹃日本庭園史図鑑﹄全二六巻を完成させ

たばかりで︑その詳細な研究の成果が生かされる最初の作庭 六四

(13)

となっている︒

作庭は方丈を囲む東西南北に配し︑かつ﹁永遠に保存され

ることを条件とする限り︑第一に一木一草用いない枯山水が

︵割︶最も適している﹂と設計をするが︑それはまた同時に︑鎌倉

時代を象徴する作庭方法でもある︒ただ︑三玲の苦心は︑伝

統ある竜安寺の石庭の模倣にならないことであったという︒

とうす東庭に東司の修理ででた余材の石柱の使用を頼まれたこと

から︑ここにその柱を高低を変えて作り出した北斗七星の形

状が完成し︑その周りは白砂でおおって雲紋を描いている︒

西庭には﹁葛石を二メートル近い大桝形の市松様に敷き﹂︑

せいサツキの刈り込みと白砂で構成して色彩の変化をねらった井

でん田︵中国周代の井字形に画した田︶を見立てている︒

北庭は敷石の余材の使用を依頼され︑これを使って苔地と

敷石による小形の市松模様を作り出した︒市松模様は江戸初

期の作庭家小堀遠州も襖の模様に使っている︒桂離宮の壁に

も用いられる等︑江戸で流行ったデザインである︒

中心となる方丈前の南庭は︑﹁平安期大和絵に出てくる網代

波式の砂紋を研究﹂し︑それを応用して﹁蓬莱神仙の感じ﹂ を出したとする︒ここの石組は︑蓬莱・方丈・濠洲・壺梁の仙境の世界を石組と白砂で表現したものである︒

この仙境の表現は︑中古以来日木庭園表現に頻繁に用いら

れる︒ところで︑﹃史記﹄には三神山を求めて海へ探しにいっ

たことなどが書かれているが︑その﹁孝武本紀第一二﹂に︑

︵路︶庭園として造られたことが記載してある︒前漢の武帝︵在位

︑・○.一四一〜団.0.八七︶は︑﹁渤海に臨んで︑蓬莱山やその

類の仙山を遙かに望みまつり︑神山の異域︵原文は殊庭︑仙

人のいる蓬莱をさす︶に至りたいとこいねがった﹂とあり︑

都に帰還すると︑その前の月に火災で焼けた柏梁台に代わる︑

より大きな建章宮を建立した︒

その東には銅製の鳳凰を飾った鳳閾があって高さ四

十五メートル余︒その西には庭園があり︑広さ数百ヘク

おりタールの虎を養う圏があった︒その北には大きな池と高

ぜんだいき四十五メートル余の漸台があった︒池の名は泰液池︒

池の中には︑蓬莱・方丈・濠洲・壺梁などの島があった

が︑これはみな海中の神仙の山や亀魚の類に象ったので

ある︒その南には玉堂・壁門・鋳銅の大烏の類があった︒

六五

(14)

﹃史記﹄ではこのように四島が描かれているが︑日本の庭園で

は︑蓬莱は頻繁にでてくるものの︑この三玲の東福寺のよう

に四島をもれなく表現したものは極めて少ない︒

この庭を八相の庭と命名したのは︑以上の八景の表現と︑

さらに︑東福寺が釈迦像を安置したことから︑﹁釈迦の八相成

道﹂で﹁八種の相を示したことに因んだ﹂とする︒

三玲はその著﹃枯山水﹄で枯山水に対する以下のような考

え方を示している︒

﹁枯山水とは︑庭園造形の中にある自然美を︑高度に詩訳した

ものである﹂︒﹁不可能を可能とする芸術性に徹した﹂もので

あり︑﹁水を象徴的に︑又は抽象的に扱う﹂︒﹁奇想天外な作

品﹂であり︑﹁創意にあふれた永遠のモダンが内在的に発展﹂で

き︑﹁超自然主義に通じる﹂︒﹁無から有への内容を求める﹂も

ので︑その拠点は﹁当時の禅的思想﹂であり︑それがすなわ

ち﹁永遠のモダン﹂へと転ずる︒

枯山水という言葉は︑専門用語としては﹃作庭記﹄にすで

にあるが︑一般的にいわれるのはずっとあとで︑﹁仮山水﹂と

いわれたと三玲はいう︒﹁築山は︑大自然の山ではなく︑庭園 景観を強調する意味から作られた仮の山であるから仮山といったのは必然の呼称﹂とする︒そこには︑枯山水というものの本質がこめられている︒枯山水は︑精神を庭に投影させた重層構造の典型的表現の一つなのである︒︵4︶漢陽寺の漁湘八景

漢陽寺︵山口県都濃群鹿野町︶は︑臨済宗南禅寺派の寺で

一三八○年︑室町時代の創建となる︒しかしその後は寂れて

しまい︑一九六五年︑三玲が作庭を依頼され︑五年の歳月を

かけて︑まず平安式遣水を作り︑曲水本位の作庭をおこなう

など︑さまざまな要素の庭園を造っていく︒

その中でも︑聰流殿という書院の前方に作庭した︑漁湘八

景に見立てた庭園をとりあげる︒﹁聴流殿という名称をテーマ

として︑水の風景を逆に枯山水としての極端なモダンのデザ

インによる獺湘八景の庭として作意したのであった︒それは

漁湘八景が水の景を主題として成立している関係を︑ここに

︵蹄︶見立てたのである﹂という︒具体的には﹁右方前方の立石附

近が江天の暮雪︑手前が漁湘の夜雨︑左方手前が山市晴嵐︑ 一ハュハ

(15)

という︒

中国北宋の宋迪による山水画から始まる八景は︑実際に各

地に名所の意識化を促し︑また絵画にも描かれる︒江戸時代

には作庭において八景を見立てたとする大名庭園は数多く出

現することになる︒たとえば︑小堀遠州作庭による孤蓬庵庭

園︵京都市北区筑紫野大徳寺町︶では︑つぎのように評され

︵︶る︒書院風の茶室忘筌室の前庭で︑孤蓬庵の孤蓬は一つの窓

を意味し︑部屋の障子を蓬窓に︑書院を舟に見立て︑﹁遠州の

故郷たる近江八景の景趣を楽しむようにしている﹂とあり︑

﹁近江八景の抽象的な縮景様式﹂︵完途︶とする︒また︑それ

は祷湘八景ともいわれているとする︒近江八景は繍湘八景を

基にして命名されたもので︑その風景も近似したものが選ば

れている︒ただしいずれも︑三玲の作庭の場合のように︑そ

れぞれ個別の風景の現象を明確に対応させたわけではなく︑

全体として印象風景を見立てたものである︒ 中央の一石のところが遠蒲︵浦︶の帰帆︑堀外の鐘声が遠寺の晩鐘︵本来は煙寺︶︑中央手前が平砂︵沙︶の落雁︑東部の石組附近が漁村の夕照︑前方東南部が洞庭の秋月を抽象した﹂

三玲の伝統のとらえ方というのは︑伝統が伝統になる前の

発展の時代には︑いわば最先端の文化であり︑モダンであっ

た︑だからこそ次の時代にも生き残って伝統となり得たとい

うものである︒たとえば︑﹁元来茶の湯そのものがモダンその

もの﹂であったということから︑そのモダンさは型にはまっ

てしまっては死んでしまうととらえる︒

庭園も同様である︒庭園の景物に対しても作者の﹁意欲を

入れて﹂いくことが現代に伝統を生かしていく方法だという

意識から︑飛石は自然石だけでなく形に工夫をこらした切石

を用いる︒﹁庭園は自然を本意としたものであると考えている

のは︑先入的な観念であって︑それは大変な誤り﹂とし︑﹁構

成的には実は超自然的である﹂とする︒

本稿では︑三玲の庭園の中でも時代の要素を意志的に抽出 三玲の場合︑動きのある情景を描写するその表現は︑﹁極度に抽象化された枯山水様式﹂によって︑はじめて時代を超えた表現として︑象徴的に表し得るものであった︒

おわりに

一一Ⅱ一 ノ、

(16)

︵三作庭記﹄︵林屋辰三郎校注︶﹃古代中世藝術論﹂所収日本思

想体系二三岩波書店一九七三年一○月本稿中﹃作庭記﹄

原典引用はこれによる︒ただし︑成立年代および作者につい

ては︑その後の研究によって解釈の異なる注︵Ⅳ︶にあげた

︒作庭記﹂からみた造園﹄によった︒

︵2︶﹁飛鳥・奈良・平安時代庭園の様相﹂﹃日本庭園史大系・飛鳥・

奈良・平安の庭﹄第二巻社会思想社一九七四年六月

︵3︶重森三玲﹁枯山水﹂中央公論新社一一○○八年二月初版

は一九四六年に大八洲出版から出され︑追補版が一九六五年

に河原書店から刊行されている︒ して昇華した表現をとりあげた︒その意匠は︑各時代で庭に託された精神性を特化させつつも︑現代に生きる表現として明確なテーマを主張している︒三玲がとりあげた四神相応や濡々八景︑曲水といったテーマは︑中国から日本に受容されたことは確かだが︑時代を経るうちにその存在意義が変化し暖昧となっている︒三玲はそれを真正面からとらえて︑明確で斬新な表現手法として創出しえた︒それらは中国の表現とどのように異なるのかについては︑別稿で論ずることとする︒ ︵4︶重森三玲﹃日本庭園史図鑑﹄全二六巻有光社一九三六年六月〜一九三九年三月

︵5︶重森三玲・重森完途﹁日本庭園史大系﹂全三五巻社会思想

社一九七四年一二月〜一九七六年八月

︵6︶中田勝康﹃重森三玲庭園の全貌﹄学芸出版社二○○九年九

︵7︶溝縁ひろし写真﹁重森三玲﹄I京都通信社二○○七年九月︑

重森三明﹃重森三玲﹄Ⅱ京都通信社二○一○年八月

この他︑﹃住宅建築﹄第三七二号三○○六年三月︶では﹁重

森三玲邸にみる︿継承と創造﹀﹂という特集が組まれ︑京都市

左京区吉田上大路町にあり︑庭園︑書院︑茶室・無字庵︑茶

亭・好刻庵によって構成されている重森三玲邸の紹介と記述

がある︒中村昌生﹁︿伝統﹀に対する重森美学の斬新さ﹂︑重

森三明﹁美をつなぐ三玲が夢みたもの﹂︑平山友子﹁重森三

玲の作品に触れ︑もっと自由に日本文化を楽しむ﹂︒

︵8︶以下のものは論文ではなく発表報告のため︑詳細は必ずしも

明確ではない︒

I:茶室に関する研究

①佐藤隆彦︑千代章一郎﹁重森三玲の枯山水式露地﹂日本建

築学会大会学術講演梗概集三○一○年九月︶では︑三玲の

作った茶室の露地は風景を傭撤し抽象化し︑実用的な考慮に

よってデザインされていることを文献から述べた︒ 六八

(17)

②佐藤隆彦︑千代章一郎﹁重森三玲の茶室・茶庭における造

形理念について﹂日本建築学会近畿支部研究報告集︵二○一

○年五月︶では︑三玲の言説から茶室創作の理念として亭主

の個性を尊重し︑深山傾向の作り方として初期の露地表現を

好んだことを述べている︒

③佐藤隆彦︑千代章一郎﹁重森三玲の茶室・茶庭﹂日本建築

学会中国支部研究報告集︵二○一○年三月︶では︑三玲の茶

室茶庭に関する著作から実測調査が茶室等の建築制作に影響

したであろうということと︑三玲は茶室茶庭を住宅建築と一体としてとらえていく姿勢があると指摘している︒ただし実

際の茶室などを具体的に分析したものではない︒

Ⅱ:個別のテーマ

①土田香奈︑河内浩志﹁重森三玲の﹁新作庭記﹄における

﹁自然﹂に関する基礎的研究﹂日本建築学会学術講演梗概集

︵二○○九年七月︶では︑三玲の﹃新作庭記﹂に使われる﹁自

然﹂という単語の使用頻度や使用意味を数値化して︑美との

かかわりで用いることが多いなどの傾向を述べている︒

②土田香奈︑河内浩志﹁東福寺八相の庭における重森三玲の

作庭に関する基礎的研究﹂日本建築学会大会学術講演梗概集

︵二○○八年九月︶では︑八相の庭の特徴を明らかにすること

を目的とし︑これまでの説を総括している︒

③関本佳奈︑真木利江﹁雪舟による萬福寺庭園の作庭手法I 重森三玲による水墨山水画との比較考察を通して﹂日本建築学会大会学術講演梗概集︵二○○六年九月︶では︑雪舟の作庭とされる萬福寺庭園の復元をおこなった三玲は︑雪舟の構想は庭園の山水と絵画の山水とが一致しているとしている点を対比した︒

︵9︶重森三玲﹁埜苔普﹂五﹁日本庭園史大系﹄月報五号一九七

一年一二月

︵Ⅲ︶﹁日本庭園観賞要覧﹂﹃日本庭園史大系・日本庭園史年表他﹂第三四巻一九七六年七月

︵Ⅱ︶﹁平等院鳳凰堂庭園遺構﹂﹁毛越寺庭園︵円隆寺趾庭園︶遺構﹂

﹃日本庭園史大系・飛烏・奈良・平安の庭﹂第二巻一九七四

年六月

︵岨︶﹁松尾大社文献・資料﹂﹃日本庭園史体系・現代の庭︵五E第

三三巻

︵旧︶﹁松尾大社造園誌﹂﹁日本庭園史大系・現代の庭︵五︶﹄第三三

巻に抜粋所収

︵M︶﹁琴苔普﹂三一﹃日本庭園史大系﹄月報三一号一九七五年

四月

︵咽︶﹁櫛石窓神社磐座・磐境﹂﹁日本庭園史大系・上古・日本庭園源流︵ここ第三一巻一九七五年四月ほふくら︵略︶﹁保久良神社盤座・磐境﹂﹃日本庭園史大系・上古・日本庭園

源流︵ここ第三一巻

ロ△

ノ、

(18)

︵Ⅳ︶飛田範夫﹁﹁作庭記﹂からみた造園﹂鹿島出版社一九八五年

一一月このほか︑小埜雅章﹁庭師が読みとく作庭記﹂学芸出版社

二○一○年六月︑上原敬二編﹁解説山水並に野形図・作庭

記﹄加島書店二○○六年七月を参照︒

﹃作庭記﹂は原本がのこっておらず︑現存写本で古いとされる

谷村本は一二八九年鎌倉時代の年号が記されている︒加賀藩

主前田家︵石川県︶所蔵のものだったのが︑明治維新のとき

に市中に出て︑金沢の古美術商谷村が購入した︒これが﹃作

庭記﹄写本とわかり︑国宝に指定されるに至ったという︒

︵略︶﹁横岳山崇福寺庭園﹂﹁北畠神社庭園﹂﹁旧鈴木三郎居館庭園﹂

﹁日本庭園史大系・室町の庭︵一屋第五巻一九七三年四月

︵岨︶﹁太宰府神社庭園﹂﹃日本庭園史大系・江戸初期の庭︵一︶﹄第

︵別︶市原亨吉・今井清・鈴木隆一訳﹁曲礼﹂上﹁礼記﹄上集英社 一四巻一九七

︵別︶﹁石像寺庭園﹂﹃

一九七六年二月 ︵岨︶﹁太宰府神社庭園﹂﹃日本

一四巻一九七三年一月

︵別︶王充﹃論衡﹄︵物勢篇l﹁物﹂の本質についてl︶大滝一雄訳 壷︶劉安﹁准南子﹂上楠山春樹訳注新釈漢文大系五四明治書院一九七九年八月

平凡社東洋文庫一九九四年一○月 一九八○年九月 ﹃日本庭園史大系・現代の庭︵五匡第三三巻 ︵別︶﹁東福寺方丈庭園﹂﹃日本庭園史大系・現代の庭︵一迄第二七

巻一九七一年一二月

︵至司馬遷﹁史記﹄二︵本紀︶吉田賢抗訳注新釈漢文大系三九

明治書院一九七三年四月

︵邪︶﹁漢陽寺庭園舅日本庭園史大系・現代の庭園︵四︶﹄第三○巻

一九七四年一二月

︵〃︶﹁孤蓬庵庭園﹂﹃日本庭園史大系・江戸初期の庭︵八︶﹄第二一

巻一九七三年九月 七○

参照

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